オーバーロード ―さまよう死霊― 作:スペシャルティアイス
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昼下がりの詰め所にて、巡回使であるスタッファン・へーウィッシュは午睡から目覚めた。
脳に巣食った眠気の靄を振り払い見慣れた仕事場を見回しても、彼は自分がここにいる理由を思い出せなかった。
(私は、あのサキュロントと共に金蔓になる執事だかの屋敷に行ったはずだが)
彼は懇意にしている売春宿の者、サキュロントと共に強請のためある商人の所に向かったはずだ。
そこに仕えているらしいセバスという人物が、サキュロントの経営する店の従業員を違法な手段で拐わかした。王国にある奴隷法によって人の奴隷的な扱いは禁止されており、雇用者であるサキュロントの訴えにより巡回使であるヘーウィッシュが事情聴取に赴いた、という筋書きである。
実際は、客が取れなくなった娼婦を処分しようとしたところそのセバスなるものが保護したのだが、それにつけ込むような真似をこの男は行おうとしていた。
訪ねたその場に当人はいなかったが、その主人である金髪の令嬢に応対されたことは覚えている。
たまらぬ女であった。女を殴りながら蹂躙するのが好みであるヘーウィッシュにとって、これほどまでの美女を己の意のままにできたら、それを考えるだけで股間が熱り立ちそうになる。
「そんな……当家のセバスに限って、そんなことは」
「ぐふふ。だがねえ君ぃ、このようにして証拠は確かにあるんだよ?」
突然の訪問にセバスの主人である令嬢は顔を青くして涙を浮かべる。美女のその姿に己の賤欲を隠せず、その豊満な胸元から目を離せない。
(どうにかしてこの女を手篭めにしてやりたい)
へーウィッシュの頭の中はそれだけしか無かった。色香によって、事前の打ち合わせでのやりとりは頭の片隅においやられてしまったのだ。
「……この不始末、一体どうおさめるつもりですか?店側としては大事な従業員を拐われ、はいそうですかと引き下がるわけにはいかないのですが」
「そんな、私、一体どうしたら」
「とりあえず、従業員が稼いでいたはずの今日までの損失を補填していただきたいですねぇ。額として金貨200ほど」
悪意に笑むサキュロントの言葉に令嬢は泣き崩れた。目の前で弱る美女の姿に、ヘーウィッシュの黒い欲望は閾値を超えてしまったようだ。
「いずれにしろ!拐った人物は、老執事の姿で魔術師組合の押印の入った巻物を持っていたという証言がある。状況証拠から言って件のセバスが下手人であることは明白である!」
嗚咽する彼女に向けて、へーウィッシュはここまでの高圧的な態度を抑える。
「しかし、この場にいる彼女もいうなれば被害者。そうでないかねサキュロント君?ならば彼女にその全責任を押し付けるというのも酷な話だ」
「ヘーウィッシュ様……」
「なに、いずれにしろ金貨を200枚即日用意するなど簡単ではない。そうだろう?」
その言葉に顔を上げた令嬢は暗い瞳のまま頷いた。これに我が意を得たりと頷く。もはや性欲を隠さない態度で。
「ぬふっ。であれば資産価値の高い動産による頭金だけでも支払うのがいいだろう。わ、私が目利きしてあげるから、家内を案内してくれないかね?」
「私が、ですか?」
戸惑う令嬢をヘーウィッシュは促す。この提案にサキュロントは渋い色を示したものの最後には頷き、令嬢とともにヘーウィッシュは応接間を出た。
美術品が仕舞ってあるらしい部屋に向かっている途中、廊下に二人きりという状況で男の堪忍は限界を迎えてしまった。性的な意味で。
(も、もう我慢できん!!)
よだれを垂らさんばかりに緩んだ口元で、令嬢の腰に手を回そうとするヘーウィッシュ。しかし瑞果に触れる前にそこからの記憶はぷっつりと切れていた。
己の思考から浮かび上がったへーウィッシュは苛立つ。何故自分はあの令嬢をモノにしていないのか!?と。
「おい!誰かいないのか」
部署をとりまとめる立場にあるヘーウィッシュは日頃から横暴な態度であり、また女性に対してセクハラを行うため評判は良くなかった。それなりの地位にあるため、普段から彼はこうしていずれかの職員を呼びつけるのだ。
しかし、今日は何か違った。
「な、なんだ?」
ベチャベチャベチャッ。擬音にすればそんな粘着質な音が、まるで急かされた足音のようなリズムで居室に近づいてきたのだから。
それは扉の前で止まったようで、ブチュッブチュ、という音とともに扉が開かれた。
へーウィッシュが初めに感じたのは吐き気を沸き起こさせる腐敗臭。思わず咳き込み、開いた眼に飛び込んできたのは異形だった。
「hE―ウぃssyさmあ、お呼bいdEスKA?」
「あ、うあ、うあああああぁぁぁ!!?」
人型をとった粘液の塊が部屋に入ってきたのだ。そしてノイズがかった金切り声を上げ自分へ近づく、そんな現実にヘーウィッシュは椅子から転げ落ちた。
そんな彼を粘液塊は首を傾げたような所作で近づく。
「ダIじョうブDえSUKA?」
「く、くく来るな化物ォ!」
触りたくもないがこれ以上近づくなという無意識が彼の手を無闇矢鱈に振らせる。
“ベチャベチャベチャベチャベチャベチャッベチャッベチャッ”
先程よりも多くの、部屋に向かってくる粘着音にへーウィッシュが固まる。まさか、と考えた彼の予想は的中してしまう。
「NAnいゴトdエSuKA!!」
「ううぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!?」
己の叫び声に集まってきたのか、同じような粘体がいくつも部屋になだれ込んできた。それに気を取られていたへーウィッシュの肩にベチャリと嫌な感触と激烈な臭気が襲う。
「tAイ調GあワruいのデSu課?」
「やややめロぉ化物お!?」
「ぅワAa!」
粘液がつくのも気にせずへーウィッシュは必死に振り払い、背後の窓へと肥えた身体をねじ込ませる。
そのまま転げ落ちて外に脱出し、冷や汗を振りまきながら走り出す。悪夢のような元職場から逃げ出すために。
慌てたような声を背に受けていたが、彼にそれを気に留める余裕はなかった。
そのまま彼は駆け続ける。運動不足に肥えたその体は滝のような汗を止められず、狭い路地の入り口にさしかかり足を止めて息を整える間も滴り落ちる。
(な、なんなのだこれは!?王都で何が、何故私がこのような目に!)
日頃の行いを振り返り憤慨する。主人に日々の感謝を捧げ忠実に仕事をこなし、ささやかな遊びを慰みにする“善良”な人物である自分が、どうしてこんな目に!!ヘーウィッシュは大真面目にそう感じていた。
「も、もう、少し……大通り、出て助けを」
薄暗い路地にも先ほどの腐臭を微かに感じ、ヘーウィッシュは早くそこを離れたかった。建物の隙間から見えた陽光の下へと彼は飛び出す。そこに確かな救いがあると信じて。
前日までの崩れた天気とはうって変わり下火月の四日のその日、王都は快晴と言って差し支えなかった。住宅地では干された衣服が風に揺れ、久方ぶりのお天道様への歓迎の手旗のようだ。
店舗が立ち並ぶ大通りもまた清々しい陽の光の下を、正午とあってか多くの人通りがあった。
その人混みの中を滑るように流れ歩く影がいた。何故影と表現したかというと、その人物の気配があまりにも希薄であったためだ。
人混みの中で他人の影をいちいち確認するものはいない。その程度に意識されないほどの気配しか男、ブレイン・アングラウスは発していなかった。
淀んだ眼で茫漠と、此処ではない場所を見ているかのように彼は何も見ていない。にも関わらず、彼が人や障害物にぶつかるようなことはない。
(何とはなしに外に出たが、どうするか……)
雨の中のガゼフとの邂逅にて気を失い、気がつけば彼の自宅の客室のベッドの上にいた。目覚めた後にガゼフと顔を合わせ、
“目は覚めたか?まだ寝ぼけているなら食らわせてもいいが”
そう言って拳を握って凄むガゼフにブレインは両手を上げて応える。十分すぎるほどの睡眠をとれたおかげか、雨の中での投げやりな気分はやや下火になっていた。
“俺はこれから王城に出仕して一仕事ある。お前はこの家から出るな、と言うつもりだったが大丈夫そうだな。もし外に出るなら持っていけ”
そう言って貨幣の入った革袋を押し付けられる。それを無気力に、受け身で応えるブレインの姿にガゼフは顔を渋いものにする。
“戻ったら、お前に何があったか聞かせてもらう。夕方にはこの家にいるようにしてくれ”
“……おもしろいことは、何もないぞ”
“それを判断するのは俺だ。だからアングラウス、いやブレイン。外に出るなら必ず帰って来い”
(本当に、お節介な奴だ)
その気遣いに苦笑が漏れる。ガゼフは聞きたいと言っていたが、その実は己の中の澱みを外に吐き出させて気つけさせるのがその目的だと予想できた。
(だが、そんなあいつだからこそ、俺は真っ先に頼ったのかもな)
とりとめもなくそんなことを考えていると人混みの先で男の叫び声が上がり、ついで絹を裂くかのような甲高い絶叫が響いた。
騒然とした空気が場を染めると同時に、ブレインの鼻腔を嗅ぎ慣れた臭いが刺激する。
笑みが抜け落ち無表情のまま、ブレインは人を縫うように場に向かう。
「ぐひゃひャヒャひゃっ!死ぬ、殺せるンだ!!この化け物どもは!」
そこには肥満体の役人が、血のついた剣を片手に狂笑する光景があった。その足元には頭から血を流し倒れ込んだ女性の姿が。
「な、何をしているんだ!!」
そんな中、役人の凶行を止めんと群衆の中から男が飛び出し、後ろから役人を羽交い締めにしようとする。
「私に触れるなぁぁぁ!」
どこにそんな力があるのか吼えた役人は力任せに振り払い、男の腹に剣を埋めた。
刺された傷の痛みに膝をつく男へ向け、役人が剣を振り上げる。
「やめろぉ!!」
その横合いから、鎖着に長剣を佩いた短髪の青年が役人を体当たりで吹き飛ばす。意識せぬ場所からの衝撃に役人は倒れ込み、殺意を込めた視線を青年に向けた。
「ば、化け物どモがあ。一匹残らず、ここ殺して、殺シてやるぅぅぅ」
血走り焦点の合わない眼のまま、口角から泡を吹き出させながら役人が青年へと突進する。
ブレインから見て、役人の剣の心得は並以下であると見えた。そしてその相手である金髪の、兵士らしい青年はそこそこやれる。
多少の時間はかかれど青年が役人を取り抑えて終わる、そう思っていた。
「死ぃネぇぇぇぇぇ!」
「ぐうぅ」
役人の振り下ろしを青年は剣で受け流さんとしたようだが、予想以上の腕力と衝撃にたたらを踏む。そして青年は距離を取るのと牽制のため、役人の脇腹を蹴り飛ばして間合いを空けた。バランスを崩したため地面に片手を着く形になる。
「!?」
しかし役人は勢いのまま、滅茶苦茶に剣を振り回しながら群衆に突っ込む。
「うわあああぁぁぁ!?」
「通せ、通せよコラァ!」
「いやッイヤァァァ、こっちに来ないでぇぇェェェ」
その行動にそれを避けようと、そして狂人から逃げようと群衆の最前列の者らは周りを押しのけ始めた。
その光景に青年は拳へ
「おおおおおっ!!」
「?!化物ぉぉぉぉ!!」
振り返り青年を迎えんとする役人が、横振りに剣を振るう。役人がもつ剣は数打ち物であり、刺すことはできても斬れ味は殆ど無いに等しかった。しかしそのようなものでも数キロの鉄の棒を狂人が全力で振るってくるのだ、その破壊力は恐ろしいものだろう。
役人へ向け青年は正面から突っ込む。愚直に真っ直ぐに最短距離を。そしてそれ迎え撃たんと役人が青年を正面から睨めつける。
(先ほどの一合。膂力は役人が、技術は青年が上か。一度見た剣速をあの青年が見切るのは半々か)
正面から突っ込む利点は両者それぞれにある。それぞれが標的を視認できているので攻撃を当てやすく、また躱しやすいこと。
これが技量や武技の心得がある者であれば話が変わるが、役人が攻撃を当てるか青年がそれを避けて攻撃するかの結果しかない。
役人が剣を振るう。その剣速は先程よりもやや速く、戦いにおいてはその“やや”が明暗を分ける。
(まあ、やりようはいくらでもあるがな)
ブレインは青年や周りを助けようだとかあの役人を取り押さえようとは思わず、まあ自分に向かってきたら対処はするかという程度のことを考えていた。
しかし、その思考が途切れさせられる。風を切って振るわれた役人の剣が空を切ったのだ。
「目、目がァアァァ!?イダイ、臭い臭イィィィいぶげッ」
役人が突如片目を抑え、間合いを詰めた青年が剣を振り下ろしたのだ。剣の腹での打撃を頭頂にくらい、そのまま役人は仰向けに倒れ込む。
舞った砂埃が晴れ、倒れた通り魔とそれへ向け剣を構えた青年の姿を認めた瞬間、大きな歓声が上がった。
結果だけ述べれば、青年が突っ込む途中に役人へ石を投擲、それが片目付近に当たり怯んだ所で一撃を食らわせ昏倒させたのだ。片手をついた時に石を握り込んだのは咄嗟の機転だろうが、それを狙い違わず命中させたのは運か慣れか。
いずれにしろ青年はこれ以上の凶行を止め、周りの歓声に応えながらも気絶した役人を縛り、怪我を負った市民に近づいて自前らしいポーションを手渡した。
しかしその量では頭部を負傷した女性、刺された男性の両方を癒やしきることができず、教会の治療院に運び込むべく担架を持ってくるよう周りに叫ぶ。
その姿にブレインは一考、道具袋から死霊との修行の時の余り物である赤いポーションを取り出した。
「こいつを使え」
「えっ貴方は?」
「とりあえず怪我人共に使え。効果は確かだから二等分にしても問題はない」
「は、はいっ」
その言葉に従い青年は二人の怪我人の患部にポーションを垂らす。すると先程まで呻いていた怪我人がポカンと呆けた。
「嘘……あんなに痛かったのに」
「き、傷が無い!?」
それに周囲から驚嘆と喝采が上がった。使った青年といえば目を白黒させ、ポーションと元怪我人の顔を交互に見る。
「す、すごい!こんな即効性のあるポーションがあるなんて……。あの、ありがとうございます。このような高価なものを」
「貰いもんだ、気にするな。それより聞きたいことがあるんだが」
まっすぐに己に向けられる感謝の込められた眼差しにブレインは居心地悪さを覚えながらも問おうとした。
「……あの、まずはこの男を衛兵に引き渡してからでもいいでしょうか?これでも王国に仕える者として、後始末は最後まで」
「ああ、構わんよ。ところで名乗っていなかったが、俺はブレイン・アングラウスという」
その名乗りに青年は目を見開いた。
「ブレイン・アングラウスといえば、兵士長と互角の戦いを繰り広げたというあの!?」
「……昔の話だ」
「こ、光栄ですアングラウス殿」
興奮したような青年は背を正す。
「私はクライムと申します。姫さ……王国に仕える兵士です!」
そう名乗りを上げた青年は、生真面目な態度でブレインを見返した。
あの後、ようやく駆けつけた衛士に役人、スタッファン・ヘーウィッシュというらしい巡回使を引き渡した。
どうやら彼は気が触れて目に写る人間が化物に見えるらしく、凶暴になったり怯えのあまり泡を吹いて倒れたりと意思の疎通が不可能な状態になっていた。
昨日まではそのような様子はなかったと同じ職場の者からの証言でわかり、何故彼がこんなことになってしまったのか、それを調べるのは別の人間の仕事である。
また彼と同じような気狂いがもう一人現れたらしく、同じように牢屋に収監されているそうだ。人相の悪いその男は目が潰され耳から血を流し鼻がへし折られ、「助けて」と呟きそれ以外の反応を返さないらしい。
引き継ぎを終えたクライムが詰め所を出ると、目を瞑り壁にもたれかかる男が見えた。
「お待たせしましたアングラウス殿」
「ああ。……それとその呼び方はなんとかならないか。俺は“殿”なんてつけられる柄じゃない」
「ええと、ではブレインさんと」
それにブレインは頷き、二人は歩き出した。
クライムの案内で入った食堂に入ると、店主は忙しかった昼時の後片付けをしているようだった。店内は少ないながらも客は入っているようで、常連らしく店内の弛緩した空気の中に溶け合っている。
注文を取りに来た女将に適当な食べ物を頼み、ようやく二人は向かい合った。
「まずはお礼を言わせてくださいブレインさん。あなたのポーションでみんな助かることができました。ありがとうございます」
「俺はたいしたことをしていない。あの暴漢を倒したのは君だし、あのポーションだって何も慈善のために渡したわけじゃない」
「えっ?それはどういうこと―――」
疑問を目に彷徨わせるクライムは総毛立つ。まっすぐに己を見るブレインから確かな迫力、気当てが送られたために。
(なんて目をしているんだ)
己を見つめるブレインの目に光がないことに初めて気づく。己の明日すらも関せぬと言うかのような深い澱み。クライムはその目をどこか、どこかで見た気がした。
「君はなぜあの気狂いの男に向かっていった?」
「それは、私が王国に仕える者であり、市民を守ることは義務であるから―――」
「普通の衛兵であればあの手合には仲間を呼んで一対多で捕縛するもんだろう。被害を抑えたのは確かだが、君の行動は兵士らしくない。ポーションを借りだと思っているのなら、そこのところを聞かせてくれ」
増した気にクライムは口を噤まされる。深く息を二度吸ってから口を開く。
「……もしも私の主人があの場にいれば、身を挺してでも民衆を庇うだろうと思ったら、黙っていることができませんでした」
「主人?」
「恩人であり、私にとっての全てです。あの方のためであれば、命を捧げてもよいと思っています」
気迫に晒されながれも、クライムは真っ直ぐに対面の男の目を見返す。その瞳に黄金の輝きを見た時、ブレインはたまらず目をそらしてしまった。
(俺は……)
顔を伏せたブレインをクライムが怪訝に思い声をかけようとした時、注文していた料理がやってきた。
「とりあえず食べましょう。ここのお代は私に出させてください」
「……ああ」
顔を上げたブレインの瞳は澱んだままだったが、その心中にはいささかの変化があった。
(この青年、クライムには俺にはない何かがある、はずだ。あの場にて立ち向かえた何かが。そして俺の気迫をはねつけたのもそれのため、じゃないだろうか)
ブレインの感じたクライムの中にあるナニか。それの正体を知り悟った時、己の考える強さ以外の肝意に気づけるのではないのか。もう少し彼について知ろう、そうブレインは考えた。
当人は気づいていなかったがその心境の変化こそ、彼自身が立ち上がろうとしている証左だった。
夕方の商業区の一角の屋敷、表向きはとある商会の持ち物であるそこは王都に巣食う犯罪組織、“八本指”の拠点の一つだった。
現在は組織の荒事解決を担う警備部門の者らがそこに集まっていた。
地下室の一つ、拷問に使う器具が置かれた一室、そこに四人の人物がいた。
「ダメだなボス。ヘーウィッシュめ完全に壊されている。魔法を使われた形跡がないのが腑に落ちんが、それを抜きにしても元通りにすることはできん」
「……情報も引き出せん有様とはな」
うずくまって身を縮込ませる狂人に顔を顰めた巨漢の坊主、八本指の警備部門である“六腕”の長ゼロに傍らの外套を被った
するともう一人、踊り子のような衣装の上に長衣を羽織った女性、エドストレームが口を開いた。
「それで、こいつをこんなにした下手人は件の執事、もしくはその身内って所でいいのかしら?」
「状況証拠としてはそうだろうが、いくら六腕最弱とは言えこいつも王国の平均から見れば強者だ。それをこうするというのはただの商人と執事がやったとは思えん。それに魔法も使わずここまで心を壊すなど」
「ということはボス、我らの同業者ということは?」
デイバーノックの疑問にゼロは腕を組んだまま首を振る。
「暗殺、密輸部門からもその手の話は漏れてこない。無論、ライラの黒粉の件で他国からの間諜の可能性も否定できんが、それでもサキュロントを倒すとなると限られてくる。かのイジャニーヤならば話は別だが」
「頭が痛くなるわねぇ。ただでさえ最近は小蝿が五月蝿いのに」
「“蒼薔薇”の連中か。そういえばペシュリアンとマルムヴィストはどうした?」
サキュロントを裏から手を回し保釈させたまでは良かったのだが、連れてこられた時にはこの状態だった。デイバーノックは魔法的な洗脳がないか調べていたのだが、このような場では六腕全員が集まり対策を練る事態だと思っていたので疑問を口にした。
「奴らはコッコドール、奴隷部門の護衛だ。奴めサキュロントの件で報復がくると思ったようだ」
「……てことはボス、他部門にもこの話が伝わっているってことよね」
エドストレームの言葉にゼロは渋面で返す。警備部門の人間が他部門の仕事でポカをやらかし、あまつさえ白痴にされて白昼の下に晒された。
その事実のみで部門の長であるゼロの面目は大いに傷つけられ、場合によっては八本指内の力関係にも影響が出る可能性もあった。
面子に重きを置く裏の世界において、それが損なわれることは非常に大きな意味を持ってくるのである。
「情報が足りんな。このような相手にさく労力とぶつかる損失、どう考えても割に合わないと思うが。ボス、どうする?」
「……いずれにしろ、組織に手を出したことには変わりないのだ放置はせん。潰しても問題ない奴らに例の商人宅を襲撃させ相手の情報を探る。それと同時に、直近で王都に入った強者について洗い出しを行おう。そこから下手人を、もしくは新しい六腕を探すか」
ゼロが言い終わると同時にゴキリという音が室内に響く。その音源の先には、首の骨を折られ絶命したサキュロントの姿があった。
「よかったのかしら?」
「こいつから情報は出ん。いつまでも面汚しをそのままにしておくほど、俺は忍耐の限界に挑戦するつもりはない」
吐き捨てたゼロは背を向け階段へと歩きだし、残った二名もそれに続こうとした。
(なんだ。急に気配が)
アンデッドであるデイバーノックが不意に、同族の気配を感じて振り返る。そこには、後で手下に片付けさせようと放置したサキュロントの屍体が。そしてその上に浮かぶ、烙印を背負った死霊の姿を見た。
(なっ…サキュロントめ。もうアンデッド化し――)
そこまで考えたデイバノークだが、ゼロとエドレストレームに声をかけようとする。しかしそれは間に合わない。死霊の突き出した靄手から極彩色の瘴気が吹き出し、三人が呑まれたからだ。
ヘーウィッシュとサキュロントの交渉場面は原作五巻を参照してください