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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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呼吸という概念ではなく呼吸感覚を意識せよ!ヴィパッサナー瞑想法の名著 『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義』 「西洋の輪廻=バラモン教型」を完全否定するのが仏教型輪廻 

今回の翻訳者の著作の記事のメモ↓

ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ!」『だから仏教は面白い!』
『仏教思想のゼロポイント』『阿頼耶識の発見』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-154.html

上記のだから~とゼロ~の著者が翻訳している本↓



のメモの前の

本文(読書メモは実質おまけ)
~「西洋の輪廻=バラモン教型」を完全否定するのが仏教型輪廻など~


瞑想の実践だけでなく、
瞑想の理論と仏教の教義の正確な理解のための座学もやらないと
大きな効果は得られない。
座学と実践の両輪、中道こそが大事。


効率よく正確な知識が得られる学び方についてまず書く。

私はある思想をきちんと学ぶときは複数の学者の翻訳・解説書を必ず読む。
複数の学者の見解を学びそれを比較検討して自分なりの判断を下している人でなければきちんと学んだ人とは言えないし
それはブログ記事のつまみ食いではほぼ不可能だからだ。


本当に仏教を学びたいなら実績ある学者である中村元の本は必読。
中村元先生などの『スッタニパータ』の和訳すら読んだことがないのに釈迦の仏教(原始仏教)なんて正確に語れないし、
大乗仏教を語るなら中村元先生の『龍樹』にある『中論』と解説ぐらいは読んでいないと正確に語れない。
禅に関しては神智学思想で仏教を曲解するの鈴木大拙の本は読んではいけない。
オススメの学研の『禅の本』などを読めば禅は神智学やニューエイジなどを完全否定していることがわかる。
改竄した経典を広めることに協力した、エスペランティストの高楠順次郎がからむ本も読んではいけない。


自分の思想を完全否定する、真逆の思想をきちんと学ばないと偏るので
私はさまざまな思想の本のメモを残している。

思想Aと、Aと真逆の思想をセットで比較しながら学ぶと頭に入りやすい。

実践例として

バラモン教型輪廻=輪廻する本体(不滅の霊魂)あり

仏教型輪廻=輪廻する本体なし


について対比して述べる。

バラモン教型輪廻を採用しているのがオルフェウス教。
オルフェウス教は
死こそ生、
肉体は魂の牢獄(霊肉二元論)、
原罪(戒律を守る修行で解除可能)、
霊魂の不死ゆえに輪廻、
菜食主義など
元ネタがバラモン教。

オルフェウス教はピタゴラスの輪廻思想の元ネタ。

ヤソはオルフェウス教の原罪(解除可能)を解除不可能な内容に改悪。

ヤソの原罪思想も遡ればバラモン教のカルマ論。

グノーシスの至高神との一致の元ネタもバラモン教の梵我一如だろう。

ニューエイジの輪廻もバラモン教型で、
仏教型(本体となる霊魂無し。輪廻とは変化のプロセスであり、無我ゆえに輪廻する)ではない。

仏教をやたらと敵視する思想をさかのぼると、
元祖アンチ仏教であるバラモン教に行きつく。


西洋哲学の基盤であるプラトンもバラモン教型輪廻思想。

”魂は不死であり、すでに何度も生まれてきており(…)
魂が学び知っていないことは何もないのだ。
したがって、徳(アレテー)についても他のさまざまなことについても、
なにしろ魂が『以前にもう』知っていたことなので、
魂がこれらを想起できることには何の不思議もない”
プラトン『メノン』

ヤソ=正統派キリスト教
(新約のゴッドは旧約のヤハウェと同じ派)
は輪廻否定だが、

異端派キリスト教
(ヤハウェは悪だからキリスト教のゴッドではないというグノーシス派など)
には輪廻肯定のものがある理由がよくわかる。

正統と異端の両建にはバラモン教思想がからんでいて、
バラモン教と拝火教とミトラ教
とアトン一神教とユダヤ教の
混合率の違いという見方もできる。


次は仏教型輪廻
(本体となる霊魂無し。
輪廻とは変化のプロセスであり、無我ゆえに輪廻する)。

仏教の立場は要は↓

ねこた

”耶蘇教信者は仏教と耶蘇教は同じなんて、
またまたマニさんみたいな事言っちゃってるけどさ

引用
《西洋思想すべて
「ゴッドや不滅の霊魂など、永遠の不変の超越的なものが実在する」

仏教
「全部、妄想だね」》
これのどこが同じなんだよ教えてくれ

多少詳しくすると


仏教
「至高神は妄想。
よって、至高神との一致も認識(グノーシス)も不可能。

仏法の智慧(般若)は、
空、縁起、
諸行無常、諸法無我、
一切皆苦、涅槃寂静を悟ることで、
認識(グノーシス)などの虚妄なる実体への執着を消滅させ、
平静な心を獲得し解脱するためにある。

不滅の本体は実在しないので本体のあるバラモン教型輪廻は不可能」




ブッダが答えなかった形而上学的命題を「十難無記」などというが、
その中に「霊魂と肉体は同じであるか。別であるか」という命題がある。
グノーシス思想は明確に「霊魂と肉体は別である」という立場に立っている。
これはれっきとした一つの形而上学的立場だ。
仏教の無記とは相容れない事が明白である。




↑の根拠となる、

これらがなければ仏教ではないという、
仏教の教義に必須の四条件
(諸行無常、
一切皆苦、
諸法無我、
涅槃寂静

苦=不満足

無我
=コントロール下にないこと、
不滅の本体(=存在の核)は実在しないこと

無常
=永続的でないこと)


には
(不滅の)霊魂が実在か非実在か不明
霊魂は実在
霊魂は実在しない
などは含まれていない。

原始仏教の釈迦は無記だから当然。
孔子の不語怪力乱神も実質、釈迦の無記。


ヤソも新ヤソも儒教を曲解して叩くことから、
耶蘇にとっても脅威。注意。











KONDOH Michio
‏ @kondohmjp
3月4日
論語に「子不語怪力乱神」とある。孔子は人智を超えた不可解なものについては語らなかった。
「否定」ではなく「語らず」なんだ。
僕はほんとは語れないはずのことを科学者面して語っていないか。自省。




仏教必須要素はわずか漢字十六文字(四字熟語四つ)で終わるのがすごい。


仏教は正統派ヤソも異端派キリスト教も完全否定。

異端派キリスト教は新ヤソ(※)の基盤の一つ。

※新ヤソ
=新キリスト教
=既存のキリスト教を叩いて布教する、一神教的多神教カルトで
国家神道、スピリチュアル、ニューエイジ、
人型限定宇宙人、神智学、大本教、
生長の家=ニューソートなどと定義している。
やっていることはイエスとゴッドと終末論の言い換え。
「不滅の実体=霊魂」思想は絶対維持。

↑バラモン型輪廻の根拠。


輪廻に不滅の霊魂は不要という仏教思想はニューエイジなど新ヤソにとっても脅威だな。

魂が不滅、永続、実体って
寿命がある、現在しか認識できない人間がどうやって確認するの?

確認は、過去・現在・未来を同時に認識できる不滅の永続存在Xじゃないとできないよね?

Xからのお告げを無謬の人間が授かり、
その過ちゼロ人間が伝えたから真実?

その無謬の人すら寿命があり、
今以外を知覚できないから確認できないよね?

つまり、過ちだらけで、寿命があり、今しか感覚できない一般人に確かめる能力なし。
だから不滅とも断定できないし
不滅でないとも断定できないのが人間。

そもそも無謬かどうかをどう判断する?
お告げが単なる妄想でないかどうやって確かめる?


同様に、Xが過去・現在・未来を同時に認識できる不滅の永続存在か確かめるのも不可能。
一神教の聖典を見るに、Xの自称。
だからこそ「信仰」するしかないといえる。

本当に過去・現在・未来を同時に認識できる不滅の永続存在である可能性はもちろんあるが
人間自身が確かめることは不可能。

Xの寿命が5千兆年であり、
5千兆年の期間までなら過去・現在・未来を同時に認識可能(現在の範囲が極めて広いともいえる)だとしても
人間に確かめることは不可能。
人間の寿命と認識力が上記以上になったら可能だが。
このように途方もなく寿命が長いから永遠だと錯覚している可能性もある。

機械+複数人の交代制+世代交代と継承で
ずっと観察していくとしても永遠かどうか確かめるのは不可能。
そもそも観察するためにはそれを認識できる装置がないといけないし、
認識対象自体をもってこれない。

魂が宿っているであろう人間を認識対象にする手があるが、
その人には寿命がある。

論理的推論で永続か断定できないし、
放射性物質の半減期計算みたいに期間推測も不可能(期間=有限だから)。

科学では霊魂の実在も非実在も証明できないことに注意。

そもそも永続、不滅、永遠、絶対存在というものを有限なる人間は
否定神学的手法(「~ではない」で語る)以外では扱えない。

だから私は釈迦の無記と、

孔子の
「不語怪力乱神」
「死後のことは分らない」
「天=道徳以上の価値観なし」

を判断の方針にしている。
あくまで道具として使っている。






菊池
‏ @kikuchi_8
2月10日
ゴッドの如き人格的統一体が世界を創造し維持していると言うなら、その人格的統一体を維持しているものは何なのか?となります。「ゴッドはそれ自体で維持されている」と言うなら、何故世界にも同じ事が言えないのか?となります。「時間を創造した」は「創造」自体が時間的過程なので論理矛盾ですね。







既にできてしまった後から理由を考えるからゴッドの意志を想定してしまうだけ。
発生確率=0%
ではなく「>0%(0%より大きい)」なので
『できるまで現象が継続=試行回数が「できるまでずっと」』
なら実質100%。
これを奇跡的な確率だとしてゴッドの実在に結びつけるのは論点先取の詭弁、因果逆転。



霊魂の実在を仮定するとさらに疑問が大量発生する。

なぜ
①一つの肉体に一つの魂のみだとわかるのか。
②一つの肉体に複数の魂
③魂なし
④一つの魂を複数の肉体で共有
⑤複数の魂を複数の肉体で共有
などの場合は考えないのか。


天台宗の人↓

止観明静アットGeorge_Tom_Yさん

”霊魂が実在すると信じる人は、体感として霊魂を知覚する。
でもそれは記憶が作りあげた幻影だ。

霊魂は実在するとも非存在とも立証することはできない。
あたかもあるが如く知覚することがあるが、
それは自己の内部表現を見ているのであって存在の実証とはならないのである。

説一切有部において輪廻とは魂を前提とした生まれ変わりの思想ではなく、
行為によって生じた作用が影響を残し、
その影響によって次の行為が生まれるという永続的な働きそのものを指す。

すべてはあるがまま、因縁によって生じ滅する。
そこに意味を見出せば輪廻となり、意味から離れると解脱となる。

魂は連続しないが、業が相続する、というのが説一切有部の説です。

仏教では魂の連続としての輪廻を否定する。

科学的に言えば身体の組織・原子レベルでは常に入れ替わっているので、常に輪廻していると言える。

呼吸を意識→雑念→呼吸→雑念→……
呼吸と雑念の間の空白が「空」です。

我々は脳と心を分けて考えますが、脳と心とは一体であり分けることは本来できません。

身体は精神と直結している。神経は脳の出先機関であって脳と離れたものではない。

身体的な事象と精神的な事象は別なものではなく相関的、相互的であり一体である。

スピリチュアリズムに騙されてはいけない。
過去の因縁が強力に働くことを信じるのがスピリチュアリズムの病癖である。
真実は、現在の自分の選択こそが未来を約束する。過去はもう終わったことだ。

内観法は人と人との縁起を憶念するので、有用な瞑想である。
但し過去の自分を軸に想念するならば現状維持の力を強めることになる。
未来の自分を基準にするならば効果が高い。

実際に内観法を刑務所の更生プログラムとして使うケースで、
恣意的に反省させようとするため、
思ったほど成果が上がらないといいます
(岡本茂樹著『反省させると犯罪者になります』新潮新書)。
過去を軸にするからでしょう。

大乗仏教に至り修行者は誓願を立てるようになりました。誓願は未来を軸に想念するものです。”

(輪廻に不滅の霊魂は不要という仏教思想はニューエイジなど新ヤソにとっても脅威だな。

説一切有部は竜樹が否定したのだが、この人は天台宗なのに採用しているが大丈夫なのか?
説明しやすいものを持ってきただけかもしれないが。

魂は不滅でも実体でもないから、
構成要素などが入れ替わって別の魂になると解釈すれば、
前世が実在するという輪廻と矛盾しない。
昔は醤油だったが今は味噌みたいな感じ?)


シーア派、十二イマーム派(イランの国教)の人もスピを完全否定。
スピは新ヤソだから当然イスラームは否定する↓

”蟹ぢから溢れる🦀💪@onesyotasekai
うーんとね、形而上なる存在が確定させる日というのは全てが起きる日قيام ギアームで その時に何が起こるかというのは分かっていて、こーいう現象が起きてそれが全てが確定する日とされているのね
だから、それが起こるまでは如何なる存在もバルザフبرزخ という 場所にとどまる事になっている

バルザフというのは待機場所と思ってくれればいいのだけど、大体はどっちに行くか、それとも彷徨うのか分かっているのね
んで、その起こる日によってすべてが確定されてどっちに行くか、それとも何処にも行けないのかがわかるのよ
だから、形而上の裁きというのは死後に確定するというわけでもないの

取り敢えず、起こる日が来ないとわからないというのが答えでその起こる日がいつ来るかもわからないの
だから、この宇宙が消滅しても起こる日が来ないかもしれないし、この書き込んだすぐにくるかもしれない
それがギアームなの
但し、わかっているのはどういう現象が起きるのか?たったそれだけなの

精神世界?アヒャヒャヒャ
精神世界何てものは肉体から離れ無ければならないのだけど、それって完全に死んでいる状態が精神世界って事だよ
それに精神世界があるなら、肉体世界が無ければならないのだけど、この肉体世界では精神が分離されて存在しているわけではないでしょ?
その時点でオチてるの

だから、所謂心身二元論を取る宗教では精神が主で肉体が従として、従なるものは主の仮の存在であると定義されやすいの
でも、本来は相互作用しているわけでどちらかがというわけでもないのよ
だから、形而上は道徳や規範を与えて従が欲するところを主で抑えよと規定されたわけなのよ

例えば、肉体から離れた世界が精神世界ならばそれはバルザフに行った存在なわけでその存在は帰って来ていないわけだから、精神世界はあるだろうけどそれは肉体世界の人間が語れるものではないというのを想像する事が容易くできる筈なわけでそんな想像も出来ない奴が言う精神世界って何?猿のオナニー?

当然、バルザフという世界はこの実・肉体世界と平行的な世界であってそれは起こる日が来ると再度肉体世界に戻す為に置かれている世界なの
だから、肉体世界・精神世界というのは別々ではなくて平行に存在していないとおかしいわけで当然の事ながらイスラームは完璧なのでちゃんと矛盾なくあるわけ

そもそも、イスラームにおける啓示者というのはもう出てくるわけがないのだから、超越する存在なんて出てくるわけがないというところからあるわけ
どんなに聖者だとか、敬虔なとか言われようともそれはあくまでも人間の一属性であるわけでそれは超越とかそんなものでは全くないわけ

本当にスピというのは宗教を学んでいるものからしてみると余りにも杜撰でよくこんな杜撰なものを信じられるなという代物なのよ
典型的な一般人が専門家からとか学ばずに最もらしいことを言いたいが為に背伸びしたい連中向けに出来ているのだろうね
本当にしょーもない、子供でも騙されない代物だ

神秘というものはある・ないというのではなく、ただ単にそれを前提に語るべきではないというものであって
先ずは人間の考えられる論理や弁理を解いた上で存在されるとされているものであって、前も言った通り表現されるものは神秘ですらない
表現されるものは神秘ではなく、あくまでも表現の一片である


えげつない言い方をすれば、書かれているもの・言葉にされているもの・人間が表現しているものには神秘なんぞ一片たりともない
あくまでも神秘っぽい表現でしかないのである
それが解れば神秘というものに辿りつくなんて言うものは常人には全く不能であるというのがわかるのだが…詐欺師が多いからねぇ


皮肉ではないが神秘というものは表現されえない・表現できない・人間の表現力では表現しきれないものというのが神秘だとすると「霊的世界」と表現を使った時にそれに類推される神秘は殺されて、一表現にふされる
なので、共有化された表現・言葉の元には神秘なぞないという事に気づかないのが不思議


おいさんは顕教側の人間なので顕教の認識を増やしていく・人間の表現下に行くことが聖智していく事なのでそれが未だされていない範囲が神秘だと言う事が見えている
なので、神秘というのは顕教の限界を見えていないものが語りうる事はないというのが大前提なので神秘やりたければ顕教を網羅する事ね



なのでおいさんからしてみれば、神秘主義やりたければ顕教を理解するのが早道でそこで表現しきれていない部分を探す方が手っ取り早いと思うのね
実際、イスラームの神秘主義は顕教が明らかにされていなかったところを探してきた背景があるから、それをやればいいのよ
何時も答えは前進者にあるんだから


おいさんが神とか、全知全能という言葉を徹底的に避けているのは典型的な表現されていると思い込みやすい言葉だからで危険だからなんよ
寧ろ、そー表現する事自体が間違いという事に気付いて行くのだけど、それに気づかない神学者がいたらゴミでただの表現を知っているだけのバカなのでポイで良い”

(以上は
ぐだトマト
‏ @pteras14
4月13日

哲学理論はインド以東のアジア圏の
方が高度で洗練されてるけど、
宿命論に関してはイスラーム神学の
終末論の考え方の方が好きだ。

イスラームでは「神でさえその人の
一生が終わるまで何のジャッジも
しない」という価値観。

イスラームの方が希望に溢れてる
でしょ?


へのエアリプかつ、
Yと、この吠が遠吠えした対象である私、菊池さん、Uさんへのエアリプ。

兄貴は1月21日
”存在としての何かなる存在を制限ある存在がその無制限なる存在を認知することはありえない
だから、気付き・感じると言った場合は先ずそれはあり得ない事、
制限ある存在が無制限なる存在を認識する事はないという原則に反しているので出鱈目
で、こーいう単純な事もわからないカルト大国日本”


でスピを完全否定している)






以上を理解したうえで仏教の瞑想をすると非常に効果が高まる。

では以下のメモなどで上座部仏教の輪廻や霊魂観や認識論を学びつつ、
気づきの瞑想を実践してみてください。

実質本記事はここまでで、
以下の読書メモは実質参考資料。





『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義』
ウ・ジョーティカ (著), 魚川 祐司 (翻訳)
メモ


※本書は上座部系なので本書の見解が他の仏教諸派でも同じ保証はないので注意!

・内的な徳性を本当に育もうとするのであれば
そこに近道はありません。王道はないのです。



アメリカには瞑想コースの広告があって、
三日で悟れるとか、
千ドル支払えば悟りにかかるのは三日だけだとか、
そんなことを言ってます……。
そんな近道は存在しませんよ。
悟りを買うことはできません。
あなたは内的な徳性をゆっくりと育み、
自分自身に関する全ての良いことと悪いこととを、
ゆっくりととても深く、理解していかなければならないのです。

(”悟りを買う”ってすごいな。
拝金主義、資本主義に完全に洗脳されないと出てきそうにない発想だ)


何か悪いものを自身のうちに見た時でも、
それに対してはとてもオープンで、
想いやりある態度でいなくてはなりません。
受容的な態度でもって、
あなたはそれを、個人に属さないものとして見る。
全ての欲望、怒り、欲求不満、プライド、嫉妬を、
自然なものとして見るのです。
そうした思いに罪悪感を抱いたら、
あなたはまた自我を強化していることになります。
欲望や羨望、嫉妬やプライドを自然なものとして見ることができたならば、
その観察する心は平静を保っていることになります。
それは動揺していない。
心の状態のせいで、
幸福にも不幸にもなっていないのです。

気づきと平静をもって観察することができれば
いかなるものが現れて乗っ取りを試みようと
自我が煩悩の餌食になることはありません。
煩悩は攻撃されることを恐れはしない。
あなたはどれだけ煩悩を攻撃してみたところで
彼らが敗北することはない。
むしろそれは煩悩をより強くさえするのです。

欲望や怒り、
欲求不満や羨望、
嫉妬やプライドといった煩悩は、
真っ直ぐに見られること、
平静に見られること、
智慧とともに見られること、
何か自然なものとして
存在ではなく、
私ではなく、
私のものではなく、
私自身ではないものとして見られることを恐れます。
私たちは常に正しいことを行いつつ、
いついかなる時でもマインドフルでいなくてはなりません。

(攻撃すると強く意識することになるから煩悩は強くなってしまう。


ニー仏
‏ @neetbuddhist
教養主義の衰退のもう一つの帰結は、
「お気持ちこそが個性であり、それに従うことが自由である」という観念の無自覚な蔓延だと思いますね。
私はお気持ちに逆らい得ることが人間の自由の本質だと思いますし、liberal artsとはそのためにあるものだと思いますが、残念ながら多くの人がそのことを忘れた。

仏教用語を使って言えば、識が我でないのと同じくらい、お気持ちはあなたではないのだけど、
そのことがわかるためには、お気持ち以外のものを知らなければならない。
もしそれ以外のものを知らなければ、それはお気持ちこそが己であると感じ、それに執著してしまう結果になるのも致し方ないですからね。


(その日の天気や体調でころころ変わるお気持ちなんて個性ではありえない。
しかも個性と思いこまれているものの大半は単なる習慣で、
その習慣は他者の強制がきっかけで始まったものがほとんど。
自我とか私というものの正体は他人が埋め込んだ、
他人にとって都合がいい欲望では?)



プラユキ・ナラテボー(公式)
@phrayuki
ブッダが説く「無我」の定義は、
「①無我なるものは私ではない。
②私のものでもない。
③私の本質でもない」である。①と②はわかりやすい。
③については、例えば、「実は私って人を愛せない人間のように思う」とかいう話法に現れる。
本質云々ではなく、ただそのときの気分がそういう気にならないだけだ


仲村渠楽器店
‏ @nacandacalli
バガヴァッド・ヴァーヒニーにも書いてある「自分の意志で動いているつもりだったのか」と
慈永祐士
@jiei_yushi
人間なんてみんなからくり人形やと、葉隠という本にもちゃんと書いてある。


養豚亭ナタ駆使善次郎
‏ @net_ksons
日本は観光で来るにはいいけど働きに来ちゃあかんで 住むのはもっとアカン

慈永祐士
‏ @jiei_yushi
日本は機械化人の住むところなんや。生身の身体を持つ者が憧れて辿り着いても、ネジにされてしまうんや。

日本人はみな規律正しいっていうやろ。アレはみんな機械かされとるからなんや。

人間なんてみんなからくり人形やと、葉隠という本にもちゃんと書いてある。)


・最初に知ることは、自分が呼吸していることです。

自分が呼吸していることを知るたびに、
それをきっかけとして、
心をこの現在の瞬間に引き戻すことができます。

次のステップは、
息を吸ったら息を吸っていると知り、
息を吐いたら息を吐いていると知ること。

その次は、
呼気と吸気をともに知ることである。

その次のステップですが、
息を吸うときに、ゆっくりと吸えば三、四秒かかります。
吐くときでさらに二、三秒。
そのあいだにも心は何度もどこかに行ってしまうことがあり得ます。
五回マインドフルになれるように、
吸う息を五つの部分に分割してもいいのです。
吐いているときも同じ。

この方法論では誤解がある。
息を吸って吐いたときに一と数えるのではない。
また、吸って吐いたときに二と数えるのではない。
何回呼吸したのか数えるのではない。
数えるのが目的ではなく、
心がどこかに行かないように、
呼吸によりしっかりと気づいているのが目的。

最低五回は数えるが、
最大十回を越えてはいけない。
十回以上になると非常に早く数えることになり落ち着けないから。
数は問題ではなく、数える目的を理解しておく。
目的は心を呼吸へと何度も繰り返し留めること。
決めた数に到達しようとしてはいけない。
数え終わるために数える速さを変えてはいけない。
自然に、同じテンポで数える。

心を留めるのだが、
心を概念ではなく、感覚に留める。
呼吸とは実のところ概念であり観念。
パーリ語ではパンニャッティと呼ぶ。

ほとんどの瞑想者が心をパンニャッティ(施設 せせつ 概念)に留めておくことを習い性にしている。
パラマッタに心を留めないといけない。


翻訳ではパンニャッティは概念、conceptであるとされる。
概念をどう理解するか?
語、wordとか、
名称、nameとか、
パンニャッティの意味をいろいろ探ったが、
ぴったりの英訳が見つからない。
ニャーナウィスッディ長老は
指示、designationという語を提案された。

名称はパンニャッティ(施設 せせつ 概念)。
どんな名称もパンニャッティ(施設 せせつ 概念)。
入る/出るという方向もパンニャッティ(施設 せせつ 概念)。
何かを空気と呼んだなら、その名称もパンニャッティ(施設 せせつ 概念)。
あなたが空気と呼ぶものは、多くの要素が組み合わさったものなのだから。

複数のものを一緒にして、
名前を与え、それを一つと理解したら、
あなたが理解しているのはパンニャッティ(施設 せせつ 概念)であり、
本当のパラマッタ(勝義・真実)ではない。

息を吸うとき、その方向は重要ではない。
それに名前を付けることは重要ではない。
それらはともにパンニャッティ(施設 せせつ 概念)だからだ。
パラマッタ(勝義・真実)とはあなたが直接に感じているもの。
息を吸うときに何を感じているか?
その感じはどこで起こっているか?
感覚こそが現実なのだ!

最初は、息を吸いながら1から5まで数える。
吐きながらも同様。
数えるのは短い時間だけやる。
数えることさえも、別の形の
パンニャッティ(施設 せせつ 概念)
であって、
パラマッタ(勝義・真実)
ではない。
数を使うときは、
呼吸にもっと持続的に気づけるように、
それを小部分に分割している。
これが最も重要。
そのあいだにいささかの懸隔もなく、
呼吸に気づき続けること。
方法論の目的を理解すれば他のことにはこだわらずに、ただ実行することができる。

空気が入って出ていくとき、
心もそれが触れているところに留める。
そこに持続的に、間断なく留める。
全力をつくす!

最初のうちだけは、
数を数えるか、
あるいは吸う、吐くと唱えることを試してみましょう。
しかし、しばらくしたら言葉を手放し、
数えることも手放して、
何らの観念も挟まずに、
ただ呼吸とともにあるよう努めてください。


一定レベルの集中を育てると、
あなたは呼吸の変化する性質に気がつくようになる。
私が言っているのは感覚のこと。
呼吸と呼ばれているもの
パンニャッティですからね。
私たちが直接に知るものは感覚です。
自分がとらえているものが感覚であるのかどうか、チェックして見て取るようにしてください。
あなたの心はどこにありますか?
あなたは何を考えていますか?

このことについて疑問があれば、質問して理解をはっきりさせておくことが大切。

瞑想には二つの部門がある。
第一の部門は、心を散動させないために、
それを落ち着かせ、
集中力(禅定)を育てること。
思考を静めて、
心を一つの対象に留めること。
これが最初の目的。

第二は、より重要だが、
物事のありようを理解すること。
それを現実と呼ぼうと何と呼ぼうとかまわないが、
とにかく、物事のありようを理解すること。
感覚、思考、感じ……
物事を、それがあるがままに、理解すること。

パンニャッティ(指示、概念)に心を留めていたら、
心を落ち着かせ、安らぎで満たし、
集中させることはできるだろうが、
ナーマ(精神的要素)をナーマと、
ルーパ(物質的要素)をルーパと、見て取ることはできないだろう。
この場合、私たちはナーマとルーパの本性にふれようとしているのではなくて、
ただパンニャッティ、「指示」に心を留めているだけ。
形やサイズ、小さいとか大きい、東西南北、月曜日、火曜日、水曜日とかは
全てパンニャッティ、ただの名称。

瞑想し、心をあなたが本当に直接的に
経験しているものに留めれば、
それらは全て消失します。

時々は、自分がどこに座っていて、
東を向いているのか
西を向いているのかもわからなくなることがあるだろう。
そうしたことを、もう認識しない。
時々は自分が誰だかもわからなくなる。
というのも、自分が誰かということは、
あなたが自分の心に創りだした、もう一つの観念だから。
しかしここに至るためには無我(anatta)について、深く洞察する必要がある。
心がこの無我の智慧を得た時には、
あなたは自分の名前すらわからなくなることがあるでしょう。


呼吸の長短について。
大切なのは心をその言葉に
留めることではない。
大切なのは、呼吸が長い時に、
あなたがその全体を
始めから終わりまで認識していること。

心を、振れている感覚に、呼気と吸気が触れている場所に留める。
長短を認識するのは最初の段階においてだけ。
ただ自分が息を吸っており、息を吐いていると認識するのは最初の段階。

ただ自分が長く息を吸っており、長く吐いていると認識するのは次の段階。
または短く吸っており、短く吐いている。
しかし、その後には長短という概念は手放して、
ただ持続的に、始めから終わりまで、呼吸ととともにあるようにする。

数えるのは十を越えてはいけない。
あるぴったりの数まで数えようとしてはいけない。
数がいくつかは重要ではない。
大切なのは心がそこにあること。
一定レベルの集中に至ったら、数えることは手放して、
それで心がそこに留まることができるかチェック。
私たちにはやたらと考えてしまう癖があって、
そして思考は非常に素早く、そして簡単に生じる。

長い息を吸った時に、
私たちは吸い込んだことには気づくだろう。
最初は一、二、三と数えるものの、
それ以降の数字については忘れてしまう。
忘れて、何か別のことを考えてしまう。
注意を逸らさないために
心を繰り返し引き戻し、呼吸に留めるのが、数える目的。
それができたら数を手放す。

数えずに呼吸に留まることができるならもうそれ以上は数えない。
数えることが後には別の障害になるから。
数字ではなく、身体感覚を理解する。

(イメージをしてはいけない瞑想法。
自分の呼吸音を聴いたらいいのでは?
呼吸という概念ではなく、
呼吸感覚を意識せよ!


慈永祐士 @jiei_yushi

初期の経典で、ニッバーナへの道を示す経典といわれる大念処経ではまず
(1)息を観よう、
(2)姿勢をちゃんとしよう、
(3)心を観ようという段階になっていて、ダンマどうのという話は最後
に来るのである。
にもかかわらず、現代ではそれらをすっ飛ばしてああでもないこうでもないという議論が喧しい。

「生きているだけで褒めてくれる??」というボット、検索したらけっこうあるようだが、あそこで言われるように、人間乃至生き物はちゃんと息をしているだけで大したものだが、東洋の宗教はほとんどその「ちゃんと息をする」が原点となっており、そうだとすれば、そこがおろそかな宗論はすべて愚問。

東洋の多くの宗教が異口同音に言うのは、「まずちゃんと息をしろ」ということなのであって、息をちゃんとしているなら、それはやっぱり偉い。褒められるべきなのである。

ちゃんと息をするということは、生き物としての努めを立派に果たすということであって、これは宗教の原点ですらある。信じる信じないは、また別の次元である。



慈永祐士さんがふじぽんぽんをリツイートしました

そうかもしれませんね。吸う息・吐く息の「空気」自体には生も死もありませんから、
生と死の境目に立ち会うことでもあるかもしれませんね。

慈永祐士さんが追加
ふじぽんぽん
@hirofujiponpon
返信先: @jiei_yushiさん
数息観って息することの確認で生きていることを実感するってことですかね。

慈永祐士
@jiei_yushi
よく、◯◯の教えはこうで、一方の△△の教えはこうだというのがあり、
「テーラワーダは」「大乗は」というのが個人的によく耳が捉え、禅でもそういうのがよくある。
ときにいさかいのように響くが、多くほとんどどうでもよい。
死んでしまえばそれも生きている間の夢にすぎない。

名づけ=指示する概念で思考を縛る呪術があるが
思考「しない」モードになることも妨害する。
自分自身を呪う名づけに注意。
名前はラベルであり、
貼られたものそれ実体、ありのままではない。
原文を読まずに翻訳だけを読んでいるのに、
翻訳こそが原文だと錯覚している感じ↓


☆かおりのすけ☆
‏ @kaorinosuke
2017年7月17日
次々現われる変な雲に名前を付けてしまえば、皆思考停止。)


・瞑想は一種の明け渡し。
自分自身の操縦桿を握り続けることを無意識にやってしまうのが問題。
無意識的に心理的な分裂の脅威から身を守ってしまう。
この心理的な分裂とは無我、自我がないことを意味する。
統合は自分が誰かという観念を有していること。

自我はなく、コントロールも存在しない。
ただ物質的と精神的のプロセスがあるだけ。
コントロールしようとした瞬間に、あなたはそこから抜け出てしまう。
瞑想から抜け出してしまう。
瞑想とは、一種の明け渡し。

抵抗せず、コントロールせず、
ただ手放して、巻き込まれない観察者でいなさい。

コントロールを失いつつあるとわかった瞬間、
「私は存在する」と感じられなくなった瞬間に、
湧き上がってくるある種の不安を、私たちは感じる。
が、これは全ての人に起こることではなく、
一部の人にだけ、それは本当に起こる。

(私視点を意識的になくせるように訓練)

自信と勇気を育てるために、
五戒を実修し、守る必要がある。
五戒を守っていれば、あなたの恐れは少なくなる。
自分が親切で、有徳だと信じていれば、
そのことがあなたにたくさんの力と勇気を与える。

メッター(慈愛の念)も育てること。


・瞑想する前に行う決意

深いサーマディに入る前に、
座ってあなたのよい徳性についてよくよく思いを致してください。
メッターを育て、ブッダの徳性について思いを致し、
それから自分自身に、
「私はこれから深い実践に入っていくが、
もし本当の危険がせまったら、私は目覚める」と告げること。

住んでいる場所によっては、
私たちはこれをやらなくてはならず、
危険に備えるためだけではなく、
一定の時間でサマーディから出ようと望むなら、
そうすることもできる。
瞑想前に、
「私は二時間座って、その後目覚めよう」とあなたは言う。
深いサマーディに入って瞑想し、
時間が来ると、あなたはすでに目覚めている。
時計を見ると、まさにその時間。一分か二分前後するだけ。

これは眠る前に
「四、五時間の後、目覚めよう」と告げると、
決意した時間に目覚めるだろう。

同じこと、本当の危険がやってきたら、することができる。
「私は目覚めて、自分のなすべきことを知ろう」。


(きちんと狂人にならないために元に戻す安全装置を書いている)


・ウィパッサナーの対象は端的な直接経験

パラマッタは精神的・物質的なプロセスの
固有の性質(特性)。
あなたは性質(特性)を越えては、何も知ることができない。

何かに触れたとき、暖かいとか柔らかいとかの性質(特性)を感じる。
振動や動きも性質。
しかし、足に触れることはできない。
足とはあなたが心の中で組み上げたものだから。
あなたは足の性質を言うことができない。
実際、あなたは足に触れることさえできない。
最初はこれを理解するのがとても難しい。
「ほら私の足に触ったぞ!」。
しかし、あなたはどうやってそれが足であることを知るのか?
それはあなたがたくさんの観念を組み合わせているから。

あなたが目を閉じて、何かに触ってもそれが何だか言えないし、
その形を言えない。
接触したときにだけはその形を言うことができる。
それは平らな表面だ……。
しかし、ボールの形を言うことはできない。
ボールの形を言えるのは観念を組み合わせているから。
あるいは、ボールに触れて、
「私はこの形を知っている。丸いボールだ。中は空洞。厚さはだいたい一センチくらい……」
と言うこともできるのは、
たくさんのデータを組み合わせているから。
しかし、もしたった一つだけのデータを取り上げたとしたら、
あなたは何も言うことができない。
言えるのは性質だけ。

(空の説明だと思った)

瞑想ではこのシンプルで純粋な感覚へ、
何もつけ加えられていない感覚へと下りていく。


・変わらない対象への集中がサマーディ
没頭してしまうこと。

私たちは常に現実に触れているが、
その現実を概念に変えてしまう。
現実を概念に変換しつづけている。

音は現実だが、言葉と意味は私たちが作り出したもの。
それは有用であり、無用ではない。


アーナーパーナ(鼻孔の息に集中する瞑想)


あなたは運動を見ることすらできない。
運動は触覚の領域に属するもので、
視覚の領域に属するものではない。

コンピューターのスクリーンでプログラムが動いていて、
小さな点が一瞬光って消失しているとする。
その点のすぐ近くに別の点が光る。
その連続がとても早く起こる。
あなたは点が動いているのを見る。
実際は、点の運動ではない。
運動を見ることはできない。
見ることができるのは、何かが現れ、消え、
別のものが別の場所に現れて、消える。

炎は常に燃焼しながら消失しつつあるもの。
何らかのものが持続性を与えていて、燃えて続けている。
この無常の認識に、より親しんでいくよう努めてください。

(見ることができるのは「一瞬一瞬の静止画=運動ではない」であり、
複数の静止画を脳内で組み合わせて「運動」を認識しているってこと?)


「あらゆる条件付けられた現象は常に新しい。
ちょうど灯火の炎のように」
古いものは何もない。

古いというのは、同じものであるということ。
同じものというのは存在しない。
「君は二度同じ川に入ることはできない」
という哲学の言葉があるが、
私としては、
「君は同じ川に入ることは一度もできない」と言いたい。
川の観念もあなたが心の中で組み上げたもので、
人の観念もまたあなたが組み上げたもの。
常に変化し続けている。


瞑想で思考と分析が起ったら、ただ観察して「思考」とただ言うようにする。
思考のひらめきが心に入ってくるのを注視する。
よく見ることができるほどに、よく手放すことができる。
名づけのひらめきは徐々にゆっくりゆっくり去っていき、
そうして一切の言葉が、あなたの心には浮かばなくなる。
あなたは存在するものに直接ふれていることができ、
概念化せずに理解することができる。


気づきは鏡のようなもの
気づきはただそこにある。
まるで大きな鏡のようにその前を通り過ぎるものは全て、
鏡の中に映し出される。
鏡が対象をとらえようとするのではない。


著者は心理学や哲学や比較宗教学の本を読むのが好きで、
そうすることで考えすぎるようになってしまった。
ときどきは座っていながらダンマに関する文章を書いていたものだ。
先生に「書いてはいけない、瞑想の記録すら作ってはいけない」と言われた。
というのも、記録を残そうとすると、
瞑想するときに「これは素晴らしい、書き留めておくようにしよう」と考えてしまうだろうから。

自分の洞察すら手放さないといけない。
自分の理解に執着する。

・痛みへの対処法
ずっと座っていることによる痛みに耐えきれなくなった時には耐える必要はない。
姿勢を変えること。
姿勢を変えるときにはとてもマインドフルにそうすること。
ゆっくり動き、痛みが小さくなっていくのを感じる。
痛みの変化と減少に気づかないまま姿勢を直ちに突然変えてはならない。
マインドフルでない、認知のすきまを作らない。

痛みを感じているときは、
その痛みとともにいることができるかぎり、それに耐える。
心がどのように反応するか観察する。
これはとても大切な学びのプロセス。

痛みを感じたときには、
痛みについて考えず、
痛みという言葉すら使わずに、それに注意を向ける。
痛みという言葉を使うときには、
それを痛みと解釈しているのでもっと痛くなってしまう。

(スパイが拷問に耐えるために、痛みを感じている自分を客観視するという技術がある)


・立つ瞑想から歩く瞑想へ
できるだけ長く立ち、それから歩く。
手を手すりやテーブルに置いてバランスをとってもいい。

動くときはとてもゆっくり動き、感覚、緊張を観察。
形ではなくその感じにふれる。
しばらくすると気づきの対象は形でも名称でもなく、
動いているあいだの感覚になる。


歩行瞑想の強いサマーディ
ピーティ(喜)の訳の一つは興味。
強い興味をもつように。
深い興味をもって歩く。
歩く瞑想で得られるサマーディは
座っているサマーディよりずっと強い。


「したいという欲望」の観察
姿勢を変えるとき、聞くとき、見るときに、
そのプロセス全体に可能なかぎり、
考えることなくふれるようにする。
そのプロセスの中に意志があり、決意があり、願望があり、
心に立ち上がる欲望があり、動きたいという欲望があり、
見たいという欲望があり、聞きたいという欲望があり、
飲みたいという欲望があることに、あなたは気づくだろう。
かゆくなったら、そのかきたい欲望を観察する。
手のエネルギーの変化を感じる。
心のイメージの中で手が動いているのがあなたには見える。
しかし現実の手はまだ動いていない。
ゆっくり動き、かき、ゆっくり手を戻し、瞑想を続ける。

(これって蚊とか多い地域用に仏典に書いているの?)


・心は意図し、身体に方向、指示を与える。
心が意図して、身体が食べる。

心と身体が食べているのであって、
「私」が食べているのではない。
ただ心と身体のプロセスが食べているだけ。

プロセスとして理解できれば、
あなたはこの見清浄を得たことになる。

存在者を真実のものとして見る現実は、世俗諦(日常的現実)という。
世俗諦においては、存在者があり、男があり、女がある。
パラマッタ(勝義・真実)が問題になると、世俗諦を乗り越えて、ただ性質だけを注視する。

ただ自然の固有な性質を見ることで、
プロセスを何か自我や「私」という誤った見解を、
あるいは魂、存在者、実体という、誤った見解を除くこと。
魂の存在を信じる、この誤った見解を除くことが、見清浄であると理解されるべき。
人がこの名色分離智という洞察智に至ったとき、
その洞察智を得た状態が見清浄であり、第一の洞察智とともにやって来る。

(この魂とはおそらく「不滅の、実体の、輪廻の核となる」バラモン教型の魂のことだろう。

上座部では魂も無常なものだろう。
上座部では無常な魂も実在しないと考えるかは不明。
実在するとも非実在とも断定しないし思想かもしれない。
魂の定義が知りたい。「私」や「自我」と同じものと考えているかも)


私が音を聞いているの私が瞑想で消え、ただ聞いている意識があるだけ。
この意識がたったいま、音のゆえに生じているのであって、
「私」が聞いているのではないと、観察する。


(意識は私ではないらしい)

私は以前に存在しただろうか?
というのは誤った質問。
私は再び存在するか?
も誤った質問。
阿羅漢には死後なにが起こるかときく人もいる。
ひとりの人格の観念を伴って質問しているなら誤った質問。
「私」のようなものはなく存在するのはプロセス。
名称と観念を取り除き単なるプロセスとして見たならば、
たったいまそれらが生成消滅しつつ存在していたのだということがあなたにはわかるだろう。
現在を完全に理解することは過去と未来に関する疑いを根絶する。
そうすることで、
誰がこれを創ったのか?
という疑いも根絶される。
それはただ前触れもなく、理由も原因もなく起こっているのか、
それともそれを起させている誰かが存在するのか?
これもまたきれいさっぱり解決されてしまう問い。
誰もそれを創ってはいないことを知る。
ただ自然の原因と自然の結果であるだけ。



・再生rebirthは
転生reincarnation
と大きく異なる。
転生が意味するのは何か恒常的な実体が新しい身体をもつこと。
つまり魂が新しい身体に入っていくこと。

新しい身体に入っていく魂は存在しない。
存在するのは意識だけ。
精神的なプロセスと物質的なプロセスだけ。



「私」で煩悩を後押ししないこと。

好悪は心の解釈、過去の条件付け。
記憶が好悪を生じさせる。
条件づけをし直すことも可能。



・p.263
全て条件づけられた現象は無常であることは一つの無常を観察すれば確信できる。
すべてのサンカーラ(条件付けられた現象、行 ぎょう)を見に行く必要はない。


硬い中心核は存在しない
恒常的な自我や、
魂の実体は全く存在しないことを非常に明らかに観察できる。
全ては常に変化している。

内側に硬い中心核、芯、本質、永続する何ものかは存在しない。
無我にはたくさんの意味がある。



・パラマッタ(勝義・真実)はその固有の性質、特性を失ったり変化させたりしない。
熱さが冷たさに変わるのは不可能。
熱さは生ずると熱さとして消滅する。
一つのものとして生じながら、
別のものへと変化できない。
別のものが生じたときそれは新しいもの。
全て条件づけられたものは常に新しい。
固有の特性を失うことなく生成し消滅する。

苦(ドゥッカ、不満足)
無我(アナッタ、コントロール下にないこと)
無常(アニッチャ、永続的でないこと)

ブッダの教えでは物体などというものは存在しない、プロセスのみ。

・時間の伸縮
時間は非現実的なものになる。
時間が消えることもある。

非常に明るい光を経験することがあるがこれは高度に心が集中しているサイン。


・阿羅漢はもう夢を見ない。


涅槃は場所ではない。
涅槃が根絶するのは煩悩の潜勢力(潜在的な可能性)。
涅槃は無ではない。
涅槃は無時間的で時間を超えたもので時間領域に存在しない。


自分なくしを達成した境地は無時間らしい、
つまり時間概念支配からの完全開放。
自分なくしの完全達成は困難だが、
我執弱めはしておくべき。
自分探しカルトの自分とは我執、
またはカルトに都合よく定義された欲望。


プラユキ・ナラテボー(公式)
@phrayuki
4月16日
プラユキ・ナラテボー(公式)さんがウ・ジョーティカbotをリツイートしました

「『欲しい』と自分自身を同一視せずにプロセスとして、つまり欲望、強い欲求の生起として観察できれば、あなたは90%の不幸を根絶することができる」。

これは事実。
すなわち「正見」ということだが、この見方を獲得するのに高次のサマーディは必要としない。ブッダの教えを信頼するだけでいい。

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
ウ・ジョーティカbot
@U_Jotika_bot
もしあなたが、「私」とこの「欲しい」を同一視していたら、
それは大きな問題になります。
しかし、「欲しい」と自分自身を同一視しない時、
あなたはそれをプロセスとして、
つまり欲望、強い欲求の生起として観察します。

ここまでできれば、あなた…” http://tmblr.co/ZZ0OzpzTf9G4

峨骨@Chimaera925
2017年2月14日
自分探し?
本当の自分?
そんなもの無ェよ。
最初からありもしないものを有ると信じさせて、
今の自分より良いものだと思わせれば、
劣等感を持った連中は簡単に言いなりになる。
そうして植え付けられた自分なんて概念は連中の考えた都合のいい概念だ。
自分なんざありはしない。
環境から染み付いた癖だ。





筋肉探しだったらどうだろう?
自分の理想とする肉体に合わせて適切な栄養と運動、休養をとれば作り上げることが出来る。
まぁ、ボディビルダーになれる素質がないのにMrオリンピアみたいな肉体になろうと思ったり、
病気や遺伝でなければ不可能ではないだろう。自分探しってのは、途方もないものだ。

わざわざ遠くから探して、苦難を乗り越えたり、特殊な体験をしたりする。
そうすることで「何らかの意味が無くてはならないから、そこでこれが自分だと見い出す」、
何もありませんでしたでは徒労だからな(笑)
その過程でお薬やったりカルトに嵌ったりして「覚醒した」とか寝ながらホザくヤツも居る。

本当の自分も偽物の自分も何処にもない。心の問題だけならな。
それこそ自身はこうありたいと定義して、
環境や言動をそれに見合うように整えて、「このように在れ」と絶えず要求すりゃいい。
最初は痩せ我慢でも何年も続けりゃ、そのようになる。
自身に何も課さず、何もしなければ在るようにしかならん。


こうありたいというイメージがあるなら、まずは資料集め。
イメージと実体の乖離を防ぎつつ、真に迫ったごっこ遊びが行えるように。
そうして、イメージと実体の距離を近付ける計画を練り、心から成り切る。
役者の役作りと一緒だな。魔術も一緒。

自分の考えたことや思ったことを手記に残して何度も読み返すのも良い。
自分自身を知り、不純物を除去して純度を高める事ができる。
自分自身の嗜好や考え方の傾向も見えてくるし、変化もよく解る。

意識の変容だけならチョロい。
染み付いた言動や思考の癖を取り除くのが少々手間だけどね。
一つコツをつかめば同じ要領でそれなりに潰しが利く。



自分自身でやらなけりゃならない。
お手本になるような大人が居なければ尚更だ。
好き放題わがまま放題の図体の大きなガキの仲間入りして、
今度は体が思うように動かなくなってしわくちゃの幼児になる前に、
自分で己を躾け、叱咤し、励まし、時に褒め、
導かなくてはならんのだ。






ボリィ@まとめサイト対策に広告ブロックアドオンを
‏ @T_Borry
RT:「自分探しだと? お前はそこにいるだろうが!」という島本和彦の言葉、大好きですw



あらゆる物事場所に既視感が縫い付けられた時代の後に来るのが異世界や未来、
あるかもしれない可能性。実際は未知だらけなのだけどな。
ネットで既に見た、既に知っていると錯覚してしまった人々にとって、
それは未知のフロンティアではなくなってしまうのだ。
己自身や隣人さえも未知のものなのにな。














Desty
@exa_desty
己が自分なのに分身を探すかのように自分探しというのは、
鏡に向かってお前は誰だと問いかける行動に似ているな。
自分探しというより望んでいること探しの方が合ってるか?

(欲望探しですね)

りてらし@mod_str
4月12日
自分探しってアレでしょ、周りに合わせて生きてきたから自分がよくわからなくなったんで独りになりたいという反動。
仮面を捨てて楽になりたいだけ。
普段から仮面被って生きてない自分は探すものがありませんがw

(自分探しカルトは、
自分なくし・自分なんて妄想という教えの仏教が大嫌い。


中国故事名言bot@koji_meigen_bot
書、言を尽くさず。言、意を尽くさず。(『易経』繋辞上伝)
文字では言い表したい言葉を書き尽くすことはできない。また、言葉は思っていることを言い尽くすことはできない。


↑涅槃を言語表現されてもよくわからない理由。))


歩行禅以外にも役に立つ身体操法↓

止観明静
@George_Tom_Y
”全ての身体的動作の目的を意識してみよう。
目的のない動作は無駄であり、目的を持った動作はより効率的で有意義な行動となって結実する。

日常の全ての動作をゆっくりにして、意識に上げてみよう。余計な力が入っていないか、姿勢が崩れていないかチェックしてみよう。 日常的に行うことができるようになれば、いつの間にか肩こり・腰痛などが無くなっているだろう。

寝ているときでもどこか筋肉の緊張している人がほとんどです。それが身体の不調を招くのです。 常に身体に気を配り余分な力が掛かっていないか気づくようにしましょう。

吐気に意識を集中するだけでいい。感覚を研ぎ澄ますと思えばいい。 これだけで人生の達人になれる。あらゆる怒り、不安、緊張から解放されるだろう。


身体の動作は先端に帰結する。
先端を意識に上げることでスムーズで無駄の無い、身体を痛めない理想的な状態を生み出す。
先端とは、歩く時は足、頭が先端である。
何かを掴む時は手と重力を逃す足が先端である。

身体のパーツはそれぞれ目的を持っている。目的のない部位はない。
その部位の位置と目的を意識に上げてみましょう。
それだけで如何に日常の動作に無駄が多かったかがわかります。

散歩は楽しみである。背を伸ばし脚を意識に上げるとそれは止であり、
大地や大空・宇宙を感じるならそれは観である。
止観を行じることとなんら変わりがない。

人の身体は筋膜に覆われている。この筋膜が縒れて絡まると凝りが生じ、筋肉や骨、内臓に影響が及ぶ。
これは身体を縦に細かく揺する運動をすることで容易に筋膜の縒れを除くことができる。

意識の一点への集中は、緊張を生み出し、緊張は筋肉の凝りを生み出す。
意識を集中する時は常に周囲・地球の広がり・宇宙の広がりにも意識を向けよう。

身体の部位がどこにあるか理解することは大切であるが、筋緊張を取るためには別の場所にあると念想することも良いだろう。 目が疲れると感じるならば、後頭骨の左右に眼があると念想するだけで眼の筋緊張を解くことが出来る。

見ようとするから眼が疲れる。肩が凝る。
視覚情報の方から眼に入ってくると思えば、余計な力が抜けてかえって疲れない。

背骨は頭を支える働きがある。曲げるためにあるのではない。
屈む時はなるべく股関節を使い背骨を無理に曲げないようにすれば腰痛を防ぐことができる。


頭が上に釣り上がるように思う。
背中が広くなるように思う。
両肩の距離が長くなるように思う。
胸が開くように思う。
腕が長くなるように思う。
指が長くなるように思う。
足の裏が広くなるように思う。
これらは如来の身体的特徴であり人として理想の体型である。
常にこの状態を思惟しよう。

何故理想的身体の状態を作ると言わず思うと言うのか?
作ると言う言葉はさらなる筋緊張を生み出す危険があり、
思うだけならば緊張は起きない。
目指すのは弛緩であり緊張ではないからだ。

身体の各部の名称は、場所だけでなく機能を含んで理解する必要がある。
たとえば「膝」と言うと、膝小僧を中心とする部位を思い浮かべる人は膝を痛めやすい。
関節という機能の名称が膝だと理解すると歩き方も変わり痛める可能性が下がるのである。


美容院で頭を真っ直ぐに、と言われて、真っ直ぐにしたつもりでも頭の位置を修正されたことはないだろうか?
身体が曲がり無理をしているのにあなたは気付かないのです。

イメージすることが大事である。何々しようと思うと力み過ぎる。イメージすれば自然にイメージに近づく。

自分の全身がふにゃふにゃでクラゲのようで、
頭が風船のように空洞の状態をイメージしてみよう。
身も心も楽になるに違いない。

スピーチなどで行う発声法は、意識を後頭部から後ろの空間に広げた方がいい。
実際の声の共鳴は手前かもしれないが、
意識を後頭部空間に置くことで筋肉の緊張を回避しつつ姿勢を正し、
結果良い声を部屋全体に響かせることができる。

間違えた習慣によって腰痛や肩の痛み、頭痛、膝の痛み、肥満などが引き起こされる。
正しいと思っている習慣を疑うことは難しい。
子供と同じように様々な方法を楽しみながら試してみると良いだろう。

仙骨と頭蓋骨は繋がっている。一体のものであり、硬膜内の髄液が行き交って体内にゆっくりと脈動している。
心を落ち着けてその脈動を感じ取ってみよう。それは生命の神秘であり、瞑想である。

操り人形のように頭を高い位置に引っぱると意識しよう。自ずと無理のない姿勢を取れるだろう。

頭蓋骨が28ものピースに分かれるということは意味があってのことである。
それはそれぞれのピースが可動するということである。

身体のどこかに筋緊張がないか探すことを常に意識しよう。
それが無意識に出来るようになるとは思わないことだ。
常に身体の状態を意識に上げることを習慣にすることのみが真実に近付く唯一の方法である。

手技によって筋膜を伸ばせばあらゆる病は癒えるだろう。しかし術師に施術してもらう必要がある。
健康な人であれば、自分で身体を振動させれば筋膜を正常な位置に伸ばすことが可能である。
それはシーツの皺は手で伸ばすことも出来るが、ベッドを振動させても皺を伸ばすことが出来るのと同じである。


正しい姿勢など存在しない。自分が正しいと思ってもそれを証明する方法はない。
その時、その態勢、その行動に無理の少ない姿勢がある。それを探り感じ取り楽しめば良いだろう。

身体に力を込めてリラックスすることは出来ない。 逆に筋緊張を解放するとリラックスが得られる。

身体を完全に弛緩した状態で怒ったり泣いたり出来るだろうか? 精神の乱れは必ず筋緊張として身体に現れる。逆に筋緊張を解放すれば精神は乱れない。

あなたが無理な姿勢をしていないかどうかは、長時間維持して痛みがでないかで推し量ることが出来る。
痛みは筋緊張の現れであり、無理な姿勢の身体からの警告である。


怪我をする時は、予期せぬことに無意識に反応して行動した時が多い。
すぐに反応するのではなく、2秒だけ待ち、それから行動してみよう。すると様々な方法で行動できることがわかるだろう。


あがり症な人は他人の目を気にしてあがっていると本人は思っているが、
本当は他人の目に映っている自分を気にしすぎている。
口をすぼめてストローのようにし、2、3回ゆっくりと息を全て吐き切ってみよう。
そして周りの空間を感じてみよう。あがることは無いはずだ。

椅子に座る時は必ず足を地に付けて両脚と坐骨の三点で支えるようにする。すると何時間座っても疲れない。


股関節を使って礼をすると腰に負担がかからず健康的で、見た目にも美しい。
深く礼をすると相手は人格を尊重されたと感じる。
腰を屈めて礼をすると腰に負担がかかり呼吸も浅くなり不健康であり、卑屈に見える。
礼をされた相手は軽くあしらわれたと感じるだろう。

腰痛を治す手段として腹筋・背筋を強化すれば良いという人がいる。
腰と言う概念自体が幻想である。それは背骨(脊椎)の一部である。
脊椎は身体を曲げる支点ではなく、身体の中心ではない。
股関節が支点であり、中心である。
股関節を使って身体を屈むようにすれば腰痛は発生しないのである。

咄嗟に行動する時、例えば玄関のチャイムが鳴って急いで立ち上がるような時、
無意識に行動していないだろうか?そんな時程怪我をするものだ。
2秒待って一つ一つ意識に上げて行動してみよう。
意識に上げることで違う行動を選択することができる。
少なくとも同じ間違いは無くなるだろう。

頭の重さは体重の約10%と言われる。60kgの人は6kgもある。しかし体感としては6gにしか感じない。
それは仙骨から頭部内部を髄液の圧力で支えているからである。
髄液の内的圧力を感じ取ることも瞑想であり、無上ヨーガと呼ばれる。

腕は鎖骨から始まる。このことを知っていれば腕をもっと自由に駆使することができるだろう。

肺が腹部にあると思っている人がいる。心臓の下にあると思っている人もいる。
このような誤解は肺活量の低下を招く。
肺は前は肋骨で守られ、背中は肩甲骨で守られている、案外大きな臓器である。
正しく知るだけで肺活量が高まるだろう。


自分自身の骨、内臓、筋肉、筋膜、血管、硬膜など身体の機能を知り正しい位置を知ることは大切である。
知ることで関節は可動域を広げ怪我を防ぎ、内臓の機能を高めることができる。

全身は硬膜で繋がっている。硬膜には髄液が満たされゆっくりと脈動している。身体内部からの脈動をイメージしてみよう。


強いマッサージはしない方が良い。毛細血管を痛めるリスクがある。
押したり揉んだりせずに、手を皮膚に貼り付けて緩やかに筋膜に働きかけるのであれば、効果が期待できる。

歩き始めた小さな子供が先生である。
無理のない最適化された動作でなければその小さな筋力で重い頭を支えることはできない。

身体で表現することが心理に与える影響は多大である。 自信に満ちた態度・ポーズをしてみると、不思議に自信が湧いてくる。さあ背中を伸ばして生き生きとしたポーズをしてみよう。

歌など発声をするのに力はいらない。
赤ちゃんは横隔膜や全身の筋肉が未発達であるが大きな声を出す。
大人は筋緊張を取り去ることの方が大事である。

禅病という症状がある。瞑想による病である。
天台小止観にその治療法も詳細に説かれている。
様々な方法があるが、空観を行じ、
その症状は空なるものであり実態が無いと観想する方法が効果的である。



正しい姿勢をしようとして胸を張り過ぎたり、
背骨を垂直にしようとしてはいけない。身体の重心は思ったよりも前にある。

(seiko@yasutakakuu
中心は、かかとの真ん中辺りですね(??? ??)??)

返信先: @yasutakakuuさん

ぢゃなくて、土踏まず・アーチの中央ですよ。


瞑想中に雑念が湧いてきたらチャンス到来と思う。
雑念から呼吸に意識を戻す時に脳は鍛えられる。
だから雑念に振り回された方が脳は鍛えられるのである。

筋肉の緊張は身体的なものとして軽んずる方が多いが、
身体各箇所の筋緊張はそれぞれ記憶と結びついており、
筋緊張を取り除くことでトラウマの克服も可能となる。

全身の力を抜きたかったら、まず首の筋緊張を解放するべきだ。


道教経典『陰符経』によると、
虚静(=情報空間)と万物(物質)その両方を媒介するのが「気」であるとする。
気とは情報を持ったエネルギーである。


道教経典『黄庭内景経』には、
日月(太陽と月)を意識しながら上丹田(頭部)は紫の気をイメージし、
中丹田(胸・胃)は黄の気を観じ、
下丹田(腹)に流す、という瞑想が説かれている。

学びにおいて重要なことは、自分は理解したという判断を「保留」しておくことだ。
何かを学ぶうえで、「わかったつもり」になってしまうことは、スコトーマを自ら作り出す要因になる。

吐気に意識を集中するだけでいい。感覚を研ぎ澄ますと思えばいい。 これだけで人生の達人になれる。あらゆる怒り、不安、緊張から解放されるだろう。

タントラを読んでみるとおびただしい量の真言が書いてある。その中で修行に使う真言は1つか2つくらい。
印などの図像はわざと間違えて描いている。阿闍梨の正しい導きがないと修行できない。
密教はタントラ教とも呼ばれる。タントラは現代語で言えばハウツー本のこと。
本だけではわからないから阿闍梨が必要になる。”


(わざと間違えて書く理由
①強力すぎるので道徳などと一緒に身に着けないと危険
②単に部外者に教えたくないだけ
など)



伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
2017年9月23日
ヨーガの呼吸法を「腹式呼吸」や「深呼吸のように大きな呼吸をすること」とかん違いされる方も多いが、
古典で説明される定義は違う。方法としては「ムリのない一定の呼吸パターンを継続する」ことであり、
それには「胸郭を引き上げて、腹部をある程度収縮させた状態での呼吸」
が必要になる。

(続き)なぜ「一定の呼吸パターンを維持するか」というと、
自律神経系に効果的な負荷をかけたいから(呼吸は乱れているのが通常!)。
そこを「無理なく一定に保ち続ける」ようになれば、それだけ神経の認知性と制御性(フィードバック効果)が高まり、自律機能全体の活性化を促す!ってことになるから

面白いのが、それを「腹式呼吸」といったリラックス系の呼吸ではなく、
胸をしっかり引き上げ、腹部をある程度収縮させ、骨盤底筋群を締めた呼吸でやるのが本来の呼吸法という点。
なぜか? それは瞑想の「あるがままに対象を観る」意識を、最適に実現できる「身体の在り方」に近づくため。

(続き)伝統的なヨーガの実践を適切に行うと、瞑想体験(あるがままに物事を観る)を深めるためには、
それに「ふさわしい身体や生理反応」がある、というのがよくわかる。もっとも、歴史的に見てヨーガはそのために確立されたのだし、伝統が受け継ぐ「あの手この手」は本当に面白い(!)

(ハタヨガの神髄でおなかを膨らませてはいけないとある理由がわかった。)



参考資料




織部ゆたか
‏ @iiduna_yutaka
2月6日
返信先: @Y2exさん

仏教的には人間は必ず「生きなければいけない」し、「死ななければいけない」んで、そこにどんな快楽があるにせよ、結局生きること(輪廻して何度も生き返る)は苦痛に過ぎないになるんですね。


Master Neeton@哲学にやや詳しい高等遊民
‏ @MNeeton
2月6日

自分で人生選べるんだったら余裕じゃんって思うんですけど 実はそうじゃないってのがエルの神話の面白いところ
思慮が浅いと 一見良さそうなお金持ちの人生を選ぶけど 実は人生の最後には破綻したり お金のせいで魂が悪くなって次の1000年間地獄へ行ったりします。
プラトン曰く大体地獄からやってきたやつは慎重になって 無難な人生を選ぶ
天国からやってきたやつは ついつい気持ちが緩んで 楽そうな人生に飛びつく
ほとんど全ての人間はこうやって天国と地獄をいったりきたりして 永遠でありながら何の実りもない生命を生きています


covthapapa
? @ArisatoCovtha
4月17日
covthapapaさんがプラユキ・ナラテボー(公式)をリツイートしました

マインドコントロールとは真逆の思想と手法だね。

covthapapaさんが追加
プラユキ・ナラテボー(公式)
@phrayuki
このようにブッダは弟子たちが身体的な基本ニーズを満たしているかどうかに関心を寄せ、また、抑圧的な上下関係や敵対関係のない健全な人間関係が営まれているかどうかに気を配っていた。なぜなら、デリケートな心の修行を進めていくにあたり、こうした条件が整っていることが必要なことで…
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1件の返信 4件のリツイート 11 いいね


プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
4月17日

このようにブッダは弟子たちが身体的な基本ニーズを満たしているかどうかに関心を寄せ、
また、抑圧的な上下関係や敵対関係のない健全な人間関係が営まれているかどうかに気を配っていた。なぜなら、デリケートな心の修行を進めていくにあたり、こうした条件が整っていることが必要なことであるからだ。
1件の返信 25件のリツイート 99 いいね
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
4月17日

ブッダは弟子たちのコミュニティを訪問すると、まず「しっかりと食事は取れているかい?」と基本ニーズが満たされているかどうかを尋ね、次に「みんなで仲良くやれているかな?」と関係性を気づかい、それらが満たされていることを確認したうえで、「修行は順調に進んでいるかね?」と問いかけていた。


プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
4月16日

そしてこれが八正道で「正見」が一番最初に来ている理由でもある。すなわち、まず仏教を「信仰(=ブッダの描いた地図を信頼)」することで、私たちはブッダがそうした見方を獲得するまでに要した苦労をショートカットすることができ、無駄に道に迷うことなく滅苦への歩みを進めていくことができるのだ
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
4月16日

瞑想の流派によっては、論蔵の「清浄道論」の階梯にしたがい、「高次のサマーディを達成しなければ正見段階には進めない」として、何年もの集中的な修行に励むが、実際のところ、ブッダによる綿密な「調査」により、すでに正確な「地図」は描かれているので、私たちはそれに従って歩んで行けばよいだけ


ウ・ジョーティカbot
? @U_Jotika_bot
4月16日

”もしあなたが、「私」とこの「欲しい」を同一視していたら、それは大きな問題になります。しかし、「欲しい」と自分自身を同一視しない時、あなたはそれをプロセスとして、つまり欲望、強い欲求の生起として観察します。ここまでできれば、あなた…” http://tmblr.co/ZZ0OzpzTf9G4


沢田健_bot
? @sawadaken_bot
4月15日
精神と神経とは文字から見てもちがっています。漢法では、心臓と腎臓を精神というたのです。






峨骨
? @Chimaera925

何でも言い換えれば長所になるのだよ。
0件の返信 3件のリツイート 5 いいね
峨骨さんがリツイート
ひらめきメモ
? @shh7

これ、覚えておいてください。
あー、自分、こういう性格で良かったなーって思ったら、そこに自分の強みが隠れてる。
その性格の自分にしかできないことで、他の人を救えるかもしれない。

プロ奢ラレヤー
?
? @taichinakaj
もしバックパックで東南アジアを回っても、アフリカで慈善活動をしても、ヨーロッパでキャリアを躍動しても、
きっと「じぶん」は見つからない。だけど、日本を出れば、ひとまず「じぶん」を1つ捨てることはできる。
捨てて、捨てて、捨てて。そのさきにあるのが、「じぶん」なのかもしれないな。


そういえば、大学をやめてチェコに行こうとしたとき、
周囲のおとなは、「なに?じぶん探し?(笑)」という様な反応をしていた。そのときは気にも止めなかったのだが、いま振り返ってみると、
あれはむしろ「じぶん失くし」だった気がする。
じぶんに対する異常な期待感をそぎ落とすことに価値があった。

結局は、習慣がひとを育てるのだけど、ひとは習慣を育てられるので、
一周まわって、ひとはひとを育てられる。


プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
9時間9時間前

プラユキ・ナラテボー(公式)さんがひらめきメモをリツイートしました

これはある!>RT
「論蔵」にはそうした心理プロセスが生ずる要因として24種が挙げられているが、その中には「食縁」も含まれる。
以前「息子に対する怒りについて悩みをとある指導者に打ち明けたら『前世のカルマ』が原因と指摘されて怖い思いをした」という話を聞いたが、こうした錯誤はよくありそう

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
ひらめきメモ
@shh7
ひらめきメモ:イライラしたり悲しかったり、機嫌が悪い時は、その原因を出来事のせいにしがちだが、「昨日何食べたか」を思い出してみると、意外と昨日食べた夕飯が脂っこかっただけだったりする。
感情は、思っている以上に体調との関係が深い。
1件の返信 13件のリツイート 27 いいね


プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
4月14日

プラユキ・ナラテボー(公式)さんがCopy writingをリツイートしました

これはたしかに言える!>RT

仏教で苦しみの根源として位置づけられているのが「無明」で「知らないこと」の意。原語のパーリ語はavijj?で、aは否定の接頭辞、vijj?は「見る」を意味する。すなわち、現実から目を逸らして見ようとせず、知らないでいることにより苦しみが生ずると発見したのがブッダ。

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
Copy writing
@Copy__writing
借金をする人は、お金がいくらあるかを知ろうとはしません
太っている人は、体重も食べた量も知ろうとはしません 迷っている人は、何がしたいのかを知ろうとはしません 失敗をする人は、得意なところを知ろうとはしません 言い訳する人は、問題の本質を知ろうとはしません by 考え方の整理箱






ストラテ
? @SnowLeo2651
2017年10月22日

古代インドでは、盗賊が一種の職業と見なされていた。そうして盗賊と国王とは並べてあげられている。どちらも良民から暴力をもって何ものかをゆすり取るからである。ー原始仏教スッタニパータ;中村元の解説ー 
ブッダのことば―スッタニパータ https://www.amazon.co.jp/dp/4003330110/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_tg26zbHTT78XB …
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ニー仏
@neetbuddhist
「エロと宗教お断り」と bioにある方にフォローいただいたのだが、コンテンツがおっぱいと仏教しかないニー仏としては厳しいものがあるぞい。


そのてんニー仏のフォロワーは常におっぱいによるふるい分けを受けているので、きっと美少女戦士しかいないはずです。

おたろう
? @otarou01
3月29日

ニー仏さんがフェミやらスピリチュアル系、評論家系の頭のおかしい人達をおっぱい二次絵を定期的にRTする事でフォロワーから弾き出してるシステムが面白い。
マンガでよく人の負の感情を利用して強くなる悪魔とか出てくるけど、Twitterに流れてくるエロ絵使って防御陣張るネオサイコ仏教徒も強い。


楽蜻庵
? @rakuseian
2013年3月18日

物理学者 佐藤文隆は『科学と幸福』、「ブッダの智慧」で中村元から聞いた話を記しています。
「宇宙は無限か有限か、現れてまた消える無常なものか、
身体と霊魂は同一か、人は死後にも存在するのか、
こういった質問にはブッダ自身は答えなかったという。こういうことの論議は人間を悟りに導かない」。



木村草太
‏ @SotaKimura
4 時間4 時間前

今日の道徳の時間は、「嘘は許されるか?」がテーマだったらしい。クラスのみんなが「必要な嘘もある」とする中、娘は一人、「許されるべきものはそもそも『嘘』と呼ぶべきではない。よって、嘘は許されない」で論陣を張ったらしい。
私は、定義されない言葉について議論するのは無駄だと思う。





嘘など吐かずとも、嘘をついたり騙したりする事は簡単だ。
問題は用途。
嘘も真実も同じくらい人を救い、また傷付ける。
嘘だからいけないとか、真実だから良いなどというのは、あまりにも幼稚な発想だ。
真実も嘘も所詮は道具。その道具を使って何を成すか、その道具をどのような姿勢で扱うのか。

世の中、わかりやすい嘘や真実だらけなら苦労しない。現実はそれらが混じりあっている。
道徳観を植え付ける目的で行うなら、質問する内容を漠然としたものではなく限定的なものにするべきだろうな。
でなければ、
単純でくだらん議論する価値の無い二元論に陥る。


ディベートでもなく多数決で嘘が良いかそうでないか議論するとなれば議論にすらならんだろうな。日本の学校教育は道徳や哲学やる以前の基礎を無視して、ハイハイも出来ないような者にフルマラソンを要求している。


りてらし
‏ @mod_str
ユダヤの諺 賢人の七つの長所
▷自分より賢い者の前では聞いていること
▷他人が話す時に邪魔をしないこと
▷答える前に考えること
▷話題と関係のある質問をし、筋が通っている答をすること
▷最初にしなければならぬことを最初にし、最後にしなければならないことを最後にすること
▷知らないことは知らないと答えること
▷真実を常に尊ぶこと














Angama(個人主義)
? @Angama_Market
座禅は脳を休ませることだと思ってる人がいるが、実際には普通に生活するよりも疲れる。
脳が次々と見せてくる幻影(思念)を一つ一つ積極的に撥ね退け続けるという作業である。
全て撥ね退け尽きると、時間が見える。この瞬間、脳は最大限に燃えている。
思念を撥ね退け続けるうちに、平時でも撥ね退ける筋力が強くなり、思念に意識を乗っ取られなくなる。これが大事だと思う。


慈永祐士
? @jiei_yushi
8時間8時間前

慈永祐士さんが慈永祐士をリツイートしました

日本でも「ホンモノの仏教やってます」「マインドフルネスやってます」「日本の仏教はもっと何かしろ」みたいな意見が企業人からも見るんだが、マインドフルネスで自己の安寧だけ考えていて貧しい人に対して関心ないのは小乗っていうんだよ。

慈永祐士さんが追加
慈永祐士
@jiei_yushi
いやまあしかし、これだけ日本の仏教界隈でヴィパッサナーだのマインドフルネスだのと言い出してきたのは、日本の仏教の小乗化であるといっていいと思うんだな。大乗仏教は歴史的にそのアンチテーゼだったのに。
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☆かおりのすけ☆
? @kaorinosuke
4月11日

坐禅を組んで目を瞑り、自分の状態をじっくり観察する。
今日はやる気がない、気分も沈んでいるって思ってても、そのまま評価する事なく「ああ今日はそういう自分なんだな」とありのまま受け入れる。不思議と一つだけでも良いからやってみるかって気が起きてくる。一つやったら段々やる気が出てくる。

自分の観察は面白い。精神のコントロールがもっと上手に出来るようになりたいなあ。。




慈永祐士
? @jiei_yushi
慈永祐士さんが慈永祐士をリツイートしました

文字に書き起こすようになったきっかけは、飢饉である。まずは檀信徒による布施供養が無くなり、暗い洞窟の中で僧侶は身を寄せ合い、教えが失われないように経典を読誦する中、一人、また一人と死んでいった。そのつらい体験からだそうである。

慈永祐士さんが追加
慈永祐士
@jiei_yushi
口承で伝えられてきたブッダの経典を初めてまとまったかたちで文字に起こされたのは、
紀元前1世紀のスリランカにおいてである。ブッダ入滅が紀元前5世紀だから、実に400年ほどの開きがある。
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慈永祐士
? @jiei_yushi
4時間4時間前

口承で伝えられてきたブッダの経典を初めてまとまったかたちで文字に起こされたのは、紀元前1世紀のスリランカにおいてである。ブッダ入滅が紀元前5世紀だから、実に400年ほどの開きがある。
1件の返信 5件のリツイート 6 いいね
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慈永祐士
? @jiei_yushi
4時間4時間前

仏教も、元は口承や口伝で伝えられていた。お経も「耳で読め」「身体で読め」と言われてきた。しかし今では「お経など読んでも何にもならない」「ブッダはお経を読めとは言われなかった」ともっともらしく言われ、現代語訳でも、目で読み頭で読んで概念操作したものを知的だと尊ぶような風潮になった。
0件の返信 5件のリツイート 15 いいね
慈永祐士さんがリツイート
牧師・沼田和也
? @oujikitachurch
4月13日

神学生時代に宗教哲学の先生から教わったことが正しければ、黙読の習慣はヨーロッパの知識人のあいだで、18世紀頃に成立したという。聖書も長い歴史のほとんどは、典礼のなかで、大きな声で朗唱されることのほうがメインだったのだ。親から子への噛み砕かれた信仰話だって、語り聞かせられていたのだ。
1件の返信 9件のリツイート 29 いいね
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慈永祐士さんがリツイート
牧師・沼田和也
? @oujikitachurch
4月13日

今日、創世記の話を6名の方々と分かちあっていたときに思った。聖書は、読むというより物語るものなんだなあと。たぶん大昔の人たちも、ひとりで読んでいたのではなくて、何人か以上で読んだだろうし、読み「聞かせ」た、つまり語りかけていたんだろうなあと。


ニー仏
? @neetbuddhist
3月12日

著書で繰り返し明示的に書いたことだけれども、
「輪廻と無我は矛盾する。だからゴータマ・ブッダは輪廻を説かなかったはずだ」みたいな主張をしてしまう人は、
端的に仏教がわかっていない人です。それは、学問的・論理的な意味ではもちろんのことだけど、経験的・実践的な意味においてもそうだと思う。


金 茂 成
? @GoldCastle50
2017年11月15日
日本には(実は韓国にも)「ブッダは輪廻を説かなかった」という珍奇説が存在するが(仏教で想定しているような輪廻が実際にあるかは別として)仏教の究極目標は「輪廻からの解脱」であり、輪廻を前提として教理が組み立てられているということを外してはならないと思う。
2件の返信 1件のリツイート 4 いいね

髙山龍智『反骨のブッダ』発売中!
? @nagabodhi
返信先: @GoldCastle50さん

もう少し踏み込んで云うと、ヒンドゥー教聖典『バガヴァット・ギーター』に説かれる「アートマン(霊我)不滅」に基く輪廻転生思想とそれによって成り立つカーストを、「アナートマン(無我)ゆえにサンサーラ(輪廻)もカーストも実体的ではない」でしょうね。
11:44 - 2017年11月15日









櫻庭隆之
? @gensibukkyou
3月4日

瞑想中に神秘体験をしても、それに執着したり、解釈してはいけない。しかし、その体験がそのまま教養になる場合もある。例えば、人格が入れ替わり、記憶、知識は別のものに…。なるほど、この『櫻庭隆之』なる現象は、因縁によって成り立つ一時的な現象で、決して固定された実体ではないのだなと知る。




? @Fran269
11 時間11 時間前

業ですか……。

業の持ち主(業を作る主体である我? 魂? 的なもの)は相続しないで業だけが相続するのですか?
それは一体どういう現象なのか、イメージが出来ません。

ここが以前から良く分からないポイントです。
1件の返信 0件のリツイート 3 いいね

止観明静
? @George_Tom_Y
返信先: @Fran269さん

説一切有部において輪廻とは魂を前提とした生まれ変わりの思想ではなく、行為によって生じた作用が影響を残し、その影響によって次の行為が生まれるという永続的な働きそのものを指す。



? @Fran269
10 時間10 時間前

では「輪廻」とは、すべては因縁によって動いていっているという「空」を言い換えたようなものでしょうか。

業の主体者が死んで居なくなっても、影響は無になるわけではなく、何らかの形で次へつながってゆく、、、と。

これならば何となく分かるような気がしてきました。(が自信は無いです……。)
1件の返信 1件のリツイート 2 いいね

止観明静
? @George_Tom_Y
返信先: @Fran269さん

まさにその通りです。
すべてはあるがまま、因縁によって生じ滅する。
そこに意味を見出せば輪廻となり、意味から離れると解脱となる。





マインドフルネスで「今ここ」とオウムのように繰り返すのは意味がないと思うが、それはだいたい誰にとってもコンフォートゾーンこそが「今ここ」であり、そうでないところは「今ここではない」ということになってしまうから。

慈永祐士さんが追加
慈永祐士
@jiei_yushi
仏教では無我といい、今の自分と思っているものは本当の意味で自分でないという。仏教的正確さはさておき、コンフォートゾーンの外側に「あり得たかもしれない自分」があるにも拘らず、今の場所だけで満足する自分だけを自分だと思いこめば、確かに本当の意味で自分を知らないと言えるか…
このスレッドを表示
1件の返信 2件のリツイート 3 いいね
慈永祐士
? @jiei_yushi
12 分12 分前

語呂合わせで、「今ここというのは、どこにもない」というのをいうんだが("Now-here is nowhere")、「いま」とか「ここ」とか言っている時点で「今ここ」ではない。「今」と言葉にした瞬間、その脳内の概念はもう過去に過ぎ去る。
1件の返信 0件のリツイート 2 いいね
慈永祐士
? @jiei_yushi
9 分9 分前

したがって、「今ここ」というのは「今ここ」とも言葉にならないところであって、マインドフルネスの説明で「今ここ」と繰り返すだけに終始しているものは、ちょっとどうなのかな、というのが率直な私感。


呼吸に注力して妄念をラベリングし、ふくらみ/縮みを観察するものをマインドフルネスとして紹介するものがあるが、それがミャンマーのマハーシ式によるものがベースで、他も皆同じでなのではない。その辺り、こういう界隈に親しい人は皆知っていることだが、最近は触れている記事などはほぼない。


止観明静
? @George_Tom_Y
返信先: @Fran269さん

魂は連続しないが、業が相続する、というのが説一切有部の説です。

仏教では魂の連続としての輪廻を否定する。

科学的に言えば身体の組織・原子レベルでは常に入れ替わっているので、常に輪廻していると言える。


Yusuke Makino
? @Usekm
誰にもありがちな認知な歪みは、何も皆の目が曇っているだけというわけでもなく、人間が自ら・あるいは社会のありようを受け入れられるようにするためのフィルタリングのメカニズムを含んでいるので、「ありのままの世界」なんてものを観察しすぎると脳みそのCPUに負荷がかかりすぎてパンクする。





仏教やそれをベースにしたマインドフルネスには「ありのままの世界」を見ていないせいで苦しむという考え方がベースにある。脳のCPUの負荷も「ありのままに見ていないせい」で発生するものだとする。外界の情報が脳に取り込まれ脳のデータ処理を経るなら、それはもはや「ありのままの世界」ではない。

過去や未来は脳内の想像の産物であり、確かなものは「いま、ここ」しかない。したがって「いま、ここ」に注力すれば過去の葛藤や未来の不安から解放され、より「ありのままの世界」を感知できるというわけだ。この状態をマインドフルネスという。

人間は脳機能学的に一つのことしか考えられないそうだ。これはソース不明で「一つ」の定義もよくわからないが、それなりに効果の実感は得られるという報告が増えている。しかし実際は、過去の葛藤の蓄積や未来への不安の重圧は簡単に一掃できない。しかもビジネスでは皆成果への束縛に生きている。

成果への責任を果たすべき社会の人々が、その責任という概念放棄をマインドフルネスでは奨励しているようなところがあるわけで、未来志向的な資本主義価値観とは根本から折り合わないものなのではないかと思うんだが、それを資本主義市場向けにパッケージングしたのが昨今のマインドフルネスである。

マインドフルネスは、グーグルで導入されたことが常に枕詞につくが、はっきり言ってゴリゴリにノルマを課すような職場とは相性が合わない。そんなことをしなくともそれなりに給料が出る会社や部署ならスムーズに導入しやすいと思うが。


もちろん効果はあると思うが、社内の空気に水を指すようなことを言うことになる。

慈永祐士さんが追加
慈永祐士
@jiei_yushi
マインドフルネスは、グーグルで導入されたことが常に枕詞につくが、はっきり言ってゴリゴリにノルマを課すような職場とは相性が合わない。そんなことをしなくともそれなりに給料が出る会社や部署ならスムーズに導入しやすいと思うが。


それでも「マインドフルネス研修を導入してやってるんだからもっと成果を出せ」というのは言い続けられるのか。


プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
1 時間1 時間前

プラユキ・ナラテボー(公式)さんがなる@なか卯通い決定をリツイートしました

「長く伝承されているとて信じることなかれ。教本に書かれてあるからとて信じることなかれ。わが師の言葉なりとて信じることなかれ。説者が堪能だからとて信じることなかれ…実践しても益がなく、不利益や苦しみをもたらすものであれば、それを捨てるがよい」と説いたブッダの教えを彷彿させる立て看板

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
なる@なか卯通い決定
@naruKG95
色々と考えさせられる立て看板。#京都大学 #二次試験
1件の返信 11件のリツイート 22 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
1 時間1 時間前

そのブッダの教えとは「カーラーマ経」。10項目にわたる「鵜呑み」警告が説かれている。先に挙げた項目以外に、「みんなで言い伝えてきたから」「評判だからとて」「論理的な解釈だけで」「哲学的な見解に合致しているからとて」「常識だからとて」
「自分の見方に一致するからとて」信じることなかれ。
1件の返信 5件のリツイート 13 いいね

プラユキ・ナラテボー(公式)? @phrayuki
『ブッダは「如理作意」(=理に基づいた熟考)やみずからによる実証体験を重んじ、そのような検証もなく、他から伝え聞いたからなどとして安易にものごとを信じ込んでしまう(鵜呑みにしてしまう)ことを人々に戒めた。このあたりはいわゆる「信仰」重視の宗教と明らかに一線を画すところであろう。


止観明静
? @George_Tom_Y
3時間3時間前

一心三観とは、空観(理想的な生き方とは何かを追求し、抽象度の階段を上がっていく瞑想)・
仮観(現実的な生き方とは何かを求め、世の中の相互のつながり・縁起の理法を実感すること)・中観(空・仮のどちらに偏るのではなくその場に一番適した考えとは何かを追求する観法)この観法を同時に行うこと


多くの人が夢を現実に変え、達成することができない。それは夢を目標として設定していないからだ。

やりたいことがあったら、とりあえすやってみればいい。中途半端と思っても、とにかくやってみれば、そのうち夢中になる。


やりたいことがあるのに行動に移さないのは、失敗するより残念なことだ。
失敗は成功に導くが、何もしなければ何も始まらない。


準備ができたらやろう、という考え方ではいつまでたっても準備できないだろう。不完全でもとにかくやってみたほうがいい。

やりたいコト、なりたいモノのために今から始められることは何かあるはずである。その何かをやり始めるベストタイミングはいつも今である。これからの人生で一番最年少は、今の自分です。








宇野友香子
? @yuka_npo
2017年7月6日
返信先: @phrayukiさん

押さえつけず、他のより良い行動や別の物事に思考をもっていくことによって
自分の中での優先度が自然と下がってやがてなくなるよ
ということですね。

すごく面白いです。感情や思考は論理的にアプローチするとすっきりする感じがします。

プラユキ・ナラテボー(公式)
@phrayuki
怒りの増幅防止、消火、昇華のための仏教的な効果的対応
① 怒りに素早く気づいて(念)、パッと手放す(捨)
② 怒りをあるがままに受けとめる(定)
③ 怒りのパターン、プロセス、メカニズムを理解する(慧)
④ 慈悲の瞑想(慈悲)


小さな怒り「イラッ?」からのありがちな展開?増幅化
①怒りの心→暴言→暴力
②怒りを引きずり「恨み」や「復讐心」
③怒りを「後悔」したり、怒った自分を責めて「自己否定」や「自己嫌悪」
④怒りを投影し、他者から攻撃されているように感じたり、投影先が見つからず自家中毒→身体が動かなくなる


魔術・神秘行の先達bot
? @sendatsu777

妖怪のような幻覚への恐れや怯えの念を除いて、どのようなヴィジョンが現れて来ようとも、それらを私自身の意識の表れ(影)として認識しますように。(チベットの死者の書)


中田考
? @HASSANKONAKATA

宗教としてのイスラームと仏教にはほとんど共通項はないが
(道徳としては不偸盗戒不邪婬不妄語不飲酒など重なる点は多い)、
ひとつだけ一致しているのは、単に死んだだけでは人の罪は消えず、生の問題は解消しない、ということ。


止観明静
? @George_Tom_Y
菊紋はもともと比叡山に自生する叡山菊の紋と云われます。
伝説では桓武天皇に献上品を差し上げた時、献上品につけていた比叡山延暦寺の寺紋・菊紋を所望されたので紋も献上したので皇室の紋となりました。
それから延暦寺は寺紋を皇室に憚って菊紋に法輪をあしらった法輪菊に変更したそうです。









ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%99%BA%E5%AD%A6 …神智学 〉〈神智学〉では、キリスト教のように絶対者が霊魂の救済と罰を審判するのではなく、すべての行為が原因となって果報を生じるカルマの普遍的な因果応報が人間を支配すると考えられた。そして輪廻転生の繰り返しを通
した「霊的進化」の終わりに、人間の「霊的な完成」を想定し、人間の魂は宇宙的生命へと回帰するとされた。自助努力によって無限の精神の向上が可能であり、最後には「神」に近い存在に近づくことができるとし、キリスト教に替わって自己が自己を救済する


証言③仏神から分かれてきた存在。そもそも仏神って何だよ。仏か神かどっちかにしろ。
仏教に神はいない。仏は悟ったもの。完全に名前だけ使われてるな。
神から分かれてきた人間って思想の大元は新プラトン主義。
新プラトン主義は後にキリスト教神学につながる。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9 …新プラトン主義 新プラトン主義の思想の大きな特徴は、一者からの流出の観念である。「一者」の思想は容易に「一神教」と結びつき、
新プラトン主義の思想は中世ヨーロッパのキリスト教思弁哲学の基盤のひとつとなった。


ということは仏神はキリスト教の神。神から創られ命なので自殺はダメって考えもまんまキリスト教。


証言④勤務労働も魂修行。これもキリスト教。そして、仏仏うるさいわりにやってくるのはプロテスタントの牧師。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%80%AB%E7%90%86 …プロテスタントの労働倫理 〉天職としての仕事に励むことの必要性、現世での成功、(キリスト教による)魂の救済、ということが強調されており、カルヴァン主義の概念に基づいている。


証言⑤江原啓之。スピリチュアルの人。スピリチュアルの元ネタも神智学。ここからさまざまな自己啓発に派生。自己啓発は「苦しいのは修行が足りない」という自己責任原則で信者を洗脳して奴隷にする詐欺の手法。

自殺予防団体って名前は大元の思想を隠すためのダブルスピーク。本来の目的は自殺の問題からそっち系の思想に誘導し、信者を増やすこと。予防と防止の細かい差異にこだわらせて大元の思想から逸らすのも詐欺の手法。


オウム真理教も神智学からパクった教義を使っている。霊性進化論とか輪廻な。
霊性進化論は霊的に進化した選ばれた人間とそうでない愚民に分けられる。
オウムでは霊的に劣っている人間はポア(殺害)して救済する。
霊性進化論と仏教はかみあわないぞ。


これらの証拠の帰結として導かれるのは、この団体が仏教に背乗りしたキリスト教系のカルト団体だということだ。キリスト教に輪廻の思想はないので神智学を混ぜた、スピリチュアル。だが大元の思想はキリスト教そのもの。


プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
プラユキ・ナラテボー(公式)さんが大神田 音子をリツイートしました

いい呪文ですね?>RT
結局のところ、やる前から「ここまでの結果を出すべき」といった計らいや、「結果がでなかったらどうしよう」と未来を案じることから、やる気が挫けたり、無駄なストレスを感じたりする道理。
心を今ここにおき、今ここで自分にできることを淡々と続けていくのがいいでしょうね。

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
大神田 音子
@nekodosue
「めんどくさーいッ!」とか「なんかもぉうまくいかーんッ!」ってなると、これ唱えてる。不思議とやる気が出てきて心が落ち着く魔法の呪文??♀?

出来る時、出来る事を、出来るだけ…


プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
4時間4時間前

他にも、自身の苦しみに向き合うことを妨げるものとして、不毛な善悪論争、「私は◯◯である」といった固定的な自己イメージへの執着。方法論やルールへのこだわり、相手に対する疑心暗鬼などがある。苦の解消には、シンプルに自身の苦をあるがままに認め、原因を探り、具体的に取り組むのが一番の早道
0件の返信 12件のリツイート 37 いいね
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
4時間4時間前
仏教の目的は「苦」をあるがままに受けとめ、滅し尽くすこと。ところで「苦しみに向き合う」段階(苦諦)で多くの人が躓いてしまう(向き合えない)。原因として代表的なのは、
①苦しみへのハマり込み(執着・耽溺)
②苦しみとの闘争
③苦しみからの逃走
④苦しみの抑圧
⑤苦しみを他に転嫁(投影)
1件の返信 14件のリツイート 48 いいね
このスレッドを表示
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
4時間4時間前

こうしたイライラを糧にする「心の錬金術」を縁起観で説明すると、
誰かのツイートを目にして(触)
不快感が生じた(受)瞬間、その言葉へのとらわれ(貪)、
反発心(瞋)、目を背けたい(痴)衝動が生ずる。
が、それに気づき(念)、受け止め(定)、理解・活用(慧)したとき、智慧と創造の源に変容
0件の返信 7件のリツイート 23 いいね
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
5時間5時間前

プラユキ・ナラテボー(公式)さんがひらめきメモをリツイートしました

これはツイッタラーに推奨の思考・感情ハック!>RT

悪口や愚痴の垂れ流しで悪口業を積んでしまうよりは、
その衝動を言語行動化するのをちょっと待って、立場をさっと変えて、クリエイティブにコンテンツ化して有効活用してしまう。こうしたことを習慣化できれば、イライラは智慧と創造の源となるね。

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
ひらめきメモ
@shh7
どうしても悪口や愚痴をSNSに書き込みたくなったら、それはそれでクリエイティブなエネルギーとしてうまく活用する方法としては「同じ気持ちの人にアドバイスをするとしたらなんと声を掛けるだろうか」と考えて文章を書くと、需要のあるコンテンツになるのでおすすめ。


野村英登 NOMURA Hideto
? @bajie38
2017年6月8日

背中が開いた感覚はまだ残ってて、開いたとき、視界が変化するんだよね。首を伸ばしたときに視界が広がるのと違って、奥行きが出るというか、光が見えそうな予感がするというか。夏目さんに話したら、それはヤバイねと笑われたけど、僕もそう思う(*゚▽゚)ノ
2件の返信 3件のリツイート 8 いいね
野村英登 NOMURA Hideto
? @bajie38
2017年6月8日

承前)背中が開く=リラックスの程度が上がって、瞳孔が少し開くとか、そういうことなのかなあ、視界の変化。そっちの感覚を追いかけると走火入魔まっしぐらだろうから、身体鍛錬の強化の手がかりに留めとくのが吉だよね。
1件の返信 1件のリツイート 5 いいね

野村英登 NOMURA Hideto
? @bajie38

承前)実のところ、視界が変わったり光が見えかけたりしたことよりも、身体や動きが大きくなったと感じられたのが、背中が開いた感覚でより重要なことなのだろう。しかしその感覚に溺れると、広げようとして肩や腕に力が入りかけるんだよね。


止観明静

日本においては五鈷杵を数珠に擦り上げ玄妙な音を立て変容意識状態に導く作法がある。最高の五鈷杵は響銅(さはり・鳴り金)製のものである。


密教は無意識に働きかけるが故に意識化させないため秘密にしているのである。


響銅(さはり)とは、銅と錫と少量の銀の合金であり、その配合は工房によって秘密となっている。玄妙な音で鳴る性質を持ち、音の出る仏具などに用いられる。特に響銅の五鈷杵で精巧な彫刻をしたものに鍍金(金箔を水銀で蒸着したもの)で仕上げたものは大変高価である。
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止観明静さんがリツイート
天台智者大師智顗 bot
? @w_lotus_sutra
13時間13時間前

鏡中の像は外より来たらず、中より生ぜず、鏡浄きを以ての故に自からその形を見るが如し。行人の色清浄なれば、あらゆるもの清浄なり。仏を見んと欲すればすなわち仏を見る。見ればすなわち問い、問えばすなわち報う。経を聞きて大いに歓喜す。(『摩訶止観』巻第二上)
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止観明静さんがリツイート
止観明静
? @George_Tom_Y
3月28日
返信先: @phrayukiさん

成程、そうですね。
『摩訶止観』に「丈を去って尺につき、尺を去って寸につけ」とあります。抽象度を下げることで現実の苦に対処できるということでしょう。
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止観明静さんがリツイート
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
9時間9時間前
返信先: @George_Tom_Yさん

摩訶止観にそんなフレーズがあったのですね。初耳です。たしかに抽象度を下げることで現実の苦に対処できるようになる、ということでしょうね。「空」を悟ってその境地に安住するよりは、「これあれば彼あり、これなければ彼なし」と縁起で観られれば、具体的な問題対応が可能になることかと思います。
0件の返信 1件のリツイート 3 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
手印・真言そのものに意味があるわけではない。潜在意識を操作する方法として使われるのである。


厳密に言うと、五鈷杵を鳴らす作法は東密だけで、台密では鳴らさない。



護摩(ごま)とは、「焚く」「焼く」を意味するサンスクリット語のホーマ(homa?)の音訳である。


炎を凝視していると変容意識状態に導かれる。護摩は仏の世界に臨場感を移す技法である。


炎は形あるものを煙という形のないものに変える。形がある世界が我々現世の世界であり、形のない世界が仏の世界である。つまりこの世と仏の世界との接点が炎である。


炎の性質を尊格化したのが火天(agni-)である。護摩供養においてはどんなに省略しても先ず火天壇を行う。人と仏を仲介する炎の神を勧請するのである。


焼香は、もっとも省略化された護摩と考えることもできる。

返信先: @bushi_yoshidaさん

カレーっぽい香りの八種香とかありますよね!


ある特定の香りをトリガーとしてある境地・心理状態を関連付けることができれば、はっきりとその効果を感じることができる。
具体的には、拝む神仏によって香を変える。坐禅の時に特定の香を焚く。何度も繰り返すと香を焚くだけで深い境地に至ることが出来る。


『妙法蓮華経』のテーマは自己評価(自己実現可能性の確信)を高めることにある。弟子たちがブッダの子供であるというモチーフの比喩に満ちており、誰でも必ず成仏することができると説かれている。

『華厳経』の世界観は、中央集権的な思想である。時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏である大毘盧遮那仏が三千大千世界の一つ一つに化身を派遣して説法するとした。支那においては政治思想と結びついて主流の経典となった。


『妙法蓮華経』は平等の教えであり、日本人のメンタリティと相性がいい。


平等とは、可能性の平等であって、本人が希望すれば何でもできるというのが正しい平等である。
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止観明静さんがリツイート
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
3月26日

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが止観明静をリツイートしました

「大乗では抽象度の高い三宝を尊崇する」。そういうことでしょうね>RT

上座部でもそうした観点で語られる時もあるが、基本は「ブッダ、ブッダの教え、僧団」という抽象度の低い文脈で語られる。それゆえに人間の苦悩という生々しい問題の解決において具体的な結果も出しやすい、というのが私の見立て

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
止観明静
@George_Tom_Y
「常住三宝」という言葉がある。常に存在する三宝(仏・法・僧)という意味である。これは情報空間に存在する仏・法・僧を指す言葉である。大乗ではこのより抽象度の高い三宝を尊崇する。
1件の返信 5件のリツイート 18 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
3月26日

インド哲学は歴史的に存在論を扱ってきた。ウパニシャッドに至りアートマン(自我)の実在を主張するようになった。釈尊はそれを否定し、アートマンは実体がないと主張した。インド哲学の潮流からするとそれが本流である。


月読美琴(闇・混沌・虚無属性)@鳥クックルー(*゚∋゚)彡
? @tsukuyomi3510
「本当の〇〇」=イデア論


止観明静
? @George_Tom_Y

辛い時こそ祈ることは大事です。何も手につかない時、心が落ち着かない時、
それは自分のことしか考えられなくなっているのです。
自分のことだけでなく人々の幸せを祈ることで自分が救われるのです。


『梵網経』によれば、「自分がこれから仏になる」と思えば全ての戒律を具足する、と説く。誓願こそが戒律の要である。


一度坐禅して自分に問うといい。
「私が本当にしたいことは何か」
心の奥底から浮かんでくる目標こそあなたの誓願に他なならない。


下ばかりを見ていないで、時には顔を上げてみよう。じっと座ってばかりいないで、時には歩いてみよう。

悪気はないんだ、というのは意識してやったわけではないんだという意味だろう。
しかし裏を返せば、無意識はそう判断してやったということになる。無意識は自分ではないと言い張るのだろうか。無意識のうちに動いているあなたの心臓はあなたではないのだろうか。


返信先: @Fran269さん

一度坐禅して自分に問うといい。
「私が本当にしたいことは何か」
心の奥底から浮かんでくる目標こそあなたの誓願に他なならない。

人生の目標を設定し、その目標がかなった時の人間関係を想像してみる。周囲のひとびと、仲間たちは非常に親しみを感じられる心強い存在だ。その人たちは現状ではまだ出会っていない存在かもしれない。だが、不思議なことに、縁起は必然的につながる。


「名付け」の力は凄まじい。私たちは概念に名前を付ける。
すると、概念を操作することができるようになる。
概念は抽象度が高いが、言語は相対的に抽象度が低い。
概念を「名付け」ることにより言語化すると、抽象度が下がり、臨場感が上がり、操作可能性が高まる。


一度坐禅して自分に問うといい。
「私が本当にしたいことは何か」
心の奥底から浮かんでくる目標こそあなたの誓願に他なならない。
0件の返信 1件のリツイート 2 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
7時間7時間前

人生の目標を設定し、その目標がかなった時の人間関係を想像してみる。周囲のひとびと、仲間たちは非常に親しみを感じられる心強い存在だ。その人たちは現状ではまだ出会っていない存在かもしれない。だが、不思議なことに、縁起は必然的につながる。
0件の返信 8件のリツイート 16 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
11時間11時間前

「名付け」の力は凄まじい。私たちは概念に名前を付ける。すると、概念を操作することができるようになる。概念は抽象度が高いが、言語は相対的に抽象度が低い。概念を「名付け」ることにより言語化すると、抽象度が下がり、臨場感が上がり、操作可能性が高まる。
0件の返信 9件のリツイート 16 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
15時間15時間前

「私たちは情報的存在である」というのが空観。
「私たちは物理的存在である」とするのが仮観。
「私たちは機能的存在である」とするのが中観。
中観論者は機能主義者である。「機能的」であるかどうかは、自分の人生の目標に合致しているかどうかで決まる。


おはようございます。全ての生命にとって幸せな1日が訪れますように。


偉大な菩薩は過去の罪を許し、咎めない。
偉大な菩薩は誓願によって偉大な菩薩となった。
偉大な菩薩は誓願によって未来に成仏する。
偉大な菩薩は誓願によって我々を救うのである。
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止観明静
? @George_Tom_Y
2月11日

「できるかどうか」を基準に判断していると、そこに自分の意志はないから、エネルギーが湧いてこない。出来るかどうか、ではなく、したいかどうか、が大事だ。
1件の返信 4件のリツイート 16 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2月11日

0件の返信 3件のリツイート 13 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2月11日

答えは自分で見つけましょう。世の中を空と見て生きて行きたいなら、原始仏典の生き方が正解ですし、未来に向け世の中を受け入れるなら、大乗仏教の生き方が正解です。
0件の返信 3件のリツイート 9 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2月10日
返信先: @keikei2018さん

あなたはお釈迦様の子なのです。実子なのです。後継者なのです。自信を持って生きましょう。これが天台で言う法華の教えです。
1件の返信 0件のリツイート 2 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2月10日


心は島のようなものです。ここからここまでが自分だと思っていますが、広い空も、奥深い海も、全部自分です。自分を許すとその分心が広くなります。邪悪なものも、崇高なものも、全て自分自身です。
0件の返信 4件のリツイート 13 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2月10日

仏であっても地獄の心も持っているというのです。それを拒否するのではなく、認めるのです。
0件の返信 6件のリツイート 15 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2月10日

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・仏・菩薩・声聞・縁覚が十界で、
十界それぞれ十界の心を内包しているといいます。これを天台教学では十界互具といいます。
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止観明静
? @George_Tom_Y
2月9日

他人を許すことは自分自身を許すことに他ならない。

ふぎさやか
? @maomaoshitai
8時間8時間前

そういえば昔は「紫式部は源氏物語という嘘を書いた罪、妄語により地獄に落ちた」と広く信じられていました。
0件の返信 5件のリツイート 4 いいね
ふぎさやか
? @maomaoshitai
8時間8時間前

仏教には不綺語(でたらめなことを言わない)、
不妄語(嘘を言わない)という戒律がありますけどね。民間伝承や小説というのは、多くは事実ではなく想像の産物であり、でたらめや嘘なわけです。僧侶もただの胡散臭い話ではなく、しっかりと仏教に相応しいものにしようという意図はあったでしょう。


昔は「源氏物語を法華経より読み解く」なんてのもありました。


日本では怪談や神秘的な話を編纂して残す行為は、僧侶よくがしていたのですけどね。僧侶は当然ながらある程度の仏教の知識がある前提で編纂しているので、内容が非常に教訓めいていたり、仏教的な解釈が加えられていたりはままします。そもそも説話ってそういうものですし。


「布施をすると良いことがある」、「悪口を言うと恐ろしいことにあう」というのは、仏典にもある話ですし、因果応報の道理から考えても間違ってはいないのですがね。『日本霊異記』は何というか、内容がやり過ぎです。当時の日本人に因果応報を理解させるのには、それくらい必要だったのでしょうけど。

そういえば『日本霊異記』には僧侶を愚弄した男が酷い病気にかかってしまい、後になって僧侶に謝罪し助けを求める話があるのですけどね。僧侶はその時に「お前など死んでしまえ」と言い、男は苦しみ悶えながら死ぬという結末です。仏教の慈悲や忍辱(恥辱に耐える)という教えを完全に無視した話です。

ハコ[゚д゚]ノザキハコネ
? @hakoiribox
9時間9時間前

今昔物語や日本霊異記が面白いのは「仏法僧を敬わない奴は苦しんで死ね」といわんばかりの、鎌倉以後の洗練された仏教とはまた違う宗教観が存分に顕れてるところと、千年前の人の暮らしぶりや抱いていた迷信が生々しくよく描かれている点なのですよね。

ふぎさやか
? @maomaoshitai
8時間8時間前

今昔物語は編纂者が法華経を重視していたであろうことは、作中の経典の神通力比べの話の類でわかるのですけどね。法華経では「龍」は女人成仏、畜生成仏という象徴的な場面で登場しますから、編纂者は蛇を意識的に出していた可能性あるよなあとは。

蛇は強欲と嫉妬の象徴です。中国でも「怨みを抱いて死んだ人間が、死後に蛇となった」、「生前に強欲だった僧侶が、死後に蛇となり財宝の上から離れない」といった話は残っています。日本の僧侶もある程度は知っていたはずです。


釈尊と阿難尊者が雨の日に地面から現れた何かを見て「毒蛇である」と会話しているのを見た男が、二人が通り過ぎた後にどんな蛇なのかと見てみると、大雨により姿を現した埋蔵金であったという話です。男はそれをネコババしたことがばれてしまい、王になぜ報告しなかったと罪を問われてしまうのですが。


『十誦律』という仏教の有名な書に、釈尊と弟子の阿難尊者が財宝を「毒蛇」と言う場面があるので、仏教の説話であれば筆者がその知識を前提に編纂している可能性あるのではないかなあと。

ハコ[゚д゚]ノザキハコネ
? @hakoiribox

今昔物語や日本霊異記には「欲深い僧侶がこっそり米をため込んでいた。ある時米びつを開けると不思議な事に米が蛇に変わっていて驚いた」という懲罰譚が出てくるけど、これなんかも仏教によって妖怪化されているが、米や富貴と蛇が結びつけて考えられた時代の名残っぽいんだよね。


止観明静
? @George_Tom_Y
2時間2時間前

憎むべき人の幸せを心から祈ることができる人は、感謝の心に安住して揺らぐことがない。
0件の返信 1件のリツイート 5 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
5時間5時間前
返信先: @yasutakakuuさん


神や仏を信じるということは、あなた自身を信じるということです。仏さまや神さまは他人様じゃなくて、未来のあなたなのです。未来のあなたと向き合って、目と目をあわせてみましょう。


おはようございます。全ての存在に感謝。全ての存在がそれぞれの特徴を生かして輝きますように。
0件の返信 0件のリツイート 7 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
18時間18時間前

人生の目標に向かって楽しむことが大切です。
0件の返信 1件のリツイート 16 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
22時間22時間前

努力は怠惰に勝る。しかし、楽しむことは努力に勝る。

瞑想は心と身体に良い効果をもたらします。私たちを平安と平穏へと導くでしょう。
0件の返信 1件のリツイート 6 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2月8日
返信先: @Fran269さん

同感です。特に教学は信仰の学問だから、最終的には信じるか信じないかになるので、永遠に決着はつかない。
0件の返信 0件のリツイート 2 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2月7日

他人にどう思われているかを気にするより、自分が自分をどう評価しているかを気にしたらいい。 自分を高く評価していれば、他人もあなたを高く評価しているだろう。
0件の返信 2件のリツイート 12 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2月7日
返信先: @Fran269さん

自己評価を他人に委ねてはいけない。他人は真のあなたを知らず、正当な評価が出来ない。

自己評価は自己が高く評価すれば良い。

実際あなたは大変魅力的だし、学識高く、人格も研ぎ澄まされている。
あなたに比する人はいない。


☆かおりのすけ☆? @kaorinosuke
やっぱり呼吸法をしっかりやった日は体調良く頭もスッキリ回るし、身体が柔らかくなる。某ママさんから理不尽な事を言われてすっごいムカついたんだけど、すぐに落ち着いたし。ウジャイ効く。
メモ セロトニンを活性化

?太陽の光を浴びる
?リズミカルな運動(ヨーガ、呼吸法、ウォーキング等)
?ゆっくり噛んで食事
?スキンシップ(神経の感覚を高める)
?マッサージ(ツボ押しも含む)
?軽いお喋り等楽しいコミュニケーション



お友達が通っているインター、ヨガやメディテーションの授業が有るという。不定期だけど。

日本の学校でも呼吸法クラスとかあったら良いのにねーなどという話に。

自分で教えるしかないか。
1件の返信 0件のリツイート 0 いいね

☆かおりのすけ☆? @kaorinosuke

大人になってからの勉強は本当に楽しい。
でも時間を奪われてるからなかなか出来ないんだよね。わざとそういう仕組みにされてるのがムカつく。

?鼻呼吸 ?こまめにうがい、又は水分摂って粘膜についたウイルスを流す(数口ゴクリを短いサイクルで) ?除菌剤、除菌シート等使わない ?腸マッサージして免疫力up



☆かおりのすけ☆
? @kaorinosuke

肩は外旋。肩甲骨の先をお尻のポケットにしまう感覚。
0件の返信 1件のリツイート 1 いいね
☆かおりのすけ☆
? @kaorinosuke
2時間2時間前

をを!ハタヨガの真髄、
私も読んでるー^ ^

何度も読まないとね。。
(私へのエアリプ)

U
? @wayofthewind
33分33分前
返信先: @kaorinosukeさん、@kitsuchitsuchiさん

カイロを仙骨や風門や肝臓の背中側に貼るのもおすすめです。

血行がよくなって全身ぽかぽか(o^^o)

免疫力も高まり、排毒もうながされます。










止観明静

人の悪口を言っている暇があったら人の美徳を賛嘆してみよう。 人の美徳を褒める人は間違いなく自己評価も高い人だ。
0件の返信 0件のリツイート 1 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2時間2時間前

おはようございます。全ての生命に悟りの光が訪れますように。
0件の返信 0件のリツイート 2 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
12時間12時間前

眼・耳・鼻・舌・身・意の六根とは五感に心を足したものである。五感に意識を集中して心を静めることで現実と自分とを結びつけることができます。
0件の返信 2件のリツイート 8 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
16時間16時間前

理想を持ってそれを絶対視したり、現実を捻じ曲げようとする思想を設計主義と言います。
理想は脳内にあり、現実にはありません。設計主義は狂った主義思想です。 現実を直視し、歴史・経緯を理解し、より良い方向に人・社会を保全し守ることが保守主義であり、人が寄って立つべき唯一の思想です。
0件の返信 3件のリツイート 11 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
20時間20時間前

力を抜いて端座するならば、あらゆる病を癒すことができるだろう。
0件の返信 3件のリツイート 14 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
1日1日前

保守とは、頑迷に過去に価値を置くことではない。 保守とはメンテナンスであり、過去から積み上げられてきた精神をもとに現在を修正して未来を理想的な状態に近づけていくことである。


あらゆることにホメオスタシスは働く。それは川の流れのように再生産され維持されてゆく。 その流れに少し手を加えればより良い流れを生み出し、維持することができる。 その行為が保守・メンテナンスである。
0件の返信 0件のリツイート 1 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2時間2時間前
返信先: @keikei2018さん

それは心と身体のメンテナンスに他ならない。
0件の返信 0件のリツイート 0 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2時間2時間前

本音は口に出すものではない。話していいのは人生の師として仰ぐ善知識、真友だけだ。
自分の本当の夢、本当の誓願、本当の志は家族にも明かさない。
何故なら彼らは人間関係の現状を維持したいがために反発し、あらゆる手段であなたの夢を阻止しようとするからである。
0件の返信 6件のリツイート 13 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
2時間2時間前
返信先: @keikei2018さん

休息は大事です。
身体をもっといたわりなさい。
休息をとり体調を整えることも仕事であり、修行なのです、


感覚と感情は、事実と同程度に重要である。


返信先: @amrtamanthanaさん

改修終わるの10年くらいかかりますよ。やっと立屋作って中
堂を覆ったそうです。これから回廊に覆いをつくるみたいですよ。
他にもお堂はありますのでご参拝下さい。
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止観明静
? @George_Tom_Y
2月1日
返信先: @amrtamanthanaさん

根本中堂大改修中ですけど、多分中に入れますよ。雪がすごいって。

現在の自分はこれまでの自分の人生で最年長であるが、これからの人生では最年少だ。 何でもやりたいことをやってみるのがいいだろう。今から始めても遅すぎることは何もない。
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止観明静


道心とは、目的(悟り)に向かって行く意思のことである。目的に至る行程こそが尊いのであり、故に道と表現するのである。

? @George_Tom_Y
1月31日

大日如来の心臓より四如来は流出し、東方は阿?佛、・南方に寶生佛、西方に阿彌陀佛、北方に天鼓雷音佛として安住する。
四如来の総体は大日如来に他ならない。
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止観明静
? @George_Tom_Y
1月31日

初会金剛界曼荼羅では中央の大日如来がすべての仏を包摂する存在であり、その機能を四つに分割したのが四如来(大日を含めれば五智如来)で、そのまた四如来の機能を四つに分割したのが十六大菩薩である。
つまり下位概念が菩薩で最上位が大日如来。大日如来は空・allを意味し、その故に一切如来と呼ぶ。
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止観明静
? @George_Tom_Y
1月31日

目的に夢中になると却って危険である。それは焦って運転して事故を起こすことと同義である。 目的を持ちつつ運転そのものを楽しめば良い。目的に至る行程こそが尊く楽しいものである。
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止観明静
? @George_Tom_Y
1月31日

歩くことは移動することが目的である。 寝ることは身体を修復する目的がある。 座ることは仕事をする目的や、休憩する目的がある。 これらの目的を意識しよう。 また、これらの目的はさらに上位の目的の手段でもある。 常にあらゆるレベルでの目的を意識することで質の高い高次な生活が実現する。




天台智者大師智顗 bot
? @w_lotus_sutra
1月28日

一目の羅(あみ)は鳥を得ること能わざるも、鳥を得るは羅の一目のみ。衆生の心行はおのおの同じからず。あるいは多人にして同一の心行あり、あるいは一人にして多種の心行あり。……すべからく広く法網の目を施して心行の鳥を捕うべきのみ。(『摩訶止観』巻第五上)
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止観明静さんがリツイート
天台智者大師智顗 bot
? @w_lotus_sutra
1月28日

羅(あみ)を張ることすでに広ければ、心の鳥おのずから得ん。(『摩訶止観』巻第六下)


返信先: @keikei2018さん

まずは自分を許します。

一番憎い人、嫌いな人の幸せを祈ります。

口先だけでいいのです。

いつか広い心を手に入れますよ。

止観明静
? @George_Tom_Y
3時間3時間前

目的に至る方法は無数にある。ところが心が散乱すると一つの方法しか無いように勘違いしてしまう。
心と身体をときほぐして一旦立ち止まり、二秒間考えてみよう。たった二秒間でも無数の可能性があることに気づくだろう。


人は今を生きている。 ところが過去に生きる人、未来を生きる人もいる。 今は去った過去に執着したり、今はまだ来ない未来で頭を一杯にしたりして現在を疎かにしてはならない。現在を大事にして心を込めて楽しめば、それは楽しい過去になり楽しい未来がやって来る糧となる。


眼・耳・鼻・舌・身・意の六根とは感覚器官と感覚(情報)を含んでおり、知覚作用(意)をも含んだ概念である。 その意味で所謂五感とは違うのである。




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止観明静
? @George_Tom_Y


法身とは、情報のことである。情報としての釈迦は普遍であり滅びることがない。 報身とは、情報(法身)によって形成された釈迦のことである。受け取り側である私達の心中に表出された仏のことである。 応身とは、物質的な存在である、実際に説法された釈迦のことである。
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止観明静
? @George_Tom_Y
1月26日

「?ですが」という言い方をしていないだろうか。「が」を使うとき、自分の意思が相手と違うにもかかわらず自分の責任を回避している言い方である。 相手の意見を受け入れた上で自分はこう思うと責任を持って発言しよう。 無責任な発言はしない方がましである。
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止観明静




空はallです。空がallであることを知ることが智慧です。
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止観明静

「空」は「無」と違う。「空」はそれを見ている(認識している)自分がいる。存在と非存在を内包している最上位概念である。 無は何もないということで、最下位の概念である。
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止観明静

咄嗟に行動する時、例えば玄関のチャイムが鳴って急いで立ち上がるような時、無意識に行動していないだろうか?そんな時程怪我をするものだ。 2秒待って一つ一つ意識に上げて行動してみよう。意識に上げることで違う行動を選択することができる。 少なくとも同じ間違いは無くなるだろう。
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止観明静
? @George_Tom_Y
15時間15時間前

「空」は「無」と違う。「空」はそれを見ている(認識している)自分がいる。存在と非存在を内包している最上位概念である。 無は何もないということで、最下位の概念である。
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止観明静
? @George_Tom_Y
19時間19時間前

いつも上機嫌でいよう。何があっても上機嫌でいられるのは、メンタルが強力な証拠である。


礼儀正しさは最強の攻撃力である。礼儀正しくされたら何人も逆らうことが難しく、阻止することが出来なくなる。
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止観明静
? @George_Tom_Y
1月23日

おはようございます。全ての生命にとって幸せな1日が訪れますように。

意識せずに良い姿勢になるのが理想と考えているかもしれない。
現実はそうではなく、いつも意識している?態が良い姿勢を生み出す。
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止観明静
? @George_Tom_Y
1月23日


0
世界中で生きている我々生命は全て心優しき仏の子供であって本来純粋で素晴らしい存在であると法華経では説かれております。 仏の子供としての自分を信じ、励まし、過去現在未来と向き合うことが一番大事なことなのです。
1件の返信 4件のリツイート 7 いいね


止観明静

1月18日

無意識のうちに行われる心の中の独り言は、1日四万?六万回と言われています。この心の中の独り言によって心が規定されているといっても過言ではありません。 呼吸に意識を向けることによりこの独り言を抑制し平安な境地に至ることを「止」といいます。



やるリスクを心配する人が多いが、実はやらないリスクの方が大きい。
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止観明静
? @George_Tom_Y
1月15日

何かを手に入れたかったら、必要無いものは手放すことだ。




止観明静
? @George_Tom_Y
1月14日

人はどんなに困難な状況であっても、自ら解決する力を持っている。 ただそれを信じていないから、力を発揮できないのだ。
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止観明静
? @George_Tom_Y
1月13日
返信先: @kanetsugu_naoe7さん


返信先: @kanetsugu_naoe7さん、@Fran269さん

信仰だと「信じ仰ぐ」ですからね。上下関係で見ている。
信心だと仏と仏の関係。あなたも私も仏ですね。




幸せは、今すぐになることができる。 幸せは自分に内在するものであり、自分以外のところからやって来るものではない。
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止観明静
? @George_Tom_Y
1月12日




優れた師弟関係には、智恵の超越が起こる。 師匠は弟子の存在によって未知の智恵が引き出され、弟子は師匠の教えた記憶のないものを読み取る。 智恵の超越が起こるのが、正しい師弟関係だ。



? @Fran269
1月13日

神仏を信じることは、人を信じることと、自分を信じることと、深いところでは同じでなければならないと思う。それぞれがバラバラだったらおかしい。

神仏は信じるが人は信じないとか、自分を信じられないとか、そういうのってバランスが悪い。

自分や人の「良き部分」をキャラ化したのが神仏だもの。
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? @Fran269
1月13日

宗教や宗派に固執する人って、かりそめの自我に固執しているだけなのではないかな。

レベルの高い人ほど、他宗教・他宗派にも理解があるよね。
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? @Fran269
1月13日

この現実世界の中に神仏を見出しながら生きていく。自然の中にも、自分の中にも、他人の中にも。。。

そしたらきっと毎日幸せで楽しいよね
1件の返信 1件のリツイート 5 いいね

? @Fran269
1月13日

「信仰」という言葉は「神仏(尊格)を信じて祈ったり拝んだりする」イメージが強いと思うが、わたしはそんな小さな「信仰」は要らない。もっと、この宇宙まるごと愛せるようになりたい。そういうデカい意味での信仰を持ちたい。
2件の返信 2件のリツイート 8 いいね
止観明静
? @George_Tom_Y
1月13日

まさに同感です。すべて私の気持ちを代弁していただきました。ありがとうございます。(^^)
1件の返信 0件のリツイート 1 いいね

? @Fran269
1月13日

「キャラ化」とか書いちゃっているのに!?笑?

有難うございます?
1件の返信 0件のリツイート 1 いいね

止観明静? @George_Tom_Y
返信先: @Fran269さん

キャラ化、言い得て妙です。人の理想を抽象化した存在が諸仏ですよね。(^^)
22:00 - 2018年1月13日



スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
2017年5月21日

慈悲のない私達は言葉や仕来りに細心の注意をはらって生きている。いつでも相手の気持ちを読み取ろうとしなくちゃいけばいい。面倒くさくないですかね? もしも心に慈悲があれば、すごく気楽に生きていられます。どんな言葉を使ってもその裏に差別感情がないから、それは相手に伝わるんです。
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スマナサーラ長老の仏教法話さんがリツイート
スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
2015年7月19日

区別:区別能力とはものごとの差を知ることです。
差別:(主観で)善悪を判断することです。
分別:すべき行為/すべきでない行為を選ぶ能力です。
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スマナサーラ長老の仏教法話さんがリツイート
スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
2015年7月19日

人を差別する場合、「違い」を自我(自我という錯覚)で受け取って苦しんでいるのです。
自我があると、認識するたびに苦しみを感じるのです。
自我のせいで、「違い」が苦しみに、地獄に変わるのです。
自我がなければ、違いが面白くて楽しくて仕方がなくなるのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話さんがリツイート
スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
2015年7月19日

自分(自我)をモデルにして、他を差別する。これは恐ろしい罪です。修行しても抜きがたいのは、この差別の罪です。蟻一匹でもそれぞれ違いますよ、という違いを発見して、違いを楽しまないといけないのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話さんがリツイート
スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
2012年6月7日

#jtba スマナサーラ:マーラは女性を侮辱する。
「二本指の知恵しか無いくせに何をやってるんだ」(料理の塩加減を見る程度の頭しかない)と。
ソーマー比丘尼「もし誰かに、私は女だ、男だ、その他の何者だ、という気持ちがあるなら、その人にマーラと言うべきです。」真
理の世界に男女別は無い。
0件の返信 4件のリツイート 8 いいね
スマナサーラ長老の仏教法話さんがリツイート
スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
2017年10月20日

女性は支配力があるから、悟りの世界を知っているならば、その女性の支配力が役に立ちます。
ちなみに日本仏教では女人禁制とかありますが、テーラワーダ世界では逆です。
女性の修行道場には男性立ち入り禁止。男が修行しているところには女も自由に入れます。
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スマナサーラ長老の仏教法話さんがリツイート
スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
4月3日

経典では、在家が悟ったり、女性が悟ったりするとハイライトして強調するのは、宣伝のためではなく、戒めのためなんです。
「私は○○だから……」と言い訳するなよと、努力すれば解脱まで進むんだよと。とにかく生命は平等だよと言いたいんです。


ニー仏
? @neetbuddhist
5 時間5 時間前

当たり前のことだけど、人間が他人のために自身の幸福を少しでも犠牲にするということは、けっこう大変なことなんですよ。
そのことに対して配慮する気は全くない(つまり、自身の幸福はわずかでも犠牲にしたくない)人が、他人にだけ「配慮」を求めるというのは、すごく滑稽なことではないですかね。
0件の返信 36件のリツイート 97 いいね
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ニー仏
? @neetbuddhist
5 時間5 時間前

「すみませんねえ」「いえいえ、いいんですよ」のやりとりは「互いに」配慮してコミュニケーションを成り立たせるにはすごく大事なことだと思うのだけど、その「すみませんねえ」がとにかく言いたくなくて、「おまえが一方的に私に配慮して当然だ」とか叫ぶからこじれているケースも多いと思いました。
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ニー仏
? @neetbuddhist
6 時間6 時間前

新刊のテーマ(の一つ)が、まさにこれですわ。
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ニー仏さんがリツイート
ひやしんす
? @ERcUp5PO2AGVtWh
18 時間18 時間前

ここでいう動物化は、ニー仏さんがここで仰られている意味でのものです。
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ニー仏さんがリツイート
ニー仏
? @neetbuddhist
3月4日

これは全くそのとおりで、私が「感覚に開かれて、それの告げるままに生きればいいの♪」みたいなお気楽言説に抵抗し続けているのは、そのようなナイーヴなスタンスに基づいた実践は、多くの場合において本人が単に自身の傾向性の奴隷になり下がること、換言すれば「動物化」を帰結してしまうからです。
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ニー仏さんがリツイート
ひやしんす
? @ERcUp5PO2AGVtWh
19 時間19 時間前

有心のマインドフルネスを通らずして無心のマインドフルネスをやろうとすすると、ただ動物化してしまうという罠があるように思いますね。
1件の返信 21件のリツイート 35 いいね
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ニー仏さんがリツイート
ひやしんす
? @ERcUp5PO2AGVtWh
19 時間19 時間前

最高の芸とは、なすべきことが向こう側から来て、こちらはそれをただただ受け入れるだけという状態、それが無心の位。
0件の返信 19件のリツイート 29 いいね
ニー仏さんがリツイート
ひやしんす
? @ERcUp5PO2AGVtWh
19 時間19 時間前

世阿弥は、稽古をするうえで用心=有心のマインドフルネス(ここでは身体の動きの全てに意識を行き渡らせる事)を非常に重要視した「上で」、この用心がある限り最高の芸はできないと言うそうです。
0件の返信 28件のリツイート 43 いいね
ニー仏さんがリツイート
ひやしんす
? @ERcUp5PO2AGVtWh
19 時間19 時間前

結局のところ、世阿弥も言うように、無心のマインドフルネスの入り口は有心のマインドフルネスなわけです。
0件の返信 13件のリツイート 18 いいね
ニー仏さんがリツイート
ひやしんす
? @ERcUp5PO2AGVtWh
19 時間19 時間前

某仏教3.0で有心のマインドフルネス、無心のマインドフルネスというのが以前言われていたけれど、禅の予備知識がない頃は、この「無心」が今まで「仏教」の中でどんな文脈で語られていたかのか知る由もありませんでした






主体が、何か変わらないものがあるなら、消化できないものをおなかに飲み込んだようなものです。宇宙全体どこを見ても、核たるものはないのです。原子核という核にしても変化しています。自我を前提とした思考では、輪廻は理解できません。自我意識を破らなければ[いけないのです]。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

自我[の錯覚]が破れれば、「なんだ当たり前のことだ」となります。変化することが生きることです。実体があったら困るのです。ご飯さえも食べられなくなります。

無常だから、実体がないから、物事は変化するのです。変化するということが輪廻です。今の状況が止まれない、変化するのだということ。
3件の返信 2件のリツイート 7 いいね
スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

変化には停止が成り立たないのです。何かに変わって、変わって続いていく。止まることなく変化する。わからないのは、「『私』が死んでどこに行くのか?」と訊いてしまうからです。それは「馬の翼はどのくらい長いですか?」と訊くようなもの。質問自体があまりにもアホラシイのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

「『私』は、過去どこにいたか?」と探したところで、「あなたは、今もいないんだよ」という話です。今もいろんなものを組み立ててできているのだから。単語をいろいろ使ってもいいけど、実体はないのです。みな、私がいると思っているが、性格は条件によって成り立っているものです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

ここ(会場)から家に帰ったらもう別人です。いまもずーっと別人に成り代わっているのに、「私がいる」ということ自体があべこべ思考なのです。あべこべ思考で質問されても、お釈迦様は答えません。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

「私」が成り立たないんだということは、真理を発見しないとわからないけど、「馬の翼のたとえ」を頭で回転させて、ものごとは絶え間なく変化するんだよ、と憶えておけば充分だと思います。物はずーっと不安定で変化することを発見するために、物理学者もずいぶん苦労しました。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

確固たる物質はなりたちませんよ、と発見するために。
現代科学よりはるかに卓越した心の研究である、
仏教を理解するのは難しいのです。

では、死後は跡形もなく消えるとは言えるのでしょうか?
紙を燃やして消えたら無になったのでしょうか?
変化したのです。燃やした紙の灰を見て、
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

元の紙をイメージできるでしょうか。紙を燃やすと二酸化炭素ができます。
二酸化炭素を見て、「これはこないだ読んだ週刊誌の紙だよ」といえるでしょうか。
週刊誌という実体があったなら、二酸化炭素を見てそれがわかるはず。
実体があるというアベコベ思考では、輪廻の理解は無理です。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

その代わりに、人々はひとかけらも証拠もない「魂」をよく信じること。たったひとかけらでも証拠がある? 「魂がある」という証拠が一億分の一でもあるならば出してください。
それさえもないのに、魂がある、魂があると。こういうのは話にならないんです。だから、余計なことは心配しないでください。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

私が具体的に、人生を一週間で変えることについて教えているのに、それにはまるっきり無関心で、
「輪廻転生はどうなんでしょうか?」と訊く。やっと幼稚園に入った子供が、幼稚園でやることを何もしないで、「お母さん、宇宙船に乗せてください、宇宙を旅したいんだから」と駄々こねるようなものです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

「いま・ここで幸福になる道」をブッダが教えているのです。それに挑戦してみたほうが現実的だと思います。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

他宗教を例にすると、仮に創造記のアダムとイブの話が嘘だったら、人間には原罪という罪がなくなるのです。原罪がなくなったら生きることはなぜ苦しいかとキリスト教徒に説明できなくなります。それを否定されたら、宗教が崩れてしまうのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

そんな屁理屈は喜んで信じるのに、輪廻転生はどうのと、毎回質問されるのですね、日本では。

輪廻転生はあったりまえのことです。宇宙の現象すべて輪廻ですから。太陽があるということに証拠を出す必要ない[でしょう]。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

地球が丸いということは事実です。「私にわからない。ゆえに地球は丸くない」というのはちょっと我慢してほしい。お釈迦さまは、巨大なスケールで、一切の真理を知り尽くした上で語っているのだから、われわれに消化しきれないことはあります。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

昨日もちょっとアビダルマ(『ブッダの実践心理学』サンガ刊)の文章を作っていたのですが、こころの認識プロセスについて、いくら頑張っても一般の方々に理解できるように語ることは難しいのです。頭の中にデータはあるのに。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

お釈迦さまは一切を知り尽くした方です。われわれはまだ調べている途中なんです。でもお釈迦さまは、誰にでも真理をわかるようにはしています。そのためには心のレベルをもうちょっと向上させないといけないのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

アベコベに考える、非論理的に考えることは止めないといけない。自分の主観で考えることは止めないといけない。「ありのままに考える」という能力が必要なんです。そのためには、それなりの方法も修行もあります。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

また他宗教の立場から考えると、人間はみな原罪で苦しんでいると。女性はお産で苦しむと、『聖書』に書いてあります。神の怒りによってわれわれの苦しみがあるという。神は全知全能で慈悲深いといいながら、永遠に人類を呪っているのだから。とんでもなく恐ろしい思考でしょう。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

人間は罪を犯した本人は罰しても、関係ない家族は逮捕しません。それに比べて神はなんだと。[宗教の神話物語は]屁理屈です。その屁理屈を発見したら、囚われないで済みます。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

神が人類に苦しみを与えたというなら、その苦しみは同一のはずです。しかし、生きる苦しみはそれぞれです。なぜ苦しみが個人個人違うのか。原罪の話を信仰する人々に聞いてみたいのです。原罪なら全員同じはずです。しかし、苦しみはそれぞれ違う。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

出産の苦しみも、子育ての苦しみも、人それぞれ。なぜこの差があるのか? だから、仏教ではひとりひとりは個人であって、その個が自分の行為によって幸福も苦しみも味わっているのだと言うのです。それなら、答えは簡単でしょう。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

この花瓶に生けられた花を見ても、みな同じことは感じません。個人が花を見て感じる楽しみは、それぞれですが、その個人も、自分がいる場所によって、年によって、また異なる。そこには神の言葉も、予言もいりません。ただありのままに物事を見る能力があればわかります。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

なぜ違うか、いろいろ理由はいえます。それらを全部カットしても、違いは残るのです。それは過去の業です。同じ夫婦から子供がうまれる。たとえ一卵性双生児でも、違う人間です。同じにはなりません。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

……ドラゴンがいなくても、ドラゴンという言葉はあります。言葉にひっかかるのは危ないのです。魂という言葉があるからといって、魂という実体があると勘違いしてはいけないのです。理性と論理でものごとを考えれば大丈夫ということです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

私からいくらつぶされても、疑問に思ったことを質問する勇気を捨てないでください。

証拠のないこと信じられないという人々に釈尊は[こう問いかけました。]殺したり盗んだりうそをついたり……と、あらゆる悪行為をすることはよいことでしょうか? 知識人なら、それは悪いことだと答えます。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

そういうことをするとよい結果が出ますか? 出ません。では、殺したり盗んだり嘘をついたり……する人を社会がほめますか? ほめないです。では、もし死後があったならば、その人はどこにいくでしょうか? 死後があるならば不幸なところに行かないといけない。反対もしかりです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

超越した智慧がなくても、ほら、法則は知っているでしょう? という話です(カーラーマ経)。悪いことしないで、善いことしなさいと。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

宗教はみな、自分の宗教を信じる人は天国にいくといっている。
イスラム教とキリスト教と、天国に行く方法が違います。
では天国に行くのはどんな宗教を信じる人でしょうか?
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

釈尊はこう仰います。もし死んでから永遠の天国がなかったとしましょう。正しかったのは他の宗教だったとする。そしたら後の祭りです。教えが正しいと、いま・ここで経験しなければ、理性ある人は納得しません。だからお釈迦様は解脱ということをいま、ここで体験できるように教えて下さったのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

もし解脱を体験できなくても、仏道を歩めばその日から幸福になるのです。
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新しい会話
スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

輪廻は人間の理解範囲を超えているので、私は話のテーマにしたくないのです。でも、日本ではよく訊かれます。日本のお坊さんは堂々と輪廻を否定するんだから。それで唯物論を語るのです。宗教を否定しているんですから、だったらお寺からも出て行ってくださいといいたいですが……。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

自我というものは成り立たない。すべては絶え間なく変わるんです。太陽も、地球も変わり続けていますが、それぞれの変化の周期は違う。花の変化も違う。手のひらの氷の変化のスピードも違う。現象の世界ではばらばらに変化しますが、真理の世界では、物質はみな同じスピードで変化します。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

それは瞑想したりして体験できます。お釈迦さまの教えが正しいことは、いま・ここで体験できます。あなたがたが「慈悲の瞑想」でもしたならば、地獄に堕ちたくても堕ちられません。誰にでも優しい人は、死後どこに行ってもそこは天国です。仲間として心配しあうのだから。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月29日

だから死後の世界はどうでもいいのです。心清らかにすることに励んでください。(了)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月30日

(2008/6/21 名古屋法話メモ続きです。)

Q:最高の心とは? そこに至るプロセスとは?

A:怒らないためには、精神的なエネルギーがいります。だから頑張りましょう、怒らないために。怒り・欲・嫉妬などあらゆる感情に対しても冷静でいられるように。良いことにも悪いことにも冷静でいられるように。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月30日

私たちは怒らないで楽しく生きようということを目指しているのです。でももっと上なのは、幸福にも不幸にも冷静、びくともしない心です。一切執着ない状態です。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月30日

罪を犯すことは誰にでもできます。悪いことするには、何の訓練もいりません。誰にでもできます。母親に迷惑かけるのは簡単ですが、母親を助けてあげるのは大変です。罪を犯すのは簡単ですが、罪を犯さないのはたいへんなのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月30日

さらに、「善行為」をすることはもっと大変。精神的な力もいります。最高なのは、何があっても心が波を起こさないこと。心が頂点に高まらないと解脱できないのです。みんな、非難されたら怒って気持ち悪くなるでしょ?
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月30日

「私は非難されても批判されても冷静でいられるようになりました」という人は、人間として成長したといえるかもしれない。でもその人も、褒めてもらうと気分がいい。それはけしからんことだと、私は言うのです。人に褒められても舞い上がってはいけません。それが次のステップなんです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月30日

それから三番目のステップは、何にも動じないこと。無知な人と悟った人は似ているように見えるけど違います。無知な人は、何も知らないから無関心です。悟った人はすべて知っているから、知り尽くしているから、何があっても冷静なのです。何にもめげない、動じない心が最高です。(続く)
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月31日

Q:無価値論について。宝石などには執着ない。でも人間がつくった創作物、映画、文学などに対する執着を拭い去れないで困っています。どうやったらそういうものへの執着を消していけるでしょうか?

A:すべてのものへの執着を捨てなければ悟れないのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月31日

手段としては、慈しみで見ること。「人々の役に立ちますから。人々の苦しみがなくなりますから」という視点で、一時的に価値を入れておくのです。慈しみで見れば、執着につながらない価値観を持つことができます。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月31日

私も個人的に、「生きていることは意味がないなぁ」と思ったりします。でも、一日でも元気でいれば、なかなか他のお坊さんにも説明できない、ブッダの偉大なる真理を教えられるんだから……と思うんです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月31日

生きていても意味がないと思うと、食べる気持ちもなくなるのです。そこで、慈しみで一時的な価値をつけておく。それも一時的なんです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月31日

お釈迦さまはご自分の教えを筏(いかだ)にたとえています。お釈迦さまの真理の教えさえ、「価値」でしょう? 真理というのはトップグレードの価値でしょう? でも、この真理は解脱に達するためにあるのだと。そこで筏にたとえるのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月31日

筏は恐ろしい川を渡るためにつくるのであって、それに乗って安全な境地に至るのです。川を渡ったら、背負って持っていくものではない。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月31日

そのように、ブッダが語る真理も、解脱に達するまで使ってください。そこで無価値論をもってくるのです。しかし筏は解脱に達するまで価値があるんです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月31日

Q:輪廻について、心がつくったエネルギーが輪廻する、ということでいい?

A:しかし、心は体よりもさらに早く変化するんですよ。[こうやって]言葉を聴くたびに、心が変わっていく。心は体よりも、ものすごく早いスピードで新しい心になるんです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月31日

あまりにもスピードが速いから輪廻転生に[まで]なってしまう。[ですから、]心を見て「私」とはいえません。

時々、過去にやったことを思い出すと恥ずかしくてたまらないでしょう。
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スマナサーラ長老の仏教法話
? @jtba_talk
3月31日

そのときも「自分の心」だったんですけど。心は流れですが、過去の流れを思い出すと嫌になったりする。

どこにも、[変わらない]「自我」はないんです。心は無常です。体よりも無常なんです。(続く)

?生きとし生けるものが幸せでありますように?


ニー仏
? @neetbuddhist
13時間13時間前

著書で繰り返し明示的に書いたことだけれども、「輪廻と無我は矛盾する。だからゴータマ・ブッダは輪廻を説かなかったはずだ」みたいな主張をしてしまう人は、端的に仏教がわかっていない人です。それは、学問的・論理的な意味ではもちろんのことだけど、経験的・実践的な意味においてもそうだと思う。
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ニー仏
? @neetbuddhist
3月9日

ニー仏さんがムをリツイートしました

想像力を「気持ち」のレベルだけで考えるのが誤りだ、という話なのですが、それを読み取ることができなかった上に、「他人の気持ちなんて理解できない」という世の中的に何やら正しいっぽいことを言って自分の立場に居直ろうとするあたり、まさに現代の郷原の愚かさそのものを表現したツイートですね。

ニー仏さんが追加

@itin00954049
他人の気持ちなんて理解出来ないし、それは自分の妄想の域を出ないので。
自分の気持ちを述べた方が嘘がなくて良いと思います。 https://twitter.com/neetbuddhist/status/971989031998259202 …
0件の返信 36件のリツイート 57 いいね
ニー仏
? @neetbuddhist
3月9日

「自分は想像力がある」と思っているけど、実際には「状況について考えた時に自分が感じたこと」を語っているだけの人は多いですね。想像するとは他者の境遇に身を置き入れるために自分の気持ちを可能な限り離れることだけど、むしろ自分の気持ちに他者を引き込むことを想像力だと思い込む人たちです。
1件の返信 240件のリツイート 572 いいね
ニー仏さんがリツイート
隠居
? @knight_04
3月9日

それは相手の立場に立ってるのではなく、相手の立場を利用して自分に好都合なことをやりたい=相手に自分に都合の良い行動をとって欲しい、ということに他ならないw
0件の返信 82件のリツイート 105 いいね
ニー仏さんがリツイート
隠居
? @knight_04
3月9日

「相手の立場に立って考える」というときに「自分がその立場ならこうするのに」みたいな全然相手の立場に立ってない人大杉
0件の返信 163件のリツイート 292 いいね



ニー仏
? @neetbuddhist
3月9日

ニー仏さんがムをリツイートしました

想像力を「気持ち」のレベルだけで考えるのが誤りだ、という話なのですが、それを読み取ることができなかった上に、「他人の気持ちなんて理解できない」という世の中的に何やら正しいっぽいことを言って自分の立場に居直ろうとするあたり、まさに現代の郷原の愚かさそのものを表現したツイートですね。

ニー仏さんが追加

@itin00954049
他人の気持ちなんて理解出来ないし、それは自分の妄想の域を出ないので。
自分の気持ちを述べた方が嘘がなくて良いと思います。 https://twitter.com/neetbuddhist/status/971989031998259202 …
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ニー仏
? @neetbuddhist
3月9日

「自分は想像力がある」と思っているけど、実際には「状況について考えた時に自分が感じたこと」を語っているだけの人は多いですね。想像するとは他者の境遇に身を置き入れるために自分の気持ちを可能な限り離れることだけど、むしろ自分の気持ちに他者を引き込むことを想像力だと思い込む人たちです。
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ニー仏さんがリツイート
隠居
? @knight_04
3月9日

それは相手の立場に立ってるのではなく、相手の立場を利用して自分に好都合なことをやりたい=相手に自分に都合の良い行動をとって欲しい、ということに他ならないw
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ニー仏さんがリツイート
隠居
? @knight_04
3月9日

「相手の立場に立って考える」というときに「自分がその立場ならこうするのに」みたいな全然相手の立場に立ってない人大杉
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ニー仏
? @neetbuddhist
2014年3月28日

だから、仏教理解の上で大切なのは、そのような生き物にとっては普遍的で当たり前の傾向に、敢えて逆らった時に何が見えるのか、「世界(loka)」がどう変わるのかということ。この点について、言語の権利と能力の及ぶ限りで語るのが、『仏教思想のゼロポイント』ですね。


のん@3/6まで南米
? @nontan318
2014年2月15日

サンスクリットで「世界」はloka-dhaatu。"loka "は「空間」「(林の中の)木の無い場所」「空き地」。"dhaatu "は界。"loka-dhaatu "はもともと仏教用語で、「命あるものが生存し輪廻する空間で、そこにおいて一仏が教えを広める空間」を意味する。だって。


中田考
? @HASSANKONAKATA
4時間4時間前

中田考さんがウォール・ストリート・ジャーナル日本版をリツイートしました

イスラーム金融の専門家などという連中は全て詐欺師だと思って間違いない

中田考さんが追加
ウォール・ストリート・ジャーナル日本版
認証済みアカウント @WSJJapan
仮想通貨巡り対立、イスラム金融専門家と学者
#仮想通貨
http://on.wsj.com/2Fkz0Fz
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中田考さんがリツイート
OGAWA Kandai
? @grossherzigkeit
5時間5時間前

OGAWA Kandaiさんがハル@ブルーリボンの祈り会をリツイートしました

坊さんが人を出家させるというのはその人の師匠になるということで、人生の責任を負うことにもなるので、まともな坊さんほど、見も知らぬような人を出家させません。安易に人を出家させる坊さんとは、そういう資格・搾取ビジネスをやってる人です。無論例外は多々ありますが。

OGAWA Kandaiさんが追加
ハル@ブルーリボンの祈り会
@haruidelette
返信先: @jiei_yushiさん、@grossherzigkeitさん
たとえば、貧に窮している精神障害のある40歳の友人が「ご縁があったら尼僧になりたい」と言っているのですが、彼女を受け入れる余地は実際問題仏教界にあるのでしょうか?具体的に教えて頂けたら助かります。

OGAWA Kandai
? @grossherzigkeit
8時間8時間前

「ホームレスや社会的弱者をお寺に迎え入れる」みたいな運動があるが、そういう中の一部で起こってるのが寺の金品を持ってドロンしたり、果ては寺族さんが性的被害に、みたいな話。ある知人の坊さんは家族を近くのアパートに移した上で、寺でホームレスと暮らしていた。難しいもんだなあと。
1件の返信 154件のリツイート 177 いいね
中田考さんがリツイート
慈永祐士
? @jiei_yushi
11時間11時間前

慈永祐士さんが慈永祐士をリツイートしました

ほんとうはそういうことを、まさにコンビニ以上の数がある多くの寺院でやれば相当な社会貢献になる見込みもあるように思うが、そういうところからしてまず期待ができない。そういう寺院は日本にも確かにあることはあるが、両手で数えるほど名前が挙げられるかどうか。

慈永祐士さんが追加
慈永祐士
@jiei_yushi
お寺というのはまさしく古来からシェアハウスだったのであって、戒律という約束ごとに承諾してそこで認められればメンバーとして受け入れられた。日本ではそれはほとんどできない。戒律はないし、メンバーになるのにカネがかかるし、お寺は家庭になって心理的カベを作っているから。



以前は気が付かなかったが、ある老師の講話で、人は知識として得るということは、まず自分とはかけ離れたものとして認識するという側面があるのであって、それを妄想としてありがたがるという趣意のことが記してあってたいへん興味深かった。これは非常に示唆に富んでいる。
1件の返信 2件のリツイート 5 いいね
慈永祐士
‏ @jiei_yushi
15 時間15 時間前

たとえばヴィパッサナーやマインドフルネスで、妄想などが起こると、それに「これは妄想だ」とラベリングするという方法があることが知られているが、この老師から見れば、これこそが妄想だという視点が欠落しているという訳である。
1件の返信 4件のリツイート 8 いいね

慈永祐士
‏ @jiei_yushi

また、知識を蓄えることもそれ自体が妄念となる。これはよく言われることで難しい話ではない。古人詠んで曰く「学のあるバカに親父は困り果て」

Ken Senda
? @KenSenda
5 時間5 時間前

学部一年の頃の授業で、「名前があって初めて概念・認識がある、みたいな考えってキャッチーだけど、認識してるのに名前がないものってありふれてますよね。例えば靴紐の先の硬くなってる部分とか」という話を聞いたな。未だに靴紐の先の硬くなってる部分に名前があるのか知らない。
1件の返信 25件のリツイート 117 いいね
半ROM? @a63842275
返信先: @KenSendaさん

アグレットと呼びます
よろしくお願いします
17:10 - 2018年2月22日


使い方わからん
? @Show_BujuBanton
18時間18時間前

↓ああいうのは
エンターテイメントとして
見るならまだわかる。

まともに考えたら「あなたの前世は16世紀フランス辺りの農家の三男」とか「鎌倉時代、飢饉で餓死した農家の長男」が妥当なのに欧州貴族とかばっかり。
農家の三男では普通。
だから想像しやすい貴族とか
落武者が一番騙しやすいと。
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使い方わからんさんがリツイート
峨骨
? @Chimaera925
22時間22時間前

有名所を降霊させたとか言う芸人は居るのにね(笑
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峨骨
? @Chimaera925
22時間22時間前

人柱なんざそこらにあるけど、多くの人は知らないから気にもとめないし、ましてやそれらの霊を見ることも感じることもないのだ。
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峨骨
? @Chimaera925
22時間22時間前

知らないものは想像できない。想像させようとしたら、その為の素材を頭の中に放り込んでおく必要がある。それらに創作物は活用されている。
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峨骨
? @Chimaera925
22時間22時間前

踊り子でしたとか言われるとホイホイ引っかかるんだよなァ。姫様なんてそんな何千人も居るかいッ!これだから子供だましは嫌いなんだよ。
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峨骨
? @Chimaera925
22時間22時間前

紫陽花寺なんて行っても大抵の人は「うわー綺麗」と写真をパシャパシャ撮るだろうけど、飢饉や疫病、流行病で大量死起こした地域にある寺だったりする訳で。しかしピンと来ない。前世でうんたらってのもコレか。貴女の前世は農民ですとか奴隷ですなんて言われてもピンと来ないけど、お姫様でしたとか
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峨骨
? @Chimaera925
22時間22時間前

人は見たいものを見て、感じたいものを脳内で作り出して感じる。そうでないものなら、疫病だったり、電磁波だったり、汚染だったり、物理的な環境から受けるなんらかの影響だろうよ。武者や旧日本軍なんかは想像しやすいわな。大飢饉の農民なんてピンと来ないけど。
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峨骨
? @Chimaera925
22時間22時間前

生きてる人間の方が怖いから、事故物件なんざ気にならない。というか、人の営みがある場所には必ず死がそこにあるからな。武者や旧日本兵の亡霊なんて話題になるけど、大飢饉で死んだ大量の農民や原始時代の原人の亡霊なんて聞いた事が無いぜ。
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masanorinaito
? @masanorinaito
10時間10時間前

↓「罪を犯したことのない者だけが女に石を投げなさい」と言われても、キリスト教には差別を抑止する力はなかった。キリスト教を受容した西欧は激しい差別と抑圧を繰り返した。キリスト教から離れた世俗の社会もまた人種や民族や国家を持ち出して差別を繰り返した。

masanorinaitoさんがリツイート
松村圭一郎
? @kmatsumura15
12 時間12 時間前

「差別を生みだす精神構造は私たちみなが持っている。ヒトはその置かれた環境におおきく左右される動物であるから、差別主義者を攻撃するのではなく、差別が生みだされる環境を理解しなければならない。」「差別」とは何か?アフリカ人と結婚した日本人の私がいま考えること



中田考bot
? @NakataKo_bot
9時間9時間前

使徒もそのカリフたちも法学祖たちも行わなかったユダヤ教徒の猿真似のハラール認証などで金儲けを図りアッラーの徴を安価で売買する者どもに呪いあれ。「我が徴を安価で買い取るな。アッラーの啓示に基づき統治せぬ者共こそ不信仰者。」(クルアーン5章44節) <2011.10.18>



慈永祐士
? @jiei_yushi
11時間11時間前

慈永祐士さんが慈永祐士をリツイートしました

ほんとうはそういうことを、まさにコンビニ以上の数がある多くの寺院でやれば相当な社会貢献になる見込みもあるように思うが、そういうところからしてまず期待ができない。そういう寺院は日本にも確かにあることはあるが、両手で数えるほど名前が挙げられるかどうか。

慈永祐士さんが追加
慈永祐士
@jiei_yushi
お寺というのはまさしく古来からシェアハウスだったのであって、戒律という約束ごとに承諾してそこで認められればメンバーとして受け入れられた。日本ではそれはほとんどできない。戒律はないし、メンバーになるのにカネがかかるし、お寺は家庭になって心理的カベを作っているから。
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慈永祐士
? @jiei_yushi
4時間4時間前

慈永祐士さんが慈永祐士をリツイートしました

戒律というのも執着だというのはそれは確かにそのとおりで、徳がないからこそ戒律に執着するという面があるのである。逆に言えば、自分が戒を守りたいと思うのは、自分の徳が全くもって至らないからである。十分な徳があれば守る必要もないだろうと思う。

慈永祐士さんが追加
慈永祐士
@jiei_yushi
自分が日本仏教の飲酒妻帯に賛成できないのは、こういう仏教徒内に密かに存在する差別に抗い難いためで、飲酒妻帯しているほうがブッダの本意に適うと言って抗したいのであれば、それを言えるだけの徳を備えた人がいうべきである。そうでないからいつまでたっても国際的に説得力が今ひとつ…
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慈永祐士
? @jiei_yushi
4時間4時間前

自分が日本仏教の飲酒妻帯に賛成できないのは、こういう仏教徒内に密かに存在する差別に抗い難いためで、飲酒妻帯しているほうがブッダの本意に適うと言って抗したいのであれば、それを言えるだけの徳を備えた人がいうべきである。そうでないからいつまでたっても国際的に説得力が今ひとつなのである。
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慈永祐士
? @jiei_yushi
4時間4時間前

慈永祐士さんが慈永祐士をリツイートしました

列席できないケースというのはもちろんあるが、それは日本の宗派法要の場合でも、他宗派に随喜する場合には、そこの伝統を尊重するのが当然であるから、入るべきでないところは立ち入らない。そういう範囲ならどこにでもあるのだ。

慈永祐士さんが追加
慈永祐士
@jiei_yushi
日本の仏教は飲酒妻帯しているので、国外の仏教の式典などでは他国の僧侶と同等の席につくことはできないという人がいる。実際はそういうものはほとんどない。しかしそういうふうに吹き込んで広めた人間がいるということだ。その出処の可能性の一つとして、こういう「正統派」を語る伝統で…
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慈永祐士
? @jiei_yushi
4時間4時間前

日本の仏教は飲酒妻帯しているので、国外の仏教の式典などでは他国の僧侶と同等の席につくことはできないという人がいる。実際はそういうものはほとんどない。しかしそういうふうに吹き込んで広めた人間がいるということだ。その出処の可能性の一つとして、こういう「正統派」を語る伝統である。

江戸時代の易家・真勢中洲は、易断のさい「窮理」という視野を重んじたそうである。
それは事(ものごと)、身(自身のキャパ)、
位(社会的ポジション)、地(土地の慣習風習)、
時(タイミング)、勢(勢い)の六つで、それらの変数から占断
を決定したらしい。



「理想を手にすれば幸せになれる」の落とし穴 今ある幸せに気づく方法|ウートピ
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慈永祐士
? @jiei_yushi

いやまあしかし、マインドフルネスっていうのは欲を追わないとか理想を手放すとかいうが、利潤追求の企業的価値観とどう折り合いをつけているのか不思議でもある。




原始仏教?初期仏教周辺のカルトぶりも、いまや相当なものがある。ブッダの教えに師の握拳(?cariya mutthi)なしと言われるが、時代が下ると、禅定の体験など経典に現れないものを秘密の教えとするウパニシャッド的な傾向(マネごと?)が散見される。二十四因縁とか。


そもそもヴィーガンっていう名前が悪い。まるでフーリガンみたいじゃないか。

因みにヴィーガン的なものの究極がフルータリアンといい、フルーツばかり食うということですが、すい臓に負担がかかるんだそうで、晩年のスティーブ・ジョブズ命がけでチャレンジしてましたね。
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慈永祐士
? @jiei_yushi

仏教ではフルータリアンならよいかというと、自然のフルーツをそのまま食うのは戒律に触れるらしく、人の手で刃物でキズがつけられて初めて口にしてもいいということです。あとは種子関係もNG。

まあ、ヴィーガンにしてもそうだし、禅道場の雲水何かもそうじゃないかと思うんですけど、本人たちとすれば減量中の力石徹みたいなところがあるんで、殺気立ったりするのは分かる。


KGN
? @KGN_works
17 時間17 時間前

基本的に、ヴィーガンの人たちって攻撃的だと思って接したほうが良いです。

素朴な感想:腹が減ってるのはココロのためにも良くないよ。



安倍晴明(SEIMEI)の剣印ポーズの生みの親☆高橋圭也
? @Keiya_Takahashi
20 時間20 時間前

昔、インド人にヨガを習った時に聞いた話。日本のある女子大生がインドに行った際、見学で立ち寄ったヨガ道場で「眼鏡なしで何でも見えるようになる方法がある」と幾つかのヨガを習い、すぐ眼鏡なしでよく見えるようになった。だが彼女はその後ヨガをさぼって忘れたため、再び眼鏡生活に戻ったそうだ。




(無からの創造はありえないって思想?)


アリストテレスがまとめた四大元素論って今見ても本当に完璧かつ美しい説明なんですよ。アレは火の元素を含むゆえに乾いているとかコレは土の元素を多く含むから下に落ちるとか。実際に乾いている物や重い物を指しながら見事にそう説明するんです。四大元素が証明できてない以外は何もかもが完璧。
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ハコ[゚д゚]ノザキハコネ
? @hakoiribox
1月17日

なんというか(まずそういう事が実際に起きると認めてしまうなら)この世のなにもかもが理にかなって説明できてしまうって魅力にはなかなか抗えないんですよね。四大元素然り「確率的には体当たりして壁をすり抜ける事ができる」然り。
0件の返信 5件のリツイート 11 いいね
ハコ[゚д゚]ノザキハコネ
? @hakoiribox
1月17日

これ、あれですよ。僕がたびたび言いたがってる(そうなのか?)新しい知識を得るたびにそれに追従するように新しいオカルト的世界が創られていくの超おもしろいってあれ。
0件の返信 2件のリツイート 10 いいね
ハコ[゚д゚]ノザキハコネさんがリツイート
ハコ[゚д゚]ノザキハコネ
? @hakoiribox
1月17日
返信先: @mayuragicenterさん

生まれ変わりってほぼ確実に霊魂というエネルギーの存在が前提で語られてると思うのですけど、そこを否定するために「同じ原子が再び寄り集まって同じ記憶を継ぐ人間を作る」という誰も想像していなかった発想が湧くのが面白いだけで、理論自体がおかしいとは僕もあまり思わないですね。
1件の返信 9件のリツイート 8 いいね
ハコ[゚д゚]ノザキハコネさんがリツイート
南正太郎【1/21 京都文フリ お-07】
? @mayuragicenter
1月17日

輪廻転生の否定に原子レベルでの再構成が出て来るのは意識や精神が物質的な活動に応じて生じるものであるという観測事実に合致した説明を前提に敷いてるからだし、特に変な部分がない気が。
1件の返信 7件のリツイート 10 いいね
ハコ[゚д゚]ノザキハコネ
? @hakoiribox
1月17日

霊はプラズマでおなじみの大槻教授は輪廻転生を否定する文章で「私が死んだ後に原子レベルまで分解されて、たまたまパリでまた同じように集まって赤ん坊として生まれるなんて事があると思いますか?」と書いていて、なんか並みの心霊主義者よりオカルトじみた生まれ変わりを想像してるなと思った。
0件の返信 114件のリツイート 188 いいね
ハコ[゚д゚]ノザキハコネ
? @hakoiribox
1月17日

オカルト批判だと「集団催眠」とか「集団幻覚」と説明してればヨシとされていた時期もあって、あのへんは正直神や霊魂を持ち出すよりもオカルトしてるんだよな。


永井均
‏ @hitoshinagai1
3月26日

永井均さんがTaniR@赭埴菴主人をリツイートしました

理論的には、脳状態と心状態の一対一対応がありえぬことの根拠であり、実践的には、精神安定剤によって脳内の化学状態を変化させても消せない症状を瞑想によって消すことができる(場合がある)ことの根拠でもありますね。

永井均さんが追加
TaniR@赭埴菴主人
@Taroupho
とりわけ「物欲」というものは、一箇の巨大な哲学的謎である。それは典型的に概念的な欲求であり、概念が存在しなければその欲求はそれ自体として無である。物欲は強い志向性を持つが、欲求を消すためには志向充足させるよりは、むしろ忘れる方がよい。 https://twitter.com/Taroupho/status/973880505371279361 …
1件の返信 18件のリツイート 43 いいね

永井均
‏ @hitoshinagai1

実践的なほうは、向精神薬は心的状態に対応する(はずの)物理化学的状態に働きかけるのに対し、瞑想は物理化学的状態を介さずに概念的に捉えられた心的状態そのものに直接働きかけるから。その際にも付随的に脳の物理科学的変化は起きているに違いないが、そこを狙っては全く働きかけてはいない。

TaniR@赭埴菴主人
‏ @Taroupho
3月26日

とりわけ「物欲」というものは、一箇の巨大な哲学的謎である。それは典型的に概念的な欲求であり、概念が存在しなければその欲求はそれ自体として無である。物欲は強い志向性を持つが、欲求を消すためには志向充足させるよりは、むしろ忘れる方がよい。 https://twitter.com/Taroupho/status/973880505371279361 …

TaniR@赭埴菴主人
‏ @Taroupho
3月14日

不安や欲求が、いったん概念化過程を経て固定されてしまうと、事後的に飲酒や精神安定剤によって脳内の化学状態を変化させても、それを消し去ることは難しいようだ。喫煙という概念が存在しないとき、どのぐらいタバコを吸いたくなるのか、は興味ぶかい問題である。


プラユキ・ナラテボー(公式)
‏ @phrayuki
21時間21時間前

中村元氏の「法句経」の注釈には「インドでは否定の意味をもった語が或る場合には積極的に強い意味をもっていることがある」と説明されているが、これは瞑想を始めた人すべてが実感すること。不殺生、不妄語、無貪、無瞋といったような「しないこと」の価値に目覚め、「積極性」の必要を感じるのである



ダンマパダ「不放逸(Appamāda)」の章、冒頭のことば。「不放逸は不死の道。放逸は死の道。不放逸の人々は死ぬことがない。放逸の人々は死者のごとくである」。 ブッダに言わせると、「お前はもう死んでいる」ではなく、「お前たちはまだ死んでいる」なのである。

伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
4月19日

本日の「自他の抜苦与楽をダンマパダから学ぶ会」は2章「励み」からスタート!師はこの章題の原語が「アパマーダ=明晰な意識で気づいていること」であると強調。「励みというとガンバリズムの努力がイメージされるけど、原典の本質は『自分の心と向き合い、心の奴隷ではなく心の主となること』と明言
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プラユキ・ナラテボー(公式)
‏ @phrayuki
4月19日

appamādaは、aが否定の接頭辞、pamādaが放逸で「不放逸」。「不放逸」は、「怠けないこと」と言うよりは、ぼけっとしない、油断しないということで、「気づき(Sati)を失わないこと」と同義。いずれにせよ、「はげみ」と肯定表現にするよりも否定的な表現のままの方がブッダの真意に近かった気がする
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プラユキ・ナラテボー(公式)
‏ @phrayuki
4月19日

今日の『ダンマパダ』は第2章「Appamāda」。ところで、参照している岩波文庫の中村元訳では「はげみ」。これについて、中村氏は訳注で「Appamādaは普通『不放逸』と訳されるが…否定的表現を積極的な語に改めて翻訳した」とのことだが、それによりブッダの教えの核心がぼやけてしまったのは誠に残念。





観察する。判断することを一切やめる。その能力がついたら、かなりよい心なんですよ。善悪判断しない、よしあし判断しない。それから、自分のこころがどう流れるのかと観察する。それは現在の心ではなく直前の心をチェックする。一分程度、30分程度前の、憶えている心をチェックする。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
4月15日

それで心の流れを理解したことになる。こういうわけで間違った判断した、こういうわけで失敗したという、因縁関係が見えてくる。それはヤターブータンニャーナという。この語は過去分詞です。日本語で「ありのままに知る」と言いますが、ほんの僅か前に、どのようにあったのかと観る智慧なんです。


スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

なぜ主観を作るのでしょう?

死にたくない、生きていきたい、という目的のために主観を作るのです。そのために眼耳鼻舌身意で色声香味触法を知ろうとする。

生存欲と恐怖感ですね。

私たちは、「なぜ生きていきたいのか?」と調べようとしないのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

それに仏教では、無知・無明というのです。

要するに、貪瞋痴が主観を作るのです。

「生きている」という実感は、感覚から起こるのです。

感じることが生きることです。

シンプルですよ、生きていることの定義は。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

感覚がなくなったら、死です。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

生命の感じる機能は、強弱があってもノンストップです。

なにかしらズーッと感じている。

われわれが"生きてない瞬間"はなかなか無いのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

意(こころ)に触れるデータは、過去・現在・未来のこと、あること、ないこと、あって欲しいこと、あって欲しくないこと、あれこれ考えてるんです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

眼耳鼻舌身に触れるデータは現実でなければ感じられないが、意にはデータが現実であっても、過去のものであっても感じる。存在しないものでも感じる。

これで世界はハチャメチャになってる。神や天国まで、意で作り出す。自爆すれば天国に行けると思ってテロまで起こす。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

要するに、生命はいくらでも感じ続けることができる、ということ。

六種類の感覚が生まれては消える。六つの流れがある。意識という流れは肉体が滅びることは認めず、勝手に感じ続ける。(輪廻)

認識し続けたい、感じ続けたいという気持ちは"渇愛"です。生命は認識し続けたいのです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

3つの渇愛(欲愛・有愛・無有愛)がある限り、主観を作り続けるのです。

認識は生きるためにやってるんです。

六根に触れたデータを 1生きることを支えてくれるもの、2生きる邪魔をするもの、3関係ないもの、という三つに捏造する。1に愛着を、2に敵意を、3に無関心・無知の感情を作る。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

主観には「間違った」判断はできない。

大好きなケーキを「おいしくない」と 思 え な い のです。

キレイな花はきれいに決まっている。

(仏教ではあえて主観を変える訓練もするが……)

生命にとって、いつでも自分の判断は 正しい のです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

存在欲(有愛,生きていきたい)を支えるために情報を捏造して主観に陥る。主観を守ることは、本人にとっては命を守ること。

(命と同じ)主観に執着しなくてはいけない。そのために他の情報、真理などを否定したり、攻撃したりする。

主観に執着することに、仏教用語でディッティ(見)という。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

常識的な見も、非常識的な見もあります。

洋食が好きか和食が好きか、程度は常識的な見です。

「神を信仰すれば死後、永遠の天国だ」と信じるのは非常識的な見です。

非常識的な見を持つものは死後、直行で地獄です、と釈尊は言われる。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

感じることはノンストップなので、生命はほっといても輪廻転生するのに、愛着の対象であるこの肉体を守るために、みな必死に戦っている。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2015年6月26日

生命はネットワーク。単独で生きられない。

主観で生きる生命は、ネットワークのなかで、敵と味方を分ける。

味方とコミュニケーション取ろうとするが、滅多にうまくいかない。

………

主観を持つことは悩み苦しみとパッケージです。
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スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk

生滅変化する多重多彩多数の感覚を一つにまとめようとする感覚が「自我」という錯覚です。

自我は実在するものではなく、グループネームです。

自我は高級ブランドの鞄ではありません。

実在しないものなので、裸の王様の「世界に一着しかない最高に美しい衣装」なのです。


スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2017年8月23日

皆それぞれ自分の本性をもっています。釈尊はそれを「潰せ」と言っている。本性を形作るのは、渇愛・無明、というものです。無明とは努力して智慧を開発する前の状況。本性をつくる場合、この二つ(無明と渇愛)が決定権を持っている。性格は自分で判断してつくったものではなく、できあがるものです。
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スマナサーラ長老の仏教法話さんがリツイート
スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2011年9月4日

#jtba スマナサーラ:日本の新興宗教で、我は仏陀の生まれ変わりだとよく言うこと。仏陀は二度と生まれ変わらないと言ったのに。それは嘘で実は生まれ変わったなら、今あんたが言ってる事も嘘でしょうに。インチキ宗教は屁理屈だらけすぐバレる。それを我々が見抜けないのは執着ありすぎだから。
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スマナサーラ長老の仏教法話さんがリツイート
スマナサーラ長老の仏教法話
‏ @jtba_talk
2017年1月20日

宗教がなくても、人に優しくしなさいとか、嘘をついてはいけないとか、言えます。道徳というのは宗教の特権でなくて、宗教がなくても人類の間に薄々あるものです。


伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
4月19日

2章全体を、翻訳通りに「努力を怠らない人を目指せ」的に読むのと、「自分の心に気づき続ける者でありなさい」として読むのではえらく印象が違うことを実感。心の反応の奴隷でなくなった時に得られる自由の表現が美しい。「不死の道に至る」「無上の安らぎに達する」「激流に流されない島になる」…!
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
4月19日

本日の「自他の抜苦与楽をダンマパダから学ぶ会」は2章「励み」からスタート!師はこの章題の原語が「アパマーダ=明晰な意識で気づいていること」であると強調。「励みというとガンバリズムの努力がイメージされるけど、原典の本質は『自分の心と向き合い、心の奴隷ではなく心の主となること』と明言

伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月28日

手動瞑想初体験の方から「瞑想中、手の動きと師のお話、どちらかに意識が向けばどちらかの気づきがなくなる。どうすればいい? 両方同時に気づき続けることが目的ですか?」との質問が。「車の運転と同じだよ。あれもこれも細かく気づかなくていい。でも無自覚にならない」といつものにこやか回答(笑)
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月28日

「ボランティアなどいいことをしても、心が苦しくて、満足できないのはなぜ?」の質問に「行動(=精進)には良し悪しの前提がつきやすいけど、実際やったときの気持ちをそのままに受け止める(=受容)があって初めて、本当に自分が実現したい理想が見えるよ」と。行動とともに体験の受け止めは大切だ
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月28日

法の六徳の一つ「非時(ひじ)」は「時間をへずに即座に結果は出る
」ということ。何らかの行いをした時、自身の内側をよく見れば、その動機次第で心地よい感覚、不快な感覚という結果はすぐに現れる。この感覚体験の結果に無自覚であれば苦を繰り返すし、自覚的であれば次の行動を選ぶ決め手になる。
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月28日

伝統的ヨーガを学ぶ会さんがプラユキ・ナラテボー(公式)をリツイートしました

昨夜のプラユキ師の「ダンマパダから学ぶ会」、1章のラスト6節を行いました!そこから「四聖諦(因果の理解)」「法の六徳(非時の現れ)」「自業自得(対応能力を磨く)」「放逸(自分の在り様を自覚できずに、やれているつもりになっているシーンって何!?)」などの教えが飛び出しました。(続く)

伝統的ヨーガを学ぶ会さんが追加
プラユキ・ナラテボー(公式)
@phrayuki
昨日の「自他の抜苦与楽を『ダンマパダ』から学ぶ会」。お陰さまで、参加者13名とこじんまりとした集まりながら、大盛りあがりの会となりました。次回の「『ダンマパダ』から学ぶ会」は4月中旬頃を予定しております。…
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月26日

明日3/27㈫の夜はプラユキ師の「自他の抜苦与楽を『ダンマパダ』から学ぶ会」です!今月は週末に瞑想会が目白押しで、平日夜は若干人数少な目。師も「大学のゼミのように和気あいあいできるね」と。アットホームな雰囲気で本音の質問と自由自在の回答を楽しみたい方はぜひ!
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月19日

今回スカトー寺の瞑想体験を話してくれた方は、自分を束縛していた思考に気づき、無理なく手放せたエピソードが際立っていた。「人の役に立てない不安があったが、一人でやらずに周囲とできる歓び知った」「自分の能力以上のことを自分に求める必要ない。自分と仲良くなれた」…素晴らしい瞑想の効果!
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月19日

参加者の感想より「『今ここ』は過去未来からの逃げ場でなく、過去未来に向き合い受け止める今ここということがよくわかった」「手動瞑想って効くの?という疑いがなくなり、頭や体がポカポカしてもっとやりたくなった」「アットホームな雰囲気に癒されました」「自分に対して優しくなれる時間だった」
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月19日

特に印象的だったのは、質問で「スカトー寺の師の住居小屋がすきまだらけでヤモリや虫が出るのに、なぜそのままなんですか?」に対し、そうだよね、30年以上だよね、となんやかんやと説明したが、最後は「だって生き物全部一緒じゃーん」と声高らかに笑って終えたこと。修理される気配なし(笑)
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月19日

メタ認知療法の「分割的注意」が「気づきの瞑想」でどう効果を発揮するかも明確になった。「意識が全体に広がり、同時に複数に気を配る力」が増せば、心の表層の「イライラ・落ち込み」だけでなく、深層にある「満たされなかった思い」や「ともに幸せになりたい願い」も素直に気づけて自己受容が生じる
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月19日

昨日の「気づきの瞑想の効果を考える会」はかねてより熱望していた、スカトー寺での瞑想体験者の変化のナマ報告と、瞑想の効果のメカニズムをプラユキ師に語っていただきました!「名色分離智が苦諦の段階なら縁摂受智(即座に判断しない受容的智恵)は集諦の段階」と、新しい段階的な智恵の学びに興奮
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月14日

圧巻なのは、心がどのように解放の境地へいくかの三段階。「~のせいで、こうなった」という苦から、「~だけど、こうなれる」という自我を確立できれば、「~のおかげで、こうなれた」という、感謝に満ちたよき縁と成すところに行けるよね、と。自分がどんな因縁をつけて心を使っていたかよくわかった
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
3月14日

久しぶりのツイートですみません、、!昨夜のプラユキ師のダンマパダの会は、師ならではの「自他の抜苦与楽」につながる解説がてんこ盛り。「邪思(貪り怒り等)」が「正思(分かち合い等)」へ転換するのにどうすれば?の質問に「考えずにやっちゃえばいいんだよ!」の大きな笑顔に皆引き込まれまくり
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伝統的ヨーガを学ぶ会さんがリツイート
プラユキ・ナラテボー(公式)
‏ @phrayuki
2017年10月18日

ヨーガ教師、田中さん主催の夜の瞑想会(自他の抜苦与楽に親しむ会)、25名のご参加があり、盛況のうちに終えることができました。主催の田中さん、そして、わざわざ足をお運びくださった皆さま、どうもありがとうございました! 初めての方も多く、質問も活発に出て、楽しい時間を過ごせました😊
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
2017年10月18日

歩行瞑想中に皆さんの様子を拝見していると、姿勢がよくなる方が本当に多いです!気づきの効果が、無意識領域である「姿勢の反射反応」にも影響を及ぼし、背筋が伸び、胸が開き、肩の骨盤の左右の動きが安定してくる。今夜も上を向いて明るい表情で歩く方が目立ち始め、イキイキ感が溢れていました!
1件の返信 6件のリツイート 21 いいね
伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
2017年10月18日

本日のプラユキ師「自他の抜苦与楽に親しむ会」25名の満員で無事終了。初参加の方が半数以上も!「抜苦与楽」のプロセスを「四聖諦」と「因果と条件」を絡めて図解で説明。「怒りの反応も結果ではなく、まだ途中のプロセス。覚醒(気づき)と受容があればその後の結果は選べるね」が個人的にヒット!
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
2017年10月4日

本日10月4日(水)のプラユキ師の「気づきの瞑想にはげむ会」は、日頃気づきの瞑想に取り組んでいる方や、これから取り組みたい方向けの会で、参加者同士の瞑想の体験を語る交流会もあります(指導された経験者のみの参加)。少人数ですので、プラユキ師との会話も楽しめます。空き枠まだあります!
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伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
2017年10月4日

本日10月4日(水)、プラユキ師の「気づきの瞑想にはげむ会」を秋葉原で行います!今回のテーマは「自我(自己同一化した物語)」について。私たちの認知エラーとしての自我や、「今ここ」意識による自我の解体、しかし「自我は否定されるものではない」とするブッダの教えなど学びたいと思います。

伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
2017年9月23日

9月21日プラユキさん瞑想会では、「条件と原因を間違えた因果関係の説明」も過去ツイッターから例示。「淋しいから浮気する」の「浮気」という結果に対し、「淋しい」は真の原因ではなくその状況における条件(反応)でしかない。そう見極められるところに適切な理解と対応が生まれるようだ(!)
0件の返信 6件のリツイート 18 いいね
伝統的ヨーガを学ぶ会
‏ @dentouyoga
2017年9月23日

9月21日(木)にプラユキ師の「自他の抜苦与楽に親しむ会」を主催、定員24名を超えてお集まり頂きました。講話では、一見否定されがちな「方便」を、はまりがちな意味物語からの解放をもたらす技術として学びました。そんな資質をそなえた「善友」の在り方、まさに目指したいところ(!)です。



ニー仏
‏ @neetbuddhist
21分21分前

「世界の全てについて自分に責任があるなんて思わないでください。たしかにあの人は悪いし、間違ってもいるのでしょう。でも、そのためにあなたが自分の心の平穏を乱す必要はあるのですか?」と、ウ・ジョーティカ師がよく言うんだけど、これは個人的には、全くそのとおりだと思いますね。





お読みくださり感謝!
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