3つ目の理由は、教育政策の効果量である。
ネット上には1年で偏差値を40上げて慶応大学へ入学といった情報が溢れている。このため、「エビデンス」に基づく教育が行われれば、偏差値が20も30も上がり、成績不振の子供がいなくなるような印象を持つ人もいるだろう。
しかし、特に先進国の文脈では、ある特定の教育政策の効果量はそこまで大きくないのが一般的である。
教育経済学の分野では、標準偏差(σ)で0.2の効果量を持つ教育政策があれば有望な施策だと認識されるし、0.5σの効果量を持つ教育政策があればとても効くと認識される。
偏差値は、成績の分布が正規分布に従うと仮定したときに、1σが偏差値10になるように変換されたものである。つまり、平均して実験群の子供の偏差値が2上がる施策は有望なものであるし、偏差値が5も上がればとても効くと認識される。
この偏差値がせいぜい2から5程度しか上がらないものに、分散や効果の異質性、外部妥当性の問題が伴うのであるから、我が子の学力がある特定の「エビデンス」に基づく教育で劇的に向上するかと言えば、難しいというのが実情であろう。
4つ目の理由は、教育課題とエビデンスとの関係である。
日本でエビデンスに基づく教育といった場合、事例としてよく出てくるのは、少人数学級・インセンティブ(ご褒美)・ICTの活用といった施策が学力向上に効くのか否かといったものである。
しかし、このような施策が特定の親や教員が直面している教育課題に対する回答になっているとは限らない。
説明のしやすさからここでは教員を事例にする。日本の教員の労働時間を見ると、事務作業をスムーズにこなせない・部活動の指導で疲弊してしまっている、といった理由で大半の教員が授業研究の時間を十分に取れていない。
仮に、教員に対するインセンティブに学習成果向上の効果が見込めるとしても、このような教員にインセンティブを与えたところで、おそらく学習成果の向上は見込めないだろう。
なぜならこれらの事務作業や部活動といった障壁の存在により教育の質向上のための努力をこれ以上引き出すことができないからだ。
エビデンスに基づく教育は、ワンパターンの施策の効果量ではなく、各教員や親が直面している教育課題をどのようにすれば高い確実性を持って取り除けるのか、という方向に行く必要があるが、分野の新しさやデータの限界もあり、まだそこまで到達できていないのが現状である。
この現状を医療で例えると、お腹が痛い、立ち眩みがするなどと、やってくる患者の症状はさまざまであるが、これらの患者に対して一律に「白米を玄米に変えると長生きできます」、と言っているようなものである。
たしかにその助言は間違いではないのだが、患者が抱えている病気の治療法にはなりえない。このような現状が現場の教員達から学者は現場を分かっていないと反感を抱かせているのであろうが、エビデンスに基づく教育議論というのはまだこのような段階にある。
目の前の子供がどのような教育課題を抱えていて、それを解決するためには何が必要かを考えずに、とりあえずエビデンスに基づく教育をしてみる、ということでは目の前の子供の学力は向上しない可能性が高い。
また、これに関連する問題として、現状のエビデンスに基づく教育は、先述のバイアスを取り除くことには細心の注意を払っているが、学力テストが真の学力を測定できているのかといった、測定誤差についてはまだいい加減なところが見られる。
これもエビデンスに基づく教育が子供の真の学力を向上させないかもしれない要因になりうるのだが、この話はかなり技術的になるため、字数の関係でこういう問題もあるという指摘に留めておく。
ここまでの議論を読むと、筆者が進めている教育に関するエビデンスを蓄積するような研究は無意味ではないかと思われるので、それに対する反論をしておく。
この夏に、全米経済研究所から教室にエアコンを導入する意味合いを分析したワーキングペーパーが発表された(詳しい解説は「学校にエアコンなんて贅沢か? 温暖化が進む世界で子供たちの学習環境を考える」という記事でおこなっている)ので、これを具体例とする。
一般的な夏の気温の範囲内では、気温が一度上昇すると子供の学力が偏差値換算で0.045分程度低下し、生涯年収を約4万2千円程度下げてしまう。たしかに、この値だけ見ると先ほど言及したような取るに足らない数値であろう。
しかし、ここで鍵になるのは、一教室には30人程度は生徒がいるという点である。
酷暑のため気温が5度高い夏に、教室にエアコンを導入してこれを打ち消すと、5度×4.2万円×30人で、割引現在価値でもその経済的価値は600万円以上にもなり、エアコンを導入・運用するコストを補って余りあることになる。
そして、一国の中にどれだけの教室があるかを考えれば、その経済効果は大きなものとなることが分かるであろう。
つまり、一つひとつのエビデンスに裏打ちされた教育の効果量は小さく、目の前の子供に効くかどうかは分からずとも、それが全ての子供を対象とした場合には、その経済効果は大きなものになり、それが積み重なっていくと、莫大な効果を生み出すことが期待される。
このため、個別ではなく全体で見ると、「東大合格体験記」のような信頼性の高くないものではなく、信頼性の高いエビデンスに基づく教育が行われる必要性がある。
目の前の自分の子供に限っていえば、「東大合格体験記」の信頼性は高くないが、エビデンスに基づく教育も決して万能ではないと結論付けると、では自分の子供に具体的に何をすれば良いのかと思われることだろう。
白状すると、私も自分に子供ができたら、具体的に何をすれば良いのか分からず、今から不安である。
だから「東大合格体験記」に飛びつき、東大生の母親が言ったのにダメだった、という子育てが上手くいかなかったときの言い訳を探してしまう保護者の心情もよく分かる。
ただ、私に子供ができたら、「東大合格体験記」を信奉するのではなく、効果があるというエビデンスもそのメカニズムも分かっている教育論の中から、試行錯誤で自分の子供のやりたいことや特徴に合うものを探していくことだろう。もちろん配偶者と相談しながら。