無垢は繋いだ手を放す術を知らない。
登校初日。父も母もとうに出勤し、仕事だと割り切っている使用人たちに見送られながら、真新しいランドセルを背負う。リュックとは違う固い感触に、これを六年間背負うのか……と何とも言えない気持ちになった。まだ初日だというのに既に投げ出したい気分だ。
相変わらず胡散臭い笑みでいってらっしゃいませと口を揃えてお見送りごっこするハウスキーパーたちに、朝からご苦労様だな、と全く可愛くないことを心の内で吐き捨てながら、玄関へと向かう。そして扉の先で待っていた専属の運転手を見て、ふと足を止めた。
――これまでの人間と違う。つい昨日までは父よりも年を召していそうな――父の見た目が異様に若いということを除いても――初老程の男だったというのに、此方へ向かってヒラヒラと手を揺らしている能天気そうな彼はどう見ても二十は若そうだ。いつの間に担当が変わったのだろう。
「はい、オハヨーゴザイマス坊っちゃん! さあ楽しい楽しい学校の時間ですよー!」
「ちょ、わ……っ」
見た目同様、身のこなしも妙に軽いスーツの男に手を取られて、ブンブンと振り回されながらガレージへ連れていかれた。そしてリズミカルにスッポーンと後部座席へと放り込まれると、男は鼻歌でも歌いそうな機嫌で車を発進させた。
「…………」
なんだこの男は。人形だ硝子細工だと揶揄される『俺』によくこんな真似できたな。どうでもいいが子供の体ってのは骨格が定まってないんだから振り回すのはやめろ腕抜ける。これが依耶だったら泣いてるぞ。
――と、混乱のあまり思考を飛ばしたところで気付いた。そうか、依耶か。
弟は保育園通いな為早くから登園する。ついこの間までは依流も同じように車で保育園へと送り出されていたが、今日からは違うのだ。弟とは時間が若干ずれる。いつもの運転手は弟へと回されたのだろう。
少しホッとした。……両親が俺よりも弟を優先したことに。依耶はこの程度で駄々をこねるような“子供”ではないが、ちょっとした変化でも子供の小さな体はストレスを受ける。知らない大人と車内に二人きりという状況に臆病なあの子が何日も堪えられるとは思えない。無理して体調を崩すのが関の山だ。怖がりで泣き虫なくせに、頑なに「嫌」が言えない子なのだから。俺なんかに気を遣うくらいなら依耶を見てやれと常々思っている俺としては、漸く親らしいところが見えて安心だ。
――依流は親がいなくとも勝手に育つ化物だが、依耶には親がいないと駄目なのだから。
「あーっと、そうだそうだ。自己紹介忘れてた。僕は佐久間ねー。
「……よろしくおねがいします。さくまさん」
「おーっと、坊っちゃんスルースキルが高いね!」
分かりやすく嫌味を込めたというのにまるで動じない剽軽な男――佐久間は、キャラキャラと子供みたいに笑って話し続ける。
「あ、スルースキルってわかる? 坊っちゃんみたいにあえて……」
「前みてください」
「スルースキル高すぎだね!? いやその通りだけどね! 前見ないと危ないもんね、坊っちゃんしっかりしてる!」
どうやらこのテンションが通常らしい佐久間に、此方のテンションはだだ下がりだ。
……泪の頃は、むしろ乗っかっていくくらいのノリはあったんだけどな。随分とつまらない人間になってしまったものだ。まだ七つだけど。
「それにしてもほんとクールなのねー。依流坊っちゃん。オニーサンは君にちゃんとお友達ができるか心配ですよ。帰りにはお友達のお話聞かせてね?」
「…………」
「とうとう返事すらしてくれなくなっちまったぜ。初日から心の溝ができた気がする!」
オウ! と、謙虚が美徳な日本人としては非常に扱いづらい外国人並みのリアクションを取っている佐久間に、なんとなく、なんとなく気になっていた『彼』のことを聞いてみた。
「――……よりやは」
「ん?」
「……よりやは、大丈夫でしたか」
偏に使用人と言葉で纏めてはいても、担当する仕事は事細かに分かれている。調理担当のシェフがいれば、掃除担当の掃除婦もいる。俺や依耶に付けられるような教育係りもあるし、場合によってはドアマンだって雇う。これは主に来客用に備えてだな。――そして、彼は運転『専門』だ。
ならば、先に出た父や母、そして依耶の姿も見ている筈。
朝食を共にした時の、依耶の頼りなげに下がった眉が脳裏にちらついてうるさいのだ。
「……んー、坊っちゃんはさあ」
「なんですか」
先程までのマシンガントークが嘘のように、言葉を飲み込むようにして一拍措いた佐久間は、――ニカッと大きく笑った。
「――いーいお兄ちゃんだねえ」
「…………は?」
思わず、ルームミラー越しに奴を睨み付けていた。
「依耶坊っちゃんが心配なんでしょう? まぁねえ。あの子うさぎさんみたいにぷるぷるしてたし、庇護欲そそられちゃうよねえ。……あ、決して変な意味ではなく」
「……はあ」
「一歳しか違わないのに、……うん。ちゃんとお兄さんしてるんだなあ。えらいなあ、依流坊っちゃんは。僕にもねえ、三つ下の弟とそのまた下に妹がいるんですけど、これがまた生意気で生意気で。兄貴としての余裕どころか同レベルになって喧嘩するくらいしかしたことなくて。あ、同レベルってわかります? 同じような、」
「わかりますからいちいち説明いらないです」
また始まりそうだった無駄話に直ぐ様ストップをかけた。自分自身が無口になった為か、煩い環境も苦手になってしまったようだ。
「あはは、ごめんごめん。依流坊っちゃんは賢いもんね。……うん、まあ、つまりさ。大丈夫だよ。君たち、ほんとしっかりしてるから。――僕としては、もっと子供らしくしててもいいと思うんだけどね。……駄目、なんだろうねぇ」
そこで、会話は途切れた。見えてきた華奥学院の北正門によって。
直にこの門をくぐるのは二回目だが、何度見ても慣れない。こんなにも壮大に作る必要はあったのか。
そのまま、初等部の校門近くまで車を進めた佐久間は、脇へとスムーズに駐車した。
「よし、着いたー。忘れ物なーい? あ、これ屋敷出る前に聞かなきゃいけないんだった」
「……はあ。大丈夫です。うんてんありがとうございました」
「いーのいーの。お仕事だから。じゃ、お勉強がんばってね、依流お兄ちゃん」
今朝、扉を開けた時のような底抜けに明るい笑顔に見送られて、脱力感と共に校門へ向かった。左右にはガードマンらしき男と男性の職員がペアを組んで立っている。まだ初日だというのに何をそんなに警戒しているのか。――いや、初日だからか。金持ち学校は大変だ。
「おはようございます」
「おはようございます」
機械的に聞こえるおはようございますに鸚鵡返しして、パソコンを忙しなくタイピングしている教員……いや、事務員? どっちだか知らないが、神経質そうな男に近付く。
えーと。
「C284のきのみやいずるです」
そのまま、制服の内胸ポケットへ仕舞っていた封筒を取り出す。
「確認致します」
教員だか事務員だかの手に渡って、パソコンの画面と封筒の中身とをじっくりにらめっこされた。おそらく、入学番号と来宮依流の個人情報がそこに記されているのだろう。
ここまでの流れは入学式で散々説明された。しくじる訳がない。――と、思っていたのだが。
「ご両親のお名前を」
「きのみやみきひこ、きのみやさやかです」
「――ご本人であることを確認致しました。来宮様のクラスはAクラスになります。中に入っていただきますと、教員が廊下に立って案内しておりますので誘導に従ってください。席割りは教室内の黒板に貼られております。下駄箱は名前順です。ご自身の名のプレートが貼られている下に入れるようにしてください。こちらが児童証になります。くれぐれもなくさないように。なくされた場合は速やかに事務局の児童相談課窓口へお申し出ください。来宮様の学校生活がより良いものとなりますよう」
「……は、はい」
なんというか、容赦がなかった。勢いのままフラフラと昇降口へ進む。Aと書かれている下駄箱の前まで来て、ハッと動きを止めた。
いや。いやいやいや。とても小学一年生にするような説明じゃないだろう。俺はまだ、中身大人一歩手前という不可思議生物だから良いとして、普通の子供が「誘導に従う」とか「申し出」とかわかるのか? 大丈夫なのか?
次々とやってくる児童たちの舌っ足らずな声を背後に、何とも言えず呆然とした。――そこに。
「え、ええ、と、なまえの、した?」
なんとまあ可愛らしい声だった。正直、弟の依耶の方がまだ滑舌良く話せる気がする。
チラリと横を見て、辿々しいソプラノの持ち主を探して。――ああ、あの子か。
アイアンフェンスの間に硝子を嵌め込んだような扉を抜けたすぐそこに、ふわふわの黒髪を震わせて心細げに少年が右往左往していた。
……仕方ないな。
「ねえ」
ビクゥッと少年の肩が震えた。なんだこの既視感……ああ、あれだ。半年くらい前に松本さん(以前の運転手だ)に連れていってもらった動物園の触れ合いコーナーで、依耶が突然触ったことによって驚いたモルモットが見せた挙動不審な様子にそっくりだ。ついでに依耶も同じ反応してたが。
……そうか。逸そ、同級生はみんな小動物だと思っておけばいいのかもしれない。
「なにがわからないの?」
「え、あ、あ、け、けどういん、かなです!」
自己紹介された。
「……なんくみ?」
「え? え、えと、えーくみ……?」
「おんなじか。なまえ、かんじ、どうかくの?」
「かんじ……?」
「え。」
おい。待て。小一って漢字の概念もわからないのか。…………そうか。わからないか。そうだな。そういえば小学生ってひらがなの書き取りから始まるんだもんな。確か妹が小一の頃はそうだった筈。ひらがなドリルとかいう宿題やってたよな。まじか。そっからスタートか。
幸い、そこは配慮していたのか、ネームプレートの上には一人一人ふりがなが打ってあった。漢字がわからずともふりがなを読んでいけば見付かるだろう。
よし、気を取り直していこう。えーと、名前順だったな。「け」だったら「き」の間に「く」を挟むから来宮の俺より数個後ろか。け……け……
――『
「…………」
……これか。なんというか、すごい名前だな。
けれど、不思議とこの少年ならば名前負けはしていないように思えた。見た目が頗る良いからか。世の中名前も顔か。
奇遇なことに「く」から始まる名字の児童はA組にはいないらしい。 祁答院哀は俺の直ぐ後の順になるようだ。
「これ?」
ちょんっとプレートを人差し指で指す。
「あ! それ!」
パァァと祁答院の顔が華やいだ。……可愛い。とんでもなく可愛い。ふわふわな黒髪もぱっちりと団栗眼な黒目も俺より小柄らしい体躯も。どこを取っても愛らしい。何だかハムスターを思い出す。
泪から依流に転生して随分と冷めた性格になったと思っていたが、子供や動物を庇護対象として愛でる根本的な嗜好は変わらずのようだ。――まあ、泪のように人目気にせず撫でくり回すなんて真似はできなくなったが。
「よかったね。じゃあ、くつをこの中に入れて。……あ、かぎかけられるんだ」
きょときょとと困惑している祁答院に、見本を見せるようにローファーを脱いで来宮の名が彫られたロッカーの中へと仕舞った。挿し込みのカード式になっている鍵を引き抜いて、一度戸を引いて鍵の施錠を確認して。ちょっとリッチな木札鍵ってかんじだ。とりあえず内胸ポケットへ仕舞っておくとする。
チラリと視線を寄越せば、祁答院もおずおずと真似しだした。もたつきながらも指定のローファーを脱いですのこへ上がって。小さな手で靴を揃えてロッカーへ。カシャン。細やかな施錠の音が聞こえたら、戸を引いての確認まできっちりできた。素直な良い子だ。
後ろで見ていたらしい他の児童たちも同様に動き出している。通行の邪魔になる前にさっさと済ますか。
「それじゃあ、うわばき出して」
「うわばき?」
「あ、えーと、うわぐつ? しつないぐつ? ほら、これだよ」
相変わらずきょとーんとしている祁答院に、ランドセル側面のナスカンから、提げていた上履き袋を外して中身を取り出した。
ちなみに、制服も靴もランドセルも全て華奥学院指定のデザインであり、この上靴も市販で買えるものではない。ブルジョワ学園恐るべしだ。
「あ……」
上履きを見た途端、祁答院がもじもじし出した。……あー、これは。
「わすれた?」
「…………」
答えない。が、この顔はわかる。都合の悪いことを誤魔化そうとする顔だ。妹が粗相をした時によくやっていた。
「わすれた? はい、いいえ、どっち」
「…………」
「どっち」
間違いなく後者だが、頷くまで俺は彼を解放する気はなかった。ここでうやむやにしたら、誤魔化しが効くと子供は覚えてしまう。
「 ど っ ち 」
祁答院の目が潤んだ。
「……わすれた。ごめんなさい」
「そう」
俺は上履きを彼の前へと置いた。
「今日一日、かしてあげる」
「え?」
「明日は持ってきなよ」
そのまま、靴下で廊下へと歩き出す。確か案内の先生がいるんだよな。まあ、来校者用の受け付け窓口へ行けば壁に校内地図が貼られてるからそれで辿り着けはするだろうけれど。
「ま、まって!」
思いっきり腕を引っ張られて危うく転びかけた。ちょ、おい! 力加減……ああ、そういえば子供って力加減が一番できないんだっけ。厄介な。
「なに」
「あ、の、……いいの?」
「いいよ。だから手をはなして」
そろそろ本当に通行の邪魔になっている。あと目立っている。鬱陶しい。
「あ、え、えと、あの、あのね、」
またもじもじが始まってしまった祁答院に、今度は此方から腕を引いて(勿論手加減はして)歩行を促した。
「話なら歩きながらきくから」
「う、うん」
きゅっと手を繋がれる。小さな手だ。七歳である依流もどちらかというと小さい方だけれど、同じ年である祁答院はもっと小さい。
――不安なのかもしれない。こんな小さな手で、こんな小さな体で親元から離れて。保育園や幼稚園とは違うと、本能的にわかっているのかもしれない。
「あのね、あの、ありがとう」
「どういたしまして」
「えと、あの、」
なんだかすっかり迷子を連れている気分になっていた俺に、大きな声がかけられた。
「君!」
隣の祁答院がビクリと跳ねた。……既視感。依耶、俺が卒業してからちゃんと年長さんできているだろうか。
「上靴はどうしたんだ。忘れたのか?」
「はい。わすれました」
即答に近い早さで返答して、大きな男を見上げる。
ピシッとスーツで決めているが、俺の勘が告げている。――こいつは体育教師に違いない、と。
「あ、え、あ、」
祁答院が半泣きになっている。この子は依耶以上の怖がりかもしれない。泣かれたら面倒だ。この年頃の子供は泣き止まない。本当に泣き止まない。俺も妹のおもりで苦労した。
「そうか。初日でおっちょこちょいさんだな。ちょっと待ってろ、来客用のスリッパ取ってくるから」
大男は豪快に足幅を使って廊下の先へと消えていった。身長は一八〇センチ、あるかないかくらいだろうか。十七歳の泪も一八〇届かないくらいの身長だったが、子供から見ればあんな巨人に見えるのか。
「う……」
「ん?」
祁答院が繋いだ手を引いた。少し下にある頭を見下ろして、言葉の続きを待ってみる。
「……えと、」
「うん」
「あのね、」
「うん」
「あの、」
「ゆっくりでいいよ」
そっと柔らかな毛を撫でた。思っていた通りの手触りだ。祁答院の大きな瞳がふっと少しだけ落ちた。お気に召したらしい。
「あのね、……おなまえ」
「なまえ?」
「うん。おなまえ、なに?」
どうやら先程から躊躇っていた言葉はこれらしい。高々名前一つに……なんて笑えやしなかった。祁答院の顔は真っ赤で、目は真剣だった。夜空みたいな
「きのみやいずる。かんじは……また習ってからね」
「きのみやいずる?」
「そう。きのみやいずる」
きのみやいずる……。
何度か辿々しくも反芻させた祁答院は、パッと顔を上げて。
「ぼくね、いずるくんすき!」
俺は、ただ硬直するしかなかった。あんまりにも当たり前のように寄越された『すき』は、受け止めるには眩しすぎて、重たくて、柔らかすぎて、――こんな幼子相手に、拒絶にも似た恐怖を掻き立てられたのだから。
ああ、憂鬱な子供社会、一日目にして小動物に懐かれたようです……。