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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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クリスマスプレゼント兼お年玉♡ 『確認方法の無い情報をばら蒔いてる関係者』対応マニュアル(追撃Ⅳ)。キリスト教の中核にユダヤ教が不要である衝撃! 反ユダヤ主義ヘーゲルの弁証法の元ネタがキリスト教の三位一体論だと全訳者が明言!『ヘーゲルの精神現象学』『精神現象学』 

反ユダヤ主義ヘーゲルの弁証法の元ネタがキリスト教の三位一体論だと全訳者が明言!

ヘーゲルの『精神現象学』を全訳した金子はヘーゲルの弁証法はキリスト教の三位一体が元ネタだと明言し、
同じく全訳した長谷川はヘーゲルは三位一体に熾烈な関心があると断言。
弁証法思想のヘーゲリアンはキリスト教の三位一体の影響下。
bo軍の「ユダヤ思想=ユダヤ思想ではなくキリスト教系思想」の法則。
本当にユダヤ思想であるタルムードを叩くときは中身を捏造。
ユダヤ思想である旧約は叩かない。

どうみてもクリスチャン!


クリスマスプレゼントとお年玉♡
日付間違っているって?
耶蘇暦なんて守らねーよ!

更新報告(そのうち移動)
長らく工事中だったカント記事が完成

ストア派理性主義キリスト教のカント哲学
「ワンワールドが理想だが現実的には連合が良い」
 「この世には一つの宗教しかなく表現方法が異なるだけ(万教帰一)」
『視霊者の夢』 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』
『純粋理性批判』『実践理性批判』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-157.html





カントの記事、本当に構成がひどいな。
かなり前に書いた記事の執筆意図が思い出せない
+
加筆個所
+
なおすの面倒すぎる
(なおすとなるとあと半年ぐらいかかりそう)
+この記事だけでカントの中核はわかる
+ほかのブログにはない視点と内容←とりあえずこれがあれば読む価値あると判断されやすい

よってもうそのまま。
ツイートたくさん並べたものだと思っておくれ。




良い記事とは
需要があるのに供給が少ない内容がある記事
陰謀追及している人で英語情報読んでいる人って少ないよね
だいたい英語情報読んでいる人の情報は価値が高いが棒とか黒ずとかいうとんでもないゴミがいるからなあ



初手良ツイート+コメント



https://twitter.com/tsukuyomi3510/status/933763157356552192





https://twitter.com/tsukuyomi3510/status/945722017336123392

フセインがメイソン含むシオニスト=プロテスタントへの弾圧を強化するとメーソンWASP製アメリカに殺された。
シオニスト援助者ロックフェラーはバプテスト=非ユダヤ。
宗教=生活のイスラームは世俗化しないので
世俗主義ヤソ系コスモポリタンの工作が成功せず兵器で直接殺害https://twitter.com/tsukuyomi3510/status/945722017336123392








https://twitter.com/tsukuyomi3510/status/945753769823764480
(イルミナティ陰謀論も創ったのがイエズス会士だから官製陰謀論。
イエズス会批判対策でもある。
イエズス会陰謀論はプロテスタントと啓蒙主義者が発明。
陰謀論はキリスト教の宗派争い。
∴共倒れ対策に中身はヤソなのにユダヤ・悪魔・イルミナティ・メーソン等ラベルを磔る♰
https://twitter.com/tsukuyomi3510/status/945753769823764480



https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/728175248290381825

ユダヤ陰謀論もヤソ官製陰謀論。新約=反ユダヤ本が最大の根拠。
日本に来る陰謀論は欧米のお古。
英語版ウィキを訳すだけで独創的になるほど低レベル。研究ではなくコピペ布教だから当然。
イスラームがメイソン(反カトリック系ヤソ)禁止って情報は日本語では流れんわな。
https://twitter.com/tsukuyomi3510/status/945754447610748934)



https://twitter.com/tsukuyomi3510/status/945754447610748934








https://twitter.com/usagi_mochi22/status/508108637072400384



(この本、画像が多いし、薄いし、内容濃いし、分野が幅広いし、かなり稀有な良書。
この「~の本」シリーズは良書が多い。
「禅の本」は本ブログから買ってくれる人が多い。禅はスピの言う天使のお告げとかは妄想であり否定すべきであり悪であり悟りではないと書いてあるまともな禅の本。
禅についてはニューエイジ絡んでない本を読むこと。
一番いいのはニューエイジ登場前の古典を、仏教徒の専門家の解説つきなのがいい。)


一神教に世俗主義はありえないのに平気で破るヤソ教。
ライシテという世俗主義カルトがイスラームを迫害。
生活=宗教のイスラームに世俗化、政教分離せよとは棄教(大罪)せよと同義。
信教の自由を強調するくせにイスラームは迫害する矛盾。
政教分離、世俗主義という思想自体がキリスト教由来で、
昔からムスリムは人ではないとみなしているから権利はないというのが本音。
世俗主義は宗教要素をもちこませないためではなく、
宗教だと自覚させずに宗教で洗脳するための戦略。


シーア派の神学生流のユダヤ陰謀論者への対応マニュアル↓
https://twitter.com/asai_hukai/status/946350956458868741






※ため込んだメモ放出。
同じ内容が何度も登場しても気にしないでくれ!


キリスト教の中核(神の属性、儀式、目的など)の元ネタ

ペルシャのゾロアスター教(以下ゾ)と
ローマのミトラス教(ミトラ、ミスラはインド・イラン由来)が多い。

ミトラス教は教義の口外禁止なので元信者が制作に関与。


契約の神←ミトラの意味は契約

αにしてω←ゾのアフラ・マヅダは始めにして終わりの最高善神


神の属性が太陽と光←ミトラとアフラ・マズダ
※ヤハウェは嵐と雷属性。
グノーシスがヤハウェと新約の神は別だと主張する理由の一つ。
同じだという設定が正統派で、ローマのユダヤ教対策で生まれたと思われる。

審判と善き羊飼い←ゾのミスラは司法と牧畜の神でもある

※牧畜の善なる神=善き羊飼い


一神教←エジプトのアトン教
(アトン一神教→ユダヤ教→キリスト教ではなく
ユダヤ教←アトン一神教→キリスト教)

処女懐胎、終末論、善悪二元論、超越的救世主←ゾ


※ユダヤ教は現世利益でメシアは政治的指導者であり、
来世に期待する思想ではない。
部族社会を否定するキリスト教はユダヤ教的ではない。
ユダヤ教の部族社会なら処女から生まれたイエスは姦通で生まれたとみなされる


黙示録の龍←ゾの邪竜アジ・ダハーカ(三口三頭六眼)
※キングギドラとサザンドラの元ネタ?

猫と竜と蛇は悪←ゾ

パンとワインの聖餐←ミトラ

天使←バラモン教の火の神アンギラスと、ゾのアムシャ・スプンタ。
インドの火の神アンギラスがギリシア語のアンゲロスで天使となった。
イスラームのジンは火から作られた。

原罪←トラキアのオルフェウス教

※オルフェウス教はバラモン教から強い影響を受けているので
原罪はカルマ論が元ネタ。
耶蘇はオルフェウス教の原罪を凶悪化
=自分で解除不可能にしたため、
解除方法が人間側にないのが最悪。
原罪もヤソのオリジナルではない。
耶蘇のオリジナルな点は凶悪化と異常な選民思想にある。
「ユダヤ教よりキリスト教の方が選民思想が酷いですよね?」と反ユダヤ主義者に言うと発狂してた気が。

バラモン教が大好きな癖に
「我執と恨みをなくすために禁欲し修行し解脱せよ=バラモン教の目標」
は意地でも奴らは取り入れないのでバラモン教徒ではないな。

仲間を兄弟と呼ぶ←ミトラス教

古代ギリシア語の聖典←ミトラス教の用語と位階名が古代ギリシア語
※古代ヘブライ語ではないことに注意
ミトラス教の位階名にペルシャ人や父がある。


キリスト教共同体(コルプス・クリスティアヌム)の国家を越えた人類愛←ストア派の世界市民主義

※キリスト教共同体の構成三要素
①キリスト教
②ギリシャ古典哲学
③ローマ法

ローマはユダヤ教勢力と戦争していたことに注意

ストア派のコスモポリタニズムを設計図に、
キリスト教共同体(コルプス・クリスティアヌム)
EU、
八紘一宇=四字熟語版ワンワールド。
世界連邦
の思想が作られていると見抜いた人
=共通の設計図を見抜ける人の発表物を優先的に読むべきだが消失。

キリスト教の中核かつユダヤ教由来(旧約に根拠あり)のものが見つからなくて驚愕!



バラモン・ゾロアスター教の影響を受けていない主要宗教は存在しないのでは?
ピタゴラスやプラトンもバラモン教の影響を受けている。
耶蘇異端は輪廻と神との合一(梵我一如)思想。
バラモン教支配システムだと頂点層が欲望を制して押さえて克服したものほど上にのぼり権力を持てる良いシステム
だと思うのだがどのていど実行されていたのだろう。
我欲が強い者が支配者になったらまずいもんな。

キリスト教の神は

ユダヤ教と同じ(パウロ派=カトリック)
vs
ヤハウェは悪だから違う(グノーシス派)

ユダヤ教勢力と戦争していたローマ帝国は
ユダヤ教勢力を取り込める前者を採用。


奴らの本体Xの思想とシステムの構成要素の一つがローマ帝国システムなので
ストア派流ワンワールド思想と、
その変形のキリスト教のコルプス・クリスティアヌム(キリスト教共同体)思想
はX側。

キリスト教共同体の三要素が

①ユダヤ・キリスト教の一神教の伝統
②ギリシャ古典哲学
③ローマ法


②と③が一神教の明確な否定なので
ヤソ教神学が矛盾だらけになった悲劇。

※Xにバラモン教とストア派哲学が含まれるだろうが
正確にはバラモン・ストア風カルト。
なぜなら欲望を抑えず恨みのままに機能しているからだ。
禁欲しないストア派、
道徳律を守らないカント哲学(新耶蘇ストア派)なんて
諫言と道徳(=天の理法)がない儒教、
戒律を守らない仏教やバラモン教と同じで単なるカルトだ。


私はヤソ教とキリスト教を区別するが必ずしも厳密に用語を使い分けてはいないが
使い分けることがある。

キリスト教
=コンスタンティノープル教会などを筆頭にする正教、
グノーシス主義。

ヤソ教
=一神教とほざくが聖典より人間が書いた同人本(多神教寄り)の方が権威が上という
意味不明な一神教的多神教。


御用学派がストア派のローマ帝国。
キリスト教を国教にして侵略していったローマ帝国。
ローマ帝国に反抗したのがユダヤ教徒。
ローマ帝国が国教にしたキリスト教は聖典に旧約聖書(敵対するユダヤ教の聖典)をなぜ含めているのか?
新約聖書はユダヤ教を叩いている。


キリスト教の中核にユダヤ教は必要ない。
ユダヤ教はしょせんは旧約とつながりがあると見せかけるため。

ユダヤ教からの派生ではなくアーリア宗教派生って最大級のヤソのタブーだろ。
正確には、ユダヤ教破壊のためにユダヤ教から生まれたふりをしたのが耶蘇というのがタブー。
聖典ではつながりがあるじゃんって?
その聖典を選んだのはどの宗派ですか?
グノーシスではそもそも聖典じゃないよね。


キリスト教正統派最大の嘘が
「ユダヤ教の神とキリスト教の神は同じ神」
正統派側のローマ帝国はユダヤ教制力に手を焼いていたから旧約と合体させたんでしょう。
イエスの設定(処女から生まれた)や発言が部族社会完全否定などイエスがユダヤ教共同体出身なら出てこない発想。
部族社会と無縁なローマの貴族なら発想してもおかしくないなー。
ローマの貴族ってギリシア語もできるんだよね、新約ってギリシア語だよね。
キリスト教の中核(儀式と目的)はゾロアスター・ミトラス教由来であり旧約無しで成立することをグノーシスは知っていた。


キリスト教の中核が旧約聖書無しで成立するのは、
グノーシス派が旧約を否定し新約のみ採用していることから明白。


ユダヤ教勢力を潰すには、「より優れたユダヤ教」という設定が都合がよかったので旧約も聖典に入れたのがローマのカトリック。
ローマ帝国vsユダヤ教徒のユダヤ戦争は1世紀後半から2世紀で
ちょうどキリスト教の黎明期だ。
新約が古代ギリシア語なのは、古代ギリシア語が母国語のユダヤ教徒もとりこめるからだろう。
ヘブライ語が読めないギリシア語圏のユダヤ教徒用の七十人訳聖書読者層が対象だと思われる。

本当にユダヤ教の後継者なら聖典の言語を変えるのはおかしいって突っ込んだ人はいたのだろうか?
七十人訳聖書にはひどい誤訳がある。


聖典に旧約があるくせに旧約の食事既定守らないのがクリスチャンだが、
これは旧約を聖典に入れてもクリスチャンの生活に大きな影響を与えないように教義を設定したとも考えられる。
ユダヤ教の影響力を削ぎたいのだから生活関連での影響は避けたい。
安息日の曜日もユダヤ教と違う。

旧約(雷神)と新約(太陽神)は別の神だと主張する、つまり
キリスト教はユダヤ教派生ではないと主張するグノーシスは正しいから叩かれた。
グノーシスはストア派と対立するのも叩かれた理由だろう。
グノーシスでは物質=悪であり調和しない。
ストア派は善悪調和。
新キリスト教のニューエイジは露骨に宇宙論と善悪論がストア派だが、
グノーシス要素もあるので注意。


ストア派の勢力が強いのがローマ帝国。
ストア派とキリスト教のローマ帝国。
ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスはストア派。
ネロの教師セネカもストア派。

全人類をクリスチャンにせよという野望は
ストア派のコスモポリタリズムの変形だろう。
世界宗教登場以前は、宗教は一部族(集団)一宗教であり外部に積極的に布教するものではなかった。
大抵の宗教は特定の民族の神話とほとんど同義。
ユダヤ教も部族宗教なので世界中をユダヤ教思想で染め上げる思想はない。

あらゆる民族で共通のものを強調し、世界中を一つの宗教で染め上げようと積極的に布教する世界宗教は昔は革命的だった。
キリスト教の布教に積極的な姿勢は、ストア派のコスモポリタリズムを凶暴化させたものだ。


ストア派がキリスト教神学者に影響しているのはギリシア・ローマ哲学が基礎教養だから。
そういえば、カルヴァンの最初の著作がストア派のセネカの注釈。
カルヴァン派の神を企業(法神)におきかえて安息日=休日と自殺禁止を抜くと日本の国教である労働教になる。
勤勉に労働=神への奉仕
勤勉に労働=企業への奉仕
貯蓄好きもカルヴァン派まんま。
原罪は自己責任と本人の選択に置き換え。
要は本人が悪い。

原罪の悪質なところは自分で解除する手段がないところ。
元ネタのオルフェウス教とバラモン教のカルマ論は自力で解除可能であり、解除が目的。





『確認方法の無い情報をばら蒔いてる関係者』対応マニュアル
追撃Ⅳ




ツイートもした。

グループの場合、正体がばれにくいように、主張全体を分担してしゃべることがあるので一人一人だけ見ていても目的が見えないことがある。
boグループって英語読める癖に
タルムードの英訳(原文が読める人の翻訳)を引用して批判ってやらんよな。

アラブ諸国における反ユダヤ主義は英語Antisemitism=反セム主義はセム系なのでユダヤとイスラム差別であり、
ユダヤ限定ではない。
つまり、欧米から輸入された反ユダヤ主義はイスラムも叩く思想でもある。
キリスト教思想のAnti-Semitismはイスラム嫌悪(Islamophobia)でもある。
boは英語圏出身だろうがイスラムは叩かない。


ルターのまねをしたナチス。
ルターの本を焼け運動は起きない。

ヘレニズム・ユダヤはヘブライ語で聖書が読めないユダヤ教徒。
私はユダヤをユダヤ教徒以外の意味で使う者を警戒している。
ユダヤって言われている人の経歴調べたらユダヤ教徒か怪しい人ばかりでクリスチャン寄りばかり。
異端寄りの人は本当に色々混ざりすぎだ。


私は下っ端でも手先で実行者だから叩くけど。
その手先が先祖代々だったりするよね。つまり貧困で仕方なくじゃないから叩くよ。
在日で実行者層って代々やっているしやっぱり特権階級だよな。
一般のユダヤ教徒や在日の人からも平気で搾取したりするからな。
名誉キリシタン白人とでも名乗ればいいよ。
物質的な欲が最優先なら操りやすいと言うかユダヤと言う人たちって単に形而上の思想の崇高さとかがわからないのだろう。
物理ですべて満足ならそれはそれで幸せかもね。

イエス・キリスト高須の役割がメイソンのフォードとかぶる。
そのうちユダヤ陰謀論本を出版しそう。

「ユダヤ=悪」論者にユダヤに金融特権を許可したのはキリスト教だと言うと発狂して失言してくれるよ!
カトリックがユダヤに金融特権を許可。
十字軍とテンプル騎士団が銀行制度の基盤を形成。
プロテスタントが資本主義を発展させた。
選帝侯(キリスト教)がユダヤの銀行家を支配。


私のブログコメントではユダヤ陰謀論は正しい!って言ってくるコメントはない。
しかしキリスト教思想とシステム神学が黒幕だ陰謀論は間違いだって言ってくるのは来る。
しかも提示してくる証拠が完全に本人の主観と感想で共有できないので他人と共有できる物証出してくれとしか言えない。
なお私のブログコメントはたまに記事に反映する。
ユダヤとキリストの地位の差がわかるな。


聖書アラビア起源説を町の猫が取り上げているのが気になる。




『確認方法の無い情報をばら蒔いてる関係者』対応マニュアル

「ユダヤは悪」
↑ユダヤというのは具体的にどういう派閥ですか?
隠れユダヤの定義を教えてください
本当にユダヤ教徒ですか?

「タルムードは悪魔の本」
↑どの記述か具体的に引用してください

(引用へ)
↑捏造だと反論されていますが?

「タルムードを捏造する者たち」
モーリス・コミンスキー[魔女の鎚 第二撃]
http://www.asyura2.com/0403/bd34/msg/161.html
に捏造への反論があります

『仮面を剥がされたタルムード』が出典ですか?
著者のプラナイティスはタルムードを原語で読めず、 基礎知識すらないと裁判でばれたのはご存知?
プラナイティスのタルムードの引用は孫引きでタルムード原本は持っていなかったことはご存知?
https://twitter.com/pteras14/status/770215710689669120



旧約(タナハ)に反する内容がなぜタルムードに書けるの?
一神教では聖典に反する人間の解釈はすべて無効
一神教の大原則すらご存じない?

日本語訳し出版した三好迪は84歳没ですが?

ゴイ、ゴイムは神がユダヤ教徒をゴイと肯定的に言う使用例が二回はあるので侮蔑語としてタルムードで使えませんよ。

ヤハウェ
「おまえ(アブラム)を”大いなる国民”(goy gadol)にしよう。あなたは祝福の基となるだろう」
創世記12:2

「モーセよ、イスラエルの人々が聖なる民(goy kadosh)となるであろうと言え」
出エジプト19:6


https://twitter.com/pteras14/status/770213956048687104

イエスを批判する個所があるからタルムードが焼かれた事件

に言及しないのはあなたがクリスチャンだとバレるからですか?

ユダヤ教ではイエスが預言者であることを否定し、姦通によって生まれた子と考えることが気に食わないのですか?
処女で生まれるのはありえないから、姦通で生まれたが隠しているとみなすユダヤ教の方がまともでは?

https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/943497658626293761





https://twitter.com/kikuchi_8/status/946409673791496192


タルムードの中身は捏造するが
ユダヤ教の聖典の中身を捏造して叩けないのは、 キリスト教の聖典に旧約が含まれているからですか?

タルムードが翻訳禁止だとか訳したら殺されるのもデマ。
タルムードを9冊は日本語訳し出版した三好迪は84歳没。

英語ではゴイ、ゴイムは侮蔑語の意味もあり避ける人もいますが、民族や非ユダヤ人を意味する一般語です。
反ユダヤ主義者の捏造のせいで差別語だーってデマが広まったのでは?

タルムードの記述は聖典に基づくので、聖典に悪魔崇拝要素があることになりませんか?
それなら旧約を引用して批判すればすむ
のになぜやらないのですか?
あなたがクリ以下略
旧約なら日本語訳全文がネットで公開されていますよ
日本語で引用できないならタルムードの英訳がネットで公開されているので問題個所をこちら↓から引用してくれませんか?
Talmud and English translation Steinsaltz edition
https://www.sefaria.org/texts/Talmud


(物証を出さず、心の問題にしたり人格攻撃してきたら)
↑ 捏造だの、捏造の捏造だの不毛なので
「一神教では聖典に反することは無効」という論理で検証したのですが伝わりませんか?
~の詭弁を使ったあなたは「私は嘘つき」と認めたことになりませんか?
証拠があるなら詭弁を使う必要ありませんよね?

捏造と詭弁を弄するのは
①読んでいない、読めない
②読んだが叩ける個所がない
からですか?

(旧約を批判したら)

なぜ最初から旧約を否定しないのですか?
旧約を完全否定するあなたはキリスト教の異端派ですか?
グノーシスでは旧約と新約の神は別だと考え、旧約は聖典ではないから叩けますよね?

新約も悪魔崇拝では?
あなたの宗派以外の宗教はすべてユダヤ悪魔崇拝ですか?
なぜあなたの思考フレームがキリスト教なのですか?
ナチス礼賛なのはナチがキリスト教神秘主義や異端が大好きでありあなたと同じ思想だからですか?

高須メイソンも731部隊を否定しておりboらと同じ思想なのですが仲間ですか?

メイソンでも悪魔でもなくユダヤのみを叩くのはメイソンへも配慮しているからですか?

カトリック正統派はメーソン入会禁止なのであなたは異端寄りのカトリック(もろにイエズス会)ですか?
ナチ親衛隊の別名は黒いイエズス会
https://twitter.com/wolvesknow/status/799872817768468480
こういう路線で行くから私に絡むなら覚悟してね!







ヘーゲル

カントもヘーゲルも反ユダヤ主義者なのに
ヘーゲル思想のどこがユダヤ?
万教帰一思想のカントのワンワールド思想の元ネタはストア派由来のキリスト教共同体思想。
カントもヘーゲルも反ユダヤ主義。
近代西洋思想家は啓蒙主義者ですらだいたい反ユダヤ主義。






反ユダヤ主義ヘーゲルの弁証法の元ネタがキリスト教の三位一体論だと全訳者が明言!


『ヘーゲルの精神現象学』は
ヘーゲルの『精神現象学』を全訳した金子武蔵(かねこたけぞう、1905-1987年)の解説書。

※相即(そうそく)
仏語。互いに自在に助け融け合い密接に関わり合っている。


・自己意識とは普通には対象意識と相即したもののように考えられているが、
ヘーゲルではそうではなくて、むしろ自己意識は他の自己意識と相即しているものと考えられている。
その意味で
「精神というものは我なる我々、我々なる我である」ということがいわれている。
『精神現象学』上151ページ(新182ページ)
をみますと、
「--これによって『我々』に対してはすでに【精神】Geistの概念が現存している、
今後意識が認めるにいたるところのものは、
精神がなんであるかについての経験にほかならない。
即ち相対立する両項の、
各自別々に存在し相異なる自己意識の全き自由と自立とを具えた両項の統一であるところの
精神というこの絶対的実体が、換言すれば【我々】なる【我】であり【我】なる【我々】であるところの精神が
なんであるかについての経験なのである。
意識は精神の概念としての自己意識において初めてその転回点を見いだし、
感覚的此岸の色さまざまの仮象と超感覚的此岸のうつろな夜陰とを去って、
現在の精神的なる真昼のうちに踏み入るのである。」

すなわち精神というものは
我なる我々、我々なる我だが、この思想から次のことが出てくる。
精神の概念のうちには、各自絶対的なる独立性と自由をそなえる二つの自己意識がある。
しかし二つの自己意識はそれぞれ別々に自由をそなえながらも、
まったく一つの統一を形づくりつつそれぞれがまた独立的。
そういうところに精神という概念が成立するわけです。
ヘーゲルの精神なるものは社会的なものであり人倫的なものであるということができる。
このような自己意識の段階を媒介として理性が登場する。
この理性はカントの理性を積極的に生かしたものだが、
ヘーゲルでは理性は根本的には社会的人倫的なもの。


(【】は傍点の代用。

精神=絶対的実体=我なる我々=我々なる我。
”各自別々に存在し相異なる自己意識の全き自由と自立とを具えた両項の統一”
とあるが他の影響を受けない絶対的存在なのだろうか?
それならありえないが。
”絶対的なる独立性と自由をそなえる”自我って可能なのか?
相互作用はOK?
絶対精神ってゴッドの言い換えでは?
西洋哲学は
ゴッド(絶対的実体)をどう言い換えているか。
ゴッドと(絶対的実体)と人間の関係と地位
がわかれば理解が楽。
ヘーゲルの文章もカントに劣らず悪文だな。
ヘーゲル哲学はカント批判と解釈でもあるが悪文まで影響受けないでほしい)

・1788-90年
チュービンゲン大学哲学科在学
(哲学科というのは今日でいえば教養コース、ジュニアーコース)

1790-93年
同大学神学科在学。
(神学科は今の日本では哲学科にあたる)

1793-96年
スイスのベルン国の貴族シュタイガー家に家庭教師をつとめた。
(シュタイガー家はスイスの名門で20世紀なっても大臣になった人が出ている。
このころは他に就職口もないので哲学を勉強した人は、家庭教師になるのが普通。
カント、フィヒテ、ヘルダーリンみな然り。
『イエス伝』は新約聖書にカント哲学をもちこんで自分の理想像としてイエスを描いたもの。
『クリスト教のポジティヴィテート』はカントの影響のもとに理性で宗教を律しようとしたもの。
『カル新書』はカルという人がかいた書簡体の書で、
スイスの南のヴァート地方の政治にからんだ扇動的なパンフレットであるが、
フランス革命を喜び迎えたヘーゲルはこれにいたく感激して翻訳した。


(ヘーゲルは『イエス伝』を書くほどのクリスチャン。
フランス革命支持。
スイスの名門で家庭教師)

著者はキリスト教をクリスト教と書いているがメモ作成者はキリスト教と記述することにする)

絶対者は主体である。
絶対知はヘーゲルの場合、絶対宗教と深い関係があり、
キリスト教がそういうものと解釈されているが、
この絶対宗教についてはイエナ時代の遺稿において、
「絶対宗教とは神が自己確信的精神の深底であるという知である」といわれている。
つまり我々は自己自身を確信する精神をもっているが、
そういう精神の一番深い底にあるものが神にほかならないというわけです。
絶対宗教とは神が自己確信的精神の深底であるという知だが、
これによって神はあらゆる人間の自己であることになる。
神は実在である純粋思惟であるがこの抽象性を外化するときは、つまり抽象性を捨てるときは
現実の自己でもある。
裏からいえば、現実の自己が神なんだということになる。
神が普通の空間的・時間的定住をもっている人間だということは、
裏をからいえば、普通の空間的・時間的定住をもっている人間が同時に神だということ。
しかも神とされるところの個別者はすべての個別者。
だから神性・神の性質は人性・人間の性質と異なったものではない、
というようなことものべられることになるが、
これは主体性および自己性を極端にまでもっていこうとしたものだということをよく現している。
『精神現象学』はこのような意味で近代精神を決定化したものであるということができる。

近代科学、近代技術は人間が世界全体を現実に自由にし
世界全体を人間の支配の下に置こうとしたものだが、
ヘーゲル哲学は精神的に世界を支配しようとしたものだといえる。

(人間の地位が神に匹敵するものになったのが近代精神=ヘーゲル思想。
これ実質多神教では?
人の精神の底には神の一部があるってストアorグノーシスの影響を受けているじゃねーか!
ストア派から新ヤソ哲学を作ったカントを批判的に継承したのがヘーゲルだから影響があって当然か。

ヘーゲル哲学は精神的に世界を支配しようとしたものだから支配層がヘーゲリアンという情報が出てくる。
ヘーゲル哲学の基盤はキリスト教だとヘーゲル『精神現象学』を完訳した金子がはっきりと書いている。
どこがユダヤ?
ヘーゲルもヘーゲルが影響を受けたカントも反ユダヤ主義)


・ヘーゲルの精神とはカントでいえば理性にあたり、
その理性はまた理念Ideeあるいは無制約者を認識するもの。
つまり理性は絶対者を認識するもの。
そして絶対者を認識するものが絶対知。
この絶対知は絶対の他在における自己認識。
「絶対の他在のうちに『純粋』に自己を認識すること」が絶対知の規定。
あの有名なカントの二律背反論を積極的に生かして、
互いに対立しているものを綜合するヘーゲルの哲学的認識がこの絶対知。
主体があり、この主体に対して全く異なった客体があるとき、
その主体と客体を統合するつまり絶対の他在のうちに自己を見てゆくのが絶対知の絶対知たるゆえん。

普通の認識では対象を認識することは他者を認識することで自分自身を認識することではない。
対象は自己とちがったものと考える。
それに対し、
絶対の他在のうちに自分自身を認識することが哲学的認識の特徴。

普通の認識とは真の意味の精神ではなく精神の現象たるにすぎない。

対象意識と自己意識が一つになるのが理性の段階で、
この場合の理性とは絶対知(絶対の他在のうちに純粋に自己を認識)。

・定立、一つの思惟規定に対して、
反定立、反対の思惟規定が立てられ、
これらが互いに他に転換することで統一づけられる。
この統一づけには二つあるとヘーゲルは考える。
区別したうえで統一づけるのが本当の意味の思弁的理性の立場であり
区別をぜんぜんなくしてしまうのが神秘主義の立場、直接知の立場。
正と反を統合するがどこまでも悟性的な区別を認めたうえでの統一が必要。
真の理性は悟性的理性。
最初に直観され表象される具体的な全体があり、
これが悟性によって分割され、その分割を通じて統一が再び恢復され、
その恢復された統一において初めて真の真理が実現される。

ヘーゲルにとって最重要な宗教はいうまでもなくキリスト教。

ヘーゲル哲学では宗教は構想力の産物であり表象の産物とされる。
キリスト教には三位一体の教義がある。
個別者が個別者であると同時に絶対者としての権威をもつ。
神の子であると同時に人の子。
肉、罪、十字架を負うたもの。
人は肉に死なねばならず肉に死することで精神として霊としてよみがえる。
それによって父なる神のもとに帰る。
人の子は聖霊として復活昇天して神のかたわらに座をしめる。
超越的な神が実在性と現実性をもつためには神自身が肉に宿り、
賤しい大工の子として生まれねばならない。
この三位一体はヘーゲルの弁証法を実体的にあるいは表象的に示したもの。


(テーゼ+アンチテーゼ=ジンテーゼは三位一体が元ネタ!
弁証法的支配術はヤソの支配術でありローマ帝国流支配術の一つ。
どこがユダヤ?
ユダヤ教ではイエスは姦通で生まれた人扱い。
イエスのモデルってマリアとローマの貴族の子供では?
三位一体の元ネタってインドの三神一体の創造維持破壊サイクルでは?
それに過去現在未来の三つの視点と輪廻の表現では?
矛盾だらけの三位一体はヤソ以前の古代宗教の三位一体、特に三相女神を破壊したいからでは?
イエスが肉体ある存在だとみなすのは正統派。
異端では肉体なんてない=磔で死ぬなんてありえない=生贄思想の否定
という解釈)


・ヘーゲルには観念論があるがその観念論はキリスト教からきたというほかない。


・ストア派はアパテイア(非情)を強調する。
情欲的なものにとらわれず思慮をもって行動し理性をもってことに当たるべし。
(またストア派解説。
理性をもって行動せよってまんまカント)

・ヘーゲル哲学は徹底したヒューマニズムであり神を人間の位置にまでひきずりおろし、
人間を神の地位にまで高めたもの。

・光としての宗教、とはヘーゲルはこれをペルシャの宗教としている。
ペルシャではアフラ・マヅダは光であると同時に帝であり玉座につき、
それに侍る七つの光霊は星であると同時に七人の大臣でもある。

(キリスト教が7好きなのは拝火教由来?
創世記以外の元ネタ。
ユダヤ教の伝統的シンボルのメノラーが七枝なのは七つのアムシャ・スプンタ?
ダビデの星をユダヤのマークにしたのはイエズス会だから伝統的なユダヤ教徒は使わない)


・キリスト教の根本は受肉でありここに絶対実在の自己にほかならぬことが啓示せられているとヘーゲルはみている

・だれでも人間には神的意義が宿る。

聖餐式でわかちあたえられたパンと葡萄酒がキリストの肉と血である。
(人肉食の儀式が元ネタだろう)

・フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学が神学の束縛をまぬがれぬものだと難じ、
神が己の姿をかたどったのではなく、
人間が己の姿になぞらえて、己のかくありたいという理想像として神を創造したという立場から
哲学を人間学に解消しようとした。

・ニーチェはショーペンハウアーから多大の感化をこうむった。
ショーペンハウアーは広い意味ではドイツ観念論だが
ヘーゲルとは鋭く対立。
意思を持って実在とし、生きる意志から人生を見ようとした。
ヘーゲルでは精神だが、彼は意志。

(ヘーゲル哲学の善用はもぐらさんが教えてくれる。哲学は実用技術
https://twitter.com/mkmogura/status/257849102870642688)

長谷川宏訳『精神現象学』

・翻訳者の解説

原文は難文、悪文、拙文、不文、その他、なんとでも悪口をいいたくなるような代物。

"Substanz"を一貫して「実体」と訳していては、
文が日本語として体をなさないので、文意に応じて、
「実体、本体、神、共同体、
秩序、時代精神、本領、土台、
地球、自然」など、多種多様な訳語を当てた。
(ヘーゲルは以上を実体とみなしていることがわかる)

Bewusstseinは意識、
Willeは意志とし同一の訳語で通した。

『精神現象学』の公刊が1807年、ヘーゲル37歳。

ヘーゲルの教養と知識と思想的関心のありようを順不同に摘記してみると

1 古代ギリシャの政治、宗教、神話、芸術、思想、哲学に関する知識と感心。

2 キリスト教の歴史と教義にかんする知識。
 とくに、原罪と三位一体の論理をめぐる熾烈な思想的関心。

3 隣国フランスの社会と歴史にかんする知識。
 とくに、啓蒙思想とフランス革命についての熾烈な思想的関心
 
4 ドイツ観念論にかんする知識と教養。
 とくに、カントとフィヒテとシェリングについての深い理解と鋭い批判。

5 自然科学についての一通りの知識と教養。
 とくに、物理法則、有機体論、人相学、頭蓋論などへの関心とその限界の認識。
 
6 自国ドイツの文学にかんする知識と教養。
ゲーテとシラーにたいする深い関心と愛着、
その一方で、ロマン主義文学、
ロマン主義への強い反発
(ストア派ヤソ神学のカントと、三位一体の影響が強いのは二人の訳者のお墨付き)


・ここから『精神現象学』本文翻訳

まえがき
p.12あたりから
(他の記事もそうだが、基本的に本文の写し。
しかし””で囲っていないので誤字脱字の見直し回数は少ない)

本質にとっては、形が本質そのものと同様に本質的なのだから、
本質は、たんなる本質として--直接の実体、ないし、神の純粋な自己直観として--
とらえられ、表現されるだけでなく、形としても
--ゆたかさをいっぱいにもつ形の発展としても--
とらえられ、表現されねばならない。
そおときはじめて本質は現実的なものとしてとらえられ、表現されるのである。

真理とは全体のことだ。
が、全体とは、本質が発展して完成したもの以外にはない。
絶対的なものについて、それはその本質からして結果として出てくるものであり、
最後に至ってはじめて本来のすがたをあらわす、といわねばならないが、
まさにこのいいかたのうちに、絶対的なるものがみずから生成していく現実的な主体であることが示されている。

理性とは真理を結果としてうみだすものだが、
同時に、結果とその生成との対立を破棄するものでもあって、
というのも、ここにいう生成は単純な生成であって、
結果において単純な形で示される真理と別のものではないからである。
その意味で、生成とは単純なものへと還っていくことなのだ。

理性とは目的にかなう行為である、といいあらわすことができる。
自然と思考をともども誤解した上で、
思考よりも自然がすぐれていると考え、
手はじめに、自然の外なる目的を追放しようという、そういうものの見かたゆえに、
目的という形式がまったく信用の置けないものとなってしまった。
が、自然を目的にかなう行為と定義するアリストテレスの例にも見られるように、
目的とは直接目の前にあってじっとしていながら、
しかもみずから動いているもの、
--つまり、主体なのだ。
その動く力は、抽象的にとらえれば、
自分を自覚するという純粋な否定の力である。

結果がはじまりと同じになるのは、はじまりが目的だからである。

神ということばは、それだけとりだしてみれば、
意味のない音であり、ただの名前であって、
それがなんであるかを言明し、その意味を充実させるのは術語のほうである。
空虚なはじまりが述語のおわりにきてはじめて現実的な知となるのだ。
そのかぎりで、術語にくる
「永遠なるもの」や、「道徳的世界秩序」、
古代でいえば「純粋概念」や「存在」や「一なるもの」といった、
意味にあたるものだけを語ればよく、
意味のない音をわざわざ主語にもってくる必要はないではないか、という疑問が生じてもおかしくはない。
が、主語が置かれることで、ただの存在や本質や一般理念が主題となるのではなく、
自分へと還っていく主体が主題となっていることが示されるのだ。

体系としての真理だけが現実的であること、
あるいは、実態が本質的に主体であること、それをいいあらわすものとして、
絶対者が聖霊(精神)だ、といういいかたがある。
聖霊(精神)こそ、近代および近代の宗教に特有の、もっとも崇高な境地である。
精神的なものだけが現実的なものなのだ。

それは、もとからある本質であり、さまざまな関係をうみだしつつおのれの位置をはっきりさせるような、
自他にむきあう存在であり、自分の外に出て自分をはっきりさせながら、
自分を失うことのない存在
--完全無欠の存在--である。

(ヘーゲルの「精神」には「聖霊」の意味も含まれることに注目。
三位一体より絶対精神=聖霊=ゴッド=イエス)



・525ページから終わりまで

神の存在と他なるものとの和解、とりわけ、
他なるものの思考--悪--との和解も、
イメージとして表現される。
和解の概念の表現として、もともと善と悪は同じものであり、
神の存在と自然の総体とは同じものであって、
神の存在から切り離された自然は無にすぎない、
だから和解もなりたつのだ、というものいいがなされるが、
それは、誤解を引きおこさずには済まぬ、非精神的な表現だと知らねばならない。
もし悪が善と同じものならば、悪は悪ではなく、善は善ではないことになる。
が、悪と善はやがて克服される過渡的存在であって、
悪とは内向する自立存在であり、
善とは自己を欠いた単一の存在である。
善と悪の概念がそう表現されるとすれば、
両者の統一のさまもそこにはっきりと見てとれる。
内向する自立存在とは単一な知のことであり、
自己を欠いた単一の存在とは自足した純粋な自立存在のことなのだから。

どちらか一方に真理があるのではなく、
単一の同一体が抽象的なもので、
したがって絶対の区別が生じ、この区別がしかし潜在的な区別としてみずからを区別し、
ふたたび自己同一体となる、といった運動こそが真理なのだ。
神の存在と自然とが、とりわけ人間の肉体とが、同一だ、というのは、
まさに運動としていえることで、神は神ではないかぎりで自然であり、
自然は神の被造物として神聖であって、
精神のうちにあっては、二つの抽象的な存在が、
抽象性を克服して本当のすがたをあらわすのである。
その運動をあらわすには、通例の判断と、そこでの精神を欠いたつなぎのことば--
「……である」--
をもってしては不可能なのではあるが。
神の外に出た自然は無である、といういいかたもある。
が、この無は、あるものでもある。
無とは絶対の抽象であり、純粋な思考ないし内在であって、精神的な統一と対立する要素をもつかぎりで悪である。
この概念をとらえるのがむずかしいのは、
「ある」ということを固定的に考え、思考の要素というものは「ある」とともに「ない」のだということを忘れるからである。
本当にあるものは精神のおこなう運動だけなのだ。


自然が精神のほんとうのすがたをあらわしていないことは、
潜在的に知られていて、自己が自分に還ってこうした普遍的な知を手にする過程は、
精神の自己との和解の過程にほかならない。
この潜在的な知が、概念をもたない自己意識にとっては、
存在やイメージの形をとる。


イエスの死によって共同体の精神化がおこなわれるので、
抽象的で生命なき実体神が死んだのちには、
主体となった神が、教団の成員すべてに共通する、単一の自己意識として現実に存在するのである。。
かくて、聖霊は自分自身を知る精神である。
自分自身を知るということは、自分にとっての対象がそのままあるということであり、
いいかえれば、そのイメージが真の絶対的な内容だということである。
すでに見たように、聖霊の表現するのは精神そのものである。
聖霊は自己意識の内容であり、自己意識にとっての対象であるばかりでなく、
現実に存在する精神でもある。
精神は三つの地平をくぐりぬけてそうなったのであり、
自分をくぐりぬける運動が精神を現実的なものとしている。
精神はみずから運動する運動の主体であって、運動そのものであるとともに、
主体がくぐりぬけていく実体でもある。
わたしたちが宗教の世界に足を踏みいれたとき、聖霊(精神)とはどういうものかが示され、
自分自身を確信する精神が悪をゆるし、
と同時に自分の単一性と頑固な不動性を捨てていく運動、
いいかえれば、絶対に対立するものが実はたがいに同じものだと認識し、
この認識をもって両極をつなぐ絆とする、といった運動こそが精神の本当のすがたであることがあきらかとなり、
絶対神を啓示された宗教意識は、そのすがたを直観し、
自己と直観されたものとの区別を克服していったのだが、
あらためていえば、絶対神とはそうした運動であるゆえに、
また、そうした運動であるかぎりにおいて、主体であるとともに実体であり、
また、聖霊(精神)だともいえるのである。


(”絶対に対立するものが実はたがいに同じものだと認識し、
この認識をもって両極をつなぐ絆とする、といった運動こそが精神の本当のすがた”
精神=聖霊=ゴッドより、

「絶対に対立するものが実はたがいに同じものだと認識し、
この認識をもって両極をつなぐ絆とする、といった運動こそがゴッドの本当のすがた」

ヘーゲル哲学にとっては万教帰一もゴッドの運動なのだろう。
聖霊なのでキリスト教の神であり、ユダヤ教の神ではない。

「絶対に対立するものが実はたがいに同じものだと認識し、
この認識をもって両極をつなぐ絆とする」って万教帰一思想まんま!
ヘーゲルの弁証法の悪用。
正確には、都合が悪い絶対に対立するもの(仏教など)とつなぐふりをして破壊する。
外見上は仏教に見えるようにするが、仏教必須四要素=四法印は消去)


・p.538から
「自己を確信する精神」の形態の一つとして、
自分の概念のうちにとどまる「美しい魂」と名づけられるものがあったが、
そこにはすでに概念がある。
美しき魂は純粋で透明な統一を保ちつつ、おのれを知る知であり、
純粋な内面についての純粋な知を精神だと認識し、
神を直観するだけでなく、神が自分のうちに宿ることを直観する自己意識である。

(神が自分のうちに宿ることを直観ってグノーシスかストアの影響だろう。
異端とされたキリスト教神秘主義の影響もある。
どこまで行っても西洋哲学はキリスト教の範囲内)



時間とは概念が存在のかたちをとったものであり、
概念が空虚な直観として意識に思いうかべられたものである。
だからこそ、精神は時間のうちにあらわれざるえず、
精神がおのれの純粋な概念をとらえ、
時間を除去してしまうまでは、時間のうちにあらわれざるをえない。
時間は外面的な、直観された自己であり、
自己によってとらえられることのない純粋な自己であり、
直観されるしかない概念である。
概念が自分をとらえたときには、時間の形式は破棄され、
直観が概念化されて概念は概念的な直観になる。
要するに、時間は完成の途上にある精神の必然的な運命としてあらわれる。
それは自己意識と意識とのかかわりをゆたかにし、
神が意識される形式たる潜在的なイメージを、動きのあるものとし、
逆に、内面にあるとされる潜在的なものを実現し、顕在化し、自己確信へと導く必然的運命である。


精神がそれ自体で、つまり、世界精神として、完成されないかぎり、
自己意識をもつ人間精神が完成されることはありえない。


現実界に形成される精神の王国は、
一つの精神がもう一つの精神に引きつがれ、
後からくる精神が以前の精神世界を引きうけるという形で続いていく。
その目標は精神の深さの啓示にあって、
それを啓示するのが絶対概念である。
この啓示は精神の深さをおもてに出し、
空間的な広がりとして--内向する自我を否定し、その本体を外化するものとして--啓示する。
とともに、時間としても啓示するのであって、時間のもとで外化がさらに外化することによって、
精神は、広がりと深さとを備えたものとして自己の前に立ちあらわれる。
目標となる絶対知ないし精神の自己知は、
さまざまな精神がどのようなすがたをとり、どのようにその王国を構築したのか、
という事柄にかんする記憶を道案内人とする。
その記憶を保存しているものとしては、
偶然の形式をとってあらわれる自由な精神の歴史と、
それを概念的な体系の形で示す「現象する知の学問」とがある。
二つを一つにしたところの、概念化された歴史こそ、
絶対精神の記録の刻まれたゴルゴタの丘であり、
生命なき孤独をかこちかねぬ精神を、
絶対精神として玉座に戴く現実であり、
真理であり、確信である。シラーの詩「友情」の一説にあるごとく。

この精神の王国の酒杯(さかづき)から
精神の無限の力が沸き立つのだ。


(感想。
もっとも短く分かりやすい表現で書けないの?
長い文章は切って短くせよとは大学で習わなかったの?
冒頭に要約を箇条書きで書いてくれ。
カントは純粋理性批判の要約本を書いたけど要約
=簡略化して本当に伝えたいことだけ残した短文の連続
になってないぞ)



参考資料

ヘーゲル『精神現象学』(その1)
https://ittokutomano.blogspot.jp/2013/11/blog-post_29.html
”本書をよく読めば分かるように、実は「絶対知」は、そのような全知全能の知を意味していない。

 それはむしろ、絶対に正しいことがあるのではなく、わたしにとって「よい」「正しい」「ほんとう」のことは、他者からもまたそのように承認されてはじめて「よい」「正しい」「ほんとう」といいうる、ということを、徹底的に自覚的に知っている精神の境位のことなのだ。

ちなみに、上に貼り付けたのは長谷川宏訳の『精神現象学』だが、以下引用は金子武蔵訳から行う。

 長谷川訳は、この超難解な本をできるだけ砕いて訳したすばらしい偉業だ。しかし長谷川氏自身書いているように、この新訳には意訳の部分も多いので、直訳気味で、そのためさらに難解さが増してはいるが、今なお世界的にすぐれた翻訳といっていい、金子訳で読み解いていくことにしたいと思う。


0.序文

 まず、本書執筆におけるヘーゲルの構えを確認しておこう。ヘーゲルはいう。

「私の見解はただ体系そのものの叙述によってのみ正当化せられざるをえないものであるが、この見解によると、一切を左右する要点は真なるものをただ単に実体として把握し且つ表現するだけではなく、全く同様に主体としても把握し表現するということである。」

 「真なるもの」とは、実体でありまた主体である。

 これはつまり、先述したように、「真なるもの」は「絶対精神」(神)だが、実は人間もこれをまた分有しているのだということだ。絶対精神という「実体」は、わたしたち自身(主体)でもある、というくらいに考えておけばいい。

 そしてこの「わたしたち自身」の精神が、どのように「絶対精神」の本性を歴史を通して(個体発生的/系統発生的に)実現していくか、そのプロセスを描き出すのが本書『精神現象学』というわけだ。ヘーゲルはいう。

「真なるものは全体である。しかし全体とは、ただ自己展開を通じて己れを完成する実在のことにほかならない。」

 このプロセスを克明に描き出すことこそが、「学」的な知だ。ヘーゲルはそう主張する。

「学一般の或は知のこのような生成こそは、この精神の現象学が叙述するところのものである。」

 つまり、個人からすれば、自分の精神のあり方(成長)を自覚的に知ること、他方精神(絶対精神)からすれば、自分がどのように人間において展開しているかを描き出すこと。これが『精神現象学』の課題だというわけだ。

 ではそれはどうすれば可能か。

 さしあたっては、人間の精神(意識)がどのように成長するかを克明に描き出すことによって、である。

 そのプロセスは弁証法的である。つまり、最初は素朴な精神(意識)が、さまざまな問題に行き当たり、自分自身を否定し乗り越えて成長していく、そのようなプロセスなのである。

 ヘーゲルらしい文章を引用しておこう。

「この運動こそ命題自身の弁証法的運動であり、ひとりこの弁証法的運動のみが現実に思弁的なものであり、そうしてただこの運動を言いあらわすことのみが思弁的な叙述である。」

 ヘーゲル哲学が超難解なのは、この、「絶対精神」の自己展開という側面があるからだ。純粋に人間の意識がどう成長するかを書いてくれれば分かりやすいのに、ヘーゲルは必ず、それが「絶対精神」にとってはどういう意味を持っているかということを書く。それが、「即自」「対自」「即且つ対自」、「概念」、「普遍性―特殊性―個別性」とかいった、実に独特に使われる用語を生み出すことにもなっている。

「「我々」の見るところでは、無限性によって法則がそれ自身において完成して必然性(内的必然性)となり、また現象のあらゆる契機が内なるもののうちに受け容れられた。」
「この無限性は己れ自身と同じである。」

 ちなみにここでいわれる「我々」という言葉は、本書でひんぱんに登場するもので、「意識の成長のプロセスを全部知った後の我々」を意味している。しかし素朴な意識は、まだこの「我々」の境地には達していない。だからそれが「我々」の境地に達するまでのプロセスを見ていこうというわけだ。

 こうして「意識」は、世界は実は「自分にとって」存在しているのだということに気づくようになる。”

”重要になるのが、ヘーゲル哲学の最重要キーワードである「相互承認」だ。

 自己意識は、互いが互いにこのような「自分は自分だ!」という意識を持った存在同士であることを、何らかの形で相互に承認しあう必要にせまられることになる。

 しかしそれは最初はきわめて素朴な相互承認だ。『精神現象学』は、この「相互承認」が、どんどんと深化・発展していくプロセスを描き出したものだといっていい。


「自分が相手に向って為すことを相手側が相手側自身としても為してくれないと、自分だけではなにごとをも為すことはできないのである。だから、運動は端的に両方の自己意識の二重のものである。おのおのは自分が為すのと同じことを他方も為すのを見、おのおのは自分が他方に向って要求することを自分でも為すのであるから、おのおのがその為すところをなすのは、ただ他方が同じことを為してくれるかぎりにおいてのことでしかない。」

「両極は互に承認しあっているものであることを互に承認しあっている。」



(1)主と奴

 最初に現れる「自己意識」の類型は、「主と奴」である。

 「自分は自分だ!」と主張し合うそれぞれの自己意識は、「承認のための生死を賭する戦い」を繰り広げ、その結果、主人と奴隷とに分かれることになる。

「自己意識は最初には単純に自分だけでの存在であって、あらゆる他者を自分から排除することによって自己自同的である。」

「そこで両方の自己意識の関係は、両者が生死を賭する戦いによって自分自身の、またお互の証を立てることであると規定せられるわけである。」

 主人はひたすら自由を「享受」できる存在だ。対して奴隷は、主人に対して「畏怖と奉仕」が義務づけられる。

 ところが、「自己意識」が次の段階へと展開する契機(きっかけ)は、実は「奴隷」の方にあるのだとヘーゲルはいう。

 労働を通して、自己意識は自分の欲望を抑えることを覚え、また対象世界を自分の思いのままに「形成」することができることに気がつくからだ。

 つまり、奴隷は労働を通して、自分は主体的に「自由」な存在なのだ気づくことができるのだ。

「労働を媒介とすることによって意識は己れ自身に至るのである。〔中略〕しかるに主の欲望は対象の純粋な否定を自分のために取っておき、これを独り占めにし、またそうすることによってまじりけのない自己感情をうることをも独り占めにしたが、だからこそ、この満足はそれ自身ただの消失であるにすぎない。なぜなら、この満足には対象的な側面或は存立が欠けているからである。これに対して労働は欲望の抑圧であり消失の延期である、言いかえると、労働は形成するのである。」


(2)自己意識の自由

 こうして、「自己意識」は自分の「自由」を知ることになる。

 しかしそれは、実はまだまだ素朴な段階だ。

 本書はこのあたりから断然面白さを増していく。

 自分が「自由」であることを知った「自己意識」は、しかしその自由を、ただ自分の中だけで守り満足しようと努める。


①ストア主義

 その最初の類型が、「ストア主義」だ。

 これは簡単にいうと、「俺は誰がなんといおうと俺なんだ!」と強弁する意識のことだ。

 しかしこれは、実はただ自分の内に閉じこもっているだけで、何ら現実的でない。

「この自由は思想のうちにおける自由であるわけであるが、かかる自由はただ純粋思想だけをもって真理とし、そうしてこの真理は生活のうえでの中身を欠いているから、「自由」と言っても、ただ自由の概念であるにすぎないのであって、生き生きとした自由自身ではない。」


②スケプシス主義

 そこで「スケプシス主義」が登場する。

 これもまた簡単にいうと、他人を否定することで自分の優位を保とうとする意識のことだ。

「こういう自覚的な否定によって自己意識は自分の自由の確信を自分で自覚的につくり出し、この確信の経験を生み出し、そうすることによってこの確信を〔客観的〕真理にまで高めるのである。」

 しかし「スケプシス主義」は、実は大きな矛盾を抱えている。人を否定する自分自身が、結局はその否定の論理のうちに搦めとられてしまうからだ。

「この意識の言行はいつも矛盾しており、またこの意識は自分でも不変性及び自己同一の意識であると共に全くの偶然性及び自己との全くの不問の意識でもあるという矛盾した二重の意識をもっている。」”
ヘーゲル『精神現象学』(その2) https://ittokutomano.blogspot.jp/2013/11/blog-post_8420.html

ヘーゲル『精神現象学』(その3)
https://ittokutomano.blogspot.jp/2013/11/blog-post_3342.html
”(6)道徳性

 こうして「破壊の狂暴」を経験した精神は、ついに自らの「道徳性」に目覚めることになる。

 自らの考えは、ほんとうに他者にとっても普遍的といえるだろうか。「道徳性」の精神は、そのように内省するようになる。

 が、それも最初はきわめて素朴な内省にすぎない。

 というのも、「正しいことをしよう」と願っても、そこには2つの問題があるからだ。

 1つは、「正しいこと」をしても幸せになれるとは限らないという問題。

 もう1つは、「正しいこと」を、わたしの「欲望」や「衝動」のせいで行えないという問題だ。

 そこで「道徳性」の精神はこれをある仕方で克服しようとする。

 「神の要請」がそれだ。

 「正しいこと」と「幸福」とが一致するように、またそれが「欲望」や「衝動」とも一致するように、「神の存在が要請される」のだ。

「そこで今やこの〔他の〕意識が「世界の主人」として、また「世界の支配者」として道徳性と幸福との調和を創り出すと同時に、もろもろの義務を数多なるがままに聖なりとし是認するということになる。」

 ここには浅ましい「ずらかし」があるとヘーゲルはいう。自分の意志で「正しいこと」をしようと主張していた精神が、実は結局「幸福」にこだわっていたり、「欲望」「衝動」の前にくずおれたりと、実は真剣でなかったという「ごまかし」があるのだ。

 ヘーゲルによるカントの道徳哲学批判として有名な箇所だ。(カント『実践理性批判』のページ参照)


(7)良心(「行動する良心」と「批評する良心」)

 こうして精神は、ついに「良心」(Gewissen)の境地に到達することになる(金子訳では「全的に知ること」)。

 これは、具体的な行動を通して「事そのもの」をめがける精神の境位のことだ。

「なぜなら、「事そのもの」であるのは、「純粋義務」が純粋な思考することという空なる抽象において成立するものであること、純粋義務がその実在性と内容とをただひとつの限定せられた現実においてのみもっていること、しかも「ひとつの現実」というのが意識自身の現実であり、且つ「意識」というのが「思想の上での物」としてのものではなく、或る個別者としてのものであるということだからである。」

 道徳性は、他者の承認という契機を欠いていた。それは、ただ自らが「正しいことをしよう」と決意するにとどまっていた。

 しかし「良心」は、「正しさ」「よさ」「ほんとう」は、他者からの承認を得てはじめて「正しさ」「よさ」「ほんとう」といえることを、徹底的に自覚している精神である。

「全的に知ること(=良心〔引用者〕)は事そのものをその充実した内容において獲得しており、しかもこの充実した内容は全的に知ることが事そのものに自分自身によって与えるものである。」

 そして最後に、「行動する良心」と「批評する良心」が登場する。

 「行動する良心」は、「事そのもの」をめがけて実際に行動する良心だ。

 ところがここに、「批評する良心」が冷水を浴びせることになる。

 お前のその行動は、単に名誉欲や名声欲があってのことだろう、といった具合に。つまり「行動する良心」の、その奥底にある「欺瞞的」「偽善的」な部分をつこうとネチネチいうわけだ。

 ところが「批評する良心」も、やがて気づくことになる。

 自分がそうやって批判しているそのこと自体が、実は自分にとってのほんとうの「事そのもの」をめがけての行為であるのだと。だから、「行動する良心」を批判してばかりいる自分は、単にさもしい奴であるだけなのだと。

 こうしてこの「頑なの心胸」(批評する良心)は、自らで自らを赦し、砕け散ることになる。

「「赦し」というのは、普遍的な意識が自分のことに対して、即ち自分の非現実的な本質のことに対して行なう棄権のことである。」

「〔然りという〕和らぎの語〔中略〕は相互に承認しあうことであり、そうしてこの承認が絶対的な精神である。」

 「良心」、これが精神の最高境位なのだ。それは「事そのもの」を自覚した精神のことである。そしてヘーゲルは、この境位を「絶対知」と呼ぶ。


2.絶対知

 「精神」章と「絶対知」章の間には、「宗教」の章がある。しかしここでは割愛したい。前にいったように、この章はそもそも「付け足し」の感を免れないし、より詳細な記述はヘーゲルの『宗教哲学講義』にあるからだ。(ヘーゲル『宗教哲学講義』のページ参照)

 そこで、以下最終章「絶対知」に進むことにしよう。

 といっても、この章も、最後のまとめといった程度で、ヘーゲルが自分の「学の体系」を論じた箇所を除いてあまり新しい点はない。

 そこで、ここでは割愛した「宗教」の章との関連から、ヘーゲルが「絶対知」をどのようなものとして描き出しているかを最後に見ておくことにしよう。

「宗教においては内容であったもの、言いかえると、或る他者を表象することという形式をとっていたものと同じものが此処の全的に知ることにおいて自己にとって自分自身の為すことである。このさい内容が〔同時に〕自己にとって自分自身の為すことでもあるというように、内容と為すこととの両者を結合するものこそは概念である。

 宗教は、ヘーゲルによれば「精神」の本質を理解した境位(つまりこれまで論じてきたプロセスを知っている境位)である。

 しかしそれは、この「本質」を「神」という表象で表現する。

 他方、これを「概念的に把握」するに至ったのが、「絶対知」である。

「この絶対的な知ることとは自分を精神の形態において知るところの精神であり、言いかえると、概念的に把握するところの知ることである。」

 これまで論じてきた、「意識→自己意識→理性」の進み行きを、「概念」として、つまり徹底的に理性的に理解しつくした精神、それが「絶対知」なのだ。

 それはつまり、繰り返しいってきたように、「よい」「正しい」「ほんとう」は、他者に承認されてはじめて「よい」「正しい」「ほんとう」であるということを、徹頭徹尾自覚した精神のことだ。

 「事そのもの」を自覚し、「良心」に達した精神。それこそが「絶対知」にほかならない。”

カント
”反ユダヤ主義

カントはヴォルテールなどと同様に反ユダヤ主義の思想を持っていたことでも知られている[37][38]。カントは『たんなる理性の限界内の宗教について』において、「ユダヤ教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがイェホヴァ−に選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視したし、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」と、ユダヤ教の選民思想について批判している[39]。

また晩年の「実用的見地における人間学」においては、ユダヤ人は「追放以来身につけた高利貸し精神のせいで、彼らのほとんど大部分がそうなのだが、欺瞞的だという、根拠がなくもない世評を被ってきた」として、ユダヤ人は保護を受けている国に対してその国の国民を欺いたり、また自分たち同士をさえ欺いて利益を得ていると非難している[40][41]。

またカントは『諸学部の争い』で、ユダヤ人がキリスト教を公に受け入れれば、ユダヤ教とキリスト教の区別を消滅させることができて、ユダヤ教は安楽死できると述べている[37][42]。

カントはメンデルスゾーンなどユダヤ人哲学者と交流していたが、このようにユダヤ教とユダヤ人を否定的に理解していた。オットー・ヴァイニンガーはカントの『人間学』の一節を「世界文学のなかでもっとも反ユダヤ的なテクスト」であると批判している[37]。レオン・ポリアコフはカントは人種差別主義的というより、キリスト教的な反ユダヤ主義であったと論じている[37]。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88#%E5%8F%8D%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%B8%BB%E7%BE%A9

反ユダヤ主義
”啓蒙思想と反ユダヤ主義
啓蒙思想家ヴォルテールは反ユダヤ主義者でもあった[191][192]

ヴォルテール、カント、フィヒテなど啓蒙思想家のなかでも反ユダヤ主義は多くみられた[191]。また、それはドイツの啓蒙思想、ドイツ観念論でも同様であった。
フランス啓蒙思想

1762年、ジャン=ジャック・ルソーは『エミール』で、ユダヤ人を「もっとも卑屈な民」と称し、ユダヤの神は怒り、嫉妬、復讐、不公平、憎悪、戦争、闘争、破壊、威嚇の神であり、「はじめにただ一つの国民だけを選んで、そのほかの人類を追放するような神は、人間共通の父ではない」とした[193]。

同じ1762年、ヴォルテールはユダヤ人のイザーク・ピントへの批判に対して「シボレットを発音できなかったからといって4万2千人の人間を殺したり、ミディアン人の女と寝たからといって2万4千人の人間を殺したり、といったことだけはなさらないでください」と「キリスト者ヴォルテール」と署名して答えた[194][* 20]。1764年の『哲学辞典』ではヴォルテールは、ユダヤ人は「地上で最も憎むべき民」「もっとも忌まわしい迷信にもっとも悪辣な吝嗇を混ぜ合せた民」等と非難した[196]。しかし、ヴォルテールは啓蒙主義の進展に寄与したため、当時のユダヤ人側から厳しい評価が寄せられなかった[197]。

モンテスキューはオランダ人の一部の人以上にユダヤ的なユダヤ人はいないと旅行記で述べた[198]。
ドイツ啓蒙思想、ユダヤ人解放論、ユダヤ啓蒙

1768年 - ポーランド支配下のウクライナでハイダマク(ハイダマキ運動)によるポグロムが発生した[167]。

1776年、自由主義神学者のヨーハン・ゼムラーは「無能にして不信心なユダヤ人」は「誠実なるギリシア人やローマ人とは比較の対象にすらならない」として、旧約聖書、とりわけエズラ書とネヘミヤ書にはキリスト教的精神が欠如しており、聖書として永遠に必要不可欠なものであるのかと問いかけた[199][200]。

1779年、フランソワ・エルがアルザスのユダヤ人を「国家内国家」として非難した[201]。「国家内国家」という表現はユグノーに対して使われたもので、1685年にはナントの勅令が廃止された[201]。
サンスーシ宮殿(1747年)。サンスーシはフランス語で「憂いのない」を意味する。
「フリードリヒ2世 プロイセン王」アントン・グラフ(Anton Graff)1781年画。アドルフ・ヒトラーは強力な軍事力でプロイセンの領土を拡大させていったフリードリヒ2世を理想の人物と仰ぎ、官邸に大王の肖像画を掛けていた[202]。

一方、フランス・ロココ様式のサンスーシ宮殿を築き、ヴォルテールを招くなど啓蒙思想を庇護したプロシアのフリードリヒ2世は、1780年に『ドイツ文学について。非難されるべき欠点、その原因と改善策』 をフランス語で著述した[203][204]。フリードリヒ2世は、ドイツ文学で評価できるはゲラートの寓話[205]、エヴァルト・クリスティアン・フォン・クライスト [206]、ザロモン・ゲスナーの『牧歌』[207]、アイレンホフの『郵便馬車』[208]ぐらいで、他はシェークスピアやゲーテの『ゲッツ』のように芸術の規則を無視したものばかりであるとする[204]。フリードリヒ2世は、そのようなドイツ文学の惨状の原因は、戦争、そしてドイツが政治的な統一国家を作れないこと、ドイツ語は多種の異なる方言をもち、未発達な言語であり、統一言語がないことなどにあるとする[204]。ドイツ語は未発達な言語であるため、宮廷ではフランス語が使われた[204]。また、フリードリヒ大王のプロイセンでは、言論の自由が保障されているが、服従が国家の核心にあったとクラインは述べ、またカントは日常の職務では自由を制約されると論じて、ハーマンはこれを批判した[204]。

プロイセン王国枢密顧問官のクリスティアン・コンラート・ヴィルヘルム・ドーム(1751-1820)は、エルのユダヤ人非難文書に刺激されて、ユダヤ系哲学者モーゼス・メンデルスゾーンとともにユダヤ人の解放と信教の自由を訴え、1781年9月に『ユダヤ人の市民的改善について』を発表して、ユダヤ人が特別な許可がなくては結婚もできず、課税は重く、仕事や活動が制限されていることを批判した[209][210][201]。ド−ムの『ユダヤ人の市民的改善について』に対して、ヘブライ語やモーセ律法の研究で高名なゲッティンゲンのルター派神学者ヨハン・ダーフィト・ミヒャエーリス(1717 – 1791)は、悪徳で不誠実な人間であるユダヤ人は背が低く、兵士としても役立たずで、国家公民になる能力を欠いており、さらにその信仰は誤った宗教であるのに、ドームは職業選択の自由だけでなくユダヤ人が固有の掟に従うことまでを許しているとして、ドームを批判して、ユダヤ人解放を拒否した[211][212][213][201]。

1782年、オーストリアの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がボヘミアとオーストリアのユダヤ人の市民権を改善する寛容令を公布した[201]。

ユダヤ人の工場経営者で哲学者であったモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ啓蒙運動を展開して、詩篇とモーセ五書をドイツ語に翻訳し、ユダヤ人子弟の教育では従来の律法重視を改めて世俗的な科目や職業訓練を訴えて、ユダヤ人のキリスト教社会への同化を進めた[201]。1770年にはメンデルスゾーンは街路を歩くと罵声を浴びせかけられるのが日常であったため、外出しないようにしていた[214]。1782年、メンデルスゾーンはマナセ・ベン・イスラエルの『イスラエルの希望』(1652年)のドイツ語訳前書きで、国家が宗教への介入をやめるという政教分離原則を主張しながら、ユダヤ人社会の宗教的権威から独自の裁判権を放棄するよう求めた[201]。
フランス革命と革命戦争
フランス革命とユダヤ人問題

フランスのアルザスでは、1784年、地方領主が徴収していたユダヤ人通行税が廃止され、同年7月にはユダヤ人への農地所有が認められた[201]。これは外国人のユダヤ教徒の排除が目的であり、ユダヤ人の当地の人口を抑制するための政策であった[201]。

1787年、メッスの王立学芸協会は「ユダヤ人をフランスでよりいっそう有益かつ幸福にする手段は存在するか」で論文を公募し、アンリ・グレゴワール神父(Henri Grégoire)とザルキント・ウルウィッツのユダヤ人擁護論が表彰された[201][215][216]。グレゴワール神父は1789年ジャコバン派の三部会議員となり、ユダヤ人解放に尽力し、ウルウィッツは著書『ユダヤ人擁護論』を書いて、ミラボーに注目された[201][217]。
フイヤン派のミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティはフランス革命で、ユダヤ人解放を実現した。

1789年、フランス革命が勃発し、人権宣言が出された。ミラボー伯爵はドームとベルリンのサロンで親交して影響を受けて、フランス革命でユダヤ人解放を実現した[210]。1791年1月28日、フランス革命中のフランスでは、イベリアから移住したポルトガル系ユダヤ人と、アヴィニョン教皇領のセファラディームの職業と居住地が保障された[218]。1791年9月27日に反対者によって国民議会は分裂寸前となったが、ユダヤ人解放令は議決し、1791年11月に発効した[210]。しかし、フランス革命の動乱でユダヤ人が解放されることはなく、ユダヤ人の解放政策が進展したのはナポレオン時代以後のことであった[219]。
フランス革命戦争以後のドイツ
エドマンド・バークは『フランス革命の省察』でフランス革命を批判して、ドイツにも影響を与えた。
ヴァレンヌ事件。ヴァレンヌからパリへ連れ戻されるルイ16世国王一家。
1791年のパリ脱出時のルイ16世王妃マリー・アントワネット。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘で、神聖ローマ皇帝レオポルト2世の妹だった。1793年に斬首された。
詳細は「フランス革命戦争」を参照

フランス革命戦争(1792年-1802年)とそれに続くナポレオン戦争(1803年–1815年)で、オーストリア帝国、プロイセン王国がフランスに敗れ、神聖ローマ帝国が崩壊した。フランスの覇権が拡大するなか、ドイツではドイツ至上主義・ゲルマン主義が台頭すると同時に、反フランス主義と反ユダヤ主義が高まっていった。

ドイツの教養市民はゲーテを例外として、フランス革命を「理性の革命」として熱狂的に歓迎した[220]。しかし、フランス革命の恐怖政治が現出するとやがてドイツの知識人は革命を憎悪するようになり、反革命へと転化した[220]。詩人クロプシュトックはフランス革命を称えた数年後に「愚民の血の支配」「人類の大逆犯」としてフランスを糾弾した[220]。同じく革命発生時には称賛したフリードリヒ・ゲンツは1790年にエドマンド・バークの『フランス革命の省察』をドイツ語に翻訳した[220]。プロイセンではヴェルナー宗教令への反対者は「ジャコバン派(革命派)」として糾弾され、シュレージエンでは革命について語っただけで逮捕され。オーストリアでは外国人の入国が制限された[220]。フランス以外の国が反革命国家となった要因としては、アルトワ伯などのフランスの亡命貴族たちの活躍があった[220]。アルトワ伯はコーブレンツに亡命宮廷をひらき、ラインラントを拠点として反革命運動を策動した[220]。

1791年6月、ルイ16世とマリー・アントワネット国王一家がフランスを逃亡しようとしたが、国境付近で逮捕されたヴァレンヌ事件が起きた。啓蒙君主であった神聖ローマ皇帝レオポルト2世は妹のマリー・アントワネットを危惧し、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共にピルニッツ宣言を行い、フランスに王権復旧を要求した[220]。神聖ローマ帝国とプロイセンの反革命宣言はフランスへの挑発となって、1792年3月1日、フランスの好戦派はオーストリアに宣戦布告し、プロイセンもオーストリアの同盟国として参加して、革命戦争がはじまった[220]。フランスの革命勢力は、外国の反革命勢力を倒し、また「自由の十字軍」として好戦的であり、ジロンド党のブリソは「戦争は自由をかためるために必要である」と演説した[220][221]。革命側は短期決戦による勝利を期したが、軍の貴族将校の半数が亡命しており、フランス軍は敗退すると、革命派は国王一家がオーストリア・プロイセン軍と内通しているとみなして宮殿を襲撃して国王一家を幽閉する8月10日事件が起こった[221]。また、反革命派1200人が虐殺される九月虐殺が起こった[221][222][223]。9月、フランス国民軍はヴァルミーの戦いで傭兵を中心としたプロイセン軍に勝利して、フランスでナショナリズムが高揚した[221]。ヴァルミーの戦いでのフランスの勝利によって、革命戦争が革命対反革命の戦争から、フランスの大陸制覇戦争へと性格を変えていった[220]。

1793年1月にルイ16世が処刑されると、ドイツ側にイギリス、スペイン、イタリアなどの反革命諸国家が参加し、第一次対仏大同盟が形成された[221]。フランスは1793年8月23日の国家総動員法を発令し、徴兵制度を施行し、史上初の国民総動員体制をもって恐怖政治のもとに戦時下の非常処置がとられた[221]。戦争はフランス軍有利な情勢となり、1794年9月、フランス軍はオランダへ侵攻し、ネーデルラント連邦共和国は崩壊、1795年1月にはフランスの傀儡国(姉妹共和国)としてバタヴィア共和国が宣言された。バタヴィア共和国ではユダヤ人にも公民権を授与した[219]。1795年4月、フランスはプロイセンを破り、またプロイセンはポーランド分割に関心を向け、バーゼルの和約でプロイセンはフランス革命政府によるラインラント併合を承認して、対フランス連合から退いた[220]。1794年から1795年にかけてウィーンでは、「ドイツ・ジャコバン派」が処刑された[220]。ゲオルク・フォルスターたちはマインツ共和国をつくったが、マインツがプロイセンとオーストリアの連合軍に占領され、崩壊した[220]。

プロイセンの対フランス連合脱落によって、オーストリアは単独でフランスと対峙した[220]。1796年以来、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はオーストリア軍を連破し、1797年10月、カンポ・フォルミオ条約によって、フランスはイオニア諸島とネーデルラント、ライン川左岸地区を保有し、オーストリアはヴェネツィア共和国を領有した[224]。これによって、対仏大同盟は崩れ、各地にフランスの衛星国がつくられた[221]。

カンポ・フォルミオ条約後、ゲットーが解体された。ナポレオンはイタリア、ローマ教皇領のユダヤ人の市民権を認めて解放し、ライン地方のユダヤ人も市民権を授与され解放された[219]。しかし、アムステルダムのセファルディはそれ以前の身分制度に満足していたため、市民権を不必要であるとしてユダヤ共同体も分裂状態となった[219]。こうしてナポレオンとフランスはユダヤ人解放者としての名声を確立した[219]。しかし、そのナポレオンもユダヤ人の非ユダヤ教化を望んでおり、またユダヤ人に対してはイナゴの大群のような臆病で卑屈な民族であるとして、ユダヤ人の「解放」は、これ以上他人に害悪を広めることができない状態に置いてやりたいだけであると述べ、ユダヤ人とフランス人との婚姻を進めれば、ユダヤ人の血も特殊な性質を失うはずだと、ユダヤ人種の抹消を目標としていた[219]。また、ナポレオンのユダヤ政策の作成過程では、「ユダヤ人」は好ましくない偏見があるので、公文書から「ユダヤ人」の名称を一掃することが提案されたこともあった[198]。ドイツ諸邦では行政の場では「モーゼ人(Mosaiste)」が奨励されたが定着しなかった[198]。

1798年、ロシア、トルコが参戦し、オーストリアも戦列に復帰して第二次対仏大同盟が結ばれ、1799年11月、ナポレオンがクーデターによって政権を握った[221]。
ドイツ観念論と反ユダヤ主義
哲学者イマニュエル・カントは、ユダヤ人がキリスト教を公に受け入れれば、ユダヤ教は安楽死できると述べるなど、ユダヤ教を否定した[225]。
ドイツ観念論の哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテはユダヤ人の害から身を守るには、ユダヤ人全員を約束の地に送り込むしかないと論じた[226]。またナポレオン占領下のベルリンで『ドイツ国民に告ぐ』((1807年-1808年)を講演して反響を呼び、ドイツ国民運動の祖となった。
ドイツ観念論の哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは『法の哲学』(1821年)において、自己内へ押し込められ無限の苦痛にあるユダヤ民族に対して、ゲルマン民族は客観的真理と自由を宥和させると論じた[227]。

ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、モーゼス・メンデルスゾーンなどユダヤ人哲学者と交流していたが著作では反ユダヤ主義的な見解を繰り返し述べており、『単なる理性の限界内での宗教』(1793年) で、「ユダヤ教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがイェホヴァ−に選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視したし、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」[228]と述べ、また晩年の『実用的見地における人間学』(1798年)でも、「パレスティナ人(ユダヤ人)は、追放以来身につけた高利貸し精神のせいで、彼らのほとんど大部分がそうなのだが、欺瞞的だという、根拠がなくもない世評を被ってきた」と書き[229]、『諸学部の争い』ではユダヤ人がキリスト教を公に受け入れればユダヤ教とキリスト教の区別が消滅し、ユダヤ教は安楽死できると述べている[225]。カントは、啓蒙思想によるユダヤ人解放を唱えながら、儀礼に拘束されたモーセ教(ユダヤ教)を拒否した[230]。他方のモーゼス・メンデルスゾーンはラファータ−論争でキリスト教への改宗を断じて拒否した[231]

また、カントは、フランス革命を賛美しつつも、教会や圧政などの「外界からの自由」というフランス革命の自由観を批判して、自律的な自己決定という概念によって、外界の影響に左右されない「完全な自由」観を生み出した[232]。 カントは、人間は外なる世界ではなく、自己の内なる世界、自律的な精神の中の道徳律に従うときに自由であると論じたが、このようなカントの哲学が政治に適用されると、自律性と自己決定をもって道徳に従う政治がよい政治とされ、自決権の獲得が政治目標となる[232]。こうしたカントの思想はフィヒテによって継承された。

当初、フランス革命の熱心な支持者であったドイツの哲学者フィヒテは、「フランス革命覚書」(1793年)[233]で革命を理論的に根拠づけるととともに、ユダヤ人がドイツにもたらす害について述べた[226][234]。フィヒテはまた、「ユダヤ人から身を守るには、彼等のために約束の地を手に入れてやり、全員をそこに送り込むしかない」[235]「ユダヤ人がこんなに恐ろしいのは、一つの孤立し固く結束した国家を形作っているからではなくて、この国家が人類全体への憎しみを担って作られているからだ」とし、ユダヤ人に市民権を与えるにしても彼らの頭を切り取り、ユダヤ的観念の入ってない別の頭を付け替えることを唯一絶対の条件とした[226]。フィヒテは、世界は有機的な全体であり、その部分はその他の全ての存在がなければ存在できないとされ、個人の自由は全体の中の部分であり、個人より高いレベルの存在である国家は個人に優先すると論じて、個人は国家と一体になっ たときに初めてその自由を実現すると、主張した[232]。このようなフィヒテの国家観は、シェリング、ミューラー、 シライエルマッハーによって支持された[232]。

フィヒテと同じく当時はまだフランス革命の熱心な支持者であったフリードリヒ・シュレーゲルは「共和主義の概念にかんする試論」(1793年)で民主的な「世界共和国」を論じて、革命的民主主義に疑念を呈したカントの『永遠平和のために』(1795年)を乗り越えようとしたが、シュレーゲルもナポレオン時代にはドイツ国民意識を鼓舞する役割を果たした[234]。

1799年、自由主義神学者のヨーハン・ゼムラーの弟子フリードリヒ・シュライアマハーは宗教論第5講話で、ユダヤ教は聖典が簡潔し、エホバとその民との対話が終わったときに、死んだと述べた[236][237]。

ヘーゲルは『宗教哲学講義』でユダヤ人の奴隷的意識と排他性について論じ[238]、『精神現象学』(1807年)でユダヤ人は「見さげられつくした民族であり、またそういう民族であった」[239]、1821年の『法の哲学』ではイスラエル民族は自己内へ押し込められ無限の苦痛にあるのに対して、ゲルマン民族は客観的真理と自由を宥和させるとした[240][227]。『キリスト教の精神とその運命』ではユダヤ人は「自分の神々によって遂には見捨てられ、自分の信仰において粉々に砕かれなければならなかったのである」、「無限な精神は牢獄に等しいユダヤ人の心の中には住めない」と批判した[241][242]。

哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(1788- 1860)は、インドの仏教に発したキリスト教が、荒削りなユダヤ教の古い幹を覆い、キリスト教によってユダヤ教はまったく別のもの、いきいきとした真実なものに変えられた、とした[243]。みずからの被造物をよしとする造物主という発想をショーペンハウアーは受け入れず、「すべてをたいへん良いと見たユダヤ的楽天観の光は消えて、いまや悪魔そのものがこの世の君と呼ばれる」と書いた[244][243]。ショーペンハウアーにとって、シナゴーグも哲学の講堂も本質的に大差はないが、ユダヤ人はヘーゲル派よりも質が悪いと考えていた[245][243]。ショーペンハウアーは「ユダヤ人は彼らの神の選ばれた民であり、神はその民の神である。そしてそれは、別にほかのだれにも関係のないことである」と述べている[246][243]。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%B8%BB%E7%BE%A9#%E5%95%93%E8%92%99%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%A8%E5%8F%8D%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%B8%BB%E7%BE%A9




カント哲学(新耶蘇ストア派)もコルプス・クリスティアヌムの影響下。

佐藤優「世界史の極意」ノート(2-2)
http://inmylifeao.exblog.jp/25112963/
"EUの本質をなす概念は、ラテン語の「コルプス・クリスティアヌム」です。コルプス・クリスティアヌムとは、ユダヤキリスト教の一神教の伝統とギリシャ古典哲学とローマ法の3つの要素から構成された「キリスト教共同体」を指します。
では何故EUが生まれたのか?それは、ナショナリズムの抑制です。宗教的価値観を中心とした結びつきには、民族やナショナリズムを越えていくベクトルが確認できます。一方

イスラム国もまた、国家と民族の枠をグローバルなイスラム主義によって克服しようとする運動です。しかしEUと決定的に違うのは、国家と民族の枠を越えて人を殺す思想になってしまっているということです。"


コスモポリタニズム/世界市民主義
http://www.y-history.net/appendix/wh0102-149.html
”ヘレニズム時代に広がった世界観。ギリシアのポリス社会の崩壊に伴い、普遍的な人間の生き方が探求されるようになった。
 ヘレニズム時代のギリシアでポリスの衰退を背景として起こった、ポリスの枠にとらわれずに普遍的な人間存在を意識するようになった新しい思想。ペロポネソス戦争によるポリスの抗争、マケドニアへの服属によってポリス民主政が衰え、アレクサンドロスの大帝国建設によってヘレニズム世界のコスモポリス(世界国家)が形成されたことによって成立した。
 かつてアリストテレスが“人間はポリス的動物である”と言ったように、ポリス全盛期のギリシア思想はポリスに属する人間を考察することが前提であった。しかし、前4世紀以降、ポリスの衰退がはっきりしてくると、ポリスを価値判断の基準にするのではなく、個人がどう考え、どう生きるかを問い、ポリスの枠を越えたより普遍的な生き方、哲学が求められるようになった。そのような風潮をコスモポリタニズムといい、代表的な哲学としてはゼノンのはじめたストア派と、エピクロスのエピクロス派がある。このような普遍性の重視は、キリスト教という合理的な思考を超越した絶対者を受け入れる素地ともなったと考えられる。

Episode 最初の「世界市民」は誰か。
 アリストテレスのいうように人間が“ポリス的動物”であるとすると、その市民としての権利もポリスあってのもの、となり、民主主義であろうが自由であろうが、国家に依存して始めて成り立つ、ということになるだろう。それは個人利益より国家利益を優先させるのが当然だ、という発想となり、国家が国益を懸けて戦う戦争が起こったら、国家に殉じるしかない、ということになる。アテネがペロポネソス戦争に巻き込まれていった時もそうだったに違いない。その結果はポリス社会の崩壊となり、北方のマケドニアの専制国家を台頭させ、アレクサンドロス大王を出現させた。アリストテレスがアレクサンドロスの教師だったことは深刻な歴史的皮肉と言わなければならない。
 ポリス社会崩壊にともなって「世界市民」コスモポリテースという考えが出てきたことは当然だった。それでは、明確にそのことを自覚した最初は誰だっただろうか。ラウェルティウスの『ギリシア哲学者列伝』中巻によると、ソクラテスの孫弟子にあたり、犬儒学派として知られるディオゲネスは、あなたはどこの国の人かと訊ねられると、「世界市民(コスモポリテース)だ」と答えたという。さしずめ、この人が自覚的な世界市民第一号と言って良いのではないだろうか。
 また彼は市民国家(ポリス)が存在するのでなければ文明化しても何の益にもならないし、市民国家が存在するのでなければ法は何の役にも立たない、したがって法は文明化をもたらすとも言っている。さらに「彼は、高貴な生まれとか、名声とか、すべてそのようなものは、悪徳を目立たせる飾りであると言って、冷笑していた。また、唯一の正しい国家は世界的な規模のものであると」言っている。
<ディオゲネス・ラエルティオス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』中 岩波文庫 p.162,169-167>
 ディオゲネスは、アレクサンドロス大王が訪ねてきたとき、日影になるからどいてくれ、と言ったことで知られる人物。いつも樽の中でくらし、人間的な欲望や名声を拒否し、自ら犬のような生活を理想としていたので犬儒学派と言われた。そして伝承ではアレクサンドロス大王と同じ前323年に死んだという。彼が理想とした「世界的な規模」の国家はアレクサンドロス大王の帝国だったのか、はたまた、もっと長いスパーンで予見して、現代の主権国家体制の克服を見通していたのか、それは判らない。 ”
復活ねこた ‏@lakudagoya 2017年2月分(2/8から)ツイート保存
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-135.html
”ねこた‏ @lakudagoya 2月28日

@ououdaiei 学校化社会ってのはダメです。でも学校こそ理想になってるのでどうしようもありません。


とまーてさん、皆さんお待たせしました!

イラン版のノアさん事、イマさんの引用の一部が出来上がりましたよ!


エピクロスの園
庭園学園。ここは至福の園
イマさんのジャパリパーク
http://ataraxiaaquaria.seesaa.net/article/447464292.html
イラン版のノアさんであるイマさんは、アフラ・マズダーに呼び出されて以下のものを作るように言われました。

イマよ、この世界に致命的な冬がやってくる。猛烈で破壊的な氷結に襲われる。 物質世界に破滅的な冬がやってくる。雪が降り積もる。最も高い山々にまで。バル(地下室また地下の格納所)を造れ。馬場の四隅の届く長さに。そこに羊や牛、人間、鳥、そして赤く燃える炎の種子を運び込むのだ。

汝はそこで地上で最も優れた男女の種子、地上で最も優れたあらゆる家畜の種子、地上で最も優れたあらゆる樹木の種子、最も香りが甘くて最も実ったあらゆる果実の種子を運び込むのだ。

これらの種子はどれも2つずつ運び込み、人々がバルにいる限り尽きないように保存すること。

身体に障害のある者や腹の飛び出た者、不能なものを正気でない者やハンセン病のものは入れてはならない。


「神々の魔術 上巻 180項より」”

イマさんのジャパリパークその2
http://ataraxiaaquaria.seesaa.net/article/447464856.html
”イマさんが作ったバルというかジャパリパークの詳細

最も大きい場所には9つの通路を作る。 中ほどの場所には6つの通路。最も小さい場所には3つの通路。

最も大きい場所の通路には男女1000人気の種子を運び込む。中程の場所の通路には600人。最も小さい場所の通路には300人の種子を運び込む。

「神々の魔術 上巻 184項より」

ここまではゾロアスター教の文書の引用部分。ここから先は作者の注釈。

これをハイテク種子銀行(絶滅する危険のある種子を保存する場所)の仕様書と考えるのは奇抜すぎるようだ。

だがバルの他の「技術的な」面についてはどう判断したら良いのだろう?

例えば照明装置だ。この場所に扉をこしらえ、それをアフラ・マズダーから与えられた黄金の指輪で封印する。

さらにイマは「自ら輝く窓」も作る。

この「自ら輝く窓」とはいかなるものかとイマが説明を求めたところ、アフラ・マズダーは「考案されてない光と考案された光がある」と謎めいたことを告げた。

前者は星や月や太陽のことで、長い冬の間はバルの中から見ることができない。

後者は「人工の光」で「下から輝く」。

イマは指示されたとおりバルを完成させた。

それ以降バルは「自らの光で輝いた」これを成し遂げたイマは

こられの謎の光源は旧約聖書ではゾーハルと言われてます。あの「光輝の書」のあれです。

ここからゾロアスター教の文書の引用

1.6キロの長さの床に水流を作った。常緑の土手に取り鳥を住み着かせたそこには尽きることのない食料がある。更に居住するための建物を作った。バルコニーと中庭と回廊のある家だ。

「神々の魔術 上巻 185項より」

彼は男女の種子を運び込んだ。あらゆる種類の樹木の種子と、あらゆる種類の果実の種子を運び込んだ。彼が運び込んだあらゆる種子はどれも二つあり、人々がバルにとどまる限り、尽きる事がないように保存された。

「神々の魔術 上巻 185項より」

40年ごとに、どの男女にも二人の子が生まれる。男と女だ。これらすべての家畜でも同じだ。そして、イマが作り出したバルの人々はこの上なく幸せな人生を送る。

「神々の魔術 上巻 185項より」

ここから作者の意見

興味深いことにこの訳者は、古代の様々な注釈を引用した脚注を書いている。

それによると「バルの住民は150年生きた。誰も死ななかったという人もいる。」

さらに興味特に興味深いのは。

すべての男女の間にできた子は性的結合ではなく、「バルに保存されていた種子」によるものだと言う。

イマに繋がる、謎の失われた技術に関する手がかりは他にもある。

奇跡の杯は、世界中で起きてることを見ることができる。また宝石が散りばめられたガラスの玉座「ガラスの馬車とも称される」は空を飛ぶことができる。

以上バルの中身でした。””

”ユダヤ戦争

1~2世紀、パレスチナのユダヤ人がローマ帝国に対して起こした解放戦争。鎮圧されてユダヤ人の離散が始まった。
ローマ時代のパレスチナは紀元6年からローマ帝国の属州として支配されていた。そのパレスティナで、1世紀後半から2世紀にかけて、ユダヤ人の激しい反ローマ闘争が起こった。66~70年の第1次ユダヤ戦争はウェスパシアヌスの指揮するローマ軍によって鎮圧され、131年の第2回ユダヤ戦争はローマ皇帝ハドリアヌスの派遣したローマ軍によって鎮圧された。これによってユダヤ人は地中海各地に離散(ディアスポラ)していくこととなった。”
http://www.y-history.net/appendix/wh0103-075_01.html






ちょこらーた アルパカ推し? @tyokorata
11月23日

いま放送大学でヘーゲル哲学を聞いてるけど、「市民者では個人の権利の追求と自由が生じるのは自然なので格差の発生は当然」と、共産主義をdisってて面白い。






みずのん? @mizuna3
2013年4月10日

ヤマギシ会の共産主義村ってまんまプラトンの国家でワロタ。










中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
10月31日

いつもカトリックの話ばかりしてるが、プロテスタントについて基本的なことを解説。
英語でprotestというと「抗議する」という意味です。ここからもわかる通りプロテスタントはカトリックの方針に異を唱えて成立した宗派の総称です。一つの宗派の名前ではなく複数の宗派を指して呼びます


プロテスタントの三大原理と呼ばれるものは「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」です。「信仰のみ」は別名「信仰義認」とも言われます。「信仰によってのみ神に義(ただしい)と認められる」という意味です。たとえば近世初頭に流行した免罪符を買うといったような行為ではなく、
実際の心のあり方、信仰のみが神に認められ、救いに繋がりうるのだという概念です。表面上いかに敬虔な正しい行いをしても、心が伴っていなければ無駄だということですね。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
10月31日

「聖書のみ」はカトリックに対する反論だと考えるとわかりやすいです。カトリックは聖書以外にも教皇の下した裁定(たとえばある人物を聖者と認定するなど)も信仰上効力を持つものとしています。それに対してプロテスタントは「聖書に根拠がある訳じゃない教えは何も信じないぞ」と言ったわけです。
1件の返信 1件のリツイート 3 いいね
中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
10月31日

最後に「万人祭司」です。「神父と牧師の違いは、前者がカトリックで後者はプロテスタント」という豆知識がありますよね。これは正しいのですが、両者は単に名前が違うだけではありません。カトリックの神父は聖職者というように一般の信者とは隔絶した役割を地位を持つ「聖なる存在」なのです。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
10月31日

対してプロテスタントの牧師は実は「聖職者」ではないのです。正しくは教役者や教職者などと言います。プロテスタントでは信者すべて(万人)が神から見れば司祭であり、特別な地位にあり霊的に特に優れた聖職者なんてものは認めないとするのです。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
10月31日

そうはいっても現実的に教会を管理したり、教義を教える立場の人は必要ですよね。それが牧師と呼ばれる役職です。牧師は信者の指導者的な役割を果たしますが、それ以上のものではなく一般信徒と別の特別な存在だとは考えられていません。だから牧師は神父と違い妻帯も認められているのです。



この図からもわかりますが、宗教改革はルターが始めたと言っても、ルターの立てたルター派が他のすべての派閥の祖である訳ではありません。さらにルターはプロテスタントの中ではかなりの守旧派でして、事実最初は別の宗派を立てようなどとは思っておらずカトリック教会の改革を志していました。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

しかしカトリック教会はルターの批判に過敏に反応し、彼の反論を許さず教皇の権威に背く異端者と一方的に断罪しました。ここに至ってルターもカトリックと袂を分かち、独自の宗派としてルター派が生まれました。このルター派は北ドイツの諸侯に支持されて一定の勢力を保ちます。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

するとルターの成功に触発されて、カトリックの教皇庁に不満を抱いていた他の勢力、神学者たちが立ち上がりさまざまなプロテスタント諸派が生まれたのです。しかしこれらの諸派は反カトリックという点以外では教義に細かな相違があり、お互い攻撃しあうような関係でした。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

たとえばルターの成功を見て、既得権益層に不満を抱いていた人々がプロテスタントとして起こした反乱がありました。ドイツ農民戦争というものです。彼らは始めルターの支持を求めましたが、ルターはそれを突っぱねて逆に諸侯の側について農民たちを盗賊の罵りました。

中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

もともとルターは社会の大きな変革など望んでおらず、農民たちの指導者ミュンツァーの説く「アナバプテスト」の教派はあまりに急進的であると捉えたからです。結果として反乱は悲惨な失敗に終わり、ドイツでは領邦君主の権威が揺るぎないものとなりました。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

このようにルターに触発されて発生したプロテスタントのうち急進派は最終的に政治権力からは排除されていき、結局のところ反カトリックでありながらも古い権威と上手く付き合うことのできた宗派だけが新たな「権威」になることができました。排除された人々は各地を流浪しアメリカ大陸に多く流入します
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

まず一番下には英国国教会こと聖公会がありますが、これは反カトリック・教皇庁というだけで、厳密にプロテスタントと言えるかも怪しい折衷的な宗派です。すごく乱暴に一言でまとめてしまうと、親玉をローマの教皇から英国王とカンタベリー大司教にしただけの宗派です。例の三大原理も当てはまりません
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

次にルター派、ルーテル教会があります。これは文字通りルターの立てた宗派で北ドイツの諸侯の支持を得て地盤を固めました。そしてカトリックの神聖ローマ皇帝の妥協によりアウグスブルクの宗教和議で一応公的な宗派として受け入れられました。上手いこと新たな権威の一つになったわけです
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

しかしカトリックとの対立は止まず最終的に17世紀に30年戦争というドでかい宗教戦争にいたり、戦乱の終結後最終的な共存の道へが開かれます。ドイツの南の方はカトリックですが、北欧諸国はルター派になっています。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

カルヴァン主義の元になる宗派はスイスで生まれました。しかしこの宗派もルターと対立し、カトリック勢力と戦って粉砕されてしまいます。そしてオランダの方でこの流れを新たに立ちなおらせたのがカルヴァンです。カルヴァン派はスコットランドでも支配的な宗教となり長老派と呼ばれることになります。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

カルヴァン派はフランスではユグノーと呼ばれましたが、激しい宗教戦争を経てカトリックに弾圧されました。イングランドではピューリタン(清教徒)と呼ばれ、一時は王を追い出して革命政権を築きますが王政復古により弾圧を受けて、一部はアメリカに渡りました。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

繰り返しになるけど他の宗派は特定の地域で政治権力と結びつくことに失敗して、他のプロテスタントからもカトリックからも異端として排斥された。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

それぞれ教義に関してもごくざっくり説明します。まずルター派が三大原理ですね。聖公会を除く他のプロテスタント諸派にも共通です。聖公会は英連邦の公的な宗教でありトップが英国王とカンタベリー大司教で、カトリックに似てた点が多くあります。
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中卒アスペニート
‏ @mmmnvivi
11月2日

カルヴァン派の特徴は予定説です。これは最終的に神が救済する人間は予め決定されており、人間が何をしてもそれは変えられないという説です。神の絶対性を極端なまでに説いている訳です。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という有名な本の指すプロテスタントはこの宗派のことです。







(旧約のヤハウェは肉好きなので菜食主義のバラモン教ではなく、
肉食OKのゾロアスター教の影響の方が強いだろう
というかペルシャに一時期支配されていたし交易していた影響だろう。
キリスト教は旧約も聖典に含めているが食事既定は守らない)




ゾロアスター教の楽園では人類は不死で
野菜しか食べなかったらしいんだ。

ところがイラン版ノアさんのイマ(閻魔)
さんが肉食を勧めたため、楽園の人々は
堕落して不死じゃなくなっちゃったんだ。

肉を食べる前に感謝の儀式をやるの!
生贄の儀式のルーツね!
現代ではキリスト教の「頂きます」の
お祈りになって残ったよ!

だから皆んなもフレンズを美味しく
召し上がる前には必ず「感謝の頂きます!」

を言おうね!

ご先祖様のイマさんとの約束だよ?

因みに先の論文だとイマの罪はもう
二つあるらしい。

一つは妹との近親相姦。インドでは
タブーらしいがイラン版ではコレに
よって「完全なる人」が誕生するらしい。

それまでは各々、悪魔の男や女を娶った
らしいが、熊とか猿しか産まれなかった
らしい。

そしてもう一つは「人類史上
初めて嘘を吐いた事」らしい。
「私が世界の創造者だ」と豪語した
のがウソだったらしい。

閻魔大王の嘘吐きの舌を抜く話は
自分の事を言ってるのかもね。

あー!w
だからノアの野郎は洪水明けてから
真っ先にヤハウェ君と焼肉パーティー
やるのかww

そうなるとカインとアベルの
話も興味深いなw

ヤハウェの野郎、肉ばかり喰いやがってw

妹と子供作らないと多分色の白いのが
産まれてこないんだろう。地元の黒い
土人とも子供作ったけど、猿とか
熊みたいなモジャモジャしか産まれて
来なかったんだろうなw

アルビノだったから閻魔大王は
地下に住んだのかなぁ……

直射日光に弱そうだしなぁ、
アンデッド系だしね。

太陽族(アスラ)と嵐族(ダエーワ)か……

雲で太陽が隠れてないと行動出来ない
連中が居たのかもな……

闇が深いな……

暗闇の雲を呼び寄せる程に。

(イマが嘘をつくとRoyal Gloryが鳥の形をして今から出ていった。
Royal Glory
=王の栄光(後光)
は鳥の形をして飛ぶ。

"when (Yima) had added the lie, the untrue word, to his account,
the Royal Glory flew away from him visibly in the shape of a bord."

インドのリグヴェーダでは近親相姦の罪によりヤマは不死でなくなり、地下の王となる。
地下とはインド版ハデスである。
イランの伝統では最近親相姦は宗教的に称賛に値する。)

(ヤハウェが野菜と肉を捧げられたときに肉を選んだのは
バラモンではなくゾロアスター(肉食OK)を選んだことを示すのでは?)



https://twitter.com/pteras14/status/837598794493517824

https://twitter.com/pteras14/status/837599866599563265


復活ねこた @lakudagoya 2017年2月分(2/8から)ツイート保存
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-135.html

ctfl f ataraxiaa

フェニキアの一部がエトルリアとユダヤ疑惑『ラテン語の世界』。 イマの目は太陽!東からくる救世主 =太陽 ! 『原典訳 アヴェスター』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-158.html



聖書のユダヤ人のモデルがフェニキア人なのを隠す為に、フェニキア文字を古ヘブライ文字と名付けた。民主制というのは、もともと植民地統治の一形態。塚田孝雄『ギリシア・ローマ盗賊綺譚』 中央公論新社 (2000/03)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-51.html

①最近のツイッターログ ②フェニキア文字=古ヘブライ文字で、
アラム文字≒ヘブライ文字なので古代ユダヤ教の歴史の文字文献が一切信用できない。本当に古代に実在したのか?
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-121.html






BGM

アー夢野久作の人脈、大本・紅卍人脈♪

”入れ込まれたその 構造 ( システム ) に
 囚われて夢を見続ける”
 
【凋叶棕】胎児の夢 / Vo.めらみぽっぷ




「カバラ」箱崎総一 青土社「ユダヤ教神秘主義」G・ショーレム 法政大学出版局
ヤクザ式ビジネスの「かけひき」で絶対に負けない技術 (光文社知恵の森文庫)








菊りんブログ
大本教と戦前右翼勢力の関係から見るNWO勢力の両建構造
http://kokuhiken.exblog.jp/25029599/


”ストア派の至高存在(神)
=「技術的(創造的)な火」
=知性的な「ロゴス(理性、言語など)」
=自然の摂理。
神=火=ロゴス=自然(神の摂理)。
自然と調和した平静な心の獲得が目標。
肉体的要素を否定しない。
インド哲学の平静な心を求める傾向の影響がありそう。

よくストア派は禁欲主義、エピクロ派は快楽主義として対比されますが、
どちらも、間違った思い込みによって煩わされず、自然(神の摂理)と調和した精神的な平安を求める点で共通しています。

ストア派の宇宙論はヘラクレイトスと似て、至高存在を「技術的(創造的)な火」と呼び、同時にそれを「ロゴス」と考えました。
これらは神的で知性的で、諸元素に変化して、やがてまた「技術的な火」に戻るのです。
宇宙は収縮によって生まれ、やがて空虚に広がりながら燃焼して消滅して「技術的な火」に帰します。
宇宙は年(2万6千年)かかってこの生滅を繰り返します。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-146.html
『オルフェウス教』とニーチェへのストア派とエピクロス派の影響の考察。





















@fromdusktildawn  until:2007-11-13
https://twitter.com/search?f=tweets&q=%40fromdusktildawn%20%E3%80%80until%3A2007-11-13&src=typd
” fromdusktildawn? @fromdusktildawn
2007年11月12日
役に立つかどうかの勝負をするのだったら、現代哲学なんぞより、ヘーゲルの方がよっぽど役に立つことが多いよ。ヘーゲルを鵜呑みにするのは害悪以外のなにものでもないけどな。

弁証法的プロセスの繰り返しによって、政治システムが進化していって、やがては絶対精神に到達する、って、どこの新興宗教だよ。で、その新興宗教を解体して、ちらかしまくって、お片付けしないし、新しいモノをなにも構築してない現代哲学って幼児かよ。

たとえばさ、日本の教育システムをどういうものにすべきか?って質問に対して、現代哲学な人たちに聞いて、ろくな回答が返ってきたことがない。

皆が幸せになれるような職場、会社、コミュニティ、サークルを作る、ということは、皆が幸せになれるようなルールを構築するということでしょ。現代哲学では、そのルール作りをどのようにしろ、って回答なわけ?

シミュレーションとシミュラークルだっけ?あれも、だからどうした?ってかんじ。自分というモノが完全なオリジナル素材からできていないのなんて、当たり前じゃん。全ての人間は、いくつかの基本アミノ酸のくみあわせでしかないって言ってるのと大して変わらないんじゃね?

基本的には、現実世界を動かすことが出来ない=役に立たない、でしょ。

少なくとも、ヘーゲルは、ルール作りのためのルール、すなわち、メタルールを提案していた。
そのメタルールのコンセプトやビジョンを語っていた。
そして、ヘーゲルの示したビジョンやコンセプトは、実際のルール作りをする上で、極めて現実的で、有用でしょ。

現代哲学ってのは、政権担当能力のない万年野党みたいなもの。さんざん近代哲学を批判し、スキャンダルを暴いたのは、たしかにお手柄だったけど、そのあと、よりより政権を作ったかというと、そんなことはない。相変わらず、解体ばかりしている。

人間が3人集まれば、既に政治が必要になる。たった3人のプロジェクトでも、政治的発言がいかに多いことか。政治から逃げて生きようとすると、政治的混乱による泥沼に入りがち。混乱を避けるために、ミニプロジェクトの憲法や法律を作らなければならない。

たとえば、いっちゃんシンプルなところでは、ヘーゲルは建設的な妥協のしかたについてのメタルールを提案している。テーゼ、アンチテーゼ、アウフヘーベン、ジンテーゼ。

人間の不幸なんて、たいていはルールの設計ミスから生じている。
ルールを正しく再構築し直せば、不幸の大半はかなり緩和されるでしょ。

たとえば、しょぼい受託会社ですら、どういうルールに基づいて案件を受注するか、どいういうルールで営業を仕掛ける先の優先順位を決めるか、どいういうルールで人材を採用するか。

どいういうルールで、
誰に、どれだけの報酬を支払うか。どいういうルールで、誰の意見に従うか。

これらのルール作りが下手くそだと、みんなが不満足で、非効率で、仕事が面白くなく、収入も少なく、不公平感がまん延し、鬱病が蔓延する。

たとえば、プロジェクトマネージャがそのプロジェクトのエンジニアの人事評価をすると、
エンジニアには不満が大きい。技術力が正しく評価されないし、非効率な仕事を押しつけられるし、あげくに鬱病になったり。

そこで、ルールを設計し直して、エンジニアの人事評価には、その上位のエンジニアも同席する、というルールに変更することで、そのエンジニアは簡単にハッピーになったりする。

これから明らかなように、ルールの作り方しだいで、人を幸せにしたり、不幸にしたりすることができる。
そのルールの作り方にたいする効果的な流儀を確立するのに、ヘーゲルは多大な貢献をしたし、そのコンセプトの多くは、いまでも十分に通用する。

これに対して、人々を幸せにするために、現代哲学というのは、どういう役に立つのか?プロジェクトで人間関係がぎくしゃくして利益率も報酬も低下して、みんなの気分がブルーなとき、現代哲学は、仕事に意味なんてないんだからさ、とでもうそぶく気か?

現代哲学は、物事に客観的な意味がないことを問題にするけど、その時点で、主客二元論という錯覚にとらわれているのではないか。客観的な意味がないことをどうこういぜんに、
そもそも、客観などと言う概念自体が錯覚だよ。

現代哲学は、ルールを定めることの有用性を否定したりはしない。現代哲学は、人々が縛を縛る意味の網から人々を解放することばかりに熱心だ。

自分の思考は自分のものではない。したがって自分など存在しない。
って、感じの論法ってさ、コンピュータは全てマシン語で演算している。
従ってオブジェクト志向プログラミングなんて意味がないって言っているぐらいマヌケなことを言っているじゃないのか?

現代哲学が、「意味がない」というときの「意味がない」は、客観的に見ると「意味がない」っていう意味でしょ。ちがうの?

日常語における「意味がない」という言葉の意味は別でしょ。日常語で意味がない、っていうのは、「そんなことやっても金にならないし、女にモテるわけじゃないし、楽しいことはなにも起きない」っていう意味でしょ。

あるいは、誰かを幸せにする分けじゃないっていう意味だ。

自分の思考が自分のものではないとしたら、自分は思考しない存在なわけで、思考しない存在になんの意味があるのかな?

いや、自分が自分の思考だけでスタンドアロンに存在している、って感覚は、近代の理性主義が生み出したものでは?キリスト教が支配していた時代は、むしろ神の御心のままに、というか、自分が思考しているようでも、実は神の導きにすぎない、と考える人たちが多かったのでは?



自分が意味の網の目の中の部分パーツに過ぎない、という「見方」もできる、ということは現代哲学の功績なのだけど、意味を解体するときに必要な「見方」の一つに過ぎず、自分で意味と価値を編み上げてなにかを構築するための具体的な処方箋を、現代哲学は提出できている感じがしない。

なので、現代哲学を語る人は、ただの解体業者にすぎないことがおおく、「で、具体的にどうすれば、みんなが幸せになる「仕組み」を作れるわけ?」という段に、話がさしかかると、屁理屈をこねてごまかす感じの人がおおいとおもう。

夢の中の私は、この私だ、と「感じる」。しかし、別の時代の誰かをこの私だ、とは「感じ」ない。なぜ感じなくなったのかというと、現代科学の成果を受け入れたからなのではないだろうか。



現代科学の発達と、人々の科学リテラシーの向上が、死の自明性という感覚を人々にもたらしたのであって、「死んだら無になること」を人々が受け入れることを強制されたわけではないのではないか?

単に、人々は科学の大成功を見て、魔術を信じる気がなくなったのではないか。魔術は過去のアイドルで、もはや落ち目。

自然科学の導き出した成果を眺めれば眺めるほど、死が無であるということの確信がジワジワと上がってくる。それは、理屈ではなく、本能的な直感なのだと思う。証拠と論理によっては、死んで無になることは証明も反証もできない。



論理や理性によって絶対的な何かを証明することができないことが自明である現代においては、人々が何かを確信するのは、直感においてしかない。



哲学が社会のルール構築に役立つのかどうか疑問な人は、入門書でいいからヘーゲルを読んでみるといいと思う。



人々を支配していた絶対的な価値観、キリスト教、科学、民主主義、近代理性主義を徹底的に批判し尽くし、解体したのがニーチェで、ニーチェが偉かったのは、解体した後に、では、どうやって価値創造するかということに力を入れたこと。十分に成功したとはとてもいえないけど。

ポストモダンは、とにかく、ヘーゲル=近代=理性主義をこき下ろすことばかりに熱心だけど、現実世界において具体的に役に立つ概念、人権、自由、平等、私的所有、などなどの概念って、結局近代が生み出したモノばかりじゃん。

それに比べて、ポストモダンは何を提供してくれたわけ?ニーチェが近代を解体した後に、価値創造に熱心だったのに比べ、ポストモダンは壊すばっかりじゃん。

ぼくは、むしろマネーゲームが建設的に作用することの方がはるかに多いことを経験的に知ってるけどね。いっけん、不毛なマネーゲームに見える金融工学こそ、価値創造の源泉であることが多いと言うことが、案外認識されてないのに驚く。

そのへんはヘーゲルの哲学の応用で十分回収可能な範囲だと思う。

つーか、日本の哲学者で世界に通用する人って、そもそも誰と誰ですか?ぼくは、大森さんは通用すると思うけど。あと、西田さんは有名らしいけど読んだことない。

大森荘蔵はマジお勧めだけどな。大森哲学の批判とかはもちろんあるけど、普通の一般人で、大森荘蔵読んでスゲーつまらなかったっていう感想を言った人は、いまんところ知らない。




































お読みくださり感謝

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