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日本は、何も半島やChinaに限らず、良いものは良いとして世界中から、良いものを受け入れてきた国なのであって、Chinaや半島に依存していたのではありません。
ここを間違えると、「日本文化はChinaやKoreaからやってきた渡来文化である」いった、誤ったドグマに汚染(汚鮮)されてしまうことになります。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)スサノヲのミコトが渡来人だという風説があるようです。
その説をとなえておいでの方の論拠は、日本書紀に一書(あるふみ)にいわくとして、
1 素戔嗚尊がはじめ新羅に降って後に出雲に来た
2 素戔嗚尊が後に新羅に行き根の国に入った
という記述があるから、というものです。
ある方から「ほんとうですか」とご質問をいただき、以下のようにご回答申し上げました。
他にも同様の論考でお悩みの方もおありかと思い、こちらにも転載します。
日本書紀は、本編で物語りを紹介した後、「一書曰(あるふみにいわく)」として、当時の異説を紹介しています。
そして、スサノヲに関する記述のところにも、その「一書曰」があります。
その部分を原文でご紹介します。
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https://www.mag2.com/m/0001335031.html (原文)
一書曰、素戔鳴尊所行無状、故諸神、科以千座置戸而遂逐之。
是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅国、居曾尸茂梨之所。
乃興言曰「此地、吾不欲居。」
遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲国簸川上所在、鳥上之峯。
(現代語訳)
ある書にいわく、素戔鳴尊(すさのをのみこと)の行う状(さま)はむなしく、ゆえに諸神(もろかみ)は、千座置戸(ちくらのおきど、千の台座に乗るほどの宝物による罰金)を科(か)して、遂(つい)に追放してしまいました。
このとき素戔鳴尊は、その子の五十猛神(いそたけるかみ)を帥(ひき)いて、新羅の国の曾尸茂梨(ソシモリ)という所に降り立ちました。
そのときに曰(いわ)く、
「この土地に、吾(あ)は居るを欲せず(いたくない)」
そして埴土(はに、粘土質の土)で船を作り、それに乗って東に渡り、出雲の国の簸の川(ひのかわ)の川上にある鳥上之峯(とりかみのみね)にたどり着きました。
要するに高天原を追放された後、スサノヲはいったんは新羅に降り立つのですが、そこには居たくないと言って、わざわざ船をこしらえて出雲までやってきたと書かれているわけです。
追放の身ですから、ろくでもないところに行かされる(追放される)わけで、それが新羅の地だったというのです。
普通なら、追放の身だから仕方ないとあきらめるところ、スサノヲは、よほど新羅が嫌だったのでしょう。
わざわざ船を自作して出雲まで流れて来ているわけです。
なお、日本書紀の神代で「新羅」の文字が出てくるのは、上の箇所だけです。
では2にはどのように書かれているのでしょうか。
そこには「新羅に行き根の国に入った」という記述はありません。
あるのは「韓郷(からのさと)の嶋」という記述です。
(原文)
一書曰、素戔嗚尊曰
「韓郷之嶋、是有金銀。
若使吾児所御之國、
不有浮宝者、未是佳也。」
乃抜鬚髯散之、即成杉。
又抜散胸毛、是成檜。
尻毛是成柀、眉毛是成櫲杉。
已而定其当用、乃稱之曰
「杉及楠杉、此兩樹者、可以為浮宝。
檜可以為瑞宮之材。
柀可以為顕見蒼生奧津棄戸将臥之具。
夫須噉八十木種、皆能播生。」
于時、素戔嗚尊之子、号曰五十猛命。
妹大屋津姬命、次枛津姬命、凡此三神、亦能分布木種、即奉渡於紀伊國也。
然後、素戔嗚尊、居熊成峯而遂入於根國者矣。
(現代語訳)
ある書にいわく、素戔嗚尊いわく
「韓郷(からのさと)の島には金銀これあり。
もし吾(あ)が子の国に、浮宝(ウキタカラ=船)が無くば、これ良からずや(よくないことである)」
すなわちヒゲを抜き散らせば、すなわち杉と成り、
また胸毛を抜き散らせば、これヒノキになり、
尻の毛はマキとなり、眉毛はクスノキとなりました。
これを用いるにあたり、となえて言うには
「杉とクスノキの両者は浮宝(船)にすべし。
ヒノキは宮材に用いるべし。
マキは人民の奧津棄戸(おきつつたへ=什器)に使用いるべし。
その他食べる八十木種(やそこだね=沢山の種子)は、蒔いて生やせ」
このとき素戔嗚尊子の五十猛命(いそたけるのみこと)と、妹の大屋津姫命(おほやつひめ)と枛津姫命(つまつひめ)の三神は、よく木の種を蒔き、すなわち紀伊国に渡られました。
その後、素戔嗚尊はその後、熊成峯(くまなりのみね)に居て、やがて根の国に入られました。
記載が「韓郷」だけであれば、なるほど新羅は金銀を産しましたから、これを新羅と読むこともできます。
しかし日本書紀に書かれているのは「韓郷の島」です。
島とありますから、四方を海に囲まれているわけで、半島ではありません。
「韓」という字は、群を抜いて優れていることを意味する漢字です。
従って、その島は、良い島です。
なぜ良いかといえば、金や銀などの鉱物資源を産出するからです。
けれど、いくら鉱物資源に恵まれていても、船がなければ運び出してビジネスすることもできません。
そこで素戔嗚尊は、子供たちの未来のためにと、杉やヒノキを植林し、さらに多くの植物の種をお育てになったと書いているわけです。
ところが結局はその子供たちも、その後、紀伊の国に渡ってしまいます。
つまり日本に帰ってしまうのです。
また素戔嗚尊自身も、熊成の峰に入られ、その後に根の国に渡ったと書かれています。
熊成の峰というのは、いま松江市の南にある古社の熊野大社のことを指します。
また根の国の「根」は、「木+艮」で、大地をおおう木々を意味する漢字です。
素戔嗚尊は、最終的に奥出雲の須賀の地に鎮座されていますから、要するに「根の国」というのは「森の中にある須賀の地」を意味します。
要するに、日本書紀には、スサノヲノミコトが韓半島からやってきたことを示す事柄など、実はどこにも書かれていないのです。
もちろん古事記にもその記述はありません。
中華思想では、Chinaがあらゆる文明や民族の中心地であり、親であって、少中華を自称する半島人は、Chinaが親、半島が兄、日本は弟で、いちばん下位にあるとします。
ところが同時に彼らの国の民間伝承では、日本のことを隠語で「蓬莱山(ほうらいさん)」と呼び、樹木に金が成るほど人々が豊かで、笑顔で仲良く楽しく暮らすことができるこの世の理想の天国とも言われてきました。
施政者からすれば、これほど憎らしい存在はないわけで、ですから日本のことは(政治的に)「我が国よりも下位の国である」としてきたのです。
そしてそのことを儒教が裏付け、これによって儒教は、春秋戦国の時代にはほとんど評価されていなかったにもかかわらず、その後のChinaやKoreaで重要な学問として市民権を得るに至っています。
日本は、古来「豈国(あにくに)」と言って、民衆のひとりひとりが豊かに安心して安全に暮らせる国作りを理想としてきました。
そのために、過去の出来事や未来の理想に目を奪われるのではなく、いま、この瞬間に人々が幸せに暮らすことができる最善の策を尽くそうとしてきました。
これを古い言葉で、「なかいま(中今)に生きる」と言います。
「なかいまに生きる」ことが美しいことで、これを「美(うま)し」と言います。
食べ物を食べるときに、美味しいと感じるのは食べた瞬間です。
いまこの瞬間をたいせつに生きる。
そのために過去に学び、いまを真剣に生きて、未来を開く。
それが日本人の古くからの態度です。
従って、いまこの瞬間に素晴らしいと思えるもの、人々の生活に役立つと思えるものは、それが日本よりもはるかに文明的に遅れた国のものであったとしても、良いものは良いとして積極的にこれを学び、我が国の文化に採り入れるということが行われてきました。
ですから、我が国には、半島渡来のものに限らず、China渡来のもの、インド(昔は天竺(てんじく)と言いました)渡来のもの、さらには中東渡来のものから、遠く西洋やアフリカからの渡来のものが数多く採り入れられてきました。
正倉院には、そうして渡来した人々がもたらした様々な物品がいまもたいせつに保管されています。
それは、我が国の人々が、よりよく生きることができる社会を育むために行われてきたものです。
奈良の大仏のことを、別名「盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)」といいますが、「盧舎那」はChina語ではなく、サンスクリット語であることは、誰でも知っていることです。
そして奈良の大仏の開眼会のときには、インドからボーディセーナ(Bodhisena)という高僧が招かれて、婆羅門僧正として導師をつとめています。
ペルシャとの交流については『続日本紀』に、「天平8年(736年)1月、聖武天皇は中臣朝名代に従五位下を授け、遣唐使の随員たちの労をねぎらわれ、唐人皇甫(とうじんこうほ)、波斯人李密医(ペルシャ人りみつい)らに位を授けた」という記述があります。
秦氏のことを別名で「太秦(うずまさ)」と言いますが、「うずまさ」というのは救世主を意味するアラム語の「Ishu Mashiah」が訛ったものです。
アラム語というのは、紀元前11〜紀元6世紀ころまで、シリアからメソポタミアあたりで使われていた言語です。
秦氏はChinaからやってきたと思われがちですが、最終的にChinaから海を渡って日本にやってきたのだとしても、民族的には漢族とは異なり、メソポタミア系やシリア系(中東系)の人々であったと言われるゆえんです。
要するに日本は、何も半島やChinaに限らず、良いものは良いとして世界中から、良いものを受け入れてきた国なのであって、Chinaや半島に依存していたのではありません。
ここを間違えると、「日本文化はChinaやKoreaからやってきた渡来文化である」いった、誤ったドグマに汚染(汚鮮)されてしまうことになります。
今日の結論
須佐之男大神は、日本の神様です。お読みいただき、ありがとうございました。
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食糧自給も儘ならない?
そんな半島で独自の文明が発生?
世界の文明の発祥地?
韓国起源説?
考えられませんね。
色々な我國の文化を、半島起源として内外に宣撫する半島人の自己中過剰には呆れるばかりです。
今日の「ねずブロ」の通り、我國は世界中から良いものを受け入れてきた国です。
しかるに…日本の文化は大陸や半島からの渡来文化である?
歴史を學び間違えると、残念ながら邦人でもこうなります。
「なかいまに生きる」ことが美しいことで、これを「美(うま)し」と言い、今この瞬間をたいせつに生きる。
今朝も良いお言葉を頂戴しました。
今日も拝読させていただきました。シェアさせていただきました。
ありがとうございます。