・・・真の音楽批評を求めて・・・
やってみよう!!
ここでは、「S.D.」が遭遇したいろいろな音楽ソースを、批評していきます。
批評対象の選択は恣意的ですが、ある種の必然もあるかも知れません。
よく分からないですが、本音で書きたいと思っています。
なおこのページは2001年7月2日より2002年1月27日までの分となっております。
その次の時期の批評に関しては、オレの音楽批評2002へ移動願います。
なお、このページの文責は、すべて、木下正道にあります!!! →抗議の、苦情の、応援の、その他メールする
◎松平頼暁70歳記念コンサート・2001年7月2日・Blues Alley Japan
大枚6000円は、ちと高すぎないかと思いつつ、食事と飲み物が飲み食べ放題ということで、ついでに音楽も聴けるし、という不純極まる動機で、えっちらと自転車を漕いでいきました。ところが、肝心の食べ物は、ほんの少ししか用意されていず、さっとテーブルに料理の皿が出るや否や、たちまちのうちに人が群がって、あっという間に無くなってしまうのでした。全然食い足りないなあ、と思い、じゃ、酒だけでもたらふく飲んでやろうと、テーブルの上に各種ドリンクを並べて、片っ端から開けていくうちに、音楽会は始まりました。既にかなり酔いが回っていて、こんなので知らない曲ばかり聴いて大丈夫かな、と思っていましたが、なんと、始まってみれば、大変ユニークな音楽ときっぱりと決心した演奏で、とても充実した音楽会になりました。特に一曲目の、作曲者のピアノと愛甲雅美さんの歌での曲は、良かったですね。一聴するとふざけてるようなお笑い音楽のようですが、造形のしっかりした彫の深い味わいある演奏で、気高ささえも感じさせました。これでかなり酔いが覚めたので、その後は集中して音楽を聴くことができました。トータルで言えることは、松平さんは常にユーモアを絶やさない人で、この点、父上である頼則氏が雅楽とアバンギャルドの融合を試みたのと似て、ユーモアとアバンギャルドの融合を目指したのではないでしょうか。それが時としてシニカルな方向に向くことはあるにせよ・・・ふつふつと煮えたぎる内面の情念を何らの留保もせず五線紙上にまき散らしてきた日本の自称現代音楽派は、最近、もはや縫い目がほつれ衰退の域に達していますが、そういうものと全く無縁な松平氏の貴重さがしみじみと分かるコンサートでした。涙を流しても良いような気がしました。やはり松平一家は、生まれとか育ちがいいというか、桁の違う(精神的)ブルジョア一族であります。譜面を見るととても丁寧な筆致で書き込まれていて、音楽的破綻が一切無いのに、どうも普通とは違うと感じさせるのも、実はそういうところが源泉かも知れません。さて、他のいわゆる大家様、こういうどうしようもない宿命に、どういう武器でどこまで戦えられますかねえ・・・
あと、場所の選択も、良いように働いていました。でも折角PAがあるのだから、上手い使い方を考えればもっと生き生きしたように思います。ただし、食事(の量)には本当に不満でした。それだけが不満。
◎一柳慧室内楽作品コンサート・2001年7月3日・サントリーホール小ホール
前日のコンサートで、知人から招待券を貰ったので、ちょっと行ってきました。一柳氏は高校生の頃大変尊敬していて、凄い人がいるなあ、と思ってました。ケージ一派を紹介し、自らも想像力を全開にしたような様々な行動を展開し、ピアノも上手いし、常に次は何をやってくるのか、目が離せない存在でした。それが、80年代も後半になり、幾つもの賞を受賞し続け、作品の量もしだいに増していく中で、そしてアカデミズムにも一目置かれ、そこへ何の違和感もなく迎えられていく中で、作品そのものはどんよりとした影を帯びはじめ、生彩を欠き、枯れた大花の様相を呈していくのでした。それがくっきりと見える演奏会でした。確実に、近作になる程つまらなくなっている。最新作のフルートソロ等は、ただ急緩急の三部構成に、それなりにフルートの難しい現代奏法を置いて、コンクールの課題曲でござい(実際コンクールの課題曲ですが)、というだけで、いかなる想像力の酷使も見られない、真の反動精神の反映でしかありません。で、演奏は、そういう精神に対し、なめるな、と言わんばかりの、曲のがたついている部分を徹底的に攻撃して打ち壊さんばかりの、迫真のものでした。まあこういう演奏が可能だと言うことが深化だと言われれば仕方ないですが。
で、当日一番良かったのは一番古い作品である笙の独奏曲でした。このへんの曲はまだほんの少し創造力が残っています。あとのはもう・・・何が酷いのかさえよく分からない程の酷さですね。一晩で書けるような曲ばかりです。それでも、何故か途中で挟まっていた伊東乾氏の曲よりは、聴くものがあった。この曲は、いわば、音階が上がっていくだけの曲ですが、解説ではとても納得して一刻も早く聴いてみたいと言う欲望を、見事に裏切るものでした。あるシステムに基づいているのでしょうが、結果を聴いてみれば、なんだこんなモン、と切り捨てるしかありませんでした。システムに基づくことによる覚悟、と言うか、精神の軋轢のようなものは委細なく、かといって表層の戯れが音楽聴取の快楽を刺激することもない。一体なんなのか、さっばり分かりませんでした。
そう、この演奏会自体が、一体なんなのか、さっぱり分かりません。プログラムによれば「回顧的性格は無く」、未来へ向けたものらしいですが、こんな腑抜けの音楽が参照されるような未来なんて、空恐ろしいです。徹頭徹尾「懐古的、回顧的」(または「解雇的)
」であったこの日の演奏会。それだけは、本当によく分かりました。
◎「現代日本のオーケストラ音楽」演奏会・2001年7月6日・東京文化会館
いやいや、今年もやってきました。この演奏会が。私は何度か足を運んでいますが、これまで殆どこれだという作品に巡り会ったことのない、低調さだけが際立つ演奏会シリーズですね。しかし今年の酷さは群を抜いていました。今まで何回か通って、結局かなり腹が立って帰って来たことの繰り返しで、いい加減懲りれば良いのですが、「腹が立つ」というのはまだ希望があるということなんですね。それが良く分かった。今年のは腹も立たなかったです。へなへなと、音楽を聴く喜びを持つ情熱が吸い取られていってしまったと・・・抜け殻のようになってしまいました。こんな音楽会が、あるんですね・・・
まず一曲目、岡島礼さんの「プレリュード」。半不協和音の持続が続く中、さしたる魅力もない楽器法のデコレーション。ハーモニーは常にどんよりと澱んで、耳にはいかなる刺激も与えない。何となく先生の言われた課題を、自分なりに考えてみました、という作品。酷いは酷いなりに、聴くべきものを持った作品というのは存在しますが、とにかく五線紙をきれいに飾ってみた、というしかない作品。一体何への「プレリュード」なのでしょうか。全く分かりません。曲想が一聴したところ穏やかな表情であるだけに、かえって締まりが無くなって、演奏者もとまどいがち。チューニングにも気合いが入らないわけです。
二曲目は清水昭夫さんのコントラバス独奏とオーケストラの「不死鳥の舞」。まず疑問だったのは、一体どこで「不死鳥」が「舞」ったのか、全く分からなかったこと。大体在り来たりのどこかで聴いたような現代音楽でございフレージングで満たされていましたが、それらのフレージングがなぜそう繋がるべきなのか、全く見えてきませんでした。これも多分、岡島さんと同じで、先生からの課題を、それなりに五線紙をきれいに飾りつつ考えてみました、といった程度でしょう。音楽としての聴く快楽はゼロ。楽想からはなぜ独奏楽器としてコントラバスが選ばれたのか分からないし、ただでさえ書くのが大変なジャンルなのだからもっと初期設定から徹底的に考え抜くべきなのに、それを怠っている。まあそれは、一曲目にも言えますが。オーケストラという機構をただ無自覚に承認した上での、批判精神の欠落した弛緩し切った想像力の産物でしかない。なぜこんな曲、資源の無駄遣いをして書くのか、全く分からないです。
三曲目は山内雅弘さんの「チェロ協奏曲」。この日唯一まともに響いた音楽でした。でもただそれだけです。他が圧倒的に酷いから・・・オーケストレーションも練られているし、楽想もそこそこ魅力がありますし、何より細部の仕上げが他とは段違いにていねいです。とにかくこれを聴かせよう、という腕力があります。しかしそれもやや空回りで、解説を読んでこうなってこうきてこういう感じかな、と想像した範囲から大きくそれることはなかった。つまり感性を刺激されることはなかったです。一番疑問に感じたのは、解説によると、曲の頂点の部分で、独奏と合奏はそれぞれのエゴを捨てて融合を果たすということになっていますが、この部分は嬰ヘ長調の和音が鳴るんです。こんなオーケストラにとって弾きにくい和声の中で、本当に融合できるんですかねえ。もっとあからさまに解放弦を使える調の方が良いのではないかなあ、と思いました。クライマックスへの持って行きかたも、常套的でした。
四曲目は石桁真礼生の「交響的黙示」。40分間、弱々しい音が並んでいる作品。ここまで来ると拷問です。黙示というのは別に宗教的意味合いはなく、ただ黙って聴いてろ、というような意味だそうです。ああそうですか。もういいです。
で、なぜか最上位入選は、岡島さんだそうで、本当に訳が分からないなあ。
はっきりいって、近年稀に見る低調極まる演奏会でした。しかしなんとも、この音楽会シリーズを聴く度に、今の日本の現代音楽が置かれている訳の分からないスタンスを垣間見る思いです。なぜこんな作品を演奏するのか?なぜこんな作品を選ぶのか?なぜこんな作品を選ぶ審査員達を連れてくるのか?ここの主催者、つまり交響楽振興財団の方々は、本当にいい人たちばかりなのに・・・やはり、どこかが間違っているんです。
◎Forest in Noise・2001年7月21日、高円寺20000V
聞くところによるとこれがインキャパシタンツの初めての自主企画だそうで、やや信じられないと云う気もします。しかしまあ、出るメンツ、名前だけでも豪華です。ペイン・ジャーク、キリヒト、ABM、光束夜、インキャパシタンツ。予想以上だったもの、期待外れだったもの色々ありますが、確かに「ノイズの森」いや、「森のノイズ」でしょうか。聴き終えたあとは激しい耳鳴りでした。
ペイン・ジャークは、前観た時は座って演奏してましたが、今回は立ち上がっての演奏でした。そのせいか、前よりずっと躍動感があって、机岸にまさる轟音、重低音ビートが心地よかった。しかしたぶん、一番音量があったのではないかなあ。最後の高周波で、完全に耳鳴りに突入しました。演奏風景はなかなかクールでしたが、結構グルーブ感もあるし、良かったです。
続いてはキリヒト。初めて聴く人たちで、どうなんだろうと思っていましたが、大収穫でした。ハードコアパンクとプログレが合体したような独自の音楽。変拍子なんかも使ってて、屈折音楽好きの私にはたまりませんでした。歌は何歌ってるか分からなかったけど、そんなこと気にならないぐらいサウンドが独自でした。キックを使わないドラムに、オクターバーをかましたギター。2人組にすることで、アンサンブルも緻密に決まってて、いや、充実してました。
で、その次遂に御登場ABM。今回一番観たかったバンドです。モンドブリュイッツのファンだし、林さんと云うのも凄そうな人だし・・・ギターの三人組でしたが、結果は????何か全然心に来る感じが無かったです。ただチューニングしながら遊んでるだけのような、3人のサウンド指向がバラバラで、積極的に軋轢を生むでもなく、お互いに歩み寄るでもなく・・・3人バラバラに退場していきましたが、それも意味不明でした。
光束夜は、初めて聴くバンドでした。名前は知ってましたが。わりと面白かったけど、ピークを一旦過ぎてからやや長過ぎるなあ、と思いました。良い感じなんですが・・・
で、そういったもやもやを吹き飛ばしたのが、御大インキャパシタンツ。ここ何回か観たライブ演奏では、最高の出来でした。二人の、無理矢理ひねり出すような魂の轟音が巨大な軋轢を生み出して、そこから全身を貫くようなグルーヴが体感できる。これこそ、インキャパのライブの醍醐味でしょう。それがいかんなく出てました。腰が座った、堂々とした演奏でした。しかし、あの迷惑外国人、大暴れでしたね。最前列に居て、私の横で大騒ぎでした。お前の声が一番うるさいぞ!!!と思ったりしました。客にダイブはするわ、ステージに上がり込むわ・・・しだいに客席も暴動の雰囲気で、押し合いへし合いしてましたね。で、小堺さんと美川さんが客席に飛び込んで、大団円と。
思うに、インキャパはああいう風に聴かれるべきなんですかねえ・・・もっと静かに観賞する、と言う感じの方が正しい気がするんですが・・・まあ、それは好みでしょうか。しかし、充実した一夜ではありました。
◎第11回芥川作曲賞選考演奏会・2001年8月26日、サントリーホール大ホール
ここ数年、夏はどうも心身とも具合が良くなくて、この晩夏、というか初秋に行われるサントリーホールでの現代音楽関係の催し物には、足を運んでなかったのですが、今年は久しぶりに行ってみました。23日は小ホールでのカーター他の作品。この日は毎年恒例の若手作曲家のオーケストラ作品による芥川作曲賞の選考会。全体的な感想としては、久しぶりに行ったせいか、演奏会自体があっという間に終わってしまった感じを受けました。なぜなんでしょうかねえ。審査会が長引かなかったと云うのもありますが、多分、毎年一つや二つはある、もういい加減にしてくれ、といった風情の曲が無かった、と云うのが理由ではないでしょうか。その意味ではコンサート自体の纏まりはあったのでしょうか・・・うんざりするようなイデーに出くわさざるを得ないようなコンクール・コンサートに慣れ切った私の屈折した耳のせいなのでしょうか・・・
というわけで、このコンサートは、ゆっくり落ち着いて聴いていることができました。どの曲もやはり、厳然として「音楽」であり、自らの発言が何ら留保なくとも受け手に伝わるものだ、と確信していると云うことでは、演奏された4作品は共通しています。問題は、その中で、どれだけ自分の力量を積極的に構築していけるかです。結論から云えば、やはり、原田敬子さんの曲は、所与の条件を徹底的に批判、再構成している点で、そしてそれを過不足なく書法として譜面に定着する態度において、抜きん出ていました。作者と譜面の、譜面と演奏者の、ソリストとオーケストラの、ステージ上と客席内のグループとの、演奏者と聴衆との、それぞれの関係を、厳密に規定していく。その中で、明確に一義的に知覚しうるものと、二次的、伏線的に知覚せねばならないものとが、幾つも交差し、多層的な音楽的時間/空間を生み出していく。多分何回も演奏し、聴かねば分からないような細部がふんだんにあるのでしょう。そういうことを肌身に感じさせる、奥行きのある、しかもユーモアにも満ちた作品でした。
委嘱作だった菱沼尚子さんの作品は、音形が反復され、幾つもの層を成すことを狙った作品。聴き易くて、技術も感じさせますが、音楽の「層化」が、やや分かりやす過ぎたきらいがあります。殆ど「図」として見えてしまう。それを狙ったのであれば仕方ないですが、少なくとも「奥行」は感じられなかったし、「伸縮」も・・・素材が要求する演奏時間より、すこし短かすぎる、と云う感想も持ちました。
植田彰さんの作品は、太鼓をドンドン鳴らす、アレグロの音楽。ずっと一貫してどこかでビートを刻んでいます。聴き易くノリノリ・・・かと思いきや、何か弦楽器はものすごく難しそうな指使いで、弾きにくそうでした。他のパートも、決して演奏し易くは無さそうで、どうも不安定なグルーヴしか生まない、乗り切れない・・・しかし曲としては、がんがんと前に進むことを要求される、一体どうすれば良いんだい?といったところで、中途半端な印象を残してしまいました。アレグロを要求するなら、演奏のし易さも考慮しないと、切れ味の鋭いふうにはいかず、単になんだか音がごろついているだけの印象しか生まないのではないでしょうか。それが狙いだったのであれば、別ですが。
中村寛さんの曲は、ダイナミクスの変化が激しい作品。そして、曲全体に激しい思い込みのある作品。プログラムの文章からしてそうですが、確かに、どう音楽と文章が関連しているのか、全く分かりません。フォルテシモの強奏ごとに、「アリアドネ!!!」と心の中で絶叫するべきなのでしょうか。しかしそうしてみたところで、謎は深まるばかりです。ただ、曲そのものは中々きめ細かく配慮がなされていて、音楽としての破綻はなかった。演奏も、し易そうでしたし、安定して響きました。ミクロの部分では分かるのですが、全体で見ると、やはり分からないです。一つ一つの単語は分かるけど、何言ってるか分からない・・・と。でも、これが分かるようになった時、凄いんじゃないでしょうか・・・
当日朝起きた時は、ものすごく眠たくて、どうしようか、と思いましたが、コンサート自体はしっくりと体に馴染むものでした。しかし、それが良いことなのかどうかは、分かりません。
もう25回にもなるんですか、このシリーズ。凄いですね、この継続力。そして幾つも興味深い作品を生み出して、確実に成果を挙げている点も注目されます。私は実は、そんなに通ってるわけではないんです。しかしプログラムに添付されたリストを見ると、興味深い作品が並んでます。ノーノの「2)進むべき道はない、だが進まねばならない」とか、ホセマセダの「ディステンペラメント」とか、ルイス・デ・パブロの「風の道」とか、CDでよく聴く曲も、並んでますね・・
で、今年はドイナ・ロタル。初めて聞きました。この名前。ルーマニアの作曲家って、ドゥミトゥレスクとかしか知らない。しかし、いいんです。とにかく、一度聴いてみよう、と思って、行ってみました。湯浅譲二の曲もやるし・・・
というわけで、聴いてきました。感想は、まずは、「聴いてよかった」ということ。全4曲それぞれ、なかなか力作でした。フルート協奏曲は、どこか湯浅さんの影響が感じられましたが、プログラムを読んでみると、彼女が湯浅さんの曲を聴いたのは、フルート協奏曲作曲の後のようなので、やはり資質的に近いものがあるのかな、とも思います。しかし湯浅さんのような個々の音響の層同士の軋轢のようなものは感じられず、幾分淡くまろやかな色彩の繰り延べに終始します。やや眠くなったかな、と思ったところで終わる、と。実はこういうのが一番後味良いんです。ピエール・イヴ・アルトーの名人芸も楽しめたし・・・
しかし作品としては、新作の方が遥かに良いですね。こちらのほうでは単に淡い色彩、と言うよりも、少しうんざりするような粘着質な音響の醸成への固執をみせ、全く音楽に方向性が無くて、時間と空間の軋轢を露呈させたのでした。演奏もなかなか、そういう主旨に忠実に演っていたと思います。でこれも、少し眠くなって来たところで終える。上手いと言いますか、鋭いと言いますか・・・ちょっと西ヨーロッパのごり押しの、似非科学主義者でかつ退屈なだけの人たちには無い、不思議な感覚でした。
ところが、この日一番よかったのは、湯浅さんの曲でした。CDで聴いていて、あまりピンと来なかったのですが、実演に接して、感動しました。音響のエネルギーが、決して押し付けがましく無く、しかし確固とした存在感を持ちつつ構築されていく。胸に熱いものが残る音楽でした。かなりシンプルに書かれていると思うんですが、奥行きがあり、懐が深い。充実してましたね。演奏も、良かったのではないかと思います。
あと、デデュという若い作曲家の作品。モーツァルトの聞き取りづらい(こともないか)引用・変容による作品。これもなかなか良かったです。でも響きの感触が、ロタルそっくりですね。でも、今後に期待します。
しかしお客さん、もう少し入ると良いですね。折角良い音楽会だったのに・・・「日本人は、知らない名前の音楽家は、聴かない」と、今は亡き秋山邦晴さんも言っておられましたが、多分そのとおりですね。好奇心が、ないんでしょうね。政治に文句を言う前に、自らのそういう怠惰な部分を、徹底的に自己批判すべきです。事後的な情報分析に満足しているようでは、いつまでも斬新な創造なんて、できませんね。まあ、自戒の意味も込めて・・・
主に(というか全員)芸大の大学院修了者で、芸大教授である野田暉行門下の人たちが、先生と一緒に作った会、21世紀音楽の会。室内楽と管弦楽の2夜の演奏会が用意されていて、私は管弦楽の方を聴きました。プログラムを見ると、何か色々述べてあって、これには多少反論したい所もありますが、それはあとに譲って、音楽そのものの批評を書いていきます。
まず一曲目、高畠亜生さんの「輪廻転生1」。仰々しいタイトルですね。曲頭、なかなか良い感じの音響がばっと広がって、これは、ひょっとすると!!と思ったのもつかの間、チェロの意味の分からないフォルテのモノローグが出て来て、???となってしまって以降、私の耳には違和感ばかりが付きまといました。「私の魂」であるらしいコラールとか、確かに聴こえて来たような気もしますが、何かごちゃごちゃしたオーケストレーションのなかで、主張が明確に聴こえなくなり、全ては単に打ち消し合ってただただ澱んで沈んでいってしまうのでした。一体何が「輪廻転生」したのかなあ・・・
二曲目は神本真理さんのチェロ独奏とオーケストラのための「ムーブメント/ダンス」。オーケストレーションは整理されていて聴き易いです。割にからっとした、かなり厳選した音を紡いでいるように思います。独奏チェロも良く聴こえるし・・・屈託の無い音作りが印象的でした。ただプログラムを読むところでは、「ムーブメント」と「ダンス」の二つの要素がからみ合うというか、それぞれが主張をするように思われるのに、私にはムーブメントの要素しか感じられなかった。途中ハイハットのリズムが、なんとも間延びして聴こえてしまったりもしましたが、演奏にも原因があるのかなあ。あと、何故独奏がチェロなのか、今一つ納得できなかった。二つの要素があるなら、ダブルコンチェルトにしてもいいはずで、何かその辺の徹底性があると、良いのだが、と感じました。
三曲目は、夏田昌和さんの「アストレーション」。以前夏田さんの曲ラジオで聴いて、なかなか感心したので、今回期待してみましたが、うーん・・・今回の曲は、形式に関して甘いな、と感じます。放たれる音響が、とても一面的な表情しか持たず、幾つもの声部がからみ合う割には、多層的なテクスチュアを持たない。特に3曲目など、安易にクライマックスを設定してしまうところなど、ちょっとな・・・と感じました。
四曲目は、皆の師匠でもある野田暉行さんの「ルミナス」。琴と尺八の独奏付きです。うーん、この曲は全く分からなかった。相当長い曲で、たんたんと、よわよわしい音響が続く感じ。ちょっといい加減にしてくれ、と思ってしまいました。本当にこの人は、こんな音楽を作りたいんかいな、と、???でいっぱいです。訳が分からない。単にメソッドに忠実に、それなりに心地よく(本当か?)響いて、それなりに独奏者に名人芸を振るってもらって(本当か???)、オーケストラのメンバーにも退屈させず(本当??)、指揮者にも心地よく振ってもらって(本当に??)、お客さんにも楽しんでもらう(ウソ!?!?!)といったところで、一体なんなのか・・・・虚脱感だけが残りましたね。
で、冒頭のプログラムへの反論にいきます。ちょっと引用しますが、「私達は今回、『形や風評にとらわれることなく、自由の原点から、真に心に残る作品を』をモットーにこの会を結成致しました。もとよりこれは敢えて言うまでもない創作の原点であります。しかし今、新しい世紀を迎え、冷静に前世紀を振り返るとき、この当たり前のことが如何に忘れられ、ないがしろにされてきたかということに改めて思いを致さないではおられません。作品の真価とは無関係な話題性の中に、創作の真偽が埋没し見過ごされてしまうことが多いのは、この時代の致し方ない現象でしょうか。いや、もう一度率直な心の在り方を取り戻さない限り、新世紀は何も実りももたらさないままに過ぎ去ってしまうでしょう。その批判能力を自らしっかりと保ちつつ、全力を注ぎたいというのが我々の願いで」あるらしいです。しかし今回出てきたものを見る限り、殆どが「形や風評にとらわれて」いるものが多数であり、「自由の原点から」は、いささかも発言されていないと感じるのは私だけでしょうか。自由をかくとくするには、それなりの代償、義務を払い果たさねばならないのはこの世界の基本です。そういうものが全く見えてこない。この人がどれだけのリスクを背負ってこの表現に賭けているのかという、切実、真摯な姿勢が感じられない。それと、「作品の真価とは無関係な話題性の中に、創作の真偽が埋没し見過ごされてしまうことが多いのは、この時代の致し方ない現象でしょうか。」というのは、具体的に誰のどういう作品のことをいっているのでしょうか。どうもこの辺は抽象的ですね。本当の問題の所在をごまかしているようにしか思えない。話題性を追求していたって、それを聴いて感性の刷新を迫られるような感動を齎すような曲だったら良いじゃないですか。真摯に何かを思考した果てに、話題性を獲得してしまうようなものができるとしても、それは結論であって、原因ではない。どうも、そういうことじゃないと思うんです。この演奏会のつまらなさが、それを証明しているじゃないですか。
遂にISCM世界音楽の日々が日本で開催されました。80年近い歴史の中で初めてのことですね。確かに、感慨深いものがあります。世界中の様々な地域の様々な傾向の音楽が、一同に会する、分厚いパンフレット(1000円)も用意されていて、聴きごたえがありそうです。しかしなにぶん横浜、私の住むところからは2時間近くかかります。毎日通うというのはなかなか厳しい。それに、結構早い時間から開かれる演奏会が多くて、ちょっと寝坊すると、見られなくなりました。行きたいのも、色々あったのに・・・まあ、仕方ない。私は、5,9,10日のそれぞれオーケストラ(10日は室内オーケストラ)のコンサートに行きました。
一番充実していたのは、5日のコンサートでした。特にティエンスーの作品。はったり一発の、バカ音楽という風情で、どこまでも突き進む。割とテクノロジカルな発想がありますが、バカパワー全開で、強烈な笑いの渦の中を突進する、凛々しく爽快な音楽でした。しかし演奏はなかなかの難物のようですね。各楽器が名人芸を発揮せざるを得ない。しかしそれに見合う結果がある音楽だったのではないでしょうか。私はこういう種類の音楽が大好きです。日本でも、シンネリムッツリばかりしてないで、こういう弾け飛ぶような音楽を作る人がもっといっぱい出れば良いなあ、と、凄く思います。
テニーの作品も、素晴らしかった。この前の日、JMLで彼のレクチャーを聞きました。純正調を用いるその理想と、実際の困難を語ってくれて、演奏を聴くのを楽しみにしてましたが、実際は、予想以上に楽しめた。まず、音の定位が物凄く複雑で豊かでした。極々シンプルな表面なのですが、全く聴いていて飽きない。いろいろな細部に次々と引き寄せられていく。そしてそれが、予想だにしない関係を他の細部と持ちはじめる、そして全く別の物に変化する・・・その多様性は、驚くべきものでした。アメリカ実験音楽の、底力というべきものを感じました。うーん、素晴らしい・・・
ロタルの作品も、以上二点と比べればいささか伝統的な持続になりましたが、楽しめました。小編成ですが、独特の色彩感もあったし、淡い風景を描き出していました。サントリーの時の作品と共通してますね。個性的です。
もうひとり、日本人の作品、可知奈尾子さんの作品は、個性、コンセプト、技術の点で、以上3作とはかなり見劣りするのでは・・・やはり、想像力、知性を酷使してほしいです。オーケストレーションの技術には、感嘆すべき点もありましたが、問題はその先であって、単なる因習的な技術で敷衍されたイメージ音楽という感触を拭いきれなかった。至る所で、何かハッとするような展開を期待させるんですが、そうはいかず、ごく普通の納まりの良いものになる・・・音楽の持続を考えるプログラムの類いなど、放棄してしまった方が良いのではないかと思います。演奏は、素晴らしかった。かなり難物の物もあるはずなのに、良かったですね。
しかし、9,10日の演奏会に関しては、作品の出来もありますが、演奏というものに関してやや疑問を持たざるを得ません。9日の桐朋学園オーケストラの演奏は、頑張ってはいるのだと思いますが、どうも音が薄くて、貧弱です。特に弦楽器が・・・何故かなあ。高い楽器を使ってないからでしょうか。それとも現代音楽の演奏は、学生にはやや難しすぎるのでしょうか。いや、わからない・・・指揮者は懸命に音楽を盛り立てようとして孤軍奮闘してましたが、全くついて行けませんでしたね。6月に武生で聴いたシェーンベルクは、かなりの熱演で、こうじゃなかったのに・・・全く違うオーケストラのようです。
で、4曲のうち、権代さんのもの以外は、全く訳分からない代物でした。オーケストラが分かってなかった?どうなのか。1曲目ケレメンの曲は散発的にオーケストラが鳴る散漫なもので、25分ぐらいありましたが、全く楽しめなかった。どういう指向なのか、全くつかめない。それが全然良い方向に作用しない、と、機能不全に陥ってましたね。演奏のせいかなあ、どうなんだろうか・・・
2曲目の小林聡さんのハープコンチェルト、これも、常套的な現代音楽でございます語法だけでできた、いささかも感性を刺激されないものでした。ハープのソロと、オーケストラの演奏が交代して進んでいくんですが、展開が平板だし、かといってそこから聴き入らねばならないような魅惑的な細部とかコンセプトがあるわけではない。単にコンヴェンショナルな音風景が通り過ぎていくにすぎない。と言うしかないですねえ、うーん、わからん・・・
で、3曲目のトランブレイも、全く印象に残ってません。何かこれも単にコンヴェンショナルな音風景が通り過ぎていっただけでした。一つも耳に引っ掛かってないですねえ、うーん・・・
まあさすがに権代さんの曲は、演奏の出来がどうあれ、まず見た目がすごいし、そこからくり出される音も納得できるものです。あの空間感覚は、ライブでないと体験できないし、こういう曲が演奏されるのは貴重なことでしょう。真ん中にピアノ、ステージ上3方向、それに客席後方の計4ケ所に配置された打楽器、7人の天使を示す正面上方オルガン前に陣取る7人のヴァイオリン、と、単にこけおどしなどではない考え抜かれたオーケストラの設定、そしてそれから忠実に造型される音の形、全てが念入りに組み立てられ、殆ど隙がないですね。やはり、こうでなくてはいけません。全てに気を配り、考えぬくと云う当然のことを実行できていたのは、この日は権代さんだけでした。あと、指揮者の山下さんにも、エールを送りたいです。凄く頑張ってらした。
10日は、室内アンサンブルの演奏会。この日は今度は、指揮者が問題だと思いました。ただ単にテンポをとっているだけ、出るとこの合図出しているだけ、メンバーを見ると、中々達者で音楽性溢れる人たちが並んでいるのに、そういう良さをちっとも引き出そうとしていない。演奏家が手抜きしているように聴こえてしまって、少し可哀想でした。しかしテンポだけはしっかり取ろうとするのですね、だから、音の表情がこわばってしまう。何なんでしょうかねえ、一体・・・最後の曲だけは尺八のソリストが登場して、彼が音楽を引っ張っていって、光り輝くような音色に満たされました。各メンバーとの掛け合いみたいなのもあったし、まあ言ってしまえばはったり音楽ですが、ああ良かった。めでたしめでたし、で終わるわけがない。残りの三曲(あと一曲は尺八独奏、これはなかなか良い演奏でした)は、どうなるんだい・・・おそらくこの日一番泣いたのは、ハーヴェイなのでは。多層的である時間、空間が、全く平板になっていました。こうなると、もう、なにがなんだか・・・スティンフィゼンの曲は、コンセプトと実際の音の遊離が気になりました。せっかくの雰囲気が、音の多さで台なしですね。やや平板なコンピュータ・サウンドファイルの使用。でも、時々感性のきらめきがきらっと光ります。だからこそもったいない。渡辺俊哉さんの曲は、知的で、結構念入りに音の組み立てが見える作品。特に後半の音響の感触には好感持ちましたが、もう一暴れも二暴れもしてほしいなあ、せっかくかなりはっきりしたヴィジョンを持って創作しているんだから・・・
とにかく、ティエンスー、テニーの素晴らしさにつきます。あと権代さんの曲が生で体感できたのは演奏の是非はともかく貴重でした。うん、やはり、何か、「貴重」なものこそが、感性を真に刺激し続けるんでしょうね、いろいろ考えていたことが明確になって、良かった。行って、良かったです。関係者の皆様、本当に御苦労さまでした。
◎エッセンシャル・ミュージック・2001年10月25日・トッパンホール
「エッセンシャル・ミュージック」という、ピアノと打楽器3人によるアンサンブルのコンサートです。しかし副題に、「ピアノの20世紀」とある。つまりこのコンサートは、あくまでピアニストが主体・・・ということなので、プログラムも半分以上がピアノソロの作品でした。アメリカ実験音楽の、パイオニアと現在の作曲家の作品が並ぶ。実験音楽好きの私としては、たまらないです。
聴き終わって、この演奏会は本当に貴重だったと思いました。そうなんです。たとえば、ケージの事は殆どの人が知っている。ケージの作品とか評伝のことに関しても、かなりの人が知っている。CDはものすごい数(といっても知れてますが)出ている。しかし、ケージが望んだような形、つまり生演奏で、ケージの作品に接する機会というのは、決して多くない、いや、殆どないといっても良い。あれだけ大量の作品を作ったのに、多分殆どまだ日本初演されてないのではないでしょうか。特に晩年の作品は・・・
で、この日演奏された3曲のケージの作品のうち、後半で演奏された「Four3」と、「Credo in us」は、特に印象深かった。前者の、どこまでも続くかと思える沈黙に縁取られたシンプルな音達の持続と、後者の金属系打楽器ががちゃがちゃ鳴るスピード感溢れる音楽には、一見共通点はないけれども、音楽の醸成する空間の複雑な様相を見事に描き出しているという点では、共通してます。ケージの作曲家としての能力を再認識しました。演奏も、かなり熟れた、というような風情ではなく、真摯な態度で音を置いていったのが、印象的でした。前者での空間的な配慮も、成功していました。
ラッセルなど、殆ど知られてないし、CDもごく僅かだと思うんですが、こういう人がいたんだと思うと、アメリカの伝統というのは、確実にあるんだと再認識させられます。アンタイル、カウエルという「有名所」はもちろん、より若いケネディやダックワースの作品まで、やはりヨーロッパとは全く違う持続の感覚ですね。しかし、若い人になるほど、音楽が調性的になる。これは、なぜかなあ・・・あまり刺激的な音楽とはいえませんね。まあ、下手に暴れたようなのよりは、良いのですけど・・・
「ピアノの20世紀」というよりは、むしろピアノは前菜で、主体は全員のアンサンブルでした。皆スマートな演奏スタイルで、感心しました。充実してましたね。しかし、お客さんは異常に少ない。多分、半分も入ってなかったのでは・・・残念です。でも、温かい拍手が終演後ホールに響きました。4回ぐらいコールされたのでは・・・それぐらい充実していた、貴重だったということです。このコンサートは・・・
◎クロノイプロトイ・2001年11月21日・東京オペラシティ・リサイタルホール
前の週から少し風邪ぎみで、この日も余り体調は良くなかったのですが、何か期待を抱かせるコンサートのネーミングですね。しかも、チラシが奇抜で、チケットのデザインも奇抜。実用ということを殆ど無視しているし、何か起こるのでは・・・ということで、行って来ました。
私は、何故か列の一番前に行ってしまって、誰よりも先に会場に入ったのですが、この会場作りが独特でした。演奏場所を真ん中に作って、お客さんはそれらを挟むようにして観る。演劇ではよくこういうのがありますが、音楽会では珍しいのでは。それと、演奏者の位置があらかじめ全て決められていて、この種のコンサートにありがちな曲間の配置替えの待ち時間というのが、殆ど無かった。これは、成功していました。集中して音楽を聴くことができました。ここまでで分かる通り、まず、音楽以前の場の設定が、とても工夫されていて、こういうこと、考えるのは、結構楽しいんですが、やる人はぼちぼち出ているけども、まだ少数派ということで、好感持ちました。成功していたと思います。
さて、実際のメンバーの曲についてですが、3つの傾向があると思います。まず、小林寛明さんや篠田昌伸さんのような、伝統的な技術を基盤としながらそれのある部分を極端にクローズアップして提示するというもの。小林さんの「Over rev」は、ピアノの鍵盤全音域に渡って音がまき散らされる、名人芸フルパワーを要求する作品。しかし個々の音は割と慎重に選ばれているし、持続も飽きさせない。この辺にやはり技術があるのでしょう。圧倒的な音群、という感じはしないのが、不思議な感触です。
篠田さんの「Rubber's concerto」も、各楽器相当難しそうです。合奏の形態を考えるとき、その音が要求する形態にスポットを当てていくと、ある場合にはソロになり、何重奏かになり、あるいは全奏になる。編成が音によって決められる、とでもいいましょうか・・・ですので、すっと耳に入るし、聴き易い。音と持続が、良く馴染んでました。
次は、渡辺俊哉さんや大場陽子さんの傾向。ここでは音というよりも、まず編成の独特さがあります。それらの差異を測り、自分がどういうスタンスを取るのかというのが、作曲以前の問題として重要になる。篠田さんとの比較でいえば、こっちの場合は、音が編成によって決められる、というか、輪郭付けられるわけです。二人とも、かなりアンバランスな楽器の組み合わせを用いているし。
渡辺さんの曲「Duo for Bass-flute and Alto-saxophone」は、バスフルートとアルトサックスという、発音機構も音量も音色も楽器の色も全く違う、音域だけが近い楽器同士の2重奏。どんな音がするのか楽しみ且つ不安でしたが、アンバランスさは感じられなかった。幾分起伏はあるもののほぼ弱音に終始しますが、呼吸感を大事にしたフレージングで、演奏もし易そうだったし、見通しの良い音響を作っていました。見通しの良さは、彼の特長でしょうか。ただそれが、表現としての強さという点では、どうなのか。包容力を持った音楽性を感じさせるだけに、今後も期待したいです。
大場さんの曲「蜘蛛の網(くものい、と読む)」は、トランペットとコントラバスという、渡辺さんより更にアンバランスな組み合わせ。ややか細い持続の中で、楽器感の距離が、とても意識される曲でした。ある持続が、常にその裏の持続によって裏打ちされる、というか、メロディックな流れが、次の瞬間には、全く別の方向を向くのです。音楽全体として持つ多様な感触が、円満な、というより、批評的なんですね。かなり、不思議でした。彼女が、他の編成で、どういうことをやるのか、興味が湧いて来ました。
で、最後の傾向は、いわゆる現代音楽イディオムからかなり遠い、独自路線のもの。徳永崇さんや鶴見幸代さんのものがそうです。徳永さんの曲「潮招蟹の呪文(ヤクジャーマのじゅもん、と読む)」は、ギターのカッティング、フルートや歌の音形反復という、どこにでもありそうな手法を用いつつ、あまりないような音楽でした。持続が一筋縄では行かず、音楽がどう進むのか、全く見えない。同じことばかりやっていると思ったら、全然別の事が始まるし、変幻自在でしたね。最後、指揮してた徳永さん自身が歌って、ボサノバみたいな響きになって、思わず笑ってしまいましたが、私はこのような作品、大好きです。きっぱりとしていますね。次も期待しています。
で、このグループの代表でもある、鶴見さんの作品「カミがない」。伝統邦楽器と打物とコンピュータという編成。伝統楽器は全く伝統を逸脱しない(ように聴こえました)し、舞が舞って、ゴングとシンプルな正弦波のコンピュータ音響が別にその場の争奪戦を繰り広げたり、またはお互いに協調、譲り合って場を醸成するわけでもなく、単に同居している、という印象です。良い意味でも、ひょっとすると悪い意味でも、鶴見さんの伝統に対するスタンスが、全く見えて来ませんでした。参照するのでもなく、反発するのでもなく、利用するのでもなく、その中から発言するのでもない。ひょっとして何か根本的に新しいのかな、とも思いました。しかしそれが、幸せなことなのかは、わからないです。
あとは公募で集められたメロディーの発表。せんめろめろめろ・・・・という歌詞に曲を付ける。応募された原典にもとづいてメンバーが編曲しているらしくて、どう評価すれば良いのか分からないので、触れるだけにします。しかし、どれもなかなか面白かった。実は、私も応募しようとしたのですが、締め切りがあること知らなかったんです。残念。
でもトータルでは、なかなか考えられている良いコンサートだと思いました。次回も、ぜひ行こうと思います。
◎新しい世代の芸術祭2002・リュック・フェラーリ日本零年・音楽のデペイズマン・2002年1月26,27日・北区滝野川会館
リュック・フェラーリが遂に来日しました。彼の生年と活動歴の長さ、そして何よりもその作家としての重要性を考えるならば、これは全く意外であると言わざるを得ません。確かに、日本でも少しづつではありますがその作品が紹介されてきていますし、またCDもそこそこの数出回ってはおり、一度ならずともその名を目に耳にした方々は多いと思います。しかしその真の価値が正しく認識されているかと言えば、どうもそうではないようです。「フランスの現代音楽の人」といえば、やはりIRCAMとか何かのそういう組織に関係している人々の事をメインに考えてしまいます。フェラーリはやはり、傍系の人、何か変わった、真面目にやっているとは思えない人、もっと言ってしまえば「際物的」なイメージで捉えられることが多かったのではないでしょうか。しかし時代は少しづつ巡ってきました。とりわけ若い世代における、50,60年代の電気、電子音楽、ミュージックコンクレートの類いが再発見、評価される中で、フェラーリの音楽も正当な評価を受けるときが来ている・・まあ彼の仕事の全貌がまだまだ十分に紹介されているとはいえない現状ではありますが、遠くない未来、その日が必ず来る・・・そういった希望を抱くことができた2日間でした。またそういう思いを抱かせるのに十分な企画内容だったと思います。このような催し物をほとんど独力で企画、実行された関係者の方々の努力には、頭が下がります。
2日間に渡り、3つのコンサートと1つのレクチュア・シンポジウム(なお24日には東京芸術大学でもレクチュアがありました)が行われたわけで、私は全部観ました。全部観終わったあと、言い知れぬ感銘に包まれたわけでして、まずは個別の催し物について、私見を述べたいと思います。
27日に行われた基調講演+シンポジウム。初来日された、つまりは我々の前に初見参なわけですから、何かしらお話を伺って、こちらからも所見を述べる、というのはもてなしとして全くの正論でしょう。まず、一種の序曲、または挨拶として、その名も「こんにちは、ごきげんいかが」という作品が演奏されました。きびきびとした快活な音楽。ピアニストがかぶっている帽子を取る行為(これが挨拶)が、合図になって曲が進んでいくものらしいです。で、心楽しい気分になったところで、基調講演へ。 しかし、話と言うよりも、かなり長い時間に渡って作品の録音をかけました。話の内容そのものは、良く憶えていません。ごめんなさい。しかしそのときかけた作品は、かなりインパクトの強いものでしたね。オーケストラ曲でしたか、異なった主旨の楽想が次々と畳み掛けるように交代していく、というもの。実は、講演としては、24日に行われたものの方が講演然としていました。セリエルから出発して、ミュージックコンクレートへ関心が向っていった・・という話は理路整然としていました。27日の講演は、どうも時間に押されて、何かまとまった印象が持てずじまいでした。さらには、シンポジウムの方も、基本的に時間不足でした。ほとんど発言しないパネラーがいたり、あるいはひたすら発言し続けるパネラーがいたり・・・やはりシンポジウムというのは、事前の打ち合わせを相当緻密にしないと、なかなか成功しないのではないかと思います。あとやはり司会者が、一家言持つ人でしたので、こういう場合は、交通整理に徹する人を呼んだ方が良かったのでは・・などと、考えてしまいました。自主制作の難しい面が、一挙にあらわになった感じでした。
しかしばたばたしていたのはここまでで、このあとは見事に主催者の理念が開花したものになりました。まずはオーディションで選ばれた、清水友美さんのデビューリサイタル。ところがまず、テープ音楽である「Far west news Nr.1」がかけられました。アメリカ旅行で取材した音源を元に構成された30分近い作品。テープ音楽についての感想は、あとでまとめて書きます。
で、清水さんの登場です。清水さんの音は、切れ味が鋭いがけして軽くはなく、明確な方向性というか意志をを持っているように思います。オーディションに於いてバッハの平均率20番、フェラーリの「日記の断片」(1980/82)からの一部、メシアンの「火の島」を弾いて選ばれたということで、確かにこれらの作品は彼女の資質にあっているものと思われます。「Far west news Nr.1」の30分近い演奏のあとに、登場した彼女は、幾分緊張ぎみながらも、「日記の断片」の各曲を丁寧に性格付けながら弾いていきました。ピアノ組曲としての構成をよく把握した、完成度の高い演奏と言えるでしょう。ただ、この曲はもともと女優や女性歌手も登場するシアターピースだったということで、構成をはみ出す異物のようなものを露呈させる瞬間があっても良かったのではないかと思います。「ジョンケージ賛」という、1分間沈黙を弾くというパフォーマンスを見て、多分1分よりは短かったし、何か飽き飽きするようなものを通じて異物との交換を図る時を、このときばかりは、と演じてほしかったです。ただこの演奏では、フェラーリの持つ古典的な素養の部分が良く見えて、興味深かったのも事実です。
で、休憩を挟んで三善晃のピアノソナタと野平一郎の間奏曲第2番。私としてはなぜこの2曲がここで演奏されたのが、今一つ良く分かりませんでした。フェラーリとどういう関係があるのか・・・確かに「フランスつながり」ではあるけれども、はっきり言ってしまえばただそれだけじゃないですか。実際の音楽の志向としてはほとんど何の関係もないと思われるし、40年隔てられて作曲された、それぞれ「若さの成した技(三善)」と「働き盛りの手になる(野平)」作品・・この2曲もほとんど何の関係もないし、清水さんが弾きたい曲だというのは演奏を聴けば納得ですが、何処か中途半端にそれらを聴かされてしまった気がするのです。このあたりは、今後の彼女の課題となるのかも知れません。
最後はフェラーリの「アンチソナタ」。アンチ、とついてはいますが、やはり古典的な形式の範疇に入ります。それでも興味深かったのは、音と音の隙間、といいますか、クロマティクなパッセージがあっても、それがずるずると持続を引きずっていかない。とてもドライに、寸断されていくことです。一つ一つの音が、個々に生成されていくように聴こえる。持続が、瞬間瞬間で更新されていくのです。これは、不思議でした。作曲技法によるものなのか、フェラーリのヴィジョンがそうなのか、演奏のせいなのか、多分その全てでしょう。やはり初期から、自覚的に音を作っていった人なのですね。1日目は取りあえずそのような感想を持って帰途につきました。
明くる2日目、まず、フェラーリの創作の主要な部分を占める、テープ音楽コンサート。といっても、テープではなく、CDもしくはCD-Rでの演奏です。つまり、演奏は2チャンネルで行われました。しかし、会場には左右でそれぞれ前、真ん中、後ろと3本、計6つのスピーカーが立てられています。会場の備え付きのスピーカーも使っていたような気がします。フェラーリは曲によって、また曲のどの部分かによって、2chの素材を6つのスピーカーにリアルタイムで再配分していました。これはまさしく演奏であって、何かを聴き出そうという欲望を掻き立てられました。また、非常に上品な照明の演出があり、視覚的にも飽きさせず、これも素晴らしかったです。
2回の休憩を挟んで3時間近い催し物で、10曲が披露されました。選曲も50年代終わりから2000年作のものまで、幅広い。ただ80年代のものがありません。これは、他のコンサートのピアノ曲のプログラムが、80年代をフォローしているからでしょうか。
さて、フェラーリのテープ作品は、大別すると(乱暴な分け方ですが)二つのタイプがあります。室内的なものと、屋外的なものです。室内的なものというのは、いわば部屋の中で楽器の音や電子的な音を集めて、それを再構築するタイプ。普通の電子音楽、ミュージックコンクレートと呼ばれる類いのものです。音はたとえ出自のはっきりした具体性を備えてはいつつも、作品という名の抽象的な構築物の一部分となり、全体の構成へ参与する。まあ、一般的な「作品」の概念に合致し得る作曲姿勢ですね。この日においては、初期の「偶発音のエチュード(1958年)」「緊張音のエチュード(1958年)」「トートロゴス1,2(共に1961年)」などがそれに当たるでしょう。ピアノや打楽器の音を多用しています。あまり変調を加えず、生のままを出す感じ。それにしても音質がとてもクリアです。かなり激しい音が交錯するのに、不思議と落ち着いて聴こえるのは、音質が良いために音の細部まで聴き入ることができるせいかも知れません。フェラーリの原点というべきか、マイクの使い方などに工夫が感じられるようにも思いました。しかし構成、音感などは確かにその時代の刻印を受けてはいます。
1回めの休憩のあとは「春の景色のための直感的小交響曲(1974)」と「開-閉(1993)」。もう一度休憩を挟んで「プレスク・リヤン第4番『村道ヲ上ル』(1990/98)」と「遺伝子組み替え資料(2000)」。最近の作品が主です。これらは、フィールドレコーディングをもとにしたものと、密室的な電子音によるものと大別できますが、技法的に相互に複雑に入り組んでいて、かなり混在しているのではと思いました。私としては特にプレスク・リヤン第4番の、遠近感がくっきりと聴こえるその音質に感激しました。まさに音のある環境そのものをそのまま取り出しているようです。電子的な音も混じっているのですが、それらがフィールドの中で然るべき位置に何の迷いもなくきちっと収まっている。そして何処かではあるけれど、何処でもない世界が現出するのです。「音を選び、配置すること」(物凄い技術によって支えられたぶっきらぼうさ、とでもいいましょうか)が、これほどの厳密さを持って行われた例を、私は他にあまり知りません。で、基本的に、前日に演奏された「Far west news Nr.1」、この日の一曲目である「Far west news Nr.2」および次の中川賢一さんのコンサートの1曲目である「Far west news Nr.3」も、同じような感想を持ちました。これらでは例えば「半室内的」とでも言える状況、つまりフィールドレコーディングでありながらどこかのレストランとかバーに入って話す、というようなシチュエーションもあります。特にそれぞれの会話者が、微妙な遠近感を持って音に定着される。それらがごった煮になって、変幻自在な音の(気配に満ちた)モザイクがうまれる。素晴らしい発想力と構成力とユーモアだと思いました。
さて、2日間に渡る演奏会シリーズの最後は、中川賢一さんの全フェラーリ作品によるピアノコンサート。中川さんの音は、非常に繊細で軽やかに戯れるようで、強奏でも金属質になること無く、起伏の激しいダイナミクスの落差でドラマティックに音楽を仕上げるというよりは、もっと個々の音の 細かいニュアンスに富んだ描き分けを積極的に聴き出させようとするような性格だと思います。初期のセリエル的な作品と、70、80年代の電子音をともなう作品(1曲目は「Far west news Nr.3」)によってコンサートは構成されました。
1曲目は「Far west news Nr.3」でしたので、中川さんの演奏としては、まず「ラピダリウム」という作品。セリエルなシステムから自由に旅立とうとしつつも、まだ幾分かその逗留先に足を留めている、と言うような印象を受けます。次々とエピソードが現われては消える、という書き方です。中川さんの演奏は、それらを変幻自在でカラフルな音の万華鏡としてみせると言うよりは、もっと微細な音の変化を聴かせようとする。ニュアンスの博覧会と言う感じです。確かに、激しい表出性は感じませんが、演奏の在り方としては極めて独自で特記しておく必要があるのではないかと思います。次に演奏された「ソナチネ・エリブ」においても、こちらはもっとセリエル的な作品でしたが、演奏のスタンスとしては変わらない。いささかも尖った表出性を音に込めること無く、まっさらな音の関係性の糸の張り巡らしを、細かい表情で描いていく。聴きようによっては単調かも知れませんが、一度そういう点を耳が捕らえてしまうと、その快楽に身をゆだねるしかなくなってしまう。この手の音楽に対する演奏様式を、改めて問い直すようなものだったと思います。
後半は、テープ音源が付く作品2つです。まず、「失われたリズムを求めて」。ほとんど一定のパルスに基づく電子音(但しわずかづつ音量や音色が変化して行きます)に、ピアノの即興的なパッセージが絡んでいくというもの(但しピアノは別に電子音パルスにテンポを合わしたりはしません)。音楽は少しづつ少しづつクレッシェンドしていき、ピークに達したあとはすぐに消えていきます。変化は、かなりゆっくりです。例えば、ピアノの演奏をじっくり聴いていて、その変化を楽しんでいると、いつの間にかパルスの音も変化している。パルスの変化を聴き込んでいると、ピアノが全く変わっている、という具合で、ずっと聴いてしまいます。中川さんの演奏は、決してバランスを崩すこと無く、職人芸的に、曲の意図を十分に表現したのではないかと思います。盛り上がっていく過程では、例えばセシル・テイラー的に爆発しても良い一瞬もあったのですが、敢えてそれを避けたのは、賢明であったのではないでしょうか。あと、パルス音の音質も、興味深かった。少しフォーカスのぶれた音像で、何か想像力をかき立てる、不思議な感触でした。
最後は、「小品コレクション、または36のひとつづきより、抜粋」。ピアノと、ピアニスト自身が操作するCDプレイヤーとの対話です。ここでのCDの音源は、ほとんどシンセサイザーであろうと思われます。ピアニストがプレイヤーを操作するには、アクションが必要で、その見た目が生み出す間、あるいはピアノとCDの音との間、距離感が興味深かった。とちらかが、どちらかへの注釈のようになっています。テンポよく、次々と短い曲が始まっては終わっていき、また始まる。同期せねばならないところはきちんと決まっていて、ハラハラすることはないし、聴き易く、飽きずに(かなり長い曲でしたが)過ごせました。シアターピースバージョンもあるそうで、そちらではさっき触れた距離感のようなものがより増幅されるはずであり、見てみたいものです。中川さんは、楽しみながらリラックスして演奏していたようです。充実した演奏会でした。
演奏会としてもう一つ触れておくべきなのは、この催しもので、パンフレットが配られました。フェラーリの略歴や、演奏曲目の解説、演奏者の略歴などと共に、野々村禎彦、椎名亮輔両氏による小論が掲載されています。「プレスク・リヤン」を両者の交点として、野々村氏は「録音」を、椎名氏は「政治」をテーマに論を展開し、双方とも絶妙なフェラーリ賛になっています。フェラーリをテーマにしては、あといくつかの主題が挙げられるでしょうが、この2つの論文は、ある側面に対して一つの基準と言えるものを示しているでしょう。演奏会の手引きとして、これらはかなり硬派ではあっても、重要なものであったと思います。
さらには、近藤譲、大里俊晴両氏による「フェラーリ談義」があり、こちらは、和やかなムードの中で、互いのフェラーリに対する思いを色々語っていて、また時々覗かせる本音の部分など、興味深く、どんどん読めるものです。近藤氏の「伝統」に対する発言など、なるほどと感心しました。これを読んだあとは、近藤氏の音楽の聴こえ方が、やや変わったような気も、します(気がするだけかもしれない)。
演奏会そのものに関してはここまでで、聴き終わったあとちょっと考えたことを書きます。テープ音楽のコンサートについてです。コンサートに行く前は、「コンサート」という形式の中で、テープを聴く、ということに、どれほどの意味があるのか、少し懐疑的でした。生楽器との共演ならばまだしも、わざわざホールで聴かなくとも、質の良いオーディオ装置があれば、自宅で聴いても良いのでは、あるいは、喫茶店みたいな環境でも良いし、など、色々考えたわけです。実際コンサートにいってみると、最初のうちはまだ疑問でしたが、終わってみれば、ホールで聴く意味を納得しました。まず、音響機器が大変質の良いシステムであったこと。また「ホールで聴く」ための、極めて上質な演出があったこと。またフェラーリ自身がそこに立ち会い、音響のコントロールをしていたこと。確かに、最近はライブでも、ただ単にCDをかけるだけ、という人は色々いますし、つまりこれはフェラーリのライブであった、ということは確実に言えるでしょう。まあしかし、例えば「プレスク・リヤン第4番」や「Far west news 」などは、家で、シンプルなオーディオや、ヘッドホンなどで聴いたら、全然印象が異なるのでは、とも思われます。人によってはそちらの方がより生々しい体験ができる、と主張するかも知れません。しかしあえて、こういう場で全てを提示した、というのは、意義があることだと思ったのです。個々の嗜好性があるのは当然理解した上で、敢えて、ということでしょう。極度に多様なスタイルを持つフェラーリの音楽に対して、曲ごとに最善のシステムを、といっていたらきりがないし、決して最大公約数的ではない、考えぬいた末でのギリギリの選択だったと思います。そのための配慮は十分されていたのでは。また、例えば、フェラーリの全貌を紹介する、というのであれば、室内楽やオーケストラにも目配せせねばならない、などと考えることもできますが、今回ピアノ曲中心だったのも、「敢えて」でしょう。タイプの違う編成の曲をごちゃごちゃとつまみ食い的に展望少なく配置するよりは、全くタイプの違うピアニストによって、それぞれのソロコンサートという形で、フェラーリの音楽の一断面が、その思考なり、様式なりが極めて明確に垣間見れたことは、大変有意義だと思います。ここから、次への関心がどんどん広がっていくはずで、多分主催者の意図はそこに集約されるのではないかと思います。それは完全に成功していたと断言できるでしよう。今後は、これらの刺激を如何に受け止めて、我々の糧とするかが問われていくわけで、フェラーリの他の多様な容貌もしだいに解読され、され続けていくのではないでしょうか。何しろ、この2002年は未だ「リュック・フェラーリ日本零年」なのですから。