民主国家で台頭する二つの権威主義
―― 選挙権威主義と非自由主義的民主主義の脅威
After Democracy
What Happens When Freedom Erode?
2018年12月号掲載論文
民主主義が劣化していくにつれて、権威主義化していく。特に、選挙で勝利を手にするためなら何でもする「選挙権威主義」体制、そして選挙後に支配者が法を無視して思うままの行動をとるようになる「非自由主義的民主主義」が主流になっていくだろう。例えば、超法規的殺人を特徴とする麻薬戦争を展開しているフィリピンのドゥテルテは、選挙で選ばれたが、権力を乱用している。(権力を思うままに行使して)非自由主義的民主主義を実践しているトランプも同様だ。より厄介なのは、選挙で有利になるように、ゲリマンダー、議員定数の不均衡などのあらゆる政治制度上のトリックを利用しているマレーシアの統一マレー国民組織(UMNO)と米共和党が似てきていることだ。選挙に破れても首相を送り込んだUNMO同様に、米共和党も、一般投票では敗れつつも、最近の2人の共和党大統領候補をホワイトハウスに送り込むことに成功している。・・・
- 二つの権威主義モデル
- 民主主義の形骸化
- トランプと共和党が作り出す二つの脅威
<二つの権威主義モデル>
専門家たちは、アメリカを含む世界各地で民主主義が形骸化し、後退し、おそらくは死滅しつつあると嘆いている。だが民主主義の代わりにどのような政治体制が浮上してくる可能性が高いのかについての議論は少ない。民主主義が廃れていけば、何が残され、後退すれば、どのような状態になり、死滅すれば、何が新たに生まれるのか。
簡単に答えるなら、それは権威主義だ。しかし、権威主義体制も民主主義同様に多様だ。民主主義がない状態と権威主義は同義ではない。権威主義と一口に言っても、それは、特有の政治的弊害をもつ、異なるモデルの寄せ集めであり、その手法はさまざまだ。つまり、民主主義は深刻な脅威に直面しているが、その脅威は一つではない。
アメリカからフィリピン、ポーランド、ブラジルまでを概観すれば、そこに二つの非民主的モデルが存在することが分かる。一つは(選挙での勝利と権力の永続化を目的とする)選挙権威主義(electoral authoritarianism)。この体制では支配者は形式的に選挙によって選ばれるが、選挙そのものが不正操作されるか、現職候補と対立候補の選挙上の競争環境が完全に不公正であることが多い。
もう一つは(自由で公正な選挙で選ばれるものの、その後、政治家が権力を乱用する)非自由主義的民主主義(illiberal democracy)だ。この場合、政治家は自由な選挙で勝利を収めるが、手に入れた権力を乱用し、少数派の人権を無視した行動をとる。
簡単に言えば、選挙で勝利を手にするためなら、何でもするのが選挙権威主義で、選挙後に支配者が思うままの行動をとるのが非自由主義的民主主義だ。
民主主義が廃れていくにつれて、選挙で選出された指導者と政府は、往々にして二つの権威主義の特徴の双方をもつようになるが、どちらか一つの特質だけをみせることもある。
この二つの非民主的モデルの違いは数多くある。何としても再選を果たそうと手を尽くす選挙権威主義は、通常、与党による集団的な企てであることが多い。一方、ファリード・ザカリアがその名付け親で、最近ではハンガリーのオルバン・ビクトル首相が実践している非自由主義的民主主義は、選挙で選ばれた権力欲の強い指導者の個人的なプロジェクトだ。
選挙権威主義体制の指導者は、野党への支持を抑え込むために選挙制度上のトリックを用いる。非自由主義的民主主義の指導者は公然とマイノリティ集団を攻撃し、自らの行動を制約する民主的制度・機構の中核部を攻撃する。選挙権威主義の指導者が選挙での敗北を受け入れることはない。そもそも選挙を操作するので、完全に敗北することはない。非自由主義的民主主義の指導者は規範を踏みにじり、ルールをねじ曲げるので、行動が制約されることはない。
非自由主義的民主主義と選挙権威主義は世界各地で実践されている。非民主的なこれらの体制は、民主主義が形骸化し、後退し、死滅していくにつれてアメリカにも定着しかねない。(選挙後の指導者の権力乱用を特徴とする)非自由主義的民主主義の脅威は差し迫っているが、(これは政権が交代すれば)いずれ消滅するかもしれない。一方、アメリカ政治の選挙権威主義に対する脆さには長い歴史があり、今後もなくならないだろう。
<民主主義の形骸化>
東南アジアには非自由主義的民主主義と選挙権威主義のサンプルが数多く存在する。フィリピンは、古くからの確立された民主主義が非自由主義的民主主義へ劣化していった顕著な例だろう。ロドリゴ・ドゥテルテ大統領は、自らの権力に対する制約をほとんど受け入れていない。麻薬ディーラーを対象とする超法規的殺人を特徴とする有名な麻薬戦争を展開していることからも明らかなように、彼が法に縛られることはない。ドゥテルテはこれまでのところ広く市民に支持されているが、だからといって彼の権力乱用を民主的とみなすことはできない。基本的権利を踏みにじることが非自由主義の本質だ。
しかしドゥテルテは、少なくともこれまでのところ、選挙権威主義的ではない。選挙制度を操作することで勝利を手に入れる力をもつ政党を率いているわけではないし、自分に取って代わるかもしれない政治的ライバルを粉砕しているわけでもない。これは一つには、フィリピンの大統領制では6年という任期制限があり、ドゥテルテは、自分のために憲法を修正して権力の維持を考えるには歳をとりすぎているのかもしれない。(訳注―フィリピンの新憲法草案では一期4年で二期までとすることが提案されているが、ドゥテルテは「任期満了後に再選をめざす意志はない」と述べている)。
選挙による信任を背景としつつも(法を無視した)行動をとっており、この側面で彼は非自由主義的民主主義の指導者だが、どのように選挙で勝利を収めたかには問題はなく、(選挙権威主義の指導者のように、政治制度上のトリックを仕組むことで)権力を維持し続けようとしているわけでもない。
一方、シンガポールは(選挙での勝利を最優先する)選挙権威主義の分かりやすい例だ。ドゥテルテとは違って、シンガポール政府は法の順守に厳格にこだわり、このために市民の順法精神も高い。その統治体制は集団的で、個人的なものではない。選挙制度は細かに設計され、精密に操作されるために、野党が支配政党である人民行動党(PAP)を合法的に打倒できるチャンスはない。選挙を監視する独立委員会もない。有権者は「投票行動が監視されているのではないか。PAP以外の政党の候補に勝利を与えれば、自分たちのコミュニティは、行政サービスの停止などで報復されるのではないか」と恐れている。皮肉なことに、PAPはドゥテルテ以上に、「権威主義」という言葉がフィットする。フィリピンの指導者は、目に余る権力乱用をしているものの、持続的な権威主義的統治をしているとは言えないからだ。
シンガポールとフィリピンだけではない。この地域には他にも権威主義のサンプルがある。ミャンマーでは、2015年の自由で公正な選挙を経て、軍部が重要な政治ポジションを押さえたとはいえ、最終的にアウンサンスーチーの国民民主同盟が権力を手にした。しかし、選挙による民主主義も程なく非自由主義的民主主義に劣化していった。仏教徒が支配する民主体制下でマイノリティのイスラム教徒、特にラカイン州のロンヒンギャは、悲惨な事態に直面している。ニュースメディアも、軍の人権弾圧やいわゆる国家機密を暴露する報道をすればいまも弾圧される。
一方、インドネシアで、イスラムを冒涜したとされるジャカルタ特別州の中国系州知事が最近投獄されたことは、東南アジアにおける最大の民主国家が、厄介なことに、非自由主義的な方向へ向かいつつあることを示している。
非自由主義的民主主義がフィリピンだけでないのと同様に、選挙権威主義を実践しているのもシンガポールだけではない。カンボジアのフン・セン政権の与党(カンボジア人民党)は、自由がなく不公正な選挙でも勝利を収める自信を失い始め、野党の反対派やニュースメディアに対する締め付けを強化している。この意味で、カンボジアは、シンガポールのような選挙権威主義を越えて、ベトナムや中国のような一党独裁体制に向かいつつあるとみなせる。
しかし、アメリカにとってもっとも示唆に富む東南アジアの事例はマレーシアだろう。この国は、過去半世紀にわたって統一マレー国民組織(UMNO)による選挙権威主義型の政権が支配してきた。2018年5月に選挙で(建国以来、初めて)敗北して下野するまで、UMNOは、「移民」マイノリティに特権を奪われるのではないかと懸念する多数派のマレー系住民のために国を統治してきた。自らに有利になるように、選挙ではゲリマンダー、議員定数の不均衡、特定候補の立候補資格剥奪、有力な対立候補の投獄にいたるまで、政治制度を含むあらゆるトリックを利用してきた。
こうした選挙制度の操作によって、2013年に初めて経験したように、UNMOと連立のパートナーは得票数で敗れつつも、議席数では議会多数派の地位を確保し、大きな権限をもつ首相を送りだせる環境が作り出された。
UMNOのマレー民族ばかりを重視する政治スタイルがさまざまなマイノリティ集団を離叛させ、UMNOの指導者であるナジブ・ラザクが目に余る政治腐敗に手を染めていたことが発覚する事態を前に、マレーシアの民衆も衝撃を受けた。こうして(2018年の選挙からも明らかなように)あからさまな権威主義的な政治制度の乱用でも、UMNOの選挙での勝利は保証されなくなった。
<トランプと共和党が作り出す二つの脅威>
これらの事例はアメリカにとって何を意味するだろうか。ここで見てきた東南アジア諸国とは明らかに異なるが、アメリカも東南アジアが直面している二つの非民主的な弊害、つまり、選挙権威主義と非自由主義的民主主義の脅威に直面している。
ドナルド・トランプ大統領、そして次第に好戦的になり、規範を踏みにじるようになった共和党がアメリカの民主主義にどの程度の脅威を突きつけているかについては、専門家の間でもさまざまな見方がある。この理由の一つは、トランプと共和党が異なる脅威であることである程度説明できるだろう。
ドゥテルテ同様に、トランプは(権力を思うままに行使して)非自由主義的民主主義を実践している。彼は自分のことを批判するあらゆる勢力を攻撃している。トランプがメディア、裁判所その他の民主的組織の意見を尊重するとすれば、彼らが大統領を批判しないことが条件となる。かつての共和党指導者たちが、反移民その他の人種差別的感情を喚起するために「イヌ笛」で特定層だけにアピールしてきたのに対して、トランプは誰にでも聞こえるように「拡声器」を用いている。
彼は欲望に取り憑かれた自分の個人的スタイルを重視する指導者だ。どのように、そして外国企業とのいかなる取引を通じて彼が巨万の富を築いたか、そして、おそらくは、それを大統領として続けているかことについては、市民の関知するところではないと考えられている。一方で彼は、長期的に権力基盤を固めていくための、はっきりとした選挙権威主義的な戦略はもっていない。
だが共和党となると話は違ってくる。2016年のウイスコンシン州や現在のジョージア州が顕著な例だが、有権者登録のために一連の公的身分証明書の提示を求める法律やこれに準じた(民主党支持の)有権者を投票から遠ざける措置を通じて、共和党は多数派の地位を獲得することよりも、選挙で勝利を収めることに徹するようになった。
こうした多数決ルールに反対する戦略は大統領選挙人団システムに見事にフィットし、これによって、一般投票では敗れつつも(ジョージ・W・ブッシュとドナルド・トランプという)最近の2人の共和党大統領候補をホワイトハウスに送り込むことに成功している。しかし、マレーシア流の「敗者がすべてを手に入れる」パターンが、その名に値する民主的選挙を実施するこの国でまかり通る状況を許してはならない。
トランプは多くの意味でドゥテルテに似ている。そして、共和党は次第にマレーシアのUMNOを想起させる政党になりつつある。もちろん、アメリカの党派政治において、これは目新しいことではない。最近のアメリカの歴史を振り返れば、レコンストラクション期後に南部で(黒人を差別する)ジム・クロウ法が導入されたことも、選挙権威主義の典型的な例だろう(南部の人種差別的な民主党は、手段を選ばず、何としてでも多数派の特権を守ろうとしたUNMOの役割をアメリカでかつて果たしたことになる)。
民主党支持者を投票させないような共和党が仕組んだ政治的トリックを克服して、民主党が議会や地方選挙で地滑り的勝利を収めても、大統領弾劾に持ち込むことも、トランプが民主主義を形骸化させて非自由主義的民主主義に置き換えていくのを阻止することも、そのペースに歯止めをかけることもできないだろう。対照的に、トランプが2020年の選挙で敗れるか、もっと早い時期に大統領ポストから外れるとしても、共和党はさらに選挙権威主義の方向に向かうかもしれないし、特に支持が不安定な州では、そうした戦略に出るかもしれない。
あらゆる選挙には大統領の政治が影を落とすとはいえ、(議会選挙や地方の選挙で)トランプ自身の信任が直接的に問われることはない。したがって、有権者が何を投票でアピールしようとも、任期中は彼が具現する非自由主義的民主主義への流れがやむことはないだろう。次の大統領選挙まで、その弊害を取り除くことはできないが、それでも、トランプ政権を越えて、非自由主義的民主主義が続くことはないだろう。現状における、アメリカの選挙と民主主義に関する主要な疑問とは、この国があからさまな選挙権威主義に向かっていくかどうかだろう。●
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