まぁ(;´д`)、会津から言うよりは佐幕じゃダメでいって、時流をそこに見出だしたからだと。
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だからといって孝明帝が定めた朝敵と結ぶっていうのは、とてもじゃないけど尊皇の姿勢とは言えないなって(*´ー`)
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そこなんだよね。 そこは、落ちぶれてた公卿()と後の明治帝を担ぎ出したい輩と外国勢力とのせめぎあいで、このまま、旧友と組んでいても、この国((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブルってなって、変革と言う大穴を開けるにはと。。(〃_ _)σ∥ 夷敵から痛め付けられて、怖さを知った同士。苦渋の選択
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孝明帝が存命中に朝敵と結んだワケだから、西郷隆盛は孝明帝への裏切りを自覚して倒幕に進んだのは間違いない……あの時期の薩摩藩中枢がいう尊皇とか勤王とかいう主張はまやかし(*´ー`)
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だからそこに、公卿()と多分英国の入れ知恵があったと思われる。 そして、足りない論点として、あのまま会津・薩摩中心で、本当に国体を護れたかと言うところ。 判断を間違えていたら、国を思う大御心に大いに背く結果としての惨憺たる荒廃が待ち構えて居たのでは?(゚A゚;) 会津がー薩摩がーでなく
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名を捨てて実を取ることを、したのだと思う。
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国体を護れたかといえば護れたでしょう。護れないという論は倒幕派の説く理ですし、実現された倒幕の後では会津・薩摩中心で護れたであろう未来は永遠に証明不可能になりましたから、もう誰にも解き明かせないですね… 国を思う気持ちは誰にでもあったもの。ただ、あの当時に朝敵と結んだ事は(続
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薩摩側がいくら尊皇と主張しても「実際には帝の意思に背いた行為」ですし、後に岩倉具視が「帝の御聖断」を小御所会議で説いて押し通したのも「でも実際には朝敵と結んでたよね」と、あの当時の人々の感覚として「こいつ、口では尊皇だの聖断だの言うけど実態が伴ってねーじゃん」と白々しく思える(続
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「薩摩裏切り日」を制定ですね(ノ´∀`*)
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「孝明天皇が指定した朝敵と結んだ日」でもいいよ(*´ー`)
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