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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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スピ、宗教法人、新自由主義、労働教、拝金主義、自己実現教(=エリート主義)を否定するイスラームの弱者救済策!『となりのイスラム』『私はなぜイスラーム教徒になったのか』 

 シーア派おねしょた兄貴復活!




特に伝聞情報は全く当てにならず、伝聞情報を独自情報というカッコをつけて流すジャーナリストという扇動屋が腐って溶解している程多いのでそういった情報は鼻から省いてみる事。 基本、中東でジャーナリストという立場は「特定勢力の報道官」以上の意味を持ちません。


アラビア語・トルコ語・ペルシャ語・ヘブライ語・ウルドゥー語等ができない限りは無理です なので、この五つの内どれかができない人間の中東情勢は嘘以外の何様でもないので扱わないことです。または完全な扇動・立場として言っているだけでしかないので聞くだけ無駄です。



ハサン中田
パッケージがキリスト教から自由民主主義に変わっただけで、自分の信条/心情に根本的に合わない他者は同化するか殲滅しないと安心できないという内実において西洋基督教文明は今も昔も変わっていないなぁ

この、
「同化(強制改宗)か皆殺しの二元論で、住み分けと共存を認めない姿勢」
こそがキリスト教から新キリスト教まで受け継がれ続けている根本教義。
これがある限り邪教製造装置になる。
これこそが最も西洋キリスト教的なものだ。
世俗主義のライシテとかもね。


(東方とロシアは違うかも)





イスラームでは、神が人の姿になったことを否定
=イエスは神ではない。

イスラームでは預言者イエスは十字架上で死んでいないという教え
=生贄思想の否定。

イスラムはキリスト教が人間にやらせる永遠の愛の誓いを否定する。
永遠は神の手にあるのみで、人間が永遠なんて嘘に決まっていると考える。
永遠の愛ってうるさいならキリスト教。


世俗主義(メイソン教)
「公の行動と宗教思想を切り離せ!」

イスラム教徒
「どうやって?
宗教思想から完全に自由な人って存在しないよ?
そもそも生活=宗教がイスラーム。
アッラーの教えでは弱者救済は義務なので、
公の行動を宗教から切り離したら、弱者救済禁止になるけどいいの?
私、あんたらが困っていても助けないよ?
キリスト教圏の教会の力を削ぐための世俗主義を、キリスト教徒でない私たちに押し付けるな。やっていることが教会と同じじゃねーか!
現代の十字軍には断固反抗する!」

イスラーム
「神のもとにあるから人は自由になれる
主権は神」

西欧
「神から離れないと自由になれない
主権は人」





「人には使命がある、何かをなさねばならい」ってカルト思想は本当に有害。
この思想は労働教の別動隊。
イスラーム圏のトルコのケイフを滅ぼしたいカルヴァン資本主義勢力!



イスタンブルの街中を歩いた人なら誰しもが見たであろう、たとえば路上にただ立ってるだけで何もしていない人たち。あるいは雑貨屋でお客が商品をレジに持ってくるまでただ座って外の風景を見ているだけの売り子。それらは皆ケイフという「何もしない」という「至福の行為をしている」人たちなのだ。
イスタンブルのボスポラス海峡を臨む橋のたもとのカフェで、マルマラ海を眺めチャイを嗜みただ何もしないで時を過ごす。 私はこの「何もしない」というトルコ人のケイフ文化を垣間見るためだけにもトルコに行く価値は充分あると思っている。それだけ悠久の時が太古の昔からこの地には流れているのだ。



kous37(Kosuke Hotta)‏ @kous37 9月7日
イスラムの本質は教科書的な説明の中にあるのではなく、「自分の才能で儲けたと思うな」という人間の奢りを戒め弱い立場の人を助けるところにある。と。「となりのイスラム」。なるほど。

ドイツ生まれのトルコ移民が「トルコ人だ」といってもドイツ人は冷淡だが、「イスラム教徒だ」というと身構えるので、アイデンティティをイスラムにおく若者が増えたと。「となりのイスラム」なんかこれは世界のマイノリティに共通する心理かもなあ。

「ドイツは戦後徹底した非ナチ化を進めて変わったと思うか?」とたずねると、トルコ移民からは「全くそうは思わない」という言葉が返ってきたと。ユダヤ人迫害の本質的な問題が解決しているなら、自分たちはこんなに差別されないはずだ、と。「となりのイスラム」より

コーランの豚肉禁止の個所には、「好き好んで食べてはいけないが、無理強いされたり、他に食べるものがなかったときには食べてもいい」と書いてあるのだという。「となりのイスラム」なんか思ったよりずっとゆるいな。

女性専用車は極めてイスラム的に正しいとされていると。イスラム的に正しい、か。ポリティカルにではなくイスラミックに。 「となりのイスラム」トトロではない。





イスラームでは儲けたのは自分の才覚ではないと考えるから、
資本主義カルトの教義
「神に選ばれたから金持ちになれたとかの選民思想と差別主義まみれの妄想」
に陥らない。
儲けたなら、さっさと喜捨しろという精神。

自己実現とか成長(新キリスト教系)思想が、西洋の局所由来であり、普遍化するのは傲慢でありエリート主義。
イスラームにはそもそも自己実現という発想がない。

個性そのものにはなんの優劣もないのに、それを重視した瞬間に、
個性はその人間の能力を測る物差しになる。
おのずとそこにはエリート主義が生まれる。
個性重視という発想は、教育や学校に比重をかけすぎている西洋型のシステムの歪みのもとに生まれた考え方。

個性を「引き出す」って表現がおかしいよね。
ありのままを認めない思想、つまり生きているだけの人を評価しない思想。
自分を「探す」と同じ思想だね。自分を「探す」っていうけど、
探す行動をしたい主体って自分ではない何かなの?別人?


イスラームでは法人を作ってはいけない。
商売ではすべてにおいて個人が責任を負う。
法学派によるが、最大でも二つ以上の約款をつけた契約をしてはならない。
アメリカのように訴訟に備えて何百ページも契約書をつくらない。
そんなことをしなくても何億円単位の商売をしている個人経営の小さな店もある。

(約款=条項。

法人を認めないということは宗教法人を認めないってことね。
法神の否定。
宗教法人(教会)=偶像邪神の否定であり、
企業=偶像邪神の否定でもある)


霊性を目覚めさせなければ救われないなら、救われたくても能力がないばかりに救われない人がでて来る。
そのほうがどれだけ不当で無慈悲かわからない。
イスラームではなにかができるから、なにかをおこなったからその人間に価値があるという見方はしない。
(スピリチュアルの否定。
スピ信者って異端審問みたいに、霊性が低い(笑)人にやたら冷たいもんな。
霊性と道徳は無関係らしい。
~というすごい人が前世なんです、~の人種が偏っていて爆笑。その~がドクズだってバレたりしてて爆笑)

廃棄人主義と、拝金主義と、労働教が国教の日本ではできねえだろ?↓
これがアッラーの慈悲であり、
信徒の慈悲であり義務である。



これを悪用するやつでたらイスラーム圏ではぼこぼこにのされるだろうしね。
神の命令の実行=弱者救済
を邪魔する者は「悪」だからね。ボコってOK。
ケチはOKで、
独占は悪なのがイスラーム。
(でもケチは独占を含むから悪徳っぽい)、
砂漠でケチ=節約しなかったらやばいもんね。
砂漠で水独占されたらやばいもんね。
助け合わないとすぐ死ぬ環境だからこそ、
殺し合いによる奪い合いではなく、
分け合いを優先する思想。
だって、殺しあって相手が死んで、自分がたとえ軽傷でも砂漠だと致命傷になりかねない。
イスラームは戦闘的などというのはプロパガンダの影響ね。
所有権とか人権とかやたらうるさいくせに、
分け合わず助け合わないのが西洋のヤソ製の権利概念ね。

イスラームは商業文化だから、要求が通ったらさらに要求するよ。
日本人が勝手に「ここまで要求を受け入れたからこれ以上はないだろう」
なんて思って厚かましいとか思うけど通用しない。
「この要求が通ったからもっと要求しよう」がイスラーム。
(異文化の相手の気持ちなんてわからないから発言するしかないよね?)


先進国=カルヴァン派系の拝金主義+労働教。
なにが「先進」かというと、
「無自覚な奴隷が足を引っ張り合う、理想的奴隷制度が達成された」
という意味ね。
既存の奴隷は金がかかるので、自由だということにして自分で生活させることでコスト削減。
善意で奴隷解放したのではないよ。


ルター派とカトリック系先進国だと事情は異なるけど。

仏教思想は解決方法の一つだが問題点もある。

地域のつながりが弱くなった今の日本こそ、縁起というつながり、相互に助けあう思想が重要。
コミュニケーションをとることは縁起の実践。
そして、その縁起、つながり、コミュニティに執着しない、依存しないのが空の実践。
不即不離。

しかし、仏教は強制力が弱い。
大乗仏教は形而上要素を取り入れて大衆化して強制力と社会構成機能を強めたように、
統治の都合上、悪用にも善用にも強制力が必要。

初期仏教なんて
「いかなる意味でも生産するな。だから性行為も労働も農作業も禁止。
救済、悟りは自己に対してのもので、自分が修行して自力救済せよ」
だからね。
完全に社会構成機能を捨てている。
世捨て人になるのだからあたりまえだけど。
私は別に初期仏教原理主義じゃないよ。
大乗仏教最高でもない。

なお初期仏教原理主義だと
「異性と目を合せないニートになれ!」
なので守れないぞ!

この強制力という点において、一神教は優れている。
イスラームでは弱者を助けることは神の命令であり預言者の教えだからね。
おかげでイスラームは赤貧の人も餓死しないし教育もきちんと受けられる。

改悪版カルヴァン主義=拝金主義+労働教の、
領域国民国家の日本と真逆だな。

弱者を虐げれば地獄行き。
弱者を虐げてもその程度以上に弱者救済すれば天国に行けるらしいけど。
絶対存在唯一存在の命令、無謬の教えは善用すれば素晴らしい。
悪用されれば最悪だ。
教祖を神とすることを禁じている点が一神教がいいところの一つ。



イスラームは神の下の平等なので当然カーストはない。
カーストは神格化を生み、ただの人間を偽りの偶像崇拝の神にしてしまうから。
超越的存在により共通点などの平等性を確保して差別対策をするのは宗教の良い側面。
差別の原因にもなるのが厄介。
有効な弱者救済の具体策はすべてイスラームで実施されていた件。
日本を良くする方法はイスラームが実行している救貧制度と子育て援助制度と偶像崇拝禁止(拝金主義の否定)を取り入れることだけど、少なくとも列島の東側は単なる放射性物質廃棄場になる前に救うのは無理。

ムハンマドを「最後の」預言者なのがカルト対策に非常に有効。
「俺が真の最後の預言者だ!」の手口対策。
労働教を否定しまくるイスラーム


ここで学びのコツを書いておく。
B、C、D、以下ずっと続くを覚えるのは大変だが、
それらがすべてAからの派生であることが多い。
そのAをまずしっかりと教えてくれるのは良書。
大前提からその派生へ
は説明の基本。
Aは複数があるが、
最重要なのが、

唯一神以外の権威を認めない
=唯一神以外を不要に特別扱いしないこと。

法人を認めない、
国民国家概念を認めない
(移動の自由を確保せよ。
法人も国家も偶像)、
などは上記の派生。

一神教という前提で論理的に考えれば確かにそうなるなと
納得できることが多いのがイスラム。
ユダヤ教も納得できる。

だが、キリスト教、てめーはダメだ!
キリスト教は論理的整合性がとれていないものほど正統になり、
論理的整合性がとれているほど異端になる本末転倒思想。
同人誌が新約聖書より上なのだから当然か。
新約は真実なのに、互いに矛盾する福音書が四つある(笑)
異次元やパラレルワールド説なら矛盾はないけど、
それだと神が四柱いる疑惑が浮上する。
異次元の科学的研究はゴッドの居場所探しでもある。


イスラムも棄教は大罪。
じゃあムスリムが酒飲んで豚食ったらどうなるかというと戒律を破ったムスリムになるだけ。
ラーイラーハイッラッラー(アッラーのほかに神はなし)
ムハンマドゥンラスールッラー(ムハンマドはアッラーの使徒である)

唱えて誓ったらムスリムになれる。
本当は儀式(ムスリムの立ち合い)は不要。
そもそも儀式などという信徒かどうか判定する基準みたいなものを人間が用意する時点でアッラーへの冒涜。

↓これより先に信仰告白の文句と礼拝方法を覚えること。
     服装は肌を隠す、スカーフを用意。男はあごひげは伸ばす。





iano? @ianoianoianoo 2016年7月3日

もしもの時の為に「ラー・イラーハ イッラッラー」(アッラーの他に神は無い)と「アッラー、アクバル」(アッラーは偉大なり)この2つだけは覚ておこうと思う。とてもじゃないがコーランは覚えられないから。
5件の返信 2 retweets 31 likes



かんな丸? @pgate1 2016年7月3日

イスラム圏で銃を向けられたら「ラー・イラーハ イッラッラー」と叫んでください。最低限これだけで生き残る確率が高くなります。意味は「アッラーの他に神は無い」です。イスラム教では教徒に危害を加えることは不徳とされています(例外あり)

Hiroshi Matsumura? @hmatsumu 2016年7月3日
返信先: @kei_teamさん
昔、イスラム圏に行くときは「ラー・イラーハ イッラッラー ムハンマド ラスールッラー(アッラーフ(神)の他に神はなし ムハンマドはアッラーフの使徒である)」だけは覚えておけと言われたことがあります。これを唱えれば少なくともいきなり殺される可能性は低くなると。

シャハーダ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%80


イスラームの税金の安さは異常。
イスラーム圏は税金が安いよ。
貧しい人からはできるだけ金をとらない。
日本の消費税は生活必需品にかけるうえに、多重課税で、どんな貧困層にも課税し、子供にもかけるからな。
格差を広げるために実施したのが消費税だからね。
金持ちから金とる方がより多くとれるのに、貧乏人の方がより負担がかかる消費税を積極的に実施するのは搾取のため。
異教徒への対応が寛容。
キリスト教なら改宗か追放か殺害か、
自治を認めるが重税と差別だな!





最初の一冊に最適な
内藤正典『となりのイスラム』ミシマ社

意図的にイスラームじゃなくてイスラムって統一して使っているね。
浸透している呼び名だし四文字だし言いやすいし。

内藤政典はムスリムではないことが重要。
ちゃんと信者の人と信者でない人の両方の本を読みましょうね。
当然だけど、信者は悪いところをあまり言いたがらない。
中田先生は割と悪いところも言っている印象だけど露骨には言わない。
日本人に浸透して近代西洋思想ではこう考えるが、イスラームではそうは考えない。
なぜならイスラームでは~という根拠があるからだ、
みたいな言い方を多用してわかりやすく説明していることに注力している。
ひどいプロパガンダ食らっているのがイスラームだからいいところ中心で語るのはバランスをとるためにも正しい。


・イスラーム圏の人がもてなしと分かち合いの文化を持つ人たちであることは、現地に行ったからと言ってすぐにわかるものではない。
しかし、砂漠という大海で出会った相手に対して、オレのテリトリーに入ってくるな、うち殺すぞというのは、見当違い。
ここは自分の土地だと言うのは農耕民の発想。

砂漠は海のようなもの。海での商売をいかにフェアにやるかにルールを与えてきたのがイスラーム。

儲けたのは自分の才覚ではない。
儲けの一部を喜捨せよ、
弱者のために善行を積めも商売とかかわる。
儲けた人は利益の一部を貧者、孤児、稼ぎ手を失った家族に差し出せ。
商売で失敗した本人に差し出せではなく、神に貸付するとコーランにある。
神に貸付した人はご褒美をいただける。

うまくいって儲けたからといって、自分の才覚で儲かったと思うな、
これは新自由主義信奉者に教えてあげたいですね。
金儲けの欲望に際限がないことはイスラームはよくわかっているので、
儲けてもいいけど、貧しい人のことを忘れんなよとくぎを刺すのが神。
利子禁止も大切で、要は、眠っている間にお金が増減することがダメだということ。
自分の才能で儲けたと思うな、儲けたら喜捨しろ、というのは
逆にいえば、
事業に失敗してしまった人も自分のせいで失敗したと思わなくていいという教え。
良いときも悪いときもあるから悪いときはみんなで助ければいい、この方がまともな社会システムに思えるがどうだろうか。
そういうルールを信仰の根底に持っているからこそイスラムは世界に広がったのではないか。
子供とお年寄りを大切にし、よい来世を信じる。


(金持ちになった人を成功者と呼び、崇める資本主義カルトの否定。
極端な自己責任論の否定。

クルアーンではなくコーランと書いているのも意図的だね。何も知らない人用の本だからね)

昨日商売でぼったくりをしたなあと思っているときに、目の前に物乞いの人がいる。
すると、いい機会だからいくらかあげておこうと考える。ただし口に出してはいけない。
口に出してしまうとよからぬ意図が明白になってしまう。
そういう考えなので、物乞いも「ありがとう」とお礼は言わない。
相手を一歩天国に近づけてやったんだ
ぐらいに思っているので、ありがとうと言う理由がない。


・日本人は長生きの人に長寿の秘訣を聞くがイスラム教徒はしない。
寿命は神の手にゆだねられているので人間がどうこういうものじゃないという感覚が根底にあるだろう。

(健康法本なら沢山ありそう)

イスラム教徒の子供のかわいがり方も格別。
著者(ムスリムではない)が若いころ、家族でトルコに滞在していたときに、当時一歳の双子を乳母車で連れて歩いていると、通りすがりの人がなんのことわりもなく寄って来て、
ひょいと抱き上げて、
「わーっ、双子だよ! マアシャアッラー」
「すばらしいね、神様のお恵みだね!」
と言われ続ける。
これが日本だと「大変ですねえ」。
どちらがストレスを与えないか明らかでしょう。

おかげで現地に駐在するときは子供を連れているとかえって楽。
トルコでは医療水準は決して低くはない。
(このあとしばらく著者の一才の娘の腕が折れたので病院行く話が続く。
ものすごく優遇され大切にされた)

弱者に対して優しくするのはイスラムでは神が人間に下した義務。
この義務は日本語の義務と違い、いやいややらされるニュアンスではなく、
神が人間に善行を積むきっかけをくれているという感覚。

日本人は日本の医療水準が高度で世界的に進んでいると勝手に思っているが、
いまやトルコはヨーロッパの医療ツーリズムの目的地になっているぐらいなので、サービスもよくて医療の水準も高い。
比べてヨーロッパの医療機関は高いわりにサービスが悪いので、最近は
トルコに行って歯や痔の治療をしようという宣伝をよく見かける。
イスラム世界の医者は弱者である患者を大切にしてくれる。

(そもそもイスラーム圏ってヨーロッパよりも医療水準が非常に高かった。
中世あたりの医療技術の格差がすさまじかったなあ)

子供とお年寄りを大切にすることは、イスラムすることの一つ。

・面倒見の良さとお金に対するシビアさ

絨毯屋は観光客に法外な値段で売りつけたあとで、
後ろめたいのか、
買ってくれた観光客に一生懸命サービスする。
悪いことしたら善いことしなくちゃの繰り返し。

(商人だからね。
ケチはダメだけど、ぼったくりはOK。
観光客で日本人なら金持ちだからぼったくってOK なのだろう。
そして自分より貧乏な人に喜捨。
あれ、そのほうが全体的に見て善じゃね?)


・「ああ、ここから先、俺は身構えなくていいんだ」
そういう安堵感はヨーロッパでは感じられない。
ヨーロッパでは「なんでこの人たちそんなに怒ってんの?」と思う。

イスラム教徒が怖そうなのはあのひげ面からくる印象のせいだが、ほんとうににっこりとほほ笑んでくれる。
ヨーロッパとイスラム圏の決定的な違いは、
人が人に対して敵対しないこと。

男性が女性をじろじろ見てはいけない。
男性が女性をじろじろ見るのは礼儀に反すること。
ヴェールをかぶっている人をじろじろ見てはいけない。
にこっとするのもダメ。
日本人や欧米人と違って、上手くいっている夫婦のきずなは恐ろしく強い。
ほかの男がほほえんだだけで性的に誘ったと受け取られる。
喧嘩のもとなので異性にほほえむのはダメ。
同性同士ならにっこりほほ笑むのが普通のイスラム教徒。

(たぶん、肌を隠すにもじろじろ見るなも、誘拐対策。

にこっとするのって無駄に敵対しないためでしょ。
だって砂漠で殺しあったら共倒れじゃん)

以外にも、スコットランドは例外で、見知らぬ同士が出会ったときにニコッと笑うところがある。
スコットランド独特かは不明。

・分け合う、恩をあだで返さない精神。
ケチはイスラムでは大変な罪悪。
イスラム教徒は客分として滞在するかぎりは手前勝手な要求はしない。それをヨーロッパの人はわかっていない。彼らには客としての分をわきまえる文化があることを知らない。

・ハラールビジネスはおかしい。

多数がイスラム教徒でない人の中に少数のイスラム教徒がいる場合には、一神教の国から輸入した肉なら食べていい、
というイスラム法学上の見解がある。
キリスト教圏の輸入肉なら食べていい(豚肉以外)。
コーランの豚肉禁止の個所にも、好き好んで食べてはいけないが、無理強いされたり、他に食べるものがなかったりしたときには食べてもいいとある。
豚肉を食べてしまってもイスラムには罰則はない。最後の審判の後の楽園か地獄かの判定にはマイナスになるかもしれないが。

非イスラム教徒は
昔豚が不浄だと思われていたからでしょ。今は衛生的だからいいじゃない。
と言っても受け入れられない。
神の命令はのちの世になっても覆せない。
だから不合理だと思ってしまうとイスラム教徒とつきあうのはかなり難しくなる。
私たちは物事の善悪を自分の頭で考えようとするが、
彼らは神が下した命令をもとに考えるからだ。
イスラム教徒は血を食べることが禁じられているので、
血の残っているステーキは牛でも羊でも食べられない。

どんな食材が使われているかを正直に知らせるのが大事。
ハラール認証をとるために高額の費用を払って講習に行くの不要。
(ハラール資格ビジネスか!)

ハラールかどうかを決められるのは神だけ。
イスラムでは何がフェアな商売かを非常に厳格に決める。
神の言葉を商売にしていいとは言っていない。
となると、ハラールビジネスはハラーム=禁止。


・イスラムが生まれた当初はお酒(ワインでしょう)を飲んでいたようだが、
あるときムハンマドの周りの門弟が酔っぱらってしまい、礼拝の時にコーランの章句を間違えてしまったから禁止になった。
当初は賛否あったことがコーランからうかがえるが、最終的に禁止。
非イスラム教徒からみるとムハンマドが門弟の求めに応じて禁止することにしたかのように見える。
ここがイスラム教徒との根本的な違い。イスラム教は、神が最終的に禁止の命令を下した
と解するので、それ以後、
益もある
と書いてあるのだからちょっとなら飲んでもいいんじゃないかという解釈は決してしない。
非イスラム教徒がコーランを読むときに勝手に解釈しがちなので注意。
(教えの更新は神ならOK。
解釈とセットで学ばず聖典だけ読めばいいという思想はイスラームでは誤り)

身体に罰を当てる刑のなかで、
飲酒はむち打ち
のように量刑が最初から決まっているものは刑を軽くも重くもできないのはアッラーの大権とされているから。理由も詮索しないし勝手に解釈も市内のイスラム教徒。
合理主義や科学至上主義の教育を受けた非イスラム教徒は合理的理由を見出そうとするが、イスラム教徒は神の定めたことには詮索しない。

(あまり気にしないムスリムも、食品の原材料表示などは必ず確かめるレベルだからね?
ゆるいの意味は日本的にとってはいけない)

醤油には微量のアルコールが含まれるので口にしない信徒もいれば、
醤油なら飲んでも酔っぱらわないので構わないと考える信徒もいる。
アルコールが入っていると言うのが大事。

肉料理は説明し、
魚料理は基本的にOK.
血が残っているものは食べてはいけない。

・祈りの場所は重要ではなくお清めのじゅうたんさえあればその一角だけはクリーン。
 問題は、祈りの前のお清めの場所がないこと。清めをウドゥという。
清めないといけないのは手足、体の開口部。
キッチンのシンクや洗面台で足をのっけて洗うしかない。
そこで、同志社大学では、多目的用トイレにガーデニング用のシンクを置き、そこで足を洗ってもらうことにした。
留学生に感謝された。相互理解はこういうところから。

・日の出から日の入りまで飲食や性行為をしない斎戒であるラマダンで一日のつとめが終わった後のイフタールという夕食をここ何年か大学で提供している。
本来はなら家族で食卓を囲むのが最大の喜び。
留学中はできないので家族に代わりわれわれがホストになる。
同志社大学の留学生だけでなくお友達も来ていいといって制限をつけないことが大切。
大学と無関係な人が来ても、わけへだてなく受けいれるのが大切。
イスラムは人と人とをわけ隔てしない。
線引きしない。みなで喜びをわかちあう。

(日本の おもてなし(笑) ってやたらと相手を選別するよね
     かねもうけ(笑)だから当然か)

別にムスリムの前で酒を飲んでもOK。
しかし寄って大声で話す、暴言を吐く、異性を触る、性的なことを言うのはムスリムはひどく嫌う。

(ほとんどの人は酔っ払いがよくやる行動は嫌いだろう。そもそも酒禁止は上記の行動をさせないためだ。

できるだけ早く打ちたいのでイスラム教徒よりムスリムという言葉を使いたい)


夫婦一緒にどうぞ。もちろんお子さんも。
子供を大切にする。年長者に敬意を払う、女性を大切にすること。
家で一番大事な人はお母さん。
イスラム教徒にきけばみな母が一番大事と答える。
母親の方が家では一番強い。
トルコで夫婦げんかの最中に聞こえてくるのは母ちゃんの怒鳴り声だけ。
父ちゃんはひたすらおろおろしていることが多い。
DVで夫が妻を虐待することはあるが、敬虔なイスラム信徒ほど問題はおきない。
著者の知る限り、イスラム教徒のほうが日本やヨーロッパと比べてDV発生率が高いということはないようだ。
人に対して優しくあることはイスラムの根本的な価値であり女性に対して守ろうとする意志はことのほか強い。
ムスリムを家に呼んでもてなすときに気を付けたいのは、夫婦一緒にどうぞということ。
イスラムは家族を重んじ大事にしている
日本企業が現地の事務所などで社員向けの催しをやるときも家族全員を招くこと。
逆に一人で招くならこちらも一人で相手する方が気を使わせずに済む。
家族の中でもとりわけ子供を大切にするのがイスラム。
なので外で食事をするときにも子供はいっしょが普通。
日本の高級レストランや旅館には十二歳以下お断りというところも珍しくないが、
子供が一緒にいられないやりかたは非人道的だと思われるので配慮すべき。
子供お断りという日本のルールに対してムスリムも差別だとは言わないが、内心ではかなり違和感を持つでしょう。
家族の中で一番大事な子供を切り離さないといけないのはなぜかという気持ちになる。
日本ではここは大人の空間だからという考えで通じるが、イスラム教徒にそのような考えはない。

(家族を大事にするとは、職場から家にご飯食べるために戻れるとかそういうレベルね。日本の動労教基準はダメ。
イスラムは女性差別ってほざいてた女性蔑視ヤソ信者を思い出す。
女性が表で目立つと誘拐の標的になるじゃん!)

満員電車では体が接触してしまうのは日本人だけでなくイスラム教徒の女性にはきわめて不快。
男性は身の置き所がなくて逃げだしたくなる。
女性専用車両はイスラム的に正しいと思われているらしい。
イスラムでは男女の身体接触が性的行動に結びつくと考えているので避けようとする。
痴漢はイスラム世界にもある。
イスラム教徒はよほどの信頼がないかぎり家族以外の異性にハグしない。

イスラムではセックスは夫婦限定。
イスラム法では既婚者の姦通は投石による死刑。
未婚者ならむち打ち、追放。
量刑は人間が変更不可。
不倫関係にあって性行為を伴わないことはないだろうから結婚していない間柄のおつきあいはイスラムでは厳格な禁止行為。

(完全に男女別にすれば痴漢も痴漢冤罪も激減するけど絶対やらないよね。
都合が悪い奴を潰すのに痴漢冤罪は便利すぎるから。

あれだけ家族を大切にするのだから、だれの子かは大問題なのだろう。
外部からののっとりもあるし、疑惑が発生しただけで共同体崩壊もありうる。
ハニートラップ対策でもある。)


イスラムによって統治されている国ならイスラム法通りに刑を執行できるしないといけない。
本来こういう国をイスラムの国という。
が今は凶悪な暴力集団のイスラム国がそう名乗っているのでイスラム国家ということにする。
現実にはイスラム国家もどきならあるが、完全なイスラム国家はこの地上にはない。
どの国もイスラム法が貫徹されていない。

現実に姦通は起きる。未婚者同士なら結婚させてしまうこともある。
既婚者なら配偶者が起こって不倫相手を殺すこともある。これは日本と違うとはいえない。
まれ投石による死刑が行われることがある。イスラム国家を名乗っている国で起こるのだが欧米は残酷、野蛮だとここぞとばかりに避難する。
刑を執行する国がイスラム法にのっているだけだと言えば議論は平行線。
西欧側の理屈だと内政干渉。
でも西欧は自分たちこそが人権の先進国だと信じているので非難する。
法の体系がまったく違うのでかみあわない。

アラビア半島の石油産出国の中にはイスラム国家を名乗っていても一部の王族がぜったいに禁じられている行為に手を染めていることがある。なのに王族は咎められず庶民がこの刑を受けるのではそもそもイスラムの法治国家ではないことになる。

既婚者の不倫という罪は、当人が自白するか、
当人と利害関係のない四人以上の男性の目撃証言がないと成立しない。
目撃される場面は完全に性器が結合された状態なのでイスラム法からしても姦通罪が成立することはきわめてまれ。

(女性の目撃証言はダメってのは女性と男性の平均的客観的発言と論理思考能力を考慮したからだろう。女性の方が個人的心象でしゃべる傾向が強いから。

人権思想の前提がキリスト教と、人間中心主義の解釈)


イスラムでは性をうしろめたいとする感覚がない。
神の定めの範囲で性を楽しむものだと考える。
性行為の結果として子供ができることは奨励されるが、
子供を授かるかどうかは神の手にある。
最近、トルコ大統領は子供は三人以上つくりなさいと発言して問題になったが、敬虔な信徒にもずいぶん不快感を与えたようだ。
イスラムでは子供ができるかどうかは神が決めるので人間が口出ししてはいけない。
なので子供のいない夫婦をいじめるのは不道徳だという考えにつながる。
まわりが追い打ちをかけてはいけない。

(労働教って本当に子供が嫌いだよね。労働者じゃないからかな?)

後背位性交をすると眼に問題のある子供ができるとユダヤ教徒から聞かされた男がムハンマドにそれを尋ねると、ムハンマドが否定した話がハディースにある。
性交の体位についてイスラムが干渉しないことを示す。
キリスト教では後背位を動物的だと嫌がったそうだが、イスラムではそうみない。
正常位をミッショナリーポジション(宣教師の体位)という。
真偽は知らないが植民地にしていた地域でキリスト教の宣教師が推奨した説あり。
イスラムも何をしていいわけではなく、性器以外での性行為は男女問わず厳禁。

(ヤソなんて正常位以外ダメ、
麻袋セックス
=女性を袋に入れて、穴をあけたところから男性器をいれてするやつ
しろって言ったりしてたな。)

近代以降の西洋社会が、神から離れることで人間が自由を得ていくと考えたこととまったく違う考えをするのがイスラム。
イスラムは神とともにあることで自由を得る。

神の領分には干渉しない、考えない、
未来において何が起こるかの責任まで人間に帰するなどはイスラムはしないことを日本人も学ぶべき。

かりに酒を飲んでいる世俗化したムスリムはイスラムから脱した、棄教したと考えないこと。
彼らにイスラム教徒でなくなるとはどういう感じかと聞くと
人間でなくなる感じがする
と決まって答える。

(イスラムで棄教は大罪なので、棄教宣言は「迫害してください」っていうことであるから棄教しないよ。単に戒律を破ったムスリムなだけ)


ハディースが新約聖書に近い。
イエスの言行録がそのまま神の言葉ではないから。

イスラム教徒とはイスラムする人である。
すべての教えを実践するかは別問題。
あなたはイスラムの教えを守らないといってはいけない。
イスラム教徒として正しい道を歩んでいるかどうかを同じムスリムでさえジャッジできない。ムスリムでなくてもできない。神だけが判断可能。


姦通と
姦通の誣告(うそを言うこと)と
故意の棄教
は死刑。
殺人も大罪。
コーランでは一人を殺すのは万人を殺すのと同じだとしている
遺族にはされたことと同程度の報復をしてもよいとする同害報復の権利がある。
個人の報復を認めないのが現代の西洋法なのでこれも欧米に評判が悪く、
イスラムは目には目を歯には歯をの復讐の文化と言われる。
同害報復とはだれでも報復していいのではない。
当事者間でなければできない。
肉親を殺した相手に報復することが権利として認められている。
同害報復はあくまで権利なので遺族が血の代償として金銭での損害賠償を受け取ることも認められている。
これは非人道的で残酷だと一方的に言えるか。

日本で少年が無免許運転かつ居眠りで車を運転し登校中の子供たちに突っ込み三人が死亡、七人が重軽傷を負う事故が起こった。
罪は自動車運転過失致死罪(この事故をきっかけに2013年には過失運転致死傷罪として新たに規定され刑の最長は無免許の場合懲役十年となった)であり、のちに高裁が出した判決は最長九年の不定期刑。
死傷させた十人の子供たちを死傷させた罪が最長九年で償われてしまう。
これがごく自然な感情としておかしなことに思えてならない。日本の法律下では遺族がこうした判決に納得がいなかくても検察官が上訴しないと判断すれば判決がそこで確定してしまう。被害者の遺族がもっと重い罰を科してほしい願っても自分では上訴(控訴や上告)はできない。
遺族の権利を何より優先して考えるイスラム法と大きく食い違うところ。
イスラムでは遺族は排除されず、罰の権限は殺人なら遺族、
窃盗なら神、
第三者の国家は介在しない。


(最も被害を受けた者が最も直接的に加害者を罰する権利を持つほうが私は正しいと考える。よってイスラームの同害報復を支持する。
なぜ国家という完全な部外者が勝手に判断するんだ?
個人報復禁止って支配層が直接ぶっ殺されないためでしょ?)


死刑を廃止した国が、偉そうに、死刑制度をもつイスラムだけなく日本も批判することがある。批判は自由だが、フランスなどは死刑制度を持っていたのに廃止すると
自分たちは進歩した
と言い出すのが西欧の常。
いまもって死刑制度を持っている国や社会を野蛮だと遅れているとののしる。
変更したとたんに他者を軽蔑しはじめる精神構造は傲慢。


一夫多妻はコーランでは四人までとなっていてその部分だけが欧米で抜き出されることがおおい。
前段がある。
ただし孤児たちの案ずるならば
という条件があり、
二人なり三人なり四人なりと結婚していいよ
しかし
平等に扱えないならやめておけ
という忠告もある。
孤児たちの案ずるならば
はイスラム誕生のころ、宣教のための戦いで夫が亡くなった場合残された妻と子供を路頭に迷わせないようにその女性を引き取って重婚してもいいという意味だったのだろう。
性欲に任せて複数の妻をもっていいと言っているのではありません。

著者が出会ったムスリムの中には男は一人の女じゃ満足できないんだろうと堂々と言う人もいた。
著者は反論した。
おまえみたいなやつがいるからイスラムが西欧世界から誤解される。四人まで結婚していいという一文の前に孤児のことを案ずるならばという言葉がついているのを知らないのか。しかも
平等に処遇しないとだめ
という禁止に近い言葉ものちに出て来るじゃないか

そういうとたいてい相手は黙ってしまうがイスラム教徒でない私に言われたところで考えを改めることはないでしょう。
現実にはコーランを都合よく解釈する信者がいる。

(著者ならムスリム学者のふりはできそうだけどね)

重要なのは妻を平等に扱えということ。
イスラムは結婚するときに婚資を男性側から女性側に渡さないといけない。
相手の親ではなく女性に渡すのであり、離婚しても取り返してはいけない。
離婚の慰謝料をデポジット(保証金、預り金)として渡すようなものかも。
平等に妻を扱うので婚資も平等に妻全員に渡さないといけない。
離婚の宣告は男性からしかできないのでたしかに不平等だが、
婚資のことを学生に話すと悪くないという。年配の女性からは非常にいいと言われる。
結婚するときに離婚したときに妻に渡しなさいというのは結婚式で永遠の愛を誓わせるキリスト教からすればとんでもなことかもしれないが、
イスラムでは
永遠は神の手にしかない
ので人間が永遠なんて誓ったらうそに決まっている、結婚するならできるだけ契約をフェアにしなさいと言う。
結婚するなら最初に離婚引当金を用意しろ、を千四百年も前に作ったのは慧眼。
イスラムが婚姻外の性交渉を厳しく禁じる結果として子供に対する差別を生まないことにもつながる。
ヨーロッパも日本も婚外子をひどく差別してきた歴史があるので、千四百年前に姦通の禁止と重婚の承認を決めてしまったことはある意味凄い。

(不倫せずに普通に重婚すればいいてのがすごい。

寺社で神仏に願ったり、神仏と交わったりしたら子供が授かる話があるが、
要は寺社で性行為して授かったか、寺社に置き去りにされたりした孤児をあげたりしていたのだろう。
子供を神や仏の子供とすることで差別されないようにした。

イスラムはキリスト教が人間にやらせる永遠の愛の誓いを否定する。
永遠は神の手にあるのみで、人間が永遠なんて嘘に決まっていると考える。
永遠の愛ってうるさいならキリスト教。



妻の平等は徹底されている。
三番目に結婚した第三婦人とは序列は三番目ではない。
平等なので序列はない。
夜を一緒に過ごす回数も平等でないといけない。
実際、よほどの金持ちでないと一夫多妻はできない。


(不平等に扱ったら殺し合いになりかねないし、子供も幸せにならないからね)

実は離婚の宣告女性からもできる。
男性が生活費を渡さなかったとき、
性的に不能だったとき。
が多くは裁判官を通じて男性側から宣言した形をとるようだ。
男性に責任があれば慰謝料も女性側から請求可能。
いくらほしいかを言う権利は女性側にある。
金額は交渉になるが、拒否権は女性側にある。
イスラムで結婚は基本的に契約。

夫が、出ていけと三回言うと離婚が成立する。
相談された法学者が、本気でそう言ったのかと言ったり、
近所の貧しい人に金を配れと亭主にいったりする。
亭主は金を配るときに何をしたのか聞かれるので亭主は反省する。
つまりこの出ていけ三回ルールは離婚抑止のもの。
結婚維持のための知恵。
そういう面を見ず、表面だけを取りあげて女性の人権を抑圧していると見るのは早計。

そもそもイスラムの過程で一番力を持つのはお母さん。
お父さんは一家の大黒柱ではない。
日本のように仕事帰りに同僚と飲みに行く習慣はない。
食卓は家族と囲むものなのがイスラム。


大都市だと物価が高くて夫の稼ぎだけで暮らせない、
またはエリートなら、
女性も社会進出するようになっている。
高学歴女性が結婚後も働くのはトルコだけでなくアラブ社会も一緒。

大学に進むさいに、女性は文系、男性は理系が多いことはない。
サウジやイランでも理系の神学が女性が多いようだ。
性別で進路を決める発想はイスラムには希薄。


中東に行くと同性間の身体接触が濃密になる。
同性の間でのハグ、腕組をするが、性的な意図はない。

イスラムの国ではない国で、イスラムの教義で禁じられたことをする異教徒がいても、その異教徒を殺すのはイスラム法でも不当な行為。
(イスラムは積極的に異教徒を殺すのは禁止)

イスラム法の刑罰はイスラムで統治される国内の話。


モスクは誰かの所有物ではなく、商業化しないし、特定の人だけが来る場所ではない。
よって過激派の集まるモスクとやらを監視しても無駄。
モスクはメンバーシップ制をとってないし、教区もない。
なお、どこかのモスクのイマーム(指導者)にあたる人にひかれて人が集まることはある。


イスラムでは何に投資して何に損をし、何に得したかわかるならそれで結果として利子と同じものが発生してもかまわない、預けたお金の行方を透明にせよと考える。
逆にいえば、なぜそうなったのかわからない利益や損は認められない。
デリバティブ商品はハラーム(禁止)。

(中田先生は実質利子となる料金がでたらダメって考えているな)

勝ち組だけが残って負けたら退場しろという新自由主義はイスラムには受け入れられない。
負けたらみんなでお金を回して助ける、そのお金は勝ったほうが負担するべきで、負けても勝っても神のご意思であって自分の才覚とも責任とも思うなというのはこれから先、日本や西欧にこそ必要なイスラムの知恵ではないだろうか。

現実にはイスラムの大金持ちの国もいいかげん。イスラム的に不適切なはずの欧米の金融機関にも莫大な投資をしている。


イスラムには学校をつくってお金をとる発想がない。学校は私財をとうじて作るものというがイスラムの常識。
学校をつくることは善行であり、来た人からお金をとる発想はない。
(シリアってあれだけ爆撃されても教育は無料だぞ)


科学や工学を学ぶことはイスラムでは全く問題なし。
(メッカへの方角を知るために科学が必要だったのもある)


イスラムの女性たちも美容院をよく利用する。
これはイスラム圏すべてに共通かはわからずトルコ限定ですが(著者の調べた範囲ってこと)。
とるの個美容院では髪の毛でなく体毛処理もしてくれる。
男女ともにイスラム教徒は下半身の体毛を除去する。
脇の下も処理が必要。
男性なら胸毛はそのまま。
定期的処理をやってくれるのが美容院。
スーパーマーケットでは脱毛グッズがたくさん売っているので自分で処理できる。
男性は自分で処理するようだ。
イスラム教徒がプレイボーイみたいなヌード写真を見ると、うわっとなって気持ち悪くなると聞いたことがある。処理しないといけない部分が残っているのでぜんぜん興奮しない、なんてこったと思ってしまうらしい。


ムスリムも風呂好きだが、日本に来ても風呂に誘わないように。
赤の他人と裸と風呂に入ることは同性でもありえない。
イスラム圏でトイレットペーパーは流してはいけない。不浄なものは先に水で洗うのでトイレットペーパーは水をふき取るだけ。

イスラムでは人前ではぜったいに裸になってはいけないので、着替えるときは体に布を巻きつける。タオルではなくシーツのような薄い布。
洗っているときもこの布はとってはいけない。

(もうカーテンみたいなので区切った方がいいような)


ムスリム女性(女性系はムスリマだがアラビア語社会以外ではあまり区別しない)がスカーフやヴェールで隠しているのは髪の毛やうなじであり、隠す理由は、夫や家族以外の異性の視線をさえぎるため。隠している髪や顔はちゃんと手入れしておしゃれをしている。
(こっちのほうが夫は妻にべた惚れするんじゃない?)
カトリックの修道女と違うところである。修道女は神に身も心もささげているので現世の男には体を見せない意味で地味な格好をしている。ムスリマは夫以外の男に見せないだけ。
夫にだけは見せるので中身は派手にしている女性も少なくない。

女性が身に着けるものの素材の規定はないが、
男性はシルクと金はダメだとされている。

お土産をわたすなら、夫妻でみえたとき夫人にも渡すならもてなす側の女性が渡す、
または自分の妻からあなたの奥様へと言って渡す。
男性が奥様にどうぞと言うと相手の夫に妻に気があるのかと思われるかも。
飾ってもらえるものなど性別に関係ないものを選ぶのが無難。
迎えにいくときも相手と同じ性別に人を迎えにいってもらうこと。


イスラム社会に対してジェンダーの不平等をさんざん不平等を強いる癖にスカーフ問題で女性だけに屈辱を強いるのがフランスのダブルスタンダード。
スカーフやヴェールで隠すのは髪の毛やうなじ、喉元あたり。このあたりはムスリマにとって性的な羞恥心の対象。日本的には女性がどこまで足を出すかの感覚に近い。
フランスは絶対に理解しない。
(ムスリマへのセクハラは積極的に行うフランス)

フランスの欧州評議会という人権問題を議論する会議でなぜか著者が呼ばれたのであえてこう言って喧嘩をうった「国家をあげてセクハラをしているようなものだ。髪の毛をあらわにしてヴェールをとれば女性が自由になると思っているのかもしれないが、それはミニスカートをはけば女性が自由になるといっているようなもの。女性からしたら性を商品化する行為そのものだ」
と言ったが、ののしられるばかりでフランス側は決して理解しなかった。議長だったルクセンブルクの大使は不満顔。
これは今から十数年も前。

(内藤先生度胸あるな)


・イスラム国の問題は、めざすところがコーランとムハンマドの言行(スンナ)に偏っているので、
それから千四百年の間に現実の世界を生きてきたイスラム教徒の
共生の知恵や
思想の多様化
を極端に無視してしまうこと。
だから少しでも自分たちが求めるピュアなイスラムと違うと相手を攻撃し、殺してしまうイスラムの過激組織はこれまで台頭したことがない。
イスラム国とは純化運動だが、彼らの思い通りの信仰の実践をしない人を片っ端から不信心者、背教者、偶像崇拝者などと断罪して処刑するので、あまりに危険。
彼らにとって第一の敵はイスラム教徒自身。
シーア派は殺せ、スーフィーも殺せ。
ヤズィーディーなどイスラムでもキリストでもユダヤでもない信者は真っ先に標的にする。


(イスラム国のスポンサーにキリスト教原理主義系、CIA系組織がいるのって、
ムスリム殺す点で利害が一致するからでは?
イスラム国ってやっていることがヤソに都合がよすぎて、イスラームにとって都合が悪すぎる。
ヤソが偽旗用に支援しているのだろう。ISは英米側だ。
イスラム国ってやっていることがヤソ十字軍だな。
ヤソ十字軍はイスラムと無関係な都市に突撃してクリスチャンもぶっ殺しているからね。


イスラムは異教徒と共存してきた。皆殺しにしない。
イスラム国が共存の歴史に学ばないのが最大の問題。




















イスラームだと、労働教と拝金主義の価値観は明確な「悪」だよ。特に奨学金と言う名の子供を借金づけにするなんて、イスラム圏でやったら、普通に首謀者が直接ぶっ殺されるんじゃない?
黒幕は殺せなくても執行者は殺せるからね。
執行者がどんどん殺されれば実行できないから阻止される。

自殺者世界一の国がまともなわけないでしょ?




(利子の禁止って金融詐欺防止でもある



中田考『私はなぜイスラーム教徒になったのか』
表紙の著者がひげを伸ばしていることに注目。

・神に従うとは、アッラー以外のものに従わず、
権威を認めないということ。
ムスリムになる際にまずそのことを誓わなくてはいけない。
信仰告白(シャハーダ)という誓いは、
アラビア語で二つの章句を唱える。

ラーイラーハイッラッラー(アッラーのほかに神はなし)
ムハンマドゥンラスールッラー(ムハンマドはアッラーの使徒である)

ターグート(アッラー以外で人間を隷従させるすべてのものの名前)
を拒否しないといけない。
世俗の権力者、聖職者、その他、
人に隷属を強いるあらゆる組織の権威を認めない。
イスラームは神中心であり従うべきは神だけであり、
いかなる人間や組織にも他者を隷属させる権利はない。
その意味でヒューマニズムという言葉はイスラム的にはありえない。
ヒューマニズムとは人間中心主義であり、
そこには人間が人間を従わせるという意味が含まれる。

人間が人間を隷属させるのは、神にみずからをなぞらえる行為であり、
それだけで反イスラーム的。
他者に隷属を強いる人間に従うことも許されない。
権力者や独裁者に従うとは偶像崇拝にほかならない。
神以外のあらゆる権威から自由であるということ。

この認識を政治、法律、経済から日常生活にいたる、
人間の営みのすべてについて貫こうとするのがイスラーム。
なので、聖職者と俗人の区別はない。
聖職者とは神と人間の間に立つ宗教的権威。
キリスト教であれば教会という組織があって、
入信にあたっては聖職者である神父や牧師が権限を持っている。
彼らが認めなければ信者にもなれない。
しかしイスラームでは入信にあたっていっさいの権威は必要とされない。
入信儀礼も、信者を承認するための機関もない。
先ほどの二つの章句を唱えれば誰でもその瞬間からムスリムになれる。
聖職者と俗人に分けて、聖職者に妻帯を認めないように異なる法を適用することもない。

イスラーム法は法人概念を認めない。
法人とは法律によって権利能力を認められた存在で学校や会社や国家なども含まれるが、
イスラーム法では来世で懲罰を受けることがない法人には存在の余地がない。
つまりイスラムは国家という概念を認めていない。
国家という枠にも民族や出自という枠にもとらわれず国境を越えて自由に移動できる、
というのが本来のイスラームの在り方。

(世界一人を殺している”生物”は法人!)


・しかし現実のイスラーム諸国はは国家という枠にとらわれ、
政府をはじめアッラー以外の無数の権威やイデオロギーに従属させられている。
いまこの地上にイスラームが実現されている国はひとつもない。
植民地支配から独立し、植民地宗主国の隷属からは脱却したものの、
新たに西洋に押しつけられた領域国民国家というシステムに隷属した。
本来のイスラム的な自立性を回復したのではない。

そういう世界をイスラムの国々と呼び、本来イスラム的でないものが
イスラムの名のもとに正当化されたまま今日までつづいている。







領域国民国家とは
領域、国民、主権の三要素から成立する国家システム。
領域を区切る国境が存在し、
そこで生まれた人が国民となり、
その領域内に主権をもった統治者がいる。
領域国民国家の台頭はこの2、3世紀の間に起きた、歴史的に新しい現象。
しかしこのシステムが肥大化して人間生活すべてを覆い尽くすまでになり、
ふだんわれわれは国家に従っているという意識さえない。

日本もまた明治時代以来、領域国民国家として成立している。
産まれると間もなく好き嫌いにかかわらず役所で国民として登録され、
一定年齢に達すると学校で義務教育を受けさせられる。
義務教育は近代国家の条件のようにいわれているが、
見方によっては国家による拉致・監禁・洗脳ともいえる。
著者は学校が嫌いだったので、
学校へ行かせられるのは拉致されるようなものだと感じていた。

(私もうそう感じていた)

出生、教育、婚姻、離婚、居住、職業、年収など生活の細部にいたるまで
国家の管理下。
「そんなことはない、
民主主義国家の日本では国民みずからが政治参加して国家を作っている」
(典型的な奴隷の発言)

と反論する人もいるだろうが、
国家に管理されているのではなく、
自分たち自身が国家を作っているというふうに信じ込まされている。
そのくらい国家というシステムは身体化され、
空気のように当たり前の存在になっている。
学校へ行くのも当たり前、
結婚して子供が生まれたら役所で届けるのも当たり前。
疑問も浮かばないし、国家に服従していることすら意識されない。
そしていつのまにか国家を守ることは無条件に正しいという意識が身体の中に浸透してしまっている。

(真に民主主義なら世襲ばかりの支配層なんてありえないはずだが?)


・植民地化、それに伴う国民国家イデオロギーはイスラム的価値観や世界観を大きく破壊。
とりわけ一般のムスリムにとって大きかったのは時間の破壊かもしれない。
イスラムでは字間とは一日五回の礼拝で計られるものだった。
夜明け前、ほのかに東の空が明るくなってくるとき、
ムスリムはそれを見て、その日最初の礼拝をおこなう特別な時間だと知る。
そして日が昇る前に起きて礼拝して、
クルアーンを読んだり神を念じたりし、
それから朝食をとり、商売に出かけ、
昼はまた礼拝。
日没にも礼拝。
夜は友人や家族と語らい、夜食をとり、
就寝前にまた礼拝。
このように太陽のめぐりを観察し、
一日五回の礼拝をすることによって
人々はイスラムの世界観を日々再確認。
ところが、
西洋による植民地化がはじまると、
恒常が作られ富国強兵型の近代的な労働制が敷かれたり、
なんの権威もない上司や上官の命令が絶対になったり、
無意味な規律や時間を守らなくてはならなくなる。
礼拝で計られていた時間は断ち切られ、
始業・就業の時間に人間が縛られるようになる。
敬虔なムスリムにとってこれは耐えがたい屈辱であったでしょう。
アッラーの前に平等であるはずのムスリムが、
異教徒の命令に従わなければならない。
しかも最も重要とされる礼拝の時間が危機にさらされたわけだからだ。
教育も荒廃。
兵制改革や義務教育などを通して、
西洋の唯物論的世界観や物質的知識を覚えなくてはならず、
その過程で、イスラムの知の習得は犠牲にされた。



(カルヴァン派の変形、労働教では定時時計が必須。
日本も食らいまくった。
西洋の暦で季節感を破壊。
不定時法の廃止、
遅刻の誕生など。




原理主義とはイスラームの根本であるクルアーンとハディースに忠実に、根本的なことを大事にする態度であって、
クルアーンにもハディースにも具体的な規定のない些細なことにこだわり、
勝手に決まりを作ろうとするのは些事拘泥主義と呼ぶべき。

些事拘泥主義の例が
サウジアラビアの法学者が出したファトワ(宗教見解)。
雪だるまは反イスラームなので禁止とし、
像を作るのは遊びであっても許されない。
木、船、果実、建物など魂を持たないものなら作ってもよろしい。
以上のように回答したとのこと。

(木にも霊的なものを見ているはずなんだけどなあ。



基本的にサウディアラビアのワッハーブ派はこういう些細なことにこだわる傾向がある。

一般向けの解説書を見ると、イスラームでは偶像崇拝禁止なので異教徒の偶像は破壊され、美術でもアラベスクや幾何学文様、書道などが表現手段の中心となったという記述がみられる。
しかし本当にそうか。旅したことがあるならかならずしもそうでないと気付くと思う。
アジアや西洋に比べれば絵画や像は少ないが、イランの細密画などには人や動物がたくさん描かれている。ほとんどのイスラーム諸国ではお札に為政者の顔が印刷されていたり、為政者の顔写真がいたるところに貼られている。

注意しないといけないのは、
偶像崇拝と、像や絵画の作成は同じではないこと。
創って拝むなら問題だが作成すること自体はどうか。
クルアーンには像を作ることを禁じる章句はない。
ハディースでは動物の像を描いたり彫ったりすることを禁じる記述がある。
それは偶像を拝むという信仰にかかわる問題ではなく、あくまで法学的にやってはいけないレベルの問題。
像をつくったことへの罰則規定もない。
ハディースに、ムハンマドは幼妻のアイーシャが人間で遊ぶのを黙認した、という記述がある。
ゆきだるまをつくって遊ぶことは反イスラームとはいえない。

(サウジってイスラームを利用して民から搾取しているだけじゃね?
弱者からの搾取は神の命令に反するのでは?
でも人形は持って行ったり作ったりしちゃちゃだめだよ。
イスラームうるさいくせに不勉強が奴がいるからね。
男女とも半ズボン禁止で長袖。
上半身は女性は肌を隠すこと!
あと男性はあごひげはのばしておこう、少しぐらいは。

偶像崇拝で特におかしいと私が思うのが十字架を拝むこと。
処刑器具じゃん!
十字かはイエスを殺した不吉なものだからシンボルにするな!
って言ったまともなボゴミール派は異端とされたのさ!
ドラクエ11の元ネタの一つね!





フランスで2015年にムハンマドの風刺画を掲載した新聞社が過激派に襲われた事件があるが、これについての報道のほとんどは偶像崇拝禁止と、西洋の表現の自由の対立という構図で論じられてきた。
しかし描画は禁止されていない。動物や人物画は見られるし、イランでは預言者の肖像画の描かれている本もある。
風刺画事件がイスラームにとって問題なのは預言者の絵を描いたからではなく、
まちがったイメージを流布して預言者を誹謗したから。
預言者については絵であれ文章であれ正しい伝承に基づいて真実を伝えなくてはいけない。
誹謗中傷は誰に対しても許されるものではないが、とくに預言者については厳しく禁止。


(預言者を誹謗中傷したから激怒したって当然だよね。
本記事も他の記事でもイスラーム本の偶像崇拝関連の個所は詳しくメモしています)

・われわれ日本人が慣れ親しんだ西洋的な概念、自由、民主主義、人権、平等といった概念はほとんど身体化されていて、それらが善であることをふだん疑うことすらない。これらがいかにあいまいで欺瞞を含むかは、預言者風刺画で表現自由の名のもとにそれに反発する自由を抑え込む欺瞞からも明らか。
自由をうたいながらフランスはムスリム女性がヴェールをつける自由を認めない。

イスラームにはなにものにも束縛されない人間の抽象的な自由という発想はない。
形容詞フッル、抽象名詞フッリーヤが自由を意味するが、古典アラビア語では、
アブドゥ(奴隷、下僕)ではないという意味でしかない。
自由とはドーナツの穴のようなもので、ドーナツ本体は法あるいは制約を表しそれがないところを自由と呼んでいる。
存在するのはドーナツであり穴が存在しているわけではない。
なのでこの国には自由があるとか自由がないとかといういい方には意味がない。
あるない問題ではなく国によってドーナツの形が違うだけ。
この国では穴にあたる部分がほかの国ではドーナツで占められている。
自由がないのではなく制約の範囲が違うだけ。

イスラームでは妻は四人までもてるが日本では一人までだから日本は自由でないとはわれわれはあまり思わないのではないでしょうか。西洋的な自由の穴の範囲が普遍的だという考え方をほかの価値観をもった人たちにも押し付けることによって問題が生じている。
イスラーム法で自由な行為が成り立つのは、
人間の五つの行為カテゴリーのうち、
推奨 やったほうがいいもの
許可 やってもやらなくてもかまわないもの
忌避 やらないほうがいいもの
の三つの領域。
神の定めた義務と禁止以外の領域が人間の自由にまかされているのであって、
ほかの束縛を一切受けない抽象的な自由という観念はもともとない。
いかなる社会でれ、法の禁令があり、その禁令の及ばない自由な領域がある。
そのことに自覚的であり、それを主体的に引き受けるのが自由に対するイスラム的な向き合い方。

民主主義とは制限選挙寡頭制。
国民主権、国民こそが支配者とはフィクション、虚構、嘘。
民の意志と言いつつ一部の人間が多数決で選んだ少数の者たちが、
大衆がほとんど認知していない法律に基づいて政治を行うシステムを民主主義と呼んでいるだけ。
(多数決主義は全体主義であって民主主義ではないけど、この全体主義は大半の教師は大好き。
教師じゃなくてもたいていの人は大好きだけど)

国によって制限の幅は異なるが寡頭にあたるものが王様や独裁者や内閣や議会など違いはあるが、制限選挙寡頭制。
ヨーロッパには民主主義があるが、アラブにはない
は不正確で、選挙の制限範囲が違うだけ。

また民主主義とは国民が国会議員に立法権を与えてそれに従うシステム。
人に立法権を認める時点で人が人に従うことを否定するイスラームとは相いれない。

日本では義務教育がありながら法律はほとんど習わない。
罪刑法定主義(どのような行為が犯罪となり、それにどのおうな刑罰が科せられるかは既定の法律によって定められる主義)の建前を掲げるが、
義務教育では刑法の殺人罪や窃盗罪され教えられない。

(労働法をまず教えるべきだが教えない。
一番必要なのは有用な議論の仕方だが。
事実と個人的感想をごちゃまぜにするやつとは話ができない。
裁判官ですら、こいつむかつくから重罪にしたい、
という人の性から逃れられないのに、
一般人に裁判員やらせたら証拠ではなく印象の良い悪いだけで判断するのは必然)

スンナ派のカリフ制も制限選挙寡頭制。
シーア派のイラン・イスラーム共和国でも隠れイマーム(導師)が再臨するまでの期間は、間接選挙によってえらばれた最高指導者を頂点に、
直接選挙によってえらばれた大統領や議員が統治する制限選挙寡頭制。


・命の値段はラクダ百頭。

ヨーロッパ的人権概念は普遍的ではない。
イスラームは基本的に義務の体系。
権利はあくまで義務の裏返し。
イスラームで基本的人権にあたるものがあるとすれば、
イスラーム法における権利と義務の体系。
カリフがイスラーム法によって統治する土地(ダール・アル=イスラーム)が存在する場合には、そこに合法的に居住する者すべてに対して宗教、民族、性別などによる差別なく生命の安全が保障される。
ただし、イスラーム法では、殺人、強盗殺人、背教、姦通罪などに対しては死刑を認めている。

西洋の多くは平等をうたっているが国民と非国民にわけて国民だけで大地を囲い込む領域国民国家というイデオロギーがすでに平等の理念にあからさまに反している。

イスラームでは神の前ではだれもが平等。神は無限に遠い存在であり、神と人の差異に比べれば、人間同士の差異はほとんど無視できるほどに小さい。
その点ですべての人間は平等。
同時にイスラームではすべてのものは別々だと考える。
人間は唯一無二であり、同じ人間はおらず別々に扱われるべきだが、人間の情報処理能力では不可能なのでカテゴリーに分類して同一カテゴリーに属するものは法的に同一に扱うことにするのが、イスラームでの法の下の平等。
人権思想と結びついた理想化された抽象的な平等とは違う。

(西洋は理想化が好きだが実行がめちゃくちゃ。
現実にまったくあっていない理想=設計図だから上手くいかなくて当然。
現実に即して設計するのではなく、設計図に現実を無理やり合わせるって経済学だな)

西洋では平等といいつつ保険や賠償、慰謝料などの計算で命の値段を生涯賃金などによって別々に算出する。稼ぎが大きいなら命の値段は高く、無職だったり社会不適合者だと安くなる。
イスラームでは平等で、殺人の損害賠償額はムスリムの自由民ならカリフだろうが生活保護を受ける喜捨受給者だろうが一律にラクダ百頭。
ただし女性の損害賠償額、異教徒の損害賠償額は男性ムスリムより少ない、というのが通説。
(平等じゃねえ!)


カトリックの教会(エクレシア)はもともとキリスト教共同体を意味していた。教会は建物であると同時に法人。
モスクはどこにも属さないし、ムスリムもどこかのモスクに登録されるのではない。

イスラームだと法人否定。つまりキリスト教会組織も否定。
建物と組織は分けないといけないのかな)

モスクの建て方。
ここにモスクをたてたいという寄進者が土地を購入し、
建築費を負担して上物(うわもの。その土地の上に建っている建造物)をたて、
できたモスクを神に奉献し、所有権の移転を永久凍結し、
まわりに店舗や住宅、農場などを建てて、その収入をモスクの維持管理費に回す。
モスクのそばにクルアーンを学ぶ学校を建てることもある。

モスク建設は基本的に個人の寄進者による。
スルタンやカリフのような大権力者が多方面に寄進して多くのモスクをたてることはあるが、基本はあくまで個人で中央集権的な組織とはかかわっていない。
慈善事業のために寄進された財産や建物は土地はワクフと呼ばれイスラーム経済で大きな位置を占めてきた。
ワクフは止めるという意味でワクフとなった土地の所有権は永久停止。
よっていったんたったモスクは壊すことができない。

(所有権の移転を永久凍結に注目!
まわりに店舗や住宅、農場などを建てて、その収入をモスクの維持管理費に回すまでするのが素晴らしい)


近代以前はイスラーム世界の土地の半分くらいがワクフ。
近代になりイスラーム世界が国民国家システムの中に取り込まれると、
ワクフの国有化が始まる。
これはイスラームにとって大打撃。
国有化とは宗教が国家の管理下に入ったということ。
以後イスラーム世界全土で宗教の自立性がいちじるしく失われていく。
現在、エジプトにはワクフ省という役所があり、登録されていない人は説教も禁止。
説教内容をワクフ省の人があらかじめチェックすることもある。
ただし、
シーア派のイランではワクフ国有化がうまくいかなかった。
当時のパーレヴィー国王はワクフの国有化を実現して宗教を骨抜きにしたかったが、ワクフ管理権を持つウラマー(学者)たちが断固として抵抗し、ワクフを守り抜いた。
イラン・イスラーム革命が成功したのはワクフ国有化を許さなかったことで宗教の力が維持されたことが大きな理由の一つといえるだろう。


(パーレヴィー王朝はCIA支配下ってシーア派概説書に堂々と書かれていたな。
だから今のイラン共和国は反アメリカ。
キリスト教勢力がずっとやっているのがイスラームの力をそぐこと。
ワクフは福祉でもある)


・イスラームは政教一致ではない。
カリフ制は宗教国家、神権国家ではなくむしろ世俗国家。
神に代わって人の罪を許す聖職者もいない。
いるとすれば法に詳しい人間とそうでない人間がいるだけ。
その意味ではかなり早い段階から政教分離。

サウジはムスリム女性はみな顔と体を黒い布ですっぽり覆い隠していて、
車の免許もとれない。
礼拝時間になると町中の店が閉まる。
それだけ見ると政教一致に見えるがサウジでも政治と宗教はしっかりと分かれている。
たとえば、
サウジの人に
イスラーム法では税金はないはずなのに、サウジではあるね。
ムスリムは本来イスラーム世界を自由に出入りできるはずなのになぜ日本人ムスリムにはビザがいるの。
どうして同じムスリムなのにインドネシア人は給料が低いのか
など言うと、
サウディ人はスィヤーサといって口をつぐむ。
スィヤーサ=政治。
政治の領分であり王族が語るべきことで一般人が語るべきではないということ。


・政教一致のシーア派

スンナ派カリフは世俗的指導者だが、
シーア派のイマームは無謬の存在でありムハンマドの後継者に選ばれたとし、
このイマームの絶対的権威を認めることがシーア派ムスリムの条件となっている。
イマームの無謬性や絶対的権威を認めないスンナ派は、
シーア派から見るとムスリムではないことになる。

イランの十二イマーム派では九世紀の終わりごろに十二代目イマームが地上から姿を消して霊的な次元に隠れ、いまなおその状態が続いているとする。隠れイマームが最後の審判の前に再臨するのが十二イマーム派。
シーア派のイマームの権威は非合理的で神秘的でありその政治は神権政治。

・大学で当時の指導教官に入信したと告げると嫌な顔をされた。
文化人類学などでは、調査対象に感情移入しすぎて中に入ってしまうと、
客観的調査でなくなるといわれる。
でもイスラームを客観的に研究するというのはそれとはちがう。
客観的とはいいつつ、西洋フィルターで見ている。いわゆるオリエンタリズム。
オリエンタリズムすべてが悪いのではないが、それでは見えなくなるものもある。


・アラブのIBM


インシャアッラー
タクシーに乗ってどこそこへ行ってほしいというと
インシャアッラーと返される。
神が望まねば着いてくれないのかとあきれる人もいるが、
結果は神にゆだねるほかはないというイスラームの発想。


ボクラ(明日)


マレーシュ(なんでもない)

上記三つを合わせたIBMはアラブ人の仕事を揶揄する意味を込めて使われる。
これは皮相な見方。

(労働教信者は自身の信仰が打ち砕かれまくって目が死にそう。
動労教信者は元から目が死んでいると言ってはいけない)


役所で手続きなどをしようとすると担当者がお茶を飲んで仲間同士でおしゃべりしながらボクラと言ったりする。これは文字通り明日ではなく
今ではない
という程度の未来を意味する。
明日もう一度くれば手続きができるのではなく、
今ではないが神が望めばいつかはなんとかなるかもしれない
と受け取るべき。

(後でやる、そして後もやらないって意味にとられても仕方ないのでは?)

マレーシュは
なんでもない、きにするな、すみません
といった意味で過去に起きてしまったことに対して用いられる。
うっかり他人の靴を踏んでしまったとき両者がともにマレーシュと言うこともある。
ただしマレーシュといっても問題が解決しない場合もある。
車をぶつけてしまった場合、
マレーシュと言ったら
ムミシュマレーシュ(なんでもなくない)
と返されるだろう
エジプトでは相手がどう考えているかは気にせずに、
互いに好きなことを言い合う。これは喧嘩ではなく交渉。

(一般的日本人だと、好きなことを言い合う時点で喧嘩とみなされるもんね。
相手の文化とか知りようがないのだからとにかく外に向って言わないとどうしようもないからまずは言い合うのだろう。)

外国人がタクシーに乗ると料金でもめたりする。メータは大抵壊れているし、そうでなくてもそこの料金とは異なる料金を請求されたりする。
外国人観光客の中には理不尽だとか嘘つきだとかいう人がいるが、
タクシーに定価があるべきだという発想そのものをなぜ疑わないのか。
タクシーはいつも一定のサービスが提供できるわけではない。
そんなサービスに定価があると考えるほうがおかしい。
エジプトでもお金持ちは沢山払う。
外国人はお金持ちだと思われているのでたくさん払うのはある意味当然。
いやなら交渉すればいい。
相場を知っていたり情報を持っていればぼられることはない。
たとえば、
カイロのイスラーム地区にある有名な市場であるハンハリーリに行くのはいかにも観光客然として英語で
ハンハリーリ、プリーズ
といったらそれはぼられて当然、
ハンハリーリに面してフセイン・モスクという庶民に人気のあるモスクがあるのだが、
そこを目的地としてたとえば
サイドナー・フセイン、インシャアッラー
われらが長フセイン様の許へ
といえばまずぼられない。


・気前の良さ(カラーマ)こそ美徳。
自分にお金がなくても自分より貧しい人がいると条件反射的にお金を与える。
無意識、身体的。あらゆる階層の人々に共通。


町中で食事をしている人と目があったりあいさつを交わしたりするとかならずといっていいほど、
ここへきて一緒に食べろ
と勧められる。
これも染みついた自動反応。
おもてなし文化は
中東では宗教にかかわらずどこにでも見られる。
人が来たら泊めて食事を出してもてなす。
お金がない人には施しをする。
困っている人がいれば皆で助け合う。
砂漠では分け与えるのが当たり前。

(日本のおもてなしっておもてなしじゃなくて
かねもうけ

だもんね)

・利子とはお金をため込むと利息が発生して資産が増える仕組み。
預けるとは余剰分のお金を滞納しているのと同じ。
物やお金の流れが滞り持たざる者や食べられない者は困る。
日本では貯蓄は善とされ老後に備えて貯金して子孫に財産を残すことが美徳とされてきた。
人生の目的や価値はあたかもどれだけ稼いできたかで計られがちだといっても過言ではない。
(日本人がやたら貯蓄するのは税金が高すぎるからって他の本で言ってた。
人生の目的や価値はあたかもどれだけ稼いできたか
=労働教、拝金主義)


しかし人の命は永遠ではない。
ハディースには、
本当の自分の財産とは使ってしまったものだけだ。残して持っているものはやがて相続人のものになるだけなのだから
とある。
お金はため込むよりもどんどん回す方が世のため。
いつ訪れるかわからない死をつねに意識していかに今を充実させるためにお金を使うかがイスラームにおけるお金の考え方。
なのでイスラームには貯蓄とか銀行とかという発想がもともとない。
滞納するくらいなら喜捨するか貸せばいい。貸す場合は利息無しの無償貸与。

投資も構わない。投資にはリスクが伴う。損したらリスクは当人が負う。
利子は流れをせき止めているだけ。
イスラームは利息を禁じることでお金の流動性を高めている。
イスラームでは返せない借金は返さなくもいいことになっている。
強制取り立てはできない。
貸し損にはならない。借金をチャラにしてしまうと死後天国での位階があがるとされる。
借金棒引きは喜捨するのと同じ。
イスラームの浄財の使い道の一つに借金の肩代わりがある。
借金で首がまわらなくなった者は、貸した人が債権を放棄してくれなくても浄財を集めた国庫に申請すれば借金を返すお金を回してもらうことができる。

イスラーム金融は嘘だらけ。
実態はイスラーム的ではない。
本来イスラームは不換紙幣を認めない。
紙幣になぜ価値があるかというと、国家がこの紙には価値があると勝手に決めて人々に押し付けたから。実際はただの紙切れ。国家が決めた約束ごと。

イスラームの正貸とは金貨や銀貨。
金は総量が決まっており希少性ゆえに価値尺度としての安定性は抜群。
価値なき紙切れに国家が近田ずくで通貨としての価値を与えることが反イスラーム。

ただし正貨が金銀でも持ち運びが大変なので代わりに為替を使うことは許される。
ヨーロッパのチェックの語源はアラビア語のスィッカ。
イスラームでは金銀の代わりに小切手で決済を行う信用取引が発達していた。
金銀との交換が可能な兌換紙幣はイスラームでも認められている。
金銀の裏付けなき不換紙幣は禁止。
マレーシアでは紙幣に金貨をはめ込んでパウチしたものを使っている州がある。

イスラーム金融が非イスラーム的なのは利子をとっていないが、利子に当るものを実質とっているから。
時価百万円の車を買うのに、
買う側が年利50パーセントで、
一年後に百五十万円払う契約で銀行から百万円を借りて、
その金で買う側から車を買えば利子の禁止に抵触してハラーム。
ところが、
イスラーム銀行と称する会社が車を売主から百万円で買い上げ、それを代金一年後の後払いの百五十万円で買う側に売ればお金の流れとしては年利50パーセントの利息でお金を借りて買ったのとまったく同じなのにハラール(合法)になる。
利子回避の脱法行為は古典イスラーム法学でも多くの実例があげられている。
イスラーム銀行は詐欺だと中田は思っている。
イスラーム銀行には
不換紙幣による取引
利子付き貸し出しによる信用創造をおこなう中央銀行との関係
イスラーム法の認めない法人
など根本的問題がある。

(イスラームの不換紙幣禁止と法人禁止とかもぶっ壊して不換紙幣の中央銀行の信用創造でヤソは支配したいから、金融分野は浸食がすすんでいるのだろう。

利子禁止の理由はお金を停滞させるのを防ぐためか。そしてそれは弱者救済につながる。
だって貯蓄しろってしたら喜捨するお金がなくなるじゃん!


移動生活してきたから身に着けられるものと知恵と技術とかが真に自分の財産だと考えているのだろう。
知恵についてこんなのがある。
このbotかなりためになる。
幼少時からこうした知恵を教えられ続けたら嫌でも頭がよくなるし、
成功するだろうね。


もし生活が貧しくて物を売らなければならないとしたら,まず金,宝石,家,土地を売りなさい.最後まで売ってはいけないのは本である。

賢い人はアイディアを語り、普通の人はモノについて語り、愚かな人は他の人について語る。

最上の名医は地獄にいる/最上の名医でも地獄に落ちることがある。(ユダヤに律法では医師はその医療ミスによって殺人罪等に問われることはありません。しかし、その動機が常軌を逸した金儲けである場合は免責されない。)


もし、神が地上に住んでいるなら、人間は、神の家を壊しているだろう。

何も打つ手がないときにも、ひとつだけ必ず打つ手がある。それは、勇気を持つことである。

金持ちに、子供は居ない、後継ぎが居るだけだ。

失敗を恐れる方が、失敗を犯すよりも悪い。

本のない家は,魂を欠いた体のようなものだ。

隣人とつねに平和を求めよ。隣人を楽しい席に招け。どの国から来た者も、豊かな者も貧しい者も、同じく裸で生まれた。そして最後には同じく土に眠るのである。

全人類は、たった一つの先祖しか持っていない。だから、どの人間がどの人間よりもすぐれている、ということはない。

人は3つの名前を持つ。両親が生まれた時につけてくれた名前。友達が親愛の情を込めて呼ぶ名前。そして、自分の生涯が終わるまでに獲得する名前である。

人間は、20年かかって覚えたことを、2年で忘れることができる。


楽観は、自分が明るくなり、他人も明るくする。

あなたが知識を増やさないということは、実は知識を減らしていることになる。

自分の肩書きを人に教えようとする人間は、すでに自分の人格を傷つけている。

忍耐力のないものは教師にはなれない。

相手の立場に立たないで、人を判断するな。

もしあなたの周囲に傑出した人がいないなら、あなたがならなければならない。

自分で自分のためにやらなければ、誰があなたのためにやってくれるか。

学ぼうとする生徒は、恥ずかしがってはいけない。

貧しい人の息子はたたえられよう。人類に英知をもたらすのは彼らだからだ。

今それをしなかったら、いつできる日があるか。

自分のことだけ考えている人間は自分である資格すらない。

記憶を増進させるもっともよい薬は、感服することである。

学校のない町には人は住めない。



・ハサン中田の博士論文執筆の家庭教師はイスラーム主義者(サラフィー主義者)のムハンマド君。

カイロ大学に留学したのは博士論文執筆のため。
中田の専門はイブン・タイミーヤ(12から13世紀)のシリア生まれのイスラーム法学者。
イブン・タイミーヤは今日のサラフィー・ジハード主義の創始者とされる学者。
サラフィー主義とはクルアーンとハディースに基づく初期イスラームへの回帰を旨とする立場で、スーフィズムに由来する聖者崇拝や、
聖廟への参詣を厳しく批判。ジハードはイスラームを脅かそうとする異教徒との戦いという位置づけ。
しかし
イブン・タイミーヤはムスリムなのにシャリーア(イスラーム法)に背く統治をしている為政者に対してもジハードが成り立つという革命のジハード論を唱えた。

これがジハード団やアルカイダなど現代スンナ派の武装勢力の思想、サラフィー・ジハード主義と結ぶつかっていった。

サラフィー・ジハード主義は狂信的で暴力的なイメージがあるがそうではない。軍事部門の人については付き合いはないが、ムハンマド君のようなダウワ(布教啓蒙)部門の人たちはそういうタイプではない。
私の知るサラフィー・ジハード主義者は普通のエジプト人たちよりも礼儀正しく、正直で、教養もあり信頼に足る人たちだった。

(作者が自身の立場を表明している貴重な個所)

近代のジハード主義者たちはイスラーム法に従っていない為政者は背教者でありそれは異教徒より悪いとして打倒の対象にした。
しかしサラフィー・ジハード主義者はジハード主義以前にサラフィー主義なのでサラフィー主義者の主要な関心は政治以外のところにある。
黒魔術や聖者崇拝、悪魔やジン(精霊)といったイスラーム世界に広く見られる民間信仰との戦い。
ムハンマド君は除霊を依頼され、除霊経験はなかったが、ハディースには預言者ムハンマドが悪霊を破った記述があり、やりかたも書いてあるのでそれを知っていたムハンマド君は精神科医に連れられて看護師のもとにいった。
その看護師は尋常ならない様子だった。
ムハンマド君は除霊にきくクルアーンの個所を朗唱し悪霊を追い払いたまえとアッラーに祈りをささげると看護師は正気にかえった。
看護師はキリスト教徒の経営する病院に通っていて、そこでクリスチャンの医者に言い寄られたが、拒絶したら呪いをかけられて意識を失ってしまったとのこと。


(魔術戦だ)
黒魔術は悪魔やジンの力で行うもので根拠なき迷信ではない。
サラフィー主義者は基本的に政治への関心はあまりない。
サラフィージハード主義者は政治意識が強いが、ほとんどのサラフィー主義者にとってはもっとも大きな関心はイスラームを冒涜する黒魔術を使う者たちを滅ぼすこと。
これは外国メディアではほとんどニュースにならないのですが、イスラーム世界全体にみられる現象。
とくにシリアは黒魔術がさかん。
攻撃対象の優先順位は
1 黒魔術、聖者崇拝
2 シーア派
3 外国勢力


サラフィー主義者があてにならない裁判所のような公権力に代わって社会風紀や道徳を守ることに一役買うこともある。
彼らが弾圧される一方で、現場の警察の中には彼らの役割を評価するものもいた。


・スーフィー教団にも出入りする著者。

スーフィーとは、日本では一般にイスラーム神秘主義と呼ばれることが多いのですが、もともとは九世紀から十世紀頃、イスラーム法の定める規範に従った日常生活に飽き足らず、神に身も心も捧げる生き方を追求した修道者たちの運動。
イブン・タイミーヤはスーフィーが犯している誤りについて厳しく批判しているが、タイミーヤ自身はイスラーム法を重視するカーディリー教団に属するスーフィーでスーフィズムそのものを否定していない。
スーフィズム批判も学んでいたが、スーフィズムは原理的には正しいとも感じていた。
スーフィズム的な部分をすべて否定するとイスラーム全体が成り立たなくなる。
批判されている側も批判する側も研究するのが学問。

(対立する思想を両方学ぶのは大事)

イスラームには組織がない。
スーフィー教団の場合、師匠と弟子の一対一の関係を重視し、その一対一関係をベースにネットワークが広がっている。
メンバーも常に流動的。

・イスラームでは預言者ムハンマド時代に霊的な意味で頂点を迎え、あとは徐々に没落していくとする。

・スーフィズムへの誤解。
イスラームでは聖俗を明確に分けない。
キリスト教の修道院のように世俗を断ち切った別の世界を作る発想がイスラームにない。


スーフィズムはしばしば聖者崇拝と結びつく。
スーフィーの中には奇跡をおこなったり病気を治したり、神の言葉を伝えるものもいる。
そうしたスーフィーは聖者として尊崇を集め、死んでからもその墓には特別な力があると信じられ、人々が願掛けにやってくるようになる。
エジプトでも聖者廟に詣でて子宝祈願、病気平癒、合格祈願など現世利益を求めて願掛けする人は後を絶たない。
このような聖者崇拝はイスラーム全土にみられる。聖者をイスラームは否定しない。

・カトリックでは聖人や聖遺物には奇跡を起こす力があると考えられ聖人を教会が公認しているが、これはほとんど多神教。
イスラームでは聖者の存在は認めるが聖者か判断できるのはアッラーだけ。
願いを聞き届けてくれるのもアッラーだけなのでそれなら聖者ではなくアッラーに直接お願いしなさいというのがサラフィーの考え。
反イスラーム政権や外国勢力との戦いをしているのはサラフィー主義者の中でも少数派のサラフィー・ジハード主義者がやっていること。
大多数のサラフィーは政治に疎い。
実際にイスラーム世界の多くの地域でジンをはらうとか黒魔術を撃退するとかの方法を書いた実用書がたくさん出版されている。


・神秘体験は救済と無関係。
イスラームの救済はムスリムになることで、死後アッラーよりもたらされる。
神秘体験とはただ、あるだけ。


アッラーは人格を離れてはありえない。
人間だけに人格があるという発想は間違い。
アッラーは人格を解体した果てではなく、
人格化を進めたところにある。
イスラームはどう妥協しても東洋思想的にはならない。
アッラーは外在の存在。


・ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)
=イスラーム法で治められている土地。

それ以外
=ダール・アル=ハルブ(戦争の家)


ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)は理念的には一つで、ムスリムなら人種、国籍、民族を問わず、
たとえダール・アル=ハルブ(戦争の家)に住んでいようとウンマ(イスラーム共同体)の一員として、
だれでも受け入れるし、自由に移動することができる。
ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)にはムスリムだけではなく、異教徒も住むことができる。
キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒も含まれる。
彼らはイスラームの秩序を乱さないという誓約をして、ジズヤ(人頭税)を払えば宗教的に自治を許され共存できる。
ジズヤは定額制で成人男子にだけ課される。
額については諸説あるが、有力説では、
富裕層なら年間4ディナール、いまだとだいたい七万五千円くらいとひじょうに安い。
中間層はその半分、
貧しい人はさらのもう半分、
それより貧しいと免除。
イスラーム法の定める範囲内で、改宗無しで自分の宗教を守れる。

(安!
年間でかよ!
イスラーム圏は税金が安いよ。貧しい人からはできるだけ金をとらない。
日本の消費税は生活必需品にかけるうえに、多重課税で、どんな貧困層にも課税し、子供にもかけるからな。格差を広げるために実施したのが消費税だからね。
金持ちから金とる方がより多くとれるのに、貧乏人の方がより負担がかかる消費税を積極的に実施するのは搾取のため。
異教徒への対応が寛容。
キリスト教なら改宗か追放か殺害か、
自治を認めるが重税と差別だな!)


オスマン帝国時代の
ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)は植民地支配で分断される。
植民地支配から独立してもダール・アル=イスラーム(イスラームの家)の復活ではなく、
国境で物流と人の移動は制限され単一のウンマの一員だったムスリムは国家に忠誠と服従を余儀なくされ、ムスリム、異教徒を問わず国民としてまとめ上げられてしまっているのが現状。

イスラームは法の論理に結びついた宗教であり、責任能力がなければ罪にならない
責任能力には知識も含まれるので
知らなかったのではすまされない
ではなく、
知らなかったら義務も責任もない。

・イスラーム主義者を生み出すのは貧困や搾取だという説明がテロが起こるとまことしやかに言われるが正確ではない。
多くのイスラーム主義者を動かしているのはイスラームの教えを守る生活のための抵抗。

スカーフの着用、職場で定刻に礼拝などへの抗議であり、近代や西洋そのものを敵視しているわけではない。

これもうヤソ側がジズヤみたいなのやってそのかわりムスリムは宗教的生活をするために便宜を図る制度創る方がよくないか?
ヤソが創るとジズヤを高額にしそうだけど。
講和条約と住み分け


・ヨーロッパは殺戮の歴史でありイスラームの比ではない。

・イスラームは、EUをモデルに国境を越えた移動を実現し、通貨統一し、巨大な経済圏を作り上げ、国家システムをなくす。
客人を歓待する、持っているものは回す、助け合うイスラーム社会の精神をさらに強める。
イスラームはもともと強い支配機構を必要としないシステム。
国家は治安と防衛という最低限ラインだけを守るのがかつてのイスラーム世界。

・カリフは独裁者ではなく、権限は限定的。
戦争するかどうかの決定、
ザカー(喜捨)やシズヤの徴収や分配、
裁判官の任命など限られた権限。
カリフは教育にタッチしない。
国家が教育を行う、義務教育とは国家が検定した情報と価値観をすりこむことで人々に国家に対する疑問を抱かせなくするシステムであり、洗脳。
日本も含め現代の教育ベースになっているのはヨーロッパのキリスト教文明。
キリスト教文明では国家が人間の肉体を支配し、教会が人間の心を支配していた。
告解や懺悔という制度は人間の内心を教会の支配下に置くことを目的としていた。何を考えているか心に何を抱いているかを管理するのが教会。近代になり教会の権限が失われると今度は国家が管理する学校教育がその役割を担う。
(学校は教会の後継者で内心を監視する役割!)


イスラームでは人の内心を知るのは神だけ。
クルアーンでも詮索してはならない
とある。
教育は社会や共同体が行えばいい。
国家が介入しなくても無秩序な混乱は起こらない。
教育も結婚も国家がなくても問題なし。

・イスラームでは法人を作ってはいけない。
商売ではすべてにおいて個人が責任を負う。
法学派によるが、最大でも二つ以上の約款をつけた契約をしてはならない。
アメリカのように訴訟に備えて何百ページも契約書をつくらない。
そんなことをしなくても何億円単位の商売をしている個人経営の小さな店もある。

(約款=条項。

法人を認めないということは宗教法人を認めないってことね。
法神の否定。
宗教法人(教会)=偶像邪神の否定であり、
企業=偶像邪神の否定でもある)


・現在のグローバル経済の主流は欧米の新自由主義であり、自由な経済ではない。新自由主義は国家の力を背景とした経済であり政治と経済が分離していない。超大国がグローバル企業に有利な法律を作ってそれを力づくで外国に押し付けることで非関税障壁を取り除こうとするのは自由主義ではなく国家主義。

本来の経済自由主義なら不当な取引をする企業とはだれも契約をしなくなる。
新自由主義は国家による統制経済であり、国家をコントロールしているのは一部の金持ちたちであり自分の利益のために法律を作っている。


・厳格なサラフィーであるワッハーブ派にとってシーア派は最大の敵であり、
法学的にもシーア派はカーフィル(不信仰者)とみなされる。
シーア派もスンナ派を神学的にカーフィルとみなしている。
タキーヤ
=危害が加えられる恐れのある時に信仰を隠すこと。

(タキーヤのせいで、スンナの過激派は問答無用でシーア派を殺すらしい。
タキーヤはスンナ派も別にしてもいいことに注意)


・宗教交流イベントが具体的に実を結んだ例はほとんどない。
ほとんどがイベント・ビジネスになっているから。
仲良くしましょう、どちらも平和を愛する宗教と言う空疎な言辞。
宗教交流イベントがダメなのは、共通点ばかりをあげて、仲良くしましょうというだけで、違うところは無視しているから。
友達になる必要はない。価値観を共有しない敵同士がどのように対話するかが問題。交流ではなく交渉。
イスラームはほかの宗教とはけっして価値観を共有できない前提に立つ。しかしそれは価値観を共有しない相手とは対話も交渉もできないということではない。
価値観の共有できない相手を、悪魔、テロリストと呼んで、いっさいの対話や交渉を拒み、殲滅しようとする欧米のテロとの戦いとは異なり、言葉が通じ約束が成立さえすれば共存の道はあると考えるのがイスラーム。

(共通点ばかりやたら言うのってエキュメニカルのためでもあるな)


・宇宙人が地球にやってきたらイスラームではどう対応するかと言うと、
まず宇宙人が食べられるかどうか。
それから宇宙人のところに預言者が遣わされていたかどうかを確かめなくてはいけない。
遣わされていたら、それはムハンマド以前の預言者なので、その法は破棄して新たにムスリムになってもらう。


・インタビュー

(イスラームがわかりにくいのは、日本人にとって宗教が悩みや苦しみなど心の弱い部分のサポートや癒しをつかさどっているイメージが強いせいもある気がするとインタビュアー)

中田
「子供が死んだりお金を失ったりするのはアッラーが決められたこと。
ムスリムにとってこの世の不幸は天国で報われる。これでは慰められませんか(笑)
礼拝すればいい。この世で救われなくても、礼拝すれば天国で救われる。
この世で救われなくてもいい。」

(日本人にとって宗教=生活ではないからね。
イスラームは宗教=生活。
信者でない人に役に立つこと言ってくれと言いたくなるが、私はこれで救われたと言いたいのはわかる。
来世がなかったらダメじゃん!
輪廻が正しいと仮定しても記憶が保持できないからやりなおしじゃないし!)


(悩んでいるときいきなり天国を持ち出されても本人はなかなか納得できないと
インタビュアーに言われて)

「悩みは個々のケースで違うと思いますが、
礼拝もできない人間にどうしろというのですか」

(中田先生は完全に宗教的救い=生活での実践なのでこう答えるよね)

(仏教だと苦しみそのものの構造を見つめなおすことで、苦しみから解放されるという発想がある。
キリスト教でも懺悔のような形で個人の悩みにアプローチする手立てがある。
イスラームではそういう視点が見えてこない)

(インタビューする人がうまい。
インタビューはする側がダメだと返答もダメになりがち)


中田
思い悩むこと自体に価値を見出すのがおかしい。
思い悩むこと自体が病。
悩んでも状況が変わらないなら悩んだってしょうがない。
悩みから脱却しなくていい。

悩みに対しては仏教だってキリスト教だって教義として対処しているのではなく、むしろそれを説く人の人格に由来するものでしょう。
どんな教義であれそれを説く人がかわいい女の子だったりすれば苦しみも軽くなったりする(笑)。
あるいは悩んでムスリムになった人がいきなりジハードの最前線に送り込まれたとしたら悩んでいるひまなどありません。
悩みの解決に即効性を求めるならそうなる。
口で何か言われて解決するのなら大した悩みではない。
悩むことに意味があると思うから現代人は悩む。
西洋の悪影響。
悩むことに意味はない。
むしろ問題は救済を信じていないことのほう。

エジプト人をみてみなさい。日本人よりずっと質素で貧しい暮らしをしているのにくよくよ思い悩んだりしない。
個人的悩みなんて取るに足らないこと。

(悩むと、具体的な解決策を考えて実行することは違う)


悩みや葛藤もあってもかまわない。
けれどもそれを解決しなければならないというものではない。
むしろ悩みや葛藤を解決しなくても生きていけるのがイスラーム。
悩みや葛藤を克服して進んでいかなくてはならないという発想の方が窮屈。

(進歩と進化と自己啓発と成長とかって全部、ニューソートとか新キリスト教系の思想だもんね!
大半の人は進歩と進化と自己啓発と成長なんてたいしてできないし、別にする必要もないので、結局はごく一部用のエリート用思想になる。
人間の肉体も精神構造も古代から全然変わってないじゃん。
だから古典が通用するんじゃん)


(日本では宗教には悩みの解決という側面に加えて、
自己成長や自己実現といった面も期待されている面がある。
イスラームではどうですかとインタビュアー)

(インタビュアーが言っているのが前述の新キリスト教ね)


中田
「スーフィズムにはそうした発想がないわけではないが、オーソドックスなイスラームには自己実現という発想がない。自己実現に価値を置ける社会は結局、裕福な社会。
どれだけの人に自己実現が可能か。欧米や日本の一部の人だけ。
そのほかのほとんどの人は生活だけで精一杯で自分のくだらぬ悩みなんかに浸っているひまがない。
自己実現とは、私(中田)に言わせれば、百匹の羊のうち優秀な一匹を救わんがために他の九十九匹を犠牲にしてしまう考え方
(マタイによる福音書第十八章)。
自己実現に価値を置く以上、その人の個性なり能力なりによって人が評価される、つまりエリート主義。
このエリート主義は西洋の局所的な状況から生まれた考えに過ぎない。
それを普遍化するのは傲慢。
イスラームの目指す方向は逆。
一匹の優秀な羊が犠牲になろうとも、ほかの九十九匹を救済するものだ。
イスラームのすごさは万人のための教えである点。

(今や欧米や日本も生活だけで精一杯の人が増えているからね。
エリート主義ってめちゃくちゃ支配層に都合がいいな!
「~するべき、しないといけない」の内容が金持ちで権力者ほど達成しやすくしているもんね)



(個人の内面に芽生えつつあるものをゆがめずに育てていくことがそんなに悪いことでしょうか。
日本の教育では外から規制を与えて個性を摘み取ってしまう教育が問題視されている、とインタビュアー)

(宿題は学習能力向上に役に立たないって研究結果がある。
あの宿題ってはっきりいって、軍事教練の変形でしょ。ドリルの意味知ってる?軍事訓練って意味だよ。
ラジオ体操も軍国主義に利用されまくったな。
三角座りとか朝礼とか。
宿題と部活が労働信者育成のためだよね)

中田
「イスラーム的観点では日本の教育の問題点は没個性的とか画一的という点にあるのではない。
日本のみならず、あらゆる教育の問題点は内的な整合性がないこと。
なぜ学校に行くのか、なぜ勉強するのか、なぜ親の言うことを聞かないといけないのか、なぜ友人と仲良くするのか、今の教育はなんの根拠づけもできていない。
それに正しい根拠づけができるのはセム系一神教だけ。
ただしユダヤ教とキリスト教にはその基礎はあるものの、イスラームだけがシャリーア(イスラーム法)というかたちで包括的プログラムを提出できる。
善いこと=アッラーの意思にかなうこと。
悪いこと=アッラーの意思に背くこと。
セム系一神教以外の宗教は仏教であろうとなんであろうとこうした善悪の根拠づけはできない。


(それが正しい根拠って何ですか?と問うと不毛だよなあ。
善悪の根拠づけの強制力が非常に強いのが一神教の特徴。
仏教も善悪の根拠づけはできているけどね。
創造主を認めないと善悪の究極的な意味での根拠づけはできないらしい。
しかし人間の能力の制約のせいで、創造主の善悪がなんなのか真の意味では知ることはできない)


(善悪の根拠づけはさておき、それぞれの人間の中にひそんでいるその人ならではの持ち味を引き出すことは教育テーマにはなりませんか。
外から型にはめる性悪説的な発想ではなく、
内面的な可能性を引き出すという性善説的な発想ではないでしょうか)

中田
「それはエリート主義ではないでしょうか。眠っている個性を目覚めさせることに価値を見出すのだとしたら、いまのままの人間は無能ということになる。
引き出すことができた人間はえらい、
それができない没個性的な人間はダメというのは能力主義。
エリート養成のためのシステムならそれでもかまわないが、
万人のためのシステムにはなりえない。
性善説というよりむしろ裏返しの性悪説ではないでしょうか。
もし性善ならそのままであろうと。びしびしやろうと人間は善くなっていくはず。
個性は別に引き出さなくても自然にあらわれる。
人間が一人ひとり違うのは当たり前。
問題はそこに価値の物差しを当てること。
個性そのものにはなんの優劣もないのに、それを重視した瞬間に、
個性はその人間の能力を測る物差しになる。
おのずとそこにはエリート主義が生まれる。
個性重視という発想は、教育や学校に比重をかけすぎている西洋型のシステムの歪みのもとに生まれた考え方。

(個性を「引き出す」って表現がおかしいよね。
ありのままを認めない思想、つまり生きているだけの人を評価しない思想。
自分を「探す」と同じ思想だね。自分を「探す」っていうけど、探す行動をしたい主体って自分ではない何かなの?別人?)

(それでは人間側の努力に意味はないわけですか、とインタビュアー)

中田
「そんなことはありませんが、特別な努力なしに救いを求める者にはだれにでも救いの道が開かれているのがイスラーム。
仏教や神秘主義のように個人の意志的な努力とか天才的な才覚に依存するシステムではない。
天才がいないわけではなく、必要としない。
自分で審理に到達することなしに、真理自体が人間を支えてくれる。
それがイスラームのすごさだと言える。
人間の存在する意味は、イスラームから言えばただ一点しかなく、アッラーを賛美すること。
個人が意志的に努力したり修行しなければ救われないシステムは不自由。
結局エリート主義。
霊性を目覚めさせなければ救われないなら、救われたくても能力がないばかりに救われない人がでて来る。そのほうがどれだけふ頭で無慈悲かわからない。
イスラームではなにかができるから、なにかをおこなったからその人間に価値があるという見方はしない。

(スピリチュアルカルト批判。
スピ信者って異端審問みたいに、霊性が低い(笑)人にやたら冷たいもんな。
霊性と道徳は無関係らしい。

個人の意識的努力を重視するのは上座部仏教あたりであり、大乗仏教は他力救済だから、特別な努力なしに救いを求める者にはだれにでも救いの道が開かれている。
仏教への理解が浅そうだね中田先生。
仏は異教徒も普通に救うからね)


「イスラームは万人のための教え。だれもが芸術家になれるのではないし、だれもが芸術を理解できるわけではない。にもかかわらず、その特別な領域にあたかも普遍的であるかのような価値を与えていくのがまちがい。
食べるものもなく貧しく困っている人たちに個の表現とか芸術なんていっても見当違い。
イスラームは芸術を否定しているのではない。
少数の人にしか可能でない芸術というかたちではなく、万人にとって可能な神を讃える方法を提示。

(シャリーアでは音楽はよくないとされていると言われて)
歌舞音曲は禁止=ハラームではなく、
忌避=マクルーフ
されるものとしている。
特に管楽器がよくないとされる。
歌いたいときは歌えばいいし踊りたいときは踊ればいい。ああ馬鹿なことだと思ってそうするのはかまわない。私も少女漫画は好き。そこに何か特別な価値を見出すことが問題。

(音楽対策しているのは、キリスト教系が音楽が得意で布教手段だからでは?
当然、イスラーム圏もいい音楽があるから聞いてみておくれ。
西洋音楽より、東ほうこうキリスト教やイスラーム圏の音楽のほうが脳破壊要素が少ないよね)



・以下、教え子が語る中田考

中田先生は、
人間は本質的には自由ではなく、かならずなにかの奴隷だ。
人間はなんらかの偶像の支配下。
真の自由とはいかに偶像から解放されるかだ。
イスラームはアッラーだけに隷属すればよく、ほかのいっさいから解放される。

以上のように言った。



参考資料

仏教についてものせとこう。

永觀堂雁琳(えいかんどうがんりん)? @ganrim_

「差別」は「しゃべつ」と読むと仏教語で、一如の平等(これも仏教語ですよね)に対して箇々別々異なっている現象界の特殊な相みたいなことを意味していますよね。勿論、現象の価値付けもここに入ってくるのですが。






”改宗式には3日間で約100万人もの仏教徒や改宗希望者が参加するが、その多くは不可触民と呼ばれる人々だ。半世紀ほど前、数十万人しかいなかった信者が今では約1億5千万人を超えた。その仏教復興の中心的な役割を果たしたのが、1967年、32歳でインドにひとりでやってきた佐々井なのである。

インド12億人のうち一番下の奴隷カーストにすら入れない不可触民と呼ばれるアウトカーストの人々は約2割おる。3千年間も触れれば穢(けが)れると人間扱いされてこなかった人々だ。学校にも行けず、仕事も選べず、井戸を使うことすら許されない。そんな悲惨な状況だからこそ、人は何かにすがらないと生きていけない。だから自分を差別するヒンドゥー教の神様でもけなげに信じてきたんだ。しかし平等主義の仏教を知ることで彼らは『自分は人間である』と目覚め始めたのです」

「差別と闘ったのはガンジーだと思い込んでいたんだ。ところがナグプールに着いてわかったのは、不可触民の間で絶大な人気を誇るのはアンベードカル博士。ガンジーは不可触民を『ハリ・ジャン(神の子)』ときれいな名前をつけてごまかし、むしろカースト社会を残そうとしていた。
博士は国際的にも評価され今では国内でもカーストにかかわらずガンジーよりも偉業が知られている。もっと日本でも研究されてもいいのだが」

仏教に改宗しただけでは、生活そのものはよくならないのだ。そこで佐々井は寄付を集め、学校や病院、養老院などを作り、上位カーストから嫌がらせを受ける人々が団結して抗議できるよう組織作りを進めた。自分に自信を持ち、礼儀を身につけてほしいと日本から空手家を呼んで人々に稽古をつけてもらったこともある。

街に希望が生まれた。佐々井は、3千年も支配されてきて、それが当たり前と思い込まされていた人々に「仏教はカーストなんてない。人間らしく生きる権利がある」と説いて回った。特に力を入れたのが子どもの未来だ。「大事なのは教育。自分で考える力だ。お金がないなら、1食、抜いてでも子どもを学校にやりなさい」と親に言い続けた。学ぶことで今を知り未来を考える。いい仕事に就けるし、自分で会社を興すこともできるようになる。治安最悪といわれたバラックの街が半世紀で、お寺を中心として清潔で安全な街に生まれ変わったのだ。”

”ガンジーは不可触民を『ハリ・ジャン(神の子)』ときれいな名前をつけてごまかし”
って発想が「ヤソの下賤を高貴に」そのまんまじゃん!
ガンジーはカースト維持に賛成だから欧米支配層が持ち上げている。
仏教は絶対に持ち上げない。
密教は持ち上げることがあるけど、ほとんど場合解釈が一神教的で万教帰一に都合よすぎる解釈。

私がどこかの寺所属の坊さんとか身内に坊さんいるとか、
廃仏毀釈で大きな被害を受けた家系とか考察している人がいるっぽい。
別になんの問題もないね!
身内が一神教信者で幼少時から強い影響を受けている日本列島在住の人って少ないのでは?
仏教ってすっごーい!(サーバルちゃん風)になったのは意外と最近。
ごく最近は
イスラムってすっごーい!(同上)ってなってる。
ヤソってむっごーい!(同上)がより強くなってる。)


カルヴァン主義派生の労働教、生贄教、過労死教、軍隊システム










だから戦死する企業戦士。
朝礼もだな。



























国家とお金が神のようにふるまっていることの一例。




皇族の結婚式をマスコミ(またこいつらか)が大々的に取り扱って広めたのがみんながやってる結婚式でしょう。本来は自宅で祝言だわな
















ブワイフ朝については、一部では「ザイド派」とされてるが、「12イマーム派のブワイフ家が興し」て「現実主義寄りの親シーア派方針の政権」って捉え方が一番無難かも。ブワイフ家三兄弟でそれぞれの地域を担当したりしたわけで、方針が完全に統一されてるわけでもなかったから、一言で言い切れない。









真ん中抜かすなという教訓。










悪魔が強くて悪魔大好きキリスト教








”『まぁ細けぇことははしょるがよ。俺らの世界を創った野郎から聞いたんだ。多分本当なんだろうよ』

『ふざけるな!そいつらが俺らの世界を創ったならぶっ飛ばすべきはそいつらってことになるんじゃねぇか優夜!』

『違うぜ。企んだのも殺したのもやっぱりあの占い師だ。創造主ってのは単に運命に人格が付いただけの代物なんだ。
そいつに怒ってもしゃーねーだろ』”
http://anicobin.ldblog.jp/archives/51957322.html
【Re:CREATORS】第19話 感想 自分が信じた決断


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