~タイトル・コール~
日・木「市民通貨について」
日「みなさんは地域通貨、あるいは市民通貨というものを御存じでしょうか。普段我々日本人は円というお金を使って経済活動を行っています。これはまあ端折っていえば日本国政府が発行しているものですね。それが全国どこへ行ってもまず使えるわけです。それに対して地域通貨というものはその名のとおりある地域のなかだけで流通するお金のことをいいます。ほかの地域では使えない。これは国が全国どこへ行っても使えるようにと発行したお金ではないからです。では誰が発行するというと、その地域通貨を主催する委員会であったり、地域通貨を使うひと自身であったりと、いろんな場合があります。いろんな場合がありますし、それはお金というよりはクーポンのようなものだったりすることもありますし、まあいろんな形態があるわけです。つまりさまざまなスタイルの地域通貨が現在では世界中にありまして、その数は約3000にもおよぶといわれています。そうですね、たとえば、渋谷で使われている地域通貨である「アースデイマネー」などは、その名を耳にしたことがあるというかたがいらっしゃるかもしれませんね。また、なかでも、1983年にカナダのヴァンクーヴァー島でマイケル・リントンというひとが始めた、英連邦諸国を中心に世界で2000以上の地域へと広がっているいわれる『LETS(Local Exchange Trading System:地域交換取引制度)』が地域通貨としては最大規模のものとして現在では知られているわけです」
木「地域通貨には現在では希薄になってしまったといわれる、地域に根ざした共同体の結びつきというものをもういちど見直してみようというか、再利用しようじゃないかという側面があるんですね。ひとびとが自分たちが住んでいる地域のなかで経済活動ができる機会を増やすことよって、地域を活性化する狙いがあるわけです。循環型の経済といえますね。そういう意味で、これは環境問題とも繋がっています。大量生産・大量消費でなければまわっていかないような、アメリカ流のいわゆるグローバリゼーションが抱える一番の問題は環境問題であるわけで、この環境問題を最重要課題のひとつだと捉える先進国のひとびとがグローバリゼーションに対抗する手段として地域通貨をかんがえるということがあります。それをうけて日本でも、環境、福祉、コミュニティ、教育、文化など、今の貨幣で表わしにくい価値を、コミュニティのメンバー同士の交換で伝える「エコマネー」という地域通貨の実験が各所で始まったりもしているようですね」
日「グローバリゼーションがもたらすマネーゲームによって地域経済が破たんしてしまうことから地域をまもろうという、環境問題とはすこしちがった角度からの視野をも地域通貨は含んでいます。たとえば、安い労働力が豊富なところに資本が大量に投入されるとそこの物価は一気に上昇します。好景気です。しかしそうなると労働力はもとの安いままではなくなります。それで当初のうまい汁を吸えなくなった資本が一斉に引き払ったとすると、そこでは恐慌が起こります。97年夏、タイに始まったアジアの通貨危機がなんであったかということについては、これですべてだといっても過言ではありません。それでここ数年、これを教訓に地域通貨と資本との関係を模索=提案するかんがえがあたらしく出てきたといえるんじゃないでしょうか」
木「前の世紀を通じて、いや産業革命を経て資本が発生して以後といってもいいのかな、ひトびとは資本に対抗する手立てをいわばまったく見出せなかったわけです。でもこういったながれのなかで、地域通貨がその有効性を指摘されてはじめたいま、地域の通貨ということを超えて、たとえばおなじ興味の対象を持ったり、ちかい境遇にあったりするひとびとが独自の通貨によるコミュニティーを作るというような動きがあります。これは『市民通貨』と呼ばれうるとおもいますね。地域通貨を一歩進めたものだと評価できるんじゃないでしょうか」
日「そうですね」
木「それで僕達も、まあそのへんについていろいろかんがえましたね」
日「そうですね」
木「ええ」
日「言ってくださいよ」
木「日置さんが言ってくださいよ」
日「いえ木下さんが」
木「………」
日「まあ、僕らもかんがえました、通貨」
木「じゃあいっせいのせいで言いましょうか」
日「ええ」
木「じゃあ」
日・木「いっせいのせい、親友通貨………」
木「です」
日「そうですね、地域通貨にしても市民通貨にしても、たとえばそのなかで許容範囲を超える負債を発生させたりその発生した自らの負債を放置したりするようなズル、いわゆるモラル・ハザードをおこなう参加者がいた場合にそれをどうするかという問題があるんですね。それで、通常そういったコミュニティーには細かい参加規約があるわけです。そして、そういうモラル・ハザードをおこなう者がいないかどうかをチェックしたりそれに罰則を与えたりという委員会のような機関がどうしても必要になり、その経費はコミュニティーの運営を危機にさらすことがおおいといわれているし、またコミュニティーの規模が一定以上に大きくなってくると、委員会設置によるあらたな既得権益層の発生というような本末転倒が起こりかねないのです。そして、それらの解決策としてはほとんどそのすべてをコミュニティー参加者の倫理・道徳に頼らざるをえない、というのが現状です。ここが地域通貨および市民通貨のアキレス腱だとおもうのです。でも、親友同士なら………」
木「あらかじめその問題をクリアしてますね。親友同士ならそういうことはありませんから」
日「そんなこと絶対にしないよー」
木「だからそう言ってるじゃないですか。とにかく、親友通貨は従来の通貨論争に終止符を打ったんです」
日「また、僕たちは親友通貨を『FETS(Friendly Exchange Trading System:親友交換取引制度)』と名付けました」
木「『親友』は和英をひくとa close friend; one's best friend; a bosom; abuddy.なんて出てますが、どうも翻訳できない言葉みたいなんですよね」
日「日本固有の概念なのかなあ」
木「おそらくそうでしょう。英連邦諸国にはない概念なんですよ。そういえば、アジアのひととだったら、親友になれそうな気がするもんなあ」
日「親友に国籍や肌の色は関係ないんじゃないかなあ」
木「そりゃそうですよ」
日「私たちだって、日本人同士だからって親友になったわけじゃないでしょう」
木「そんなことわかってますよ、ただちょっとおもったことをいっただけです」
日「ならいいけど」
木「じゃあいいじゃないですか」
日「わかりました」
木「ところで、私たちは一緒に音楽をやってるじゃないですか。それがこのS.D.ですよね。そして私たちは、正しい責任を持って芸術活動を展開することを目指す、市民連帯型の新しいタイプの運動組織であろうとしてきました。それで、ずいぶん試行錯誤もしました。でも、結果として私たちはノブレス・オブリージユ型、つまり高貴なるものの義務という枠組みでしか物事をかんがえることができていなかったといま振り返るとわかるんです。すなわち、私たちが率先して正しい音楽を演奏すれば、私たちがそこに属している社会もまた、ただしく変わるのだというふうにかんがえていたのです」
日「96年の秋から2年間ほど毎月演奏してましたけど、あのころはずいぶんと素朴だったなあ。たとえば、牛と豆のどちらを食べるべきか、というようなことを、演奏によって提示できるとおもっていたんだからなあ。それで木下さんが牛で、私が豆をやりました」
木「巻上公一が永六輔のラジオで出演してホーミーをやったりするのはよくない、などといって単に牛をやるだけじゃなくて牛のホーミーにした。日置さんは豆ホーミー。豆は音が出ないからコンタクト・マイクを使って豆から大音量のハウリング音を出したり。ずいぶん無理してたなあ」
日「音楽によって社会が変わるとかんがえていたからそんなふうになってしまったんです。じつは、親友通貨を始めてみると、音楽が変わると社会が変わるのではなくて、社会というか、私たちを取り巻く環境を変化させると私たちの音楽が変わるのだということがわかってきたんです」
木「そうなんですよね。音楽を進歩させるためには、理想の社会像といったものが音楽のなかに抽象的に現われるようにするよりも、自分の暮らしを変化させていくほうがより効果的だということなんですね。しかし経済活動がこれほどまでに自分たちの音楽を規定しているとは正直おどろきでした」
日「今日は私たちが親友通貨を始める以前に行なった演奏の録音があるからちょっと聴いてみましょうか」
木「はい」
~『ホ-ミ-で決着する正しい蛋白源・牛 vs 大豆』再生~
木「ずいぶん無理してたなあ」
日「ですね」
木「野蛮ですよ。モーモー言って。日置さんも演奏中に生の大豆を嘔吐してたでしょう。汚いですよ」
日「うん。たしかに非道いね」
木「音楽で社会を変えようとしているからああなったんです」
日「そうなんだよね。でも親友通貨を始めてからはね」
木「そうですね。反対に、音楽のほうが変わってきたんです。これはおどろきでした。音楽で社会を変えるのではなく、社会が変わると音楽が変わるということは」
日「そうです、それも、無理なく、自然にかわるんですよね」
木「日置さん、親友通貨を始めてからの演奏の録音も聴いてもらわないと、これだけだと私たちは野蛮人の集まりだとおもわれてしまいます(笑)」
日「もちろん、かけます、かけます(笑)、いま、かけます(笑)」
~『親友音楽』再生
木「無理がないですね」
日「素直なこころから出る、癒しの音です」
木「古代中国では、皇帝が変わると音律も権力によって変えられたといいますけど、これはそういう変化ともちがいます」
日「全然ちがいますよ」
木「だからそういってるじゃないですか」
日「全然ちがいます」
木「親友通貨を始めただけなのに」
日「これってすごいことなんだけど、私たちのほかにはこういう例を寡聞にして知らないですね」
木「親友音楽が広く流行するということには論理的な矛盾があってそれをイメージしにくいじゃないですか。だって、みんなが親友になる、というわけにはいかないでしょう」
日「友達というなら多くのひとたちと友達にはなれます。でも親友はやっぱりひとりかな」
木「日本語では友達が親友になると達(たち)という字が取れて単数になる。これが米英にはわからない。ニッポンの親友というものがわからない」
日「親友という概念は翻訳不可能ですね」
木「日本固有の概念である『親友』は翻訳不可能でありまた、流通不可能です。『親友』は単数だから、『親友』は流通しない。親友音楽もまた、単数であるゆえ、流通しない。さきほどの私たちの親友音楽を聴いて、自分もやってみうとおもうひとがいるかもしれませんが、無駄です」
日「親友音楽は、流通することによって社会を変えようとする素朴な音楽とは、決定的にちがっています。親友音楽は流通せず、反復される。流通することは資本主義的であり、反復することは、共産主義的です。だから、親友同士は、かならず左になるのです。私たちは、親友であることをこれからも反復します」
木「親友とは、単に、仲のよいふたりのことをいうのではありません。私たちは親友です、というのではじゅうぶんではないのです。親友とは『この私たち』、なにものにもかえがたい、単数の『この』私たちのことを指すことばなのです」