人理を守れ、エミヤさん!
成し遂げたぜ士郎くん!
『――シロウ』
黄金に煌めく朝焼けを背に、淡い微笑みを湛えた少女が愛おしげに少年の名を呼ばわった。
穏やかな風。柔らかな空気に溶けるように、少女は儚げに佇んでいる。名を呼ばれた少年は、胸中に押し寄せる様々な感慨に声を詰まらせてしまい、何も言えずにその貴い幻想を見詰めていた。
少年のその顔を見ていると、少女の脳裏に万の言葉が満ちていく。それがなんだか気恥ずかしく、同時に誇らしくもあった。語り尽くせぬほどの想いがある、それは自分が彼のことを、何よりも大切に思っているという証だろうから。
だけどもう時間がない。複雑怪奇な、因縁と因果が絡んだ二度の聖杯戦争。彼の今後を想えば伝えねばならないはずで。しかし精神を病んでいる彼の耳と心には、何を言っても伝わらない。
だから、少女はたったひとつの言葉に全てを込めた。
『――貴方を、愛しています』
駆け抜けてきた生涯の中で最も愛した少年に、少女はその言葉だけを遺した。
朝陽が昇る。ふと少年が気づくと、少女の姿はもうどこにも見当たらなかった。自分と彼女の間にあった繋がりも綺麗さっぱり消え去ってしまっている。
それはつまり、全てが終わったということ。
土蔵に少女――騎士王アルトリア・ペンドラゴンを召喚してから始まった全てが。
十年前の大火災から始まった悪夢のような日々が。
文字通り、血を吐きながら積み上げてきた魔術と武道の研鑽の日々が。
全て、終わったのだ。
少年――衛宮士郎は、万感の思いを込めて、たった一言だけ呟いた。
「――成し遂げたぜ」
――ある日、気がついたら衛宮士郎になっていた。
こう聞くと余りに馬鹿馬鹿しく、絵空事じみて聞こえるが、事実として俺は、ある時全くの別人に成り代わってしまっていたのである。
ネット小説などのサブカルチャーでよく見られる、憑依だか転生だかの不可思議極まる不思議現象。それを自身が体験することになるとは想像だにせず、当時の俺は動揺するやら錯乱するやらで大忙しだったものだ。
なんで俺がこんな目にとか。俺が憑依したせいで元の衛宮士郎がいなくなってしまった、とか。自身の不幸を嘆くやら本当の衛宮士郎に対して罪悪感を抱くやら、とにもかくにも俺は他の何かに手をつけることが出来ないほど余裕をなくしていた。
しかし、時間とは残酷なもので。
衛宮切嗣に引き取られ穏やかながらも忙しない日々を送る内に、俺はいつしか現実を受け入れてしまっていた。
何はともあれ、泣いても喚いても何が変わるでもなし。ならせいぜい俺は俺らしく生きていくしかあるまい、と一ヶ月近くも経って漸く割り切れたのである。
悶々とした何かを無くすことが出来たわけではないが。それはそれとして、そこで俺ははたと気付いてしまったのだ。
――あれ? そういや俺って、このままじゃ死亡フラグとダンスっちまうんじゃね?
何しろ俺は衛宮士郎である。ちょっとした油断や間違いなんかであっさり死んじゃいそうな、命が軽い系の筆頭格なのだ。
その俺が、のほほんと過ごしていいのか。少なくとも今の俺は、日本に数いる普通の青少年などでは断じてない。この身に特大の異能『固有結界』を宿している。
怪異を持つ者はまた別の怪異を引き寄せる――この世界に於ける因果のロジックから察するに、衛宮士郎が平穏な日々を送ることはまず不可能と云っても過言ではないだろう。
もし罷り間違って遠坂凛のようなお人好し以外の魔術師に固有結界の存在を見抜かれたら、一発でホルマリン漬けの標本コース一直線である。そんなの嫌だ、と子供みたいに我が儘を言ってもどうしようもない。人間の悪意に際限はないのだ。
それは別としても、衛宮士郎は衛宮切嗣の養子であるからして、切嗣の負の遺産とでもいうべき過去の因果も絡んでいる。代行者の神父とか、聖杯な姉とか。
つまり、何かをしてもしなくても、いずれ俺はなにがしかの魔術絡みの事件に巻き込まれるのは確定的に明らかということ。冬木から逃げても聖杯な姉が俺の存在を知っている以上は、逃げた先に来られたら色々と詰んじゃうので逃げれない。もし仮に聖杯な姉が来なくても、自衛手段もなく見知らぬ土地――どこに魔術師がいるかわからない場所――を歩けるほど豪胆にもなれない。
俺は死にたくなかった。
なんらかの強迫観念に支配されているのではなく、純粋に一個の生命として、命の危機を自覚し死を忌避する本能が目覚めたのだ。
ではどうするかと言われても、これといって具体的な対策が思い付くわけでもなく。結局俺が出来たことと言えば、知識にある流れを順守して、如何に無難且つ無事に生き延びられるか思案することだけだった。
俺が憑依したせいで、起源や魔術属性が衛宮士郎本来のものと掛け離れたものになっているかもしれないという不安はあったが、どうやらそれは要らぬ心配だったようで、切嗣に指導を仰ぎ魔術の使い方を覚えて試した結果、俺は普通に剣製に特化した投影使いを目指せるようだと判明した。
しかも、なんというか、魔術の鍛練の時には奇妙な感じがした。
体が衛宮士郎というガワだからだろうか。魔術の鍛練をしていると、魔術を行使しているのが俺じゃなくて、俺という魔術回路が勝手に作動している感じがするのだ。
つまり俺という人格とは別に、魔術を行使するためだけの別人格が存在しているようなのだ。
俺が剣を投影しよう、何か別のものを解析、強化してみようと試みると、俺が具体的なイメージを持っていなくても、その刃物やら投影元のオリジナルに込められた理念などへの共感、経験の憑依などが行えたのである。
まるで俺とは別に、本当の衛宮士郎が存在して、魔術専用の杖として俺の頭の中に存在しているような異物感があって、途方もない吐き気がしたが、便利だったのは間違いない。最初こそ俺の中の投影杖(と便宜上呼称する)は練度が低く、原作冒頭の衛宮士郎レベルだったが、俺が彼の到達点であるアーチャーのエミヤを知っていて、衛宮士郎の異能的な投影魔術の概要を知っていたためか、めきめきと魔術の位階を上げていった。
――じゃあ、なんで俺は最初から見たこともない宝具を投影できたのか――
そうなってくると、俺はある決断が出来た。自分の命がかかっているからと勇気を出し、最初期の衛宮士郎がこなしていた間違った魔術鍛練を行い、魔術回路の強度を高めはじめたのだ。
無論、俺がやれば一発でミスし、死んでしまっていただろうが、生憎俺の頭の中には投影杖がある。俺が魔術を行使しているわけではない以上ミスの恐れはほとんどなかった。それほどまでに、俺は投影杖を信用、あるいは過信していたのだ。
――信頼ではない。当たり前を、当たり前になぞっただけだ――
軽率だったと後から思ったが、まあ実際に魔術回路の強度を高めることには成功したと思う。それに、何故かは知らないが、自殺紛いの魔術鍛練を積んだ結果、本来の衛宮士郎同様の凄まじい集中力を得ることができ、副次的にあの驚異的な百発百中の弓の腕を得ることが出来た。
「当てるのではなく、既に当たっている」。本当の衛宮士郎がそう言っていたが、今ではその感覚がよくわかる。投影杖におんぶにだっこな現状だが、自身の能力が高まる感覚には不覚にも高揚する物があった。
俺は魔術の鍛練に平行して体を鍛えつつ、あることを考えていた。
どうすれば俺はこの先生きのこれるのか。どうすれば、どうすれば。――うだうだと過去の思考を垂れ流しても意味がない。結論として俺が選択したのは「衛宮士郎の生き方を投影すること」だった。
先の分からぬ未来である。中身平凡な俺が色々考えたって、衛宮士郎のような未来を得ることができるとは思えない。幸い、俺は衛宮士郎が生き残るための道筋を知っているし、忘れないように記録もしている。投影杖のおかげか副作用か、他者の物真似は得意だった。
不可能ではない、と俺は判断し。実際にブラウニーのように活動して、衛宮士郎という壊れた生き方を実践できたと思う。
――周りの人間の反応がおかしかった――
それはとんでもなく、苦痛だった。演じる内に、それが本当の生き方なのだと錯覚しそうにもなった。
だが、結果として俺は間桐兄妹と仲良くなり、桜と親密になり、慎二と決裂し、誰にも見抜かれることなく正義の味方に憧れる少年を投影できた。
そして、運命の夜。
俺は赤い弓兵と、青い槍兵の戦いを目撃し、心臓を破壊され、遠坂に助けられ、帰り道でイリヤスフィールと出会い、槍兵の襲撃を受けて土蔵に逃げ込み、そこで騎士王を召喚した。
そこからは、怒濤のように時が流れた。
俺はかねてより考えていた通りに、セイバー・ルート (と便宜上呼称する)に沿った。
遠坂ルートと桜ルートは俺的にリスキーに過ぎる。アーチャーと一騎討ちなんてしたくないし、英雄王を倒すなんて無理だし、桜を助けるためにバーサーカーとかセイバーを倒すのはもっと無理。その前にアーチャーの腕を移植しても、中身が俺だと適合するかわかったもんじゃない。
――確実に適合する――
最も難易度が低いのが、セイバーのルートだったと思う。
無論、だからといって簡単に済むはずがなく、綱渡りの連続どころじゃなかったが、それでも俺は完璧にやり遂げることが出来た。その過程でセイバーと懇ろな関係になるという役得もあったが、まあ多少はそういうご褒美があっても許されるはずだ。
そうして、紆余曲折を経て、俺は原作通りにことを終えることが出来た。
最終決戦を終え、セイバーが消えた瞬間。
俺は、絶頂した。
ぶっちゃけ射精した。
十年単位の一大事業を成し遂げ、俺は途方もない達成感と多幸感に包まれ脱力してしまったものである。
それから俺は、衛宮士郎を演じるのをすっぱりとやめた。
俺はやり遂げたのだ。全ての地雷を回避して、地雷になりそうなのを桜以外撤去完了し、もう俺が俺を偽る必要性は消えたのである。
と言っても長年のツケが回ってきたためか、無意識の内に衛宮士郎の如くに振る舞ってしまったこともあるが、それでも俺にはそれを演じている自覚がないために重荷に思うこともなく。俺は何事もなく高校を卒業し、半ば飛び出るようにして冬木から旅立った。
――そうしなければならない気がした――
そして、まあ、なんというか、正義の味方を志していたわけではないが、気がつくと俺は海外を回り、慈善事業に手を出して、飢餓に苦しむ人々のために可能な限り援助の手を差し出し続けていた。
学校に通うこともできない貧しい子供たちのために、俺が教えられる範囲で勉強を教えてあげて。建物を建てる方法を学んでそれを教えてあげたり、まあ、思い付く限りに力を尽くしていた。
楽しかった、というわけではないが。まあ、遣り甲斐はあった。正直なんでこんなことをしているか分からなかったが、別にお天道様に顔向けできないことをしているわけでもなく、俺は真っ当に生きているという自負があった。
――かつての後悔をやり直しているような後ろめたさが付き纏った――
魔術や弓、剣を用いた戦いの鍛練は怠らず、世界を回っていると目につく外道な魔術師を打ち倒し、死徒やらなんやらの裏の抗争に巻き込まれたりしたが、まあ後悔はない。
俺は自分が大好きだから、誰かを救うために世界と契約し守護者になるようなこともなく。俺は俺の人生を生きていた。
そんな、ある日のことだ。俺の元に、ある女性が訪ねてきた。
女性はオルガマリー・アニムスフィアと名乗り。
「衛宮士郎。冬木の第五次聖杯戦争の勝者である貴方を、私のカルデアのマスター候補にスカウトしにきたの」
そう言って、俺にかつてない衝撃を齎した。
――え? ここってカルデアあるの?
逃げたら死ぬぞ士郎くん!
それは西暦2015年のこと。
人類の営みを永遠に存在させるため、秘密裏に設立された「人理継続保障機関フィニス・カルデア」にて恐るべき研究結果が証明された。
「2016年、人類は絶滅する──」
決して認められないことだ。霊長を自認する人類にとって、その滅びはあってはならないことであった。
原因を調査する内、魔術サイドが作り上げた近未来観測レンズ・シバは過去である西暦2004年の冬木に観測不能の領域があるのを発見する。
有りえない事象にカルデアの者達は、これが人類史が狂い絶滅に至る理由と仮定。テスト段階ではあるものの、理論上は実行可能レベルになった霊子転移による時間遡行を敢行。その目的は2004年に行われた聖杯戦争に介入し、狂った歴史を正すことである――
――というのが俺が覚えているカルデアの概要、その全てである。
残念ながら、現在28歳であるところの俺、衛宮士郎はカルデアに関することをほぼ忘れてしまっていた。
それは、俺が『衛宮士郎』だからである。
俺の記憶が確かなら、2004年に行われた聖杯戦争でカルデアの前所長、即ちオルガマリー・アニムスフィアの父親が勝者となり、聖杯は彼の手に渡っていたはずだ。
それに、第四次聖杯戦争以前に行われた聖杯戦争は無く、必然冬木の大火災は発生せず、●●士郎は衛宮切嗣に拾われずにいたため、衛宮士郎自体が生まれていなかったはずなのだ。
だから俺は、俺が『衛宮士郎』である時点で、ここがカルデアの世界ではないと断定し、カルデアの存在を綺麗さっぱり忘却し、記録自体取っていなかった。
あとは時間によって覚えていた知識も風化してしまい、現在に至ったわけだ。
『衛宮士郎』がいるということは、第四次聖杯戦争はあって、冬木の大火災もあったということ。そして第五次聖杯戦争はこの俺が勝者となっているし、そもそも聖杯自体破壊した。またいずれ聖杯は顕現するかもしれないが、それは切嗣が生前に大聖杯へ施した仕掛けによってあり得ないものになったと俺は考えている。
……まあ、あの蟲の翁が何かをしたらあり得るかもしれないと思っているが、それはさておきこの時点でカルデア自体の存在が矛盾したものと気づけるだろう。
……なのに、カルデアが実在し、そのマスター候補としてオルガマリーが俺をスカウトに来た。
有り得ない。どうなっている? カルデアがあり、実働しているということは、少なくともカルデアは正式に魔術協会に活動を認められているということ。マスター候補を探しているということは、2016年から先の未来を観測できなくなったということ。それは、イコールで魔術王ソロモンによる人理焼却が発生している証拠となる。
しかしカルデアは、オルガマリーの父が聖杯を勝ち取り、恐らくは資金源として研究施設を獲得して成立したもの。つまりオルガマリーの父は聖杯戦争に参加し勝利していることになる。少なくとも冬木以外で、だ。
……この世界には、冬木の聖杯と同等か、それ以上の物が他所にあったのか? そしてそれを、オルガマリーの父が手に入れた、と?
有り得ない、とは一概に断定出来ない。平行世界は無限に存在する。俺がいるのがそういう世界だと考えることもできる。
だがしかし、冬木の大聖杯の基になったのは、アインツベルンの冬の聖女である。聖杯の術式も、それを見た英雄王が「神域の天才」と評したほどの完成度を誇る。そんなものが、他にもあったとは流石に考え辛いが、さて――
「――ちょっと、聞いてるのかしら? 衛宮士郎」
咎めるような女の声。それに、俺は思考を一旦打ち切った。袋小路に入り掛けていた思考をリセットしておく。今は悠長に思索にかまけてはいられなかった。考察は後でも出来ること。今オルガマリー女史から詳しい話を聞いているところであるのだし、そちらに集中するのが賢明だろう。
カルデアにスカウトしに来たとか、マスター候補になって欲しいとか、そんなことを突然言われても普通は事態を把握できないし、俺自身もカルデアの詳細な情報など遥か忘却の彼方だから、彼女から話を聞いておくのは大切なことだと思う。
俺は現在、ロンドンの喫茶店にいた。流石にイギリス、紅茶だけは旨い。
英霊エミヤとは違い、特に悪党以外からは恨まれていないし、外道な魔術師を独自に仕留めても、その研究成果自体は俺の保身のために時計塔に二束三文で売り払ったりしているため、魔術協会に目をつけられたりもしていない。
固有結界持ちであることも今のところは隠しきれているし、平気な顔でロンドンに居座っていてもなんら困るものはなかった。
時々遠坂凛を見掛けることはあっても、特に険悪にはならないし、せいぜい「たまには帰郷して桜に顔を見せてあげなさい」と小言を言われるぐらいだ。彼女も人生充実しているようだし何よりである。
そんな具合なもんだから、ロンドンを彷徨いていた俺が、あっさりとオルガマリーに捕捉されてもおかしくないわけであった。
俺は努めて冷静に銀髪の女――オルガマリーに対して切り返した。
「……ああ、もちろん聞いている。お前達が何者で、何を目的とし、なんのために俺に接触を図ってきたのか。聞き落としなくきちんと聞いていたとも」
言いつつ、俺は対面に座すオルガマリーと、その両脇を固めるように立っている男、レフ・ライノールとロマニ・アーキマンと名乗った男たちを見据えた。
ちなみに、衛宮士郎を演じなくなった俺の口調は、激した時の英霊エミヤに似ている。だからどうしたという話だが、俺はエミヤに影響を受けているわけではないという自意識を持っていた。
俺は日本人離れした高身長を持っているし、筋骨隆々としている体に相応しい体重もある。華奢な女性と向き合っていると、どうにも見下ろす形になってしまうのだが、威圧感を与えてしまっていないか少し心配である。
ちら、とオルガマリーの両脇に立つ男達を見る。
レフという男は、緑の外套に緑のシルクハットという、何か拘りのようなものを感じさせる格好だった。彼がカルデアを舞台とする物語でどんな役柄を演じていたのか覚えていないが、彼からは奇妙な視線を感じる。値踏みするような目だ。が、魔術師とは基本的にそんな輩ばかり。余り気にするほどでもない。
一方のロマニ・アーキマンは、なんというか線が細く芯も脆そうな、しかし意外と頼りになりそうな印象がある優男だった。
俺の探るような目に何を思ったのか、レフとロマニは曖昧に表情を緩めた。何も言わないところを察するに、この場ではオルガマリーを立てて黙っているらしい。もしかすると、俺に対する護衛の役割でもあるのかも知れなかった。
まあ十中八九、ただの連れ添いだろうが。
時計塔のロードの一角であるアニムスフィアに、魔術協会の膝元のロンドンで危害を加えるほど俺もバカじゃない。というより理由がない。彼らから視線を切り、改めてオルガマリーに向き直る。
「――だからこそ、よく分からないな」
紅茶を口に含み、たっぷり話を吟味する素振りを見せながら言った。
「何が分からないの?」
「さて。そちらの事情については、些か荒唐無稽だがとりあえず本当のことだと信じてみるとしよう。すると少し腑に落ちないところが出てくるんだ。――マスター候補の中の本命、A班に俺を招きたいそうだがなぜ俺なんだ? 年がら年中、世界を飛び回っている俺に接触するよりも、彼女に接触する方が遥かに容易いだろうに」
「ミス遠坂のことね」
「ああ」
すんなりオルガマリーから遠坂の名が出ても、俺に驚きはなかった。俺の交友関係については調査済みだろう。プロとしてそれは当たり前のことである。
「今回はたまたま俺がロンドンに来ていたから良かったものの、そうでなかったらお前達が俺に接触することは難しかったはずだ。なぜ遠坂でなく、俺を選んだ? こう言ってはあれだが、遠坂の方が魔術師としてもマスターとしても遥かに優れているぞ」
「簡単なことよ。貴方を見つけたのは偶然で、私が直々に声をかけたのも偶然近くにいるのがわかったから。別に貴方を特別視して囲い込みに来たわけじゃないの」
「……なるほど。つまり俺に声をかけたのは、たまたま使い勝手の良さそうなのが近場にいたから声をかけるぐらいはしておこう……そんな程度に考えてのことだったのか」
「ええ。そうよ」
……俺は少し意外に思った。彼女は俺に重い価値があるわけではない、殊更に重要視しているわけではないと言い、こちらが大きな態度を取る前に牽制してきたのだ。
当たり前だが、俺より年下の彼女も、海千山千の怪物犇めく時計塔で、多くの政敵と鎬を削っているのだ。見た目の印象とは裏腹に、そうしたやり取りは充分経験しているのだろう。貴族的な家柄ということもあり、交渉事では手強い相手になると思った。
まあまともに交渉するほど俺も間抜けでないし、そもそも交渉しなくてはならないこともない。相手に合わせて要求を出し、きっちり対価を貰うことで相手の安心を買うぐらいはするが、それだって余り重要視することでもなかった。
「それと、ミス遠坂をなぜ召集しなかったのかは、言うまでもなく貴方なら分かるはずよね?」
「……分からなくはない。遠坂がロード・エルメロイⅡ世の教え子だからだろう」
正確にはエルメロイⅡ世が遠坂の後ろ楯になっているだけなのだが、時計塔内の政治力学的に言うと余り間違ってはいない。要は、遠坂がエルメロイの派閥に属している、という形が重要なのだ。
「頭は回るようね。その通りよ。アニムスフィアであるこの私が、エルメロイのところの魔術師に弱味を見せるわけにはいかないわ。だからミス遠坂に話すことはないの。貴方もくれぐれもこの話を言い触らさないように。一応、機密事項なんだから」
「……」
人類絶滅の危機に瀕してもまだ派閥争いに気を配るのか。思わず呆れてしまうが、まあ人間そんなもんだよなと思う程度に納める。
大方オルガマリーはまだ事が重大なものではないと思っているのだろう。自分達の力だけでなんとかなると思っているし、そうでなければならないとも思っているはずだ。だからそんな悠長なことを言っていられる。
本当に人類が絶滅したらどうする。危機意識を一杯に持っておけと口を酸っぱくして叱りつけてやりたかったが、ここはグッと堪えておく。言っても詮無きことである。
「話はわかった。人類の危機ともなれば、流石に我関せずを通すわけにもいかないだろう。オルガマリー・アニムスフィア、貴女の誘いに乗ろう。――条件はあるが」
「あら、聖杯戦争の覇者の協力が得られるのは有りがたいことだけど、無理なことを言われても頷けないわよ?」
「分かっている」
――あまりうだうだと話すのも好きじゃない。さっさと話を終わらせに掛かった。
大事なのは、無償で協力しないことである。
人間心理とは難しいもので、ことが重要であればあるほど何か対価を貰わねばならない。特に深い繋がりがあるわけでもない相手は、そうした対価を支払うことで相手を信頼、信用していくのである。
もし最初から見返りも求めずにいたら、間違いなく不気味がられ、信頼されることなくいずれ淘汰されていく羽目になる。俺としてはそれは避けたかった。なにせ俺は死にたくないのだ。
そう。死にたくないのである。
このままだと人理焼却に巻き込まれ、俺は死んでしまうことになる。物語的に事態は解決し、結果として俺は死んでいないということになるのかもしれないが、見ず知らずのだれかに自分の命運を託すほど愚かなことはない。
俺は自分の運命は自分で決めたかった。故にカルデアが実在し、そこにスカウトされた時点で、俺の去就は決まったも同然である。死にたくないなら、カルデアで人理を守護するしかないのだから。
「条件は二つだ」
言いつつ、ざっと思考を走らせる。目の前の女は無能を嫌い、話の遅い人間を嫌う神経の細い有能な女である。
単刀直入な物言いを許容する度量はあるだろうから、すっぱり要求を告げるべきだ
「まず一つ。俺がカルデアに所属し、そちらの指揮系統に服従する代わりに、ことが終わればアニムスフィアに俺の活動の援助をしてもらいたい」
「貴方の活動って……慈善事業のことかしら」
「ああ。そろそろ単独で動くのにも限界を感じていたしな。俺がロンドンに来たのは、パトロンになってくれる人間を探すためだったんだ。……世界中の、飢えに苦しむ人達のために起業して、食料品を取り扱う仕事をしたいと考えている」
「……つまり、資金の提供ね? それに関しては、カルデアでの貴方の働き次第よ。全面協力をこの場で約束することは出来ないわ」
「当然だな。それで構わない」
まずは、分かりやすく金を求める。俗物的だが、俺はそう思われても構わない。実際俗物だしな。
分かりやすいというのは良いことだ。難解な人間よりも単純な人間の方が親しまれやすいのは世の真理である。
現に、目に見えてロマニとオルガマリーの俺を見る目が変わった。レフはよくわからんが、魔術師とはえてして腹芸が得意なものである。気にするだけ無駄で、隙を見せなければそれでよかった。
「二つ目だが……いいかな?」
「ええ。言うだけ言ってみなさい。前向きに検討するぐらいはしてあげる」
「今後は名前で呼び合おう。これから力を合わせていくんだ、貴女のような美しい人と親密になりたいと思うのは、男として当然のことだろう?」
洒落っけを見せながらそう言うと、ロマニは苦笑し、オルガマリーは「なっ」と言葉につまった。
やはりこういった明け透けな言葉には弱かったらしい。
最後に高慢な女性に有りがちな弱点を見つけ、オルガマリーのなんとも言えなさそうな表情を堪能しつつ、俺は席を立って半ば勢いでオルガマリーの手を取った。
友好の証の握手だと言い張ると、オルガマリーは微妙に赤面しつつ応じてくれた。
そうして、俺のカルデア入りが決定したのである。
普通に死にかける士郎くん!
英霊エミヤ。
それは衛宮士郎の能力を完成させ、正義の味方として理想を体現した錬鉄の英雄。
言ってしまえば、衛宮士郎である俺が、戦闘能力の面で目指すべき到達点の一つであり――同時に決して至ってはならない破滅地点でもあった。
翻るに、今の俺はあのエミヤに並ぶ力を手にしているだろうか?
おそらく、などと推測するまでもない。今の俺はエミヤほどの実力には到底至れていないだろう。
冬木から飛び出て以来、必死に戦い続けたエミヤ。同時期に冬木から出て海外を回ってはいるものの、慈善事業の片手間で鍛練している俺。戦えばどちらに軍配が上がるかは明白だった。
無論俺とて多くの実戦を潜り抜け、固有結界の展開も短時間なら可能になった。投影の精度もエミヤに劣るものではないはずだし、狙撃の腕はエミヤほどではないがそれなりのものだという自負がある。
それに、俺は戦闘にばかりかまけていたわけではない。世界を見渡しても高名な料理人とメル友だし、料理の腕はエミヤに並んでいるのではないか。というか、戦闘以外でエミヤに劣るものはないと壮語を吐けるだけの自信を持っていた。
三国志で例えるなら黄忠がエミヤで、俺が夏候淵といったところだろう。一騎討ちなどでは夏候淵は黄忠に負けるが、それ以外は夏候淵の方が上手なのと同じである。
戦闘経験という面でも、守護者として戦い続け戦闘記録を蓄積し続けているエミヤに敵わないが。それでも耐え凌げるまでは持っていけるはずである。
――そんなことを考えつつ、俺は眼前のサーヴァント擬きを陽剣・干将で斬り伏せ、戦闘シミュレーションをクリアした。
『……凄いな』
管制室にいるのだろう、レフ・ライノールの感心したふうな声がスピーカーを通して聞こえてきた。
どことも知れぬ森林を戦場として設定し、アサシンのサーヴァントを擬似的に再現していたのだ。目的は、俺の戦闘技能の確認である。
場所は既に人理継続保障機関カルデアの内部。アニムスフィア家が管理する国連承認機関だ。標高六㎞の雪山の斜面に入り口があり、そこから地下に向かって広大な施設が広がっているのだ。
まるで秘密組織の本拠地みたいだ、と俺が感想をこぼすと、ロマニなどは笑いながら「みたいだ、じゃなくてまさにその通りなんだよ」と言っていた。
投影した陽剣・干将を解除はせず、あらかじめ投影していた陰剣・莫耶と同じように革の鞘に納めて背中に背負う。俺の投影は異端のそれ、下手に宝具の投影など見せようものなら即座に封印指定されてしまうだろう。それゆえに、俺は干将と莫耶だけは投影したものを解除したりはせず、常に礼装だと言い張って持ち歩いていた。そう言っておけば、みだりに解析などさせずに済む。礼装は、いわば魔術師にとっての切り札のようなもの。それを解析させろなどとは言えないはずだ。
額に滲んだ汗を拭い、乱れた呼気を整えつつ、一応は残心を示しながら、管制のレフへ強がるように応答する。
「この程度、さほど苦戦するほどでもないな」
『ほう。英霊の出来損ないとはいえ、仮にも英霊の力の一端は再現できていたはずなんだが。流石に死徒をも単騎で屠る男は言うことが違う』
「戯け。今のが英霊の力の一端だと? 冗談も休み休み言え」
探るような気配のあるレフの物言いに不快感を感じるも、潜在的な警戒心を隠しつつ無造作に返す。
カルデア戦闘服とやらを着用しているからか、魔力の目減りはまるでなく、寧ろかつてなく調子が良い。これならバーサーカー・ヘラクレスを五分間ぐらい足止めし、殺されるぐらいはできるだろう。……結局殺されるのに違いはないわけだが。
今まで無理な投影など、第五次聖杯戦争の時以外でしたことはないためか、未だに髪は艶のある赤銅色を保ち、肌も浅黒くはなっていない。赤い髪を掻き上げて、俺は自らの所感を述べた。
「アサシン――今のは山の翁か。あれは暗殺者でありながら気配の遮断が甘く、奇襲に失敗した後の対処が拙い。暗殺者が、こともあろうに正面から戦闘に入るとは論外だ。加え、いざ戦ってみれば敏捷性は低く力も弱い。逃げる素振りも駆け引きする様子もない。戦闘パターンもワンパターン。まるで駄目だな。オリジナルのアサシンなら、初撃で俺を仕留められなかったら即座に撤退していただろう。思考ルーチンから組み直すべきだと進言する。これでは英霊の力の十分の一にも満たんぞ」
『ふむ。……そんなものか』
「……」
レフの言葉は、アサシン擬きに向けられたものか。それとも俺に向けられたものか。定かではない、ないが、しかし。底抜けに凝り固まった悪意の気配から、きっと俺へ向けた嘲弄なのだろうと思う。
そうなら良い、と思った。俺は無言でシミュレーター室から退出し、レフの視線から外れた瞬間に、額に掻いていた汗をぴたりと止め、呼吸を平常のものに落ち着けた。
実のところ、俺は全く疲弊してはいなかった。本物の英霊、それもアーサー王やクランの猛犬、ヘラクレスやギルガメッシュを知る身としては、あの程度の影に苦戦するなどあり得ない話だ。宝具の投影を自重せずにやれば、開戦と同時に一瞬で仕留められる自信がある。
本当なら味方のはずのレフや、カルデアに対して実力を隠すのは不義理と言える。あるいは不誠実なのかもしれない。
しかし、俺は魔術師という人種を、遠坂凛以外欠片も信用していなかった。敵を騙すにはまず味方からともいう。彼らを欺くことに罪悪感はなかった。
それに、どのみちグランド・オーダーが始まれば、力を隠し続ける意味も余力もなくなるだろう。俺が期待以上の働きをすれば、ことが終わっても俺を売り、封印指定にまで持っていくこともあるまい。それまでは適当に力を抜いておくに限る。
「フォウ!」
「ん?」
ふと、毛玉のような獣が道角から飛び出してきて、俺の肩に飛び乗って頭にすがり付いてきた。咄嗟に叩き落としかけたが、害意はないようだし放っておく。
「なんだ、ご機嫌だな。なにか良いことでもあったのか?」
苦笑しながら腕を伸ばすと、意図を察したらしい毛玉の小動物――猫? ウサギ? みたいな何か――は頭から伸ばされた腕に移り、そのくりくりとした目で俺を見上げてきた。
賢い奴だ、と思う。かいぐりかいぐりと頭や顎下を撫でてやると、気持ち良さそうに目を細めていた。
どうやらなつかれたらしい。俺は昔から、どうにも動物の類いに好まれる傾向にあるが、初見の奴にまでこうも踏み込まれるとは思わなかった。
戦闘シミュレーションを終えて、特にすることもなかった俺は、とりあえずこれの相手をして暇でも潰そうか、と思った。
「なんだったら菓子でも作ってやろうか。お前みたいなのでも食えそうなのも、俺のレパートリーにはあるんだ」
「フォウ! フォウ!」
まるでこちらの言葉が分かっているかのような反応に、怪訝な気持ちになるが、まあ可愛いしいいか、と思っておく。大方、どこぞの魔術師が実験体にして、思考レベルを本来のものより強化しているのだろう。
ざっと解析したところ、特に脅威になりそうな反応もない。危険はないと見て良いはずだ。――危険が多きすぎて逆に危険じゃないとも言う。
「フォウさん? どこに行ったんですか、フォウさーん!」
ふと聞き知った声が聞こえてきた。そちらを見ると、白衣を纏った銀髪の少女――眼鏡がチャーミングなマシュ・キリエライトが歩いてきていた。
「……あ、エミヤ先輩」
「やあマシュ」
こちらに気づいたらしい少女に、俺は半ば無意識に甘く微笑んでいた。女好きを自認する俺であるが、どうにも美女、美少女を見ると物腰が柔和なものになってしまう。
ちょっと露骨過ぎやしないか、と自分でも思うが、なぜか改めることの出来ないエミヤの呪いである。まあマシュも満更ではなさそうなのでよしとしておこう。眼鏡っ娘の後輩属性とは、なかなかに得難いものである。なぜ先輩呼びなのかは謎だが。
「おはようございます、エミヤ先輩。今こっちに毛むくじゃらなフォウさんが来ませんでしたか?」
「ああ、おはようマシュ。そのフォウさんというのは彼のことかな。――ほら」
言いつつ、いつのまにか俺の背後に回っていた猫っぽいウサギ、ウサギっぽい猫の首を摘まみあげて、マシュの方へ差し出した。
フォウを受けとると、マシュは目を丸くして驚いていた。
「……驚きました」
「ん? 何に驚いたんだ?」
「いえ、フォウさんがこうまで誰かに親しげなのは見たことがなくて。……流石です、エミヤ先輩」
「……」
何が流石なのかよくわからず、苦笑するに留めた。すると、フォウがマシュの腕の中で物言いたげに鳴いた。
「フォウー!」
「……ん、ああ……そうか。うん、わかってるさ」
「……? なにかあったんですか?」
「いやなに、たった今、彼に菓子を作ってやると約束したばかりでね……なんだったらマシュもどうだ?」
「え、あ……いいんですか?」
「いいとも。これでも菓子作りにも自信があってな。いつかマシュにも振る舞おうと思っていたんだ」
「……でしたら、その、ご相伴に与ります」
菓子と聞いては捨て置けなかったのか、照れたようにはにかみながらマシュは俺の誘いに乗った。
やはり女の子、甘いものへの誘惑には勝てないらしい。
「……うん。やっぱり後輩キャラはこうでないとな……、……っ?!」
なんとなくそう呟いたとき、なぜか背中に悪寒が走った士郎くんなのであった。
――――――――――――――
『ロマニ。彼女はホムンクルスか……?』
『え!? い、いきなり何を言うんだ、士郎くんは』
『個人的にホムンクルスには詳しい身の上でね。一目見れば、彼女……マシュ・キリエライトがまっとうな生まれでないことぐらいは分かる』
『……』
『見たところ、ホムンクルスに近い。が、近いだけでそれそのものではない。――なんらかの目的のために生み出されたデザイナーベビー、というのが真相に近いか?』
『………』
『昔からモノの構造を把握するのは得意でね。それは人体も例外じゃない。医者の真似事が板に着いてきたのもそのおかげだな』
『……士郎くん』
『それに少し言葉を交わせば、マシュが如何に浮き世離れしているかすぐに分かる。彼女はあまりに無垢に過ぎるからな。大方カルデアから出たこともないんだろう。カルデアという無菌室で育った為に、マシュの体は外の世界に適応できないんじゃないか?』
『………』
『……マシュは、あと何年生きられる?』
『……機密だよ。マシュ本人も知らないはずだ。言い触らして良いものじゃない』
『そうか。……俺の見立てでは、あと一年といったところだが。どうだ?』
『……!?』
『なるほど、良く分かった。それではな、ロマニ。せいぜい悔いが残らないようにしろ。そんな辛そうな顔をするんだ、お前がマシュの件に関与していないことは分かったよ』
『……』
『俺は俺で、やれることはするさ。大人のエゴに子供を巻き込んで良い道理などない。――そうだな、とりあえず、甘いものを食べさせてあげよう。それから外の世界のことも話してあげよう。彼女の生きる世界は、決してカルデアだけで完結するものじゃないんだと、いつか証明できるようにしよう』
『……それは……』
『ああ。それはとても素敵なことだと俺は思う。不可能ではない。俺はそう信じる』
『……そう、だね。その通りだ』
『ロマニ。俺はね、出来ることはなんでもしてきた。それだけが俺の行動理念だった。……今回もそうだ。出来ることをする、それだけだよ』
――そう。出来ることをする。死なないために、生きるために。
自分の命を軽く見ることはないが、逆に固執しすぎることもない。思いすぎればそれは呪いとなり、俺はいつしか生に執着するだけの亡霊となるだろう。
それは嫌だ。だから俺は俺という人間を全うするだけである。そしてそのためなら、俺は俺の全能力を躊躇いなく費やすだろう。
俺という人間、その自我、自意識だけが俺の持つアイデンティティーだから。名前も体もなくし、赤の他人として生きねばならなくなったあの日から、俺はいつしか俺だけのために、俺の信条だけに肩入れして生きていこうと決めていた。
「……」
美味しいお菓子と、日本ではあり触れた漫画やアニメ、それの内容を語って聞かせるだけで、マシュは大袈裟に驚き、大真面目に感動し、真摯に涙した。
感情が豊かなのもある、だがそれ以上にマシュは何も知らなさすぎた。
カルデアに来て、マシュと同じA班に配属されて出会ってから、俺は彼女に積極的に話し掛け続けた。俺の知っていることをなんでも教えてあげた。それは、俺が彼女と似た境遇の血の繋がらない姉を知っていたからこその接し方だったのかもしれない。
ただの欺瞞なのかもしれない。だが、それでいいと俺は思う。
どんな思いがあっても、マシュがどう感じ、何を信じるかは自由だ。マシュが何を思うかが大切なのだ。そこに俺の感情などが差し込まれる余地はない、所詮は雑念にしかならない。
この広く、暗く、薄汚れた大人たちの世界では、正直マシュや義姉の境遇は珍しいものではないだろう。似たような環境で、より過酷な世界で育った子供を俺は何人も知っている。そして、そんな子供たちをよく知っているからこそ――そういう子供たちを保護し、接してきたからこそ。俺はそういったものに敏感で在り続けたいと思っている。
何も感じないほど鈍感になってしまえばどんなにか楽だろうが、そんなものは糞くらえだ。子供たちの悲劇に敏感で在れ。安い同情でも良い、動機なんてなんでも良い、実際に行動した者こそが正義だ。綺麗事を囀ずり非難するだけの輩の言葉に耳を傾ける価値はない。やらない善よりやる偽善、それが本物の善だと俺は信じている。
俺の知るアニメソング、一世を風靡した名曲を二人で熱唱し、マシュはいつのまにか疲れ果て、俺にあてがわれた部屋のベッドで穏やかな寝息をたて始めていた。
こうしてマシュとデュエットするのもはじめてではない。最初は恥ずかしがっていたし、歌声も音程を外した音痴なものだったが、数をこなす内に上達して俺よりも上手くなっていた。
時には半ば連れ去る強引さでロマニやオルガマリーも参加させ、声が枯れるまで歌ったものだ。オルガマリーなど、始めこそ低俗な歌なんて歌わないと意地を張っていたが……まあ、あの手の女性をあやし、或いはおだて、その気にさせるのは得意だった。いつのまにか一番本気で歌っていたのはオルガマリーで、あとからからかうと顔を真っ赤にして怒鳴ってきたものである。
マシュの寝顔を見下ろしながら、その髪を手櫛で梳く。フォウはマシュの懐で丸くなり一緒になって眠っていた。
「……俺は、俺が気持ち良く生きるために動いてる。だからマシュ。俺のために、幸福に生きろ」
マシュのような子供は、駄々甘に甘やかしこれでもかと可愛がるのが俺のやり方だ
厳しさに意味がないのではない。厳しさよりも、可愛がることの方が個人的に有意義なだけだ。
餓えに苦しむ人がいるのを知ってしまった。
争いを嘆く人々がいるのを知ってしまった。
貧しさに喘ぐ子供がいるのを知ってしまった。
――知ってしまったら、見て見ぬふりはできない。
素知らぬ振りをして生きてしまえば、それはその瞬間に、俺という自我が俺らしくないと叫んでしまう。
無視できないし、してはならない。俺が俺らしく生きるため、俺という人間をまっとうするために、極めて自己中心的に、そういった『求める声』に応え続ける。
……人間として破綻しているはずがない。俺は俺の欲求に素直に生きているだけなのだから。
だから、善人たち。無垢な人たち。俺のために、俺の人生のために救われろ。俺の一方的な価値観を押し付けてやる。俺の思う『幸福』の形で笑えるようにしてやる。要らないならはっきり言えばいい。俺はすぐにいなくなるだろう。
俺に救われた人間は、俺という人間の生きた証になる。俺が衛宮士郎ではないという証明になる。だから俺は俺のための慈善事業を継続するだろう。
世界中を回っているのはそのため。冬木に残した後輩を、本当の意味で救うために対魔・対蟲の霊器を求めてのことでもあった。
だから。そんな『俺の生きた証』を台無しにする人理焼却など認めない。
死にたくないし、死なせるわけにはいかないのだ。なによりも、俺のために――
――爆音。
カルデア全体が揺れたかのような轟音が轟き、警告音が垂れ流しにされ、視界が赤いランプの光で真っ赤に染まった。
なんだとは思わない。不測の事態には慣れていた。ほとんど知識の磨耗した俺が、事前に防げることなどないに等しい。自分を守り、備えるのがせいぜいだった。
今日は、すべてのマスター候補の召集が完了し、特異点へのレイシフトを実行する日だった。
オルガマリーが、時計塔から来た連中の手綱を握るための日であり、そしてずぶのド素人のマスター候補に事態を説明する日でもある。大事なブリーフィングが日程に組まれていた。
オルガマリーの指揮には服従すると契約していた俺は、諾々と彼女の求めるままにそのすべてに立ち会った。
今回発見された特異点は、衛宮士郎の故郷である冬木であった。そういう意味で、最も状況に対応しやすいだろうと目され、オルガマリーからも期待されていた。
まあ、予想は裏切っても、期待には応えるのが出来る男というものだ。期待通りの結果を出そうとオルガマリーには言っておいた。
そうして、俺はオルガマリーらがカルデアのスタッフが見守る中、規定通りに霊子筐体というポッドの中に入り、レイシフトの時を待った。その前に、同じA班のマシュと目が合った気がして――
次の瞬間、俺の入っていたポッドは、他のポッドと同じように爆破されていた。
「――――」
普通に瀕死の重傷を負った。
視界がチカチカと明滅し、耳が麻痺してしまっている。咄嗟に己の体を解析すると、上半身と下半身がほぼ泣き別れになっていて、内臓ははみ出し、右腕が千切れていた。
奇跡的に即死せず、頭が無事で意識が残っている。日頃から痛みに耐性をつけてあったお陰だろう、俺は凍りついたような冷静さで、死に瀕して体内で暴走しかけていた固有結界を制御、活用し上半身と下半身を接続。内臓もきっちり体内に納め、右腕も応急処置的に同じようにしてくっつけた。
即死さえしなければ、どうとでもなる。
我ながら化け物じみた生き汚なさだが、これはかつて俺の中で作動していた全て遠き理想郷が、傷を負った俺の体を修復していた手順を真似ているにすぎない。固有結界『無限の剣製』によって、体を継ぎ接ぎだらけのフランケン状態にしただけで、今にも死にそうなのに違いはなかった。
早急にオペってほしいがそうも言っていられない。俺は死体に鞭打ちながらコフィンから這い出て、炎に包まれた辺りを見渡した。
……オルガマリーが、死んでいた。俺と似たような状態になって。他のマスター候補たちも、死にかけている。
怒りを抑える。今の俺に出来ることは、かなり限られていた。
冷静さを失ってはならない。意識のある者を探していると、一人だけ残っていた。
マシュだ。彼女も、瀕死の重体だった。
下半身が瓦礫に潰されてしまっている。
「――」
声が、出ない。声帯をやられたか。いや、一時的に声を発する機能が麻痺しているだけだ。時をおけばまた喋れるようになる、と自分を解析して診断する。
無言で瓦礫を撤去し、下半身の潰れたマシュを抱き上げて、炎に包まれかけていたこの場を去る。他に生存者を探し、事態の把握に努めねばならなかった。
マシュが何かを言っていたようだが、何を言っているのかまるで聞き取れない。死なせない、と口を動かして微笑みかけた。強がりだった。
結局、生存者を見つけることはできなかった。
カルデアスが、深紅に染まっている。
中央隔壁が閉鎖された。閉じ込められたか。遠く、微かに回復した聴力が、機械音声を聞き取った。
――システム、レイシフト、最終段階へと移行します。
――座標、西暦2004年、1月30日、日本。マスターは最終調整に入って下さい。
――観測スタッフに警告。
――カルデアスに変化が生じました。
――近未来100年に亘り、人類の痕跡は発見できません。
――人類の生存を保障できません。
――レイシフト要員規定に達していません。
――該当マスターを検索中。
――発見しました。
――番号2をマスターとして再登録します。
――レイシフト開始まで。
――3。
――2。
――1。
――全行程クリア。ファーストオーダー実証を開始します。
「――待て。生き残りは、俺たちだけなのか……?」
帰郷しちゃった士郎くん!
――必死の表情で、彼はこの手を掴んでいた。
腰から下が瓦礫に押し潰され、もう幾ばくの時も残されていないようなわたしを助けようと。
自分だって、今にも死んでしまいそうなのに。自分以外に生きてる人を、懸命に探していた。
わたしがまだ生きているのを見つけると、とても嬉しそうに目を輝かせて。まるで、助けられたのが自分の方であるかのような、そんな顔をして。
その様が、あまりにも綺麗だったから。もう、わたしのことなんて放っておいて、貴方だけでも生きてほしいと強く思った。
「先輩。――わたし、死にたくありません。こわい、です」
――なのに。わたしは、そんなばかなことを訴えてしまっていた。
エミヤ先輩は、血塗れの顔で、ギチギチと鋼の剣を擦り合わせたような音を出しながら、それでもはっきりわかるぐらい微笑んでくれた。
きっと、わたしの声は聞こえていないだろうに、喋る余力もないくせに、彼はわたしを安心させようと力強くうなずき、わたしを抱き上げて歩き始めていた。
嗚呼。わたしは今、安堵してしまっていた。命を救われるよりも、心を救済された。
彼と接した時間は短いけど、なによりも色づいた鮮烈なものだったと思う。エミヤ先輩とのふれあいが、わたしにはどれほどありがたいものだったのか、今にしてようやくわかった。
未練だ。まだ生きていたいと思ってしまった。だから情けなく、誰より大切なエミヤ先輩に縋ってしまって。……そんな駄目なわたしを、先輩は当たり前のように助けてくれようとした。
レイシフトが始まる。
炎に焼かれながら、煤と熱からわたしを守ってくれる人がいる。それは、なんて幸福なことなのだろう。
わたしはもう死ぬのだろう。体の半分が潰れても、生きていられる人間はそんなにいない。そんなことは先輩も理解しているだろうに。先輩は、わたしを安心させようと、声のない励ましを何度もくれた。
炎に包まれ、熱いはずなのに。
そんなものより、心の方が暖かかった。
わたしを抱き締めて。辛いものから守ってくれる。そんな、庇護者のような尊い人。
だけど、そんな人も、すぐに死んでしまうだろう。わたしよりも、よっぽどひどい状態だったのをわたしは見てしまっていた。
死なせたくない。この人を、死なせてはいけない。
心がそう叫んでいた。この人を守りたいと思った。そう思うことは、ひどく傲慢なことなのだろう。それでも、思うことは止められなかった。
先輩の手の大きさ、わたしを守るために見せる笑顔を、わたしはきっと忘れない。瞼に焼き付いた光景にどこまでも救われたから。
レイシフトした先で、先輩は無事ではいられないだろう。彼を助けたい、守りたい、思いだけが膨らんでいく。
なんてこと。わたしは、無力だ。今は、それがとても口惜しい。
――懐かしい景色だ。
焦土と化し、尚も炎上する汚染された都市、冬木。その中心の都市部にレイシフトした俺は、奇妙な感慨を抱きそうになるのを寸でで堪えた。
意識の断絶は少なくとも自覚している限りはない。状況を把握しようとして、ふと、自身の右手に懐かしい刻印の形を見る。
令呪。冬木でマスターをしていた頃と同一の形。それがあることに眉を顰める。……あまり良い思い出とは言えないもの、その象徴がこの令呪だった。
自分を偽っていたあの頃。頑なに衛宮士郎を演じ、生き抜いた約十年間の闘争期間。……俺は、衛宮士郎になってから、聖杯戦争を制覇するまでの時間、ずっと地獄のような戦争をしていたのだ。
自分を見失わないための戦い。自分を失わないための戦い。命を懸けるよりも、あるいはずっと辛かったかもしれない。他人の生き方を投影した代償は、己のアイデンティティーの崩壊だった。もう、あんな真似はしたくないと、心から思う。
――唯一。あの日々の中で心が安らいだのは……。さて、いつの頃だったか。
回想に向かい、遠退きそうになった意識を繋ぎ止める。
奇しくも冬木に再来し、同じ形の令呪を持つ。それが、自分を『衛宮士郎』にする呪いのようで、胸くそ悪くなっていた。
「……いや、待て」
気づく。右腕を見た。二の腕から千切れていた腕が完全に修復されている。ついで腰を見た。こちらも同様。見た目だけなら正常だ。
解析する。完治はしていない、しかし確実に死の危機から遠ざかっていた。なぜだと考えそうになって、はたと思い至った。
なぜ令呪が俺にある? いや、そうじゃない。令呪があるということは、つまり俺はマスターになってしまっているということ。そしてマスターにはサーヴァントが付いているものだ。
「――先輩」
背後から、声。気づかなかったのがどうかしているほど強大な魔力を内包した気配だった。自らの迂闊さを内心罵りながら振り向くと、そこには。
「……マシュ……?」
「はい。貴方のデミ・サーヴァント、シールダー。マシュ・キリエライトです、先輩」
漆黒の鎧に、身の丈以上の巨大な盾。華奢な体躯にはあまりに不釣り合いで、しかしその凛とした雰囲気と完璧に調和した武装形態だった。
それはマシュだった。見間違うことはあり得ない。彼女がサーヴァント化していることに対する驚きは、ああ、そういえばそうだったか、という納得によって消えていた。
――そうか。彼女が、グランド・オーダーを旅するサーヴァントだったのか。
マシュが心配そうにこちらを覗き込んできた。
「先輩? 大丈夫ですか? 傷が痛みますか?」
「……完治はしていないが、行動に支障はない。ひとまずは問題ないはずだ。それよりマシュはどうだ? 見たところ怪我は治っているようだが」
「はい。デミ・サーヴァント化したためか、わたしに異変は見られません。むしろ、すこぶる調子が良いです」
「それは重畳だが……もしカルデアが無事なら、ロマニにメディカル・チェックして貰わないとな」
「そうですね。先輩も、きちんとした治療を受けないといけません。そのために、」
「ああ。なんとかカルデアと連絡をとらないとな」
地獄のような赤景色。花の代わりに咲くのは炎。大気に満ちる汚染された呪いの風。
最悪の景色は、しかし見慣れている。冬木で、海外を回る中で見つけた死都で、もう見飽きてしまった。
カルデアは無事なのか。――無事だと信じる。少なくとも、ロマニだけは俺を信頼してくれていた。俺の言葉を蔑ろにはしていないはずで、あの万能の天才ダヴィンチにもテロへの警戒は促していた。カルデアを爆破した犯人が誰かは知らないが、犯人が警戒意識を持っているダヴィンチを出し抜ける可能性は低いはずだ。
少なくとも、最悪の事態にはなっていない確証はある。レイシフトした俺とマシュが無事な時点で、カルデアは壊滅していない。施設や観測スタッフがいなくなってしまえば、俺とマシュは意味消失しとっくに消え去ってしまっているだろう。
両目に強化の魔術を叩き込み、見晴らしの悪い周囲を見渡す。こんな混迷とした状況だ、まず第一に身の安全を確保しないといけない。
すると、北の方角から骸骨――竜牙兵が群れとなってこちらを目指しているのを見つけた。
数は十。斧や剣、槍などで武装した蜥蜴頭と二足歩行の獣戦士の姿もある。こちらは合わせて五体。
マシュも気づいた。デミ・サーヴァント化しているせいか、気配探知能力も高まっているらしい。こちらに警戒を促し俺の前に出ようとするより先に、俺は詠唱していた。
「投影開始」
手には黒い洋弓。狙撃の経験を積むにつれ、自身に最適なモデルを一から作成した、宝具の射出にも耐える渾身の一作。投影するのに一呼吸もかからない。夫婦剣・干将莫耶と同じぐらい使い込んだもの。
矢継ぎ早に矢をつがえ、十五本打ち放つ。
狙ってはいない。だが当たる。その確信は、十五体の敵性体が全て沈黙したことで証明された。
目を白黒させてこちらを見るマシュに、微笑みかける。
「どうだ。俺もやるものだろう」
「確かにすごいです。……でも、先輩は怪我人なんですから、無茶だけはしないでください。戦闘はわたしが請け負います」
「ああ、頼りにさせてもらう。だが俺も、守られるだけの男じゃない。――女の子の背中に隠れてなにもしない男など、死んでしまえば良い。俺はそう思う。せめて援護ぐらいはするから、背中は任せてくれて良いぞ、マシュ」
「――はい。心強いです、マスター。わたしを、守ってください。わたしは先輩を守ります」
「よろしく頼む。……行こう。ここは危ない。落ち着ける場所を探し、そこでカルデアとの通信を試みる」
「はい」
俺とマシュの間には、霊的な繋がりがある。一組のマスターとサーヴァントになった証拠だ。
俺の体が癒えつつあるのは、何かの拍子に彼女と融合したらしい英霊の持つ加護の力だろうか。
マシュがなぜデミ・サーヴァントになったのか。それについての疑問はある。
しかし今はそれを追求しても意味はなかった。とにかく、生き残ることが先決で。それは、俺の得意分野だった。
赤い彗星なのか士郎くん!
敵、三。距離、三百。照準、完了。
――射つ。
北東の方角に新たな敵影。竜牙兵が六、蜥蜴兵が二体。距離、四百。照準、完了。――射つ。
目標沈黙。次いで南西の方角に蜥蜴兵五体。距離、四百二十。照準と同時に射つ。
「……あの」
崩れ落ちた瓦礫の山、その影に敵影確認。矢をつがえ、上空に向けて角度をつけて射つ。獣頭の戦士の脳天に落下、三体の頭蓋をそれぞれ貫通。
「その、先輩」
「……!」
西の方角、距離一千に看過できぬ脅威を視認。数は一、しかし侮れぬ霊格。他の雑兵とは違う。さながら蛮族の神のような、異形のデーモン。つがえた矢に強化の魔術を叩き込み、矢を短槍の如くに膨れ上がらせる。
指に全力を込める。射ち放った矢は音速を越えた。荒ぶる蛮神、デミゴッドとでも言うべきデーモンはこちらに気づいていなかったようだ。奇襲となった一撃は、過たず眉間を貫き頭部を吹き飛ばした。
――残心。一呼吸の間を空け、周囲に敵影が見られなくなったのを確認して、ようやく俺は弓を下ろした。
「……」
と。
頬を膨れさせ、ジト目で俺を睨むマシュを見つけ少しギョッとしてしまう。
「……どうかしたのか?」
思わずそう訊ねると、マシュは不満そうに唇を尖らせた。
「……先輩は、スゴいです」
「あ、ああ。ありがとう……。誉めてくれるのは嬉しいが、なぜ睨む?」
「……スゴすぎて、わたしのすることがありません。わたし、先輩のデミ・サーヴァントなのに」
「あー……」
マシュが何を不満に思っているのか理解した俺は、微妙に困ってしまった。
俺が最も得意とする単独戦術は狙撃だ。そして殲滅戦も同じ程度に得意である。なにせ、吸血鬼によって死都と化した場所では、全てを殲滅しなければ被害は拡大の一途を辿る。逃がすわけにはいかないし、見逃すわけにはいかない状況も経験していた。
必然、索敵能力と殲滅力は高められ、下手に白兵戦をするよりも狙撃の方が確実ということもあり、射撃の腕は向上する一方だったのだ。
衛宮士郎と言えば格上殺しといった印象が付きまとうかもしれない。が、俺もそうだがその真骨頂は格下殺し、赤い彗星なのである。だからこそ英霊エミヤは守護者、アラヤの掃除屋として重宝されてしまっているのだろう。
「マシュ。雑魚は俺に任せて良い。弓兵が無闇に敵の接近を許しては、職務怠慢の謗りは避けられないだろう?」
「むー……」
「それにな……俺としては、できる限りマシュには危険な目に遭ってほしくない。俺がマシュを守る。だからマシュは、俺が危ない時に助けてくれたら良い」
「……先輩が危なくなる局面で、わたしが役立てるとは思えなくなってきたのですが」
「そんなことはない。強がっているが俺も人間だ。長時間に亘って戦闘能力を維持するのは困難だし、相手がサーヴァントのような高位の存在だと手に余る。そういう時は、マシュに前に出てもらうことになるだろう。謂わば、俺はマシュの露払いをしているにすぎないんだ」
「……わかりました。でしたら、わたしは先輩の盾に徹します。こんなに大きな盾があるんですし、きっと護りきれるはずです」
「頼りにしてるよ」
言いながら、宥めるようにマシュの髪を撫でた。照れたように頬を染め、俯く様は可憐である。かわいい妹、或いは娘に対するような心境だった。
こうしてマシュを愛でておくのも悪くなかったが、生憎とそんな場合ではない。悠長に構えていられるほど、俺に余裕があるわけではなかった。ただ、マシュがいるから、安心させたくて普段通りの態度を心がけているだけで。
「……」
演技は、得意だ。望むと望まざるとは別に、得意にならざるをえなかった。
俺は道化だ。かつて対峙した英雄王は、俺を贋作者とは呼ばず道化と呼んで蔑んだ。……流石にあの英雄王まで欺くことはできなかったが、それ以外は俺の偽りの在り方を見抜けていなかったと思う。
だから大丈夫。マシュを安心させるために、俺は泰然として構えていられる。
――いかんな。特異点とはいえ冬木にいるせいか、どうにも思考が過去に引き摺られそうになってしまう。
頭を振る。振り切るように「行こう」とマシュに声をかけ、周囲の安全を確保できる地点を探す。
警戒は怠らず、しかしマシュのメンタルを気にかけることもやめず、歩くこと暫し。彼女と話していると現在のマシュの状態を知る運びとなった。
カルデアは今回、特異点Fの調査のため事前にサーヴァントを召喚していたこと。先程の爆破でマスター陣が死亡し、サーヴァントもまた消える運命にあったこと。しかしその直前に名も知らないサーヴァントがマシュに契約を持ちかけてきたという。
英霊としての力と宝具を譲る代わりに、この特異点の原因を排除してほしい、と。真名も何も告げずに消えていったため、マシュは自分がどんな能力を持っているのか分からないらしい。
……実のところ俺は、彼女に力を託して消えていったという英霊の正体に勘づいてしまっていた。
なんのことはない。彼女は自分と契約している。故にその繋がりを介してしまえば、彼女の宝具を解析するのは容易だった。
投影することの意義の薄い特殊な宝具――清廉にして高潔、完璧な騎士と称された彼の英霊が敢えて何も語らずに消えたということは、何か深い考えがあってのことなのかもしれない。
安易に真名を教えるのはマシュのためにならない、と俺も考えるべきか。
煩悶とした思いに悩んでいると、不意にこの場にいないはずの男の声がした。
『――ああっ!? よかった、やっと繋がった!!』
それはあの爆発の中俺が安否を気にしていた男。ロマニ・アーキマンその人だった。
「ロマニ! 無事だったか!」
思わず声を張り上げ、どこからか聞こえてくる声に反応する。それが聞こえたのだろう、ロマニもかじりつくような勢いで反駁してきた。
『士郎くんか!? こちらカルデア管制室だ、聞こえるかい?!』
「聞こえている! Aチームメンバーの衛宮士郎、特異点Fへのシフトを完了した。同伴者は同じくAチームメンバー、マシュ・キリエライト。心身ともに問題はない。そちらの状況を報せてくれ!」
ロマニの焦りにあてられたのか、柄にもなく俺の声にも焦燥が滲んでいた。
落ち着け、という声が聞こえる。それは常に自分を客観視する、冷徹な自分の声だった。
いつからか、焦りが強くなると、唐突に冷や水を被せられたかの如く、冷静になっている己を見つけてしまう。それは、良いことだ。自分は大人である。子供の前で醜態を晒さないで済むなら、それに越したことはない。
『マシュも無事なのか! よかった……けど、その格好はいったい……!?』
「ロマニ、無駄口を叩く暇があるのか? 口頭で説明するのも手間だ、マシュの状態をチェックしろ。平行して情報の共有だ。そちらは今どうなっている?」
『あ、ああ……。……これは、身体能力、魔術回路、全て跳ね上がっている……まさか、カルデア六つ目の実験が成功していたのか……? いや、すまない。こちらの状況だったね』
ぶつぶつと何事かを呟いていたロマニだったが、思い直したように口振りを改め、深刻な語調で言った。
『さっきの爆破で、カルデアの施設の多くが破壊された。管制室も、実のところ半壊している。今急ピッチでダヴィンチちゃんとスタッフで修理している途中だ。
悪いけど通信も安定していない。あと二分で通信は一旦途絶するだろう。スタッフも七割が重傷を負うか死亡して身動きがとれない。マスター候補は……君たちを除いて無事な者はいない』
「そうか……俺以外のAチームのマスターもか?」
『………』
「……了解した。では質問を変える。そちらからの支援は期待して良いのか?」
残酷なことを言っているという自覚はあった。しかし、そうせねばならないのもまた事実であり、現実だった。死者を悼むことは、後でもできるのだから。
それにロマニは今、忙しさに忙殺していた方がいい。死者に心を引きずられるよりその方が建設的だった。
『……ちょっと待ってくれ。今から物資を一つだけ送る。管制室もほとんどダメになってるけど、本当に重要な機材は無傷で残ってるんだ』
ロマニはそう言って、少しの間を空けた。
『士郎くん。きみの言う通りだった。カルデアは、内部からの攻撃に弱い。忠告通りに警備を厳重にしておけたら、今回のことも防げていたかもしれない』
「……」
俺は以前にロマニからの信頼を得ていた。だから彼を通してダヴィンチとも接触し、カルデアの防備を固めようとしていたのだが……悉くに許可は出なかった。
所長オルガマリーが――正確にはレフ・ライノールが不要だと言い張ったのだ。
責任者であるオルガマリーが全幅の信頼を置くレフの言葉である。オルガマリーは新参である俺よりも、古参であるレフの意見に重きを置いた。そしてオルガマリーの許しもなくダヴィンチもロマニも動くわけにはいかなかった。
悪いのはロマニではない。だから謝る必要はない。
念のため、俺は独断で動き、カルデアの主要な設備に強化の魔術を目一杯かけていた。魔術が切れる頃にはまたかけ直し、定期的に強化を重ねてもいた。
それが功を奏した形になったが、人命まではどうにもならなかったようだ。
瞑目し、すぐに目を開く。
「送ってくる物資と言うのはなんだ?」
『聖晶石だ。簡単に言うと魔力の塊で、サーヴァント召喚のための触媒だよ』
「なに?」
『本当は霊脈のターミナルの上でやった方がいいんだけどね、今回は特別だ。カルデアの電力の一割を回す。どうせしばらくは使う機会もない、無理矢理にでもサーヴァントを召喚してくれ。きみたちに死なれたら、全て終わりだ』
「待て、サーヴァントを呼べるのか?! 仮に召喚できても俺の魔力がもたないぞ!
『サーヴァントの召喚、維持はカルデアの英霊召喚システムが代行してくれる。心配は要らない。通信限界時間まで間がないんだ、あと三十秒! マシュの盾を基点にして召喚態勢に入ってくれ!』
「えぇい……! 簡単に言ってくれる!」
吐き捨て、マシュの傍に転送されてきた一つの石――金平糖のような物――を掴み上げる。素早く盾を地面に置いていたマシュを労い、聖晶石とやらを盾の傍に設置する
カルデアのシステムが作動し始めたのだろう、まばゆい光が巻き起こり、莫大な魔力が集束していく。
来る、と信じがたい思いと共に驚きを飲み込む。この感覚は識っていた。サーヴァントが召喚されてくる――
やがて、光が収まり、俺に新たな繋がりができたことを悟る。
光の中、立ち上がったのは深紅のフードを被った、細身の男。ロマニとの通信が途絶えたのと同時に、サーヴァントは涸れた声を発した。
「アサシンのサーヴァント、召喚に応じ参上した。……やれやれ、ろくな状況じゃなさそうだ」
凍りついたのは、俺だった。この、声は――
「説明を、マスター。無駄口はいらない。合理的に、端的に頼む。僕は今、どうすればいい」
それは、いつか見た、男との再会だった。
気まずそうです士郎くん
気まずいです士郎くん!
(僕はね。子供の頃、正義の味方に――)
穏やかな顔で、かつての夢を語る男の姿が脳裏に浮かびかけた刹那。
心の防衛機構が作動したのだろう、あらゆる感情が瞬時に凍結された。
「――」
なんて、悪夢。
よりにもよって、この身の罪科、その原点を思い返すような声を、再び耳にすることになるなんて。
いや、と頭を左右に振る。ただ、声が似ているだけだ。あの男がサーヴァントになるなんて、決してあり得ない。そう、あり得ないのだ。あの男に声が似ているだけの英霊も、きっといるに違いない。
そう思い、気を取り直して、俺は深紅のフードを目深に被った暗殺者を正面から正視した。
「っ……」
(ああ……安心した)
――チ……。何なんだ……。
一番最初の、罪の形。偽り、謀り、欺いた。
偽物の思いに、馬鹿みたいに安堵して。ひっそりと眠るように死んでいった、独りの男。
目の前のアサシンは、どうしようもなくあの男に似ていた。顔なんて見えないのに、声しか聞こえないのに、その、纏っている空気が。あまりにも、知っているものに酷似していた。
「……どうすればいい、か」
アサシンの言葉を鸚鵡返しにして間を保たして、なんとか頭を回す。
この胸に甦った混沌とした熱情を雑念と断じ、なにげなく彼の装備を観察した。
……腰に大型のコンバット・ナイフ、背部に背負っているのはキャリコM950か。
銃火器を装備したサーヴァント、それも英霊になるほどの暗殺者? 装備からして現代に近い者に違いはないが、神秘の薄れた現代に、名うての暗殺者などが仮にいたとしても、現代は既に英霊の座に登録されるほどの功績を立てるのが極めて困難な時代だ。
世界が容易く滅びの危機に陥り、些細なことで危機が回避される……世界を救う程度ではもはや偉業とも認識されない。そんな時代で、どうやって英霊の座に招かれるというのだ。
それに……これは勘だが、このアサシンは正純な英雄などではない。むしろ、淡々と任務をこなすどこぞの特殊部隊員の方にこそよく似ていた。
「……見たところ、正規の英霊ではないな。お前はどこの英霊だ」
言うと、アサシンは興味なさげに無感情に応じる。
「それを気にしてどうする。僕は確かに大層な英雄サマなんかじゃないが、そんなものは重要じゃない。務めを果たせるか、果たせず死ぬか、どちらかだ」
「その通りだが、履き違えるな。俺はマスターだ。駒の性能を把握もせず作戦を立てるほど愚かじゃない。カタログに載っていない性能を知るために、素性を気にするのは当然のことだ」
「なるほど、確かにそうだ。どうやら話の通じるマスターのようだ。安心したよ」
一連の短いやり取りで、こちらの気質を推し測っていたのか、アサシンはまるで気を緩めた様子もなく、『安心』という言葉を使った。
それはあくまでビジネスライクなスタンスであり、マシュはやり辛そうだったが、実のところ俺にとってはやり易い相手だった。
印象は、兵士。最小の戦闘単位。目的のためなら何もかもを投げ出せる自己のない機械。
その印象は間違っていない、という確信があった。なにせ俺は、そんな手合いを何人も知っている。えてしてそうした者こそが、俺にとっては難敵であり、同時に心強い味方でもあったのだから。
こういった、情を絡めずに確実に任務を遂行できるだろう手合いは、大きな作戦を実行するにあたり必ず一人は必要な人材である。
事が急であり、確実性を求められる場面であれば、このアサシンほど信頼して用いられる兵士はいない。俺はアサシンの性質を好ましいと感じていた。無論仕事の上では、だが。
アサシンは言った。どこか自嘲の滲んだ声音で。
「残念ながら、あんたの目は確かだ。僕は正規の英霊じゃない。守護者といえば伝わるか?」
「……抑止力か」
「その通り。そして僕はその中でも更に格の落ちる、とある守護者の代行でしかない。本来の僕はしがない暗殺者、守護者にすらなれない半端者さ。こうして召喚されたのが何かの間違いだと言えるほどのね」
「……守護者の代行だと?」
「ああ。僕の真名は――」
言いながら、アサシンはフードを外した。
壊死しているかのような褐色の肌、色素の抜け落ちた白髪。露になったその風貌に、
俺は、絶句する。
「《《エミヤ》》だ。――まあ、僕の真名には一発の弾丸ほどの価値もない。忘れていい」
褐色の肌、白髪。エミヤと名乗ったアサシンのサーヴァントを前に、マシュ・キリエライトは目を丸くしていた。
それは奇しくも、マシュがマスターに仰ぐ男性の姓でもあったのだ。
何か特別な繋がりでもあるのだろうか。マシュがそう思ったのも束の間、不意に、マシュの傍に立っていた士郎がよろめいた。
「っ? 先輩……!?」
慌てて体を支える。士郎の顔は、これ以上なく青ざめていた。
「エミヤ……? エミヤ、キリツグ……?」
うわ言のように呟いた士郎に、アサシンはその氷のように冷たい表情を微かに変化させた。マシュには読み取れないほど、本当に小さな変化。
「……驚いたな。僕を知ってるのか?」
それは、肯定の意味を持つ問いかけだった。
士郎は声もなく立ち尽くす。まるで、もう二度と会うはずのない男の亡霊に遭遇したかのような、魂の抜けた顔だった。
「……知っている。……知っているとも。俺は、俺は……」
震えた声が、親からはぐれた子供を想起させる。
「俺は……衛宮、士郎。あんたの、養子なんだから」
その告白は、血を吐くような悲痛さを伴って。
は、とマシュはアサシンと士郎を見比べる。まるで似ていない。義理の親子なのだろうか。
アサシンは、ぴくりと片眉を跳ね上げる。
「なんだって? 僕の、息子? ……本気か?」
アサシンの言葉は、士郎の耳に届いていなかった。恐ろしい想像が彼の中を駆け巡っていたのだ。
「俺は……いや、なぜ切嗣が守護者の代行なんて……代行? 誰の……俺、か……?」
――錬鉄の英雄、エミヤシロウ。それは、この世界線では決して生まれない存在。
世界は矛盾を嫌う。世界にとって、英霊エミヤの誕生は決定事項。そのエミヤが生まれないとなれば、その穴を補填する者が必要だ。
では、何者であればエミヤの代行足り得るのか。現代で、彼の戦術ドクトリンに近いものを持つ人間を列挙し、その中でエミヤに縁の深い者を特定すれば……それは、同じエミヤ以外にはあり得ない。
血の気が引いた。
士郎は、頭が真っ白になった。先輩! 先輩! そう何度も呼び掛け、肩を揺する少女の声も届かない。
その想像は、近いようで遠い。似たような因果で切嗣は守護者代行として存在しているが、そこにこの世界の士郎が関与する余地は微塵もなかった。
だが、士郎の中の真実は違う。自分が守護者にならなかったせいで――世界と契約しなかったせいで、死後の切嗣の魂が呪わしい輪廻に囚われてしまったのだと誤解した。
火の海の中、かつて救われた者と、救った者と同じ起源を持つ者が対峙する。
動揺のあまり気が抜けてしまった士郎――しかし、アサシンは残酷にも、真実を淡々と告げた。
「何を勘違いしているか知らないが、僕はあんたを知らない。あんたの言う衛宮切嗣と僕は別物だ。だからあんたが勝手に罪悪感を抱くこともない。指示を出せ、マスター。サーヴァントはマスターに従うモノだ」
その言葉は、端的に真実だけを表している。しかし士郎からすれば、それは自分を気遣った言葉に聞こえてくるものだった。
士郎は、優しかった切嗣を知っている。優しすぎて破滅した男を知っている。士郎にとっての切嗣の真実は魔術師殺しではない。うだつの上がらない、あの、気の抜けたような男だったのだ。
知識なんて関係ない。そんなもの、既にないに等しい。
腑抜けた士郎に、アサシンはなおも辛辣だった。
「はぁ……あんたの事情なんて知ったことじゃないし、聞きたくもない。ともかくサーヴァントとしての務めだけは果たす。……僕はそれでいいんだ。だからマスター、あんたはあんたの務めを果たせ」
「……っ!」
それは彼なりの、別の可能性の自分が持ったかもしれない、名前も知らない息子へと向けた不器用な優しさだった。
言葉も、声も、表情さえ、徹底して冷徹なままだったが、それでもそこには優しさの名残があった。士郎にはそれがわかった。感じられた。……たとえそれが錯覚だったとしても、士郎にとっては救いだった。
「そう、だな……その通りだ。……今はうだうだと時を浪費してはいられない。迅速に、直ちに事態を終息させないといけない」
自分に言い聞かせるように呟き、士郎はマシュに詫びた。情けない姿を見せてしまったのだ、大人として不甲斐ない限りだった。
マシュは、柔らかく微笑むだけで、それを受け入れる。何があったのかなんて知らないけれど、自分だけはきっと寄り添っているから。なぜなら、自分は先輩のデミ・サーヴァントなのだ。
少女の健気さに、胸を打たれる。士郎は腑抜けた己を戒め、鉄の意思を固めた。事態が一刻を争うのは間違いない、とにもかくにも行動あるのみ。
「……アサシン。アンタはこの冬木のことをどこまで覚えている?」
「覚えてるも何も、来たこともない。だから土地勘なんて期待されても応えられない
「……そうか。だが俺はこの地のことをよく知っている。そしてこの惨状の原因――聖杯戦争にも心当たりがある。この時期この街で行われた聖杯戦争の当事者だったからな
「そうか。それは朗報だ。しかし疑問がある。その戦争とやらは、特異点を生み出すほどのものだったのか?」
「ああ。この冬木の聖杯戦争の景品、聖杯は超抜級の魔力炉心だ。充分可能だろう。街一つ滅ぼすなんて指先一つでちょちょいのちょいだ」
「なるほど。なら、世界だって滅ぼせるだろうな。いや、既に滅んでいるのか」
言いながら、アサシンと士郎は多様なハンドサインを出し合い、意思疏通に問題がないことを確認しあっていた。
端から見ていたマシュには、二人がなんの取り決めをしているのか見当もつかない。なんだか置いてけぼりにされてるようで、なんとなく面白くなかった。
「纏めよう」
恐らくはマシュのために、士郎は言葉に出して話し始めた。既にアサシンとは方針を固めたのだろう。今度、今のハンドサインを教えてもらおうと決意しながら、マシュは真剣に士郎の話しに聞き入った。
「冬木が特異点になりうる原因は聖杯以外にあり得ない。故にこれを回収することを第一目標とする。そうすると、聖杯をかけて争っている――争っていただろう七騎のサーヴァントは全て敵になるな。そしてこれが重要だ。この特異点が修復不能なものになっていないということは、まだ聖杯は完成していないということになる。そして聖杯を完成させないために、冬木のサーヴァントはなるべく倒してはならない。戦闘は極力避け冬木の聖杯の大元、円蔵山の内部にある洞窟を目指して急行する。聖杯を守る某かの障害が予想されるがこれは躊躇わなくていい、すぐ排除する。――ここまでで質問は?」
「ありません。強いて言えば、もし仮に戦闘を強いられるような状況になった場合、わたしはどう動くべきでしょうか」
「基本的には俺の盾だ。俺の傍を離れず、徹底して防御を固めるだけでいい。攻撃は全て俺が担当する」
「アサシンさんはどうするんですか?」
言いながら、マシュが視線を向けると、そこにアサシンはいなかった。
微塵も気配を感じなかった。そのことに驚くマシュに、士郎は不敵に笑いながら言った。
「アサシンの気配遮断のランクはA+だ。敏捷のステータスも同様で、単独行動スキルもAランクで保有してある。つまりアサシンは遊撃が最適のポジションということだ。隠密に徹したアサシンを発見するのは、同じサーヴァントでも不可能だろう」
マシュは悟った。この二人は、かなりえげつない戦術を執る気なのだ、と。
微妙そうな顔になるマシュだったが、気にしないことにした。そういう狡さこそが、えてして勝因になるのだと聡い故に理解できていたのだ。
「……カルデアとの連絡はどうしましょう」
「必要ない。今のカルデアの状況から察するに、出来る支援は地形を調べたりすることぐらいだろう。だがそれは、俺がここにいるからには必要ない。それ以外に支援できないだろうから、カルデアからの支援はこの特異点では無用だ。俺とマシュの意味消失を避けるために、観測自体は常にされているだろうから、聖杯を回収する頃には向こうから連絡できるだろう。重要な施設は無傷だとロマニは言っていただろう? 心配することはない」
「了解しました。マシュ・キリエライト、円蔵山まで急行します」
方針を理解し、マシュは力強く声を張った。士郎は頷きを返し、両足を強化して疾走をはじめる。
目的地まで一直線に駆けていく。マシュは士郎の健脚に驚く。サーヴァントの最大速度には当然及ばないまでも、生身の人間としては破格の足の速さだったのだ。恐らく自動車並みの足である。
でも、やっぱり。
走りながら弓を射ち、時々アサシンが強力な敵性個体を発見するなりバック・スタブを叩き込んで仕留めているのを見ると、なんとも言えない気分になった。
雑魚は士郎が片付け、強力な個体は士郎が気を引きつつ背後からアサシンが仕留める。それだけで、無人の野を行くが如しだ。なんというか、士郎とアサシンの息が合いすぎてて、嫉妬してしまいそうになる。
「……もし無事に帰れたら、わたし先輩と訓練しないと。このままじゃ、ダメです」
ぽつりと呟いたマシュは、自分が守られる立場に立っているのを強烈に自覚し、強くなることに意欲を抱きつつあった。
突撃、隣の士郎くん!
重苦しい沈黙。呪いの火に焼かれる街並みに、かつての名残は微塵もない。
悉くが燃え散り、砕け散った残骸都市。吸血鬼により死に絶えた、末期の死都よりもなお毒々しかった。
幸いなのは、既に住民が全滅していること。
そう、全滅だ。比喩でなく、文字通りの意味で人間は死滅している。
それを幸いだと思ったのは、一々救助する手間が省けたこと。そして、『見捨てる』という当然の決断をしなくて済んだこと。これに尽きた。
さすがに、アサシンは見捨てる判断に否を唱えないだろう。むしろどんな犠牲を払ってでも特異点の修復を優先すべきだと言うに違いない。俺もそれに全面的に同意したいところだが、生憎とここにはマシュがいる。そんな重い判断に従わせたくなかった。
無駄な感傷だとアサシンは断じるだろう。くだらない私情は捨てろと言うだろう。だが俺は、マシュには俺の影響を受けて、誰かを見捨てるという判断が出来る人間になってほしくなかった。くだらない私情と言われればその通りだが、マシュの前でだけは時に合理的に判断出来ない時がある。
――にしても、静かすぎるな。
俺は辺りを見渡し、胸中にて独語する。視線を1時の方角、ちょうど俺にだけ姿を認められる周囲の死角に実体化したアサシンが、ハンドサインで敵影なし、と報告してきた。
妙だな、と思う。この円蔵山付近に来るまでに、何度か雑魚と交戦することがあったが、大聖杯に着実に近づいているにも関わらず、敵がいなくなるようなことがあるだろうか。
ハンドサインで隠密と遊撃、および斥候を継続するように指示する。アサシンは短く了解の意思を示し、実体化を解いて周囲の環境に融かし込むように気配を遮断した。
「マシュ、何かおかしい。ここからは――」
慎重に行こう、と言いかけた瞬間。俺は、反射的に干将・莫耶を投影し、こちらを貫かんと飛来してきた矢玉を叩き落としていた。
「……!」
「先輩!」
同時にマシュにも襲いかかっていた矢を、マシュは自身で処理し防いでいた。
すぐさま俺の前にマシュが出る。眼球に強化を施して、矢の飛んできた方角を睨む。すると、遠くに黒く染まった人影があるのを発見した。
遠目にしただけではっきりとわかる高密度の魔力、間違いない、あれは、
「サーヴァント……! マシュ、向かって11時、距離1200! 視認しろ!」
「……見えました、恐らくアーチャーのサーヴァントです! 次弾装填しこちらを狙っています! あれは剣……剣を矢に見立てて……!?」
ちぃ、と俺は露骨に舌打ちした。
冬木の聖杯の泥に汚染されているのだろう、黒く染まっているためか輪郭がはっきりとしないが、剣を矢にするサーヴァントなんぞ俺には覚えが一人しかいない。思わず吐き捨てた。
「アイツ……下手打ちやがったな……!」
――いや、むざむざ聖杯の泥に呑まれるようなタマじゃない。あれは抜け目のない男だった、恐らく泥にのまれたのは何者かに倒された後だろう。
しかしあの姿を見て、推測が確信に変わったことがいくつかある。
一つ、やはり聖杯は汚染された、俺の知るもの。
二つ、いずれかのサーヴァントが聖杯を握り、他のサーヴァントを撃破して泥に取り込み、自身の手駒として利用していること。
三つ、恐らくほぼ全てのサーヴァントは脱落済み。ここまで来て迎撃に出てきたのがアーチャーだけということは、他のサーヴァントは生き延びたサーヴァントを追っているものと思われる。
すなわち、詰みに入っているがゆえの防備の薄さ、ということだ。
であれば――、
「……!」
思いを込めて、アサシンを見る。一瞬だけ、目が合った。
戦術における思考は、俺とアサシンは似ていた。俺の戦闘能力も、パターンもここに来るまでで把握してあるはず。
あとは、俺がこの局面で何を考えるか、察してもらえることを期待するしかない。
アーチャーがあの赤い外套の男なら、口の動き、目の動きだけでこちらの動きを察知しかねなかった。気配を溶かしていたアサシンは――黙って頷き、円蔵山の洞窟に先行していく。
見送るようなことはせず、俺は黒弓を投影した。宝具ではないが、名剣をつがえるなりすぐに射つ。
「……っ、」
放ったのは十三。対し、遠方の高台に陣取ったアイツは二十七もの剣弾を放っていた。
俺の剣弾は全て撃墜され、残った十四の剣弾が飛来してきたのを干将・莫耶でなんとかはたき落とす。
……思い上がっていた。弓の腕は互角のつもりでいたが、そんなことはない。奴の方が俺よりも上手だ!
今のでよくわかった、霊基という壁がある限り俺が奴に比肩するのは極めて困難だ。単純に技量が違うし経験量も段違い、それをすぐに認める。この分では接近戦は避けた方がいい。そう判断する。
「って、おい! 殺意が高過ぎやしないか……!?」
俺は、奴が次に弓につがえた剣を見て、思わず叫んでいた。
捩れた刀身、空間を捩り切る対軍宝具。躊躇なし、手加減なしの全力全開。極限まで魔力を充填しているのか、魔力が赤く、禍々しく迸っている。
俺は焦って、叫んだ。俺を見て、驚愕に目を見開いていた男は、相手が異邦の存在だと見抜き、そしてそれが衛宮士郎だと察して嗤ったのだ。
手は抜かない、確実に殺す。そう、奴の目が語っていた。
偽・螺旋剣。
俺はそれを視認し、威力を推定して――悟る。防げない。俺には盾の宝具の持ち合わせなどなかった。
故に俺はマシュに指示した。四の五の言ってる場合ではない、盾の英霊には悪いが、力業で力を引き出させてもらう。
「マシュ。令呪で補助する、宝具を解放しろ」
「そんな……!? わたし、力を貸してくれてる英霊の真名を知りません! 使い方もわからないのにどうするんですか先輩!?」
「その身はサーヴァントだ、令呪を使えば体が勝手に真名解放するべく動作する。本人の意思にかかわりなくだ。そうすれば、真名を唱えられなくても擬似的に宝具を発動できる。故に大事なのは心の持ち様、マシュが持つ意思の力が鍵になる!」
「わたしの、意思……?」
「イメージしろ。常に想像するのは最強の自分だ。外敵などいらない、お前にとって問いかけるべきは自分自身の内面に他ならない」
「わたしの内面……」
呟き、マシュは素直に受け入れ、目を伏せて自分に何かを問いかけた。
数瞬の間。顔をあげたマシュの目に、強い意思の光が点る。
「……わたしは……守る者です。わたしが……先輩を、守ります!」
発露したのは黄金の意思。守護の決意。体が動作するのなら、後は心の問題――だったら、本能に身を任せよう。
その輝きに、俺は目を見開いた。
あまりにまっすぐで、穢れのない尊い光。
薄汚れた俺には持ち得ない、本物の煌めきだった。
――賭けよう。マシュに、全てを。
この意思を汚してはならない、自然とそう思った。そして、マシュに令呪の強制力は無粋だと感じた。
自分のサーヴァントを信じられずして何がマスターか。俺は決めた。令呪を使わないことを。
ただ、言葉にするだけだ。不出来な大人が、少女の立ち上がる姿を応援するだけ。後押しだけが出来ることだと弁える。
「……デミ・サーヴァント、マシュ・キリエライトに命じる。宝具を発動し、敵の攻撃を防げ!」
「了解――真名、偽装登録――」
岩から削り出したような漆黒の大盾、それを地面に突き立てて、マシュは力を込めて唱えた。同時に俺も宝具の投影を終え、弓につがえる。
「いけます! 宝具、展開!」
――飛来せしは螺旋の剣。虹の剣光を纏う穿ちの一閃。
赤い弓兵、渾身の一射だった。ランクにしてA、上級宝具の一撃。ギリシャ神話最強の大英雄をも屠りえる脅威の具現。それを、奴は自身のセオリーに従い、こちらを有効範囲に捉えるのと同時に自壊させた。
壊れた幻想――投影宝具の内包する神秘、魔力を暴発させ、爆弾とするもの。唯一無二の宝具をそのように躊躇いなく扱えるのは衛宮士郎のような異能者だけだろう。
それを迎え撃つのは無名の盾。煌めく燐光が固まり守護障壁となって一組の主従を包み込む。
螺旋の剣の直撃に、マシュが呻いた。苦しげに声を漏らし、耐え凌いでいる最中に螺旋剣が爆発する。瞬間的に跳ね上がった威力に意表を突かれ、マシュは衝撃に耐えられずに倒れそうになり――その背中を、無骨な手がそっと支えた。
「――」
踏み留まる。なけなしの力を振り絞り、マシュは声もなく吠えた。
爆発が途切れる。螺旋剣の残骸が地に落ちる。
マシュは、耐えきった。肩を叩いて労い、その場にマシュがへたり込むのを尻目に、俺は投影して魔力の充填を終えていた螺旋剣を黒弓につがえる。
それはアイツのものを視認したのと同時に固有結界へ貯蔵された剣。莫大な魔力消費に全身が、魔術回路が悲鳴をあげていた。
だが、無視する。俺は今、マシュが成し遂げた小さな偉業に感動していた。マシュが獲得したこの隙を、無駄にするわけにはいかない。
「体は剣で出来ている」
そう。この魂は剣ではない。だが体は、間違いなく剣なのだから。
「我が骨子は捩れ狂う――偽・螺旋剣!!」
放たれたのは、鏡合わせのような螺旋の虹。自身の全力が防がれた驚愕に固まっていた弓兵は、しかしすぐさま最適の手段をとる。
虹を遮るのは薄紅の七枚盾。ロー・アイアス。投擲物に無敵の力を発揮する、盾の宝具。
こちらは、完璧に螺旋剣を防ぎきっている。俺の投影に不備はない、単純な相性の差だった。マシュの盾は仮のもの、円卓ゆかりの者の宝具なら相性がよく防げたかも知れなかったが、カラドボルグを防ぐには全霊を振り絞らねばならなかっただろう。
「単独で射撃と防御、どちらも俺達を上回るか……」
流石、と言えば自画自賛になるだろうか。マシュの腕をとり、立たせてやって、アイアスと鬩ぎ合っていた投影宝具の魔力を暴発・爆発させる。
閃光に包まれた敵影。その瞬間、俺は走り出していた。
「先輩……今、宝具を投影してませんでしたか……!?」
「その話は後でする。今は走れ! 距離を詰める、遠距離だと分が悪い!」
マシュが我が目を疑うように目を丸くして、驚いていたが、相手にしない。する暇がない。
爆発が収まり、光が消えると、弓兵は獲物の思惑を悟って舌打ちする。獲物が二人、円蔵山に入っていこうとしていたのだ。
今から矢を射っても牽制にしかならない。足は止まらないだろう。かといって宝具を投影しても、射撃体勢に入る頃には洞窟の中に侵入されてしまう。
是非もなし。弓兵は舌打ち一つ残して、先回りするために高台を下っていった。
卑の意志なのか士郎くん!
卑の意思なのか士郎くん!
黒化した弓兵の射程圏内を脱し、俺とマシュは円蔵山の洞窟に突入した。
薄暗く、大火に呑まれた街にはない冷気が漂っている。だが、目には見えなくとも、濃密な魔力が奥の方から流れ込んできているのがはっきりとわかった。
聖杯が顕現しているのだ、とかつて冬木の聖杯を目の当たりにしていた俺は確信する。
ちらとマシュを見る。……戦うことが怖いと思う少女を、戦いに引き込まざるを得ない己の未熟を呪う。
先程のアーチャーは、間違いなく英霊エミヤだ。俺が奴ほどの戦闘技能を持っていなかったために、こうしてマシュを戦いに駆り立てざるを得ない。
霊基という壁がある、人間がサーヴァントに太刀打ちできる道理はない――そんなことはわかっている。だが理屈ではないのだ。戦いに生きた英霊エミヤと、戦いだけに生きるつもりのない俺。差が出るのは当然で、守護者として様々な武具を貯蔵し、戦闘記録を蓄積し続けている奴に勝てる訳がないのは当たり前だ。なのに、俺は自分の力を過信して、ある程度は戦えるはずだと慢心していた。
そんなはずはないのに。サーヴァントという存在を知っていたのに。なんたる愚かさか。先程も、マシュが宝具を擬似的に展開していなければ、俺は死んでいただろう。
俺の戦いの能力は人間の域を出ない。固有結界とその副産物である投影がなければ、到底人外に立ち向かうことはできなかった。固有結界という特大の異能がなければ、俺は切嗣のような魔術師殺しとなり暗殺、狙撃を重視した戦法を取っていただろう。そして、それはサーヴァントには通じないものだ。
俺は、確かに戦える。しかし必ずしも戦いの主軸に立つ必要はないのだと肝に銘じなければならない。今の俺に求められているのはマスターとしての能力だ。強力な1マスターではない、必勝不敗のマスターになることを求められているのである。
勝利だ。俺が掴まねばならない物はそれしかない。
この身にはただの一度も敗走はない。しかし、これからは不敗ではなく、常勝の存在として君臨するしかなかった。それはあの英霊エミヤにも出来なかったこと。それを、俺は人間のまま、奴より弱いままに成し遂げねばならないのだ。
故に――
「マシュ。これから敵と交戦するにあたって、俺の出す指示に即応できるか?」
俺は、マシュに問いかけた。
マシュを戦わせたくない、だが勝つためにマシュが必要だ。
……吐き気がする。なんて矛盾だ。その矛盾を、俺は呑み込まねばならなかった。
「戦いは怖いだろう? 怯えはなくならないだろう? 辛く、痛い。そんな物に触れたくない。そう思っているはずだ。……それでも俺はお前に戦えと命じる。俺を呪ってもいい、俺の指示に迷いなく従えるか?」
「はい」
即答、だった。
恐怖はある。不安げに揺れる瞳を見ればわかる。だが、それ以上に強く輝く意思の萌芽があった。
「わたしは先輩のデミ・サーヴァントですから。それに、先輩を守りたい――その思いは本当だって、わたしは胸を張れます。だから、迷いなんてありません。先輩のために、わたしは戦います」
そうか、と頷く。その健気さに報いる術を今、俺は持っていない。
あらゆる感傷を、切り捨てる。この思いを、利用する。蔑まれるかもしれない、嫌われるかもしれない、それでも俺は、勝たねばならない。俺のために。俺の生きた証を守るために。
マシュが生きた世界を守る。俺のために。
その結果、マシュに嫌悪されることになろうとも。俺に迷いはない。俺の戦い方を、ここでマシュに知ってもらう。
「ならいい。――勝つぞ。勝ってカルデアに帰ろう」
「はいっ!」
気合いの入った返事に、俺は更に決意を固める。
狭い通路を抜け、拓けた空間に出た。
大聖杯は近い。肌に感じる魔力の波動がいっそう強くなっている。そして、
「――そこまでだ、衛宮士郎」
俺とマシュの行く手を阻むため、前方に弓兵のサーヴァントが実体化した。
「やはり来たか」
ぽつりと呟く。
物理的に考えれば、俺とマシュを狙撃できる高台からここに先回りしてくるのは不可能である。だが、奴はサーヴァント。霊体化して、神秘を宿さない物質を素通りできる存在。
生身しか持たない俺達を先回りして待ち受けるのは容易だったろう。
「妙な因果だ。そうは思わないか?」
何を思ったのか、奴は俺に語りかけてきた。
「そうだな。なんだって英霊化した自分と対峙することになる。出来の悪い鏡でも見せられている気分だ」
「フン。それはこちらの台詞だがね」
応じる必要なんてないのに、奴の皮肉げな口調に、思わず毒を含んだ言葉を返していた。
マシュが驚いたように声を上げた。先の前哨戦、姿は見えても顔までははっきり見えていなかったのだろう。
「先輩が……二人……?」
「……ああ。どういうわけか、アイツと俺は似た存在だ。真名はエミヤシロウ。十年前俺が体験した聖杯戦争で、俺はアイツに会っている。……因縁を感じるな、という方が無理な話だ」
「ほう? では貴様はオレに遭っていながら生き延びたわけだ。――となると貴様は、あの時の小僧か」
ぴくり、とエミヤは眉を動かした。彼の抱く願望からすれば、衛宮士郎を見逃すなんてあり得ない。仮に見逃すとしたら、それは私情を抜きにして動かねばならない事態となったか、巡りあった衛宮士郎が正義の味方にならないと――英霊エミヤと別人になると判断したかになる。
そして、俺とのやり取りで、エミヤは不敵に笑って見せた。俺がセイバーと共に戦い抜いた衛宮士郎だと悟ったのだろう。
サーヴァントは通常、現界するごとにまっさらな状態となる。記憶の持ち越しは普通は出来ない。つまりエミヤが俺を識っているということは、このエミヤもまた第五次聖杯戦争の記録を記憶として保持していることになる。特殊な例だった。
自分殺しがエミヤの望み。正確には、自己否定こそが行き着いた理想の結末だ。
同情はしない。俺は奴とは別人だが、それを分かって貰おうとも思わない。
仮に奴が、俺がエミヤにならないと知っても、ここを守る立場にある以上は戦闘は避けられないだろう。なら奴は所詮、倒すべき敵でしかない。
「衛宮士郎。どうやら貴様は、世界と契約していないようだな」
「分かるのか」
「当たり前だ。世界と契約し、死後を預けた衛宮士郎が、貴様のような弱者であるものか」
「……お前から見て、俺は弱いか?」
「弱い。見るに堪えん。投影の精度の高さだけは認めるが、それ以外はお粗末に過ぎる。なんだ先程の体たらくは。生前のオレなら、二十七程度の剣弾などすべて撃ち落とせている」
なるほど……あれでまだ、本気ではなかったのか。螺旋剣の一撃こそ殺す気で放ったが、それ以外は全力でなかった、と。
笑いだしそうだった。英雄王の言う通り、俺は道化の才能があるのかもしれない。
だが。
「そうか。なら、やっぱり俺達は別人だ。それがはっきりして――ああ、とても安心したよ」
「……ふん。オレは失望したがな。貴様には殺す価値もないが、生憎とここを通すわけにもいかん。ここで死ね衛宮士郎。たとえ別人であったとしても、その顔を見ていると吐き気がする」
「そうかよ。じゃあ、最後に一つ言わせてもらおう」
俺とエミヤは同時に干将・莫耶を投影した。両腕をだらりと落とし、戦闘体勢に入る。
鏡合わせのような姿だ。英霊と人間、贋作と偽物、強者と弱者――
今に戦闘に入りそうになる刹那に、俺はエミヤに言葉を投げる。奴が絶対に無視できない、挑発の文言を吐くために。
「なんだ。遺言でも言うつもりか? ああ、それぐらいなら待とう。未熟者の末期の言葉がどんなものになるか、興味がある」
「……」
露骨な敵意。エミヤが悪意を抱く、唯一の相手。それが俺だ。その俺が今から吐く言葉は――きっと毒になる。
「なあ、アーチャー」
「なんだ」
「お前は、正義の味方に一度でも成れたか?」
「……なに?」
一瞬、その問いにエミヤの顔が歪む。亀裂が走ったように、動きが止まった。
それは、奴にとっての核心。エミヤを象る理想の名前。俺は精一杯得意気に見えるよう表情を操作した。
俺が、さも誇らしげに語っているように聞こえるように、声の抑揚にも注意を払う。
「答えろアーチャー。お前は正義の味方になれたのかと聞いている」
「……戯れ言を。正義の味方だと? そんなものは幻想の中にしか存在しない偽りの称号だ。存在しないものになど成れるものか」
「……なんだ、成れてないのか」
失望したように。
笑いを、こぼす。
エミヤの顔色が変わった。俺にとっての、正義の味方の表情が苛立ちに染まる。
「何が言いたい」
「お前は俺のことを弱者と言ったな? その通り、俺は弱い。お前よりもずっと。なら強者であるお前は? アーチャーは成れたのか。正義の味方に。それが気になってな。その如何を是非とも聞きたかった訳だが……そうか成れなかったのか。正義の味方に」
「……言いたいことはそれだけか」
「いいや今のは聞きたかったことだ。言いたかったのは、こうだ。――正義の味方に、俺は成れたみたいだぞ」
「――――」
エミヤに、空白が打ち込まれる。俺の告白は、奴にとってあまりにも重く、無視しがたく、流せない言葉だったのだ。
俺は、更に一言、告げた。
「今、人理は崩壊の危機にある。これを修復することは人類を救うことと同義。――これが正義でなくてなんだ。人理のために戦う俺が正義の味方でなくてなんだ。――正義の味方に敵対する、お前はなんだ?」
「……黙れ」
「わかった、黙ろう。だがその前に謝罪するよアーチャー。すまなかった。そしてありがとう。悪として立ちふさがるお前を、正義の味方として倒す。分かりやすい構図だ。善悪二元論……喜べ。お前は悪として、俺の正義を証明できる」
「 」
エミヤの目から、色が消えた。
その鷹の目が、俺だけを見る。俺だけを捉える。
マシュが、固い顔をしていた。俺のやり方が読めたのだろう。聡明な娘だ。
やれるのか、マシュは。一瞥すると少女は頷いた。揺らがない、少女は決してブレない。戦うのは、自分のためでなく。ひとえに己のマスターのためだから。
――これで、アーチャーには俺しか見えない。
呼気を見計らう。緊迫感が高まっていく。息が苦しい、殺気が痛い。アーチャーの全身が、脱力した。その意味を俺は知っている。攻撃に移る前兆。
俺は弾けるように指示を飛ばしていた。
「マシュ! 突撃!」
「了解! マシュ・キリエライト、突貫します!」
大盾を構え、突撃するマシュ。それをアーチャーは無表情に迎え撃った。
大盾を前面に押し出し、質量で攻めるマシュ。干将と莫耶を十字に構え、ぐぐぐ、と弓の弦につがえられた矢のように力を溜めるや、干将の切っ先に力点を移しながら強烈な刺突を放つ。
っぅ……! 苦悶するマシュが盾ごと跳ね返されて後退する。同時に踏み込み、アーチャーはマシュを押し退けるように莫耶で薙ぎ払い、マシュの体を横に流した。――そこに、俺の投擲していた干将と莫耶が迫る。マシュに対していたような流麗な剣捌きが見る影もなく荒々しくなった。完全に力任せの一撃。俺を否定するように干将と莫耶を叩き落とし、まっしぐらに俺にぶつかってこようとして、
させじとマシュが横合いから殴りかかる。
「……!」
「させ、ません……!」
マシュの膂力はアーチャーを凌駕している。まともにやれば押し負けるだろう。だが英霊エミヤとて百戦錬磨の練達。今さら自分より力が強いだけの相手に手こずる道理はない。
マシュは圧倒的に経験が足りなかった。デミ・サーヴァントとなって盾の英霊の戦闘能力を得ていても、それを活かせるだけの経験がないのだ。心と体の合一していない者に、アーチャーは決して負けることがない。
それを証明するようにアーチャーは再度、マシュをあしらう。懸命に食いつくマシュを打ちのめす。
強靭な盾を相手に斬撃は意味をなさない。斬るのではなく叩く、打撃する。呵責のないアーチャーの功勢にマシュは再び競り負け――俺は黒弓を投影し、剣弾を放ってアーチャーの追撃を断った。
「マシュ、援護する。一心に挑み、戦いのコツを掴むんだ。胸を借りるつもりで行け」
「はい!」
名もない名剣を弾丸として放ちながら俺は立ち位置を調整する。マシュとアーチャーがぶつかり合い、果敢に攻めかかる少女にアドバイスを送りながら援護した。
「攻めるな! 押すだけでいい! その盾の面積と質量は立派な武器だ。防御を固め体ごとぶつかっていけ! 相手の体勢を打ち崩し押し潰す、呼吸を掴むまで無理はするな!」
「はい! はぁっ――!!」
途端、鬱陶しそうにアーチャーは眉を顰めた。
素人が様々な工夫を凝らそうとするより、単純で迷いのないワンパターン攻撃の方が余程厄介なものだ。
マシュの耐久はAランク。盾の英霊の力もあり、並大抵の攻撃で怯むことはない。必然、アーチャーも威力の高い攻撃を選択しなければならず、そうすると一拍の溜めが必要になる。そのために、アーチャーはマシュを振りきれず、大技に訴え排除しようにも別の宝具を投影する素振りを見せればそれを俺が妨害した。
そして頃合いを見計らい、俺は新たに干将を投影する。すると、先に俺が投擲し叩き落とされていた莫耶が引き寄せられ、アーチャーの背後から襲いかかる形になる。
アーチャーは当たり前のように飛び上がって回避して、回転しながら俺の方に戻ろうとしている莫耶を、強化された足で蹴り飛ばした。
「そこ……!」
マシュが吠え、空中にいるアーチャーにぶつかっていく。ハッ、とアーチャーが嗤った。
敢えて突撃を受け吹き飛ばされたことで距離を取った。慌てて詰めていくマシュの顔に向けて干将と莫耶を投じる。
咄嗟に盾で防いだマシュの視界が一瞬塞がり――アーチャーは自ら踏み込んで死角に回り込み、盾を掻い潜ってマシュの腹に蹴りを叩き込んだ。
「かはっ――!?」
サーヴァントの本能か腕で蹴りをガードしてクリーンヒットは防いだものの、今度こそマシュは吹き飛ばされる。
アーチャーが馳せる。瞬く間に俺に接近してくる。干将莫耶を投影し迎撃した。
「やはりこうなるか……!」
「……ォオ!!」
憎らしげにアーチャーが吠えた。瞬間的に袈裟と逆袈裟に振るわれた双剣を防ぐも、己の双剣で俺の双剣を押さえ込み、ゼロ距離にまで踏み込んできたアーチャーに頭突きを食らわされてしまう。
更に距離を詰められアーチャーはあろうことか双剣を手放し拳を放ってきた。わかっていても防げない堅実な拳打。こちらも双剣を捨て両腕を立て頭と胴を守り防御に専念する。
拳を防ぐ腕の骨が軋んだ。強化していなければ一撃で砕かれていただろう。歯を食い縛って堪え忍ぶ。
コンパクトに纏められた無数の拳打、三秒間の内に防いだ数は十八撃。ガードを崩す為の拳撃だとわかっていても、到底人間には許容できない威力に俺の防御が崩される。
腕の隙間を縫った奴のアッパーカットが俺の顎に吸い込まれた。ガッ、と苦鳴する。だが、思考は止めない。頭を跳ね上げられると、俺は反射的に飛び下がっていた。
一瞬前に俺の首があった位置を干将の刃が通過していく。アッパーカットを当てるや流れるように双剣を投影して首を狙ったのだ。
追撃に来るアーチャーの剣を、なんとか双剣を投影して防ぐ。俺とアーチャーの双剣が激突し火花が散った――瞬間。見覚えのない景色が、脳裏に浮かぶ。
「っ……!?」
「くっ……!」
アーチャーもまた戸惑ったように動きが鈍る。そこにマシュが駆け込み、大盾でアーチャーを殴り飛ばした。
まともに入った一撃に、マシュ自身が最も戸惑っていた。
「あ、当たった……? ……いえ、それよりも先輩、大丈夫ですか!?」
喜びかけるも、マスターの状態を気にかけてマシュが心配そうに駆け寄ってきた。俺は血を吐き捨てる。口の中を切ってしまっていた。
大丈夫だと返しつつ、思う。なんだ今のは、と。
(知らない男がこちらに向けて泣き縋り、白髪の男が無念そうにしている光景)
――そんなものは知らない。
溢れる未知の記憶が、光となって逆流してくる。見たことも聞いたこともない事象がどんどんと。
――これは、なんだ? ……まさか……アーチャーの、記憶……か?
バカな、と思う。愕然とした。
前世の自分を降霊し、前世の自分の技術を習得する魔術があるという。アーチャーと衛宮士郎は人間としての起源を同じくする故に、特例として互いの記憶を垣間見て、技術を盗むことが可能だった。
現に俺の知る『衛宮士郎』は、アーチャーとの対決の中で加速度的に成長していた。あれは、アーチャーの戦闘技能を文字通り吸収していたからであり、同時にアーチャーの記憶をも見てしまっていたからだ。
言えるのは、あんな現象が起こるのは『衛宮士郎』と英霊エミヤだけということ。両者が、厳密には別人だったとしても、緊密な関係を持っていたからこそ起こった現象なのだ。
翻るに、この俺は『衛宮士郎』ではない。自分の名前が思い出せずとも。かつての自分が何者かわからずとも。俺は俺であり、俺以外の何者でもなかった。
だからあり得ないのだ。俺がアーチャーと――英霊エミヤと共鳴し、その記憶を垣間見ることになるなんてことは。
だってこれは、エミヤシロウ同士でないとあり得ないことで。それが起こるということは……?
……いや、まさか、そんな……。
俺は……『衛宮士郎』なのか……?
「貴様は……」
エミヤが、呆然とこちらを見ていた。
愕然と、信じられないものを見た、とでも言うかのように。
何を見た? 奴は、俺の何を見た。
「先輩! どうかされたんですか?! まさかアーチャーが魔術を使って……? ……先輩! しっかりしてください、先輩!」
「マシュ……」
虚ろな目で、マシュを見る。その目に、光が戻っていく。
……俺は、誰だ。
「マシュ、俺は、誰だ?」
「先輩は先輩です。それ以外の何者でもありません」
マシュの声は、全力で俺を肯定していた。
それに、勇気付けられる。そうだ、俺は俺だ。惑わされるな、俺は全知全能じゃない。知らないことだってある。むしろ知らないことばかりだ。
今、たまたま俺の知らない現象があった。それだけだ。何も変わらない。
意思を強く持て、何度も揺らぐな、ぶれるな。大人だろうが!
「……俺は、大丈夫だ。俺が俺である『証』は、ちゃんと俺の自我を証明しているはずだ。だから、大丈夫」
自分に言い聞かせる。そう、問題はない。
ふぅ、と息を吐き出し、アーチャーと相対する。
「ふざけるな……」
「……なに?」
「ふざけるな……! 衛宮士郎! 貴様はこれまで何をして生きてきた!?」
突如、アーチャーが激昂した。訳がわからない。いきなりどうしたと言うのだ。
マシュが警戒して前に出る。マシュの認識ではこのアーチャーはエミヤシロウでも、自分のマスターに怪しげな魔術を使ったかもしれない相手なのだ。警戒するな、という方が無理な相談である。
だが、そんなことなど気にもせず、アーチャーは握り締めた拳を震わせて、激情に歪む顔を隠しもせず、歯を剥いて吠え立てた。
「答えろ、貴様はどんな生涯を辿ってきた?!」
「……何を突然。答える義理はないな」
「なんだあれは。なんだそれは。そんな……そんな簡単に……貴様は……貴様が!?」
錯乱したような有り様だった。あの、英霊エミヤがだ。
(ありがとう、お兄さん!)
(いや、助かった。若いのによくやるねえ)
(ねえ、ねえ! シロウ兄ちゃん! この間話してくれたヒーローの話聞かせてくれよ!)
(助けて! 助けてください! シロウさん、うちの娘が、化け物に拐われて!)
(いやぁ! 助けてよ、シロウさん!)
(助けに来てくれたの……? こんな、化け物の根城まで? ……ありがと)
(美味しい! なにこれ! すっごく美味しいよ!)
(僕たち、シロウさんに出会えてよかった!)
(ありがとう)
(ありがとう!)
『ありがとう!』
「なんだ、これは……なぜ貴様の記憶には、こんなにも『笑顔』がある!? これではまるで……正義の味方のようではないか!?」
頭を抱えて、入ってきた記憶に苛まれるようにアーチャーが叫んだ。
血を吐くような、嫉妬に狂いそうな魂からの雄叫びだった。
それは、アニメか漫画にでも出てきそうな、ヒーローだった。かつて、エミヤシロウが思い描いた、理想の姿だった。
それが。
それを成しているのが、目の前の未熟な衛宮士郎。
アーチャーには分からなかった。何をどうすれば、あんなことになる。わからないから、叫んだのだ。
「何をバカなこと言ってる。正義の味方はお前だろうが、アーチャー」
「オレが?! オレがか!? 周りを不幸にし続けたこのオレのどこが?!」
妬ましいのはこちらの方だというのに、奴は必死に問い質してきていた。
どう考えても、正義の味方はエミヤの方であるというのに。
「俺はただ、俺のために慈善事業に手を出していただけだよ。誰かのため、なんて考えたこともない。徹頭徹尾、自己中心。所詮は偽善だ、そんなものが正義の味方なんて張れるわけないだろう」
「……今、なんと言った?」
「……俺のために生きてきたと言っただけだが」
「自分のためだと? 衛宮士郎が!?」
「そうだ、それの何が悪い」
俺は俺の生き方を選んだ。そこに恥じるものはなにもない。俺は俺のために生きている。だから、俺は俺が悔やむようなことはしないし、嫌だと思うことは一度もしてこなかった。
それだけだ。だから、他人のために死ぬまで戦い続け、死んだあとでまで人間のために戦い続けているエミヤに、俺は正直畏敬の念を覚えていたのだ。
俺にはそんなことはできない。だって、俺にとっての一番は、俺自身に他ならないのだから。
「……そうか。わかった。衛宮士郎、オレは、お前をもう未熟者とは言わん。お前はオレにとって、絶対に倒さねばならない『敵』だと認識する」
「ふん。もともと敵同士だっただろうが。何を今更」
「……そうだな。確かに、今更だ」
どこか、苦笑めいた声だった。
―― I am the bone of my sword.
「先輩! アーチャーは明らかに宝具を使おうとしています! 阻止しましょう!」
決然と唱えた文言は、魔力を宿さずとも世界に語りかける荘厳な響きを伴っていた。
その雰囲気だけで察したのだろう。マシュがそう訴えてくるも、俺は首を左右に振って、それを拒否した。
黙って見守る。それは、決して男の生き様を見届けるためなどでは断じてない。
俺は奴の固有結界を見ることに意味があるから黙っているのだ。奴もそんな打算などお見通しだろう。
だが、それでも、力で押し潰せると奴は考えている。そしてそれは正しい。エミヤが固有結界『無限の剣製』を発動すれば、今の未熟なマシュと、不出来な俺は押し負けてしまうだろう。唯一の手段は、俺も固有結界を展開して、奴と心象世界のぶつけ合い、打ち勝つことだけ。
エミヤが望んでいるのはそれだろう。自分の世界で、俺の世界に勝つ。そうしてこその勝利だ。
だが――
――So as I pray, unlimited blade works.
詠唱が完成する。紅蓮が走る。世界が広がり、世界が侵食されていく。
見上げれば、緋色の空。無限の剣が突き立つ紅の丘。
空の中で巨大な歯車が回っている。その枯渇した威容がエミヤの心象を物語っていた。
「――固有結界、無限の剣製。やれやれ、俺には一生を掛けてもこんなに宝具を貯蔵したりはできないな」
苦笑する。周囲を見渡して改めて、格の違いというものを思い知った。
どれだけ戦い続けて来たのか。何もかもを犠牲にして、理想のために歩み続けてきた男の結実がこれか。
盗み見た己の矮小さ、卑小さが滑稽ですらある。
「どうした、見ただけで戦意を喪失したのか、衛宮士郎」
「まさか」
試すような言葉に、俺は失笑した。
俺の辞書に諦めるという言葉は載っていない。
そして、勝算もなく敵の切り札の発動を許すほどおろかでもない。
「――卑怯だと思うか? なら、それがお前の敗因だ」
「なに?」
俺は、言った。
気配を遮断したまま、エミヤの背後にまで迫っていたサーヴァントに。
「やれ、アサシン。宝具展開しろ」
エミヤは直前になって気づいた。固有時制御によって体内時間を遅延させて潜伏していた状態を解き、攻撃体勢に入ったがゆえに気配遮断が甘くなった第三者に。
「な――」
「時のある間に薔薇を摘め」
そして。敏捷A+ランクのアサシンが、三倍の速度で奇襲を仕掛けてきて、それを防げるだけの直感を、彼は持っていなかった。
見るも無惨な、芸術的な奇襲。
急所を狙った弾丸の洗礼を、腕を犠牲に防いだエミヤに。
容赦なくトドメのため、彼の起源を利用して作成されたナイフを投げ放つ。
心臓に直撃を食らったエミヤは、その暗殺者の面貌に、驚愕のあまり目を見開いたまま――固有結界を崩壊させ、物も言えぬまま消滅していった。
「――お見事、暗殺者」
「そちらこそ、我が主人」
面白味もなく、アサシンは己の戦果を誇りもしなかった。
それでいいのか士郎くん
いつしか変質してしまった聖杯戦争。
万能の杯に満たされたるは黒い泥。
その正体の如何など、最早どうだっていい。重要なのは、この聖杯がために世界は滅びたということだ。
度しがたいことに、この冬木に於ける首魁は我が身である。聖杯を与えるなどという甘言に乗せられて、愚かにも手を取ってしまった小娘の末がこれだった。
……小娘とてなんの考えもなかったわけではない。自らに接触してきた者が人ならざるモノであることを見抜き、その思惑を打ち砕くために敢えて奴の傀儡となったのだ。
そして掴んだ聖杯を、小娘は使わなかった。
ほぼ全てのサーヴァントを打倒して我が物とした聖杯を。手に入れることを切望した聖杯を。使わずに、何者の手にも渡らぬよう守護していたのだ。
この変質した聖杯戦争の裏に潜むモノの思惑を薄々感じ取り、聖杯の使用は何か致命的な事態を引き起こすと直感したがためである。
しかし、出来たことと言えばそれだけ。聖杯は呪われていた。なにもしなくとも、聖杯は膨張した呪いを吐き出し、結果として世界は滅びてしまったのだ。小娘のしたことなど、所詮は徒労。滅びを遅らせるのが精々だったのである。
だが、すべてが無駄だったわけではない。滅びが緩やかなものとなったお陰で、『あること』を知ることができたのだ。
この特異点は、人類史を焼却するためのもの。即ち人間界のみならず、世界そのものを焼き払う所業だったのである。
そうなれば、たとえば人の世界より離れた幽世『影の国』もまた焼却されて滅びるということ。そして、影の国すら滅ぶということは、あの妖精郷すらも危ういということになる。
今でこそ無事だが、2016年を境に余さず滅相され燃え尽きるだろう。そして未来に於いてアヴァロンが滅びるということは、そこにいたアーサー王もまた滅んだ、ということだ。
英霊の座に時間の概念などない。
死に至ったのなら、英雄は一部例外を除いて座に招かれることになる。
アーサー王は、アヴァロンにて眠りにつく定めだった故に、死しても英霊の座に招かれることはないはずだったが、そのアヴァロンが無くなるとなると『死んだ』という事実だけが残り、英霊の座に流れていくことになった。
それは人類史が滅びるが故の異常事態である。もしも人類史が焼却を逃れ、復元されれば、アーサー王が英霊の座に登録されたという事実も消え、アヴァロンにて眠りにつくことになるだろうが、それはまだ先の話。
否、夢物語か。
現時点のアーサー王は既に生者ではなく英霊として存在している。順序が逆のあべこべな状態だが、それは間違いない。
故にこそ、この冬木に在るサーヴァントのアーサー王は、自分が平行世界の聖杯戦争で戦い、そこで得たものの記録を共有することになったのだ。
――よもやこの私が、な……。
聖杯に侵され、黒く染まり、属性の反転した我が身ですら微笑をこぼしてしまうほどの驚きだった。
まさか平行世界で自分がこの時代に召喚され、仰いだマスターを女として愛する可能性があったなど、まさに想像の埒外の出来事であったのだ。
黒い騎士王は鉄面皮を微かに崩し一瞬だけ微笑む。だが、それも本当に一瞬だけ。騎士王を監視する者も気づくことはなかった。
蝋のような病的に白い肌、色の抜けた金の髪、反転して掠れた黄金瞳。
ぴくりともせず、黙って聖杯を見つめ続ける。
その絶対悪を無感動に眺め、佇む姿は彫像のようであった。
この特異点の黒幕とも言える存在の傀儡となって以来、ただの一度も口を開かずにいた騎士王は――その時になって漸く、氷のような表情にさざ波を立てる。
黒い鎧を軋ませて、この大空洞に至る入り口を振り返った。
――アーチャーが敗れたか。
それは、確信だった。鋼のような気配が乱れ、消えていくのをはっきり感じたのだ。
赤い外套の騎士、アーチャーはこの聖杯戦争で最も手こずった相手である。
もとが大英雄であるバーサーカーは理性無きが故に、赤い弓兵ほどには苦戦せず、その他は雑兵のような英霊ばかりであった。もしもあのキャスターが槍兵のクラスだったなら最も手強い強敵と目したろうが所詮はドルイド、反転して低下したが、極めて高い対魔力を持つ騎士王が正面から戦えば敵足り得るものではない。
そんな中、英霊としての格は最も低かったであろう赤い弓兵は、徹底してまともに戦わず、遅延戦術を選択して遠距離戦闘をこちらに強いた。マスターを失っても、単独行動スキルがあるためか逆に枷がなくなったとでも言うように――魔力が尽きるまでの二日間、黒い騎士王を相手に戦い抜いたのである。
見事である。その戦果に報いるように騎士王はアーチャーを打ち倒した。彼の戦いぶりは、それほどまでに見事なものだった。
そして、反転した騎士王の手駒となってからは、アレが騎士王の許に寄れぬように、門番となって守護する者になることを選んだ。その在り方は、騎士王をして見事と言えるものだった。円卓にも劣らぬとすら、胸中にて誉め称えたものだ。
そんな男が、戦闘をはじめて半刻もせずに倒されたとは、にわかには信じがたい。
――いや。あの男の持ち味は、冷徹なまでの戦闘論理にある。泥に侵され思考能力が低下すれば、案外こんなものか。
加えてあの場所は、弓兵として十全に戦える戦場でもなかった。ある程度の力を持つ者なら、あの男を打倒することは決して不可能ではないだろう。
しかし問題は、誰があの男を倒したかだ。
唯一の生き残りであるキャスター、アイルランドの光の御子は、槍兵のクラスだったなら近距離戦でアーチャーを一蹴するだろう。あの大英雄には矢避けの加護もある。相性の良さから騎士王が手こずったほど苦戦することもなかったはずだ。
だが、光の御子はキャスターとして現界した故に、アーチャーの弓を凌ぐことはできても詠唱できず、攻勢に回ることができなかったはずだ。しかも、黒化したサーヴァントに追われ、ゲリラ的に戦い続けている最中でもあったはず。聖剣すらも凌いで逃げ切る辺り呆れたしぶとさだが、逆に言えばそれだけで、単独でこちらに攻めかかることは出来ないはずだ。
では、誰が。
――なるほど。異邦の者達か。
暫しの沈思の末、騎士王は思い至った。人類が滅びるほどの事態、抑止力が働かぬ道理なし。されど、この滅びは既に決定付けられている。既に滅んでいるのだ、滅んだものに抗う術などあるはずもなく、必然、抑止力が働くことがあるはずもなし。
であれば答えは自明。過去に因果なく、現在に命なしとなれば、特異点と化したこの時代を観測する術を持った未来の者しか介入は出来ない。
異邦の者が人理を守らんがために過去に飛ぶ――出来すぎた話だ。都合が良すぎる。しかし、そんな奇跡がもしあるとしたなら……この身は試練として立ち塞がるしかないだろう。
既に滅んだものを救おうというのなら。滅びの運命を覆さんとするのなら。――魔術王の偉業に荷担する羽目になった小娘一人、打ち倒せずして使命を果たせるわけがない。
――私を超えられもせず、聖杯探索を果たしきれるはずもない。超えて魅せろ、この私を。
王としての矜持か、意図して屈するような腑抜けにはならない。むしろ全力で迎撃し、これより聖杯を求めて来るだろう者達を滅ぼす腹積もりであった。
全力の騎士王を打倒してこそ、はじめてグランド・オーダーに挑む資格ありと認められる。そう、騎士王アルトリア・ペンドラゴンは信じていた。
信じていたのだ。
その男を見るまでは。
――弓兵を倒し、先に進んだ。
何か物言いたげなマシュの頭に手を置き、今は勘弁してくれと頼んだ。
嘆息一つ。仕方ないですね、とマシュは微笑んだ。困ったようなその笑顔に、やっぱりマシュはいい娘だなと思う。普通、あんな卑劣な戦法を取った奴に、そんな含みのない笑みを向けられるものではない。
しかし、「勝つためなら仕方ないです。この特異点をなんとかしないと、人類が危ないんですから」と言われた時は、流石に閉口してしまいそうだった。無垢なマシュが、自分に影響されていくようで、なんとも言えない気持ちになったのだ。
――それでも、もう心は固めている。特異点となっているのが冬木と聞いた時から、覚悟は決めていた。
進んだ先に、顕現した聖杯を仰ぎ見る。十年前に見て、破壊した運命を直視する。
そして、その下に。
いつか見た女の姿を認めて、俺は一瞬だけ瞑目した。
「先輩? どうかされましたか?」
まだ、マシュは気づいていないのだろう。鷹の目を持つ俺だから先に視認できただけのことだ。突然立ち止まった俺に声をかけてくるマシュに、口癖となった言葉を返す。なんでもない、と。
――目が、合った。
気のせいじゃない。黒く染まった騎士王が、黒い聖剣を持つ手をだらりと落とし、驚愕に目を見開く姿を見た時に、俺は悟っていた。
ああ。あれは、俺の知るセイバーなんだ、と。
理屈じゃない。『衛宮士郎』と絆を結んだセイバーじゃなくて、俺に偽られていた女なのだと言語を越えた部分で直感したのだ。
天を仰ぐ。なんて悪辣な運命なのか。もしここにセイバーがいたとしても、顔が同じなだけの他人として割りきり、俺は迷わず戦闘に入っていただろう。だが、なんでかここにいるのは俺のよく知る騎士王だった。
「……悪く思え。俺は、お前を殺す」
好きになってしまって。
でも、死にたくないからと偽って。
本当の自分を、ただの一度もさらけ出さなかった。
――シロウ。貴方を、愛しています。
その言葉は果たしてこの身の欺瞞を見破った上でのものなのか。彼女が愛したのは、『衛宮士郎』なのではないか。
怖くて聞けなくて。そして、何よりも。
生き残る為に『衛宮士郎』を成し遂げた達成感に、これ以上ない多幸感に包まれて、彼女を偽っていた罪悪感を忘れた俺に、今更会わせる顔などあるわけがなかった。
俺は『衛宮士郎』ではない。事実がどうあれ、俺はそう信じる。俺が『衛宮士郎』ではない証拠など何もないが、信じて生きていくと決めていた。
だから躊躇わない。黒弓を投影し、後ろ手に回した手でハンドサインを送ったあと、マシュに戦闘体勢に入れと指示を出した。
呪われた大剣、赤原猟犬を弓につがえる。決意を固めるため、言葉を交わすこともせず、俺はもう一度、自分に言い聞かせるために呟いた。
「セイバー。――お前を、殺す」
最低な言葉。
「お前が愛したのは、俺じゃない」
あの思いを、否定する。
「俺はあの時の俺じゃない」
愛した女への思いを忘れ去る。
「許しは乞わない。罵ってもいい。殺そうとしてもいい。だが殺されてやるわけにはいかないんだ。俺は死にたくない。こんな場所が俺の死に場所なわけがない」
なんて、屑。
「俺に敵対するのなら、死ね」
――心を固める。魂が鋼となる。
最後に、しっかりと言葉に出して、俺は宣言した。
「勝ちにいく。奴を倒すぞ、マシュ。俺と、お前とでだ」
「はいっ!」
勝算はある。だってアルトリア。あの日、お前と共に戦ったことを、俺は今でも覚えているのだから。
約束された修羅場の士郎くん!
■約束された修羅場の剣(上)
一人の愚か者が、その女を愛していたのだと気づいたのは、全てが終わってからだった。
その時の俺は『衛宮士郎』の演目を終え、無事に生き延びたことに無上の達成感を覚えていた。
第五次聖杯戦争を勝ち抜き、これでもう俺は赤の他人を演じる必要を無くして――本当の自分を出して生きていけると思い、絶頂するほどに興奮したのだ。
『衛宮士郎』をやめて周囲の者に「変わったな、衛宮は」と言われるようになった。後味の悪さを覚えても、俺はそれを否定しなかった。俺は変わったのではなく、他人を演じるのをやめただけなのだと、わざわざ告白するようなことはしなかった。
バイトはやめなかったが、色々なことを始めた。野球、サッカー、水泳、陸上……将棋に囲碁に、語学に料理。思い付く限りのことに手を出した。
何をしても楽しかった。何をしなくても充実していた――なのにどこか物足りなかったのは何故か。
漠然と、完成したはずのパズルに、最後のピースが足りないと思った。何が足りないのか。考えてもよくわからず、暫くのあいだ首を捻りながら過ごした。
高校を卒業後、何かに追いたてられるようにして冬木から飛び出した。何かにつけて『衛宮士郎』と俺を比較する周囲の人間に耐えられなかったのもある。慎二を亡くし、いっそう儚くなった桜をどうにかしたいと思ったのもある。
だが俺は、それよりも別の何かを追い求めていたのだ。
胸の中に空いた空白。それの正体に気づけたのは、冬木を飛び出すや真っ先にイギリスのアーサー王の墓に足を運んでしまっていたからだ。
なぜ、自分はこんなところに来ているのか。呆然と墓を眺めて、俺は漸く悟った。
いつの間にか料理をたくさん作りすぎるようになったのも。武家屋敷の道場を何をするでもなく眺めるようになっていたのも。何度も同じ道を辿って歩くようになっていたのも――全て、セイバーと共有した思い出に、未練を抱いていたからなのだ。
『ああ――』
すとん、とその事実は胸に落ちた。
一目見たあの時、恋を知って。
日々を共にして思いを深めて。
体を重ねて情が移って。
いつしか俺は、彼女のことを心から愛し、その感情に蓋をして――
「赤原を征け、緋の猟犬――」
――魔力の充填に要するのは四十秒。黒弓につがえられた魔剣が、はち切れそうなほどの魔力を発する。
迸る魔力が、解き放たれる寸前の猟犬を彷彿とさせた。狙った獲物に今に食いつかんと欲する凶悪な欲望を垂れ流している。
単身、突撃していくマシュを視界に修めつつ、俺は食い入るようにこちらを見る黒い騎士王に、これまでの全ての思いを込めた指先で応えた。
ぎり、ぎりり、ぎりりり……! 黒弓の弦に掛けられた指が。つがえられた魔剣が。俺の中にある雑念を吸い上げ、燃料として燃えている錯覚がした。
そうだ、全てを吸え、呪いの魔剣。心の中で呟く。そして行け、忌まわしき記憶と共に。
マシュが、俺の指示を守り、防御を固めた体勢のまま騎士王に挑みかかる。視線をこちらに向けたまま、凄まじい魔力放出と共にセイバーはマシュを吹き飛ばした。
一度、二度、三度。幾度も同じことを繰り返し、何を苛立ったのかセイバーはマシュに向けて渾身の剣撃を叩き込んだ。成す術なく薙ぎ払われ地面に叩き伏せられるも、受け身をとってすぐさま跳ね起きたマシュだったが――眼前にまで迫っていたセイバーの姿に、ハッと身を強ばらせてしまった。
ちょうど、四十秒。あわや、というところを狙い、遂に赤原猟犬を解き放つ。解放の雄叫びをあげるように、魔剣は獲物目掛けて飛翔した。音速の六倍の早さで飛来した魔剣、されど一瞬たりともこちらへの警戒を怠っていなかった騎士王は両手で聖剣を振りきって俺の魔弾を弾き返した。
だが、一度凌がれた程度で獲物を諦める猟犬ではない。
射手が狙い続ける限り、何度でも食らいつき続ける魔剣の脅威は並みではない。弾き返された魔弾はその切っ先を再度騎士王に向けて、執念深く襲いかかっていった。
それを目にしながらも手を止めない。新たに偽・螺旋剣を投影する。
壁役のマシュが足止めし、俺が狙撃する。セイバーの癖は知り抜いていた。必勝の機を作り出すのは不可能ではない。このままフルンディングで食い止め、カラドボルグを射掛ける。そして二つの投影宝具をセイバーの至近距離で爆発させれば仕留められる。そこまで上手くいかずとも確実なダメージを狙えた。
だが、それを見て俺はぼやいた。
「やはり既知だったか……」
アーチャーと交戦した経験でもあるのだろう。セイバーは猟犬が再び噛みついてくることを知っていた。素早く身を翻して回避し、マシュと魔剣が一直線上に結ばれる位置になった瞬間、黒い聖剣の真名を解放した。
――卑王鉄槌。極光は反転する。光を呑め、約束された勝利の剣!
果たして解放された聖剣の極光は魔剣を呑み込み、マシュをもその闇で粉砕せんと迫った。
それを、マシュは宝具を疑似展開し、なんとか防ぎきる。カラドボルグほど苦しくはなかっただろう。あの盾は、円卓ゆかりの宝具に対してすこぶる相性がいい。例え騎士王の聖剣でも、否、聖剣だからこそ破るのは困難だろう。
盾を解析し聖剣を知っていたからこそ、それを見越してマシュに前衛を頼んだのだ。そうでなければ、マシュ一人に前衛を任せられはしない。
「……偽・螺旋剣」
無造作にエクスカリバーの撃ち終わりの隙を突き、冷徹に投影宝具を投射する。
魔力の充填は不十分。本来の威力は期待できない。だがそれがどうした。セイバーがこの特異点で、アーチャーと交戦し下しているのは既知のこと。あの男の固有結界から引き出した魔剣を、セイバーが見知っていても不思議ではない。
故に赤原猟犬を餌とした。セイバーなら、迷わず魔剣とマシュを同時に破壊するために聖剣を解放すると分かっていた。
その上で確実に隙を作れる。故のフルンディング、魔力が充填されておらずとも一定の効果が見込めるカラドボルグなのだ。
音速で奔る偽・螺旋剣を、しかし騎士王には直撃させない。この投影宝具は張りぼて、聖剣の一振りで砕かれる程度の代物。聖剣がぎりぎりで届かない程度の間合いを通過し、周囲の空間ごと削る虹の魔力で騎士王を絡めとるのが関の山。
だがそれでいい。
「はぁぁあ――ッ!!」
聖剣を防いだ体勢のまま……疑似展開された宝具を構えたままマシュが光を纏ってセイバーに突進した。
巨大な壁となってぶつかってくるマシュを、黒い騎士王は跳ね除けることが出来なかった。有り余る魔力で押し返そうにも、疑似とはいえ展開された盾の宝具をどうこうできるものでなく、聖剣の真名解放をしようにも偽・螺旋剣の空間切削に体を巻き取られて体勢を崩しているため不可能。果たしてマシュの突撃をまともに食らったセイバーは、切り揉みしながら吹き飛んだ。
フルンディングとカラドボルグ、前者が先に破壊されたパターンの時、どうすればいいかあらかじめ指示を出していたとはいえ、よく合わせたとマシュを誉めてやりたかったが、まだ仕事は終わっていない。
宝具を展開したままという、体にかなりの負担を強いる戦法を取らせたが、その程度の無理もせずして騎士王に有効な攻撃を当てるのは無理な話だ。
俺は吹き飛んだ騎士王に向け、一瞬の躊躇いもなく、淡々と無銘の剣弾を叩き込む。予測通り騎士王の反応は遅れ、無銘の剣弾は騎士王の眉間に吸い込まれていった――
「やった!」
マシュが快哉を叫ぶ。
はじめ、マスターである士郎から、セイバーの真名を聞かされた時は不安にもなったが、士郎の言う通りに動いただけで面白いように上手くことが運んだ。
さすが先輩と両手を広げ、体全体を使い賞賛の意を表現する。そこに、宝具を酷使して疲弊させられたことに対する不満はない。マシュの中には、やるべきことをやれたという誇らしさがあるだけだ。
トドメとなる剣弾を、士郎が放った。
それは狙い過たず騎士王の眉間に吸い込まれていった。
直撃したように見えて、マシュは勝ったのだと思い士郎の方へ駆け寄ろうとしたが……何故か、士郎は顔色を険しくし、無言で次々と騎士王へ剣弾を撃ち込み続ける。
塵すら残さぬとでも言うような死体に鞭打つ非道。さしものマシュも面くらい、何をしているのかと問い掛けようとして……緊迫した士郎の顔がそれを許さなかった。
射掛けられた剣弾が次々と着弾、爆発を繰り返し、土煙が巻き起こる。それを目を細くして眺め、残心していた士郎だったが、ややあってぽつりと呟いた。
「……流石」
顔に表情はない。しかし短い賞賛の言葉が嬉しげなものに聞こえたのはなぜなのか。
え? とマシュは呆気に取られた。竜巻の如き魔力放出が場を席巻する。予想だにしない事態にマシュは泡をくって動揺しそうになった。
黒い風によって土煙が吹き飛ばされる。同時、士郎が叫んだ。
「マシュ、カバーだ!」
反射的にマシュは士郎の元に馳せる。だが、遅かった。
マシュを追い抜き、黒い砲弾が士郎に襲いかかる。
「マスター!」
少女が悲鳴のような声をあげた。士郎は事前に干将と莫耶を投影し、腰に帯びていたお陰で、なんとか反応することに成功する。
黒い聖剣による振り下ろし。弓を捨てながら双剣で受け、流して後退。凄まじい剣撃に膝をつきそうになりながらも、ほぼその威力を地面に逃がすことに成功した。地面が陥没し弾け飛ぶように下がった士郎に、更に深く踏み込んできた騎士王が聖剣を振るった。
二撃、三撃、四撃と受け流しながら後退するも、双剣が砕けた瞬間に次の投影をさせじと、足元で魔力をジェット噴射し、息を吐く間も与えず斬りかかる。
果たしてマシュは間に合わなかった。武器を無くした士郎は両手を空のまま、首に突きつけられた聖剣を前に膝をつく。
「……」
二人の目が合い、一瞬見つめ合う。様々な感慨が胸中に過り、まず口を開いたのは漆黒の騎士王だった。
「……強くなりましたね、シロウ」
「……敵を前にお喋りか。余裕だな」
「ええ。それほどに、彼我の戦力はかけ離れている。惜しいところでしたが、今回は私が上回った。それだけのことです」
言った騎士王の左腕は折れている。黒い甲冑もほとんどが破損し、全身無事な箇所の方が少ない有り様だった。
それでも、なお騎士王は士郎を上回っている。否、片手でも全力の士郎を捩じ伏せられるだろう。
「貴方の容貌がアーチャーと同じものになっていたことには驚きました。しかし、一目で貴方だと私にはわかった」
「……」
「貴方も、そうであるはずだ」
「……どうかな」
呟き、士郎はちら、とマシュを一瞥した。こっちに来るな、と視線で制する。
「だが私以外の者をサーヴァントにするとは、捨て置けることではありません。しかもよりにもよって彼の英霊の力を持ったサーヴァントとは……」
「……お陰さまで、相性はいいようだがな」
「そうでしょう。穢れのない高潔な彼と、穢れをよしとしない貴方は確かに相性はいいかもしれない。しかし、それとこれとは話は別だ」
「……ふん」
静かに糺す騎士王に、しかし士郎は無感情に呟いた。
「もう勝ったつもりでいるのは結構だがな。勘が鈍ったかセイバー」
「――」
刹那、士郎は挑むようにかつてのサーヴァントを睨み付ける。ぴり、と騎士王の首に悪寒が走った。
――背後から回転しながら飛来する双剣。背後からの奇襲に、見えていないにも関わらず咄嗟に反応。騎士王は振り返り様に聖剣を一閃し、一撃で双剣を砕いた。
だが、その隙を逃す士郎ではない。背中を蹴りつけて自身も後ろに跳び、間合いを離しながら黒弓と剣弾を投影。射掛けながら更に後退する。
「馴れ合うつもりはないぞ、セイバー」
「ならば、手足を折ってでも付き合ってもらいます」
驚異的な回復力だった。秒刻みで全身の傷が癒えていく様は、あと数分で全快することを教えてくれる。
マシュは、今度こそ士郎に駆け寄り、その盾となるべく身構えた。
「……プランBだ。畳み掛けるぞ、マシュ」
「はい。行きましょう、わたしも全力を尽くします」
寄り添い合うその様を、無表情に、しかし苛立たしげにセイバーは睨み。
いざ、決戦となる段で。
不意に第三者の声が響き渡った。
「――よう、楽しそうじゃねえか。オレも混ぜてくれよ」
それは、この戦局を動かす想定外の要素。
ドルイドの衣装に身を包んだケルト神話最強の英雄、光の御子クー・フーリンが、士郎達の背後に参上していた。
約束された修羅場の士郎くん! 2
■約束された修羅場の剣(中)
「……貴方か、キャスター」
忌々しげに吐き捨てたセイバーの殺意が、半ば八つ当たりのように一点に集中し、聖剣の切っ先が微かに揺らいだ。
それは動揺というより、新たな獲物に対する威嚇行動に似ている。黄金の瞳が殺気に彩られて凄絶に煌めき、主の鬼気に応えるように黒い聖剣が胎動する。
セイバーは明らかにこちらを邪魔者と断じている。ドルイドのクー・フーリンは苦笑した。なにやら因縁を感じさせる両者の間に割って入るのは、実のところ気の引けることではあった。
だがこれは変質したとはいえ聖杯戦争。その参加者であるクー・フーリンは、騎士王と同じく当事者である。にもかかわらず、異邦のマスターとそのサーヴァントに全てを任せきりにしたままというのは……流石に無責任というものだ。
筋骨逞しい赤毛のマスター。宝具の投影という異能を振るう魔術使い。あの弓兵に酷似した――否、肌と髪の色以外、完全に一致する容貌と能力の男が、己がサーヴァントと共に慎重に立ち位置をズラす。
それは、新たに現れたクー・フーリンを警戒してのもの。当たり前の姿勢。不用意に友好的な姿勢を示さないのは当然のことだ。赤毛のマスター、衛宮士郎は様子を窺うようにして、キャスターのサーヴァントに問いかける。
「……突然の参入だが、こちらに敵対する意思は?」
「それはねえから安心しな。そっちの事情は知らねえが、俺はこの戦争を終わらせるつもりでいるだけだ」
「……なるほど、流石アイルランドの光の御子。この異常事態にあって為すべきことを心得ていると見える」
「アーチャー似のマスター、世辞をくれんのは結構だが、いいのかい?」
意味深に問い返すキャスターに、訝しげに士郎は反駁した。
「何がだ」
「見るからに因縁深そうな感じがするが、俺が割り込む事になんの遺恨もないのか、ってことだ」
「少し気になるが。あんたには以前、世話になったことがある。邪険には出来ない」
「あん? どっかで会ったか」
キャスターは杖で肩を叩きつつ、眉根を寄せて士郎を見る。……しかし思い当たる節がないのか、なんとも気まずそうに目を逸らした。
「……わっりぃ。見覚えねぇわ。お前さんみたいな骨太、忘れるとも思えんが」
「無理もない。あの頃の面影など残ってないからな。俺としても思い出してほしいわけではない。気にするなランサー。俺が勝手に恩に着ているだけだ」
お? とキャスターは眉を跳ねあげた。士郎は今、己を槍兵と呼んだ。つまり槍兵の自分と会ったことがあるということだが……それよりも。先程までの重苦しい表情がほぐれ、不敵な笑みを浮かべるこの男ときたらどうだ。
まるで、否、真実歴戦を経た戦士なのだろう。己の成してきたことに誇りを持っていなければ出来ない顔だ。容姿と能力こそあのいけ好かない弓兵だが、中身はまるで違うらしい。
ともするとあの弓兵の生前の人物なのかとも思っていたが、今キャスターの中で弓兵と目の前の男は完全に乖離した。自然キャスターの顔にも笑みが浮かぶ。
「……いいな、アンタ。一時の関係とはいえ、共闘相手としちゃ申し分無い。この一戦に限るだろうが、よろしく頼むぜ、色男」
「は。細君に師、女神に女王、おまけに妖精とまで関係を持った伝説のプレイボーイにそう言われると、なんとも面映ゆい気分だ。……こちらこそ宜しく頼む。主従ともに未熟者だ、ドルイドの導きに期待する」
「言うねえ。ああ、男のマスターとしちゃ理想的だ。気の強いイイ女ってのが女のマスターの条件だが、男のマスターってのは不敵で、戦に際しちゃ軽いぐらいがちょうどいい。肩を並べるに値する兵なら更に言うことなしだ」
まさかのべた褒めに士郎は面食らったが、マシュは自分のマスターを誉められて悪い気はしないらしい。一気に機嫌を良くして、キャスターをいい人認定したようだ。
「キャスターさん、わたしも宜しくお願いします。歴戦のサーヴァントの立ち回り、参考にさせていただきますね」
「おう。こっちもよろしくな、盾の嬢ちゃん。見てたぜ、あの聖剣を防ぎきるとは大したもんだ。俺の方こそ当てにさせてもらう」
にやりと笑うキャスターだが、実際その力が対魔力を持つセイバーに通じるものか疑問がある。が、彼はアイルランドの光の御子。勝算もなく出てくるとも思えない。何か切り札があるはずだ。
――騎士王は黙ってそのやり取りを見つめていた。
それは騎士道精神から来る静観ではない。盾の娘はともかくとして、キャスターも士郎も、こちらが動く素振りを見せれば即座に対応できるように警戒を怠っていなかっただけのことだ。
彼女は、自身に対魔力があるとはいえ、決してキャスターを侮ってはいなかった。純粋な魔術師の英霊ならば戦の勘も薄く、恐れるに足りないが、クー・フーリンとは歴戦の勇士。槍兵として最高位に位置し、個人の武勇で言えば間違いなくアーサー王を上回る大英雄だ。
生涯を戦いだけに生きた生粋の戦士と、戦いだけに生きるわけにはいかなかった王とでは、どうしたって差が出るものである。今のクー・フーリンは魔術師だが、その戦闘勘が鈍っているわけではない。鈍っていれば己の聖剣の一撃を凌ぎ、他全てのサーヴァントに追われながらここまで生き延びられるわけがないのだ。
「……キャスター。ランサーやアサシン、ライダーはどうした。貴公の追撃に出していたはずだが」
「ああ、奴等なら燃やし尽くしたぜ」
問うと、キャスターはあっさりと言い放った。
それはつまり、単独で、マスターもなく、潤沢な魔力供給のあったアサシンらを始末したということ。
流石に、英雄としての格が違う。槍がないからと侮るのはやはり危険だった。
「んなもんで、バーサーカー以外で、残ったのはお前さんだけだ。厄介なアーチャーもいねえ、心強い共闘相手がいる、俺としちゃここまでの好機を逃す理由がないわな」
「……消えかけの身で、私とシロウの間に割って入る愚を犯すとは、よほど命が要らないらしい。いいだろう、相手にとって不足はない。私に挑む蛮勇、後悔させてやる」
ぴり、と空気に電撃が走る。キャスターとセイバーは互いに身構えていた。
士郎はそんな両者を見比べ、己の状態を省みる。
……些か無理が過ぎたのか魔術回路が限界に近い。魔力は底が見え始め、体にガタが出ている。
マシュだって気丈に振る舞っているが、戦いの経験がなかった精神は限界だろう。その上でキャスターは消えかけときた。
対し、セイバーは時を置くごとに回復していく。折れていた左腕以外、既に元通りという有り様だ。時間はセイバーの味方、長期戦はこちらに不利。……であれば不利の要因を一つでも解消しなければならない。
士郎はキャスターに素早く駆け寄り、その肩に手を置いた。
「キャスター。パスを繋ぐ、受け入れてくれ」
「あ? いいのかよ、魔力はそこの嬢ちゃんに供給するだけで精一杯じゃねえのか?
「いや、供給源は俺じゃない。カルデアという、俺のバックにある組織のシステムから流れてくる。俺の負担になることはないし、これも一時限りの仮契約だ。不服はないはずだが、どうだ?」
「いいぜ、お前さんなら文句はねえ。仮とはいえマスターとして認めてやる。繋げよ」
「ああ」
肩に触れている手から、霊的な繋がりをキャスターに結ぶ。
すると、キャスターは異なる次元から流れてくる魔力を確かに感じた。へえ、こりゃいい、と感嘆する。
予想以上に潤沢な魔力――のような何かだ。不足はない。現世への楔となる依り代、マスターの器にも不満はなかった。マスター運も上向いてきたらしい、と好戦的に笑う余裕も出てきた。
それに、士郎は誰かに見せつけるように笑い、言った。
「……俺のサーヴァントはこれで二人になったわけだが、まさか卑怯とは言わないよな、セイバー?」
「……」
ぴくり、と騎士王の肩が揺れる。
そしてやおらキャスターを睨み付けると、静かに言った。
「……シロウに盾のサーヴァント、そこにキャスターが加わるとなれば、流石の私も分が悪い。敗色濃厚なのは認めざるを得ないでしょう」
「へえ、負け腰じゃねえか聖剣使い。そんなんで俺らの相手が務まるのかい?」
「さあどうだろうな。しかしなんにしても言えるのは一つだ。……盾の娘は、特別によしとしてもいい。だが貴公は赦さないぞ、光の御子。刺し違えてでも貴公だけは討つ」
「は……?」
突然の宣言に、クー・フーリンといえども呆気にとられた。そしてその横で、小さくガッツポーズを取る男が一人。キャスターは悟った。様々な無理難題を投げ掛けられ、また多くの悪女を知っている男である。この流れは実によく知っていた。
「テメッ!? 謀ったな?!」
「伊達に女難の相持ちではないということだキャスター。俺とマシュのため、当てにさせてもらう」
「ああそうかい! ちくしょう、マスター運に変動はありませんでしたってかぁ!?」
ニヒルに笑い、黒弓に剣弾をつがえる士郎は、光の御子の発する陽気さに当てられたのか先程までの悲壮感はなくなっていた。
親しき者でも、因縁の深い相手であろうと、語るべきことのある相手であろうと。今は、ただ勝つのみ。
決戦の直前、士郎は少し軽くなった心で、かつての罪の証に語りかけた。
「セイバー」
「……なんですか」
「いつか、お前を喚ぶ時が来るかもしれない。積もる話もあるが……それは、その時までお預けだ」
「――」
己の為したことは、決して許されることではない。だが無かったことにも出来ない。なら、いつかは向き合うべきで、そしてそれは今ではなかった。
セイバーは暫し目を見開き、士郎を見ていたが、その硬質で冷たい美貌にうっすらと笑みを浮かべる。
「……ええ。その時を楽しみにしています。しかし、」
「ああ、お前の負けず嫌い、骨身に染みて思い知っているよ。だから気持ちよく負かしてやる。――来い、セイバー。お前の負けん気に、キャスターが付き合う」
「俺かよ!?」
「はい。行きます、シロウ。そして覚悟しろキャスター。どうにも今の私は気が荒ぶって仕方がない。後腐れのないように全てをぶつける!」
「あーもう! わぁったよかかって来いや畜生めぇ! なんかこういう役回りが多いと思うのは気のせいか!?」
くす、とマシュは微笑む。
突然起こった事件だけど、最後はどうやら後腐れなく終われそうだった。
それに、マスターの士郎の心も晴れてきた。それはとても、いいことだと思う。
――決戦が始まる。しかし、そこに悲壮感はない。
約束された修羅場の士郎くん! 3
■約束された 勝利の剣(下)
――指示あるまで待機。別命を待て。
大聖杯のある空間にまで至った時、マスターはそう言ってアサシンに潜伏を命じた。
弓兵の時のように背中を刺せとでも言うのかと思いきや、どうやら違うらしい。
有効な手段であれば何度でも同じことをしてもいいが、相手は伝説の騎士王。極めてランクの高い直感スキルを持ち、奇襲などの手段が有効になることはまずないのだという。
であれば正面戦力としては脆弱と言わざるを得ないアサシンは騎士王に仕掛けるべきではない。手数として数えるよりも、手札として伏せていた方が応用が利くため最初は自分とマシュだけで当たり様子を見る。
……己のマスターの説明は明瞭であり、また誤った戦力の運用をしないとしたスタンスは正しいと判断した。ゆえにこそアサシンはマスターの指示に従ったのだ。
己に下された指示は待機の他に二つ。一つがマスターかデミ・サーヴァントの少女、どちらかが危機に陥った場合これを助けること。つまり身代わりになれと言われたのだ。
暗殺者が戦力として期待できないなら、戦力となる者のために盾とする――それは冷徹なようでいて実に合理的な判断である。
アサシンはその命令を受諾した。そして、もう一つの指示が――
(あれは……キャスターのサーヴァントか)
周囲の観察に余念のなかったアサシンだからこそ、誰よりも先にマスターらの戦闘領域に向かう存在に気づけた。
それは、マスターから説明された冬木の状況から推察するに、恐らくは聖杯に汚染されていない生き残りのサーヴァントであると考えられた。
一瞬、足止めするかと考えたが、それはやめる。あのキャスターは冬木の聖杯を争うサーヴァント。であれば敵対すべきはマスターではなく、セイバーである騎士王だ。物の道理に沿い、合理的に考えたなら、まずマスターの協力者となるだろう。よほど性質の破綻したサーヴァントでもない限り、その思惑を裏切ることはあるまい。
騎士王や聖杯に対する既知感、押し寄せる感覚を全て雑念として処理しつつ、アサシンはジ、とマスターからの指示を待ち続けた。
ややあって、キャスターを味方としたマスターと、盾の少女が騎士王との戦闘に移った。どうやら問題なくキャスターを戦力に組み込めたようだ。やはり抜かりのないマスターだな、と思う。
セイバーとの因縁も、問題なく感情と切り離して処理できている。感情的に振る舞っているようで、その実、極めて冷静な光をその鋭い眼光に宿していた。
そして一見ふざけているようで、騎士王からのヘイトを上手くキャスターに押し付けて見せた。単独戦闘能力はもとより、計算高さもまた充分なものだと品定めをする。真にマスターとしての力量を持つか、これで判断できた。
彼は、恐らくマスターとしての適正が極めて高い。合理的でありながら時として非合理的に物事を考え、結果として最善を掴む。実戦経験は豊富で、硬軟併せ持った思考能力を持つが故に物腰に余裕があり、対人関係に支障を来たすこともない。話してみたところ思想は善に傾き、余程歪んだ者でもない限り問題なく戦力として活用できる知性もある。加えて、かなりの戦上手でもあるな――アサシンはもう一つの指示を思い返し、胸中にて独語した。
『不慮の事態を想定し、大聖杯の真下に伏せて周囲への警戒を怠るな』
……特異点という異常地帯では、常に想定外の事態が起こり得る。名将の資質とは、そういったものへの備えを怠らないこと。
何があるか分からない――分からないということは戦場では最大級の危険であるのだ。そういったものに備えるのは当然である。
『予想外だったから防げなかった』というのは言い訳にもならない。未知のトラブルに対するカウンター措置を用意するのは武装集団としての鉄則であった。
そういう観点から見ても、衛宮士郎はマスターとして申し分ない。彼なら上手くやるだろうとアサシンが信用できるほどに。
(大聖杯の真下で待機か。位置も見晴らしもいい。ここからならマスターの戦闘も、作戦領域に侵入しようとして来る存在も見通せる。……唯一警戒すべきものが、最も近い位置にある聖杯の泥とはね。皮肉なものだ)
下手に聖杯への注意を切れば、時折り溢れてくる泥に呑み込まれてしまう。そんな阿呆のような末路を晒すわけにはいかない。
ことが人類史に関わる重大事である。この場にいる全ての者に失敗は許されず、特異点を修復し、定礎を復元するためならこの一命を賭す価値が充分あった。
(さて。お手並み拝見だ、カルデアのマスターさん)
この身を捨て駒とする用意はあった。用いるか用いぬかはマスターが決めることだ。そこまでは関知しない。
熱のこもらないアサシンの視線の先で、冬木最後の戦いが繰り広げられていた。
――流石に強いな。
不遜だが、俺も頭数に入れると三対一になるというのに、黒い騎士王は一歩も退くことを知らなかった。その奮迅はまさに獅子の如し。彼女の実力をよく知る俺ですら瞠目するに値した。
左腕は折れたままだというのに、押されているのはむしろこちらの方。このまま両腕をセイバーが取り戻したら、きっと戦局は絶望的なものとなる。
だが、妙な気分だった。俺は黒弓に次々と矢をつがえ、目標に射ち込みながら独語する。
視界が拓け、心が澄み、頭が冷たい。なのに胸は熱く、自身を俯瞰する視点にブレは微塵も現れない。
限界は近い。指は固く、魔力も集中力も底を突きそうだ。……なのに何故だろうか。全く以て、負ける気がしなかった。
マシュを前衛に押し出し、キャスターをその背面に配置して詠唱させる。自身はひたすらにセイバーへ矢を射掛けるのみ。それだけだ。大火力の攻撃は、キャスターに任せた。
対魔力を突破できるのか。そう訊ねると、自信ありげに任せろと言われた。ならば信じるのみ。大言壮語で終わらない、英雄の言葉を信じずしてなんとする。
マシュの動きも鋭さを増していく一方。身に宿した英霊の戦闘技術の継承がもうすぐ完了するのだろう。生き生きとし始めたのが傍目にもはっきりとわかる。
射撃に徹する傍らで、時折り鋭く警告を発する。セイバーの動きの癖、思考パターンを洞察し、彼女の狙いがマシュからキャスターに、キャスターからマシュに移り変わるタイミングを何度も指摘した。
セイバーの剣は基本に忠実な王道のもの。奇を衒うよりもその剛剣にこそ注意せねばならない。随所で、要所で、強力な剣弾を射出してセイバーの意識をこちらに向けさせて、キャスターやマシュの援護を完璧に果たす。
セイバーは俺の矢を無視できない。一度は俺の矢であわやというところまで行ったのだ。投影した剣弾は爆発させれば充分な攻撃力を発揮する。俺から目を逸らそうものなら、なけなしの魔力を振り絞って宝具を投影し、決定打を放つ腹積もりでいた。
それが分かっているからか、壁役のマシュの守りを叩きながら、キャスターに化け物じみた魔力を乗せた卑王鉄槌を撃ち詠唱を妨害しつつ、徐々に聖剣に魔力を込めていっている。
起死回生、聖剣の一撃に賭けるつもりなのか。臨界にまで達した聖剣が黒い極光の柱となって膨張している。鉄壁の防御を固めたマシュをいなしつつ、遂に左腕を癒しきった騎士王が逆襲に走った。
――約束された勝利の剣ッ……!
解き放たれる闇の剣。究極斬撃。キャスターを狙った人類最強の聖剣は、しかし展開された燐光の盾に防がれる。苦し紛れの聖剣は、この盾にだけは通じないと分かっているはずなのに……いや、これは!?
俺は目を剥いた。聖剣の振り終わり、切って返す振り上げの一撃は、まだ瀑布のような魔力をまとっている!
――何回耐えられる、盾の娘! 行くぞ、約束された勝利の剣!!
連発! 聖杯からの魔力供給は凄まじく、セイバーは聖剣の連射によって盾の守りを突破しようというのだ。なんたる力業、暴竜が如き息吹。
アァァァ――ッ! マシュが悲鳴に近い声で吠えた。度重なる疑似宝具展開に限界を迎えたのだろう。だが、猛攻は終わらない。
――まだまだ行くぞ、約束された勝利の剣!!
「体は剣で出来ている――」
熾天覆う七つの円環!
咄嗟に手を伸ばしマシュの盾に重ねるように薄紅の七枚盾を投影する。出力の弱まっていたマシュの盾ではもう防げないと確信したのだ。
全身から魔力を振り絞っての投影。七枚の花弁、その一枚一枚が古の城壁に匹敵するが、しかし。一瞬の拮抗の後にその全てを闇の津波に破壊され、マシュもまた弾かれるようにして吹き飛び気を失った。
「キャァスタァア!」
「任せぇろォ!」
力なく倒れ伏すマシュを気遣う余裕はない。鼻血を吹き、右肩から剣を突き出させながら吠えた。
応じるのは詠唱を完了させたケルト神話最強の大英雄。影の国の門番、女王スカサハに授けられた原初の十八ルーン、その全てを虚空に描き同時に起動した。真名を解放、渾身の言霊を込めて光の御子は唱える。
「大神刻印――!! 善を気取り悪を語るもの、二元の彼岸問わずに焼き尽くされなァ……ッ!」
光が奔る。大気が燃える。音が砕け世界が染まる。
ランクにしてA、対城宝具に位置する魔力爆撃。光の御子のルーン使いとしての奥義は黒い騎士王の対魔力を貫通した。
総身を灼かれ、莫大な熱量に包まれ騎士王の姿が消えていく。
その様を見ながら、しかし俺は無意識の内に唱えていた。
「投影、開始」
腹から、背から剣が突き出る。血反吐を溢しながら、死力を尽くした。
手には息をするような自然さで、黄金の宝剣が握られていた。それは、俺があの日、彼女のために投影した彼女の剣。選定の、剣。
息も吐けぬまま、黒弓につがえる。そして、何も見えない光の中へ、狙いも定めずに撃ち放った。
――まるで、導かれるような一射であった。
全身に闇の魔力をまとい、全力で耐えきった黒い騎士王は、満身創痍の瀕死の姿で大神刻印の只中から飛び出し脱出する。上位の英霊ですら燃え尽きるような光を、その対魔力と回復力、溢れんばかりの魔力放出によって耐え、辛うじて死を免れたのだ。
その胸の中心に、勝利すべき黄金の剣が突き立つ。
「……信じていた。お前なら、きっと、こちらの予想を上回る、って……」
こほ、と俺とセイバーは血を吐く。
セイバーは、力なく微笑んだ。
「――シロウ。本当に、強くなりましたね」
「ああ……まったく。負けず嫌いも大概にしろよ……」
「まだ終わりではないのです。聖杯探索は、これからが始まりなのですから」
「……そうか、まだ、終わりじゃないのか」
思い出したように笑い、俺はセイバーが投げて寄越した水晶体を受け取った。
「……これは?」
「見た目では分からないでしょうが、聖杯です。それは、私に勝った貴方のものだ。どうか受け取ってほしい」
「……わかった。これで終わりじゃないのなら、セイバーともこれが最後というわけでもないだろう。……また会おう。今度は肩を並べるために」
黒い騎士王は、ただ微笑んで、消えていった。
キャスターが嘆息する。その体は、セイバーに続いて消えかけている。
聖杯戦争が終わったのだ。ならば、後は消え去るのみ。
「やれやれ大事の気配だな。ま、いいさね。お前さんなら上手くやるだろう。もしオレを喚ぶようなことがあんなら、そん時ゃランサーで呼べよ」
「……ああ。是非、そうさせてもらう。ついでだ、心臓を突かれた時の恨み、晴らさせて貰うかな」
は? と疑問符を浮かべたキャスターの髪を数本引き抜き、投影した魔力殺しの聖骸布で包む。これで、キャスターが消えても髪の毛だけは保存できるだろう。
それをキャスターは微妙そうに見て、仕方無さそうに苦笑した。
「……ったく、こき使う気満々じゃねえか。貧乏くじばっかだねぇ、俺も。……じゃあな、小僧。次は仮契約じゃねえ。お前の槍として戦ってやる」
そう言ってひらりと手を振り、キャスターもまたあっさりと消えていった。
俺は思わず体から力を抜いて、その場に座り込みそうになる。
だが、今座れば立ち上がるのに相当の時間を要する気がして、なんとか立ったまま天を仰ぐ。
……マシュを起こそう。
特異点を作り出していた原因とおぼしき聖杯を手にいれたのだ。じきに、この特異点は修復され、定礎も復元されて何もかもがなかったことになる。
カルデアからの連絡もまだだが、そろそろ来るだろう。後は事態の推移をロマニに説明するだけだ。
と――その時。
マシュに歩みより、体を揺すって起こそうとする俺の背中に、ここにはいないはずの男の声が掛けられた。
「やあ、衛宮士郎」
「……レフ・ライノールか」
振り返ると。そこには人外の気配を放つ男の姿があって。
俺は、うんざりしたように溜め息を吐いた。
卑の意志は型月にて最強
士郎「変身しそうだった。今なら殺れると思った。今は満足している」
――などと意味不明な供述を繰り返してしており、被告からは終始反省の色はうかがえませんでした。
士郎「反省も後悔もしていません。同じことがあったらまたやります。『俺は悪くない』」
――と検察側に語り、再犯の可能性は極めて高いと言わざるをえず、重い実刑判決が下されるものと見て間違いないとカルデア職員一同は――
「――というわけだ。納得頂けたかな? マシュ、ドクター」
カルデアの管制室にて。
特に何事もなく帰還した俺が特異点Fでのあらましを語り終えると、マシュは沈痛な顔で『まさか教授が……』と俯き、ロマニは難しい顔をして黙り込んだ。
「あっ――っははははははは! なんだそれ、なんだそれ――!!」
唯一、声を上げて爆笑しているのは、三年前にカルデアに召喚されていた英霊、万能の天才ことレオナルド・ダ・ヴィンチその人のみ。
管制室のモニターをばんばんと手で叩きながら、モナリザに似せた姿形の美女(に見える男)は、目に涙すら浮かべて笑い転げていた。
抱腹絶倒とはこのことである。ある種、見事なまでの笑いぶりに、呆れたようにダ・ヴィンチを見遣るロマニとマシュ。眉を落として肩を竦める俺。一頻り笑い続けていたダ・ヴィンチだったが、暫くして気が済んだのかようやく笑いを収めた。
「それで? 奴さんは最期になんて言ったんだい?」
まだ知り合って間もない相手ではあるが、その問いは俺にとって許しがたいものである。憮然として言った。
「最期の言葉を許すほど、俺もアサシンも甘くない」
「……つまり、何も言えなかった? 捨て台詞の一つも?」
「もちろん」
「……ぷふっ。な、なんだそれ……なんだそれ! 悪役としても三流とは! 傑作だよ!」
ダ・ヴィンチはもう辛抱堪らんといった風情だった。彼の中の悪役像が気になる物言いである。
――時は一時間前に遡る。
セイバーを倒した後に聖杯を確保し、聖杯戦争の終結に伴いキャスターが消滅すると、俺はマシュを起こしてカルデアへ通信を試みようとしていた。
その時だ。突如、俺の背後に現れた緑の外套の男、レフ・ライノール。奴は頼んでもいないのに勝手に自分がカルデア爆破テロの犯人と名乗り出て、しぶとく生き残った俺を罵倒し、カルデアがまだ機能していることを知っていたのか「どうせカルデア内の時間が2015年を過ぎたら、外の世界と同じく焼却されるさだめにあるのさ!」と語ってくれた。わざわざタイムリミットを教えてくれるというおまけつきで。
あまつさえ、何を勝ち誇っているのか、レフの言う「あのお方」なる黒幕の存在を教えてくれて、他にも特異点が発生することまで丁寧に教えてくれた。
後は、この消えてなくなる特異点と運命を共にするといい! などと吐き捨て去っていこうとした所を、
まあ、あれだ。
……真に申し訳ないが、あんまりにも隙だらけだったもので。
つい、殺っちゃったわけである。
こう、アサシンに背中を刺させて。ぐさり、と心臓を一突き。まあ、なんだ。それだけだと死にそうになかったので、剣弾を都合七発叩き込んで針鼠にした。アサシンも念のため宝具のナイフを撃ち込んだ後、キャリコで滅多撃ちにしていたものだ。
結果、大物を気取る小物なテロリストを、なんやかんやと仕留めることが出来たわけである。
あまりにも予定調和過ぎて描写の必要性も感じないほどで、見所だったのは殺されてしまった自分を自覚し、顔を歪めたところだけだった。
な、アサシン……!?
あの顔はそんな驚きに染まっていた。一時とはいえ同じ組織に属した仲間だったこともあり、なんとも言えない気分にさせられたものだ。
「……」
ロマニは難しい顔のままマシュの状態をチェックしておきたいという名目で、マシュを穏便に管制室から追い出した。
それから、彼にしては珍しくかなり真剣な面持ちで俺に問いかけてくる。
「……それで、今の話だけど、僕はどこまで士郎くんを信じていいのかな?」
「む。ロマニは俺が信じられないのか?」
それは、緊急時とはいえ、カルデアのトップに突然立たされた男の責任感ゆえの問いだった。
個人的に信じられるかどうかではない。組織人として信用できるのかを見極めんとする、当たり前の疑いである。こんな問いかけをすること自体、人のいいロマニにとっては辛いはずだ。
それを理解しているから、俺は疑われたぐらいでロマニに怒りの感情を抱くことはなかった。
やや芝居かかった俺の態度に、しかしロマニは真摯に応じる。
「信じたい。けど、それ以上に僕はレフ・ライノールが裏切り者だったことが信じがたいんだ。悪いけど、僕はその現場を見ていないからね」
「……まあ尤もな話ではあるか」
奴と俺では積み上げてきた信頼の度合いが違う。俺を信じろ! などと強弁したところで、なんの証拠もなく信じられるものではない。
むしろ俺の方が怪しいとも言えた。一番始めにカルデアの内部犯に対する防備の薄さを危険視し、防備を固めるべしと提言。実際に爆破テロがあり、俺は狙ったように生き残り、レイシフトした上で帰還した俺の方がよほど胡散臭かった。端的に言って、出来すぎなのである。
だが、俺が何かを言うより先に、ダヴィンチが意味深に笑みを浮かべながら言った。
「無駄な問答はやめときなよ、ロマニ」
「……無駄かな、これ」
「そりゃ無駄さ。カルデア最後のマスターは、我々にとって幸運なことに頭の切れる歴戦の勇士だ。これを見てみなよ、彼の経歴をまるっと纏めた資料だ」
ダ・ヴィンチはカルデアが収集したとおぼしき俺の過去を記した資料を懐から出し、ロマニに渡す。その用意のよさに俺は微妙に嫌な気分になった。
ロマニは医療機関の人間だったからか、詳しく俺の活動記録を把握していなかったのだろう。ざっと速読するだけで目を点にしていた。
……複雑なものだ。本人を前にそんな物を持ち出されるのは。
嫌そうに顔を顰める俺を尻目に、ロマニは感心した風に呟く。
どこか安心したように。
「……士郎くんは掛け値なしに善人なんだね、やっぱり」
「やめろ。そう改まって言うことか。ダ・ヴィンチが言いたかったのはそんなことじゃないだろう」
「そうさ。ロマニ、大事なのは彼が善人かどうかじゃない。読んでて気づかないかい? 彼は何度も外道な魔術師を狩っている。つまりそういった人間に対する嗅覚が備わっているのみならず、魔術協会から咎められないよう、保身を計れる計算高さがあるということさ。そんな彼が、己が潔白の証明を疎かにするはずがない。あるんだろう? 士郎くん。君には自分の証言の正しさを証明する物証が」
何もかも見通したような言葉に、俺は苦笑した。なるほど、頭の出来が違う。この男ほどの智者には、俺如きの浅知恵など無意味らしい。
肯定するように頷いて合図を出そうとすると、ふと資料を眺めていたロマニがあれ? と声を出した。
「? どうしたロマニ」
「いや、これ……なんか『殺人貴』とか書いて――」
ぐしゃ。
ぬっと腕を伸ばしてロマニの前にある資料を握り潰す。ああっ! と声を上げるロマニを俺は黙殺した。
「――無論抜かりはない。俺への疑いを張らす証拠はきっちり確保してある。……マシュをこの場から外してくれたことには感謝するぞ、ロマニ。あまりあの娘には見せたくない代物だからな」
言って、今度こそ俺は合図を出した。
何もなかったはずの場所に、突如、深紅のローブを被った暗殺者が現れる。
ぎょっとしたように体をびくつかせたロマニと、感嘆したように口笛を吹くダ・ヴィンチ。
「見事な気配遮断だ、この私が全く気づかな……ああなるほど。それは確かにこれ以上ない物証だね」
感心したように頷いたダ・ヴィンチは、しかしそれを見て表情を真剣なものにする。
ロマニが呆気に取られたように目を見開く中、アサシンは肩に担いでいたものを、無造作に投げ出した。
それは、人型の化け物、人外の存在。
レフ・ライノール。そう名乗っていた男の、魔神柱とやらへの『変身途中』の遺体だった。
俺達の戦いはこれからだ!
管制室から出た瞬間、男は膝から崩れ落ちるように倒れかかった。
「君は……なんというか、実に馬鹿だな」
それを。アサシンのサーヴァントは受け止め、肩を貸しながら心なし呆れたように呟く。
士郎は、口許に微かな弧を描きながら、囁きに近い声音で応じた。
「……すまん、切嗣」
「名前で呼ぶな。僕はアサシンだ」
「なんて呼ぶかは、俺の自由だけどな」
「……」
この期に及んで調子を崩さない男に嘆息し。アサシンは利かん坊のマスターをさっさと医療スタッフに引き渡すことにした。
外面こそ取り繕っているものの、マスターである男の体は危険な状態だった。
現状、ただ一人マスターの能力、その詳細を聞かされているアサシンは、自身も固有結界を取り扱う魔術の使い手ということもあり、彼の体内で固有結界が暴走し術者の体を害していることがはっきりと分かっていた。
体の内側から剣に串刺しにされ、魔術回路もショート寸前。一般的な魔術師の魔術回路の質が針金だとすると、マスターの魔術回路の強度はワイヤーである。そんな馬鹿みたいに強靭な回路が焼き切れる寸前なのだ。どれほどに無理を重ねていたのか、阿呆でも分かろうというもの。
今、マスターは控えめに言ってズタ袋のようなもの。ただ生きてるだけの肉袋とも言える。彼が感じている痛みは、絶え間なく熱した鉛を全身に振り掛けられているようなものだろう。よく正気でいられるものだ。
――いや、あるいはもう、正気ではないのか。
この男は狂っている、とアサシンは思う。
だが、それでいい。狂いもせず、人類の命運は背負えやしない。それほどに重いものなのだ、自分以外の命を背負うということは。
マスターは、とっくの昔に限界なんて越えているだろうに、ただ見栄を張りたいがために平気な顔をして管制室に足を運び、自身が得た情報を提供してこれからの方針を話し合っていたのだ。
アサシン以外の目がなくなって、ようやく張り詰めていたものが切れたのだろうが……よりにもよって、この男は最もアサシンを信頼している。愚かなことだと暗殺者は思った。
「君をこれから医療スタッフに引き渡す。なにか言いたいことは?」
「ああ……ちょっと待て」
「なんだ」
「その前に、風呂に入りたい」
「……そんなもの、君が寝てる間に医療スタッフが清潔にしてくれる。死にかけの身で気にするようなことか」
「俺はこの程度じゃ死なないよ、切嗣」
そう言われて、一瞬ぴたりと足を止めた。
あたかも、このレベルの負傷は体験済みとでも言いたげな物言いである。流石のアサシンも閉口しそうになったが、マスターに言われると思わず納得しそうになった。
「死んでなければ安い。あんたもそう思うだろう」
「……」
確かにと思ったアサシンは、マスターと似た者同士なのかもしれない。
しかしアサシンとマスターの命は等価ではない。アサシンの代わりはいるがマスターにはいないのである。同じ尺度で図れるものではなかった。
「君は自分の価値をもっと自覚するべきだな。君というパーツは、唯一無二のものだ。僕と同じ視点でものを言う資格はない」
「……なあ、切嗣」
「……」
「……アサシン」
「なんだい?」
「俺のことは名で呼べ。君とかあんたとか、他人行儀な姿勢は好ましくない」
「……君は、まだ僕を自分の父親に重ねて見ているのか?」
「いや。だが俺達はもう『戦友』だろう」
その言葉に、思わずアサシンはマスターの顔を凝視した。
正気か、と再び思う。狂ってる、と思う。いや、と首を振った。コイツは、ただのバカだ。
「親子以前に、命を預け合う関係なら、もっと信頼し合うべきだ。こういうのは一方通行じゃ意味がない」
「……」
「切嗣」
「……はあ。とんだマスターに召喚されたもんだ。わかった、マスター命令だ。大人しく従うとする。士郎――これでいいかい?」
「グッドだ」
満足げに微笑み、士郎はぐったりと体から力を抜いた。
医療スタッフにマスター……士郎を引き渡しながらアサシンは思う。
その笑顔は、あの少女にでも見せてやるんだな、と。
ふと目を覚ますと、無機的な清潔さを保つ部屋にいた。
視線の先には染み一つない白い天井。左手首には点滴を繋ぐ管がある。思ったように体が動かなかったので、視線だけを彷徨わせると、鈍った頭で自身が病室にいることを悟った。
全身には包帯。何やら薬品臭いところから察するに緊急的な手術でもあったのかもしれない。
大袈裟な連中だ、と思う。こんな程度でどうこうなるほど柔じゃないのに、と。
だがまあ、疲れていたのは確かだ。少しくらいなら大人しく休んでもいいか、と曖昧に呟く。声には出なかったが、気配はしたのだろう。右手側に、んぅ、と可愛らしい寝息が聞こえた。
そちらに目を向けると、マシュがいた。白衣に、眼鏡。縋りつくように俺の手を握っていた。
「……」
その姿がいじらしく、なんとも言えない擽ったさを覚えて、俺はなんとなしに少女の髪を右手で梳いた。
心地良さそうに、マシュは相好を崩す。
子供の頭を撫でるのには慣れていた。流石にマシュを子供扱いはできなくなってきたが、それでも俺の中でマシュは慈しむべき妹分なのだ。……まあ世界中の弟分も含めたら結構な数になるが、それは言いっこなしだろう。血の繋がりだけが全てではないのだから。
ふと、マシュが目を開いた。そして俺と目が合う。
「あ……せんぱい……」
寝惚け気味にこちらを見て、嬉しそうに俺を呼ぶ。なんだか夢見心地のようで、暫く呆としていたが、少しして意識が戻ったのだろう。
ハッとして目を一杯まで見開くと、驚き七割喜び三割といった表情で口を開く。
「ど、ど、」
「……ど?」
「ドクター! 先輩が目を覚ましました! ドークーター!!」
突然跳ね起き、ロマニを呼びながら病室から飛び出ていった。それを眺めながら、俺は苦笑する。
クールな外見に反して天然なところもある。それがマシュだった。時に独特な物言いもするし、変わったところも多々あるが、それでもいい娘なのに疑いの余地はない。
ところで、俺はどれぐらい寝ていたのだろう。
支給されたカルデア戦闘服を個人的に改造し、その上にいつぞや出会ったカレー好きの代行者から譲り受けた、赤い聖骸布を纏っていたのだが、今の俺は見ての通り病人服姿である。
剣にかける魔力消費量より二倍かかるが、投影できないこともない。しかし思い入れのある品なので、出来れば目の届くところに置いておきたいのだが……。対魔力の低い俺にとって、外界への守りである赤い聖骸布は命綱なのだ。手元にないと心もとなくなる気持ちも分かってほしい。
そんな益体もないことをつらつらと考えていると、妙に慌ただしい足音が聞こえてきた。
ばしゅ、と空気圧の抜ける音と共に扉がスライドする。飛び込むように入室してきたのは気の抜けた雰囲気のロマニである。
「士郎くん!」
ロマニは俺と目が合うと、大慌てで俺の体の調子を調べ始めた。
機械を使い、触診し、俺が健常な状態と知ると大きな声で俺に怒鳴った。
「ほんっ――とに、君はバカだなぁ!」
「……起き抜けに失礼な奴だな」
あんまりな物言いに、温厚な俺でもムッとする。
なにやら俺が、如何に酷い状態だったか言い聞かせてきたが、聞くだけ無駄なので聞き流す。こういう時の医者はやたらと話を大きくしたがるのが悪いところだと思った。解析の結果、俺はもういつでも動けると分かっているのに。
やがて怒鳴り疲れたのか、ロマニは肩で息をしつつ気を鎮めた。無理矢理落ち着けた語調で、ロマニは言う。
「……士郎くん。君は、自分がどれぐらい眠り続けたか分かってるのかい?」
「さあ。……三日?」
「一週間だ! 君が寝ている間に、次の特異点も発見してある!」
「……なるほど。じゃあすぐ行こう」
「バカ! このおバカ! 病み上がりに無理させられるわけあるか! 君はカルデア最後のマスターなんだぞ!?」
「だからこそだ」
荒ぶるロマニを受け流しつつ、俺はベッドから降り立った。思ったより両足はしっかりとしている。これなら激しく動いても問題あるまい。
「ちょ!? 安静にするんだ! 医療に携わる人間として見過ごせないぞ!」
「あー、わかった、わかった。次の特異点とやらを修復したらゆっくり休む。だからそう騒ぐな」
「僕は! 今! 休めと言ってるんだよ!!」
「ロマニ、頼みがある。戦力増強のためサーヴァントを喚びたい。大至急条件を整えてくれ」
「人の話を聞かないなぁ君は!」
近くにロッカーがあったので開いてみると、そこには黒い改造カルデア戦闘服と、赤い聖骸布が納められていた。
手早く着替え始める俺を無理にでも取り押さえようとするロマニを片手であしらいつつ、着替え完了。
ぜぇはぁと息を乱すロマニに、俺は言った。
「頼む。急ぎなんだろう?」
「……ちくしょー! 後で休ませるからな! 縛り付けてでも休ませてやる! マシュに頼んで押さえつけてもらって、レオナルドに怪しげな薬を打ってもらうからな!」
「わかった」
善は急げだ。早くしろよ、と部屋から追い出し、俺もさっさとロマニに続いて病室から出た。
特異点が特定されているのなら一刻の猶予もない。俺は病室の外で待っていたらしいマシュに声をかける。
「マシュ、ちょっといいか?」
「先輩……。……どうせ、休んでくださいって言っても無駄ですよね」
「分かってるじゃないか。いや、中でのやり取りが聞こえたか? まあそれはいい。俺にはマシュがいる。マシュが俺を守ってくれるから、何も怖くはない」
「もう。調子がいいんですから」
さしものマシュも苦笑せざるを得ない言い方だった。でも、悪い気はしない。本当に悪い人です、と小さく口の中で呟いたのに、俺は気づくことがなかった。
マシュに頼み、俺は英霊召喚のために用意されていた部屋に向かった。彼女の盾が召喚の基点になるとはいえ、一応マシュがいる中で召喚した方がいい。
「触媒は使わないんですか?」
「使わない。呼び掛けることが大事なんだ。仮に彼女が召喚できなくても、俺はちゃんと呼んだって言い訳になる。出てこないそっちが悪いってな」
「……流石先輩。保身に長けてますね」
「……皮肉? マシュが? ……そんなまさか」
ちくりと言葉で刺された気がしたが、俺は気のせいということにした。
マシュに毒を吐かれたら自殺ものである。泣きたくなるので勘弁してほしい。
俺はここに来るまでにダ・ヴィンチの工房からくすねてきた呼符をマシュの盾に設置した。
「さて」
鬼が出るか蛇が出るか。
伸るか反るかの大博打、実はあまり期待してない。
召喚を始める。光が点る。
爆発的な魔力が集束し、英霊召喚システムとカルデアの電力が唸りをあげる。
やがて、一際強く光が満ち、召喚は恙無く完了した。
「――ここまで来ると腐れ縁か」
苦笑して、呟く。
光の中に現れたシルエットは――
「サーヴァント、セイバー。召喚に応じ参上しました。問います、貴方が私のマスターですか?
――シロウ」
ああ、と頷いた俺。まさか本当に来るとは思わなかったが、結果オーライという奴である。
本命はランサーのクー・フーリンです、といったらどんな顔をするだろう。
ちょっと見てみたい気もしたが、ぶん殴られそうなので黙っておく。
なんにせよ、
「そうだ。久しぶり、セイバー。……アルトリア」
名を呼ぶと、光の中から現れた『青い』装束の少女は微笑み。
マシュは少しだけ機嫌悪そうに、俺の袖を掴んでいた。
「俺達の戦いはこれからだぞ、二人とも」
だから仲良くしてください。
俺はそう心の中で一人ごちる。
――こうして、俺達の人理を巡る戦いは幕を上げた。
勝てるのか、と心の中で誰かが弱音を吐いた。
勝てるさ、と俺は意図して断じた。
俺がやらないで誰がやる。俺が勝てないなら誰が勝つ。
必ず勝つ。勝って、俺は俺の誇れる俺になる。
未来は俺に任せろ。俺は不可能を可能にする。人類は俺が救う。俺が生きた証を残すため、世界よ、俺のために救われろ。
決意は胸に秘めるもの。だが一度だけ言わせてほしい。
「――俺達は無敵だ。そうだろう、二人とも」
決意表明。青臭いが、きっとこれでうまくいく。
セイバーが。マシュがいる。なら、俺の心に不安なんて生まれない。
迷いがないなら、俺の道に壁はない。
――俺達の戦いはこれからだ!
メンタルケアだよ士郎くん!(※なおする側の模様)
前書き
コミュ回。
――何時か何処かの時間軸。
ロマニ・アーキマンは、部下の医療スタッフが疲れきった顔をしているのに対して、柔和でありながら真摯な面持ちで向き合っていた。
ここカルデアがレフ・ライノールによる爆破により壊滅的な損害を被り、スタッフの過半数が死亡、マスターがたった一人きりとなって暫くが経った。世は全てこともなし――なんてことがあるわけもなく、今日も今日とて激務に沈む。
親しい同僚を亡くし、外界は滅び、日夜新たな人類史の異常を探りながら、なけなしの物資を遣り繰りする日々が続いている。
タイムリミットは一年もないのに目に見える成果は殆どない。そんな状況で気の滅入る者が居ないはずもなく、スタッフの中には絶望し自殺を試みる者まで出始めていた。
医療機関のトップであったのが、他に幹部がいないからという理由でカルデアのトップに立たされたのはロマニである。彼は士気の低いスタッフ達のメンタルをケアしながら、全体の作業の指揮を執るという激務という形容すら生ぬるい環境の只中にあり、気の休まる時間がない所か、体を休めることも儘ならない有り様だった。
――レフ・ライノールは実にいい仕事をしてくれたものである。
彼は分け隔てなくカルデアの破壊工作に尽力し、その被害は七割にも及んでいた。戦争で言えばとっくに詰んでいると言っていい。
そんな状況だから、スタッフの一人一人が担う仕事量は贔屓目なしに見ても殺人的なもの。医療スタッフも手隙の者がいたなら、他の部門のスタッフのメンタルをケアしつつ、その仕事を補佐して回らねばカルデアが立ち行かなくなっていた。
必然タフな医療スタッフも限界を迎え、他のスタッフには見せられない弱った姿を、自身の直属の上司であるロマニに晒して精神の安定を計っていた。
他者のメンタルをケアする側の人間が、精神的に疲弊した姿を周囲に見せられる訳がないのだ。誰が弱っている者に縋れる、寄りかかれる。ロマニの部下である医療スタッフ達は、もはやカルデアの精神的支柱となっていたと言っていい。そんな彼らは気負わざるをえない。その重責に、自身の心の均衡が崩れ始めてしまっても無理からぬ。
だが、もし生き残った医療スタッフの一人でも心が折れてしまえば、途端にそれはカルデア全体の空気を汚染し、致命的な事態を引き起こしかねなかった。故にロマニは部下達の状態に常に目を光らせ、部下達の倍以上に働いた。
自分のそんな姿を見せて、まだカルデアは大丈夫なのだと示さねばならないから。
自分達なら人類史の修復という、有史以来最大の大偉業を成し遂げられると信じさせねばならないから。
ロマニは目立たないが、確かにカルデアの大黒柱となっていた。……ならなくてはならなかった。
「……」
部下との談話を終え、和やかに別れたロマニは、自室に戻るとストン、とベッドに腰を落とした。その寝台が使用された形跡はない。
ロマニは時計を見た。
午前3時。あと2時間後には部下が起床していつもの仕事に入るだろう。それまでに自分も出なくてはならない。
今、横になったら起きられないだろうな、と思う。だからロマニはベッドに腰かけていたのを、デスクの椅子に移って体から力を抜いた。
座ったままの仮眠。これなら一時間で起きられる。健康には悪いが……なに、一年も耐えなくてもいいとなれば楽なものである。直接命を張っているマスターの彼より、よほど楽な仕事だった。
呆と、頭を空にして虚空を眺める。明かりは点いたままで、照明が眩しい。だが、なんでだろう。眠気がない。……ちょっと、まずいかな、と思った。
思考が鈍い。仕方ないから薬でも飲んで誤魔化そうと決めた。今、自分が倒れたら、誰がカルデアを支える。マスターの彼と、マシュを誰が助けられる。
スタッフの中に、余裕のある人間なんていない。体力的にはまだまだ元気な自分が頑張らなくてどうするというのだ。そう自身を励ましていると、ぱしゅ、と空気圧の抜ける音がして、扉がスライドした。意識なくのろのろと目を向けると、そこにはロマニの部屋を訪ねてきた男――黒塗りの改造戦闘服を纏った衛宮士郎が立っていた。
「よっ」
なんて言って、二つのグラスと酒瓶を持つ手を上げてくる士郎。瞬間、ロマニの意識は覚醒した。
かっと頭に血が昇る。唾を飛ばす勢いで士郎に食ってかかった。
「士郎くん!? なんでこんな所に……! もう午前3時だぞ!? 特異点が新しく特定されたばかりなのに、どうして休んでないんだ! 君の状態は常に良好に保ってないとダメだってあれほど――」
「ああ、はいはい、わかってるわかってる。だから、な? 落ち着けロマニ」
無理矢理ベッドにまで押し返され、ロマニは片手で押し込まれるようにして座らされた。暴れる患者も押さえつけられるロマニが、腕力でまるで相手にもならない。流石に精悍な戦士は体格が違う。
「医者の不養生とはよく言ったものだ。気づいてるかロマニ、酷い顔だぞ」
「えっ……」
言われて、ロマニは自分の顔に手を這わせた。目元に出来ている隈は隠してる。顔色もなんとか。
ロマニにグラスを押し付けると、士郎は椅子をロマニの前まで運んでどかりと座る。そして、無造作にロマニに凸ピンを食らわせた。
「あっだぁぁー!」
凄まじい威力に頭が吹き飛んだかと思った。
「いきなり何をするんだ!」とロマニは抗議したが、士郎は聞く耳を持たず。
ロマニの手にあるグラスへ酒瓶の中身を――果実酒をなみなみと注いでいた。
「……えっと?」
「苺の果実酒、手作りだ。市販されてない奴だぞ。飲めロマニ。たまには男二人、酒を酌み交わすのも悪くないだろう」
「……」
視線を手元に落とすと、そこにはなんとも旨そうな果実酒があった。
知らず、喉を鳴らす。恐る恐る口に運んでみると、程よく甘く、アルコールが気持ちよくするすると胃の腑の中に落ちていった。
「……美味しい。すごい、こんな美味しい果実酒、飲んだことがない」
「そうか、それはよかった。そう言ってもらえると、手間をかけた甲斐があるというものだ」
無骨に笑いながら、士郎も酒を口に含んだ。 暫しの沈黙。ちびちびと果実酒を飲んでいると、ふとロマニは気づいた。
「……これ、レモン入ってる?」
「入っている。普通は気づかない程度なんだが、意外と舌が肥えてるんだな」
「……もしかして僕、気遣われてたりするのかな」
果実酒は、苺もそうだが、レモンもビタミンCを多く含み、ストレスへの抵抗性と心身の疲労を回復する効果があった。更にレモンの香りには高いリラックス効果もあり、ロマニは士郎が自分のために訪ねて来てくれたのだと遅まきながらに気がついた。
士郎は飄々と肩を竦めた。
「なんのことか分からんな。勘違いだろう」
「……あのね、こんなの飲まされて気づかないわけないだろう? 気にしなくても僕は大丈夫だから」
「だから、勘違いだ。俺はセイバーから逃げてきたんだよ」
「……はい?」
まさかの士郎の言い分にロマニの目が点になった。
士郎は疲れたように溜め息を吐いていた。
「俺の趣味の一つに酒作りがあってな。今日も暇を見つけて日本酒でもと用意していたら……奴が現れた」
「奴、って……」
「俺が作った酒を飲んでみたいとか言ってな。まあ奴も舌は肥えてる。味見役にはちょうどいいと思い、飲ませてみたのが運の尽きだった。奴は酒もイケる口でなかなかの卓見を示してくれたが……いつの間にか酔いが回っていてな。……まあ、そういうことだ」
「あー……」
ロマニの目に同情の色が浮かぶ。士郎はよく見ると窶れていた。暴君と化した騎士王に士郎は成す術なく付き合わされ、なんだか話がおかしな方向に転びかけたところを健気な後輩の献身によって逃れることが出来たのだという。
己のマスターのために体を張ったマシュに、ロマニはちょっと目頭が熱くなった。
「そういうわけだ。だからちょっと俺の時間潰しに付き合え。どうせ暇なんだろう」
「……そうだね、暇だし付き合ってあげようかな」
ここ十年は飲んだことがない美酒の魔力か、ロマニは士郎の戯れ言をあっさり信じ、士郎と酒を酌み交わすことになった。少しだけだよ、と前置きしながら。
それから、何を話したのだったか。不覚にもロマニははっきりと覚えていない。ただアルコールが入ったせいか、やや饒舌になってしまったことは覚えていた。
対面の男は聞き役に徹している。
相槌のタイミング、空になったグラスに酒を足すタイミング、どれも秀逸で、あまりにも話しやすかったものだから、ついロマニも熱が入ってしまった。
――いつの間にか、ロマニは泣いていた。大粒の涙を流しながら所長のオルガマリーのこと、裏切ったレフのこと、死んだ部下のこと、仕事の大変さ、理不尽な今への愚痴を全て吐き出してしまっていた。
いつしか泣きながらベッドに蹲り、寝入ってしまったことに、ロマニは最後まで気づかなかった。
士郎は彼の体に掛布をかけ、ふう、と嘆息する。その顔には、責任感と絶望感に負けないように、意図的に激務に打ち込んでいた男に対する呆れと……それ以外の何か温かい感情が含まれていた。
「……ダ・ヴィンチ。終わったぞ」
「お、さすがのお手前」
ロマニの部屋の外に出て、待機していた天才に士郎はそう言う。衒いのない賛辞に鼻を鳴らして、士郎は腕を組んだ。
「いやー、助かったよほんと。ロマニの奴、私が何を言っても聞かないんだもん。人前で倒れられたらまずいって言ったのに」
「それで、こんな芝居をやらせたのか。呆れた男だ」
「なんだとー。そっちだって乗り気だったじゃん。普通に睡眠薬飲ませるだけでいいって言ったのに、わざわざ果実酒作って、溜め込んでるもの吐き出させたんだから」
あーあ、大の男が泣きながら寝ちゃって。これ記憶残ってたら恥ずかしさのあまり悶絶するねー。
ダ・ヴィンチが意味深に流し目を送ってくるのに、士郎は再度溜め息を吐くことで応じる。
「……で、ロマニの抜けた穴はどうする気だ?」
「そこは天才ダ・ヴィンチちゃんにお任せあれ、ってね。さすがにサーヴァントの私は目立つからいなくなる訳にいかない。だからシミュレーターを使ってると言い張れる、不在でも怪しまれない士郎くんにお任せするよ。ロマニの身代わりを、ね」
「……体格も声も何もかも、俺とロマニは似ても似つかないんだが」
「じゃーん。こんなこともあろうかと、立体ホロ変装装置を作っちゃったんだ。これでロマニのガワを被れてしまうのだよ」
「……ドラえもんかお前は。まあいい、ただし一日だけだぞ。俺も暇じゃないんだ」
「ドラ……? ……分かってる。ていうか、一日もやれるの? ボロ出ちゃわない?」
「舐めるなよ。敵地侵入の際に敵幹部に成り代わり、その仕事を恙無く果たしていたこともある。ロマニの仕事ぶりはもう何日も見た。一日だけなら、まあなんとかできる」
「いやー、なんだかんだ士郎くんも万能だよね。私ほどじゃないけど」
物真似は得意だからなと呟き、士郎はダヴィンチの手から怪しげな腕輪の装置を奪い取る。
しかし、これが言う通りの性能を発揮するならかなり便利なのだが――
「あ、それカルデアの中でしか使えないから」
「……シミュレーターの機能と繋いでるのか」
「その通り! さすがにそんなのをどこでも使えるようにはできないかなー。あと私クラスの天才が二人いたら違ってくるだろうけど」
「何をバカな。お前みたいなキワモノが早々いてたまるか」
「あっ、酷い! そんなこと言うのか士郎くんは」
軽口を叩き合いながら、二人はロマニの部屋から離れていく。
士郎とダ・ヴィンチはロマニの眠る部屋を一度だけ振り返り――小さく、おやすみ、と呟いた。
ある日の小さな一幕。
そんなこともあった、と彼は後に懐古した。
お腹が空きました士郎くん!
前書き
青王コミュ
青王とのコミュ回。
――カルデアに超級のサーヴァント『アーサー王』が召喚された。
人理修復の戦い、聖杯探索に於いて戦力は幾らあっても足りるということがない。故に彼女のような強力なサーヴァントを召喚出来たことは、戦略的観点から見て実に喜ばしいことだった。
だが、残念ながら個人的にはそうでもない。実際は複雑な因縁のために、手放しに喜べるものではなかった。
騎士王アルトリア・ペンドラゴンは万人にとって善き生活、善き人生を善しとする理想の王である。だからこそ十年前の己の罪業が重く圧し掛かって来て、個人的な後ろめたさのために彼女との再会を喜べないでいたのだ。
……しかし俺も子供じゃない。一身上の都合を聖杯探索に持ち込むような愚は犯さない。
うだうだと迷い、惑うのは信条に反する。切嗣亡き後の衛宮家の家訓は「迷ったらやれ、決めたらやれ、倒れる時は前のめり」で。冬木から出た後、知り合った人間が「明日からやるよ」とか抜かすと、「明日って今さ!」と真顔で言って尻を蹴るのは当たり前だった。
子供達のような保護対象以外に対して、割と傍迷惑な野郎であるこの俺は、いつだって決めたことはやり遂げてきたものである。『衛宮士郎』に成り切ったことだって決めた通りに達成できたのだ。今更うじうじするほど女々しくはないし、過去の己の所業から目を逸らすつもりも、後悔することもない。
いっそのこと、過去は過去として割り切り、何も言わずに黙っておくことも考えた。人間としては最低だが、要らぬ軋轢を生まないようにするのは一組織人として、唯一のマスターとして当然の配慮である。
大人しく罪を清算しよう――なんて殊勝なことも考えないでもなかった。しかしこの人類の危機の中で、個人的な罪悪感から裁きを受け、マスターとしての役割を放棄するわけにはいかない。
俺は人としての道に反することなく、同時にカルデアのマスターとして責任ある態度を取ることを求められていたのだ。
――そんな、何時か何処かの時間軸。
彼女から向けられる信頼の眼差しが痛い。邪気なく微笑む顔に見惚れてしまった。謂れのないマシュの威嚇に戸惑う姿には笑みが漏れていた。気づけば何も言えてなくて。その癖、無意識の内に彼女の姿を目で追っていた。
こりゃダメだ、と白旗を上げても許されるだろう。処置なしだ、どうやら俺は彼女に対してだけは普段の自分を張り通せない。
惚れた弱みと昔の罪悪感が絶妙にブレンドし、ほぼ完璧にイエスマンに成り掛けている。というかなっていた。これは困ったぞと切嗣に相談したが、
『アレとは反りが合わない。僕とアレは会わない方がいい。これは確信だよ士郎。僕は可能な限りアレと接触することはない。だからアレのことで相談されても何も言えないな。率直に言って、面倒くさい』
と、取りつく島もなく追い返されてしまった。
訓練しましょうと誘われたらほいほいついて行き、シロウのお酒は美味しいですねと言われたら彼女が反転するまで酌をして、話をしましょうと言われたらこの十年で磨いた話術で彼女を笑顔にし、なんやかんやと我が儘を受け入れて甘やかして青ニート化させてしまいつつあった。
駄目人間製造機の面目躍如である。このままじゃダメだと奮起した俺であった。
そんな矢先のことだ。マシュとの戦闘訓練を終え、厨房を借りて個人的な賄い食でもと料理していると、どこから匂いを嗅ぎ付けてきたのか青いバトルドレス姿のアルトリアがやって来た。
「シロウ、お腹が空きました」
――まるで餌付けされた子犬のように、見えざる尻尾をぶんぶんと高速回転させたオウサマが食堂に現れた。
「……」
ぐつぐつと煮込まれている春キャベツの重ね煮。白菜と豚肉のミルフィーユ。
シンプルだが味わい深い季節のスープと、熱々の炊きたてご飯の相性は抜群だった。
俺は不思議と凪いだ気持ちで、自然とアルトリアを黙殺する。いつもの俺にはできないことだ。アルトリアもちょっと調子が外れて頭の上にクエスチョンマークを出していた。
「……む。これはなかなか……」
春キャベツの重ね煮のスープを平たい小皿によそって、味見をし文句のない出来映えに自画自賛する。
俺の百八ある趣味の一つである料理の腕は、メル友のフランス料理界の巨匠から太鼓判を押される領域に至っていた。是非後継者にと迫られた時は満更でもなかったが、あれは酒の席のジョークに過ぎない。流石に本気にはしてなかった。
まだまだ料理は奥が深い。シンプルなものにこそ腕と知識、閃きが問われる。極めたとはとてもじゃないが言えたものではないし、真の意味で極められる者など存在しないと断言できた。
食堂にいたアルトリアが「おお……」と感嘆したような声を上げる。厨房から俺の賄い食の薫りが漂ってきたのだろう。目をこれでもかと輝かせて厨房を覗き込んで来ようとして――瞬間、俺は激怒した。
「出ていけ」
「えっ?」
「神聖な厨房に、料理する者以外が踏み込むんじゃあない……!!」
静かに激する俺に気圧されたように、セイバーはすごすごと引き下がっていった。
……今、俺は怒ったのか? セイバー、アルトリアに? はたと冷静になり、俺はその事実を咀嚼した。
確かに、俺は怒った。アルトリアのイエスマンと化していた俺が。アルトリアを甘やかすことママの如しと揶揄されたこの俺が、だ。
恐る恐る食堂のアルトリアを見ると、可哀想なほど小さくなって、何やら怯えた子犬のように濡れた目で俺を見ていた。
「ッ……」
罪悪感で心労がマッハだった。すぐ駆け寄ってお腹一杯になるまでオマンマを食べさせてあげたい衝動に駆られる。しかし、しかし、堪えろ俺……! 今のカルデアには、到底あの胃袋お化けを満足させるだけの物資は残されていない……!
俺はぐ、と耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ。そして、俺は完成した俺専用の賄い食をお盆に乗せて、食堂のテーブルにまで移動した。……無意識にアルトリアのいる席に。
「し、シロウ……」
「……」
「すみません……私としたことが配慮に欠けていました。シロウのような料理人にとって、厨房とは神聖なものであるというのは気づいて当然のことなのに……どうにも、シロウには甘えてしまう。シロウなら許してくれると度し難いことを無意識に考えていました」
「……こっちこそ、すまなかった。突然怒ったりして悪かったと思う。こうやって怒ったりするのはあまりないことだから……正直、俺も戸惑ってる」
なんだか妙な空気だった。互いに謝りあっている。俺にとって、厨房があんなにデリケートな領域だとは思っていなかった。保護した子供達は、何故か普段の構ってちゃんぶりの鳴りを潜め、遠巻きにしていただけだが……もしかすると俺の雰囲気がいつもと違うと悟っていたのかもしれない。
反省せねば。俺が悪い。アルトリアは悪くない。
「あの、シロウ……これは……」
ふと、気がつくと俺は自分の賄い食をアルトリアの前に置いていた。
涎がスゴい。目が釘付けになっている。
……俺は苦笑した。
「――どうぞ召し上がれ。思えばアルトリアに振る舞うのは久し振りだもんな」
「し、シロウ……!」
感極まったようにアルトリアは俺を上目遣いに見上げ、神に祈るように両手を組んだ。
大袈裟な奴、と更に苦笑を深くする。……まあ、一食ぐらい抜いても大事ない。今回ぐらいは甘やかしてもいいかな、と思った。
アルトリアは行儀よく両手を合わせていただきますと言って、箸を器用に使って食べ始めた。
一口で、アルトリアの顔色が変わる。そして震える声で言った。
「シロウ――貴方が私の鞘だったのですね」
「おいそれここで言うのか」
なんか色々台無しにされた気分だ。
「シロウは神の一手を極めた。私はとても誇らしい」
「その表現はなんか違う」
あと、別に極めてない。料理に極まることなんてない。そこは間違えてはならない。
本当に美味しそうに食べてくれるアルトリアに、俺は自然と笑顔になってその食事風景を眺めた。
少し夢中になっていたアルトリアは、食べている姿をじっと見られていることに気づいて顔を赤くする。物言いたげな目をしていたが、それでも箸が止まっていなかった。
いちいち味を楽しみ、頷きながら食べる姿に、懐かしい思いが甦る。
そして、なんだか昔のことがどうでもよくなってきた。昔の関係を偽りだと感じるのなら、新しく始めてしまってもいいのでは、と、実に手前勝手で傲慢な考えに支配されたのだ。
偽物を、本物にする。まあ、そう思うことは許されるのではないだろうか。だからといって過去のことがなくなるわけではないが。俺はアルトリアに嫌われたくないし、俺は俺のエゴで罪を忘れよう。
最悪で、最低だが――人類を救うのだ、ちょっとぐらい多目に見てもらってもいいはずだ。
一瞬、見透かしたような顔で微笑んだアルトリアには気づかず。
俺は、世間話のようにアルトリアに提案した。
「なあ、セイバー」
「はい、なんでしょう」
綺麗に完食し、流石に少しは弁えているのかお代わりの要求はなく。アルトリアは、見惚れるぐらい綺麗な姿勢で俺に応えた。
「ロマニだけじゃないが、カルデア職員の負担が大きすぎる。なんとか出来るサーヴァントを呼びたい。誰か、アルトリアが喚んだら来てくれないか?」
「……む。……それでしたら、適任の者がいます」
一瞬考え込み、すぐにアルトリアは思い至ったのか円卓の騎士を推挙した。
「その忠誠に曇りなく、文武に長けた忠義の騎士。
――サー・アグラヴェイン。
彼ならきっと、こんな私にも応えてくれます。円卓の中で彼ほど今のカルデアで助けになる者はいないでしょう」
なるほど、ありがとうと呟く。
マシュのあの盾を基点に、騎士王が召喚を呼び掛けたらきっと円卓なら狙って呼び出せる。
個人的に円卓にいい印象がないので、出来るなら一人も喚びたくなかったが、ロマニの激務を一日だけとはいえ体験した今、見過ごせはしない。
一人だけならいいかと思う。叶うなら、その騎士と上手くやれたらいいなと呟いた。
「シロウなら大丈夫ですよ」
「……何を根拠に?」
胸を張って断言するアルトリアに、俺は問いかけた。
「だってシロウは鉄よりも固くて、剣よりも熱い。アグラヴェインは人嫌いですが、貴方の前では形無しでしょう」
「……そうか?」
わかるような、わからないような……いや、やっぱりわからん。
地頭が良くないのだ、妙な表現には首を捻ってしまう。
まあいいや、と口の中で溢し。
「そうだ、アルトリア」
「なんでしょう」
「今夜、どうだ」
「――はい」
「酒にな、付き合えよ」
「――、……」
「……?」
「シロウ。あまり、私を怒らせない方がいい」
「???」
やっぱりマシュマロなのか士郎くん!
――何時か何処かの時間軸。
カルデアの食堂にしれっと居座り、サーヴァントでありながら完全に馴染んでいる青いバトルドレス姿の騎士王サマ。
彼女に対してえもいえぬ敬意を霊基の奥底から感じるも、それよりも更に深い、自身の内側より生じている強い感情の渦に、マシュは自分でも戸惑っていた。
制御できない想い。騎士王が召喚されてからずっと続く心の感触。こんな気持ちは初めてで、正直なところ持て余してしまっている。
こういう時は尊敬する先輩に訊ねればいいと経験上学んでいた。あの人はとても物知りだから、きっと今度もこの感情の正体を教えてくれるはずだ。
……でも、流石にいつも教えられてばかりというのは情けない。少しは自分で考えてみよう。
「セイバーさん……」
「? はい、なんでしょう」
正体不明の感情を自分で分析してみると、論理的に考えてその原因はイバーにあるような気がして、マシュは思い切って彼女に対し今抱いている疑問を質してみることにした。
声は固く、顔も堅い。マシュ自身は気づいていないが、それはとても友好的とは言えない表情だった。常の礼儀正しく生真面目な少女には見られない表情は、きっとマシュをよく知る人物ほど驚くものだろう。
しかしその、どこか剣呑な顔に、セイバー・アルトリアは気を悪くした様子もなく、いたって好意的で友好的な、物腰柔らかな調子で応じた。
その余裕のある態度も、マシュを苛立たせている。苛立っていることに気づかないまま、棘のある声音で彼女は問いを投げた。
「今、カルデアの物資は乏しく、誰もが辛い思いをしています。食料の備蓄も非常に心許ないので、特異点にレイシフトした際には、聖杯探索と平行して食料を調達することも重要な任務となっているのはセイバーさんもご存知のはずです」
「ええ、確かに」
「――でしたら何故セイバーさんは食堂に? 食事の必要のないサーヴァントの方は、みんな自重してくださっているのですから、セイバーさんもみなさんに倣うべきではないでしょうか」
サーヴァントだって元々は人間なのだから、娯楽に乏しいカルデアの中で食事ぐらい楽しみたいはずだ。
だが、今のカルデアには無駄にしていい食料は米粒一つありはしない。故にサーヴァント達は皆、生きている人間のために食事を我慢しているのだ。
先輩の父であるアサシン、強くて頼りになるランサーのクー・フーリン、とても厳しいけど信頼できるアグラヴェイン。彼らは文句一つ言わない。特にアグラヴェインなんて、カルデアに召喚されて以来、恐らくカルデアで一番働いてくれている。一度も休まずに。サーヴァントに休養は要らないと言って。我が王のために、と。
だというのにこの騎士王と来たら……堪え性というものがないのかと厳しめに言ってしまいたくなる。
しかし。アルトリアの余裕は崩れなかった。
「その通りです。ですので私も、最初の一度だけで自重しています。ここにいるのは、食事以外の楽しみがあるからです」
「食事以外に食堂ですることなんてないはずです」
「いいえ。……ここからはシロウの姿がよく見える。私にはそれだけでいい」
アルトリアは、日向のように温かい表情で、厨房でマシュと自身の分の料理をしている先輩――衛宮士郎の姿を眺めていた。
真剣に料理と向き合う佇まいには、ある種の風格がある。言葉一つ差し挟むことの出来ない領域にいる彼に、アルトリアはマシュの知らない心を向けていた。
思わず、言葉を失う。それは、なんて――
「……サー・アグラヴェインが何も言えない訳です」
ぽつりと溢れた呟きは、マシュの物ではなかった。霊基が仕方無いな、と言っているようで。なんだか、負けたくないなんて、何かの勝負しているわけでもないのに思ってしまった。
アグラヴェインは騎士王を見て何を思ったのか。複雑そうな、苦しげな、熱した鉄を飲み下すような苦渋の表情で、それでも騎士王を「我が王」と呼んだ。
ただその後に彼は士郎を何処かに呼び出して、何かを話していたようだった。その後の彼は、恐らく過去一度もないほどに酔い潰れていて、士郎は頬を赤く腫らしていた。
それからの彼は士郎をマスターとしっかり呼び、士郎はアグラヴェインを親しげにアッくんと呼び始めた。
アグラヴェインは嫌そうな顔を崩さなかったが、それでもどこか士郎のことを認めていた。
酔わないはずのサーヴァントが酔っていたのは、例によって例の如くダ・ヴィンチが絡んでいるのだろう。例え死んでいようと神様だって酔わせて見せるとは士郎の言である。何を目指しているのかは不明だが、なぜか今までで最も毅然としていたものだ。
「……」
むすっと黙り込んで、マシュも士郎の姿を負けじと見つめる。
なんとも言えない空気の中、士郎は調理を終え、夕食となるホタテのホイル焼きとさつま芋のレモン煮を二人分運んできた。ほくほくの白米もある。
「お待たせ。……アルトリアも飽きないな。見ていて何が楽しいんだか」
「何を楽しみにするかは私の勝手でしょう。それに」
言いながら、アルトリアはマシュに慈しむような目を向けた。
「待っている間、彼女と話しておくのも私にとっては楽しいものです。まるで年の離れた妹を見ているようで」
「ん? 仲良くやれてるのか。それは重畳」
「……」
「マシュ? どうかしたのか?」
むっつりとした表情でむくれているマシュを、士郎は気遣うように頭を撫でた。
……色々な時代の様々な特異点にレイシフトして、そこで多くの人々と触れ合う中で気づいたのだが、士郎が頭を撫でるのは子供などの保護対象だけである。それはつまり――そういうことだった。
「……やめてください」
「!?」
ぽつりと呟くと、士郎は驚愕したように固まった。そして「マシュに反抗期が!? そんな、バカな、うちの子に限っては有り得ないと思ってたのに……!」なんて慄いている。
わたし、子供じゃないです……誰にも聞かせるつもりのない呟きが聞こえたのか、ぴたりと止まった士郎とアルトリア。俯いたマシュに、士郎はややあって優しく言った。
「……どうかしたのか?」
「……」
「……アルトリア、悪いが少し席を外してくれ。余り聞かれたいことでもなさそうだ」
「はい」
アルトリアは席を立ち、離れていく。そしてその姿と気配が食堂から無くなると、士郎はもう一度、噛んで含めるように語りかけてきた。
「なあマシュ。何か気になることでもあったのか?」
「……」
「俺は神様じゃない。言ってくれないと分からない。だから、思ったこと、感じたことをそのまま言ってほしい」
「……わたし、は……」
包み込むような包容力だった。そこには隠しようのない慈愛の色があって、マシュは溢れてくる気持ちを抑えることができなかった。
醜い気持ちを、溢してしまう。こんな汚い想いを知られてしまえば、きっと嫌われてしまう。怖いのに、止められなかった。
「……わたし、セイバーさんが嫌いです」
「……」
「今まで、先輩はわたしといてくれたのに……最近はずっと、セイバーさんとばかりいて……」
「……」
「……え、あ、違っ、そんな、わたしはそんな、嫌いなんて……」
「本当に?」
「あ、ぁ……」
「本当はアルトリアが気に入らないんじゃないのか」
「ぅ、……」
「……」
「……わたし、最低です……セイバーさんは、あんなにもいい人なのに……」
「……そうか。……よかった」
マシュにとって、この気持ちは感じたことのないもので。
醜いと、汚いと思ったから、知られたくなくて。
でも、聞かれてしまって。自分を抑えられなくて。
知られてしまった、士郎に嫌われてしまう。嫌だ、それだけは、嫌だ。そう思って、混乱しそうになっていると。――士郎は信じられないことに、安堵の息を吐いていた。
「……え?」
戸惑い、声を上げる。
「これは受け売りなんだが……」
そう前置きして、士郎は苦笑した。誰かを思い出すような目だった。
「少女は嫉妬を手に入れて、初めて女になるそうだ。……おめでとう、マシュ。お前は今、人として成長した。卑下することはない。ただ認めてこれからの糧とするといい。それが……大人の特権だ」
言って、マシュの頭を撫でようとし、手を止める。
困ったように笑みを浮かべながら、士郎は手を引っ込めた。
「……子供扱いはできないな。これからは、レディとして扱わないと」
「ぅ……」
「食べよう。冷めたら味が落ちるからな。ほら、いただきます」
「ぃ、いただき、ます……」
促されて、マシュは赤い顔を隠しながら両手を合わせた。
……これは、喜び? 大人として見られたことへの。それとも……。ぐるぐると頭の中で感情の波が渦を巻く。
胸が苦しい。なのに、悪くない気持ちだった。
――セイバーさんに、謝らないと。
士郎と向き合って、汚い感情を手に入れて。
それでもマシュ・キリエライトの心に変容はない。
いっそう強まった意思の結晶が、少女を女にして、輝きを強いものとしていった。
急げ士郎くん!
前書き
プロローグ
「由々しき事態だ」
憔悴しきった顔で、ロマニ・アーキマンは言った。
「……落ち着いて聞いてほしい。君が眠っている間に特異点を七つ観測したというのは話したね」
首肯する。ブリーフィングで確かに聞いた。
「今回、レイシフト先に選んだのは、その中で最も揺らぎの小さいものだったんだ。けど……」
カルデアには、今回の第一特異点で、今後のために聖杯探索の勝手をマスターに掴んで貰おうという思惑があるのだ。その選択は決して間違ってはいない。
今後、カルデア唯一のマスターが至上命題とするのは、人類史のターニング・ポイントとなるものを歪ませる異物を特定、排除すること。その上で、おそらくあるだろうと推測される聖杯を回収、または破壊することである。
聖杯ほどの願望器でもなければ、とてもじゃないが時間旅行、歴史改変など不可能。せっかく歴史の流れを正しいものに戻しても、聖杯が残っていればもとの木阿弥とはロマニの言だった。
管制室のコフィンの前で改造戦闘服の上に赤い聖骸布『赤原礼装』を纏い、ダ・ヴィンチ謹製の射籠手である概念礼装を左腕に装着する。
改造戦闘服により、投影によって魔術回路にかかる負荷が軽減している感触と、射籠手を通してカルデアから供給される魔力の充実感に己の感覚を擦り合わせ、実戦の最中に齟齬が生じないように当て嵌めた。
ダ・ヴィンチによると、英霊を維持し、魔力を供給するよりも、概念礼装を通してマスターに魔力を流す方が遥かに簡単だということだったが……ここまでの効果があるとは流石に思わなかった。これなら、まず魔力切れを恐れる必要もなくなってくる。
カルデア職員から渡されたペットボトルに口をつけ水分を補給する。礼を短く言って返却し、コフィンに入りながらロマニに話の続きを促した。
「……実は君が起きて、レイシフトに向けて準備を整えてる間に……異常なことが起こったんだよ」
顔面蒼白だった。からからに乾いた声が、危機的状況を端的に告げている。
「この第一特異点の修復完了後の予定として、レイシフトするはずだった第二特異点の座標を早期に特定出来たんだ。それはいいことだろう? でも、それが……僕らが観測した時には、人理定礎の崩壊がかなり進んだ状態になっていたんだ。――ああっ、つまりだね、簡単に、簡潔に言うとだ、人理が崩壊する寸前なんだよっ!」
喚くようにロマニは唾を散らした。その様は錯乱に近い。
他のスタッフはまだ何も知らされていないのだろうが、この管制室にいるスタッフは流石に知っているのだろう。張り詰めた雰囲気は、破裂寸前の風船を彷彿とさせる。
頭の片隅で、人手不足のせいで全体の作業能率が低下しているんだなと悟り。時間に余裕ができたら、その問題を解決する方法を考えねばならないと思う。
ロマニは息を整えて、なんとか言った。
「カルデアスは既に、第一特異点に座標を固定してある。レイシフトの準備も終わっていて、今更レイシフト先を変更することはできない。下手をすると第一特異点を見失いかねないからだ」
道理である。予定を土壇場で変更して、急遽別の任務を挟んでもいいことなど何もない。レイシフトを予定通りに行なうというロマニの判断は正しい。
だが、正しいからとそれで事態が丸く収まるわけではない。
「無茶を承知で頼む。士郎くん、これから赴く特異点の人理定礎を、早急に修復してくれ。一刻の猶予もないんだ、なるべく、なんて曖昧なことは言えない。比喩抜きで、一秒でも早く、戻ってきてくれ」
タイムリミットは。
聞くと、ロマニは固い唾を呑み込んだ。
自分がどれほどの無茶を言わんとしているのか、その重圧に喘ぐようにして囁いた。
「――次の特異点が、致命的に修復不可能なところにいくまでに要する時間は、おそらく十日だ」
管制室のカルデア職員達が、固唾を飲んでこちらを見る。
凄まじい重圧に、しかし負けず。跳ね返す鋼のような声で、カルデアのマスターは応答した。
「――了解。四日以内に戻る。それまでに次のレイシフトの準備をしておけ」
士郎くん、と呼ぶ声。
「病み上がりなのに、すまない。でも、それでも僕らは君に頼らないといけない。お願いだ、どうか無事に戻ってきてくれ……!」
ロマニ、と苦笑した声。
「俺を誰だと思っている。任せろ、必ず上手くいかせてみせるさ」
――アンサモンプログラム スタート
――霊子変換を開始 します
――レイシフトまで後 3、2、1……
――全工程 完了 ――グランドオーダー 実証を 開始 します
「さて……」
今度はコフィンを使用して、正規の手順でレイシフトしたためか、特に問題なく意識は覚醒した。
傍らを見ると、マシュとアルトリアがいる。召喚予定だったクー・フーリンは、召喚のための準備が間に合わなかった。
まあ、それはいい。瞬間的に気配を消し、姿を隠したアサシンも、こちらの声が届く所にいるだろう。
辺りを見渡すと、どうやらここは、どこかの森の中らしい。木々が生い茂り、のどかな空気を醸していた。
マシュが、緊張に強張った声で言う。
「……時代を特定しました。1431年です、先輩」
「中世か。しかもその時代となると、」
「百年戦争が事実上終結しジャンヌ・ダルクが火刑に処された年でもあります。……それよりもシロウ、気づきましたか」
アルトリアが補足するように言い、促してくる。俺はそれに頷いて、空を見上げた。
そこには、青空が広がっていて。
巨大な光の環が、ブラックホールのように横たわっていた。
な、とマシュが呆気に取られた声をあげる。俺は目を細めた。
カルデアからの通信が繋がった。ロマニに空を調べるように言うと、彼も酷く驚き、アメリカ大陸ほどの大きさだと教えてくれる。
空にアメリカ大陸サイズの光の環、か。こうまで目に見える異常があると、なんとも危機感が煽られてくる。
移動しましょうというアルトリア。それには応えず、沈黙したまま腕を組む。
訝しげに俺を見るマシュ達を無視し、沈思するフリをしていると、やがて気配を断ったまま俺にだけ見える位置にアサシンが実体化した。
ハンドサインが、一方的に送られてくる。
それでいい。アサシンには、レイシフトしたらすぐに周囲の索敵をするように指示していた。
焦点は合わせず、視界に映ったものを全て見る捉え方をしていると視野が広く保て、アサシンを注視しないでもそのサインは確実に見てとれた。
敵影なし。
武装集団あり。
脅威度『低』。
接触済み。
情報入手済み。
南東に敵性体がある可能性『高』。
進行を提案。
――流石に仕事が早いな。俺は一人ごち、二人に対して言った。
「……南東に向かう。召喚サークルの設置は現時点では不要だ。急ぐぞ」
悲しいけど戦争なのよね士郎くん!
敵と交わす口上無く。
敵に対して容赦無く。
敵の事情を斟酌せず。
一切の情けなく撃滅するべし。
時間との戦いだ。必要以上に気負うことはないが、かといって余裕を持ち過ぎてもならない。
合理的に、徹底して効率を突き詰めて自分達を管理せねばならなかった。
森の中で、用を足すと言って茂みに隠れ、そこでアサシンと小声でやり取りし情報を得る。
――竜の魔女として甦ったジャンヌ・ダルク。殺害されたフランスの国王シャルル七世と撤退したイングランド。大量発生している竜種とそれを操っているらしい黒いジャンヌ。確認されたサーヴァントらしき者は現状四騎は確定――
(了解だ、切嗣)
フランスは世界で最も早く自由を標榜した国家だ。もしフランスが滅びてしまったとしたら、それは時代の停滞を引き起こし、未来はその姿を変えることになるかもしれない。
そういった意味で、確かにこの時代が特異点足り得る因果があることを認め、アサシンと俺は竜の魔女とやらが特異点の原因であり、聖杯を所有している可能性の高い存在だと推測した。
目標決定。ジャンヌ・ダルクを討つ。その上で聖杯を確保する。竜の魔女は南東にいるという、向かわぬ理由はない。仮に当てが外れたとしても核心に近い存在なのは明らかだ。
強行軍で南東の方角に向かっていると、道中、この時代のフランス軍――その残党を発見。接触し、情報を得るべきだというアルトリアの意見を退ける。
なぜと問われ、俺は端的に答えた。現地の人間と関わる必要がない。必要な情報は既に俺の使い魔が入手して把握してある、と。
アルトリアは眉を顰め、怪訝そうにした。使い魔? 自分のマスターはいつの間にそんなことを。そこまで考えて、アルトリアは察した。
自分達の他にサーヴァントがいる。しかしマスターはそれを知らせるつもりはない。マスターの気質から考えるに、そのサーヴァントの方が自分達の前に姿を現すのを拒んでいるのか。気配のなさ、素早い行動と高い情報収集能力から類推するにクラスはアサシンだろう。裏方に徹し、あくまで裏からマスターを補佐しようというプロ意識なのかもしれない。それならば、アルトリアから言うことはなかった。陰の、草となる者は必ず必要だからだ。
問題はいつ召喚されていたのかだが……いや、そんなことはどうだっていい。確認する意味がない。
時間にして二時間と三十分ほど一直線に駆けた。英霊とデミ・サーヴァントにはどうということもない距離だが、生身の人間には厳しいのではとマシュがマスターを心配する。するとマスターは言った。
無用な気遣いだ。この程度どうということもない。その気になれば一日だって駆けていられる。人の身で人外の怪物と渡り合うにはヒトの極限に至らねばならず、そのための訓練は積んでいるんだ。
戦争の中で最も過酷なのは行軍である。であれば如何に戦闘技術が高かろうと、足腰が弱く足の遅い者達の軍は精強とは言えない。軍隊で延々と走らされるのは、体力作りのためでもあるが、何より長距離の移動を歩行で行なえる下地を作るためなのである。
アルトリアが同意する。まさにその通りだと。足の遅い、長距離の移動がままならない軍など物の役にも立たない。いつの時代もそれは共通していた。
進行方向に敵影。
敵性飛翔体。竜種――あれは下級のワイバーンか。断じて十五世紀のフランスにいていいものではない。
数は九体か。こちらには気づいていないが……。
どうしますか、とアルトリアがマスターに訊ねる。汗一つ流していないマスターは、戦闘体勢を取る二人を制し待機を命じた。
丁度良い機会だ。敵の脅威を図る。
射籠手に包まれた左手に黒弓を。右手に最強の魔剣グラムと、選定の剣カリバーンの原典に当たる「原罪」を投影。
エクスカリバーほどではないが、触れるモノを焼き払う光の渦を発生させることができる。消費した魔力はすぐにカルデアから充填されるのだ。魔術回路にかかる負荷は想定していたものより遥かに軽微。
投影した宝剣を弓につがえ、ワイバーンの内の一体に投射。貫通。射線上のもう二体も易々と貫き、三体を葬った。ワイバーンがこちらに気づき向かってくる。
構わず。
今度は投影工程を一つ省き、魔力も絞った再現度七割の「原罪」を投影。無造作に投射。これも貫通。鱗も肉も骨もまるで紙のように貫いた。残り五体。
更に投影工程を省略。再現度五割「原罪」投影。投射。貫通。残り四体。
継続して工程を省略。もはや張りぼての粗悪品でしかない再現度三割の「原罪」を投影。投射する。ワイバーンを貫くも、貫通した「原罪」の威力が目に見えて低下していた。残り三体。
算を乱し逃げ出したワイバーンに向けて、通常の剣弾を放つ。都合六発。一体に対して二射、心臓部と頭部への射撃で事足りた。
弓を下ろし、マスターは適切な投影効率を割り出せたことを確信。ワイバーンに対しては宝具の投影の必要はない。
「……呆けている場合か? 行くぞ」
感嘆したように目を瞠くサーヴァント達を促し、マスターらは一路駆けていく。
マスターは思う。魔力の充実感が凄まじい。強化した脚力を維持することがまるで苦にならない。なるほど、マスターが昏睡している間、冬木での戦闘データから専用の概念礼装を発明したダ・ヴィンチは確かに天才だ。これほどの装備、望んで手に入る物ではない。
だが、弁えるべし。所詮この身は贋作者。人の域を出ない定命の人間。
相手がサーヴァントか、それと同位の存在が現れたなら、決して今のように上手くいくことはない。分不相応の魔力を手にしただけで増長すれば命取りになる。
やがて、マスターとサーヴァント二騎は一つの砦を発見した。
火炎に炙られ、城壁は崩れ、城門は砕かれている。戦闘の気配はないが、破壊の痕跡はまだ新しい。
「……壊滅してまだ間がないのかもしれません」
「ええ。敵が残っているかもしれません。警戒していきましょう」
マシュとアルトリアの言葉に頷く。そして暫し沈思し、アルトリアにこの場で待機することを命じた。
「なにを? 戦力の分散は……」
「下策だ。だが、お前をここに残すことの意味、戦争の視点で見れば分かるだろう」
「……それは、確かに有効です。しかしあそこにはまだ無辜の民がいる可能性があります」
「いない」
マスターの断言に、アルトリアは眉根を寄せる。
「……根拠はなんです?」
「分かっていることを聞くな。敵の拠点を制圧、占拠することが目的なら、あそこまで徹底して砦を破壊することはない。俺達が敵とする連中は、相手がなんだろうと殲滅する手合いだろうさ。そして仮に生き残りがいたとしても意味がない。真の意味で人々を救おうとするのなら、この特異点を正しい歴史の流れに戻し、今ある悲劇をなかったことにするしかないだろう。違うか?」
「道理です。……今は大義を優先します。マスターの命に服しましょう」
「助かる。マシュは俺と来い。お前の守りが頼りだ」
「はいっ」
場違いなほど気合いの入った応答に、アルトリアと顔を見合わせる。張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ、ような気がした。
少し苦笑し、アルトリアを残して砦を迂回。向こう側から突入する。
マシュに身辺の警戒を任せ、自身は遠くを警戒。砦の奥にまで行くと、そこには――
「――――」
竜を象る旗を持つ黒尽くめの女を発見。こちらを見て、にやりと嗤う。サーヴァント反応。敵、竜の魔女と断定。四騎はいると聞いていたが、五騎ここにいる。ということは、まだいるかもしれない。
黒衣の男と、仮面の女は吸血鬼か。死徒の気配に似ているが、こちらはそれとは異なり更に『深い』。
中性的な容貌の剣士が一騎。レイピア状の剣をすぐに解析。担い手の真名はシュヴァリエ・デオン。
それに、もう一人。十字架を象る杖を持った女。十字架からキリスト教関連の英霊と推定。女となれば、聖女の部類か。挙げられる候補は少ない。行動パターンを割り出せば真名を看破するのは容易だろう。
男の吸血鬼は杭のような槍を持っている。ヴラド三世の可能性が高い。女の吸血鬼は拷問用の鞭を持ち、蝋のような白い肌をしていた。――血の伯爵婦人だろうか。
敵戦力評価。ヴラド三世が最たる脅威である。最優先撃破対象に指定。この場で確実に撃破する。
黒い女が何かを言った。その口上を意識的に遮断。必要な情報だけを得る。
こちらがマスターで、マシュがデミ・サーヴァントだと見抜いてきた。そして、砦の外に置いてきたアルトリアの存在まで知られている。見え透いた伏兵に掛かると思っているの? と、嘲笑していた。
――何故? 気づかれるような落ち度はなかったはずだ。感知能力が高いという一言だけでは片付けられない。それだけの感知能力があるなら、気配遮断しているアサシンにも気づけるはず。なのに気づいていない。
……可能性としてあの竜の魔女はルーラーか、それに類するエクストラクラスを得ていると考えられる。ジャンヌ・ダルクならばあり得ない話ではない。
過去、聞いたことがあった。聖杯戦争を監督するためのサーヴァントが存在すると。それがルーラー。調停者のサーヴァントは、サーヴァントの位置を把握することが可能だと言うが……。それならアルトリアの位置を知られていることにも筋が通る。
であれば、相手は常にこちらの位置を把握して戦略を練れるということだ。
それは、こちらに圧倒的に不利となる情報。いつでも奇襲される恐れがある。まだこちらがレイシフトしたばかりということもあり、手を打たれてはいないとなれば……今が最大の好機。都合が良いことに敵の主力と思われるサーヴァントも揃っている。
やる必要はあっても、やらない理由はない。ここを逃せば対抗策はアサシンだけしかない。
「――令呪起動。システム作動。セイバーのサーヴァント、アルトリア・ペンドラゴンを指定。『宝具解放』し、聖剣の最大火力で砦を薙ぎ払え」
なっ!? 自分達ごと!? と驚愕する敵勢力。爆発的な魔力の気配。
咄嗟に動いたのは聖女らしきサーヴァント。宝具で対抗しようと言うのか。
手にしていた黒弓に投影したまま背負っていた「原罪」をつがえ放つ。宝具の解放を妨害する目的で、ヴラド三世と聖女を中心に巻き込むように「原罪」で壊れた幻想を使用。
有効なダメージを確認。目的達成、宝具展開阻止。
「マシュ、宝具だ」
「了解。宝具、偽装登録――展開します!」
構えた盾から淡い光の壁が構築される。
迸る黄金の光の奔流が、横薙ぎにマスターごと砦を、五騎の敵サーヴァント達を呑み込んだ。
マシュの盾と、アルトリアの聖剣の相性がいいから出来ることだ。もしもブリテンの聖剣以外で、Aランク超えの対城宝具を撃たれたらマシュは耐えられない。
光の津波を遮る盾の後方で、マスターはその鷹の目でヴラド三世と思われる吸血鬼、カーミラらしき女吸血鬼、竜騎兵のデオン、聖女が聖剣の光に焼き払われたのを見届けた。
しかし、肝心の竜の魔女は回避した。空を飛んで。
――飛行できる? 不味いな。
決死の顔で回避した竜の魔女は、何かを喚きながら飛び去っていく。
マスターは冷徹にそれを見据え、最大攻撃力を発揮できる螺旋状の剣弾を弓につがえた。
魔力充填開始。見る見る内に遠ざかっていく黒い女はまだ射程圏内。仕損じた時のため、念を入れて命じる。
「アサシン。行け!」
瞬間、赤い影が馳せた。
それに構わず、遥か上空を行く魔女に向けて、マスターは投影宝具を射出した。
カラドボルグ。空間ごと捻りきる魔剣。竜の魔女は直前で気づき、防御の構えを見せた。
「――壊れた幻想」
着弾の瞬間、螺旋剣を爆破。
手応えはあった。どのみち、これで射程圏内からは離れただろう。追撃は困難。
今ので仕留められたのなら僥倖。少なくとも深傷は与えた。しばらくは動けまい。
「先輩。これからどうしましょうか」
アルトリアが合流してくるのを遠目に見て、マシュが指示を仰いできたのに応じる。
廃墟となっていた砦は、綺麗さっぱりなくなっていた。人類最強の聖剣、対城宝具を受けたのだから当然だ。
無事なのは、マシュの後ろにあった瓦礫の山だけ。火も消し飛んでいる。
マスターは言った。霊脈としては下の下だが、ここでも特に不自由はない。
「――召喚サークルをここに設置しよう。今日はここまでだ」
日が傾き、夜が来る。深追いは禁物だった。
勝ちたいだけなんだよ士郎くん!
■勝ちたいだけなんだよ士郎くん!
「ア、イツ……らぁ……! ぐ、っぅ……、バッカじゃないの……!?」
じくじくと肉が爛れ、何か強大な力によって再生されていく体。狂いそうな痛みに、涙すら浮かべながら竜の魔女は怨嗟を溢した。
聖剣というカテゴリー、その中で最強の位に位置する星の息吹。ブリテンの赤い竜と謳われた伝説の騎士王が担ったその極光で、あろうことかあのキ●ガイは自分達ごとこちらを薙ぎ払ったのだ。
バーサークしたランサー、アサシン、セイバー、ライダーがお陰で死んだ。自分もあと一歩遅ければ、あの忌々しい光に焼かれて脱落ちてしまっていただろう。
凄まじい熱量だった。掠めただけでも死は免れなかった。咄嗟に飛翔して完全に回避してなお、全身に重篤な火傷を負ってしまったほどだ。
……火に焼かれて滅んだジャンヌ・ダルクが、怨嗟によって蘇り、しかして再び焼かれて死ぬなど断じて認められるものではない。しかも皮肉なことに、我が身を焼いた俗物達の炎とは異なり、聖剣のそれは間違いなく聖なるものなのだ。
冗談ではない。ふざけるな、と叫びたかった。
そんな余分はない。手勢を失い、圧倒的不利に陥った瞬間、魔女は即座に撤退を選択した。
邪悪なるものを召喚する暇などなかった。他に取れる選択肢がなかった。無様に逃げ去るしかなかったのだ。その屈辱に歯噛みして、今度は他のサーヴァントを全て投入し、ファヴニールも手加減なしに使って仕返ししてやると復讐を誓ったものである。
だが甘かった。あのキチ●イは飛んで逃げられたからと大人しく諦めるような甘い輩ではなかったのだ。
奴は、信じがたいことに宝具を使ってきた。
ただの人間が。サーヴァントでもない常人がだ。一級の魔剣を、矢として放ち、あまつさえそれを全力で防ごうとした竜の魔女に着弾した瞬間爆破した。
英霊にとって唯一無二であるはずの宝具を、なんの躊躇いもなしに自壊させ使い捨てたのである。正気の沙汰ではなかった。
あれは人間。故にその名も能力も分からない。だがはっきりしているのは侮って良い甘ちゃんではないということ。そして、絶対に殺すべき敵だということ。
正義の味方気取りの奴があんなのだなんて笑えてくる。アレは自分ごとアーサー王に聖剣で攻撃させた。防げるとわかっていても出来ることではない。断言できた。憎悪の塊、復讐の権化である竜の魔女だからこそ確信できた。
――アイツは、気が狂ってる……!
弱味を見せたら徹底的に突いてくるだろう。そこに手加減はない。容赦はない。呵責なく攻めてくる。絶対に勝てるという好機を逃すわけがない。
魔剣の直撃を受け、撃墜された魔女は近くにあった森に這って行った。完全に回避した聖剣の熱よりも、あの螺旋の矢の方がよほど魔女に深手を与えていた。
いつ死んでもおかしくないほどの傷。全身がぐちゃぐちゃになって、自分にも分からない力で再生しなければ、きっと一分もせずに消滅していたはずだ。
「……きっと、ジルね。ジルが私に何かをした。だから助かったんだわ」
ジル。ジル・ド・レェ。今も昔も、魔女にとって最も頼りになる存在。いつも味方でいてくれた彼なら、きっと自分を助けてくれる。
だから、この再生はジルのお陰なのだろう。……あとで礼でも言ってやろう。特別に一度だけ。
体の傷が塞がった。驚異的な回復力。痛みが引いたからか、魔女は冷静に考えることができた。
――あの執念深い正義の味方様ならきっと私を追ってくる。私が深手を負った、というのもあるでしょうけど、それよりも私はサーヴァントを四騎も失った。好機だと睨むはずよ。実際に、こちらも危ないことに違いはないのだし。
手元にいるのはジルにバーサークしたアーチャーだけ。これは、非常に不味い。ファヴニールがまだいるとはいえ、ジャンヌ・ダルクの目にはあの極光が焼き付いていた。
最強の聖剣、エクスカリバー。ファヴニールを屠った聖剣よりもランクは確実に上。アーサー王自身も竜殺しに比肩、或いは上回る大英雄だ。
流石に竜殺しの属性まではないだろうが、あの火力を連発できるとしたら不利は否めない。早急に新たなサーヴァントを召喚しなければならないだろう。
しかし、問題は。
あのキ●ガイの追撃を振り切って、本拠地の城に戻れるかどうかだ。
無理だ、と魔女は直感する。何も手を打たないで逃げていたらきっと追い付かれる。
そうなれば、またあの聖剣か、あの剣弾が飛んでくるだろう。
――怖い。
それは恐怖だった。
誤魔化しようのない畏怖だった。
ここにいるのが自分一人だからそれを隠すことなく素直に認められた。
恐ろしいものを、恐ろしいと認められないのは、人間的成長のない愚か者だ。私は違う、とジャンヌは思う。
令呪を起動。迷いなく一角を消費し、アーチャーを空間転移させてきて、端的に命じた。
「……ここに私を追って敵が来るわ。勝たなくてもいい。少しでも長く敵の足を止めるの。私が新しくサーヴァントを召喚するための時間稼ぎぐらいきっちりしなさい。いいわね?」
言うだけ言って、ジャンヌは再び飛翔した。後に残されたのは、一人の女狩人。女神アルテミスを信仰する純潔の弓使い。
アタランテ。獅子の姿の狩人は、狂化によって鈍った思考で了解と短く告げた。
――だが、狩人も、そして魔女も知らなかった。
カルデアのマスターは、敢えて追撃になど打って出ておらず。魔女を追尾する暗殺者は、狂化で勘の鈍った狩人をまんまと素通りして魔女を追っていた。
夜が明けるまで影の如く追い続け、一つの城に魔女が逃げ込んだのを確認すると、暗殺者は得た情報を纏めた。
――致命傷から回復する再生能力。サーヴァントの追加召喚を可能にする能力。……聖杯の所有者はコイツで決まりだな。本拠地も確認、伏兵も認識。任務は一先ず完了、帰投するとしよう。
「問題だ。ジャンヌ・ダルクはどうして百年戦争時、連戦して連勝出来たと思う?」
召喚サークルを設置し、カルデアに近況を報告したあと。焚き火をして暖を取り、携帯していた保存食を口に運びながら士郎が言った。
同じように焚き火の前に座り、盾を円卓代わりにしていたマシュは、顎に手を当てて考えた。
「……軍の指揮が巧みだったから、ですか?」
「違う。神の声を聞くまでただの小娘だったんだぞ。文盲で、学がない少女に軍略の心得なんてあるわけがないだろう」
まあ、後になってジル・ド・レェ辺りにでも講義を受け、ひとかどの軍略を身に付けたのかもしれない。だが結局最後まで字は読めず、学を手にすることはなかった。
「ヒントは、ジャンヌ・ダルクは源義経と同じだということだ」
「極東の大英雄と……?」
「マシュ、よく考えてみてください。答えは意外と単純ですよ」
「アルトリア、シャラップ」
何か知恵を貸そうとしたアルトリアの口に、日がある内に射落として調理した鳥の手羽先を押し込んだ。
はうっ、と声をあげ。次の瞬間には「んぅー」と満足そうに食べ物に夢中になるアルトリアに苦笑しながら、士郎は再度マシュに目を向けた。
「えっと……ジャンヌ・ダルクは神の声を聞いたとされています。何か、啓示のようなものがあって、そのお陰だったりするのでしょうか」
「それも違う。あまり話を引っ張るのもアレだしな、答えを言うとだ。……ジャンヌ・ダルクは世間知らずで、当時の戦争のルールを全く知らなかったんだよ」
「え?」
「そもそも百年戦争と銘打ってるが、常に全力で殺し合っていたわけではないことはマシュも知っているだろう。騎士は勇壮に戦い、しかし負けて捕虜になると身代金を払って解放される……まあ、温いと感じるかもしれないが、基本的に騎士は殺されることがなかった。殺してはならない、なんて暗黙の了解があったほどだ。なんせ殺したら自分も殺されるかもしれないからな」
だが、ジャンヌ・ダルクはそんな暗黙の了解など知らなかった。ルールを知らなかった。日本の武士のように戦争前に口上を述べたりしなかった。
必然ジャンヌ・ダルクは敵国イングランドの騎士を殺した。殺すことを躊躇わなかった。戦争はそういうものだと思っていたし、戦争なのだからと戦う前の口上も述べずに軍を率いて突撃した――軍から突出して口上を述べていたイングランドの騎士に向かって。
そして、殺した。
「それは」
マシュが目を見開いた。
「そう。源義経と同じというのはそういうことだよ。彼らは当時の風習、決まりごとを無視して先手を取り続けたから勝てた。正面からの奇襲が出来たわけだからな、勝つのは簡単だったろう」
無論、それが通じるのは最初だけ。後は己の才覚、運、味方の働きにかかっている。
「そして味方を勝利させる乙女ともなれば、フランス軍がその存在に熱狂していくのもわかる。勝利は気持ちいいからな。だが、そんなやり方で勝ってしまえば、それはもう敵方から恨まれるだろう。イングランドが何をおいてもオルレアンの乙女を異端として処刑したがったのは、ジャンヌ・ダルクがそれほどに憎かったからだ」
「……」
「ジャンヌ・ダルクが捕虜になった最後の戦い。なぜジャンヌ・ダルクが敗れたのか。それはルール破りの常習犯ジャンヌ・ダルクを相手にイングランドがルールを守ることをやめたからだ。結果的に、ジャンヌ・ダルクは自分と同じことをされて負けたというわけだな」
さて。
ジャンヌ・ダルクを敵とする時、以上のことを知った上で何を警戒するべきか、これで分かっただろう。
「ジャンヌ・ダルクは常識知らずだったが馬鹿じゃない。味方が有能でも、馬鹿が何度も戦争で勝てる道理はない。歴戦を経る中で軍略も学んだだろう。そんな彼女の戦術ドクトリンは極めて単純で明快なものだ。即ち、勝てば良い――まったく、気が合いそうなことだな」
皮肉げに言う士郎に、アルトリアが一言。
今、少しアーチャーに似ていましたよ。
士郎はきょとんとし、次に苦笑した。それは、誉め言葉だ、と。
「警戒すべきは型破りの用兵だ。そして使われる戦術は単純で手堅い。シンプル故に破りがたい手段をとるだろう。次に相手からこちらに仕掛けてくるとすれば、戦力の拡充を果たし、確実に勝てると確信してからのはずだ」
「……でしたら先輩、すぐにでも追撃するべきだったのでは?」
「いや。あの時に追撃するのは上手くなかった。奴はまだ手札を残しているだろう。四騎もサーヴァントを従えていたんだ、まだいると思って良い。聖杯戦争なら七騎はいるはずだから、ジャンヌ・ダルクを含めても後二騎は最低でも控えている。加え、奴は竜の魔女だ。ワイバーンの大軍とサーヴァント、さらに強力な竜種がいる可能性も捨てきれない。足元も覚束ない状況で深追いすれば、痛い目を見るのはこちらだろう」
そんな中で、アルトリアが上げた戦果はまさに大殊勲である。彼女のお陰で優位に立てているようなものだ。
「ということは、今するべきは情報収集ですか」
「できればこちらも戦力を増やしたいところですね。シロウはどうするつもりです」
どうするか? 士郎は立ち上がり、明けていく空を見上げた。
「――決まってる。情報が舞い込むのを待ちつつ、利用できそうなものを探すのみだ」
行こう、と士郎は言った。
二日目の朝、午前。士郎達はワイバーンの群れに襲われているフランス軍を発見。これを助ける。
そして日が真上に来る前に、帰還したアサシンから情報を得て。
即断した。
「時間はやはり俺達の敵だな。……四日というのは撤回する。『今日』で決めるぞ、マシュ、アルトリア」
酷すぎるぞ士郎くん!
足がほしい、と俺は切に思った。
乗り物という意味の足である。移動速度の遅さは如何ともし難い。何とかして短縮したいが、どうにかならないだろうか。ダ・ヴィンチえもんにでも頼んで、何か乗り物でも作って貰おうか。
いや、単純にライダーがいたら良い。戦車持ちならなおよしだ。いっそのこと、贅沢は言わないから高い機動力を持つランサーがいたらいい。それならわざわざ俺が走らなくても、ランサーに追撃を任せて優雅に構えていられる。
――そういえば知名度補正全開のクー・フーリンなら戦車も持ってるはずだよな……。
ライダーでなくても持ってくれていたら、俺の悩みも一挙に解決なのだが。まあそのクー・フーリンの召喚はまだ先なわけで。出来れば槍兵がいいとはいえ、戦車を確実に持っているだろう騎乗兵のクラスでの召喚も捨て難くなってきた。
うーん、悩む。悩むなぁ。
「先輩。現実を見てください先輩」
「やめろ。やめてください。奇天烈でファンシーな獅子を象ったバイクなんて知らない。ドゥン・スタリオン号とかラムレイ号とか知らない。俺は今滅茶苦茶スマートでイカシたバイクを吹かしてるんだぜベイベ」
「せんぱーい! 帰ってきてくださーい! 現実、これが現実なんです……!」
颯爽と風を切り、疾走する二台のバイク。獅子の頭を持った馬の名前の機械馬。ネイキッドというスマートなバイクを素体にしているからか、無駄に胴体部位が格好良いのが腹が立つ。
俺が乗っているのが黒い獅子頭のラムレイ号。武器庫代わりのサイドカーをつけて、後ろに盾娘マシュを相乗りさせている。
並走しているのは、巧みなハンドル捌きの騎士王サマ。白いドゥン・スタリオン号とかいう獅子頭のファンシーなネイキッド。
昨夜。敵サーヴァント四騎を撃沈させた砦跡地で夜営をした俺達は、下の下とはいえ霊脈として機能させられないこともない土地だったこともあり、召喚サークルを設置してカルデアから補給物資を貰った。
そこで、俺はかねてからダ・ヴィンチに依頼していた移動用の乗り物を転送して貰ったわけだが。
それが、なぜかご覧の有り様である。
ダ・ヴィンチ曰く、外装の獅子頭は騎士王の熱い想いのために実装した代物なのだとか。レイシフト初日に間に合わず、夜に召喚サークルを設置した時に何とか開発・作成を間に合わせたダ・ヴィンチの奮闘には頭の下がる思いだ。素直に感謝するし短期間で発明品を実用に耐えるレベルに持っていく手腕には尊敬の念を抱く。
だがこれはない。幾ら移動速度を爆発的に高められていると言っても、これはない。
俺は諸悪の根源を睨んだ。
びくりとするキシオウ様。操縦しているドゥン・スタリオン号が揺れた。
「……おい。弁解するなら今だぞ。さすがの俺も無視できなくなってきた。さっきのフランス兵の顔を見たか。まるで色物戦隊でも見る目だったぞ」
「うっ。……い、いいじゃないですか獅子頭。かっこいいでしょう」
「お前のセンスが死んでるのはわかった。頼むからダ・ヴィンチに自分好みの改造をさせるな。普通で良いんだ、普通が良いんだよバイクは」
あとバイクにでかでかと『ラムレイ号』とか刻んだネームプレートを張り付けないでほしい。かなり恥ずかしいのだ。乗っていると獅子頭の後頭部が見えて死にたくなるのだ。
俺は昨日の夜から定期的に宝具を投影し、武器庫に貯蔵しているわけだが、きらりと光り、夥しい魔力を放つ投影宝具がシュールに見えて仕方ない。
おかしいなあ。こんなはずじゃなかったのに……。俺が涙目になっていると、アルトリアも涙目になっていた。
自分のセンスを全否定されて泣きそうなのか。俺も泣きたい。なんで他のことだとメンタル強くなってるのにそういうとこだけ昔より脆くなってるのですか。王よ、私には貴方の心がわからない。私は悲しい。ぽろろーん。
「先輩、休憩しましょう。疲れてるんですよきっと。休んだら元気が出るはずです」
相乗りしているマシュが健気にもそう言って気遣ってくれた。
よし休憩しよう。何時間も走り続けてると俺まで獅子頭と人機一体になってしまう。無駄に乗り心地良いのが憎たらしい。ハンドル捌きが達者なキシオウ様がやたらムカつく。
この時ばかりは、アルトリアに刺々しいマシュも態度に棘をなくし、憐憫の眼差しで見遣っていた。
アルトリアはラムレイ号を止めた俺の隣にドゥン・スタリオン号を停車させ、小さくなって俯いていた。そんな彼女に冷たい目を向け、俺は露骨に嘆息する。
「あーあ。敵サーヴァントを一気に片付けた誰かさんのこと凄いと思ってたのになー。台無しだなー。わたしはかなしー」
「うぅ……」
「ぽろろーん。ぽろろーん」
「サー・トリスタンの物真似はやめて差し上げてくださいっ」
「ちちうえー。ちちうえー」
「グググ……!」
「モードレッド卿もだめです!」
「ちちうえとか言われてるが、言うほど乳はないよなアルトリア」
「ぅう、うわあああ!!」
ドゥン・スタリオン号に縋りつくようにしてアルトリアは泣き崩れた。
それを尻目に、俺は呟く。
「ほんと円卓は地獄だぜ……」
「いえ、今は円卓は関係ないかと……あとセクハラです先輩」
脳内に展開していた偽螺旋剣の設計図に魔力を通し投影する。全工程を完了し、それをサイドカーに貯蔵して、ラムレイ号から離れた。
現在、貯蔵しているのは偽螺旋剣を五本。赤原猟犬を四本。原罪を六本。勝利すべき黄金の剣を五本。余裕がある時に投影しておこうと思ったのだ。実戦に際して一々投影していては間に合わないし、非効率的だと思ったのである。
夜通し、じっくり丁寧に時間をかけて、負担が掛からないように気を使いながら投影した。これからは暇さえあれば投影宝具を増やしていこうと思っている。
そこで、ふと気づいた。俺達は今、名前も知らない森の手前にいるわけだが、樹の影から何かがこちらを見ている。――切嗣だった。仕事帰りの独身サラリーマンの如く目が死んでいる。
咽び泣くアルトリアと、それを慰めるマシュを背にアサシンの元に向かった。
「マシュ、シロウが、シロウが苛めます。どうしてです、私はよかれと思って……」
「余計なお世話という奴ですね」
「円卓の騎士の物真似がなんであんなに上手いんですか。辛いです」
「自業自得ですよね」
「槍の私なら胸だって……きっとあるはずなんです」
「でもセイバーのアルトリアさんの現実はそれです」
「……マシュ。貴女とは少し話し合う必要があるようですね」
「? わたしは特に話すことなんて……」
……。
……慰めて、る?
いやあれも立派なコミュニケーションだ。間違いない。マシュは良い娘なので、何も問題ない。
「……で、首尾はどうだ」
「この森は通るな。伏兵がいる。女の狩人のサーヴァントだ。獅子の尾、耳からするに純潔の誓いを立てたアタランテだろう。森で相手をするのは自殺行為だ」
「ん? ……この森か?」
「ああ」
思いっきり走り抜けるつもりだった俺である。危なかった、本当危なかった。危うく罠にかかって森ごとアタランテを聖剣で焼き払わねばならなくなるところだった。
「迂回しよう。魔力は節約だ。使わないで良いなら使わない。節制は美徳なり」
「お母さん……」
「ん?」
マシュがこちらを見て、ぽつりと呟いた。
「何か言ったか」
「いえ、何も」
見れば、アルトリアもこちらを見ている。しかし切嗣は抜け目なく彼女達の樹の影の死角に立っていた。徹底している。さすが切嗣。遊びがない。
そんな切嗣は、やはり遊びのない眼差しで言葉を続けた。
「ついでに敵本拠地を発見した。オルレアンだ。ここはジュラという森。ここから北西の位置にオルレアンがある。僕は奇襲するべきだと判断するが、どうするマスター」
「……奇襲だと? 俺達だけで、か?」
「そうだ。ジャンヌ・ダルクはサーヴァントを追加で呼び出せるようだ。このままでは折角のアドバンテージが崩れ去る」
「サーヴァントの追加召喚? ……ジャンヌ・ダルクは聖杯を持っているな」
「ああ。僕もそう睨んでいる」
暫し沈思し、俺は決断する。
本当ならフランス軍を利用し、人海戦術で攻めるつもりだった。そのためにフランス兵を助け、フランス軍元帥のジル・ド・レェに接触するつもりだったのだが……。
サーヴァントの前に、普通の人間は無力。サーヴァントを増やせるというのなら、四騎を脱落させた甲斐がない。
ならば、多少の博打はやむを得ない。今後の戦いが長引けば人類は終わる。
「奇襲成功率は」
「三割だな」
「……分の悪い賭けは大嫌いだ。作戦を立てよう」
「聞こう」
「これを受け取れ」
言って、俺はマシュに目配せした。最近、アイコンタクトだけで多少は動けるようになってきていたのはいい成果だろう。
マシュは俺の意を汲み、武器庫から宝剣「原罪」を四本持ってきた。それに、投影したマルティーンの聖骸布を巻き付け、切嗣に手渡す。
これは? 視線で訊ねてくる切嗣に、俺は端的に告げた。「爆弾だよ。用途は分かるな? 俺とマシュとアルトリアで正面から仕掛ける。聖剣による対城の一撃を叩き込んだ後、ひたすら俺が投影した宝具を撃ち込んでいく。出てくればよし、出てこないならそのまま城を枕にさせて爆殺する」
「――了解。二段仕掛けか。それで仕留められなかったらどうする?」
「アサシンは状況を見て勝手に動け。俺達はそのまま決戦に移る。旗色が悪くなれば、投影宝具を積んだラムレイ号を突っ込ませて爆破し撤退する」
「了解。……ラムレイ号、あれか。随分可愛らしい外見だな」
「……ん?」
可愛らしい? それが聞こえたのか、切嗣の声に何かを思い出そうと顔を顰めていたアルトリアが目を輝かせた。このアサシンはわかってる! そんな顔。
俺は思い出した。
――そういえば切嗣のセンスも死んでいたな……。
いい加減に士郎くん!
■いい加減に士郎くん!
ジュラの森から北西に向けて走ること数時間。
高かった陽は地平線に傾き、夕焼けに染まる晴天に夜の訪れを感じた。
遠くにオルレアンの城が聳えているのが見えた。
風を切って疾く駆ける機械仕掛けの馬。その燃料も尽きかけていたが、使い潰すことを考えれば後半刻はその走りを継続できるだろう。
「……人がいない」
カルデアのマスターが呟く。その声は風に浚われ、相乗りしているデミ・サーヴァントの少女にしか聞こえていなかった。
「竜の魔女の勢力圏だからでしょう。恐らく、もう生きている人はいないかと」
「無関係の者を巻き込む恐れはない、ということだ。――アルトリア、マシュ、心に刻め。手加減や容赦は一切無用だ。人類の興廃はこの一戦にある。正しい歴史に流れを戻すことが、魔女の殺戮を否定する唯一の手段だと肝に銘じろ」
セイバーのサーヴァントが重々しく頷く。
精霊との戦いではなく、邪悪との戦いであり、私欲のない戦いであり、世界を救う戦いである。一対一の戦いではないが聖剣は相手が己よりも強大なモノであると認め、秘めたる星の息吹を放っていた。
赫と輝きを増す聖剣はその真の力を拘束する十三の条件の過半を解除され、今やかつての聖杯戦争の時よりも力を増している。
令呪の補助もなく、マスターからの魔力供給だけで放てるのは一度が限度だろう。カルデアから魔力を供給されているマスターですら、全開に近い聖剣を支えるには足らないのだ。
だが、マスターの手には三画の令呪がある。一日に一画、令呪を補填されるため、使い惜しむ必要は微塵もない。マスターは聖剣を使用する時は、躊躇いなく令呪を切るつもりだった。
「……正面、敵影。どうやら馬鹿正直に籠城に徹さずに、こちらの力を削ぐため迎撃に出たか」
敵は魔女とはいえルーラーと思われる。
サーヴァントの位置情報を把握できるのなら、オルレアンに一直線に近づいていくカルデアのサーヴァントにも早い段階で気づけただろう。
迎撃に出てきたのは、見るに耐えない醜い魔物だった。それに、竜種のワイバーンもいる。魔物の混成軍といっても混沌とした様相を呈していた。
「あれは……」
セイバーが表情を険しくさせた。巧みにバイクを操縦しマスターと並走しながら近づく。
「マスター。私はあれを知っています。海魔です。敵にキャスターのジル・ド・レェがいる。注意してください」
「ん? フランスの元帥がキャスター? 騎士ではなくか」
「はい。あれは堕落した反英雄『青髭』として恐れられた怪物が宝具で召喚した魔物でしょう。あの群れを殲滅しても意味はありません。魔力の続く限り無限に召喚出来るはずなので徒労に終わるでしょう」
「……知っていることを話してくれ」
やたらと詳しいセイバーに聞くと、どうやら第四次聖杯戦争の時にあの海魔とやらを召喚するキャスターのサーヴァントと交戦したことがあるらしい。
ことの顛末を省き、能力だけを聞くと、その厄介さに顔を顰めた。
召喚は容易。呼び出すだけ呼び出し、後は放し飼いにすれば勝手に魔物が獲物を求めて動き出す。典型的な宝具が強力なタイプのキャスターで、最後の決戦の時には聖剣の真名解放をしなければ打倒できなかったほどだという。
最低限の手綱を握り、自身と味方だけは襲わせないようにすれば、近場に生き物がいないためこちらを率先して襲ってくるわけだ。しかも、ワイバーンの群れも多数存在している。あれも竜の魔女が召喚したものだとすれば、恐らく単純な兵力だけでこちらを押し潰すことも不可能ではない。
無限に湧いてくる海魔とワイバーン。あまり相手にしたくない組み合わせだ。どうやら、相手も本気のようだし……やはり出し惜しみは出来ないか。
「アルトリア、お前の意見を聞きたい。オルレアン城に辿り着くまでの最短ルートはなんだ?」
「このまま直進し、敵を宝具で一掃して進むのが最短ですね」
「……聖剣は使えないぞ。燃費が悪いのもあるが、お前のそれは対城宝具だろう。軍勢を相手にすれば討ち漏らしが必ず出てくる」
「ええ。なのでマスター、貴方の投影した勝利すべき黄金の剣を使わせてください」
その言葉に、マスターはサイドカーに積まれた投影宝具のカリバーン五本を見る。
メロダックは四本、アサシンに持たせてあるため一本しか貯蔵がない。元が偽螺旋剣と赤原猟犬を含め、二十本という頭の悪い数だったから残り十六本貯蔵されていた。
「……何本使う?」
「二本で充分です。一度の真名解放で砕け散るでしょうが、それを恐れなければ平時の聖剣に伍する力を発揮できる。ランクにしてA+は固いでしょう。一度のカリバーンで今見える範囲にいる敵を一掃、討ち漏らしをもう一度カリバーンで薙ぎ払えば問題なく殲滅できます」
それを聞いて、マスターは投影宝具をセイバーに託すことを即決した。しかし、自身が消費する魔力量を計算しなければならない。
魔力量に不安はなくとも、魔術回路は無尽蔵ではないのだ。幾ら負荷が軽減されるとはいえ、調子に乗っていたら特異点Fの時の二の舞である。
「以前バーサーカーと戦った時の未熟なマスターですら、カリバーンの真名解放に耐えられたのです。カルデアのバックアップがある今、成熟している貴方には大した負担にはならないと思いますが」
「……簡単に言ってくれる。あの時は割りと死にそうだったんだが」
まあいい。躊躇えるだけの余裕はない。元々こういう時のために多めに投影していたのだ。セイバーの意見に従おう。
マスターはちらりと己の右手、その指先を見遣る。――微かに黒ずんでいる親指を。
バイクを停車し、セイバーがひらりと鋼鉄の馬から降りる。マスターも停止し、サイドカーから二本のカリバーンを抜き取って投げ渡した。
彼女に繋がるパスに魔力を通す。
カルデアからマスター、マスターからサーヴァント。供給される魔力に不足はない。ただ、流れていく魔力によって魔術回路が疲弊するだけのこと。
ん、と声をあげ、魔力を感じるセイバー。
迫り来る海魔とワイバーンに目掛け、光輝く黄金の剣を突き出した。
「選定の剣よ、力を。邪悪を断て――勝利すべき黄金の剣!」
閃光が閃く。解き放たれた光が敵軍勢の中心に突き刺さり、光を散らすように爆発した。
やはり凄まじい火力である。魔力はカルデアが負担してくれているとはいえ、それを通しているマスターの魔術回路が悲鳴をあげていた。
尋常の魔術師なら心が折れかねない痛みがある。しかしまあ、この程度は特に堪えない。マスターは冷静に海魔とワイバーンが壊滅したのを見届けた。
「……予想通り討ち漏らしが出たな」
「ええ。なのでもう一度――勝利すべき黄金の剣!」
敵の第一陣と、二本の選定の剣は塵一つ残さず消え去った。地形もえらいことになっている。まるで弾道ミサイルでも着弾したかのような有り様に、しかしこれといった感慨もなく。マスターとサーヴァントはバイクに跨がり、再びオルレアンに向けて走り始めた。
「……なにあれ」
呆気に取られたように、オルレアンで待ち構えていた竜の魔女は呟いた。
バーサーク・アーチャーを伏した森を迂回し、一直線にこちらに向かい出した時は伏兵を見抜かれたことに敵も相当の智者だと歯噛みしたものだ。
意味もなく戦力を森に置き続ける意味もないし、単独で仕掛けさせれば無駄死にさせるだけなのは目に見えていたため、アーチャーに奴らの背後を突かせるようなことはせず帰ってくることを念話で命じていた。
後はアーチャーの合流を待って、新たに召喚したバーサーカー・ランスロット、バーサーク・アサシンのシャルル=アンリ・サンソン、ファントム・オブ・ジ・オペラと、切り札のファヴニールを使って決戦を挑むつもりだったのだ。アーチャーが合流してくるまでの繋ぎとして、海魔とワイバーンは使ったにすぎない。
嫌がらせ程度の戦力だ。雑魚を一掃するために聖剣でも使って消耗してくれたら御の字と思っていたのだが。
「えっ。なにあれ。ほんとなに? ねえジル、私の頭おかしくなっちゃったの? なんか、同じ宝具を幾つも持ってるように見えたんだけど」
「そのようですねぇ」
呑気にも聞こえる声で応じたのは、筋骨逞しいローブ姿の巨漢である。
悪魔的な風貌の、目玉の飛び出した男の名は、かの悪名高き青髭……。嘗ての救国の英雄ジル・ド・レェであった。
声音こそ穏やかで場違いなほど落ち着いたものだったが、遠見の水晶から見て取れた光景にその眼が険しくなっている。
「ねえジル! なんかあいつ、あのヘンテコなドリルみたいな剣を弓につがえてるんだけど!」
「不味いですねぇ。こんな神秘も何もない城では防げないでしょう」
「あっちの王様なんか、聖剣ぶちかます気満々なんですけど。もう籠城とか無理でしょこれ。どう見てもこの城が私達を閉じ込める牢獄にしかなってないんだけど」
「ええ、ええ、これはもう打って出た方が賢明でしょう。邪竜を含めた全戦力で決戦を挑んだ方がいい。そちらの方が勝算がある。というより、どう見てもここに閉じ籠ったままでは完封されてしまうだけ。ジャンヌ、私も貴女の旗と共に全力で戦います。ですからどうか、号令を」
常の狂気よりも、卓越した軍略家としての本能が上回っているのだろう。青髭は平坦な、しかしジャンヌを落ち着かせる優しげな声で取り成した。
竜の魔女はその声に安心する。いつも困った時はこの声を聞いて落ち着いた。彼の軍略家としての能力は本物、仮にも一国の元帥であり、敗戦の憂き目にあった国を建て直した立役者、救国の英雄なのである。
「……そうね。そうよ。私の戦いはいつも不利なものばかりだった。戦局は絶望的じゃない。諦めなんて知らない。私は勝つの。あんなキ●ガイになんて負けないんだから」
ジルの言うことなら間違いない。そう信じられるから頷いて、ジャンヌはその竜の旗を振りかざした。
「邪悪なる竜、災厄の化身よ! 来なさい、そして蹂躙なさい! あまねく光、あらゆる命がおまえの贄だ。さあ、いでよ――ファヴニール!」
城内であってもまるで構わず、竜の魔女はその幻想種の頂点を召喚した。
呼び掛けに応じ、邪竜が顕現せんと爆発的な魔力の奔流を迸らせる。
その力の具現、暴力の息吹、邪なる波動に魔女ジャンヌ・ダルクは高揚した。
勝てる。この竜さえいたら。相手がアーサー王だろうとキチ●イだろうと、絶対勝てる! アーサー王を超える実力の騎士だってこちらにはいるのだ。敗けはない。
ふつふつと沸き立つ歓喜に、ジャンヌは高笑いした。
いや、しようとした。
その邪竜を召喚する異常な魔力の高ぶりは、未だ聖剣の射程圏内に到達していないカルデアの面々にもはっきりと感じられた。
カルデアのマスターは、これを新たなサーヴァントの召喚の予兆と捉えた。そしてそれを阻止しなければならないと考えた。
故に。手順を変えた。
聖剣、投影宝具の飽和攻撃ではなく。
まずは、意表を突くことにしたのだ。
「あはっ、あはは、あっははは――」
声も高らかに魔女が哄笑した瞬間。
その足場が崩れ落ちた。
否――オルレアン城がその土台から崩壊した。
城の基点に仕掛けられていた四つの投影宝具、その全てが同時に起爆し。遥か未来の建造物爆破解体技術と知識を持つ匠の手腕によって。
斯くして邪竜召喚は途中で頓挫。
竜の魔女は、青髭とその他のサーヴァント共々、消えていった邪竜をまざまざと見せつけられながら瓦礫の山に埋もれていった。
そこまでにしておけ士郎くん!
「これは酷い」
帰還後、戦闘記録を閲覧した某優男の感想がそれ。
「ラムレイ号ぉぉぉ!」
失われた命を嘆く某天才の悲しみの声。
「好機だった。今なら殺れると思った。今は満足している」
被告E氏は意味不明な供述を繰り返しており、爆破幇助についての反省は終始窺えませんでした。
「死体蹴り? ……基本じゃないのか?」
実行犯はそう検察側に語り、再犯の可能性は極めて高いと言わざるをえず、重い実刑判決が下されるものと見て間違いないとカルデア職員一同は――
――四連する大爆発。土台から崩れ落ちたオルレアンの城。アルトリアはそれを見て思わず動きを止め、マスターである男を振り返った。
力強く頷く顔に達成感はない。冷徹に次の手を算段する冷たさがある。それは、衛宮士郎の前に契約していた男を彷彿とさせる表情とやり口。
しかし今のアルトリアにそれを疎む気持ちはない。現金な性質なのか、それをやったのが己の現マスターであるというだけで、許容できてしまっている自分がいた。それにここまで冷徹にことを推し進めなければ勝てない戦いもあるのである。
今カルデア最大の敵は時間だ。速攻は義務であり、確実な手段に訴えるのは当然のことだった。
マスターの男、衛宮士郎は一切の衒いなく、冷酷に手札を切る。城を倒壊させた程度でサーヴァントを倒せるものではない。
「畳み掛けるぞ。令呪起動、システム作動。『宝具解放』し聖剣の輝きを此処に示せ」
「拝承致しました。我が剣は貴方と共にある。その証を今一度示しましょう」
聖剣を覆っていた風の鞘を解き、露になった黄金の光を振りかざす。
大上段に構えての、両手の振り抜き。オルレアン城の残骸に向けて、己の勘に従って「約束された勝利の剣」を振り下ろす。
星の極光が轟き、光の奔流が瓦礫の山を斬り抜けていく。誰も視認すら出来なかったが、この究極斬撃は敵方のアサシン、ファントム・オブ・ジ・オペラと天敵のバーサーカー、ランスロットが霊体化し、瓦礫の山から脱出しようとしていたところを捉えた。 断末魔もなく二騎のサーヴァントが脱落。それを確認する術などなく、偽螺旋剣を武器庫から取り出し、魔力を充填。真名解放し、瓦礫に打ち込む。
そして再びの爆破。
「停止解凍、全投影連続層写」
更にあらかじめ投影していた無数の剣弾を解凍し、虚空に忽然と姿を表した二十七弾の掃射を開始。
オルレアンを更地にせんばかりの怒濤の追撃である。
ほぼ全ての工程をカットした斬山剣『虚・千山斬り拓く翠の地平』を含めた全てを爆発させ、剣林弾雨は比喩抜きの絨毯爆撃と化した。
土煙が舞う。
半死半生、片腕を無くし、決死の表情で土煙から飛び出して士郎に向かうシャルル=アンリ・サンソン。黒い外套も吹き飛び、もはや手にする斬首剣の一振りに命を注ぎ込んでの突撃だった。
マシュとアルトリアが即座に立ち塞がる。だが、それよりも早く、動く者があった。
「正面から行くとは、底が知れるぞ処刑人」
背後。土煙に突入していた深紅の暗殺者の銃撃が瀕死の処刑人を穿つ。体から力が抜けた瞬間、伸ばされた腕がサンソンを土煙の中に引きずり込み、更に乾いた発砲音が響く。土煙が晴れた時、そこにはもう何もなかった。
士郎はその全てを見届け、首筋に冷たい汗が流れる。その斬首剣を見ただけで解析・固有結界に貯蔵し恐ろしい能力を知って戦慄したのだ。
サンソンの宝具『死は明日への希望なり』――由来は罪人を斬首する処刑器具のギロチン。真の処刑道具、ギロチンの具現化。
一度発動してしまえば死ぬ確率は呪いへの抵抗力や幸運ではなく、『いずれ死ぬという宿命に耐えられるかどうか』という概念によって回避できるかどうかが決定される。
精神干渉系の宝具であり、戦死ではなく処刑されたという逸話がある対象には不利な判定がつく。中距離以内で真名を発動させるとギロチンが顕現し、一秒後に落下して判定が行われるのだ。
これを確実に防げるのは、そもそも死の運命にはなかったはずのアルトリアだけ。マシュは不明だが、士郎は確実に死に、アサシンの切嗣もまた同様だろう。
天敵と言える。接近されていれば不味かった。アルトリアがいたとはいえ、肝の冷える瞬間だった。
……まだ攻めが甘かったということだ! 士郎は躊躇わなかった。
「総員退避! ラムレイ号、突貫する!」
決断した士郎は更に追撃を敢行。
えっ、と声を上げた騎士王を無視し、士郎は自動操縦モードを起動。ただ真っ直ぐ走るだけの機能は士郎が注文して付けていたものだ。
乗り手もなく疾走する黒い獅子頭のバイクは、もはや瓦礫すらも消し飛び更地となっていたオルレアン跡地に突っ込んでいき――トドメの爆撃となった。
「壊れた幻想ッ!」
「ら、ラムレイぃぃっ!!」
悲痛な騎士王の嘆きは爆音に掻き消された。この瞬間、海魔を壁として耐え続けていた青髭は、十三本の投影宝具の一斉起爆に巻き込まれ消滅。
庇われていた竜の魔女もまた、己の『所有者』の消滅を以って偽りの人格は剥がれ落ち、ただの『器』となって消滅した。
……そこにあったかもしれない両者の最期のやり取りを、知るものは皆無。
「――敵消滅を確認。お疲れさまでした先輩」
「ああ、なんとか上手く行ってくれてよかった。こんな無茶苦茶なこと、もう二度としたくない。確実性がどこにもなかったんだからな」
ふぅ、と息を吐き、なぜか膝と両手を地面についているアルトリアに首を傾げつつ、出現していた水晶体の聖杯を回収に向かう。
「……聖杯の回収を確認。馬鹿げた魔力だ。なるほどこれを手にした者が万能感に酔いしれるのも分からないでもない」
特異点の原因を排除し聖杯を回収したからだろう。この特異点が元の歴史に戻るため修正が始まっている。じきにこの世界は消滅し、なかったことになるだろう。
だが、それでいい。なんの問題もない。名誉も、功績も残らないが、そんなものを求めたことはないのだから。
「さ、帰るぞ皆。次の仕事が待っている」
ドクター・ロマンから通信が入り、聖杯の回収を確認したこと、レイシフトの準備が完了していることを知らされる。
次の特異点は、ここほど急ぐことはない。駆け足なのは当たり前だが、しかし新たな強力なサーヴァントの召喚が決まっている。取れる戦術は増え、確実さを増した手段も取れるようになる。焦ることはなかった。
まあ、その前に、一日ぐらい休んでもいいか、と思う。流石に休養もなく走り抜けていたら、倒れてしまうだろうから。
第一特異点「邪●百●戦●オルレアン」定礎復元