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御本尊様に関して、こんな質問をいただきました。

前の記事で「御本尊様に開眼は必要なのか?」と書きました。
それで日蓮正宗信者であるひごちゃんさんとやり取りさせてもらいましたが、結局は、御書には明確に「御本尊様に開眼せよ」とは書かれてないので、あとは解釈の問題になります。

日蓮正宗では「法主の開眼が必要」という立場であり、創価学会は「その必要はない」という立場。

ですが、彼(と裏で指南したダメ出しさん)が引用した観心本尊抄にある「此の仏像」という語句を持って「だから開眼が必要」との三段論法は、いかにも日蓮宗と一緒で、それはマズイでしょう。

この部分の反論は聞いてませんが、おそらく反論は無理でしょう。
だって多くの日蓮正宗信者はそういう読み方をしてませんからね(笑)

さて、一旦開眼の件は置きまして、当ブログの常連さん?であるお二方からこんなコメントをもらいました。

・素朴に質問があります。

いや〜新年早々読み応えあり。
一歩も引かない凄い対論でしたね。

僕はせっかく人間に生まれてきたので、
この一生を無駄にしたくないんですよね。
なので、正しい道に入ることが一番の望みです。それが創価学会だったらよかったんだけど、創価学会は正しくないと結論づけました。なので少し質問させて下さいな。

今回の対論は開眼についてでしたが、ハッキリ言って僕のような愚鈍のものには深く分かりません。

鯛焼きさんは、理論的には御本尊の相藐が正しければ、本門の本尊になりうると言ってましたけど、昔は僕もそんなふうに思ってだけど何かおかしいなと思ったんだよね

それは、日顕上人書写の本尊から創価の本尊に取り替えたときに思ったんです。

な〜んか違うな〜と思ってよく見たら、創価の本尊には十界の衆生が少なかったんですね。でも偉大な日寛上人書写の御本尊ですよね。

なので質問その一。
正しい相藐ってどういうことですか?

宮沢賢治さんは、雨にも負けずの手帳の最後に、中央首題と四天王を自分で書いてましたけど、本門の本尊ですか?

スイマセン阿呆な質問で、けど知りたい。

2019/01/26(20:06)  梵我一如

・バロムわん同志に続いて。

仏像とご本尊様を同格に扱うとは!
如何な事か!

支部長のお怒りに
一定の理解は出来ますが、、

相貌が正しいければ、
日蓮大聖人様の真筆の曼荼羅であれば、
それで良いの?って、思いました。

駄文コメントまい度、失礼しました。

2019/01/26(23:31)  天パ。

お二人の言いたいことは、創価学会授与の日寛上人書写の御本尊様がいわゆる八界しかないが、それってどうなの?という疑義になります。その件で下記コメントで対話を展開していきたく思います。

なお、コメントをこちらに持ってきたのは「開眼」とはまた別の内容ですので、こちらに転載させてもらいました。お二方、どうぞご承知おきください。
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コメント

日寛上人書写の御本尊様

まず天パさんへ

>なんなら、
>駄目出しブログに
>乗り込んで頂きたく、、、。

>血気盛んなバリ活動家が
>ボロカスに殺されましたが、、、。

>重ねて駄文コメント失礼。

御進言ありがとうございます。
でも、まさに「駄文」ですね(笑)

私は、修羅界の方とはネット上ではやりません。対話にならず不毛な結果に終わるのが目に見えてますので。もちろん現場では別ですがね。


さて、梵さんの疑義からいきましょう。

>鯛焼きさんは、理論的には御本尊の相藐が正しければ、本門の本尊になりうると言ってましたけど、

まず「理論」的であることと、それを「実践」できるかどうか?についてはまったくの別問題です。

>それは、日顕上人書写の本尊から創価の本尊に取り替えたときに思ったんです。
>な〜んか違うな〜と思ってよく見たら、創価の本尊には十界の衆生が少なかったんですね。でも偉大な日寛上人書写の御本尊ですよね。

そうなんですよね。確かに少ないです。
でもですね、いわゆる学会の草創期にさかんに授与された御本尊も日寛上人の御本尊様で、現在の創価学会のものと同じ相藐なのはご存知だと思います。

※学会草創期に流布した享保三年の日寛上人の御形木御本尊は、相貌も、授与書きがない点も、法主による開眼などがなかった点でも、現在の学会授与の享保五年の日寛上人書写の御形木御本尊と全く同じだったのである。(フェイク1601号より)

また大聖人御入滅ののちに日興上人、日目上人が書写した御本尊の中にも十界すべて書かれていない御本尊があることもご存知でしょう。

※宮田教授の論文より
菅原関道の「日興上人本尊の拝考と『日興上人御本尊集』補足」(『興風』第 11 号)によれば、日興書写曼荼羅は、その大きさにより、小さい曼荼羅は十界の列衆が省略された略式本尊であるが、大きい曼荼羅は十界の列衆がほぼ完備している円具本尊であると分類されている。


以上のことから、もし「十界すべてがない」と言うのでしたら、なぜ享保三年の日寛上人の御本尊を「法主経由(開眼して??)」でさかんに授与してきたのでしょうか?

つまり、十界すべてが書かれてなくても、宗門は問題はないという立場だったと思わざるを得ませんがいかがでしょうか?


「正しい相藐」についてはまた後日書きますが、

>宮沢賢治さんは、雨にも負けずの手帳の最後に、中央首題と四天王を自分で書いてましたけど、本門の本尊ですか?

ネットで私も確認しましたが、「南無妙法蓮華経」のみで「南無妙法蓮華経 日蓮」とは書かれてません。よって御本尊にはなりません。

取り急ぎ以上です。乱文ですみません。

No title

◆【御本尊の種類について】
①「略」式の御本尊
「南無妙法蓮華経」と四菩薩(上行・浄行・無辺行・安立行)・二仏(釈迦・多宝)の他、主な法華経登場人物が書きあらわされている。現在の創価学会授与御本尊(日寛書写)はこれにあたります。

②「要」式の御本尊
「南無妙法蓮華経」のみであったり、南無妙法蓮華経と四天王のみであるような御本尊。

③「広」式の御本尊
略式御本尊よりも多くの法華経登場人物が書きあらわされている。
創価学会大誓堂安置の御本尊(大法弘通慈折広宣流布大願成就)や大御本尊などがこれにあたる。「具足本尊」などの別名で呼ばれることもあります。

※【大御本尊には書かれているのに、学会授与本尊には書かれていないもの】
南無舎利弗尊者、南無薬王菩薩、南無文殊師利菩薩、南無普賢菩薩、南無弥勒菩薩、南無迦葉尊者、阿修羅王、転輪聖王、提婆達多、阿闍世大王、南無龍樹菩薩、南無妙楽大師。

現実に、創価学会員の方たちが喜々として語る功徳の体験談を見ると、御形木御本尊でも十分に功徳があるように見えますし、逆に、最高グレードに君臨しているはずの大御本尊は、700年間忘れ去られたように秘蔵され「大御本尊の驚異的な力」による功徳の体験談を聞くことも、ほとんどありませんでした。
結局、以前から検証しているように「法華経の会座と宝塔を書きあらわした」「生命の法則を表現している」という意味では、大御本尊も御形木御本尊(=法主が書写した御本尊を、印刷複写のうえ授与した御本尊)も内容的に変わりはなく、「御本尊に上下の関係がないように、御本尊の種類の差による功徳の差もないのだ」と結論づけることができそうです。
https://plaza.rakuten.co.jp/sokakyougaku/diary/201602060000/

※【日蓮聖人大漫荼羅一覧】
http://juhoukai.la.coocan.jp/mandara/mandaraitiran.html

◆【御本尊の功徳とは何か?】
https://plaza.rakuten.co.jp/sokakyougaku/diary/201602090000/


★【本門戒壇の大御本尊は滅後の模刻である証拠の数々】
https://open.mixi.jp/user/54955889/diary/1968478805

日蓮正宗では、「戒壇の大御本尊の御内証を書写した」と言っているが、同じ法主であるのに書写するたびに〝御内証〟が変わっている。

【67世・日顕が書写した御本尊の場合】※『石山本尊の研究』(京都要法寺僧侶 柳澤宏道編著)より。
・第35番座配図(昭和54年10月13日書写)→(釈提桓因大王ではなく)帝釈天王、南無龍樹菩薩なし、南無妙楽大師なし。
・第36番座配図(昭和55年6月21日書写)→(帝釈天王ではなく)釈提桓因大王、南無龍樹菩薩なし、南無妙楽大師なし。
・第38番座配図(昭和60年3月吉日書写)→(釈提桓因大王ではなく)帝釈天王、南無龍樹菩薩あり、南無妙楽大師あり。

※「釈提桓因」…帝釈天のこと。



>本尊とは教団の根本教義ではないか。その教義が対外関係の変化によってコロコロと変わっていいのだろうか。(「創価学会と日蓮仏法と活動」より)

広布の伸展の段階によって、現実的な課題として現れてくる事態や、将来起こりうる課題に責任を持って対応していくのは当然の事である。日蓮正宗のように古色蒼然たる教義解釈を墨守して事足れりとし、現実の広宣流布の伸展には責任も関心もないという立場とは全く違うのだ。
教義条項の改正は、「魂の独立」から23年、世界広布の伸展の時代的要請に応えるため、日蓮大聖人の仏法の本義に立ち返って、従来の教義解釈を整理し直したものである。したがって、教義の変更ではなく、教義の解釈の変更と位置づけられるものである。

※【日寛の登場】
https://plaza.rakuten.co.jp/sokakyougaku/diary/201602230000/

信仰の根幹に関わる教義とその解釈の変更は、本来なら100年単位の時間をかけてゆっくり行うべきものだ。古い体系を信じていた人たちが変更に対し強い抵抗感を抱くからである。

【作家 佐藤優氏】
「破門直後に今回の改正を行わず、時が満ちるのを待って行ったことに、学会の誠実性がある」
「『時代とともに生成され、変化していくこと』こそ、学会が『生きた宗教』である証(あか)し」
「『過去の発言と矛盾しているじゃないか』と批判する固定した見方は、『死んだ宗教』『化石の宗教』の論理」

【ハーバード大学名誉教授 ヌール・ヤーマン博士】
「宗教において教義が重要であることは、論を待ちません。しかし、私たちは、教義の奥に、さらには教義を超えて存在する人類の普遍の知恵を探ってゆかねばならないのです」

【上智大学名誉教授 安斎伸氏】
「平和・文化・教育の価値も理解できず、伝統に固執し、権威と力で信徒を押さえ付け、時代錯誤に陥った宗門。そこから独立しなければ、創価学会もやがては独善的、閉鎖的な教団として終わってしまい、未来性も世界性も絶たれていたことでしょう」

【東北大学大学院教授 佐藤弘夫氏】
「創価学会が日蓮正宗を庇護する在家団体の立場であり続ければ、現在のような192ヵ国・地域に及ぶ世界的な広がりはなかったと思う。創価学会は、日蓮正宗と袂を分かつことで今日の発展があったといえる。宗門から創価学会を破門したという形だが、宗門と離れる意義は大きく、結果として良かったのではないか。
教団というものを考えるとき、懸念しなければならないのは、保守化していくということ。それが権威主義につながる。既成教団のように人を束縛させる方向でなく、心が輝く人を陸続と輩出し、それを支える組織でなくてはならない。
私は形式的な血脈論はあり得ないと思う。血脈相承が外在化し、権威化して、ひとり歩きを始めるような状況は宗教としての自滅行為だと考えます。信仰があるところに血脈は流れ通うと考えるのが日蓮の思想でしょう。
大事なことは、『今、日蓮が生きていたらどう考え、行動するか』――それを常に問いかけ、現代的な課題に真剣に応えていく努力でしょう」


本書(※『御書の世界』第3巻)では、「三大秘法」についても紹介されています。従来から言われているのと同じく「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」ですが、その根底に「広宣流布の誓願」があってこその三大秘法であることが強調されています。創価学会の主張は、自分の中に「誓願」がなければ、形式だけでは三大秘法の南無妙法蓮華経を受持したことにならない、というものです。
翻って、日蓮正宗では、三大秘法はあくまでも形式からはいっていきます。弘安2年の板御本尊が本尊で、それを安置するところが戒壇で、と、物体や場所が第一義になっていることに気がつきます。日蓮正宗の「形式至上主義」は、小説・人間革命のレビューでも指摘しましたが、相当昔から続くイデオロギーのようです。
このような、日蓮正宗に破門され、日蓮正宗の形式至上主義の呪縛から解き放たれた後に書かれた本シリーズ全3巻は、創価学会の新しい教学の流れを確立した、新時代の重要な教義書であるように思います。
https://www.amazon.co.jp/review/RTFB02N4QS90D/ref=cm_cr_rdp_perm

「『広宣流布の大願』と『仏界の生命』とは一体です。だからこそ――この誓いに生き抜く時、人は最も尊く、最も強く、最も大きくなれる。この誓いを貫く時、仏の勇気、仏の智慧、仏の慈悲が限りなく湧き出(い)でてくる。この誓いに徹し切る時、どんな悩みも変毒為薬し、宿命をも使命へと転じていける」(池田先生)


★【御本尊は己心の仏界を映す鏡】
御文(阿仏房御書)では続いて、「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり」と、法華経で説かれる宝塔は、南無妙法蓮華経以外の何ものでもないことを述べられていく。
宝塔とは、私たち一人一人であり、その宝塔とは、あらゆる仏を成仏させた根源の法である南無妙法蓮華経である――。
しかし、宝塔が自分自身であると言われても、それを信じることは難しい。だからこそ大聖人は、一人一人の「己心の宝塔」を映す明鏡として、御本仏としての御自身の生命を御本尊に顕された。
「御義口伝」に「南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、明鏡にあらゆる者の像を浮かべるように、一切の事象を明らかに知見していくのである。この明鏡とは法華経であり、別しては宝塔品すなわち御本尊である。または御本尊を信ずる者の一心の明鏡である」(御書P.763、通解)と示されている。
鏡があれば、自身の容姿を見ることができる。同じように、御本尊を明鏡として題目を唱える時、一人一人の「己心の宝塔」を覚知し、仏界の生命を現すことができるのである。
http://www.sokayouth.jp/study/goshokatsu/2012/04.html

「自分自身が妙法の当体である。ゆえに、何も恐れるものはない。幸福にならないわけがない。そう決めて題目を唱えゆく時、わが生命に『歓喜の中の大歓喜』(御書P.788)が湧き起こってくる」(池田先生)

本抄(日女御前御返事)は、御本尊の真実義を明かされた重要御書である。ゆえに宗門は、信者がこの御書を拝し「胸中の肉団」(=自身の生命)に内在する御本尊を覚知することを恐れるのである。
大聖人が御本尊を図顕されたのは、法華経において一切衆生に〝仏智見〟を開かしめん、と説かれた仏意の本体を明かされたことであり、その真意を信者に知らしめることであった。
宗門が危惧するのは、「拝むべき正境の本尊」が建立された意義は、「胸中の肉団に(御本尊が)おはします」ことを自覚せしめるためであったと、信徒が知るに至ることである。
そうなれば、僧侶が一方的に御本尊を独占し、僧俗差別が当然であるとしてきた根拠が打ち消され、さらには大聖人、日興上人への違背であることも明らかとなり、宗門僧侶の存在意義すら消え果てる――。

※「仏智見」…仏の智慧に基づく正しい認識。
http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-314.html

ありがとうございます。

今晩は。
お返事ありがとうございます!

少し誤解があるようなので、説明します。
僕は日寛上人書写の御本尊様に疑義がある訳では全くありません。(恐れ多い)
勿論正しい御本尊様に決まってますぅ。

ただ、何ていうか、何故一律じゃないのかなぁ?と思いまして。

八界でも十界でも正しい相藐で、けど、宮沢賢治さんのは日蓮大聖人様の日蓮が無いから正しい相藐で無い?

なんというか、線引きは何処?っていうか
何処から何処までなら正しい相藐なのか?

ナゼ日寛上人は八界にしたんですか?
日興上人や日目上人はその時の気分で、かき分けたのかな?

凄い不思議です。なんかあるのかな?

有難う御座いました♪

Re: ありがとうございます。

無名さん、毎度鋭い御指摘や資料を提供いただきありがとうございます!

梵さんもぜひご一読願いたいです。

一点だけ言わせてもらえれば「本尊とすべきは妙法蓮華経の五字」と「日蓮がたましい」等の御文から「南無妙法蓮華経 日蓮」とすべきは明白でしょう。

ですので日蓮宗でよくある「南無妙法蓮華経 ●●(その時の住職名等)」ではダメです。また宮沢賢治さんの書いたものも無名さんの資料でいけば②「要」式の御本尊、になるのでしょうが「全世界に流布すべき御本尊」になるかどうかと言えば否でしょう。

相藐については、観心本尊抄「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処し給う。迹仏迹土を表する故なり」と仰せです。

また「日女御前御返事」にも「されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し・日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」とある通りです。

そのうえで、時の法主がアレンジされたのではないでしょうか?

なぜ、日寛上人が八界で書かれたのかについてまではさすがに分かりません。
これは日蓮正宗の方でも分からないと思いますが。

Re: 有難う御座いました♪

いま見ました。誤解と言うかかなりの偏見がありますので(笑)なんですが、反駁しましょう。

>彼の主張によれば、御本尊の相貌があれば全てが『本門の本尊』として認定できるらしい。

らしい、って勝手に決めつけるな(笑)
あくまでも「理論的にはなるかも知れない」という話で、それを「信」じて実践できるかどうかは別問題だって何度も言ってます。このへんのロジックがまるで理解できない方なんでしょう。

>創価オリジナルでも、手書きでもOKとの事。あまつさえ排泄物にさえ文字を印字すれば、それも(理論的には)本門の本尊になるという。そして、それを祈る人間の気持ち次第で『(鯛焼き流)三大秘法』が成立するかどうかで、正しいかどうか決めるという。(逆にいえば、排泄物に印字された本尊でも疑う事無く厚く信仰する人がいれば成立する、という珍説である)

私の言葉足らずかも知れませんが、あくまでも広宣流布のための「信」です。個人の幸せや全民衆を幸せにするために、その排泄物を「本門の本尊」として信じられますかね、普通?

何でもかんでも信じれば、それは本門の本尊、なんて沈説は言ってませんのであしからず。

つまり排泄物では三大秘法が成り立たないのですよ。
ちなみにダメ出しさんが排泄物の譬えを出してきたので乗っかったまで。よく読んで欲しいですね。

あとは、もういいです。この記事の論点から外れますので。

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Author:創価鯛焼き君
バリ活の学会員で支部長やってます


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