祝い、呪い。
キッズスマートフォンを片手に、下駄箱のロックを解除してローファーを取り出す。ローファーに片足ずつ差し入れながら、電話帳から家の番号を検索して発信した。送迎車を呼ぶ為だ。怠惰ではない。そういう家則なのだ。行儀悪くも片手ずつの作業だった。
スリッパは来客用の受付窓口へと返した。受付の男性に「初日で忘れちゃったのかぁ……」という生温かい目で見られて、少しだけ祁答院に上靴を貸したことを後悔した。
「――はい。来宮でございます」
数回のコール後、無機質な女の声が答える。――依流なんかよりも余程人形らしいじゃないか。
「いずるです。迎えをおねがいします」
「承知致しました」
プツリと通話が切れた。あとは校門で待つだけだ。
ヒラヒラと視界にピンクが映る。春。始まりの季節。陳腐な桜の花弁乱舞を無感情に眺める。足元にはピンクの絨毯が出来上がっている。――絨毯だなんて、笑わせる。踏み付けられて、擦られて、薄桃はこんなにも汚されているのに。
時折、思ってしまう。『自分』は死んでなんかいないんじゃないかと。あのまま、長い長い悪夢に囚われているのではないかと。それならば、
――目覚めなくていい。
――早く起こしてくれ。
七年依流として生きてみた。けれど、結局どうすればいいのかなんてわからない。自分が何なのかわからない。わかることなんて、――依流は『異常』だということだけ。
神様に嫌われている。そんな気がする。
嫌われているのは、『泪』か『依流』か、わからないけれど。
どっちにしたって、『俺』の言葉は変わらない。
「……かみさまなんて、だいきらいだ」
黒塗りの車が見えてきた。覚えのあるナンバープレート。フロントガラス越しにスーツの男が手を振っている。――やはり迎えもこの男らしい。
「はーい、お待たせ。学業お疲れさまでした、坊っちゃん」
「……さくまさん」
どうしようもなく脱力してしまい、目の前の男を恨みがましく睨み付けてしまった。
「おっ? ご機嫌斜めですか? まあでも僕も仕事なんでちゃちゃっと入っちゃってくださいな」
後部座席のドアが開けられる。佐久間の言い分は尤もだ。彼はあくまでも『仕事』なのだから。
車が自宅へ向けて発進する。つまらない時間だ。
「学校はどうでしたー? 坊っちゃん。ちゃんとお友達できましたー?」
軽快に佐久間が口を開く。
以前の運転手である松本は俺達と孫ほどの年の差があることもあって、寡黙に、あくまでも雇い主の子息として対応していた。それに比べてこの男ときたら。尊敬もくそもない。――けれど、悪くない。
「ふつう。ハムスターとうさぎとこねこになつかれた」
「……動物と心通わせられる坊っちゃんも素晴らしいですが、人間の友達もちゃんと作ってくださいねー……」
佐久間から初の困惑顔を引き出してしまった。
「あ、そうだ。これこれ」
赤信号により前進を停めた佐久間から、腕だけでメモを渡された。ルームミラー越しに視線が当たり、笑まれる。
「僕の個人的ケー番ね。次からそこに掛けてくれればいいから。一々家の人通すの面倒でしょ?」
メモに並んだ十一の数字に、怪訝に眉を寄せてしまう。
「……いいんですか?」
松本の時はなんどきも家にかけ人を挟んでの呼び出しであったのに、彼の一存で決まりを変えてしまっていいのだろうか。俺はともかく、彼の立場はどうなる。
「いーのいーの。共犯だから」
……共犯?
「それにさ、」
信号が青に変わり、車が右折していった。――右折? 待て。家への方向と違う。ここは直進の筈だ。何をしているんだこいつは。
「個人で呼び出せばこうして寄り道できるし?」
「は……」
馬鹿だ。そう思った。躊躇いなく思った。
雇われている身でありながら、そんな勝手。誘拐と取られてもおかしくはない。
「ばっ……ばかですか! 戻ってください! だめです!」
思うだけじゃ止まらなかった。馬鹿だと叫んだ。けれど、佐久間は何でもない事のように笑って運転を続けている。どんだけ頭軽いんだこの能天気男!
「だーいじょうぶですって。時間はかけませんから」
「そういうもんだいじゃない!」
「おお、坊っちゃんのおっきな声とか超レアですね」
「さくま!」
押し問答している間に、目的地へと着いてしまったらしい。俺はどこへ連れて来られたのだろう。
「ささっ、はい降りてー」
ドアが開かれる。広がった景色の中に小さなケーキ屋が映った。何なんだ一体。
「いやー、一回来てみたかったんですよねーここ。でもこんなかわいいお店、男一人で入るにはちょっと勇気いるでしょ? だから子供付きならいけるかなって。ちょっと付き合ってくださいな」
ニカッと弾けた笑顔に、彼と顔を合わせてから尽きないため息が大きく落ちた。何やらくだらない計画に巻き込まれてしまったらしい。
「……ほんとにばかですか」
このまま、車内で「この考えなしが!」と詰って不貞腐れてしまいたい。が、既に車は店の駐車場に停められている。来てしまったものは仕方ない。甘ったるい色の髪や瞳を持っているわりにこの体は甘いものが得意ではないようだが、茶くらいは付き合えるだろう。
今日は本当に他人に振り回される日だ。うんざりしながら車内から身を出した。
カランコロン。ドアに取り付けられた可愛らしいベルの音が転がる。若い女性のいらっしゃいませを片耳で受け取りながら、イートンスペースへと誘導された。佐久間は底抜けに楽しそうにおもちゃみたいなケーキが並ぶショーケースを眺めている。こぢんまりとしたメニューを開いて。……紅茶の種類は書かれてないのか。まあ、ケーキに合わせるとなったらダージリン辺りが妥当だろう。正直、庶民育ちの記憶もある俺としては茶なんぞ飲めりゃなんでもいい。
「じゃ、お願いしまーす」
食したい一品が決まったらしい。佐久間が前方に着席する。ニコニコと笑窪を作り全身から楽しみだと訴えている。なんというか、人生の全てが楽しそうな男だ。
合わせの飲み物の注文も終えて、佐久間の頼んだケーキ――フルーツタルトが運ばれてきた。
サクッ。カスタードを通ってフォークが生地を貫く。一口サイズに分けられたそこにはナパージュでコーティングされた苺やオレンジ、ベリーが乗っていた。
「いっただっきまーす! ……んーっ、んまー!」
幸せそうに佐久間の顔が蕩ける。本当に甘い物が好きらしい。それを見ていると、……まあ、時々なら甘味に付き合うくらいいいか、なんて気分にさせられた。心情としては、生前の母と妹に付き合って買い物をしていた時に似ている。荷物持ちをさせられるとわかっているのに、好みの品を見付けて瞳を輝かせる二人に、まあ、いいか。と諦め半分擽ったさ半分で見守っていたものだ。
「坊っちゃんもどうです? 一口」
「僕は甘いものはあまり」
「――でも、甘さ控え目のものなら食べられますよね? チーズケーキとか」
え。
思わずティーカップを持ち上げる手を止めた。それが合図であったかのように、佐久間がカウンターへと声を張り上げた。
「例のやつ、お願いしまーす」
仰々しくトレーに乗せられたチーズケーキが運ばれてくる。当然、一人分のワンカットだが、表面には『いずるくん。お誕生日おめでとう』の文字が入ったチョコレートプレートが乗っていた。
――誕生日。
「四月二日生まれでしょ? 今日は三日だから一日遅れで申し訳ないけど――お誕生日おめでとう、依流くん」
何も答えられなかった。微笑む佐久間を前に、喉が音もなく震えていた。
誕生日を忘れられたことはない。毎年、夕食後にケーキを出され祝われてきた。――義務として。
ふわふわの生クリームがたっぷり塗りたくられたショートケーキ。厨房は、誕生日ケーキといえば、なんて発想からそれを作り上げていたのだろうが、俺は噎せ返るような甘さが込められた『お誕生日ケーキ』が大嫌いだった。吐き気のするような祝いを受けてきた。プレゼントだって、ぬいぐるみや花束なんてネットで調べてきたみたいな陳腐なものを受け取ってきた。空っぽなおめでとうを聞かされていた。
昨日も、毎年繰り返される気味悪い儀式みたいな無機質な言葉をもらって――
今、俺は祝われているのか。
『依流』が生まれて良かったと、そう、佐久間は告げているのか。
『依流』が存在することを、――喜んでいるのか。
「……っ」
たまらなかった。
涙が溢れて止まらない、なんてそこまで感受性豊かではないけれど、少なくとも今の『依流』を見て人形と呼ぶ人間はいないだろう。
「あれっ、うそ、チーズケーキ好きじゃなかった? おかしいな、チーズケーキなら食べるって聞いたんだけど……」
俯く俺に佐久間が狼狽えている。
チーズケーキが好きなわけじゃない。単純に癖だっただけだ。タルト、ムース、チョコレート。色んな種類の甘いケーキの中から、甘くないチーズケーキを選ぶ。――『妹』は、チーズケーキを選ばないから。
甘い物が大好きだった妹は、当然ケーキも大好物で、妹が好きな物を選べるようにと開かれた箱から決まって『俺』はチーズケーキを選んでいた。友人と食べに行って食後にデザートをご馳走された時も、無意識のうちにチーズケーキを選択していた。いつしかそれが、『俺』のチーズケーキ好きという誤解を生んで。
その癖が残っていただけ。『泪』の残滓がそうさせていただけ。
けれど。
「……すきです」
フォークを取る。細くなっていく三角形の先に垂直に刺していく。柔らかくて抵抗感のないチーズは、抉るみたいに掬えて口の中に消えた。広がるまろやかな甘味。
おいしい。
「おいしいです。……おいしい」
そっと頭を撫でられた。佐久間が『子供』を見る目で見ていた。
「それね、誰が教えてくれたと思う?」
それ、とは依流のチーズケーキ好きの誤解のことだろう。
あれ。
ふと不思議に思った。出されてきた『お誕生日ケーキ』は美味しそうな顔こそしないものの問題なく食してきた。ならば、誰がチーズケーキが好きなんて誤解を知ったのだろう。
「依耶くんだよ」
ケーキが、舌の上で再び甘さを返した気がした。
「依耶坊っちゃんがね、今日の朝教えてくれたの。俺が依流坊っちゃんに何プレゼントしたらいいかわからないって相談したらね、兄さんは甘い物あまりお好きじゃないけど、チーズケーキなら食べるんですよって。お土産にケーキをもらった時、いつもチーズケーキを持っていくんだって。だからチーズケーキだけは選ばないようにしてるんだってさ。ははっ、すんごいかわいい顔で笑って全身でお兄ちゃんがだーいすきって言ってんの。……ほんと、いいこだよねえ」
再び、俺の情けない声帯は声を捨てた。
――罪悪感。
今俺の胸を占めているのは、紛れもない罪悪感だ。そして、ほんの少しの苛立ち。
なんで懐くんだ。何故慕う。こんな最低な兄を。どうして『弟』は――――
「それ食べたらさ、――依耶坊っちゃん、迎えに行こうか?」
俺は強く握りしめられたフォークとは裏腹に弱々しく頷いた。
震動の感じられない車内から流れる景色を眺める。保育園と幼稚園ならば、幼稚園の方が学習的な教育が届いているイメージがあるが(なんたって所管が文部科学省と厚生労働省と、これだけの違いがある)俺が通っていた、そして現在依耶が年長として通っている保育園は、私立であることもあって学習面でのカバー力が大きい。保育園は預かる場所、という俺の常識を見事に覆してくれた。
園児たちで遊ばせて親の代わりに面倒見て……なんて世間一般で言われるような生優しいものではなかった。入園する前から親との話し合いにより一人一人個別のカリキュラムが組まれるのだ。例えば英会話。例えばヴァイオリン。例えばスポーツ。保育園よりも自ら通う幼児預かり込みの集合習い事教室といった方が近い。そして、帰れば次は家庭教師――と、よくまあ投げ出さないで大人しく座っていられるものだと依耶を見て思う。こんな調子じゃ、中学生になった時に壮絶な反抗期が来るぞ。……あの人たちの育児失敗なんて知ったこっちゃないけれど。
保育園の門が見えてきた。園庭に出てきゃいきゃいとはしゃぐ園児たちの声が聞こえる。この時間に授業が入っていない子たちなのだろう。楽しそうでなによりだ。
佐久間を車に待たせたまま、慣れた廊下をすいすいと進んでいく。窓口で依耶はピアノの時間だと聞いた。ピアノ教室ならば――あそこだ。
「あっ、……ふふっ、よりやくん。お迎えきたよ。今日はここまで」
「え? もう?」
「うん。今日はね、とくべつなお迎えなんだって。びっくりするよー」
ついこの間、卒園式で園児よりも盛大に泣きながら送り出してくれた馴染みの先生が、含み笑いをしながら俺に目配せしてきた。相変わらずだな、この人も。
俺が向かう連絡は疾うに回されていたのだろう。歓迎を込めて戸を開かれた。
「よりや」
ピクリと華奢な肩が跳ねる。
「よりや」
「…………にい、さん……?」
幽霊でもみたかのような顔だった。そこまで驚くか。何だか可笑しくなって、自然と口角が上がった。
「よりや、かえるぞ」
ピアノから手が離れる。浮いていた足が床を踏みしめて。
「っにいさん……!」
小さな体が胸に収まった。背に柔らかな腕が回される。珍しい。臆病な弟がこんなにもはっきり俺に触れてくるなんて。周りの幼児達が不思議そうに依耶を見ている。
「……っあ、ご、ごめんなさい……」
パッと紅葉の手がスモッグの後ろに隠された。
「……ほら」
そっと手を差し伸べる。――たぶん、緊張していた。俺も、依耶も。
ふと保科姉弟を思い出した。……あんな風には、出来ないだろうな。
「かえろ」
依流よりも小さな手が、緊張と共に重ねられた。
園の先生たちに見送られながら廊下を歩く。依耶の送迎を割り振られている松本は今日は動かない。これが『共犯』の意味らしい。
門を潜って、依耶を連れて近付く俺に佐久間がよくやったとばかりに笑っていた。……なんかムカつくな。
「よりや」
「はい」
ふわふわと金にも見える髪を揺らして見上げる依耶に、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……お前、何のケーキ好きだった」
「え……も、もんぶらん、です」
溢れ落ちそうな鼈甲の瞳が困惑している。
――モンブラン。
「そっか」
「あ、の……?」
おろおろと兄を窺っている幼子に、何でもないと答えてから佐久間の開く車内へと乗り込んだ。
「あ……」
依耶が座席に置かれた『それ』を捕らえた。
「お帰りなさい、依耶坊っちゃん。今日は依流お兄ちゃんが選んだお土産付きですよー。――チーズケーキとモンブラン、仲良く食べてくださいね」
「――っは、はい!」
車が動き出す。佐久間は俺たちに気を遣ったのか、あれほど煩かった口を閉じて運転に集中していた。
誕生日。初めての誕生日祝いだった。依耶は五歳で、依流は七歳。
――――ああ、そうか。
「にいさん?」
おそよ子供に似つかわしくない、うっすらとした笑みが浮かんだ。
『妹』との年の差は七つだった。『泪』が七歳の時に、『妹』は生まれたのだ。
そして、『依流』ももう七歳。――俺が『泪』だったなら、この手の先にあるのは生まれたばかりの『妹』だったのに。
通りでやたらと妹を思い出すわけだ。――『弟』でなく、『妹』を。
「ごめんな」
誰に届けるでもない無意識の懺悔がこぼれた。
誰へ向けての謝罪だったのかもわからない。ただ、手の中の温もりが懐かしくて、縋ってしまいそうで、――そっと放した。
『俺』にその資格はない。
「にいさん……」