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ギロチン

2018-07-24

日本オルタナ右翼の祖としての東浩紀Add Star

杉田水脈LGBTヘイト発言が延焼しいるが、これをネトウヨの暴走とだけ捉えるのではなく、劣化ポストモダン言説空間としたサブカル文系の問題ともセットで考えるべきであると思う。


この人文系における、劣化ポストモダン化を加速させた戦犯の一人として、東浩紀の影響を無視することはできないであろう。10年前の大塚英志との対談で「南京大虐殺があったか・なかったかを問うことに意味はない」という、今で言うポスト真実的な言論を良しとする風潮を、当時の若手言論人に布教した人物である。日本においてネトウヨに対する対抗言論が出遅れたのも、東浩紀を始めとする当時のサブカル思想界隈が、そうした自家中毒的な価値相対主義の無限ループに陥っていたことも大きい。


東本人も、東京都非実在青少年規制騒動の時には、土壇場で当時の副知事だった猪瀬直樹に取り入ったり、朝ナマでは、橋下徹側の席につくようなキャラである。最近もスリーパーセル三浦瑠麗のようなデマ屋を、ゲンロンのイベントに度々出演させたりしている。まあ、東浩紀安倍政権支持を表明しているので、意識的右派であることを引き受けてはいるのかもしれない。しかし、言わせてもらうなら、東浩紀ネトウヨのボスであり、配下のゲンロン会員はレイシスト予備軍であるといっても過言ではないだろう。


また東浩紀的な価値相対主義は、柴田英里さんみたいに、レイプ被害者にセカンドレイプして喜んでいるような人物や、青識亜論のように、言葉巧みにヘイト容認を誘導するクズや、借金玉の如くリベラルに因縁をつけて〆ようとするヤクザや、勝ち組オタク負け組のヤンキーに税金を払ってやるのは不公平だとか、さも自慢げに話す高崎線駅名の某さんのような輩に、都合のいい環境を構築したのではないかと思う。その、製造責任の全てを東一人に負わせるのは酷過ぎるけど、こいつら人文ドブネズミ共の言動の至る所に、東浩紀的な「影」が、チラホラと見える気がする。


リバタリアンオルタナ右翼の連続性はどこかで指摘されていた気がするが、東本人もポストモダンに挫折して、その後過激リバタリアンに転向した典型であり、彼らの思想がどこかネトウヨと近いのも偶然ではない。また、21世紀型の個人主義が、排外主義的なナショナリズムと接続するのも、どうやら世界的傾向であるようだ。今のサブカル評論の流行りを見ても、日本スゴイ系的な自文化中心主義的な言論が受けている。そういう意味で日本のリベラル層は、オルタナ右翼化したといってもいい。しかし長い目で見れば、その予兆は、既に00年代から現れていたものだし、東浩紀一派がその精神的潮流を準備したことも明らかであろう。


まあ、最近の界隈を観察していても、過去に自分たちが唱えた言論に裏切られてあたふたしている様子が見られる。だけど、一度走り出した列車は止まりそうな気配がない。かつて東とタッグを組んでいた宇野常寛は、落合陽一のようなオルタナ右翼と一緒に小泉進次郎を招いてセミナーを開催するようだし、今どきの売れ線批評の9割は、ゼロ年代批評以降の思想と批評のネオリベ化とリバタリアン化を何らかにバックに持っているはずである。杉田水脈も、その鬼子の一人であると受け止めるべきなのだ。


しかしまあ、本当の「思想と批評のジェノサイド」が必要だと思う。

あおさあおさ 2018/09/21 04:34 ゲンロン会員なんだけど、私はレイシスト予備軍だったのか…
南京大虐殺についての発言は「自力で一次史料にあたって事実を検証できる専門家同士なら生産的な議論も成立するが、素人同士が伝聞情報で議論してもお互いに自分に都合の良い部分だけをエビデンスとして利用するだけだから、水掛け論になって意味がない」という話です。それを持ってポストトゥルース肯定とか言うのは話は文脈を無視し過ぎでしょう。あなたのやり方こそ「ポストトゥルース」的ですね。
当該の箇所は、大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ』pp.209-208。

あおさあおさ 2018/09/21 04:34 ゲンロン会員なんだけど、私はレイシスト予備軍だったのか…
南京大虐殺についての発言は「自力で一次史料にあたって事実を検証できる専門家同士なら生産的な議論も成立するが、素人同士が伝聞情報で議論してもお互いに自分に都合の良い部分だけをエビデンスとして利用するだけだから、水掛け論になって意味がない」という話です。それを持ってポストトゥルース肯定とか言うのは話は文脈を無視し過ぎでしょう。あなたのやり方こそ「ポストトゥルース」的ですね。
当該の箇所は、大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ』pp.209-208。

あおさあおさ 2018/09/21 04:34 ゲンロン会員なんだけど、私はレイシスト予備軍だったのか…
南京大虐殺についての発言は「自力で一次史料にあたって事実を検証できる専門家同士なら生産的な議論も成立するが、素人同士が伝聞情報で議論してもお互いに自分に都合の良い部分だけをエビデンスとして利用するだけだから、水掛け論になって意味がない」という話です。それを持ってポストトゥルース肯定とか言うのは話は文脈を無視し過ぎでしょう。あなたのやり方こそ「ポストトゥルース」的ですね。
当該の箇所は、大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ』pp.209-208。

teleoteleo 2018/09/21 08:49 >>あおさ
既に確定している事実を、わざわざ言いはぐらかして、あたかも歴史修正主義者の主張にも分があるかのように印象操作することをポストトゥルースと言うんじゃないかな?しかも、当該箇所はそんな文脈で言っているようには見えんかったけどね。

あおさあおさ 2018/09/21 18:13 東浩紀はポストトゥルース的な状況を肯定しているのではなく、既にポストトゥルース的社会が到来しているという現状認識を語っている。そう読めるのではないでしょうか?
そして「歴史修正主義者の主張にも分がある」ようになってしまった現在の状況において、アマチュアが「あった/なかった」と強弁することは有効ではありません。そもそも学問の世界でもある事実が「確定している」という言い方はしません。それは現在まで反証されていないだけで、未来永劫動かない事実ではないからです。確定した事実がないにも関わらず学問の世界がカオスに陥らないのは、暗黙のものも含め一定のルールが共有されているからです。
ポストトゥルース的状況とはインターネットにより、エビデンス(らしきもの)へのアクセシビリティが増し、情報の発信力・拡散力が増大した現在、事実の妥当性をすり合わせるルールを共有しない者同士が、事実(らしく見えるもの)を濫造していく、そのような状況のことだと理解しています。
そのような状況の中では、正しい(と自ら信じる)ことを正しく言うという20世紀的な啓蒙は力を持たないのではないか。私はそのように理解しましたので、東浩紀の発言は単純なポストトゥルース肯定とは言えないと思います。

teleoteleo 2018/09/21 19:41 >>あおさ
>>「歴史修正主義者の主張にも分がある」ようになってしまった現在の状況において
なっていません。ホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングが裁判で、自説を否定されて有罪判決受けているの知らないの?

あおさあおさ 2018/09/21 20:15 無論承知しております。私が言いたいのは、そのような「事実」が事実であると、社会全体に共有されていた時代が過ぎてしまったと言うことです。わかりやすく言えば、ネット上の掲示板やSNSのような空間では「言ったもの勝ち」なところがあって、皆それぞれの主義主張に合わない事実は無視して、都合の良い材料から自分の立場を支持するような「事実」を作り上げているということです。そしてアカデミズムの世界のような厳格なルールが共有されている共同体でもなければ、一旦作り上げられた「事実」はそのまま信じられ、あるいは信じていなくても自陣営のイデオロギーを支持する「事実」であれば、それはそのまま事実となってしまうということです。
ポストトゥルースの時代においては捏造された事実は学問的な検証を経てきた事実と区別されずに流通してしまうということです。例えば私や貴方がいくら南京大虐殺はあったという「事実」を知っていても、そんなこととは関係なく、なかったという「事実」が信じられている世界があるということです。その渦中に飛び込んでいってベタに啓蒙しようとしても徒労に終わる。実証的な反論が意味を持たない領域があるから、やるなら場所を選ぶべきではないか。『リアルのゆくえ』で東浩紀が言っていたのはそういう意味だと思うのですが?

teleoteleo 2018/09/21 21:08 >>あおさ

>>そのような「事実」が事実であると、社会全体に共有されていた時代が過ぎてしまったと言うことです。
>>皆それぞれの主義主張に合わない事実は無視して、都合の良い材料から自分の立場を支持するような「事実」を作り上げているということです。
>>例えば私や貴方がいくら南京大虐殺はあったという「事実」を知っていても、そんなこととは関係なく、なかったという「事実」が信じられている世界があるということです。

たぶんいくら言っても理解してくれないだろうけど、そんな時代は来ていないし、facebookやtwitter、youtubeなどで組織的にフェイクニュースを撒き散らせば、容赦なく凍結されるのが世界の動向だと思いますが。そもそも、南京大虐殺は無かったと主張する界隈なんてただのバカの集合体なんだから、そんな世界があろうが怯まずにデタラメはデタラメだと言えばいいだけなの。

あおさあおさ 2018/09/21 22:19 では何故ポストトゥルースやネトウヨが問題として扱われ、時代を象徴するような言葉となっているのでしょうか?ポストトゥルースに関する言説自体がポストトゥルースなのでしょうか?ポストトゥルースに関する言説自体がポストトゥルースなのであれば、ポストトゥルースに関するポストトゥルース言説が幅を利かせており、それがポストトゥルース的なものの浸透力の大きさをあらわしていると思うのですが?

そもそもSNSのアカウント処分程度で「正しさ」というものが定められ得るのなら、嘘と本当を巡る問題が紛糾することは無いはずでは無いでしょうか?私達の暮らす世界はその程度には底が抜けているわけで、率直に申し上げて貴方の認識はナイーヴ過ぎると感じました。

teleoteleo 2018/09/22 00:01 >>あおさ
>>そもそもSNSのアカウント処分程度で「正しさ」というものが定められ得るのなら、嘘と本当を巡る問題が紛糾することは無いはずでは無いでしょうか?

ふ~ん。民族差別や性差別を扇動するフェイクニュースアカウントの凍結を「その程度で正しさが定められる」とか言っちゃうんだ。でも、今どきそんな周回遅れの手垢に塗れたポストモダン的な認識は通用しないだろ。だいたい、ゲンロンの尊師からして、今はそこまで極度に相対的なことはほとんど言ってないと思うし。

あおさあおさ 2018/09/22 08:37 誤解があると思うのですが、「周回遅れの手垢に濡れたポストモダン的な認識」が通用しないのは当たり前なんですね。通用しているのは自閉したエコーチェンバーの中での、各々の真実です。その状況を外から眺めると「周回遅れの手垢に濡れたポストモダン的な認識」になる訳です。そしてポストモダン的で相対主義的な認識が通用しないのは、そもそも通用するべき場所が存在しないからです。「外から眺める」と言いましたが、そのような超越的な視座が無くなるのがポストモダンなのだと言えるでしょう。
要するにポストモダンが徹底化すると、皆が相対主義的になるのではなく、各々が自分の信じたいものを信じそれが皆に共有され得ないことに気がつかないか、気がついていないふりをするような状況があらわれます。まだ「大きな物語が失墜した」と言って、それを前提として話が出来た時代は幸せだった訳です。「大きな物語の失墜」時代が「大きな物語」として機能し得ていたのですから。
じゃあなんでお前はそういうふうにメタレベルからポストモダンの徹底化について語ることができるのか、という批判は当然あり得るでしょう。それについては、私がグダグダ言っているようなこと自体が蛸壺宇宙の一つとして超越的な視座を取り得ない、とお答えしておきましょう。東浩紀風に言えば「メタレベルがオブジェクトレベルに引きずり降ろされてしまう」ということですね。
東浩紀のゲンロンが会員制有料ビジネスの形をとっているのは上記のようなポストモダンの徹底化が状況認識としてあるからです。身も蓋もないようですが、全てがフラットな状況で公共性を担保するには敷居を設けて閉じ籠るしかない、と彼は言っています。

teleoteleo 2018/09/22 09:51 >>あおさ
多分、ポストモダンというイデオロギーに取り憑かれているから言っても無駄だと思うけど、ゲンロンから脱会して別の本を読むなり、まともな学者の論文を調べるなりして、早く洗脳から解かれることを願います。

あおさあおさ 2018/09/23 09:26 このように私と貴方の話が通じないことこそが、ポストモダン的でポストトゥルース的な状況を証し立てているとは思いませんか?私が洗脳されているのなら、あなたも洗脳されている。それがグランドセオリーが無い時代の立脚点です。
「デタラメはデタラメだと言えばいいだけ」だそうですが、貴方が「周回遅れの手垢に濡れたポストモダン的な認識」が通用しないと仰られるのと同じ理由で、それは通用しないのでは無いでしょうか?そうで無ければ日本におけるレイシズムや歴史修正主義の勃興は説明がつかないでしょう。デタラメを指摘して足りるなら苦労はありません。それが通じる領域では事実を事実と指摘することは重要だと思いますが、自らの主義主張のために情報を利用する者に対しては「良心に基づいた実証」は無意味です。

teleoteleo 2018/09/23 12:44 >>あおさ
自分からまともに相手と取り合う気はないといちいち宣言するぐらいなら、わざわざコメントしてこないでくれるかな?次コメント書いたらIPごとアク禁にするんでよろしくね☆

あおさあおさ 2018/09/24 09:20 いいえ。現代においては「分かり合えないという前提」をまず、共有しないことには、対話は成り立たないのではないか、と私は問いかけています。正しい理路で正しいことを言うことを全面的に否定する訳ではありません。ただしそれが通じない相手も存在するし、むしろそういう相手の方が多いのではないか?ネットで文章を書かれている貴方なら、その点は実感としてあるのではないですか?
そういう状況で、何らかの正義を訴えようとするのなら、やり方を工夫しなければならないと思います。マスに訴えるとき、根本的に世界観が違う人間に訴えるとき、まずは自分の「正義」をカッコに括ることが必要なのではないかと思います。例え学問の世界で、正しい手続を経て、妥当とみなされている仮説であっても、枠組みを共有しない、価値観が各々バラバラな世界にあっては事実として力を持ち得ないかも知れません。
であるならば、ある前提を共有できる閉域を設定し、ある意味で閉じ籠ることは戦略としてアリなのではないでしょうか?外から見てカルト的に見えるかどうかは、それこそ各々の価値観によると思いますが、一見して何をやっているのか解らないのは全てダメだというのは、「正しさ」を打ち立てるべく奮迅努力している貴方にして自己否定になってはいないでしょうか?何故なら「正しさ」の基礎は「公共性」であり、「共有された前提」であるからです。「一見して何を言っているのか解らないが、まあ耳を傾けてみるか、どこか通じるところもあるかもしれない」という態度が、ポストモダン以前の公共にはあったのではないでしょうか。
ではそのような期待が不可能になってしまった現在においては、一旦閉じこもった上で、外から見て「入って見たい、面白そうだ」と思わせるような工夫を通じて、少しずつ「話が通じる空間」を拡大していく、という戦略があり得ます。私はゲンロンがやっているのはそういう試みだと理解しています。

まあ私自身が「正しさ」をベタに、コンスタンティヴに語ることの不能性を言っておきながら、一方では相対主義的な認識をベタに語ってしまっているので、自己矛盾していると思います。問題は状況をベタに語ることてまはなく、ポストモダンは織り込み済で、パフォーマティブにどんな試みが可能か、というものだと思います。東浩紀も現在はそこまで相対主義的なことは言ってない、と仰られていましたが、一旦閉じた上で、話の通じる空間を作り「正しさ」について考えるということをしているのだと思います。
話を最初に戻しますと、東浩紀が「閉じこもる」以前に、コンスタンティヴに状況認識を語っているのを、貴方はパフォーマティブに捉えられているのではないかと思ったのでコメントさせて頂いた訳です。
私の考えはこういうものです。『リアルのゆくえ』で、東浩紀はコンスタンティヴに状況認識を語っていた(あの対談では大塚英志に応答する必要上ということがあったと思いますが)。そして現在、基本的には同様の相対主義的な認識を持ちつつそれをベタには言わないで、ポストモダン状況でパフォーマティブには(実践的には)どの様な態度を取り得るか、ということの帰結として「閉じこもり」の上で漸進的に「開かれ」を目指しています。
それが貴方が見ると、大塚との対談での東の発言は、ベタに語ることの不能性を強調することによってネトウヨ的なものを肯定している、というパフォーマティブ(行為遂行的)な発言だということになっています。そして現在の東はそこまで相対主義的なことは言っていない、とも貴方は仰られました。東はコンスタンティヴ(ベタ)になったと仰られている訳です。
おおよそこういうことではないかと思うのですが如何でしょうか?私としては、貴方が『リアルのゆくえ』での東の発言をあのように読むことについては、些か恣意的ではないかと感じたので書き込みをさせて頂いた次第です。
まあ話が通じないからといって、正しさを語ることに意味がないとは思いません。それこそナイーブ過ぎる認識だと思いますし、第一「話が通じない」という認識が万人に共有されていたら、話は通じるはずです。閉じこもることを避けるのであれば語る場所、語る相手によって、そのつど、前提も語り方も変化させていくことが必要なのではないでしょうか。ポストモダン状況で何らかの価値を打ち建てようとするのなら、まずはそのことの孕む矛盾を受け入れなければならないと考えます。素朴に理想を語るならば、それが実践に移されるとき、同じフレーズを繰り返すことしか出来ず、単なる動員のゲームになってしまいます。その結果、勝利を収めたとしても、そこに至る過程に理路は存在せず、それこそ「ジェノサイド」となってしまいます。今の右派左派ともに「ジェノサイド」への傾斜を強めているのではないか、私はそこに危惧を覚えるものです。

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