伝説の侠岸本卓也
浅草事件
私が公職選挙法違反で、一年六ヶ月の刑を浦和地方裁判所熊谷支部で判決され新潟刑務所を服役したのは、一九八六年(昭和六一年)であった。
新潟刑務所の第六工場でスリッパを同囚が、八方ミシンで縫った物を、検査する係りをしていた。
残刑が三ヶ月ほどになり、『蓄髪(ちくはつ)髪の毛を長く伸ばして良い事、通常、刑務所では、出所三ヶ月前には蓄髪許可がでる。』
蓄髪許可がおろされた頃、工場の掃除夫が私のところに来た。
「組長、今、下りて来た者は、稲川会の岸本組の若い衆だと言ってます」
「そうか、岸本さんの若い衆か、担当の話が済んだら、俺の所に連れて来い」
「了解しました」
この時に、第六工場に下りて来たのが、稲川会岸本組の森山真二という三十歳位の者であった。
刑期は八年・罪名は殺人未遂及び銃砲刀剣類所持違反である。
事件が抗争であると聞いたので森山に詳しく聞いてみた。
浅草に石本会という一本独鈷の組織があった。
この組織は石本正弘会長が、浅草の南一家の南親分と兄弟分であったので、普段、仲が良く一緒に浅草のクラブで酒を飲んでいたが、酒を呑みすぎての口論となり、南親分が、石本会長を素手で叩きのめしてしまった。
石本はそれが悔しくて、翌日、若い者一人を連れて、二十二口径拳銃を持って、南親分の自宅兼事務所に行き、逃げようとした南親分の背中に、三発の銃弾を撃ちこんだ。
南親分は、救急車で病院に運ばれたが、一命を取り止め下半身麻痺となり、半身不随になってしまった。
この事件で石本は、八年の刑を打たれ刑務所を務めた。
服役が終わり浅草に帰ってきて、二年程で、関東のパンサ全部の掠りを取る身となり、資金も潤ってきた。
同じ浅草の先輩として、岸本も行き逢えば挨拶をしていた。
「こんにちわ」
「ああっ、どうも」
と言う仲であったが、岸本組の松田が、館山で渡辺組長を殺り、北見で一和会の加茂田組・花田組との抗争で全国的に名が売れてくると、岸本を良く思わなくなった。
未だ、春浅い春分の日の前であったと思う。
長野の伊藤が井上と二人で岸本組浅草事務所の並びにある」『浅草ビューホテル』横の道を二人で車に乗り地周りをしていると突然傍にスナックから、石本会々長が飛び出してきて両手を広げて車を止めた。
(なんだろう。石本会の会長ではないか・・・)
石本会長はの岸本組二人を食いそうな顔をして二人を睨んだのである。
「馬鹿みたいな事をすると笑われてしまう相手にしないで帰ろうぜ」
事務所が直ぐ近くなので伊東と井上は車から降りて徒歩で事務所に向かって歩いていた。
「てめーたちは何処の者だ」
「いきなり何を言っているのだ。俺たちは岸本組の者だ。あんたこそ何者だ!」
「この野郎、浅草で俺を知らないとはむぐりジャーネーか」
このようなやり取りがあって翌日、岸本組浅草事務所に、石本会長自ら電話をかけてきた。
「はいっ、岸本組です」
「石本だ。俺と喧嘩をするなら上等だ!」
『岸本商事』浅草事務所の当番であった井上義之が、余りにも唐突なことで石本会は、薬の売(ばい)だけでなく、自分でも薬(覚醒剤)でもやっているのかと思った。
だが、念のため、事務所から出てビューホテルの方を見ると、石本会長と三人の若い衆の一人が、懐に手を入れて岸本の事務所の方を睨んでいた。
井上がこれは本当に可笑しいと思い、懐に手を入れていた石本会長の傍に行き反対に睨みつけた。
「なんだ、お前等は!」
「・・・・・・・・」
井上が、怒鳴りつけても、石本会の若い衆は、言葉一つ返してこなかったので井上は思った。
(この石本会は覚醒剤を売り、パンサの上前をはねるだけの人間ばかりだ・・・)
半月後、館山の岸本の自宅隣の会館の横に、モーターボートの台座が備え付けられているが、そこに爆弾が仕掛けられた。
然し、石本会の若い者が、爆弾を台座にセットしようとたら、間違って爆弾が炸裂してしまった。
爆弾をセットした石本会の者は、両手の指が全部飛んでしまった。
慌てた石本会の者は、岸本の自宅の百メートトル裏手にある『神明神社』の前で待っていた車に乗り急発進して逃げた。
爆発音がしたので、会館にいた脇純一が、外に出ると指があちこちに、跳び散り血痕が垂れていた。
爆弾を仕掛けた石本会の者を捕まえられなかったので責任感が強い脇は、悔しがった。
一週間後、台東区稲荷町の『永昌寺』興和会の葬儀があり、石本会の幹部が参列するという情報が入った。
脇は館山から、浅草の事務所に行き稲荷町の『永昌寺』近くに待機した。
葬儀場の寺で殺ってしまえば簡単であるが、脇は葬式の場所で喧嘩をするのはご法度であることを知っていた。
だが、葬儀場からの帰りを狙うのなら良いだろうと考え、葬儀が執り行われたお寺から、百メートル離れた場所で石本会の幹部の帰るのを待ち続けた。
二時間ばかりその場に待機をしていたら、石本会の幹部は寺を出てきた。
脇は石本会の幹部をスミス&ウエッソンの三十八口径・回転式拳銃を持って電話ボックスに入り、石本会長へに葬儀の報告を電話でしている幹部の太腿を撃ち抜いた。
転倒した若い者は、暫く、ノタウチ廻って居たが、その儘気を失った。
脇は武士の情けだと思い救急車を呼び、その場を離れ館山の岸本本家に帰った。
「頭、石本の者が、稲荷町の『永昌寺』の葬儀に参列していましたから、帰りを狙い太股に一発撃ち込んで来ました。然し、武士の情けと思って救急車を呼んでやりました」
「そうか、既に、上野署から問い合わせがあった。いずれ警察が直に、来るだろう。どうする脇、そしたら、この儘、出頭するか、それとも何日か娑婆で羽を伸ばしてから、出頭するか」
脇は何れ、逮捕され懲役は免れないので、警察が来たら出頭する気持ちでいた。
挨拶をするために、田端につれられ会館から、自宅に行くと岸本組長はいた。
「親分、これから警察に出頭します。少し長い懲役になると思いますが、お体を大切にしてください」
「おおっ、『永昌寺』近くで、お前が拳銃(はじき)をぶっ放したのかご苦労なことだ」
岸本は、おもむろに、横にある大きな財布を手に取ると、中身を確認しないで脇に渡した。
財布を押し頂いた脇は、その厚さに驚いた。
「持って行け、これから留置場や裁判になり、拘置所に行けば、金がかかる遠慮するなよ」
「ありがとう御座います。遠慮しないで使わせていただきます」
この後、浅草は岸本組と石本会で抗争が始まったとして、大騒ぎになっていた。
岸本組は館山から、若頭の田端要治が、浅草のビューホテルの会い向かいにある『岸本商事』岸本組事務所に入った。
事務所には『岸本商事』浅草事務所所属である森山真二と、森明弘の二人が神妙な顔をして椅子に座っていた。
「岸本の本家に、爆弾が仕掛けられた。家でこれからやる事は、解かっているな」
「はいっ、解かっています」
「道具(拳銃)は持っているか」
「その点は心配ありません」
「石本の家は解かっているか」
「少し前に石本の家の前を通りました」
(これ以上、言う必要はないだろう・・・)
その日の午後、森山と森は石本の家に向かった。
石本会長の家には、関西から応援が二十名ほど来て部屋に入れないので、廊下で寝起きをしていた。
森山と森は、石本の家の近くに、車を止め徒歩で、鉄金コンクリート造りの三階建ての家の前に来て、素早く家に向かい二十発の弾丸叩き込んだ。
「森、これくらいでよいだろう」
(これだけ弾けば必ず一人くらいは、鉛玉を食らっただろう・・・)
二人は胸を張り浅草事務所に帰ってきた。
「頭、やってきました」
「おうっ、そうかご苦労さん。石本の家はちんけな家だったろう。何しろ隣に鉄筋三階建ての家があるから、余計、石本の家が汚く見える」
(しまった。家を間違えた。石本の家は隣だったか・・・・)
だが、襲撃する石本の家を間違え森山と森は、長い懲役に行かずに済んだ。不幸中の幸いといわざるを得ない。
石本の家を襲撃したら、小さな家なので関西からの助人が、廊下に何人も居たと言うから、二十発からの弾丸では二・三人は当たっていただろう。
森山も八年の懲役では済まず、無期刑になっていた事は想像に難くない。
こうして、岸本組対石本会の抗争は資金・道具(拳銃)・人材を惜しみなく投下してくる岸本組の一方的勝利が近くなり、石本は五人の兄弟分がいる住吉会に泣きつき、住吉会の堀 政夫会長が、稲川会総裁が主催していた『平塚レークウット』で毎月行っていたゴルフコンペ『稲穂会』に出席し、稲川会総裁にお願いし、岸本組の攻撃を止めさせ、手打ちにすることになったのである。
昔から、戦で負けたものは滅びてゆく平家物語ではないが無常観は付きまとう、抗争に勝っても岸本の胸中には、諸行無常の鐘の声が響いていた。
(祇園精舎の鐘の声には、諸行無常の響きがあるという。沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の理(ことわり)を現すというが・・・・)
抗争をやることの無常さを知りながら、抗争をやらざるを得ないヤクザ渡世に生きる身を悔やまなかった。
ただ、侠(おとこ)として、人間として、恥じない言動をして、生きて行こうと常に心に刻みヤクザ渡世を貫いている。
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