親見ぬ子見ぬ、泣く子は誰か。
入学式を迎えた。あれ程喉に痼を詰まらせ胃を圧迫し続けた憂鬱な時間は、呆気ない程あっさりと流れていった。
黒やグレーなどのジュニアスーツに身を包んだ少年少女らの表情は硬い。俺や依耶同様、厳しい教育から、公の場ではしゃぐ無邪気な精神を、上から抑えられ自身で押し込めるよう学ばされたのだろう。
先の学校生活への期待は奥底に隠しているのだろうか。緊張だけが滲む表面からは読み取れない。
俺は、体格は幼い紛うことなき子供だが、精神は既に大人近い青年という化け物のような生き物だからまだ自制が利く。いいやむしろ、大人のエゴを詰め込み予め基盤の作られた『用意された仮初めの社会』で子供らしく振る舞うことの方が余程苦痛なのだから、子供らしくない子供に囲まれている現状は、ただでさえ襲い来るストレスをまだ軽減させているように思う。ただ、普通の子供だった綾瀬泪の記憶から、この年代の幼い子供とはとても、それこそ自覚のないカッターナイフを言葉の端々に常持ち合わせているような無邪気の塊だったと記憶している。そんな『子供』が自らの感情を殺す姿を見ていると、ただただ不憫に感じた。
大人しく鎮座し、飾られた人形のように前を見据えるこの少年少女らの中で、どれだけの人数が現状を幸せと感じられているのだろうか。
「以上を持ちまして……」
すっかり聞き流してしまっていた教員や来賓の挨拶を司会の女性が締め括る。
一同一斉に立ち上がり、礼を済ませて退場へ。
妙な気分だ。扉が大きい。天井が高い。壇上に立つ教頭と紹介されていた教師が巨人のように見える。子供の背からの世界とは、こんなにも遠いものだっただろうか。なまじ、一七五を越える身長からの景色を知っているだけに、纏わり付く違和感が絶えない。
こんな大きなものばかりに囲まれて、よく臆病にならないものだ。綾瀬泪が子供だった頃、何の意地だか、早く大人になりたいと成長を急いでいた時期があった。恐らく誰もが通る思春期特有の心理だろう。
けれどこうして見てみると、一度大人になれば味わえない世界が子供の視点から沢山あるのだと気付く。
勿体無い。いつまでも子供でいたい訳ではないけれど、大人になるとはひどくつまらないことだ。
少なくとも、大人の精神を持ったまま再び『子供』をやり直している俺はそう感じる。
「……あっ」
微かな声が前方から零れて、カクンッと小さな頭が揺れた。俺よりも濃い茶髪――マロンブラウン、というのだろうか――の少年が蹴躓いたらしい。
咄嗟に腕を掴んで斜めの体勢から引き上げる。
「あ……」
振り返った、ビー玉のような瞳が大きく開かれる。ほんのりと緑掛かっているらしい。
どうもこの学院の児童は、俺や弟を含め異国の血の入った色彩豊かな子が多いように思う。勿論、大幅には黒髪が占めているのだけれど。
止めてしまった流れを再開させる為、ほんの少し彼の背を押して前進を促す。無駄にきらびやかな、間違っても紙で造られた花なんかではないアーチを潜り抜け、会館の外へ。疎らに解散し親元へ駆け出す子供達の中、同様に父の姿を探そうとスーツの集団を見渡していると。
「あのっ」
甲高い子供の声が背後から掛けられた。先程の少年だ。
くりくりと、どこか子犬染みた瞳が零れ落ちんばかりに見上げてくる。
「……なに?」
「あ、えと、さっきはありがとう」
「……どういたしまして」
会話はそこで途切れた。わざわざこの為だけに追ってきたというのだろうか、この少年は。
「あのっ、ぼく、」
「ごめん。父が待ってるから。次からは気をつけなよ。新品のくつって、はきなれてないぶん、つまさきがつっかかりやすいから」
上手く回らない舌を賢明に動かしながら、広げられかけた会話を切り上げ父らしき男の背を追う。
幼い彼にも解りやすいようゆっくりと話したつもりだが、そういえば突っ掛かる、てこの年の子供にわかるのだろうか。
「依流」
一瞬、駆ける俺の姿を一瞥してから、父、幹彦の厳格とした静かな声が落とされた。
……やっぱり、この人は苦手だ。
「この後すぐ食事に向かう。……食えない物はなかったな」
「……はい」
あまりにも短いその質問だけで悟った。――この人は、我が子の好みすらも知らないのだ、と。
確かに、忙しい両親と食事を共にすることは少ない。けれども、俺達に関わる『他人』は沢山いるのだ。給仕の人間に子供の食事の様子を聞くことぐらいは出来た筈だ。それすらも無視をされてしまう程、彼等の子供への関心は薄いのか。
俺は構わない。むしろ気が楽なくらいだ。けれども、――依耶は。依耶は、寂しいのではないのだろうか。
依耶にとっての親は、世界でただ二人だけなのだから。
初めは、こんな関係ではなかったと思う。俺が生まれた瞬間、瞼越しに光を受けたその日から、俺が『俺』たる記憶は始まっているが、その時の両親の笑顔に嘘はなかった。心の底から、依流の誕生を喜んでいるのが伝わっていた。
赤子というのは、母体の中の胎児だった頃から五感が作られ、生まれたその時には目も耳も感触も感じ取る事が可能なのだという。瞳が開くのには少し時間かかるが、見えずとも周りの『人間』の感情に対してひどく敏感だ。
本能的に泣いて、本能的に母、沙耶香の乳を吸って。
羞恥心は思う程なかった。むしろ、後から思い出す『今』の方がよほど恥ずかしい。
そして、母乳は哺乳瓶へと変わり、抱き上げる腕は父から乳母のシワだらけの手となって、依流と呼ぶ声は依流様と他人行儀なものだけになった。
寂しさはなかった。三つ程までただただ本能の赴くままに寝て食って泣いてまた寝ていただけなのだから。
その後も、『泪』の記憶のおかげで子供としての感情が麻痺していた俺に、『親』は必要なかった。
ただ、一歩退いた他人の綾瀬泪として思うのだ。
来宮依流が子供失格の化け物だとするならば、――彼等はきっと、『親失格』だ。
向かった先の食事処はイタリアンのリストランテのようだった。店先に弟、依耶が心細げに立ち、周りにはスーツ姿の男達が暑苦しく並んでいる。母、沙耶香は後から来るようだ。……依耶を一人で歩かせるのが不安ならば、家まで迎えに行けば良いのに。
久々の家族揃っての食事だというのに気分が浮かないのは、きっと体調不良や式疲れからなんかではない。
「あ、あの、とうさん、おつかれさまです。にいさん、おめでとうございます」
まだまだ舌っ足らずなか細い声が、懸命に大人ぶった挨拶を述べる。
父が店内へのゲートを通る。―― 一度だって、依耶を見なかった。まるで、彼の存在など空気だとでも言うかのように。たったの、一度も。
「……あ」
「行くぞ。よりや」
繋いだ手は子供の俺よりも小さくて、とても温かかった。温かい、『他人』の手だ。
四月から子供社会に揉まれる日々が始まる。純粋な子供というモンスターの中に、大人になりきれなかった中途半端な化物が混ざり、溶け込まなければならない。
それが、再び生を受けた来宮依流にどのような影響を及ぼすのかはわからないけれど、生きている限り、この小さな体が呼吸をしている限り、俺はこの世界で繰り返し続ければならないのだろう。
――違和感と孤独だけを抱いた、人生を。
「……兄さんは、こんなことを、考えてたんだね」
細やかな指が、パラリと古ぼけたノートを捲る。日記のようだ。
すっかり紙に滲んでしまったインクは、ひどく時を感じさせた。
「やっと、あなたの本音が見えた」
あまりにみすぼらしいそれを抱き締めて、その人は高く空を見上げる。
「ねえ、兄さん。今度こそ――」
小さな祈りは、抱かれた日記から紡がれる寂しい未来の証。