常石敬一(神奈川大学名誉教授)

 4月14日、京都で「研究者が戦争に協力する時ー731部隊の生体実験をめぐって」という話をする機会があった。その集まりを産経新聞大阪本社版は「731部隊、人体実験か 軍医論文『不自然』と研究者有志」のタイトルで報じた。僕の話は、731部隊の軍医の博士論文を分析した結果見えてきた「不自然」を指摘したものだった。

 なぜ、博士論文の分析なのか。731部隊については、1936年から45年までの間、人体実験の実行と細菌戦の試行が指摘されている。それらが事実であることの証拠を、僕は歴史の研究者として集め分析し、論文などとして明らかにしてきた。

 部隊の存在、人体実験や細菌戦はどれも事実で、日本にとって負の遺産である。負の遺産を明らかにするのに最も説得力を持つのは、当事者が残した記録であり、また日本国が保管している公文書であろう。博士論文は博士号取得のために自発的に書き、審査されたものだ。審査に合格ということは、書かれた内容を大学院の審査委員が真実と認めた証しだ。

 博士論文の証拠価値は、本人の自由意思と第三者による内容承認、この二重の事実認定という長所にある。731部隊の実態を明らかにする一つの方法として、部隊員の博士論文の分析を続けてきた。

 そして人体実験を基にした博士論文として「イヌノミのペスト媒介能力に就ての実験的研究」(H・M軍医少佐、京都大学、1945年)に、また細菌戦の試行を明らかにしたものとして「雨下散布の基礎的考察」(K・J軍医少佐、東京大学、1949年)に出会った。これらの論文は国立国会図書館で閲覧することができる。京都で話したのは、H・Mの博士論文とその審査についてだ。

 H・Mの論文のポイントは、従来ペストを媒介しないと考えられていた蚤(のみ)の一種、イヌノミもその能力があることを実験的に明らかにした点にある。その論文の表紙には、著者名と「軍医少佐」の肩書、それに「満州第七三一部隊(部隊長陸軍軍医中将石井四郎)」と所属先が記され、さらに「軍事秘密」と朱印が押されている。

関東軍編制人員表(満洲)=昭和15年7月~20年(防衛省防衛研究所)

 内容は「特殊実験」として、ペスト菌に感染しているイヌノミ1匹、5匹、10匹に、それぞれ3頭のサルの血を吸わせた。すると「附着後6-8日にして頭痛、高熱、食思不振を訴え、同時に局部淋巴(りんぱ)腺の腫脹(しゅちょう)、圧痛、舌苔(ぜったい)、眼結膜充血を、その他典型的なる腺ペストの症状を示せり…イヌノミによるサルの感染発症死亡を確認」したという。

 内訳は、ノミ1匹のグループのサルは感染せず、5匹のグループでは1頭が感染発症、そして10匹のグループでは2頭が感染発症した。高熱と食思不振は言葉によるコミュニケーションがなくても分かるが、頭痛は言葉なしに「訴える」ことはできない。しかし、その訴えはH・Mに届いた。

 H・Mの論文を審査した京大が学位授与を文部省に申請した書類には、審査員の意見として、「特殊実験を行ひ先人の見解と異なりイヌノミも亦(また)人類に対するペスト媒介蚤なる新事実を発見せり…右論文は学術上有益」と記している。

 京大教授たちはH・Mの特殊実験を問題にすることなく、むしろ積極的に評価し、学位授与を決定した。H・Mがヒトをサルと書いていることは、これが許されない人体実験であることを自ら認識していたことを示している。

 京大の申請書類は、国立公文書館で閲覧することが可能だ。公文書館の書類によれば、H・Mが学位申請をしたのは45年6月6日で、教授会の審査が同じ6月6日、文部省への上申が6月28日、文部省の認可が9月26日だった。学位申請日と審査日が同日というのは、通常はありえないことである。H・Mは申請から間もない6月11日に、航空機を操縦していて墜落死している。

 H・Mが学位申請のために京大に提出した履歴書によれば、37年10月30日に熊谷陸軍飛行学校で操縦術を習得し、39年3月9日に731部隊付となった。部隊員になった後の41年2月から7月まで、白城子陸軍飛行学校で航法術の研修を受けている。

 墜落死を証言している血清学者のA・Sによれば、H・Mは医学部出身にも関わらず、「任務はもっぱら飛行機の操縦だけという、なんとも奇妙な役割であった」と回想している(『医の倫理を問う』勁草書房)。

659部隊(関東軍防疫給水部)留守名簿

 K・Jの論文は、41年8月に『防疫研究報告』1部41号として出版されたものだ。『防疫研究報告』は731部隊長石井四郎の本拠、軍医学校防疫研究室が出している研究誌で、1部と2部がある。1部の表紙には「軍事秘密」と印刷されているが、2部では論文によって秘の印が押されているものがあり、秘密指定のものとそうでないものとが混在している。

 K・Jの41年8月の論文の表紙には、その当時の肩書「陸軍軍医大尉」と所属「陸軍軍医学校防疫研究室(部長石井少将)」が記されている。

 国立公文書館が保管するK・Jの学位授与の文書によれば、K・Jが東大に学位申請をしたのは44年12月15日、東大が審査の教授会を開催したのが48年11月10日、東大が文部省に学位認可の上申をしたのが48年11月25日、文部省が認可したのが49年1月10日だった。先のH・Mの場合の申請日と審査日とが同日というのは異常だが、K・Jのその間4年というのも異例だ。

 異例の長さは、この論文が細菌戦についての研究であり、審査をした東大が申請者の戦犯の可能性を考慮したのではないかと考えることができる。また可能性としては、審査で合格とすれば東大自身が戦犯扱いとなる恐れを感じていたかもしれない。

 当時東大は、東京裁判の成り行きを見ていたのだと思う。その判決言い渡しが11月4日に始まり、戦犯訴追の恐れがなくなったと判断し、満を持して11月10日を学位審査日として、一連の手続きを開始したと思われる。

 K・Jは学位請求前に東大で2年間研修を受けており、論文提出時には学位が約束されていたのだと思う。ところが敗戦で情勢が変わり、戦犯訴追の可能性から、審査開始まで長い時間がかかったのだと推測できる。しかしこの長い時間は、東大の審査委員が論文を読み、内容を理解していたことを意味している。

 論文のタイトルにある「雨下」は、軍事的には航空機から雨が降るように毒ガス(ガスというが本体は液体)や細菌をまくことである。K・Jは、航空機から細菌をまくとどのように地面を汚染でき、感染を引き起こすことができるかを論じている。

 その具体例として、自身が参加した40年10月4日および27日の、寧波(ニンポー)など中国中部へのペスト菌による細菌戦試行を含む、日本軍による試行例6件について紹介している。K・Jの見積もりでは、6件での死者は695人、使用した「PX」と称するペスト菌に感染させたノミは約11・7キログラムとしている。

 K・Jが学位審査のために東大に提出した履歴書によれば、40年当時彼は731部隊員だったが、同年7月19日から11月3日まで、南京の中支那防疫給水部に出向している。中支那防疫給水部は731部隊の姉妹部隊で、40年秋の細菌戦試行の中心部隊だった。K・Jの学位論文は実戦での細菌雨下を踏まえ、その理論的研究を記述したものだった。

ノモンハンの戦場での山縣部隊長石井部隊長の会見=昭和14年6月~9月(防衛省防衛研究所)

 45年8月から11月13日までの731部隊についての米国調査を、日本の立場でまとめた資料がある。防衛省防衛研究所が保管する「新妻清一所蔵文書」である。新妻は元陸軍中佐で、軍務局軍事課員として陸軍の技術政策を取り仕切っていた関係で、731部隊員の尋問にも立ち会うことになった。

 この資料の中に、石井部隊長の右腕だったM・T軍医大佐から新妻に宛てた、45年11月9日付の手紙がある。その一節に、石井部隊長の知恵袋だった「N軍医中佐の意見は(タ)と(ホ)以外は一切を積極的に開陳すべしと云ふ持論」というくだりがある。

 (タ)というのは人体実験を、(ホ)というのはPXによる細菌戦を意味していた。つまり、人体実験と細菌戦の二つは隠し通そうと決めて米軍の尋問に臨んでいた。その方針が頓挫したのは、47年1月になって米国がソ連から、人体実験と細菌戦試行の嫌疑で石井部隊長たちを裁判にかけるべきである、と要求されたことだった。それまで米国は、731部隊での人体実験や細菌戦の試行をつかんでいなかった。

 米国は終戦直後から1年半にわたり石井部隊長の尋問も含め調査をしたが、(タ)と(ホ)に行き着くことができなかった。ソ連の要求を受け再尋問・再調査を行い、ほぼ1年をかけて人体実験と細菌戦試行の全貌を把握することになった。

 再調査当初は、ソ連に渡してもよい情報と阻止する情報の整理から始め、最終的には米国が独占する道を選んだ。そのことが、49年12月にソ連がハバロフスクで行った、関東軍司令官ら731部隊に関係したと判断された日本軍軍人の裁判につながった(米軍資料については『標的・イシイ』大月書店および 「Researching Japanese War Crimes」IWG)。

 昨年、NHKの番組がハバロフスク裁判の公判の音声テープを紹介した。それを基に、今年になってBSで2時間のドキュメンタリーが放映された。数日後、いつも励ましてくださる方から、「鬼ではなく、人間が登場した」という感想の手紙をいただいた。

 BS版では、公判の最後で涙ながらに後悔の念を語り、日本帰国間近に自死を選んだ被告のご遺族が、父について語っていた。自分たちの父が、という戸惑いや当惑があっただろうが、それでもカメラの前で思いを語っていた。父は子供思いだっただろうし、その子は幼い頃別れた父を慕っていただろう。見る人にそういう思いを抱かせるシーンだった。

山縣部隊長と石井部隊長

 家庭ではよき父、また大学ではよき教師、あるいは部下に優しい人が、人体実験に手を染めたり、細菌戦の試行に参加したりするのだ。

 航空機事故で死亡したH・Mを本に書いたA・Sが知っていたのは、同じ平房の隊員宿舎に住むH・M家のよき父であり、かつ細菌戦試行において細菌攻撃のための飛行機を操縦したパイロットであり、イヌノミの人体実験をする研究者だった。宿舎での平穏な生活と、部隊での野蛮な実験や攻撃とを区別する境界線はないのだろうか。

 部隊員は自分をどう納得させていたのだろう。この問題は731部隊の問題というより、昨今の車の検査データ不正、銀行の異常な融資など、現代社会における仕事で出会うことがある、「自分の良心との格闘」という問題なのだと思う。731部隊の問題は鬼だったから起きた、と切り捨てるのではなく、人間がやったのだと正視し、自分ならどうすると考える必要がある問題なのだ。