イスラームと中東情報はアラビアと現地語ができる人から得よう!原語無視のクルアーン解釈は粗デマ!『イスラム飲酒紀行』『イスラーム思想を読みとく』『クルアーン入門』
Posted on 2018.09.18 Tue 19:53:53 edit
英語は不正確。
前記事にシーア兄貴のツイート追加。
シーア派神学をイラン現地で学んでいる人なので大変な価値があるし
本人が言う通り銭を取れるレベル。
酒などについて誤解している人が多そうなのでとまとさんツイートを載せておく。
例えば豚肉。
自販機で売ってるソーセージとか
あるだろ?魚類の。
アレの成分表をチェックして豚の脂
を使用してないか確認する程の
徹底ぶりだぞ?
wikiの言う「緩〜いトルコ人」
の話だぜ?w
#FateGO
#FGO
本来は「酒は人の理性を狂わせるから」
というのが理由ですが、アレは
神の言葉で書かれた本という前提
なので、そこに人間の都合が入り込む
余地が無いんですよ。
「書いてある以上どうしようもない」
ってのが理解出来てない。
要は司法試験を首席で合格した
東大卒の裁判官が法解釈するのとは
次元の違う問題なんですよ。
実際はイスラームの法学者達が
色々解釈をしてはいますけどw
少なくとも何の理由も無く
キャラが酒を簡単に飲むのはマズイ。
文化の違いがある以上、異教徒の
日本人がイスラームについて無知
なのは仕方ないと思いますし、
アラブ人もそこは責めてこないと
思うんですよ。
ただ、きのこみたいなベテランの
プロ作家が入門本に書かれてある
初歩的な知識のリサーチを怠って
いたと言うのは、客観的に見ても
問題ありだと思いますね。
すんごい難しい事を勉強しろ!
ってわけじゃないですから。
ぐだトマト
@pteras14
2016年8月6日
なんか東方見聞録にアサシン教団が
飲酒してたと書かれてる?
(多分、間違いだと思いますが)
と指摘する人達もいますが、
そもそも人間であるマルコポーロと
神であるアッラーを比較する事自体が
おかしいと気付かなきゃいけない。
#FateGO
#FGO
イスラーム教徒に取ってマルコポーロの
著作なんざどうだっていい。
人間の書いた戯言がなぜ神の言葉を
上回るんだ?ってのが信者のスタンス
でしょう。
返信先: @pteras14さん
面白い事に円卓騎士のしまじロット
は一滴も呑んでない。
戦略会議中だとか言って。
きのこの中では西欧騎士様は超真面目
人間で美化されてるんだろうなー
ヨーロッパでは中世騎士なんざ野蛮で
低脳だったって事が常識なんだけどね。
#FGO
#FateGO
返信先: @pteras14さん
だから、ムハンマドの時代に無かった
酒はカウントされるのか?とか、
日本酒はアラブに無かったからおkって
事にはならないの!
「理性」を失わせる物はジュースでも
駄目なの!
#FateGO
#FGO
これは「神の言葉でも鵜呑みにしない
で自分の頭でちゃんと理解する事が
大切」って説いてる所がミソ。
じゃあ、なんで自爆テロとか起こす
んだよ?ってのは尤もな話で、
実際に実践出来てるムスリムは少数
って事。
理想と現実のギャップって奴さ。
簡単には実現出来ないから「神の法」
であって、「人の限界」ってわけ。
でも努力は続けなさいよ、って事。
一夫多妻制も続きがあって、
「一夫多妻おk。但し全ての妻を平等
に扱う事。それが出来なければ一人で
我慢しとけ」
って書いてある。
これは、絶対に実践不可能だと言われ
てる。全ての嫁を平等に扱うなんて
出来ないから。
でも、これも現実は一夫多妻の家庭も
あるし、徹底して実践するのは困難
だわな。これも「人の限界」ってヤツ。
コーランでは侵略して来た異教徒を
殺しても良いと書かれてる。
但し条件付きなんだ。
まず、相手がやった以上の報復を
してはならない事。
相手を許す事が出来ればこれが最上の徳。そして、
戦闘意思の無い者を攻撃しては
ならない。
これも実際に実践出来てるかと言うと
出来てないわけ。
これも「人の限界」ってヤツ。
つまり「人間は愚か者」ってわけさ。
だから死後、地獄に落とされる奴が
絶えないわけなのさ。
ぐだトマト
@pteras14
2016年8月13日
イスラームもそうだけど、儒教も
四書五経やコーランの「文言」だけ
勉強しても意味無いんだよ‼︎
なぜ?その戒律が重要なのか?
なぜ?孔子はこの徳目を重視したのか?
その背景が重要なんだ。
適当に「親父に孝行しとく?w」って
選んだわけじゃない。
#FGO
#FateGO
後、孔子の引用の「親が三度諫言しても
聞き入れない場合は泣いて従え!」
の文言も解説足らずで間違ってるから
注意な!
これは中国というか、孔子の時代
(つまり春秋時代)の"孝"が何を指してた
のか考えないとダメだ!
この"孝"ってのは"父親"の事。
2件の返信 19件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
@pteras14
2016年8月13日
なぜ"親父"なのか?
ここが重要なんだよ‼︎
つまり"母親"と"父親"の違いは
何か?って事。
2016年8月13日
儒教の世界、というより昔の中国では
"父親"ってのは生理的に"赤の他人"
と捉えれていた。何故か?
赤ちゃんはお母さんのお腹から
出てくるだろ?で、本能的にも
"母親"に対する愛着ってのは勝手に
発生する"自然現象"だと捉えられて
いた。
1件の返信 18件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
@pt
何でか?というと昔の中国人は
「他の動物を良く観察した」んだよ。
で、人間以外の動物の世界でも
"父親"の地位が低かった。
狼は例外的だけど猫とか熊とか
子猫や子熊は母親と暮らすけど、
父親は生殖行為だけしてお別れだろ?
1件の返信 18件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
@pteras14
2016年8月13日
そこで昔の中国人は"赤の他人"で
ある"父親"を大事にする子供に
なればきっと"心の優しい大人"に
育つはずだ!と、考えたの!
これが"孝"のなぜ"父親"を大切に
しないといけないのかの倫理的意義
なんだよ‼︎
1件の返信 21件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
@pteras14
その背景には孔子の生きていた
春秋時代という戦争ばかりやって
人の命の価値がゴミみたいな
時代だったから、ともかく「心の
優しい思いやりのある人間」への
憧れと拘りが強かったのではないかと
言われている。
ぐだトマト
@pteras14
2016年8月29日
イスラームはシャリーアがあって
ユダヤはタルムードがあって
信者が何をすべきか分かるんだけど、
キリスト教って新訳だけじゃ何したら
良いのかよく分からん。
マタイの山上の垂訓ぐらいじゃないか?
律法っぽいの?
後はパリサイ派の悪口とパウロの
自慢話しか書いてないよな?
1件の返信 5件のリツイート 3 いいね
ぐだトマト
@pteras14
この教会法典って奴が律法に相当
するのかね?
http://d.hatena.ne.jp/ronnor/touch/20110224/1298507486 …
その割には絶版だし、カトリック系の
専門書店にも置いてないんだが……
ぐだトマト
@pteras14
2016年9月3日
何か、キリスト教の律法って何?
のツイートが結構RTされるんだけど、
何でそうツイートしたかって言うと
一番ベースの律法が憲法の役割を
してるから。(イスラームの場合は
厳密に言うとコーランね)
だから、全部元の律法が立法の際の
根拠になってるわけ。
神が作成した前提になって
返信先: @pteras14さん
前提になってるから、不可侵なんだ。
ところが日本もヨーロッパもそういう
前提がないから、憲法を改正出来たり
基本的人権や刑法(慣習法の禁止とか)
を商法や民法で相殺したりとおかしな
事になってる。
「法の下に全国民が平等」とか
嘘っぱちじゃん。
1件の返信 3件のリツイート 4 いいね
ぐだトマト
@pteras14
2016年9月3日
だから、キリスト教の神様は
そういう法律をなんで明確に
示さなかったの?って話。
それがマタイなのか、ユダヤ教の
タルムードの事を言っているのか
新約では不明だから、ヨーロッパ諸国
はそれぞれ妙竹林な憲法をそれぞれ
制定しちゃってる。
0件の返信 3件のリツイート 2 いいね
ぐだトマト
@pteras14
2016年9月2日
大学時代の時、たまたまイスラーム法
の講義も受講出来る変な大学だったん
だけどw(現代じゃ結構普通で東大の
院でも教えてるみたいだけど)、
講義中にお菓子を食ってる学生がいた
んだ。当然、教授に見つかって教授が
激怒したんだ。
なんで怒ったかと言うと、
「公共の場でお菓子を食べた事」
に激怒したんじゃないんだよ。
「全員分のお菓子を用意しなかった事」
が責められたんだ。
その教授が言うには、
お菓子を講義中に食べるのはOK
なんだそうだ。
イスラーム的に間違ってるのは
「お菓子を独り占めした事」なんだ。
「自分だけ」お菓子を食べて「他人」
はお菓子を食べちゃいけないのが
ダメなんだ。
全員がお菓子を食べればそれが一番
「公正」だっていうんだ
ぐだトマト
@pteras14
2017年2月26日
大学時代にたまたまイスラーム法の
講義を受けた(中東方面とのビジネスを
考慮した経営学的な観点から)から、
色々型月のイスラーム解釈にツッコミ
を入れただけで、別にぐだトマトさん
はイスラームが絶対だとは思ってないよ。
ぐだトマト
@pteras14
2017年5月13日
中田考の集英社新書のイスラーム本
立ち読みで全部読んだ。
分かりやすいね。
2017年5月14日
イスラームの本読んでて感じるのは、
あの聖書って書物は西洋人の観念で
読んじゃダメだって事かな。
やっぱり中東人の感覚を持って読まない
とダメだな。
2017年5月14日
ただ、イスラームの専門用語見てる
限りアレ絶対にバラモン教の影響
入ってる。
どーも、大洪水の時代かどうかは
分からないけど、現代のイラン〜インド
の間でとてつもない邪悪が誕生した事
だけは分かる。
それが型月の教義上のアンリ・マンユって
奴なのか分からないけども。
ぐだトマト
@pteras14
2017年7月7日
イスラームは取り敢えず中田考氏の
入門本から入ってけば良いと思うよ。
原語無視のクルアーン解釈は粗デマ!
ぐだトマト
@pteras14
2017年8月15日
紅林せんせー、今度はイスラーム
にハマってるのか……
イスラ"ー"ムと真ん中を伸ばして
ないし"クルアーン"ともまだ呼んで
ないから、初めたばっかかな……
まぁ、イスラーム関係は和本自体が
少ないから社会学者が書いたハズレ本
を引かなきゃ大丈夫だろう。
ぐだトマト
@pteras14
2017年9月10日
イスラーム圏でもキャバクラとか
行きたがるの本当に勘弁してほしい……
そういう店自体が無いから、結局
オロシャン・マーフィー・フィアー
さんを頼らざるを得なくなる……
ぐだトマト
@pteras14
2017年8月15日
神を沢山作ってる時点でやはり
イスラーム神学の理解は厳しいな……
人も"漫神"とかいうのになっちゃって
るし。アッラーから見たらそれは
ただの"慢心"だよ。
ぐだトマト
@pteras14
2017年10月22日
イスラームってパズル要素が高くて
ムズイのよね……
例えば「その赤ちゃんが将来悪人に
なると確定してるならば、その
赤ちゃんを殺すべし!」という文言
があるのだけど、これだけ読んで
「ああ、赤ん坊を殺して良いんだ」
って早とちりするのは落第ね!
問題はその赤ちゃんが悪人に育つ
のをどう判断するのか?という所で
親が悪人だったら、その子供も必ず
悪人になるのか?とか諸々考慮すると
「誰も分かんねーよ!」=「赤ん坊を殺してはならない」になる。
だから神にしか分からないし、
その神も裁きを下すのはそいつが死んでからだ。
ぐだトマト
@pteras14
2017年12月12日
いや、外資系だからだよ。
エ口とか口リに厳しい。
文化の違いって奴だと思う。
イスラーム圏に出張で行って、
それでもキャバクラを必死で探すのが
日本文化。
ぐだトマト
@pteras14
2017年10月22日
つっても日本人の出張者って、
イスラーム圏でも酒と女を求めるん
だよなぁ……
だから、あっちの駐在員は大変なん
だよ、そういうの手配しないといけ
なくて。では?どうするかと言うと、
ブラック・ラグーンのバラライカ姐
さんに頼む。
2017年10月22日
後、コーランに書いてあるけど、
外国とかでやむを得ない事情の場合
イスラームの規則を不本意で破っても
ペナルティーにならないよ。
理由は「アッラーは誠に慈悲深い」
かららしい。
ぐだトマト
@pteras14
2017年7月8日
イスラームに有名な格言があってね。
・相手が間違ってる場合は止めなさい
・それが出来ないなら言葉で説得し
なさい
・それもダメなら少なくとも自分の
の心の中では間違ってると思い
なさい
悪党が絶大な力を持ってても
決して長い物に巻かれるなよって戒め。
ぐだトマト
@pteras14
2017年7月6日
返信先: @pteras14さん、@gakky88NSRさん
一つだけ私の経験談で恐縮で
すが、実例を挙げさせて頂き
ますと、日本企業の出張者は
風◯が大好きなのですが…
彼等を接待するのにそういう
お店やお酒を調達、リサーチする
必要がありますがイスラームの
影響が比較的緩いトルコでも
至難の技です。
つまりロシアマフィ◯を頼りますw
ぐだトマト
@pteras14
2017年12月30日
メガネや微軟社員の方が明らかに
ルソー教に洗脳された産物なのにね。
ルソー教は基本キリスト教文化圏出身
のルソーさんが始めた宗教だから、
コダヤやイスラームと違って原罪は
イエスが磔にされた時点でチャラに
なってる前提。
だから自然の野の獣に戻っても悪に
ならないって考え方。
ぐだトマト
@pteras14
1月29日
しかし、霊肉二元論前提で皆んな
話を進めていて実に興味深い。
厳密に言うとキリスト教とイスラーム
教は三元論、
道教は三元+先天と後天があるから五つで、
バラモン教も基本三元だけど、人間の話で行くと二元論
に限りなく近い。
ぐだトマト
@pteras14
2月8日
一応ね、イスラーム神学では
何で優先席を年寄りに譲らないと
いけないのか?という論争には
「紙に書いて貼ってあるから」という
結論が出ている。
別にこれが正しいとか間違ってるって
訳じゃなくて、飽くまでイスラーム
だとこう考える人も居るみたいよ
ぐらいのご参考情報。
ぐだトマト
@pteras14
2月8日
逆に言うとイスラームでは一々細かく
道徳とは何なのか?とシツコク
書かれてるって事だね。
挨拶のやり方とか、TVを観てて
ムカついたらどういう態度を取るのか
とか。
これが良い悪いかは人に拠るけど、
向こうの世界ではこれが採用されてる
よって話。
ははっ!w
フォロワーさんが一人減った
けどひょっとしてイスラーム系の
テ口工作員だと思われちゃった?
まぁ、ぐだトマトさんのイスラーム法
の解釈はシリア系っちゃシリア系
かなぁ。教えてくれた人がシリアに
住んでた人だったので。
ぐだトマトさん自体はムスリム
じゃないよ。
ぐだトマト
@pteras14
2017年8月31日
究極的には中国人の言う
命(宿命)>
運>
風水(環境や場所)>
積隠徳(他人に見せないでやるボランティア)>
学問(所謂努力の事)
>……が正解だと思う。
ぐだトマト
@pteras14
2017年8月25日
古代中国で言う絶対に覆せない
「命(宿命)」を力技でひっくり返す
物語なんて唆るだろう?
例え敗れ去って果てたとしても。
どうせ人間いずれ最期は皆んな灰になるんだ。
"結果"が同じで最初から
定められてるなら、結局は"過程"が
一番重要だったってだけの話だ。
ぐだトマト
@pteras14
2017年8月18日
日本の年齢差別って本っ当嫌らしい
よね。漫画家に限らずほぼ全部の
職業にあるのだけど。
年齢は中国で言う「命(宿命)」の
部分に入るからね。いくら努力しても
人間、戸籍上若返る事は出来ない
からね。
Desty
@exa_desty
2017年8月18日
返信先: @pteras14さん
自分は年齢差別は反吐が出るぐらいに嫌いですね
なぜ、こんなに年齢差別が蔓延してるんでしょう?
明らかに苦しみが増える原因なのに辞めようとしないのが謎です。
ぐだトマト
@pteras14
2016年10月23日
中国の占いってその人物が生まれた
時間と場所を重視するのよね。
要するにその人の一生の本当の始まり
の地点だけど、それによって何をやって
も絶対変えれない運命、「宿命」が
存在すると説いてるわけだけど、
それを数学的に西洋人が小難しく
説明した様な感じだな。
ぐだトマト
@pteras14
4月13日
努力で到達出来ない場所を認識した
時、人間にやれる事って基本二つしか
なくて、
⑴結局、努力を続ける
⑵別の道を探す
現代社会だと⑵の事を“適性探し”
と呼ぶ。
ぐだトマトさんは⑴の方が個人的には
好き。理由はコズミックLVで
観たらHomo sapiens sapiens同士
の差なんて誤差の範囲だから。
それともう一つ、生まれた時点で
定められた自分の力ではどうにも
ならない要因の事を、前もツイート
したけど、中国では「宿命」と呼ぶ。
「運命」は中国では後天的に変更が効く要素の事。
「宿命」ってのは国籍とか、
人種とか身体障害の有無、
親が誰か、性別
とかそうゆうの。これは人間の力では
絶対覆らないと中国では言われてる。
ヘラクレスの神話とかもこんなノリ
だよね。
ぐだトマトさんはこの「宿命論」
が嫌いで、じゃあ神様がアンタ
ダメ人間だから自殺しろ!って
言ったら、お前さん大人しくてるてる
坊主するのかぁ?って話。
まぁ、これはどちらかと言うとインド、
中国等のアジア圏特有の価値観なん
だけどね<宿命論
輪廻転生で人生リセット出来る世界観
だから。
哲学理論はインド以東のアジア圏の
方が高度で洗練されてるけど、
宿命論に関してはイスラーム神学の
終末論の考え方の方が好きだ。
イスラームでは「神でさえその人の
一生が終わるまで何のジャッジも
しない」という価値観。
イスラームの方が希望に溢れてる
でしょ?
これは別の捉え方をすれば「貴方の
行動次第で如何様にも将来は変わる
から、神様はちゃんと見てるから、
貴方は努力を続けるべきなんだよ」
と同義。
歴史的にもインドでイスラームに
後期仏教(密教)&ヒンズー教が駆逐
された
(現代ではヒンズー教の方は
復活したけど。イギリス人に都合
いいので)
のにはこういった背景も
あると思うよ?
軍事的な側面だけではなくてね。
密教の方が正しければそりゃあ
お前さん、密教の方がイスラーム
を駆逐したさ。
じゃあ、何でイスラームが日本では
イマイチ普及しなかったかと言うと、
イスラームがやって来てたら天皇と
藤原ファミリー達が全員てるてる坊主
のロールプレイをしないといけないから
都合が悪かったんだろう。
ぐだトマト
@pteras14
2017年5月13日
中田氏が件の新書で大高忍のマギと
ハルヒに触れている箇所があるんだけど、
マギは世界観がインド/ペルシャ型だって
言ってたよ。
ぐだトマト
@pteras14
2017年5月14日
しかし、中田氏が言う様に「人間の
移動を制限しない」事が中東文化だと
言うならば、ますます新約聖書の
「ヨハネの黙示録」の異質さが際立つ。
あれはハッキリとネオエルサレムに
入れる奴と壁の外で歯を食い縛ってる
人間とを明確に隔ててるからね。
中田氏の「神」の定義が中々面白くて、
「神=人間の意志に対して何らかの
強制力を強いる物、命令を下す物」
で、現代の欧米型先進国は「神=金、
国家、領土、企業」。
つまり、日本語の「法人」は本来
「法神」という綴りの方が正確。
「企業の偶像神化」w
こいつぁ良く考えたもんだぜ!
傑作だ!
個人的にノーベルぐだトマト文学賞を
授与したいぐらいw
ぐだトマト
@pteras14
7月10日
ま、元凶はイスラーム先生の言う通り、
組織や法人に人間と同じ人格と人権を
与えたが為に、本物の人間の価値が
チープな存在に成り下がったんだな。
法人はアダムみたいな形状してない
からね。いずれ人類の方を迫害するさ。
ぐだトマト
@pteras14
2017年10月22日
この前、中田氏が紹介してた松山氏の新書が
“飲酒したとしてもムスリムである事は変わらない”というスタンスだったよ。
飲酒という禁忌の“儀礼的行為”ではなくその“意義”が重要。
ぐだトマト
@pteras14
2月1日
昔、ハンムラビ法典というのがあってね。
これが所謂「目には目を、歯には歯を」
の語源だと言われている。コダヤ教の
律法も基本はこれと同じ思想という風
に言われている。
で、キリスト教の隣人愛(全て許す)→
イスラーム法はハンムラビの原則は
残すけど、全部許せたら理想、
へと進化。
と言われている。
ハンムラビ法典はある罪に対して
それより同等以下の刑罰しか課せられ
ないとのブレーキの機能も持っていた
と考えられている。
だからイスラーム教って全く関係
ないって。
実際に現地に行って向こうのアラブ系
移民のクソガキ共と話してみろよ。
ただのチンピラだ。半グレとかと
変わらん。
『イスラム飲酒紀行』高野秀行/講談社文庫
題名草不可避w
大砂漠回避ww
本書最大の教訓
イスラーム圏で酒を飲もうとするな!
秘密警察に捕まってもおかしくないぞ!
・カタール ドーハ
(この章は本書のための書き下ろし。
本書(文庫版ではないほう)の発売年は2011年6月。)
イスラムは公共という概念をひじょうに大切にする。
いったん家を出ると
男たちはどんな場合でも女性に気を配らなければならない。
イエメンでは乗り合いバスが混んでくると、
目的地でもなく男子は車を降りて、
女性のために場所を空けていた。
ドバイでも、
エレベータに女性が乗ってくると
それまで乗っていた男性が全員降りなければならないそうだ。
買い物も基本的に男の仕事。
バンコクでは
アラブ人の若い青年が五人とか八人とか女性を引き連れ
ショッピングモールを汗だくで回っているのをよく見かける。
女性だけでは旅行も買い物もできないので
親戚の若い男子が添乗員役で借り出されているのだ。
公共の場ではそれがルールなのだ。
注文をつけまくる女子だちのリクエストを全部聞き、
サイズや色の具合から値段交渉まで汗だくになってやっている男の子の姿を見ると、
イスラムでは女性の地位が低いという説はウソとしか思えなくなる。
だから、ムスリムの男性は女性がいなくなると露骨にほっとする。
以前、焼き肉を食べるときに男女別々に分かれたのだが
これじゃ楽しくないと思うのは異教徒の証拠。
先程まで背筋を伸ばしてベンチに座っていた人たちが
男だけになると
突然寝そべって
ギャハギャハはしゃぎながら飯を食い始めた。
まさに男子校のノリだ、
女性は女性で男がいなくなるとくつろぐという。
(他の本でもイスラーム圏の日常生活の記述を見るに
女性が強い。
私的空間では女性が強く
公共空間では男性が強い
ように社会設計されているのでは?)
・パキスタン
(初出は2008年)
一般にパキスタンでは飲酒は禁じられているが、
闇で売っているところもあるし、
許可証を得れば合法的に飲めるという。
「医者の診断書があれば飲めるんだ。
『この病気の治療にはアルコールが必要だ』ってね。
医者に金を払ってそれを出してもらう人もいる」
日本では医者が患者に飲酒を禁じる
「ドクターストップ」がふつうだが、
こちらでは医者が患者に飲酒を勧める
「ドクターゴー」とでも呼ぶべきものがあるらしい。
・イラン
(初出は2009年)
多くのイスラム諸国では
高級ホテルやレストランで酒が入手可なのだが
イランの法律では完璧に禁止だ。
日本の麻薬と同じ扱いなのだ。
出発前、
日本人のイラン研究者Aさんに話を訊きに行ったとき
「けっこう、みんな隠れて飲んでいるみたい」
と言っていた。
在日イラン人情報でも
「密造ドブロクがある」とか
「トルコからビールを密輸している」
などというのがあった。
研究者Aさんにテヘラン駐在員の人を紹介してもらい、
東京から電話したときである。
彼はこういったのだ。
「酒はあります。
この電話は盗聴されているから詳しくは言えませんが……」
Aさんによれば
外国人の電話は基本的に当局から盗聴されているという。
盗聴だけでない。
街角でカメラを構えて写真を撮っていたら、
私服警官の尾行がつく可能性がある。
スパイもあちこちにいる。
外国人は常に監視下にあると考えたほうがいい。
(イランに限らず、どこの国も盗聴もスパイもやっているのでは?)
イランは昔から酒がふつうに飲まれてきたのだ。
イランを代表する詩人のひとり、
オマル・ハイヤームは中国の李白と並べるほどの
酒仙で
「酒はよきかな」なんて詩を山のように詠んでいる。
そしてイランで彼を否定する人は当局を含めて誰もいない。
会話は簡単ではない。
彼らは英語をまったく話さず、
著者はペルシア語の単語は何ひとつ知らない。
『旅の指さし会話帳 イラン』を取り出して、
酒(マシュルーブ)
という言葉を黙って指さした。
人に聞かれたくない場合、
言葉を発せずに済むというのは素晴らしい利点だ。
酒の項目のとなりには
酔っ払い
という単語もこの本にある。
どうしてイラン篇なのに
酔っ払い
なんて単語が載っているのか不思議だったが
現実に使えるわけである。
酒の密売人たちはスーフィー(ダルヴィーシュ)だった。
ホセインのタクシーに四人で寄り込んだ。
森がいつものように助手席に座り、
バス車内の女性たちにカメラを向けるのを見て、
ホセインとアリーが口々に「危ない」と言った。
たしかに今ここで警察沙汰になったら、
全員が一巻の終わりだ。
彼らは
「イスラムなんかダメだ。
ボクらは信じてない!
ホメイニからイランはダメになった」
とまで言う。
アリーは電子工学を専攻する現役の大学生。
半地下の部屋に招き入れられた。
この家は彼の同級生であるムスタファ君の家で、
ムスタファ君の部屋に一緒に暮らしている。
そしてそのムスタファ君の叔父がホセイン……
とまあそういう関係なのだった。
ちなみにアリーのお父さんはアメリカ留学経験のある元教師・現ビジネスマン、
ムスタファ君のお父さんは電子工学エンジニアだという。
(ホメイニの革命以降イランは反米。
おそらく彼ら密売人は親米)
棚の上に人物写真が二枚ある。
「これはヌルヴァッシュ師というロンドンに亡命中のスーフィー詩人、
もう一枚はゾロアシティ師という百年前のスーフィーの聖者だ」
とアリーは得意げに説明する。
(ゾロアスターを元ネタとしたとしか思えない名前)
イスラムでなくスーフィーという主張は意外だった。
(単に彼らがスンニ派支持なだけかも)
スーフィーは明らかにイスラムの一派。
だが革命以降、イラン政府当局が原理化し、
スーフィーを異端視するようになったと聞く。
当局が
スーフィーは本来のイスラムではないと弾圧するので
スーフィーの信者は
イスラムじゃなくてけっこうと開き直ってしまったらしい。
森
「パズの中で私服のポリスに捕まって、
写真を消されちゃったんです」
彼はイスラム圏でいつもやっているように
(というのもすごいが)
車内で隠し撮りをしていたら、
急に後ろから背の高い私服の男に肩を叩かれた。
そいつは有無を言わさずカメラを見せろと言う。
森が「ヤバイ」と直感し、
わざと窓の外の景色の画像などを見せたが、そいつは納得しない。
ひったくるようにカメラを取り上げ、
データを最初からチェックし、
女性が写っている画像を全て削除させられたのだという。
森はショックを受けつつも
メモリーカードの中に酒を飲んでる写真がなくてよかった
と安堵もしていた。
エスファハーンでのアリーの家で彼はたんまり
飲酒の写真を撮っていたが
ちょうどメモリーがいっぱいなり交換したあとだったそうだ。
たしかに飲酒の写真が見つかったらただでは済まなかっただろう。
私たちが逮捕されるのはもちろん、
アリーたちの身が危険だ。
外国人に酒を飲ませていたのだから。
やはりイランは怖い。
まったく予想がつかない。
バスに乗る前に酒を買わなかったことも幸いだった。
もし尾行されていたのならその場でアウトだし、
バスの中でも酒の微細な匂いが
あの敏感な秘密警察の男に嗅ぎつけられていたかもしれない。
どっちにしても酒の所持が露見したら、即逮捕、監獄行きだった。
(自業自得すぎるが、運はいいな。
森はしょっちゅう隠し撮りをしている。
犯罪の証拠を写す愚者を連れて行く著者。
法律違反行動を当然のごとくするなよ、
ってそれが目的。
日本だからこそ出せた本だな。
イスラーム圏なら「私の犯罪記録」だもんな。
本書の著者一行以外の人名はすべて偽名かもしれないな)
・トルコ
(初出は2011年3月)
初代大統領ケマル=アタテュルクがなぜ
隠れレストランに毎日通っていたか。
それは昼から酒を飲むのにあの店がいちばん好都合だったからじゃないのか。
彼が大酒飲みだったのは有名。
毎日ラクをボトル一本空けてたっていうし、
死因も肝硬変。
トルコにはいまだに
アタテュルク侮辱禁止法があるので
彼がこれほどのん兵衛だったことがあまり知られていない。
(メイソン≒プロテスタント系反カトリック組織
のメンバーになった理由の一つがアタテュルクが酒飲みだからだろうな。
トルコの欧米化担当結社員。
イスラームは徹底的にヤソ流世俗主義+政教分離を否定するので
日本ほど徹底的に思想侵略がされてないっぽいけど。
いっとくけどトルコで以上のことは言っちゃだめだよ、
侮辱にあたるだろうからね。
下戸だからムスリムになる人がいるのだろう)
・あとがき
なぜイスラム圏に酒があるのか。
1
現在はイスラム圏になっているが
いまだにイスラムがやってくる前の
土着の習慣を残している土地が少なからずある。
例えば
著者の、スーダン出身の友人によれば
今は厳格なイスラム国家のスーダンも
いま60代の人が若いころは
結婚式などのめでたい場では
酒を飲むのが当たり前どころか飲まないと怒られるほどだったという。
著者が体験した中では
チュニジアのオアシス・バーがそれだろう。
またシリアのドルーズ派も
イスラムの教えと土着の信仰が混交したものだと思う。
2
異教徒(少数民族)
国民が100%ムスリムである国は存在しない。
仏教徒も酒を飲んではいけないはずだが飲酒が大好き。
キリスト教ではミサにワインが欠かせない。
だからキリスト教徒は絶対にワインを造る。
飲酒現金を建前とするイランでも
アルメニア正教徒だけはワインの製造と飲酒を認められている。
(あれ、飲酒禁止のキリスト教宗派って儀式をどうやっているんだろう?)
イスラムでは酒と賭博と同様に
利子も禁止なので
金貸しや両替という金融業は
歴史的にユダヤ教徒やキリスト教徒の仕事だった。
キリスト教徒は地中海貿易の担い手でもあったから、
イスラム世界が科学や経済の先進地域であった中世も
立場が逆転したルネサンス以降でも
彼らが文明や新しい発明を発信地域に伝えるのに
大きな役割を果たしてきたのは間違いない。
イスラム圏は異教徒も込みで成立していたのではないか。
イスラム圏のムスリムは今でも異教徒に驚くほど寛容で気遣いがある。
(このイスラーム圏のキリスト教徒は正教率が高いだろう。
逆転はルネサンス以降ではなく産業革命以降では?)
ホメイニ師も酒の詩を書いている。
彼が酒飲みなのではない。
酒は
神との合一
信仰の至福
といった宗教的陶酔の象徴らしい。
ハイヤームの言う酒は酒ではないと解釈し自陣に取り込んでしまう、
恐るべし。
(
神田大介
?認証済みアカウント @kanda_daisuke
2016年2月29日
まめ情報。イランでは国会290議席のうち5議席が宗教少数派に与えられています。そのうち、アルメニア正教の南部選挙区で当選したアブラミアン氏、100%の得票で当選だそうです。ちなみに2290票。テヘラン選挙区の場合、およそ75万票が当選ラインです。
P・グラレム@pinkglalem
2013年12月21日
20世紀の初頭、クロウリーとグルジェフは薬物で人間の思考をコントロールする実験をしていた。
(因みに二人ともクリスチャン)カルトと麻薬は切っても切れない関係にある。
新しい麻薬が開発される度に、神秘思想ブームが起きてる。
アレはカルトを隠れ蓑にした実験なんです。#MKウルトラ
@lanekota @rideigan グルジェフは元々アルメニア正教でしょう?ペルシャの近くの...
イランにはアルメニア人がいっぱい住んでる。彼の弟子ウーペンスキーの著作の中にこの実験の模様が書かれています。別の弟子が(確か)アヘンを用いていたと証言しています。
クロウリーとグルジェフ、731部隊、特攻隊、ゾディアック事件、人民寺院...
関連性の無いよーに見えるこれらの事象や事柄は、実は時系列で縦の線で繋がる。その線は #MKウルトラ
P・グラレム
@pinkglalem
2012年9月23日
「人間は、成長しない。人間は何もする事が出来ない。人間に関するすべての事は、起こる。それらはまさに、生ずるのだ。ただ単に起こっている現象に過ぎない。」....G・I・グルジェフ(神秘思想家、ボルシェビキのスパイ)..
グルジェフの言葉を信じるなら、人間に自由意志は存在しないことになりますね。私達の生活に、希望など存在しないというワケですかね...?
グルジェフの言ってる事は、正しいでしょう。人間に自由意志は存在しません。でも、私達の社会を取り巻いている環境というのは、恣意的なモノではありません。一部の“自分を神だと妄想している”人達が、造り出したモノなのです。神が作り出したモノでも、自然の摂理でもありません。
)
『イスラーム思想を読みとく』松山洋平
・日本の読者の多くは豚肉を食べないことや礼拝とか
外面的な行為ばかりに関心を寄せる傾向がある。
どうも多くの人によって
イスラームは「戒律の宗教」、
心で信仰するのではなく、何かしらの宗教儀礼をおこなうことで何かを達成・獲得することができる、
「術の体系」のようなものと表現することもできるだろう。
それに対し、信条重視の宗教というのは、
宗教儀礼よりも、
心のなかで対照が真実・事実であることを信じることがより重要視させる、「信条の体系」のような宗教。
・イスラームの教義では、「ムスリムであること」はイスラームの行為規範を守ること、
イスラームのさまざまな宗教行為を実践することを意味するのではない。
人は、心のなかに「信仰」を持つことでムスリムとなる。
「イスラームでは飲酒が禁じられている」はまったく間違いではないが、
「酒を飲んだらムスリムではないはまったくの誤り。
イスラームの基本原則として、「罪を犯してもその人の信仰は消えない」という考え方がある。
ムスリムが酒を飲んだとしても、「そのムスリムが飲酒という罪を犯した」という事実があるだけ。
酒を飲んだその人がムスリムであることが否定されるわけではない。
神によって禁止された行為を犯してもその者の信仰が失われるわけではないのがイスラームで
この立場はスンナ派の神学では定説で
この点でスンナ派の間に見解の相違は存在しない。
単に「神の目から見てムスリムでなくなるわけではない」というだけではなく、
社会的にも、酒を飲んだ人に向かって
「そんなことをするなんておまえはムスリムではない」と言ったり、考えたりすることも禁じられている。
禁酒についていえば
ムスリムの条件は
酒を飲むことを神が禁じていることを心の中で信じ
飲酒を合法な行為とみなさないこと。
心の中で神によって禁止された行為だと信じることのほうが
実際にその行為を慎むことよりも重要視される。
反対に、
たとえ、イスラームが命じているすべての義務行為を果たして、
イスラームが禁じるすべての禁止行為を避けたとしても、
それが神の命であると心の中で信じず、
ただの慣習だと考えれば、その人はムスリムではない。
「またもし、信仰者たちのうちの二派が互いに戦闘をおこなったならば、
おまえたちは両者のあいだを正せ」(クルアーン49:9)
では戦いあう両方の集団が「信仰者」と呼ばれている
戦闘をおこなっているということは、
どちらか一方、あるいは両方共が、誤った根拠によって、
同胞であるムスリムに物理的な攻撃をしかけていることになる。
場合によってはその攻撃の結果同胞を殺害するわけだが
この節では信仰者と呼ばれている。
・イスラームで信仰とは何か、
ムスリムであることはどのようにして成立するかは
神学で
「信仰の構成要素(アルカーン・イマーン)」
も問題として論じられる。
(ロクアカの魔人アルカーンの元ネタ?)
構成要素とは原材料のこと。
この信仰とは宗教とまったく同じ意味ではない。
この場合信仰とはその宗教が提示する信条や信仰行為全体を指している。
本書のここでの信仰はそれと異なる。
神学的に大雑把な言い方になるが
信仰とは
個々の人間が何かを真実を認め、それを受け入れること。
信仰という言葉を宗教や信仰対象ではなく
本書では信じる気持ちと考えてほしい。
本書のテーマであるスンナ派に限定するが
信仰
①
=心における真実であるとの承認
②=心における真実であるとの承認
+言葉による告白
②=心における真実であるとの承認
+言葉による告白
+体による行為(礼拝や断食など)
上記の共通了解は
行為の有無は
信仰の有無とイコールで結ばれないこと。
信仰があるかどうか、
ムスリムであるかどうかはその人の行為にもとづいて決まるものではない。
クルアーンでは崇拝行為や善行を行う前から信仰者だとされる。
「テロリストもムスリムなのか?」という質問をして
「彼らもまたムスリムです」と答えたとすると
少なからぬ日本人が
テロを正当化したと感じるのは
ある宗教の信者とは
その宗教の規範を実践している者をいう
という感覚が前提にあるから。
「信仰の有無」と「行為の正当性」を分けて考えられないため、
「或る行為をする者がムスリムである」
=「その行為はイスラームで正当化された行為である」と考えてしまう。
一部の日本人から見れば、「テロリストもムスリムなのか?」という質問は、
「テロ行為はイスラーム的に見て正当性を持つのか?」という質問と寸分違わぬ同じ質問に感じられるかもしれない。
しかし、ムスリムにとっては、
だれがムスリムか否かをということと、
その人のおこなった或る行為がイスラーム的に正当化されるか否かということは
まったくもって別問題であり、分けて考えなければならない
行為は正当化されないがムスリムであるという答えもありうる選択肢のひとつ。
・イスラームの根本教義
根本的な教えは
全世界を創造した神こそが真に崇拝に値する存在であり
被造物は創造主以外のいかなる存在をも崇拝するべきではない
という唯一神崇拝のメッセージ。
この創造主は何かに創られた存在ではなく無始なる存在。
永遠の過去から生きており、
すべての存在の根拠となる存在。
永遠の過去とは比喩であり
創造主は過去や未来といった時間の中に位置づけられる者とは考えられない。
神は時間の流れの外にいる。
創造主はまた
ここにいるとか、
あそこにいると指し示すことができる存在ではない。
つまり創造主は世界のなかのいかなる場所にも存在しない。
時間だけでなく空間の制限の中に存在するのでもない。
(つまり人間の探索範囲がいくら広がってもイスラームの否定にはならない)
人間を含む、世界のありとあらゆるものは
この創造主が無から創造したものと信じられる。
したがって創造主は世界のあらゆるものに対して
非限定的な権能を持っている。
被造物は、一瞬たりとも創造主の恩恵なしに存在することはできない。
教義で最重要なのは
創造主こそが唯一の崇拝の対象、
唯一の神であり、
創造主でないものは何であれ、
崇拝し、服従するに値するものではないと信じること。
これがアーダム(アダム)創造以降、
地上のあらゆる民に遣わされた使徒
(人々に創造主の使信を伝えることを命じられた預言者)
が信じた
タウヒード(唯一なる者とみなすこと)
の教え。
使徒たちがもたらしたこの教えを受け入れ
創造主のみを崇拝する者を
アラビア語で
ムスリム
=帰依(イスラーム)する者という。
ラーイラーハイッラッラー
(アッラーの他に神はいない)
は最重要な以上の信条を一言で表したもの。
・信仰が成立する本源的な場は心であり
身体ではない。
「アッラーが彼らの心に、信仰を書き記した」(クルアーン58章22節)
とあるとおり。
よって身体が罪を犯したとしても、それによって心に成立している信仰の存在が否定されるわけではない。
・赦しへの希望を失うことは大罪
クルアーンでは
神が、悔い改める者の罪を帳消しにする慈悲深い存在であることが繰り返し強調されている。
罪を犯した人について、
「彼は地獄に行く」と確信すること、
つまり、悔い改めと赦しへの希望を失うことは、
イスラームでは単なる誤りに留まるものではなく、
禁止される「大罪」に数えられ、場合によっては不信仰に値する罪であるとまで言われる。
(~したら地獄に行くと断言はダメで
行く可能性が高いとかだろうね(個人的印象)と言うならOK?)
「まことに、アッラーの慈悲心に絶望するのは不信仰の民のみである」
(クルアーン12章87節)とある。
ムスリムがどのような罪を犯そうとも、その罪が許される可能性があると信じることが義務となる。
それは、人間の罪がどれほど深くなろうとも、神の慈悲はそれよりも深いのだと認めることでもある。
・ムスリムはムスリムを呪わない。
イスラームで悪を目にしたときは
可能な限りでそれを除去することが求められる。
手(実行権力)によって阻止できるなら手で
手が無理なら口(助言や諫言)によって
口が無理なら心でそれを嫌うことで
その悪に対処すること。
しかしその悪行を行う特定の個人であるムスリムを呪ったり
害があるように祈ったりすることは
大多数の学者の見解では禁止行為とされる。
ムハンマドの言葉としても
「信仰者は、呪詛者ではない」
「あなたがたは、
アッラーの呪いによって、
または彼の怒りによって、
または火獄によって、
たがいに呪いあってはならない」と伝えられている。
酒をやめられないムスリムに対し
他のムスリムが
「アッラーよ、彼を呪い給え」と口走ると
ムハンマドは
「彼を呪ってはならない。
彼はアッラーとその使徒を愛しているのだから」
と言って諫めた話もある。
少数派説では場合によっては特定個人を呪うことも許されると言われるが
いずれにしても
イスラームの教説ではどのようなムスリムに対してであれ良いことを祈願するほうが好ましい。
罪を犯すムスリムがいたら
「彼が呪われるように」
「彼に罰が下るように」と祈るのではなく、
「彼が悔い改め、罪から立ち返るように」
「彼の罪が許されるように」
「彼が導かれるように」
と祈るべきとされる。
自分に害を与える者のためにそのように祈るのはたしかに難しいことだが
そういった場合は
「彼の害が私に及ばないように」
「彼が私から遠ざかるように」
と祈ることが良いと伝えられている。
(シーア兄貴も中田考も呪っているが相手をムスリム・ムスリマとみなしていないからだろう。
中田考
@HASSANKONAKATA
2011年10月18日
統治者の務めとして課されたイスラーム刑法を執行せず、
イスラーム法の支配とムスリムの生命、財産、名誉を守るためのジハードも行わず、使徒صلعمもそのカリフたちも法学祖たちも行わなかったユダヤ教徒の猿真似のハラール認証などで金儲けを図りアッラーの徴を安価で売買する者どもに呪いあれ。
中田考bot
@NakataKo_bot
2016年11月19日
使徒もそのカリフたちも法学祖たちも行わなかったユダヤ教徒の猿真似のハラール認証などで金儲けを図りアッラーの徴を安価で売買する者どもに呪いあれ。「我が徴を安価で買い取るな。アッラーの啓示に基づき統治せぬ者共こそ不信仰者。」(クルアーン5章44節) <2011.10.18>
)
・「もっとも規範とすべき信者同士であっても、
政治的に対立すれば殺しあうこともあるし、
誤った解釈に陥り、ころしあうこともある」という事実を、
人間の性として受け入れるのがスンナ派の態度です。
イスラームの統治法では
絶対善の正義の官軍が存在し
それに対抗する勢力はすべて悪だという考えはしない。
官軍とはイスラームのスンナ派ではカリフの軍。
カリフに反旗を翻す武装勢力は叛徒(ブガート)と呼ばれる。
叛徒(ブガート)もムスリムであり異教徒とはみなされない。
法的にはムスリムと扱われる。
「戦っているからどちらかが善でどちらかが悪である」という考え方は、
イスラーム的な思考ではない。
戦いあう軍勢のどちらもが善(”正しい”解釈をしているとは限らないが)
ということもあるし、どちらもが罪を犯している場合もある、と考えるのがイスラーム法的な見方。
いずれにしても、ムスリム同士で戦っているからといっても、どちらかの信仰が否定されたりはしない。
(
返信先: @kitsuchitsuchiさん、@kikuchi_8さん、他
これはイスラームというのがキチガイとか、狂っているじゃなくて、そいつ自身が完全に狂った事を意味しているので
日本で言えば、何処でも全裸で自慰しながら、うんこ塗りたくってそこらじゅうをうろつき回るようなもので
それが正しくて、社会的常識何て言ったら精神病院行きでしょ?
だから、
そう思ってもそれだけは口に出さないわけ
日本語って、全く言葉に重みがない言語だからそれでいいだろうけど、アラビア語や英語となると意味合いがまたガラッと変わるからその延長を海外に持って行ったらかなり危険というか、普通にリンチ受ける
…
自由というのも勘違いしているなぁ…自由というのは
物質的なものではなく、何かを規定した上で成立する自由が本来の自由であって
所謂、形而下の自由というのは本能的な自由でしかないのね
そういうと何故に「何か」が悪を作ったのかというけど、これも頭の程度が知れる質問なのね
「何か」というものは至善なわけで悪は行わないし、悪を用意することはないの
悪を用意しない存在は完全なる善であり、
またその存在は
「何をも必要としない、絶対単性」なわけで
悪と善でわかれていればそれは必要としている存在であり、それは「何か」ではないわけ、まずここで破綻しているの
では、その「何か」は何を人に与えたのかというと
全ての力・知・生の土台を与えたのよ
例えば、包丁の持つ力・知識というのは何かを切ったり、安全に調理したりする為のものだけど、
時には人を殺すわけ
で、「何か」は人を殺す事を命令したのだろうか?
するわけがない、殺す事は悪だからだ
と、すると強制されている・予定という概念は成立しない
なんで?
何で悪という事を「何か」が強制して、
しかも地獄に堕ちる事を確定させるんだよ?
そんなの善なる存在ではまったくないでしょ?
そんなのは単純な論理でわかるわけ、
そんな事もわからないのが現代のやそ
とスンニ派の大部分です
だから、人間にはその「何か」の力と知識を使う能力があり、その能力をどう使うか「だけが」問題なの
これが「何か」の絶対公正性なわけ、
これが神学で哲学・ハシタメのご主人様の正体なわけだ
御主人様は古いようで常に新しいのでショタジジイみたいなものだね、やっぱりおねショタに帰結するんや”
)
・過激派を破門しない理由
異端と不信仰は違う
スンナ派にも異端者(ムブタディウ)とい概念がある。
異端者は身体において罪を犯す人について言うのではなく
スンナ派に包摂しえない、
誤った信条を報じるイスラームの宗派や神学的立場にあてがわれる名。
シーア、ハワーリジュ、ムウタズィラ派など
スンナ派に対立する信条をもつ宗派はすべてスンナ派から異端とみなされる。
異端者とみなすことは不信仰とみなすことはおなじではない。
異端者でもおなじムスリムとして扱われる。
異端であるからといって中央から軍が派遣されて攻撃されたり
殲滅させられたりすることはない。
たとえその宗派がイスラームで禁じられる行為をおこなうことが想定されていても
実際に不法行為が顕されるまでは基本的に放置される。
異端審問で拷問したり処刑したりというものは
イスラームではない。
異端者というカテゴリーをさらに超えて
誰かを不信仰者と判断することをタクフィールという。
タクフィール
=不信仰者とみなすこと、不信仰を帰すること。
スンナ派では特定の個人に対するタクフィールはできうる限り避けるべきものとされている。
背教を宣言したわけでもないムスリムについてタクフィールがなされることはめったにない。
ハディースでムハンマドは
「人が他の人を不信仰者と呼べば、
両者のどちらかが不信仰者となる」
と言ったと伝えられる。
不信仰者とみなせば誤った判断をした自分こそが不信仰者になってしまう。
ムスリムの行為は良い方向に解釈する
フスヌッザンヌ(善い方向に解釈する)はムスリムが同胞に接するさいに持つべきとされる指針のひとつ。
例えば
知り合いのムスリムがビール缶の入ったコンビニ袋を手に家に帰っていくのを見てしまったとする。
悪く解釈すれば「この人はビールを飲むんだな」。
しかし
間違ってビールを買ってしまった、
捨てられていた空き缶を拾っただけ(これは善行)、
ノンアルコールビール、
いたずらで入れられた、
ムスリムでない知人の頼みだっただけかも。
このように悪い方向には解釈しないことが
フスヌッザンヌ(善い方向に解釈する)。
限度を越えれば不信仰の宗教と判断することはある。
極端派(グラート)と呼ばれるシーア派の諸派があるが
自分たちの指導者を神、
あるいは神性が宿った存在と考えるため、
スンナ派からはもはやムスリムとはみなされない。
(そりゃあ人が神というのは一神教正統派の最大級のタブーだからね)
八世紀のジャフムを学祖とするジャフム派という宗派があったが
スンナ派の多くの学者は不信仰の宗派と判断した。
が、この派に帰属する人たちを非ムスリムとみなし背教者としては扱わなかった。
ムスリムとして接した。
特性の宗派や思想の不信仰性の判断と、
奉じる個々人の不信仰性の判断はおなじではない。
特定の神学的立場が不信仰であることを種の不信仰といい、
特定個人が不信仰者であることを個の不信仰といって
明確に区別。
神学の学問的な見地から特定の信条の誤りや不信性について議論しつつも
日常生活においてはそうした信条を抱くムスリムとも共存することができる。
特定個人に対するタクフィール回避の仕組みの一つに
無知による免責がある。
・スンナ派神学は大きく二つの陣営に分けることができる。
①思弁神学
(アシュアリー学派とマートゥリィーディー学派)
神学的な論争を行うさいに、
「クルアーンやハディースの引用」のみならず
「理性にもとづく論理的な立論」を神学の典拠として尊重。
(理性と論理重視なのが重要)
②ハディースの徒
伝承主義(アサリーヤ)と呼ばれることもある。
思弁神学と異なり、
「理性にもとづく論理的な立論」を神学の一次的典拠とすることに反対。
クルアーンやハディースといったテクストの文言と、
理性にもとづく論理的な立論を併用するのではなく、
あくまでテクストの文言のみを第一の典拠にするべきだと考える。
両者は対立関係にあるが
時代によって
学者個々人の考え方によってその程度は変化してきた。
非常に激しく衝突することもあれば
互いをおなじスンナ派を構成する潮流の一つ程度に見る場合もある。
本書の図でハディースの徒に含まれる
サラフ主義とは
宗教実践や学派の解釈の中に
初期イスラームにはなかったまがいもの、
あるいは異端的な要素が混入していると考える。
イスラームを純化するためには
クルアーンやハディースのテクストを直接参照し
初期イスラームに帰るべきだと主張。
伝統的な学派システムを否定する
復古主義的な志向性を持つ潮流と形容できる。
サラフ主義の一部はジハード主義(サラフ・ジハード主義)として分類される。
ジハード主義とはシャリーア(イスラーム法)を正しく施行しない現代の為政者は
ジハードの対象
であるとし武力攻撃の対象と考える立場。
宗教色のある主張を物理的な暴力の行使と結びつける
いわゆる過激派と呼ばれる人々はジハード主義に位置づけられる。
ばくぜんと穏健派と呼ばれる人たちは、
本書の思想地図のなかでは
①思弁神学の二学派
②古典的なハディース徒
③サラフ主義のなかのジハード主義ではない人たち
しかし対立構造は複雑で
ジハード主義者とその他が単純に二手に分かれて対立しているわけではまったくない。
思想地図より
思弁神学は伝統的なハディースの徒を時代・論客によって様々な捉え方。
思弁神学とサラフ主義とは基本的に相互に批判、ときに異端視。
伝統的なハディースの徒のうち
比喩的解釈を許容する潮流はサラフ主義を部分的批判。
伝統的なハディースの徒のうち
イブン・タイミーヤなど比喩的解釈を批判する潮流から
サラフ主義が派生。
思弁神学はジハード主義を基本的に異端視。
ジハード主義は思弁神学を異端視。ただし一部共闘を呼びかけ。
・アシュアリー学派が生まれた大きなきっかけのひとつに
ムウタズィラ派と呼ばれる潮流の拡大があった。
ムウタズィラ派は八世紀後半から九世紀に生まれ
一般大衆のみならず為政者にまで支持層を拡大し
スンナ派の強力な敵対勢力となった。
ムウタズィラ派の特徴は理性に基づく論理的な立論を神学の主たる拠点とする。
クルアーンやハディースの表面的な意味よりも
理性を優先させる。
ムウタズィラ派では
神は義なる存在であるから
人間に不信仰や悪行を創造することはありえない」
「神が人間のために創造するのは
行為するための能力であり
おのおのの人間は
この能力を自由に用いて
自分の行為を自分自身で創造する」
と主張。
これ
「アッラーは、すべてのものの創造者である」
(クルアーン39章62節)
などを根拠に
悪行や不信仰を含めた人間がおこなうすべての行為が神の創造の対象とするスンナ派の立場と
まっこうから対立。
極端な理性主義のムウタズィラ派の学者として40歳まで研鑽を積んでいたアシュアリーが
スンナ派に転向しスンナ派を擁護。
アシュアリー学派の誕生。
アシュアリー学派とマートゥリィーディー学派は
神の言葉は神とともに永遠であり生じたり消えたりするものではない、
したがって文字でも音声でもないという立場。
対してハディースの徒は
反対に
アッラーが啓示によって語るとき、
天の民はその声を聞く
とのハディースの文言などを根拠に
神の言葉は文字と音声からなると言う。
(『イスラーム神学』の書評より引用。
”本著のねらいは、イスラーム教・スンナ派の神学を日本の読書人に紹介することにある――同派は日本では「スンニ派」と呼ばれることが多いが、松山さんは本著にて一貫して「スンナ派」と呼んでいる。『イスラーム思想~』でも同様。
…
スンナ派の神学は、アシュアリー学派とマートゥリィーディー学派、
そして「ハディースの徒」の三つの学派に分けられる。
このうち、前者二学派は抽象的ないし哲学的な思考を重視し、
後者はコーランを文字通りの意味で解釈する、という違いがある。
たとえば、コーランには「神の手」という表現が出てくるが、
前者二学派はこれを比喩だと捉える。
一方後者は、文字通りアッラーには手がある、と考えるのである――ただし松山さんによれば、「ハディースの徒」はさらに細かいグループに分かれており、そのなかには必ずしも文字通りの意味では解釈しないグループもあるというから、注意が必要である。
つづいて法学へ。スンナ派の法学は、以下の四つの学派に分けられる。
すなわち、マーリキー学派、シャーフィイー学派、ハナフィー学派、そしてハンバリー学派である。
これら法学の学派は、かつては上述の三つの神学の学派とは別個の概念であった。が、今日では前者二学派がアシュアリー派、ハナフィー派がマートゥリィーディー学派、そしてハンバリー派が「ハディースの徒」というぐあいに、綺麗な対応関係にあるのだという。”http://j-furusawa.hatenablog.com/entry/2018/05/04/210000
)
・サラフ
=先達たち、先だった者たち
=イスラーム初期の正しいムスリムたち。
サラフ主義者が言うサラフは第三世代までを指すことがほとんど。
サラフ主義は団体でも教団でもない。
・ジハードが正しい行為であることはイスラームの合意事項。
穏健派と呼ばれる人たちの中でもジハードは徳高い行為とみなされている。
ジハード主義の特徴は
ムスリムに攻撃を加える異教徒だけでなく
ムスリムである不正な為政者や、
その為政者の陣営に与するムスリム、
さらにはときにそういった為政者に対する武装闘争に与しないムスリム全般をも
ジハードの対象とみなすこと。
ジハード主義者ではないサラフ主義者は
為政者への武装闘争はおこなわず、
改革はあくまで教育や啓蒙、
あるいは選挙などの合法的手続きをとおして政治的実権を握ることによっておこなうべきであると考えている。
①ムハンマドの時代を理想の社会とみなす
②イスラーム法を現代によみがえらせようとしている
はサラフ主義者の特徴ではない。
①はサラフ主義者であろうとなかろうと
ムハンマドの時代がイスラームの理想形だと考えており
イスラームの合意事項。
ムハンマドは単に神の言葉を伝えた媒体とみなされているだけでなく
彼の生きざまはムスリムが模範とすべき理想像とされる。
ムハンマドとともに生きた第一世代のムスリムは
もっともすぐれた世代だと信じられている。
②についていえば
シャリーア(イスラーム法)は神によって定められた法規範であり
特定地域でのみ通用する慣習法でも
もはや実地に用いられない中世の法律でもない。
・非ジハード主義の論客は
以下のハディースを好んで引用し
統治者が人々に礼拝を許容している限り、
その統治者に従うことが義務である
と説く。
ハディースにはこうある。
「あなたたちの指導者のうち最善の者たちは
あなたたちが慕い
あなたたちが祝福を祈り、
あなたたちに祝福を祈る者たちである。
あなたたちの指導者のうち最悪な者たちは
あなたたちが憎み
あなたたちを憎み、
あなたたちが呪い、
あなたたちを呪う者たちである」。
こう述べたムハンマドに
「アッラーの使徒よ、
われわれは剣によって彼を退けてはならないのですか」
と尋ねる者があった。
ムハンマドは以下のように答えたと伝えられる。
「否。
彼らがあなたがたの内に礼拝を挙行させている限りは。
あなたたちがあなたたちの権威者に何か嫌うことをみとめたのであれば、
彼の行為を嫌いなさい。
しかし、
手を忠義から離してはならない」。
(礼拝さえ認めておけば反抗されないからと考える圧政者に対してはどう対応するのだろうか)
どのような圧政を敷き、
ムスリムを迫害しようとも
礼拝が許容されている限りはその統治者に反逆してはならない
というのが反ジハード主義者のムスリムの立場。
統治者を罷免する可能性は認められているが
内軍が発生する危険がない限りにおいておこなわれうることだと言われる。
・カリフの擁立は多数派であるスンナ派ではすべての学派の一致した見解。
・イスラームでは戦闘で
相手方の戦闘員以外の人間に物理的攻撃を加えることは許されない。
イスラーム法では敵の戦闘員は成人男性のみと規定される。
女性と子供を攻撃することは禁止で、
これは法学者の一致した見解。
成人男性であっても
老人、身体虚弱者、
精神薄弱者、狂人、
盲者、下半身不随者、
麻痺者、手足の切断されたもの、
右手を切断された者、
(これ利き手という意味?)
雇われ労働者、隠遁した修道者、
商人、職人、
両性具有者、農民などは
細かい議論はいろいろあるが
多数派の見解では攻撃対象とすることは許されない。
それ以外の成人男性は戦闘員として包摂される。
コラテラル・ダメージ(やむを得ないまきぞえの犠牲)
については古典的なイスラーム法学でも詳しく議論がなされてきた。
結論としては
火攻め、
石などの重厚な武器による攻撃
飛び道具による攻撃、
夜襲、
水攻め
などが有効だと考えられる場合は、
女性や子供が被害にある公算が高くとも攻撃をおこなうことが許容される。
・中田考氏『イスラーム 死と聖戦』での
中田氏は
「ダール・イスラーム(イスラーム圏)を拡大する戦いもジハードの一種であるが、
その発動にはカリフの命令が必要であり、
カリフ不在の現時点では、
ジハードは自衛戦争に限定される」
と主張。
また同書で
「『ハディース』においては、
敵を焼き殺すことは禁じられています。
ところが、現代の戦争で用いられる兵器は、
(中略)
人を焼き殺すものばかりです。
(中略)
つまり、大量破壊兵器を用いる現代の戦争は、
あからさまにイスラームの倫理に反するのです」と書いている。
しかしここで中田氏は
個人を火刑で処刑することの禁止の議論
と
ジハードにおける火攻めの是非の議論
とを混同しているのではないかと
著者は考える。
もっとも、
前者から後者を類推し
火攻めは可能であれば避けたほうが好ましい
という議論はあるが、
禁止・忌避されるとまでは言われない。
ただ、中田氏に似たスタンスで
人道的な理由から
核兵器、化学兵器、
細菌兵器の使用がイスラームにおいては禁じられるという議論は存在する。
・イスラームは唯一の正統教義を決定する公会議のようなものをもたない。
・ジハード
=敵に対する抵抗において努力すること。
敵は
①ムスリムと交戦する異教徒
②悪魔
③自我。
悪魔の誘惑や事故の悪い欲望と戦うことも
ジハードに含まれる。
一部の学者は
大ジハード
=自我との闘い
小ジハード
=異教徒との戦争。
異教徒との戦闘という意味でのジハードでは
戦闘開始の手続き、
戦闘での規律、
戦後処理などが法学で詳細に決められている。
ジハードは殲滅戦ではなく限定戦争。
敵の支配地域の住民をムスリムに強制的に改宗させることもおこなわれない。
ジハードの目的は
一般的には
イスラームとムスリムの防衛、
およびイスラームの宣教が人々に行き届く空間の確保。
近現代では防衛のみがジハードの目的だとする見解も広まっている。
ジハードは聖戦と訳されることがあるが
正戦の訳語が適切かもしれない。
努力、奮闘努力などの訳語を用いる人も増えている。
・イジュティハードの意味は大きく分けて二つ。
①法規定を演繹すること
②法規定を適切に適用すること
本書は①の意味に絞る。
聖職者階級や教会制度をもたないイスラームには
正しい教義を決定する正当な手続きや資格は存在しない。
法学と神学の違い。
法学
=ムスリムが身体でおこなう行為、
あるいは口によって発する言葉を対象とする。
礼拝などを論じる。
神学
=ムスリムが頭のなかで何を信じるべきかを論じる。
創造主が無始なる存在であることや
ムハンマドが預言者であることなど。
(法学
=第三者が認識できる外面的行為について。
神学
=第三者が認識できるとは限らない内心の信仰について)
イジュティハードとは、
j-h-dを語根とする動詞“jitahada”の動名詞で、
「法学者が、個別的な典拠(を精査すること)をつうじて、法規定を演繹することに最善の努力を尽くすこと」。
簡単に言えば、特定の問題についての適切な典拠を見つけ出し、特定の法解釈を独自に/自力で導き出すこと。
一方のタクリードは、
q-l-dを語根とする動詞“qallada”の動名詞で、「証拠や典拠を知ることなく、他人の見解に従うこと」。
タクリードが説かれた背景の一つは
時が進むにつれて、
知識は廃れていく
というイスラームの下降史観がある。
(だんだん良くなるという進歩史観と真逆)
松山洋平編『クルアーン入門』(作品社、2018年)
紹介/第八章
— ????? (@islam_memo) 2018年5月26日
『#クルアーン入門』https://t.co/qPV3VFgZJ9
クルアーンには、その文言の示す教えが「廃棄」された節がある。
「廃棄」は、クルアーンに或る表現が存在するからといって「これがイスラームの教えだ」と単純に言えない背景の一つで、「多神教徒は殺せ」等の節理解にも関係する重要概念。 pic.twitter.com/FgK73BIftz
・松山
ムハンマド逝去後、
クルアーンは第一代カリフのアブー・バクルの指揮のもと
一冊の本の形にまとめられた。
ムスハフ
=クルアーンが物理的な本の形にまとめられたもの。
その後、第三代カリフのウスマーンによってその写本が作られ、
彼はその写本を正本とするようムスリム共同体全体に通達した。
以降現在まですべてこのウスマーン版から複製されたムスハフによって
クルアーンを読んでいる。
クルアーンには単一のクルアーンしか存在せず、
使用言語や宗派によって異なるヴァージョンは存在しない。
(既存の一神教の欠点を克服している)
クルアーンの専門的定義(の一つ)
=ムハンマドの上に下された
奇蹟たる言葉であり
ムスハフの中に書かれ、
タワートゥルによって伝えられ
それを唱えることが崇拝行為
となるもの。
タワートゥル
=なんらかの伝承や情報を伝える代々の世代が
理性的に考えて
虚偽を捏造することを申し合わせることが
想定できないほどの人数に達する状態
を意味する。
イスラームでは
そのように伝えられた伝聞情報は真実として認められる。
上記の定義をみたときに
日本の読者が見落としがちなきわめて重要な点がある。
それは
クルアーンが
ムハンマドが霊感によって発した言葉でも
ムハンマドに啓示をもたらした天使ジブリールの言葉でもなく
そのすべてが創造主アッラーの言葉
だという点である。
イスラームでは
アッラーの言葉というのは
永遠であり
単一であり
スンナ派などの多数派の考えかたでは
アッラーによって創られたもの
つまり被造物ではない。
したがって
アッラーの言葉と聞いたとき
それに人間が言葉を発するときのようなイメージをかぶせるのは誤り。
アッラーの言葉が永遠であるということの意味はこうだ。
アッラーは永遠の存在であり
時間のなかに存在するものではなく
変化を受けつける存在ではない。
彼は、
永遠の昔からそうあったように常にあり続ける。
アッラーは不変である。
そのため、彼は
話し始めたり
話し終えたりということはない。
彼が永遠であれば
必然的に彼の言葉も永遠のものである。
彼の言葉は単一であることの意味もこれと似ている。
彼はあることを発言したのちに
周囲の状況に応じて発される偶発的なものではない。
そのようなことが仮に想定されれば
彼は永遠の存在ではなく
変化する被造物のような存在になってしまう。
したがって
彼の言葉は単一であり
あることを発言したのちに
別のことを発言したりすることはない。
アッラーの言葉は
人間のように周囲の状況に応じて発される偶発的なものではない。
アッラーの言葉が被造物でないことは、
仮に被造物だとすると
アッラーの言葉はアッラーと別の存在となり
被造物でありながら永遠の存在であるアッラーの言葉
が並立して存在することになる矛盾よりわかる。
人間側の解釈が間違うことはありうるし
複数の解釈が生まれることは認められている。
・日本語で通常
啓典と訳される単語は
アラビア語のキターブ(複数形クトゥブ)
であり、書物、本という一般的意味を持つ単語であり
全体としてまとまりで書かれたものなどの意味を持つ。
預言者の正確な数は不明だが
あるハディースでは
預言者は十二万四千人で
そのうち使途は330人と言われる。
ただし預言者や使徒の数を示すハディースは
それほど強い信憑性を持つものではないため
預言者の数は断定しないことが好ましいとされる。
預言者
ナビー
=アッラーから啓示を受けた者全般。
使徒
ラスール
=預言者のうち
人々への使信の伝達
--宣教といってよい--
を特に命じられた者。
啓典はすべての預言者に与えられたのではなく
預言者のうちの使徒にのみ与えられたもの。
使徒の数と同様、啓典の数も明らかではない。
・クルアーンは三段階を経てムハンマドに届けられた
1
アッラーは第一に
護持された書板
=世界に生じるあらゆる出来事が記された
アッラーによって創造された天の書板
に記した。
2
護持された書板に記されたクルアーンが
現世の天に位置する
威力の家
という場所に下された。
この
下し
はラマダーン月の
決定(カドル)の夜
に行われた。
3
現世の天に下されたクルアーンが、
二十数年間をかけて
少しずつムハンマドに啓示された。
・下村
アラビア語の奇蹟を厳密に訳せば
模倣不可能性
となる。
イスラーム教学の
奇蹟の定義
①慣行(=自然法則)を逸脱(超越、破壊)する事柄で
②「挑戦」
(クルアーンが偽作だと言うなら
それを言う彼らに
クルアーンと同じようなものを持って来させよ)
を伴い
③「対抗」
(挑戦への抵抗
=クルアーン同様の一章を持ってくること)
から免れているもの。
イスラームでは
聖書つまり
ユダヤ教の律法の書(タウラー)と
キリスト教の福音書(インジール)は
アッラーから下された啓典とされる。
しかし奇蹟ではない。
聖書は言葉の美しさの点ではクルアーンに及ばず
挑戦も含まれていないために
奇蹟とはみなされない。
クルアーンでは言語表現の美しさ自体が
本質的に重要であるため
奇蹟たりえない翻訳は宗教儀礼に用いられない。
クルアーンの多言語への翻訳はクルアーンそのものとはみなされず
解釈の一種とされるのは
奇蹟性や言語表現の入り組んだ複雑性が翻訳されえないから。
(一神教なのに宗教者が翻訳聖典しか読めないっておかしいもんね)
・松山
ムスハフを構成する紙や、
文言が書かれているインクなどは
アッラーの言葉ではない。
それらは被造物。
多数派の見解では
ムスハフに触れるさい、
ムスリムはイスラーム法に基づく
タハーラ(清浄)状態になければならない。
クルアーンの章句に加え
註釈がかかれた
タフスィール(クルアーン注釈書)
に触れる前にタハーラが必要か否かについては
ある学派では不要である
ある学派では必要であるといった
見解の相違がある。
不信仰者にムスハフを触らせてもよいか
一説では不信仰者にムスハフを触らせることは禁じられる。
タハーラには意志を伴っていなければならず
不信仰者には持てないからだ。
別の説では
不信仰者でもタハーラをその者が行い
入信可能性があるなら触らせることが許容される。
さらに別の説によれば
触らせることが許容されるが
タハーラは不要。
それを義務付ける明白な典拠は存在しないからだ。
ムスハフを地面・床に置くことなど
侮って地面に置くことは学者間の一致した見解として禁じられる。
それをした者がムスリムなら一説では不信仰者となる。
必要があってなら
一説では許容され
一説では忌避され
一説では禁止される。
ムスハフの上に他のものを乗せることは許容されないが
ムスハフの上にムスハフを置くことは構わない。
ムスハフを侮る意図なくムスハフに足を伸ばすことは
一説では避けることが最善であるが禁止も忌避もされないとし
一説では忌避され
一説では禁止される。
便所に持って入ることは
避けられない事情がない限り禁じられる。
一部の学者はムスハフが顕わになっていれば禁じられるが
入れ物にしまわれていれば構わないともいう。
不要となったムスハフの処分方法
焼却処分は多数派が許容。
水に浸してとかすこと
地面に埋めることは
学者間の一致した見解として許容。
ただし浸す水や埋める場所は清浄でなければならない。
細かく引き裂いて処分することが許容されるか否かは見解が分かれる。
非アラビア語に翻訳されたものはもはやクルアーンではないため
上記のムスハフの規定は当てはまらない。
作品社の『日亜対訳 クルアーン』のような
翻訳に加え原文も載っている本の場合
ムスハフと捉えるか
タフスィールと捉えるかには見解の相違がある。
筆者が個人的にやや不安に感じるのは
日本で一般的に見られる本の取り扱い方が
アラブ人などの目には
まるでその本を軽視し
侮辱していると映ることがありそうだという点である。
現代の日本では
本を床に乱雑に置く
その結果、無意識に本を踏む
本を台にしてその上に何か(コップや肘など)を置く
本をぽんと放り投げるなどの行為は
個人差もあるだろうが起こり得ないことではない。
しかし、
イスラーム教圏一般の人がこれらの行為を目にすれば
本を非常に乱暴に扱い
知識全般を軽視し侮っているように感じるだろう。
場合によって何かしら意図的な悪意を感じる人がいてもおかしくない。
あらゆる誤解を生まないためには
ムスハフ、および翻訳書はなるべく丁重に扱うことが好ましいと言える。
(本を乱暴に扱う=知を軽視なので
知を重視するイスラームに反する。
翻訳版クルアーンは解釈書扱いですが
クルアーンと同様に丁寧に扱いましょう)
・松山
クルアーンの各々の章は
複数の節(アーヤ)から構成される。
クルアーンのすべての節の数は
6200といくつかである。
下二桁については学者間に見解の相違があり
4、5、14、15、
19、20、26、36ともいわれる。
この見解の相違は
どこまでがひとつの節であるかについて見解が異なる部分があるからである。
クルアーンには
確固たる節と
曖昧な節があると言われる。
前者
後者の順でいくつかの定義を並べる。
意味が明らか
意味が明らかにされていない
単一の意味にしか解せない
複数の意味に解することができる
廃棄されなかった
廃棄された可能性のある
曖昧な節の効能
より精緻で深遠な解釈がなされる
真意を知るためにさまざまな学問が発展
信徒のさまざまなレベルに合わせて多層的な意味を提供できる
・後藤
最初の日本語訳クルアーンが刊行されたのは
坂本健一『コーラン経』1920年、大正九年。
アラビア語の原文と
当時定番だった複数の英語訳を参照している。
この最初の日本語訳においてアラビア語のアッラーは
神
主人を意味するRabbは
上帝
と訳された。
(漢訳聖書の影響だろう)
二番目は
高橋五郎・有賀阿馬土共訳『聖香蘭経』1938年、昭和一三年。
1930年代
日本では大東亜共栄圏構想をはじめ
帝国主義によるアジア地域への進出の期待が高まっていた。
回教圏研究所や大日本回教協会、東亜研究所の回教班など
関係の研究機関や組織が次々と設立された。
高橋五郎は聖書和訳の分野で活躍した。
有賀阿馬土は最初期の日本人ムスリム有賀文八郎。
阿馬土はアフマドの当て字だとされる。
アッラーは大神
Rabbは天主となっている。
三番目は
大久保幸次・小林元による部分訳
(1938年から1944年まで月間機関紙『回教圏』に連載)、
大久保幸次「邦訳コーラン」
大久保幸次・鏡島寛之『コーラン研究』刀江書院、1950年に採録。
イスラームに関する十分な専門知識を持ち
アラビア語の原典翻訳を試みたのが
回教圏研究所所長で
トルコ学とイスラーム研究の先駆者的存在であった
大久保幸次である。
回教圏研究所はアジア主義という国策による資金面での後押しを得て成立した。
アッラーは
アルラーフ
(「ル」と「フ」は小文字)
あるいは
神、
Rabbは
主宰
と訳されている。
四番目の日本語訳は大川周明訳注『古蘭』岩波書店、1950年。
東京帝国大学の哲学科で東洋思想と宗教学を修めた大川は
在学中から道会(儒教的キリスト教を掲げた団体)に関係し、
その雑誌『道』に寄稿したり
編集の中心的役割を行ったりした。
(道会は儒教的キリスト教だと明言しているのが素晴らしい。
道会は万教帰一系。
日本のイスラーム人脈には万教帰一人脈が混じっているので注意)
大川はアラビア語の独習を進めつつ
インドから「アハマディヤ協会」発行のアラビア語・英語両文併記のクルアーンを取り寄せたり
ハディースを翻訳し
その抄訳を雑誌『道』に掲載したり
マホメット伝を執筆したりした大川は
熱心なイスラーム研究者であった。
その後大川は
東亜経済調査局に勤め
その理事長となり
1931年の満州事変や翌年の五・一五事件に関与したとして逮捕されるなど
波乱万丈な人生を送りながらもイスラームについて学び続けた。
大川は
アッラーは
アルラーハ
(「ル」と「ハ」は小文字)、
Rabbは
主
と訳されている。
大川は信徒になることはなかったようである。
(アフマディーヤ発行のものなんて参考しちゃいかんでしょ。
この教団についての説明も本書にある。
大川はA級戦犯を逃れた特権階級)
アハマディア・ムスリム協会とは
1899年にインドで興ったスンナ派イスラームの分派で
イスラーム内のいわば新宗教(新興宗教)で
特徴は
極端な平和主義と
カリフ(宗教指導者)を頂点とした行動に体系化された組織。
現在の本拠地はイギリスにあるが
欧米や西アフリカに多くの信徒をもち
日本にも1930年代以来
パキスタン系の人々を中心に増え始め
現在では日本人配偶者や日本人からの改宗者も含めて200名程度の信徒がいるといわれている。
(インドでできて、本拠地がイギリスの時点で怪しさ満点。
インドと英国って神智学系がらみ?)
2017年6月現在までに刊行されたクルアーン日本語訳の中で
最新なのが
『聖クルアーン日本語訳』で
訳者の澤田達一は
イラン最大の宗教都市ゴムのイスラーム法学院でイスラーム諸学を修めた人物で
日本人初のシーア派聖職者として知られている。
日本語で初のシーア派の解釈をもとにした翻訳。
(
→敢えて仏教用語を援用することもあった。適応主義的な宣教政策の由縁。
文脈は大きく異なるが、クルアーン日本語訳でも初期は仏教・神道の名称が用いられたこととも呼応して興味深い。宗教概念の翻訳は非常に難しい行為の1つと言えそうだ(宗教の説明に他の宗教・哲学の用語を援用せざるを得ない)
777(ななさん)
@koi_72hiki
2017年12月1日
私はムスリムであり、一時期イスラーム教徒向けの「アルウンマ新聞」を読んでいた。そこには、日本人唯一のシーア派聖職者澤田達一さん、その父親が大本教について肯定的な記事を連載していた。
私自身、出口汪先生のおかげで現代文の全国偏差値は79まで上昇し、「本が読める」ようになった。
それに、私はアート面(茶器や書画)や建築面で大本を高く評価している。
777(ななさん)
@koi_72hiki
2016年2月8日
今さらながら日本人唯一のシーア派の聖職者・澤田達一さんが言っていたことがじわじわ効いてくる。
井筒さんの訳は学者的だと…。
井筒さんの預言者ムハンマドの「三位一体」批判は当てならないと…。
)
・下村
個人的見解(イジュティハード)
一般的に
イスラーム教学では
知識に到達するための方途を
理性と伝承に分類する。
理性
=考える力、判断能力、推論能力などの
実際的な力であって
能動知性のように高度に思弁的なものではない。
伝承
=従われるべき権威ある存在から
後代に伝えられた内容であり
アッラーのコトバであるクルアーン、
預言者ムハンマドの言行録であるハディース、
教友の言行など。
伝承者A→伝承者B→教友の次世代→教友
のように教友に確実に遡ることができれば
教友の権威に接続しているため啓示の契機として
受け入れられるが
教友の次世代で途切れているものは
教友の次世代が独立した権威となりえないためさらなる精査が必要とされる。
伝承の集成と精査を扱うのがハディース学。
その分野の一つに伝承者批評学がある。
伝承者の資格として重要なのは
信頼性と
厳正性である。
信頼性を有さない者は
1 不信仰者
2 幼児
3 狂人
4 不義者(≒犯罪者)
5 ハディースを捏造していたが悔悟した者
6 不信仰には至らないような教義上の逸脱者
7 ハディースの伝達によって報酬を得ていた者
であるとされ
端的に言えば
利害を離れて正直に真実を語っているかどうかが審査される。
厳正性を有さない者は
1 誘導に引っかかる者
2 孤立した伝承の多い者
3 不注意な伝承の多い者
4 伝承における間違いを指摘されても自説を曲げない頑固者
5 口承との校合(きょうごう)がされていない不十分な写本に基づいて伝承する者
とされる。
(情報の真偽判断にさっそく活用しよう)
教友たちについては全員が例外なく信頼性を有するとされる。
教友の信頼性を担保するのはクルアーン、ハディース、
これらを元にした学者たちの合意であって
合理性では捉えきれない側面がある。
・下村
古い規定が新しい規定によって更新されながらも
古い規定を定めた章句がそのまま残される現象が見られる。
これを規定の廃棄と呼ぶ。
どの章句が廃棄と被廃棄の関係に該当するのか統一見解はない。
「剣の節」による廃棄はより本質的な問題であり
現代の学者は次のようにこれをまとめる。
一般的には
「剣の節」とは
クルアーン9章5節
「それで諸聖月が過ぎたら、
多神教徒たちを見出し次第殺し、捕らえ、包囲し、
あらゆる道で彼らを待ちうけよ。
だが、もし彼らが悔いて戻り、
礼拝を遵守し、
浄財を払うなら、
彼らの道を空けよ。
まことにアッラーはよく赦し給う慈悲深い御方」
(預言者に敵対し、策謀し、
盟約を反故にし、
信仰者たちに無慈悲にふるまうアラブの多神教徒に関する規定)
であるとされるが
同書9章6節
「そしてこぞって多神教徒と戦え、
彼らがこぞっておまえたちと戦うように」
とも言われ一定しない。
6節のほうは相互主義である。
(相互主義
=外交や通商関係で、相手国の自国に対する待遇と同等の待遇を与える主義)
クルアーンは五月雨式に下されたため
中には新しい節の啓示によって古い節の規定が上書きされた
にもかかわらず、古い節がそのまま残るという現象が見られる。
これをナスフ(naskh)つまり既定の廃棄ないし解消と呼び
訳語として廃棄を使われることが多い。
n-s-khを語根とする単語はクルアーンの中に次の四回現れる。
「われらが取り消す(nansakh)か
または忘れさせる節があれば、
それに優るか、
同様のものを持ってくる」
(クルアーン2章106節)
にある取り消す。
他の三カ所は
写し
廃棄し
書き写させていた
n-s-khには言語的には
解消と
移転(書写、転記)
の両義があることがわかる。
専門用語として
ナスフ
=聖法(シャリーア)によって
聖法上の規定を取り上げること
あるいは
=シャリーア制定者が先行する規定を
後行する規定によって取り上げること
と定義される。
現代でも一部の学者は
剣の節が寛容を説く数多くの章句を廃棄したと主張する、
実に嘆かわしいことである、と。
古典期にも剣の節による廃棄が濫用されていると批判する学者はいたが、
彼ですら剣の節による廃棄自体は認めていた。
対し、
イスラーム圏が劣勢に置かれた近現代ではこれを認めていないのは
時代の空気が反映されているのであろう。
マッカ期には弱小であったイスラーム勢力は
強者に忍従し弾圧を受けても放免するようクルアーンに定められていたが
後のマディーナ期の勧善懲悪やジハードの義務によって
廃棄されたとの理解が中世にはあった。
中世で規定は廃棄されるのではなく「忘却」されるのに過ぎないとの見解が出された。
つまりイスラーム勢力が強ければ勧善懲悪などが課され、
弱体化すれば忍従が義務となるとの説である。
現代の学者は忘却理論がご都合主義との批判を受けかねないと注意喚起している。
現代の学者カラダーウィーの議論を見てみよう。
①現代の中道的ウラマーは廃棄の認定に慎重
②イスラームの寛容性を説く論者は廃棄認定を避けるのに対し、
イスラームの絶対的優位性と峻厳さを強調する論者は
剣の節による廃棄を主張。
③どれが剣の節であるか合意はない
④剣の節は無限定な原則論として解釈されるべきではない
⑤啓典は全体が有機的に理解されるべきである。
イスラーム法源学では
酒がクルアーンで段階的に禁止され
これを既定の廃棄の典型例として紹介する。
他方、中世学者でもこれらの節を廃棄の例に含めていない者もいる。
現代の学者は廃棄の条件を詳細にまとめ、
似非廃棄という
忘却、限定、解説などを廃棄と誤認した例を挙げる。
「剣の節」として知られる
クルアーン9章5節
を原因とした廃棄に関し
古典期
(ヒジュラ暦1176年、
西暦1762年没の
シャー・ワリーウッラーまで)
の学者がこれを認めるのに対し、
近現代期はまったく認めていないのは対照的。
ザルカシーの議論いわく:
軽減処置を命じる数多くの節が
剣の節
によって廃棄されたとする多くのクルアーン註釈家たちの主張は脆弱。
これらは忘却対象であり、
つまりすべての命令はその規定を義務とする理由に従って
ある期間に遵守されなければならない。
理由の遷移に伴って
別の規定に遷移するのであって、
廃棄ではない。
廃棄とは解消に他ならず、
決して遵守することが許されないからである。
忘却
=一時停止ないし休眠
(状況に応じて復活可能)。
(預言者に敵対し、策謀し、盟約を反故にし、
信仰者たちに無慈悲にふるまうアラブの多神教徒を殺せというのが剣の節。
異教徒を殺せの異教徒はイスラーム側とかわした約束を破った残酷な異教徒なのが重要。
異教徒を殺せはイスラームの共通見解ではないことも重要。
歴史的に見て、ヤソに比べてイスラームは異教との共存が上手くいっているし、
異教徒を殺せをひたすら実行なんてしていないから、
剣の節を理由とするイスラーム叩きのほとんどは無知に基づく不当だ。
剣の節は条件が限定されていると解釈し
異教徒を積極的に殺さなかったからこそイスラームは生き残ってきたのでは?)
古典期と近現代では廃棄の認定に大きな差異がある。
ザルカーニーいわく
例外や期限の設定による
限定
を廃棄・被廃棄と誤解してはいけない。
解説も同様。
比喩的解釈(タアウィール)
限定は廃棄よりも基準が緩やかであり
矛盾の解消に用いられやすい。
クルアーン2章191節
「しかし禁裏モスクでは
彼らがそこでおまえたちに戦いをしかけるまでは
彼らと戦ってはならない」
クルアーン9章29節
「税(ジズヤ)を収めるまで戦え」
・下村
(基本的に書かれた順にメモしているが
内容が剣の節の解釈なので、
本当はもっと後ろの方の記述だがここに持ってきた)
防衛線の縛りを解くのが
9章5・36・41節。
古典期の議論をまとめると
1
9章5節は剣の節として知られ
忍耐などを命じる節を廃棄し
2
戦闘一般を無限定に命じているが
3
女子供と修道者は除外され
ここで言われる
多神教徒には
4
背教者が含まれ
5
啓典の民が除外される可能性があり
クルアーン9章29節によって
6
啓典の民は人頭税の貢納による停戦が許されるが
7
偶像崇拝者は庇護民となり得ない可能性がある。
殺せとの表現は無限定であるため
8
正統カリフ時代に背教者が禁殺された故事も伝えられるが
9
遺体損壊は禁じられている。
包囲し
とは
10
封鎖を意味し
捕らえよ
とあるとおり
11
敵を捕虜とすることが許され
12
その処遇は
殺害、身代金、恩情の中からカリフが選ぶ。
13
多神教徒が入信すれば戦闘は停止され
14
その後に礼拝や法定喜捨拠出を拒否すれば背教者として討伐対象になる可能性があるが
15
義務を施行すれば停戦される。
他方
近現代の論客である
ムハンマド・アブドゥは9章5節が仮借などを命じる諸章句を廃棄したことはなく
それらは単に忘却されただけであり、
9章5節にある
多神教徒はかつて存在したアラブの多神教徒であったとする。
現代の代表的法学者ズハイリーは
1
剣の節であると述べながら廃棄・被廃棄の関係について一切言及しない。
多神教徒を殺せ
とは実質的にはすでに存在しなくなった
2
アラブの多神教徒を対象としており
3
女子供と修道者は除外され
4
遺体損壊も
5
苦痛を長引かせるような殺害方法も許されないとし
当然
6
焚殺についての故事も伝えない。
アラブの多神教徒は
7
改宗か殺害かを選ばなければならないが
すでに存在しないため空文化している。
アブー・バクルの背教戦争も
8
アラビア半島で背教した諸部族を対象としていた。
このように剣の節の対象がアラブの多神教徒であると限定的に解釈することで
全体をすっきりさせている。
ズハイリー(現代の代表的法学者 西暦2015年没)
いわく
多神教徒を殺せ
とは無限定な表現だが
預言者の慣行によって
女子供と修道者、また遺体損壊、
拘束下の者を矢で殺すことが除外され
最も殺害が許されない人々とは宗教者である
殺すのであれば、殺害に最善を期せ
とのハディースが伝えられる。
この節は、
おまえたちに戦いを挑む多神教徒たちを殺せ
の意味であり
アラブの多神教徒は殺されるか
改宗するかである。
啓典の民は9章29節によって本節の規定から除外される。
またハディースには
「おまえたちが多神教徒に遭遇した際には、
彼らをイスラームに呼び招け。
もし彼らが拒絶すれば、ジズヤ(人頭税)の貢納に呼び招け。
もし彼らがそうすれば、彼らから受け取り、
彼らに手出しするな」
とありすべて多神教とを指す一般的表現が用いられているが、
9章5節によってアラブの多神教徒が除外されるのである。
(剣の節という「多神教徒を殺せ」という記述の適用については
学者で意見が分かれており、
「イスラームは積極的に多神教徒を殺せという教え」
というのはデマだとわかる。
どの宗教も自分らの宗教が一番だと言うのは当然であり、
それについては咎められるべきではない。
異教徒への態度(例えば積極的に異教徒を虐殺するなど)
次第では咎められるべきである。
廃棄された個所かどうか確かめずに
コーランのこの個所は悪だと叩いている者に注意。
いきなりクルアーンを読んでもダメな理由。
クルアーンを原文で読み、
かつ多数派解釈と少数派解釈を学んだ人を情報源にしないと
デマをつかまされる可能性が高い。
剣の節についてシーア兄貴が解説してくれることを期待して
それについてRTしたら解説してくれた。
ありがとうございます!
ノスヘとあるが『クルアーン入門』ではナスフ。
母音のつけ方と日本語では完全に表現できないことから来る違いだろう。
蟹ぢから溢れる
🦀
💪
@onesyotasekai
6月16日
あーもう…だから、核汚染ではイスラームの議論何てできるわけねえのになんでするかな虫けら共め
えーとねぇ、第9章悔い改め・更正というのは最後の最期に啓示を受けたもので
この章の重要性は聖地であるマッカに多神教徒が入る事は出来ないという事とその退去時間が4ヶ月ですよという事なのよ
でね、これは前にفتح مکه に ついて知らないと話にならないのだけど…
まー案の定、この悔い改め章とこの話を結びつけて話さない核汚染民(片目を潰された奴隷)ばかりでやんの
あのさぁ…解釈本じゃなくて歴史の流れを理解した上で解釈があるんだよ?
歴史の流れを知らずに解釈本読んでどうするのよ?
(上記のアラビア語は検索すると
Conquest of Mecca
イベント
日付: 西暦630年1月11日 – 西暦632年6月8日
場所: サウジアラビア メッカ
Muslim victory
End of Muslim–Quraysh Wars)
このفتح مکه の 重要性はグライッシュ族が預言者(ص) と約束して
イスラームに帰依しますと行いますと約束したにも関わらず、
破るは戦争ふっかけてくるは未だに過去の陰習をするわで…
アッラーも預言者(ص)もわかってはいたけど嫌になって
最後の最期にこの啓示が降りてきたわけ…で、それがこの啓示なの
で、おいさんが持っている歴史書だとこー箇条書きされている
1、アッラーも預言者(ص) も多神教徒のアホさには嫌気がさした
2、多神教徒はバッジできない
3、カァバ巡礼も不可
4、 4ヶ月やるから聖地から出ていけ、用意出来ないなら助けてやるのと二度と約束はせん
5、多神教徒は天国行けへんで
なので、この章の第1節から129 節も続くこの啓示は
根本的には敵対してくるクライッシュ族や偽改宗
・または偽の教えを説き、
啓示者を唯一なる存在と一緒くたにユダヤ・キリスト教なんかがここに入ってくるわけ
そもそも、25節のフナインの戦争を説明できない奴が騒いでいる時点でお察し
でね、نسخ は廃棄じゃねぇ
「過去の命令をより良いものに変更される」
であって一般的に使われる場合と専門用語として使われる場合は意味が変わる
だから、廃棄として使う場合は
前のアーヤが完全無効化
→じゃー完全に無効化するものを何故啓示で与えたのか?という瑕疵が発生するので
そー表現はしない
おいさんの教科書には条件のひとつに
「ノスヘされる主題は変化しない
(過去啓示の目的や主題ではなくて、その行為等をより良く改良・改善する)」
のであって廃棄と訳すと行われる行為が間違っていたので
捨てるような印象がつけられかねない典型的なクソ翻訳となる
だから、仕事が多いんじゃアホンダラ
で、話戻すけど
よーはこの最期の啓示の前半の目的はアホな同族と
啓示を歪めて拡散しているアホな連中についてと
聖地等の扱いであって
無条件や無理由で虐殺・略奪しろという事ではないの
でね、核汚染ではこーいった背景等を学習できないので
イスラームについては核汚染語の環境では出来る訳がないの
平和はصُلحでسلم は 服従で このسلم が باب أفعال の 形になったものاسلم يسلم اسلام でこのハーブの意味は9つあるのだけど、ここで使われる意味は表明・証言する事
要は形而上に服従・従いますというのがイスラームでفَعال はصفت مشبهه で物人の性質を確定させる事なので従属者がسلام サラーム
こんな初歩の初歩の初歩の初歩何てね…
すこーし調べればホイホイ出てくるものであって、そのホイホイ出てくるものが未だに核汚染語化していないわけ
だーかーら、核汚染語ではイスラームの議論何てできるわけねえというのは
その核汚染語になっていない資料が多すぎて話にならないからなんよ
で、ハッキリ言うけど中東情報を英語で追っている奴はフォローする価値ないです
中東情報は絶対にアラビア語・トルコ語・ペルシャ語・ヘブライ語・ウルドゥー語に現地の言語以外では使えると思わないで下さい
じゃねえとペルシャ民族主義者の妄言を一般的だと誤解したりするので本当に迷惑極まりない
6月17日
あークッソ重要だけど、ナジェスアラビアでの注釈が全てじゃないからね
アレはあくまでもワッハーブ派というスンナ派でも異端な連中の内輪でのنسخ 論であって他の宗派ではまた別の改善論があるのでそれが全てと思わない事
禅宗と浄土真宗は一緒です何て言ったらただのアホでしかないだろ?
正にソレ
だから、中田先生が監修された10大宗派の注釈を入れたクルアーンが重要になってくるわけ
例えばね、宗派によってはおちんちんの皮カットしない
何で?というと、家畜に焼き印等をつけるのを禁じたわけだから、
それと同様におちんちんの皮カットしない(形而上に従う者達の印は不要)のよ
で、核汚染では注釈できた→解釈を原文で当たって知っている→宗派ごとの議論が出来る→その議論の細かいところまで知っている人がいるとなってやーっと形而上に服従する者達の議論が出来るわけ
そもそも、イスラームを宣う連中がアラビア語語形論の知識がねえのに出来るわけねえだろぉ、ドアホ!
前も話したけど、アラビア語は基本3文字で構成されていて読み方や足されたり、引いたりすることで言葉が変化するので
それを理解していないとお話にならないのと
弱動詞や活用変化、語形変化それに語尾変化等を理解していない連中がイスラームの議論を出来るわけがないのよ
だから、出来ないと言っとるの
例えば、أمن و وطن و قوم و حتى و مدد و وفي و حيي と 見た時にどれだけの人がピンとくる?わけわからないでしょ?
ね、その時点でお話しにならないの
で、核汚染に居るクソリマ・クソリム共の殆どですらコレについてわかっていないので議論何てできるわけねえの!
基本がないのに議論が出来るか!
(グーグル翻訳だと
Security and homeland and people and even and extended and in and living))
WATABE Ryoko@khargush1969
2015年8月26日
クルアーンのnaskh(廃棄)の根拠となる節、第2章「雌牛章」106節「われは(啓示の)どの節を取り消しても、また忘れさせても、それに優るか、またはそれと同様のものを授ける」
イスラム教の寛容は非寛容によって破棄された。コーランの「剣の節」について:「なぜ私はイスラム教徒ではないか」 https://t.co/zsVux5E73N
— あ (@kinoko2004) 2017年5月9日
)
・下村
クルアーンの章句は
ムフカム(明瞭文)
ムタシャービフ(曖昧文)
に分かれ、
前者が
ナッス
(明文
一義的)、
ザーヒル
(優勢文
多義的だが字義に照らして妥当な文意が有力)、
後者が
ムジュマル
(概括文
多義的で複数の意味に優越がつけられない)、
ムアウワル
(タアウィールされる文
∵通常妥当とされる意味では通用せず不明瞭)
とする四分類説がある。
あるいは
前者がナッス(ナッス以外はすべて多義的)
とザーヒルに、
後者が
ムアウワル
(字義からずらす文
字義から離れている))、
ムシュタラク
(共有文
複数ある文意の間に優劣がつけがたい場合に
共通性を有する)、
ムジュマル
(複数ある文意の間に優劣がつけがたい場合に
個別的)
に分かれるとする五分類説がある。
クルアーン解釈を示す用語には
タフスィール(解明、発見、明示)と
タアウィール(原義「原初へと戻すこと」)
がある。
初期では両者は区別がなかった。
が、区別すべきだとの立場も古くからあり、
中世では
タアウィールが特に
ムタシャービフ(曖昧文)の解釈、
内面的解釈
演繹(見解)による解釈を指すとまとめられ、
時代が下ると特に
暗示的解釈を指すことが慣例となる。
時代にもよるが
タフスィールとタアウィールに
一般 神秘
顕教 秘教
外的 内的
字義 比喩
伝承 見解
といった対称的意味を与えている可能性がある。
クルアーンの中には擬人的な描写がある。
この矛盾については
古典期は大まかに
本義否定・判断停止説
=アッラーが座る、アッラーの顔や目や手などを
日常的な意味ではないことを最低限了解した上で
それ以上は一切不明であり
クルアーンにはそうあるので詮索せず信じるべきだ
というスンナ派の多数説
と
転義解釈説
=アッラーの顔が本体や
人間が向き合うべき方向を、
目が視力や知覚を
手が権能などを意味する転義であるとする。
に分けられる。
さらに
イブン・タイミーヤに代表される本義と転義の区別を認めない立場からの
本義肯定・判断停止説
が存在し、
現代において支持者を増やしているとの指摘があるが
伝統派の学者から批判を受けてもいる。
本義肯定・判断停止説の
本義肯定
=本義と転義の区別を認めず
コトバはすべからく本義であるとする立場。
同じ家でも
人間の家と
クモの家では指示される実体が違う。
これは言語の本質的属性によるものであり
本義と転義との区分は恣意的であり無効であるとして
イブン・タイミーヤに代表されるサラフィー主義はこの区別を認めない。
スーフィズム的解釈は暗示による解釈と呼ばれ
例えば
おまえたちに近い不信仰者と戦え
9章123節
の
おまえたちに近い不信仰者
を自我と解釈する。
内面的・秘義的解釈は
外面的意味を全否定も可能であり
激しく警戒された。
スンナ派伝統主義の通説では
スーフィズム的解釈が外面的意味と共存するなら受容可能だとされる。
(本書では内容が複雑である場合
冒頭に要旨がついていて親切)
・松山
スンナ派は、
教友の捉え方においてシーア派と大きく対立。
スンナ派が
模範的な信仰者
として尊敬の対象とする教友の一部が
シーア派(イマーム派)においては
醜悪な背教者
であると信じられている。
スンナではムハンマドの後の初代カリフはアブー・バクルであり
次がウマル
次がウスマーン
次がアリーとされる。
スンナでは彼らのカリフ位はすべて正統で
四名のいずれもがムスリムが規範とすべき信仰者とされる。
しかしシーアでは
アブー・バクルからウスマーンの三名は
アリーのカリフ位を簒奪した背教者とみなされる。
なおスンナではシーアと異なり
カリフは無謬とみなされず
カリフとなる人間が同時代において最善の人間である必要性も認められません。
シーアではムハンマドの妻アーイシャは背教者とされ
呪詛の対象とされる。
しかしスンナでは
アーイシャは
信仰者たちの母
と呼ばれ
預言者が愛した女性として尊敬と模倣の対象とされる。
・松山
スンナ派は一時婚は禁止
シーア派では一時婚が許容されている
一時婚
=期間を定めた婚姻契約で性交渉が合法となる
スンナ派の理解では
一時婚はムハンマドが生きていた時代に特別な状況下で例外的に許容されたことがあるが
後に恒久的に禁止。
スンナの多くの学者が
一時婚が禁止されたことにムスリムの合意(イジュマーウ)が成立したと主張。
クルアーンでは伴侶と奴隷以外との性交渉が禁止。
一時婚の相手は伴侶でも奴隷でもない。
一時婚を結ぶ女性が妻とみなされない根拠の一つは
彼女と男性のあいだに遺産相続権がないから。
(一時婚が分単位でみなされるとすればムスリムが合法的に風俗に行けるのが
禁止の理由の一つなのだろう)
・平野
(おそらくイスマーイール平野先生とシーア兄貴が言っている人。
平野先生のツイッターアカウントが非常にわかりにくい。
@の後ろにアルファベットでイスマーイールとある)
シーア派(以下これは十二イマーム派を意味する)とスンナ派の
最も大きく異なる教義は
イマーム論。
スンナのイマーム
=共同体の政治指導者カリフ
シーアのイマーム
=啓示を受け取ること以外のすべての権能を
預言者ムハンマドから引き継いだ無謬の指導者。
シーアでは
ムハンマドが彼のいとこで娘婿のアリー(661年没)をイマームとして指名し
アリー以降はムハンマドの娘ファーティマとアリーの間の子孫が
代々イマームとなっていったとされる。
スンナの理解では
クルアーンの編纂はアリー以前の正統カリフたちの功績。
対して
アリー以前の三人のカリフ
(初代アブー・バクル
2 ウマル
3 ウスマーン)
の権威を認めていないシーア派では
クルアーンの書物としての編纂はムハンマドの在世時にすでに完了していたと言われる。
アリーはムハンマドの生前、
もしくは彼の死の直後には完全なムスハフを完成させていたとする。
現代シーア派の解釈では
アリーのムスハフはウスマーン版ムスハフよりも大著であり
クルアーンの章句の意味の説明や注釈も含んでいたとされる。
一方
ウスマーンがクルアーンを一つにまとめたことは
シーア派も認めるイスラーム教徒全体の合意事項。
ウスマーンはウスマーン版以外のすべてのムスハフを焼却させた。
シーアの教義では
使い古したムスハフを処分する場合には
水で洗って文字を消してから処分しないといけない。
しかしウスマーンは水で洗うことなく焼却処分させたため
シーア派は糾弾し
ウスマーンを
諸ムスハフの焚書者
と呼び非難することがある。
表のイマーム図より
初代イマーム アリー
2 ハサン
3 フサイン
4 サッジャード
5 バーキル
6 サーディク
7 カーズィム
8 リダー
9 ジャワード
10 ハーディー
11 アスカリー
12 マフディー
クルアーン改竄説
シーア派はクルアーンの収集にウスマーンが関わったことは認めていた。
しかしその内容がムハンマドに啓示された通りのムスハフかどうかについては
疑念を抱く学者も初期には多くいた。
ウスマーン版が本来の啓示の一部を故意に削除していると主張し、
クルアーン改ざん説
を唱える者たちがいた。
アリーらイマームの名前がクルアーンで一切言及されていないことについては
初期からシーア内に議論されてきた。
10世紀中葉までのクルアーン改竄論者たちは
もともとの啓示にはアリーらのイマーム位を明示する章句が多く含まれていたものの
それらの章句はことごとくウスマーンまでのカリフや教友たちによってクルアーンから削除された
と主張した。
ここで注意すべきは
クルアーン改竄論者たちもウスマーン版ムスハフには人間の言葉が追加されたとは
主張しなかったことである。
すなわち、ウスマーン版ムスハフはそのすべての文言がアッラーから下った
クルアーンの一部ではあるが、
イマームらに言及する章句が意図的に削除された不完全なムスハフであると理解されていた。
クルアーン改竄論者たちは
ムハンマドに啓示された通りのクルアーンが完全に消失した
とは考えなかった。
彼らによれば、
最初にアリーがクルアーンを収集して作ったムスハフには
ウスマーン版が故意に削除した章句も含まれており
アリーはそれを二代イマームとなる息子のハサンに渡し、
そのムスハフは代々イマームたちに継承されていったとされる。
改竄を受けていない真のクルアーンは
イマームたちがそばで守り続けてきたと考えられた。
ウスマーン版ムスハフの完全性の教義の確立
ウスマーン版ムスハフに改竄が疑われたのは
10世紀中葉までであり、
10世紀終わりからはウスマーン版ムスハフに改竄があったという主張が
シーア派内で非難されるようになった。
9世紀後半から10世紀中葉にかけてのシーア派内では
理性的推論を行わずイマームの伝承にのみ依拠して
教義を説明しようとする伝承主義者たちが大きな勢力を持っていたが
11世紀に彼らは徹底的に批判され
理性と伝承の調和を図る潮流がシーア派の圧倒的多数派となったと言われる。
11世紀以降の理性を重視したシーア派学者たちは
10世紀中葉までの伝承主義者たちの主張したいくつかの教義や方法論を批判し
その批判はクルアーン改竄説にまで及んだ。
そもそも伝承主義者の重鎮シャイフ・サドゥーク(991年没)がクルアーン改竄説を批判したように、
10世紀の後半には伝承主義者の中でもウスマーン版ムスハフの内容の完全性が認められるようになっていた。
理性を重視した11世紀の学者たちは、
イマームに帰される伝承を無批判に受け入れたとして10世紀の伝承主義者たちを批判し
クルアーン改竄説を完全に否定した。
このようにして10世紀後半からウスマーン版ムスハフの完全性を信じることが
シーア派の圧倒的主流派の教義に組み込まれることになったのである。
一説では、10世紀の終わり以降、
シーア派の中でクルアーン改竄説を唱えたことが知られている学者は7人しかいないと言われており
全員が伝承主義的傾向を持っているとされる。
一部のスンナ派学者はシーア派が信仰隠し(タキーヤ)を実践することで
クルアーン改竄説を表向きに隠しているだけであると主張してきたが
シーア派はクルアーン改竄説に関する信仰隠しを否定してきた。
シーア派によれば、信仰隠しとは、
生命、財産、名誉に危険が及ぶことが想定されるときに
自らの信仰を隠すことをいう。
シーア派では個人の判断で危険時に信仰隠しを行うことが認められているが
逸脱した教義を信仰隠しによってシーア派の教義として紹介、解説することは禁じられており
クルアーン改竄説を巡っての信仰隠しはないとされる。
そのため10世紀終わりから現在までシーア派の圧倒的多数派は
ウスマーン版ムスハフに一言一句たりとも追加も削除もないと信じてきたと言えるだろう。
現在のシーア派による過去のクルアーン改竄説についての評価
10世紀までのシーア派伝承集の中に
ウスマーン版ムスハフの改竄を指摘する伝承が多く含まれているのは確かである。
9世紀末から10世紀中葉までの多くのシーア派学者がウスマーン版ムスハフの改竄説を支持していた
ことも文献上明らかである。
そのため11世紀以降のシーア派は大きな矛盾を抱えることになった。
ウスマーン版ムスハフの改竄を唱えるイマーム伝承については
イラン革命の指導者でありシーア派の法学権威(マルジャア・アッタクリード)でもあった
ホメイニーはその伝承経路を精査することで
1 薄弱な伝承
2 捏造された伝承
3 真正な伝承
に分けたと伝えられる。
ホメイニーは3だけを考慮すべきだとする。
ホメイニーは
ウスマーン版ムスハフの改竄を伝える伝承の真意は追加や削除のような物理的な改竄ではなく
意味的な改竄であると主張。
クルアーンの改竄を伝えているようにも思える伝承はクルアーンの意味の曲解を指摘し
正しいクルアーンの意味を教示するものであると考えた。
しかしホメイニーはウスマーン版ムスハフにおける章の配列の改竄は認めていた。
彼によれば
朝章(93章)と
広げること章(94章)はもともと同じ一つの章であり、
象章(105章)と
クライシュ章(106章)も一つの章であったという。
現在のイランの最高指導者であるハーメネイーも同様の見解をとっている。
10世紀中葉まで多くの学者がウスマーン版ムスハフの改竄を支持したことは
11世紀以降のシーア派も認めている。
しかしながら、後のシーア派はウスマーン版の改竄を最初に唱えたのはスンニ派だと主張するようになった。
例えば、
ウマルはクルアーンに姦通の石打ち刑を命じるクルアーンの章句があった主張したが
彼を支持する教友が他にいなかったため、
ウマルの伝えた石打ち刑の章句はクルアーンに含まれなかったと伝えられている。
他のスンナ派の伝承では
ウマルはクルアーンが102万7000単語からなると伝えたが
ウスマーン本はその3分の1にも満たないと言われる。
また、ムハンマドの妻アーイシャは部族連合章(33章)が
ムハンマドの生前はウスマーン版より長かったと語ったとされる。
このように正統カリフであるウマルを筆頭に教友たちがウスマーン版の改竄を最初に疑い始めたと
シーア派は考えるようになった。
スンナ派由来の改竄説がイマームたちに帰される伝承の形でシーア派内に持ち込まれたと考えられるようになった。
イマームはクルアーンを知悉していると考えられていて、
無謬なイマームのクルアーンについての知識は
ムハンマドが持つ知識と同等だと考えられている。
イマームは罪からも誤りからも免れた無謬者であるとみなされている。
無謬の根拠は
「アッラーはただ、
家の者たちよ、
おまえたちから汚れを取り除き、
そしておまえたちを完全に清めたいと欲し給うのである」
(33章33節)
上記の
家の者たち
=(シーア派では)ムハンマドの家族
=ムハンマドの血縁のイマームたち。
シーアではクルアーンの中には重層的意味を持つ節が複数存在している。
字義どおりの意味は外面的意味(ザーヒル)と呼ばれ、
その裏側には重層的に隠された、
内面的意味(バーティン)が存在する。
イマームは両方とも、
アッラーがムハンマドに開示したものはすべて知悉しているとされる。
(本書ではアルファベット表記の個所をカタカナになおしたりしているが
私のカタカナ化が誤っている可能性があるので注意。
イマームが無謬である根拠が33・33)
シーアのクルアーン解釈
1 スンナと共通する解釈
一部のシーア派イマームたちはシーア派以外の信徒からもクルアーン解釈の権威と見なされてきた。
預言者たちの物語については
シーアのタフスィールで言及される内容の大半はスンナ派のものと一致。
預言者イーサー(イエス)については
シーア派のタフスィールでは彼が処刑されず天に昇ったこと
イーサーの代わりの人物が磔刑になったことなどが記述されている。
イーサーについてのこのような解釈は
本書第15章でみるようにスンナ派も同様の解釈を行っている。
シーアに特徴的な解釈
シーア派ではムハンマドが生前に一時婚を全面的に合法としており
彼は死ぬまで撤回しなかった。
一時婚はアッラーがクルアーンで合法と認めた制度。
4章24節の
おまえたちが楽しんだ
の語根と
一時婚の語根が同じなので
単に楽しむではなく一時婚という意味であると解釈される。
アラビア語では三つの語根が同じであれば
それらの単語が同系統の意味を持つことが少なからずある。
外面的意味と内面的意味は両立し
一方が他方を破棄することはないことに注意すべき。
シーア派では
14章26節の
悪い木
がイマームたちの敵を指していると解釈する。
悪い木に譬えられたウマイヤ家はクルアーンの中で呪われているとする。
ウマイヤ家とは
アリーと戦い
アリーの死後に二代イマーム、ハサンからカリフ位を簒奪したとみなす
ムアーウィヤ(680年没)や、
三代イマーム、フサイン(680年没)をカルバラーで惨殺した、
ムアーウィヤの息子ヤズィードらウマイヤ朝カリフの血統である。
シーア派の圧倒的多数派である十二イマーム派は
法規定の内面的意味を強調したり
外面的意味を破棄したりすることはなく
法学規定の外面的意味を重視してきた。
そのため十二イマーム派内では
外面的意味の解釈に基づいた法学が発展。
・後藤
旧約の創世記とクルアーンの違い。
クルアーンには肋骨のくだりはなく
男女の区別が強調されない形で
一つの魂
あるいは
男性と女性から
人類が始まったと表現される。
旧約では蛇にそそのかれば女がまず木の実を食べ
それを男に与えたとある。
が、クルアーンでは
二人が(あるいはアーダムが)悪魔の言葉を真に受けた後に二人で木の実を食べたという言葉がある。
(イスラームでは明らかに旧約の創世記の男尊女卑の個所を修正し
どちらが悪いとか優位とかと取られる表現を避けている。
旧約だとまっさきに騙されるのは男ではなく女だという解釈も可能。
もしかしてワンピースの悪魔の実の元ネタってエデンの園の禁断の果実?)
24章30・31節
より
男女の信仰者に
目を伏せ(見ることを禁じられたものを見ず)
陰部を守るように(不倫な関係に使わないように)
とあるが
女性に対してのみ
飾り(美しい部分)を人に見せないように
胸元には覆いを
飾りのうちみずからが隠したものが知られないよう
彼女らの足で打ち鳴らしてはならない
とある。
(胸は性的な部位だととらえているのだろう。
装飾品=財産
なので見せびらかしてはいけない)
4章34節
が男女問題の議論で注目されてきた。
アラビア語の原語を用いつつ直訳すると
以下のようになる。
”男たちは女たちのカウワームである。
アッラーが一方を他方よりもファッダラしたからであり、
彼らが彼らの財産から費やすからである。
良き女性とはカーニタで、、
神が護り給うたがゆえに留守中に護る者たちである。
おまえたちがヌシューズを恐れる女たちは、
よく諭し、寝床で彼女たちを避け、そして打ちなさい。
もし彼女たちがおまえたちに従うなら、
それ以上の方法を探してはならない。
アッラーは崇高にして、
大いなる御方であらせられた。”
カウワームは
指導者や監督者、
管理者、扶養者、保護者など
さまざまに理解しうる単語。
ファッダラも
他より好む
優先する、
上に位置づけるなど
さまざまな意味がある。
カーニタは
従順な(女性)という意味で、
ヌシューズは
敵意や反感、不和という意味で理解されている。
どれをどう組み合わせるかによって男女の関係の理解は大きく異なる。
男性優位の考え方を廃し、
男女同等の思想にもとづきながら解釈したのが
20世紀の有名な思想家サイイド・クトゥブ(1966年没)である。
ムスリム同胞団のイデオローグとして知られた彼が
エジプト政府に思想犯として逮捕された後
獄中で著したといわれるクルアーン注釈書『クルアーンの陰で』には
以下のような記述がある。
アッラーは男女がそれぞれ自らの責務をまっとうできるように必要な能力をお与えになった。
彼は上記の章節を次のように解釈する。
男性が女性のカウワームとされたのは
男性の特性や経験がそれに適しているからであり
男性が女性を扶養する責務を負っているからである。
彼によると
カウワーム=家族の保護者、扶養者。
神はカウワームとなるために特性や経験を
男性にファッダラした(男性優位の含意はない)という。
正しい信仰を持つ女性は当然のこととしてカーニタである。
正しい信仰を持たない女性が起こすのがヌシューズ=不従順や反抗的行為。
クトゥブの議論をさらに広い視野でとらえ直すことで
新しい男女同等論を展開したのが
アメリカでイスラーム学の教鞭をとるアミーナ・ワドゥードである。
アフリカン・アメリカンとしてメソジスト教会の牧師の家に生まれた彼女は
大学在学中の1970年代初頭、
社会での完全な正義の実現を求めてイスラーム教に入信。
ところが彼女が目の当たりにしたのは
家父長的で男性中心的なイスラーム教であった。
ワドゥードは神の真意に由来する本来のイスラーム教があることを信じ、
それを示そうと『クルアーンと女性』を1992年に執筆。
彼女はカーニタもヌシューズも男女双方にもとは用いられてきたことを強調。
カーニタ
=神に対して従順な者。
ヌシューズ
=夫への不従順ではなく夫婦間に不和の種を持ち込むこと。
クルアーンには女性に対して夫に従順であれと命じる言葉はない。
ただし、実際の結婚生活の中で
妻たちは物質的な供給者である夫に従うべきだと考え、
従っていたとも述べている。
以上のワドゥードの読み方に従い
4章34節を訳出すると、次のようになる。
”男たちは(子を産み育てる役割をもつ)女たちの
(物質的・精神的・道徳的・知的・心理的)支援者である。
そのために神は(相続規定の中で)一方の取り分を他方よりも多くし、
男性が財産を費やすようにした。
良き女たちとは神に対して従順で、、
神が守り給うたがゆえに留守中に守る者たちである。
夫婦のあいだに不和を持ち込む心配のある女たちには、
(まずは)よく諭し、(次に)寝床で避け、(それでも駄目なら、軽く)打ちなさい。
もし彼女たちがあなたたちに従うなら、
それ以上の手段に訴えてはならない。
まことにアッラーは崇高にして、
大いなる御方であらせられる。”
「打ちなさい」の解釈
クルアーン注釈書で男性の絶対的優位を強調したイブン・カスィールは
この章の終わりの部分ではこれまでの姿勢を少し軟化させるかのように
忠告しても、あるいは寝床を分けてもきかないのであれば、
力をこめずに彼女たちを打つことが許されていると述べている。
イスラーム初期時代の複数の伝承を引きつつ、
力をこめないことや
怪我を負わせないこと
が求められていると述べている。
クトゥブは打つのは家族を危機的状況に追い込む懸念がある場合にのみ
最後の手段として許されると述べられていた。
ただしそれが妻への精神的・肉体的虐待であってはならないし
怒りに任せて打ってもならないし、
愛情をこめて
しつけのために打つのである。
ワドゥードは
女性を打つという行為の許容とは考えない。
預言者の教友の伝記などに見られるように
当時夫たちは妻たちに暴力をふるっていた。
この啓示の中で
繰り返し打つ
わざと打つ
という意味のダッラバではなく
ダラバ(打つ)という動詞の形を用いたことで
神は男性による女性への無制限の暴力を制限したのである。
彼女はまた、同節が
現代のムスリム男性によるドメスティック・バイオレンスを許容する口実にはなりえないとも指摘。
なぜなら彼らは
諭し、寝床で避け、打つという手順を踏んでいないからだ。
(翻訳は翻訳者の解釈が必ず入るから
クルアーンの訳文だけを読んで男尊女卑の邪教だと断じる発言は無価値。
上記のように最低でも中核となる単語はアラビア語の意味を書いている人の解説
を踏まえて判断しないといけない)
・松山
マルヤム(マリア)の子イーサー
マルヤムの子、マスィーフ(メシア)たるイーサー(イエス)
自分の子をイーサーと名づけるムスリムも決して少なくない。
マルヤムのもとに天使ジブリール(ガブリエル)が現れ
イーサー誕生の吉報を告げたいわゆる
受胎告知
はムスリムによっても信じられている。
イーサーを処女のまま身ごもり
ひとびとから離れた場所で出産する。
生まれたばかりのイーサーを抱える彼女が
未婚でありながら子供を産んだことに驚いた。
(要は姦通を疑われた)
ゆりかごのなかの幼子が母マルヤムの潔白を人々に証明した。
言葉を話す奇蹟。
(生まれてすぐに大人なみに話せるイエス)
イスラームでは
イーサーは神自身でもなく、
神の位格でもなく、
神の息子でもない。
ムスリムにとって
イーサーは被造物たる人間であり預言者の一人。
受肉の教義はない。
有始なる世界を、
無始なる神と峻別することは
神を唯一永遠の創造主とみなすことの必然的な条件である。
イーサーの神性と三位一体を否定し、
被造物=人間とする点が
イスラームとキリスト教の根本的違い。
イーサーは
土で鳥を形づくり生きた鳥に変え
ハンセン病患者や生来の盲者を治癒し
死者を蘇生させ
人々が食べるものや家に蓄えてある物を言い当てる
奇蹟がクルアーンにある。
クルアーンでは
キリスト教のほとんどの宗派の根本教義である
イエスの十字架上の死が根本から否定される。
よって三日目の復活も否定。
イスラームでは
イーサーは死んでおらず、今現在も生きている
と信じられている。
イーサーは死せずして、生きたまま、
身体をともなって天に上げられた
ことはムスリムの学者間のほぼ一致した見解とされる。
十字架にかけられたのはいったい誰なのか
という点では定説なし。
一説では
身代わりとなりイーサーの顔に変えられたイーサーの側近の一人だと言われ、
別の説では
イーサーを殺そうとしたユダヤ教徒のうち一人の顔が
イーサーの顔に変わりその者が殺されたともいわれる。
あるいは
イーサーが天に上げられてしまい殺害できなかったため
実際には誰も殺していないが
虚偽を言って彼を殺したことを主張したのだともいわれる。
天に生きるイーサーは終末が近づくと再び地上に降り立つ。
(肉体とともに昇天したことが重要。
グノーシスの肉体=悪を脱ぎ捨てよ
という教義の否定。
だがキリストは十字架上で死んでいないとするのは
グノーシスなどキリスト教少数異端派が元ネタだろう。
イスラームはキリスト教の正統多数派要素も
少数異端派要素も取り入れることで
彼らがイスラームに改宗しやすくしつつ、
キリスト教正統多数派の根本教義である
十字架上の死を完全否定している。)
イーサー再臨の根拠は主にハディースに求められる。
イスラームでは審判の前に
現在のこの世界は終末を迎えると信じられる。
しかしそれがいつかはアッラー以外はわからないと
7章187節にある。
イーサーは空から降臨する。
イーサーが空から降り立つとき
大規模な争いが発生している。
この争いはダッジャール(偽救世主)の軍とムスリム軍のあいだで戦われるものである。
イーサーはダマスカスの東側にあるモスクの白い尖塔に
ふたりの天使の羽に肩を置きながら日の出前に降り立つ。
エルサレム近郊に夕刻に降り立つともいわれる。
そしてムスリム軍に加わり
パレスチナのルッド門にダッジャールを追い詰め殺害する。
ムスリム軍はダッジャールに従っていたユダヤ教徒たちの残党を滅ぼす。
(イスラームでは露骨に
キリスト教>ユダヤ教)
ダッジャール軍が消滅したあとに
地中からヤアジュージュ(ゴグ)と
マアジュージュ(マゴグ)が出現する出来事も生じる。
彼らは凶悪で数が多く地を荒廃させる。
しかしイーサーとムスリムたちの祈りに応え
アッラーは彼らを死滅させる。
ヤアジュージュ(ゴグ)と
マアジュージュ(マゴグ)は
現在地中に生息している野蛮な二つの部族である。
かつて
ズル=カルナインが彼らを地球に閉じ込め封印した。
(地底から悪魔が出現する思想の元ネタ?
厄呪呪と魔呪呪という当て字を思いついた。
誤愚と魔誤愚。
ダッジャールを創造したのもアッラーなので自作自演だな。
ムハンマドではなくイエスがダッジャールを殺すのはなぜだろうか)
イーサーの統治のもと
地に平和が満ちる。
イーサーを目撃したことにより
地上に残った啓典の民はユダヤ教徒であれキリスト教徒であれ
全員イスラームに帰依し、諸宗派は統一される。
彼はまた十字架を破壊し
豚を殺す。
啓典の民は存在しなくなるため人頭税が支払われることもなくなる。
(この世はイスラーム教徒だけになるらしい。
十字架なんて普通は崇めないわな。処刑器具だし。
豚がピンポイントで殺されるのか)
その後イーサーは死去しマディーナに埋葬される。
(不死ではない)
イーサーは神性はないが無謬。
イーサーはムスリムによって使われる名であり
アラビア語圏のキリスト教徒はイエスを
ヤスーウと呼ぶ。
・ムスリムからみたブッダ
クルアーンにおけるブッダへの言及の可能性
仏教とその開祖のブッダはクルアーンでは直接言及されていない。
啓典の民の信仰はクルアーンにおいて基本的に認められており
ムスリム支配下の土地においても
特定の税を納めることを条件に自分たちの宗教を実践することを許されていた。
ムスリム統治者のもとで保護される異教徒は
ズィンミー
と呼ばれた。
また実際にムスリム軍の支配下に入った地域では
クルアーンで言及されている三つの宗教以外の宗教に属する人々も同様に
保護されていたといわれている。
たとえば、ペルシアのゾロアスター教徒は啓典の民に加えられていたとされるし
インド亜大陸のヒンドゥー教徒および仏教徒も事実上、
啓典(キターブ)の民として扱われたと考えられている。
シンド(現在のパキスタン南部)は仏教の盛んな地域であったが
八世紀初めにイスラーム帝国の支配下に入った後も
仏教徒は自由に仏像を作ったりしていたようである。
中世のムスリムの仏教観の共通する特徴は
釈迦をイスラームの預言者(ナビー)としてとらえていること。
預言者はそれぞれ神から啓示を受け
自分たちの共同体に教えを説いていたとされる。
教えの内容はタウヒード(神の唯一性)つまり一神教だったが
時がたつにつれて教えに改変が加えられ
もともとの教えから遠いものとなってしまった。
改変や逸脱を正し教えを最も完全に伝える最後の預言者がムハンマド。
すべての使徒は預言者でもある。
地上のすべての人間の共同体には神の心理を伝える使徒が遣わされていて
それぞれ啓典を持ってきた。
ブッダをイスラームの預言者とみなすことは
仏教はもともと一神教であったが
変化により完全な一神教ではなくなったということである。
ちなみにこれは他の預言者の場合と同じく
ブッダの教え自体が間違っていたということにはならない。
中世のムスリムによる仏像の扱い
イスラームでは神に具体的な形を与えて可視化することは厳しく禁じられている。
厳密に言えば禁じられているのはただ像を作ることではなく
被造物である像(いわゆるモノ)を創造主である神として崇拝すること。
クルアーンでは人物や動物などを可視化することは禁じられていない。
ブッダを神と定義できるか難しいところだが
崇敬対象になっているなら偶像の一種だと考えられるであろう。
実際、現代では仏像はイスラームの観点からは許容できないとみなされることが多い。
中世の例を見ると
ムスリムは必ずしも仏像を禁忌したわけではなかったようである。
インド亜大陸に進軍したムスリムは
現地で見つけた仏像を取り立てて破壊することもなかったという。
たとえば現在のアフガニスタンにあたる地域では
ムスリム軍が現地で手に入れた仏像を戦利品として
バグダットに送り返したとされる。
11・12世紀になると
ガズナ朝(977-1186年)やゴール朝(1000-1215年)の軍が
インド亜大陸に攻め込んできた。
このときナーランダー僧院など主要な仏教施設が攻撃されたが
これは主に政治・経済的動機によるものであったといわれている。
中世のインド亜大陸におけるムスリムによる他宗教施設の扱いは
仏教であれヒンドゥー教であれ
かなりあっさりしていた。
像は大抵の場合完全に破壊されることはなく
顔のみが削られた。
攻撃した宗教施設をモスクに転用したり
略奪した像を市場で売ったりすることもあったようである。
ムスリム軍の活動による実質的脅威の感覚を伝えている
最も典型的な例が時輪タントラ。
ムスリムと仏教徒の共存の歴史が長い
スリランカや東南アジア諸国では
本章で紹介してきたブッダに関する見解が
現地のムスリムコミュニティと仏教徒コミュニティの関係を改善する目的で
言及されることがある。
すべての宗教はひとつの真理がさまざまな預言者(仏教ではブッダ)によって
説かれたものであり、
さまざまな宗教の教えは基本的に同一であるというスタンスがとられている。
スーフィーはすべての宗教の目指すものは究極的には同一だという立場をとる傾向にある。
アフマディーヤの指導者たちは
ブッダが神の啓示を受け、
タウヒードを説いたことを示す試みに力を入れた。
(仏典で否定されていることを
否定されていないと示す試みって捏造じゃねーか。
アフマディーヤは万教帰一系だろうね。
仏教は本来一神教だとか、
宗教は多数あるがすべて同じ真理を説くとかは
明らかな詭弁にして
典型的な万教帰一論法。
本当にこいつらは仏教を正確に解釈したためしがないな。
「根本ではない個所つまり倫理道徳では共通点があるが
根本思想は真逆。
多様性を認め、すみわけよう」でいいでしょ。
ブッダは預言者ではなくシャイターンと解釈する方が自然だと思うのだが
なぜしないのだろう?
あれほど根本が真逆なのに
倫理道徳がかなり被っているのが人類の普遍性を感じさせてくれて興味深い。
殺すな盗むな姦淫するな酒を飲むなギャンブルをするな。
神学なら当然、根本思想を否定する側もゴッドが創造したからその意味も考えないといけないからな
仏教に対抗したいなら仏教思想を正確に深く把握しないといけない。
藁人形なんてダメだぞ。)
註釈
大乗仏教の三身説では
法身としてのブッダはもともと姿形を持たないが
衆生救済のためにさまざまな形(報身、応身)をとって現れるとされる。
浄土真宗ではこのように具体的な姿形をとったブッダを
方便法身
とも呼んでそれが仮の姿であることを強調しており
仏像も人間の仏法理解のため
あるいは具体的な崇拝対象として便宜的に作られるものであるとしている。
一方
禅などでは執着を断ち切るために仏像などに否定的な姿勢が強調されることもある。
アフマディーヤはイスラーム中では異端視されている。
「我々の外観および認識の創造主」
であるアディブッダはインドネシアの大乗仏教徒が自分たちの神として提示した概念。
インドネシアではイスラームをはじめとして複数の宗教が公認されているが
公認を受ける宗教は唯一神、預言者、および聖典を持っていなければならない。
このため大乗仏教徒はすべてのものの源である「本初仏」アディブッダ
を自分たちの神としている。
一方
上座仏教徒はアディブッダではなく三法(仏法僧)を自分たちの神として提示。
(インドネシアは一神教優遇国家だとわかる。
三つの神聖存在が神って三位一体かな?
夢の回転ユキダマ@8_snowball
1000年以上コーランに従って存続してきた集団が、
現代ヨーロッパでも同じ生活様式を主張すると、「怠惰だ」「社会に寄生している」と激怒されます。
現代人が言う「働く社会人」のいびつ性がよく出ていると思う。
ピザノザウルス@ガリィちゃんはかわいい@pizano1215
「しかし、ホメイニーはウスマーン版ムスハフにおける章の配列の改ざんは認めていた。
彼によれば、「朝章」と「広げること章」はもともと同じ一つの章であり、
「象章」と「クライシュ章」も一つの章であったという。
現在のイランの最高指導者であるハーメネイーも同様の見解をとっている」
松山洋平編『クルアーン入門』p329より
峨骨@Chimaera925
サウジでは民営化と女性の解放と称して労働力の拡大に走るかな。
テレワークの推進だけでなく。車を運転できるようになれば移動できる活動圏内も拡大する訳で。
アジェンダ2030、SDGsの一貫。内政や宗教にまで干渉できちまうとんでもねぇやつ。
パウロ教に改宗させなくても、生活様式や文化、常識をパウロ教にしてしまえば同じこと。
小森健太朗@相撲ミステリの人@komorikentarou
9月17日
私の個人史でいえば、インドから実体験として持ち帰った、マザーテレサに苦しめられているインド民衆の声の数々、それをキリスト教の研究会で発表しても、決してそんなものが存在するとは認めようとしなかった酷薄非道なキリスト教徒の姿と、今のおたく差別を認めない連中の姿がダブってみえます。)
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