「知られざるアニソン作家」古田喜昭スペシャル・ロングインタビュー!
大変ながらくお待たせしました。
「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」2012年6月16日の放送でダイジェスト版をお送りした、"謎多きアニソン作家"古田喜昭氏のインタビュー。その全文をほぼノーカットで掲載します。
そもそもこのインタビューの端緒は、2008年12月20日の「"知られざるアニソン作家"古田喜昭」特集までさかのぼります。
80年代に幾多の傑作アニソンを残しながらも、本人のキャリアやパーソナリティが謎に包まれているため、なかなかスポットが当たることのなかった古田喜昭氏。そんな古田さんのことをもっと知って欲しい。もっと古田楽曲の素晴らしさに触れて欲しい! そんな思いから特集を行なったところ、予想以上に大きな反響を頂きました。
そこで今回、いよいよ古田さんに直接コンタクトを試み、ようやくご本人との接触に成功。古田さんにとっては、実に20数年ぶり(!)のインタビューと相成ったわけです。
インタビューは6月7日、都内某ビルにて1時間ほど行なわれました。
インタビュアーは番組構成作家・古川と、DJにして昭和歌謡/アニメソングの7インチコレクター、そしてもちろん熱烈な古田楽曲ファンでもある"DJフクタケ"こと福田タケシ氏。現場では、レコーダーがセッティングされる前からすでに会話が始まっていたため、文中では話がやや錯綜しているところがありますが、古田さんの貴重な発言をなるべく素のままでお届けするため、推敲は最小限にとどめています。もしこの原稿に読みにくさがあれば、以上のような狙いにおいてであり、構成者の責任となります。
2008年の特集の中で、我々は古田さんのことを敬意を込めて、「アニソン作家」と呼びました。アニメソングを職業的に手がける作家は数多くいますが、作曲のみではなく、また作詞だけでもなく、作詞と作曲を両方こなし、トータルとしてひとつの世界観を作り上げる古田さんのような作家は、非常に稀です。
しかもその上で、ポップスとして非常に高い完成度を持ち(それこそ〝オトナの鑑賞〟にも耐えうるような!)、かつ子どもたちに受け入れられやすいチャーミングさも兼ね備えている......すなわち、児童向けアニメが本来備えるべき条件を、古田楽曲は、音楽の形で完璧に体現しているのです。今回のインタビューでは、そうした古田さんの「アニソン作家性」について確信を強めるようなエピソードも紹介されています。
古田喜昭さん、やはりもっと多くの人に知られるべき存在です。
このインタビューがその一助になれば幸いです。
(構成作家・古川 耕)
1949年3月14日生まれ。
日本の作詞家、作曲家、音楽プロデューサー。東京都出身。
「FULTA」名義でも活動を行う。
■音楽業界にデビューしたきっかけ■
──単刀直入に伺いますが、今は音楽の活動はまったくやられていないんですか?
古田 今はインストゥルメンツですね。2年くらい前になるんですけど、上海万博の日本産業館の中の音楽をつくったりだとか。ほとんどピアノだけの曲ですけど。
──それは会場の中で流れるもので、ソフト化されたりはしていない?
古田 ええ、してないです。世界各国のVIPが集まる高級レストランみたいなのを日本館でやった時の音楽だったんですよ。入り口で日本の音楽を流して、っていう。とある有名企業のオーダーで。
──じゃあ、今のお仕事は......。
古田 デザインですね。ホームページもデザインしますし、ポスターもデザインしますし、パンフのデザインとか、とにかくデザイン全般ですね。動画をつくってみたりもします。企業のですよ? 面白動画とか、そういうのじゃなくて。
──じゃあ、クライアントから仕事を受けるデザイン会社に所属してらっしゃると。
古田 そうですね。そこの商品とかを、たとえば30秒CMみたいな形でやる時、じゃあ絵コンテを僕が描きます、みたいな。もともと音楽を始める前はイラストレーターだったんで。
──ええ!?
古田 一応、仕事をちょっとだけしてましたね。で、本来は、どう考えても、そこへ行くはずだったんですよ。
──イラストの方へ?
古田 そうです。ちゃんと原宿の事務所なんかに関わってましたし、絵もちゃんと売れてたんで、そっち行くはずだったんですけど、趣味で......なんて言うんですか、サンデーバンドっていうんですかね? 日曜日だけ集まるグループ。それでバンドやってたら、それがコンテスト通っちゃって。
──それが「Time」ですね。でも、その前にお仕事をすでにやられていたと。
古田 ええ、やってました。だから誰もが、イラストレーターになると思ってたはずですね。Timeは本当に遊びで参加してて。だからTimeがデビューするってなった時、「じゃあ僕バンドやめますね」って話だったんですよ。
──そうだったんですか。
古田 僕は全然音楽やるつもりはなかったんですよ。
──でも実際は、Timeで作詞作曲もやられて、歌もうたわれて......。
古田 いや、僕は歌はうたってなかったんですけど。その前って、僕は絵を描いていたんだけど、音楽学校にいたんですよね。
──え、そうなんですか?
古田 はい。その前はですね、ポップじゃなくて、指揮してたんですよ、合唱団の。19歳とか20歳くらいの頃。だから完全にそっち系だったんで、ポップとはほとんど無縁でした。ただキーボードを手伝ってくれって言われたんで。たまたまピアノやってたんで、そのバンドを手伝ってて、手伝いだから、デビューの時は当然僕はデビューしませんよっていう話だったんですよ。勘弁して下さい、と。そうしたらレコード会社の方で「5人グループなんだから欠けちゃダメだ」っていうんで、困ったなぁと。音楽学校卒業して、もう教員免許もとれてたんで、中学校の先生になるってほとんど決まってたんですよ。それが急に、ロックバンドみたいなのをやることになって、どうしようっていう。そういう感じですね。
──それで結局Timeでデビューするわけですね。
古田 そうです。で、Timeに入ってしまったので、ポップを書かなきゃならなくなったわけです。ポップの曲って、書いたことなかったんです。
──そうだったんですか!?
古田 ないですないです、全然。合唱曲は書いたことありますよ。オーケストラを書いたり、そういうことはやってたんですけど。で、バンドに対するノルマ? 5人グループで、ひとり最低2曲ずつ書いてきて、その中からシングルを作るよって、それで、なんとなく作ってみようかってことで、書いたのがこれですよ。(と、フクタケ氏が持参してきた7インチシングル「熱い涙」のジャケットを指さす)
──これ、作詞作曲は古田さんですよね。歌もそうじゃないんですか?
古田 違います。僕はその頃はクラシック畑だったんで、全然ポップスは歌えなかったんです。で、ここに名前の出ている市村というのがリーダーだったんですね。僕はほとんど関係なかったんですけど。だけど、たまたま書いてくれって言われたんで......だから僕、ポップスの下積みっていうんですか? ゼロなんです。
──そうだったんですか!
古田 これ、シングルになっちゃったんですけど、生まれて初めて書いた2曲の1曲なんです。
──1973年のポプコンで入賞なさった「82才のおじいさん」は、あれは古田さんの曲ではなかったんですか?
古田 あれは市村のもともと書いていたところに、「ここのメロディが分からないんだけど」って言われたんで、じゃあこうしたら、と言って、それで共作になっちゃったんですよ。もともと市村の曲ですね。だけどクレジットの登録の時は共作になるってことで。だから僕の中では、自分で書いた意識っていうのは全然なくて。
──じゃあ、この「熱い涙」が本当に最初の一曲なんですね。
古田 びっくりしましたよ。どうしようかと思って。もう恥ずかしい。詞とかそういうものにしても、ポップスの詞なんて書いたこともなかったから。で、なんとなく書いたら、それが......。だから、バンドのメンバーが全員怒っちゃいまして。
──それはなぜですか?
古田 僕だけ素人じゃないですか、ポップス。他の人たちは結構作ってたんで、もともと。なのに初めて作った僕の詞と曲が通ってしまったんで、怒ったなんてもんじゃなくて......それでTImeって解散しちゃったんですよ。
──ええー!?
古田 すごくいいバンドだったんですけど。リーダーがすごく怒って辞めちゃったんですよ。
──それでTimeはアルバムが出てないんですね......。
古田 それで本当に止まっちゃったんですよね。リーダーがリードボーカル歌ってたのに、辞めちゃったんで、キャンペーンが出来なかったんですよ。歌ってる人がいないんで。福島の某ラジオ局で、週間3位とかになっちゃって、だけどレコードが3位になっても本人たちがいないじゃないですか。で、ゲストで出てくれって言われて、どうしようかって......。すごいデタラメな感じになっちゃったんですよね。最終的には。
──Timeの楽曲、今聴いてもとても洗練されている感じがします。なので、皆さんすごく当時の洋楽とかを聴いてる人たちばかりだと思ってたんですが......。
古田 そうですよねぇ。
──でも、古田さんは全然そうじゃなかったと。
古田 全然違いますね。クラシックしか出来なかったですね、その時は。はっきり言ってコードも知らなかったですね。だから、Aマイナーだとか言われても、僕の中では「Aモル」って言わないとわかんない、みたいな。
──クラシックの用語に置き換えないと分からないと。
古田 そうです。
──その後、主に80年代に入ってから、大量の歌謡曲だったりアニメソングだったりを手がけられるようになっていくじゃないですか。それはどういうキッカケでそうなっていったんですか?
古田 それはですね、Timeってグループをやって、そのあと、「夢織人(ゆめおりびと)」っていうグループをやって、そのあたりから本格的に曲を書き始めましたね。その時もまた、僕は出るつもりなかったんですよ。男の子ふたり組の子が、原宿でデュオで歌ってて、その子たちがたまたま僕の曲を歌いたいって、それで会って。「じゃあどうぞ」って言って奨めてたら、二声じゃなくて三声のハーモニーにしたいって言って、そのグループって「ジェイ」って名前だったんですね。で、ジェイ+1で僕がファルセットで入ったんですよ。それでライブをやってたら、レコード会社にスカウトされちゃって......。
──デビューする気はなかったのに、と。
古田 僕は当然、抜ける気でしたから。僕は人前に出るのは嫌いなんで。もう、ものすごく苦手なんですよ。ラジオとかは大丈夫なんですけど、テレビとか雑誌の取材は一切ダメなんですよ。僕もう本当、表に出るのが苦手なんで。だからたぶん、「古田さんは今どこに?」とか言われちゃうんですよね。
──すいません。
古田 本当にもう、全然表に出ないので。で、その時もまた、ふたりじゃダメだっていうんで、むりやり3人目で契約したんですけどね。そのころはグループの曲は全部僕が書いてました。夢織人はアルバムも出てますよ。
──探してみます。
古田 その頃に結構、ポップスっていうのをたくさん書きましたね。
──それが70年代後半ですか?
古田 そうですね。EPIC・ソニーが出来たばかりの時です。すごく不思議なんですけど、ライムスターの人たちってKi/oon Musicですよね。そのKi/oon Musicの前の取締役が足立さんという人だったんですが、その人は僕が夢織人をやったときの宣伝マンだったんですよ。
──ほお。
古田 なんか、そうやってあちこち繋がっている感じがしますね。Ki/oon Musicの創始者が、丸山さんという有名な方なんですけど。この丸山さんが、EPIC・ソニーに来て製作部長かなんかに入って来た時のタレントが、夢織人だったんですよ。だから、結構ぐちゃぐちゃにつながってるんですよね。
■シュガーからRASH、そしてジョリー・ドッグへ■
──2008年に──本当に今思えば失礼な言い方ですけど──「知られざるアニソン作家・古田喜昭」という特集をさせて頂いたんですね。今日、聴き直していたら、本当に失礼な言い方ばかりしていて、本当にその節は失礼しました。
古田 いえいえいえ。なんか、知り合いからいきなりメールが来て、「古田さんのこと話してるけど」って。それでビックリして、どうしたら聞けるのって?って聞いたら、ネットに上がっていたんですね。
──ポッドキャストですね。
古田 そうですね。それを聞いて、「へぇぇ」って思って。
──僕がインターネットを中心に見ていたからかもしれないんですが、90年代以降からの古田さんの情報が本当に見つからなくて......。
古田 やめちゃいましたからね。
──インタビューって本当に受けられてこなかったんですか?
古田 あ、僕、ないですよ。もともとインタビューとか、ないですね。たぶん。
──オファーそのものが?
古田 いや、全部断っていたので。
──ええ~。
古田 いっさいメディアには出なかったので。雑誌にね、最初の時に2回くらい出たんですよ。その時に書かれるじゃないですか、自分の記事が。それから、ですね。そのふたつの雑誌とかをパッと見て、なぜか、「絶対やめよう!」って心に誓って、それからすべての取材は全部断ってくれって言ってたんですよね。
──それはいつ頃のお話なんですか。
古田 シュガーが出たあとですね。あと、アニメだとかいろんな仕事やりましたよね。いろんな取材とかがあったんですけど。
──じゃあ当時からインタビュー記事が少ないというのは......。
古田 受けてないからですね。
──どおりで......。
古田 雑誌に一つ、新聞に一回出ただけですね。そのふたつに出て、もう、これからは一切出ないっていう話にしてもらったんです。
──ということはつまり我々、今は相当貴重なことをさせて頂いてるわけですね。
古田 取り上げて頂いたりとかは結構あるんですけど、だけど自分では全然......。4年間か5年間、ラジオで月金の帯をやってたことがあるんですけど、それも友達がディレクターだったんで、「古田さん、ちょっとやってみない? 長野のネット局一局だけだから」って言うんで、それで始めたんですよ。けどそれが、言いたいこと言うもんですから、面白がられたのか、最終的に11局くらいのネットになっちゃって、これはマズイな、と思ってたところで、『セイ!ヤング』をやってみないかという話が来て、とんでもないっていうんで、もうこの活動はやめよう、と。本当に、収録でやってたんで、言いたいことが言えたんですね。
──例えばどういうことを言っていたんですか?
古田 僕は音楽業界にいたんだけど、音楽業界に対してまったくセンサーが向いてなかったんで。その当時、大ウケしたのが、山口百恵さんと松田聖子さんっていう人の違いがわからなくて......。
──ほお。
古田 僕はてっきり、松田聖子さんっていう人が結婚して、名前が変わって山口百恵さんになったのかと思ってたんですよ。
──そのレベルですか!
古田 そのレベルですよ。僕はいまだに家にテレビがないんで。昔からテレビとかまったく見ないんで、そういう情報がなくてやってたんですよ。だからアニメの曲なんかをやっても、自分で書いたテレビ番組ってほとんど見たことがないんです。
──そうですか。
古田 シュガーの「ウエディング・ベル」が当たった時も、放送局に行って、付き添いますよね。プロデューサーだから。一緒に行って、その場では聴くんですけど、テレビで見たことはないんです。
──では、音楽の仕事から徐々にフェードアウトしていったのは、いつ頃で、それはなぜなんですか?
古田 一回、アニメだとかをばーっとやって、ちょっと疲れて、1~2年休んだんですね。本当に休んじゃったんです。留守番電話にして、いっさい出ないようにして。誰とも会わないということで、一年間くらい。その間にひとりでロスに遊びに行ったりとかといろんなことをしていて、それで復活したときが、ヒップホップというか、そっち系のグループだったんですよ。
──それがRASHになるんですね。
古田 そうです。シュガーをやってたプロダクションから、ちょっと見てくれないかっていうことで、その時はじめてラップに出会って。で、ラップ自体には興味はなかったんですけど、ステージングが面白くて。へぇ、こんなのってあるんだ!と思って。バンドがなくても出来るとか、そういうシステムがすごく面白くて。それでそういうグループをプロデュースして、あちこちイベント出たりとかいろんなところに行って。RASHは最初ラップグループだったけど、そこからパフォーマンスグループに変化していって、ラップとパフォーマンス。当時のオールナイトフジにレギュラー出演まで持って行ったんですよ。ライブもすごくいっぱいになって。そのまま本当はRASHをプロデュースして売ろうってなってた、そのジャストのタイミングで、宮沢りえちゃんが現れちゃったんです。同じ事務所に。それで、担当を交代になっちゃったんです。僕が宮沢りえ担当になっちゃった。
──あ、そうだったんですか?
古田 ええ。宮沢りえちゃんのファーストアルバムは小室(哲哉)くんだったんですけど、セカンドアルバムは僕がロスのミュージシャンとか集めてやったんですよ。
──あ、そうだったんですか! すいません、全然存じ上げませんでした。
古田 そっちに移行しちゃったんで、RASHとの関わりがなくなっちゃったんですよね。本当はそのとき、ラップとパフォーマンスというのにすごく興味があったんで、やってみたいという気持ちはすごく強くて......。だけどねぇ、事務所のボスから移ってくれって言われたら、それは。
──古田さんはかつてアイドルいろいろやられてたわけだから、その流れでやれと言われたと。
古田 そうですね。ほとんどその前には仕事やめていて、RASHとかグループものをやりたくて、今度は自分の好きなものをやりたいなって思っていて、動いてたんですよね。そうしたら、たまたま同じ事務所で同じタイミングにりえちゃんが現れたんで。それでりえちゃんのボーカルレッスンをちょっとやってたんで。それで、だんだんラップとの距離が空いちゃったんですよね。
──そのあとのジョリー・ドッグというユニットがありますが......。
古田 そう、そうです。RASHをやりきれなくて、りえちゃんのプロジェクトが終わるころに......大体りえちゃんのプロジェクトに2年間くらいいたんですね。それが終わるころに、RASHのメンバーだった子がいたんだけど、その子と、当時の女性3人グループの女の子がいて、その中のひとりと、3人グループで、ジョリー・ドッグというのをやってみようかと。そのころですね、RASHのメンバー、シゲルだとかそういう人たちが、うちにレッスンに来てたんですよね。
(編註:シゲルさん=MC仁義、番組ではお馴染みアニソン/特撮DJの「GERU-C閣下」のこと)
──それはボーカルのトレーニングとか?
古田 そうですそうです。全部で10人超えてましたかね。その中のメンバーを3人くらいピックアップして、そのときもたまたま......コロムビアレコードかなにかで、企画もののアニメの話があったんですね。向こうのマンガで、ハンナ・バーベラの仕事が来たんです。それの日本語のバージョンを歌わないかって言うんで、それで彼女と、もうふたり。うちにレッスンに来ていただけなのに、打ち合わせの時に、プロデューサーの人が、「今回3人グループでやってみたいんだけど、古田さんどうですかね?」って言われて「ああ、3人グループね......いいグループ知ってるよ」って言っちゃったんですよね。
──ははは。
古田 でも、その時には全然グループじゃなかったんですよ。で、慌てて事務所に電話して、「3人グループって言っちゃったんですけど、どうしましょう?」って言ったら、「じゃあそのグループ組ませちゃえばいいんじゃない?」って事務所から言われたんで、それで強引にくっつけたグループなんです。
──そういうことだったんですね。
古田 打ち合わせの中から出てきたグループなんですよ。
──作詞作曲はすべて古田さんがやられていますよね。
古田 そうですね。宮沢りえの仕事の時に知り合った、ボビー・ワトソンっていう人がいて、その人のスタッフでやってみたいっていうことで。だから音はものすごく本格的で、クインシー・ジョーンズのスタッフとかが入ってたりするんですよ。ボビー・ワトソンは、ルーファスの元リーダーですね。
──めちゃくちゃクオリティ高いですよね。
古田 そうですね。ジョン・ロビンソンだとか、みんな手伝ってくれたんで。
──土岐麻子さんのお父さんの土岐英史さんがサックスを吹いていたり。宇多丸さんも、一曲くらい聴いたことあるかもって仰ってましたね、そういえば。
古田 たぶん、宇多丸さんやなんかがステージに出てるときに、僕ステージの横にいたと思うんですよね。
──うわぁ......。
古田 クラブチッタとか相当行ってたんで。『Watch Me』のたびに、僕が関係しているグループがふたつかみっつ、必ず出ていたんで、そのたんびに顔を出してたはずなんですよね。
──じゃあ宇多丸さんとすれ違っている可能性は非常に高いですね。
古田 たぶん。顔を知らないだけで、お互い同じ控え室にいたんじゃないかなと思うんですけど。
──古田さんが当時インタビューとかを受けていたら、ひょっとしたら宇多丸さんは気づいたかもしれないですね。
古田 そうでね。その時も僕は全部、RASHとかやってるとかそういうのも外には言ってなかったんで。
──本当に表に出るのを避けらっしゃったんですね。
古田 ダメですねえ。本当にダメですね。なんでなんだろうって自分でもいろいろ聞いてみるんだけど。まわりからも、出ろだとか、いろいろ言われて、今だったらFacebookやってくださいよとか言われるんだけど、ダメですねぇ。自分の素行に自信がないんですかね。ははは。人に見られるとマズイことばっかしてるんですかね。
──いやあ、なんと言いますか......。アニメソングに関しては、お仕事をしている時期がある期間に集中してらっしゃいますよね。
古田 そうですね。
──81年から86年くらいまでの時期に集中して仕事をされていて。で、僕らみたいなアラフォーの間では、すごく印象に残っている。古田さんのお仕事の数々って。その後の音楽の趣味の土台になっている人っていっぱいいると思うんですね。ところが、その後に活動自体がほとんどなくなってしまうので、若い世代だったり、あるいはちょっと上の世代だったりすると、古田さんの名前すら知らないという人も結構多くて。僕とフクタケさんからすると、それがすごくもどかしいんですね。だから隙あらば古田さんのことを紹介したいとずっと思っていたんです。
古田 そうですね......アニメをやりきったあたりで、一回終わってるんですよ。で、休憩に入って、次は本当にやりたいことをと思って、RASHをやって。ダンスとボーカルというグループをやりたかったので、結構強引でしたね。どうしても自分でやりたい、今までは「こういうのを書いてくれませんか」っていうのを受けてやってきて、一回だけ自分の「こういうものをつくりたい」というものをつくってみたいなっていうのが。だから全部向こうのミュージシャンで、こんだけの音源でこういうことやってみたい、と思って形にしたのが、ジョリー・ドッグでしたね。だからレコーディングがものすごく楽しかった。もう、エキサイティングでしたね。
──でも、ジョリー・ドッグとしてはアルバム一枚だけで終わってしまうんですよね。
古田 そうです。本人たちも、とにかくアルバム一枚つくってみたいっていうのがあって、結構その時12チャンネルの何とかっていう番組のエンディングテーマになってたんで、結構流れてたんですよね。
──CMソングにも使われてましたもんね。
古田 あ、そうですね。だからそのへんで結構動いたんだけど、本人たちは最高クラスのレコーディングをやったじゃないですか。向こうで。ものすごい人たちが来て、だから結構満足しちゃった、みたいなのがあるみたいで。本人の中で満足感が走っちゃうと、音楽って続けられないんですよね。だから、リードボーカルやってたRicoが、モチベーションが落ちちゃったっていうのが一番の理由です。
──そうだったんですか。
古田 僕はもっとやりたかったんですけど。だけど、もう結構満足しちゃって。向こうですごい演奏だとかを一緒に聴いてやったんで。で、それが夢だったみたいな。自分でも意外だったみたいですけどね。「自分にはもっと欲があると思ったんですけど、いざやってみたら、すごい環境の中ですごい音で聴いたら、本当に身体の中に満足感が走っちゃうってこういう事なんだ」って。自分でもビックリしてましたね。「そうすると、本当にこれ以上のことやりたくないって思っちゃうんだよね」って、しみじみと言われたときには、ガッカリきちゃって。「え、終わり!?」って。僕の中では次の曲まで考えてあってスタンバイしてたんですけど、本人が「ちょっとテンション上がんないだけど」って言うから、アチャ~って。
──で、これを境に古田さんはポップスのグループというのを......。
古田 やめました(あっさり)。というか、音楽から離れちゃいましたね、完全に。
■漫画家志望からイラストレーター志望へ■
──そこは、きれいさっぱりと?
古田 というか、感覚的に、マルチなんですよね。イラスト描いてみたり、アニメも描くんで。マンガ描いたりも好きだったんで。僕は中学生の三年生から高校生にかけては、漫画家志望だったんで。本当に漫画家志望でした。ちばてつやさんのところに2回くらい、行ってお会いしてます。
──本当ですか?
古田 ええ。ちばてつやさんのところに54ページくらいの短編を2回くらい持って行っています。そのくらいちゃんときちんと漫画家志望だったんです。で、高校卒業したらうちのアシスタントにならないかってちばさんに言われてて、で、アシスタントになるはずだったんですけど、高校卒業するときに、あの......そのときたまたまイラストをやってたのが、売れちゃったんですよ。
──売れちゃった、というのは?
古田 売れちゃったっていうのは、僕喫茶店に自分のイラストを飾って、それで月極でお金を頂いていたんですね。
──それ、高校生のころでですか?
古田 はい。だから絵の方が本格的ではあったんです。一応お小遣いにはなってましたから。で、そこのお店に、たまたまセツ・モードセミナーの長沢節さんがお見えになって、「この絵、誰が描いたの?」って言って、僕はその時カウンターの中で前掛けしてお皿を洗ってたんですよ。で、前掛け外して「ボクですけど」って言ったら、「キミ、やってみない?」って言われて──ホントですよこれ?──で、「何をですか?」「絵、やってみない?」って言うから、「絵、やってますけど」って言ったら、節さんが名刺に裏書きしてくれて、「ここに君の絵を持って行きなさい」って言われたんですよ。
──すごい......。
古田 で、「何だろう?」と思って、2、3枚抱えて原宿まで行ったんですよ。そこの事務所に持って行ったら、一枚パッととって、「これ頂いてよろしいですか?」って言われて。「何の話ですか?」って。全然分からなくて。「このデザインに使いたいんですけど」「えっ? 何に使うんですか?」って聞いたら、くずかご? 高級なくずかごにイラストって描いてあったりしますよね。あれに使いたいんで、許可を頂けますかって。で、僕なんか超貧乏学生ですから、売れるんだったら何でも売っちゃおうと思うじゃないですか。
──ははは。
古田 だから「いいですよ」って。「じゃあ新人なので、このギャラで」って封筒に入れて渡されたんです。その場で。で、失礼じゃないですか。その場で開けるの。僕、そういうことも全然わからなかったんで。で、その封筒を持って、原宿の駅に向かって、東郷神社でしたっけ、そこに余ったパネルを抱えながら入って、途中でそうっと中を開いてみたんですよ。そうしたら中に1万円入ってたんですよ。その当時って、大学生のお給料って3万円くらいだったんですよ。1万円なんか見たことなかったんで、それでビックリして、「あ、オレは漫画やめてイラストレーターになる」って......。
──なるほど!
古田 その一枚で。そこからイラストを一生懸命に描き始めて、そうしたらその頃、『平凡パンチ』っていう雑誌があったんですけど、そこの新人賞にノミネートするっていう話になって、で、ヤバイ、と。これは名前が出ちゃう、っていうんで、それをお断りして。僕は静かに、地味にやってるのが好きなんで。
──表に出るのがその頃からイヤだったんですね。
古田 すごく嫌ですね。普段から写真撮影には一切参加しないし。......だからマルチなんですよ。いろんなことやってきてる。ただ、全部、一生このまんまモノをつくって終わっちゃうんですよ。
──じゃあそれがかつては音楽だったのが、今はそれがデザインだったりビジュアルだったりするだけで、ご本人の中では......。
古田 全然変わってないですね。だから、音楽時代、みたいな感じですね。そう言えばこんなこともやってたなー、みたいな。だからYouTubeとかで自分の書いた曲を聴いたりして、大笑いとかしてますよ。「こういう曲書いたんだ~」って。
──今でもものすごく人気があって、年に1、2曲は誰かがカバーしてたりしますよね。
古田 そうですねぇ。して下さってますねぇ。
──そういう情報は当然ご存じですよね。
古田 レコード会社とか音楽出版社からご連絡頂くので、「へぇ」って思って。リメイクだとかを聴くと、すごく嬉しいですけどね。「こんな感じで出来るんだ」って思って。すんごく面白いですね。
──オリジナルのバージョンも今でもとっても人気があって、DJでかけるという人は結構多いと思います。
古田 以前、中川翔子さんっていう方いらっしゃいますよね、その方が、一番好きなのは『クリィミーマミ』の曲で、あと『悪魔くん』の「12FRIENDS」が好きなんだって仰ってくれて、その時に「古田って誰なんだ?」っていう声があったとは聞きましたね。
──当時、それを受けて話を聞きたいという人はいなかったんですか?
古田 僕が昔関わっていた事務所なんかにはそういう話が来てたみたいです。でも、僕が取材を受けないっていうのはみんな知ってるんで、その場で全部断ってくれていたみたいです。
──そうだったんですね......いや、今回は本当にありがとうございます。
古田 いえ。今回、連絡を頂いて、事務所の人間に話したら、「もうそれは観念した方がいい」って言われまして。「古田さん、これはもう出たほうがいいよ」って言われてんで、じゃあラジオだし顔も出ないからいいかっていうことで。
──ありがとうございます。
古田 あと、うちのですね、クリエイターの坊やが、番組のファンなんですよ。
──それは嬉しいです。
古田 その子が、「こういう話が来てるんだ」って言ったら、一番最初に反応して、「え!? 嘘でしょ!? 僕その番組聞いてますよ!」とか言って。「出て下さいよ~!」って。
──やっててよかったです。
古田 すごくファンだったみたいですよ。
■「ときめきトゥナイト」誕生秘話■
──ではちょっと、ずいぶん昔の話を伺いたいんですけど、僕らがとっても好きな曲が『ときめきトゥナイト』の「ときめきトゥナイト」なんですね。
古田 はいはい。
──いまだにカバーもされていますし......。
古田 僕が一番最初にやったアニメの仕事ですね。
──え、そうなんですか?
古田 そうですね。アニメの仕事をまだ全然やったことがないときに、日本テレビの方からいきなりお電話いただきまして。何の用事かなと思って行ったら、アニメの仕事だったんですね。
──初めてですか。
古田 これが初仕事です。
──この曲が今聞いても、曲であったり歌詞であったり、アレンジも含めて、本当によく出来ていると思うんですね。この曲は当時、どういう曲をつくろうと思ってつくられたんですか?
古田 これがですね、すごく珍しいパターンで、日本テレビの方から連絡があって、お会いしたんですね。そうしたら、実はアニメの曲を欲しいんだって言うことで。で、一切注文しないっていうんですよ。古田さんの思った曲を書いてもらいたいって言われたんですね。そういうのって、ないじゃないですか? それまでいろいろ仕事をしてても、必ずプロダクションの意向だとかレコード会社の意向だとか。その時は女の方のプロデューサーで、ものすごくテキパキした方で、それで僕は思ったとおりの曲を書いちゃったんです。
──具体的には、何からインスピレーションを受けてこうなったんですか?
古田 最初にコンテをもらうじゃないですか。で、なんとなくストーリーだとかを読んで、あ、だったらこういうのが面白いかなぁと思って、かなり気楽に書いたんですね。
──最初からラテン調のリズムで?
古田 そうですね。デモテープの時からラテンにしてましたね。
──歌詞も最初から?
古田 そうですね。だからもう、ほとんど指定なしで、思うがままにつくちゃった曲なんですよね。楽しかったですねえ。で、これも『ときめきトゥナイト』をやって、ハマッてしまったんですね。
──アニメの歌をつくるのに?
古田 うん。自分の曲に、アニメーションがつくじゃないですか。それが、僕がちょうど高校の頃に漫画家を目指してたっていうのと、結びついちゃったんですよ。音楽でアニメと関係できるんだ!っていうところが。自分の音楽が流れて、そこにアニメが流れてるっていうのは、他の人よりも全然違うんですよ。自分で絵を描いていたから。
──その歓びが全然違うんだと。
古田 も~~、楽しくて楽しくて!! それでちょっと味を占めちゃって、それでアイドルの方とかいろんな曲をかかなきゃいけなかったんだけど、アニメの方に走っちゃったんですよ。
──あははは。
古田 これ、本当単純、これだけなんですよ、理由。自分の曲にアニメがつくっていうのが、自分が漫画家になりたかったっていうのと結びついて、もう、なんて言うんですかね、異常に心地良かったんですよ。
──うわあ......。
(編註:『ときめきトゥナイト』のオープニング映像を手がけたのは、『銀河鉄道の夜』『あらしのよるに』『グスコーブドリの伝記』で知られる演出家の杉井ギザブロー)
古田 それでもう、ハマって。怒られましたよ、周りのスタッフから。
──それはなぜ?
古田 要するに、みんなヒットソングを書いて欲しいって。だけど僕、すぐアニメの仕事やっちゃうじゃないですか。次はどんな絵がつくのかな?っていうのが楽しみで。『クリィミーマミ』の時なんていうのは、「古田さんが曲を書いて下さい、あとから絵をつくります」って言われたんで。だから曲のタイトルも向こうから頂いたんじゃなくて、僕がつくったタイトルに対して、絵を付けてくれたんです。だからもう、幸せいっぱいですよね。
──その『マミ』もそうですけど、女の子向けの作品が多いですよね。女の子向けの作品に関わるのがお好きだったんですか?
古田 それがね、好きだとか嫌いだとかっていうんじゃなくて、たまたま来るタレントさんが女性だったのが多かったのと、女性用の詞の方がクオリティが高くなるんです、なぜか。
──聴き手としてのこちらの印象もまさにそうです。
古田 僕はね、詞に関しては......家族からものすごく非難囂々で。というのも、僕生まれてから一回も本って読んだことないんですよ。
──えっ?
古田 完走できないんですよ、全然。本で読むのは百科事典だけなんですよね。
──百科事典だけ......。
古田 小説だとか普通の本だとか、あと雑誌も読めないんですよ、僕。活字が苦手で。なんで作詞やってんのかよくわかんなかったんですけど。
──いやあ......そうなんですか。
古田 そうなんですね。だから、たぶん詞のベースがないんで、斬新だったんじゃないかなあって自分で思うんですけど。
──とても斬新ですよね。
古田 僕普通の人から比べれば圧倒的に......たぶん生涯で一冊くらいしか読んだことないんじゃないかな。活字は見ないですよね。僕自身は、詞を書いているというよりも、「曲を書いている」という感じなんですね。曲を書いている感じで詞を書いているんで、だから作詞家って言われて、作詞家なんですけど、結構恥ずかしいですよね。だけど詞の評価の方がどんどん上がっていっちゃったんで、だから作詞だけの依頼とか結構来て、「作詞だけの依頼は辛いなあ」とか思って。
──作詞だけのお仕事ってありますか?
古田 いや、一回しかやらなかったと思うんです。一回、なんの仕事かは忘れましたけど。
──作曲だけというケースはいくつかありますよね。
古田 そうですね。あと、発注される時に、「古田さんの詞が好きで、でも当然曲も書いて下さいね」っていうのは結構あったんですよ。詩の世界が好きだって言う方が結構多かったですね。
──他の人が書けそうな詞ではなかったからでしょうね。ちなみに、テレビの『ときめきトゥナイト』だと、実際には2番の歌詞が使われていますよね。
古田 はいはいはい。
──あれってどういう理由だかお分かりになりますか?
古田 いや、それはたぶん、向こうの方がそういうふうに決めたっていうだけの理由だと思うんですけどね。たぶんそのほうがアニメにしやすかったっていうことなんじゃないかと思います。これも確か、曲にアニメを合わせようってやってくれたはずですから。
──そんな感じですよね。
古田 僕は自分の関わった仕事を見ることはほとんどないんですけど、『ときめきトゥナイト』は初めての仕事だったんで、結構何回か見ましたね。
──エンディング(「Super Love Lotion」)も、これはこれでとても印象的な曲と映像ですよね。これもセットで発注されたんですか?
古田 そうです。で、どっちがいいかな、みたいな感じだったんだけど、結局「ときめきトゥナイト」ってタイトルが付いてたんで(そちらがOPになった)。B面の曲も結構気に入って頂いたんですけど。はい。
──こちらの映像も素晴らしいですよね。
古田 ええ。面白かったですね。
──あと、『OKAWARI-BOY スターザンS』の曲(「SHOW ME YOUR SPACE~君の宇宙を見せて~」)、が僕は本当に大好きで。
古田 この頃、異常にアニメをやってましたからね。夜7時台で流れない日はないってくらい、どっかしらのチャンネルでやってたので、何らかで絡んでましたね。このスターザンSは、これ、ポプラが歌ってるやつですよね?
──そうです。
古田 これは、すごく......ポプラって初めて会ったんですよ、この仕事のとき。まあ、あまりにも歌が上手いんで、なんていうんですかね。ミュージシャン魂の中でバトルになったっていうか、ポプラっていう方は、今はちょっと変わっちゃったんですけど、ヨドバシカメラのCMの一番最初のやつを歌ってたのがポプラなんですよ。すごい歌唱力で、レコード会社に紹介して頂いて、で、すごいねってことで、僕が曲を書いて。その時はじめてお会いしたんですよ。そうしたら、もっっのすごく歌が上手くて。で、スタジオに入って、「SHOW ME YOUR SPACE」を歌い始めたんですね。そうしたら、あまりにも上手くて今まで一回もクレームがついたことがないんですよ。どこを歌い直せっていうのが。僕が、初めて彼女の歌にクレームを付けた人になって。「ここちょっと歌い直してくれます?」とか。「ここちょっと繋ぎたい」とか。それが彼女に対してはものすごく、初めての経験だったんで、最初はムッとしてたみたいですけど。「どこが悪いの?」みたいな。でも出来上がりが素晴らしかったので、それからしばらくポプラとはいろいろ話したりだとか、いろいろやってましたけど。彼女のアルバムを作りたいなって思って、動いたりだとかしてたんですけど。
──この曲は本当に素晴らしいと思います。
古田 いや、でもこの曲は歌がすごいですよ。歌がすごいです。本当にこのポプラっていうのは、すごい。
■古田音楽の源泉とは■
──この曲はディスコ調ですけど、「ときめきトゥナイト」はラテン調だったりとか、全体的にダンスミュージックの要素が色濃くて、なおかつアレンジが都会的と言いますか、そういったところが古田さんの音楽の特徴だと思ってるんです。だから僕はてっきりポップス・マニアで、昔から洋楽を聴いていたような方だと思っていたんです。でも、全然そういうことではなかったんですね。
古田 僕は変な子どもだったんで、高校時代はジャズしか聴いてなかったですね。それも相当前衛なモダンジャズ。リズムがないような。18歳とか19歳の頃に興味があったのは現代音楽で、目黒の近衛音楽研究所っていうところがあって、そこは芸大に入った人でも入れないくらいの研究所なんですけど、そういうところに先生がいて、そこにちゃんと和声学だとかを習いにずっと行ってたんで。
──ポップスを仕事として始めるにあたって、そこから当時のポップスを聴き始めたっていうことなんですか?
古田 いや、興味がなかったんで、聴く必要がなくって。だから皆さんが、高校生の頃にビートルズだとかいろいろ騒いでたところも、全然ビートルズとかもよく知らないし、うん。
──じゃあ、これまで手がけられた音楽の中でもさまざまなジャンルがありますけど、特に、あんな感じにやってみよう、ということではないんですか。
古田 まったくないですね。......強いて言えば、高校生の時、結構遊んでて、ダンスがものすごく好きだったんで。毎週2回くらい、夜な夜な出かけていってたんです。あんまり褒められるような行動してなかったんで。その時の2年間か3年間ぐらいが結構ベースになってるのかもしれないですね。その時は思いっきり踊ったりしてたんで。
──じゃあやっぱりダンスミュージックなんですね。
古田 ダンスはもともと好きなんですよね。その頃はよく、赤坂のムゲンが日本のディスコの第一号だって言われてますけど、僕たちその前に中川三郎スタジオっていうのが恵比寿にあって、そこの第二期会員かなんかだったんですよ、僕。
──ダンススクールの中川三郎さんですか?
古田 ダンススクールって名乗ってたんですけど、中はディスコだったんですよ。
──ディスコティックもやられてて、そこに出入りされていた、と。
古田 そこにはだから、もちろん身分証明が必要だったんですけど、なんて言うんですかね、フェイクのアレで入って。だいたい横須賀の基地の方だとか、半分くらい外国の方でしたね。その当時。その人たちと、ダンスでバトルやるのが好きで。
──ははは! そうですか。
古田 向こうがしかけてくるんですよね。ブラックの人たちとかが結構。で、最初のうちだけですね。負けてたのは。あとはもうほとんどバトル勝ってたんで。だから高校3年くらいのときは──その頃ダンスパーティーって「ダンパ」って呼んでたんですけど──ほとんどダンパは顔パスでしたね。
──めちゃめちゃ遊び人じゃないですか1
古田 いや、遊び人っていうんですかね。ものすごくダンス好きだったんですよ。その頃、大橋巨泉さんがやっていた『ビートボップス』っていう番組があったんですよね。これ、そのころものすごく有名だったんですけど、そのときに台の上で踊るのがだいたいプロの女の人だったんですよ。
──ゴーゴーガールみたいな。
古田 そうそうそう! で、そのときに、ちゃんと踊れる人間が欲しいっていうんで、高校の時にアルバイトでエキストラで番組に呼ばれて。すごいいいギャラだったんで。で、そのころそんなことをしているのは不良って呼ばれてたんで、テレビに映ると退学になっちゃうんですよ。だからカメラのランプが点きそうになるとパーッとターンするんですよ。顔を隠すために。友達と3人で出てて、帰りにギャランティもらって。2回くらい出ましたかね。
──お話を伺っていると、とにかく東京のイケてる男の子って感じがしますね。
古田 あの頃はダンスで負けるっていうことはなかったですねえ。
──古田さんの作品の根っこの部分には、そういう時代に得たダンスミュージックの影響が......。
古田 そうですね。もともと小さい頃からリズムは好きだったんですよね。何かにつけて踊ってたって言ってましたから、親が。あとラテンは基本的に好きだったですね。
──ラテンのテイストの曲が多いですよね。アニメソングに限らず。
古田 ラテンは本当に肌に合ってたというか。すごく好きですね。普通の16ビートやなんかも全部ラテンになってっちゃうんですよね。
──どういう形でラテンの音楽とはふれあっていたんですか?
古田 あのね、友達でサンバを演奏するグループなんかがいて、そういうグループのライブを見に行ったりだとか、そういうのをしていた時に、もともと自分のつくっているリズムっていうのがラテンなんだなっていうことに気がついてですね。だからどんどんラテンの方に。面白かったですね、やっぱり。聴いてても好きですよ。
──根っこにラテン的な感覚がある?
古田 かなりありますね。だって僕、個人的に聴くのはボッサとか大好きですもん。サンバはちょっと派手なんであれなんですけど、観賞用にはボッサとかをよく聴いてます。今でもデザインの仕事してるんですけど、だいたい向こうのFMでボッサのチャンネルとかをかけっぱなしで仕事してますから。
──古田さんのつくられる作品のベースがちょっとずつ分かってきた気がします。それでは最後に当時のファン、そして今のファンにひと言頂けないでしょうか。
古田 ただひたすら感謝ですね。インターネットとか見てて、いまだに僕の曲を歌って頂いたりだとか、そういうのを僕も楽しみに聴いているので。本当に感謝しています。
──分かりました。インタビューは以上で結構です。ありがとうございました!
古田 (フクタケ氏が持参した7インチレコードを見つめながら)本当に貴重なものを見せて頂いて......本当に素晴らしいです。うちにほとんど残ってないですから。
──(フクタケ)80年代のアニメのいい曲を探していくと、結局古田さんのレコードが見つかる、という感じで、いつの間にか揃ってた感じなんですよね。
古田 いやあ、それは嬉しいです。
(了)
■追記■
音楽プロデューサーから企業プロデューサーに変身した古田さんが現在、どんな仕事をされているのか。最後にひとつだけ紹介しておこうと思います。
ちょっと前にネットで話題になった「ザクとうふ」。ご存知の人も多いですよね?
古田さんは今、あの製造メーカーである相模屋さんのアドバイザーもしているそうです......へぇぇぇ!!
■謝辞■
最後になりますが、多忙を極める中、貴重なインタビュー時間を割いて下さった古田喜昭さんに厚く御礼申し上げます。また、取材に協力して頂いた関係各社の皆さんにも。
そしてフクタケさんには資料協力の他、古田楽曲の7インチレコードをインタビュー現場に持ち込んで頂き、空気を和ませるのにも一役買って頂きました。本当にありがとうございました。
この記事の付録として、今回のインタビューに当たって我々が作成したディスコグラフィーを掲載しておきます。あくまで暫定版なので(しかもアニソン中心でアイドル歌謡の情報が手薄)、更なる情報をお持ちの方はこちらまで連絡を頂けると嬉しいです。
さらには、いずれ古田さんのアニソン・コンピなんかも出せればいいんですがねぇ......レコード会社の人、連絡お待ちしてますよ!
古田喜昭ディスコグラフィー(暫定版)
【アニソン・児童向け】
●詩織「メゲメゲルンバ」作曲(NHKみんなのうた)1981年
●加茂晴美「ときめきトゥナイト」(『ときめきトゥナイト』オープニングテーマ)
作詞、作曲 1981年
●加茂晴美「super love lotion」(『ときめきトゥナイト』エンディングテーマ)
作詞、作曲
●三輪勝恵「きてよパーマン」(『パーマン』オープニングテーマ)
作曲 1983年
●古田喜昭「パーマンはそこにいる」(『パーマン』エンディングテーマ)
作曲、歌唱 1983年
●増山江威子「ご機嫌伺いLOVE」(『パーマン』挿入歌)
作詞、作曲
●増山江威子「雨のSweet Magic」(『パーマン』挿入歌)
作曲
●菊地恵子「パーマン音頭」(『パーマン』から)
作曲
●三輪勝恵「パーマンえかきうた」(『パーマン』から)
作曲
●「悲しきコピーロボット」(『パーマン』から)
作曲・歌
●田中真弓「いただきマンボ」(『イタダキマン』オープニングテーマ)
作曲 1983年
●太田貴子「デリケートに好きして」
(『魔法の天使クリィミーマミ』オープニングテーマ)
作詞、作曲 1983年
●太田貴子「パジャマのままで」
(『魔法の天使クリィミーマミ』エンディングテーマ)
作詞、作曲 1983年
●WELCOME「地球にI LOVE YOU」
(『特装機兵ドルバック』オープニングテーマ)
作詞、作曲 1983年
●山野さと子「とんがり帽子のメモル」
(『とんがり帽子のメモル』オープニングテーマ)
作曲 1984年
●ポプラ「SHOW ME YOUR SPACE~君の宇宙を見せて~」
(『OKAWARI-BOY スターザンS』オープニングテーマ)
作詞、作曲 1984年
●アイ高野「恋する気持ちはドーナツの中」
(『OKAWARI-BOY スターザンS』オープニングテーマ)
作詞、作曲 1984年
●最終回ED「サルサ パラトピア」
(作詞:古田喜昭 作曲:古田喜昭 編曲:石田かつのり
歌:アイ高野、かおりくみこ、コーラス:Shines)
●MiMa「おしゃれめさるな」
(『魔法の妖精ペルシャ』オープニングテーマ)
作曲 1984年or1985年
●小林直子・小林明子「ライバル360度~恋愛発展可能性0~」
(『は~い ステップジュン』エンディングテーマ)
作詞、作曲 1985年
●つかせのりこ・西原久美子「たいへん!ロックンロール」
(『は~い ステップジュン』から)
作曲 1985年
●山本百合子「ハート・ロボット物語(ストーリー)」
(『は~い ステップジュン』から)
作曲 1985年
●ワッフル「コンポラキッド」(『コンポラキッド』オープニングテーマ)
作詞、作曲 1985年
●ワッフル「未来学園TORAD」(『コンポラキッド』エンディングテーマ)
作詞、作曲 1985年
●紳助&バスガス爆発楽団「ニャロメのROCK」
(『もーれつア太郎』エンディングテーマ)
作曲 1990年
●Y.F. ZOMBIE COMPANY 「12FRIENDS」
(『悪魔くん』エンディングテーマ)
1989年 作曲
【テクノ歌謡】
●石丸奈津「私はロボット」作詞、作曲 EP:85.11.21
●江戸真樹「右あがりの初恋」作曲 EP:87.9.29
【その他】
●タイム「82才のおじいさん」作詞、作曲 ※古田嘉昭表記 1973年
●タイム「熱い涙」作詞、作曲 ※古田嘉昭表記 1975年
●シュガー「ウエディング・ベル」1981年
●シュガー「私にほリカ人」作詞、作曲
●シュガー「アバンチュールはルックスしだい」作詞、作曲
●シュガー「ウェディングベルⅡ~ウェディングベル・その後~」 作曲
●シュガー「アバンチュールはルックスしだいⅡ
~アバンチュールはルックスしだい・その後~」作詞、作曲
●シュガー「春・花ざかり」
●シュガー「涙色キャンディー」
●シュガー「ふられbaby」
●シュガー「Misty Night」
●八木美代子「男と女のWALTZ」作詞・作曲 1982年
●八木美代子「つまんない」作詞・作曲
●かまやつひろし「なんとなくソクラテス」
(テレビドラマ『アイコ十六歳』主題歌)作詞、作曲 1982年
●三田寛子「死ぬまで笑ってて・・」(作詞、作曲) 1985年
●憂歌団「YOU ARE MY ANGEL」作詞、作曲 1986年
●畑中葉子「丸の内ストーリー」作曲 1982年
●森尾由美「口唇緊張あと5cm」1983年
●森尾由美「ごめんなさい 愛してる」1983年
●セイントフォー「ハイッ! 先生」作詞、作曲 1985年
●三浦洋一「ギヤを入れろよ」作曲 1982年
●Jolly Dog「DAISUKI!!」(ヴィクトリアCMソング)
作詞、作曲 1996年