日置寿士
こんにちまでにおいて資本主義体制がほぼ全世界を席巻し終えたことは、それがやはり自然の摂理に適ったものであったのだなあと保守多数派をしてますます感慨深く納得させつつあるようだ。すなわちその保守多数派は、人の意識の活動をつかさどる脳の働きとはその自然の摂理に完全に包括されうるものだというそれ自体は極めて常識的な前提を共有することによって科学的資本主義陣営とでも呼べよう勢力を構成するそのメンバーとほぼ同じ顔ぶれを見せている。科学的であることを標榜しながら、ではしかしいったいなにがその彼らの認識をしてそれほどまでに非常識たらしめているというのか。ここで非常識と呼ぶのはひとつの与件からなんの逡巡もなくひとつの結論を得ることができると考えるその怠慢のことである。いやなにも我々は冒頭に挙げたような納得を人がうっかりとしてしまうという選択肢を強制的に排除しようというのではない。ただたとえば「資本主義・・・」と呟くとき、ひとは{資本主義者/共産主義者}×{資本主義的実践/共産主義的実践}という組み合わせが4通りあるという常識ぐらいは常に想起できなければならないはずだといえば、それはむしろ誰にでも通じる話だと思う。{資本主義/共産主義}とは、それぞれお互いがあってのものではないのか。だから、ある均衡を取り戻すためなのだろう、いまここできっぱりと保守多数派を仮想的と看做し、その常識的な前提にもとづく納得の風土に絶対的な異和を取り込むため、記号や感覚ではそれを満遍なくまさぐることのできないいわば自然史のそとにあるものとしての物質という概念を擁することにおいて戦略的であろうとする唯物論とやらがわざわざ呼び出されようとしているようなのだが、そうすることによって何が喚起されようとしているのか。もちろん、共産主義者が、である。常識的に考えてみれば、そしてこの場合それはここには4つの与件があることを正しく踏まえて結論を出そうとするならば、という意味だが、いまや共産主義者ではありえない者が共産主義的に行動するという徹底した不自然が要請されているということがひとつの論理的帰結であることを示すことができる。そのためにまず、{資本主義者×資本主義的実践}、{資本主義者×共産主義的実践}、{共産主義者×{資本主義的実践}、{共産主義者×共産主義的実践}という組み合わせすべてにおけるその政治的意味内容についての論理的叙述と帰結を吟味せねばならないわけだが、それらの手続きを性格かつ律儀に示してまわるとすれば短い字数に収まる筈のこの文章が少々冗長な様相を呈してしまうということにもなりかねないからしかしけっして煩雑というわけではないその演算のごときを羅列することを避けるためここでは簡単な見取り図を揚げるにとどめ、
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あとは各自の研究に任せるのがよかろうと思うが、あらかじめその結論だけを言ってしまえば、この公理系においては共産主義者が共産主義的実践を行うという命題、たとえば共産主義者が共産主義的な音楽を演奏するということのその自然さは、意識をつかさどる脳のはたらきはやはり物質のはたらきに帰結するものであるまでをは言えるとしても意識と物質が厳密にイコールではあり得ないとするなら物質とは自然史の外部に存在すると考えるほかないではないかとその仮想的に対し常識でものを言うようはっきりと言い渡すことによって資本主義が自然の摂理に適ったものであると断ずる抽象的反動性をあっけなく退けるときに唯物論が必然的に纏うことになる字義通りの不自然さと矛盾してしまうという逆説を用意するからなのである。そうは言ったところでだがいやあくまでその矛盾をこそ原動力として革命闘争を全うすべきであると歴史を超えんとしながら理論的かつ一方的に主張するがごときヘーゲル左派所属とおぼしき諸兄といった方がしかしいまもおられるとすればだがもちろん彼らにはぜひともそのまま頑張っていただいてよいのだし、問題は共産主義者ではありえない者はではどうすればよいかということでもうさきほどからやっているのでこちらも一方的に論をすすめると、ある時節に共産主義者ではありえないものが大挙して例えば共産主義的な音楽を演奏するという行動に出たのでそれをそのまま不当に無視してやり過ごすわけにもいかなくなったのであろうやはりたとえば『音友』誌上で《共産主義的な音楽とは?》などという特集が組まれることが決定、するとしかしその編集者たちはなにをどうしてよいのかさっぱりわからず、とりあえず上野の東京文化会館を頼って訪ねてみると、昼休みにパンダを見にいったというそこの館長が帰ってくるのをなぜか〈おやつのじかん〉まで待たされ、しかし〈おやつ〉をいただきながらの打ち合わせでは館長が案外真顔で興味を示し、それならわたくしがじきじきに対談をいたしましょう、対談の相手は永六輔、タイトルは『戦争は、なぜ、いけないか?』でどうでしょう、などとい言い出してそのあまりの積極性に編集者たちも根拠のない不安に襲われないわけではなかったが、ともかくもそれで実現した永六輔=三善晃対談に、『音友』に潜伏していた多少ともしかし相対的に自覚的な編集者が悪乗りしたというわけでもなかろうが、次回参院選をにらんだという『音友』読者による独自の模擬投票までがその号では行われ、やがてその結果として共産主義政党を支持するその人数が有権者の過半数を超えたことが判明したりして、これについては久米宏がうっかりテレヴィで余計なことを言ったりしてしまわないようにともちろんあらゆる方面から圧力がかけられたにもかかわらず、この件についてどうしても黙っていることができない彼はキャスター生命を賭けてか単なる即興でかは分からないが、「この際みんなで共産主義社会を作ってみましょうか」などと口走ってしまい、もちろんその発言のあった時刻の瞬間視聴率はだから50パーセントを超えたというが、その影響もあってか事実参院選では、『題名のない音楽会』の司会に登場してこのムーブメントがそもそも音楽から始まったことを無意識的にうったえながら特に進歩的な政治意識を持ち合わせているとは思えない羽田健太郎や武田鉄也、また完全にその一派(思えばかつて『土曜ワイド・ラジオ東京』の外回り要因であった久米氏も当時は永氏の傀儡として奔走していたという)に取り込まれるという一線だけは超えまいとして必死に堪えているとも伝えられていた巻上公一のみならず、なんと死人の中村八大、坂本九、これまた特に進歩的な政治意識を持ち合わせているとは思えない三波春夫までをも公認候補として擁立することを党執行部に決断させてしまうという心憎いお膳立て(しかし宮本顕治氏が現役ならばそんなことを許しはしなかったであろう)によっても追い風を受けた日本共産党が大勝し議席の過半数を占めた・・・まああくまでこれはもしも共産主義社会が実現される運びになるとすれば、という仮の話だが、ではその場合共産主義者ではありえない者が演奏する共産主義的な音楽とはいかなる運命を辿ることになるのであろうか。
ついに実現したというその共産主義社会においてそこに住まう共産主義者ではあり得ない者が断固として共産主義的でない音楽を演奏し続けることは、しかしごく自然な反権力的な振る舞いとして、ある既視感さえともないながら皆の目に映ることで、いまや共産主義政党が政権を担当することになったのだという事実をやはりそうなんだとひとをして呟かせるなどしてそのことこそがいまや自然であると誰もが納得しうる風土を蔓延させるというあのいつもながらの制度的な役割を演じることへと堕していくのであろうし、またそこに至ってなお共産主義者が共産主義的な音楽を演奏し続けるということがなにを用意するであろうかといえば、その暁にはついに悲願を我が物にしたということなのであろう者がいやがうえにもあたりに漂わせてしまうある種の無邪気さか、共産主義者が共産主義的な音楽を演奏し続けることのその時節においてはとうに天然記念物となった貴重さか、あるいは単なる心理的反動かであって、そのいずれにしろせいぜい悲喜こもごも交えた寛容さをもって見守られるといったていたらく、というよりは寧ろ最早軽い無関心によって黙殺されるぐらいのことでしかありえないであろうと大体予測されうるので、真剣に考察されねばならないのはやはり残る2つの命題においてであろう、と誰もが思う。しかしそのうちの一方の命題であるところの共産主義者が共産主義的でない音楽を演奏し続けることとはあるいは1960年代以来こんにちまで一貫して主流たりえてきた形態なのではなかったかと思い当たってみればなるほど音楽家たろうとすることとは左翼化した近代小ブルジョアがそれでもしかし刹那的にでもいいから自らが本来はブルジョア(小)としてあったことへの郷愁にいま一度浸ってみようというほどの意味であると大体相場が決まっているわけだから、空想的であるとはいえ時計の針を逆向きに押し戻そうとするこの動きは正確に近代を代表する反動なのであり、論外である。
するとやはり、共産主義者ではありえない者が共産主義的な音楽を演奏することなのだろうか。なぜだろうか。共産主義者ではありえない者といってもその言葉が厳密には社会民主主義ではありえない者という意味でさきほどから使われていたがゆえそれに続く共産主義的な音楽という言葉とそれはあらかじめ意味が食い違っていたことがここで種明かしされてだからこれは命題として実は成立しておりませんという偽のサスペンスが用意されているといった出鱈目で勘違いな教条主義とでもいうべきものがいま露呈しようとしておりそれによってこの文章が終わりへと導かれようとしているからいまやそう納得すべきなのであろうか。そうではあるまい。ならばでは、共産主義とは現実にある矛盾を止揚してゆく運動の謂いであり、ある固定されたイデオロギーの名称ではないゆえ共産主義者ではありえない者などじつはどこにもいはしないのだから誰もが共産主義的な音楽を演奏する論理的必然性をあらかじめそなえているという意味でそうなのか。そうともいえるであろうし、このことを主題にしていくらか言い募ることだってひょっとしたらできるのかもしれない。しかしそんなことに大した意味はない。決定的なのは、自然さを背景にしながら巨大化し、最早いくつかある何とか主義のそのうちの慎ましくもしかし絶大な支持を得るに至ることとなったひとつというのではない。蓋しそれは主義ではないのであろう高度資本主義の社会においては、共産主義者ではありえない者が共産主義的に行動するという説明不能の不自然さだけが特権的に纏うことのゆるされるのではないかとさえ思われるその徹底して論理的な戦略性である。その意味はもちろん、共産主義者ではありえない者が大挙して共産主義的な音楽を演奏することによって共産主義社会が実現したなどということは後世においては誰もが信じてはもらえず余すところなく歴史から放逐されるはずであり、そのことが歴史というものに絶対に収まらないものとしての唯物論のあり方を正確になぞることになるというものである。自然さの思考によっては、現代資本主義の思考によってはといってもよいが、それが事実であったということを想定することすら不可能であるといえば少し言い過ぎだとしても、仮に誰かからじつはそうだったのだよと耳打ちされたところで共産主義者ではありえない者が大挙して共産主義的な音楽を演奏することによって共産主義社会が実現したなどということを信じるためにはひとは少なくともあらかじめ共産主義的な音楽を演奏する非共産主義者であるのでなければならないほどには常軌を逸して自覚的でならなければならないはずであるといっておけば十分であるかと思う。
ところでこんにちでは確かにいろいろな不自然が世の中にあり、耳を疑うような事件には事欠かないかにみえるのであるが、それらがきまって過去形の言辞によって語られるものであることまでをは言い募らないとしても、未聞の事件であるというからにはやがてはやはり既知の話題として誰もが納得しうる範疇に収まりながら流通するという意味でしかありえない限りにおいて程よい感慨を呼んだりもするのだといえようそんな事件をワイド・ショー的出来事と呼んでみたいのだが、だからたとえばそのワイド・ショー的出来事としてはひとをしてああやっぱりという気にだけは絶対にさせはしないしいくらスキャンダルだといったってその心理的いきさつがまったくわからないのだからこれじゃあ数字は取れないとかいう理由でやはり共産主義者ではありえない者の大挙して共産主義的な音楽などというものをお昼の番組で取り上げるわけにはいかないだろうという判断が体制側によって下されようとするまさにその前夜、共産主義者ではありえない者は自ら演奏する共産主義的な音楽の中でワイド・ショーを取り上げる。共産主義者ではありえない者の共産主義的な音楽はその番組で演じられるに至ったいかなるいかがわしいさをそれを矮小化しないどころかほとんど大乗仏教的な、供養というに等しい愛を振りまくことによってそれらを顕揚化することで自らのいかがわしさをも途方のないものへと仕立て上げたのち、まさにそのことによって自らが流通する途を自ら絶つ。このとき共産主義者ではありえない者の共産主義的な音楽はもはや共産主義者ではありえない者の共産主義的な音楽として流通することはない。
これこそ共産主義的な音楽であるというのでないのならなにが共産主義的な音楽であるかをひとは言うことができないし、また事の善悪を超えた地点において見い出さねばならないものとして倫理という言葉が人口に膾炙する程度には文化的であるはずだと思いたいこんにちの我々の共同体において、ひとは共産主義者ではありえない者による共産主義的な音楽を実践することを措いてはが倫理的な振る舞いの何たるかを具体的に言い当てることができない。そして共産主義者ではありえない者による共産主義的な音楽の実践が倫理的であるのは、それが同定不可能であるということと流通不可能であるということ、慎重にもその二つの条件を積極的に引き受けることによって自らを共産主義社会の実現とともに消滅せしめるよう周到に仕組まれた装置としてあろうとすることによってなのだから、共産主義者ではありえない者による共産主義的な音楽の実践とは、ただ無償の労働として不断に反復されるほかはない。ゆえに、共産主義者ではありえない者によって新しい共産主義的な音楽がつくられることが常に要請されている。