midashi_v.gif 「山びと義経の徴証―語りから実像へ―」   嵐義人

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  伝承から実像へせまる
 国民的英雄である源九郎義経には、中世末以来の伝説のベールが幾重にも重なり、平安末期を代表する武将としての実像は杳として掴みがたい。
 しかし歴史学は、伝承を含む多くの資料の海に分け入って、まずは史実と虚構を峻別し、史実から遊離した伝承についても伝承形成の道程を明らかにする務めがある。とはいえ、脚色部分のみが独り歩きしている義経伝承については、考証史学も半ばお手上げの状況にある。
 明治二十四年(一八九一)、星野恆は「源義経ノ話」を発表し(『史学叢説』第二集、明治四十二年、冨山房)、『義経記』『大日本史』を批判して、『前太平記』『義経勲功記』『鎌倉実記』といった俗書から新井白石や伴信友の著作にまで見える義経は平泉で死なずに蝦夷へ渡ったとする稗史伝説の類を駁し、ほぼ『吾妻鏡』のみに拠るべきことを説いた。
 ついで黒板勝美『義経伝』(大正三年、文会堂)、大森金五郎『武家時代之研究』第二巻(昭和四年、冨山房)を経て、渡辺保『源義経』(人物叢書、昭和四十一年、吉川弘文館)、高柳光寿『源義経』(昭和四十二年、文藝春秋)等の諸論著が公刊されるが、最終の到達点には達していないと見てよかろう。
 例えば、黒板説の壇ノ浦潮流反転説にしても、のちに海軍史の金指正三による反論(「実証・壇の浦合戦」〈『歴史への招待』六〉昭和五十五年、日本放送出版協会)が出されている。歴史学としては、このような立論と反論を今後も際限なく繰り返すこととなろう。
 一方、言うまでもないが、荒唐無稽というべき伝説を擁護する俗書は跡を絶たない。中でも小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(大正十三年、冨山房)は、今なお実証史学の代表的著作を凌駕する古書価を誇っている。義経の音読ゲンギケイ訛してヂンギスとなるとか、『蒙古源流』にいう成吉思汗の生年一一六二年は義経の生年平治元年(一一五九)に近いといった類似性を強調し、衒学的ともいえる調子で論ずるが、考察の上からは一顧だに価するものでない。
 その点、民俗学や説話学・中世文学論といった分野の優れた考察は、義経伝承形成の筋道をほぼ解明しているかに見える。
 その出発点は、自らを歴史学徒に位置づけた柳田国男の「東北文学の研究」(『雪国の春』昭和三年、岡書院)に求められる。『義経記』の構成上の不自然さを論拠に、各地での小さな語りの集合と捉え、加えて熊野修験などとの関連を指摘した。やや遠慮がちなこの論文の意図を承けて徹底して発展させたのが角川源義「『義経記』の成立」(『語り物文芸の発生』昭和五十年、東京堂出版)であり、この方向でのその後の研究については三沢裕子「『義経記』成立の問題点」(軍記文学研究叢書一一『曽我・義経記の世界』平成九年、汲古書院)が要領よく纏めている。
 さて、鎌倉時代は、鎌倉新仏教といわれるように、新興寺院・再興寺院が経済的基盤の確立と貴紳家以外への布教ならびに宣教のため、寺院絡みの芸能や語りを弘めていくことになる。その傾向は南北朝期から室町時代になると、さらに顕著な動きとなり、語りの競合や荘園制の崩壊も相俟って、史実らしさから虚構化へ大きく変貌を遂げることとなる。しかしこれらの展開は、歴史の推移を忠実に反映しており、それを承けての語りの管理集団の意向を如実に示している。

  史料の読みを通して
 ところで、義経に関しては良質な資料は殆んどない。右大将家(頼朝)によって構築された鎌倉幕府が排除した謀叛人であり、庇護者であった奥州藤原氏も亡ぼされており、同時代史料の残る可能性は極めて少ない。それでも高野山金剛峯寺に自筆文書が伝えられ、藤原兼実の『玉葉』、藤原定家の『明月記』、吉田経房の『吉記』などに公家の高みから見た評や風聞が多いものの、若干の記録が見えることは珍重されてよい。
 これに鎌倉幕府による編纂書であり、承久の乱以前は史料的価値が低いといわれる『吾妻鏡』が主要史料として加わるが、幸いなことに義経関係記事については幕府保管の文書を引いたと覚しき資料が少なくない。
 さらに鎌倉期の成立と考えられる『平家物語』『平治物語』に、核となる記述が見えるが、これも同時代の記憶が風化しない前に成立した故か、多くの史実を伝えているように見受けられる。
 まずは、以上の諸資料を骨子として史実を探り、虚構の上に語りを展開する室町期以降の『義経記』以下を、伝承との関連も踏まえつつ、義経語りを増補し弘めた集団との間に何らかの共通性が認められるかどうか検証していく必要があろう。
 そのためにも諸資料の読み取りが決め手となる。例えば、『平家物語』において、福原落ち以降、壇ノ浦に滅ぶまで平家は敗け続けているように見えるが、『玉葉』などには、福原落ちの直後に「平氏其の衆を得て勢力強盛、今に於ては容易く進伐を得べからず」と見え、一ノ谷の合戦のあとでも「鎮西多く平氏に与し了ぬ、安芸国に於て官軍(源氏)と六ケ度合戦し毎度平氏理(勝利)を得」と記している。つまり史実に依拠するところ大なる『平家物語』ですら、平家の亡びを強調する余り平家優勢の部分を省略して物語の展開を図ったと見られるのである。
 例えばこのような『平家物語』『吾妻鏡』等の読みを通して見た義経の性格を見るに、どうやら懸命に戦い、御所の警衛を通して後白河法皇に忠を尽くし、鎌倉にいる兄頼朝には忠実な代官たらんと行動した人物であることは動かぬようである。つまり義経は、情の人であり行動の人であり、先の読みよりは目先の懸案にすべてをかけるタイプと見える。そして、その先読みのできぬ点と、当時の武家社会の前提である惣領制に対する理解に欠けていた点に、義経の弱点があったといえよう。
 惣領制下では家の代表は惣領であり、庶子は惣領の命を受けて行動する存在にすぎない。所領を給付・安堵されるのも惣領なら、主家の命に応じて庶子・家の子・郎等を率いるのも惣領なのである。故に頼朝は庶子を代官に命じたのであるから、鎌倉に留まっても家の勤めを放棄したことにならない。その上、「腰越状」で有名な義経への糾弾も.頼朝の命を待たずに法皇による補任を受けたにことが惣領制を踏み躙ったことになる、武家社会の常識の逸脱に対する懲罰に外ならないのである。

(腰越状の写真)

 とすると、義経は戦上手であり、目先の課題はうまく対処し、かつ敏速に行動する能力を有する人材であるが、政治家としての資質に欠けるところがあるということになろう。

  一ノ谷・屋島・壇ノ浦での戦法
 義経の戦上手を決定づける一ノ谷、屋島、壇ノ浦の三つの合戦に共通して言えることは何か。一つは、範頼や梶原らとは一線を画し、義経麾下の者だけで勝敗を決していること。そしていま一つは、『平家物語』『吾妻鏡』には記されていないものの、平家方が圧倒的勢力を誇っていた中での合戦ということである。
 一つずつ見ていこう。まず一ノ谷の戦いは、堅牢な防備を固め西方に膨大な勢力圏を擁する平家の前線基地に、東国勢が長駆遠征隊を送りこんだという状況にあり、義経による奇襲がなければ、平家は一ノ谷の陣を守りおおせたに違いないのである。
 義経の鵯越の正確なルートは不明であるが、その研究史に触れる冨倉徳次郎『平家物語全注釈』(下巻(一)、昭和四十二年、角川書店)などは、鉢伏の峯とする異本も紹介しつつ、地理的に鉄拐山ルートを提唱する。しかし問題としたいのはルートの解明ではなく、地理を知らぬはずの義経がこのような迂回コースに勝敗を賭けた背後に何があったか、ということである。
 このあたりには、明石を始め、姫路の書写山、西脇の西林寺など熊野修験関連の寺院もある。また川西や池田を中核とする多田銀山や姫路の西方には山崎の踏鞴遺跡などもある。しかし、そのような土地や集団との関係はいずれの伝承にも現れない。『平家物語』でこの場面に登場するのは、鷲尾庄司という老猟師であり、息子の熊王が元服して鷲尾三郎を名乗り、後々まで義経に仕える筋立てになっている。このように間道の途中で迎えて案内するということは、初めから何らかの結びつきのあった人物と見てよかろう。一ノ谷では、義経と山人・猟師との結びつきが何よりも大きな作用をしていることに気づかなければならない。
義経が鞍馬にいたことは『吾妻鏡』にも記述があり、「腰越状」からも諸国を転々としていた若年のころが窺われる。そこに山人の存在を想定することは異とするに足らない。
 次に屋島の戦いであるが、逆艪に反対して嵐の中を小人数で紀伊海峡を渡るということは、船の装備に詳しい人々とは無縁であったことを示す。しかも逆艪を主張した梶原の子孫は、のちに沼島・高砂を根城に活躍する梶原水軍となる(佐藤和夫『日本中世水軍の研究』平成五年、錦正社)。また水主・揖取も義経に反対している。義経と水軍の関係は無いと見てよかろう。
 しかしこの無謀とも思える賭に出て無事対岸に辿り着いていることは、この海峡を庭のように知り尽した集団との結びつきを示唆する。嵐の中を対岸に漕ぎ着くと、案の如く平家方はさしたる備えもなく、のちの展開から出迎えの勢と考えられる近藤六の一隊が待ち構えている。
 続いて近藤六は、夜を日に継いで阿波と讃岐の境なる大坂越を駈け通す案内人となっている。鷲尾父子と同じ役目を負っているのである。その上、大坂越の途中、白鳥・丹生屋という土地を過ぎるが、白鳥は日本武尊の伝承と関係し、草薙の剣から製鉄と結びつく地名である(谷川健一『白鳥伝説』昭和六十一年、集英社)。また丹生屋(現入野)の丹生は水銀鉱脈の地名で(松田寿男『丹生の研究』昭和四十五年、早稲田大学出版部)、ここからも山人との結びつきを読み取るべきであろう。
 最後に壇ノ浦であるが、『吾妻鏡』にも、熊野の湛増と讃岐の橘次公業、そして周防の船所正利の加勢があって初めて平家方と五分以上の戦いが可能になったことを記す。
 ところで熊野の湛増は、のちの伝承では弁慶の実父となる(『義経記』では「弁せう」)。義経が大物浦で遭難したあと吉野の山中を徘徊し、北陸落ちの際に山伏姿になるのも、湛増を介して熊野修験との関連が伝承を支えていったことを示していよう。
 また「橘次」は、金売吉次と同名であり、どうやら鉱山師と無縁ではないことを示唆している。
 そして船所氏は、防府の近くに周防鋳銭司(今、鋳銭寺の地名がある)や、さらにそれと関連の深い鋳物師という地名もあって、水軍ではあるが、これまた鉱山師と関係のある集団だったのではなかろうか。
 このような山人縁りの勢力を率いて平家方と戦った義経は、戦法においても水軍出では取り得ない奇策を放つ。つまり、平家方の水主・揖取を射殺すのである。これは水軍仲間であれば決して犯してはならない禁じ手である。
 いずれにせよ、義経の戦法は、山びと流であり、各地に勢力をもつ山人との結びつきの上に作りだされたものといえよう。

  金売吉次と蝦夷渡り
 所領をもつ武士を配下に持たず、伊勢三郎、鷲尾三郎を始め山道に明るい山人系の剛の者を従え、やがて弁慶など修験系の荒法師を活躍させる義経伝承が伝える義経の実像とは、武家貴族にして武家の棟梁源家の御曹司ではなく、山びと義経であった。
 その義経が金売吉次に見出され(『平治物語』以下)、いつしか伝承の中で平泉で死なずに「御曹子島わたり」(『室町時代物語集』所収)などに蝦夷行きが語られる。これは単なる追放や逃避ではなく、「金」との関係があり、山びと義経が鉱山師と結びついていたことが核にあることを示唆する。そこで最後に、義経の実像と伝承を結びつけていた「金」との関係に触れておきたい。
 吉野の金峯山であれ、黄金咲く奥州平泉の藤原秀衡であれ、義経と関係のある土地は何故か「金」と結びつく。どうやら義経と「金」との結びつきは、そもそもの初めから存在し、後年ますます強められていったものらしい。おそらく奥州藤原氏滅亡後も、奥州の砂金は京に運ばれ中国大陸に流れ、その対価として勝れた文化を伝えるルートが永く廃れなかったことによるものであろう。
 語りの徒は、金売吉次を以て奥州藤原氏の代役を勤めさせたと見ることもできる。「吉次」は、柳田国男「炭焼小五郎が事」(『海南小記』大正十四年、大岡山書店)に指摘がある如く、父は炭焼藤太、息子は金売吉次として登場することが多い。砂金取りであり、鋳物師(鉱山師)であり、金売商人でもあるのだろう。
 その主な伝承については太宰幸子「『金売吉次』の伝承」(『金属と地名』平成十年、三一書房)に纏めがあるのでここでは略し、義経伝承の核となる奥州へ誘った「吉次」の名について考察しておきたい。
 「吉次」はいうまでもなく「橘次」であり、橘の名を負う。その橘は金色の実であり、南殿(紫宸殿)の右近の橘も、秋に実がつく(左近の桜は、春に花が開く)だけでなく、五行で西方に当たることから西に植えられ、木火土金水の「金」とも一致するなど、二重三重の意味を持たせていることになる。
 この橘が、永遠の生命の象徴であることは、記紀におけるタジマモリの伝承により広く知られている。また、橘を井戸の傍に樹えると、その水は万病に効くという「橘井」伝承が古代中国に伝えられている。
 葛洪(二八三~三四三)の『神仙伝』蘇仙公の条に次のように見える。「先生曰く。明年、天下疾病あらん。庭中の井水、簷(軒の意)辺の橘樹、以て食に代るべし。井水一升、橘葉一枚、一人を療すべし。……来年、果たして疾病あり。……皆水及び橘葉を以てするに、愈えざる者なし。」『続日本紀』天平八年(七三六)の橘諸兄らに橘宿禰姓を賜う条では、「寒暑を経て彫まず……金銀と交わりて逾々美し」と言って杯の中に橘葉を浮べて賜姓の詔を下す。井水ではないものの、橘と水が結びつき、その神秘性に肖かろうとしている。『日本書紀』の反正天皇(瑞歯別)の段では、「是に井あり、瑞井と曰う。則ち汲みて太子を洗いたてまつる。時に多遅の花、井の中にあり。因りて太子の名とす。多遅の花は今の虎杖の花なり」とある。虎杖か橘樹かは問わぬこととするが、よく似た名の花である。
 新井白石『藩翰譜』(巻四)に載せる井伊家の伝承は次の如くである。「系図の伝うる所、……遠江国に下り、……此国井の谷という所に八幡の宮居まします。其瑞垣のほとりに御井ありけり。かしこの宮司、ある正月元日の朝、社頭に参りしに、今生れたらん頃の赤子、忽ちに御井の内より現れ出づ。……ゆえに井桁を採て幕の紋とす。また橘を紋につける事も彼の現はれし時、橘一つ御井のほとりにありしを見て、宮司此児の産衣に絵がきてければなり。」
 日蓮伝承も同類ゆえ、井伊と同族ではないかと考えられているが、右の井伊谷とのちに移った彦根に、竜潭寺つまり竜の住む池の名をつけた寺がある。古くは井伊谷八幡の神宮寺に出るものであろうが、ここでも橘、井戸、竜(蛇)が揃って出る。しかもこの地は、古く和田峠の黒曜石の交易が行われ、鉄鐸・銅鐸を運んだ古道のほとりにある。
 因に、韓国にはさほど古くないかも知れないが、「薬水」の伝承がある。秋葉隆『朝鮮民俗誌扁(昭和二十九年、六三書院)に見え、薬水の近くには蛇または竜が出ると伝える。
 蛇にはまた鉱脈に現れる伝承が多く、出雲の八岐大蛇も、砂鉄を産する川の赤錆と、洪水などで暴れる状から出ていると解されている。
 これに、柳田国男以来知られている如く、鉱山師たる鋳物師を「井戸掘り」(勿論「芋掘り」も)と称する点を勘案すれば、「金売吉次」の「吉」すなわち「橘」の意味が明らかとなろう。
 山びと義経の存在を鉱山仲間から聞き知ったであろう吉次は、黄金の都平泉へ義経を誘う。京と平泉を往復する吉次と結びついた義経は、『義経記』では鞍馬山から平泉、そして再び鬼一法眼の許へ、そこからまたも平泉へ、ついで黄瀬川で兄頼朝の陣に参上し、京へ、さらには西国へ赴き、また京へ戻っては兄と仲違いをして今一度平泉へと、聴き手には何度となく行き来する印象を与える。
 鉱山師は特殊な技術と組織を必要とする。そこへ地域的に重なり合い、語りの組織を持つ修験との結びつきが発生すれば、いくつかの物語が形成されることは自然の成りゆきであろう。戦国以後、大名は鉱山師の他領移住を禁じたであろうから、その後は伝承が独り歩きすることになる。
 こうして山びと義経が黄金の御曹司となるに及んで、橘の如く永遠の生命と黄金郷の主としての資格が伝承上に加わることとなる。
 衣川で義経は泰衡らに討たれるのであるが、文治五年(一一八九)閏四月三十日に持仏堂で自害しても暫く放置され、六月十三日になって首実検されている。一ト月半たった首が本物か偽物か分かるだろうかとして、義経は蝦夷へ渡ったとする伝承が形成されていくのである。
 蝦夷にはまた、古くから黄金伝承が伝えられている。紙幅の関係で以下の考証は省略するが、金田一京助「義経入夷伝説考」(『東亜之光』九巻六・七、大正三年、東亜協会)「日の本夷の考」(『国学院雑誌』二〇巻九・一〇、大正三年、国学院大学)など先人の論も少なくない。それにしても、義経を蝦夷に逃がすところまでは、山人系の黄金伝承の影響下にあることは間違いないと言えよう。

(金色堂の写真)

「山びと義経の徴証―語りから実像へ―」(吉岡吾郎)
『図 説源義経 その生涯と伝説』・河出書房新社・平成16年10月




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