基礎知識問題の解答に必要な要素はこちら(模範解答は作らない)! 正教は最良の入門書『正教会の手引き』を公式がネットで無料公開しているので必読! 『クジラの子らは砂上に歌う』考察。 お役立ち文献集
Posted on 2018.05.02 Wed 13:42:58 edit
最良の入門書を公式がネット上で無料公開
http://www.orthodoxjapan.jp/pdf/new-tebiki.pdf
しているので
この良書を読めば基礎知識は網羅できる。
なんらかの思想体系を説明したい人はこの手引書を参考にしたらいい
とオススメできるほど出来が良い。
この私が紹介した正教会の手引書
正教会の手引き(ウェブ上PDF)
http://www.orthodoxjapan.jp/pdf/new-tebiki.pdf
をシーア兄貴も読んだらしい。
シーア兄貴
”正教会の教義は本当によくねられているし、出来ているとびっくらこいた
確かに三位一体もこの説明であれば辻褄が合うので
啓示宗教の世界観的軸は小アジアから、所謂アーリア・インド亜大陸北方で
北は黒海周辺なのだと再認識した
とすると本当にお釈迦様というのは奇跡的な存在であるねぇ”
「正教会の手引き」http://t.co/ENNPn1gBCH (PDF) 日本正教会のサイトより。参考になる。
— кахо (@tocccka) 2015年1月28日
これもすごい↓
正教会の手引き(ウェブ上PDF)
http://www.orthodoxjapan.jp/pdf/new-tebiki.pdf
が
比較宗教学的学習法である
”その思想に対して真逆の思想も学べ”
https://twitter.com/exa_desty/status/990219665820430337
を実行していて非常にわかりやすかった。
「特徴=他との違い」
なので異端思想を取り上げつつ否定して説明している。
これを読んでも
三位一体は納得できないが
正教の説明のほうがカトリックよりもまとも。
異端対策もうまい。
カトリックほどには異端を迫害していないうえに
テオーシス思想(「人はゴッドに近づける(神成)」)という
グノーシス寄りの思想を認めている。
単に迫害するだけでは迫害される側が強くなりかねないのでうまい。
霊界思想も輪廻も明確に否定しているのはスピ対策だな。
私は
ヤソ=カトリックとプロテスタント
キリスト教=正教およびグノーシス
と使い分けてよく書くが
便宜的に耶蘇もキリスト教と書くこともある。
勉強すればするほど、
「キリスト教は原罪で全人類を罪人にするから邪教」
という叩きも厳密には不正確だとわかる。
なぜなら
正教の原罪(陥罪)は
先祖の罪は受け継がれないが
罪の影響は残ると考える。
つまり冤罪ではない。
西方耶蘇では
罪も引き継がれると考える。
罪の影響も残ると考える。
この原罪観だと冤罪だと思う人が多そうであり
私は冤罪だと考えている。
大雑把な叩きをする奴は
①便宜的に簡略化
(細かい違いは知っているが
何も説明しないよりはマシ
なので簡略化して説明)
しているか
②無知
(たいていは他者の批判のコピペ)
か
のどちらかがほとんどだが大半は②無知であることが多い。
グノーシスの
「物質=悪魔が創造した悪」
思想は革命に非常に都合がいいから警戒された。
実際、正統派(物質も善)へのレジスタンスにグノーシス派が参加している。
「物質=悪魔が創造した悪」がまずいのは
人間の肉体も悪だということ。
つまり、殺人への抵抗が
「物質(人間の肉体も)=善」
より弱くなってしまう。
「これは殺人ではない!
悪なる肉体からの”解放”にして”救済”である!」
あと
「人は決して神になれないという教義により
人が神として権力を握り暴走することを防ぐ。
祟り死神と化した現人神(自称)
よりも神の代理人(自称)を殺す方が楽」
という一神教を統治に採用する利点をグノーシスでは失ってしまうのも難点。
実際の歴史ではグノーシスを否定するくせに
神の代理人を神格化して
実質的に神(聖不可侵とされた神人)が王になって圧政を敷いたりしているけどね。
手引書を読めば
正教がいかに
「物質も善」だと力説して
グノーシスと、
グノーシスの子孫(新ヤソ)であるスピリチュアルを否定しているかよくわかる。
私は今のところは、
正統派も異端派思想の対立もゴッド信仰の両建てであり、
仏教と儒教によりゴッドの実在は妄想だとみなしている。
霊肉善悪二元論もおかしいと考えている。
霊と肉は相互依存であり優劣はないのでは?
善悪は場合によりけり。
とはいえ、
一神教の中で
正教の教えがかなりまともで驚いている。
イスラームの次にまとも。
一神教正統派(多数派)神学の完成度では
イスラーム>正教>カトリックとプロテスタント
※ユダヤ教神学は判定できるレベルで学んでいない
イスラームの方が高評価なのは
正統と異端というキリスト教的な分け方が
イスラームにはない、
三位一体、原罪もないからなど。
イスラームにはどの思想が正統か異端かを決める
人間の権威ある教義決定機関(教会)はない。
正しい教えかを決定できるのはアッラーのみ。
そもそも信者の数の多さは教えの正しさの証明にならない。
「俺たちこそが形而上絶対存在の教えをわかっている!
異端は死ね!」
という姿勢自体が一神教的ではないからね。
実際はシーアとスンニ派は血みどろの殺し合いをしているけど
「内心に踏み込んで異端審問したら地獄行き」
の教えは素晴らしいと思う。
世界一、
内心に踏み込んで異端審問するのが
一般的な日本人(=労働教信者)なのが悲しいね。
労働教の中核はカルヴァン派だが
カルバン派ですら過労死するまで働けとは教えないぞ。
おっと本題(基礎知識問題の解答に含める要素)に入らねば。
なぜさっきまで正教の話題なのかと言うと
↓の解答に含める要素作成用に勉強していたから。
基礎知識がない人は原則、相手にしない方針にするか検討中。
皆様なら余裕ですよね?
知らないなら「今」学びましょう。
基礎知識問題
①カトリックの教義の特徴
②カトリックとプロテスタントの違い
③カルヴァン派とルター派の違い
④カトリックと東方正教会の違い
⑤カトリックとグノーシス派の違い
⑥旧約を聖典に含め、ユダヤ教派生だという教義のキリスト教の代表的宗派名
⑦旧約は聖典ではなく、ユダヤ教派生ではないという教義のキリスト教の代表的宗派名
⑧タナハと旧約聖書の違い
⑨三大一神教の正統派のイエス観の違い
⑩一神教の最大のタブーは
Xに過ぎない人が
Yと一体になる、になり替わる、として祀られること。
XとYと理由は何?
⑪タナハとタルムードの違いは
前者が無謬な変更不可能なXの絶対命令なのに対し、
後者は可謬な変更可能なYの不完全な解釈。
XとYは何?
⑫キリストとユダヤとイスラーム教の聖典範囲
以上の問題一つごとに一ツイート140文字で解答せよ。
調べる、
誰かに聞くなど自身の記憶以外に頼ることの禁止
一問題あたり五分×十二問
=一時間の制限時間
でどの程度できるんだろう。
基礎知識問題の解答がほぼ空白であろう人が
ユダヤ陰謀論カルト信者になりやすいのは必然。
上記の知識がなくても
「ユダヤ系クリスチャンって何が言いたいの?
ユダヤ教徒じゃないのにユダヤ?
つーか両親もクリスチャンで本人もクリスチャンなのにユダヤ?
???」
などと疑問が持てる人なら大丈夫。
なぜなら以上の疑いができる人は
①論理的思考力
と
②言葉の意味を注視する姿勢
があるから。
①と②がないのに
③宗教の最低限の知識がない
のはかなりまずい。
無防備で洗脳毒電波まみれの戦場に突っ込むようなものだ。
①②③がない人は
④読解力がない
(特に事実と個人的感想を分けられない)
ことも多い。
特に文意に私見を混ぜて曲解するのは致命的。
事実と意見を分けられない
=内容の捏造
=藁人形。
曲解力、あるいは毒改力だね。
④は精神世界(笑)の論理と言葉軽視の人に多い。
あの歪曲力だと精神世界の思想もまともに把握しているとは思えない。
bo軍の標的が
①論理的思考力がなく
②言葉の意味を注視する姿勢がなく
③宗教の最低限の知識がない
④読解力がない
(特に事実と個人的感想を分けられない)
という条件を満たす者(Yなど)。
本当に悪質。
ユダヤ教とキリスト教正統派の聖典範囲の違いすら知らずに
「ユダヤがとにかく黒幕」と言ってる儲は
1 無自覚工作員=洗脳されてコピペ
か
2 プロ工作員
かだ。
旧約にはない、新約特有の思想がユダヤとか吠(ほ)ざくからな。
単なるキリスト教じゃねーか。
自分で何言っているかわかってない
「自称真実に目覚めた(笑)」儲の文章なんて読む価値ない。
正教の知識は優先度は低いので答えられなくてもよいが
せっかく本記事に出会えたのだから学ぼうそうしよう。
では解答に含める要素↓
基礎知識の解答に含まれていないといけない要素
※解答ではない。
陰謀追及者向けの解答用資料として作成
いきなり答えだけ書いてもそれで理解した気になる、
穴埋めや○×問題思考の人が大量発生するから避けたい。
①カトリックの教義の特徴
語源はギリシア語のカトリコス(普遍的)。
教皇を頂点とする聖職者(神父は独身)の位階制度。
教会行政の中央最高機関がローマ教皇庁でバチカン市国にある。
無謬なるローマ教皇
(カトリックのトップは過ちを犯さない人間である)
マリアの無原罪懐胎
(マリアは私たちと異なりその両親から原罪を引き継がずに生まれた特別な人間である)
教会のほうが聖書より権威が上。
教会による聖書解釈が正しい。
三位一体説(アタナシウス派)。
キリストを被造物(神性なしの人間)とするアリウス派を否定。
金儲けを蔑視。
労働は神罰。
※「プロテスタントなら三位一体否定」は嘘。
正教も三位一体派
(解釈はカトリックやプロテスタントと異なる)。
煉獄はカトリック用語で
死ぬときに罪の状態にあるか、
罪の償いを果たしていない霊魂が天国に入る前に一時的に苦しみを受ける清めの場所で
天国と地獄の間にあるという。
原罪
(正教の原罪の説明で一緒に説明する。
似て非なる個所なのできちんと説明する)
公式に反メイソンであり、メーソン入会禁止。
”ローマ”・カトリックなのでラテン語聖書重視で一般信者は読めなかった。
20世紀までラテン語でしか礼拝をしなかったが、
エキュメニズム(※)により、
1967年の第二バチカン公会議以降、
各国の言葉を受容し、礼拝が刷新された。
※エキュメニズム(教会合同)
エキュメニカル・ムーブメント、世界教会運動などと呼ばれる。
キリスト教世界の統一運動で、
プロテスタントの主導により20世紀以降本格化。
画期は1910年のエディンバラ世界宣教会議開催と
1948年の世界教会協議会(WWC=World Council of Churches)結成。
プロテスタント主導であったが、
カトリック側も第2バチカン公会議で教会合同を目標に掲げるとともに
1965年には東方正教会との相互破門(1054年以来)を解消。
エキュメニズム(と最終目的の万教帰一)と世界連邦を批判・反対する者の中には
カトリック絶対維持派や
福音派(プロテスタント系聖書絶対維持)などが混ざっているので注意。
よって万教帰一と世界連邦を批判するくせに、
エキュメニズム批判が一言も出てこない者を私は信用しない。
イエズス会はカトリックだが、異端寄りなので
エキュメニズム賛成派(万教帰一の前座。
最終的にカトリックを実質廃止)が多いというのが私の見解。
②カトリックとプロテスタントの違い
①がわかっていないと②はわからないように、
一連の基礎知識はつながっている。
旧教(カトリック)に抗議(プロテスト)する新教(プロテスタント)。
正教は旧教でも新教でもない。
ローマ教皇を認めない。
プロテスタント三大主義+α
ⅰ 信仰義認(信仰のみ)
恩恵としての〈信仰のみによる〉救いを説く〈信仰義認〉
信仰以外の何か(善行や功績など)で救われるのではなく、
信仰によってのみ
義認(※)され、
救われる=天国に行ける。
(功績を残せない、優秀でない人々もとにかく信じれば救われる。
多額の献金をしても天国に行けるとは限らない)
※神によって”義(正しい)”と”認”められる
(教義で正しいとされていることをしていると
周りの人間に認められる)
ⅱ 聖書のみ
教会ではなく聖書が唯一の信仰のよりどころ(聖書のみ)。
ⅲ 万人祭司
信者はみな神の前で祭司である。
神父と一般信者を厳しく区別するカトリックの否定。
聖職者(牧師)は妻帯可能。
ラテン語ではなく、一般人が読める言語に聖書を翻訳。
カトリック
「聖書はラテン語で読め(一般人は読むな)。
教会の解釈が正しい解釈」
プロテスタント
「聖書に書いてないことを教義にするな。
一般人にも読めるようにしろ。
一般人が解釈してもいいだろ」
カトリックと異なりメイソンに入会可能。
メーソン
=反カトリック≒プロテスタント。
元祖イルミナティ
=反カトリック教会
≒プロテスタント内の反王政かつ啓蒙主義(オカルト否定)。
メイソンは最初はユダヤ教徒の入会を禁止していたので
反カトリックのプロテスタント系組織。
英国国教会
(聖公会、アングリカン・チャーチ)
教義はプロテスタント(カルヴァン主義に近い)、
儀式はカトリックであることから
教会合同運動(エキュメニカル運動)に寄与。
16世紀の国王至上法でローマ教会から分離独立し、
英国内の教会統治権を確立したことで誕生。
ボスは英国王(世俗権力と宗教権力の一致)。
主教や牧師の妻帯可能。
③カルヴァン派とルター派の違い
ルター(ルーテル)派
世俗の職業を神の
召命(神に召されて使命を与えられること)
によるもの(天職)として肯定し、
カトリックの労働は卑しいという思想を否定。
ルターは過激な反ユダヤ主義。
ルターを保護したのはザクセン選帝侯
(世俗権力であり
宗教権力=カトリック教会が弱くなると得をする)。
カルヴァン派
ルター派よりも徹底した聖書主義。
勤勉・倹約・禁欲に努め労働に励まないといけない。
カトリックの労働観の否定。
営利活動・蓄財を肯定するので
商工業者に受け入れられ、
資本主義の元ネタとなり、
日本の労働教へ影響。
フランスのカルヴァン派をユグノーと呼ぶ。
「近代思弁的フリーメーソンの父」と呼ばれるデザギュリエはユグノー教徒の迫害を逃れてきた亡命フランス人で、
ロンドン大ロッジ発足にも大きく関わる。
フリーメーソンの憲法と呼ばれる「アンダーソン憲章」を作ったのは
長老派(カルバン系プロテスタント)の牧師アンダーソン。
ロンドンのメイソンは英国人ではなくフランスのカルヴァン派信者が大きく関わる。
当然ユダヤ教徒ではない。
『よいこの黙示録』と「敵(支配層)と古典の真似」で、労働カルトを作ったカルヴァン派系支配層の視点を獲得しましょう! (◞≼◎≽◟)☝本当は教えたくないのですが、選ばれたあなただけに特別に今だけ、教祖として成功する秘訣の続編をお届け!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-123.html
"”カルヴァンはフランス出身だがスイスで活動し、スイス勢力が支配層の中でも上位である原因を作った人の一人。
神学校として1559年に創設されたジュネーヴ大学の創立者。
カルヴァンは利子を容認←超重要!
カルヴァン派は利子OK←超重要!
「ユダヤ=利子取れる、キリスト=利子取れない」の二元論の罠に注意!
しかも、資本主義を生んだのはプロテスタントのカルバン主義。
しかもカルヴァン派が利子を肯定し、資本主義を発展させたからスイス勢力が金融の黒幕となっているのです。
しかも、カトリック総本山のバチカンにスイスガードを送ってカトリックがスイスのカルヴァン派を攻撃できないようにしているし。
で、資本主義を牛耳っている勢力のどこがユダヤ教徒なんだよ。
カルヴァン陰謀論は言われないよね。
資本主義に与えた思想と利子OKからしてどうみてもカルヴァンが資本主義の親。
カルヴァン派とカトリックの両建ての胴体であるスイスはタブーだもんね。
フランス系カルヴァン派=ユグノーがロンドンのグランドロッジ設立の中枢。
アンダーソン憲章、アンダーソン、デザギュリエ、長老派、ユグノーなどのキーワードで調べればすぐ出るし。
どうみてもメーソンってユダヤじゃなくて反カトリックのプロテスタント系なんですけど。
カトリックがメイソンへの入会を禁止しているのって要はプロテスタントになるなってことでしょ。
でカトリック勢力もプロテスタント陰謀論は唱えません。ユダヤと悪魔陰謀論ばかりです。
日本人の労働観はカルヴァン派まんま。
働かざるもの食うべからずは新約聖書由来。”
…
カルヴァンです。
この素晴らしい教義(大前提と五大要素)を見てくださいよ!
予定説
人が救われるのは、人間の意志や努力なんてまったく関係なく、神がすべて決めているから願っても無駄
①全的堕落
(堕落後の人間は全員汚物。自分の意志で神に仕えることを選べない)
②.無条件的選び
(誰が救われるかは神があらかじめ全て決める。予定説)
③制限的・限定的贖罪
(キリストの贖いは救いに選ばれた者だけのため。全員を救うためにしたことではない)
④不可抵抗的恩恵
(神の恵みを拒否できない。被造物たる人間の意志なんてどうでもいい)
⑤聖徒の堅忍
( いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。
選ばれないと決まっていたら何やっても無駄)
予定説は本当に素晴らしい!
予定説では、信者が神を信じることすら信者の自発的意志ではなく、
神が「信じさせてくれている」(神が救う為にやってくれている)のだとします。
そして、異教徒は自発的意思によりプロテスタントのカルヴァン派を信じないのではなく、神から見捨てられているとみなします。
予定説から見れば、異教徒は神から見捨てられたとっても哀れで可哀そうな、全人類を愛している「とは思えない」(自作自演)の神の創造物なのです。
これを儲の立場から考えてみましょう。もし、あなたが儲だとします。あなたが急にふと唯一神の存在を信じられなくなったとします。予定説だとその瞬間、神から見捨てられたことになります。儲であるあなたは自分が神に見捨てられたなんて考えたくありませんし、信仰が薄れているなんて認めたくありません。ならば必死に信仰に篤いとアピールする為に熱心に活動したりするわけです。
これはつまり、
「信仰を失うという脱キリスト教的な動きすらも、キリスト教の枠内に抑え込んでしまう教義」
「信仰を失ってもキリスト教から離れることができず、逆にキリスト教の中で失墜するだけにしてしまう教義」
「信仰を失った者にさえ、なお『自発的に』信仰を求めさせて自己説得させることができる教義」
なのです。
別に宗教団体に限らず、組織固めの為にも、とても参考になると思いませんか?
五大要素について各自勉強して、
「理論化=設計図を取り出す」したうえで真似しましょう!"
④カトリックと東方正教会の違い
長いので後述の
正教の教えの要約
(新旧教と被っている箇所あり)にまとめたが
正教会とは
http://www.orthodoxjapan.jp/seikyoukai.html
”教義的には、人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙する
という古代教会の指導者(聖師父)たちの姿勢を受け継ぎ、
後にローマ・カトリック教会が付け加えた「煉獄」・
「マリヤの無原罪懐胎」・
「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教え」は一切しりぞけます。
またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように
「聖書のみが信仰の源泉」だとも
「救われる者も滅びる者もあらかじめ神は予定している」とも決して言いません。
かたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を、「付け加えることも」「差し引くこともなく」守っています。
教会組織も、
ローマ・カトリック教会のようにローマ教皇をリーダーとして全世界の教会がきちんと一枚岩に組織されたものではなく、
各地域の独立教会がゆるやかに手を結びあっているにすぎません。”
だけはここに載せる。
プロテスタントとの違いも載っている。
⑤カトリックとグノーシス派の違い
ユダヤ教のヤハウェは真のゴッドではない、
ユダヤ教の唯一神は悪魔であり、
キリスト教の唯一神とは違う。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/726721358353170432
④人間の本質(内なる神性)と至高神が本来同一であるという
「グノーシス(知識、認識)」を得ることで真の神と合一できる
(真の善なる神と合体して自身が神となる)
マンガ・アニメ・ゲームはグノーシス系が多いので
カトリック要素があるものは悪役だったり酷い目に遭いやすい。
多神教では人が神と一体になる、になり替わる、として祀られてもかまわないのが特徴。
一神教(ユダヤ・キリスト・イスラム)の正統派では人はゴッドの被造物であり、人とゴッドの壁は埋めることが不可能。
よってゴッドとの一致=人がゴッドになるグノーシス派キリスト教は
正統派=多数派では否定される。
「物質=無条件に悪」も正統派ではイエスの肉体も悪になるので否定。
正統派でも神秘主義は神との一致を目指すので異端と言われたりする。
一致ではなく接近だと言い逃れたりする。
カトリックだけでなく、
神は万物をすべて「善」なるものとして創造した
(当然、物質も善)という教義の
正教もグノーシスを異端として否定。
霊的なもの=善で
物質的なもの=悪という
グノーシスの根幹である霊と物質の善悪二元論を否定。
物質が悪いのではなく悪用する人間の意志が悪いと考える。
ただし正教にはテオシス(神成)という
神の似姿として創られた人は終わりなき成長と発展により
神に似てゆく=神の本性にあずかる
(グノーシスのように「神と合一し人でなくなる」のではないことに注意)という、
グノーシスっぽい思想がある。
神になるというよりは神への接近。
おそらくグノーシス対策でもある。
「人が神として権力を握り暴走することを防ぐ」
という一神教を統治に採用する利点をグノーシスでは失ってしまう。
⑥旧約を聖典に含め、ユダヤ教派生だという教義のキリスト教の代表的宗派名
正統派=多数派の名前を列挙すればすむのであえて書かない。
⑦旧約は聖典ではなく、ユダヤ教派生ではないという教義のキリスト教の代表的宗派名
グノーシス派の名前を列挙すればすむのであえて書かない。
⑧タナハと旧約聖書の違い
聖書を新旧で分けるのはキリスト教の正統派=多数派視点であり、
クリスチャンではないユダヤ教徒にとっての聖書とは
古代ヘブライ語聖書(キリスト教では旧約)のみであり、
タナハと呼ばれる。
ユダヤ教の部族社会なら処女から生まれたイエスは姦通で生まれたとみなされるので
新約否定は当然。
便宜的にタナハ=旧約と表現されることはあるが正確ではない。
キリスト教の正統派=多数派は
キリスト教はユダヤ教の派生
(旧約のヤハウェと新約のゴッドは同じ唯一神)
という教義なので
と旧約聖書と新約聖書が聖典。
ルシファーはヒエロニムス(4~5世紀) のラテン語訳聖書で誕生したので
ヘブライ語でタナハ(キリスト教正統派用語で旧約)を読むユダヤ教徒とは当然無関係。
タナハにルシファーは登場しない。
よってルシファー崇拝をしているならユダヤ教徒ではない。
ヒエロニムスのラテン語訳聖書はウルガータと呼ばれ長らくカトリックのスタンダード聖書だった。
⑨三大一神教の正統派のイエス観の違い
キリスト教では人間である預言者イーサー(イエス)を神の子とみなし、神性がある。
ユダヤ教徒はイーサーが預言者であることを否定し、姦通によって生まれた人間。
イスラームはイーサー(イエス)を無謬の預言者と信じるものの、神性はない。
⑩一神教の最大のタブーは
Xに過ぎない人が
Yと一体になる、になり替わる、として祀られること。
XとYと理由は何?
Y=被造物
X=創造主
理由 被造物と創造主との間には決して超えられない壁があるから。
「利休キリシタン説」と「茶道の元ネタはキリスト教の儀式」説は仏教破壊用のデマ! 『神学の思考』で一神教のタブーを学べば騙されない!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-111.html
”一神教の知識は膨大ですが、
「これ一つだけで沢山の嘘を見抜ける知識」をできるだけ多くプレゼントします。
【忙しい人々のための要約】
・キリスト教など一神教のタブーは
①人間が神になる
②人間が神に取って代わる
③人間を神格化する
④人間を神として神社などに祀る
⑤神と一体化する
など。
ゴッドは絶対不可侵。
人間は絶対にゴッドに到れない。
人間がゴッドになれるなら、ゴッドが唯一神でなくなるので多神教になってしまう。
・キリスト教には、人間と動物のあいだには決して越えることができない境界線がある。
人間は神の前に立つことができる存在として神によってつくられたがゆえに、他の被造物から区別される。
人間に特権的な地位を与えるのが、仏教や神道と比較した場合のキリスト教的救済観の特徴。
人間は特権的地位を持っているがゆえに、この世界に対する責任も特別に大きくなる。
(「人間は動物の王にして支配者だから”保護と管理”をしてやらないといけない」、
というキリスト教思想が欧米の動物愛護偽善の中核。
クリスチャンが動物愛護なんて言っても説得力ゼロ。
日本の真の伝統思想の仏教では、人間と人間以外の生物に断絶はない同じ仲間だとみなす、輪廻転生と自然と共に生きる自然観が特徴)
…
・神の被造物である自然を拝むことは、十戒の偶像崇拝の禁止を破る。
・キリスト教の中核は反理性と反知性主義。
キリスト教は人間の知性を信用しない。
人間が神について知ることができるのは、真の神で真の人であるイエスを通じてのみ。
人間が神の教えを正確に理解できると発想が、傲慢で自己神格化につながると考える。
キリスト教神学では、論理的に整合性がとれている説のほうが異端とされる傾向がある。”
⑪タナハとタルムードの違いは
前者が無謬な変更不可能なXの絶対命令なのに対し、
後者は可謬な変更可能なYの不完全な解釈。
XとYは何?
X=創造主
Y=被造物
⑫キリストとユダヤとイスラーム教の聖典範囲
⑧参照。
ムスリムがクルアーン以外の啓典も信じているが
タナハ=ヘブライ語聖書や聖書を信じているという意味ではない。
ムスリムが信じるのは
タナハでは律法や詩編など預言者たちが授かった諸啓典のみ、
新約聖書では預言者イーサー(イエス)が神から授かった福音書のみ。
現行のタナハの『律法』(モーセ五書)、『詩編』、新約聖書のいわゆる四福音書は改竄されており、
オリジナルなムーサ―(モーセ)の『律法』、
ダーウード(ダビデ)の『詩編』、
イエスの『福音書』とはまったくの別物だとみなす。
クルアーンを終約聖書と表現するムスリムがいる。
なぜ終約なのかというと、
ムハンマドは最高にして最後の預言者であり
以降の「俺が真の最高にして最後の預言者だ詐欺」を否定しているからだろう。
シーア派の神学生いわく
”予定説を取れない理由というのは単純で予定説を取ると何故、現世に地獄を作るのか?という、部分に思いっきり抵触するわけでそれを避ける為に自由意思論が存在するわけです
要は至善とするのであれば、悪が発生・存在してはならないのが当然の論理ですから、悪があるというのは認めてはならない訳です
そこでかなり前に説明したように世界は至善ではあるが、人間はその至善なる世界を己の私欲・集団欲によって傾きを作るのでその傾きが悪の根源であり、悪そのものなのです
ただ、人によっては満たされる欲は違うのとその欲は本来は集団の調整によって補完されるべきでその集団がイスラームであるんです
何故にイスラームが従う・祝福を意味するのかというのは様々な解釈がありますし、まだ習っていませんが個人的な憶測として従う事で集団の個人個人が調整・己と相手の欲と知ることでそれが集団としての欲に制限と理性を与える
それによって統括された社会は細かいすれ違いはあれど、崩壊する事がない
それによって均衡・統括が取れた世界というのが形而上なる存在から賜った祝福であるのかと見ています
勿論、これは個人の感想でしかないので全く正確な物ではないという事は了承していただきたい
予定説をとってしまうと形而上ぼ統括はあれど、悪と善の均衡が欠けてしまうので取らないわけです
悪と善の均衡が欠けるというのはどーいう事かと言うと例えば、悪人というのは何かというと「偏った集団・個人にだけ受益を与える存在」です
なので、人間というのは根本的に悪なる存在なわけです
己の為・家族の為・会社の為・集団の為・国家の為…この〜の為がこの世界の地獄そのものなのです
即ち、〜の為に〜するというのは地獄をこの世に顕現する最悪な執着になるわけでイスラームの道徳論ではこの〜の為が本当に形而上なる存在にしているのか?
という部分を問い続けるのがイスラーム道徳論の重要な争点であり、一生己に問い正す部分となります
だから、何するもبسم الله الرحمن الرحيم
と、唱えるわけです
これは非常に単純に訳すと「形而上なる存在の赦しの元で」というのがすっごい簡単な訳でこれは何するにも言います、うんこ・しょんべんする時もガスに火を付ける時も猫触る時もこうやってツイッターで呟く時も何でも言うわけです
そうしないと直ぐに人は形而上を忘却するからです
なので、己がしている行動→自由意思によって選択した行動が偏り所謂諸悪の根源となっておりませんようにという祈願なのです
勿論、解釈はスンニ・シーア派並びに神秘主義等諸々違いますが自由意思を選択する派閥ではこうみなします
何故なら、唱えているのに悪・傾きを作るのならば矛盾しますからね
つまり、予定説というのは形而上なる存在が至善であるというのを思いっきり瑕疵するので自由意思というので傾きは人の欲求にあるとする苦肉の策なのです
だから、イスラームではانجیل キリスト教の聖書はتحریف 改竄されているとみなして、その改竄の痕跡が予定説であるとするのです
よく言われる改竄されているという部分の代表的なモノを言うと
「啓示者並びに預言者の無謬性を瑕疵する記述・予定説・三位一体説」が一番わかりやすいものとなります
で、現代主流のシーア派12イマーム派ウスール学派はこれらを全部否定します
それは至善なるものが欠陥なる存在を恣意的に選ぶ事はない
という前提で考えられています
勿論、色々と違う人たちはいるので全部そうなんてアホな事は言いません
取り敢えず、今日も世界がおねショタで満たされますように”
正教会の知識の要約+α
(本記事の本質はこの要約までであとはおまけ)
新旧教と正教の違いの短い要約は
すでに公式サイトから引用したのでここでは教義を詳しめに要約する。
正教もユダヤ教からの派生(新旧約聖書の神は同じ神)
と考えるので旧約も聖典に含める。
用語の漢字表現が独特。
イエス・キリストを
イイスス・ハリストスなど呼び名も日本では一般的ではない。
条件はあるが離婚OK。
主教(教会の監督)は、修道士もしくは独身者の中から選ばれる。
司祭(主教の補佐)の尊称が神父。
牧師という呼び名は使わない。
正教会ではカトリックとは違い妻帯者が司祭になることが
あるが、司祭となってからは結婚、離婚、再婚はゆるされない。
人間を神のイコンと呼ぶことがある。
イコン(聖像)を崇敬する。
崇拝ではない。崇拝対象はイエス。
イコンは信仰対象ではなく、信仰の尊き媒介。
立体的な像ではなくすべて平面。
(十戒の偶像崇拝の禁止を守る教え)
教会の頭はハリストス
ハリストスの体(頭から下)は教会。
聖伝を重視。
聖伝(正教会の聖なる伝統)
=受け継いできたイエスの教え。
聖書は聖伝の一部
聖伝は聖書に書かれていないその他の記録や伝承とみなしてはいけない。
聖書は聖伝の中で最重要という位置づけ。
聖伝と聖書の二本柱ではない。
聖伝には
信経(教義の短い要約。信者は暗記すべき)、
教会法(カノン)、
公会議で決めた教義、
イコンや聖歌の伝統や教会建築なども含まれる。
聖書は万能の書ではない。
聖書のすべてを文字通り信じないと救われないという態度を否定。
(プロテスタントの「聖書のみ」の否定。
福音派、原理主義の否定)
聖書の原語である古代ギリシア語を重視。
カトリックは原語ではなく翻訳語であるラテン語を重視。
神は予知はするが予定はしない。
予定
=人間の自由意志を無視し、
神が独断ですべてのことを予め決定すること
(予定説の否定。
しかし聖書には予定説を支持する記述が複数ある
子子子子子猫子猫はいますアイコンを無個性に変更@黒住も金光も天理も世界連邦側
@kitsuchitsuchi
2月14日
”強制されている・予定という概念は成立しない
…何で悪という事を「何か」が強制して、 しかも地獄に堕ちる事を確定させるんだよ?
そんなの善なる存在ではまったくないでしょ?
そんなのは単純な論理でわかるわけ、
そんな事もわからないのが現代のやそ
とスンニ派の大部分です”
と引用したが、
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/963770581014343680
天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。(マタイ24:35-36)
↑ 日付を指定した耶蘇カルトの終末の予言は全て嘘だと聖書が断言。
カレンダーの予定を守る終末なんてお笑い。)
神はこの世を創造した後、放っておくことはない。
いつでも今でもこの世を創造し続け、見守り続けている。
この世に対する神の配慮を摂理(オイコノミア。照管、定制)
という。
神の意志によってこの世は摂理され続ける。
(理神論の否定。
理神論
=神は世界を創造したが
創造以後は神はもう世界に干渉しないので、
奇跡などを否定する啓蒙主義的思想。
一神教系思想の中で最も人間中心主義であろう)
神が摂理するので
縁起をかつぐという迷信を否定。
神ではないものに生活や人生を委ねる占いも否定。、
神や人の意志で変えられない定まった運命も否定。
災いがふりかかるのは何か悪い原因があり、
幸いを得られるのは何か善い原因があったからという因果応報も否定。
例えば、大きな病気を患ったのは先祖を敬わないせいだ、とか、
不幸が続くのは何か悪い因果があるからお祓いをしなければならない、
などという意味の因果応報を否定。
(仏教とバラモンのカルマ論の否定)
煉獄という神の憐れみとハリストスの贖罪を軽視する思想は否定。
地獄
=自ら神を拒絶する状態。
キリスト本人が再びこの世に来ることを再臨という。
光栄を顕わして「誰にでもわかるように」再臨するので
「この人は再臨されたキリストだ」と他人から教えられたら偽キリスト確定。
偽物が登場することはキリストが預言している。
(「私がキリストだ!」と言う時点で偽物確定。
キリスト本人が来るので「キリストの生まれ変わり」と言う奴も偽物。
ちなみに釈迦は輪廻を脱したのでもう生まれ変わらないから
「釈迦の生まれ変わり」を言う奴は偽物。
つまり幸福の科以下略)
終末がいつ来るかはイエス自身が「その日その時は知らない」と述べているので
終末の年月日を詮索する態度は否定。
(終末の年月日を特定しているキリスト教カルトは嘘つきであり
イエスの発言を無視)
安息日はユダヤ教と同じく土曜日。
ユダヤ教と同じく夕方から一日を数える。
(創世記第一章「夕となり朝となった」)
土曜日の夜はすでに日曜日ととらえる。
聖職者は、黒い帽子に黒いマントをまとい必ず髭を伸ばす。
正教は
親指、人差し指、中指を合わせ、後の二本を折り、
合わせた三本指で、ひたい、胸とおろして、右肩、左肩と
十字を”描く”。
右が先なのはキリストが昇天後、神の右手に坐したから。
カトリックは
親指を折って、ひたい、胸とおろし、次に左肩に
十字を”切る”。
結婚式(婚配機密)で指輪の交換などを行うが、
指輪は西方教会
とは違い正教会では神の力を意味する右手にはめる。
正教会では離婚は罪であり、基本的に認められないが、
人間的配慮として再婚を認める場合もある。
国教が正教だったビザンツ帝国では
皇帝教皇主義(カエサロパピスム)を採用。
皇帝教皇主義
=皇帝はキリストの代理者であり、
国政のみならず、ギリシア正教のコンスタンティノープル総主教の任免権以下の聖職にまで権力を及ばせる制度。
世俗権力と宗教権力のボスが同じ。
カトリックが国教の西ヨーロッパでは
聖職者の任免権(叙任権)をめぐり皇帝と教皇が対立し
叙任権闘争(誰が聖職者の任命権を握るかという利権争い)が起きるが、
世俗と宗教のボスが同じビザンツ帝国とギリシア正教の間にはなかった。
古代ギリシア語(新約聖書の原語)を重視。
カトリックの聖体拝領(ミサ。カトリックは長らくラテン語で行った)
のパン(イエスの肉体)はイーストなしなのでふくらんでいない。
対して正教では
イースト入りなのでふくらんでいる、
発酵させたパン。
(ミサではなく聖体礼儀、聖体機密、領聖と呼ぶ。
パンがふくらんでいるのでおいしそう)
聖公会やプロテスタントでは聖餐式と呼ぶ。
(宗派で用語がいちいち違う理由の一つは
他の宗派と区別するため。
発想が違うので名づけ方も異なる)
カトリックよりは異教に寛容。
7は天地創造の日数なので「この世」を意味する。
そこに1がプラスされると(ハリストスの到来)8になる。
8は「来世、天国、復活」を意味する。
ハリストスが復活した日曜日は、数え方によっては「八日目」になる。
7が1欠けると6になる。
完全性の欠如は悪なので
6は「悪魔、罪」を象徴。
数字に対する意味づけであり、
数字そのものにそのような神秘の力が潜んでいるのではない。
(おそらく数秘術の否定)
死は忌まわしいものではなく、復活への入口。
神の像として、尊き「個」として造られた人間が、
動物になったり、別の人格になったりすること(輪廻転生)を否定。
魂は復活のために死後も存続するが
「霊魂の不滅」を否定。
「霊魂の不滅」
=罪深い肉体から善なるたましいが解放されて、
霊的世界で永遠に生きるという教義。
「霊魂の不滅」は肉体や物質も神が造った尊い物という信仰を否定し、
人間の本来の姿を見失わせるので否定。
(バラモン教型輪廻も仏教型輪廻も否定。
「物質=無条件に悪」というグノーシス派キリスト教、
特にボゴミール派を相当警戒しているとわかる。
グノーシス派の中には輪廻を肯定するものもあるので更に警戒しているとわかる。
キリスト教全般の元ネタのゾロアスター教でも物質は悪ではないことから来ていると思われる。
「物質=無条件に悪」としたマニ教グノーシスを徹底的に攻撃したのがゾロアスター教。
なお、マニ教の寄生虫・憑依型戦術は蛇蝎のごとく嫌われたので
当時の他教から総攻撃を受けたらしいが、
マニ教戦術は新ヤソ=万教帰一カルトなどに受け継がれている)
死後の「霊界」を想定して、まことしやかな描写を行い、死の恐れを払拭しようとしたり、
この世と同じような「別の世界」をイメージして、それを「天国」と称してみたりすること
は、
正教会が教える「復活」や「来世の生命」とは異なるので否定。
死=永眠
=復活を待つ
×消滅して無くなる(無神論、唯物論など)
×輪廻転生
×肉体は悪、霊魂は不滅
×霊界に移住する
(スウェーデンボルグ派キリスト教やその派生である
神智学やスピリチュアルやいわゆる精神世界などの否定。
そもそもスピ系の根幹の一つが不滅の霊魂に基づくバラモン教型輪廻だから
正教は大前提も完全否定)
テオーシス(神成)については④で既述したがもう一度表現を変えて記述する。
正教にはテオシス(神成)という
神の似姿として創られた人は終わりなき成長と発展により
神に似てゆく=神の本性にあずかる
思想がある。
(グノーシスっぽいが
グノーシスのように「神と合一し人でなくなる」のではないことに注意。
神になるというよりは神への接近。
おそらくグノーシス対策でもある。)
西方キリスト教(カトリックとプロテスタント)の定義する原罪の否定。
※原罪という言葉は西方教会的な原罪観と混同されないよう、
なるべく避ける傾向があり、
陥罪という表現がよく用いられる。
西方キリスト教では、
アダムの罪の結果、神の罰を全人類が受け継いだとし、
人間は生まれながらにして罪人であり、
罪人である以上、神の裁きと罰を受けるものであるとし、
全く自由意志の力を失ったと教える。
正教会では
アダムとエワによって神の似姿は壊されてしまったが、
かろうじてその似姿(神の像)は残っていて保持されているので
どんな人間でも、まずはそこに(破損している)「神の像」を見るべきだと教える。
人間に残された神の像は、神を求める自由意志を弱いけれども持っている。
人類が受け継いだのは神の罰ではなく、破損した似姿と考える。
神に従うか従わないかの自由意志は被造物たる人の選択権として
残されているが、
人が自分の努力によって、破壊された神の像を回復することは不可能という教え。
簡略図↓
西方教会
全壊した神の像
神の罰を受けた人間は生まれながらにして罪人
よって、
全人類の罰を身代わりに受けたのが
イエスの十字架の贖罪(救済)。
東方正教
人間とは「神のイコン」。
神の像は破損はしたが全壊はしておらず
保持されている。
イエスのおかげで神の像は回復された(救済)。
(似て非なる個所こそが
他宗派、異教との違いなので
重点的に学習が必要な個所。
共通点と相違点を明確にすれば早く理解できる。
原罪思想の違いは重要なので再度、長めに説明する。
正教で(原)罪の説明が長くなる理由↓
似て非なるものの説明は大変。
(相手との関係性によって必要な情報量は変わる。
情報は四つの象限に整理することが可能
円の大きさ=必要な情報の量
当たり前
Non-surprising×Right
円の大きさは中。
曲線は点線。
意表をつくけど納得
Surprising×Right
円の大きさは少。
曲線は実線。
陳腐なくせに違和感あり
Non-surprising×Wrong
円の大きさは多。
曲線は太い実線。
目新しいことで違和感あり
Surprising×Wrong
円の大きさは中。
曲線は実線で、
太さは「当たり前」と同じ。
最も情報が必要になるのは
「Non-surprising」「Wrong」の象限。
これは
「既に知っていることに言及され、
しかも納得感がない」
ということを意味します。
要するに
「あなたがわかったと思っていることは
間違っていますよ」
というメッセージです。
いろいろ応用がきくので
ツイートが消えてもいいように文章化。
確かにあなたがわかったと思っていることは
間違っていると伝えるには情報量が必要。
既に知っているというよりは
中途半端に正しく、
中途半端に間違って誤解しているから
完全に新しいものとして学ぶよりも大変。
誤った知識を修正しないといけないから))
「原罪=人類始祖の罪を全人類は継承している」
を否定する正教。
正教では人類の理想型(完全な神の像=ゴッドに似た形)は人類始祖の罪で
壊れたのであり、
カトリックやプロテスタントのように罪は継承されない、という教え。
つまり、
正教の陥罪(原罪)
=あるべき姿を失う。
西方教会(ヤソ)では「原罪」思想から、
全人類に対する神の罰をキリストが身代わりに受けてくれたことによって救われると強調。
つまり十字架刑を、全人類のために引き受けてくれた刑罰だったと解釈。
救済はイエスが神の罰を代わりに引き受けたおかげ。
原罪は、正教会的な理解によれば、
人類の元祖アダムとエヴァが犯した罪によって人間に生じた、人間性の病・ゆがみ。
正教では罪の概念が違うのでイエスによる救済の意味も違う。
「罪」=神の像の破損なので
救済=神の像の回復。
正教では「罪」は悪魔、苦難、死と一つのものと考えるので、
「救い」とは悪魔の敗北、苦難の終結、死の死滅。
完全な神の像であるハリストスの十字架上の死と復活により
私たちの神の像は回復され、
死という究極の不条理を敗北させたことが救済だと考える。
(ウパニシャッドの創造神=死を敗北させられるのは
時間を超越した存在だけだ?
キリスト教思想だと
ウパニシャッドの創造神=死
も当然ゴッドの支配下だからそりゃ負ける。
ニューエイジなどの新ヤソがヤソの原罪は悪なる思想と叩くが
正教にはそもそもヤソの原罪思想はない。
しかし個人的には、
罪=神の似姿の完全回復
は人間が自力では不可能という教えだから納得できない。
自力で何とかできる要素は残してほしい。
なお自力救済重視思想はキリスト教ではペラギウス主義と呼ばれ迫害された。
ペラギウス主義を多少取り入れる宗派もあるが
ゴッドとイエスのお力のおかげ!
というのを崩しかねないので自力救済を重視しすぎるとまずい。
原罪はバラモン教のカルマ論が元ネタだろうが
自力で解除も回復も不可能なのがバラモン教と異なる。
そもそも自力で回復可能ならゴッドが不要になってしまう)
※三位一体(至聖三者)の説明は一応要約するが
ややこしいので手引書も読んでおくれ。
※至聖三者(三位一体)と
キリストの藉身(せきしん。受肉)などについての教義は、
不変であり、絶対であり、取り消したり改訂したりしてはならない最重要教義。
三位一体(至聖三者)
=イエスはゴッドであり、被造物である人間ではない。
神が肉体ある人であるイエスとなった(藉身。他宗派では受肉)
のであり、
神であるから被造物ではありえない。
イエスは創造された超人とするアリウス派は異端。
至聖三者思想は
「何が至聖三者でない(異端)」だと述べるほうがわかりやすいと手引書は述べる。
(~である
でわかりにくいなら
~でない
で説明するのは非常に有効な説明術であり勉強術)
ハリストス(キリスト)
の神としての本性(神性)と
人としての本性(人性)をきっちり分けるという、
イエスの中に二人の人格があるかのよう主張する
ネストリウス派も異端。
ネストリウスは、
マリヤ(マリア)はハリストスの人性を生んだのであって、
女神であるかのように神性を生んだのではないので、
マリヤを
「生神女(神を生んだ女性)」と言ってはならないと、教えた。
正教では生まれたハリストスは
一つの『神格』しかもたないので、
「神を生んだ」と言えるとする。
正教会は「生神女」マリヤという用語を正統と認める。
「フィリオケ(子からも)」の問題
正教は
キリストはは父から「生まれ」、
聖神(聖霊)は父から「出る」という聖書に基づいた表現をする。
父から「出る」ものは父と同じ本質をもっているが、
神・子と聖神の『神格』は別だと考える。
対して、
ローマ・カトリックは
聖神は父からだけでなく
「子からも出る」と主張し、
「信経」に
「子からも(ラテン語で「フィリオケ」と言う)」という言葉を加えた。
正教会はこの「フィリオケ」、
「聖霊(聖神)は神の子イエスからも出る」
ことを否定する。
なぜなら、三位一体の三つの『神格』を混合してしまうからだ。
聖神が「父と子」の両方から「出る」としたら、本源が二つになってしまい、
それでも本源は一つだとするなら「父と子」の区別がつかなくなる。
こうしてローマ・カトリックは神の三つの格を強調するよりも
神の一つの本性、同一性の方を強調し、
ひいては教会の在り方に対する考え方も
その相違をなくそうとする傾向(多様性を認めない)になり、
ローマ法王の権威による教会統一が主張されることにも繋がった。
正教会は、父のみが一つの本源であり、
父と子と聖神は区別されながらしかも完全に一致していると主張。
だからこそ、個々の教会、個々の生命は大切であり、
愛における一致が大切だとする。
つまり多様性を認める。
正教
生まれる子←父→出る聖神(聖霊)
各地域の独立教会がゆるやかに手を結びあっている横並び構造。
カトリック
フィリオケ(子からも)
父→出る聖神(聖霊)
↓ ↑
生まれる子
ローマ・カトリック教会はローマ教皇をリーダーとし
全世界のカトリック教会が一枚岩に組織されたピラミッド構造。
「フィリオケ」
はローマ・カトリックと正教会の大きな違いの一つであり、
カトリックと正教会の
1054年の相互破門(教会分裂=シスマ)の原因の一つでもある。
相互破門はエキュメニカル運動の影響で
911年後に1965年に解消。
(911年後って数字狙ってんの?
正教はカトリックとプロテスタントの原罪思想を全否定しているから
どうやって教会一致させるのかわからないのだが。
フィリオケは異教徒から見ればどうでもいい争いに思えるが
これがカトリックのとにかく教会の個性を一つに統一!って姿勢につながり、
おそらく異教への姿勢にも影響しているから他人事ではない。
正教は個々の教会の多様性を認める方向になったし
異教と異端に対してもカトリックより寛容。
教会分裂の原因になったほどの重要問題は
異教への姿勢にも影響しているから異教徒にとっても重要事項だ。
異端と何をもめているかというと
ゴッドの定義
ゴッドの息子の定義
マリアの扱い
旧約と新約のゴッドは同じか否か。
物質は無条件に悪か否か。
などでもめている。
物質=無条件に悪なら
イエスが肉体をもったことが悪になるから
イエスの肉体は見せかけという異端とされた教義が生じる。
三位一体でないといけない統治上の都合を異教徒である私が考察する。
イエスを被造物である人にしてしまうと、
イエスを拝む
=人を拝む
=ゴッドを拝んでいない
となり、
しかも
「被造物にすぎない人が
ゴッドになりかわり崇拝される」
という一神教正統多数派のタブーを犯すことになる。
イエス=神ならタブーを回避できる。
聖霊のおかげで善がなされたなら
聖霊を拝むがゴッドは拝まなくなる可能性。
聖霊も
ゴッドの子も
同じ一つのゴッドにすれば
聖霊でも神の子でも拝めばゴッドを拝むことになる
ので唯一神のみを拝むことにできる。
子からも出る思想でカトリック教会のピラミッド構造が強化されたとあるので
子から出る思想はピラミッド構造強化という目的のために設定されたのでは?
三位一体の説明では想定される矛盾の指摘に反論しているが
都合よく毎回言葉の定義を変えている気がするんだよなあ。
三位一体で参照したのがこちら
http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/082sanmi.htm
このように
真逆や似て非なる思想との対比で学ぶ手法は
正統と異端をセットで学ぶことでも可能。
公式の解説書に異端の解説が載っているのは
非Aの説明はAが何かを明らかにし、
かつ誤った教えと混同されないようにするため。
異教との違いより異端との違いのほうが効率よく学べる。
https://twitter.com/exa_desty/status/990219665820430337
引用ツイートの最新記事とは
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/988092354597797888
であり
大幅加筆したので既読のかたもどうぞ。)
以上、本題は終わり、あとはおまけ。
正教会の知識(上記の要約の元ネタ)
信経
http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/shinkou01.html
”正教徒は何を信じているのですか、と問われたとき、それに対する確かな答えを私たちはもっています。それが「信経」と呼ばれる信仰箇条です。正教会の信徒ならば、この「信経」の全文は暗記するぐらい知っておかなければなりません。「信経」は、洗礼を受ける時だけでなく、聖体礼儀が行われる度に唱えられます。今、ここにその全文を記します。
我、信ず、一の神・父、全能者、天と地、見ゆると見えざる万物を造りし主を。
又、信ず、一の主イイスス・ハリストス、神の独生(どくせい)の子、
万世(よろずよ)の前(さき)に父より生まれ、
光よりの光、真(まこと)の神よりの真(まこと)の神、
生まれし者にて造られしに非ず、
父と一体にして、
万物、彼に造られ 我等人々の為、又我等の救いの為(ため)に天より降り
聖神及び童貞女マリヤより身を取り人と為(な)り
我等の為(ため)にポンティイピラトの時、十字架に釘うたれ苦しみを受け葬られ 第三日に聖書に叶(かな)うて復活し 天に升(のぼ)り父の右に坐(ざ)し 光栄を顕(あら)わして生ける者と死せし者を審判する為(ため)に還(ま)た来り
その国、終りなからん、を
又、信ず、聖神、主、生命(いのち)を施す者、父より出で、父及び子と共に拝まれ讃められ、預言者を以(もっ)てかつて言いし、を
又、信ず、一の聖なる公(おおやけ)なる使徒の教会を
我、認む、一の洗礼、以て罪の赦(ゆるし)を得(う)る、を、
我、望む、死者の復活、並びに来世(らいせい)の生命(いのち)を アミン
この「信経」は、正式には「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」と言います。
それはニケヤにおける第一全地公会(325年)とコンスタンチノープルにおける第二全地公会(381年)において出来たものだからです。
初代教会では、キリスト教信仰の表明にはいくつもの異なった形、たくさんの信仰箇条がありました。その古いものの中の一つとして「使徒信条」と呼ばれるものを新教などでは使用していますが、正教会では、この「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」のみを正式に採用しています。
第一全地公会は、ハリストス(キリスト)に関する異端に対して正しい信仰を明確にするために開かれたものでした。
ハリストス(キリスト)は、神によって造られた超人的なお方である、と主張したアリウスという人がいました。
正教会はこの異端の教えに対して、神の子であるハリストス(キリスト)は神から生まれたものであって造られたものではない(生まれし者にて造られしに非ず)と反論しました。カエルの子はカエル、人間の子は人間です。同じように神の子は神なのです。それをもっと明確にするために、「信経」では「父と一体」と言っています。この「一体」と訳されたギリシャ語は「ホモウシオス」といい、「本質が同じ」という意味です。ハリストス(キリスト)は、神・父と同じ神としての本質をもっている、ということです。神の子が神・父から「生まれる」というのは象徴的な表現であって限界があります。
だから第一全地公会では、「神の子が存在しなかった時があるとか、生まれる前にはいなかった…などという者は破門にする」と但し書きを付加しました。
また、聖神も神であるということについては、コンスタンチノープルにおける第二全地公会で確信されました。さらに教会について、洗礼について、来世の生命についての信仰箇条も追加されました。
さて、「信経」では、神であるハリストス(キリスト)が、マリヤをとおして人間になったこと(藉身(せきしん)という)、そして十字架につけらたこと、死から復活したこと、天に昇ったこと(昇天という)、この世の終わりに再び来られること(再臨という)、そしてそれらがすべて私たち人間の救いのために行われたことを信じていると表明します。藉身も十字架も復活も昇天も再臨も、私たちの理解を超えていることです。しかしだからこそ、「信じる」必要があります。”
”ローマ・カトリックの「無原罪の宿り」という考え
さて、正教会がなぜマリヤを讃えるかということですが、決して神格化して讃えているわけではありません。
むしろ、ローマ・カトリック教会が近代になって教理として宣言した「マリヤの無原罪の宿り」という考えには強く反対しています
この考えは、マリヤは私たちと異なりその両親から原罪を引き継がずに生まれたというものです。
原罪は、正教会的な理解によれば、
人類の元祖アダムとエヴァが犯した罪によって人間に生じた、人間性の病・ゆがみですから、
このハンデキャップなしにお生まれになったマリヤが、清らかなご生涯を送られたのは当然と言うことになります。
(ちなみに原罪という言葉も正教会は西方教会的な法律的理解による原罪観と混同されないよう、
なるべく避ける傾向があります。陥罪という表現がよく用いられます)。”
http://www.orthodox-jp.com/george/msj3.htm
”西方で発展したキリスト教であるカトリックやプロテスタントでは、アダムの罪の結果、厳しい神の罰をも全人類が受け継いだと強調します。
人間は生まれながらにして罪人であり、罪人である以上、
神の裁きと罰を受けるものであるとし、全く自由意志の力を失ったと教えます。
正教会はこのような「原罪」と呼ばれる考え方を否定します。
アダムとエワによって神の似姿は壊されてしまいましたが、
まだかろうじてその似姿(神の像)は残っていて保持されている、と正教会は教えます。
どんな人間でも、まずはそこに「神の像」を見るべきです(ただしそれが破損していることも事実です)。
人間に残された神の像は、神を求める自由意志を弱いけれども持っています。
人類が受け継いだのは神の罰ではなく、破損した似姿です。
しかし、神に従うか従わないかの自由意志は、私の選択権として最後まで残されていますが、
人間が自分の努力によって、破壊された神の像を回復することは不可能となりました。”
http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/oshie03.html
イエズス会VSロシア正教(元記事消滅)
http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38094379.html
”佐藤優氏の『国家の崩壊』(にんげん出版)
▼(以下引用。P99)
(イエズス会について)
ロシア語で「イェズィット」(イエズス会)という言葉があるんですが、それは嘘つきだとかペテン師、強盗だというのとほぼ同じ意味なんです。ロシア人にとっては、イエズス会はそういうイメージなんです。
どうしてかというと、ほかのフランシスコ会などはカトリックの伝統のまま入って来ますけれど、
イエズス会はロシア語を上手に勉強して、ロシア正教と同じような儀式をやりながら入って来るわけです。ロシア正教会と全く同じ形式で来るんです。だからかえって怖いということです。これは全世界どこでも同じで、中国の典礼問題などもその表れです。ロシアでもイコンを崇拝することぐらいイエズス会の連中は平気でやる。
そのうえで、「ただし、二点だけ認めてください」というんです。
第一点は、「一番偉いのはローマ教皇だということは認めてください」と言う。
もう一点は、聖霊がどこから出てくるかという問題なんです。この問題では論争があって、ロシア正教会だと、「聖霊は父から出る」という考え方なんです。それが、カトリックだと「聖霊は父と子から出る」という考え方なんです。そこで、第二点として「聖霊は父と子から出るということを認めてください」と言う。「この二点だけ認めてくれれば、後はロシア語を使っても、神父さんが結婚してもいいですよ」と、カトリックであるにもかかわらず言うんです。
要するに、本当に守らなければならないところのギリギリは何なのかということを、イエズス会は徹底的につめているんです。それ以外は、全部妥協してしまう。だから、イエズス会は怖いという意識が、ロシア人の中にあるんです。
▲(引用終わり)
▼(以下引用。P316)
(ロシアのアイデンティティとは何か)
しかし、このように、ロシアをまとめているものを、これだという積極的あるいは肯定的な形でとらえるのではなくて、これでもない、あれでもない、という消極的あるいは否定的な形でとらえるというのは、実はロシアの伝統的思想に合致するものなんです。
キリスト教の神学には肯定神学と否定神学があります。肯定神学というのは、神は愛である、というように肯定的な規定で神をとらえるものですが、
それに対して、神はこれこれのものではないし、これこれのものでもない、と否定の規定を重ねていくことによってしか神をとらえることはできない、とするのが否定神学です。つまり、ロシア・アイデンティティのこのようなとらえ方は、否定神学のとらえ方と同じだということになります。
▲(引用終わり)”
ギリシア正教会/東方教会/東方正教会
http://www.y-history.net/appendix/wh0602-006.html
”コンスタンティノープル教会を首座とするビザンツ帝国の教会制度とその教説。ローマ教会と分離し、東方教会(東方正教会)と言われた。皇帝教皇主義が特色である。
本来、コンスタンティノープル教会はキリスト教の五本山の一つにすぎなかったが、
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のもとで独自の発展をとげ、8世紀以降、聖像崇拝問題でローマ教会と対立し、コンスタンティノープル総主教は、ビザンツ皇帝の保護のもと、自らの教えを正しいキリスト教であると唱えて「正教」(オルソドクス)と称した。特に9世紀以来、「スラヴの使徒」と言われたキュリロス兄弟によって東ヨーロッパ世界のスラヴ人に布教が進み、その教会は「ギリシア正教」(Greek Orthdox)といわれ、東ヨーロッパ世界に根付くことになる。
東方教会
ビザンツ帝国と結びついたコンスタンティノープル総主教を中心としたキリスト教の体系を、特に教会の東西分離以降は、ローマ教会を西方教会というのに対して、東方教会ともいう。あるいは「東方正教会」という言い方もある。ただし、東方教会といった場合、ギリシア正教会だけではなく、ひろく東方で信仰を守ったキリスト教の別派を含むこともある。そのような意味では、アルメニア教会・コプト教会・マロン派などがあげられる。
ローマ=カトリックとの体制の違い
ローマ教会と最も異なる点は、皇帝教皇主義を採り、ビザンツ皇帝が教会の最高指導者を兼ねていることである。
実際の教会はコンスタンティノープル総主教がその最高位であるが、ビザンツ皇帝はその任免権を持ち、常に優位に立っていた。
教皇と皇帝が常に争っていた西ヨーロッパのローマ=カトリック世界と決定的に違う体制であった。
同じキリスト教であり、三位一体説を継承しているので「異端」とはされないが、細部においては教義も異なっており、特に聖像崇拝問題では鋭く対立した。なによりもその儀礼において、かなりの違いが認められる
…
ビザンツ帝国の衰退
7世紀には、アラビア半島に起こったイスラーム教が急速に勢力を拡大し、ビザンツ帝国領のシリア、エジプト、北アフリカを次々と支配下に収め、さらに小アジアに進出してきた。そのため、五本山のうち、アンティオキア・アレキサンドリア・イェルサレムの東方の3教会がいずれもイスラームの手におちてしまった。その結果、コンスタンティノープル教会は東方での唯一のキリスト教の中心として重きをなすこととなった。この間もローマ教会との教会の首座をめぐる朝添いは続いていたが、ついに1054年にローマ教会と互いに破門しあって教会は東西に分離した。
十字軍の要請
しかし、11世紀の末、セルジューク朝が小アジアに侵攻し、1071年、マンジケルトの戦いでビザンツ帝国軍が敗れ、コンスタンティノープルは再び大きな脅威にさらされると、ビザンツ皇帝アレクシオス1世は、ローマ教皇ウルバヌス2世に対し支援を要請した。それに応える形で十字軍運動を開始する。ローマ教会側は東西教会の統合の機会と捉え、第4回十字軍はコンスタンティノープルを占領しラテン帝国を建てた。
コンスタンティノープル教会はなおもギリシア正教の総本山として権威を保っていたが、ラテン帝国はまもなく倒れ、ビザンツ帝国が再興された。しかし、その支配領域はコンスタンティノープル周辺に限られるようになった。
オスマン帝国支配下のギリシア正教
1453年、コンスタンティノープルが陥落し、コンスタンティノープル教会もイスラームの手におちるが、オスマン帝国はミッレト制など寛大な宗教政策をとったので総主教座は残された。
ロシアとギリシア正教
ビザンツ帝国にかわりギリシア正教の保護者となったのはロシアであった。
ロシアはウラディミル1世のとき、990年にギリシア正教を国教とし、キエフさらにモスクワに府主教座を設けていたが、
1472年、イヴァン3世はビザンツ皇帝を継承し、その保護者とった。さらに1589年、ギリシア正教会の総主教座をコンスタンティノープルからモスクワに移した。
Episode ギリシア正教とカトリックの違い
ギリシア正教の聖職者は、黒い帽子に、黒いマントをまとい、必ず髭をたくわえている。
なかには髪を長く伸ばし後ろでまとめめているのもいる。これは聖職者が必ず守らなければならない教会規定であり、守るべき伝統とされている。
また、ギリシア正教と、ローマ=カトリックのちがいに、十字の切り方がある。
カトリックでは、
親指を折って、ひたい、胸とおろし、次に左肩にもってくるが、
ギリシア正教では
親指、人差し指、中指を合わせ、後の二本を折り、合わせた三本指で、ひたい、胸とおろして、右肩、左肩と描く。
右を先にもってくるのは、キリストが昇天した後、神の右手に坐した、されるところから、重視するのである。<以上の項、高橋保行『ギリシア正教』講談社学術文庫 による。>”
ボゴミール派
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/gnousisu/bogomiiru.htm
” ボゴミール派もまたグノーシスの神話を含んでいる。
そして、それはカタリ派がカソリックを悩ませたように、このボゴミール派は東方正教会を悩ませた巨大な異端派であった。
それは実に500年以上も続き、一時期にはブルガリアを中心に東ヨーロッパのみならず、イタリアやフランスにまでも影響を及ぼす大勢力となった。
ボゴミール派の成立には、まずパウロ派と呼ばれる異端派がある。これはキリストの神性を否定した派であり、彼らはイエスは30歳のときにパプテスマを受けたときに神の養子となったという「キリスト養子説」を取っていた。
当然の如く三位一体説は否定しており、その代わりマニ教やマルキオン派からの強い影響が見られ、いわゆる善悪二元論を取っていた。
しかし、彼らのこの「養子説」は、グノーシス派のキリストを純粋な霊的存在と見なす考えとは対立する思想であった。
彼らはキリストがマリヤの受胎を通じて、敢て肉体を持って生まれたとし、むしろマニ教の影響が強い。
そのため、この派は、当時マニ教と混同された。東方正教会の記録に「マニ教」とあるのは、実はこのパウロ派を指していることも多い。
パウロ派もグノーシスの教義を断片的に含んではいたが、これはマニ教を経由してのことのようである。
パウロ派の成立は未だにはっきりしていない。おそらくその起源は7世紀頃まで遡る。そして、東ヨーロッパの様々な教派の思想を取り込んで発展し、8~9世紀頃には国家を造るまでになったが、この国も結局ビザンチン帝国によって滅ぼされた。
そして、彼らはその後も熱心に布教を続け、存続する。
パウロ派の一部は8世紀の初頭にビザンチン皇帝によってトラキア地方の辺境守備隊として移住させられた集団がおり、これがボゴミール派の祖であるというのが有力な説である。
彼らは、マニ教やマルキオン派の影響だけではなく、さらに東方正教会で起こった聖像破壊運動を取り込み発展した。
聖像破壊運動は偶像崇拝を否定する動きから生じた運動で、8~9世紀の約100年間続く運動である。これは東ローマ皇帝の聖像破壊の勅令によって行われ、レオン3世の治世とテオフィロス帝の治世の2回のピークがある。
…
文字通り、偶像崇拝は「聖書」の禁ずる行為であるとして、十字架や聖画、聖像が破壊された。
しかし、この運動は極めて暴力的になり、修道院を破壊し、反対する聖職者達を大勢殺戮した。当然の如くローマ教皇との深刻な対立をも引き起こした。
(この運動が起こった原因については、歴史学者たちの間でも議論があり、はっきりとした結論は出ていない。
一つはイスラム圏と接していたがゆえに、イスラムの偶像否定の影響を受けたという説。
破壊派に政治家や軍人が多く、聖像擁護派に聖職者が多かったことから、政治権力と宗教権力の抗争といった説もある。)
ともあれ、この運動はボゴミール派にも強い影響を与えた。
ボゴミール派は、聖像を認めず、十字架に至ってはキリストを殺害した処刑具であり、こんな物を崇拝するのはもっての他と断じたのである。
ボゴミール派の開祖は、その名の通りボゴミールという村の司祭であったといわれる。930年頃のことである。ただ、これはボゴミールの0からの発明ではなく、もともとあった運動を発展させた有力な指導者と見られている。
ボゴミール派の大きな特徴は、その創世神話にある。
彼らによると、神には二人の息子がおり、一人はキリスト、もう一人はサタナエルという天使である。
このサタナエルは「旧約聖書」の神と同一であり、もちろん真の神ではない。サタナエルは、真の神の同意を得た上で、物質世界を創造したという。サタナエルは暴君であり、邪悪な存在である。
真の神は天界と天使たちを創造した。サタナエルもこのときに創造された。しかし、思い上がったサタナエルは神に反逆し、堕天する。
堕天したサタナエルは、混沌とした大地を整備して、地(物質世界)を創造した。これは真の神の許可を得たうえでのことだったという。
サタナエルは土から人間を創造しようとしたが失敗した。そこで、サタナエルは真の神に協力を仰ぐ。
真の神は、いずれ人間を自分に返還することを条件に、これに協力する。真の神は魂を創造し、サタナエルの土人形(肉体)に、これを吹き込むことによって人間を創造した。
サタナエルは暴君となって、過酷な支配を行い、この真の神の子でもある人間たちを苛め抜く。「旧約聖書」にある流血沙汰、ノアの洪水などがそうであるという。
そこで、真の神はキリストを派遣して、人間を救済する。
イエスは神的な存在であったが、マリヤを通じて仮の肉体をまとった。しかし、本来イエスは非物質的な存在であり、あくまで「肉体のようなもの」をまとっていただけだったという。
イエスは福音を説き、「言葉」である「聖霊」を人々に浸透させた。
サタナエルはこれを妨害する。十字架にかけられたのも、サタナエルの計略だったが、もともと本当の肉体を持たないイエスにとっては、意味のないことであった。
イエスは仮に死ぬと、すぐに復活し、サタナエルを鎖で縛り、地獄に投げ込んだ。この時点で、サタナエルは「エル」を失いサタナ(悪魔)に堕す。
任務を終えたイエスは天界に戻ると、自分の内に入った「聖霊」と共に、「父」と一体化する。これで、「三位一体」という一時的にバラバラになっていた状態を終え、一つの神に戻った。
しかし、サタナは地獄から逃亡することに成功し、再び地上を支配するようになった……という。
だが人間は、このサタナの手から逃れることは充分可能である。それはボゴミール派の説くイエスの教えを受け入れることであるという。
したがって、物質たるこの世はサタナエルによって支配されている邪悪な世界である。この世に貧困や戦乱や病気といった災厄に満ちているのも、邪悪なサタナエルによって造られ、支配を受けているからに他ならない。
東方正教会や皇帝などは、サタナエルの手先であり、邪悪な存在である。
これは重要だ。ボゴミール派は、とかく皇帝や教会などの権力をサタナエルに属するものとして嫌悪した。
当時、封建社会において搾取の対象にされ、悲惨な生活を強いられた農奴たちが、重税を取って贅沢三昧に遊び暮らす皇帝や貴族、聖職者たちへの一種の階級闘争として、このボゴミール派を奉じたのだ、という説を、ブルガリアの歴史学者たちは支持しているからだ。
…
ボゴミール派は、とにかく正統派(?)の東方正教会派の教義を否定した。
まず、彼らはサタナエルの作品である「旧約聖書」を聖典とは認めなかった。モーセなどはサタナエルの手先であるという。
さらに彼らは、十字架も聖像も偶像崇拝であるとして、これを認めなかった。
ミサなどの東方正教会の宗教儀式は全く無意味であり、唯一正統な祈りは「主の祈り」だけである。
聖餐式のパンとワインは、もちろんキリストの肉でも血でもなくただの食品であるという。
洗礼についても、堕落した正教会の聖職者が自由意志のまだ無い幼児に洗礼をほどこすのは無意味であるとし、成人してから自分の自由意志で受ける、いわゆる「再洗礼」を行った。
懺悔に関しても堕落した正教会の聖職者に行っても意味はなく、彼らはお互いの仲間どうしで懺悔した。
金や富はサタナエルのものであり、したがって金持ちは救われない。信徒は貧しくあるべきと考え、粗末な衣服のみを着るべしとされた。さらに肉食や酒は禁止であり、婚姻も避けるべきこととされた。
だが、こうした厳しい戒律を全て守るのは、普通の農奴には難しく、「完全者」と呼ばれる一部のコアな信徒がこれを行った。「完全者」には、元正教会の下級聖職者出身者が多く、彼らがボゴミール派の聖職、宣教師となった。
ボゴミール派は、大きく2派に大別される。
一つはサタナエルは真の神の被造物であり天使に過ぎず、最後の審判の日に地獄に投げ込まれる悪魔であるとする穏健二元論派である。彼らは、サタナエルは神の罰を受けて堕天し、「エル」を失いサタナ(悪魔)になったと考える。
この穏健二元論派は、初期のボゴミール派の主流派であり、ブルガリアを中心に広まっていた。
もう一つは、サタナエルは真の神と同等の力を持ち、両者の対立は未来永劫続くと考える絶対二元論者である。これは時代が下がると徐々に力を増してゆく。マケドニア地方に置かれたボゴミール派のドラゴヴィツァ教会が、その中心であった。
この絶対二元論派は、東方正教会や権力者たちを激しく批判し、対立した。
両派は、同じ境遇にあり、二元論以外の教義では一致が多かったので、互いに容認しあう関係にあったらしい。
ただ、宣教活動は絶対二元論者のほうが熱心であり、彼らはイタリアやフランスにまで遠征した。
それによって、ボゴミール派は、かのカタリ派に大きな影響を与えることになるのである。
当然の如く、ボゴミール派は、東方正教会からもブルガリア帝国やビザンチン帝国からも激しい迫害を受けた。
12世紀に起こったボゴミール派説教師バシレイオスの壮絶な殉教事件も、そうした最中に起こっている。
…
ブルガリアがビザンチン帝国の侵略を受け、帝国に併合されると、彼らはレジスタンス運動とも結びついたらしい。
そのため、ビザンチン帝国の支配下でも激しい迫害を受けたが、彼らは衰えることはなく、かえって活動を活発化させた。彼らは逆にビザンチンの帝国領の各地で宣教を行い、その勢力はコンスタンチノープルにまでおよぶことになる。
やがてブルガリアがビザンチンの支配を脱した後も、彼らは活動を活発に行っていた。
しかし、14世紀頃から衰退が始まる。そして、オスマン・トルコの侵略を受け、イスラムの支配下に入ると、ボゴミール派は事実上消滅してしまった。
彼らの大半はイスラム教に改宗してしまったという。
あれほどの迫害を生き延びた彼らが、なぜあっさりとイスラムの前に敗北してしまったのか。その理由はよくは分からない。
ある学者は、ボゴミール派の教義そのものが階級闘争の目的から離れて、抑圧されていた庶民の人気を失い、さらにイスラム教は、彼らがこれまで戦って来た相手(東方正教会など)とあまりに異なった相手だったので、それと戦う理論武装がなかたったためではないかと推測している。
ボゴミール派は、こうして消滅したが、彼らの教義はブルガイリアの民間伝承の中で行き続ける。
そして、その教義の一部は西ヨーロッパのカタリ派にバトン・タッチされ、グノーシスの教義の残滓は、さらにしばらく継承されてゆくことになるのである。
「異端の宗派ボゴミール」 ディミータル・アンゲロフ著 寺島憲冶訳 恒文社
「異端事典」 C・S・クリフトン著 田中雅志訳 三交社
「聖像画論争とイスラーム」 若林啓史著 知泉書館”
Mount Athos, part 1
https://www.youtube.com/watch?v=6mXl8C4-M_4&feature=youtu.be
Mount Athos, part 2
https://www.youtube.com/watch?v=J1lvruy-j2c
60 Minutes, 08.08.10
https://www.youtube.com/watch?v=wljNfTqxpVw
佯狂者(瘋癲行者と訳したりもする)
聖ワシリイ:イワン雷帝を叱責した「裸の聖者」 - ロシア・ビヨンド
https://jp.rbth.com/history/79445-sei-wasirii
裸の聖者ワシリイが永眠
https://jp.rbth.com/arts/2013/08/15/44569
正教会の手引き(ウェブ上PDF)
http://www.orthodoxjapan.jp/pdf/new-tebiki.pdf
"教会の内部でも、その真理と信仰を歪める人たちがいました。彼
等は「異端者」と呼ばれます。異端者は、正教会の正しさの一部を
切り捨てたり別の教えを取り入れたりして、自分勝手な間違った教
義を唱えました。例えば、グノーシスと呼ばれる異端者たちは、二
元論の思想や異教の教義とキリスト教を
混合させました。マルキオンという人は、旧約聖書は不要と主張しました。
モンタヌスという人は、神の霊によって恍惚状態になることを救いの手段だと教えま
した。特に
ハリストス(キリスト)
に関する異端については、第二章でお話しし
ます。
…
正教会は、政治的には平和の時代を迎えましたが、しかし内部か
らその一致を乱す異端者は後を絶ちませんでした。そんな異端者た
ちと戦ったのも聖師父たちでした。そして、教会として正統さを守
りぬくため、全部で七つの
「全地公会」と呼ばれる会議が開かれま
した。
七つの全地公会
開催地
年代
内容
第一
ニケヤ会議
325
年
ハリストス
キ リ ス ト
を被造物と唱え
るアリウスの説を退ける
第二
コンスタンチノープル会議
381
年
信経の決定
第三
エフェス
エペソ
会議
431
年
マリヤを生神女と認めない
ネスト
リウスの説を退ける
第四
カルケドン会議
451
年
ハリストス
キ リ ス ト
に神性しか認め
ない単性論を退ける
第五
コンスタンチノープル会議
553
年
ハリストス
キ リ ス ト
に関する再定義
第六
コンスタンチノープル会議
680
年
ハリストス
キリスト
に神の意志しか認め
ない単意論を退ける
第七
ニケヤ会議
787
年
イコンを偶像として
否定す
る聖像破壊論を退ける
-
17
-
この他にも、重要な決定がなされた地方公会議がたくさんありま
す。
これらの全地公会で定義された教義的内容は、正教会の聖伝の中
でも永遠に揺るがない部分です。正教会の信仰の根幹が、約
800
年
の歳月をかけて築かれたことを見落としてはいけません。そしてこ
の七つの公会議の内容を忠実に守っているキリスト教は正教会だけ
です
…
ローマ・カトリックと正教会の違いは、ここでは説明できないく
らい大きくまた細部に渡ります。
一番大きな差は、全世界の最高権威を主張するローマ法王を正教会は認めないことです。
神
ハリストス
キ リ ス ト
以外に世界の最高権威は存在しません。
習慣的な差とし
ては、カトリック教会側が妻帯司祭を認めないこと、
ミサに無発酵
パンを用いること、
礼拝に楽器を使用することなどがあげられます。
つまり正教会では、妻帯者を司祭に任命することができ、
聖体礼儀
には発酵パンを使い、
奉神礼では一切楽器を使用せず肉声だけで行
ないます。
他にも十字架のきり方、聖堂の建て方、美術に対する姿
勢などの違いがあります。
神学的にはマリヤ様に関すること、三位
一体の神に関する教
義の違い(「フィリオケ」問題という。第二章の
④を参照)、煉獄という考えの是非、さらには
ハリストス
キ リ ス ト
の十字架に
対する見解の差もあります。
ローマ・カトリックでは20世紀まで
ずっとラテン語でしか礼拝をしなかったこともあげられるでしょう。
しかし、
1967
年の第二バチカン公会議以降、ローマ・カトリックも
様変わりし、各国の言葉を受容し、礼拝の刷新が行なわれたようで
す。
…
プロテスタント各派は、正教会のイコンを偶像視しますし、
十字
架なども切りません。中には三位一体の神を唱えなかったり、
ハリストス
キ リ ス ト
が人となった神であることも無視したり、ただ愛の教え
を命がけで説いたお方だとか、十字架によって人類の負うべき罪(罪
というより罰)を
ハリストス
キ リ ス ト
が身代わりに背負ってくれたことが救
いであるとだけ言って満足する教会もあります。
新興宗教
これらの他に、「新興宗教」とよばれる教会が大いに勢力を増して
います。彼らは「キリスト」や「聖書」を用
いますが、実は「キリ
スト教」ではありません。終末論を曲解して不安を与え、教祖の教
えを救いとして提示し、勢力拡大を熱心に行うカルト的な宗教です。
惑わされないように気をつけましょう。
…
神・父と神・子は同本質
第一全地公会は、ハリストス
キ リ ス ト
に関する異端に対して正しい信仰を
明確にするために開かれたものでした。ハリストス
キ リ ス ト
は、神によって
造られた超人的なお方である、と主張したアリウスという人がいま
した。
正教会はこの主張に対して、神の子であるハリストス
キ リ ス ト
は神から生まれたものであって造られたものではない
(生まれし者にて造られしに非ず)と反論しました。
- 37 -
「神によって造られた」のであれば、
神の子は「神」とは違う本質をもつことになってしまいます。
しかし、ハリストスは、「神・父より生まれた」ものであり、実質的に「神の子」です。
人間の子が人間であるように、「神の子」は「神」なのです。
それをもっと明確にするために、「信経」では「父と一体」と言
っています。この「一体」と訳されたギリシャ語は「ホモウシオス」
といい、「同本質」という意味です。ハリストス
キ リ ス ト
は、神・父と同じ神としての本質をもっている、ということです。
ただし、神の子が神・父から「生まれる」という表現には限界が
あります。だから第一全地公会では、「神の子が存在しなかった時が
あるとか、生まれる前にはいなかった…などという者は破門にする」
と但し書きを付加しました。
また、聖神も神であるということについては、コンスタンチノー
プルにおける第二全地公会で確信されました。さらに教会について、
洗礼について、来世の生命についての信仰箇条も追加されました。
…
至聖三者
正教会は、唯一の神様でありながら、神・父も神であり、神の子
も神であり、聖神も神であるといいます。まるで三つの神様がいる
ように聞こえますが、そうではなくあくまでも唯一の神様です。こ
のことを「三位一体」、正教会では「至聖三者」と言います。三つが
一つであり、一つが三つというのは普通の理解を超えていることで、
神の神秘としか言いようがありません。だからこそ、「我、理解す」
とは言わず、「我、信ず」と言っているわけです。
キリスト教は、このように、三位一体の唯一の神を信じ、
ハリストス
キ リ ス ト
の藉身や復活を信じ、聖神を神として拝んでいます。も
し、三位一体など受け入れられないとか、ハリストス
キ リ ス ト
は単にユダヤ
教を改革した偉い宗教的人物であって復活なども実際にあったので
はなく弟子たちの心理的な変換に過ぎないなどと教える教会があっ
たら、たとえハリストス
キ リ ス ト
の尊い教えを宣べ伝えていても、それはキ
リスト教ではありません。
「信経」の本質的な意味を受け入れるということが、正教会の信
徒になるということなのです。
…
唯一の神について
「信経」では、まず「我、信ず、一つの神」と言います。神様は
唯一であることが第一に信ずべきことなのです。
ある人は、神様などいないと主張します。哲学的に考えたり科学
的に考えたりして無神論を唱える人もいますが、苦難や不幸の故に
「神などいない」と思う人もいます。私たちは、どんなことがあっ
ても無神論に陥ってはなりません。
またある人は、自然の中に満ちている力そのものが神であるなど
と言います(汎神論)。
よく「宇宙の霊的なエネルギイ」とか「科
学では証明されない不思議なパワー」などと言って、特別な儀式な
どをとおしてその力との一致を唱える人たちもいます。しかし、そ
れは私たちの信じる唯一の愛の神ではありません。
同じように、「宇宙の根本」とか「世界の第一原因」などといって
神を理論づけようとする人たちもいます。論理を組み立てて人間の
狭い理解で神を把握しようとし、抽象的な概念として神を定義づけ
ようとします(理神論)。しかし、それは私たちの信じる唯一の生
きた神ではありません。
また、それぞれの自然の中に宿る神秘的な力を神として崇める考
え方があって、それによれば山や海や木や岩や星や動物や、そして
人間も神になります(多神論)。所謂「八百万の神」であり、偶像
崇拝の宗教です。その人々は初日の出を見て太陽を拝みますが、私
たちは太陽を創造した唯一の神を拝みます。
さらに、そんな多くの神々の中から優位に立つ者を選んで、その
一つだけを崇拝の対象にする考え方もあります(単一神論)。しか
し、それだと人間の都合によって、神が交替してしまいます。「一つ
の神」を信じているといいながら他の神々の存在を否定しないので、
多神論であることに変わりありません。私たちは、神々の中から一
- 42 -
つを選んでいるのではなく、「唯一」の神を信じています。つまり他
に神を認めず、絶対的な神様を信じているのです。
位格をもつ神
私たちは、その唯一の神を「父」と呼びます。それは第一に神の
子ハリストス
キ リ ス ト
との関係を明示しています。つまり神が「父」「子」「聖
神」の三位一体の神であることをすでに表明しているのです。三位
の「位」とは、「ペルソナ」とか「ヒポスタシス」などと言われる言
葉の訳語で、他にも「位格」とか「個位」など訳されます。普通は
「人格」とも言われますが、神様ですから「人格」ではなく『神格』
といったほうが正確でしょう。つまり、神には三つの『神格』があ
るのです。
しかし、その三つはまったく同じ神としての本性をもっ
ているので、一つの神でもあるのです。
三位一体でないもの
三位一体そのものを説明するよりも、
三位一体でないもの(異端
の教え)を説明し、それを否定する方がより容易です。
まず、神・子と呼ばれるハリストス
キ リ ス ト
と聖神は、神によって造られ
たものであって神そのものではないと教える異端があります。これ
は真っ向から三位一体を否定しています。
次に、神様は、時代によってご自分を表す形態を変えていったと
教える異端があります。
つまり、一人三役というわけです。
旧約時代は「父」として、
新約時代は「子」として、
その次には「聖神」
として神様が仮面を変えていったと言っているようなものです。こ
れは神の三つの『神格』を否定しています。
もう一つ、神様の内部を三分割して考えようとする異端がありま
す。つまりちょうど一人の人間の中に意志と肉体と霊があるように、
父と子と聖神を分けて把握しようとするわけです。
これは三位一体の神を概念としてしかとらえていません。
- 43 -
もちろん、父と子と聖神という三つの神々がいて、それぞれ息を
あわせて人間界を管理しているなどいうのも異端です。
神は唯一の
神なのです。神が三位一体であることは、神によって造られた人間
の存在の基礎であり、救いの根源です。
父なる神
さて、神を「父」と呼ぶのにはもう一つの意味があります。それ
は私たち人間との関係です。ハリストス
キ リ ス ト
と「父」は本質的な親子関
係ですが、
私たちと「父」なる神とは本質的ではなく恩寵による親
子関係です。私たちは、神様に似せて創造された存在だからです。
神様は抽象概念でも無人格な力でもなく「生きたお方」であり、父
が子を愛するように、私たちを愛しているという意味も「父」の言
葉の中に込められています。
全能なる神
その生きた愛の神は「全能者」です。つまり、「全て」のことが「可
能」である、神には何でもできる、神様にできないことは何もない、
という意味です。しかし、この神の「全能」を理屈でこね回したり
してはいけません。神様なら○○ができるはずなのに、実現できて
ないのだから全能なる神などいない、といってはいけません。自己
矛盾することは全能の神にもできません(正確にいえば「なさらな
い」)。能力としてできないのではなく、矛盾しているからできない
のです。しかし、神は「全能」であり、私たちの知恵をはるかに超
えた偉大な力をもっておられることは、信仰深く受け止めるべきこ
とです。「神には何もできないことはない」と言った天使の言葉を信
じたからこそ、マリヤはハリストス
キ リ ス ト
神を生む女性となったのです。
天地創造の神
神は全能の力で「天と地、見ゆると見えざる万物」を創造されま
- 44 -
した。神が万物を創造されたと信じる時に注意しなければならない
ことが、三つあります。
第一に造った者と造られたものとは明らかに本質的に違うという
ことです。神はこの世を造った以上、この世の中にはいません。こ
の世を越えた存在です。しかし、造られたこの世の中には、その神
の創造の力がみなぎっていることは確かです。
第二に、神は万物を「無から」創造されました。創造すべき材料
が始めからあってそれを組み立てたのではありません。「見えるも
の」も「見えないもの」もすべては、何もないところから造られた
のです。万物には全くの「始まり」があるわけです。「始まり」がな
いのは神様だけです。
第三に、神は万物をすべて「善」なるものとして創造しました。
神様が造ったもので、悪いものは何一つありませんでした。「物質は
悪、精神は善」という二元論は否定されます。三位一体の神が万物
を無から善として創造された、これを信じるところから信仰のすべ
てが始まります。
…
人となった神ハリストス
イイスス
イエス
・
ハリストス
キ リ ス ト
とは、「神様が人間になったお方」です。こ
のことを正教会では「
藉
せき
身
しん
」と言います(一般では「受肉」という)。
藉身とは、難しく言えば、三位一体の神のうち「神・子」と呼ばれ
る『神格』
が人
間性を取ったということです。正教会はこのように
明確な答えをもっていますが、
ハリストス
キ リ ス ト
とは一体どんなお方かに
関しては、何
百年もかけて論議されたことでした。言い換えれば、
さまざまな
教え
の中で、正しい教えが聖神の導きによって明らかに
されていったのです。
イイスス
イエス
・
ハリストス
キ リ ス ト
を間違った目で信仰し
ないように、以下にその異端とされた教えを
紹介します。
仮現論
見えない神様が人間の肉体をとる筈はなく、
ハリストス
キ リ ス ト
は人間のように見えたけれども、それは実は幻である、という異端
があります。「仮現論」と呼ばれます。新約聖書にはすでにこの異端
に対して論駁している箇所があります(
イオアン
ヨハネ
第二
1:7
、他)。
養子論
ハリストス
キ リ ス ト
は、あくまでも人間であって神様ではなく、
ナザレのイイスス
イエスが最高の宗教的人物として神に認められただけで
ある、という異端があります。ある人間が「神の子」として認知さ
れたというわけなので「養子論」と呼ばれます。今でもこういう考
えをもっている人たちがいます。
ハリストス
キ リ ス ト
の教えのみを大切にし
て、藉身については無視しているわけです。
アリウスの異端
神・子は、神によって創造された超人的存在で
あると主張した異端があります。その提唱者の名をとって「アリウ
スの異端」と呼ばれます。聖書の中にある
ハリストス
キ リ ス ト
の人間的な面
と超人的な面をうまく説明しているので、四世紀ごろに大流行しま
-
47
-
したが、正教会は第一全地公会でこの異端を排斥しました。
アポリナリウスの異端
ハリストス
キ リ ス ト
の藉身について、人間は肉体
と霊とに分けられるがその肉体の部分が人間で霊の部分が神である
と考えた異端があります。その提唱者の名をとって「アポリ
ナリウ
スの異端」と呼ばれます。これは、
ハリストス
キ リ ス ト
には人間としての霊
がないといっているのと同じですから、
いわば
動物に藉身したこと
になってしまい、ナンセンスです。
ネストリウスの異端
ハリストス
キ リ ス ト
の神としての本性(神性)と
人としての本性(人性)を、きっぱり分離して考えたために、
あた
かも
ハリストス
キ リ ス ト
の中に二人の人格があるかのよう主張する異端があ
ります。提唱者の名
をとって「ネストリウスの異端」と呼ばれます。
ネストリウスは、
マリヤを「生神女(神を生んだ女性)」と言っては
ならないと、教えたのです。マリヤは
ハリストス
キ リ ス ト
の人性を生んだの
であって、女神であるかのように神性を
生んだのではない、という
理由からです。しかし生まれた
ハリストス
キ リ ス ト
は一つの
『神格』
しかも
たないお方ですので、「神を
生
んだ」ということができます。つまり、
正教会は「生神女」という用語を正統的なものと認めました。
単性論
ハリストス
キ リ ス ト
の藉身の瞬間、偉大なる神性の中に小さな人
性は溶け込み
、変化し消失したのであって、
ハリストス
キ リ ス ト
はもはや人
ではなく神でしかない、という異端があります。
ハリストス
キ リ ス ト
に一つ
の本性しか認めないので「単性論」と呼ばれます。しかし、これは
本性と格の区別の混乱によるものと思われます。私たちにとって、
ハリストス
キ リ ス ト
は、一つの格(
『神格』
)と二つの本性(神性と人性)を
もつお方です。そして、その二つの本性は、「混合せず変化せず分か
れず離れず」に完全に一致しています。
-
48
-
単意論
「単性論」の延長として「単意論」という異端がありま
す。
ハリストス
キ リ ス ト
に神としての意志しか認めない考え方です。
これに
対し、ハリストスには神の意志と人の意志の両方があ
り、その二つ
は一致して
いるというのが正教です。
聖像破壊
(イコノクラスム)
イコンは偶像でありイコンを描
くことは神学的にゆるされないと教える異端があります。しかし、
ハリストス
キ リ ス ト
は人間の体という見える形もとったのですから、藉身を
正しく受け止めるならば、イコンの正しさが認められます(第六章
の①を参照)
…
藉身された神・
ハリストス
キ リ ス ト
は、今から凡そ二千年前、ユダヤの地
にナザレの
イイスス
イエス
としてマリヤから産声をあげました。
イイスス
イエス
という名前は「救う者」という意味
をもっています。
イイスス
イエス
は、凡そ30歳の頃、前駆
授洗
バプテスマの
イオアン
ヨハネ
よりヨルダン
川で洗礼を受け、神の国の福音を教え始めました。また病者をいや
したり嵐を静めたり食料を増加さ
せるといった数々の奇跡を行いま
した。
しかし、当時のユダヤ教指導者層からの妬みによって、十字架で
処刑されました。ところが
ハリストス
キ リ ス ト
は死から復活したのです。
…
聖神の「神゜」について
一般では「聖霊」と言いますが、正教会では「聖
せい
神
しん
」と言います。
「聖神」の「神
しん
」は、ギリシャ語の「プネウマ」英語の「スピリッ
ト」を意味します。日本正教会では、神の「プネウマ」や人間のも
っている精神的(スピリチャル)な面を表すものとして「神
しん
」とい
う言葉を選んでいます。「神(かみ)」と同じ漢字なので区別するた
めに右肩に「゜」をつけて「神゜」と表記することもあります。し
かし、いわゆる「神父
し ん ぷ
」という言葉も「神様の父」ではなく「神
しん
の
(スピリチャルな)父」という意味なのですから、全く特別な言葉
というわけではありません。
「霊」という言葉は、ギリシャ語の「プシヒー」英語の「ソウル」
もしくは「ゴースト」に当たる言葉であり、どうしても「幽霊」や
「動物的な霊」をイメージしてしまうので、正教会では「聖霊」で
はなく「聖神」という用語を大切にしています。
神・父と神・聖神は同本質
聖神は、ハリストス
キ リ ス ト
と同じように父と一体(同本質)です。
すなわち聖神も神そのものであるお方です。
聖神は神が造ったものであ
るとか、
神の力を表す名称に過ぎないなどいう考え方は、正教会に
はありません。
「信経」では「主、生命を施す者」
「父及び子と共に拝まれ讃め
られ」と聖神が神であることを強調しています。しかし、ハリストス
キ リ ス ト
と聖神を区別するために、ハリストス
キ リ ス ト
は父から「生まれ」、聖神は父
から「出る」という聖書に基づいた表現が用いられます。父から「出
る」ものは父と同じ本質をもっています。しかし神・子と聖神の『神
格』は別なのです。
- 52 -
「フィリオケ」の問題
ところが、ローマ・カトリックは、聖神は父からだけでなく子か
らも出ると主張をし、「信経」に「子からも(ラテン語で「フィリオ
ケ」と言う)」という言葉を付加しました。
正教会はこの「フィリオ
ケ」を否定します。
なぜなら、三位一体の三つの『神格』を混合し
てしまうからです。
聖神が「父と子」の両方から「出る」としたら、
本源が二つになってしまい、
それでも本源は一つだとするなら「父と子」の区別がつかなくなってしまいます。
こうしてローマ・カトリックは神の三つの格を強調するよりも神の一つの本性、同一性の
方を強調し、ひいては教会の在り方に対する考え方もその相違をな
くそうとする傾向になり、ローマ法王の権威による教会統一が主張
されることにも繋がったと言われます。
正教会は、父のみが一つの
本源であり、父と子と聖神は区別されながらしかも完全に一致して
いると主張します。だからこそ、個々の教会、個々の生命は大切で
あり且つ愛における一致が大切なのです。
こうして「フィリオケ」
はローマ・カトリックと正教会の大きな違いの一つになりました。
私たちのもとに遣わされる聖神
しかし、聖神は、私たちの救いのために私たちのもとへ遣わされ
ることを度外視しては何にもなりません。
神・子が永遠のうちに父
から生まれるだけでなくマリヤからこの世に人間として生まれたよ
うに、
聖神は永遠のうちに父から出るだけでなく、私たちのために
この世へと降臨します。その場合においては、
聖神は父より子をと
おしてこの世に出る(降臨する)と聖書は教えています。
聖神の働き
旧約聖書では、天地創造の時にも「神の神
しん
、水の面に覆育
ふ い く
せり(神
の霊が水のおもてをおおっていた)」と聖神について言及されていま
す。三位一体である神様のこの世に対するすべての業には、かなら
- 53 -
ず神・子と神・聖神が同時に働いているのです。特に旧約聖書の預
言者たちに神の言葉を語らせたこと、言い換えるなら預言者たちを
とおして神言葉を語った者は聖神であることを「信経」は「預言者
を以てかつて言いし」と強調しています。
イイスス
イエス
・ハリストス
キ リ ス ト
のご生涯はすべて聖神に満ちていました。
降誕は、「聖神および童貞女マリヤより」行なわれ、洗礼の時には
「鳩のような」形で聖神が降りました。ハリストス
キ リ ス ト
の教え、奇跡、
いやし、そしてハリストス
キ リ ス ト
の業
わざ
の全ては聖神の力と共になされたこ
とです。
聖神を獲得すること
私たちも聖神によってハリストス
キ リ ス ト
の救いに預かることができます。
聖神によらなければ誰もハリストス
キ リ ス ト
と一つになることはできません。
そういう意味で、ある聖人は「クリスチャンの目的は聖神の獲得で
ある」と教えました。ペンテコステ(五旬祭)と呼ばれる日に、弟
子たちの上に聖神降臨が起きたのはそのためです。私たちの上にも
聖神が降臨する時代がそこから始まりました。教会は、聖神によっ
て生かされています。もし聖神がなければ教会はただの集会に過ぎ
なくなります。私たちがハリストス
キ リ ス ト
を知ることができるのも、その
教えを守れるのも、祈るのも、救われるのも、さまざまな能力を発
揮できるのも、そして生きているのも、すべて聖神によってです。
聖神は、私たちに「生命を施す者」です。この生命とは、この世の
生命であると同時に復活の生命をも意味します。
真理に導く聖神
聖神は、ハリストス
キ リ ス ト
によってこう説明されています。「父のみもと
から来る(出る)真理の御霊(聖神)が下る時、それはわたしにつ
いてあかしをする。」「御霊(聖神)が来る時には、あなたがたをあ
らゆる真理に導いてくれる」。つまり、聖神は、あくまでもハリストス
キ リ ス ト
- 54 -
という真理を私たちに教え導き証しするものとして働きます。言い
換えるなら、聖神はご自身を秘めたまま、ハリストス
キ リ ス ト
と私たちを結
びつけておられるのです。だから聖神の『神格』をしっかりと把握
するのは難しいと言えるでしょう。
聖書の中の聖神
聖書では聖神を表現する時、「風」「息」「火」「油」「水」そして「鳩」
などの象徴が好んで用いられ、あまり人格的には表現されていませ
ん。しかしこれはあくまでも隠喩的な表現であり、聖神そのものは
生きたお方であります。聖神は、「来る」「言う」「愛す」「与える」
「憂いる」「教える」と聖書には書いてあります。
なぐさめる者
正教会では、聖神を「撫恤者(なぐさめるもの)」と呼んでいます。
これはギリシャ語の「パラクレートス」の訳で、「助け主」とか「弁
護者」と一般では訳されたりしていますが、もともと「そばに呼び
寄せられた者」という意味をもっています。正教会は、聖神を私た
ちのそばに降りてきて私たちを苦難、苦悩、罪、そして死から救い
慰めるためにハリストス
キ リ ス ト
と私たちを一つにしてくれるお方として、
日々その降臨を祈り求めます
…
三位一体の像としての教会
教会は、言い換えるなら「三位一体の神の像」であると言えます。
「像」とは「似ている」という意味です。人間そのものが神に似せ
て造られた存在であると聖書は教えます。教会も人間と同じように
三位一体の似姿をもっているのです。
つまり、一致しながら区別さ
れ、区別をもちながら一つであるということです。正教会が国ごと
に独立する形をとる理由はここにあります。自治的にひとり立ちす
る形は「アフトノミヤ(自治教会)」と呼ばれ、完全に独立する形は
「アフトケハリヤ(完全独立教会)」と呼ばれます。いずれにしても
正教会は、ある特定の人物の権威によってではなく、神によって導
かれているのである、と固く信じています。
ハリストスの体としての教会
聖書で
は
教会は
「
ハリストス
キ リ ス ト
の体」と呼ばれています。
「体」は「頭」
の言うことに従います。同じように、
ハリストス
キ リ ス ト
の「体」である教
会は、教会の「頭」である
ハリストス
キ リ ス ト
に対して従順であり、一体と
なって頭と結び付いているのです。
ハリストス
キ リ ス ト
の体は一つに一致していますが、それぞれ器官は独特
の働きをします。その一つ一つの区別は、聖神の賜物として与えら
れます。教会とは、聖神降臨が継続している所と言い換えてもよい
でしょう。ペンテコステの日、弟子たちに降臨した聖神は、「舌のよ
うなものが炎にように分かれて現われ、一人一人の上に
」とどまり、
「いろいろの言葉」で神の大いなる業を伝えたのでした。
パウェル
パウロ
は、
聖神は一つであるが、その賜物は種々あると説いています。教会は
一人一人のユニークさを大切にします。決して人間に見えないユニ
フォームを着せて画一的に扱うなどということはしません。正教会
の聖人たちがいかに個性的であるかを見ればわかります。
…
① 聖伝
啓示
正教会の教えの源泉は神の啓示にあります。「啓示」とは、神様が
ご自身を私たちに教えるということです。とは言っても、神様の奥
深い本質そのものは私たちには把握できません。だから、深淵なる
神のすべてが明らかになったわけではありません。ただ神は人が理
解できる範囲でその聖なる性質と意思をお示しになったのです。神
様は最初、旧約という時代にご自分を啓示し、人々にその啓示を伝
えさせました。そして自らが人間となって自己を啓示されました。
すなわちイイスス
イエス
・ハリストス
キ リ ス ト
は、神の啓示そのものです。
イイスス
イエス
・ハリストス
キ リ ス ト
が使徒たちに与えた信仰や教えを、正教会は、
次の世代から次の世代へと連綿と受け継いできました。この「受け
継ぎ」を、教会の聖なる伝統という意味で「聖伝」と言います。
聖伝を生きる
「聖伝」を伝えていく中でも、神の導きがあります。「神・聖神゜」
が「あらゆる真理に導いてくれ」(イオアン
ヨハネ
16:13)るのです。この
聖神による導きが、正教会の「聖伝」の基礎です。「聖伝」とは、形
や言葉を機械的に保存することではなく、いつでもどこでも聖神の
臨在によって神の啓示を教え伝えるということです。つまり「聖伝」
は生きたものです。だから私たちは「聖伝」の中で生きる必要があ
ります。「聖伝」の中で生きた生活をすることによって、正教会の教
えが理解できます。正教会の信徒とは、「聖伝」を生きる者と言えま
す。たとえイコンや聖歌や聖師父を研究したとしても、その人が正
教会の聖伝の中で生きていなければ、それは正教会のものではあり
ません。
- 63 -
正教会とは、「聖伝」そのものです。正教会の教えが人の勝手な解
釈による教えではなく、神の教えであることの根拠が「聖伝」にあ
ります。
聖伝の中にある聖書
聖書という神の啓示の書は、「聖伝」の中にあります。聖書は「聖
伝」の一部です。「聖伝」を、聖書に書かれていないその他の記録や
伝承と見なしてはいけません。聖書と「聖伝」という二本の柱があ
るのではなく、「聖伝」という一本の柱の中に聖書は含まれているの
です。聖書は「聖伝」から生み出されたものです。これとこれが聖
書である、と決めたのは「聖伝」です。いくつもの文書の中から聖
書と認めた(「正典化」と言う)のは教会です。聖書が先にあって教
会が生まれたのではありません。しかしその聖書は、「聖伝」の中で
最も重要であり、最も大きい位置付けがなされます。「聖伝」が生み
出した聖書は、その後の「聖伝」を基礎づけるものとなりました。
つまり、ある教えや考えが「聖伝」として正しいか否かは、聖書と
いう規準に基づいて、聖神の導きによつて、判断されます。
聖伝の中の重要部分
正教会の聖伝には、聖書の他にさまざまな構成要素があります。
それらはみんな同じ価値なのではなく、重要なものとそれほどでも
ないものとがあります。聖書とならんで重要な聖伝としては、「信経」
や「全地公会」の決議(教理)があります。特に至聖三者の神のこ
とや、イイスス
イエス
・ハリストス
キ リ ス ト
の藉身などについての教義は、不変で
あり、絶対であり、取り消したり改訂したりしてはならないもので
す。
…
聖書を「万能の書」と思ってはいけません。聖書を
読めばすべてがわかるのではありません。聖書がすべてであるとか、
聖書のすべてを文字通り信じないと救われないなどという態度は受
け入れられません。聖書は「信仰の書」です。私たちがどう神を信
仰すべきかが書かれています。しかし、その内容としては、人が神
に対していかに不信仰を繰り返しているかが語られています。
…
聖書を「万能の書」と思ってはいけません。聖書を
読めばすべてがわかるのではありません。聖書がすべてであるとか、
聖書のすべてを文字通り信じないと救われないなどという態度は受
け入れられません。聖書は「信仰の書」です。私たちがどう神を信
仰すべきかが書かれています。しかし、その内容としては、人が神
に対していかに不信仰を繰り返しているかが語られています。
…
福音書を書いたマトフェイ
マタイ
、マルコ、ルカ、イオアン
ヨハネ
は、「福音
記者(エヴァンゲリスト)」と呼ばれます。「エヴァンゲリオン」と
いうギリシャ語は、「幸福なる音信」「喜ばしき知らせ」という意味
です。福音書には、イイスス
イエス
・ハリストス
キ リ ス ト
ご自身のことが克明に記
されています。ハリストス
キ リ ス ト
という救いの喜ばしい知らせを、福音書
は私たちに伝えています。正教会では「福音書」を一冊にまとめて
本にし、「福音経」と呼んで大切にします。「福音経」は聖堂の奥に
ある「宝座」と呼ばれるテーブルの真ん中に安置されています。い
わば教会の心臓部分に「福音」があります。
…
聖書の原語はギリシャ語であり、それらを写本して伝達してきた
のは、正教会であるという事実は知っておくべきです。写本によっ
て細かい語句の相違があることも確かですが、信仰そのものに影響
のある相違はほとんどありません。
…
アダムとエワは、神の言葉ではなく、蛇(悪魔の象徴)の言葉を信
じてしまいました。生命の源である神と分離する生き方を、自分で
選んでしまった人類は、死ぬものとなってしまいました。
死は罪の結果であり、神様が最初から意図されたことではなく、
人間の自由意志によってもたらされた不条理なのです。聖書におい
て、すなわち正教会において、罪、悪、悪魔、苦難、死という事項
はすべて一つのものと見なされます。罪とは悪であり、それは悪魔
によって人間にもたらされ、そしてその結果、苦難や死が生じたか
らです。
アダムの罪
三位一体に似せて造られた人間は、多くの個でありながら一つの
ものです。つまり、アダムと私たちは一つのもの、一体のものなの
で、人はアダムの罪の影響下のもとに、罪の蔓延する世の中に生ま
れます。
「原罪」は教えない
しかし、西方で発展したキリスト教であるカトリックやプロテス
タントでは、アダムの罪の結果、厳しい神の罰をも全人類が受け継
いだと強調します。人間は生まれながらにして罪人であり、罪人で
ある以上、神の裁きと罰を受けるものであるとし、全く自由意志の
力を失ったと教えます。正教会はこのような「原罪」と呼ばれる考
え方を否定します。
アダムとエワによって神の似姿は壊されてしまいましたが、まだ
かろうじてその似姿(神の像)は残っていて保持されている、と正
教会は教えます。どんな人間でも、まずはそこに「神の像」を見る
べきです(ただしそれが破損していることも事実です)。人間に残さ
れた神の像は、神を求める自由意志を弱いけれども持っています。
人類が受け継いだのは神の罰ではなく、破損した似姿です。
- 74 -
しかし、神に従うか従わないかの自由意志は、私の選択権として
最後まで残されていますが、人間が自分の努力によって、破壊され
た神の像を回復することは不可能となりました。
「救い」とは
「罪」というものをどうとらえるかによって、「救い」についての
とらえ方が変わってきます。
西方教会では、「原罪」の考え方から、全人類に対する神の罰を
ハリストス
キ リ ス ト
が身代わりに受けてくれたことによって救われると強調
します。つまり十字架を、全人類のため、私たちの代わりに
ハリストス
キ リ ス ト
が引き受けてくれた刑罰だったと解釈します。私たちは
そのままでは全員地獄行きだが、私にはその刑罰に耐える力はない
ので、ハリストス
キ リ ス ト
が身代わりになってくれたというわけです。確か
に、聖書には、「苦難の僕」という有名なイサイヤ
イザヤ
の預言があり、そ
こには、人々の罪を引き受けて受難するメシアの姿が記されていま
す(53 章)。正教会でも、この「苦難の僕」は、ハリストス
キ リ ス ト
を指す
と解釈します。しかし、ハリストス
キ リ ス ト
は罪だけではなく、私たちのす
べてを引き受けて十字架にかかったことを見落としてはなりません。
では、正教会の教える「救い」とは何でしょうか。
「罪」が「あるべき姿を失う」ことであるなら、「救い」とはそれ
を取り戻すことです。「罪」が神との分離、神の像の破損であるなら、
「救い」とは神との一致であり、神の像の回復です。「罪」が悪魔、
苦難、死と一つのものなら、「救い」とは悪魔の敗北、苦難の終結、
死の死滅です。これらすべてを、私たちのためになさったのが、人
となった神ハリストス
キ リ ス ト
の十字架と復活です。
神の像の回復、死の敗北
神が私たちと同じ人間になったという「藉身」によって、すでに
私たちと神との一致の道が開かれました。完全な神の像である
- 75 -
ハリストス
キ リ ス ト
によって、私たちの神の像は回復されます。そして私た
ちがどうしても通らなければならない死という究極の不条理を、
ハリストス
キ リ ス ト
はご自分の死と復活によって、敗北させました。
…
生神女マリヤは、また「童貞女」とか「永貞童女」と呼ばれます。
それは処女であるにもかかわらずハリストス
キ リ ス ト
を生んだからです。こ
の不可思議な出来事は、人間の理解を超えています。正教会は、童
貞女がいかにしてイイスス
イエス
を産んだかについては、素直に「わから
ない」と言います。しかし「なぜそうなのか」と問われれば、生ま
れたイイスス
イエス
は只の人間ではなかったから、つまり神様が人となっ
たお方だから普通の出産ではないのである、と答えます。マリヤを
「童貞女」と呼ぶことは、神が藉身したことの証しなのです。聖書
に記されているイイスス
イエス
の兄弟たちについては、正教会では従兄弟
かイオシフの先妻の子供たちであると解釈します。
…
マリヤの従順
しかし、生神女マリヤは、ハリストス
キ リ ス ト
降誕のための単なる道具で
はありません。マリヤが自由意志によって神のみ旨に同意したから
こそ、藉身が現実となったのです。マリヤは、「私は主のはしためで
- 78 -
す。お言葉どおりこの身になりますように」と言いました。
神の言葉への従順を表すこの一言が、私たちに「救い」をもたら
しました。正教会では、神の言葉に不従順だったエワの罪と、神の
言葉に従順だったマリヤの信仰がよく比較されます。それで、マリ
ヤは「第二のエワ」とも呼ばれます。
最高の模範
従順な信仰によって、「生神女」となったマリヤは、私たちにとっ
て、人間の中の最高の模範です。イイスス
イエス
はもちろん最高の完全な
る人間ではありますが、同時に神様でもあります。マリヤは私たち
と同じただの人間です。しかし、「神を生むもの」となった聖なる者
です。そういう意味で正教会ではマリヤを「至聖」(ギリシャ語で「パ
ナギア」と言う)と呼びます。また、天使よりも優れて光栄を受け
ているとも言います。マリヤを讃美することは、私たちにとって、
信仰と従順というあるべき姿を学ぶことでもあります。
転達者としてのマリヤ
正教会ではマリヤを讃美するだけでなく、その「とりなし」(正教
会では「転達」という難しい用語を当てる)を願います。マリヤは
死にましたが、すでに復活を先取りし、天国で私たちのために祈り
続けているのです。最高の人間とは、自らをへりくだらせ、人を愛
し、人のために祈りを献じる者のことを言います。私たちは、マリ
ヤに「転達」を願うことによって、ハリストス
キ リ ス ト
の救いをより深く得
ることができます。
…
「列聖」された聖人には、祭日(「記憶日」
とも言う)が定められ、祈祷文が編纂され、イコンが描かれます。
正教会で洗礼を受ける時にいただく「聖名」は、聖人の名前から選
ばれます。その聖人については「聖人伝」と言う書物によって知る
ことができます。
様々な聖人たち
正教会では聖人たちをいくつかに分類して呼称します。福音を伝
えるためにハリストス
キ リ ス ト
によって派遣された弟子たちは「使徒」と呼
ばれ、それに準ずる働きをした聖人は「亜使徒」と呼ばれます。信
仰を守り抜いた聖人は「表信者」、
信仰のために迫害を受けて生命を落とした聖人は「致命者」、
修道士や修道女で聖人になった者は「克肖者」と言います。
「佯狂者」と呼ばれる聖人もいます。彼等は、福
音の言葉を文字通り実践するために日常生活を軽視した、傍目から
は愚か者に見える聖人です。
その他、数え切れないほどの聖人の特
色を表す呼称があります。こうしたさまざまな聖人たちは、人間の
多様性を浮き彫りにします。神に近づき聖なる者となることは、個
性を棄てることではなく、反対にその人らしさを十分に花開かせる
ことです。しかし、その多様性は分裂を意味するのではなく、神の
もとで一つになっているからこそ「聖なる人」なのです。
聖師父
聖人の中でも、特に正教会の信仰を解説し、指導し、実践し、文
章に書き残した人々のことを「聖師父」(一般では「教父」と言う)
と言います。聖師父の教えは、正教会の聖伝の重要な位置を占めて
- 80 -
います。私たちは聖師父の教えに従って聖書を読み、正しい信仰を
育てるのです。だからといって、すべての聖師父たちのすべての著
作が同じような権威をもつのではありません。
特に重要視されている聖師父としては、「三成聖者」とも呼ばれる
聖大ワシリイ、神学者グリゴリイ、
金口
きんこう
イオアン
ヨハネ
や、ニッサのグリ
ゴリイ、エルサレムのキリル、表信者マキシム、ダマスコのイオアン
ヨハネ
、
グリゴリイ・パラマスなどがいます。他にも階梯者イオアン
ヨハネ
、シリ
アのエフレム、新神学者シメオンなどは有名です。
…
では、愛とは何でしょうか。一言で言えば、相手の最善のために
自分の力を尽くすことです。相手の最善が何であるかを知るために
は知恵が必要です。自分の力を尽くすためには、忍耐とへりくだり
が必要です。そして何よりも堅い意志が必要です。この愛のことを
「アガペー」と言います。
私たちは本能的に親子の愛をもっています。親子の愛は動物でも
持っているくらい自然なものです。しかし、「アガペー」を見失うと、
単に感情的で自己中心的な愛になってしまいます。
私たちは、また自然に男女間の愛をもちます。恋愛は、互いを一
つに結びつけ、相手を心から受け止めますが、しかし「アガペー」
が貫かれていないと、しばしば妬みや憎しみへと姿を変えてしまい
ます。
私たちは友達どうしで仲良く過ごすという友愛も持っています。
しかし、それは敵をも愛す「アガぺー」とは違います。
「アガペー」は、愛する相手を選びません。価値のあるものだけ
を愛するのではなく、愛することによってそれを価値あるものとす
- 85 -
るのが「アガペー」です。つまり愛が先にあるのです。
聖使徒パウェル
パウロ
は、「アガペー」について次のように教えています。
「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない。 不作法をしない、自分の利益を求めな
い、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜
ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべて
を耐える。愛はいつまでも絶えることがない。」(コリンフ
コ リ ン ト
前書
13:4~8)
愛は二人を一つにする
金口
きんこう
イオアン
ヨハネ
という聖師父は、次のように教えています。
「愛は、自分の愛する者をもって自分の一切とします。だから、
もし自分の愛する者を恥から救うことが出来なかった時、このこと
を自分の恥とします。自分が恥を受けても愛する相手が助かること
になれば、愛は、そのことを恥としません。愛される者は愛する者
にとって同一の身です。すなわち愛は、愛する者と愛される者を、
二人ではなく一人の者にします。」(コリント前書講話)
…
神のイコン
これまで度々述べたように、私たち人間は神に似せて造られまし
た。人間とは「神のイコン」である、というのが正教会の人間観で
す。旧約聖書の創世記によれば、神はご自分の「像」と「肖」に従
って人を創造されました。「神の像」とは、神に近づくための力や可
能性や出発点を意味し、
「神の肖」とは、その実現や完成を意味しま
す。人間は初めから完璧な者としてではなく成長し進化すべきもの
として造られたわけです。しかし、人間は罪によって「神の肖」を
失ってしまい、「神の像」も破損しました。破損した「神の像」は、
それでも消滅せずに残存しています。どんな人間でも神のイコンで
ありつづけるので、一人一人の人間は、かけがえのない尊き存在な
のです。
三位一体の像
人が「神の像と肖」を持つという時、その「神」とは至聖三者の
神であることを見落としてはなりません。人間が多様性をもち、一
人一人がかけがえのない「個」でありながら、一つに一致し、愛の
交わりをもつことができるのは、至聖三者に似せて造られているか
らです。
自由意志をもつ人間
人が「神の像」をもつことは、人が理性をもつことに置き換えて
説明されることがあります。確かに人が大いなる知識と知恵と理解
をもって社会生活を営むことは、私たちと動物とを区別する一面で
す。しかし、理性だけが人間の唯一の特性ではありません。正教会
- 89 -
では「神の像」の中の「自由意志」に強調を置きます。神が自由で
あるように、人間も自由です。自由であるが故に、真実の愛をもっ
て愛し合うことができます。神様は人間からこの「自由意志」を取
り上げません。もし人間からそれを無くしたら、人間ではなく人形
かロボットになってしまいます。もちろんすべてのことを行うのは
神様ですが、人間には、それを受け取るか拒絶するかを選択する自
由意志が残されているわけです。
シネルギイ
「神の力」を受け入れる「人の力」が私たちにはあるということ
です。この神の力と人の力との共同のことを正教会では「シネルギ
イ」と呼びます。「シネルギイ」とは、「力を合わせる」という意味
です。人間は神との「シネルギイ」によって、生活し、成長し、信
仰し、救われるのである、と正教会は教えます。「シネルギイ」の典
型的な例が生神女マリヤです。神・聖神の力とマリヤの自由意志に
よる従順の力が、ハリストス
キ リ ス ト
という「救い」をもたらしました。
テオシス(神成)
神の像としての人の成長や発展には、終わりがありません。限り
なく尽きることなく、人は、神に似てゆきます。それは、神ご自身
が限りなく永遠であるからです。神に似てゆくということは、「神の
本性にあずかる」(ペトル
ペテロ
後書 1:4)ということです。
人間が神の本性にあずかるようになることを、正教会では「テオ
シス」と言います。「テオシス」は正教会では「神成
しんせい
」と訳されます
(一般では「神化」と言う)。アファナシイという聖師父は、「神が
人となったのは、人が神になるためであった」と言いました。「人が
神に成る」という言葉は、それだけをとりあげた場合、かなり危険
で誤解を招きかねませんが、しかし、「テオシス(神成)」は、正教
会の教えの根幹にあるものです。
- 90 -
人が神に成るといっても、人でなくなるのではありません。あく
までも人でありつづけながら、神の本性(愛とか自由とか永遠とか
喜びとか力)をいただくことを言います。
だから「テオシス(神成)」は特別な人にではなく、すべての人に
とって関係することです。また何か特異なことをするのではなく、
全く普通の信仰生活を励むことによってテオシスはなされていきま
す。普通の信仰生活とは、教会に参祷し、機密を受け(第 5 章①を
参照)、聖書に耳を傾け、深く祈り、互いに愛し合い、赦し合い、助
け合うということです。
聖人はテオシスの栄光にあずかった人々ですが、しかし、罪の自
覚、痛悔の心は逆にますます深くなっています。神がへりくだりの
神であるように、テオシスされる人間はへりくだりをもちます。テ
オシスとは、言い換えれば人間がより人間らしく(神の像として)
なることです。
…
すべての人間は、司祭としてこの世と自分を神様
に献じるべきものなのです。アダムは、この司祭としての役目を怠
りました。ハリストス
キ リ ス ト
はこの司祭としての人間の役目を復帰させま
した。私たちが、神の完全な像であるハリストス
キ リ ス ト
と共に感謝をもっ
て自分とこの世を献げようとする時、神の像は回復され始め、テオ
シスが開始します。
…
属神の世界
神様が造った万物の中で「見えざる」部分に属しているのが天使
や悪魔です。「見えざる」と言っても、単にこの肉眼では捉えられな
い世界というのではなく、物質的な世界に属さないスピリチャルな
(正教会では「属
ぞく
神
しん
」といい、一般では「霊的」という)世界のこ
とです。つまり物質の中にある見えない部分という意味ではなく、
それとはまったく次元の異なる世界という意味です。(空気や時間は
肉眼では見えませんが、物質的な物理的な世界に属するものです。)
天使は、しばしば人間の目に見える形で現われたりしますが、
属神の
スピリチャルな
世界の存在です。この「見えざる」世界も、神様が創造され
たものであり、神様ご自身の存在とは本質的に異なる世界であるこ
とも注意しておかなくてはなりません。
さて、正教会の聖伝によれば、この「見えざる」世界は、「見える」
世界に先立って創造されました。言い換えれば、天使は人間より先
に造られたということです。聖書は、天使の創造について詳しくは
語っていませんが、その存在と働きについては、私たちに啓示され
ています。
…
悪魔について
天使の中で神に反逆する者たちがいました。そんな悪を行う天使
のことを「悪魔」と言います。「悪魔」は、正教会では「魔鬼」とか
「悪霊」とか「サタナ」(一般では「サタン」)とも呼ばれます。「魔
鬼」というのは、ギリシャ語の「ディアボロス」の訳で、「引き裂く」
という意味をもっています。「悪霊」とはギリシャ語の「ダイオニモ
ン」の訳で、やはり「分離する」という意味をもっています。人間
と神の間を「引き離す」という悪を行うからです。「サタナ」という
のはもともとヘブライ語で「敵対する」「反抗する」という意味をも
っています。天使とは全く逆に神の意志に背く行いをするからです。
悪魔は本質としては天使ですから、天使と同じように理性と知性
と自由意志をもつ属神の
スピリチャルな
存在です。ただ、その行いが悪の方を向い
ているわけです。
悪魔の特徴
ハリストス
キ リ ス ト
は、悪魔のことを「偽りの父」であり、ウソつきであ
ると教えています(イオアン
ヨハネ
8:44)。旧約聖書の創世記に出てくるあ
のアダムとエワを誘惑した蛇も悪魔として解釈されますが、聖書に
は「最も狡猾」であると説明されています。
悪魔はその大いなる知性をもって、私たちを騙します。狡猾なウ
ソというのは、あたかも本当であるかのように本当でないことを言
う技です。蛇は「この実を食べても死なない。食べると神のように
なる」とウソを言いました。真実は逆で、それを食べることによっ
て死が生じ、「神のようになったつもり」になるだけで、その実、神
に似なくなりました。
悪魔は、しかし、神から独立して対抗する存在ではなく、すべて
を把握する神の力の中にいることも確かです。悪魔は、もともと天
- 96 -
使であって、本質としては神が創造したものであるからです。また、
悪魔は巧みに人間を誘惑しますが、それに同意するか否かは、私た
ち人間の自由意志にかかっています。
悪魔の力
いつ、どのように天使が堕落して悪魔になったのか、ということ
については、詳細にはわかりません。しかし、天使も悪魔も、神話
や伝説や象徴ではなく、それらの力は聖書や聖伝の中で教えられ実
際に体験されてきました。だからといって、悪魔のことをオカルト
映画のように恐怖を与えるおどろおどろしい霊としてイメージして
もいけません。悪魔は自分の存在を気づかせないようにしながら私
たちを神から引き離す見えない力です。
…
把握不可能な神
しかし、自然を超越している神様ご自身は、私たちの理解をはる
かに越えているということも知っておかなければなりません。人間
の頭ですべて把握されるような神様は神様ではありません。私たち
が神様のことを語る言葉には限界があるということです。
例えば、「神は存在する」と言うことは正しいことですが、しかし
星や風や山や海や動物や人間や天使が「存在」するようには「存在
していません」。神ご自身はこの世の中にはいません。このように神
様について否定形の文を用いて描写することを正教会は忘れません。
これを難しい言葉で「否定神学」と言います。
- 99 -
被造物すべては善
神様は被造物をすべて「善」として創造されました。旧約聖書に
は「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良
かった。」(創世記 1:13)とあります。神が造ったすべてのものは「善」
であるわけですから、この世の中にある物質も、そして私たちのこ
の肉体も、すべて善きものであるのです。
「霊的なもの」は善であって「物質的なもの」は悪であるという
考え方を「二元論」と言いますが、正教会は聖書に基づいてこれを
拒絶します。確かにこの世には肉体の弱さや物欲から来る罪や悪が
存在します。しかし、それは「物質」が悪いのではなく、それを悪
く用いる人間の意志が悪いのです。
…
人間の役目
そもそもこの世のすべては人間のために造られました。旧約聖書
の詩編(正教会では「聖詠」と言う)には、神は人に「み手のわざ
を治めさせ、よろずの物をその足の下におかれた」と書いてありま
す(8:6)。しかし、「治める」という言葉を「欲望のままに勝手に利
用する」という意味に解釈してはなりません。そうではなく、神の
被造物の責任ある一員として、感謝して自然を受け取り、神にふさ
わしいものとして育成してゆくという意味なのです。
小さく短い一生しかない私たちにとって、宇宙や自然はあまりに
大きくまた途方もなく長い時間をもっているように思えます。しか
し、それは逆に神の大いなる力への讃美を促し、この世に対する私
たちの役割を軽減するどころか、ますます重くします。宇宙や自然
が壮大で驚異的であればあるほど、神様を知る道は広くなります。
「物」を大切にする正教会
「物」を通して、「物」と共に、神は私たちに恵みを与え、私たち
は神を信仰します。すなわち正教会は、「物」を大切なものとしてと
らえます。
正教会にある「物」、つまりイコンや十字架やロウソクや香炉や聖
水などは、信仰のためにふさわしい物として使用されます。また十
字架をかくとか伏拝とか接吻という動作や聖歌を歌うなどというの
も、私たちの肉体を信仰のためにふさわしい器として使用している
ことです。
正教会では聖人たちの体を「不朽体」として、イコンと同じよう
に「崇敬」します。私たちが真実に復活の体を受けるのは「来世」
においてですが、聖人たちは、それを「先取り」しており、この世
においてすでに神の栄光にあずかっているからです。
- 101 -
「聖なる物」をもつ正教会
このように、正教会には「聖なる物」がたくさんあります。しか
し、「聖なる物」を、「俗なる物」からかけ離れた何か特別なものと
いう意味に解釈してはいけません。「聖」と「俗」を対立させたり、
「俗」を否定して「聖」を保たせたりするのではありません。「聖」
とは、神とのつながりを持っているという意味です。そして、すべ
ての被造物は「聖」になりうるものであり、正教会の中の「聖なる
物」は、その本来の聖性を回復し、また来世の光栄を先取りしたも
のです。「聖水」は、何か特別な質の違う魔法の水ではなくて、神と
のつながりを持つための本来の役割を回復した水なのです。
「機密」
このように、見える物をとおして見えない神の恵みとつながりを
持つということを、正教会では「機密」と呼びます。すべての被造
物を「機密」的に把握することが大切だと正教会は教えます。
神が人となったお方であるハリストス
キ リ ス ト
は、まさに神とこの世との
完全な「つながり」をもたらしました。ハリストス
キ リ ス ト
をとおして、私
たち被造物は、機密的になり、聖となります。ハリストス
キ リ ス ト
をとおし
て自然や宇宙は、神の光栄を輝かせます。
…
神の摂理
神様はこの世を造ったきりで、後は放っておくなんてことはなさ
いません。神様は、いつでも今でもこの世を創造しつづけ、見守っ
ておられます。この世に対する神の配慮を「摂理
せ つ り
」と言います(正
教会では「照管」とか「定制」と呼ぶこともある)。ギリシャ語では
「オイコノミア」と言います。これは「経済」と訳される「エコノ
ミー」と同じ言葉で、もともと「家庭の世話」という意味です。こ
れが神様に関して用いられた時に、神のこの世に対する「配慮」と
か「管理」という意味になります。
この世は神の意志によって創造されました。そして神の意志によ
ってこの世は摂理され続けます。さらに、私たちのために神様が人
となったこと、聖神が降ることも「オイコノミア」と呼ばれます。
善なる摂理
ダマスコのイオアン
ヨハネ
という聖師父は「神は善である故に、摂理な
さる」と言っています。もし子の面倒を見ない親がいたとしたら、
良い親でないと非難されます。同じようにもし、神様が「摂理」し
ないのであれば、「善」ではなくなります。また神様は大いなる知恵
をもって摂理する、と正教会は信じます。
理解を超える智恵
しかし、この知恵はしばしば私たちの理解を超えています。私た
ちの目からはとうてい受け入れ難いことでも、神の善なる知恵深い
摂理の中にあることは真理です。災いや痛みや苦悩の意味は、ある
程度までは理解可能なものもあります。例えば、パウェル
パウロ
は自分に
一つの「とげ」が与えられたのは自分が高慢にならないためである、
と言っています(コリンフ
コ リ ン ト
後書 12:7)。イオフ
ヨ ブ
が苦難に耐えたのは、
- 104 -
神が彼の信仰を私たちに明示するためでした。
しかし、まったく理解できない苦難や災いも確かにあります。私
たちはそれに悩み苦しみます。そこにそれぞれどんな意味があるの
か、私たちには今はわかりません。それでも、神はすべてのものの
救いを意志なさっているということは究極的な答えとして知ってお
かなくてはなりません。神の深い知恵と力と愛による摂理を信じる
ことが必要です。
奇跡
神様は時々「奇跡」を起こして、ご自分の力を私たちに明確に啓
示なさることもあります。「奇跡」とは神の力が特別に現れることで
す。しかし、いわゆる「奇跡」ばかりの世の中だったら、この世は
無秩序の世になってしまいます。神様は万物をそのように創造され
ませんでした。もちろん、私たちがこうして生きているということ
自体を「奇跡」と呼ぶこともできます。殊更驚異的に感じられなく
ても、神の力は、常に自然の中、私たちの中に働いているからです。
人の自由意志と摂理
神様は、天使と人間に「自由意志」というものを与えました。そ
して神様は、自ら与えたこの自由意志を剥奪したり無視したりする
ことはなさいません。なぜ、この世に「悪意」を持つ人間がいるの
か、については、神は、その人の自由意志をとりあげないので、そ
の人の意志に任せているというのが答えです。しかし、「神はすべて
の人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」
(ティモフェイ
テモテ
前書 2:4)ことは確かです。
予知と予定
正教会はまた、「神はすべてのことを予め知っているけれども、す
べてのことを予め定めておられるわけではない」と言います。「神が
- 105 -
すべてのことを予め知っている」ということを「予知」と言い、「す
べてのことを予め定める」ということを「予定」といいます。正教
会は、神は「予知」はなさるが「予定」はなされない、と断言しま
す。「予定」とは、この場合、人間の自由意志を無視して、神が独断
ですべてのことを予め決定しているという意味です。
確かに聖書には「神の計画」という言葉があります。しかし、そ
れは神様ご自身が私たちを救うために自ら働かれる配慮という意味
です。その計画に従うか否かはあくまでも私たちの自由意志によっ
ています。神は「予知」なさるが故に、神にとってすべては予め定
まっていることと同じである、ととらえることはできます。全知の
神様は、この世がどうなるか、私たちがどういう選択をするかは、
すでに知っておられます。神様にとってはすべて自明のこと、決定
していることです。しかし、神が勝手に無理やり強制的に「予定」
することはありえません。
…
神が摂理なさる、ということを正教会は信じていますので、例え
ば、迷信とか占いとか運命とか因果応報などは正教会では否定され
ます。
縁起をかついでこのことをすれば、あるいはしなければ、いいこ
とや悪いことが起きる、という迷信は、神の力を無視した態度です。
占いも、それ自体の考えに根拠がないだけでなく、神ではないも
のに生活や人生を委ねてしまうわけですから、正教徒は占いをした
り頼ったりしてはいけません。
運命を、最初からそう定まっていたことだからどうしようもない、
という意味にとるなら、それは神の意志や自分の意志を拒絶してし
まうことになります。
因果応報とは、災いがふりかかるのは何か悪い原因があり、幸い
を得られるのは何か善い原因があったから、という考えです。確か
- 106 -
に聖書にも、悪者の災いと義人の幸いが描かれていますし、逆に悪
者が幸いを得て義人が苦難をうける現実を神に訴えている記述もあ
ります。しかし、それは正義をもって神様が摂理なさることを信じ
るからです。そうではなく、例えば、大きな病気を患ったのは先祖
を敬わないせいだ、とか、不幸が続くのは何か悪い因果があるから
お祓いをしなければならない、などという意味の因果応報は、まっ
たく否定しなければなれません。
たとえ悪や困難や災いがあったとしても、「神の摂理の方法は、言
葉で説明できないし、心で把握することもできない」(ダマスクの
イオアン
ヨハネ
)ということを知っておきましょう。
…
「再臨」
いつ天国は完全に来るのか、というと、ハリストス
キ リ ス ト
が再びこの世
- 109 -
に来られる時です。そのことを「再臨」といいます。二千年前、
ハリストス
キ リ ス ト
はケノーシス(へりくだり)の形で誰にもわからないよ
うに来られましたが、今度は、「光栄を顕わして」誰にもわかるよ
うに再臨されます。もし「この人は再臨されたハリストス
キ リ ス ト
です」と他
人から教えられたら、そのことですでにそれはウソだとわかります。
そうした人々を惑わす偽者が起こることもハリストス
キ リ ス ト
が預言してい
ます(マトフェイ
マタイ
24 章を参照)
…
聖書には「終末」について、天変地異が起きるとか、
多くの不法がはびこるとか、大きな患難が起るとか、言われていま
す。それはある意味「産みの苦しみ」です。私たちも、復活するた
めには一度「死」という「終末」を経なければならないように、「こ
の世」も、光栄を得て復活し神の臨在に満ち満ちるために「終末」
という大変革を迎えます。
その大変革を想像すると不安と恐怖の感情が起こり、「一体いつ終
末が来るのか」と計算したくなります。しかし、ハリストス
キ リ ス ト
ご自身
が「その日その時は知らない」とおっしゃっていますので、「終末」
の年月日を詮索する態度は否定されます。ハリストス
キ リ ス ト
が教えられた
ように、いつでも心の「目をさまして」おくべきなのです。
「最後の審判」
神を愛するか否か、神の救いを受け取るか拒絶するかは、私たち
にとって今はどちらも可能であって、ある意味行ったり来たりして
いますが、「再臨」と「終末」の時には、それが決定してしまいます。
それを「最後の審判」と言います。
「信経」では「生ける者と死せし者を審判する為に」ハリストス
キ リ ス ト
が再臨されると言います。すべての時代のすべての人間が、
ハリストス
キ リ ス ト
の前で「はい」か「いいえ」を言うことを迫られます。
それが「審判」の意味です。これを悪いことをした人間を地獄に追
いやり、善いことをした人間に報償として天国に入らせるという風
にイメージしてはいけません。
地獄というのは、神様が罪人を虐待する所ではなく、人間が自由
意志によって自ら神を拒絶してしまう状態をいうのです。反対に、
天国というのは、神様と共にいることを喜びに思う状態のことをい
います。
新しい生命
「信経」では、「我、望む、死者の復活、並びに来世の生命を」
と言います。「死」が神との分離であり、体とたましいの分離である
なら、「復活」は神との一致であり、体とたましいとの再統合です。
だから「来世の生命」とは、単に死後のたましいという意味ではな
く、肉体をも含んだ新しい生命という意味です。ハリストス
キ リ ス ト
が肉体
をもって復活したように、ハリストス
キ リ ス ト
を信じる者は「終末」におい
て新しい復活の体をいただきます。(すべての人が復活して、天国か
地獄が決定すると言われることもあります。)
「煉獄」はない
カトリックでは「煉獄」という天国と地獄の中間状態を想定し、
罪人がそこで苦痛を受けることによって罪が精算されるように教え
- 111 -
ますが、正教会では、神の憐れみとハリストス
キ リ ス ト
の贖罪を軽視するそ
のような考えを否定します。
「死後」のとらえ方の違い
人は死ぬと消滅してしまうだけだと思う人たちがいます。それは
神も神の創造や摂理も信じない無神論者の考えです。
また輪廻転生して、生まれ変わっていくと思う人たちがいます。
しかし、神の像として、尊き「個」として造られた人間が、動物に
なったり、別の人格になったりする筈がありません。
私たちの肉体は死んだあと分解してしまいますが、たましいは「復
活」のために存続します。しかし、それは「霊魂の不滅」とは違い
ます。「霊魂の不滅」とは、罪深い肉体から善なるたましいが解放さ
れて、霊的世界で永遠に生きるという教義です。「霊魂の不滅」は肉
体や物質も神が造った尊い物という信仰を否定し、人間の本来の姿
を見失わせる考えです。
また死後の「霊界」などいう世界を想定して、まことしやかな描
写を行い、死の恐れを払拭しようとしたり、この世と同じような「別
の世界」をイメージして、それを「天国」と称してみたりすること
も、正教会が教える「復活」や「来世の生命」とは異なります。
「永眠」の意味
死者のたましいは終末まで「眠っている」状態にあるというのも、
正教会の教えではありません。確かに「永眠」と言いますが、これ
は「復活」を強調した表現です。死者のたましいは、どんな状態か
は不明ですが、私たちとの関係をもちつつ復活を待っています。
…
機密
正教会の奉神礼の中には「機密」と呼ばれる祈りがあります。「機
密」とは、ギリシャ語の「ミステリオン」を訳した言葉です。他に
も「サクラメント」と呼ばれることもあります。「サクラメント」と
はもともとラテン語で、軍隊への入隊式を意味していました。それ
がやがて教会の信徒となる奉神礼である「洗礼」を指すようになっ
たと言われています。「ミステリオン」というギリシャ語は、「ミス
テリィー」という言葉と同じ語源です。すなわち「神秘」とか「秘
密」とか「謎」いう意味をもちます。しかし、「ミステリオン」は、
その「謎を解き明かす」という意味をも含んでいます。正教会の「機
密」とは、神の見えない神秘的な恵みを、見えるものをとおして自
分の身にうける、ということです。例えば、洗礼は、水という見え
るものをとおして、ハリストス
キ リ ス ト
との一致という神秘的な恵みをいた
だき、「罪の赦しを得る」のです。
…
洗礼機密
洗礼機密は、クリスチャンとなるための機密です。水の中に三度
沈み、三度起きあがるという行為によって、ハリストス
キ リ ス ト
と共に死に、
ハリストス
キ リ ス ト
共に復活するという恵みが与えられます。簡易的に頭に
三回水を注ぐという形も行われます。
正教会では「至聖三者(三位一体)の名」によって洗礼を受けな
ければ、洗礼とは認めません。
洗礼機密とは、新しい人に生まれかわる、という意味もあります
- 116 -
ので、一生に一度しか洗礼機密は受けられません。
洗礼を受けた人には聖
せい
名
な
(クリスチャンネーム)がつけられます。
聖名は数多くの聖人の名前の中から選ばれます。その聖人にあやか
り、とりなしを願い、天上の教会とのつながりをもつためです。
洗礼者は、「洗礼着」と呼ばれる白い衣をまといます。そして
「ハリストス
キ リ ス ト
によって洗を受けし者、ハリストス
キ リ ス ト
を着たり」と歌い、
ハリストス
キ リ ス ト
を「身につける」生活が始まったことを祝します。
正教会では唯一の神への信仰に基づいて、「幼児洗礼」を奨励しま
す。また、危篤などのやむをえない時、信徒が「摂行洗礼」を施す
こともできます。その場合、司祭への連絡が不可欠です。
…
聖体機密
聖体機密は、ハリストス
キ リ ス ト
の体と血となったパンとぶどう酒をいた
だく機密です。ハリストス
キ リ ス ト
の体と血となったパンとぶどう酒のこと
を「御聖体」といい、「御聖体」をいただくことを「領聖」といいま
す。御聖体を領聖することによって、罪の赦し、永遠の生命、
ハリストス
キ リ ス ト
との交わりといった恵みが与えられます。聖体機密は機
密の中の機密、とも言われます。聖体機密が行われる奉神礼のこと
- 117 -
を「聖体礼儀」といいます。
…
婚配機密
婚配機密とは、いわゆる結婚式です。結婚とは、単に男女が生活
を共にするということではなく、神の恵みによって一つになるとい
う機密なのです。人間は三位一体に似せて造られましたので、人と
人とは区別されながら、愛のうちに一致することができます。
婚配機密は、指輪の交換を中心とした「聘定式」と、冠を被るこ
とを中心とした「戴冠式」の部分に分けられます。指輪は西方教会
とは違い正教会では神の力を意味する右手にはめます。冠は、王と
王妃として自分の生活を治めていくため、また信仰を貫いて勝利者
となるための神の恵みを表しています。
なお、正教会では離婚は罪であり、基本的に認められません。た
だ人間的配慮として再婚を認める場合もあります。
…
2、啓蒙者のための聖体礼儀:
聖体礼儀の前半部分で、主に「学び」を目的としています。「啓
蒙者」とは洗礼を受けるために学びを受けている人たちのことです。
聖詠やトロパリと呼ばれる聖歌、使徒経、福音経を通して、その日
のテーマを理解できるようになっています。祈り、学び理解すると
いう点において、ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)礼拝に由来すると
言われています。
「言葉の礼儀」とも呼ばれ、その中心にあるのは「福音」を読む
ことにあります。
3、信者のための聖体礼儀:
聖体礼儀の後半部分で、主に「体験」を重視するもので、最後に、
領聖という聖体礼儀の目的を達成します。聖変化の部分は特に重要
で、「アナフォラ(「捧げる」という意味)」とも呼ばれています。
祈り、捧げものを供え、そして罪の贖いにあずかるという点におい
て、ユダヤ教の神殿礼拝との関連が見られます。ただし、動物では
なく、パンとぶどう酒を献じますので、聖体礼儀を「無血祭」と呼
ぶこともあります。
なお、正教会では、必ず発酵させて作ったパンと赤いぶどう酒を
使用します。
…
・啓蒙者の為の連祷……洗礼を受ける前の人(啓蒙者)の為の祈り
・信者の為の連祷………洗礼を受けた人(信者)の為の祈り
…
「時課」について
正教会には「時課
じ か
」と呼ばれる奉神礼があります。「時課」とはも
ともと一日を八つの時間に分けて祈る習慣から生まれた祈りです。
この時間の区分は、特にハリストスの十字架と深い関連をもってい
ます。ハリストス
キ リ ス ト
は第三時(朝の9時頃)に十字架につけられ、第
六時(昼12時頃)に空が真っ黒になり、第九時(夕方3時頃)に
死んだのでした。また、使徒たちに、聖神が降臨したのは、第三時
(朝の9時頃)であったことも注目されます。
また、時間ごとに祈るという形は、使徒時代、初代教会までさか
のぼることのできる伝統的な奉神礼です。
夕方が一日の始まり
正教会では、ユダヤ教と同じように、夕方から一日を数えます。
創世記第一章に、「夕となり朝となった」という言葉があるからです。
一日の始まりが夕方にあるというのは、私たちの日常生活からはな
かなか感じられませんが、正教会の奉神礼は、この習慣の下にあり
ます。具体的に言えば、「晩課」と呼ばれる時課から奉神礼の一日が
始まります。例えば、土曜日の夜からすでに日曜日は始まっている、
ととらえます。
…
一週間について
旧約聖書の創世記には、神様が七日間で天地を創造されたことが
記されています。これを文字通り24時間×7日=168時間です
べてが形成されたと解釈することはありません。聖書は科学的な、
または歴史学的な万能の書ではなく、人間の言葉で書かれた神の言
葉、信仰の書です。
- 126 -
七日というのは一週間の単位として古来より現代まで用いられて
います。ある意味、人間の生活習慣から生まれた単位ではあります
が、それをとおして、神の偉大なる秩序正しい天地創造の神秘を啓
示しているのです。それを啓示された民であるヘブライ人は、この
一週七日を神聖視し、大切にしました。そしてその伝統を受け継い
だキリスト教(正教会)の世界の中で、一週間の周期は一度もずれ
ることなく連綿と続いています。
「7」と「8」について
「7」という数字は、聖書において、聖なる数または完全を意味
する数として扱われています。また、天地創造の日数であるため、
「7」は「この世」を意味していると正教会は考えます。そこに「1」
がプラスされる(ハリストス
キ リ ス ト
の到来)と「8」になります。「8」は、
来世とか天国とか復活を意味するようになります。ハリストス
キ リ ス ト
が復
活した日曜日は、数え方によっては「八日目」になります。
「7」が「1」欠けると「6」になります。完全性の欠如は悪で
あるので、「6」は悪魔や罪を象徴するようになります。もちろん数
字に対する意義付けであって、数字そのものにそのような神秘の力
が潜んでいるのではありません。
正教会の奉神礼には、「八調」という独特のサイクルがあります。
聖歌のメロディや祈祷文に、第一調から第八調までの種類があって、
一週間ごとに順番に調を変えていきます。第八調までくると次の週
は第一調にもどります。「8」のサイクルは、前述のように「天国」
を意味するサイクルです。
曜日のテーマ
正教会の中で、一週間の各曜日は、それぞれ特別なテーマをもっ
ています。
月曜日は、天使を記憶する日、火曜日は、前駆授洗イオアン
ヨハネ
を記
- 127 -
憶する日です。またこの両日とも「痛悔」というテーマももってい
ます。
水曜日と金曜日は、ハリストス
キ リ ス ト
の受難と十字架を記憶します。水
曜日はイウダ
ユ ダ
の裏切りが行われた日であり、金曜日はハリストス
キ リ ス ト
が
十字架につけられた日だからです。正教会において水曜と金曜は、
「斎(ものいみ)」の日です。
木曜日は、「機密の晩餐」が行われた日であり、聖使徒たちを記憶
します。
土曜日
土曜日と日曜日は、神聖な日、喜びの日、祭の日という性格をも
っています。正教会では土曜日のことを「スボタ」と言います。こ
れは「安息日」を意味するヘブライ語「シャバット」に由来してい
ます。神は十戒の中で「安息日を聖とせよ」と命じられました。つ
まり土曜日は今でも「聖なる日」です。
しかしユダヤ教のように「何も労働しない」ということではなく、
神の善なる天地創造、罪によって汚されたこの世、救世主への待望
などを記憶するという精神的な意義付けがなされます。正教会では
土曜日には「大斎」の時期であっても聖体礼儀を行います。
さらに土曜日は、「救い」を完成したハリストス
キ リ ス ト
が墓の中に安息し
た日であり、死者のために黄泉降りをした日ですので、死者の記憶
を行う日というテーマをもっています。
日曜日
日曜日は、正教会では「主日」と言います。つまり「主の日」「主
ハリストス
キ リ ス ト
の復活した日」という意味です。
復活したハリストス
キ リ ス ト
は、死んで三日目すなわち日曜日に顕れまし
た。正教会ではハリストス
キ リ ス ト
の復活を年に一度盛大に祝いますが、毎
週日曜日、主日も、小さな復活祭なのです。
- 128 -
「主日」は、第八日目であり、天国を先取りし、復活にあずかる
喜び溢れる日です。
…
時の成聖
正教会には、独自の「暦」があります。正教徒にとって、「暦」は
単なる通過儀礼ではありません。私たちは、「暦」によって「時の成
聖」というものを行います。「時の成聖」とは、私たちが生きている
この「時間」を「聖なるもの」にしていくということです。「時」と
いうものも、罪によって堕落しています。だから「時」もあがなわ
れなければなりません。神から分離し、無意味に空虚に向かって過
ぎゆく「時」を、神と結びつけ、意味あるものとして充実に向かっ
て進むものにしていくということです。正教会の暦はそのためにあ
ります。もし、私たちが教会の暦にそって信仰をもって生きるなら、
私たちの時間は、ハリストス
キ リ ス ト
と堅く結び合わされます。
…
旧暦と新暦
旧暦というのは、ユリウス暦とも言い、紀元前46年にローマの
政治家ユリウスによって制定された太陽暦です。「一年を365日と
し、四年に一回うるう年を設ける」という暦ですから、現在の暦の
数え方とあまり変わらないように思えますが、実際の太陽の動き(正
確には地球の動き)とは微妙にずれてしまいます。計算すると12
8年に一日ユリウス暦が多く日を数えることになります。
16世紀にそのずれを解消するためにローマ法王グリゴリオスに
よって制定されたのが新暦で、グリゴリオ暦とも呼ばれます。今で
は、新暦と旧暦との差は13日もあります。私たちの日常のカレン
ダーは新暦で表示されており、その上に旧暦を重ねて見ますのでそ
の13日のずれが問題になります。例えば、旧暦の12月25日は、
新暦のカレンダー上では1月7日となってしまいます。
世界の正教会には、新暦にのっとる教会と旧暦にのっとる教会と
がありますが、復活祭の日付だけは旧暦に従って計算されたものに
統一されています。日本正教会は、基本的に旧暦を用いる教会です
(クリスマスのみ、宣教的な目的のため、1月 7 日ではなく12月
25日の新暦にずらしてお祝いする習慣になっています)。
…
前駆イオアン
ヨハネ
斬首祭
…
日本正教会が現在用いている奉神礼の言葉は、「小祈祷書」でも他
の奉神礼書でも大変古い漢文調の日本語が使用されています。言葉
のリズムや原語に近い翻訳を大切にしているからです。確かに個々
の単語には難解な語句もありますが、「小祈祷書」を何度も読むこと
によって、言葉に慣れ、意味も分かってきます。
…
(2)イコンは崇拝でなく崇敬される
正教会がイコンを使用する第二の理由は、イコンそのものを神と
して拝むのではなく、イコンに描かれたハリストス
キ リ ス ト
を崇拝するから
です(それがマリヤや聖人たちのイコンであれば彼等への敬愛)。難
しくいえばイコンの中にある原像を見るのです。
やさしく言えば、愛する人の写真に似ています。人は写真を愛す
るのではなく、写真に写っている彼女もしくは彼を愛します。それ
- 143 -
と同じように、イコンの中に映し出されているハリストス
キ リ ス ト
、敬愛す
るマリヤや聖人たちの姿は、信仰の心を育み、支えてくれます。写
真が一枚の紙にすぎないように、イコンもある意味では一枚の板や
紙きれにすぎません。しかし、私たちは愛する人の写真を大切に扱
うように、イコンを大切に扱います。
イコンを見つめ、イコンの前で頭をさげ、イコンに接吻し、イコ
ンを前にして祈るのは、そこに愛する対象が描かれているからです。
しかし、イコンへの敬いとイコンの中の原像への信仰心とは厳密
に区別しておく必要はあります。イコンそのものを大切にし、イコ
ンに対して接吻したりする行為に関しては「崇敬」という言葉を使
い、イコンの中にいるハリストス
キ リ ス ト
ご自身に対しては「崇拝」すると
いう言葉が用いられます。「崇拝」と「崇敬」を混同しない計らいと
して、正教会では立体的な像を用いません。イコンはすべて平面で
す。
しばしば「イコンは正教会において信仰の対象となっている」な
どと言われますが、それは間違いです。イコンは信仰の対象ではあ
りません。イコンは信仰の尊き媒介なのです。その尊く聖なるイコ
ンをとおして、時々奇跡が行われることもありますが、それはイコ
ンが単なる「道具」ではなく、神の恵みを与える機密的な物質だか
らです。
(3)イコンは神の藉身をあかしする
正教会がイコンを正統なものとして使用する三つ目の理由は、
ハリストス
キ リ ス ト
ご自身に関わる教義的な理由です。ハリストス
キ リ ス ト
は、神様
が人間になったお方です。神様が私達と同じに人間になった、そし
て死までも味わわれた、しかし、そこから新しい生命へと復活した、
これが正教会のキリスト教の信仰の真髄です。
神が私達と同じ人間になったということは、つまりハリストス
キ リ ス ト
に
は肉体があったということです。そして、それは完全に神の性質と
- 144 -
一つに合わせられたのです。仮にとか一時的にではなく、完全に神
様が私たちと同じこの目に見える体を取られました。だから、
ハリストス
キ リ ス ト
をイコンとして描くことができ、描かれたハリストス
キ リ ス ト
は
同時に神でもあるので、ハリストス
キ リ ス ト
を拝むことは神を拝むことにな
ります。
神さまは目に見えないお方だから、イコンとして描くことはでき
ない、という人たちは、「神が人となった事実」を否定する人たちで
あり、それではもはやキリスト教ではありません。ハリストス
キ リ ス ト
を「神
が人となったお方」であることを信じるなら、イコンは当然、公認
されうるもの、さらにいうなら、イコンこそ、キリスト教(正教会)
の信仰の力強い証です。
…
燭台 正教会には様々形や大きさの燭台があ
る。炎の光は、神の救いの光を 象
かたど
る。普通、宝座
の上には二本のロウソクが立てられ、宝座の後に
は、旧約聖書の伝統に則して七本の枝をもつ燭台
が置かれる。その他、イコンの前にも燭台が置か
れ、信徒が献灯する。
…
主教は、修道士もしくは独身者の中から選ばれます。主教には、
指導的主教を意味する「大主教」、複数の主教の管轄区をまとめる「府
主教」、完全独立の教会を監督する「総主教」というタイトルがあり
ます。
司祭
司祭は、主教の補佐としての役目をもつ人々です。司祭は主教に
よって各地方の教会に派遣され、その命じられた管轄区内の教会を
監督し、教えを伝え、機密を執行します。信徒との交わりが親密で
あり、信徒は司祭に対して「神父」という尊称を用います。「牧師」
という言い方はプロテスタント教会のもので、正教会では用いませ
ん。
正教会ではカトリックとは違い妻帯者が司祭に叙聖されることが
あります。ただし司祭となってからは結婚、離婚、再婚はゆるされ
ません。
…
修道の方法
正教会にはカトリックのような修道会と呼ばれる区別はありませ
んが、修道生活の方法には主に次の三つがあります。一つは、「共住
修道(キノヴィオン)」で、修道士たちは共同ですべてのことをしま
す。二つ目は、奉神礼は共同で行いますが、その他の労働などは個
人的にまたは小グループで行うという方法です。これは「ラウラ修
道」と呼ばれます。三つ目は、隠遁者として生活する「隠遁修道」
です。隠遁者は完全に一人で生活し、特別な時以外は、共同体の奉
神礼にすら参祷しません。
ギリシャのアトス山にある修道院は世界的に有名で、全世界の正
教会の精神的支柱となっています。
…
痛悔
痛悔機密は、正教徒であれば基本的にいつでも受けられるもので
すが、日本正教会では、聖体礼儀で領聖する前には痛悔機密を受け
ておくことになっています。つまり、領聖を希望する人は、禁食と
痛悔機密によって心の準備をするわけです。
痛悔機密では、自分の罪を言葉で言い表さなければなりません。
司祭は痛悔機密で語られた内容を絶対に他言してはいけないという
決まりがあります。
痛悔機密の中で何をどのように言っていいかわからないというの
が最初の戸惑いであるのも確かです。しかし、痛悔機密を繰り返し
受けることによって、痛悔とは何かがわかってきます。
領聖
領聖の時がきたら、胸に手をX型に組み、順番を待ちます。自分
の番がきたら自分の聖名を司祭に告げ、口を大きくあけて御聖体を
- 170 -
もらいます。
この時、頭を下げたり十字をかいたりしないように気を付けなけ
ればなりません。ポティールに頭や手を当てて粗相してはいけない
からです。
領聖したら別のテーブルにおいてあるパンとぶどう酒を食します。
これらは、御聖体が口の中に残らないようするためのぶどう酒と、
聖なる食事(領聖)の後にいただくべき聖パンです。
その他、奉神礼の中で行うべき表信(弓拝、伏拝、跪く、頭を屈
めるなど)もありますが、参祷を重ねることによって身につけてい
けばよいでしょう。なお、ロシアなどでは、女性は頭を布で覆って
参祷する習慣もあります。
常識的なマナーもぜひ心に留めておきたいものです。例えば、遅
刻しない、雑談をしない、よけいな飲食物をもちこまない、ペット
を携えない、携帯電話の電源はオフにする、などです。
…
聖書を読む
普段から神の言葉である聖書を読むことも肝心です。何が語られ
- 172 -
ているのか、どんな出来事が記載されているのか、どんな表現があ
るのかを心にとめながら読みます。それらの言葉のもつ深い意味は、
神品教役者の教導によって理解され得るものです。言い換えれば、
正教会の聖伝から離れて個人的に勝手な解釈をしてはいけません。
日本正教会訳の新約聖書は奉神礼で用いられますが、何の注解もな
しに読むには少し難解であることも現実です。聖書を素読するとい
う点においては、一般の書店に売られている口語訳聖書や新共同訳
聖書といった日本語訳を利用してください。聖書を読むことをなお
ざりにしていては、信仰は枯れてしまいます。
斎(ものいみ)する
正教会には、暦に即した「 斎
ものいみ
」の期間や日があります。「斎」と
は節制の時です。斎をとおして自分自身を省み、より熱心に神に心
を向け、祭を祝う準備をします。その中でも復活祭前の「 大 斎
おおものいみ
」
が特に大切です。以下に「大斎」の手引きを簡単に説明します。
大斎
大斎の期間、肉食をできるだけ避けます。可能であれば魚肉も食
べないようにします(タコや貝類はよい)。また乾酪類と呼ばれるバ
ターやチーズ、またミルクや卵も食さないようにします。アルコー
ル類は、土曜と日曜以外、節制します。その他、男女の交わりや娯
楽や祝賀なども控えます。正教会では大斎の期間はもちろん降誕祭
の前の斎の期間など斎には結婚式は行わないのが常識です。
これら食事の面での斎は、まじめに取り組むことが奨励される一
方、個人個人によって度合いが違いますので、いろいろと考慮され
なければなりません。成長期の子供や体力のない高齢者や病者など
に斎はすすめられません。また外食を余儀なくされる時、あまり細
かく気にしすぎて思いわずらってはいけません。斎はタブーではあ
りません。斎は体をいじめるためでなく、いたわるために行われる
- 173 -
べきものです。
…
「勇気」のある者は、誠実さを忘れません。正しいことを最後ま
でやりぬく心が私たちには必要です。そのためには、自分をコント
ロールする力を神からいただくことが肝心です。特に、自分を罪深
さへと引きずる感情や欲を制御することを「アパテイア」と言いま
す。「アパテイア」とは、心が、神を求め、神を愛し、神の力を得て、
自由を得ることを意味します。
「信仰」も「希望」も「知恵」も「へりくだり」も「従順」も「忍
耐」も「勇気」も「アパテイア」も、すべて神からの賜物です。す
べては神の恵みであると受けとめ感謝する、この「感謝」こそが正
教徒の生活の本質です。聖体礼儀は「ユーカリスト(感謝)」とも呼
ばれます。正教徒は神に感謝するために聖体礼儀に参祷するのです。
…
他宗教の中で
回りのほとんどがキリスト教徒でない日本の社会、まして正教会
の世界とはかけ離れた近代日本の中で正教徒として生活するのは非
常に困難なことです。世俗的な発想や習慣を知らないうちに身につ
けて、正教会の信仰の発育をふさいでしまう危険性は否めません。
- 175 -
しかし、そうならないためにこそ定期的に教会に行くことが大切で
す。
また必然的に仏教の法事や神道の儀式などに参加する機会が多い
でしょう。しかし、正教徒としての信仰をしっかり持ち、時には明
らかに表明して、それらに対処しなければなりません。例えば、神
社の祭を見学に行くことは問題ありませんが、手を合わせて拝んだ
り、お札などを買ったり、神輿をかついだりするのは当然してはな
らないことです。仏教の葬式や法事に参列しても、礼を失しない範
囲でその宗教的な習慣にはなるべく従わず、死者のために
ハリストス
キ リ ス ト
に祈る心を大切にします。
国のために祈る
正教会は、この世の現実の生活が神に祝福され、迫害や困難のな
いようにも祈ります。すなわち国自体が平和で秩序正しく豊かであ
ることを願って、正教会では国家の代表者のために祈ります。日本
正教会では現在「わが国の天皇および国を司る者のために祈る」と
唱えています。聖使徒パウェル
パウロ
は「すべての人のために、王たちと
上に立っている人々のために願いと祈りととりなしと感謝をささげ
なさい。それは私たちが安らかで静かな一生を…謹厳に過ごすため
である。これは私たちの救い主である神のみまえに良いことであり、
みこころにかなうことである」(ティモフェイ
テモテ
前書2:1~3)と教
えています。
…
日本ではほとんど火葬ですが、土葬が基本の正教会は「埋葬式」
という言葉にこだわりを持ちます。
正教徒が永眠した場合、原則として聖堂で埋葬式を行います。
…
未信徒の永眠者のために祈る「異教人パニヒダ」という祈りもあ
ります。正教会では原則として自殺者のためには奉神礼を行いませ
ん。自分の意志で神に背いたことが明らかであるからです。
…
一般でよく用いられる「忌」という語は正
教会は使用しません。正教徒にとって死は忌まわしいものではなく、
復活への入口であるため「祭」という語を用います。
…
献金の必要性
現在でも、正教会は「献金」によって支えられています。もちろ
ん神さまにはお金や物は必要ありません。ただこの地上にある神の
教会を維持し発展させるためには必要不可欠です。教会は神
ハリストス
キ リ ス ト
の体です。神の教会のために献金したり奉仕したりする
行為は、神への信仰の心の表明に他なりません。献金は現実には地
上の教会のために使われるものですが、精神的な意味では神へのさ
さげものなのです。
神におかえしする
しかし、神にささげるものはすべて最初から自分のものではなく
もともとは神様からいただいたものです。自分の生命も心も健康も
仕事も家族も食べ物もお金も物もみんな神からの賜物です。本当は
- 182 -
「ささげる」というより「おかえしする」と言った方がより正確で
す。このことを忘れなければ、自分の所有物から余った分を寄付す
るとか、しょうがないからしぶしぶ差し出すという感覚はなくなり、
感謝の気持ちをもつことができます。
定額献金
日本正教会では、現在、「定額献金」という形をとっています。「定
額」とは「定期的に一定の金額」を献金するという意味です。
「献金」は強制や戒律的な義務ではなく、あくまでも自由な心から
感謝をもってすべき信仰的な行為ですので、厳格に金額の指定がな
されることはありません。「定額献金」に対して世俗の会費とか税金
などのような感覚をもたないようにしなければなりません。実際に
いくらの金額にすればよいかは、各教会での目安を参考にして自分
で決めます。仕事をして収入を得ている方はすべて定額献金をする
のが本来です。具体的にどのように手続きをするかは各教会の会計
担当の方にお尋ねください。「定額献金」があってこそ、事実、教会
が運営され、司祭が派遣されます。「定額献金」は地上の教会の見え
る面での生命の糧です。
その他の献金
正教会では、「定額献金」の他に、復活祭や降誕祭を祝ってなされ
る「祭日献金」や、主教区の活動費のためになされる「篤信献金」
または「宣教献金」、修復や建設などのために特別に呼びかけられる
献金などもあります。
また、洗礼や婚配などの機密、埋葬式やパニヒダやモレーベンや
その他の諸奉神礼にあずかった時も、感謝を込めてそれ相応の献金
をします。これらの献金の額に関しても、自分の所属の教会の執事
などに相談するとよいでしょう。
- 183 -
献品
このように、教会にお金をささげることを「献金」と言いますが、
何らかの品物を献納することを「献品」と言います。信徒からの献
品も教会の活動を支えます。
奉仕
また、教会のために労働をささげることは「奉仕」と言えるでし
ょう。教会は献金や献品だけでなく信徒一人一人の奉仕によって成
り立っているのです。
教会の建物・境内の清掃や美化、修繕などに労働奉仕することは、
神に喜ばれる行為であり、祈祷文の中にも「汝が堂の美なるを愛す
る者を聖にせよ」という祈りがあります。またバザーなどを行う教
会では、信徒の奉仕が不可欠です。
各種会合
教会によっては、「婦人会」「青年会」「教会学校」といった会合が
あり、それぞれ独特の活動が行われています。
「婦人会」は女性信徒による会ですが、実際に教会を活発化させ
生きたものにしているのは、女性の力です。より多くの方が婦人会
をとおして奉仕することは、教会の発展につながります。
「青年会」は、若い人たちの集まりです。学びや交流や労働をと
おして教会に貢献します。
「教会学校」は、「日曜学校」とも呼ばれ、子供たちに信仰教育を
行う機関です。教会学校の先生として奉仕することは大事な役目で
す。
「聖歌隊」として聖歌を歌う奉仕をすることもできます。正教会
では、信徒全員が祈ることが基本ですが、実際に聖歌を歌うには技
術も必要ですので、特別に練習した聖歌隊によって奉神礼を行う教
会もあります。
- 184 -
その他、輔祭や副輔祭、誦経者、堂役として奉仕する方もいます。
代父母
新たに洗礼を受ける人のために「代父母」となることも大事です。
洗礼には、新たな誕生という意味がありますので、受洗者には、父
と母の代わりとなる男女の信徒が必要です。それを「代父」「代母」
といい、その子を「代子」と言います。代父母と代子の関係は、精
神的な面での家族となります。代父母は、代子の信仰成長のために
世話をしてあげます。
…
宣教
「宣教」の面での奉仕も大切です。「宣教」とは神の教えを知らな
- 185 -
い人に、それを伝え知らせるということです。その相手は自分の家
族であり、友人であり、仕事仲間であり、たまたま知り合った人か
もしれません。その人々に正教会の存在とその教えの概要を伝える
ことを心がけましょう。深い内容などについては、教会に来て教え
てもらうようにすればよいでしょう。
…
悪魔(あくま)
神に背いた天使のこと。本質的には天使と同じだ
が、目的が違う。天使は神に従順で人を救いに導くが、悪魔は神
に反逆し人を滅びに誘う。…p74,94
…
アパテイア<ギリシャ語> 自分を罪深さへと引きずる欲を制御
すること。…p174
…カノン<ギリシャ語> (1)正典となった聖書のこと。(2)教
会法のこと。(3)聖歌の様式の一つ。…p64
…
機密(きみつ) 正教会では奉神礼における七つの儀式(洗礼、傅
膏、聖体、痛悔、婚配、神品、聖傅)のことを指す。ラテン語で
は「サクラメント」。ギリシャ語では「ミステリオン」。…p101,114
旧暦(きゅうれき) ユリウス暦のこと。現在、新暦と13日のず
れがある。→新暦 …p130
…
光明週(こうめいしゅう) 復活祭の後の一週間
克肖(こくしょう) 聖人に対して(特に修道を極めた聖人)つけ
られるタイトル。「肖」には「神に似せて造られた人間のあるべき
姿」という意味合いがある。…p79
五旬節(ごじゅんせつ) 「聖神降臨祭」のことを「五旬祭」とい
い、復活祭から50日の期間を「五旬節」という。…p129,167
御聖体(ごせいたい) 聖体礼儀において、ハリストスの体と血に
なったパンとぶどう酒のこと。…p116
羔(こひつじ) 聖体礼儀においてイイスス・ハリストスの体とな
るパンのこと。…p150
【さ】
祭服(さいふく) 正教会の奉神礼において神品やその補助をする
者が身につける特別な衣服。…p153
再臨(さいりん) イイスス・ハリストスが、この世の終わりに、
全人類を審判するために再び到来されること。…p10,p108
シネルギイ<ギリシャ語> 神の力と人の力が合わさること。…
p89
…
受洗者(じゅせんしゃ) 洗礼を受けた者。
授洗者(じゅせんしゃ) ハリストスに洗礼を授けた前駆イオアン
のこと。
…
聖体礼儀(せいたいれいぎ) 御聖体をいただく奉神礼。カトリッ
クでは「ミサ」、プロテスタントでは「聖餐式」などと言うが、そ
れらの内容や意味は聖体礼儀とは全く異なる。…p116,p119
聖伝(せいでん) 正教会の伝統。…p6,p62~
聖堂(せいどう) 聖体礼儀などの奉神礼が行われる建物。…p145
聖パン 奉神礼で使用されるパン。特に聖体礼儀で使われるものは
「プロスフォラ」と呼ばれる。…p188
聖パン記憶(せいパンきおく) 聖パンを切り分けて生者・死者の
ために祈ること。…p187
…
聖変化(せいへんか) 聖体礼儀においてパンとぶどう酒がハリス
トスの尊体尊血になること。…p120
藉身(せきしん) 神が人となったこと。一般では「受肉」。…p37,p46
摂理(せつり) この世に対する神の配慮のこと…p103~
セラフィム<ヘブライ語> 天使の九つの階級のうち最上級の名
称。一般では「セラピム」。…p94
属神(ぞくしん) ギリシャ語「プネウマティコス」の訳語で、一
般では「霊的」「霊的な」と訳される。…p93
【た】
代父(だいふ) 受洗者にとって父の役割をもつ人。…p184
代母(だいぼ) 受洗者にとって母の役割をもつ人。…p184
代父(だいし) 代父母との関係で子に相当する人。…p184
単意論(たんいろん) ハリストスに神としての意志一つしか認め
ない異端。…p48
単性論(たんせいろん) ハリストスに神としての性質一つしか認
めない異端。…p47
致命(ちめい) 信仰のために命をささげることをいう。一般では
「殉教」。…p12,p79
チョトキ<スラブ語> 「イイススの祈り」を行う時に使う、布で
編まれた数珠。コンボスキニオンとも言う。…p136,
痛悔(つうかい) いわゆる「悔い改め」という幅広い意味と、狭
義に「機密」としての「痛悔」を指す意味をもつ。…p117,p135
テオシス<ギリシャ語> 人が神の本性にあずかること。正教会で
は「神成」、一般では「神化」と訳される。…p89
定額献金(ていがくけんきん) 教会のために定期的に一定額を献
げる献金。…p182
…
パラクレートス<ギリシャ語> 神・聖神を形容する言葉で、正教
会では「なぐさむる者」または「撫恤者(ぶじゅつしゃ)」、口語
訳では「助け主」、新共同訳では「弁護者」と訳される。…p54
ハリストス<ギリシャ語> ヘブライ語の「メシア(油つけられた
者=救世主)」のギリシャ語訳。一般では「キリスト」。…p46,p49
パレミヤ<ギリシャ語> 奉神礼で読まれる旧約聖書。
否定神学(ひていしんがく) 神を否定文で表現する神学。…p98
ヒポスタシス<ギリシャ語> 「位格」とか「人格」と訳される個
としての存在。この書では神の位格を「神格」と表現した。…p42
フィリオケ<ラテン語> 「子からも」という意味。ローマ・カト
リックで聖神の発出に関して信経に追加された言葉。…p31,p52
フィリップの斎(ものいみ) 降誕祭の前の斎。…p132
フィロカリア<ギリシャ語> 祈りに関する聖師父たちの言葉を
集成した本。「善を愛する」という意味。…p136
福音(ふくいん) 「エヴァンゲリオン」というギリシャ語の翻訳。
「喜ばしいこと」「幸福」を「伝える」「知らせる」という意味。
正教会では受胎告知のことも「福音」という。…p11,p69,p131
不朽体(ふきゅうたい) 聖人の体またはその一部で、神の恩寵が
彼等をとおして働きつづけることから「不朽体」という。…p100
撫恤者(ぶじゅつしゃ)→「パラクレートス」
プロスフォラ<ギリシャ語> 聖体礼儀のために使用される聖パ
ンのこと。…p188
ヘジカズム<ギリシャ語> 絶え間ない祈りによって神との交わ
りをもつこと。「静寂主義」とも訳される。…p136
ヘルヴィム<ヘブライ語> 天使の九階級の第二位の名称。一般で
は「ケルビム」。創世記3章、出エジプト記25章参照。…p94
変容(へんよう) ハリストスが山において弟子たちの前で光り輝
く姿に変わったこと…p131,p189
…
佯狂者(ようきょうしゃ) 外見は狂っているように見えるが、そ
の実はハリストスのためにすべてを捨てた聖人のこと。…p79
ユーカリスト<ギリシャ語> 「感謝」という意味で、聖体礼儀の
ことをこう呼ぶ。…p122
預言者(よげんしゃ) 旧約時代に、聖神の力を受けて神の言葉を
人々へ伝えた者のこと。…p53
予定(よてい) 神が予め全てを定めているという考え。…p105
予知(よち) 神が予め全てを知っているという考え。…p105
…
領聖(りょうせい) 「御聖体」をいただくこと。…p116,p169
リヤサ<スラブ語> 修道士や神品もしくは教役者が着る長い
衣。袖が短い形のものは「ポドリヤサ」とも言われる。主に黒い
色が多い。…p162
列聖(れっせい) 聖人として公に認めること。…p79
炉儀(ろぎ) 宝座、イコン、参祷者などに向かって香炉を振るこ
と。…p152
"
システマ多摩(参加者募集!@SystemaTama
洗礼者ヨハネ→前駆授洗イオアン
セントジョージ→聖大致命者凱旋者聖ゲオルギイ
僕の聖名
「前駆授洗イオアン」
だって、英語だと
「ジョン」
なので、一気に味気なくなります(←英語圏の人に謝れ);
>RT
承前)因みに僕の庇護聖人・前駆授洗イオアン(洗礼者ヨハネ)のアトリビュート(持物)は、
西方ならば切株と斧(※)、
当方ならば皿に載った自身の首(サロメ!)/
ラクダの毛皮/
杖(普通、先端に十字架があしらわれている)です_φ(・v・※)。
システマ多摩(参加者募集!
? @SystemaTama
2014年11月6日
返信先: @SystemaTamaさん
この様に、世間から「ものぐるい」と扱われた聖人を、正教会では
【佯狂者】
の称号で讃えます。
『俗世に心を煩わされずに専ら神に仕え、祈祷と斎(ものいみ)のうちに功を積んだ正教会の聖人は勤行者と呼ばれるが、そうした人々のうち、世を離れず、昼は市井にあってボロをまとって徘徊し、寒さ・
1件の返信 3件のリツイート 4 いいね
システマ多摩(参加者募集!
? @SystemaTama
2014年11月6日
暑さ・飢え・辱めを忍び、夜は聖堂の軒下などに野宿して祈る聖人がこの称号で呼ばれる。
「佯」とは見せかけの意であり馬鹿を装いハリストス(キリスト)の真理を明らかにする者であるとされる。』
Wikipedia[佯狂者]より抜粋・引用_φ(・v・※)。
1件の返信 3件のリツイート 2 いいね
システマ多摩(参加者募集!
? @SystemaTama
2014年11月6日
有名な佯狂者には、モスクワ・赤の広場の聖ワシリイ大聖堂(※)の名の由来となっている聖ワシリイがいますが、先述した前駆授洗イオアンも、佯狂者に数えられる場合もあります_φ(・v・※)。
※)正式名称は「堀の生神女庇護大聖堂」。
※)同じ聖名の聖人を区別する為、それぞれに称号があります。
例えば同じ“イオアン”と言う聖名でも「金口」
「ダマスコの」
「階梯者」などなど、沢山の聖人がいます。僕の場合は、ハリストスに洗礼を授けた「前駆授洗イオアン」です(一般に言う“洗礼者ヨハネ”)。
Иосиф Такакура
?(Iosif Takakura)
? @huideyeren
2014年2月1日
【鹿目まどか=イイスス・ハリストス】に見えて仕方がない。
そして【巴マミ=前駆授洗イオアン】、
【美樹さやか=天使首ミハイル】、
【佐倉杏子=生神女マリヤ】、
【百江なぎさ=黙示録のラッパ吹きイスラーフィール】と対応する。
もちろん暁美ほむらとキュゥべぇは言うまでもない。
(マミはイタリア語だし首切られるし
カトリック+洗礼者ヨハネっぽい。
まどか=女版イエスを導く(洗礼)存在なのも役割がかぶる。
カトリック要素のあるキャラが生贄になったりひどい目に遭うのは
日本の漫画アニメゲームのお約束)
聖ニノ pic.twitter.com/U5VgbNcJ6q
— きはら@5/5コミティアT29b (@kihara_17) 2015年2月20日
某ネコ 休止中
@nekotayasan
2月12日
三位一体を論じるとき、この聖霊=プネウマの意味がわかってないからとんちんかんな三位一体論しか出てこないんだよ!バカちん!
その当時の科学理論は、ローマ帝国の御用神学理論では、プネウマが音や光を伝えると思われてたので、3が1になるとかアホ理論!とか突っ込んじゃダメです!
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某ネコ 休止中
@nekotayasan
1月27日
西洋秘教伝統には、タントラ密教のような教義があるのは事実です。
でもそれは比喩、象徴として用いられます。
で、聖霊によりマリアに生まれたイエスは、実は古代哲学の自然学の比喩なのですよあれ。
アレクサンドリアのフィロンを読めばその辺よくわかりますよ。
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某ネコ 休止中
@nekotayasan
1月26日
正教会は面白いのは、「聖霊は父から」という教義を持ってるので、必ずしも教会組織だけにこだわらない文化あるんだよね。
こういうとこに、近代社会のどん詰まりを抜け出すヒントがあるのでは?
教会組織の権力機構の外にいる野に住む修道士が尊敬されてたりあれいいなーといつも思う。
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政志@言うだけはタダ、行動が伴わなきゃなんだよね(´-`)さんがいいねしました
某ネコ 休止中
@nekotayasan
1月26日
今の高学歴エリートが学校のブランドにこだわってるのって「教会以外に救いなし」という第二バチカン公会議以前のカトリック神学だからね。
ここで、「聖霊は父から」という教義を持つ原始キリスト教の伝統を持ってる正教会強いなと。
学校以外の智を恐れてるもん高学歴な人はね。
0件の返信 1件のリツイート 2 いいね
某ネコ 休止中
@nekotayasan
1月19日
イエスはローマの軍人に強姦されて生まれた説があるが、これほどまでにユダヤの部族社会で人間扱いされない条件があるだろうか?
そして処女から生まれたという設定も。
てか、処女から生まれたとか書いてない。聖霊によって身ごもったではなかったかな?
ならこれ比喩っすよ。真に受けるなバカ。
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某ネコ 休止中
@nekotayasan
1月11日
「聖霊は父から」
という教義があるから、別に教会組織に属してない野に住む修道士が尊敬されてたりした。原始キリスト教の伝統の、キリストのような生き方を実践してることで聖霊に満たされてると考えられてた。
ローマ帝国の官僚機構だった司祭より修道士が尊敬されてたってのは面白いと思う。
0件の返信 1件のリツイート 1 いいね
某ネコ 休止中
@nekotayasan
1月11日
「聖霊は父から」
と
「子からも」
の違いが学歴崇拝を生み出してるってわかってショック。
カトリックは第二バチカン公会議までは、教会以外救いなしだったけど、これが学校にしても医療にしても強いんだよ。
すべて教会以外に救いなしなわけだ。
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某ネコ 休止中
@nekotayasan
1月11日
正教会の三位一体論の「聖霊は父から」というのは、ローマ帝国の御用神学の解釈としてはかなり正しい。
近世の科学的宇宙観が発足するまでは、特に古代は、プネウマ(聖霊と同じ言葉)が音や光を伝達すると考えられてた。
だから、聖霊が独立してる正教会の解釈はかなり正しい。
0件の返信 1件のリツイート 1 いいね
某ネコ 休止中
@nekotayasan
1月10日
やっぱプロテスタントはモンタナス派だもんな。
鳩ぽっぽカルトなw
聖霊ってなんなん?ローマ帝国の御用神学の設定を無視した議論なんて無効です!
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某ネコ 休止中
@nekotayasan
1月29日
なーんだ、反カトリックって正教会の言い分だったのか。
東西教会分裂が契機か。フィリオクェ問題。
正統派も異端者もユダヤもイスラムも皇帝の使える駒だもんねー
今、西欧が移民の流入に悩まされてるのは東ローマ帝国の陰謀かもね。
コスモポリタニズムがあるから移民を受け入れるわけ。
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Shun Adachi
@Nakajima_Ki_43
2017年9月24日
アルメニア使徒教会(世界で初めて国教として公認されたキリスト教会)では三位一体の神やその正教会(グルジア使徒伝承独立正教会も含む)における類似である至聖三者の説を取らない。受肉したキリストは一つの本性のみを持つが、その本性は神性と人性の両方の特質を保持しているとする合性論を取る。
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まやや&充実
@mayaya_jujitsu
2月27日
ビザンツ帝国の尚書局を知ったのは、久松英二「ギリシア正教 東方の智」を読んだからだが、普段カトリックの訳語に慣れている身としては、正教会の訳語も異文化感があって面白かった。イエス・キリスト→イイスス・ハリストス。三位一体→至聖三者。秘跡→機密。聖母マリア→生神女マリア。等々。
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吉開裕子 yuko yoshikai
@yukoyoshikai
3月28日
吉開裕子 yuko yoshikaiさんが吉開裕子 yuko yoshikaiをリツイートしました
セルビアでは三位一体を意識してか、写真でピースサインをすると3本指に変えられる場合があった。「ブルガリアではそういう体験をしたことがない」という人の話からカトリック(二本指)のクロアチアを意識してるのかなという話になったけど、、、正教も色々だなー
吉開裕子 yuko yoshikaiさんが追加
吉開裕子 yuko yoshikai
@yukoyoshikai
三位一体の教義はもっぱらギリシアで生まれギリシア語の用語が使用されますが、シリア正教では「私たちの主イエス・キリスト」を通じて父に祈りかけるのではなく、キリストを直接に「私たちの神」として祈りかける慣習において特徴的…
0件の返信 3件のリツイート 2 いいね
自分がリツイート
吉開裕子 yuko yoshikai
@yukoyoshikai
3月28日
三位一体の教義はもっぱらギリシアで生まれギリシア語の用語が使用されますが、シリア正教では「私たちの主イエス・キリスト」を通じて父に祈りかけるのではなく、キリストを直接に「私たちの神」として祈りかける慣習において特徴的
シリア正教の典礼 http://www.syrian.jp/005-1-1.htm
(聖ニノが伝道した結果、
327年にキリスト教を国教にしたイベリア王国(今の東グルジア=ジョージアにあった)。
キリスト教を国教に採用したのはアルメニアが最初で、二番目に早く国教にしたのがグルジア。
ゆるかったとはいえ、イベリアは一世紀頃からローマ帝国の保護下。
しかし523年にササン朝に併合されてからはゾロアスター教がキリスト教と同じくらい強い勢力になった。
ゾロアスター教はキリスト教が布教される以前から、
ジョージアを含めコーカサス地方の主な宗教。
隣国のアゼルバイジャンにはゾロアスター教の影響を受けた建築物が残っている。
アゼルバイジャン首都バクーのシンボルといえる乙女の塔ももとはゾロアスター教施設だった。
ジョージアは北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣りあう。
アゼルバイジャンの下にイラン、ペルシャ。
アルメニアの左にトルコ。
グルジアの左下がトルコ)
『クジラの子らは砂上に歌う』
砂クジラが新世界よりみたいだな。ギリシア語用語ばっかりでストア派の目標のアパテイアなヒロイン。
”特に、自分を罪深さへと引きずる感情や欲を制御することを「アパテイア」と言います。”
元ネタストア派だろうが
正教用語でもあるアパテイア。
『クジラの子らは砂上に歌う』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%82%89%E3%81%AF%E7%A0%82%E4%B8%8A%E3%81%AB%E6%AD%8C%E3%81%86
敵の肌の色が明確に有色。
情念動(サイミア)を使うときに出るマーク(“念紋(アウラ)”)が目っぽい。
主人公の住んでいるところではこの念能力を使える者は“印(しるし)”と呼ばれる。
魔法使うときに出るあるいは使うときの魔法陣のマークが目の作品多すぎだろ。
色の名前が本作のキャラ名。
ビャクロクは色の名前。
オウニは黄丹(おうに)で皇太子のみに許されたオレンジっぽい色。
オウニという名前なので特別な存在だとわかる。
敵である帝国は
「魂形(ヌース)」で感情統制を敷いている。
全員が褐色の肌。
皇帝と最高議会「魂召会(エクレシア)」の政治体制。
皇帝とエクレシア=教会だが
ビザンティン帝国と正教会だろう。
「ヌース」に感情を渡した帝国兵士を人形兵士(アパトイア)という。
読者に嫌悪感を抱かせる描写だから
アパトイア批判。
魂召会(エクレシア)
=帝国の最高議会
が主人公らが乗る泥クジラ(ファレナ)流刑に処したので明確に敵。
ヌースに喰われる感情の量を最小限に抑える効果を持つ物体は
魂肉(サルクス)と呼ばれる。
サルクスは魂形(ヌース)の肉片の一部で、
特権階級まで出世した軍人レベルでないと与えられない。
なお、サルクスを食べると心は守れるが、
サイミアの能力は落ちる。
ヒロインの兄(支配階級)が宮廷道化師を侍らせているのが印象的だった。
オウニはおそらく、
背魂師(アポスタシア)という、
ヌースの唯一の天敵デモナスを産み出す一族なのだろう。
黄丹(おうに。日本では皇太子の色)が
悪魔=強力な超能力者。
主人公側はボゴミール派っぽいな。
正教と対立したグノーシスといえばボゴミール派。
アモンロギア家というすさまじい名前の海賊のような組織が登場。
用語がギリシア語だからギリシア正教神学の勉強が必要。
ラテン語ならカトリック神学の勉強が必要。
もろこし
@shunkashutou03
1月12日
オウニの名前の備忘。
ミゼン=ゼロ=0とズィオ=2を合わせるとオウニ(02)だな…
つまりデモナスとしてのミゼンも首長としてのズィオもオウニの鏡なのかしら。
登る太陽の色(黄丹)・皇太子が身につける色で、おそらく「王」と鬼(オニ)の意味もかけていて。
和の色:黄丹(おうたん、おうに)とはどんな色~
橙。曙の太陽の色を模して、支子(くちなし)の下染めに紅花を上掛けした、冴えた赤橙色。この染色名があらわれるのは、大宝令(701)の服制からで、天子に次ぐ皇太子の袍の色として用いられ、天皇の袍の色黄櫨染(こうろぜん)と共に禁色であった。
某ネコ 休止中
@nekotayasan
正教会の面白いのは、中核にテオーシスという思想があるとこ。
これ露骨にグノーシス以下略だけど、この世は良きものだと捉えてるストア主義グノーシス。
で、カトリックは全能の神が人間を無力化してマウンティングしてるというとんでもない教義。科学教はその反発から生まれたもの。
正教会の神学面白いのは「困ったらプラトンてんてに泣きつく」
というマジックだ。
イコノクラスムで偶像崇拝問題でると。あれは影であってそのものではないとイデア論で逃げるw
テオーシスにしても、あれは神そのものになるのではなくて似姿の回復だからと逃げる。
すげぇな!プラトンてんて。
中二病な子にはグノーシスが相性がいいです。
それで、そのグノーシス的な過激な現世否定をどこまで軟着陸させるかが鍵になります。
で、社会秩序を崩壊させないストア主義グノーシスである、テオーシスを認めた正教会は本当に凄いと思います。
こういう異端を乗り越えてきた智慧は学ぶべきです。
ボゴミール派を見てますと、皇帝や教会などの社会秩序は悪だと断定してますね、これはサヨクのレトリックと同じです。
これだからグノーシスは弾圧されたのです。
物質は悪なら、皇帝や教会などの権力は悪という思想なので。
サヨクの根源の根源がこれとか笑えるなー
そのバラモンの陰謀をばしばし武断で解決したローマかっけーな。
そして弾圧するだけでなく、社会秩序を破壊しない範囲でグノーシス認めたのが。
一神教において、なぜ人間が神になることを許されないのか?
それは法の支配とか共同体の共通の秩序破壊して人治主義になるからだよー
グノーシスはね、認めちゃうと反社会になるので、だからダメなんだよね。
社会秩序を嫌う特別な血筋であるバラモンの陰謀かな?
個人では正しくても社会としては認められないよね。
だから、善悪調和のストア主義グノーシスがあるのか。
人間が神になるの認めちゃうと法の否定なるから。
グノーシスというのは、ストア主義でもある。でも、ストア主義は現世否定はない。
その現世否定がない=ローマ帝国という秩序を脅かさないグノーシスが正教会なの!
正教会は特に正統派の中でも、復活祭を重んじるのでイエスは死んでないことを強調するグノーシスよりね。
イスラームは露骨に仮現説
私は、宗教思想を政治的イデオロギーとして考えるからね。
なぜグノーシスは弾圧されたのか?
イスマーイール派などを見ればわかるように、グノーシスを認めてしまうと革命思想になるんだよっ!
だから、ローマ帝国の社会秩序の建前を否定するグノーシスは弾圧されたの!そこ考えないと!
異端者の問題は政治問題なのが正教会とイスラームなわけで。
グノーシス主義は、ローマ帝国の秩序を否定するからダメなわけです。
なんか西欧の異端審問は女の子の世界みたいです。同じじゃないから嫌みたいな。
十字軍は東方に対する攘夷運動なのでしょうが。
なぜグノーシスはダメなのか?
それを大人が言葉で説明できないのは良くないです。
グノーシスを認めると、個人主義、現世の軽視による社会秩序や法、
国家の軽視(国家による統治を加害行為として扇動する左翼とか)になるのです。
ですから、反社会的傾向があるのでグノーシスはダメなのです。
グノーシスは明らかにどのへんがマズいか過去ログで説明しました。
だから、正教会がテオーシスという社会秩序を乱さないグノーシスを教義にしてるかわかる?
グノーシス認めると、あんたらが嫌いなサヨクやフェミなるのだがね。
いやーローマ帝国の御用神学は偉大です!
とか言いたくなる。
わたしゃ、正教会もグノーシススレスレの教義だと思うのね。テオーシスという教義を取ってる時点で。
となると、マルキオンの仮現説を取ったイスラムと正教会が仲良しだったのは異端者のグループ?
その異端者が仲良く手を組んでカトリック圏を侵略したのがオカルト野郎の陰謀でしょうか?
正教では、今でもストア主義グノーシスである、テオーシスの理論が中心にあるよね?
でもカトリックは正教の半分自力救済すら認めてない。共働という観念が正教にはある。
となると、カトリックのように依存させて救済を独占してるのは正教から見たら「とんでもない邪教」に見えるのではないか?
で、グノーシスって何がいいんですかね?
私はグノーシスは個人主義なので嫌いなのですが(秩序の否定=共同体の否定になりやすい)、
思想そのものは美しいですね。
で、グノーシス認めるとフランス革命みたいなのを認めちゃうんですが、
フェミも王族の首チョンパも嫌いな人が言うのは笑えます(笑)
散々グノーシスよりの発言してる「みたいに見えた」のに、いざグノーシスが持ち上げられると否定するって、
なんか厨二病の子のバンドの応援の仕方みたいだな(笑)
でも、政治的判断という目線加えるならグノーシスは結構まずい思想。社会秩序を否定するので。
でなければ、正教会方式が安全。
てかさ、やつらグノーシスにハマってるんだろ?
ならさ、何でグノーシス主義者なのに現世に執着するかねぇ?
グノーシス主義者なら、現世から早く去れることを喜ぶはずだよ?
このあたり思想なんてやつらにはファッションなのかな?と思う。
ガチグノーシスみたいなの実践してる人はそうはならない。
砂クジラでさ、砂の海に流される異端者って、グノーシスでもあるけど、あれ、異端者は島流しって正教会の伝統なんだよ。
コンスタンティノープル総主教のネストリオス(景教の人ね)も島流しにされてる。
あれはさー、かなり正教会を批判した作品だよ。北欧のギリシャ嫌いというのかなー?
砂クジラで、カタクリュスモスという言葉が出た時点で、
もう、黙示録を疑って邪険にした、金口のイオアンことヨハネス・クリュソストモスを嫌ってるのかな?と妄想したよ。
このギリシャ教父の人の思想はローマ帝国の御用神学が強いね。
黙示録好きなのはさー、プロテスタントだよね。
何でフリーメイソンと正教会の関係って言われないんやろか?
漫画やアニメでカトリックは叩かれるけど、正教会叩いてるのほぼ見たことない。
正教会叩いてるのは砂クジラくらいでしょ?
正教会の修道で目指すものはアパティアによる神との接近なので。あれビザンティン神学の批判でしょ?
オリゲネスの世界観で作られたヌース。砂クジラってオリゲネスの思想だったのですね。
『クジラの子らは砂上に歌う』のヌースの正体とは?考察してみる
http://3lion-fan.hatenablog.com/entry/%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%82%B9
(”魂形(ヌース)って一体何なのでしょうか。
一説によると、ヌースは空から降ってきたとされていますが、本当のところはよく分かりません。
分かっているのは、
「ぶよぶよとした見た目」
「人間の感情を栄養分として吸収する」
「戦艦に組み込むことで砂の海を沈まず航海できる」
「ヌースの近くでは通常サイミアを使えない」
という事ぐらいです。
※例外として、ヌース・ファレナは印の命を吸収します。
ちなみにヌースの由来として、
古代ギリシア哲学において「ヌース(nous)」は知性、精神、魂という意味で使われていたそうです。
帝国のヌース信仰
もともととても発達した文明があったようですが、「カサルティリオの雨」と呼ばれる大変動によって、この作品の世界は出来たようです。
そして帝国が信じている内容によると、「かつて感情のままに生きる人間に幻滅した神が、カサルティリオの雨を引き起こした」そうです。
なんだか、『ノアの方舟』のようですね。
とにもかくにも、なんとかその大変動を乗り越えた帝国人の祖先たちは、二度と大変動が起きないよう感情をヌースにささげることにしたようです。
そしてこの風習が連綿と受け継がれていった結果、帝国の人々はヌースを神として崇めるようになり、巡礼として最大のヌースと呼ばれている「アンスロポロス」に感情を捧げ続けているのです。
ちなみに、ヌースに感情を捧げる「巡礼」は帝国の国民にとっては義務のようなものであり、幼い子供でも少なからず感情を吸われるそう。
ただ、リョダリのように感情を上手く吸収されない例外のような人間もいるようです。
ヌースに意志は有るのか
とても歩いたり喋ったり出来ないような見た目のヌースですが、意志が存在するのかはナゾです。
ただし、「ネリ」や「エマ」のような『血』と呼ばれる存在が、ヌース本体に変わってヌースの意志を伝えているようです。
となると、一応ヌースにも意志は有るのではないかと考えられるわけですが、公式ではナゾという事になっています。
ヌースは何個有る?
ヌースは人間には作り出すことが出来ませんから、とても貴重な存在です。
そして気になる世界に存在するヌースの個数についてですが、これは明らかになってはいません。
ただ、原作1巻時点において帝国が所有していたヌースは8個であり、
これに泥クジラのヌース・ファレナを合わせて、少なくとも9個は世界に存在していると言えます。
ここで、それぞれのヌースについてまとめてみます。
ヌース・アンスロポス
帝国の所有している最大のヌース。
帝国の国民が巡礼として感情を捧げる。
「アンスロポス」はギリシア語で「人間」という意味。
ヌース・ファレナ
泥クジラの動力であり心臓。
人間の感情ではなく命を吸収する。
「ネリ」や「エマ」を通して、主人公チャクロにさまざまな助言をする。
ヌース・リコス
泥クジラ殲滅作戦のためにリコスが乗っていた戦艦。
泥クジラを発見する前に敵の襲撃を受け、リコス一人を残して兵士は全滅。
後に帝国軍に回収された。
「リコス」はギリシア語で「狼」という意味。
ヌース・スキロス
ヌース・リコスの回収と泥クジラ殲滅作戦を引き継いだ戦艦。
デモナスとして覚醒したオウニに破壊される。
チャクロに泥クジラの「舵」を与えた。
「スキロス」はギリシア語で「犬」という意味。
ヌースとサルクス
基本的に人間の感情を栄養分として吸収するヌースですが、
帝国の一部の特権階級の人々は「魂肉(サルクス)」というアイテムを持つことが出来ます。
このサルクスは、もともとヌース・アンスロポスの一部であり、感情を取られる量を抑えることが出来る効果があります。
感情を失くすことこそ至高としている帝国で、その上層部のみが感情を取られる量を抑えることが出来るという矛盾。
なんだか闇が深いですよね。
ですが、国を運営する上ではある程度の感情が必要だという事なのかもしれません。
ヌースとデモナス
さて、帝国で神として崇められている「ヌース」ですが、
実はヌースをサイミアで破壊できる存在がいます。
それが、デモナスです。
デモナスは一言で表現すると、「帝国で封印された伝説の魔神」です。
とある昔、帝国はヌースからデモニスと呼ばれる最強の兵士を生み出したのですが、この最強の兵士には大きな欠陥がありました。
それは「ヌースを破壊出来る」という致命的な欠陥でした。
デモナスは、ヌースの近くでもサイミアを使用することが出来るのです。
ヌースを神として崇める帝国にとって、神を破壊できるデモナスという魔神は決して容認することが出来ない存在だったので、結果としてデモナスを創る方法は封印されることになってしまったのです。
しかし、泥クジラことヌース・ファレナには、この最強の兵士であるデモナスを創ることが出来る環境が整っていました。
そうして人間をデモナスに変える実験の被験者にされたのが自警団のシュアンであり、一方のオウニは純粋なデモナスと疑われ、帝国に狙われることになるのです。”)
島流しは正教会の伝統ですよあれ。
ローマ皇帝と政治問題起こしてる総主教はすぐ島流し。ネストリオスとか。
火炙りにしない代わりに島流しが正教会の伝統w
で、帝国に逆らった異端者どもは砂クジラに島流しされるのだが、
その砂クジラってのが牢獄に捕らわれた魂の比喩だぁね。グノーシス。
ボゴミール派つーより、アナトリアに国家持ってたパウロ派かね?
ビザンティン帝国に倒されたの。
そいつらが、ボゴミール派の末裔でカタリ派になるんだがね。
そのパウロ派をスラヴの山中に左遷したのはローマ皇帝。
ありゃ露骨な正教会批判だよ砂クジラ。グノーシスでもあるが。
ローマ帝国から敵だと認定されて左遷されたのは、ボゴミール派か?
スラヴの山の中に左遷な。
その異端者の末裔が砂クジラの人。
島流しにするのは正教会の伝統なので、あれ正教会の批判なのか。ネストリオスにしても島流しされてるしな。
あれ正教会の批判なのか。北欧のロシア嫌い?
で、砂クジラ見てるとさ、あれ、ギリシャ哲学の術語を使いながらも北欧の思想やん。
富は限られてる世界とかね。
あーもう、北欧系の思想が入ると全部ダメになるな。
ギリシャ哲学の良さが生かされてない!
で、アパティアは別にローマ帝国の御用神学での賢者が至る道だけではなく、
正教会の修道士が至る道でもあるが若干定義が違う。
てか、砂クジラ、アパティアの解釈が違う。西欧結社もアパティアの解釈が違う!
これ見て、露骨に砂クジラはビザンティン神学の批判じゃんと思った。北欧のロシア批判?
で、パトスを明確に敵だと認定してる帝国(ローマ帝国だが、服装がロシアなのでは?
砂クジラ側の服装がローマなのは何の意図なんだろう?)が、
パトスを吸い取られる事を抑えるサルクスを盗むのを嫌ってた。
で、サルクスとソーマってのはパウロね。サルクスは単なる肉体だが、ソーマってのは霊体?
砂クジラでヌースというものが有機体ってあれ、ビザンティン神学の明確な批判だもんな。
正教会の神学はカトリックやプロテスタントと違って宇宙観や人間との関わりが特に有機的なんですよね。
この有機的なキリスト教共同体ってのが正教会の世界観で。
ローマ帝国の御用神学の批判なのがあれ。
砂クジラのカタクリュスモスって、金口のイオアンの批判なのかなぁ?
それ考えすぎ?
私は金口のイオアンの著書読んだことあるのだけど、まぁ人間中心主義つえーね。
カタクリュスモスと砂クジラという漫画聞いて、金口のイオアンを連想したんだよ。
金口のイオアンこと、ヨハネス・クリュソストモス。
で、砂クジラのカタクリュスモスって、これ同じヨハネにかけてるんでね?
黙示録の。黙示録退けたのが金口のイオアンじゃないかな?
参考文献集を
追撃Ⅲ 両権(両剣論=カトリック神学用語)boらが本当は名指しで叩きたいのはキリスト教の異端派・神秘主義とイスラームでは? 名指しで叩くと自分の立場がモロバレなので 「ユダヤ」と命名 お役立ち文献集
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-238.html
から移動させてきたプラスアルファ。
ここから文献集
正教会についての参考書案内(一般入手可能なもの)
http://kliment.cocolog-nifty.com/kandazoshi/2014/06/post-78ca.html
ネット上で無料で正教会が公開している手引書pdfがあります。
ロシア正教(東方教会、ギリシャ正教)、各分派に関する文献
http://www.coara.or.jp/~dost/17-i-1.htm
東方正教関係の文献目録(和書)
http://athos.world.coocan.jp/bunken.html
pixiv百科の正教会の記事
https://dic.pixiv.net/a/%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
元ネタは
東方正教会研究 プロテスタントと正教の違い
http://miyakojima.vsw.jp/wp-content/uploads/2015/09/02.pdf
正教会の贖罪論とプロテスタント教会の贖罪論の違いと限界について
http://miyakojima.vsw.jp/wp-content/uploads/2015/09/03.pdf
「原罪」をめぐる解釈の違い
https://ameblo.jp/caritas-agape/entry-10786330386.html
インドにおける「とき」---劫・輪廻・業---
http://www.aa.tufs.ac.jp/~tjun/articles/jikan.html
別に本はストア派でなくても図書館派でもいいよ
文献集
ダンテ 『神曲』 原基晶訳(講談社学術文庫、2014年) 地獄篇、煉獄編、天国篇の3巻組。
ハンス・ヨナス、大貫隆訳、『グノーシスと古代末期の精神 第一部 神話論的グノーシス』、2015.9.18、pp.353-381+註(pp.450-466):
maniマニ教系はこの記事に集める
「真のキリスト教」摩尼教/光の仏陀(摩尼光仏)かイランを強化した老子(老子化胡)か/宋・元・明代の明教-喫菜事魔/カルト作成マニュアルとマニ教について情報あつめるところ。マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-149.html
F. C. Burkitt, The Religion of the Manichees, (Donnellan Lectures for 1924), AMS Press Inc., New York, 1978
1925刊本の再刊
『マニ教徒たちの宗教』
マニ教徒たちの歴史/私たちの知識の源泉/マニ教による過去の説明/神の5つの属性についての覚書//
マーニーの体系における〈イエス〉/マニ教の教会組織/Khuastuanift/未来についてのマニ教の理念//
マーニーの体系の源泉/バルダイサン/マルキオーン/トゥルケスタンの資料の証言/崇拝/マニ教用語におけるシリア語とギリシア語/Barlaam と Joasaph/世界-穢れ/アウグスティヌスと悪の起源//
附録;マニ教徒の位階/5つの純粋な元素/シリア語のマニ教断片/ソグディアナ語のネストリウス派聖句集など、140ページ(手もとにあるのはコピー)。
A. V. William Jackson, Researches in Manichaeism. With Special References to thw Turfan Fragments, AMS Press Inc., New York, 1965
1932刊本の再刊
『マニ教研究 トゥルファンの断片への特別な参照とともに』
★ マニ教リンク(仮)★
http://guru-teenoso.world.coocan.jp/mani_link.html
ユーリー・ストヤノフ、三浦清美訳、『ヨーロッパ異端の源流 カタリ派とボゴミール派』、平凡社、2001
ディミータル・アンゲロフ、寺島憲治訳、『異端の宗派 ボゴミール』、恒文社、1989
渡邊昌美、『異端者の群れ カタリ派とアルビジョア十字軍』、八坂書房、2008
アルノ・ボルスト、藤代幸一訳、『中世の異端カタリ派』、新泉社、1975
渡邊昌美、『異端カタリ派の研究-中世南フランスの歴史と信仰-』、岩波書店、1989
フェルナン・ニール、渡邊昌美訳、『異端カタリ派』(文庫クセジュ 625)、白水社、1979
原田武、『異端カタリ派と転生』、人文書院、1991
ルネ・ネッリ、柴田和雄訳、『異端カタリ派の哲学』(叢書・ウニベルシタス 547)、法政大学出版局、1996
池上俊一、『ヨーロッパ中世の宗教運動』、2007、pp.107-209:「第2章 カタリ派」
リチャード・E・ルベンスタイン、『中世の覚醒 アリストテレス再発見から知の革命へ』、2008、pp.218-243:
vii マンダ教など viii マニ教(マーニー教)などix ボゴミール派、カタリ派など
http://uchuronjo.com/cosmo/gnostica_3.html#yamamoto_mani
矢吹慶輝、『摩尼敎 岩波講座 東洋思潮(東洋思想の諸問題 13)』、岩波書店、1935
序説/摩尼敎研究資料/敎祖摩尼傳/摩尼敎會史 東西傳道史、支那における摩尼敎/摩尼敎敎義など、47ページ(手もとにあるのはコピー)
本書は
矢吹慶輝、芹川博通校訂、『マニ教と東洋の諸宗教 比較宗教学論選』、佼成出版社、1988
の「Ⅰ マニ教とは何か」の「第1章 マニ教」(pp.13-71)として再録されました。
「Ⅰ」は;
マニ教とは何か マニ教//
マニ教籍;下部讃一巻/摩尼光仏教法儀略一巻//
マニ教『下部讃』について//仏教とマニ教-両教交渉の一端/『老子化胡経』中のマニ教//
付録 マニ教関係資料;はしがき/摩尼教断片『下部讃』/『摩尼光仏教法儀略』/『フィーリスト』(抄訳)-アル=ナディーム著
これ以外に;
東洋の諸宗教 東洋の意義//東洋宗教の諸相;仏教とキリスト教/景教と祆教/マニ教と回教//
仏教//三階教//三階教と日本仏教など、448ページ。
佐藤圭四郎、「アッバース朝時代のマニ敎について」、『石浜先生古稀記念 東洋学論叢』、1958、pp.228-241
須永梅尾、「ファウストゥスとアガピウス-古代末におけるマニ教的異端の一考察-」、『文化史学』、no.23、1968.5、pp.20-32
序/ファウストゥス/アガピウス/結びなど
須永梅尾、「『巨人の書』の再検討」、『オリエント』、vol.18 no.1、1975、pp.55-67 [ < J-STAGE ]
須永梅尾、「マニの啓示にあらわれた“仲介者”の観念」、『オリエント』、vol.19 no.2、1976、pp.69-84 [ < J-STAGE ]
須永梅尾、「青年マーニーの人間像をめぐって」、『オリエント』、vol.23 no.1、1980、pp.95-111 [ < J-STAGE ]
須永梅尾、「マーニーの思想と黙示文学の系譜」、『オリエント』、vol.31 no.2、1988、pp.140-152 [ < J-STAGE ]
なお著者には、『マニ教の世界』、私家版、1991
があるとのことですが、残念ながら未見。
岡野昌雄訳、『アウグスティヌス著作集 7 マニ教論駁集』、教文館、1979
二つの魂(391-2) +再考録/フォルトゥナトゥス駁論(392) +再考録/基本書と呼ばれるマニの書簡への駁論(400) +再考録/善の本性(404-5) +再考録/結婚の善 +再考録//解説など、348ページ。
→こちらにも挙げておきます
片柳栄一、「Jesus patibilis -アウグスティヌスの接したヌミディアのマニ教の一断面-」、『中世思想研究』、no.22、1980.10.20、pp.25-47 [ < 『中世思想研究』バックナンバー < 中世哲学会 ]
S.ペトルマン、神谷幹夫訳、『二元論の復権 グノーシス主義とマニ教』、1985
→細目はこちら
ハンス・ヨナス、『グノーシスの宗教』、1986、pp.279-320:「第2部第9章 マニによる創造、世界史、そして救済」
→こちらも参照
森安孝夫、『ウイグル=マニ教史の研究』、大阪大学文学部、1991
ベゼクリク千仏洞中のマニ教寺院;小序/仏教=マニ教二重窟の発見と調査/グリュンヴェーデル第25窟の構造/グリュンヴェーデル第25窟=マニ教窟説の検証/正面壁画の主題に関する従来の説/ウイグル語銘文よりの検討/生命の樹/その他のマニ教窟/歴史的考察(壁画年代論への寄与)//
トゥルファン出土マニ教寺院経営令規文書;概観/マニ教寺院経営令規文書:テキストと和訳/マニ教寺院経営令規文書:語註//
西ウイグル王国におけるマニ教の繁栄と衰退-マニ教寺院経営令規文書の歴史的位置付け-;マニ教寺院経営令規文書の性格/令規文書の上限:ソルミ(Solmï)問題/トゥルファン・敦煌文書に反映する西ウイグルのマニ教/令規文書の下限:マニ教の衰退と仏教の台頭/イスラム資料の伝える西ウイグルのマニ教//
付録;東ウイグル可汗および西ウイグル国王のクロノロジー/京都大学文学部所蔵 トゥルファン出土マニ教徒祈願文断簡/北京図書館所蔵 敦煌出土マニ教僧手紙文断簡(冬61ウラ)など、302ページ。
本書は→ウェブ上に掲載されています [ < CiNii Articles ]
本書の書評;吉田豊、『史學雑誌』、vol.102 no.4、1993.4、pp.105-115
加藤九祚、「マニ教研究ノート」、『創価大学人文論集』、no.5、1993.3、pp.242-263 [ < 創価大学機関リポジトリ]
大貫隆、「ゾロアスター教とマニ教」、『グノーシス 陰の精神史』、2001、pp.118-133
→細目はこちら
長島優、「『老子化胡経』について」、『佛教文化学会紀要』、no.9、2000、pp.278-299 [ < J-STAGE ]
クルト・ルドルフ、『グノーシス』、2001、pp.361-377:「マニ教」
成立の背景/バルデサネース/マニの生涯/マニ教の勢力拡大/マニ教文書/マニの教説/マニ教の体系/救済論/マニ教の教会/共同体生活/祝祭と儀式/罪の理解
ミシェル・タルデュー、大貫隆・中野千恵美訳、『マニ教』(文庫クセジュ 848)、白水社、2002
大貫隆、「マニ教 その東進と政治」、『別冊 環 8 オリエントとは何か-東西の区分を超える-』、藤原書店、2004.6.30、pp.170-175
マニとマニ教/ササン朝ペルシアからトランス・オクソニア(ゾグドニア)へ/ウイグル王国と中国に伝播したマニ教と政治
『大和文華』、no.119、2009.2.28、「大和文華所蔵六道図特輯」
はじめに(吉田豊)//
寧波のマニ教画 いわゆる「六道図」の解釈をめぐって(吉田豊);本画の構成と先行研究/マニ教画であることの証明 主尊の図像、個人の終末論:マニ教が説く「三道」、主尊の左右の人々/本画作成の目的/銘文/二つの仮説 引路菩薩、史君墓のレリーフ//
大和文華館蔵マニ教絵画にみられる中央アジア来源の要素について(Zsuzsanna GULÁCSI、田中健一・柳承珍訳);背景/トルファンのマニ教芸術との関連性 説教の場面、主尊の像、裁きの場面//
近年マニ教画と認定された大和文華館所蔵の絹絵についての覚え書き(Jorinde EBERT、吉田豊訳);マニ教徒の法衣に見られる segmenta と clavi/色彩と装身具/鉢巻きあるいはリボンとして描かれたディアデム/Segmenta の中に描かれた女性の顔など、56ページ。
下掲『大和文華』、no.121、2010:「マニ教絵画特輯」および『中国江南マニ教絵画研究』、2015も参照
森安孝夫、「日本に現存するマニ教絵画の発見とその歴史的背景」、『内陸アジア史研究』、no.25、2010.3.31、pp.1-29 [ < CiNii Articles ]
『大和文華』、no.121、2010.3.31、「マニ教絵画特輯」
はじめに(吉田豊)//
新出マニ教絵画の形而上(吉田豊) 宇宙図;マニ教と絵画/マニ教の宇宙観を絵画化したものであることの証明/宇宙図とテキストとの比較 十天と黄道十二宮、太陽と月/マニと2人の従者//
その他の部分でテキストに対応があり解釈が可能な部分;須弥山と海/大地と大地に横たわる悪魔及び奇形の生き物/空中の2つのシーン:裁きのシーン、雲と光の処女/地獄あるいは地下/天界および天界図:天界、天界図の2断片/金剛相柱/活ける霊(浄風)の5人の子供たち//
その他の問題;絵画に基づくテキスト?/『宋会要輯稿』の記述との違い:どの絵に当たるのか/解釈ができない部分/トルファンに宇宙図はあったか//
聖者伝図//付録:マニ教の宇宙生成神話//
新出マニ教絵画試論-制作(古川攝一);新出マニ教絵画の表現及び現状 宇宙図、聖者伝図(1)、聖者伝図(2)、天界図/表現の特色及び作品相互の関係 人物、建物、自然表現/制作年代など、66ページ。
上掲『大和文華』、no.119、2009:「大和文華所蔵六道図特輯」および下掲『中国江南マニ教絵画研究』、2015も参照
→こちらにも挙げておきます
青木健、『マニ教』(講談社選書メチエ 485)、講談社、2010.11.10
山田庄太郎、「ファウストゥスのマニ教理解について-アウグスティヌス時代のマニ教の一側面-」、『宗教研究』、vol.83 no.3、2010.12.30、pp.637-659 [ < CiNii Articles ]
岡田明憲、「巨人の書」、藤巻一保・岡田明憲、『東洋秘教書大全』、2012.9.11、pp.390-393
マニが興した世界宗教/巨人の物語に見るマニの思想など
ニコラス・J・ベーカー=ブライアン、青木健訳、『マーニー教 再発見された古代の信仰』、青土社、2014.4.25
原著は Nicholas J. Baker-Brian, Manichaeism. An Ancient Faith Rediscovered, 2011
序言//マーニー教の再発見 論争と資料;新旧の論争/「他者」としてのマーニー教/グノーシス、グノーシス主義、融合主義/マーニー教のアイデンティティー/マーニー教文献の再出現//
マーニーの「多様な」生涯;マーニー教のアイデンティティー形成における宗教的伝記/マーニーは不可知か?/偽情報と真情報/ギリシア語文献におけるマーニーの生涯(CMC)/『アクタ・アルケライ』におけるマーニーの生涯//
マーニー教神学 1 神学と文献;文献的使徒マーニー/「全ての秘義を青銅の碑版に記せ」 マーニーの福音の永続化/マーニーの著作とマーニー教聖典 『シャーブフラガーン』、『大いなる福音』、『生命の宝庫』、『伝説の書』、『奥義の書』、『巨人の書』、『書簡集』、『詩篇と祈禱文』//
マーニー教神学 2 宇宙、祈禱、教会;マーニーの神話と聖職者/「不完全な序盤、弛緩した中盤、退屈な終盤」 神話の語り部マーニー/悪の問題/マーニー教神話の理解方法/神話 宇宙的闘争と光の犠牲、造物主の闘い、原形質体 アダムとエヴァの出現、終末/神話とマーニー教教会/マーニー教聖職者の組織と活動/マーニー教聖職者のエクレシア//
結論など、330ページ。
吉田豊・古川攝一編、『中国江南マニ教絵画研究』、臨川書店、2015.3.31
ギリシァ神話と日本神話
比較神話学の試み 1
吉田敦彦著
みすず書房 1974年
この本の主題はデュメジルによる印欧語族神話研究と、
ギリシア神話と日本神話の類似についてとなっており、
日本神話の源流の一つがギリシア神話や印欧語族神話
にあるのではないかという説の書かれた本でもあります。
しかしこの本と次の『アマテラスの原像』のもう一つの価値は、
ナルト叙事詩について日本語で読むことのできる
数少ない書物であるということです。
丁寧な説明と一部の神話が載っていますので、
それらの基本書としてココに入れました。
アマテラスの原像
スキュタイ神話と日本神話
吉田敦彦著
青土社 昭和55年
上の『ギリシァ神話と日本神話』と
『イスラーム神秘主義聖者列伝』ファリード・ゥッディーン・ムハンマド アッタール著、藤井守男 訳、国書刊行会、1998年6月
『鳥の言葉 - ペルシア神秘主義比喩物語詩--』アッタール著、黒柳恒男訳、平凡社、2012年5月。(東洋文庫 821)
アッタール 『鳥の言葉 - ペルシア神秘主義比喩物語詩』 黒柳恒男訳、平凡社〈東洋文庫 821〉、2012年5月
各地域、宗教の神話の参考文献 - Biglobe
http://www7b.biglobe.ne.jp/~sinwa_plus_alpha/mythology5.html
『山海経』 前漢初期、変な動物や人間がたくさん載っている。
道教の神秘と魔術 | ジョン ブロフェルド, 陳 舜臣, 西岡 公
葛洪の『抱朴子』とアンリ・マスペロの『道教』(平凡社東洋文庫)
『道教』 川勝義雄訳、平凡社東洋文庫/平凡社ライブラリー、2000年
『道教の養性術』 持田季未子訳、せりか書房、1983年
『史記を語る』(岩波新書、1979年/岩波文庫、1996年、ISBN 4003313321、解説吉川忠夫)
ネーミング全史 商品名が主役に躍り出た
タバコの世界史 J-グッドマン著 平凡社刊
タバコの歴史 著 上野 堅実
ドイツ敬虔主義―宗教改革の再生を求めた人々((単行本))
ヨハネス・ヴァルマン (著), 梅田 與四男 (翻訳)
ドイツ敬虔主義((単行本))
マルティン シュミット (著), Martin Schmidt (原著), 小林 謙一 (翻訳)
敬虔者たちと「自意識」の覚醒―近世ドイツ宗教運動のミクロ・ヒストリア (叢書歴史学への招待)((単行本))
森 涼子 (著)
ギリシア教父の神秘主義 キリスト教神秘主義著作集 <1>((単行本))
谷 隆一郎 (翻訳), 熊田 陽一郎 (翻訳)
キリスト教神秘思想史 (1) 単行本 – 1996/2
Louis Bouyer (著), 上智大学中世思想研究所
新版 古代の密儀 (象徴哲学大系)((単行本))
マンリー・P. ホール (著), Manly P. Hall (原著), 大沼 忠弘 (翻訳), 山田 耕士 (翻訳), 吉村 正和 (翻訳)
不老不死の身体―道教と「胎」の思想 (あじあブックス)/加藤 千恵
中世末期から近世初期までの自然魔術、錬金術、占星術に関する
海外文献を紹介するサイト。
欧米の神秘主義を紹介する日本語のサイトとしては、ここが最高峰です。
bibliotheca hermetica
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9866/bh.html
F.A.イエイツ 著
『薔薇十字の覚醒』 (工作舎、1986年)
取り敢えず、ここから入って下さい。
ヨーハン・ヴァレンティン アンドレーエ、種村季弘訳
『化学の結婚』 (紀伊国屋書店、1993年)
イェイツの中にも『ファーマ』等の翻訳が入ってますが、
ドイツ文学専門家としての巨匠の決定版です。
エリアーデ、M.
『鍛冶師と錬金術師(著作集5)』大室幹雄訳、せりか書房、1981
大槻真一郎編著
『記号図説 錬金術事典』同学社、1996
スタニスラス・クロソウスキー・デ・ロラ
『錬金術』イメージの博物誌6、種村季弘訳、平凡社、1978
コロシモ、ピーター
『惑星の錬金術』坂斉新治訳、大陸書房、1976
付:日夏響「解説錬金術誌」pp.209-268
佐藤任・小森田靖子
『インド錬金術』東方出版、1989
エディゴフェル著
『薔薇十字団』 (白水社、クセジュ文庫、1991年)
今は入手できないのかな?一番お手軽な入門書。
ゲルショム・ショーレム
『錬金術とカバラ』(徳永恂・波田節夫・春山清純・柴崎雅子共訳)
作品社、2001、本体¥2,800
<パラケルスス>
パラケルスス
『パラケルスス 自然の光』J.ヤコビ編、大橋博司訳、人文書院、1984
『奇蹟の医書』大槻真一郎訳、工作舎、1980
大橋博司
『パラケルススの生涯と思想』思索社、1988
松田寿男
『丹生の研究―歴史地理学から見た日本の水銀』早稲田大学出版部、1970
松田寿男
『古代の朱』学生社、1975
市毛勲
『朱の考古学―日本古代朱の史的研究』雄山閣
佐藤任
『空海と錬金術:金属史観による考察』東京書籍、1991
佐藤任
『密教と錬金術』勁草書房、1983
佐藤任
『空海のミステリー : 真言密教のヴェールを剥ぐ 』出帆新社, 1998
<中国の錬金術>
セビン、N.
『中国の錬金術と医術』中山茂・牛山輝代訳、思索社、1985
ユング、C.G.+R.ヴィルヘルム
『黄金の華の秘密』湯浅泰雄・定方昭夫訳、人文書院、1980
近藤真澄
『東洋錬金術』内田老鶴圃、1929
マスペロ、アンリ
『道教』平凡社東洋文庫、1987
Allen G. Debus,
『ケミカル・フィロソフィ』
The Chemical Philosophy.
New York, 1977.
ついに邦訳(平凡社、1999年)されました。A.G. Debus 著『近代錬金術の歴史』 (平凡社、1999年)への
アレン・G. ディーバス (川崎勝・大谷卓史訳) 『近代錬金術の歴史』平凡社, 1999年10月, 653頁, ISBN 4-582-53721-9, 9000円.
蒸留術とイスラム錬金術、そして『アロマトピア』
http://www.geocities.jp/bhermes001/aromatopia.html
最初の最初に読むべきは?
ヒロ・ヒライ + 小澤実・編 『知のミクロコスモス:中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』
グラフトン 『カルダーノのコスモス:ルネサンスの占星術師』 (勁草書房、2007年)
A・グラフトン 『テクストの擁護者たち:近代ヨーロッパにおける人文学の誕生』 (勁草書房、2015年)
A・ぺディグリー 『印刷という革命』 桑木野幸司訳 (白水社、2015年)
2014年
ヒロ・ヒライ+小澤実・編 『知のミクロコスモス:中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』 (中央公論新社、2014年)
L・プリンチーペ 『科学革命』 (丸善出版、2014年)> セミナーの動画リスト
水野千依 『キリストの顔:イメージ人類学序説』 (筑摩書房、2014年)
桑木野幸司 『叡智の建築家:記憶のロクスとしての16・17世紀の庭園、劇場、都市』 (中央公論美術出版、2014年)
菊地原洋平 『パラケルススと魔術的ルネサンス』 (勁草書房・BH叢書、2013年12月)
榎本恵美子 『天才カルダーノの肖像:ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈』 (勁草書房・BH叢書、2013年7月)
R・エヴァンズ 『バロックの王国:ハプスブルグ朝の文化社会史 1550-1700年』 (慶応大学出版会、2013年)
J・ケプラー 『新天文学』 (工作舎、2013年)*
A・キルヒャー 『普遍音楽』 (工作舎、2013年)
パラケルスス 『アルキドクセン』 (ホメオパシー出版、2013年)
根占献一・他 『イタリア・ルネサンスの霊魂論』新装版 (三元社、2013年)
平岡隆二 『南蛮系宇宙論の原典的研究』 (花書院、2013年
カルターリ 『西欧古代神話図像大鑑』 (八坂書房、2012年)
おなじみのローマの大橋さんの新邦訳。『古代人たちの神々の諸像』 Vincenzo Cartati, Le imagini de i dei de gli antici (1556年) の全訳
バウスマ(注:ブースマ) 『ルネサンスの秋:1550-1640』 (みすず書房、2012年)* > 使用法に注意
売り文句の「ブルクハルト、ホイジンガを継ぐ、現代の古典ともいえる書」というのは誇大広告ではないでしょうか?
グラフトン 『アルベルティ:イタリア・ルネサンスの構築者』 (白水社、2012年)*
パラケルスス 『目に見えない病気』 (ホメオパシー出版、2012年) 新邦訳の登場!
パオロ・ロッシ 『普遍の鍵』 新装版 (国書刊行会、2012年) 不朽の名作が復刻!
伊藤博明 『ルネサンスの神秘思想』 (講談社学術文庫、2012年) ついに文庫入り!
2011年
水野千依 『イメージの地層:ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言』 (名古屋大学出版会、2011年)*
ガレン 『ルネサンスの文化史:ある史的肖像』 (平凡社ライブラリー、2011年)
ロザリー・コリー 『パラドクシア・エピデミア:ルネサンスにおけるパラドクスの伝統』 (白水社、2011年)*
岡部雄三 『ドイツ神秘思想の水脈』 (知泉書館、2011年)*
2010年
折井善果 『キリシタン文学における日欧文化比較:ルイス・デ・グラナダと日本』 (教文館、2010年12月)
ブースマ(注:バウスマ) 『ギヨーム・ポステル:異貌のルネサンス人の生涯と思想』 (法政大学出版局、2010年)*
パラケルスス 『医師の迷宮』 (ホメオパシー出版、2010年) 待望の新邦訳!
イェイツ 『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』 (工作舎、2010年)
ジョーンズ 『フランシス・イェイツとヘルメス的伝統』 (作品社、2010年)*
カッシーラー 『認識問題』 第1巻 (みすず書房、2010年)
『原典 イタリア・ルネサンス人文主義』 (名古屋大学出版会、2009年)* 個人で買うには高すぎますよね、これ。
根占献一 『ルネサンス精神への旅:ジョアッキーノ・ダ・フィオーレからカッシーラーまで』 (創文館、2009年)
ゼーリ 『ローマの遺産:コンスタンティヌス凱旋門を読む』 (八坂書房、2009年)* おなじみローマの大橋さんの邦訳です。
ヨハネス・ケプラー 『宇宙の調和』 (工作舎、2009年)
ヨハネス・ケプラー 『宇宙の神秘』新装版 (工作舎、2009年)*
金沢百枝 『ロマネスクの宇宙:ジローナの『天地創造の刺繍布』を読む』 (東京大学出版会、2008年)
『哲学の歴史 (第4巻) ルネサンス』 (中央公論新社、2007年)
グラフトン 『カルダーノのコスモス:ルネサンスの占星術師』 (勁草書房、2007年)
エヴァンス 『魔術の帝国』 上巻&下巻 (ちくま学芸文庫、2006年) パワード・バイ・BH!
リーヴス 『中世の予言とその影響:ヨアキム主義の研究』 (八坂書房、2006年) おなじみローマの大橋さんの邦訳です。
ヴァールブルク 『ルターの時代の言葉と図像における異教的=古代的予言』 (ありな書房、2006年)
ヴァールブルク 『ルネサンスの祝祭的生における古代と近代』 (ありな書房、2006年)*
ブルーノ 『英雄的狂気』 (東信堂、2006年)*
宇宙論の歴史、孫引きガイド
http://uchuronjo.com/cosmologica.html
フィンドレン 『自然の占有:ミュージアム、蒐集、そして初期近代イタリアの科学文化』 (ありな書房、2005年)*
根占献一 『フィレンツェ共和国のヒューマニスト:イタリア・ルネサンス研究』 (創文社、2005年)
根占献一 『共和国のプラトン的世界:イタリア・ルネサンス研究・続』 (創文社、2005年)
ヘンリー 『十七世紀科学革命』 (岩波書店、2005年)
ヴァールブルク 『フィレンツェ文化とフランドル文化の交流』 (ありな書房、2005年)*
プラトンのアトランティス文明に関する記述の要約
http://www2.tokai.or.jp/shaga/atorantis/sub6.htm
カルデア人の神託(Chaldaean Oracles)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/chaldaica.html
ヴァールブルグ 『フィレンツェ市民文化における古典世界』 (ありな書房、2004年)*
矢野道雄 『星占いの文化交流史』 (勁草書房、2004年)
ウォーカー 『ルネサンスの魔術思想』 (ちくま学芸文庫、2004年)
パラケルスス 『奇蹟の医の糧』 (工作舎、2004年)
パノフスキー 『イデア』 (平凡社ライブラリー、2004年)
平野隆文 『魔女の法廷:ルネサンス・デモノロジーへの誘い』 (岩波書店、2004年)
ストア派(Stoics ; Stoiker ; stoîciens ; Stoa)
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/3S/su_stoics.html
種村 剛(TANEMURA, Takeshi)
http://tanemura.la.coocan.jp/index.html
ブルーノ 『カンデライオ』 (東信堂、2003年)*
ヴァールブルク 『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』 (ありな書房、2003年)
ヴァールブルク 『ボッティチェッリの 《ウェヌスの誕生》 と 《春》 :イタリア初期ルネサンスにおける古代表象』 (ありな書房、2003年)
シュミット&コーペンハーヴァ 『ルネサンス哲学』 (平凡社、2003年)*
シャステル 『ルネサンス精神の深層』 (ちくま学芸文庫、2002年)
ガレン 『ルネサンスの教育:人間と学芸の革新』 (知泉書館、2002年)
マンセッリ 『西欧中世の民衆信仰:神秘の感受と異端』 (八坂書房、2002年)* おなじみローマの大橋による邦訳です。
イスラーム世界における少年愛は、9世紀以後19世紀半ばにいたる時代、詩、芸術、スピリチュアリティとともにイベリア半島から北インドまでの地域における ... たとえば酒姫(サーキー: 酌人の小姓)のような少年の存在は、同性愛的情熱の象徴としてヘレニズム的要素を認めることができる。
イスラム化したといえ、ペルシアでは酒場が公然とある有様だった。家でこっそり隠れて飲む、というのではなく、酒場でサーキイの酌を受けながら男たちは飲 みまくったのだ。ただ、サーキイを日本語で(酒姫)と訳しているが、これは日本の酌婦と異なり男、しかも少年が酌をしていた。この少年たちは酌をしていた だけでなく、よく同性愛の対象ともなった。オマル・ハイヤームの時代はトルコ系の美少年が多かったらしいが、未成年者に酌をさせた挙句弄ぶとは、現代人と モラルが違いすぎる。
ハイヤームはこの他にも到底敬虔なムスリムとは呼べないような詩も書いている。
伊泉龍一氏著の『タロット大全』(紀伊国屋書店)
ゼーリ 『イメージの裏側:絵画の修復、鑑定、解釈』 (八坂書房、2000年)* おなじみローマの大橋による邦訳です。
ブルーノ 『原因・原理・一者について』 (東信堂、1998年)
伊藤章治著『ジャガイモの世界史』
ディーバス 『近代錬金術の歴史』 (平凡社、1999年)
--- 『ルネサンスの自然観』 (サイエンス社、1986年)
ウェブスター 『パラケルススからニュートンまで』 (平凡社、1999年)
テイラー 『錬金術師』 (人文書院、1978年)
ホームヤード 『錬金術の歴史』 (朝倉書店、1996年)
ゴルダマー 『パラケルスス:自然と啓示』 (みすず書房、1986年)
ヤコビ 編 『パラケルスス:自然の光』 (人文書院、1984年)
工作舎から、パラケルススの『パラグラヌム』 Paragranum の邦訳が『奇蹟の医の糧』というタイトルで出版されたという報せを受けました。訳者の澤元さんは、BHミーティングに参加。これを機に、長く在庫切れだったパラ三部作の第一弾『奇蹟の医書』も新装版にて復刊されました。買い逃していた人は、チャンスです!(2004年11月4日記す)
フィンドレン 『自然の占有:ミュージアム、蒐集、そして初期近代イタリアの科学文化』 (ありな書房、2005年)
コイレ 『パラケルススとその周辺』 (白馬書房、1987年)
--- 『閉じた世界から無限宇宙へ』 (みすず書房、1973年)
ドブズ 『ニュートンの錬金術』 (平凡社、1995年)
--- 『ヤヌス的の天才の肖像』 (みすず書房、2000年)
イェイツ 『魔術的ルネサンス』 (晶文社、1984年)
--- 『薔薇十字の覚醒』 (工作舎、1986年)
--- 『記憶術』 (水声社、1993年)
--- 『世界劇場』 (晶文社、1978年)
--- 『16世紀フランスのアカデミー』(平凡社、1996年)
ウォーカー 『ルネサンスの魔術思想』 (平凡社、1993年 > (ちくま学芸文庫、2004年)
--- 『古代神学』 (平凡社、1994年)
エヴァンス 『魔術の帝国』 (平凡社、1988年) > (ちくま学芸文庫、2006年)
ガレン 『イタリア・ルネサンスにおける市民生活と科学・魔術』 (岩波書店、1970年)
--- 『ルネサンスの文化史:ある史的肖像』(平凡社、2000年)> (平凡社ライブラリー、2011年)
--- 『ルネサンスの教育:人間と学芸の革新』 (知泉書館、2002年)
ウィント 『ルネサンスの異教秘儀』 (晶文社、1986年)
クリバンスキー、パノフスキー、ザクスル 『土星とメランコリー』 (晶文社、1991年)
パノフスキー 『イデア』 (思索社、1982年 > 平凡社ライブラリー、2004年)
ヘニンガー 『天球の音楽』 (平凡社、1990年)
ロッシ 『魔術から科学へ』 (サイマル出版、1970年)
--- 『普遍の鍵』 (国書刊行会、1984年) >(国書刊行会、2012年) 不朽の名作が新装版で復刻!
--- 『哲学者と機械』 (学術書房、1989年)
クリステーラー 『ルネサンスの思想』 (東大出版、1977年)
--- 『イタリア・ルネサンスの哲学者』 (みすず書房、1992年) > 新装版 (みすず書房、2006年)
ポプキン 『懐疑』 (紀伊国屋書店、1981年)
カッシーラー 『個と宇宙:ルネサンス精神史』 (名古屋大学出版、1991年)
--- 『シンボルとスキエンティア』 (ありな書房、1995年)
--- 『英国のプラトン・ルネサンス』 (工作舎、1993年)
--- 『認識問題』 第1巻 (みすず書房、2010年)
シャステル 『ルネサンス精神の深層』 (平凡社、1989年 > (ちくま学芸文庫、2002年)
--- 『ルネサンスの神話:1420-1520』(平凡社、1999年)
--- 『ルネサンスの危機:1520-1600』(平凡社、2000年)
デッラ・ポルタ 『自然魔術』 (青土社、1990年)
--- 『自然魔術(身体編)』 (青土社、1996年)
クリアーノ 『ルネサンスのエロスと魔術』 (工作舎、1991年) 使用法に注意。
ラヴジョイ 『大いなる存在の連鎖』 (晶文社、1975年)
エイトン 『ライプニッツの普遍計画』 (工作舎、1990年)
柴田・荒井 編 『ヘルメス文書』 (朝日出版、1980年)
ヨナス 『グノーシスの宗教』 (人文書院、1986年)
ショーレム 『ユダヤ神秘主義』 (法政大学出版、1985年)
--- 『カバラとその象徴的表現』 (法政大学出版、1985年)
--- 『錬金術とカバラ』 (作品社、2001年)
テスター 『西欧占星術の歴史』 (恒星社厚生閣、1997年)
アーバー 『近代植物学の起源』 (八坂書房、1990年)
フィッシャー 『ゲスナー:生涯と著作』 (博品社、1994年)
中世思想原典集成 (平凡社、1993-2002年)
ヴァールブルク 『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』 (ありな書房、2003年)
--- 『ボッティチェッリの 《ウェヌスの誕生》 と 《春》 :イタリア初期ルネサンスにおける古代表象』 (ありな書房、2003年)
伊藤博明 『神々の再生』 (東京書籍、1996年) > 『ルネサンスの神秘思想』 (講談社学術文庫、2012年)
--- 『ヘルメスとシビュラのイコノロジー』 (ありな書房、1992年)
根占献一他 『イタリア・ルネサンスの霊魂論:フィチーノ、ピコ、ポンポナッツィ、ブルーノ』 (三元社、1995年)>新装版(同、2013年)
川端香男里 編 『神秘主義:ヨーロッパ精神の底流』 (せりか書房、1988年) 使用法に注意。
清水純一 『ルネサンス 人と思想』 (平凡社、1994年)
澤井繁男 『魔術の復権』 (人文書院、1985年) 使用法に注意。
--- 『ルネサンス文化と科学』 (山川出版社、1996年) 使用法に注意。
樺山紘一他 『ノストラダムスとルネサンス』 (岩波書店、2000年)
名須川学 『デカルトにおける〈比例〉思想の研究』(哲学書房、2002年)
おすすめ古典96
『夢中問答(集)』【岩波文庫・講談社学術文庫など】
夢窓疎石が足利尊氏の弟である足利直義の質問に答える形でまとめられた、禅に関する内容をまとめたものです。全部で93の問答から成り立っていて、坐禅などの禅の作法や意義などを知りたい方におすすめです。
「守破離」とは?
まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。
その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。
最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。伊泉龍一 最新翻訳書『シークレット・オブ・ザ・タロット――世界で最も有名な
「なにもここまでせんでも」的なマニアックさに満ちた書籍と、少し目先の変わったタロット使用法(解釈)の書籍 本気で身につけたい人、更なる世界へ
http://karasuya.fool.jp/original/tarot/book_07.html
タロット参考書籍の選び方【レビューの見方】
http://karasuya.fool.jp/original/tarot/memo_001.html
āū
sīnz āynūn
いちばんやさしいタロット・リーディングの教科書
手賀 敬介
いちばんやさしいタロットの教科書
ルナ・マリア
タロット バイブル 78枚の真の意味
レイチェル・ポラック(著)、鏡リュウジ(監修)
ラーニング・ザ・タロット―タロット・マスターになるための18のレッスン
ジョアン・バニング(著)、伊泉 龍一(翻訳)
タロットの歴史
書籍情報】
著者 井上教子
タロットバイブル (バイブルシリーズ)
posted with ヨメレバ
サラ・バートレット 産調出版
三宅理一 『マニエリスム都市:シュトラスブルクの天文時計』(平凡社、1988年)
日本語訳、タルムード、実は、探せば、ある、みたいで、"都立図書館とか全国の図書館に入ってると思う。
残念ながら、一般配布はされていない模様。
1. タルム-ド ; 4-9 ネズィキ-ンの巻 / アヴォ-ト∥篇 / 三貴 , 1994.7
2. タルム-ド ; 3-2 / ケトゥボ-ト∥篇 / 三貴 , 1994.12 "、、、(タルムードの日本語版、の11)。貴金属、扱う、三貴、ゆう会社が、企業メセナ、つまり、社会貢献のため、ゆう感じで、お金出して、それで、和訳、翻訳本、作ってた、みたいだ。(1994.7から、2012。12が、最新刊?、、割と、さいきん、、)
"タルムードは、二つの部分からなる。「ミシュナー」と、その注解書である「ゲマラ」である。" (「タルムードを捏造する者たち」)、ゆう感じで、その中心、ミシュナー、 これは6つの巻、あるが、それぞれ、どれくらい、その三貴の日本訳されてるか、ゆう事だが、ウィキペデア、とか、CiNii の、情報、とか見て、ちょと、整理して、見たが、(三貴の本の、カタカナ、それと、ウィキペデアの、カタカナ、微妙に、違ってるが、僕は、ウィキペデアのを、コピペしたから、ウィキペデア表記、それに、なてまっす!)
タルムード ミシュナー日本訳(三貴)
1。ゼライーム(10/11) 祈りと祝福・什一税・農業に関する法を扱う。
1-1ベラホット●。それ以外全部ある(1-2ペアー◯、 1-3デマイ◯、1-4キルアイム◯、1-5シェビイート◯、1-6テルモット◯、1-7マアセロット◯、 1-8マアセル・シェニー◯、 1-9ハッラー◯、1-10オルラー◯、1-11ビクリーム◯)
2。モエード(4/12) 安息日と祭りに関係する。
2-1シャバット◯、2-2エルビン×、 2-3ペサヒーム●、2-4シェカリーム×、2-5ヨマー×、 2-6スカー◯、2-7ベイツァー×、2-8ロシュ・ハシャナー◯、2-9タアニート●、2-10メギラー◯●、2-11モエード・カタン●、2-12ハギガー●
3。ナシーム(4/7) 結婚と離婚、誓約に対する作法とナジル人の法に関係する。
3-1イェバモット×、3-2ケトゥボット◯、3-3ネダリーム×、3-4ナジール◯、3-5ソター◯、 3-6ギッティン×、3-7キダシン◯
4。ネズィキーン(6/10) 市民の商売と刑罰、法廷の機能と誓約について。
4-1ババ・カマ×、4-2ババ・メツィア×、4-3ババ・バトラ×、4-4サンヘドリン×、4-5マコット◯、4-6シェブオット◯、4-7エドゥヨット◯、4-8アボダー・ザーラー◯、 4-9アボット◯●、4-10ホラヨット◯●
5。コダシーム(0/11) 生贄の儀式に関する、神殿と食事の法。
全部ない(5-1ゼバヒーム×、5-2メナホット×、5-3フッリーン×、5-4ベホロット×、 5-5アラヒン×、5-6テムラー×、5-7ケリトット×、5-8メイラー×、5-9タミード×、5-10ミドット×、5-11キニーム×)
6。トホロート(12/12) 祭儀的な潔・不潔等の法に関係する。
全部ある( 6-1ケイリーム◯、6-2オホロット◯、6-3ネガイーム◯、6-4パーラー◯、6-5トホロット◯、6-6ミクヴァオート◯、6-7ニダー◯、 6-8マフシリン◯、6-9ザービーム◯、6-10テブール・ヨーム◯、 6-11ヤダイム◯、6-12ウクツィーン◯)
(ここで、◯、ゆうんは三貴版、それで、日本訳、あるもの。他のは、三貴版、ないが、しかし、調べると、エルサレム宗教文化研究所、ゆうとこ、石川耕一郎さん、ゆう人が、出してる日本語訳、ゆうんも、ある見たいで、エルサレム文化研究所で、日本訳、出してるらしいの、それを、●に、した。両方、ないんが、×で書いたのだ。)
準備中準備中 (2016.6.30まで)
(リンク、張ったんは、公共図書館サイト、だが、タルムード、検索用本の、タイトル、なんか、他のと、違う図書館、ゆうんも、結構、あって、だから、県立図書館の、サイト、行って、「タルムード」で検索、かければ、たぶんほとんど図書館で、タルムード訳、見るかるはず、ゆう風に、思う。 とくに三貴版は、寄付され図書館しか、持ってないし、たぶん、県立図書館は、全部、寄付されてる、はずやし。。。それと、県立図書館、遠い、ゆう場合も、市立図書館とか、行って、申し込めば、ちょと、届くに時間、かかるが、市立図書館が、他の県立図書館とかに本、借りてくれる相互貸借、ゆうんも、あるのが、普通から、読みたいが読めん、ゆう風に、あきらめる必要、ゆうんは、ない、ゆう風に、思います!)
(魔女の鎚、ゆうサイトの、タルムード全巻一覧、ゆうHP、それも、見つけた!、、ただ、もう残骸しか、残っとらんが、、)
こゆう感じに、なってる見たいだ。6つの巻に、合計、63個の篇、あるが、そのうち、日本訳、出たんが、36篇、だから、おザッパに、見ると、三貴版、57%くらい、翻訳、終わってた、ゆう感じか?
ユダヤ人と貴金属?
エルンスト・ミュラー編訳『ゾーハル カバラーの聖典』(法政大学出版局 http://www.h-up.com/bd/isbn978-4-588-00976-1.html …)いわゆるミュラー版抄訳。それでも邦訳は怪しいメイザース版しかなかったので快挙(あっちの訳者解説は抱腹絶倒で必読だが)。エルンスト・ミュラー(ミュラー,E.)
(Ernst Müller)
1880年11月21日チェコのモラヴィア地方に生まれ、ウィーン大学で哲学の博士号を取得したのち、1907年から3年間パレスチナでギムナジウムの教師。1910年ふたたびウィーンに戻り、ユダヤ人教区の図書館司書職に就く。1938年ナチスの進出によってロンドンに亡命。1954年死去。主な作品にCh. N. ビアリクの抒情詩の翻訳(1911)、カバラー入門『ゾーハルとその教義』(1920)、『ゾーハル』抄訳(1932)、『ユダヤ神秘主義の歴史』(1946)、精神的自画像『わが道ユダヤ教とキリスト教』(1952)がある。
石丸 昭二(イシマル ショウジ)
1940年生まれ。東京大学大学院修士課程修了。ドイツ文学専攻。お茶の水女子大学名誉教授。現在獨協大学特任教授。主な著訳書に『アール・ヌーヴォーのグラフィック』(岩崎美術社)、G.ショーレム『ユダヤ神秘主義』(共訳)、G. R.ホッケ『ヨーロッパの日記』全二巻(共訳)、A.ノーシー『カフカ家の人々』、ハイデン=リンシュ『ヨーロッパのサロン』、G.ショーレム『サバタイ・ツヴィ伝』全二巻(以上、法政大学出版局刊)、E.ブロッホ『希望の原理』全三巻(共訳)、G.ロスト『司書』、U.ハイゼ『亭主』(以上白水社刊)、『独和辞典』(共編著)、『和独辞典』(共編著)(以上郁文堂刊)ほか。
Angeliqua@安眠中 @Ripple1975 2013年6月30日
リガちゃんのあれはコンプリート版とペーパーバック版の二冊ある。付け足すならナイトの『カバラ的象徴の実践ガイド』も面白い。 QT @lanekota: @Ripple1975 そうですかぁ。ゾーハルはまぁ鉄板ですよね。ミュラー訳の23巻セットとか。リガルディのあれは二冊いるみたいで
魔女の鎚 第二撃
終末時代の監視者からの警告
「タルムードを捏造する者たち」
モーリス・コミンスキー
https://web.archive.org/web/20040930104346/http://members.at.infoseek.co.jp/WATCHMAN_ENDTIMES/WATCHMAN_ENDTIMES2.html
タルムード全巻一覧
https://web.archive.org/web/20040527122513/http://members.at.infoseek.co.jp/WATCHMAN_ENDTIMES/talmud.html
参照文献:三好迪翻訳・監修『タルムード─ソーター篇』、株式会社三貴、1995年
後藤明 『世界神話学入門』
地政学入門―外交戦略の政治学 (中公新書)
マンガでわかるナースの統計学 -データの見方から説得力ある発表資料の作成まで-
読書メモ~『ウパデーシャ・サーハスリー』とか仏教思想とか
http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-156.html
道徳教や菜根譚・中庸や大学
四書五経・中国古典・初期仏典と龍樹・クルアーン・ギリシャ哲学・語学書・全部文庫で集めれば一つの本棚で済む
の暗記と解釈論、ギリシャ哲学にタルムードとクルアーンの暗記に解釈論
単純な幾何学と熱力学に化学、天文及び地学
「黄金の夜明け魔術全書 上・下」 国書刊行会
「黄金の夜明け」 江口之隆・亀井勝行 国書刊行会
「英国魔術結社の興亡」 フランシス・キング 国書刊行会
「秘密結社の辞典」 有澤玲 柏書房
フローベールの『紋切型辞典』をめぐって
http://yokato41.blogspot.jp/2013/08/blog-post_9.html
ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ(伊:Giambattista della Porta 、1538年 - 1615年2月4日)は、ルネサンス期のイタリア、ナポリの博学者、医師である。中世の魔術師・錬金術師と近代の科学者との間の存在である。
裕福な家に生まれ、家庭で教育をうけた。1558年に出版された著者『自然魔術』には、実験を重視する近代の科学的方法の萌芽と言うべき多くの記述がある。例えば「カメラ・オブスクラ(画家用のピンホールのある暗室)のピンホールにレンズを用いると、像が鮮明になる」ことなどが記述されていた。ナポリで出版された『自然魔術』(ラテン語)は各国語に翻訳されてベストセラーとなった。1560年には自然科学の最初の学会ともいえるOstiosi(怠け者たちの会:Academia Secretorum Naturaeとも)を自宅に開き、科学実験を行ったが、時の教皇パウルス5世により禁止された。1563年に暗号解読術の著書を、1586年に『観相術』を出版した。文芸の分野でも20ばかりの悲劇・喜劇を創作し、後の人々に影響を与えた。
『ポオ評論集』(岩波文庫)
ポーの代表的な詩論である『某氏への手紙』、『詩作の哲学』、『詩の原理』の3編が収められています。
その他は、ディケンズやホーソーン、フェニモア・クーパーの小説、ロングフェローの詩の批評文など。
ポーの知性が優美な形で示されていて、上質のワインでもすするような感覚で楽しめました。
(もっとも、それは、ひょっとしたらポー自身のというよりも八木敏雄氏の訳文の格調の高さによるものかもしれません)
『詩作の哲学』と『詩の原理』については、すでに昔から創元推理文庫の『ポオ 詩と詩論』に収録されていて、古くからのポーのファンにとってはおなじみの評論文です。
(『詩作の哲学』は、創元推理文庫では『構成の原理』というタイトルです)
『金枝篇』(全5巻)、岩波書店〈岩波文庫〉 改版1967年、重版多数
『初版金枝篇』(上下)、吉川信訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2003年
『金枝篇』(全10巻、別巻1)、神成利男訳・石塚正英監修 国書刊行会 2004年より刊行中、完結時期未定
『図説 金枝篇』 サビーヌ・マコーマック編 東京書籍 1994年/ 講談社学術文庫上下、2011年4月・5月
今度は、八木敏雄氏の訳。
詩の原理を語るといっても、わたしはそれを徹底的に論じようとか、深遠めかして談じようとかいう意図はない。いわゆる詩なるものの本質を、極めて恣意的に論じながら、わたしの審美眼(テイスト)に最も適い、かつわたしの心に最も明確な印象をのこしているイギリスやアメリカの小詩篇をいくつか引用して考察してみようというのが、わたしの主たる目的である。
永橋卓介訳 『金枝篇』、岩波文庫全5巻:簡約本の訳。
神成利男訳、石塚正英監修 『金枝篇‐呪術と宗教の研究』 (国書刊行会、全10巻別巻、2004年から順次刊行、2012年に第6巻を刊行)、第3版13巻本の完訳。
吉川信訳 『初版 金枝篇』(ちくま学芸文庫 全2巻、2003年)
吉岡晶子訳 『図説 金枝篇』(東京書籍→講談社学術文庫 全2巻、2011年)、S・マコーマックが第3版を要約し、挿絵を付けたもの。
アイドルは殺されなければならない『金枝篇』
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2013/09/post-9ee5.html
自分にとっては非常に重要な問題であったこの一人称の訳し方のほかに、八木敏雄氏の訳によって面目をあらたにしたと思えるのは、引用される詩の訳に関してです。
『詩の原理』のなかで、ポーは、現代では忘れられている詩人、特に日本では無名といっていい詩人、の詩をいくつか優れた詩として紹介し、解説しています。
(これは、言い換えれば、『詩の原理』は優れた詩のアンソロジーとして読むことができるということです)
デュルケム『宗教生活の原初形態』
『作家の仕事部屋』ジャン=ルイ・ド・ランビュール/岩崎 力
しかし、今回、八木敏雄氏の訳で読み直してみると、詩としても優れた詩だという感触を確かにつかむことができました。
ということは、ポーの審美眼、選択眼の確かさもまた再認識できたということです。
優れた詩の批評家、鑑賞家としてのポーの名誉が回復されたという思いです。
私にとっては創元推理文庫で最初に読んだときから20年ぶりぐらい? の名誉回復です。
ということで、今回のこの岩波文庫本で、「わたし」という一人称による落ち着いた、格調の高い文章と優れた詩という2つの楽しみを与えられて、充実した読書の時間をすごせました。
批評文と詩のどちらも読むことが好きな人間には『ポオ評論集』はかなりおすすめです。
キケロの弁論について
アリストレてス弁論術
クインティリアヌスの弁論家の教育
ハーフェズ占い」
セビリアのイシドルスについては『語源』第六巻が上智大学中世思想研究所(編訳・監修)『中世思想原典集成5 後期ラテン教父』平凡社1993年、505–565頁に、また(続)上智大学中世思想研究所編訳『中世思想原典集成 5 後期ラテン教父』平凡社、1993年
セビリャのイシドールス(西: San Isidoro de Sevilla、羅: Isidorus Hispalensis、 英語:Saint Isidore of Seville、560年頃 - 636年4月4日)は、中世初期の神学者で、後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の一人であり、カトリックでは「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人[2]。 30年以上セビリャ大司教を務めた。中世のヒスパニア[3]の地域で書かれた後の歴史書はすべて、このイシドールスの歴史を範としていた。
後に編纂された『ハーフェズ詩集』は、東西の文化に影響を与え、ゲーテは晩年、ハーフェズの詩に感銘を受け、『西東詩集』が綴られた。ハーフェズの詩についてゲーテは「ハーフェズの詩を理解するには 魂まで一汗かく必要がある」と語ったという。
恋と酒と自然の美などを主題とした作品が多く、民衆に広く愛され、現代でも「コーランなくとも各家庭にはハーフェズ詩集あり」とまで言われている。また、詩集を用いた「ハーフェズ占い」なるものも存在し、街中でおみくじのように売られていたり、各家庭ではシャベ・ヤルダー(冬至の夜)にこの占いをする。
5. 後期ラテン教父
669pp、ISBN:4-582-73415-4、発行年月:1993.9、本体価格: 6,214円
ボエティウス『ポルフュリウス「イサゴーゲー」註解』 21-168
ボエティウス『三位一体論』 169-194
ボエティウス『エウテュケスとネストリウス駁論』 195-238
ヌルシアのベネディクトゥス『戒律』 239-328
カッシオドルス『綱要』 329-418
ブラガのマルティヌス『田舎者たちへの訓戒』 419-440
グレゴリウス一世『対話』 441-504
セビリャのイシドルス『語源』 505-566
セビリャのイシドルス『著名者列伝』 567-600
トレドのイルデフォンスス『著名者列伝』 601-622
リギュジェのデフェンソル『火花の書』 623-668
クルアーン(コーラン)を全て暗唱する者の称号をハーフィズという。ムハンマド・シャムスッディーンも暗誦者であってハーフィズの号を冠しており、それが『ハーフェズ』というペンネームの由来になっている。
• 「自然魔術」 デッラ・ポルタ 青土者
※抄訳である。
「自然魔術 人体編」 デッラ・ポルタ 青土者
※これは「人相術」の抄訳である。
「魔術と錬金術」 澤井繁男 ちくま文庫ハーフィズ著『ハーフィズ詩集』(東洋文庫 299)(黒柳恒男訳) 東京, 平凡社 , 1976.12 ISBN 4582802990
桑原武夫編訳、『百科全書 序論および代表項目(16篇)』 岩波文庫、初版1971年。1472年にドイツで出版された『語源』
『ビュフォンの博物誌』 荒俣宏監修 ベカエール直美訳 工作舎 1991年 ISBN 4-87502-190-9
ベーコンの学問の進歩における情報伝達の技術の項目が気になる。
。またイシドールスの発意によって、セビリャの聖堂学校に倣う形で、ヒスパニア内のすべての大聖堂に神学校設立を命じる法令が出された。イシドールスはゴート族の野蛮な習慣の広まりを、教育によって食い止めようとしたのである。彼の熱意によって、セビリャでは学芸が盛んになり、この時代の啓蒙運動の中心となった。七自由学科のほかにギリシア語とヘブライ語の学科も設けられ、法学と医学についても関心が寄せられるようになった。すべての司教はこの教会会議で定められた教育の方針を義務づけられた[12]。
死後
イシドールスは最後の偉大なラテン教父であり、古代のキリスト教哲学の掉尾を飾っている。イシドールスは疑う余地無く、この時代で最も教養ある人物であり、中世の教育活動に計り知れない影響を広範囲にわたって及ぼした。イシドールスと同時代人であり、友人であったサラゴサの司教ブラウリオは、イシドールスを、ヒスパニアの高度な古代文明に氾濫した蛮族の野蛮の津波からイベリアの人々を守るために、神によって遣わされた人物であると考えて、653年の第8回トレド教会会議で「驚異の学者、カトリック教会が誇る当代の栄光、最近の時代における最大の教養人であり、常に賞賛とともに呼ばれるイシドールス」[13]と述べた。この賛辞は688年に開かれた第15回トレド教会会議で正式に承認された。
ダンテの『神曲』は、教会の神学者や学者の中で、サン・ヴィクトルのリカルドゥスとベーダと並んで、イシドールスに言及する[14]。
1598年カトリック教会によって聖者として列聖され、1722年には教会博士と宣言された。
カトリック教会では、1999年にインターネットの守護聖人の候補として提案され、2003年に正式に「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人と認定されたが、イタリアでのインターネットを利用した世論調査では、6位にさえ入っていない([1]、Googleによる英語訳:[2])。
SF作家フィリップ・K・ディックの『戦争が終わり、世界の終わりが始まった』[15]に登場する主人公、博識なアマチュア学者ジャック・イシドールはこの聖人にちなんでいる。
パンドラの玉手箱
パンドラの水瓶座の時代
かめとはこ。
残ったものは希望ではなく耶蘇でした。
アランポーの構成の哲学は自作の創作過程を分析したもの
『語源』("Etymologiae")[18]やその他の著作でのイシドールスの簡潔で明快なラテン語は、古典的であるとは言えず、西ゴート族の言葉の影響を受けた俗ラテン語である。これは過渡期の著述家の大部分に見られる特有の欠点であり、またこのことから西ゴート族がヒスパニア社会に顕著な影響を及ぼしたことが判明する。イシドールスはおそらく、ラテン語を母語とする最後の話者の一人である。
『語源』
アラビア人が古代ギリシア哲学の叡智に触れるはるか以前に、イシドールスはアリストテレスを同国人に紹介している。イシドールスはカトリックの同胞のために、一般的な知識を体系的に編纂した最初のキリスト教著述家であり、主著『語源』はまさに百科辞典的な、総合的な内容を持っている[19]。 この全20巻448章にわたる中世最初の百科事典で、イシドールスは古代から彼の時代に至るまでの、聖俗両面にわたる、あらゆる学問体系を集約した。この著作のおかげで多くの古典時代の著作の記述が断片的に散逸を免れた一方、この著作が原著作よりも重んじられることが多かったために、原著作で散逸してしまったものが多いことも事実である。
『語源』に対する高い評価は、百科事典的な著述活動に刺激を与え、中世以降の時代に大きな実を結ぶことになった。この著作は、中世の収集図書の中で最も人気がある概説書[20]で、ルネサンスの時代まで継続した人気を保ち、1470年から1530年の間に10版を重ねるほど印刷され続けた。12世紀にイスラームを経由して再輸入される[21]まで、西ヨーロッパ人にとって、イシドールスはアリストテレスやその他の古代ギリシャの著述の貴重な情報を提供したが、ギリシャの古典全体から見れば、それは限られた一部に過ぎなかった。『語源』は中世の説話集に、好んで引用された。
地球の形状について
イシドールスは『語源』で、地球が球体をしていることを説いている。『語源』での言及の仕方は曖昧であったので、一部の著述家は円盤状と書いてあるのではないかと考えた。しかしイシドールスの他の著作を参照すれば、彼が明らかに地球を球体と考えていたことがわかる。イシドールスは伝説的で証拠がないにもかかわらず、地球の裏側に人が住んでいる可能性を認めていた。 イシドールスの円盤状のアナロジーは中世の地球球体説論者[22]によってしばしば引用された。
レイジングぎゅう @6isnot4 2月19日
「私たちを引き止めているのは聖パウロを恐怖させた律法の耐え難い軛では全然なく、ただの薔薇の生垣である。戒律(ミツヴォート)にしたがう義務はだから私たちにとって宿命的な不幸ではなく、楽園の最初の芳香を運び来るものなのだ、と」(レヴィナス『タルムード四講話』)
歩く人 @hitsujiaruki 1月8日
「他者に食糧を提供するとは食糧に食事の性格を保つことです。決して生きる上での必要最低限を供与することであってはなりません。他者に食糧を提供する時はどんな程度のことであれ、他者の気紛れを満足させることが必要です。そうでなければ全ては崩れ落ちてしまうでしょう。」タルムード新五講話
日本におけるアルメニア語学の権威、佐藤信夫先生。まさかアラム語も守備範囲でいらしたとは。 アッシリア語入門―現代アラム語
中田考 @HASSANKONAKATA 2010年7月8日
@barhebraeus ミルトスの『現代ヘブライ語入門』もそうだったよね?アラム語もそう? :活用に3語根q-t-l を使うのはアラブ文法学の伝統のよう。面白いのはヘブライ語も全く同じ意味の3語根q-t-l (殺)を例に活用を読みながら説明するようです。
蒙古語入門―シリア系文字と文法
山中 元 / 国際語学社 (2006-08) / 1,944円 / 2 users
タグ 県立 ★語学 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 社会・政治 登録日:2016年11月11日 22時18分14秒 2016/11/11
読了: 2016年11月20日
どうしてモンゴル語とシリア系文字がむすびつくんだろうとまずは思うけど、古代メソポタミアの共通言語であったアラム語のエデッサ方言(シリア語)がネストリウス派の布教に用いられ、中央アジアにもたらされた。それがウイグル文字に取り入れられて、それを参考にモンゴル文字が作られたということらしい。(パスパ文字はまた別の文字、ややこしい。)現代ではモンゴルではキリル語表記が主流、中国の内モンゴル自治区ではモンゴル文字も使われているとのこと。
アラム語の入門・学習用リンク集 (Aramaic Language) - 主に言語とシステム開発に関して
http://language-and-engineering.hatenablog.jp/entry/20110129/p1
外国人に出会った時に仲良くなるための,最低限の必須フレーズ集 (どの言語にも当てはまる,基本の初歩会話集のテンプレート)
http://language-and-engineering.hatenablog.jp/entry/20130702/ListOfCommonLanguageBasicPhrases
冒頭の表を,手軽に作成するための雛型を記載しておく。
コピペ用である。
この空欄に,さまざまな言語での用例を当てはめてゆけばよい。
〜語の最初歩のフレーズ集 (対人関係の構築のために)
日本語 | 〜語 |
---|---|
こんにちは | |
ちょっと すみません | |
あなたは 〜語を 話しますか? | |
はい,いいえ | |
お会いできて 嬉しいです (初めまして) | |
私の名前は 〜です | |
私は〜語を 学んでいます | |
私は 日本人です | |
あなたの お名前は? | |
どうぞ書いて 下さい。 | |
〜さん | |
ありがとう | |
私は〜に 住んでます | |
あなたは どちらの 出身ですか | |
どうぞ | |
ごめんなさい | |
さようなら |
∸―
タルムード入門〈1〉 単行本 – 1998/7
A. コーヘン (
タルムード入門〈2〉1998/8
A. コーヘン、 Cohen,Abraham
タルムード入門〈3〉1998/6
A. コーヘン、
ミシュナ〈4別巻〉アヴォート (ユダヤ古典叢書)2010/6
専三, 長窪
タルムード四講話 新装版
エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『タルムード四講話』国文社
ギリシャ語とペルシャ語はインド・ヨーロッパ語族
その割には,ペルシャ文字は,アルファベットがヘブライ文字のアレフベート構成とどことなく類似しており,どうもセム語くさい。
その理由は,ペルシャ文字が語族を超えてアラビア文字から借用されているから
中田考 @HASSANKONAKATA 2016年7月14日
大雑把に言うと、アラム語話者のイエスの律法の教えを保存していたペテロや主の兄弟ヤコブらヘブライニストが主導したエルサレム教団がユダヤ戦争で消滅し、
パウロらヘレニストのアンティオキア教団の律法蔑視の教えが後のキリスト教になったからです https://twitter.com/YUChurch_youth/status/753557666153193473 …
中田考 @HASSANKONAKATA 2010年5月26日
『旧約聖書ヘブライ語独習ー聖書アラム語文法付』神学部図書館で借りてくる。やはりヘブライ語は天国の言語アラビア語が堕落し崩れた言語だとの思える。イスラエルの民がイラク、シリア、シリア、エジプト、パレスチナと移動して言語混交が進んだせいだと説明してもいいけど、それじゃつまんないよね。
中田考 @HASSANKONAKATA 2016年8月13日
全く影響を与えていない、と言っていいと思います。 https://twitter.com/lakudagoya/status/764202382792142848 …
ねこた @lakudagoya 2016年8月13日
@HASSANKONAKATA 私はアラビア語読めないので、一般的な文献にはアリストテレスやプロティノスなどがイスラーム世界で好まれたとありますが、ギリシャの古典の中でもストア学派の文献は(あまり現存がないですが)どう扱われたか非常に気になっていた次第です。わざわざすみません。
@HASSANKONAKATA 専門外なのにすみません。これは別にキリスト教の話ではないのですが、イスラーム世界にはギリシャの古典が取り入れられましまよね? その中でアリストテレスなどが好まれたみたいですが、ストア学派の文献はイスラーム世界にあるのか気になってまして。
著書の中でイスラームは移動の自由を重んじると書いてあったのはもの凄い衝撃で。 カリフ制が求められる意味もわかりました。
@HASSANKONAKATA わざわざご返答頂き感謝します。
あら、そうなんですね。
キリスト教史を調べますと、ストア学派はキリスト教に他大な影響を及ぼしてるのに、イスラームでは記述を見ないので不思議だと思ってました。
朝からお忙しい中感謝です。それでは失礼いたします。
@exa_desty
@japan19890108
@Show_BujuBanton
@DummyLostonline
@asai_hukai
@q_MW_p
『正教会入門 東方キリスト教の歴史・信仰・礼拝』新教出版社 http://www.shinkyo-pb.com/2017/06/21/post-1285.php …
1件の返信 24件のリツイート 39 いいね
金田一輝(俳人)
? @kanedaitsuki
2012年1月12日
むしろドストエフスキーはキリスト教(正教会)入門としてオススメ
0件の返信 3件のリツイート 3 いいね
金田一輝(俳人)
? @kanedaitsuki
2010年10月30日
返信先: @john_godisloveさん
.@john_koiwa 正教会入門書としては、クセジュの『東方正教会』、正教会の霊性については、エンデルレから出ている『修徳の実践』『無名の巡礼者』がお勧めです。
0件の返信 1件のリツイート 1 いいね
天生牙
? @61xx8b7PSPkjSEq
3月8日
広瀬隆「ロシア革命史入門」集英社①
ロシア正教は宗教というより国家を支える大産業のボスとして君臨し、貴族や皇帝にとってなくてはならない存在であった。ロマノフ帝政=ロシア正教制度であったのだ。正教会は共産主義者の革命に断固として立ち向かう集団となって戦いを挑んだのである。その結果は
KANATANI, Joe 金谷 譲
? @BlogJoseph
2月13日
高井寿雄『ギリシア正教入門』教文館1970/1 http://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives/8267 … 1978/10改訂版を読む。ギリシア正教とは言い条、その歴史的な経緯もふまえて内容はロシア正教についてがもっぱらで、著者は、このギリシア正教(会)は「東方教会」全体の総称であって、そのなかにギリシア正教会をはじめ
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
KANATANI, Joe 金谷 譲
? @BlogJoseph
2月13日
承前)ロシア正教会そのほかもふくまれると、途中ながら断り書きを入れている。「第7章 正教の歴史」、178頁。中井木菟麻呂と姉妹のことも簡便ながら出てくる。「第2章 ギリシア正教とは何か」、63-65頁。入門書としての特徴は、典礼の説明が判りやすくかつ丁寧であること、あと当時のロシア正教会は
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
KANATANI, Joe 金谷 譲
? @BlogJoseph
承前)ソ連の国家体制の下にあり、さらには東西の冷戦時期であり、これはその時代に書かれたロシア正教と日本におけるロシア正教の歴史の紹介であること。
2:32 - 2018年2月14日
山本芳久
? @201yos1
2017年5月24日
去年出版された稲垣良典『カトリック入門』(ちくま新書)と、今年出版された深井智朗『プロテスタンティズム』(中公新書)は、それぞれの分野の第一人者が書いたとても優れた新書だ。次に書かれるべきなのは、この両者に更に東方正教会を加えて、キリスト教諸派の思想構造を比較考察する著作だろう。
システマ多摩(参加者募集!
? @SystemaTama
2013年6月12日
正教会についてでしたら、先ず“【ギリシャ正教】講談社学術文庫/高橋保行(神父様)”をお読み下さいm(_ _)m。 RT @ethnoken_toyo: ちょっとびっくりしました。最近キリスト教に興味があって入門書の類をいろいろ読んでいるのですが、みんな言ってることがバラバラで
toriyamayusuke
? @toriyamayusuke
2016年1月5日
クリメント北原史門『正教会の祭と暦』ちょうど読了。高度な神学的議論ではなく普通の正教徒が日々の生活の中で触れること、正教徒なら誰でも知っていることを入口とした正教入門になっていて、百頁ばかりの薄さながら非常に深く広い世界に通じる本という印象を受けました。
ミートボール
? @CaffeineFumine
4月9日
ティモシー・ウェア『正教会入門』まとめ
聖画像破壊論争
第1期:726年?780年
・726年:イコン崇拝公式に禁止される
・754年:イコン破壊の勅令・異端認定
・787年:第七回公会議:イコン崇拝復活
第2期:815年?843年
・815年:教会会議開催:イコン破壊復活
・843年:テオドラ、イコン崇拝復活宣言
0件の返信 1件のリツイート 1 いいね
ミートボール
? @CaffeineFumine
3月23日
ティモシー・ウェア著『正教会入門 東方キリスト教の歴史・信仰・礼拝』を電車の中で3分の1ほど読んだ。今回図書館で借りた本の一つ。これが非常に良い。ギリギリまで悩んだけれど、借りて正解だったと確信した。今まで断片的だった理解がスッキリした。これを使って『キリスト教史』を読もう。
Kota.O
? @ooruri_game
4月20日
イコンに横顔がないってのは驚いたな?
お読みくださり感謝!
« 311以前に出版された原子力系の紙の本の、主に放射性物質対策に役立つ記述集(『放射化学概説』『基礎放射化学』『基礎核化学』『放射化学概論』) | 呼吸という概念ではなく呼吸感覚を意識せよ!ヴィパッサナー瞑想法の名著 『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義』 「西洋の輪廻=バラモン教型」を完全否定するのが仏教型輪廻 »
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