◎舞台芸術創造フェスティバル2001・第2回東京文化会館舞台芸術創作作品優秀賞受賞記念上演「責めありや?責めなきや?~異端児Kの恋愛と闘争~」・2002年2月8日・東京文化会館小ホール
ああ長かった。まずタイトルが長過ぎます。今までで一番長いのではないでしょうか。しかし何処か端折るというわけにもいかない・・・東京文化会館が募集した舞台芸術作品(こういう募集をかけるということ自体は、やはり素晴らしいことだと思います)の、その優秀賞を受賞した記念に行われた上演会というわけでして、ここまで言い尽くせば、題名に関してはまあ疑問の余地はありませんが、しかし肝心の公演の内容は、疑問だらけでした。
まず入場しますと、こういう演奏会にはお決まりの解説の紙(変な言い方ですが)が配付されるのですが、それが馬鹿でかい。B1版ですよ!!それが畳まれて、チラシなんかの間に紛れ込ませてあるのだけれど、いざ広げようとすると、隣に座っている人に気を使わざるを得ない。テクストだけは、小さな紙で配付してあるのですけど・・・演出家や作曲家、出演者などの今回の公演にかける意気込みとか作品の概要なんかを知ろうと思っても(何しろ難解だという触れ込みでしたから)、あの紙を広げるのはちょっと・・・ほとんど満員だったわけで、周りを見ても、紙広げている人はほとんどいませんでした。
つまり、殆どの観客が、そういう前情報無しで舞台に接したはずです。その舞台というものですが、まず、舞台上に4人いる俳優が、モノローグで何ごとかを語る(時々4人全員で語る)。その語りがひと段落すると、音楽が始まる(合唱付きの小オーケストラ)。音楽が鳴っている間は、舞台上の俳優たちはパントマイム、つまり語り無しで動きだけで演技する、それらが一段落つくと、音楽は無しで、また語りが始まる、舞台下の黒ずくめの俳優が舞台上を煽ったりするが、それらも一段落つくと(一段落ついてばかりですが)、また音楽が始まる、その繰り返しです。
すなわち、音が鳴っているときは語りはなく(合唱がありますが)、語りがあるときは音は無し。語りにおいては、これから語られない多くの時間の部分をある程度は潤色し得るような言葉の強度が、また音楽とマイムにおいては、「語り」に拮抗し得るような二者の衝突による広がりが、求められると思います。
ところが、まず音楽とマイムのところに関しては、全くぎくしゃくした関係しか持ち得なかったのではないかと思います。双方に歩み寄るのでもなく、あるいは積極的に反発しあうのでもない。完全に無関係というわけでもない。中村寛さんの音楽は、いわゆる西洋の前衛音楽が開拓してきた様々な音色、演出技法のオンパレードという感じで、斬新さはそれほど無いものの濃密な時間を醸成していく音楽でした。それに対してマイムは、多少思わせぶりな身振りがあるものの、基本的にはただ単に平面的に人がゆっくりと動いているだけで、私は演劇には全く素人ですが、その私が観ても、その二つの出会いには何ら感性を刺激されることがなかった。これは、最初から最後まで一貫してそうでした。舞台向かって右側には、楽団が鎮座しているので、音楽的な身振りというものが全部見えます。指揮の中川賢一さん(熱演!!)率いるアンサンブル(良い仕事ぶり!!)が、スコアに従って熱い情念の炎を燃えたぎらせるときでも、マイムは、7秒だけずれた世界にいるよう。ずっとこの猛烈な違和感が付きまといました。
語りの部分も、弱かった。人物の描き分けが、よく理解できません。分かりやすくすれば良いというわけでも無いでしょうが、ある程度は筋道を見せてくれないと、ひたすら一途な性格を持つ音楽との、一続きの劇という中では、相性は如何なものでしょうか。
何か出てくるものが全て、お互いに打ち消し合っているようでした。一度として鋭角的な表現の強度というものには、立ち会えなかったような気がします。観て聴いている間は(でも音楽家の方々は熱演でした。とにかく熱演してやろう、という意気込みがあった)、疑問形でいっぱいでした。
というわけで舞台そのものはあまりに疑問だったのですが、終演後ホールロビーを徘徊すると、中村氏のスコアが机に置いてありました。原曲というか、応募して入賞した、そのもののスコアです。それを見ると、語りと音楽が、非常に緻密に入り組んで衝突して、音楽時間を生み出すように作られている。つまり、音楽と語りは、この原曲では同時進行するのです。「語りは、録音されてスピーカーから再生されるのが望ましい」等と書いてある。それならば、この日上演されたものとは似ても似つかないものになる。一体なんだったんでしようか、実際に上演されたものは!!!
で、疑問形のまま、家に帰って、会場では読むことのできなかった解説の紙を、心行くまで大きく広げて読みました。すると、演出家の言葉として「敢えて台詞は全てカットして、身体の動きだけで演技しようと」演出家が脚色したらしいのです。なんじゃそりゃ?「演奏をきちんと観客の耳に届かせ、また表現を膨らませるために」らしいですが、台詞と音楽の相乗効果が狙いであるはずのスコアから、音だけ抜いてきても、「演奏をきちんと観客の耳に届かせ」たということにはならないし、本来ならばそれをどう止揚していくかという、その辺が技術の見せ所でしょう。ましてや実際の結果が、とてもとても「表現を膨らませ」たものとは思えなかったこと。むしろ萎ませたはずです。
こんなこと書いてはお叱りを受けるでしょうが、多分考えうるに、原曲通りやるのは面倒臭かったのでは無いでしょうか。スコアには相当厳密に台詞の入りが音楽の中で指定されています。こんなの、オレたちは音楽家じゃ無いんだから・・・ということで、カットしてしまったのでは無いかなあ。しかし、台詞はスピーカーから録音で再生するのであれば、コンピュータのサウンドファイルか、市販のMDプレイヤーなどを使ってもリアルタイム演奏としてできることで、結構簡単なはずなんですけど・・・
とにかく、なぜ原曲のまま演らなかったのか、分かりません。原曲を聴けてないので、音楽に対する評価も、できません。総合的なものを制作するというのが、難しいのだな、と、深く実感する次第でありました。
上手くいけば、ほんとに素晴らしいのですけれども・・・
◎第18回デビューコンサート12:15「Duo Sacre」・2002年3月13日・トッパンホール
ちょっと不思議なタイトルです。なぜ数字が入っているのか?この12:15というのは、実は開演時間を示しています。勿論お昼のです。つまりこのコンサートは、普通の会社であれば御昼休みの時間帯に開かれるものなのです。コンサート自体は大体30分行われますので、つまり1時15分前には終わることになり、まあ近くの会社なら歩いて帰れば午後の始業に間に合う、ということでしょう。あともう一つは、第18回、とある。つまり今まで18回同じような催し物が行われたということです。お知らせによれば、大体一月に1回ぐらい、このような催しをしています。これらは、トッパンホール自体がオーディションを行い、そこで選抜されたすぐれた若い新進の演奏家に、彼らへ表現の場を与えよう、という取り組みでして、今後も途切れること無く予定が組まれているようです。
さて、今回の「Duo Sacre」ですが、ソプラノの愛甲雅美さんと、打楽器の篠崎智さんからなる二重奏です。現代音楽の分野で顕著で確実な成果を上げ続け、演奏依頼も多く、多彩な活動を続けている愛甲さんと、未だ無名ながら、多くの可能性を持つ篠崎君。篠崎君、と書きましたが、実は彼は私の大学時代の後輩です。打楽器を使った曲を書くと、何かと彼に頼んでいました。彼はとても練習熱心で、しっかりしたリズム感と、抜群の暗譜力を持っています。何かとつるんでいましたが、彼から示唆されたことはとても大きいのです。今回、こういう形で、多くの聴衆の前で愛甲さんとの共演を披露できたのは、私の喜びでもあります(ちなみに、この2人を最初に引き合わせたのは、私だ、という自負もあるのですが、それについては又今度)。
で、肝心の演奏内容です。これに関しては、まず、小野貴史氏による明確なコンセプトのプログラミングを評価すべきでしょう。「眠りへの階梯」というモチーフのもと、「『』悲しみ』から『眠り』ヘと至る漸次的な時間プロセスに従ってプログラミング」したことは、大変成功していたと思います。少なくとも、この種のあまり一般聴衆に馴染みの無い作品を並べるにあたって、聴き手に明確な聴取への道筋を付けたことで、聴き易くなったはずですし、また実際そのように聴こえましたので、多くの聴衆はそれに納得したのではないでしょうか。こういう、一種のプレテクスト操作を行うことは、とても大切だと思います。
ダウランド/小野編~フェルドマン~小野~フェルドマン~ダウランド/小野編、という、シンメトリーに並んだ作曲者です。一目瞭然ですね。
それで、まずは、ダウランド/小野編「行け、水晶の涙よ」。小野はここで原曲のリュートパートに殆ど手を加えず、そのままマリンバに置き換えたそうで、両者の残響を比較してみれば、これだとやや音楽の流れが切れ切れになりやしないか、と思いましたが、聴いてみると歌のラインがくっきりと浮かび上がるようで、これはこれで趣深いものです。愛甲さんの声は、輝かしく会場全体を透徹するというよりは、中音域の膨らみのある温かい声質で、空気の粒子の隙間を縫って耳に穏やかに染み渡るようです。普段の現代音楽でのトリッキーな歌いぶりは、こういうことに支えられているのです。篠崎の(遂に呼び捨て!!)ひっそりと寄り添う音質のマリンバも、良好でした。
つづくフェルドマン「オンリー」は、歌のソロです。旋法的な単旋律で、現代音楽的な音程の跳躍などは殆どありません。幾分地味な、しかしどことなく妙な若々しさを感じさせるこの作品を、愛甲さんは、まるで土器を発掘するような丁寧さで仕上げました。
そして煥発入れず小野貴史の「バッファロー・ビル」。完全五度の音形、相当に速いテンポ、複雑なアンサンブルの要求など、いままでの小野作品の特徴そのままです。コンサートの真ん中に位置するこの曲は、前述した特徴において他の曲とは著しく異なります。これは効果的でした。ただテクストと音楽はどのように組織されているのか、今一つ見えては来ません。強烈な音楽の推進力で、納得させてしまうのが彼の持ち味といえばその通りですが、そのような微妙な点はどうなっているのか、ちょっと知りたい気がしました。
その後はフェルドマン「デンマーク王」。打楽器のソロです。この曲は一種不確定な記譜法を持ち、解釈次第で如何様にもなるので、それこそ演奏者の創造性が問われます。ただここでの篠崎はやや緊張していたせいもあるでしょうが、こういう曲が要求する音への執着というか、集中力がやや散漫だったと思いました。一つの音を発する時それに充実した空間をあたえ、その色合いや密度の変化をじっくりと見守るべきところを、次の音はどうすべきかということばかりに気がいってしまって、焦って演奏しているように聴こえる。共演者がいる場合はそういう状態を色々測りながらできるわけですが、やはりソロではまだ難しいのかな、と思いました。
最後はダウランド/小野編「来れ、深き眠りよ」で、音楽会自体はきちりと締まって終了しました。愛甲さんと篠崎は相性がとても良いのではないかとおもいます。お客さんも、こういう無名曲の集まりではあるのに、なかなか喜んでいたようでした。
さて、どうしても触れておきたいのは、このシリーズの意義です。バブルが全盛の頃は、メセナ華やかなりしで、いろいろ企業冠コンサートなどあって、文化育成に一役買ってる、などとごちていたかもしれませんが、不況吹きすさぶ現在、みな冒険を止めて、既存の価値観の無批判な肯定や過去の業績維持、現状維持にしか動こうとしてないようです。しかしこのトッパンホールの事業は、明確な理念と目標を持ち、運営も丁寧で、演奏家の新人に道を開こうとしています。演奏家が自主的にコンサートやったりするのは、作曲家が自主発表会やるより大変なんじゃないかな、普段思っていたので、こういうことがあるというのは、やはり励みになるのではないかな、と感じます。そう、「励みになる」ことがあるのとないのとでは、もう全然違うのですよ。このシリーズのように、派手派手しくなくてもしっかりと文化の根に養分を与える事業は、着実な成果をあげるはずだ、と考えるのです。