連載・リチャード・クレイダーマン論

                               木下正道

:序論~なぜ我々はリチャード・クレイダーマンに言及せねばならないのか~


 リチャード・クレイダーマン、この世界的、とまでは言わなくともとりあえずここで地域限定として日本、と言い換えてもよいが、およそピアニストという存在として彼ほど有名である人物は無いだろう(またはピアノを弾いている人、ということで思い浮かべる原型に最も近い存在、とでも言い得る)。そして、彼ほど真面目な、公式な、アカデミックな、歴史的な・・・などの言葉がお誂え向きのある特定な現場・・・においておよそまともにとりあげられることの、皆無(と断言し得るほどに)であるピアニストもまた珍しいだろう。芸術の価値の高さとは反比例して、大衆の嗜好と資本主義の市場原理にあくまでも無条件的に忠実な奴隷として、売れているものほどいかがわしい・・・というような芸術至上主義?的言説が有効であり、事実であるかどうかはさておき、これほどまでの不当とさえ言える無視とは、果たして一体なんなのか。例えば、私の寡聞を持って振り返っても、文化というものに対して偏食なく、辛うじて波間に垣間見えるような現象、言説を線で結び、多様統一的な言論集として纏め上げる(揚げる?)ことに飽くなき情熱と堅実な手腕をそのつど発揮しつつ、その事物に対して、現行での「スタンダード」「一般通念」とも言い得る地平、水平を確立することに役々とし、そしてそれなりに成果を上げ続けている(いまだ休刊していないのがなによりの証拠)、そして肝心の音楽家としてはエリック・サティ、ジョン・ケージ、ジョン・ゾーン、フランク・ザッパ、ピエール・ブーレーズ、グレン・グールド、オーネット・コールマン等々の錚々たる顔触れの特集を組んで来た青土社発刊の「ユリイカ」という雑誌の輝かしい歴史においても、「特集・リチャード・クレイダーマン」あるいはこれに類似した文字列はついぞ発見され得なかったのだ。また、芸術音楽における最上流的潮流をすくい上げ続けて来たもののその誌面の小ささゆえにか(他にも理由があるだろうが)先頃休刊の憂き目に遭った音楽の友社発刊「音楽芸術」なる雑誌においては、およそ彼の愛する白いボディのピアノなんぞ、楽器としては如何なる正当性も保持していないぞ、と強固なまで暗黙に主張しつづけているかのようなのだ。
 一体何故なのか。彼が自作自演者ではないからか。貧相なオーケストレーションをバックに、単音でメロディーを奏でたりするからか。曲の作りがほぼ例外なく二部形式で、「芸がない」からか。端的にいってピアノの音色が粗雑だからか。スタンダード(ジャズから日本歌曲にいたるまで)から毒気を抜いて、平板で特色のないものにしてしまうからか。少女趣味的嗜好を隠さずに露呈させるからか。もしくはもっと直接的に言って「曲がつまらない」からか。
 たしかに、そのとおりかもしれない。いや多分、まさしくその通りなのだ。だがしかし、それが言説における無視の理由ではないことは今や明白である。つまり、これらの事々は、容易に「美点」へと転化し得るからだ。彼がもし、聴き易さ、親しみ易さをモットーとしていると考えれば、例えば「芸がない二部形式」や「毒気を抜いて、平板で特色のないものにしてしまう」「曲がつまらない(耳にすぐなじんでしまう、と言い換え得る)」などは、聴き易さのための重要な利点であるし、「単音でメロディーを奏でたりする」「ピアノの音色が粗雑」などは、ひょっとしたら自分たちでもできるのではないか、という点で、また「少女趣味的嗜好」「自作自演者ではない」などは、結局彼も自分たちと同じなんだ(特に日本におけるピアノ弾き人口の傾向とその配分を考えてみよ)、という点で、親しみ易さにつながっていくことになるだろうからだ。これらのモットーが、彼を商業主義的な文脈といわれるものに位置づけてしまうことになるにせよ、どのようなモットーをして音楽に取り組むかは個人の自由勝手であり、それ自体で非難され得るものではない、ということは容易に断言できるのであり、逆に考えてみれば、たとえそれがどんなに芸術的価値を目指し、そしてそれが実現されているような結果を持っている創造物であるにせよ、「堅苦しい」「親しみがない」などという言葉で、彼が無視され続けられているような仕方で無視されても、何ら差し支えないということになるのだ。
 この点で、類い希なる聡明性を保持し、それなりに幅広い視野を持つと暗黙に自負しているように見受けられるメディアの代表として機能し得ることを期待されていた(いる?)放送局である日本放送協会(NHK)は、教育テレビという名の、これまた努めて暗黙に世論形成の主役となるべく奮闘する一面の有効性を生かそうと躍起になる一部門の、その場を用いて、前述の立場それぞれの両方を等分に顕揚しようとする道を(まさに暗黙の期待の中で)探った訳である。
 つまり、「趣味講座(だったか)」なる時間において、日本におけるピアノ音楽の創造と受容をより円滑に機能させるべくそのカンフル剤として何人かの著名なピアニストに登場願いその秘訣を語らせる(実際はオーディションで選ばれた生徒が、先生ピアニストの教えを請う、という形で番組は進行するのだが)類いの番組を企画展開させて来たうえで、リチャード・クレイダーマン以前のそのピアニスト連とは果たして少なくともリチャード・クレイダーマンよりは有名ではないが確かにヨーロッパ・クラシック音楽における(正統的)実力者であるフランス(だったか)のシプリアン・カツァリスであり、またドイツ(だったか)のゲルハルト・オピッツ、またもっと以前で言えば現在カレーのCMで有名だがしかし本当は日本人でトップクラスの腕前を持つ中村紘子、等々であったのだが、その後そのチャンネルにおいてまさに満を持して彼リチャード・クレイダーマンを(生徒を呼んで来てレッスンさせるという、まさに方法論は全く以前の形を踏襲したうえに)登場させたことは、前述したことの確実な証明以外のものの一体何であろうか。
ここでNHKは、ピアニスト・リチャード・クレイダーマンとしての積極的な制度化を執拗なまでに繰り返す。例えばアシスタントである頼近美津子は生徒に向かって、次のような会話に浸らせる:
(あらかたクレイダーマンの本日のレッスン曲を弾かせたあと)

頼:どうですか、○○さんはクラシックも弾いているそうですけど、
生:はい、
頼:クラシックよりいいでしょう?
生:はい。

「はい」以外の言葉が発せられないようあらかじめ周到に仕組まれているのだ、などと、あえて一々口にすることがはばかれるのではないかと思われるほど、ここでの言論統制は徹底しており、かつあからさまである。またここでは、かつて(正統派)クラシック音楽路線だったこの種の番組が、それよりも「いい」ものをやっているんだ、とおもわせることで、ひとつの進歩至上主義的言説を暗黙に押し付けているのだということは、この際指摘しておいても無駄ではあるまい。
また、「リストの愛の夢」という、同名のリストのピアノ曲を簡潔にアレンジし直した曲を取り上げた際、まず生徒が、原曲の「愛の夢・第三番」を演奏したのだか、その演奏は、少なくとも私の耳には「彼女は明らかにリチャード・クレイダーマンよりピアノがうまい」と思わせるに十分だったもので、どうやらそれを察したらしいリチャード・クレイダーマン(と頼近)が、「さあ、ではクレイダーマンさんのほうですが」などという調子で、明らかに原曲よりつまらないリチャード・クレイダーマン版を、リチャード・クレイダーマン自らが明らかに生徒より粗雑な音色で弾きはじめ、そしてレッスンだという名目でそれを前述の生徒に押し付けるように弾かせ、暗黙に「やはりここでは私がオリジナルである」と言って聞かせる1シーンを目の当たりにしたときには、さすがにこれ以上の不条理はなかなかこの世にあるものではない、などと幾分真剣に憤慨しつつも、「有名であること」が一つの価値として立派に機能する現場というものをこれほど生々しくかつ明確に見せつけてくれる番組も他には殆どないだろうと思い、それへの感謝の念さえおぼえたのも、また事実なのであった。
 他にも、どう見てもロシアの核ミサイルの管理主任のような体つきと顔をした男が登場し、「私が作曲者です」などと発言したうえ、一心に目を閉じてかつ真剣に(やっているように私には見えた)簡易テープレコーダーに向かって鼻歌を歌い始め、「テープを使う私の作曲」「リチャードの手を考えながら作曲します」などという言葉を連発しつづけたコーナーや、リチャード・クレイダーマン本人の「ショパンは私がとても影響を受けた作曲家です」などという、どういう意味なのか全くもって不明であり解析に半世紀を要しそうな発言など、驚くべき瞬間はいくつでもあったのだが、もちろんここでもNHKが、彼らが「作曲家」であり、「ピアニスト」ましてや「音楽家」であるということを暗黙の制度として柔和かつ周到に世間に流布させようとしていることを指摘するのは時を待たないのである。もちろん、NHKが「丸くなって、新出発」のようなキャッチフレーズのもと、三角おにぎりのようなラインでアルファベットを覆った新ロゴマークを採用したことと、これらはおよそ無関係ではないのだが、このことを最終的に確認し得るのは、つい先だってまで放送されていた同系の番組である「ヴァイオリンとともに(だったか)」という代物である。これは最早言及するまでもない電波の無駄遣いと粗暴に断定を下してもおそらく全く良心の痛まない安心していられるようなものであるのだが、しかし殆ど演奏家としても機能し得ないような輩を平気な顔をして講師などといって連れてくるというのは、一体本当にどうしたことなのだろうか。しかしここではさすがにヨーロッパの「偉大な」伝統が勝利してしまっていたように見える。ヴァイオリンという楽器は、安いものはピアノの安いものの10分の1ぐらいの値段だが、高いものはピアノの高いものの100倍以上の値段がする、極めて差別的、反社会的、反民主的な楽器である。そのような代物が易々と制度化されるわけがないのだ。ピアニスト連中のときとは違い、ここでのNHKの目論みは完全に失敗したものと断言していいだろう。
 ピアノという楽器、そしてピアニストという種族が、少なくとも前述の「はい」といってしまうような言論統制に(もしかして音楽的にも)徹底的に無自覚であり、番組に対して熱烈な抗議の電話や手紙が殺到しているふうでもなく、出版社からは幾種類ものリチャード・クレイダーマン曲集が発売されており、彼のこと好きだと人前では怏々に口に出さないけど、実は私も芝生のほどよく生えそろった広い庭で、白いピアノを弾いて午後のひとときを近所の奥様がた(音楽にそれほど詳しくない)や子供達や犬や猫などなどと紅茶でも飲みながら優雅に上品に過ごしてみたいわあ、などと本心では思っている輩が大多数(いやそれ以上)を占めている現況である以上(そしてピアノという楽器はそのような命運を背負って生まれて来たのだった・・・そのことについてはいずれ言及することになろう)、リチャード・クレイダーマンをピアニストでないなどと断言し得るほど、人は蛮勇でいられるものなのだろうか。
 さて、最早全面的にピアニストであるリチャード・クレイダーマンを、あたかもそのようにして分析せずにはおれないというのは、幸か不幸か当然の帰結であるだろう。分析の詳細は、いくつかのパートに分類される。
1.楽曲分析 リチャード・クレイダーマンの作曲ではないが、彼以外公の場であのような曲を弾くピアニストはいないから、彼の曲と断言してよいだろう。ここにはおおまかな曲の流れの特徴から、例えば左手のアルペジオはどうか、というような微細な点においてまで言及されるはずである。
2.演奏法分析 単音をどのように表情をつけるのか、と言うことなど。あまりおもしろくないかもしれない。
3.カバー分析 リチャード・クレイダーマンは多数の他人の曲のカバーバージョンがある。ここで何故この曲をとりあげたのか、ということは、おそらくリチャード・クレイダーマンにとって本質的な問題のひとつであるので、出来る限り詳細に検討していくつもりだ。
 もちろん最終的には、リチャード・クレイダーマンの前述した発言「ショパンは私がとても影響を受けた作曲家です」という言葉の真の意味を、私の力の及ぶところ可能な限り徹底解明してみるつもりだ。
 さて、今回はあくまで序論である。本格的な分析開始は次ページ以降としたい。私にとっても大きな文章訓練の場である。厚かましくも、皆様の応援よろしくお願いしたい。ご意見、ご感想、お怒りの言葉、苦情など、どんどんお寄せください。待ってます。
 
 

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