元捕虜のアルバムに収蔵されていた松江豊壽所長の写真(提供:鳴門市ドイツ館)

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 現在の徳島県鳴門市に存在した「板東俘虜(ふりょ)収容所」という施設をご存じだろうか。日独戦争のドイツ兵捕虜およそ千人が生活したこの施設は、われわれが思い浮かべる“収容所”のイメージとはほど遠い。捕虜たちが感謝すら述べた、そのワケとは。

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 この1月12日から20日まで、東京・渋谷のBunkamuraギャラリーで「『板東俘虜収容所』の世界展」が開催されていた(徳島県教育委員会、鳴門市ほか主催)。紹介されたのは謄写版印刷による“コンサート”のプログラムや、捕虜たちと現地の人々との交流が収められた写真など。1918年にベートーベンの「第九」がアジアで初めて演奏されたのも、収容所の捕虜たちで構成されたオーケストラのコンサートだったという。

元捕虜のアルバムに収蔵されていた松江豊壽所長の写真(提供:鳴門市ドイツ館)

 若者の街にはやや不釣り合いな企画、開催も1週間少々ながら、来訪者は2千名を超えた。昨年はNHKで「鳴門の第九 歌声がつなぐ日独の100年」のドキュメンタリーが放送されてもいるが、

「アメリカのトランプ政権に代表されるような“自国ファースト”の流れにあって、国籍を越えて生まれた交流の逸話に、皆さん惹かれているのではないでしょうか」

 と、徳島県教育委員会の近藤大器・社会教育主事は分析する。

 1914年に起きた日独戦争で、ドイツが本拠地を置く中国の青島を日本軍が攻撃、およそ4700人のドイツ兵士が捕虜となった。これを受け、板東のほか、習志野や久留米など6カ所に捕虜を収容する施設ができる。前者1917年に建設された板東俘虜収容所は、1920年にヴェルサイユ条約が結ばれるまでの約3年間運営されたという。ちなみに、「俘虜」と「捕虜」はほぼ同義。第2次世界大戦までは前者のほうが一般的だったという説もある。

霊山寺で行われた捕虜たちの展覧会の様子(提供:鳴門市ドイツ館)

 その後、建物(バラッケ)は日本軍の演習場宿舎や、戦後の引揚者の住居として使われたが(余談ながら「板東で生活した引揚者には元プロ野球選手の板東英二さんもいた。あの方は本名ですから偶然でしょう」と近藤氏)、収容所の存在は人びとに忘れられていった。忘れられた板東が注目をされたのは、1960年になってのこと。バラッケで生活をしていた引揚者の高橋春枝さんが、13年にわたって「ドイツ兵の慰霊碑」を管理していたことが、読売新聞で報じられたのだ。

収容所内にあった酒保(売店)。地酒「花乃春」を飲んでいた記録も残る(提供:鳴門市ドイツ館)

「碑を“発見”したとき、高橋さんの夫はシベリアで抑留されており、帰国できませんでした。後に帰ってくることができたのですが、ドイツに残された兵士の家族の気持ちを考えると他人事とは思えず、高橋さんは掃除や献花のお世話をされたといいます」

 報道を機に、ドイツ大使らが板東に足を運び、感謝を表明。68年には元捕虜たちの再訪問も叶った。この流れで、72年に関係者から寄せられた写真や資料を展示・公開する「鳴門市ドイツ館」が創設、74年には鳴門市とドイツのリューネブルク市が姉妹都市にもなった。日本とドイツ間の戦争にまつわる施設にもかかわらず、これほどの“交流”が生まれたのはなぜか。先の高橋さんの功績もさることながら、当時の収容所所長・松江豊壽の存在が大きい。

記憶遺産をめざす資料 こちらは“アジア初の第九”コンサートのプログラム(提供:鳴門市ドイツ館)

松江の“武士の情け”

 松江の捕虜に対する人道的な扱いは、映画「バルトの楽園」でも描かれている。松江を演じるのは、松平健。1872年に会津藩の武士の子として生まれた松江は、16歳の時に陸軍幼年学校に入校、日露戦争時の韓国駐劄(さつ)軍副官などを経て、44歳で板東俘虜収容所の所長に就任した。

 松江について論じられる際には、会津出身というバックボーンに注目されることが多い。当時の圧倒的な長州閥にあって、“賊軍”としての苦しみを知る松江は、同じく敗者であるドイツ兵たちにも同情の念を覚えた……といった文脈である。

「いわゆる“武士の情け”ですね。とくに、作家の中村彰彦先生が『二つの山河』で松江を描いてからは、こうした見方が根強いです。捕虜に甘ければ、当然、上官からは叱られる。それでも松江所長は自身のやり方を貫いたわけです。お孫さんは現在もご存命で、『肝の据わった人だったと聞いている』とおっしゃっていますよ」(近藤氏)

 松江と捕虜との関係性を表すエピソードとしては、例えば“遠足”におけるこんな逸話がある。当時、今でいうメンタルヘルスの管理のため、収容所の外へ捕虜を連れ出すことが許されていた。山を越えて瀬戸内海の海岸を訪れた際に、捕虜たちがつぎつぎと泳ぎ出してしまうことがあった。沖に出られては捕えがたく、下手をすれば脱走者を出すことになる。だが、松江は遊泳を禁止しなかった。あとで上から咎められた際には、「足を洗わせていたら、泳いでしまった」と“説明”したという。

 あるいは、収容所ちかくの霊山寺と公会堂で、捕虜たちの製作物の展覧会が12日間にわたって開催されたときのこと。会期中には5万人もの人々が訪れたとされるが、軍からは、混乱を避けるため、捕虜が会場を訪れる際には日本人の客を入れないようにとのお達しがあった。建前ではこれを了解した松江だったが、実際は捕虜も一般客もごちゃまぜだった会場の写真が残されている。居合わせた客に狼藉を働かないという、捕虜たちへの信頼があったからこその行いである。また日本の人々も“ドイツさん”をむやみに遠ざけることはしなかった。ちなみに霊山寺の近くには、地元の人たちへの感謝の気持ちから捕虜が作ったとされる「ドイツ橋」が今も残っているという。

 収容所内で発行されていた所内新聞には、〈彼(松江)はわれわれの最善を願ってくれた。ここ2、3年間の生活が本当にしやすかったのは、彼の職務の執行方法によるのであり、われわれはそのことにぜひとも感謝しなければならない〉との記述も残る。

「なにより、解放された捕虜たちが持ち帰った写真の中に、かなりの確率で松江所長の写真が残っているんです。執務室にいたり、馬にまたがっていたり。これは私の憶測ですが、嫌いだったら持って帰らない。記念にしたいからこそ、でしょう」(同)

記憶遺産へ共同申請

 近藤氏によれば、捕虜が徳島工業学校(現徳島科学技術高等学校)を訪問した記録や、地元の中学で器械体操を教えた、あるいは地元企業の富田製薬の牧舎を立てたといった記録も残されているそうだ。

 そんな板東俘虜収容所をユネスコの「世界の記憶」にするべく、現在、徳島県と鳴門市は活動している。写真などの資料がその対象だ。

「名古屋など他の収容所でも、板東のような例はあったと思います。しかしながら板東は史跡の保存状態がよく、昨年は跡地が国の史跡に指定されました。また、関連資料も多く残っています」

“記憶遺産”登録へむけた取り組みは4年前にスタートした。が、2年前に杉原千畝のリストの登録が叶わなかったように、ハードルは高い。ユネスコへの推薦は日本国内の委員会から行われるが、候補になれるのは2件だけ。しかも推薦は2年に1度である。

「千畝リストのときには40件の申し出があったそうですから、確率的にはなかなか難しく……。そこで、4者での国際共同申請で挑戦することになったのです」

 先述のとおり鳴門市とリューネブルク市は姉妹都市となっているが、徳島県とニーダーザクセン州も07年に友好提携を結んでいる。こちらも板東俘虜収容所が結んだ縁だ。

「2年前にはリューネブルク市の市長、ニーダーザクセン州の首相が徳島を訪れ、申請に向けた調印式も行われました。国際共同申請であれば、国内の委員会を通り越して、ユネスコに直接申請ができるんです。ただし、これまでのルールでは、ですが……。現在、ユネスコは(オードレ)アズレさんが事務局長に就き、制度改革の真っ最中。動き出すのは早くても今年の10月からと見られています」

 記憶遺産を目指すならば、まずは日本内での周知から――ということで、渋谷での展覧会は行われた。3月末からは京都でも開催される予定だ。

週刊新潮WEB取材班

2019年1月23日 掲載