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創価学会の本尊の件

もっと早いうちに書きたかったのですが、今頃になってすみません。

まず大前提ですが、2014年の会則改正に際しての「私見」になります。学会の公式見解ではありません。

また特段「秘儀」とかがあるわけではありませんし、これまで当ブログで数人の方との対話で述べたことの繰り返しにもなります。

言いたいことは、基本的なこと、つまり「大聖人の本義」に戻りましょう、ということで途中の人師等の論ももちろん大事な観点ではありますが、あくまでも大聖人、日興上人の時代に還るということですので、よろしくお願いします。

なお、2014年11月8日付聖教新聞に掲載された原田会長の指導、また2015年1月29日30日の教学部補足を中心に論じております。


では参りましょう。

まず確認ですが「三大秘法」とは「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」になります。そのうえで、3つとも非常に大事な法門ではありますが、一つでも欠けてしまえば「三大秘法」が成り立たない、という点を強調しておきます。

そして、2014年改正で、これまで「本門の本尊とは?」という点だけで他宗とも議論していたが、これからはそうではなく、あくまでも「三大秘法が成り立つのか否か?」に論点をシフトした、というのが大きなポイントだと思います。


★ 本門の本尊について

大聖人は御書の中で「本門の本尊とは具体的にこれである」とは申してませんので、後世の弟子等が決めていくべきものです。創価学会も過去には当時の日蓮正宗(現在の日蓮正宗とは違う)の教義に従って本門の本尊を決めていた時もありました。

ですが2014年改正において、下記のように定めました。

>末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものであり、等しく「本門の本尊」であります。

つまり、大石寺にあるいわゆる大御本尊も、日蓮正宗の御歴代法主が書写された御本尊も等しく「本門の本尊」になります。さらに現在、身延や池上等にある大聖人御真筆の御本尊も「本門の本尊」になります。当然ですが、創価学会が現在授与している日寛上人書写の御本尊も「本門の本尊」です。(カラーコピーであっても)

また「仮に、学会ではなく、個人が勝手に御本尊をカラーコピーした御本尊はどうなのか?」と問われれば「本門の本尊」になる、と答えます。ただし三大秘法は成り立ちません。(理由は後程)

また「以前、創価学会に授与されていた日顕法主が書写した御本尊」も「本門の本尊」です。でも同じく三大秘法は成り立ちません。

問題になるのが「法主による開眼」ですが、御書にはそのような義はありませんので邪義とみなします。

また大御本尊とつながらないと御本尊にはならない、なんて論は、日達上人以前の正しい信仰観をお持ちの法主の時代には成り立ったのかも知れませんが、現在では無理でしょう(反論があればコメントください)

以上が「本門の本尊」の解説になります。

「本門の題目」「本門の戒壇」については、「本門の本尊」に唱える題目と「本門の本尊」を御安置する場所になりますが、これについては次の「三大秘法」の中で提示いたします。


★三大秘法について

簡単に言えば、、、

御本尊を心から信じて、実際に御本尊の前に座って、「南無妙法蓮華経」と声を出して唱える行為

これが大聖人が示された「三大秘法」になります。
もちろん声が出ない時とかそういう方は心の中での唱題でも可です。

秘法という響きからか「難しい何らかの秘密」的な解釈が昔からありますが、究極は、朝に夕に勤行唱題を実践することに他なりません。


そのうえで、たとえ「本門の本尊」があっても「本当に願いが叶うのか?」みたいに、信じる心が無ければ三大秘法が成り立たないのは道理でしょう。

また「本門の本尊」を御安置する「本門の戒壇」があっても「題目なんて唱えないよ」という人にはやはり三大秘法が成り立ちませんし、「本門の本尊」があって「本門の題目」をあげたい気持ちはあっても、実際に御安置する場所がなければ題目はあがりませんので、やはり「三大秘法」が成り立ちません。


つまり、いくら「本尊」があったとしても「題目」や「戒壇」がアウトならば、三大秘法が成り立たないので、まったく意味がないのです。

その意味で、創価学会員としては、身延にある「本門の本尊」に参拝することは与同罪にあたりますので、実際に「本門の題目」をあげることができません。同様の理由で、現在(創価学会から見れば)邪宗である現在の日蓮正宗(便宜上、日顕宗と呼びます)にある「大御本尊」も、現在大石寺に参拝しに行くのは与同罪に当たりますので、事実のうえで「本門の題目」をあげることができません。

このことを2014年改正の原田会長の指導では、

>創価学会は、大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために、宗門と僧俗和合し、弘安2年の御本尊を信受してきました。

>しかし(中略)大石寺はすでに大謗法の地とかし、世界広宣流布を目指す創価学会とは全く無関係の存在となったのであります。

>したがって、会則の協議事項に言う「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。

と、表現されたと理解しております。


つまり「大御本尊」はこれまでの解釈同様に「本門の本尊」ではありますが、実際に「本門の題目」をあげることが出来ないので「三大秘法」が成り立たない。よって「受持の対象」にはしない、という極々当然の対応だと私は思っております。


★和合僧について

先程「個人が勝手に御本尊をカラーコピーした御本尊はどうなのか?」との疑義に対して「本門の本尊」であると答えました。確かに理論的には「本門の本尊」にはなりますが、三大秘法は成り立たないとも書きました。

なぜなら、仏法は一人で実践するものではなく「和合僧」という大事な観点があるからです。

その意味で、創価学会員である以上は創価学会の定めるルールに従うのは必須であり、勝手な解釈は認められません。組織のルールを守る、というのは創価だけでなく日蓮正宗もそうでしょうし、宗教に限らずどんな組織でも守るべきことだと思いますが、それはともかく、和合僧も守れない方(個人の勝手な解釈なままにカラーコピーする)が、題目を唱えてもやはりそこには「信」が欠けていると言わざると得ません。

よって「三大秘法」は成り立たない。こういう解釈になります。


かつて授与されていた「日顕法主書写の御本尊」も「本門の本尊」ではありますが、実際に題目を唱える時に「学会を破門した法主だよな」「そんな方の御本尊に祈ってもいいのか?」などと雑念が生じるのが通常の感覚です。

仮に、身延の御本尊を拝するとした場合でも「大聖人に違背した五老僧の流れを組む寺だよな?」なんて考えが必然的に起こり、到底心ゆくまでの題目なぞ無理な話です。よって「本門の題目」とはならず三大秘法が成り立たない、という理屈です。

>「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり

と会則で定められている以上、創価学会が「個人でカラーコピーしたものも許可する」なんて定めない限りは、これまで学会が授与してきた御本尊以外は受持の対象にはならないのは明白です。


★大御本尊について

個人的には「大御本尊」は、日蓮大聖人の直筆であると思いたいですが、色々な疑義があり、そうではない可能性も高いです。でも、それでも「本門の本尊」には変わりません。(受持の対象にはしませんが)

それはおきますが「大御本尊」中心主義とでも言いますか、現在の日蓮正宗(日顕宗)の方々は、理論的には非常に脆弱だと考えます。というのも、もし「大御本尊」が何らかの理由で現在の状況(大石寺に御安置)ではなくなった場合、一気にこれまでの根拠が崩れるからです。

以前、身延に強奪云々と書いた時に「仮定の質問には答えられない」「意味がない質問」といった批判がありましたが、逆を言えばそのような仮定にも答えられない極めて理論武装がなってない脆弱な根拠の元に成り立っている、危うい信仰観と言わざるを得ません。

また「鎌倉時代に本当に金箔に出来たのか?」「寸法の問題」等々の疑義が、万が一立証された場合、ここまで築き上げた拠り所が一気になくなるわけで、果たしてどういう対応をするのか? 僭越ながら非常に心配になってしまいます。

以上になります。

なかなかうまく書けませんでしたが、これ以上長くしても読みづらいので、もし反論などありましたらコメントください。


2019/1/3追記しました。
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コメント

もっと読解力を身につけましょう

明けましておめでとうございます!
今年も地道にブログを頑張りますのでどうぞよろしくお願いします。

さっそくですが、創価学会の本尊論について大きな勘違い、いや知識不足を露呈されている方がおりますので補足します。

(記事にするまでもないので当コメント欄で補足します。)

2014年の会則変更によって、こんな勘違いをされてるのです。

>創価学会は2014年を会則(実際には教義を180度変えてしまった)を変更して、日蓮正宗以外の御本尊は創価と同じ力があるという教義に変更しました。
>日蓮正宗の弘安2年の大御本尊は御本尊としては認めないが、日蓮宗や顕正会や立正佼成会の御本尊は創価の御本尊と同じだと宣言しました。

は? いったい誰からの情報なんでしょう?
会則変更のどこをどう読めば、こんな解釈になるのでしょう?

中高生の読解力よりも低いので本当に(苦笑)するしかないです。

あのですね、日蓮正宗以外の御本尊、ではなく日蓮正宗の御本尊も本門の本尊としては認めるんですよ。

「弘安2年の大御本尊」もそうだし「日顕上人書写の御本尊」でさえ「本門の本尊」と認めているんです。


ただし「本門の本尊」であっても「本門の戒壇」「本門の題目」までセットで正しいとは限らない、つまり「三大秘法が成り立つか否か」は別だってことです。

このへんの教義の話がまるで理解できないようです。

御書に「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず」とありますが、活動家だった頃から真面目に教学を勉強してこなかったのでしょうね。

だから正しい眼で創価学会を見れずに、自分勝手な浅い考え方でしか判断できないのでしょう。南無南無(笑)


>だから創価学会は特に折伏しなくても、日蓮宗や顕正会でもいいですよという立場になったのです。

折伏はしますし、そんな立場には全然なってませんが(笑)


>つまり「創価学会は広宣流布やめました」というのが2014年の会則の変更だったんですね。

やめてませんが何か(笑)

他にもたくさん間違った内容になってますが、ブラック鯛焼きの言葉を借りれば、まさに「阿呆」としか言いようがありません。

本当に可哀そうな方です。
創価学会で50年以上、いったい何を学んできたのでしょう。

創価学会に入会すれば、自動的に、勝手に、エスカレーター式に幸せになれる、と勘違いしている方がいますが、そんな団体ではありません。

本気で信じて、本気で祈って、本気で活動しなければならないのに、そのへんが理解できないから退転しちゃうのでしょう。

東大に入ったら自動的に一流企業や政治家、官僚になれるんじゃないのと一緒で、努力や勉強をしなければ落ちこぼれるのと一緒です(笑)

話がずれるのでこのへんにしますが、もっと教義の理解を深めてから記事にして欲しいものです。

はじめまして

 アラフォ-婦人部の白ユリと申します。
記事を拝見し、まったくそのとおりだと深く共感するとともにたいへん勉強になります。
 またときどき来させていただきます。ありがとうございました。

Re: はじめまして

白ゆりさん、ご無沙汰しております。
どうぞいつでも遊びにきてくださいませ!

たびたび失礼致します。
創価を退会して法華講員になられる方に多いのが会則変更、教義変更だと思います。
日蓮正宗創価学会の時は大石寺にある大御本尊様を本尊としており、現在は日蓮大聖人の書かれた物であるなら全て本尊とする、経本まで2回も変更しました
存続生き残るために変化していくと言うことに今までやって来た事は間違い否定するのかと組織に不信感を持つ
これについて鯛焼きさんは、私の勘違いでなければ時代にそって変化していくと言う考えでよろしいのでしょうか?
私は創価学会がやってる事が全て裏目に出たような印象を受けます
日蓮正宗から破門された団体と本尊に書いて、日蓮正宗の本尊を使い、5座の勤行を今でもすれば良かったのです。
時代によって変わるのは正座から椅子へ、スマホで将来会合をみれるとかです
日蓮正宗創価学会でやって来た事、例えば僧侶がお経を読んでお葬式とかは間違いだったと言うことになります。
全てが結論が先でてから後で考えた後付け、失礼ながら見苦しい弁明言い訳にも感じられます
これは退会者を増やさない為に大事な問題だと思います。

Re: タイトルなし とくのさん

>日蓮正宗創価学会の時は大石寺にある大御本尊様を本尊としており、現在は日蓮大聖人の書かれた物であるなら全て本尊とする、経本まで2回も変更しました
>存続生き残るために変化していくと言うことに今までやって来た事は間違い否定するのかと組織に不信感を持つ
>これについて鯛焼きさんは、私の勘違いでなければ時代にそって変化していくと言う考えでよろしいのでしょうか?

時代やその時々の「ルール」に基づいて、様々変更することは当然だと思います。宗教団体だけでなく会社も国も、また個人個人にしてもそうでしょう。

でも、だからと言って「今までやって来た事は間違い否定するのか」ではないと思いますよ。

その時々でやってきたことは、今から振り返れば「なんで?」と思うこともあるかも知れませんが、その時代においては正しいことだったと思います。

以前にも書いたかもですが、例えば、世界のホームラン王・王貞治選手。

一本足打法でホームランを量産しまくり世界記録まで持っている偉大な野球選手ですが、果たして当時の王選手が、今現在の大型化した投手の、速くて変化ある球を、かつてのように軽々とホームランできるかと言えば、私はNOだと思います。

むしろ不安定な一本足打法では、絶対に現在野球には対応できないです。

でも、当時はそれでよかったんです!
868本のホームラン記録は一本足打法を採用したからでしょう。

これと同じで、創価学会と日蓮正宗が蜜月な時代と、現在のそうではない状況をごちゃ混ぜにしてはいけないと思います。

蜜月時代はそのやり方で正解だったんです。
でも今はルールが変わったので別な正しい在り方で対応をする。

そこで「なんで、昔はこうだったのに?」とか「昔のままでやってくれ」と言ったところで一体何になるのでしょうか?

5座3座の勤行も大聖人時代にはなかったはずです。
その時々の和合僧団が決めるべき事項でしょう。

裏目に出たとは私は思いませんし、むしろ世界中に広がった良き因だったと思います。

ダメ出しブログの管理者さんへ

読んでもらったみたいで、どうもありがとうございます。

まずですね、このブログの一記事だけで、すべてを解説なんかできませんよ(笑)

あくまでも概略やエッセンスを示しただけなのに、不完全とばかりにそんなギャアギャア書きなさんな。

例えば「本門の本尊」についても、2014改正の時の原田会長指導を前提にするって前置きしてるんですけどね。

よく読んでくださらなかったようで残念です(笑)


一つだけ反論しましょうか?

>>問題になるのが「法主による開眼」ですが、御書にはそのような義はありませんので邪義とみなします。
>ありますよ。御書に。開眼の元になっている法門・法理から勉強しなさい。

例のアノ御書でしょうけど「切り文」もいいところで。この御書で言うところの「開眼」の意味が、あなた分かってるのか?って感じですね。開眼する側の御本尊が、なぜ法主に開眼されなきゃいけないのか? 御書をしっかり読めてない証拠と言っておきましょう。

まあ、そちらのブログには行きませんのでご安心くださいね。

ダメ出しブログの管理者って何者?

再度、彼のブログを読み返しました。
霜降り明星のつっこみ風に言えば「修羅界ッ!」

なんでこの人、あんなに口が悪いのでしょうか?
「人の振舞い」になってませんね。日蓮正宗の信徒ってこんな感じなんでしょうか?

おそらく実生活でも仕事でも修羅界ベースの方なんでしょう。非信仰者のシニフィエさん以上に残念な方です(笑)

それはさておき、私も男子部の時に幾度となく法華講さんと対論をやってきましたが、彼らは御書を勝手に(日蓮正宗流に)解釈しているだけなんですね。

例えば、
>◆余は二十七年なり(聖人御難事)と日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり(百六箇抄)と日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之これを相伝す、本門寺に懸け奉るべし(日興跡条条事)をあわせて読めばどの本尊が根本の本尊がわかるでしょ?

と御書を引用してますが、聖人御難事の「出世の本懐」の読み方はそうとは限りませんし「本堂の正本尊」「本門寺」を強引に本門の本尊、本門事の戒壇と誤訳してるし。なにより大御本尊が大聖人から日興上人へ譲られたのは事実だとしても「大御本尊こそが根本となる本門の本尊で分身三体の義、云々」とは御書の中には明確には書かれてませんね?

あくまでも「あわせて読めば」と、彼らの仮定法による推測及び解釈で成り立っているだけなんです。

もちろんそのような解釈をすることもできるでしょう。
かつて創価学会も日蓮正宗(当時のね)と協調路線だった時にはそのような解釈でした。

でも、その解釈がオンリーワンでもナンバーワンでもないということ。

創価学会の2014改正以降の解釈でも十分に成り立つんです。

そのような反論をすれば必ずと言っていいほど「猊下様のお心が分かるはずない」「カラコピの創価に何が分かる」といった妄言を吐くだけ(笑)


開眼にしても、木絵二像の御書等での開眼とは「真言宗」への破折の意を持って使われているだけです。「御本尊様に開眼供養する」という意味では到底ないですし、とにかく勝手にそのように解釈しているだけ。


それ以前に、現在の日如上人日顕上人はただの大石寺の管理人であって、大聖人の御内証云々なんてのも勝手な解釈ですしね。

御書を引いてもいいのですが「その読み方は血脈のない証拠」などとイチャモンつけるのは目に見えてます。

では、まずは、日精師の造仏問題からでもやりますか?(笑)
ただの「管理人」だって証左としてね。

ま、修羅界の方とは不毛になるだけですので向こうで対話はしませんが、当ブログでおいおい取り上げていきましょう。

No title

鯛焼きさん

宗教には正邪がある…という思考の人には、教義論争だとか破折だとかは、「ふっかける」のも「ふっかけられる」のもつきものですね。
辛辣にいうと、金魚のフンみたいにそれは付いてまわるものじゃないでしょうか。

それでも、もともとそれは、ギリギリ信仰者としての「慈悲からほとばしるもの」だったのかもしれませんが、ネットのそっくり返ったカキコなど、ただ人を見下したい悪趣味、ストレス解消ですよね。
そのブログなど典型に見えます。

元来、幸せを願う個人の信仰など何を信じても自由なのに、
「教義には正しい、間違いがある」
「間違ったものを信じると不幸になる」
という理屈こそが、私には信者同士でくだらない争いを起こさせて、それこそ「人を不幸にする元凶」にしか思えません。

こういうと、
「いや、健康にいいと信じて飲んだものが毒だったらイカンでしょう?信じる心じゃなくて何を信じるかなんですよ」とか
「信じる対象がナチスやオウムだったら」
みたいな子ども騙しな弁明は一旦置いて考えてみてください。

どっちの信仰者でもない立場からみると、創価の教えもお寺の教義も(曼荼羅も)、「自分はこれがいいんだ」と信じている人は、同じように幸せに見えるんですよ。
実際に、鯛焼きさんが自分の信じる教義を以て、創価の本尊に題目を唱えても幸せ。
ダメ出しさんが自分の信じる教えを根本に、お寺の本尊に手を合わせても幸せ。
違いますかね?
どっちもが、ちゃーんと満足しているじゃないですか。
もっというと、こっそりすり替えても同じと思いますよ。
ちなみに私はお寺の曼荼羅も、俗にいうカラコピも、違いなど、「これっぽっちも」「さっぱり」「露ほども」わかりませんでした。

そうやって、それぞれが実際に満足して信じるものを、なぜけなさないといけないのか?
こんなくだらないことを明けても暮れてもやっているのは創価界隈だけですよね。
ディベートをして、優越感に浸ることが幸せという宗教なんでしょうかね。

こんなことを書くと、「教義のハチャメチャさで創価から覚醒した人もいる」と怒る人もいるかもしれませんが、私のように
「教えに正しい、間違っているがある」そのものが違うな、とやめた人間もいるんです。

毎度、本当に余計なことかもしれません。
こういう意見もあるということで、参考になさっていただければと思います。

貴兄の相手はRXセブンですよ?

駄文コメントは日常茶飯事なので、

私は、
日蓮大聖人様にお褒め頂きたく存じます。

本尊義の事を
ブログして頂き有難う御座います。

本ブログ記事が、コメントを含めて
あと少し続いて頂けると幸いです。

大事な事だと思う次第です。


Re: No title

アイスティーさん
コメントくださりありがとうございます。

ブログを読んで不快に思われたならば、誠に遺憾に思います。

私も書きたくないのですが、アフォとか書かれるとやはりね、反論せざるを得ないと言いますか。だって人間だもの(笑)

>元来、幸せを願う個人の信仰など何を信じても自由なのに、
>「教義には正しい、間違いがある」
>「間違ったものを信じると不幸になる」
>という理屈こそが、私には信者同士でくだらない争いを起こさせて、それこそ「人を不幸にする元凶」にしか思えません。

申し訳ないですが、私は信仰に正邪というものは「ある」という立場です。

それで、お互いの教義について意見交換するのはまったくの自由ですし、おおいにやったほうがいいと思ってます。

ただ残念なことに、ダメ出しブログさんのようにやたら人を見下したような方がたくさんいるのも事実です。
(創価学会員にもいます。)

このへんは私自身は冷静になって対応しているつもりですが、場合によっては「またやってるよ」と映ってしまいますので気をつけて参ります。御忠告ありがとうございました。

Re: 貴兄の相手はRXセブンですよ?

ありがとうございます。

あちらの兄さんにも言ってあげてください。
「色んな方が見てますよ、日蓮正宗の信徒らしく振舞ってください」って。

本尊の義は、逆に何か質問ありますか?
そのご質問について、書いていければと思います。

No title

下記URLのコメント欄より抜粋
http://eigodesoka.blogspot.com/2017/11/blog-post_4.html
「御本尊とか教義が話題となっているようですが、あまりそういう話題に時間をかけないほうが良いと思います。弘安2年の御本尊の意義など大聖人は述べていませんし、日顕宗の人は、『弘安2年の御本尊を拝まないと成仏できない』などと言っていますが、もし弘安2年の御本尊が消失したり、朽ち果てていったとしたら、どうするのでしょうか? 誰も成仏できなくなってしまいます。完全にロジックが破綻しています。それに法華経が釈尊が説いた教えであるというエビデンス(※証拠)がなく、疑義が生じている現在の状況の中で、細かい教義で争うのもナンセンスだと思います。日蓮仏法の大前提が不明確であるわけですから。日顕宗の人は、とにかく宗門が正しい、学会は間違っているという前提ありきの人たちですから、話をしても無駄です」

法華経は、釈尊が説いた法を、そのまま伝えたものであるのか、そうでないのかとの疑問に対して、池田先生は、「核心となる釈尊直説(じきせつ)の思想が、編纂(へんさん)当時の時代状況、思想状況に応じて、一つの形をとったと考えられます。時代が釈尊の思想を希求し、釈尊の思想が、時代を感じて出現してきた。『感応道交(かんのうどうこう)』(仏と衆生が互いに通じあうこと)です。普遍的な思想とは、そういうものです。真実の思想の生命力と言ってもいい。形態は新たになったとしても、時代状況のなかでは、それが、より、その思想の『真実』を表しているのです。その意味で、私は、直説か創作かと問われれば、直説だと言いたい」(『法華経の智慧』普及版[上]「序品」)と語っています。

【末法年代の誤差について】
https://plaza.rakuten.co.jp/sokakyougaku/diary/201602260000/


現在の日蓮正宗には「本門の本尊」と「本門の題目」はあるが、「本門の戒壇」が謗法まみれで機能していない。日蓮宗なども同様だ。
つまり、教団の教え自体が間違っていたり、不正がまかり通って自浄能力を欠いていたり、形骸化して葬式仏教になっていたり、時代に適合していなかったりする場合は、三大秘法が成立しないのである。

◆「三大秘法」…本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇。
ここでいう「本門」とは、法華経28品の後半の14品ではなく、大聖人の文底(=経文の奥底)の法門(=仏の教え)である。
日蓮仏法では、日蓮大聖人御自身が覚知し説き示された、法華経本門の寿量品の文底に秘められた肝心の教え、成仏の根源の法を本門とする。

◆「本門の戒壇」…本門の本尊を安置して信心修行に励む場所。「戒壇」とは、本来は戒を授受する場所をいうが、末法においては、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することが、そのまま戒を持つことになるので(受持即持戒)、本門の本尊を安置し唱題する所が本門の戒壇となる。
しかし、大聖人の御在世当時とは異なり、日蓮系の宗派が乱立する現在では、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することが、そのまま戒を持つことになるのか疑問だ。信心指導などをしてくれる所属先の宗教団体の教えが間違っていれば、「受持即持戒」が成り立たない。拝む側に正しい信心がなければ功徳はないのである。

※「戒壇」…戒律(仏教において守らなければならない道徳規範や規則)を授けるための場所。信仰の中心となる所、または本尊安置の場所。

「『生死一大事血脈抄』の『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』(御書P.1138)の文に照らせば、いかに正しい曼荼羅本尊(法華経)であっても拝む側に正しい信心(信心の血脈)がなければ功徳はない。かえって『種種御振舞御書』に『かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし』(同P.919)とあるように、日蓮を崇拝したとしても誤って敬った場合には国が亡ぶほどの悪業となる」(須田晴夫氏)

【「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とは】
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10197415970

【創価学会が授与している御本尊は、「大御本尊」を書写したものではない】
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13199187148

【結局「御本尊」とは何なのか?】
https://plaza.rakuten.co.jp/sokakyougaku/diary/201602160000/

【日寛教学の「歴史的制約部分」について】
https://plaza.rakuten.co.jp/sokakyougaku/diary/201602200000/

【日寛の登場】
https://plaza.rakuten.co.jp/sokakyougaku/diary/201602230000/

【「教学の小部屋」記事一覧】
https://plaza.rakuten.co.jp/sokakyougaku/diaryall/

Re: No title

毎度鋭い観点での情報、ありがとうございます!
勉強になります。

No title

まず、お寺の人に言いたいですね。
私は創価のやっている活動のあれこれで、実際に何らかの迷惑を被っていることがあれば、それを批判することはよくわかるんです。

だけどなんや教義のあれこれ、(すいません、信者さんにとっては大事なものかもしれませんが)、「本門戒壇の解釈」とか「出世の本懐の意味」とかは、信者じゃない人から見ると、
は?
だから何?
って話なんですよ。

それぞれが、それをどう解釈しようと、どう信じようと、それが何だって話なんです。
「何を信じようと自由でしょ?誰に迷惑かけました?」って思うんです。
「迷惑をかけなきゃ自由」という一般常識をすっとばして、人の信じる教えの「理屈に」難癖つけたくてたまらない人。
これは一体「何の影響を」未だ引き摺っているんでしょうかね?

「正しい解釈があって、違うように解釈したら不幸になる」
そう信じてしまったら最後。
他宗は
「見下げる相手」
「せせら笑う相手」
「相それない関係」
「どちらかがどちらかに屈服しなければならない関係」
になる思考。
これこそが、人との間に軋轢を生んで争うことになるんじゃないでしょうか?
愛せるのは同じ信仰を持つ同志限定。
まあ、自己愛みたいなもんでしょうか。
およそ信仰者とはかけはなれています。

一家の中で、或いは親友同士の間で、この解釈が分かれただけで譲れない断裂が生まれて、お互いが「敵、味方」になってしまう独特の思想。

創価もお寺も実際これです。
全く同じ。
傍から見たら独特の、ソックリな教えなんですよ。
というかもともと同じですからね(笑)

それでも「宗教には正邪がある」というのが、自分の信じる、認めてほしいすばらしい宗教でだといい張るならば…

むずかしいですんねえ。
誰が賛同するでしょうか?
私みたいに、真摯に祈る人をバカにしたくないし、思想も宗教も尊重したいと思っている人間からも、「ここだけは」理解を得るのはむずかしい部分なんです。

お寺は創価、どちらかを選べといわれたら。
私は少なからず、それをやめる方を支持しますね。

まあもっとも信濃町が二つを敵対させたのは、信仰心のためではなくビジネスや個人のメンツのためでした。
本気で、他宗やお寺を「邪宗」なんて思っていませんよ(笑)
それを大マジメに真にうけて、教義論争をしているのは、純粋な信者のみなのでは?

日本のよろずの神を大事にする一般人は、他宗の教義を批判などまずしません。
そんなことするのは「創価界隈の本気の信者だけ」
日蓮さんの独特の思想でしょうねえ。

Re: No title

ご指摘ありがとうございます。アイスティ-さんの言わんとしていることは分かります。

まず、あちら様のブログを読んで感じると思いますが、信仰者として、というより一社会人としてどうなのか?ってレベルの文章です。あ、創価の人間にもそんな側面を持つ人がいますので注意しなくては、ですけれど。


>だけどなんや教義のあれこれ、(すいません、信者さんにとっては大事なものかもしれませんが)、「本門戒壇の解釈」とか「出世の本懐の意味」とかは、信者じゃない人から見ると、
>は?
>だから何?
>って話なんですよ。

それで、この部分ですが、私は貴女に考えを押し付ける気は毛頭ありませんが、何と言うのでしょうか。

こんな例え話で恐縮です。


メダカって魚、ご存知ですよね?
小川に住む小魚ですが、今や環境が悪くなり絶滅しちゃうかもって魚です。

それで絶滅危惧を強調したいのではなく(笑)
普通の方であれば、メダカって一種類だと思いますよね?

でも、十数年前から言われてたのですが「一見姿かたちは一緒」なんですが、実は「2種類のメダカ」がいるんです。

キタノメダカとミナミメダカって言いますが、DNAレベルで分析すれば「猿と人間ほど違う」らしいのです。


普通の方、魚に興味のない方からすれば「だから何?」「メダカはメダカじゃん」って思うでしょう。

でも、魚類専門家とか大学の先生、マニアや関係者からすれば「何言ってるの、一緒のメダカではないんですよ!」ってなるんですね。

以前、小学校がむやみやたらにメダカを生徒に放流させて「環境をよくしよう」なんて運動をやってた時期もありましたが、それってNGなんです。

人間が住んでいる場所に猿を放り込むようなものだからです。


すみません、へんな例えしか思い浮かびませんでした。

グッチとコーチのバッグは、何も知らないおっさんが見れば「バッグなんだから一緒だろ」って思うが、女性からみたら「何言ってるの、価格も違うし、まったくの別モンよ!」って思うでしょう?

こっちのほうが良かったですかね(笑)


とにかく、私が言いたいのは「宗教の教義にもやはり違いがある」ということ。

外部の方や興味のない方からすればアイスティーさんの考えでもOKでしょう。何の影響もないと思います。

ですが、その違いに実際に神経を使う人もいるってことです。

だからお互いにどの部分がどう違うのか対話するのは意義があることですし、納得できる部分できない部分があっても当然だと考えます。もちろん納得して創価から正宗に行ったり、反対に正宗から創価に行ったり、嫌気が指して信仰を辞める方がいてもそれは仕方ないと思います。


そのうえで、対話は喧嘩ではありませんので、あちら様のブログのような品性を落とすような言論では、信頼なんて勝ち取れません。屈服とか罰が当たるって言動、行動は慎むべきだと思います。

はっきり言って彼のブログは、対創価向けや正宗信者さんにとっては効果的かも知れません。

でも、関係ない方が読めば最低のブログですよね?
このへんは私も気をつけたいのですが。

とりとめのない話になりましたが、
メダカにも実は違いがあった!ということだけは理解して欲しいですね(笑)

No title

昔、インスタントコーヒーにも「違いがわかる男」というコピーがありましたね(笑)(こんな例えもww)

はい、メダカ同様よく知りませんが、キリスト教でもカトリックもプロテスタントも異端といわれるエホバとかもあるみたいだし、それぞれの信者にとっては「全然ちがう」のだと思いますよ。

でも目指す方向は同じですよね?
目指してることは教義をつつき合うことですか?

それぞれ違うのは当たり前。

だけど、その論争こそを根幹というかド真ん中に置いて、明けても暮れても「破折、論破」
もっというと「嘲って罵倒」してる人がいます。
どう見てもそれによって得られる優越感が幸せな教えなんだなあ、そんな生き方がしたいんだなあとしか思えない。

>信仰者として、というより一社会人としてどうなのか?ってレベル
>あ、創価の人間にもそんな側面を持つ人がいますので注意しなくては、ですけれど。

その通りですね。
これ、なんとかなりませんかねえ。
せっかく、それぞれの思想も宗教も尊重したいという人たちだって大勢いるのに、これができないと「しょせん創価一派」と一括りに見られると思います。

傍から見たら「しらんがな」という教義を論争しては、勝ったとでも思っている人。
誰も感心などしていません。
「言わないだけ」でうんざりしていることを知るべしですね。

Re: No title

遅くなりすみません。
まず、普通の会員(婦人部・女子部はじめ大半の壮年部・男子部)は教義論争はしません。必要もありません。また日蓮正宗のほうも、おそらく大部分の信者はやらないはずです。両者ともに信仰している方は純粋に信仰しているはずです。

ただ、男子部の広宣部系統の方や、法華講の一部の活動家は教義論争をするんです。モロ局地にいますので、私もその点は理解します。

確かに、そんなこと関係ない人にとってはどうでもいい話なのですが、メダカの品種にこだわる人種がいるようなものです。どっちのコーヒーがうまいのか豆比べする人種、と言ってもいいです(笑)


>でも目指す方向は同じですよね?
>目指してることは教義をつつき合うことですか?

いいえ違います。教義をつつき合うのは「手段」です。

例えば、政治もそうですね。
目指す方向や目的は一緒であっでも、手段や方法が一つであるとは限りません。

色んな政党の色んな政治家がいますが、目指すは「日本国および国民の幸せ」でしょう。

ですが、それを実現する方法として自由主義・資本主義を標榜する政治家がいたり、社会主義・共産主義で実現しようとする政党もあるわけです。日本の幸せのためには、軍が必要と考える方もいれば、いやいや対米依存を解消すればすむ話と主張する方もいるのが現実です。

これが普通の国民レベルであれば、別に論争はしないでしょう。ただし政治家になって実際に国を動かす立場になれば、やはり主義主張はぶつけ合うものです。

国会中継で、討論している場面がありますが、お互いの主義や主張をぶつけてます。野次合戦もひどいとは思いますが、でもその根底には「己の信条で国を幸せにするんだ!」という政治家の気概があるものだと信じてます。

また、論を戦わせることでより良い意見や思想が生まれてくるのも歴史の常です。

私たちは、ある程度出来上がった現代社会に生きてますが、男女平等とか身分制度の廃止などは、先人たちが激しくぶつかったからこそ生まれたものだということを忘れてはならないでしょう。

仕事でも、目指すは会社の利益追求しいては社員の安定給与でしょうが、経営者と労働者とでは意見ややり方は異なるものです。

その意味で、教義論争する人種は、政治家みたいなものと言えるかも知れません。強引な解釈でしょうが、言いたいことはお互いの信条をぶつけ合う人種なんです。


でも問題は、

>だけど、その論争こそを根幹というかド真ん中に置いて、明けても暮れても「破折、論破」
>もっというと「嘲って罵倒」してる人がいます。
>どう見てもそれによって得られる優越感が幸せな教えなんだなあ、そんな生き方がしたいんだなあとしか思えない。

と、思われても仕方がない残念な方がいるということ。

ダメ出しブログさんは、また私のことを書いてますのであとで反論しますが、とにかくマウンティングがお好き(笑)

あれでは「日蓮正宗を信仰したらあんな人格になるの?」って思われても仕方ありません。

議論することは悪いことではありません。
むしろお互いの主張を知れて役立つ場合もあります。

なので、教義論争する方はもっと大人になって欲しいものです。

少なくとも、私は冷静に大人の文章で対応します。

ダメ出しブログの管理人さん

まず、対話拒否も何も、私はあなたとは公式にブログで対話してませんけどね?

確かにシニフィエさんとは、実際にブログで対話していたのに、途中で彼が「対話拒否」したものです。それと一緒にするなんて笑止千万です。

あとですね、
>もうバカすぎです。>泣き言、>無残すぎる、>壊滅的な、>半べそ・・・

ホント、マウンティングがお好きな方ですな。まさに修羅界ッ!


では、御文を入れて解説してあげましょうか。

あなたは、

>◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。
>と書いてあるだろう。この御文を読めばここに書かれている「仏像」とは大聖人の曼荼羅本尊を指すことは明白であり

と引いておりますが、ここまでは同意です。
確かに、観心本尊抄のこの箇所の「仏像」は「大聖人の曼荼羅本尊」を指しています。

ただし、ここは「本尊」が何かについて述べている箇所です。つまり正法像法の「本尊」は「仏像」だったということと、末法の「本尊」は、正法像法での本尊は「仏像」だったが、末法の本尊は「大聖人の曼荼羅本尊」なんだという対比表現です。

わかりますか?

正法像法の「本尊」は「仏像」でした。
でも(正法像法では「本尊=仏像」だったが)末法の「本尊」は「曼荼羅本尊」なんですよ。って意味なんですよ。

ですので、

>故に、木絵二像には曼荼羅ご本尊も当然含まれている分けだよ。

って、この部分が論理の飛躍(引用間違い、勝手な解釈)なわけ。

その証拠に、富士一跡門徒存知の事には
「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」とある通りで、

「絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」であり「妙法蓮華経の五字を以て本尊」なんですよ。どう釈明しますかね?


この「木絵二像開眼之事」の冒頭に、
「仏に三十二相有す、皆色法なり。最下の千輻輪より、終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし、作りつべし。梵音声の一相は、不可見有対色なれば、書くべからず、作るべからず。仏滅後は木画の二像あり。是れ三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」とある通りで、

仏像には、梵音声と心法が欠けているので仏になることができない。ゆえに「開眼供養しなければ”仏像”は魔仏になる」という趣旨なんです。

あくまでも「仏像」には「開眼供養」が必要な話というだけで、「仏像=御本尊と曲解」するからおかしいのです。


また「法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたちと・あらはしぬれば顕形の二色となれるなり。滅せる梵音声、かえつて形をあらわして文字と成つて衆生を利益するなり。人の声を出すに二あり、一には自身は存ぜざれども、人をたぶらかさむがために声をいだす。是は随他意の声。自身の思を声にあらはす事あり、されば意が声とあらはる。意は心法、声は、色法。心より色をあらはす。又声を聞て心を知る。色法が心法を顕すなり。色心不二なるがゆえに而二とあらはれて、仏の御意あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思食事なかれ。すなわち仏の御意なり」との部分で、

梵音声は、木像や絵像という形のあるものでは顕わすことができないが「文字」によって顕わすことができる。仏の御意(心法)も文字となって顕わすことができる。とある通りで、

あなたが引いた、

>◆日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし(経王殿御返事)
>とあるように、御本尊をご本尊たらしめているのはご本仏の魂(心法)が存在しているからです。

に則すと、大聖人の魂とは「南無妙法蓮華経」以外にありえません。

御本尊の中央に「南無妙法蓮華経」と書かれていますが、それで十分なんですよ。これ以上、御本尊様に何を開眼するのでしょう? どんな魂? を入れるのでしょうかね?


「仏像」と「御本尊」を混同しているが故に、
>言い換えれば「開眼」とは大聖人の魂(心法)を非情の草木に篭めることにほかならない。
なんて誤った解釈をしてしまうのでしょう。


>大聖人の真筆本尊であれば確かに開眼は不要だろうがそれ以外の書写本尊にも開眼は不要というなら
>一体だれがどうやって大聖人の魂を草木からできた紙に書き写したのかということですよ。

>仮に創価の言うように「南無妙法蓮華経」の文字自体に心法が宿っているというのではあれば
>誰でも「南無妙法蓮華経」って書けば何でも本尊になるのか?

>便器でもいやそのなかのう○こも、南無妙法蓮華経のシールを作って貼れば「本門の本尊」になり、
>そのう○こを信じて唱題すれば便所は本門戒壇になって三大秘法が揃うのかよってことですよ。
>鯛焼き君の主張ならばう○こも「本門の本尊」足り得る可能性があるってことだよ(大笑)


それにしても、不思議なのはシニフィエさんも「ウン○タレ」って言葉が好きでしたが、なぜダメ出しブログさんも「う○こ」が好きなのか? 脱会者はスカ○ロ好きなんですかね?(笑)もちろんユーモアですよ。


理論的には「御本尊様の相貌」であれば、シールでも何でも「本門の本尊」になりうるでしょう。ただし「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」「仏法の根本は信を以て源とす」と仰せの通りで、実践的に、心の底から信じれるかどうかにかかってきます。

常識で言えば、凡夫なので、そんなう○こなんか信じれるわけないでしょう(笑)

このように理論と実践は違うんですよ。

では、日蓮正宗の理屈を持って逆に言えば「法主の開眼供養」さえあれば、う○こでも何でも、大御本尊に連なって「本門の本尊」になり得るのですよね? 答えてみてください(笑) まさかならないのですか?


>それで?創価のカラコピ掛け軸は一体いつ誰が「大聖人の魂を染め流した」のかね?

その必要はまったくありません。
先程来、見てきたように、御本尊様に対しては開眼供養するといった御文は一切ないので。

以上、反論になります。
一旦ストップすると明言されてますので私も返答は要りませんし、修羅界のブログには飛び込みませんのでご安心ください。

No title

創価一派が「しらんがな」という論争をし合ったところで、政策や制度のように、世の中の何らかが動くと本気で考えているとしたら吹き出します(笑)

広宣部やその訓練?に明け暮れた方。
それで何か歴史でも動いたのでしょうか。
何らかの影響力があったとしたら、友人関係や家族の断裂でしょうかね。

それとお寺の人は創価をボロクソに言いながら
「言論戦に勝て」とさかんに指導した、D作先生の精神はしっかり受け継いでいると思いました。

すいません、「批判ではなく過剰な攻撃」と言われそうなので(笑)このくらいにしておきます。

鯛焼きさん、いつも感情的にならずお付き合いくださり、ありがとうございました(__)

Re: No title

>創価一派が「しらんがな」という論争をし合ったところで、政策や制度のように、世の中の何らかが動くと本気で考えているとしたら吹き出します(笑)

まず彼らは脱会者であり現在は日蓮正宗の信徒さんですので「創価一派」というのは誤りでしょう。「日蓮一派」のほうがしっくりきます。

また「政治家」と例えたのは不適当でした。ただ政治家のように影響力はないですが、政治家のように「己の信条を持った人種」がいる、という点をご理解いただければと思います。

前にも書きましたが、普通の会員さんですらあまり教義論争には関わりません。ですので外部やアンチ創価の皆様はおろか、内部会員でさえ「何やってんの?」「そんな感情分からない」と思う方がいても仕方ないでしょう。

こればかりは、現場で実際に携わる、また過去に携わった者(広宣部、法華講)でしか分からない感情、行動と言ってよいでしょう。

くどいですが「メダカの種類」にこだわる人種がいるのと一緒です。

普通の人は「同じメダカだろ?」「メダカごときで何ごちゃごちゃ言い合ってるの?」と思うでしょうが「DNAが猿と人間ほど違う」という事実を知った者にとっては、決して看過できない大問題なのです。

それをメダカに興味ない方がごちゃごちゃ言うのは構いませんし、メダカ問題を理解されなくても構いません。かえって「その気持ちワタシ分かります!」と思ったほうがおかしい(笑)

世の中、分からないことのほうが多いですので。
全事象が、自分の感情とマッチするとは限りませんし。

>鯛焼きさん、いつも感情的にならずお付き合いくださり、ありがとうございました(__)

私は「品性のない文章」かつ誹謗中傷の類であれば、粛々と反論します、でも貴女のように「大人の文章」であれば、批判だろうと罵倒だろうと構いませんよ(笑)

横から失礼します。

>>理論的には「御本尊様の相貌」であれば、シールでも何でも「本門の本尊」になりうるでしょう。ただし「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」「仏法の根本は信を以て源とす」と仰せの通りで、実践的に、心の底から信じれるかどうかにかかってきます。

常識で言えば、凡夫なので、そんなう○こなんか信じれるわけないでしょう(笑)<<

上記の話題まで本尊論が展開したようなので(笑い)、前に聞くのを躊躇した件をお聞きしようと思いました。

 前に理は宗門、情は学会という改正に疑問を持つ友人の件を話しましたが(最近はだいぶ軟化しましたが)、学会の本尊観からすれば学会認定の本尊もしくは日蓮大聖人ご真筆の御本尊をオリジナルに荘厳するのもOKなのでは?

 理屈の上からも、実践の上からも今まで以上に御本尊に対する思いが深まる気がするし、自分の職種からすれば容易いことでそういう思いにかられることがあるんだよ、、、。

 と言われたことがありました、、、。

 イメージとしては見やすいように大きくし、文字をくっきりさせる程度のことでしたが、今の印刷技術なら、3Dで立体にしたり大御本尊のようにすることも簡単なことのようです、、、。

 私は理屈の上ではOKなのかもしれないが、おしきみくわえてご本尊安置してきた世代だから、心理的に抵抗があると言っていますが、、、。

 もちろん学会側が認めるわけがないという前提の話なのはお互い承知しておりますが、鯛焼きさん、またいろいろな資料を提供くださる無名ですさんの考えを聞いてみたいと思いました。

 なかなか聞きにくいテーマなので問題あれば承認しなくても構いません、、、。

 

 

Re: 横から失礼します。

TSさん、ありがとうございます。

>学会の本尊観からすれば学会認定の本尊もしくは日蓮大聖人ご真筆の御本尊をオリジナルに荘厳するのもOKなのでは?

現在、大聖人の御真筆御本尊を創価学会なり関連施設が保有しておれば「考えられなくもない」とは思いますが、残念ながらすべて他宗にあるものと理解しております。身延、池上、正宗などですね。

となると、著作権(とは呼ばないでしょうがニュアンスは分かるかと)の問題や、仮に他宗から一時的にでも拝借して作成すれば、ほぼ絶対「他宗にあったのに、大丈夫なの?」という疑念が湧いてくると思います。つまり「信」がなくなります。

となると「本門の本尊」を目の前にしても「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」ではないので「本門の題目」はあがりません。まさに雑念だらけの題目(笑)

ゆえに三大秘法が成立しないので、難しいのかと思います。

学会認定の本尊でいえば、大誓堂に御安置の御本尊様などが考えられますが、現在の日寛上人書写御本尊を置き換えるほどなのかな?と私個人は思います。

宗門の方は、猊下の血脈や開眼云々と主張しますが、そもそも御書にはない邪義です。今の学会とはまったく無縁の教義です。

ですので、ご指摘の件は可能といえば可能でしょうけれど、身延や池上が創価学会に宗旨変えした!くらいのインパクトが起こらない限りは、大聖人ご真筆の御本尊を学会認定の御本尊として崇めるのは難しい、と個人的には思います。

改正に疑問な彼の真意

ご丁寧な返信ありがとうございます。

 彼の言い分の真意が、私の文章で伝わっていなかったと思いましたので、もう少し付け加えさせてください。

 謗法の山と化したという宗門の歴代法主の書写した本尊にこだわらなくてはいけない理由を宗祖は述べているのか否か、、、?

 彼の言う印刷技術というのは、宗祖の残された多くの真筆の筆跡から、日蓮流書体(仮りの名前)というものを容易くつくれるそうなんです、、、。(今あるネットの情報とパソコンから)

 その書体で作られた御本尊を学会が認定し会員に下付すれば、破門された宗門からとやかく言われる筋合いはもうないのでは、、、?

 私個人は広宣流布大願成就の常住御本尊が学会の目的からしても一番スッキリしますし、大御本尊を神秘化した(無名さんの資料を読むと)日寛上人書写の今の本尊より、いいとは思っております、、、。

 ただどちらにしても日蓮正宗の歴代法主書写という縛りは超えてはいけないという考えが学会側にあるのかなと思ってしまうわけです、、、。

 その点をメダカにこだわる彼は言っていると思います。(笑い)

 元々の彼との話が、理は宗門、情は学会の考え方からすれば、ネットに出ている大御本尊を自分の御本尊様のようにパソコンで簡単にできるんだけど、という相談から始まりました、、、。

 その話は鑑定の件、また無名さんの資料などで変わってきてはいるのですが、、、。

 書体にこだわらなければパソコンとプリンターがあれば30分くらいで誰でも作れる時代がきているんだから、学会の理屈なら認定はしないだろうがOKということでは、、、。

 とも言います、、、。

 問題を整理します、、、。

 1、歴代法主書写という縛りは超えてはいけないものなのか?(鯛焼きさんの理屈ならOKのような気がします)

 2、1の縛りを超えたものがOKなら(日寛、常住とは別)学会独自に下付するのがいいのではないか?(彼がいうには先生や歴代会長書写より日蓮流書体の方がいいと言っていますが、、、。)

 3、パソコンとプリンターで作成したオリジナルの御本尊も学会の本尊観ならOKなのでは、、、?
(もちろん学会としては認めないのは承知のことですが、理屈として成り立つのではないかと?)

 胸中の本尊、我が身宝塔で充分だろうと思う私ですが、折伏した友人がメダカタイプで現場で相談してもスッキリした返答がないようなので、改めてお聞きいたしました。

 そんなことより、今抱えている悩みを御本尊に祈って解決していけばそんなことはスッキリすんだろうとも言うのですが、心に引っかかっていることを素直に言えるのはおまえしかいないんだと言われると、なるべく丁寧に対応しようとも思うわけです、、、。

 組織人の鯛焼きさんにはお答えしづらいテーマかとは思いましたが、こちらで本尊論を展開されたので、二人だけで話していた組織にはなかなか言えない本尊論を問いかけてみようと思いました。

 オープンなこちらのブログの主旨に向かない話と思えばそのようにおっしゃっていただければ構いませんので、よろしくお願いいたします。

 

  

 


 

 

Re: 改正に疑問な彼の真意

朝の日課でブログチェックしてましたら、ドンピシャのタイミングでコメントをいただき驚きました(笑)

御本尊様書写の件ですが、なかなか難しい問題ではあります。
そこで、以前私も読んでなるほどと思ったのですが、今のところ宮田教授のこの論文がしっくりきております。

http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper20-7.html


理論的にできることと、それを実践することとは別問題として解釈いただければ幸いですが、宮田さんの論を元にすれば、


>1、歴代法主書写という縛りは超えてはいけないものなのか?(鯛焼きさんの理屈ならOKのような気がします)

過去に信者が書写したものを宗門が認めた事例もあることから「超えてもOK」でしょう。


>2、1の縛りを超えたものがOKなら(日寛、常住とは別)学会独自に下付するのがいいのではないか?
>(彼がいうには先生や歴代会長書写より日蓮流書体の方がいいと言っていますが、、、。)

理屈の上では「学会独自の御本尊作成・授与はOKですし、下付することで大多数の会員がOKであればいいのかも知れません」が、私個人としては今のところ賛成できません。(後述)

>3、パソコンとプリンターで作成したオリジナルの御本尊も学会の本尊観ならOKなのでは、、、?
>(もちろん学会としては認めないのは承知のことですが、理屈として成り立つのではないかと?)

学会の本尊観と言いますか、本来の大聖人・日興上人の本尊観でもOKかと思います。(法主の開眼供養など不要ですし)


ただし!
以前も申しましたが、やはりその新しい御本尊様?に対して「信」が起こるかどうか?

どこかのサイトで(失念しました)身延にある御真筆御本尊であっても、法主の開眼供養で「大御本尊」につながれば、それは本門の本尊となる、と主張していた法華講さんがおりましたが、理論的には納得できます。

つまり法華講サイドも「開眼供養」さえすれば大御本尊につながるという理屈は持ってはいますが、実際にそのような御本尊を拝んでいる信者さんはいないでしょう。

身延にあった御本尊様(複製であっても)に向かって、心の底から信じ切って題目があがるかといえば、やはり否だと思うのです。

「この御本尊(のオリジナル)は、長い間、邪教の身延にあったんだよな?」「日蓮宗の本尊と一緒ってことだな?」等々、色んな雑念が湧いて当然だと思います。

それと同様に、過去700年以上、日蓮正宗(今のいわゆる日顕宗ではなく)が定めてきた御本尊様を主体に、創価学会も御本尊様を定めてましたので、いきなり「学会認定のパソコン版オリジナル御本尊様を今日から拝みましょう!」と変更されても、やはりかなりの葛藤が生じます。

このへんはシニフィエさんやダメ出しさんに突っ込まれそうですが(笑)あくまでも「理論上できること」と「実践できるかどうか」は別問題です。

そのうえで、私が現段階知らない、想像もできない「新たなしかも完璧な教義的解釈」で新御本尊論が示されるのであれば、納得して拝するとは思います。

以上拙い返信で恐縮です。
他の学会員の方からもご意見があれば、伺いたく思います。

隔世の感

宮田氏の資料を含め明解なお答えありがとうございます。

 本尊論を一般会員の間でオープンにお話しができるなんて、私ども宗門世代には隔世の感があります、、、。

 彼がオリジナルな本尊を作るとは思いませんが、改正の件で今までの根本を頭から否定されたようで、疑問を感じ本尊観に迷いが生じていたものの、落ち着く方向にいくと思います。

 ありがとうございまいした。

 またシニフィエさんに対しての専守防衛ならぬ投げ込む弾でアンチの方との対話が促進されることを期待しております。

 

 

Re: 隔世の感

>本尊論を一般会員の間でオープンにお話しができるなんて、私ども宗門世代には隔世の感があります、、、。

やはり創価ルネサーーンス!のおかげでしょうか?
大聖人仏法は(もはや聖僧ではないかっこだけの)法主とか僧侶の独占物ではありませんので(笑)

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プロフィール

創価鯛焼き君

Author:創価鯛焼き君
バリ活の学会員で支部長やってます


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