負の感情にとりつかれた男

 太郎は、負の感情に取りつかれた男だった。

 その顔はまるで、漬物の瓶につけられた日陰の野菜に自転車の空気入れをぶっさして膨らませでもしたかのようで、ブクブクと膨らんだもやしに似ていた。そして、”おれはイケメンだ”と思っていた。かっこよすぎる。キマってる、と思っていた。朝になるとゴミ屋敷のなかでゴミに潜り、夜になると這い出して腰をくねらせて乱舞する。ああ、最高だ、おれは勝ち組だ、働いたら負けだ、奴隷たちのようにはなりたくない、おれは貴族、コンビニの奴隷たちよ......と思っていた。

 ある日、コンビニに行くと、奴隷たちがいた。屈強な奴隷たちが、立ちはだかり「出て行ってくれ」と言う。太郎は、びっくりして、「コワ!」と言った。そしてでていこうとする直前、くるりと振り返って「バーカ」と言った。なんでおれさまのような恭しい貴族が、あんなみすぼらしい貴族にナメた口をきかれなきゃいかんのだ、と思いながら、ゴミ捨て場を漁って、かにかまをみつけた。やったぜ、これで今日を生き抜くことができる。おれは偉い。貴族であり勝ち組。

 

 かにかまをしゃぶりながら、道を歩いていた。体が痒かった。チャイムの音がする。近くに小学校がある。小学生たちが集団下校してくる。かわいらしい女の子でも誘拐して、かわいがるか、と太郎は思った。むこうからやってくるのは、野球少年たちだった。ガキどもが......と思った。野球少年たちは、ニヤニヤしながら、太郎を横目で見て、ひそひそ何かを言っていた。けらけらと笑っている。おれをみて笑ってやがる、なめてるのか!

 

 太郎は叫んで、一人の野球少年を殴った。

「なめんな! ガキ!」

 少年はひらりと交わした。太郎はそのまま勢いに負けて正面からバタンと倒れてしまう。

「うっわ、だっせ、このおっさんクセえ、クッセー!!!」

 しね、と言って少年たちが群がってきて殴るけるの暴行を行った。こいつはいきなり襲ってきた、正当防衛だ、ぶっ殺せと叫び、小学校からは続々と子供たちが集まってきて、石まで飛んできた。

「やめなさい!」と声が聞こえた。

 熱血体育教師のような男が立っていた。舘ひろしのような男だった。体育教師は、小学生たちを止めはしたが、太郎を見ると、「プッ」と笑ってただ黙って見下していた。 

いこうぜーと言って、小学生たちは立ち去っていく。何事もなかったように。いてえ、いてえよ、と太郎は言った。体育教師はただ笑って、片手をあげて、そして背中を向けてやれやれとつぶやきながら去っていった。

「おいこら……!」太郎は声を振り絞った。

 すると、「キャーッ!」という奇声を上げ、少女が走り去った。おれは勝ち組だぞ……貴族だ……と太郎は思った。負け組どもに、こんな目にあわされて......。

 

 太郎がゴミ屋敷に帰る。窓ガラスが破け、水道もガスも止められた。電気だけは、空き家から延長ケーブルをひっぱって盗んでいる。ゴミ置き場で見つけたパソコンで、エロサイトをみていると、うしろで火災が起きた。ゴミのなかをひっくりかえして消そうとするも、どんどん燃え広がる一方だ。

「うわーっゴミだ!」

 小学生たちがなだれ込んできて、モノを投げ込んでライターでさらにあちこちに火をつけていく。

「きれいになくなるといいね」

 少女がニッコリと笑った。太郎は、少女をつかんだ。「なくなるといいだと!」「なにがいいんだ?!」「言えっ、おれがいなくなるのが、そんなに嬉しいのか!」そして喚き声を発することがないようにゴミを口に詰めた。炎の中に押し倒して、うごかなくなるまで、殴り続けた。その間中、泣き叫ぶ少年たちが、太郎をとめようと背中を叩いていたが、やがて彼らは逃げ出した。「し、しらねえぞ!」と彼らは言った。

 太郎は、少年たちを追いかけた。廊下に出て、階段を下りた。暗闇の中で、気配を探った。「どこにいった!」

 太郎は、隣の家のドアを思い切り殴り、近所の家に、放火して回った。

 

 パトカーが来て、逮捕された。

 取り調べの間、刑事は椅子から立ち上がって、屈伸をしたり、スクワットをしたりして、少しでも抵抗したら、”殴り殺すぞ”という態度をとっていた。太郎は、反感を覚えて、不遜な態度をとっていた。「かかってこいよオラア」と言った。刑事は監視カメラを止めた。そして拳銃を抜くと、太郎の口にそれを突っ込んで「しゃぶれ」と言った。太郎はカッとなって立ち上がった。刑事は、太郎を机の上に背負い投げた。背中から机に打ちつけられた。ドアに外からカギがかかった。署内はみんなグルだ。口裏が合うんだ、と刑事は言った。言うとおりにしろ、と耳打ちされた。

 

 ムカついてムカついて、しかたなかった。怒りがこみあげてどうしようもなかった。堪えても堪えても、こらえきれず、夢の中で、自分が自分に襲い掛かってきた。太郎は太郎に言った。「てめえはゴミだ、FUCK YOU、ぶち殺すぞ」太郎は太郎に殴り飛ばされ、爆発が起こって激痛が走る。腕がちぎれては生え、ちぎれては生えした。いたくていたくてどうしようもねえ、おまえのせいだ、太郎! うまれてきやがってクソが! 死ね! 飛び降り自殺に失敗して電柱にくし刺しになれ! 目を覚ますと、窓から自分が飛び込んでくる。ドアから自分がなだれ込んでくる、と思った。壁をつきやぶって自分が流れ込んでくる。殴って殴って、激怒しながら、泣きわめきながら、ボールペンで身体を指しぬこうとする。胸にボールペンを突き立てられた。血が噴き出てボールペンの先が胸から背中に貫通する。背中と胸に血の噴水。息を吸えない。肺が動かない。刑事が、銃を乱射しながらやってきて、自分を撃ち殺してまわった。そうして、なぜか保釈された。

 

 殺してやる、殺してやる......。おれは、2ちゃんねるに殺人予告を書きなぐる。見知らぬ他人を挑発し、同士討ちさせて、憎み合わせる。仲間割れしろ! 喧嘩しろ……!離婚しろ……! 破局しろ……! 失業しろ……! 暴れて暴れて、暴れちぎる。2ちゃんねるで、おれは貴族だ、勝ち組だ……。

 

 2ちゃんねるでは、何をやっても、絶対にバレないぜ……。匿名掲示板だから、特定ができないんだ......だからみんな、悪口をかいているぞ......。おれもバレないぜ......。みんなやっていることだからな、と太郎は思った。山田と田中が不倫して、木村と佐藤がズルをした、コラッ小池、小池は指名手配だぞ......。

 

 そんなある日、ふと、郵便受けに弁護士からの情報開示請求が届いていた。回答がなければ、被害者に個人情報を開示します、と記されていた。「えっ!?」と太郎は飛びのいた。そんなことをされたら、やつらが、やつらが家に殴りこんできてしまう……!ぶち殺されてしまうんじゃないか……!? 太郎は、おびえて、へたりこんだ。「たすけてえ、たすけてえ」太郎は、電柱にしがみついて、セミのように鳴いているところを巡回中のおまわりさんに保護されたようだった。

 

「で、なにがあったんだ?」と巡査はいった。

「わたしは、ビョーキなんです。かわいそうなんです。精神を病んでいるから、無罪です」

「どう病んでるんだ?」

「もうひとりの自分が、あちこちから出てきて、刑事に撃たれましたんです」

「……キモい。おまえキモい事いってんのな」

 巡査は、スクワットをして、銃を抜いた。

窓がガラッと空いた。「あっあれだ!」太郎は窓を指さした。巡査は振り返った。太郎はそのすきに銃を奪った。そして、「なんにもいねえじゃないか」と言った巡査が、銃を奪われていることに気がついて青ざめた。

 そうして、太郎は、またその本性をあらわにしたのだった。

 「おれのこと、キモいって言った?」

「かわいそうで、精神を病んでいて、無罪なんじゃなかったのか」

「ん? 拳銃しゃぶりたいって?」

 太郎は、巡査の口に拳銃を押し込んだ。喚く巡査に「しゃぶれよ」と言った。巡査は立ち上がって、太郎を壁に突き飛ばした。

「かわいそうでも精神を病んでいるわけでも、無罪でもないんだな」

 太郎が落とした銃を拾い上げ、巡査は監視カメラに合図を送った。

「うるせー!!ばか! しねー!!」と太郎は言った。

 監視カメラの映像は、"機器の故障"によってそこまでで途切れている。太郎のその後は、一切不明である。