2010-09-21 けいおん!という病。”全員女子大進学問題”を考える。
■[萌え撲滅に向けて!][ガラパゴス化する日本と萌えアニメ]けいおん!という病。”全員女子大進学問題”を考える。

事の発端はみんな大好き(?)けいおん!2期の第21話「卒業アルバム!」で秋山澪が公立大学の推薦を蹴って、琴吹紬が志望する女子大に、平沢唯・田井中律と共に仲良く4人で進学するという、私はこれを『けいおん!全員女子大進学問題』と呼称しているが、これが最終話の24話「卒業式!」まで覆されること無く、この作品が終焉したことに全て起因している。私は端的にこの問題を、日本社会の精神的後退と怠惰の象徴であると認識している。この記事を執筆している現在(2010.9.20現在)、けいおん!2期は番外編とやらがあと2話残ってるらしいが、全員女子大進学という規定路線が覆されることは無いであろうから、やはり私はこの問題に危機感を感じずにいられないのである。
2.”離別”を描かずして何が青春か!
第20話「またまた学園祭!」で、不覚にも私は落涙したのであった。それはこの回が、けいおん!という作品が抱える作品的テーマの全てが内包された、そのカタルシスの昇華であったからに他ならない。けいおん!第1期・第1話で、主人公・平沢唯が、軽音楽部(けいおん)に入るのを決意するその第1話で、いみじくも「翼をください」が流れた。私はこの瞬間、けいおん!は傑作に違いないと踏んだ。(⇒関連記事『きょうび「けいおん!」を観ない奴は非国民である。』)左記の過去記事にも詳しいが、その理由を要約すると『何かしなくちゃいけないような気がするんだけど、いったい何をすればいいんだろう?』という実存の不安に晒されていた、まだ何者でもない平沢唯が、軽音を通じて自己存在を確立していくという、正に青春作品の王道の第一歩を踏み出したからに他なら無いからである。
このように、けいおん!という作品がその第1期・第1話で、そのような古典的青春ストーリーから出発したとなれば、この作品で求められる作品的テーマはただひとつである。それは、「軽音楽部」を通じ自己存在を確立し、それを通じて結ばれた仲間との確固たる友情は、「卒業」という離別を通じて完成されるというこの一点に尽きる。いわば、青春モノの甘酸っぱさと、切なさと、見るものに与える感動の全ては、高校時代(若しくは中学時代)という名のモラトリアムは、しかしどう足掻いても3年で終わってしまうという、その儚さこそに、全てが凝縮されているからに他ならないのである。
翻って、2期を通じたけいおん!はどうであったか。私は、流石京都アニメーションだけあって、1期・2期を通じて人物感情の丁寧で精巧な描写は素晴らしいものがあったと思う。特に、1期・2期のEDのクールさといったら、アニメ史に残るものであろう。しかし、しかしである。肝心の、青春とは離別によって完成される、という大テーマをいとも簡単に本作は踏みにじってしまった。残念ながら、けいおん!を見ない奴は非国民の前言は完全撤回するより他に無いであろう。
話を少し戻すと、20話の「またまた学園祭!」で、彼女たちは何といったか思い出して欲しい。彼女たちはステージの上で「ずっと演奏していたいけど、最後の曲です。放課後ティータイム、U&I」と切り出し最後の演奏を始める。それは文字通り、高校生活最後の演奏であり、彼女たち4人+1(あずにゃん)の最後の演奏であった筈である。いみじくも「U&I」の歌詞では次のように謳われている。
キミがそばにいることを当たり前に思ってた
こんな日々がずっとずっと 続くんだと思ってたよ
ゴメン今は気づいたよ 当たり前じゃないことに
これこそが、もう終わってしまうモラトリアム=青春の儚さと切なさの全てを象徴しているのだ。だからこそ彼女たちは、ライブが終わった後お互いに号泣し抱擁するのである。この場面で視聴者も落涙するのは道理であろう。ところが、続く21話では同じ女子大に全員が早々と進路を決め、22話では特に苦労も無く全員が女子大に合格する。当たり前のことだが、全員が同じ女子大に進学する以上、本作では離別はありえない。形式的に卒業式をやったところで、それは何の作品的意味の無い無味乾燥な記号に成り果てるのである。このような終焉が、作品的に許されていいのであろうか。そして、その「ずっと続く青春」は果たして彼女たちに益をもたらすのであろうか、そして見るものに成長を与えるのであろうか、甚だ疑問である。
*この後の展開でその涙が全く無駄になった第20話
3.彼女達を愛するなら離別させるべき
そも青春作品で離別が描かれるのは、仲が良い彼ら彼女達を「卒業」という社会的システムを利用して悪意の元に引き裂くのでは無い。「卒業(若しくは他の理由でも良いが)」によって登場人物が離別してラストを迎える理由は、離別の先には成長が待っているからに他ならない。読者諸兄も実際の人生経験で数々の離別を経験したであろう。小学校からの友人、中学の同級生、高校時代の親友達etc…、しかし人は必ずそこから離別しなければならないのである。我々人間が母親の母乳から離別して更に一段と大きくなるように、離別とは終わりではなく始まりの予兆であり、その先に成長という希望があるからこそ、その離別は必ずしも暗澹たるものではなく、寧ろ光に満ち溢れているのである。それこそが青春、それこそが人生の真実なのでは無いのであろうか。
だからこそ、けいおん!の主人公らも当然の如く離別が必要であった。もしけいおん!の熱狂的ファンらが、けいおん!という作品を愛し、彼女達登場人物を本当に愛しているのなら、彼女達の為にも絶対に離別が必要であった。彼女達が別々の進路、別々の大学を歩むからこそ、彼女達4+1の軽音活動は光り輝き、その思い出を秘めて後人生を歩んでいけるのではないか。
しかし、けいおん!は遺憾なことに彼女達にその成長の道を歩ませようとしなかった。今回京アニは、彼女達を成長させること無く、怠惰な時間の流れの中に留めて置くのが良いと判断して、更にこれを視聴者の大半が支持しているようである事は、誠に嘆かわしいばかりである。
いつまでもこの楽しい学園生活がずっと終わらないで欲しい。でもいずれは終わる。しかも3年以内に。それこそが青春の現実なのに、それを一切反故にしてしまうけいおん!は罪深い。これと似たようなテーマに押井守監督の「ビューティフル・ドリーマー」がある。この作品では無邪鬼という妖怪が永遠に続く楽しさを渇望する主人公達を夢の中に取り込んでしまうというオチであるが、本作ではこの楽しげな夢を最終的には否定し、現実に帰還することを選択するという物語であることは読者諸兄なら存じているであろう。現実は辛く、現実は厳しく、現実は理不尽である。しかし、その現実に立ち向かわなければ、それは虚構であり嘘であり夢である、というのがビューティフル・ドリーマーのテーマである(無論、それすらも嘘なのではという皮肉でもあるが)が、翻ってけいおん!の主人公達は、無邪鬼の作った夢の中で何時までもいつまでもお菓子を食いながら楽しく暮らす夢遊病者の如き人生を歩むことを善としているかのように思える。
これらに類似するテーマ性を内包した作品は洋の東西を問わず沢山存在するが、非常に著名なところではこれら押井作品の薫陶を受けたマトリックスもそうである。けいおん!に例えるなら、離別の道を歩まなかったあの4人は、脳髄に電極を繋がれていつまでも現実に覚醒しない植物人間に類似しては居まいか。彼女達4人の為を思うのであれば、秋山澪が公立大学の推薦を蹴った時点で、唯は烈火の如く怒るのが正解である。秋山澪の可能性を潰してしまうその選択を、本当の友達であるなら許してはなら無い筈だ。しかし唯はおろか、担任の教師にしても何の躊躇も無くその選択を笑って許可するという、これがオトナとしての真摯な態度とは私には到底思えない。思えないどころかその無責任な態度は教育者として失格であり、不快感さえ感じる21話であった。
彼女達4人には、桜高校を卒業して同じ女子大に進学し、あまつさえ同じ会社に揃って就職でもするというのだろうか。どうせこの調子ではあずにゃんとやらも1年後に同じ女子大に入るのであろう。これは極めて気持ちの悪い、グロテスクな最終回である。何度も言うように、本作を愛し、彼女達を愛するのであればあるほど、全員女子大進学などという狂った設定を許してはならない。その先に成長は無く、怠惰と堕落が待っているだけである。人間形成に貴重な高校時代および大学時代を、同じ固定メンバーだけで過ごすなど、これは他でもないオトナが止めなければならないのである。一時の感情だけで、人生を決めてよいのか、と。それは君達の為にならないよ、と。
そしてまるで、同じ女子大に進学しないと4人の友情が維持できないかも知れぬという描写も腹立たしい。新海誠の「ほしのこえ」では8光年離れていても心が繋がっている。翻ってけいおん!では、同じ女子大に進学しなければ友情が壊れてしまうという、逆説的に彼女達4人の人間関係の薄っぺらさも描写することになってしまった。本当に20話の彼女達の落涙は何であったのか、疑問である。
*物理的な距離は関係性の障害ではないことを描いた新海誠「ほしのこえ」と比べると、けいおん!の描写は逆説的に4人の人間関係の希薄さを浮き立たせてしまう。同監督の「秒速5センチメートル」も同様。京アニの見識を疑う。
4.現実から逃げる為のけいおん!。けいおん!は「日本病」患者のモルヒネだ。
私はこの記事を書くに先だって、twitterでアニオタ保守本流「けいおん!全員女子大進学問題をdisってみた」をとぅぎゃって纏めた。これは大変な反響のようであるが、ここのツイートの纏めのひとつに秀逸なものがあるので本ブログでも一寸だけ紹介したい。
このツイートは極めて秀逸である。この短文のひとつが、女子大進学問題と名づけたこの問題の本質の全てを言い表しているからである。現実を直視せず、将来の可能性までをも奪って、4人全員が同じ女子大に進学することでエンディングを迎えたけいおん!。先に書いたように、離別によって成長することを拒否(忌避)した本作は、@sugari氏のツイートを再び引用するとすればそれは、
@sugari氏 ”トマス=モアの作ったユートピアという概念は、ギリシア語で「すばらしく良いがどこにもない場所」の意。けいおんの世界はまさしくユートピア。それは天国や極楽へ通じる思想。誰かが言った。天国には死人しかいないと。”
の一言である。再び言うが、現実は辛く、現実は厳しく、現実は理不尽である。その現実から逃げるためには、現実にはありえないけいおん!のような”夢”の中に逃げ込み、そこに救いを求めるのが最も好都合である。女子だけの、女子だけによる、女子だけの部活動、楽しい女子だけによる学園生活が永遠と、大学でも続くなんて、正に”昨今の萌えオタク”にはド直球に受容されそうな設定を確信犯的に京アニは形成している。だからこそ本作けいおん!がこれほど支持されているわけであるが、残念ながら再三再四述べているように、現実を忌避し、想像力の中に救いを求めるのは私は間違っていると思う。 @sugari氏の最初のツイートに戻れば、それは現実という苦痛の緩和剤としてのモルヒネの効用に他ならない。あずにゃんぺろぺろ、ムギ愛してる…確かに楽しいであろう、しかしそこには作中の彼女達の成長は無いばかりか、視聴者である我々の成長も皆無であることを知らなくてはならない。
もののけ姫のハンセン氏病の長いわく、生きることは苦痛である。しかし、その苦痛の緩和剤としてけいおん!という名のモルヒネに頼ることは、甚だ危険なことであろう。なぜならモルヒネはだんだんと効かなくなるからであり、当たり前のことだがけいおん!シリーズがどんなに長く続いたとてサザエさんのような時間軸ループ作品では無い以上、それですら終焉を迎えるしかないからである。
*宮崎駿監督「もののけ姫」ではハンセン氏病の長(おさ)を通じて、次のような台詞が語られる。「生きることはまことに苦しく辛い。世を呪い人を呪い。それでも生きたい…」我々は想像力の中に逃げ込んではならない。現実が辛く苦しいからこそ、想像力を土台にして現実に立ち向かわねばならないのだ。
彼女たち4人を同じ大学、しかも男性という”敵(視聴者から見ての)”が存在しない、全くの保護領域・ユートピア下にそのまま存置させるという選択は、私は何か成長しないことを善とする、失われた20年以降の、日本人のメンタリティの根源が如実に影響しているように思えてならない。即ちこれらを総称して日本病といわれることがあるが、本作けいおん!こそ、それの究極的な到達点にあるように思えてならないのは私だけではあるまい。
このような、成長しないことを善とする価値観、頑張らなくてよいことを善とする認識、積極的に切磋琢磨することを蔑視する風潮、これらの”日本病”は別称としてガラパゴス化と呼ぶこともあろうが、成長する諸外国を尻目に、日本経済の実勢的な数値はおろか、メンタリティすらも腐敗、堕落の極みに達しているのが現在日本のカルチャーの現状であり、私はその先鋭的なものとして「萌え」(萌えアニメ)がそれに当たると書いて反響があった。⇒詳細は(詳細は『ガラパゴス化する日本と萌えアニメ』を参照されたい)
当然の事ながら、萌えアニメのトップランナーである京アニとけいおん!はその先鋭に該当するのであるが、殊けいおん!がこのよう終了となった以上、やはりこれは社会的害悪として断罪せざるをえないのではないだろうか。仲間内だけで関係性を構築し、外部に晒されることの無い(女子高・女子大)、その閉ざされた関係性(ムラ)が永遠と継続されることを善とする作品…。この全員女子大進学問題に代表される、成長する事、外部に触れることを良しとしない作品、またそれを完全受動で受け入れる視聴者が広域に、特に若者層において顕著に存在する限り、日本の将来は益々真っ暗である。
かつて想像力とは、現実に対抗することを前提に作られていた。その代表格が新世紀エヴァンゲリオンであることは言うまでも無い。エヴァンゲリオンで、庵野秀明監督はその劇場版(旧)に於いて、エヴァに浮かれたコアなマニア(そこには私も含む)に『現実に帰れ!』と説いた。かくして私はエヴァという夢から現実に帰還し、後人生を歩んでいる。しかし、けいおん!を無批判に受容する若者は、現実に帰るどころか現実を忘れるための「モルヒネ」としてけいおん!を受容している。そこからは何のクリエイティブも、何の発展も生まれはしない。
*新世紀エヴァンゲリオン 旧劇場版 Air/まごころを君(1997年)では、いみじくもラストの実写シーンで観客席を映すことにより、「現実に帰れ」とメッセージがこめられていた。それから10余年が田って、アニメから放たれるメッセージは正反対のモノになっている悲しさ。
現実が辛い、現実が厳しい、現実が暗いからといって、無邪鬼の作った夢=けいおん!の中に逃げ込んで、「あずにゃんぺろぺろ」とか言っているうちに、彼らは25歳になり30歳になり、気が付いたときには40歳になっている。腹は出て、髪は薄くなり、青春の輝きは遠い過去の遺物でしかなくなる。その時に、福本伸行先生の「最強伝説黒沢」ばりに現実の冷酷さにはたと気が付き、現実に立ち向かおうと思っても、けいおん!型の逃避アニメばかりに偏った想像力の備蓄しかなければ、全くもってお話にならないであろう。
けいおん!をみて今は楽しい彼らは、彼らの親や祖父の世代の日本国家のインフラを食い潰している、その安寧の上に生きているに過ぎない。彼らの親の世代が寿命で死滅するとき、けいおん!に逃避する暇も無いほどに、この国は疲弊しているであろう。モルヒネをいくら打っても効かないほど、日本国の病状は進行していくであろう。そのときの為に、現実に立ち向かう力を想像力から涵養しなくてなんとするか。かつての先人達が、想像力から現実へ立ち向かったのと全く逆の現象が今、日本の若者の間で起こっていることは極めて憂慮すべき事態である。その筆頭が、残念ながらけいおん!であり、製作者の京アニは益々以って罪深い。だからこそ、現実へ立ち向かう想像力として、彼女達の離別は絶対必要であったのだが。
本来、彼女達が桜高校を卒業すると同時に、我々視聴者もけいおん!から卒業・離別しなければならないのだ。
*京都府の国勢調査のイメージキャラクターになったけいおん!。現実から逃避し、成長しないことを肯定する本作をマスコットに使ったところで、未来の為に実施する国勢調査の一体何に寄与するのか全く疑問である。
追加.twitterまとめへの反論
twitterのアニオタ保守本流「けいおん!全員女子大進学問題をdisってみた」が大反響なのであるが、ここのコメント欄に多い意見を紹介すると、あずにゃんと先生(さわちゃん)の別れは描かれていたのだから、離別のテーマ性は描かれているので良いということである。
これらの意見では、一定程度私の”青春とは離別を以って完成される”という論には共感抱けたのであろう。しかし、それをして「あずにゃん」と「先生」は分かれるから…の反論は本作を駄作から救い上げるだけの免罪符には到底ならないことを自覚すべきである。
当たり前のことだが、主人公4人の実存こそが問われる作品において、あずにゃんと先生は付属物に過ぎない。先に書いたように、このような終劇であると、どうせあずにゃんは1年遅れで同じ女子大に進学、先生はどうせ彼女達が女子大に行っても仲のよいお茶のみ仲間ぐらいの地位に成り下がるのではないか、と容易に想像がついてしまう。いくら付属物に試練を与えたところで、本筋の4人が一緒である以上、それは無意味な悪あがきなのである。
更にもう一点多かったのが、「アニメに成長を求めるのは間違っている」という意見であるが、これも笑止であろう。本文でも書いたとおり、かつて先人達は現実に立ち向かう力を想像力の中で涵養していた。かつての先人達よりも益々わが国を取り巻く状況が悪化している平成の昨今、想像力は益々現実に立ち向かうための糧に張らなくてはならないのではないだろうか。
私は、少し前だがSMAPの「世界にひとつだけの花」というポップソングが大ヒットして驚愕したことがある。その歌の中では、「ナンバーワンにならなくてもよい、もともと特別なオンリーワン」というフレーズが繰り返し謳われていた。私はこの歌が、平成日本の怠惰の象徴のすべてでは無いかと思う。頑張らなくて良い、成長しなくて良いことを善とする思想…それが音楽やらアニメやら漫画やらのカルチャーの想像力の中で毒電波として発信され続けている。
私はこのような一連のカルチャーの中にある腐敗した想像力(その先鋭的なものがアニメに於ける萌えであるとはこちらの記事で詳述している)の、最も顕著な作品が前述の通り本作けいおん!のラストに反映されていると強く感じている。
あずにゃんぺろぺろ…と日本人のうら若い青少年が想像力の中に逃避している間に、中国人は巧妙に尖閣諸島に接近し、世界中に中華ネットワークを張り巡らせ、米粒の1つ、飲料水の1滴、石油の1滲みを獲得するために血眼になって向かって来ている。よくネットではシナ人の民度云々というが、生存の為に現実に立ち向かっている中国人の民度云々を、想像力の中に逃げ込みあまつさえそこに篭る事を善とする堕落した日本人がとやかく言う資格など無い。
GDPで追い抜かされ、尖閣諸島に侵攻され、小日本と徹底的に小馬鹿にされ、アジアに於ける地位が失墜しても、まだ日本の若者はけいおん!という名のモルヒネを打ち続け、想像力の中で安寧するのであろうか。特にこの国の未来を担う若年層がそれでは、本記事のタイトルの通りそれは病を通り越して害悪になりかねないのではなかろうか。
日本以外の世界中の人々は、成長することに疑問を抱かない。己を研鑽することに疑念を持たない。ナンバーワンに成らなくとも良い…という腐った思想からは何も生まれない。世界中で日本人だけがこのような狂った思想の中に埋没している。100年後の史家は、日本滅亡の精神的原因にこのことを挙げるであろうと私は予言しておく。そして、折角それに対抗できる想像力を涵養するカルチャーの、アニメにおけるトップランナーであるけいおん!がこの体たらくでは、もう暗黒しか無いことは論を待たないのである。
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?のような反論は、最終回で「現実を受け入れる」という点に成長の主眼を置くアニオタ保守さんなら、到底問題外の反論ということになるんでしょうが、問題は?ですね。あなたなら「アニメで成長を描かないのはナンセンス」とおっしゃるかもしれませんが、これはもう「アニメの役割」とか「見る側の心構え」といった次元のお話になっている。これでは、結局意見が違う人達と論争しても水掛け論になる可能性が高い。あなたが何を言っても「のれんに腕押し」となる可能性が高いのに、それでもなおこういった問題提起をする、ということにどのような意味があるのでしょうか。「現実が辛いのは分かってるけど、せめてアニメの中だけは…」っていう人は絶対出てくると思いますよ。
最後に一言だけ。たとえ最終回がどんな形であったとしても、あなたが1期の第1話を見て「けいおんを見ない奴は非国民だ」と言ったこと、エンディングが素晴らしいと感じたこと、20話で涙したこと、これらが全て無意味になってしまうことは絶対ないと思います。少なくとも私は、この作品を離別とか成長という観点で見ることはありませんでした。今でも、けいおん!!という作品に出会えた事を素直に喜びたいと思っていますし、辛い時期にこの作品を見て元気をもらったのも疑いようのない事実です。アニオタ保守さんは、アニメをこのような形で見ることについて、間違っていると思われますか?
例え、浦島太郎がシンデレラや白雪姫より素晴らしい作品だとしても、同じ話を延々を繰り返されると誰も見向きもしないでしょう。
また、その素晴らしさに気がつくことはないでしょう。
違いから学び取ることも大きいのです。
私は保守ではないですが、萌えアニメが嫌いです。
シンデレラばっかり聞かされるのはごめんです。
浦島太郎ばかりでもごめんですが。
成長しない話が悪いとは私は思えませんね。
問題は、そんな話ばかりにどうしてなってしまったのかという点にあって、けいおん単体の問題ではないような気がします。
ガラパゴスでは生き残った一部の生き物が爆発的進化を遂げました。
逆に言えば、とてもユニークなようであっても元を辿ると数が少ないのです。
そこにこそ今の日本アニメの問題点があるように私は思います。
筆者はすべての(青春)アニメで、成長は描かれなければならないとお考えですか?
筆者の批判を1つの作品につめこむのは酷であると私は思います。
私「例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。それともあなたにはその人達も幻に見えるの」
古谷「2カ月前、あのラジオをやる前から、俺もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとしたが、結局最初の砲声が轟くまで誰も気付きはしなかった。いや、もしかしたら今も」
私「今こうしてあなたの前に立っている私は、幻ではないわ」
古谷「気付いたときにはいつも遅すぎるのさ。だがその罪は罰せられるべきだ。違うか」
・・・みたいなことをパト2のラジオ語りでやってみる?w
そんなコトとっくに自覚もしてんだろうけど
それでも言わずにはいられない!て気持ちには共感できました。
「現実を思い出させるアニメ」より「現実を忘れさせるアニメ」のがもてはやされ
それにとどまらず前者を解体して自分好みに再構築し、後者のように消費しちゃう傾向すらあるからね。
その問題についてお話ししたければそれ単独で記事をお書きになればよいと思うし「けいおん!!」最終回について気に入らなければそれで別によかろうと思うのですがごった煮にされるとどうも違和感が拭えません。
「離別」と「成長」については作品内でおおっぴらに明示はしないもののそういう描写は随所にありますよ。もっと作品に沿った考察をしてみては?と大きなお世話ですが言わせていただきます。
当然けいおんという作品の中に悪意はないし、時代の流れの中で生まれた作品ですからけいおん!だけ指摘してもしょうがない。
そんなことは古谷さんだって分かってるはずです。ただ、今のアニメの象徴が大人気のけいおんだから例に挙げてるだけでしょう。
文化というのは、その時代時代に必ずどこかに実存の社会が反映されています。マーケティングの観点から見ても当たり前の話ですが。
それを80年代からのアニメの流れと社会を併せて説明している。
オタクは一つのことにのめり込むので、ややもすると木を見て森を見ない傾向に陥りがちです。
ここは萌えを否定している所から始まっているブログなので、萌えアニメも嗜む人は直ぐ噛みつきたくなるんでしょうけど、古谷さんの言っていることは決して間違っていません。
古谷さんが夢中になったエヴァだって、当時は社会学の観点から悪い点を指摘されたこともあるんです。
「コミュニティの一生」でググってもらいたいですが、縄張りを守るために論争するのではなく、それぞれが広い視野を持って考えてもらいたいです。
僕が思うのは、アニメはただの一社会の鏡であって、アニメが社会を形成しているわけじゃないということ。求めていた物が売れた。ただそれだけの話です。
けいおんを否定してると言うより、けいおんを大きく支持してしまう日本人(まだオタクの領域ですが)に危機感を抱いていると解釈してもらいたいですね。
じゃあなぜ「癒し」が求められるかというと、今の社会が痛々しいから。そもそも視聴者層のなかで学生って実は少ないんじゃない? また「けいおん!!」で想像力を養おうという考えもないしょ。
多くの視聴者が「萌え」アニメしか観ないつーことなら、古谷くんの問題提起は意味や意義があるんだけどねぇ。
「痛み」については、他のアニメで事足りると思う。京アニというアニメ製作会社は、過剰に「癒し」に特化した作品作りによって、芸術性を高めようとしているのかもしれないのであって、「痛み」を描くことは、その芸術性の追求において「澱み」とならないかな…?
「萌え」の追求をアートと捉えた視点で考えれば、全員女子大進学というのはアリだと思うよ。「そこまでやるか」と拍手したいくらい。
あの一話一話が何も始まらず何も終わらないぬるい感じがピンと来なかった一人なのですが、
古屋さんのツイッターの檄文を読んで流石にこの表現じゃ、
「そりゃないよなーこれじゃけいおん好きな人達がかわいそうだなぁ」と思いましたが、
ブログでちゃんと対外的に読める文章にしてきたのは流石ですね。面白く読ませていただきました。
それにしても古谷さんもNHKで「日韓基本条約を真に理解しない韓国人など糞である」とは言わないでしょう?
そんなことしたら相手の心にがっちり鍵がかかり、
せっかくの議論や対話の機会が閉じて収拾つかなくなるだけですよね。時間がもったいない。
カップめん好きの人達に「カップめんって健康に悪いよねまずいよねカップめんなんて糞だよね」って話しかけたら、
そりゃ収拾つかなくなります。「カップめんのあるべき姿について話そうよ」とするなら、
賛否両方で意義のある対話が成立すると思います。
自分にとってガラクタにしか見えないものでもどこかの誰かにとっては、
宝物のように大切にしている物かもしれないし、それを生きがいにしている人もいるかもしれない。
その誰かの存在に想像力の欠如から思いやる事のできない者に対話や議論を開く資格はないかもしれないし、たとえ議論を開いても始めから閉じてしまっているとおもいます。
内輪の飲み屋での第一声ならば大歓迎ですがツイッターといえども公共の場ですので、
できれば今後自重をお願いしたいと思います。。
相手が悪いとはいえ安易に個人情報をさらしてしまったあずまんのカンニング問題といい、
有名になったらその責任の重さを感じてほしいと思います。
言論の神様がいたら「コラッ」ゲンコツもんです。
(すみませんエラそうに自分も結構子供っぽいので自戒をこめて。)
同じ所に違和感を感じました。逆に新しく感じられ悪い意味でそうきたかーっと感心したほどです。
あともし離別の視点から言うと、自分としては「この後も音楽を続けてください~」の下りが気になります。
解釈の仕方ではビートルズのように彼女たちが音楽活動を続けるともとれるし、
大学どころか彼女達がいつまでも一緒である事の正当化の暗喩になりえます。
あの藤子不二雄ですら別れたのですからこれも逃げの演出ととろうと思えば取れます。
そう取ってしまうとずるいですね。
2000年前後癒しという言葉の流通と共に台頭し始め、成長してきた萌えですので、
ある意味その集大成といえるのではないでしょうか。
いまさらと言う気はしますがたぶん文中でのモルヒネと、ここで言う癒しはイコールではないかと。
エヴァを例に現実の厳しさの言及もありましたが、エヴァで現実に帰る決断にいたるというくだりは、
私には意外に思われました。思い返してみて私があの物語のすごいなと思ったところは、
最後現実に帰ったシンジ君を待っているのは、自己にとって未来の可能性の半身たるイヴに、
自分のアイデンティティを全否定されるというきつーい結末でした。ポイントは現実回帰を美化しない潔さです。
私は当時いい大人でしたので素晴らしいと思いつつも、大丈夫か?これを見た子供達が明日から、
「明日からがんばるぞ!」ではなく、
「やっぱりダメなんだ逃げていいんだ」って思いはしないかと心配したのを思い出します。
【解釈おかしかったらごめんなさい。エヴァ世代の人にエヴァを語るなんてすごい怖いですm(_ _)m】
この現実の厳しさとモルヒネといった鎮痛作用の存在意義の賛否はものすごくデリケートな問題でしょう。
姉が医大の秘書をしておりますが癌告知で自殺してしまい、泣きくれる家族をよく見るそうです。
本人が望んだにもかかわらずいざ現実に直面すると自我が崩壊してしまう例もあるそうです。
(ちなみに強気なほどもろいそうです)
うつ病の人に頑張れというと悪化しかねないように、
ベタでつまらない言葉になりますが、強い人ばかりではないので、
物語における、偽りの楽園と現実とをユレながら、いかに実生活によりよい形でフィードバックさせるかという命題は、まだまだ発展途上で、あと何ステージもより考察され進化しなければいけないでしょう。
私の感想としては先の文にもあります通り、うつ病の方達に理想は時として効果が薄いだけでなく害にもなりえますので、次の効果的な手立てを見つけていない現時点では、現場医療と同じく対処療法で時間を稼ぐほうが現実的だと思います。
それはそれまでの古典的ヒロイックストーリーではなくガンダムやエヴァのような病んだ物語が、
逆説的に多くの人の心を変えたように、今無理やり古典的な成長ストーリーを示してみても、
たぶん伝わらないのではないかと。
私の直感なのですが、変に離別を描き綺麗にまとめるよりグロテスクなまま突き進めたほうが、
けいおんらしく、また今の世相をよく現し逆説的に現代の病みを浮き彫りにするのでよいのではないかと。
もともとそういう作品と思っていましたので。
私達の世代の監督が泣きアニメで一生懸命表現していますが作品の良し悪しはともかく、
社会現象としていまいち処方箋とはなっていないように思います。
作家達やエンドユーザー、ネット等の評論表現をもっと活力を持って行い、
癒しでもなく古典的な成長物語でもなく、エヴァの次の、
ネクストステージの物語を見つける時期に来ていると思います。
以上の理由で私はけいおんは共感はしかねますが、答えではなく過渡期の作品として、
しょうがないかなという事で容認派の立場とさせて頂きます。
思うにけいおんを見て死にたくなる人はいないような。
ガンダムやエヴァのほうがやばいのでは?
(ガンダム以降ネクラが増えた気がするし)
(確かエヴァでは劇場版を見て自殺者が出たなんて話も。都市伝説かな?)
伊集院さんも言っていましたがこの作品をきっかけに音楽活動をはじめ、
生きがいを見つけられるなら素晴らしい事ですし、
形はどうあれ結果的にこの作品で少しでも幸せになってもらい、
明日のバイトの活力や受験勉強のエネルギーになるならば、
私はマキャベリストでもあるので納得のいかない自分をねじ伏せ、
「いいんじゃね」という事で自分を説得しました。
私にはこの物語は必要ないですが。
(あと自戒をこめてですが、どちらかというとけいおんに文句を言っている立場の方が素直でなく心の闇を感じます)
(まあ欲望に忠実な人のほうが人間らしく見えるという事かもしれませんが)
あとは、成長がないと言い切ってしまう所や青春についての解釈に自分とは違うなーという所もありましたので、書こうかとも思いましたが、年のせいか話が長くなりそうで迷惑千万と思いこのへんでやめときます。
今回も大変興味深い文章でした、なかなか面白い考察の機会が得られました事を大変感謝しております。
またよろしくお願いしたい次第です。
最後に堅い話はリテラシーの低い私としてはお尻がかゆくなるので、
私の希望するけいおんの最終回を。
小さな勇者たる亀のとんちゃんが巨大化しガメラとなり、
できたてのスカイツリーの鼻っ柱をポッキリいったのち、
壊す価値もない日本の都市はスルーして、
尖閣諸島問題で中国の国力を駆使して円高誘導するなぞほざく北京や上海の町を、
とんちゃんが火の海にしたところ、
立ち上がった唯、律、澪、紬の4人がモスラの小美人よろしく、
「ごはんはおかず」の歌で、とんちゃんの怒りをなだめるw。
ああ、そんな気合の入ったけいおんが見てみたい。
大変失礼いたしました
そもそも成長の必要性を現代社会では見出せないからです
ぜひとも”現代における”成長の意義を詳しく教えていただけないでしょうか?
離別がなければ青春は完成せず、成長もないという考えに同意です。
twitter上での反論における梓やさわ子との離別という指摘も的外れとしか思いません。
しかしながら、そもそもけいおん!!では離別が描かれていないと断じることができるは思いません。
私は、桜高という高校で、あの部室で5人で放課後に集合することはもうないという逃れようのない事実から離別をはっきりと感じました。
これは「高校時代(若しくは中学時代)という名のモラトリアムは、しかしどう足掻いても3年で終わってしまう」ことそのものではないでしょうか。
「離別がない」という指摘の根拠として4人が同じ女子大に進学すること、
おそらく梓も追って同じ女子大に進学するだろうことを挙げていますが、
登場人物、またその関係のみを見て離別がない、よって青春も成長もないと断じるのは変です。
離別しない、とおっしゃいますが単にaniotahosyuさんが離別ということを極端に狭く定義しているだけであるように思います。
部室に差し込む夕方の日射し、ホワイトボード、並べて長椅子に置かれたカバンなどという光景をやたら本編で多く描くのは、
部室や学校という場所で登場人物が過ごす様相を重視しているからではないでしょうか。その全てがもう再現されることのない光景です。
U&Iの歌詞が、もう終わってしまうモラトリアム=青春の儚さと切なさの全てを象徴しているとご自分で書かれているではないですか。
それは17話での『部室がない!』(高校生活が終わった後の疑似体験)という経緯を経て完成されたものにほかならないし、実際に作中で律がそう言及しています。
>ところが、続く21話では同じ女子大に全員が早々と進路を決め、22話では特に苦労も無く全員が女子大に合格する。
それですよ。「けいおんにおいて重視されているものは高校生活とそれに伴う心理描写であって、
卒業してしまった後に関する事柄など描くまでもないものだ」という作品の姿勢の表れだと思います。
けいおんにおける離別はこのように描かれ、青春は完成したと思います。
けいおんに描かれた高校生活はおっしゃる通り夢のようなものでした。しかしそれはもう終わってしまいました。
私も萌えなど撲滅されてしかるべきものだと思います。
あなたの感想は「自分の世界しか見えない蒙昧なおたくのイタさ」がひしひしと伝わってきます。
あなたの思考レベルは小学校高学年男子ぐらいでしょうか。
自分の意見を捨てて、面白いストーリーを書きたい人、
あるいはアニメでお金を稼ごうとする人の気持ちになって
5分ほど真剣に考えてみることをお勧めします。
それくらいならあなたにもできるでしょう。
離別を描くことで、オタクの心にどれほど訴えられるのか。
その検証やデータを古谷さんは持っているのでしょうか。
そこをお聞きしたいです。
古谷さんの仰るところ。
「離別を描いてオタクが現実に回帰することを訴えた」として、それを意に返さないのであっては糠に釘だと思ったのです。
失礼ながら、私は「けいおん!」という作品を1期の半分くらいまでしか視聴していません。
しっかり批評するなら「最後まで見るべき」でしょう。
ですが「らき☆すた」辺りから全話みるのが、とても辛くなりました。
私はアニメを見始めたら基本的に中座はしません。
単純に価値観に合わないのもありますが、しかし最近になって感じたことは「高い山を登らせてくれないアニメ」が増えたなと。
ギャグならちゃんとしたオチのある作品が山になりますし、シリアスならカタストロフィーという山(佳境)があって、その後にカタルシスがあるでしょう。
「らき☆すた」や「けいおん!」は「のほほんとした展開を見て、気軽に楽しむアニメ」で、それを意図して脚本しているとしたら、とても凄いことでしょうが、「高い山を登らせてくれないアニメ」を視聴するのは、個人的にはとても苦しかったです。
古谷さんがよく仰る作家性やメッセージ性の強い監督達の共通点の一つに、アニメやオタク、また日本や日本人に対する懐疑心という物を常に抱いてるような方達でもあります。
(この場合のオタクとはアニメを好んで視聴する人と、広い意味で捉えてもらい結構です。)
彼らは、自分が作った物に群がるオタクを眺められる立場でもあるが故に、オタクやアニメの欠点とかも見えてくるんでしょう。(本人もどこかしらオタク気質ですが)
常にアニメにもオタクにも危機感を持っていて、どこか戒めを持って接しているように感じられます。
それはコンフリクトですね。コンフリクトは物語やドラマを強くするのに欠かせない要素です。
けいおんというのは、そのコンフリクトを徹底的に廃した作品ですよね。
先生は先生らしくなくて同じ学生みたいだから目の上のタンコブでもない、恋、嫉妬、強い悩み、嫁選び視聴者にとっての敵である男性の排除、家族観の欠如、物語が全くないと言ったら怒られますが、けいおんはこういうドラマになる可能性の物を意図的に廃してます。
これじゃ実存的な問題はそこまで炙り出てこないし、モルヒネに見えても仕方がない面がある。
別に悪いとは思いませんが、この実存問題から避けるアニメがオタクや学生に支えられてるってのは、今までから考えるとかなり違和感なのは間違いないです。
ざっと読む限り、どうやら保守本流さんは『けいおん!!』のテーマを軽音部の5人の関係性のみに見出して、肝心の(何度も描写されてきた)時間の一回性の問題を見落としているんじゃないかと思いました。
例えば、本文中で「これこそが、もう終わってしまうモラトリアム=青春の儚さと切なさの全てを象徴しているのだ」と書いておきながら、「肝心の、青春とは離別によって完成される、という大テーマをいとも簡単に本作は踏みにじってしまった」という誤った結論に至っていることからも明らかです。
それは恐らく「離別の先には成長が待っているからに他ならない」という見当違いの前提を立てていることに起因するのでしょう。
『けいおん!!』第20話や最終回で描かれていたのは、「高校生活の中でこの5人でバンド演奏できるのはもう最後」という(関係性ではなく)時間との決別・離別です。
第21話での唯の髪の切断と4人の関係性の継続という一見矛盾したエピソードが示すのは、彼女たちの関係性が流動する時間の中で途切れずに続いて行く一方で、卒業アルバムではもう二度と再来しない時間(再現できない髪型)が「思い出」として切り取られているという人生の真理でしょう。
また、第23話の大掃除と楽曲録音のエピソードが示すのは、部室内(ホワイトボード等の空間)に固着した軽音部の歴史を再び音楽(時間)に還元しようという「時間との別れ」の準備でしょう。
その上で最終回では、「駅のホーム」や「河原の道」に擦れ違うそれぞれの時間が(幾度も現在と過去を連結してきた)「同じ空」で繋がっている普遍性・遍在性を歌っているのです。
失礼ですが、批評家を名乗る割には記事の問いの設定があまりに稚拙・粗忽ではないかと思いました。
特にさわちゃん先生が、彼女たちの決断を否定しなかった所にです。
普通ありえないですよね。
あそこは子どもの軽はずみな決断に対して、しっかりとした大人の立場からダメだと叱るところです。
と思っていました。
ですが、よくよく考えたら「ああ最初から、これを狙ってたのか」と。
つまりあの音楽室での時間は、彼女たちにとっては「最高の幸せ」なんですね。
で、視野が狭いとかいう話ではなく、もうそれ以上はないわけです。今が最高に輝いてるから。
唯は成長してもああいう子なので、今以外は考えてないでしょうけど、
他の子たちは三年間で大きく成長し、人並みに自分の将来の可能性を探し、真剣に悩み考えていたと思いますよ。
でも、最終的にああいった道を選んだ。さわちゃんも頷いた。
それは、別々になるのが辛いから苦しいから、という消極的な理由によるものではなく、
この輝いている今を絶対に維持する、という積極的な姿勢なんだと思うんですよね。
逃げではなく、彼女たちにとってそれは「挑戦」だったんじゃないでしょうか。
最高に楽しい今を維持するっていうのも、ものすごく難しいし、
単に作中を見る限りでは、ただのほほんとしているように見えますが、
じっくり覗き込むと、それぞれがそれぞれ、必死に努力しているのがわかります。成長は日々していた。
ですので、日常萌えの裏テーマとして、
1、最高に輝ける今作り(一期)
2、やがて絶対に訪れる卒業、今の終焉
3、今の終焉の回避(二期)
があるような気がします。
「放課後ティータイムは、永遠に放課後です!」とはつまりそういうことなのでしょう。
そういう努力の仕方っていうのは、なかなかこの現代を生きる我々にとって、
共感できる部分があるような気がするのですが、どうでしょうか。
そもそも、「女子大を四大より下に観てる」というコメント等有りましたが、見当違い甚だしいですね。
発言者の文章読解能力が相当低いことが伺い知れます。
さて、今回の本題である全員四大進学問題ですが、私もコレにはものすごい違和感を感じました。
コレは古谷さんが語られている部分に大体が起因しているのですが…。
しかし、古谷さんが仰るような全員別々の大学に進学する、という様なシナリオは事、「けいおん」に於いては不釣合いなように思います。
(商業的に第三期をやりたいという理由もあると思います。)
私は問題は全員四大に進学したことではなく、そこに至る過程が大きな問題だと考えます。
特に21話「卒業アルバム」~24話「卒業」までの4話はお粗末としかいい用がありません。
全員同じ大学に行くにしても、そこに至るまでの葛藤がほとんど描かれてないところが、まさに「グロテスク」です。
展開でいうならば
20話で最後のライブ(ココで必ず訪れる離別、終焉の現実を突きつけられる)
↓
離別の現実に抗おうとする4人の葛藤を描く
↓
24話「卒業」
こうならば、ここまでの違和感は無かったと思います。
プロセスが描かれること無く、なぜか最終話の卒業式は茶番に見えましたし、達観した4人が梓を慰めるシーンは誠に奇妙極まりなかったです。
そもそも、けいおんは二期から、話の中心が梓の視点で描かれることが多くなっていました。
その時点で、この作品の少女たちの成長というテーマがぶれていました。
古谷さんは、梓と先生は付属物と言われていますが、最初はそうだったかも知れませんが、話が進むにつれてその部分がブレていたのは間違いないです。
このブログのコメントでもありましたが、まさに佳境を描かずにすっからかんに終わった作品だと思います。
この「離別」を本作における時間のテーマ性に当て嵌めて考えると、劇中何度も描かれていますがね。
修学旅行やマラソン大会での迷子、演劇での死の先送り(お墓が見つからない)と「離別」の予行演習、文化祭ライブの後に上演される予定の「風とともに去りぬ」、「いつまでも放課後です」という宣言の直後の静寂(と、会場の親和的空間に亀裂を入れるノイズ)等々、数え上げればキリがありません。
正直「すっからかん」なのは、以上のような繊細(だけど明白)な演出にすら気付いていない一部の視聴者の感性なのではないでしょうか。
<修学旅行やマラソン大会での迷子、演劇での死の先送り(お墓が見つからない)と「離別」の予行演習、文化祭ライブの後に上演される予定の「風とともに去りぬ」、「いつまでも放課後です」という宣言の直後の静寂(と、会場の親和的空間に亀裂を入れるノイズ)等々、数え上げればキリがありません。
正に藻さんが仰るようにこれまで色々な離別に抗う描写が何度もありあましたね。
だからこそ、21~24話の希薄さは際立っているということです。
つまり物語の佳境に於いての葛藤がすっからかんだということです。
<正直「すっからかん」なのは、以上のような繊細(だけど明白)な演出にすら気付いていない一部の視聴者の感性なのではないでしょうか。
私が描いたことの解釈がずれてると、このように思うかも知れませんね。
例えば、第21話だと部室で撮った写真の背後の扉はEDの「未来」に向かう扉を連想させますし、迷いや寂しさを表す運動場の横の構図と、進路を決めた後の廊下や横断歩道の縦の構図が対比され、最後に鮮明な青色の川のカットを映し出していますよね。
第22話だと雪と窓の黒紙や渡り廊下の情景等が重要な役割を持っていますし、第23話だとチャイムが鳴る際の4人の表情と唯の戸惑いが印象的です。
そして最終回では擦れ違うこと(或いは誤読することによる意味の変異)と傷(痛み=葛藤)が黒タイツや絆創膏や色紙や伝言ゲームによって関連付けられ、この時間的差異の痛みが「同じ空」で解消されるという秀逸な解答を示していたと思いますよ。
私には口が裂けても「すっからかん」などとは言えません。
ttp://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-487.html
思い出しました。
言外の意味が画面内で過剰に示唆されていて、あまり頭を使わず画面を眺めていたい視聴者にとっては意味不明な映像・演出も多々あったと思います(特に横谷氏の脚本回など)。
例えば、やたらと繰り返される豚や亀や童話や迷子やキャトルミューティレーションなどの単語・モチーフなどでしょうか。
なんというか論点のずれた感想なんですが、
「皆が同じ大学へ進学」という展開の是非はともかくとして、
「不自然な展開ではないな。」と私は感じてます。
何故かと言うと、現実でもこういった流れで大学を選んでいる人が増えているからです。
ニュースなどの受け売りですが、今は大学全入時代、大学は就職の予備校と言われている時代ですし、
大学を単に「大学卒業資格を得る場所」と考えるのならば、「高校で仲良しの子達と一緒に通える大学」を絶対条件として選ぶこともできる訳です。
私個人としては、自分のやりたいことや自分に合ったことよりも「お友達と一緒」を優先して進路を選んでしまうのってなんだか幼稚(言い換えれば、この記事で書かれている通り「成長が無い」)だなーとは思いますが、「大学」というものの性質が変わってきてる今、当然のようにこういう大学の選び方をする女子高生が描かれてるアニメもあって当然なんだろうなと思います。
また、ただの娯楽として扱えば良いじゃないか。そう言われたら遇の音も出ません。
でも、文化っての物にはアンチテーゼを盛り込んだ方が面白いんじゃないのか。
文化ってのは、社会に対して反目していって成り立ってる面がありますよね。長寿アニメのサザエだって元は社会風刺が内在している新聞の4コマ漫画です。
別に、けいおんが売れようが売れまいがそれ自体はどうでも良いのですが、もうちょっとそういう訴えかける作品が多く生まれて欲しい、注目してくれるようなオタクが増えて欲しいって、願いがあるんじゃないかなぁ。
そもそも、萌えアニメファンのコミュニティが大勢派で出来あがってるのに対し、作家性の強い監督が好きなファンのコミュニティが散り散りになっていて年々話題に挙がらなくなってる気がしますし。
よくメッセージ性の強い作品を説教臭いって言いますけど、文化を通して社会を考えるってのも凄く良いことですよ。
選挙に出ない、年金納めない、そういう消極的批判行動が増えてるのって、単純に社会情勢にあまり興味ない人達ですし。
普段、馴染みのある文化から通して社会にもっと興味が持てるような作品が生まれれば、こんな素晴らしい事もないと思いますね。
そういう意味でも現実に帰れって言うか、実存問題を炙り出すような鋭い作品はこれからも生まれて欲しいですね。
もちろん、日々を一生懸命にこなしてる上で単に癒しとしてアニメを見ている方にまでこういう想いを理解して欲しいとは思いません。
それに文化なんてのは、くだらない物、商業的な物、芸術的な物、多様な価値観があってこそ発展するもんだってことは間違いないんです。
ですから、古谷さんもけいおんの意義性を問うより、本来の作家性の高い作品がもっと注目されるべきだって本来のスタンスに戻した方が良いと思います。
古谷さんの精神衛星面にも害が及んで、その内嫌にならないのかということも心配です。
自分は、一アニメファンとしてこのブログを拠り所として楽しみにしていますから更新が止まると泣けます(笑)
即ち、第1期との反復・ループを意識させつつも彼女たちの高校生活はどうしようもなく一回性・固有性を内包しているという主題ですね。
そしてそれは極々日常的で当たり前のことであるが故に、「物語」とは対照的な「非物語」的な空気系アニメと軽視されがちなのですが、しかし非物語的な日常にこそ我々の等身大の物語が詰まっていると私は考えます。
現に、『けいおん!!』ほど日常的な非日常性(非物語的な物語性)をドラマチック且つ丁寧に描いた作品って殆ど存在しないのではないでしょうか?
部室に射し込む夕日、ティーカップ内に反射する光の形、ホワイトボードの文字、千変万化する室内の色彩表現と構図(天井を突き抜けるほどの俯瞰)、室外に漏れ出る演奏の音など、一つ一つの描写が一度きりの豊潤な「今」を実感させてくれたと思います。
だからこそ、「別れ(離別)」はこれらの「時間」に対して行われるのでしょう。
実際は、そういう場面があったことも分かります。
僕が少し指摘したいのはその「非物語性」についてなんですが、確かにドラマチックな展開の方がむしろ非現実的だと思います。
そのことについては全くそう思うのですが、僕が言いたいのは設定の配置ですね。
例えば、一番気になったのは親という存在がまともに見えてこないので背景が薄く感じるということですね。
調子に乗ってギター掻き鳴らしてたら親から怒られて勉強しろと言われた。これくらいのドラマは合った方が日常らしいんじゃないでしょうか?
あの5人に焦点を合わせてるんだからいらないんだよと言われても、日常を描いた非物語性を説くなら尚更そういう部分にはリアリティを持ってこだわってもらいたかったと僕は思います。
全ての作品がそうとは言わないと前置きはしておいて、僕が萌えアニメで好きになれないのはそういう面を軽視しがちな傾向があるからです。
逆に、萌えだろと軽く見て評価を覆されたのはとらドラとかです(笑)
またツンデレとか記号的なキャラだと思って舐めてましたが、中盤から段々と多様な面を見せてくれましたし、家族の問題とかもシリアスに扱って驚かせてくれました。
ま、とらドラは関係ないですね(笑)
あれは恐らく第1期の萌えアニメ然とした閉鎖的環境設定の名残だと思うのですが、しかし同様の作品の『らき☆すた』では親の物語までもが描写されているので、結局は原作の問題なのでしょうね。
こうした原作との兼ね合いから、親を登場させずに周囲の大人(隣のお婆ちゃん、さわ子の同級生)で代替し、世界観を補完していたのかも知れません。
ただ、あの徹底した親の排除(文化祭では1カットだけ描かれましたが。)については、モブの同級生の異常なほどの微細な設定と対比して再考してみる必要があるとも思っています。
まあそれ以上に『けいおん!!』のリアリティ(掛け替えの無さ)を担保していたのは学校や部室という空間、或いはケーキや鞄やキーホルダー等の小物類だったような気がします。
例えば、部室の椅子に置かれた5人の鞄とキーホルダーや、窓に貼られた黒紙は、各エピソードを通じて何度も何度も(その光景の意味を剥奪されるほどに)繰り返し描かれてきましたが、この「当たり前」が不意に崩れる時、日常性・非物語が特別な非日常性・物語に変質するのですね(例えば、最終話でいつもの場所に鞄を置こうとした時に気付く卒業証書の存在や、第22話で皆で雪を見ようとする際に5人を1つの窓枠に収める黒紙等が該当します)。
即ち、「U&I」で歌われる「当たり前のことの当たり前でなさ」とは、人間“関係”よりも寧ろ、反復された(ように見える)日常的“時間”の特別さだと思うのです。
故に「離別」は人間関係ではなく時間に基点を置くのでしょう。
古谷さんには疑問に思われましたが、けいおんって学生にも結構ウケてると思うんですよね。もちろん、クラス中が見てるなんてほどの現象ではないですが。
「けいおん面白いから見てみ」「本当だ、ハマったわ」
こんな感じの自己体験話がネット上でも結構な数として見受けられますし、僕の知り合いの学生にも実は二人ほどけいおん好きいるんですよ。一人はもろアニメ好きですが、もう一人は普通なんですよね。
という現実を見てるので、確かにあまり言いすぎるのも失礼かなとは思っています。
共感できる部分もたくさんあるからこそ、あれだけ人気が出たんでしょうし。
ちょっとこの件で書き込みすぎましたね。お目汚し失礼いたしました(._.)
「同じ大学に進学できたので良かった。できなかったら悲しい。」それだけであることに留意すべきで、御説は拡大解釈と思う。
第二に、この作品のテーマは明らかに「青春ドラマ」とは一線を画すものであり、おそらく、思春期の成長はテーマではない。
この作品がテーマとして描くのは、「当たり前の触れ合いの大切さ」であると思う。
この作品には親(それは思春期の若者にとって反抗の対象でもある)や負の人間関係が描かれない。
それは、重苦しいテーマが、優しく温かい、しかし注意は引きにくいテーマを圧倒してしまう恐れからと思われる。
恋愛が描かれないのも大体同じ理由と思う。
もちろん「離別の悲しみ」よって、「当たり前の触れ合いの大切さ」は強調されるかもしれない。
しかし、これは本来のテーマから別のテーマへ観衆の注意をそらしてしまう危険性をはらむ。
けいおん!!は逆に、そして、ある意味では素直に、「離別なき喜び」によってそれを表現した。
そのラストは、彼女らが今後も「当たり前の触れ合い」を大事に生きてゆくのだと全ての観衆に想像させる。
そのラストは観衆への問いかけでもある。
「今後」のステージを(大学生をあるいは社会人を)現に生きる観衆は
自らの「当たり前の触れ合い」について問い直すだろう。
もし離別が描かれていたら、4人の日常的触れ合いは卒業以降は保持されない。
彼女らが今後どう生きるかは不明となる。
従って、観衆への問いかけは起こらず、
高校既卒の人間にとって、もともと他のテーマ性を極力排除してきたけいおん!は、「なつかしみ」か萌えの対象でしか無くなる。
彼女らの卒業と離別と成長にもかかわらず、観衆の心は彼女らの高校時代に閉じ込められてしまう。
このラストは、けいおん!という作品にとってはベストなものだったと思う。
おそらく、ゆるゆる4コママンガの流れを維持したかった原作サイドと、最終回に歌で感動させたかったアニメ制作サイドとの妥協点として、「梓・さわちゃんとの別れを集中的に描く」が選択されたのではと推測しています。
だから個人的にはこれはこれで納得しているのですが、やはり、「それぞれの道を行く」であった方が、梓との別れもぐっと深いものになったと思います。
また、この展開ならば、せめて4人の進路の決定時に、さわちゃんが「本当にそれでいいの」と再考を促す描写があれば、それはそれで逆にこの最終回は「これからも放課後ティータイムでやっていくんだ」という決意表明としての意味を与えることができ、また別の面白さがあったのではないかと思います。
↑だったら梓との別れも描くべきではないよね。卒業をラストにしたこと自体が誤りだ。思春期の成長というテーマは第一期が明確に主張したことだし>上の方
唯たち4人はクラスメイトに見守られながら高校生活最後の学園祭ライブを行うという経験から、梓は5人で軽音部の活動を行うという経験から、さわ子は初めての教え子を担任するという経験から、それぞれに人生に一度きりの時間から「離別」しています。
この時間との「離別」をより印象的に描くために、関係性における「離別」を敢えて混同させずに描かなかったのだろうと思います
その意味では、4人の関係を継続させ、さらに最終話で軽音部結成時の写真を手渡して梓自身の時間も続くように描写したのは、非常に誠実で的確な判断だったと考えます。
何故なら、途切れずに続いて行く時間(とそれに伴う関係性)の中で、それでも彼女たちは二度と現前しない一回性の人生を生きているというテーマが明確になるからですね。
唯たち4人と梓とさわ子が劇中でそれぞれ流す涙は時間との「離別」の象徴でしょう。
そして重要なのは、関係性の「離別」と「成長」との間には特別な相関性が認められないのではないか、ということです。
現に第1期から関係性が固定した彼女たちの精神性は、入学式と卒業式の時点で比較すると大きく変わっています(成長しています)。
つまり「成長」を促すのは、ある関係性(共同体)の中で積み重ねられるコミュニケーションの歴史、即ち「時間」なのではないでしょうか?
また、「天使にふれたよ!!」で歌われる「同じ空」が作品内でしばしば異なる時間を繋げる役割を有していたことにも注目すべきでしょう。
どうもブログ主の方は、そういった演出・描写に関する感度が鈍いようですね。
一期にしても、思春期の成長はメインテーマになっていないと思う。
例えば、努力や親との衝突は思春期の成長の欠かせぬ要素だが、ほとんど排除されていることからも分かる。
ブログ主を含めた各者の議論を読むと、その裏に
「思春期の成長を描かないのは正道を外れている。テーマ性が希薄になる」
という暗黙の了解の存在が伺える。
私はこの暗黙の了解は誤りだと思う。
この漫画の読者、アニメの視聴者を考えたとき、「思春期の若者」はその何割だろうか?
思春期の成長はテーマとして常に最優先されるべきものといえるのか。
思春期の成長は高校既卒者にとってはしばしば、追憶の対象でしかなく大きな教唆はもたらさない。
ラストを卒業としたことは適切である。
彼女らの卒業によって、観衆(特に高校既卒者)の日常に物語がリンクされるからだ。
梓とさわ子との離別はあまり強調されるべきではなかったかもしれない。
しかし、それは日常の触れ合いの大切さを強調してくれるスパイスとして働いているようにも思う
(特に、卒業しないでほしいと言った時の梓の言葉を考えると)。
また、結局、ラストは今後の彼女らの大学生活を想像させる場面で終ることを考えるべき。
また、番外編のせいでアニメの場合は実質ラストになっていないことも考えるべき。
古谷さんの書き方だと、おっしゃりたいことの根本的な部分が伝わってきません。さしあたりキーワードからご説明ください。アプローチは、哲学的、人間学的、社会学的、歴史学的、など何でも結構ですが、どの立場かは示してください。
?「青春とは離別によって完成される」ということを一般化している論拠。そもそも青春とは何か?離別とは何を意味すると考えておられるか。青春の完成とは何か。完成という 言葉と流動という言葉をどのように捉えているのか?
?「高校時代(若しくは中学時代)という名のモラトリアムは、しかしどう足掻いても3年で終わってしまう」 モラトリアムという言葉でもって何を理解して いるか。「モラトリアム的」なのか、「モラトリアム」なのか。それはけいおんに当てはまるのか。(そもそも肉体的に成人していない人間はモラトリアムの定 義にはあたらないのが基本ですが、)そこでおっしゃりたいことをもっと具体的な言葉で教えてください。
?「同じ女子大に進学しなければ友情が壊れてしまうという、逆説的に彼女達4人の人間関係の薄っぺらさ。」という逆説に至った前提。そもそも、そのような 逃避からけいおんの子たちがその決断に至ったと判断された根拠。
?仲間内だけで関係性を構築し、外部に晒されることの無い(女子高・女子大)、その閉ざされた関係性(ムラ)が永遠と継続されることを善とする作品」とい う言明について。そもそも、これが悪だとされる根拠。(わたしもそれ自体は悪だと思いますが、理由と根拠が肝心です)仲間内の関係性「だけ」で、軽音部が成り立っていると考えた根拠。
読んでいて
残念ですが、古谷さんに対する認識を改めねばならないと思った記事でした。理由は次の通りです。?おっしゃることの根拠の説明のなさ。?その一般化。?学術用語の使用に、不適切なものが多いこと。国民を啓蒙したいのであれば、まずご自分の言葉に敏感になってくださいね。?この書き方では、たんに現実的な連関だけを捉えており、本質が見えてない人間に見えてしまうこと。
ご返答お待ちしております。
離別=青春って、あなたが勝手に思い込んでいるだけでしょうに。
>今回京アニは、彼女達を成長させること無く
離別を描かなくても成長を描くことはできるし、彼女達の成長は作品中で十分に描かれていました。あなたは気付かなかったかもしれませんが。
>アニオタ保守さんは、アニメをこのような形で見ることについて、間違っていると思われますか?
そんな事はありません。どのように見るとて自由でしょう。
ただし、離別しない青春はありえないという点は強調したいです(本文の通りです)
ただし僕は、主人公の成長無しに視聴者の成長もあり得無いというスタンスを取っているので、けいおん!から最終的に元気を貰うことはできませんでした。
hutomomoさん
>筆者はすべての(青春)アニメで、成長は描かれなければならないとお考えですか?
そんなことはありませんが、あまりにも片方だけ(萌え)だけが描かれている現状には辟易して、それを憂いています。
sugariさん
やりましょう!
mobile_nekoさん
ヒックとドラゴンも良いらしい。
purupuruさん
>なんだか保守本流さんは作品や反論を自分の側に寄せすぎな感を受けます。
萌えの人も同様に自分の側に寄せて語っているのだから、反萌えの僕もそうであってよいはずです。何故僕(片方)にだけ客観的な姿勢を求めるのでしょうか。
made1njapanさん
>僕が思うのは、アニメはただの一社会の鏡であって、アニメが社会を形成しているわけじゃないということ。求めていた物が売れた。ただそれだけの話です。けいおんを否定してると言うより、けいおんを大きく支持してしまう日本人(まだオタクの領域ですが)に危機感を抱いていると解釈してもらいたいですね。
我が意を得たり、その通りです。
山野車輪先生
>じゃあなぜ「癒し」が求められるかというと、今の社会が痛々しいから。
痛々しいからこそ、想像力の中にその痛々しさに立ち向かう何かがあると僕は信じています。
>「痛み」については、他のアニメで事足りると思う。
であればいいいですが、残念ながら現状のアニメにはそれがほぼ無いのが実態であります。あと京アニの芸術性はハルヒで既に証明されておりますから、京アニファンとしてはもう逃避や追認の作品とは離別していただきたいというのが本音です。
かつさん
>内輪の飲み屋での第一声ならば大歓迎ですがツイッターといえども公共の場ですので、できれば今後自重をお願いしたいと思います。
今後の自重は致しません、なぜなら今回の記事はわかっていてやったことだからです。穏便なこと、穏当なことを言うといまの世の中誰も読んでくれないです。読んでくれない以上は、多少のアジテーションは必要なのだと思っています。でも糞といってないような…駄作、作品として終わってるとは書きましたが。もちろん僕は京アニのファンですから、けいおん糞だなどとは思っておりません。
これを切欠に考えて欲しい、という提示です。それはNHKのときと変わっておりません。
>また今の世相をよく現し逆説的に現代の病みを浮き彫りにするのでよいのではないかと。もともとそういう作品と思っていましたので。
そういう風に解釈する人が多いのであれば何も思いませんが…現実はどうでしょうか。
>以上の理由で私はけいおんは共感はしかねますが、答えではなく過渡期の作品として、しょうがないかなという事で容認派の立場とさせて頂きます。
思うにけいおんを見て死にたくなる人はいないような。
ぶっちゃけていってしまうと、僕は死にたくなるような作品のほうがいいと思います。自己を追認してくれる、居心地の良い作品は多分後世には残らないでしょう、人生もそうですが痛みとは成長と対になっていると思います。それに主人公達が離別する…という程度のストーリー展開は痛みですらないと僕は思います。ストーリー展開上の痛みとは、例えば理不尽にけいおん!の登場人物の一人、たとえばあずにゃんがトラックに轢かれて死ぬとか、障害者になるとか、そういうことだと思います。
四人が別々の大学に行くというのは実生活では極普通であるのに、その一般常識さえも捻じ曲げてしまうことに僕はけいおん!の危険性を感じずにはいられなかったのです。
aaaaさん
>ぜひとも”現代における”成長の意義を詳しく教えていただけないでしょうか?
大便をしたり小便をしたりするのにいちいち異議など無いのと同じで、成長するのにも意義は必要ないと思います。この当たり前のことに疑問を感じるのが日本病なのでは。
obataさん
>部室に差し込む夕方の日射し、ホワイトボード、並べて長椅子に置かれたカバンなどという光景をやたら本編で多く描くのは、部室や学校という場所で登場人物が過ごす様相を重視しているからではないでしょうか。その全てがもう再現されることのない光景です。
その通りですが、けいおん!の重要点は4人が部室にいることという環境条件なのではなく、四人が一緒にいるという正にその関係性の継続の成否にこそあるのではないでしょうか。だから、その関係性が何の苦痛も泣く継続されてしまうというそのラストは、折角丁寧に描いたその環境条件を著しく薄めてしまう。端的に言えば台無しになるわけです。だからこそ問題があると思うわけです。
残念さん
あずにゃんぺろぺろのオタに貴殿の言葉を送りたい「自分の世界しか見えない蒙昧なおたくのイタさ」
lanangさん
データなどあろう筈がありません。あずにゃんぺろぺろに検証もデータも無いのと同様です。あずにゃんぺろぺろにはデータや検証を求めないのに、僕には必要というのはアンフェアではありませんか。
>「高い山を登らせてくれないアニメ」を視聴するのは、個人的にはとても苦しかったです。
同感です。
kamille006さん
>先生は先生らしくなくて同じ学生みたいだから目の上のタンコブでもない、恋、嫉妬、強い悩み、嫁選び視聴者にとっての敵である男性の排除、家族観の欠如、物語が全くないと言ったら怒られますが、けいおんはこういうドラマになる可能性の物を意図的に廃してます。これじゃ実存的な問題はそこまで炙り出てこないし、モルヒネに見えても仕方がない面がある。
このような描写が健全なのか不健全なのか、答えは仰るとおりであります。
藻さん
>その上で最終回では、「駅のホーム」や「河原の道」に擦れ違うそれぞれの時間が(幾度も現在と過去を連結してきた)「同じ空」で繋がっている普遍性・遍在性を歌っているのです。
それならばなぜ物理的に4人が同じ大学に進学せねば成らないのか理解に苦しみます。同じ空で繋がっているなら同じ大学のキャンパスで繋がる必要は無いはずです。あと批評家を自称したことは一度もありません。ブロガーと名乗ってはいますが。批評家とは常に他薦であるべきです。
nonaka さん
>「放課後ティータイムは、永遠に放課後です!」とはつまりそういうことなのでしょう。そういう努力の仕方っていうのは、なかなかこの現代を生きる我々にとって、共感できる部分があるような気がするのですが、どうでしょうか。
今日のlifeでもいてましたが、結局それはビューティフルドリーマーの問うた問題と同じです《本文中の通りです》
くるたみさん
>(商業的に第三期をやりたいという理由もあると思います。)
僕はこれないんじゃないかなーと思います。だって女子大にすると、何というかもう高校生だからできた縛り、みたいのが一切無いですし、けいおん!で描かれている数々のデティールを流石に放棄せざるを得ない、からであります。
そも、日本の学園モノに「大学」は殆ど登場しないのは、大学生という社会的身分や大学というシステム自体に高校という強制のシステムがほぼゼロだからであります。よって3期は不可能でしょう。そもそも、”強制と規制の中で行われるある種ムラ的な馴れ合い”というのが、大学というシステム上通用しないですから。げんしけんとかありましたけど、何処までできるのだろうか。逆に見てみたい気もしますが。
藻さん
>以上のような繊細(だけど明白)な演出にすら気付いていない一部の視聴者の感性なのではないでしょうか。
それは無理があります。わざわざ指摘せねばならないような演出の中に真のテーマ性はあるのでしょうか。4人が全員女子大という明々白々な結論を抜きにデティールでいくら描いてもほぼ演出的に無意味、というか台無しです。
>第22話だと雪と窓の黒紙や渡り廊下の情景等が重要な役割を持っていますし、第23話だとチャイムが鳴る際の4人の表情と唯の戸惑いが印象的です。そして最終回では擦れ違うこと(或いは誤読することによる意味の変異)と傷(痛み=葛藤)が黒タイツや絆創膏や色紙や伝言ゲームによって関連付けられ、この時間的差異の痛みが「同じ空」で解消されるという秀逸な解答を示していたと思いますよ。
↑>なんだかポニョのコレ
ttp://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-487.html
何も無いアニメを、必死に解釈すればするほど、その行為自体がその解釈が如何に無意味かということの証拠であります。要するに、パンフレットを見ないと何を言っているのかわからない作品は駄作というのに似ています。そこまで必死に解釈しなければ、けいおん!のテーマ性が描けないのだとしたらやはりこの作品は失敗です。
さくらいさん
>何故かと言うと、現実でもこういった流れで大学を選んでいる人が増えているからです。ニュースなどの受け売りですが、今は大学全入時代、大学は就職の予備校と言われている時代ですし、大学を単に「大学卒業資格を得る場所」と考えるのならば、「高校で仲良しの子達と一緒に通える大学」を絶対条件として選ぶこともできる訳です。
増えているとは思いません。なぜなら大学には入学定員というものがあり、定員には物理的限界があるからです。高校時代の仲良しが全員同じ大学に進学であるならば、高校の同じクラス全員で同じ大学に進学してもよさそうですが、それが不可能なのと同じです。
あ、ひとつだけあった。付属校。けいおんが最初から付属校設定なら無いも言わなかったのになーwww
一院生さん
それ以前に貴殿のコメントの一部が文字化けしているので意味が良く分かりません…
?は1,2,3と番号を振っているんですか。
それから大前提的にこれは学術論文ではなくてブログのコラムという点にまずご留意いただきたい。ご自身で質問されているような内容は一院生さんがご自身のブログ等で公開された方が宜しいのではないでしょうか。最後に前文のどの立場からアプローチしているのか、説明を。というのですがこの質問自体がおかしくはありませんか。この記事はけいおん2期を見終わったアニオタの立場からアプローチしているのです。それ以外に立場はありません。
pompom20 さん
ずにゃんぺろぺろも視聴者がそう思い込んでいるだけでしょうに。
なぜ僕にだけ客観性をもとめるのだろうか。
>彼女達の成長は作品中で十分に描かれていました。
だから最後に台無しにしてよいのかという問いです、ちゃんと読みましたか。
はじめまして。
ツイッターから「けいおん!!」の記事が気になって飛んできました。
けいおん!!以外の記事も興味深く楽しく読ませて頂きました。
ざっと記事を読んで、管理人さんの熱い心意気に少し感動しました。しかも25歳(ですかね?)。
日本は終わってないなーと思いました。
管理人さんのアニメやその他の創作に対する根本的な思想というか、想像物に対する姿勢が好きです。私は現在23歳ですが、親が手塚オタでガロから古いジャンプ作品まで多くの漫画、アニメビデオを所有していたので、幼い頃からその辺の年代の漫画やアニメに影響されていいました。
なので現在の漫画や大量浪費されているアニメをみるだに「悲しさ」を感じます。
なんというか、ほんとに、強く在れとは言わないから、せめて自分の足で踏ん張って戦おうよ。というような心持ちです。
周りの若いオタ友だちは皆ムラ的で、精神的な意味で閉鎖的です。
エヴァ劇場版のメッセージ(Air/まごころを君に)を受けて尚そういうふうにしかなれないの?と思います。けいおん!!の最終回を満足そうに見ていた友人に腹が立ちます。
要は見ている側の意識の薄さというか。
成長発展を望まないのなら死んでしまえと思ってしまいます。
アニメにかんするブログですから色んな意見があるとおもいますが
これからも楽しい記事書いて下さい。
今の時代で管理人さんのような思想はとても貴重だと思うので。
ぬるま湯で遊んでる暇なんてないですよ。
凄く文章が変な感じになっちゃいましたが、これで失礼します。
よみにくくてすみません。
黒ペン 2010/09/24 17:30
余談ですがらきすたやけいおんの記事を書いた時の叩かれ具合は半端じゃないですね(笑
さすがとしかいいようが無いです。
白ペン 2010/09/24 18:44
そろそろ10年以上前の旧エヴァから卒業して成長できるといいですね。
いつまでもエヴァの思い出に浸っている閉鎖的なオタクには、けいおん!!EDの「思い出なんていらないわ」のメッセージが耳に入らないんでしょうね。
青ペン 2010/09/24 19:30
>白ペンさん
確かにエヴァンゲリオンの影響力って凄いですよね。未だにあの作品に囚われてそれ以降のアニメを認められない人が多いのには驚きです(特に20代中盤~後半で)。
27です!自分の信仰しているものを叩かれると誰でも攻撃的に成るものです。でも本当は僕は叩いているのではなくて、京アニが好きだからこそ「疑問」を提示しているのです。僕は律ちゃんが好きです。好きだからこそ、こうした方が方が良いという、一種の萌えオタ以上のキャラクター愛が僕にはあるのかもしれません。それは愛情からなせる技ですが、そこが一部の人に理解いただけないのが残念です。
白ペンさん
>そろそろ10年以上前の旧エヴァから卒業して成長できるといいですね。
いやもう15年ですよ。四捨五入したら20年ですよ。凄いですよこれは。精神性はあの頃よりも寧ろ後退している。ヤマト。・ガンダムを見て育った世代がクリエイターに成りましたが、僕はけいおん!を見て育った世代は何者にもなれず泣かず飛ばずだと思います。だって何者にもなら無いことを肯定しているんですもの。
?は1,2,3と番号を振っているんですか。
申し訳ありませんでした。番号を振っています。正しくは以下の通りです。
解釈の話云々よりも、まず古谷さんの思想的前提がほとんど説明されていないので、その部分を教えてください。
古谷さんの書き方だと、おっしゃりたいことの根本的な部分が伝わってきません。さしあたりキーワードからご説明ください。アプローチは、哲学的、人間学的、社会学的、歴史学的、など何でも結構ですが、どの立場かは示してください。
1、「青春とは離別によって完成される」ということを一般化している論拠。そもそも青春とは何か?離別とは何を意味すると考えておられるか。青春の完成とは何か。完成という 言葉と流動という言葉をどのように捉えているのか?
2、「高校時代(若しくは中学時代)という名のモラトリアムは、しかしどう足掻いても3年で終わってしまう」 モラトリアムという言葉でもって何を理解して いるか。「モラトリアム的」なのか、「モラトリアム」なのか。それはけいおんに当てはまるのか。(そもそも肉体的に成人していない人間はモラトリアムの定 義にはあたらないのが基本ですが、)そこでおっしゃりたいことをもっと具体的な言葉で教えてください。
3、「同じ女子大に進学しなければ友情が壊れてしまうという、逆説的に彼女達4人の人間関係の薄っぺらさ。」という逆説に至った前提。そもそも、そのような 逃避からけいおんの子たちがその決断に至ったと判断された根拠。
4、仲間内だけで関係性を構築し、外部に晒されることの無い(女子高・女子大)、その閉ざされた関係性(ムラ)が永遠と継続されることを善とする作品」とい う言明について。そもそも、これが悪だとされる根拠。(わたしもそれ自体は悪だと思いますが、理由と根拠が肝心です)仲間内の関係性「だけ」で、軽音部が成り立っていると考えた根拠。
読んでいて残念ですが、古谷さんに対する認識を改めねばならないと思った記事でした。理由は次の通りです。一、おっしゃることの根拠の説明のなさ。二、その一般化。三、学術用語の使用に、不適切なものが多いこと。国民を啓蒙したいのであれば、まずご自分の言葉に敏感になってくださいね。?この書き方では、たんに現実的な連関だけを捉えており、本質が見えてない人間に見えてしまうこと。
ご返答お待ちしております。
>大前提的にこれは学術論文ではなくてブログのコラムという点にまずご留意いただきたい。
学術論文もブログも、何かを主張したり、何かを報告する点では変わりません。違うのは、学術論文においては新しい主張をし、それがどのように新しいのかを記述するだけです。根拠や前提が見えないと、話の筋がさっぱりわかりませんよ?ということです。
>最後に前文のどの立場からアプローチしているのか、説明を。というのですがこの質問自体がおかしくはありませんか。この記事はけいおん2期を見終わったアニオタの立場からアプローチしているのです。それ以外に立場はありません。
それは古谷さんとは思えない返答ですね。あの質問は当然の質問です。
古谷さん自身、アニメ政治学や、アニメ社会学などというカテゴライズをされているではないですか。それは立脚点を意識してのカテゴライズではないのですか?そうでないとすれば、何を意図されてあのようなカテゴライズをしているのでしょう。
ご返答お待ちしております。
ベッタリな仲良しこよしを大学になってまで続けたい、それを突き通せちゃう不自然さが気になるという感覚的な話です。
大学に行って遊ぶ人にしろ、進路先を決める時ってのは漠然と将来や自立について思い浮かべ意識する物です。
将来が見えない、友達とは離れたくない、そう思ってても趣味友達と離れたくないために進路先を選ぶほど多くの学生はバカじゃないですよ。
だって誰もが無意識的に感じてくるもんなんですから。こいつらとはいつか袂を分かつんだなって。
自然と大人になるための覚悟もついてくるもんなんですよ。それがけいおんには見えてこない。
本格的にメジャーデビューを目指すような青春根性物だったら離れない関係ってのも納得します。将来まで同じなんですから。
でもけいおん部のメンバーは口では武道館とか言ってましたけど、とてもメジャーデビューできるような説得力ある描写はない。
だったら趣味の範囲内の友達でしょう。それだったら通常は大学なんか別々になるのが自然ってもんですよ。
テーマとして必要かどうかという話ではなく、自然かどうかって話です。
そこは、創作に置いての必要なリアリティだと思いますね。どんな荒唐無稽な作品もキャラの動機とか根源的な問題が常識外れだと理解されません。
それが自然なら自然で、そんな未成熟な精神性で大丈夫?って疑問の一つや二つ抱いてもおかしくはないでしょう。
>>その上で最終回では、「駅のホーム」や「河原の道」に擦れ違うそれぞれの時間が(幾度も現在と過去を連結してきた)「同じ空」で繋がっている普遍性・遍在性を歌っているのです。
>それならばなぜ物理的に4人が同じ大学に進学せねば成らないのか理解に苦しみます。同じ空で繋がっているなら同じ大学のキャンパスで繋がる必要は無いはずです。あと批評家を自称したことは一度もありません。ブロガーと名乗ってはいますが。批評家とは常に他薦であるべきです。
きちんと私の文章を読めば本意は伝わると思うのですが、私は「(物理的な)関係性」ではなく「時間」が別れを齎している(同時に「同じ空」で繋がっている)と言っているのですよ。
あなたは『けいおん!!』のテーマを軽音部の5人の関係性のみに見出して、肝心の(何度も描写されてきた)時間の一回性の問題を見落としているんじゃないか、と上のコメントで指摘しているのです。
>>以上のような繊細(だけど明白)な演出にすら気付いていない一部の視聴者の感性なのではないでしょうか。
>それは無理があります。わざわざ指摘せねばならないような演出の中に真のテーマ性はあるのでしょうか。4人が全員女子大という明々白々な結論を抜きにデティールでいくら描いてもほぼ演出的に無意味、というか台無しです。
わざわざ指摘せずとも上記の演出意図には気付くべきでしょう(あなたがアニメを政治的主張の道具として語る単なるブロガーだと言うのなら別ですが)。
少なくとも『けいおん!!』について感想・批評を書いている他のブロガーやツイッター利用者の中には気付いている人も何人かいます。
何故わざわざ修学旅行やマラソン大会で本筋とは無関係な迷子という主題を扱ったのか、そして演劇で墓が見つからなかったのか、改めて考えてみる必要があるのではないでしょうか?
思考停止せずに真摯に作品に向き合ってみることは重要だと思いますよ。
>何も無いアニメを、必死に解釈すればするほど、その行為自体がその解釈が如何に無意味かということの証拠であります。要するに、パンフレットを見ないと何を言っているのかわからない作品は駄作というのに似ています。そこまで必死に解釈しなければ、けいおん!のテーマ性が描けないのだとしたらやはりこの作品は失敗です。
それはあなたが「何も無いアニメ」という前提で思考停止しているからでしょう。
離別の問題が最初に浮上した第21話について、このエピソードでは髪を切ること(に伴う憂との容姿の異化)や卒業写真を撮ること(に伴う時間の切断)が描かれていますが、そこで敢えて同じ進路を選ぶ4人の決断が(一見矛盾するように)挿入されていることに注目すべきでしょう。
つまり、1つのテーマに「切断」と「継続」が同時に内包されている訳ですね。
ここから、普段我々が連続した時間の流動性の中で初めて「思い出」を自覚するのと同様に、結局「切断(=離別)」は時間の「継続」の中でしか捉えられないと分かるのではないでしょうか?
継続する4人の関係性を見て、我々視聴者が最初に意識するのは時間の連続性です。
本作は、連続していてもなお途切れる一回性の時間の特別さ(高校生活最後の学園祭ライブ、バレンタインの贈り物、そして卒業式)を非常に丁寧に描いていたと思います。
そして、それは私が上述した「「当たり前」が不意に崩れる時、日常性・非物語が特別な非日常性・物語に変質する」本作の演出との類似性・一貫性が窺えるのです。
無邪鬼が叶えたラムの夢(亀の甲羅の上の世界)は、高橋留美子の作家性(永遠に続くラブコメ的世界構築の欲望)を完全に剥き出しの状態のまま描写したものであって、最後に帰還した「現実」は結局元のあたるの夢(通常の『うる星やつら』のハーレム世界)に過ぎません。
故に、本当に批評的で現実的な視点が導入されたのは、ラムの夢の世界の方だと思うんですよね。
あのようなループ世界を実現させるために取り入れたSF的・ファンタジー的な設定(亀の甲羅、無邪鬼の存在)こそが逆に現実性を意識させる構造になっているのです。
即ち、ラムの夢は現実に、現実はあたるの夢に、メビウスの帯の如く(或いは螺旋状に)結び付いていて、そこで『BD』の原点である『うる星やつら』第101話の「現実は所詮全て夢なのかも知れない」という押井守的なテーマに繋がるのではないでしょうか?
ちなみに『けいおん!!』第13話でも、梓の夢と現実の光景が交互に映され、最後に「食べ合わせ」を無視して天麩羅を食べた唯が、本来別物である筈の夢と現実を未分化な状態に変えてしまいます。
また、トンちゃんとは、『BD』の文脈を引き継いで、亀と豚(獏)という相補的対立関係を成す動物の融合体だと思うのです。
したがって、『けいおん!!』は、夢と現実、亀と豚、関係性の継続と時間の切断、といった矛盾の同一体として捉えるべきなのでしょう。
もともと、「けいおん!」は『まんがタイムきらら』の4コマ漫画で、内容も、その場限りのコメディー漫画だと思います。
そこに、成長や何かを達成するという目的は存在しないと思います。
舞台が高校なので、高校生活の時間軸で進行しているけど、それもただ単に、そのほうが漫画を描きやすいからだと思います。
高校生活は、学園祭や試験などのイベントが自動発生するので、そのイベントをネタに漫画を描くほうが楽だからだと思います。
連載を始めた当初からメディアミックスを考えていたとは思えません。
作者を含めて誰も、こんな社会現象にまで発展するとは、考えていなかったと思います。
「けいおん!」に、成長とかテーマを求めることが間違っていると思います。
もともと、「けいおん!」は『まんがタイムきらら』の4コマ漫画で、内容も、その場限りのコメディー漫画だと思います。
そこに、成長や何かを達成するという目的は存在しないと思います。
原作を読んでみましたが、キャラの成長というものは描かれていないと感じました。
連載を始めた当初からメディアミックスを考えていたとは思えません。
作者を含めて誰も、こんな社会現象にまで発展するとは、考えていなかったと思います。
アニメのほうで、なんとなく成長っぽいことが描いてしまった事が間違いなのだと思います。
それは単に思考停止しろと言ってるだけなので意味がないと思いますよ。
上の方のコメントで何度も書いてきましたが、『けいおん!!』には成長も描かれていますしテーマもあります。
それは単に思考停止しろと言ってるだけなので意味がないと思いますよ。
上の方のコメントで何度も書いてきましたが、『けいおん!!』には成長も描かれていますしテーマもあります。
成長の源である努力や人間関係上の衝突、悩みはほとんど描かれてませんから。
確かに「成長した」という結果だけはたまに描かれていますが、
成長とは本質的に「過程」なので、結果だけ描いても成長を描いたとは言えませんよね。
メインテーマは藻さんもおっしゃっておられる「日常が内包する特別」でいいのではないでしょうか。
見えない人には見えないテーマかもしれませんが、
見えない人も楽しめる作品であるということ自体「深みのある娯楽」としてプラスに評価することも可能でしょう。
私は「現実に向き合うため」のモルヒネとしてのけいおんだったと思います。
けいおんはほとんど高校生活の良い面しか描いていません。
私のようについつい人生の悪い面ばかりを見てしまう人も多いと思いますが、
誰しもつまらない日常の中に「特別」を、輝きを見つけて生きていくものです。
輝きの見つけ方を教えてくれる作品だったと思います。
自分も同じ立場ならそうしたかもしれないので大変気持ちはわかります。
若さは少しぐらいやんちゃなほうがプラスですので仕方ないかなとも思います。
ただこれだけは気がついてほしいのは、
意見を読んでほしくて過激な逸脱した表現を使いにぎやかしな文章を使うのと、
話題作りやDVDを売りたくて過度な萌え表現(エロ表現)を使う萌えアニメは、
本質的にそんなに変わらないという事です。
マイマイ新子のように地味でも本質を突いたことばがほしかったですね。
言論はあくまでも言論そのものの含有している中身で勝負すべきです。
いうまでもなく総評をながめてみても今回ばかりは、客観性を欠いているという感想も多いようで、
自分としてもせっかくの着眼点なのに作品を考証する手立てとしてはあまりにもヒステリックで一面的で、
他意はなく正直な気持ち、知的好奇心を満たしてはくれない未完成なものというのが感想です。
客観性の欠如について「あずにゃんぺろぺろ」はどうなんだと言う言及もありましたが、
その論理では客観性の欠如について自分がペロペロと同レベルと言ってしまっているとも取れます。
アンチ萌えの我々の代弁者として期待を背負っている事を忘れないでほしいと思います。
次回作期待しています。今回はちょっと恥ずかしい。
どうしてここまで嫌悪感が露わになるのか。自分と併せて考えてみました。
すがりさんがラジオでの対談で、ガンダム時代のオタクは知を競っていたと仰っていましたよね。
ガンダム知識はどうでもいいですが、アニメを間口にしながらもジャンルを越えてインテリジェンスを求める姿勢こそが本当のオタク像だと思ってるんですよね。
でなければオタクである意味がないとすら強く思っている。
何故か。
アニメってのは子供向けから出発しているジャンルで、一般の方は子供向けアニメが自分の成長と共に必要無くなるから卒業していく。
古谷さんの場合ならエヴァに出会ってなければ、子供と二次元偏愛癖のあるオタクしか集まらない幼稚なジャンル、と言う世間と同じイメージ論で通り過ぎてたはずです。
偏見でも何でもなく、アニメなんて本来は誰もがいずれは必要のない物と思って通り過ぎてくんですよ。作家性や芸術性が強い作品なんて本来アニメ視聴対象者(子供)に逆らった中で生まれた異種なんですから。
そこで自分の実存を揺るがすほどの異種に出会えるかどうかの差でしかないんです。
”知的好奇心をくすぐる”という何歳になっても恥ずかしくない全うな欲求を刺激するアニメがあったからこそ、アニメを好きでいられるわけです。
故に、逆説的に知性いらずの欲求不満解消アニメがアニメのイメージをかたどるのが許せなくなるんです。
子供と特殊な性壁所持者とまともな作劇を知らない人達が喜ぶ未熟なジャンル、そう世間に思われてるイメージを加速させる物しか嗜まないオタクもです。
だから、映画などの大衆ジャンルに並んで行こうとするヤマトやガンダムのアニメブームで生まれたオタク熱が好きなんですよね、僕は。
まさに文化の原点を感じて、それを愛してこそのオタクだと思うので。
保守派の好きなアニメ監督って、共通して実写映画や舞台劇を嗜んでるんですよね。年齢問わずに大衆を取り込んでる実写劇からも学んでるからとてもシビア、だからこそちゃんと文化論として評価されてきたんだと思います。
エンタメとしてもう一押し弱いってのはあるのですが。
許せないとまで思うのは、萌えアニメファンの多くがアニメしか作劇を観てないってことが容易に分かるからです。まず内容以前にどういう演技が良いってことも知らない。
言っちゃ悪いですが、宮崎監督を始めとした映像作品をジャンルにこだわらずに広く観てる大御所監督達が声優を使わないなんて私から見ても至極当然な考えです。
昔は全て良かったなんて言う気は毛頭ないですが、それくらい昨今の媚びた声作りやパターン化された不自然な演技は度を越して酷い。
大衆に認められたジャンルに負けない物を持ってると気付いたのがオタクなのに、アニメの軽視されてる未熟さばかりを自ら認める行為が凄く嫌ですね。
ここまで嫌悪する答えの最後が後は年齢的な問題だと思います。
僕は違いますが、僕らの年代ってエヴァがオタクへの間口なんですよね。
アヤナミストみたいな萌えオタクも当然量産された一方で、確実に知的好奇心をくすぐられてアニメにインテリジェンスを感じた層もいたと思います。
しかし、僕らの後はズブズブ動物的オタクしか楽しめないアニメばかりがはびこるようになって、そういった作品は見向きもされなくなった。
10代や20代前半は、萌えが当たり前の時代の中でオタクになりましたから違和感がないでしょう。しかし、アニメ文化を押し上げようとしてたブームがあった70年代・80年代を知っている世代も、当時の清濁を併せて見てきてるので、現状に対して神経質にならず落ち着いた評価論を持っている。
僕らみたいな狭間の世代が一番欲求不満に陥るんですよ。
そういった知的好奇心を刺激する作品に出合っても、過去にあったアニメの価値観を広げようとするブームの流れもなく、萌えに順応する脳内物質も持てず、今やただの変わり者の種類、故に萌えに対する嫌悪感がどの世代よりも大きくなるんだと思います。
古谷さんが、「あずにゃんぺろぺろ」なんて作品論を論じる上で枝葉末節な例を皮肉でつい挙げてしまったのは、現状のオタクがインテリジェンスからかけ離れてることへの絶望と怒りがそれだけ強いからです。
もっと言えば、本当の萌えアンチってのは萌え絵からして生理的に嫌悪してますからね。
でも、絵柄だけで中身は評価できないし、アニメ文化を愛してて時流を知るためでもあるから見てしまう。
作品鑑賞人が文化を愛するオタクになるってことは、修験道に入る事なのかとたまに自嘲してしまいますよ。
結局、今のアニメも視聴層もバランスが取れてないからガラパゴス化を生むんですよ。
けいおんの様なアニメアニメした劇とか過剰な物を避け出すような年齢になったら結構観るの辛いです。
見れるのは、アニメ劇一筋な人と、周りの目を気にして仕方なくアニメから卒業した自己欺瞞な人と、アニメ劇も実写劇も割り切って楽しめる好き者だけです。
保守派が好きなアニメは逆に傾向としてキャラクター的な売りがありません。誰でも楽しめるエンタメとしての売りが欠けてるのも事実です。だから大衆受けしないのでしょう。
80年代に傾倒したリアリティの追求に対する批判論じゃありませんが、アニメなのにアニメらしい部分が薄い感じもあります。
で思うのが、大人でも楽しめるアニメ臭すぎない劇と子供でも楽しめるアニメらしい劇、矛盾してる論ですがそのバランスが取れてる究極が宮崎駿作品なんじゃないかと思うんです。
キャラクター的な売りもありますし、アニメらしい誇張された動きや雰囲気もあります。
でも、大人でも魅入る皮膚感に触るような身体性があって、共感性の高い劇にも富んでいるんですよね。
そのバランスこそが、映画界じゃ二流扱いのアニメ映画が並いる邦画を押しのけて断トツの興収を叩きだし、且つ文化論としても評価された要因じゃないでしょうか。
あんなバランス感覚を持てと言うのも酷ですし、ジブリばっかのアニメ文化もごめんですが、文化を愛するなら多角的な目線を持って支持できるようになりたいですね。
僕も楽しんでいる人がいるんだと忘れないように想像して萌えに対する嫌悪を意識的に薄めてますし、先入観を捨てて観るようにもなっています。
だから、多くのアニメオタクが色んな作品を嗜むようになって文化を盛り上げていき、どんな人に見せても恥ずかしくない本当の意味で大衆ジャンルの仲間入りになれるようにと願っているのが僕の現在の想いの集約点です。
例えば、記事中の『ほしのこえ』評では『けいおん!!』と対比して「物理的な距離は関係性の障害ではないことを描いた」と論じていますが、作中の携帯というギミックは寧ろ2人の(ウラシマ効果による)時間的な擦れ違いを際立たせるものだった筈です。
物理的な距離に比例する時間的な擦れ違いが別れを齎す(そして、大人になる痛み=思春期の終わりが異星人との闘いに象徴されている)『ほしのこえ』は、その意味で『けいおん!!』とのテーマの類似性を見出だすべきなのに、全く見当違いの結論を導き出しているのは非常に残念ですね。
『ほしのこえ』での雷雲や踏み切りや雨の描写を一体どう見ていたんでしょうか?
この程度の読解能力しか無いブロガーが、十把一絡げに最近のアニメに「萌え」のレッテルを貼って批判しているつもりなのは滑稽ですよ。
いわゆる個人製作であのクオリティを誇ったと言う点が最大の売りであって、部分部分目を奪われるような所もありましたが、取って付けたようなロボットなどのSF設定(ロボットでしよたよね?)、ストーリーや脚本もあまりに抽象的且つ断片的で、頑張って制作者の意図を掴もうと思えるような作品でもなく「雰囲気アニメ」として僕の中では終わってます。
ただ、女の子がコクピットの中でうずくまって携帯をいじってる場面があったような気がしますが、確かにあれは遠く離れた人とのすれ違いを意識した演出だったと記憶しています。
本当に断片的にしか覚えてないから評論できませんが、そういったすれ違いを演出しながらもメールに込めた想いってのは距離感を詰めてる感じだったのではないでしょうか。
確かメールが届きますようにみたいな感じでしたよね?距離が離れても変わらない想い・・・関係性の障害にはならないって論は別に間違ってもいないと思いますよ。
そしてそのテーマと繊細な描写は「雰囲気アニメ」に留まらない普遍性を持っています。
重要なのは、主人公のミカコのメールが届く度に地球側の天候が徐々に悪くなっていく(或いは、踏み切りや雨が別離を予感させる)ことであり、メールは寧ろ時間的な距離感・擦れ違いを齎す契機として描かれています。
最後に2人の男女が繋がるのは「懐かしいもの」即ち「終わってしまった(終わろうとしている)子供時代の記憶」の中であって、ミカコは携帯の電波が届く場所(=セカイ)の外部へと出て行くと共に「大人になることの痛み」を経験するのです。
したがって、「距離が離れても変わらない想い」というのは、『ほしのこえ』のテーマの本質ではないでしょう。
私もアニメは結構好きです。ですが、今のアニメは萌え絵を前面に出しているのが多くて、ストーリーが良くても萌え絵を見ただけで、嫌悪感を感じてしまいます。
小学校~高校とNHK-BSで放送されていた夏休みアニメ劇場を見て成長した自分は、大学生になり、そこで萌えを前面に押し出した作品を見たときは正直、開いた口が塞がりませんでした。あのときは心の中で「こんなものばかりでどうしちまったんだ、日本のアニメ産業は…」と本気で思いましたね。
アニメ系のブログを回ってみても萌えがメインでげんなりする中、このブログだけはこれからの日本にとって必要だと思います。私も応援します。今後ともよろしくお願いします。
(追記)
管理人さんに見てほしい非萌えアニメが一本あります。
「THE ビッグオー」というサンライズが作ったアニメでして、制作開始時はかなりのリスクを背負って制作されましたが、その後は日本とアメリカで人気を博しております。
また、絵柄も日本のオールド・コミック風にプラスして往年のアメリカン・コミックやカートゥーンを彷彿とさせる、スタイリッシュな画風で、非萌えを貫く管理人様におすすめの一本であります。
是非管理人殿のおススメアニメの一本に加えていただけないでしょうか。
記事を大変に興味深く拝読させて頂きました。
青春は別離により完成し、大人への成長とは距離や時間の緊密さに依存しない関係性を勝ち得る事であると言うのは、まさにその通りであると思います。
新海誠さんの描く作品は常に距離や時間がテーマにあり、
最終的にそこを乗り越える・理解する事で主人公が大人になる物語であり、
そこには紛れもない現実へと向かう力が存在しています。
まさしく想像を土台にして現実に立ち向かう事に寄与する素晴らしいアニメーションです。
けいおんはそうした役割は担えないでしょう。
ただ、萌えアニメの氾濫は大問題ですが、
癒しと割り切って消費する分にはさほどの罪深さも無いでしょう。
誰もかれもが、深くモルヒネのごとくにけいおんを心へと打ち込んでいるかどうかについて、これは客観的な根拠をまだ満たせていないとも思います。
最後に。
考え方としては全く同意なのですが、
根本的な思い違いをされているのに気づいたので僭越ながら指摘させて頂きますと・・・
世界に一つだけの花は、不戦を迎合する歌では断じてありません。
そうした解釈はあまりに稚拙で、悪意的ですらあります。
進歩の放棄をきれいな言葉につつんだプロパガンダ・ソングは世に数多あふれておりますし、この歌もよく同一視されがちなのは事実ですが、
作詞者である槇原さんはその事についても言及されてはっきり否定しています。
運動会なんかでゴールテープの前で皆がいっせいに一番になったり
皆がシンデレラな演劇をやったりする様なのを、馬鹿みたいだとも言っておられました。
・ナンバーワンにならなくてもよい、もともと特別なオンリーワン
このフレーズは、進歩とは常に一番を目指す、勝利を目指すいわば全身全霊の真摯な姿勢を全面的に肯定した前提でもって、
「貴方が極めるべきは貴方である。」と言っているのです。
目指す理想の為につねに戦う勇気と意思と実践を怠らない生き様・死にざまが肝であり、価値であると。
勝利が真理を担保するとまで拡大解釈しちゃいけないよと言う、非常に現実的で前向きな激励の歌に他なりません。
一度の勝ちや負けに左右されるアイデンティティーは前提からずれてて貧弱極まるっていう。
>最終的にそこを乗り越える・理解する事で主人公が大人になる物語であり、
>そこには紛れもない現実へと向かう力が存在しています。
『けいおん!!』も『ほしのこえ』等と同様に、時間の差異と成長(日常の中で大人になること)を主要テーマとして扱っておりますよ。
『ほしのこえ』で描かれた距離感による離別が単なる演出的詐術に過ぎないことを踏まえると、昇と美加子の関係性は大人と子供の時間の差異・相対性に換言される筈です。
ですから成長は関係性ではなく時間に拠るものであると理解すべきで、『けいおん!!』では唯たち3年生と梓たち2年生とさわ子の各世代にそれぞれの人生の有り様(人生の段階)が象徴されています。
『けいおん!!』で評価すべきは、関係性の問題と時間の問題をきちんと区別した上で、離別を後者の問題として描き切ったことでしょう。
仮に4人全員が別々の大学に進学するという結末を迎えた場合、離別や成長の本質が曖昧になっていたと思います。
何度もしつこくコメント欄に自分の考察の正当性を認めさせようと
書きまくるのはどうなんでしょうか?
私には自分の価値観(あるいは美少女アニメという居心地の良い空間)
を否定されてムキになってる鼻息の荒いオッサンにしか映らないのですが・・・
それだけ深い考察ができるのであれば御自分のブログで主張されるのがよろしいかと。
萌えのコロニーに対して保守アニメファンの集い場所はほぼ皆無で、自分にとっては唯一のそれである
『アニオタ保守本流』を萌えを賛美する掲示板にしてほしくないです。
ましてやブログ主以外の書き込みに随時反応してるようではキリがないです。2chでやりましょう。
いちいち、「これについての返答を」といわれても膨大なため精密なコメントが出来ません。ただコメ者同士で論争をこちらでしていただくのは一向に構いません。
(死ね、殺すとか書かない限りは、このブログのコメントは半永久保存されます、だからコメントも、或いは記事の一部になっていることを意識してご発言ください)
どちらかというと、萌え云々についての自説の主張は、140字のtwitterでこちらに問うてくれた方がありがたいです。
仮に単なる萌えアニメだとしたら、私は『けいおん!!』の擁護などしませんよ。
まあ確かに他人様のブログでコメントを連投したり、他人のコメントにコメントを重ねる行為はマナー違反だったと思います。
とりあえず140字制限のあるtwitterで議論を行う気はありませんが、こちらhttp://twitter.com/MO_TACTでアニメ等の感想・考察を書いています。
コメント全部読ませていただきました。
実に的確な分析コメント有難う御座います。
>古谷さんが、「あずにゃんぺろぺろ」なんて作品論を論じる上で枝葉末節な例を皮肉でつい挙げてしまったのは、現状のオタクがインテリジェンスからかけ離れてることへの絶望と怒りがそれだけ強いからです。
全く同感。鋭いコメントで非の打ち所がありませんね!
立場が似てるなら議論しても実りはあまりありませんし、
かと言って、土俵(ベース)が違うと議論は成立しませんし不可能ですから。
ディベートの素養として日本でようやく常識になりつつありますが、
同じ土俵で、違う立場にポジショニングする事が議論の意義を生む大前提で、
参加する側もプレゼンテーターもその意識が必要なのですが。
うしろのほうには身も蓋もなく変に結論付けをしてしまう過ちを犯している意見も見られるようです。
萌えという自分にとって居心地のいい空間に溺れるのと、
萌えを否定する者同士の気持ちのいい相互承認に溺れるのも、
そんなに変わらないでしょう。
答えを出すのが議論の目的ではないのでもっと視点をくるくる動かし、
ブレインストーミングすることで新しい自分を見つけるのが醍醐味なのですが。
フィールド主のプレゼンテーションにも更なる頑張りを期待したいところです。
中には議論の上でというより単なる個人的な攻撃のセンテンスも多いようで残念なところもあります。
アニメの意見表現なんて所詮このレベル・・・なんて事にはしたくはないものです。
確かに非萌えの場所としては私としてもに待望の貴重な場なのですが、
少なくとも識者の談話をするサロンとしてはまだ機能していないようですね。
なるほど自分でブログかぁ。まじめに考えてみようかな?
「雰囲気アニメ」とは思いませんでしたが、わかりやすい作品ではないですね。
あの物語の世界観や時間の流れを理解するための
携帯の画面や新聞、雑誌などヒントがちりばめてあるのですが
DVDで一時停止ボタンを押しながらでないとエッと思う間に流れてしまいます。
ブログのレビューを見てみると、ノボルが一時期ミカコ以外の女の子と
交際していた事に気づいていない人もいましたし、
マクロス・トップ・エヴァを押さえている知人ですら
「なんだか色んなものが混じり合ってるようだけど・・・よくわかんない。
宇宙人の言ってる事とやってる事が矛盾してるみたいなんだけど、
あの女の子死んだの?」と言ってました。
ノボルの成長
地上で9年かけて人間として成長する
ミカコの成長
15歳の時点で、異性人との接触によって太陽系の外に飛び出すという
人類としての成長を成し遂げる
離別によって得た物
「わりと仲のいい友達と同じ高校へ行って同じ部活を続けられたらいいな」
「夕立のアスファルトのにおいetcをずっと一緒に感じていたい」というぼんやりした思いが
空間と時間をありえないほど引き離された結果、
→「宇宙と地上に引き裂かれる、恋人みたい」→「今でもすごくすごく好きだよ」と気付き、
くっきりとした形になった
大人になったミカコの薬指には石のない指輪があったので、彼らは結婚する?
私は「ほしのこえ」とはそういう話だと思っていたのですが、
皆さんの書き込みを見てなんだか自信がなくなってきました・・・
でも主な登場人物が不自然に同じ学校へ進学って、昔からあるんですよね。
私が十代の頃、(あくまで私の周囲の話ですが)賛否両論だったのが
「みゆき」でした。ここは若い方が多いようなので、知らないかもしれませんが
デキの悪い彼氏に合わせて志望校のランクを落としたり、わざと浪人したりと、
リアルで「親も止めろよ!」と言ってる人もいましたけど、
その行動がおじゃんになった最終回に「感動した!」人も多くいました。
描いてる物がダメと言うのではなく、まだ試作品という感じに見えたから作品として評価しなかったというそれだけの話です。だから注意深く見なかった僕には「ほしのこえ」の評論はできません。
感性に響いた賛美論と客観的な分析論を切り分けることが大事だなとは意識しています。
けいおんを見て明日から頑張ろうと思えたならそれは素晴らしい事で、そのことを否定する方が小さく感じます。
でも居心地の良さだけに浸ると不健康って指摘も間違ってはいないと思うんです。
実を言うと、それはどんな作品のファンにも当てはまるんですけどね。
僕もある作品を崇拝したことがあるから実感なんですが、カルトになると性格的に利己的で排他的になります。もしくは閉じこもります。
そのオタクにありがちな崇拝的な精神が固定化を招き、どの時代のオタクも白い目で見られてたってのが実情だったはずです。
自分達が良いとする物を守りたいという気持ちは自分も同じなのですが、浸ってカルトとして閉じるのは問題視しなければなりません。
カルトを美徳とするなら、最低限別種の物には触れないことが礼儀のように思えます。
自分もまだまだですが、固執せずにもう一歩外に踏みこめるのなら、呼応するようにもっと広く奥深い物が生まれてくるはずです。
それは、違う価値観の相手と接して学び次の対応に繋げれる社会的経験、そんな社会を形成している科学的反応のような性質と似たことじゃないでしょうか。
視野が広がればアニメは本当に凄いと言える日が来るのに、アニメを支えているオタクが固執してはダメですよね。
て言うのが意識している事で理想論ですが
狭義の個としては、生理的な問題から絵柄や声だけでどうしても眉間にしわが寄るってのが実情なんで、その部分はホームである数少ないこの保守派ブログで甘えさせてもらってます。
己の問題なのか、それ以外の消費者の問題なのか、一企業として利潤を追求することが
よくないのか、、。
この記事の内容に照らし合わせると、「けいおん!」の登場人物4人が同じ大学に行くという
結果は原作通りなんですよね?
その原作通りの流れをアニメ版でも選んだのは、原作者なのかもしれないし製作委員会かも知れないし、
アニメ版に関わる主要スタッフなのかもしれないし、部外者には知る由もないところなんですが、
さまざまな企業とその作品を支持する視聴者(消費者)が関わるアニメ作品であればこそ、
1つ1つの展開をどのように進めるかは、一個人では語れない複雑な関係性の上に成り立って
いると思うのですが、その辺の複雑な関係性をすごく短絡的に省いて語られているようで、
古谷さんの書き込みや古谷さんが理解を示されたkamille006 さんの書き込みを読んでも、
すごく暴力的な勢いでそれを論じているというか、簡単に言えば丁寧じゃないと思うのです。
kamille006 さんの言うようにある特定の世代が抱えるジレンマがあるからこそ、萌えアニメを
敵対視されているのであれば、それは『あなた達がもう少し大人になりなさい』としか言いようがない。
それは萌えアニメを嗜好している人たちにも失礼な話だし、その人たちを諸悪の根源としてみるのも
自分たちのエゴを押し通してる傲慢な姿勢でしかないのではないでしょうか。
結局、アニメ作品における保守って何なんでしょうねってところに行き着くように思います。
アニメを批評する土台として前述の特定世代のジレンマによって、アニメ作品の変遷が
歪んだ形で論じられているのであれば、それは自分自身の負の境遇をアニメ作品を媒介にして
発散させているだけのようにしか映らないです。
僕としては萌えを全て廃せ!と言うほど過激派じゃないです。ただバランスが悪い事を言っている。
それは萌えしか楽しめなくなったファンもそうでしょうし、マーケティングのために萌えしか供給できなくなった製作側もそうでしょう。
僕はルサンチマンは肯定してるので、あれで暴力的と言われるなら変に大人になる気はないです。と言うか、少数派がそうなるのは当然じゃないでしょうか?
そういう思いがなければ滅びるのを待つだけ。
あなたはけいおんだけのようなアニメでも良いのかも知れないが、我々にとってはそれは困るし、文化の多様性を失う危険性という観点から見ても困る。
相手のフィールドで荒らしているわけではないのだからそれなりに分別は持っているつもりです。
それに結果を出してきた有名監督って、みんなアニメやオタクに懐疑的ですよ。ルサンチマンですよ。
だからこそ、某監督が言うように電気紙芝居と言われた低俗扱いのアニメが方向性はどうあれここまで登ることができたのです。
彼等は自分達のやってきた事にもどこか懐疑心を持っています。
僕も保守派が好きな作品は何故売れないのか、そういうことは常に考えています。
古谷さんは僕なんかよりそういう思いがもっと強いから、こういうブログを立ち上げ、市民政治にも積極的に参加されるようになった。
行動されること自体が凄く立派な事ですよね。
そういう行動力は反逆心があってこそです。文化や社会を成長させるには反逆心っていうものはとても大切な事です。
もちろん、めちゃめちゃな論法でカルトになってしまったらただの一神教なのでそこは気をつけようとは思っています。
主旨で書き込んではいません。もう一度、読み直せば分かります。
それと文中、少数派とありますが、萌えアニメに属さない硬派なアニメを嗜好する人たちの
ことを指してるのなら、そういう認識こそ文化の多様性に反した認識だと思いますし、
なぜ特定の層を作りたがるのか、それがよく分かりません。
萌えアニメしか楽しめなくなったファンと、そうじゃないファンとの差異をどう説明するのか、
そしてそれが日本の中にどのくらいの割合で存在しているのかわかりませんが、何かあれば
声を大きくあげる某特ア民族と同じ思考です。
相手の考えに思いを寄せ、それを尊重しないのも、バランス感覚の欠けた人にしか見えません。
kamille006さんが書いてある1つ1つが極端すぎるのです。そして、それは古谷さんが書かれた
この記事にも感じることです。
作品に振り回された批評は説得力を感じません。今更説明する必要は無いかと思いますが、
アニメは設計書通りに作られた創作物で、偶然フィルムに焼かれたものではありません。
原・動画1枚1枚、背景美術、音響効果1つ取っても、制作者の意図があり、それを
読み取るのはTV画面の前に座る視聴者では難しいと思いますが、目に映る表面的な
事象を脊髄反射のごとく批判的に語るのは子供のすることで、ご自分のことをアニオタと
称するくらいアニメに精通しているのであれば、古谷さんに限らずkamille006さん自身も
その視聴姿勢に成長を求められるのではありませんか。
※最近、萌えアニメ好きの方が絵にある内面的な記事をブログに書かれていて感心しました
監督の繁栄と衰退を面白おかしく記事にしたりするのも読んでる方は楽しいですけどね。
もっと幅広い知識を披露してほしいものです。
>僕も保守派が好きな作品は何故売れないのか、そういうことは常に考えています。
ここのブログでも取り上げたある作品の発表年の前後で、分かりやすい反応がありました。
特にタイトルは出しません。アニメ素人の自分でも分かるくらいのレベルです。
保守本流を名乗るなら、なぜそれをネタにしないのか分からないのですが、政治的な歴史に
興味があるのなら、アニメの歴史にも興味を持って欲しいです。
アニメの歴史といえばユーリーノルシュテインも良い事いってます、ググってみて。
とりあえず「所詮エヴァ世代、それ以前のアニメなんか興味ないんでしょ」と言われないような
記事を書いて欲しいですね。
80年代の大きな出来事はガンダムだけじゃないぞーってことです。
私自身は「けいおん」を全話視聴したわけではないので記事内容への感想を書きます。
私も1期の1話を見た辞典では典型的な成長物語が始まるという大いなる勘違いをしたクチでして
1クールなり2クールなりをかけて軽音楽を通した困難や成長が描かれると思ったのですが
1期を見た限り
そんなことはなかったですね・・・
2期も最初は少し視聴していたのですが
展開や次回のシナリオへの期待というものが全く湧かないので自然と視聴しなくなっていました。
友人との会話の中では「あれは時間軸だけが進むサザエさんだよね」と言っていたのですが
普通に考えれば時間軸が進むということは自己も周囲も変化するので
学園生活の終焉である卒業によりそれまでの関係性やら自己が変化するのが自然だと考えてしまいます。
変な言い方ですが真っ当な物語だったらそうあるべきと考えてしまいます。
しかし逆に考えてみると
そもそも1話の「青春成長物語が始まりますよ」という印象そのものが釣りだったのではないでしょうか
所謂「成長物語」に対して「それだけではない」ということを突きつけてみたのではないでしょうか
年齢を経ると自分の立場も変わるし周囲の状況も変化するので成長するしかない、という事が一般的な考え方だと思っていますが
近年の若者の願い事は「自己の出世」よりも「いつまでも友人と仲良くしたい」という内容が増えているという話もあります(TV番組で聞いた話なのでソースは不確かですが)
だから、自己の能力や将来の方向性を考慮した然るべき進学よりも友人関係を重視した進学を選択することは現実にあり得る話かもしれないし
「教育者といえど他人なので将来への選択に口出ししない」という考えの教育者が居てもおかしくないのではないでしょうか?
つまりこれはこれで「新世代の現実」を表現した作品なのではないかとも取れるのではないでしょうか?
高校という新しい環境に入り「何かをしなければならない」という自己実現の模索から特定のコミュニティに所属し
やがてそのコミュニティにおけるローカルな関係性に依存しそこから抜け出せなくなって
新しい環境へと踏み出すことよりもローカルな関係性を保つことを重視するようになる。
ということは現実にありえることだし
「そんなことは長続きしないよ」という冷や水を浴びせる大人がどれだけいるのかわからない。
それにサークル活動などでありがちな「競技や活動は目的ではなく手段であり、主目的はメンバーの交流にある」という状態においてはローカルな関係性の維持こそを目的としているわけですし。
ローカルな関係性の中で機能することにより社会性を向上させ、よりグローバルな領域に於いても通用する人間へと成長する。というのが然るべきありようだと考えたくなるのですが。
別にそうである必要も無いと言えば無いのではないでしょうか?
「けいおん」の場合は同じ大学に進学したところで最終的に同じ就職をできるわけないし死ぬまで一緒に音楽活動できるわけじゃないんだから本来あるローカルな関係性の終焉を先延ばしにしてるだけに思えますが
「そんな先の事は考えない。今のこの関係性が大事。もしかしたら関係性は終わるかもしれないけど極力その関係性の維持を試みる。」といった考え方を否定することも無いかもしれない。
そう考えると「けいおん」がサザエさんのように時間軸を止めるのではなくあくまで時間軸を進めていったことも作為の結果なのかもしれないと思えます。
単に入学や進級や学園祭、卒業を「学園生活の魅力を表現するイベントの1つ」と割り切って制作していたのかもしれないですが。
だから私は
もしかしたら「けいおん」は
古い「物語のありよう」や文化性といったものに対して
真っ向から喧嘩を売ったエポックな作品なのかもしれない。
と思いましたがこれはこれで盛大な勘違いの可能性が高いですね。
OBが集う「のだめカンタービレ」のR☆Sオケみたいなものを続けてるメンバーもいますし
部活仲間と同じ社会人合唱団や音楽サークルに入る人たちもいましたよ。
あとかなり年配になってからもビートルズのコピーバンドやってる団塊世代とか。
なので学生時代に築いた交友関係を細く長く続けていく事は十分可能かと思いますけど
21話放送直後の反応として
http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-6247.html
友達と一緒にいたいから同じ大学
それをあっさり受け入れるさわちゃん先生
に違和感を覚えた人は少なからずいたようです。
大学受験というナイーブな素材に対して、もう少し
「そんな事もあるさ」と視聴者が思えるような、布石を打っておいたら
よかったのかもしれません。
個人的には将来の夢を投げ打ったり、レベルの低い大学を志願したわけではないようなので
それほど彼女らが悪い事をしたように思えないんですけどね。
80年代に偏差値至上主義へのアンチテーゼなのか、
もっとおかしな事をやってるマンガを読んできたせいかもしれませんが。
・蓋然性がある
まず、唯と律は進路について何も考えていない。これは高校生にはままあることである。
そこで、進路をある程度決めている澪と紬であるが、進路はそれぞれ公立大、女子大。
唯と律は何も考えておらず、「できれば友達と一緒にいたい」と願っている。
ならば女子大を選ぶのはある程度受け入れられよう。
そこにきて澪。彼女は4人の中で最も幼く、「一人ぼっち」は耐えられなかろう。
そういうわけで澪が女子大に行くならば、4人全員の同学進学は現実味さえ帯びる。
この際、全員とも進学の意義やメリットなど考えていない。そんなシーンも無い。
・青春を描くには別離が必要
僕がtogetterで書いた文だが、
「
まあ「別れ」を書いて唯たちの泣き顔を見たいっていう気持ちはわかるが、
京アニさんには必ずしも「アニオタの多数派が見たいと思っている展開」を選ぶ必要は無い。
実際、ボコボコに叩かれながらエンドレスエイトは8回もやった。
彼らは貪欲に、かつ謙虚に「京アニでしかできないこと」をやっているだけだ。
別れが見たけりゃ他のアニメを見たらいい。この氾濫の時代に何を言ってるんだ?
結局は、「大好きだったアニメが自分の思った通りの展開にならなくて残念→間違ってる」という
可愛さ余って憎さ百倍ってやつなんだろうな。
」
という点に尽きる、一アニオタの寝言だと思っていたが、
なんか主張が「自分が正義」っぽいから反論したくて今コメントを書いている。
同学進学では、「別離」を描くことができないため、「青春」は描けていない?
なるほど。確かにそうだ。保守本流さんが考えている「青春」は描けていないに違いない。
むしろ、保守本流さんが考えている「青春」とは「別離=乳離れ」がメインなのだろうから。
・青春を描くべき。か?
で、上の2点をどちらも納得できるとする。
どちらを取ろうかと考えたとき、どちらかといえば曲げるべきは前者の方だろう。
唯のギターの上達の早さ、紬の金持ちさ等、「なんかヘン」な設定は多くあるからだ。
……しかし、「けいおん」は「青春」を描いていただろうか?
なるほど、保守本流さんが見たかった話(4人それぞれの別離)は作られず、
見たくなかった話(同学進学の話が無ければ、別学進学だとも考えられるから)が
放映されてしまった。保守本流さんが「本格派青春アニメ」と認定して応援していたものが、
「本格派青春アニメ」から外れてしまったので保守本流さんはイカってらっしゃるわけだ。
これによって保守本流さんが「けいおん」を全否定し、そこから何も受け取ろうとしない場合、
保守本流さんは「最初に想定していた範囲でしか話を受け取らない」となる。
それこそ、自らの価値観を絶対視し「前に進もうとしない」愚行ではないか。
たとえば、「けいおん」の視聴者は、
そもそも高校生よりも年長の、既に何かを卒業した者たちである。彼らが望むものは何か?
サザエさんというアニメがある。水戸黄門と言う時代劇がある。
これらのように、「終わらないことに意味がある」コンテンツではなかろうか。
このような考察もなしに、「青春」を描いていないから全部無駄だ、では理解がなさすぎる。
けいおんをdisるだけならだれにでもできる。
では、良い点はどこか、と言われると、明確な点を挙げるのが難しいだろう。
これは、何か「完璧な物語」をみんなが夢想しており、そこから外れた点を叩いているだけだからだ。
保守本流さんは、じゃあ、「別離」が描かれたとして、何を受け取ることができただろうか。
作画と声優の演技と関連楽曲だけじゃないか。
・ウザい
一アニメ(いや、原作通りだったから、「一マイナー漫画」が正しいか」)に対する提言を
外交問題とか「近頃の若いモンは」論にこじつけるなよ、ウザい。
・貶めようとする行為は無駄
けいおんは後世に残すべき神アニメ!ではないのは自明。ただ作画と関連楽曲が良いだけのアニメだから。
しかし、社会現象になってから、「これはよくないアニメだよ!」といって止まる社会問題でもないし、
どこの馬の骨ともしれない人が何かほざいたところで面白くもなんともない。
所詮合計3クール+映画の作品なのだから、後世に残るなどとんでもない。
残るのは、ただひたすら長い間放映していたアニメである。
けいおんなんかについて議論する暇があったら、他のアニメについて言及すべきだろう。
・何が言いたかったの?
結局、保守本流さんが言いたいのは、
「ゴメン!僕が勝手に解釈して「青春アニメ」っつってたけど、違った!」
という訂正だけだ。それを、自分が絶対だとか、現代の世相がどうとか、ごまかし過ぎ。
ふんぞり返ってないで、その辺で終わっておこうよ。
どうせこの文も読まれないんだろうけどさ。
一期の時点でこれは青春を描くアニメなんてものじゃないし、
主軸となるテーマも世界観の広がりも無いスッカスカのゴミであることは明らかだったじゃない。
古谷さんは多分重箱の隅をつつくような演出をすごいすごいと言って評価するような人なんだろうね。盲目というか。
こんな あにめに まじに なっちゃって どうするの
という印象を抱きました。
けいおん!ごときのカルくてヌルいアニメに、リキ入れて批判すればするほどしらけるばかりということです。
日本の若者全体として述べるのは無理があるように思います
そして元々こういう日常ゆるゆるアニメは疲れた時の逃避として選ばれやすいものです。
つまりけいおんは元々そういうアニメをモルヒネとしたい層を取り込んだアニメであり、そのファン達を見て
アニメをモルヒネとするなんて!と語っても無意味であるように思えます。
またこのアニメをモルヒネとした人達も、また別のアニメや漫画、文化で立ち向かう気力を充電しているだけかもしれません
個人的には、けいおんをモルヒネとしている人達を批判する気は起きませんが
みんな疲れているのです。日本はもう従来のど根性精神では成長しませんし、そういった思考でやる気が起きるのは
急激に成長している時のみです。エヴァが出来た頃と比べるとまた閉塞感もあるでしょう。
考えを変え落としどころをつける必要はあると思いますが成長!成長!とのマッチョ思考はまた疲れを広げるだけのように感じます
そのため「萌え」というものが、あまりよく把握できていませんが、『とある魔術の禁書目録』が萌えアニメであり、そして皆さんはアニメを熟知されている前提で、これから話をします。
はじめて「とある」のアニメを見た時、主人公の上条当麻が「説教」と呼ばれる演説を試み、如何なる絶望的な状況でも踏みとどまり、そうして人々にビジョンを見せ、「あと、もう少しで届くんだ!」と熱心に語ります。「私も、こんなことが出来たら良いなぁ」と理想像を得て「ウヲォ!」と感動し、「あれッ。昔のアニメより内容が立派か?!」とアニメを見直しました。これは、私の現実の世界でリーダーシップとして役に立っています。
昔は、アニメを見るとバカに成ると信じていた為、小学生の頃、「ドラえもん面白いよね」という友達に「私は弱音を吐かない。ドラえもんに泣きつく、のび太君は気持ち悪い」と言ったことがあります。すると「どこに居心地の良さを求めるかは人の勝手だろ」と言われたので、「ああそうか。気持ちの良さは人それぞれ違うのか」と反省しました。
それから年月が経ち再会し、その友達は、のんびりした性格で「某で働いているよ」と言い嬉しく思いました。ただ、情熱や馬力、切磋琢磨という観点から見ると「何故、上を目指さないんだろう?」とも疑問に思いました。
いままで述べた小学生の同級生とは違う、精神病と医者からいわれている友達がいます。彼も同じくドラえもんが好きです。萌え系をこよなく愛しているそうです。先程の小学生の時の友達と、この病の友達とは、ほとんど性格、思考・発想が同じなのに、一方は病になり一方は元気なのは何故なんだろう?と思いました。決定的な違いは、小学生の同級生の方は、一つの住所から全く動いたことが無く、小学生の友達数人とずっと大親友、職場も家から3分という場所であり、病気だと悩んでいる友は小さい頃集中的に3回は引っ越しをして幼稚園・小学生・中学生・高校生は全てバラバラで、いま彼が持っている友達は高校の時の友人数人だけです。引越しなら私も小さい頃に3回行いい、それまでの友達や近所のお姉さんと涙の別れをして別の場所に行くのは辛かったけれども、しかも移った場所は、幼稚園ならばもうその地域のご近所さん同士の子供達で固まっていて、私は自分の居場所をつくる必要性に迫られ、しかし新しい世界を自力で創る楽しさにワクワクしました。
こう考えるに、ドラえもんが好きなようなオットリ系の子は、小さい時に沢山の引っ越しをしてはいけない。新しい変化に対応する力があまりない。けれど、心は全く優しく、ものすごく友情を大切にする性格なので、これを良い方向に発揮するなら、一つの場所・地域で同じ友達、もしくは道徳性の高い職場で活動すれば、医者に精神病とつべこべ言われずに済むのではないかと結論します。
なぜなら私は、学生の頃、道徳性の少ない教師との心を許さない関係が楽しいと感じましたが、同じ教室のオットリ系の子達は怠惰と不道徳に押し流される傾向にあったからです。私は教師への説得を試み「同じサボるならば、ある程度教科書のどこまでを自習せよなどの指示をくれ」と言いました。しかし教師はやる気がない為「好きにしろ」というだけだったので、別のお気に入りの学科について友達と討論するようにしたところ、そのオットリさんは活き活きとし始めました。職場でも同じことが言えるのではないかなと推測します。
以上から、その人の環境に流されない強さの度合いによって、別離した方が精神の成長になる人と、別離すると病気に成り易い(活動が低下する)人がおり、不道徳な劣悪な環境に居る程、自立心が高まる人と、明日の希望も持てないようになる人とが居ると思えました。←【※1】そして、環境に流されやすく、不道徳にも弱く、なるべく変化したくない人ほど、道徳性・勤勉性・謙虚・素直などの社会的に良いとされる性質を持っているのです。よって、私は「とかくに人の世は住みにくい(中略)どこへ越しても住みにくいと悟さとった時」リーダーは統治をはじめる、のだと考えました。理想の高い精神性の高邁なリーダーが「いつまでも戦国の世の中ではキツイ者もいる、では皆、天下を一つの家のようにして、道徳を敷き、住み心地良くしてやろう」と号令されるのだと思います。←【※2】そうして、先程の弱いけれど道徳性の高い人達が安心して暮らせるようになると思います。
※1会社を渡り歩くのが好きな人がいる一方、一つの企業に尽くしたい人があり、この尽くす型の人を正社員として雇わねばならないと思います。知らない人が居ると楽しいと思うよりも、職場の人々と馴染んできてから力を発揮する人があります。
※2全員精鋭であるより、少し劣った人が集団(国民・社員)あった方が、リーダーが部下を選ばず使いこなす方に向き、度量が大きくなると思います。
以上を完全に行うと、道徳性を評価し、生きていく力の弱いことに問題点を感じなくなっていく為に国民全体が弱くなります。
国を軟弱にしたくなかったら、アメリカのように全員に武器を持たせ、悪いことをしても謝らないという社会を前提にする必要があります。生活力最強の漢人に精神病が多いのも、同様の理由からでしょう。
では、武士の時代は、治にあって乱を忘れずができていたぞ、という疑問があるため、それはつまり、【※3】道徳性が高い国ほど、一般国民(平民・のんびり)と指導者層(戦士・引き締まる)の階級差がバッチリしている必要があると思うのです。逆に言うと、民主政治 ――― 海賊は自分達の船長を選挙で選ぶ ――― は不道徳な国、もしくは戦争をし続ける国の政体であると思います。
※3治安が素晴らしい国、例えばスパルタ国などは、国の構成員がふやけないために、スパルタ教育を行う。国の治安が悪く環境が体罰そのものの国は、スパルタ教育は行われない。
けいおん!(平民型)は、「次の一歩を皆となら踏み出せる」という発想であり、まなびストレート!(指導者型)は、「こんな私でも夢を見つけて独りで生きていけるよ」という発想なんだと思います。率いる側(リーダー)は、特にまなび型である必要があり、率いられる側はけいおん!型が許されるということだと思います。アニオタ保守本流は「リーダー型の逞しい人間をアニメを見る子供たちから育てよう」という趣旨だと推測します。民主政治では、引き締まる感覚を持った者を一般国民の中から見出す必要があるため、次の結論となります。
私は古谷さんが大好きです。アニメで描かれる最高の姿を体現する人物が出てくれば面白いと思うので、古谷さんがついて行きたいと思われるくらいの理想のリーダーの姿を語る「アニメで考えるリーダー像」を書かれると嬉しいです。もしくは、国体や国のあり方を。こういうのがアニメ作品における保守の言論だと思います。
私は、修身を行う時、歴史上の人物の成功体験を繰り返しイメージし、脳を良いイメージで独占させます。その状態(気持ちが真剣で集中の状態)で何かに取り組むと成功の確率が上がります。アニメにも、そういうことに使える内容があります。それだからこそ、アニメの造詣の深い古谷さんがリーダー像を語る事で、今を生きる若者やこれから成長する子供達に好影響を齎すと信じます。
『とある魔術の禁書目録』オープニングテーマには、問題解決の為に苦しいとわかっていても見て見ぬふりの安楽に背を向け行く、震え出す足、こういう緊張感こそが生きてるってことだろう。こういう歌詞があります。こういう勇者を保守本流の力で育ててもらえたら最高です。
<おしまい>
それ以外に言うことはありません。
キモいですねあなた(笑)いい年したおっさんが何長々と語ってんのw長くて読む気失せるのもあるけど、気軽な感じでアニメや漫画を楽しめないのかなって印象しか受けないですね。そもそも、アニメ評論家って何だよ(笑)
「どうしたんだ律、あっPC買ったのか。私もこの間買い替えたぞ。・・・I have an apple・・・だ。」
「そう、アイ ハブ ア ぺ~ン って、違~う。」
「なんだ律、動画アップでもするのか。」
「澪ちゃん、このブログのことじゃない? なんだかいろいろ書いてるね。これって私たちのこと?わぁ面白い。私のところもブログやったほうがいいかな。でも、斉藤に任せっきりだから、どうしよう。」
「ムギんとこの会社って何やってるんだ。」
「ん~、まだ始めたばっかりだけど・・・世界征服?かな。」
「なんだそりゃ。」
「でも、なんだか言いたい放題だな。誰も私たちのことなんて知らないだろう。」
「澪ちゅわぁ~ん、何言ってんだい。いっぱいいっぱいファンの娘がいるじゃん。」
「もう学生のことろは違うんだ。律。」
「大学進学のことだって、私が私のために自分で決めたことだ。他の誰かにとやかく言われたくない。そりゃぁ律やムギや唯と一緒にって思ってはいたけど、それはそれだ。ふん。」
「澪ちゃん、可愛いぃ。」
「ムギぃ~、何言ってるんだ。もうこんな歳なのに。」
「あれぇ、叩いてくれないの?うふっ。」
「ボコ!」(脳天)
「やったぁ~。嬉しい。」
「もう、ムギはぁ。変わんないな。」
「あら、私は変わったわよ。あれから何年経ったと思うの。わたし社長よ、社長。澪ちゃん。」
「ああ、そうだったな。しかも律は・・・。なっ!」
「わははははは、悪ぃ~な澪、先いっちゃって。」
「ホントだ、バカっ。」
「それに、晶たちと出会って、またいろいろあったしな。」
「そうだなぁ。唯と出会って以来の衝撃だったな。」
「長く時間を費やせばいいてもんじゃないだろうけど、大学があって、新しい出会いもあって、小学校からの律とのつきあいも、ムギや唯も含めて全部が私だ。」
「澪~、なんだかわけわからなくなってるぜ。」
「うるさい! ボコ!」
「いで!、久々だなぁ。頭はいいけど腹はやめておくれよ。」
「あ!悪いっ、律。」
「・・で~律先輩。いったいなんだったんですか。皆さんを呼び出したのは。」
「あぁ梓、そこのそいつのことだよ。実はさわちゃんからメールが来てさ、唯がな、ちょっと変なんだ・・・って。」
「唯先輩が変なのは、いつものことじゃないですか。」
「そのいつも変な唯がな・・・いや、今の唯を見てどう思う?梓。」
「そうですね、ちょっと無口かも?でも静かでいいんじゃないですか。」
「梓!、唯が変じゃなくなったら憂じゃないか。あっそれはそれで出来た姉だからイイのか。」
「唯、何かあったのか。」
「唯ちゃん?」
「唯先輩。」
「うううう・・・私・・・このままでいいのかって、これでいいのかってわからなくなって。えぇぇん。」
「泣くな!ムギ!お菓子だぁ~。」
「はいな。」
「パクリッ。ふにゃ~。」
「なんだ一口じゃん。そのへんは昔から変わんないな。」
「りっちゃ~ん、私だって変わったよ。昔のままではいられないよ。楽しいことも、楽しかったことも、楽しいだろうなぁってことも私の中で消化しきれないんだよ。」
「わけわからんぞ唯。ケーキは消化しただろ。」
「もうりっちゃんは~。一人幸せの絶頂みたいに・・・。一人ふわふわ時間だよ。」
「幸せだよ、悪いか!」
「教育実習の時はただただ楽しかったの。でもそれでいいのかって。さわちゃんにはとってもよくしてもらったし、これからも頑張ろうって思ってたの。あの子たちも可愛くて、でも・・・。」
「唯先輩、桜高だったんですね、実習。」
「一応母校だし、さわちゃんもまだいたし。まだ独りだったけど。へへっ。」
「さぶいなぁ~さわちゃん。澪もお独り様満喫だし。」
「独りを嬉しがってなんかないっ!」
「澪ちゃん、少しばかり見繕って紹介しましょうか。ポップス系?それともロック系がいい?少ないけど芸人もいるよ。」
「ぅぅう~いらない!暫く独りを楽しむっ!」
「はっはぁ~澪、ぴゅあぴゅあで小説でも書きまくるか?」
「小説なんて書かない!今は原稿とりばっかりやらされて、自分のやりたかったことって何なんだろうって最近思う。」
「澪先輩?ベースはやってないんですか?」
「あぁそうなんだ。実はうちの会社、音楽関係の記事やインタビューを扱っているんだけど、それでプロのミュージシャンに会える機会があるかとあるかと思ってたら、ライターさんとしか接点がなくって。」
「仕事のこととベースのことは全然関係ないじゃん。澪。」
「まぁそうだけど。いろいろ忙しくってな。」
「ちょっとぉ、私のこともかまってよぉ。りっちゃん。」
「唯はそこで菓子食ってろ。」
「えぇぇ~。」
「で、梓はどうなんだ。」
「ああ、はい。急に律先輩の呼び出しメールが来たんで、クラブのハコバンでトラやってたんですけど、そのまたトラを頼んできたんですよぉ。」
「今どきハコバン雇ってるクラブなんかあるのか、梓。」
「まぁないことはないんですよ。」
「えぇ~、あずにゃん、虎になったの?あず虎ぁ?やだぁ~。」
「ええい!唯はそこで虎にでも喰われとけ。」
「えぇぇ~りっちゃんち虎いるのぉ?」
「いねぇよ!だったらこのブログでも見てろ。」
「あ・・だめ。字がいっぱいで、しねるぅ。」
「唯先輩はホント変わんないですね。」
「え、えぇぇぇ。とんちゃんガメラになっちゃうのぉ?」
「そこかよ。」
「りっちゃん、りっちゃん!離別だって、希薄だって・・・なにこれ。」
「唯ちゃん、あまり深く考えなくてもいいんだよ。今までのことも、これからのことも、みんな自分に正直に生きていけばいいと思うの。時として何か得体の知れない壁に阻まれたり、何かが爆発したり、UFOが飛んできたりすることもあるかもしれないけど、一生懸命生きていけばいいと思うの。進路希望にも『とにかく一生懸命頑張ります。』ってかいたんじゃなかった?」
「キャトられるぞ唯。」
「しかし、ムギはなんか達観してるな。」
「そうですね、ムギ先輩は的を射ているようでハズしてるって感じがしますけど。」
「やだ梓ちゃん、そんなに褒めないで。」
「いえ、褒めてませんけど。」
「唯はまだまだこどもで変わってないと思っていたけど、唯なりに苦労してるのか。」
「澪ちゃん、わたしもう24だよ、今年25だよ。四半世紀生きてるんだよ。」
「四半世紀って・・・まぁいっか。」
「そうそう生まれた年は前から読んでも後ろから読んでも同じなんだよ。これってすごくない?」
「唯、お前もう黙ってろ。」
「うぅ~。」
「唯先輩がもう25歳にになるなんて。ぷっ。」
「あずにゃぁ~ん。」
「でも唯の中の人はもう三十路だぞ。」
「えっ!りっちゃん、中の人って・・・?」
「悪い!冗談だ。」
「あっ、唯ちゃん背中にチャックが・・・。」
「えっえぇぇぇ。」
「変わった服ねぇ。どこで買ったの?」
「なんにしても、唯は唯だし、澪は澪、ムギはムギ。梓は・・・」
「私って・・・なんなんですか。」
「梓は・・・あずにゃん・・・みんなの玩具かな。」
「ぶぅぅ。」
「はははは、すまん。梓は後輩だけど今じゃもう仲間だ。離れてはいてもみんな繋がってる。日頃忘れていても、気にも留めていなかったとしても繋がってるよ。吉井部長・・あっ梓は知らないかもしれないけど大学の先輩も、それこそ桜高軽音部の一本の線で結ばれたかのような人の繋がりは私たちの宝だよ。宝物だよ。・・・ってダメだ、ドラム叩くより疲れる。こんなこと言わすな!」
「律、頑張りすぎ。」
「なんか嬉しい。りっちゃん。なんでも終わりはあるかもしれないけど、終わらないんだ。」
「いいえ、唯ちゃん、終わりは来るわよ。人は誰しも最期の時を迎える。それは仕方のないことだけど。」
「ムギ!みなまで言うな!」
「そんなこと言うなよ、寂しいじゃないか。」
「あれぇ澪、泣いてるのか。」
「泣いてなんかない、め、眼がゴミに入って・・・。」
「でも、いいですね。何かあったらこうやってみなさんすぐに集まって。高校の時を思い出します。」
「そうだね、あずにゃん。私が軽音部に入って、あずにゃんが入部してくれて、2年生の学園祭まであっという間だったよ。でも3年生の時は長かったよね。修学旅行に、夏期講習に、マラソン大会も、受験勉強も私すごく頑張ったよ。それからライブも。卒業式の後もなんかしばらく軽音部だったような気もするし・・・あれ?」
「唯、気にするな。そこは大人の都合だ。」
「あっでも、私も大人になったから大人になろう。本当は泣きたいこと沢山あったし、消えて無くなりたいと思ったこともあったの。けど、それ以上に楽しいこともあったかもしれない。」
「あぁそうだな。私もあの古びれた音楽準備室の床や、窓から射す暖かい陽射し、律の16インチのバスドラキックが好きだった。ノスタルジーに浸るわけじゃないけど、ぐだぐだな軽音部が今に続いていると思う。」
「アライグマやペンギンさんは出てこないんだな、もう。」
「もういいっ!」
「なぁみんなぁ、私たちこれでいいんだよな。」
「そうよ、りっちゃん。」
「そうだな。」
「そうですね。」
「りっちゃん、澪ちゃん、ムギちゃん、あずにゃん。これからもよろしく。」
「なんだよ、唯。」
「今、こんなだけど、ひょっとしたら武道館でライブやってたかもしれないし、ロンドンツアーとかもあったかもしれない。でも、みんながいるから幸せだと感じるのは・・・感じてもいいんだよね。誰に何言われようと私たちは私たちなんだよね。」
「あぁそれでいいさ。」
「澪、いっそ本当に小説書いたらどうだ。軽音部の・・・私たちの・・・。」
「そうだな、いいかもしれないな。」
「それいいわね。できたらうちから出版するわ。」
「ムギ、商売っ気ありすぎ。」
「じゃぁさぁ澪ちゃん。これからのことだったらタイトルは『放課後ティータイム』じゃなくって『老後もティータイム』だね。」・・・・・・・・・
おしまい。
結論から言っていい?
なんで4人揃って女子大へ?
そんなの「商業的理由」しかないだろ~ww
ドラゴンボールが無理やり続いた理由と一緒だよww
真面目に考えるだけ時間の無駄ww
きらら編集部「全員同じ女子大に行かせて続編描け!」
作者「ええ…それじゃあ卒業ってテーマが台無し…」
編集部「ハア?!お前ごときの実力で何言ってんの??
けいおん!が売れたのはアニメのおかげでお前の実力じゃないだろ!
お前、けいおん終わったら同じぐらいのヒット作描けるのか?!!
わかったらさっさと描け!」
作者「は、はい…」
アニメスタッフ「え!全員が同じ女子大へ?!原作ふざけんなああああ」って感じでしょ
あしたのジョーのちばてつや先生は、ライバルの力石が人気があるから生かしてくれと編集部やTV局に連日言われたが、ストーリーを優先した
しかしそれはちばてつや先生レベルの大家だから出来る事であって、えびふらいには無理な相談ってもんだよw
頭悪いにも程があると思いました
なによりこの作品にそこまで偏った意見をつらつらダラダラと述べるこの記事を書いた人本人に対して言いたいのが「極めてグロテスクで気持ち悪いですね」っていうことですね
この記事のどこに反論どうこうではなくて、なにもかもが稚拙すぎて、ひとつの日常的な作品にここまで屈折した思いを抱くなんて、笑いどころかなんとも哀れな人だなぁと素直に思いました
純粋に見ることができない作品はアニメでなくてもなんでも、合わないと思った段階で切ってしまった方があなたの為でしょうね、と思いました
どうせこんな反論すらもどうでもいいんでしょうけど、こちらもそんなことは関係ありません
このレスの後にあなたがどう思おうが思うまいがどうでもいいです
ただここまで捻くれた人はなかなかそうそう見受けません
貴重な体験どうもありがとうございました