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【スポーツ史 平成物語】名波、大岩、望月らJへ10人輩出 「最強の清商」はなぜ負けたのか2018年11月30日 紙面から
第6部 サッカー編(4)平成の高校サッカー界に、もう二度と現れないスーパーチームがあった。1990(平成2)年度の清水市立清水商(静岡)は、当時から「史上最強」と呼ばれ、後にレギュラー11人中10人がJリーガーになった。Jリーグ誕生前、高校サッカー全盛期をリードした通称・清商(きよしょう)になぜ最強チームが生まれ、なぜ最後に負けたのか。当時の大滝雅良監督(67)、名波浩(46)らの証言をもとにたどる。 (文中敬称略) 熱血監督として知られた大滝は、穏やかな口調で、28年前の特別なチームを語り始めた。
「彼らには、いつも驚かされていた。こんなところにパスを出すのか、いつ、そんなところを見ていたのか。今思えば、幸せな時間だった」 なかでもお気に入りは、全日本ユース1回戦の山口戦のことだ。先制点を許した後のCK。キッカーの名波は、近くでボールボーイをしていた興津大三に「これ、入れるから」とつぶやいた。得意の左足を振ると、本当にゴールに放り込んでしまった。 後に日本代表の背番号10をつける名波は、当時のチームの強さに触れた。 「僕の学年は、中学時代の東海選抜12人が清商に来た。お互いのことは良く分かっていたし、ピッチでいろんなことを言い合って妥協はしなかった。そういう意味ではプロっぽいところはあった」 ポテンシャルが高く、意識も高いレベルで一致していた。1学年下のMF望月重良は「ピッチ内での序列が年齢ではなく、能力が基準だった。それが当たり前と思っていたが、卒業して、清商が普通じゃなかったことに気付いた」と言う。 大滝は、勝つことだけでなく、個性を伸ばすことにこだわった。名波が入学するとすぐに試合に使い「お前の右足なんか見たくない。使ったら試合に出さないぞ」と言って送り出した。突破力が光る選手がパスを出すと「逃げるんじゃない」と叱責し、武器を磨くことを考えさせた。 「彼らは本当に良く練習した。学校の行き帰りの時間が惜しくて、部室で寝ていくヤツもいたらしい」
朝は7時から紅白戦。放課後は3時間ほど練習して自主練習。山田隆裕は、いつも1対1のメニューを終えると、2学年下の平野孝と自転車で大岩剛の家に向かった。そこで夕食、マッサージ、就寝、朝食、登校の日課を繰り返した。監督も選手たちも、とことんサッカーに打ち込んでいた。 高校では、ほとんど無敵だった。当時、日本リーグ所属で静岡県裾野市の東富士を活動拠点にしていたトヨタ自動車とは何度も練習試合をして勝つことも珍しくなかった。93年のJリーグ誕生時に名古屋グランパスの母体となったチームだ。 「何だこいつらと思った。当時の日本リーグは蹴って走るシンプルなスタイルが多かったけど、清商はパスをしっかりつなぐし、名波が抜群のセンスで攻撃を操っていた。体格にモノを言わせようとしても、彼らの技術はそれを超えていた。練習試合をするのが本当に嫌だった。高校生に負けるかもしれないんだから」 名古屋の主力DFとなった藤川久孝は、30年近くたっても、はっきりと覚えていた。 大人も震え上がらせた清商は夏の全国高校総体、秋の全日本ユースを制した。だが3冠をかけた最後の全国高校選手権は3回戦で大宮東に1-1のPK戦の末、敗れた。大滝が、真っ先に挙げた敗因は、いかにも高校生らしい出来事だった。 「秋に体育祭があって、山田がクラス対抗リレーに出てね。クラスメートの前を通る時に、張り切ってスピードを上げた瞬間、太もも裏をブチっとやってしまった。それで終わり。絶対的なエースが、万全の状態で迎えられず、周りの選手も不安になってしまった。高校生が一年間勝ち続けるのは不可能に近い。メディアに取り上げられて、学校のなかでも期待が膨れあがって、選手も私も、精神的にいっぱいいっぱいだった」 史上最強と呼ばれたチームはあっさりと散った。しかし、本当の意味で伝説化されるのは、その後だった。レギュラー11人のうち、10人がJリーガーとなり、山田、名波、大岩、望月重の4人が日本代表でプレーした。 「あの敗戦は、間違いなくサッカー人生に大きく影響した。3冠を達成していたら満足して、サッカーをやめていたかもしれない。次こそ、てっぺんを取ってやろう。そんな気持ちがあって、続けられた」 名波たちが大学3年の時、Jリーグ開幕。これも刺激になった。 「後輩の平野や津島(三敏=ともに名古屋)がデビューしていた。僕ら高3の時の1年だから、鼻くそみたいな選手と思っているのに、大観衆の前でプレーするのを見て、オレらも行くぞという張り合いになった」 大学を卒業した95年、Jは14クラブしかなく、J2ができたのは99年。今よりずっと狭い門をくぐり抜けていた。 最強チーム清商は、高校サッカーにタレントが集結していた時代の象徴だった。やがて、Jリーグ下部組織に人材が流れ、育成環境は二分化した。 「高校サッカー不要論も出てましたね。Jリーグ成功の土台は高校サッカーにあって、応援する家族や地域の人たちがたくさんいる。そこを考えない人たちがいたわけですよ」と大滝は言う。 30年近く経過し、今も高校サッカーは重要な供給源。長谷部誠(藤枝東)、本田圭佑(星稜)、長友佑都(東福岡)、岡崎慎司(滝川二)が長く日本代表の主力を務め、今の代表でも大迫勇也(鹿児島城西)、柴崎岳(青森山田)らが存在感を発揮している。 「代表に入る選手はかなり少なくなったけど、高校サッカーは日本独特の文化として、このまま続いてほしい。Jクラブと競争して、ふるいに掛けられて、その中からいい選手が育ってくる」 名波は指導者になっても、心の支えに高校サッカーがある。 清商は、2012年度限りで消えた。学校統合で清水桜が丘となり、17年度全国高校選手権に出場。だが扱いは「初出場」だった。統合前に「清水商」の名を残すよう署名活動を続けた大滝は「仕方ない。もう過去の話」と振り返りたがらなかった。 清商の歴史は、もう動かない。それでも名波(磐田)、大岩(鹿島)ら多くが監督となって、日本のサッカー界に根を張り続けている。 (構成・木本邦彦) ▼清水市立清水商業 1922年創立。サッカー部は51年創設。全国高校選手権優勝3回、同総体優勝4回、全日本ユース優勝5回。2003年、市制変更により静岡市立となり、12年度限りで閉校。県立庵原高との統合で静岡市立清水桜が丘高となる。大滝雅良監督は商業科の教師。退職後は、清水桜が丘高総監督。 高卒J選手は減少傾向 Jリーグの調査によると、2000年の新人選手は136人で、内訳は大学41人、高校55人、Jユース40人で比率はそれぞれ30パーセント、40パーセント、30パーセントだった。これが16年になると、新人120人のうち、大学62人、高校15人、Jユース43人で、比率は52パーセント、13パーセント、36パーセント。大学選手が高校出身、ユース出身に分かれるため、厳密な比較はできないが、高校サッカーからJリーガーになるケースは減少傾向にあるとみられる。
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