大阪万博輸送の立役者、大阪市営地下鉄30系がついに引退

大阪市営地下鉄30系、最後の雄姿!

2013年10月。大阪の鉄道からまた一つ、名車が引退した。大阪市営地下鉄・30系。1967年に誕生し、約半世紀にわたり大阪の足として活躍した車両だ。大阪万博の観客輸送という重責を担ったこの車両について、改めて振り返ってみよう。

○輸送力増強に貢献

1970年3月14日から、アジア初の国際博覧会として大阪・吹田で開催された「日本万国博覧会」。その開催が正式に決定したのは、5年前の1965年9月である。日本全国はもとより、全世界から訪れる数千万人の来場者に対応するため、公共交通の整備が急務となった。そこで、前年に開通した東海道新幹線・新大阪駅まで到達していた大阪市営地下鉄1号線(現在の御堂筋線)を延伸し、大阪府・阪急電鉄等が出資する北大阪急行電鉄(北急)と相互乗り入れすることでその役割を担わせることになり、千里中央付近から会場までは当時建設されていた中国自動車道の一部敷地に、仮設の線路を敷くことも決まった。

30系の前面。左右非対称のデザインは当時斬新だった。
30系の前面。左右非対称のデザインは当時斬新だった。

同時に課題となったのが「車両」である。当時、1号線は開業時に導入された100形を筆頭に全長17mの3扉車で運行されており、また安全装置も地下鉄開業当初の旧式ATS(自動列車停止装置)が使用されていた。輸送力や列車本数を考慮すると、これでは万博の観客輸送に対応できないことから、これを機にATSの進化版といえるATC(自動列車制御装置)を導入し、合わせて2号線(現在の谷町線)および4号線(現在の中央線)用として新製した7000形・8000形の改良車を1号線に大量導入することになった。そして生まれたのが30系だ。

1968年から製造が開始された30系は、前年に製造された7000形・8000形からの改造編入車両と合わせて240両が万博開催前に準備され、1号線の旧型車両を一掃。183日間の会期中、6,400万人を超える来場者のメイン輸送機関として活躍した。

○窓が一斉に開く?

今となってはシンプルな運転台。ブレーキハンドルは取り外し式だ。
今となってはシンプルな運転台。ブレーキハンドルは取り外し式だ。

30系は、前述の通り7000形・8000形をベースとした、全長18mの4扉車である。左右の窓サイズが違う独特の前面を持つ車体は、アルミニウム合金製とステンレス製があり、ステンレス製車両は車体全面に見られるコルゲート(筋状の補強)が特徴となっている。アルミニウムやステンレスの地色を活かした銀色のボディ、小さな窓の客扉、そしてFRPとビニールレザーを用いたロングシート等、これまでの大阪市営地下鉄車両とは全く異なる車両になった。もっとも、客席はその座り心地や肌触りから乗客には不評で、後に一般的なモケット張りに改良されている。

当初は万博輸送を念頭に製造された30系だが、その後も新路線開業に伴う車両需要に応じて増備され、最終的には363両の一大勢力となる。16年にわたって製造されたため、途中で仕様変更も行われ、角張った「怒り肩」な車体は後に丸みを帯び、前面貫通扉の幅や客扉窓の大きさなどにもバリエーションが見られた。

吊り広告スペースには、30系の写真が掲示されていた。
吊り広告スペースには、30系の写真が掲示されていた。

変わったところでは、後期グループで装備された客室窓の自動開閉機構だろうか。非冷房車ということで、夏季の快適性や乗務員の手間軽減を考えて装備されたが、こちらは後年取り外されている。勝手に窓が開いて乗客がビックリしたとか、開閉時の衝撃で窓ガラスが割れたこともあったとかなかったとか・・・。

○北大阪急行から大阪市交通局への移籍

ところで、30系には「双子の兄弟」とでも言うべき車両がいた。万博輸送の一翼を担うことになった北急は、30系をベースに独自デザインの車体とした2000系車両を製造したが、これとは別に地下鉄30系とまったく同一仕様の7000系・8000系も製造したのである。万博が閉幕した後、北急が必要とする車両数は明らかに減少するため、この車両を大阪市交通局へ譲渡することがあらかじめ決まっていたのだ。譲渡後はそのまま30系の一員として旧型車両を置き換え、一時は集電方式の違う6号線(堺筋線)以外の全線で見られる、大阪市営地下鉄の代表形式となった。

30000系と並んだ30系。そのデザインに世代を感じる。
30000系と並んだ30系。そのデザインに世代を感じる。

登場から20年を経た1991年、30系にとって転機が訪れる。車両構造の特性上、冷房化改造が難しい初期車両の廃車が開始され、同時に後期車両は冷房化改造を含めたリニューアルが行われることになったのだ。それから更に約20年、大阪市民の足として活躍してきた30系だが、奇しくも同じく「3」を冠する新型車両・30000系にその任を譲り、ついに引退となった。

○谷町線から「秘密の線路」を通って中央線へ!

大日検車場で撮影用に展示された3049編成。ヘッドマークが異なる。
大日検車場で撮影用に展示された3049編成。ヘッドマークが異なる。
これが「秘密の線路」。行き止まりになっているのがおわかり頂けるだろか。
これが「秘密の線路」。行き止まりになっているのがおわかり頂けるだろか。

30系最後の舞台は、2013年10月6日に開催された「さよなら30系特別運転」。競争倍率12倍という「狭き門」をくぐり抜けた、55組110名の応募者を乗せ、谷町線の大日検車場から中央線の森ノ宮駅まで運行された。実は谷町線の車両は、その全般検査(自動車でいう車検にあたる、大規模な検査)などを中央線森ノ宮駅に隣接する車両工場で行っており、そのため谷町線と中央線とをつなぐ「秘密の線路」が谷町四丁目駅にあるのだ。もちろん営業列車は通らないため、一般人がここを通れるのは貴重な機会。乗客の皆さんは初めて見る風景・・・といってもトンネルなので真っ暗なのだが、「秘密の線路」にふさわしい急カーブや行き止まりの線路を楽しんでおられた。

乗客代表から、最終列車の乗務員への花束贈呈が行われた。
乗客代表から、最終列車の乗務員への花束贈呈が行われた。

これに先立ち、大日検車場では最後の2編成となった3045編成および3049編成の撮影会、さらに30系にまつわる車両解説やクイズ大会もあった。30系はそのブレーキシステムをはじめ、様々な「日本初」が採用されたこと、今回乗車する3045編成は製造から引退まで谷町線一筋で働いてきたこと、「大阪市営地下鉄最後の抵抗制御車で、メンテナンスは「職人の技」がモノを言う」「30系は後から冷房改造したこともあって、晩年は屋根から雨漏りが・・・」などの話も聞け、参加者には好評であった。

参加者に配られた特製DVDと、限定販売されたヘッドマーク図柄の缶バッジ。
参加者に配られた特製DVDと、限定販売されたヘッドマーク図柄の缶バッジ。

森ノ宮駅で参加者を降ろした3045編成は、一旦留置線に入った後で回送列車として中央線大阪港駅との間を1往復。30系最後の勇姿(しかも中央線を、谷町線の車両が!)を見届けるため、多くの鉄道ファンが各駅に集まっていた。決して華やかな車両ではなかったが、毎日毎日走り続けた車両へ、労いの言葉を掛けた人も多かったであろう。

中央線の車両とすれ違う30系。これが見られるのも最後となった。
中央線の車両とすれ違う30系。これが見られるのも最後となった。

○保存車両に会える!

全車引退となった30系だが、緑木車両工場には3062号車(ステンレス車両の第1号車)、森ノ宮車両工場には3042号車(アルミニウム合金車両の第1号車、現在は新製時の3008号車に復元)が保存されている。特に3062号車は、毎年秋に同所で行われる「市営交通フェスティバル」でその姿を見ることができる。今年は11月10日(日)に開催されるので、ぜひ青帯のコルゲート車体を見に行ってはいかがだろうか。

引退を翌月に控えた30系の、谷町九丁目駅発車シーンを撮影した動画はこちら。