「記号と事件」
歴史的記念物としての記号、地理的突発物としての事件をめぐる電子討論。グローバリゼーションの波打ち寄せる現在であるがゆえ遡及的に浮上してきたというそれら記号と事件を検証する考古学。



1.

演奏家は、それはこれが戦争であるとしてですが、この戦時下において演奏することにおいては、その消極性が際立てば際立つほどより戦争反対、つまり革新的な演奏家であるというふうに自らを表現/提示することができるということがいえてしまうとするとどうでしょうか。もし仮にそうだとすれば、今夜の我々の演奏もまた、その消極性を纏うことになるでしょう。ということは、だいぶ急いで言ってしまいますがすなわち、それはミニマリズム、つまりそれはいまだアメリカ実験音楽の嫡子でありつづけているわけなんですけれども、それになるのです。しかしどうしてアメリカ批判がアメリカ実験音楽になってしまうのでしょうか。あるいはこうでしょうか。アメリカ批判がどうしてもアメリカ実験音楽になってしまうことが論理的にいって避けられないことであるなら、そのための革命的な手法があるのか、ないのか。あるとしたら、その手法とはどのようなものであるのか。それは、実演可能なのか。可能だとしたら、なぜやらないのか。やるのか。だから、この戦時下において演奏するために必要な最初の問いはだいたいこうなるとおもわれます。しかしそのまえに、アメリカ批判をアメリカ実験音楽にしてしまう「イラク戦争」とはなんなのか、ということをかんがえなければならないでしょう。結論を言ってしまえば、「イラク戦争」の最大の同一性は、「警察力と軍事力の混同」です。国際貿易センタービルに対するテロ攻撃の主犯であるとされるウサマあるいは/オサマ・ビンラディンを捕まえるために、警察ではなく英米による軍隊が動員されて戦争が行われたわけです。しかしこのことだけをいうならとくに驚くに値するわけではありません。アメリカでは西部開拓時代当初から警察力であるはずの保安官が軍事力としての原住民虐殺/占領を行ってきたからです。
そのようなことはおもに西部劇を通じてイメージ豊かに物語として流通しているのであり、アメリカ人には納得済みなことなわけです。日本においてはこのことにもっと違和感がかんじられてもいいはずです。ところがそういうわけでもないというのはなぜなのでしょうか。日本でも映画発明以来現在にいたるまで持続してアメリカ製やときにはイタリア製の西部劇が全国津々浦々上映されつづけているからでしょうか。いえ、そうではないでしょう。じつは検証可能なものとしてのその先駆けが八十年代の日本にあったのです。それはテレビ朝日系列で放映された「西部警察」のなかでの出来事です。渡哲也扮する大門部長刑事がアメリカのヘリ部隊「アパッチ」さながらヘリコプターに乗りつけ、上空から追跡中の犯人グループがその拠点としている大型バスを目撃し、それを部下に伝える場面があるのですが、そこでの大門部長刑事は、本来逮捕=拘留ののち司法の場に送検、という手続きが取られるべき容疑者を指して、「敵」という言葉を使用しているのです。これが警察力と軍事力の混同でなくてなんでしょう。また我々は、「西部警察」という刑事ドラマの題名が「西部劇」に由来していることを疑いませんし、だから大門部長刑事は犯人威嚇のための拳銃ではなく、殺傷能力の高いライフルを使用するわけですが、それらもまた、戦後の日本が、警察力と軍事力の混同をその最大の特徴にしたアメリカ型資本主義に無意識的に追随してきたことの象徴であるといっていいんじゃないかとおもいます。では、「西部警察」のその場面の音声をお聴きください。(「西部警察」音声再生される)
 



2.

イラク戦争では我々日本人の多くが大きな不安感に苛まれましたけれども、たぶん次の大きな不安は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)からやってくると誰もがかんじています。アメリカ軍が38度線から大きく後退して韓国軍に前線を任せたという最新情報があって、これは国境にちかい北朝鮮の核開発施設を爆撃する体制であるというのです。またアメリカによって不安が引き起こされる、といえばはたして言い過ぎでしょうか。
ところで九三年五月に発射実験が行われた弾道ミサイル「ノドン1号」が当初「労働1号」と発表されたことを御記憶のかたも多いのではないでしょうか。これはのちになって、ミサイルの名称は米情報当局による撮影場所の地名を付与するのが一般的だということが浸透して発射場所の知名である「盧洞」に訂正されましたが、この勘違いはいったいなんだったのでしょう。北朝鮮が共産主義国家だからミサイルに「労働」という名がついてもおかしくないんだと、どうして誰もがおもいこんだのでしょうか。バブル崩壊後の日本人が、バブル景気とは、時間的あるいは空間的差異によってのみ利鞘(りざや)を得ようという、労働なしの経済活動をであったから、後悔と反省の気持ちをもって「労働」が五月晴れの日本海上空を美しく駆け巡る情景を甘んじて受け入れようとしたとでもいうのでしょうか。
しかしそもそもこのミサイルの名前は米情報当局が勝手に名付けたものであるわけです。それが「労働」だと信じられるためにはいくつもの事実が重ならなければそうなりはしないでしょう。まず、アメリカではアルファベットが使われていることがあげられます。簡単にいうと、それは音声中心主義です。音声中心主義とはなにかというと、「私が私の話す言葉を聴く」ということが疑われることのない場であるということです。つまり「ノドン」といったらそれは「ノドン」なのであり、ほかのものではない。漢字仮名混じりで言葉が使われる日本においては、事情がちがいます。「ノドン」とはどの「ノドン」だ、ということになるのです。だれかが「ノドン」は「労働」だ、といえば、もう「ノドン」は「ノドン」だろう、などというひとはいません。「ああ、労働のノドンか」とだれもがおもってしまいます。しかし、無意識を「象形文字」として捉え、無意識=象形文字を常に露出させている日本語のような文字の使い方をする者には精神分析は不要だとかんがえていたいたフロイトが、音声中心主義であるアルファベットに都合良く意味付けをおこなっている集団をヒステリーと診断しないわけはないとおもうのですが、どうでしょうか。それとも、これもまた、十年後しでおこなわれるともいわれる、アメリカ当局による情報操作の一環なのでしょうか。



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