(cache)東大生やその母親が語る「合格体験記」の信頼性が高くない理由(畠山 勝太) | 現代ビジネス | 講談社(3/5)


東大生やその母親が語る「合格体験記」の信頼性が高くない理由

もっともらしく聞こえるが…
畠山 勝太 プロフィール

「エビデンス」に基づく教育とは?

日本の教育界隈で使われる「エビデンス」という言葉は、教育政治学の教科書で解説されるようなエビデンスとは異なり、かなり狭い意味で使われており、学力向上との因果関係があることを指すようである。

さらに、エビデンスの活用についても、エビデンスに基づいた(based)とエビデンスに情報づけられた(informed)の違いがあるが、日本では後者にほとんど注意が払われないまま前者が暴走している印象を受ける。

これらは重要な問題ではあるが、本稿では字数の関係でこういった問題があるという指摘にとどめて、日本の土俵に乗り議論を進めていく。

「東大合格体験記」は実験群と統制群がなく、ホランドの因果推論の根源的な問題を解決できなかったが、研究者は数多くの対象者を集め、実験群と統制群にランダムに割り振ることでこの問題に取り組んでいる。

たしかに、特定の個人を見るだけでは因果関係を立証することはできないが、数多くの人間を集めれば、ある教育を受けた場合と受けなかった場合という反実仮想的な状況を作り出すことができる。

さらに、ランダムに割り振ることで、諸条件を揃える、即ちその教育を受けるか受けないかが、セレクションバイアス・逆の因果・第三の要因に影響されることなく決まる、ということである。

もちろん実験的にランダムに実験群と統制群にランダムに割り振るのが理想的だが、自然と疑似的にランダムにある教育を受けられるか決まるケースも存在する。

例えば、東大入試で、ギリギリ合格した群とギリギリ不合格になった群だけを比べれば、東大の教育を受けられるか否かはほぼ偶然(ランダム)に決まっていると言えるであろう。

このあたりの詳しい話は、『原因と結果の経済学』や『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』といった書籍でも紹介されているし、教育政策に特化した話は私のNGOのブログでしているので、それらに譲ることとする。

 

「エビデンス」教育をめぐる誤解

では、「エビデンス」に基づく教育をすれば我が子の学力は向上するのだろうか?

たしかにその可能性は「東大合格体験記」よりは高いが、残念ながら、我が子の学力が向上するとは限らないのである。

これには4つの理由がある。

一つ目の理由は、教育の平均効果量に分散が伴うためである。これを説明するために医療分野の事例を引こう。

薬が処方された際に、体質・体調によって薬の効き目、ないしは副作用の出方が異なる場合があります、と言われたことはないだろうか?

平均効果量に伴う分散とは正にこれである。

Aという薬は、平均してみるとその病気に対して効果があるのだが、人によっては副作用が強く出過ぎたり、効果が弱過ぎたりすることがある。

これと全く同じことが教育にも当てはまり、ある教育の効果は子供によって大きく出たりも小さく出たりもする。

教育分野の事例として、良質な幼児教育の効果を引こう。

日本でも近年、良質な幼児教育の重要性の認識が広まり、幼児教育施設の中には説明会で、ノーベル経済学賞受賞者のヘックマン教授の良質な幼児教育は効果が高いというエビデンスに言及するところがあるほどである。

しかし、実際の研究がどのようなものであったのかは、あまり知られていない。

詳細は「幼児教育の費用は政府と保護者、どちらが負担すべきなのか?」という記事で解説したことがあるのでそちらに譲るが、ヘックマンが明らかにした良質な幼児教育の効果の高さは、子供たちが成人したときに、統制群の子供の約3分の2が成人時に刑務所に一度は収監されているのに対し、実験群の子供は約3分の1しか刑務所に収監されていなかったという点に拠るところが大きい。

つまり、3分の1は元々罪を犯さない、3分の1は良質な幼児教育により罪を犯さなくなった、という一方で3分の1にはあまり効果がなく、結局収監されたということである。

良質な幼児教育の効果が高いといえども、それが全ての子供に効いたわけではなく、むしろ将来収監される可能性が高かった子供たちの、約半数にしか効果がなかったわけである。これが平均効果量に伴う分散である。

そして、平均効果量に伴う分散のたちが悪いのは、どの子供に対して効き目が強く出て、どの子供に対しては効き目が弱く出るのかは、よほどのことがない限り事前には分からない。

つまり、「エビデンス」があるとされる教育も、全体で見れば効果があるのだが、それが自分の子供にどの程度効き目があるのかは事前に分からないし、効き目があるとも限らないのである。

別の文脈でも因果関係が成り立つか

二つめの理由は、エビデンスの外部妥当性に由来する。これはエビデンスが生み出されたのとは別の文脈においても、そのような因果関係が成り立つのかどうかを指す。

引き続き先ほどの事例を使おう。

先ほどの研究は米国を取り巻く育児の貧困が動機となっている。詳細は「幼児教育無償化から考えるーアメリカの研究結果は日本にとって妥当なのか?」という記事で説明しているので参照していただきたいが、現在、米国の黒人の子供の約3分の2はひとり親家庭で生活している。そして、そのほとんどが年収2万ドル未満という貧困世帯であり、多くの母親は高校を卒業していない。

さらに、これも以前「日本人が大好きな『ハーバード式・シリコンバレー式教育』の歪みと闇」という記事で説明したが、米国の教育システムは不平等度が大きく、育児の貧困を経験した子供が、教育段階を通じて富裕層の子供に追いつくことはない。

つまり、良質な幼児教育の効果が高いのは、育児の貧困が顕在化し、不平等な教育システムが改善される見込みもなく、厳しい家庭環境の下で生まれた子供の過半数は大学ではなく刑務所に行くという文脈において、子供にスタートダッシュを切らせることに意味がある、というエビデンスなのである。

たしかに、日本のひとり親世帯の子供も先進諸国の中では最も厳しい環境にあり(詳細は「ひとり親世帯”の貧困緩和策――OECD諸国との比較から特徴を捉える」という記事を参照)、このような子供たちが暮らす環境も似た点はあるのかもしれない。

しかし、わざわざ幼稚園や保育園の説明会に出向く家庭の子供は、おそらく育児の貧困には瀕していないであろうし、お受験を通じて不平等な教育システムの特権側に回ることにもなるであろう。

このような子供たちは幼児教育施設で良質な幼児教育を受けられなかったとしても、過半数が刑務所ではなく難関大学へ行く文脈の下で暮らしているはずだ。

つまり、幼児教育施設で語られる「ノーベル経済学賞受賞者が良質な幼児教育は効果が高いというエビデンスを生み出した」という話は、上の文の「子供にスタートダッシュを切らせることに意味がある」という部分だけが独り歩きして、育児の貧困が……以下の部分が抜け落ちたものなのだ。

そして、この抜け落ちた部分を考慮すれば、説明会で話されることは外部妥当性がないと判断できる。

教育政策は、保護者・子供・教員・行政関係者が持つ背景がケースバイケースで大きく異なる上に、それぞれの利害関係者の思惑や行動が複雑に絡み合うため、ある教育施策の効果は文脈への依存度が高く、エビデンスの外部妥当性はそれほど高くないと言われている。

すなわち、「エビデンス」のある教育が、それが生み出された文脈や異なる対象から切り離されると、因果関係が成立しない、ないしは成立してもその効果量が大きく異なるということはよくみられる。

さらに、ある教育施策は効果の異質性(興味がある人は「ある教育施策の効果は人によって全然違う?―教育効果の異質性とMixed Methodの話(超エリート寄宿学校を事例に)」を参照)を持つことが普通で、貧困層に効いても富裕層には効かない、高学力層には効いても低学力層には効かない、といったことさえ往々にして見られる。

これらのことを考えれば、「エビデンス」のある教育が、それが生み出された文脈とは異なる世界に住む、自分の子供にも当てはまるのかと言われれば、難しいところがある。

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