デビュー
ついにこの掲示板がデビューしました。使用法の詳細は先に述べた通りです。
がんがん討論していきましょう。
まずCDの
タイトルは「SDCD」でいいとおもうんです。SACDなんてのも最近はありますけどもね。それからブックレットを充実させたいんです。たとえばずっと収録曲の候補にとどまっている「SDホーミーできめる正しい蛋白源/牛と豆の戦い(仮題)」なんかでもコンピュータ・グラフィックを使ってその演劇的場面を解説したりですね、やはりしたい。それははっきりいってもちろんwrk(※)の模倣=擬態ですよ。
とりあえずは言ってみよう
常に我々はアウトプットの形態に応じてその制作のための指向/思考も態度変更していかねばならない、と、幾分強迫的に考えているわけですが、あえてそこで「SDホーミーできめる正しい蛋白源/牛と豆の戦い(仮題)」のライブ音源を使用しようとする倒錯を生きようとすることは、「製品の流通」における顛倒を暴くという点で、やはり有効かなと。そして、殆ど付録同然のCGにおいて、その辺を二度塗りしたいという欲望にかられます。「流通」が、「製品化」が生き抜かれた瞬間を見せたい。そして同時にそれは如何なる意味でも単に「記録」でしかないのです。そしてそれのみが持つ有効性を露呈させつつ抹消していくことが、まずあるでしょうね。あえて「決定版」であり「極め付け」であるものへと、思考を育んでいこうではありませんか。
決定版/極め付けではあるが特効薬としてではないもの
特効薬としての「制度改革」が声高に叫ばれる風潮にもう黙っちゃいられんというわけでもないのでしょうけれども、学長の職を退いた蓮実重彦氏がその特効薬というものを「ある部分を治すと全体がよくなる」薬であると明解に定義しているようですね。
ではあくまで数学的(形式的ということです)にかんがえた場合特効薬の反対はなにか。これは健康食品だとおもうんです。「ある部分がよくなるというわけではないが全体がよくなる」薬としてのですね。このことを言っていいとおもうんです。だから蛋白質にはじまってビタミン群、赤いカプサンチン、善玉コレステロールなどなどこれらからだにいいものをどうCDというメディアに結びつけるか。食のシリーズはまたプロレタリアート独裁におけるその偉大な指導者による恩恵としての野菜の大豊作を遠く睨んでもいるはずです。
あと熱いものを食べるようになった哺乳類がそのさい口腔のかたちを複雑に変えることで言語機能の発達が用意されたのかなあそれともその逆かなあなんておもったりおもわなかったりしているのでこれもそこに含めてしまいたい。これは、二人で向かい合って座わり顔を接近させ互いの口腔を共鳴させたり(ラジオでその説明をこう聞いたのですが聞き間違いであっただろうか)してどちらかあるいは両方が笑い出すのがその終わりであるというイヌイットの歌=ゲームのアイディアとともに編集可能だともおもえます。するとこんどは民族音楽の模倣へとも誘われるようであるのです。
模倣=擬態となると
私は常々何となく感じている進化論への不思議さにどうしても思いを馳せてしまいます。まず一つは適応放散なのですがそれはさておいて、もう一つはやはりなんといっても擬態なのです。なぜ擬態をするものたちが出現し生き延びて来たのか?突然変異によって擬態が可能になったとして、そしてそれが生存への適応性に優れたものであったとしても、ではなぜ、全ての生物が擬態を纏うわけではないのか?むしろ現段階において擬態をする生物は、思い起こしてみればことごとく「下等生物たち」なのです。例えば昆虫類、イカ、タコなど。良くて魚類、両生類、また一部のは虫類などなのです。これは厳然たる事実であり、一体何を物語っているのか。果たして、擬態は本当に有効なことなのか?はっきり言ってしまえば、本当に進化の過程の陶汰によって選ばれたのか?と言う訳で、擬態が提起する問題は限り無く大きいと思います。擬態は、「環境に適応しているかによそおう」ことが、まず取りあえず出発点である訳です。