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空が蒼を捨てる前に【なろう版】 作者:椎名
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天使は人形を愛でるのか。

 

 来宮依流は六つになった。六年だ。六年もこの違和感しかない世界で生きてきたのだ。

 それでもまだ『俺』を受け入れられない俺は、麻痺した感覚の中で、ゆっくりゆっくりと海に沈められていくかのように無気力に生きている。我ながら嫌な子供だ。俺が親ならば、我が子は精神を病んでいるのか、それとも無個性すぎて最早それが個性なのか、きっと頭を悩ませている。……尤も、『俺』の両親はそれはそれは忙しい立場であらせられる為、子供の様子になど気を配ってはいられないと思うが。



「依流、食事が終わったら私の部屋に来なさい」


「……はい、父さん」



 珍しく朝食を共にしたと思えば、この一言。いくら厳格な父だろうとも、もう少し会話を弾ませようと努力できないものだろうか。ほら見ろ。目の前の弟が、父が声を発するたびに震えているじゃないか。


 父の名は来宮幹彦(ミキヒコ)。初めて目を開き視界を得た瞬間から姿の変わらない美丈夫だ。この人に子供として甘やかされた記憶が俺には殆んどない。

 仕事の為、この食事の場にいない母の名は沙耶香(サヤカ)。こちらもまたちっとも若さの衰えない不思議な人だ。両親には何か秘術でもあるのかもしれない。

 そして、弟の名が依耶(ヨリヤ)。歳は依流の一つ下なので年子となる。

 弟は、依流よりも華奢な、少女めいた容姿をしているように思う。勿論幼いのだから愛らしく映るのは当然だが、それにしてもこの少年が『男』へと成長する姿が想像できない。

 瞳は同じ淡褐色だが、自身よりも色素の薄い髪は光を通せば金糸のようにも見える。俺も含めて、成長するにつれ色が濃くなっていくのだろうか? 海外の美しいブロンドを持つ子供は、大抵が変色し大人になった頃には茶髪へと変わっているのだと聞いたことがある。蛇足だ。


 結局、父がわざわざ食事の席を取った理由はそれだけだったらしく、沈黙の痛い食事会は無言のまま過ぎていった。


 そして現在、父の書斎にて。



「これ……」



 俺は一枚のパンフレットを手に硬直していた。そこには『華奥総合学院』の厳々しいロゴと、入学案内書の文字が。

 華奥(カオウ)総合学院。通称華奥学院。日本有数の華々しい歴史を持った伝統学校の一つ。創立は明治時代にまで遡り、当時は華族や皇家のみが通えるやんごとなき学舎だったという。総合と名の付く通り、様々な分野に特化した集合学習院だったようだが、今では名を残しただけの小中高大と続く一貫学校になっている。

 それでも、華奥総合学院の名のブランドは凄まじいものだった。履歴書にこの名を記入するだけで希望の企業に受かる事は確実、とすら言われていた。入学への切符などとても庶民の手には届かない。それを、『俺』はよく理解していた。――生まれるもっと昔に、必死こいて特待生という奇跡にも近い切符を手に入れた過去があるのだから。


 綾瀬泪は、ほんの少しだけ頭脳や身体能力が他より秀でていた。そして努力の天才でもあった。

 家庭は、食べていくのに困る程困窮していた訳ではないが、贅沢ができるような余裕もなかった。それでも、明るい家族に心はいつだって満たされていたが。

 そこに、努力次第で無償で通える学校があると聞かされれば、選ばない理由はない。自身の浮いた学費分、妹が満足な教育を受けられるならばそれで十分だった。

 そうして期待いっぱいに潜った門の先、――悲劇は起こった。その舞台がこの、『華奥総合学院』だったのだ。


 手が震えそうになる。駄目だ、動揺するな。

 わかっていたことじゃないか。こんなお家柄の家だ。そうほいほいと公立の学校になど通わせてもらえる訳がない。この付近で名門の学校といえば、――華奥学院しかない。



「お前ももうすぐ七つだ。家庭教師だけでなく学校に通う義務がある。それを見て心積もりをしておきなさい」


「……はい」



 足早に父の自室を出る。完璧に磨きあげられたガラス窓の先、うっすらと映る依流のまろやかな顔は、痛みに堪える無表情により、より人形めいて見えた。







「にいさん」



 子供に与えるには十分すぎる一人部屋にて、そこに部屋の主以外の小さな子供の姿があった。依耶だ。

 依流よりもふわふわと空気を含んだ柔らかな猫っ毛が、不安げに揺れている。



「なんだ」


「あ、の、……とうさんの、はなし、て」



 食事の席での呼び出しが気になっていたらしい。心細げな幼子の姿に、自然と手を伸ばしかけて、……止めた。



「学校の話。四月に入学しなきゃだから」


「あ……」



 我ながら冷たい物言いだとは思う。けれど、この世界は『俺』にとってフィルムの向こう側のようなものなのだ。全て、他人事。――自分自身ですら、他人事なのだから。

 随分、性格も変わった。ここまで、家族に値する他人に無頓着になれるような人間ではなかった。けれど、考えても見てほしい。例えば妹や弟のキャラクターがいる疑似恋愛ゲーム。そのキャラクターに心の底から、本来の家族よりも陶酔して愛せる人間が世の中にどれ程いるだろうか。俺にとって、来宮家は疑似家族なのだ。

 ――ひどい、人間だ。彼等に罪はないというのに。ただ前世の記憶を持って生まれたというだけで、ここまで自身に変化があるとは思わなかった。……生前の痛みは、あまりに大きすぎた。

 きっと、来宮依流にとっても最も大きな害悪は綾瀬泪の存在自体だろう。綾瀬泪の意識が、来宮依流をハウスキーパー達から『人形』だと揶揄されるような子供に作り上げてしまったのだ。……なんて、他人事も大概にせねば。



「にい、さん、……りょうに、はいるの?」



 コロコロと鈴を転がすようなソプラノの声が零れる。来宮依流が、皮肉を込めて裏で『人形』と呼ばれていることは知っているが、この弟は反対に『天使』の評判を持っていた。それに負けない容姿と子供らしい愛らしさがあるのだから納得だが。少し引っ込み思案な所も、いじらしく可愛いとは思う。――それは、弟だから、というよりも無差別に子供に向ける微笑ましさと同一だった。



「入らないよ。そんなこと、父さんがゆるすはずない」


「あ、えと、そ、そうですか」



 もじもじとした様子の弟のふんわりとした頬に赤みが差す。喜びが隠しきれないようだ。

 ……自分で言うのもなんだが、この少年はこんな無愛想な兄のどこがいいのだろうか。 まともに喧嘩したこともなければ、兄弟らしく談笑したことすらないというのに。それは、俺の積極性の話だけでなく、互いに習い事で忙しいことも原因の一つだと思う。金持ちは大変だ。



「あの、その、にいさん。べんきょうを、おしえてもらってもよいですか」


「これからかていきょうし来るだろ。それまで待てないのか」


「あ、う、」



 俯いた弟の金に近い髪の間から、真っ赤な耳が覗く。


 ……ああ、うん。なるほど。



「お前、またぎりぎりまで宿題しなかったんだろ」


「うにゅっ」


「……ったく、しかたないな。ほら、ドリルでもなんでも持ってこい」


「っはい!」



 頭を軽くくしゃりと撫でてから、パタパタ駆けていく小動物を見送る。


 ……髪、柔らかかったな。












 ぼくの兄は、すごい人だ。


 まず、とてもあたまがいい。ふだんの言葉つかいはちょっとらんぼうだけれど、お客さまの前でのけいごはかんぺきだ。

 そして、ものしりだ。ぼくはわからないことがあったら、先生にきくよりも先に、兄にきくくせがすっかりついてしまった。

 それから、とてもきれいな人だ。かあさんもすごくきれいだけれど、ぼくはにいさんのほうがきれいだと思う。とくに、べんきょうをおしえてくれている時のよこがおが好きで、ノートそっちのけで見つめてしまう時もある。そんなとき兄は、「わからないところがあるなら、目でうったえてないで口でききなさい」てぼくをしかるけれど、そうじゃないんだよ、にいさん。……これをきいてしまえば、あなたはこまってしまうくせに。


 兄にべんきょうをおしえてもらうために、わざとしゅくだいをしなかったりもする。そうでもしないと、にいさんにはとても話しかけられないから。にいさんは、すこしとうさんに似ているところがあるから、いみもなく話しかけることができないんだ。

 でも、とうさんとはちがって、時々すごくやさしく笑ってくれることがある。がんばってもんだいをといたあとには、よくできました、てほめてくれる。そんなにいさんを見ると、ぼくはむねがドキドキしておちつかなくなってしまうんだ。


 いちどだけ、まちがえたふりをしてにいさんをおにいちゃんと呼んだことがある。

 先生が、こっそりと見せてくれたお電話のテレビの中で、子どもが兄のことをおにいちゃんと呼んでいたのだ。それを見て、なんとなく兄をおにいちゃんと呼んでみたくなったのだ。


 その時のことを、きっとぼくは一生忘れないのだと思う。

 にいさんは、ふり返って、今まで見たことないとてもとても嬉しそうなかおをして、


「なんだ。りこ」


 そう、言ったのだ。


 知らない、名前だった。そして、そこにいたのは、知らない、兄の姿だった。

 それからすぐ、兄は、ハッとばつのわるそうなかおをして、なんでもないって苦しそうに笑った。


 にいさんは、わからないことは口でききなさいと言っていた。ならば、これをきいた時、にいさんは、答えてくれるのだろうか。



 ねえ、にいさん。――りこ、て、だれですか……?



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