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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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逃散=集団引越こそが有効。西洋がやろうとしているワンワールドは、 イスラームがある限り達成不可能。カワ(^◇^)ユイ『イスラーム 生と死と聖戦』 

初手ダジャル記事の補足
『如来のあまねく智慧の光』を象徴した「一切如来智印」も三角目玉の元ネタの一つじゃね?
この「一切如来智印」は本ブログのプロフィール画像のピラミッドの目玉ある部分に私が張り付けたやつね。
新規読者のために元ネタを書いて置きました。
密教ってかなりバラモン教寄りだもんね。
でも空で実体は否定するけど。
アメリカは今はWASP原理主義だけど、建国当初は真逆の思想だったのさ。
というか今もじゃね?
しっかし、三角目玉っていったいどれだけミーニングを込めているのだろう。
トリプルどころじゃなさそうだぞ。










これが神の命令であり人が果たすべき義務だからあれだけ広まっているのだろう。










え、日本?


(これ全分野においてだからね?
だってお金と企業カルトは神だもんね!銭ゲバの神って邪神じゃねーか!)

中田
ナショナリズムは偶像崇拝
イスラームでは不信仰よりも多神教の方が悪いこととされる。
多神教とは神でないものを神とすることであり、言い換えれば偶像崇拝。
イスラームから見るとイエスを神の子とするなんてとんでもない話。
仏教は不信仰に近いと思うが、それよりもナショナリズムのほうが罪が深いとイスラーム的には考えられる。
イスラームの定義では
神=崇拝されるもの。
主=命令を下す権力を有するもの。
命令を下せるものが主である。
主は神である。

国家も命令を下すものである限りそれはまさに神であるはずなのに、
実際の国家は人間が人間を支配する便宜のために作られた組織、フィクション、虚構の法人。
虚構の法人である国家は本来の神から見れば偶像神なのでイスラーム的には最大の悪。

だからナショナリズムあるいは、エタティズム(国家主義)は最悪の偶像崇拝だと私は思う。
国家を崇拝したり、帰依したりすることはイスラーム的には酒を飲むことなんかよりはるかに悪い。
人間が人間を支配するのはいけない。
国家も民族も人間が人間を支配するという不正を隠ぺいするヴェールにすぎない。
それをはっきり言える一神教はイスラームしかない。
今の人間はすべて国家に従っている。
戦争にしろ刑罰にしろ直接的に物理的な力を最終的に担うのは国家。
その力に従っている。
そうでないところではお金に従っている。
お金をくれる人に従う。
国家権力と金の力、これが現代の偶像神


逃散=一斉引っ越しは圧政に対抗する有効な手段
だから妨害に必死な支配層。



”あれだね。やっぱシムシティ大作戦が
正義みたいだね。クソ市長が統治した
場合、皆んなで集団引越し出来る制度。


つまり、欧米史上最大の天才はウイル・
ライトだったって事か。

イスラームの本読んでて感じるのは、
あの聖書って書物は西洋人の観念で
読んじゃダメだって事かな。

やっぱり中東人の感覚を持って読まない
とダメだな。

中田氏の「神」の定義が中々面白くて、
「神=人間の意志に対して何らかの
強制力を強いる物、命令を下す物」

で、現代の欧米型先進国は
「神=金、
国家、領土、企業」。

つまり、日本語の「法人」は本来
「法神」という綴りの方が正確。

「企業の偶像神化」w
こいつぁ良く考えたもんだぜ!

傑作だ!”
とまと

イスラームの
神が人を支配しないといけない、
人が人を支配するのはダメ、
についての私の解釈。

カリフなどの神の法の執行者がクズなら簡単にぶっ殺して別のよりふさわしい人をあてられるようにしていると思う。
人間であり、あくまで実行事務の部長にすぎない。
社長は歴代預言者。
オーナーは神。

当然、お金、企業、国家なども神ではないので明確な悪だと確定すれば、
神格化という障壁なしにぶっ潰せる。
私利私欲に走り搾取三昧しようとすれば物理的に文字通り殺される緊張感こそが大切。



人が人を支配すると、支配する側が神格化されるから、
実質的に、偽の神(人)が人を搾取することが簡単できてしまう。
神格化されると殺しにくくなるからね。
ほら、西洋の支配層って自分ら「だけ」は殺されないと思っているでしょ?
西洋に支配層も意外と「自殺、通り魔、事故死、病死、不審死、変死、心不全」しているけどね!
首相とかの人形を辞めさせても、別の人形が来るから無駄だけど、
人形が登場するたびに次の人形候補も含めぶっ殺していったら効果があるよ。

西洋がやろうとしているワンワールドは、
イスラームがある限り達成不可能。


アッラーから人格を抜くと、
仏教の法(普遍で不変)に近くなる気がする。
法を唯一の権威とし、それにより国と法人とお金を神として崇める思想を潰す。
仏教では
残酷刑は禁止。
豚どころか肉禁止。
輪廻という循環的時間と、
終末という直線的時間は相反する。
縁起と空の適用範囲次第では実体が容認される領域を作れる。
実際、仏教には実体の否定が不徹底な宗派もある。
そもそも仏教は無神論
(この神はゴッドという意味ね。神々は存在している)。

イスラームは神は唯一なので、人間に一方的に命令できる権威を持つ神以外の一切を否定することで、
人間が神格化した偶像を理由に他者を搾取する支配体制を否定しているのが重要。
絶対最強最上永遠無限の何かの素晴らしいお力。
拝金主義と、企業が運営する国家神リヴァイアサン崇拝を潰せるし。
イスラームはあれだけ弱者救済するから、労働教は絶対否定だし。
やろうとしたら端的に執行者が殺されるか半殺されるだろうね。
イスラームでは、金儲け的な意味での成功は本人の個人的才覚にはよらず、神のおかげだと考えるし。


イスラームは、人類の創造主はエイリアン説を否定しているのもポイント。
神は人の姿などいう限定した姿を持たない
ので、
イエスを神だとか神の子とも認めないし、
十字架上の磔による死も否定(生贄思想の否定)だし、
ヤソカルトにとっても非常に都合が悪い。
なおこのイスラーム思想はグノーシス系キリスト教の磔否定思想や、
イエスはただの人間とする派閥の影響がありそう。
要はカトリックに迫害されたキリスト教の異端(カトリック視点)派閥がイスラームに影響を与えた可能性。

全身を覆ってしまえば、服やファッションにうつつを抜かさなくなるよね。
外出するときのお化粧も軽くあるいはまったくしなくてもなんとかなる。
でも身内に見せるためにおしゃれはするよ。
男女ともに下半身の毛は剃らないといけないけどね

ユダヤ・イスラーム教の戒律で思ったけど、311のせいで魚介類を食べていけない戒律の人は長生きする傾向にこれからなるだろう。








史記の高祖本紀にある劉邦は秦の首都を攻略して秦の民に新たな法を布告。
1 人を殺したものは死刑
2 人を傷つけた者は罰する
3 人のものを盗んだ者は罰する



ハサン中田先生はこんな感じの人
(自伝みたいなイスラーム解説は次の記事)
ハサン中田ツイッタープロフィールが面白い。
https://twitter.com/HASSANKONAKATA
” 中田考
@HASSANKONAKATA

イスラーム学徒、放浪のグローバル無職ホームレス野良博士ラノベ作家、老年虚業家、「カワユイ(^◇^)金貨の伝道師」、
「皆んなのカワユイ(^◇^)カリフ道」家元、プロレタリア革命戦士(労働英雄)、食品衛生管理責任者。イスラームの話は殆どしませんが、全てはイスラームの話です。
バーチャル・ヒラーファ
bit.ly/9S1NHG
2009年8月に登録 ”







中田考『イスラーム 生と死と聖戦』

ムスリムがよく唱える
インシャーアッラー
=神様の御心に適うならば
=自分としてはできる範囲で全力を尽くすが、
人間の力の及ばないことについては神様の思し召し次第なので神様のお力添えを願う。

イスラームの感覚では、俺に任せておけば絶対大丈夫などと安請け合いすることは傲慢で、かえって誠意のない態度になる。
神様の思し召し、お力添えがあってこそいまがある、そのことに感謝して日々を生きるという謙譲の美徳。

剣かコーランか(改宗しないと殺す)は間違いで、
正しくは
剣か税かコーランか。
税金さえ納めれば改宗する必要もないし異教徒でも子々孫々まで永住権が保証される。
学会では常識。
(改宗しても税を払っても殺すのがヤソ教ね!)



ジハードは天国へのいちばんの近道です。これは過激派だからとか原理主義だからという話ではなく普通のイスラームの教義。
ムスリムであれば誰でも同じ死ぬのであればジハードで死にたいと思うのが本当なのです。ムスリムであればみんなそのはずです。

ジハードとは自殺でも自爆テロでもなくあくまで戦闘であって戦い抜いた結果。
死ねば天国に行けるというのがイスラームの教え。
イスラーム法学においてジハードとは異教徒に対するイスラームのための戦闘であるとされています。これがジハードの法学上の定義です。
イスラームを守って広めるための戦闘がジハードです。ですからムスリム同士の戦闘はそもそもジハードにはなりません。

あくまでイスラームのためであること,戦う相手が異教徒であること,という二つの条件を満たして初めてジハードと呼ばれる資格が生じます。これが法学的な定義です。
イスラーム法に従うならジハードは異教徒の攻撃からの自衛に限定される戦闘行為。
異教徒がイスラーム圏に攻め込んできたときの防衛抵抗反撃はジハードでありカリフの命令がなくても各人の主体性にゆだねられる。
一方で、
ダール・アル=イスラーム(イスラーム法が施行される空間)を拡大するためのジハードはムスリムの権威であるカリフの命令が必要。イスラームの使命とは改宗の推進ではなく、ダール・アル=イスラーム(イスラーム法が施行される空間)の拡張


ハディースでは敵を焼き殺すことは禁じられている。
現代の戦争でもちいられているのはミサイル、爆弾、重火器などどれも人を焼き殺すものばかり。
空爆によって兵士以外の一般市民も巻き添えにされているが、これもイスラーム法では犯罪。
大量破壊兵器を用いる現代の戦争はあからさまにイスラームの倫理に反する。

(銃は許してあげておくれ。

イスラム過激派とか原理主義がイスラムの教義では地獄行きのことをやる理由は、
スポンサーがキリスト教勢力だからだよ。
イスラムのふりをしてイスラムを叩くのさ。
だからイスラムの教義を破っていて当然。
偽旗作戦。人工芝。グラディオ作戦。



そうえばジョジョのアブドゥルって火を使うよね?
あごひげを伸ばしていないからムスリムではなさそう。
カトリックでもプロテスタントでもないキリスト教宗派かな?
ひげも伸ばしてないし。

【ジョジョ】みんなでアヴドゥルの過去を考えてみよう | ジョジョ速
http://jojosoku.com/archives/445533412.html
”ダービーとの戦いで賭け事が苦手と言っていることから察するに、腹芸が出来ない。即ち占い師としては三流。あと装身具やクロスファイヤーの形から見るに、イスラム教徒ではなくコプト教徒(エジプトのローカルなキリスト教)の可能性が高いと思う。”)


イスラーム法
=神の定めた掟。
政府が決めた法律ではない。
国境を越えてイスラーム圏で通用する社会のありかたについての共通了解のようなもの。
現在のイスラーム圏を分断している国境線は欧米列強による植民地化の傷跡でしかない。
もともとイスラーム圏はイスラーム法の枠組みの中で、多文化、多民族、多宗教が共存する広大な法治空間だった。


人の決めた法律に従うことは人が人に従うこと、
法律とは人による人の支配の道具。
これはイスラームの教えから遠い。
法律で人を支配する国家を崇拝するのは偶像崇拝、多神崇拝そのもの。


イスラーム法では知らないものは罰せられない。
罪とは神に反抗することなので神の命令を知らない者は反抗できないので罪はない。
キリスト教ではイエスを救い主と認めなければ救われない。
戦国時代にキリスト教が伝わったとき当時の日本人の多くはキリスト教を知らずに死んでいった自分たちの祖先が救われない、と聞かされて理不尽だと感じた。
イスラームではイスラームの教えを知ることができなかった者にはイスラームを信じる義務はないので罪はなく、神様の慈悲により救われて天国に入ることができる、というのがイスラーム神学の通説。
先祖がムスリムでなくても先祖は天国に入ることができる。

現代はカリフの治める正しいイスラーム社会のすがたが実現されておらず、真のイスラームを伝える宣教者もいない時代なので、イスラームを知る機会がないのは現代の日本人も同じ。
なのでいまの日本人はみな、イスラームを信じなくても救われると思っている。
現代ではメディアや本などでイスラームを知ることができるから、
知らないから信じなくてよいといういいわけは通用しないというムスリムのほうが多いので、
著者のような者は少数派。

(あれだけメディアが発達しイスラームの日本語本が流通していうからさすがに無理だと思う)


イスラーム法とは翻訳語でそのまま当たる言葉はアラビア語にはない。
イスラーム法と訳されているのはシャリーアという言葉で、狭い意味での法律ではなく、
あえて訳すなら法という一文字であらわすべきもの。
仏法の法は法律ではなくダルマ(真理)の訳語なので仏法には戒律も含まれているけど教えも含まれている。
シャリーアはそれに近い。


ザカー=貧しい人への施しの義務。
お金に限ると、一年間ずっと自分が持っていた額の2.5%を喜捨するのが義務。
たとえば一年の最初一月一日に百億円持っていたとしても、
途中の七月の時点でいったん所持金がゼロになったら、
そのあとまた十二月までに百億円稼いだとしても喜捨すべき金額はゼロ円になる。
一年間ずっと持っていなかったから、それはもうその人のものではないという考え方。

イスラームの教えとしては、十二月の時点で百億円持っていれば、
本当はその中からできるだけたくさん貧しい人にあげるのが望ましい。
教えとしてはそうだが、法的義務としての喜捨は収入ではなく資産を基準にするので資産がいったんゼロになれば、
もうその一年に関してはザカーの義務はゼロになる。

(使い切ったら払う必要なし!
要は金をため込んだまま使わないことを防いでいる。
イスラームは税金が超安いよ。
日本は世界最高レベルに高いよ。生活必需品に消費税を多重課税なんて悪逆非道の極みでしょ?)


罰したり報奨するのは人間ではなく神。
イスラーム法は基本的に神と個人の関係なので裁判所の扱う法律のようなものはない。
豚を食べた罰は来世で神に罰せられるということ。
盗みを働いて手を切り落とされたとか、
姦通罪でむち打ちとかは、
人間が罰を与えていると疑問に思われる人もいるかと思います。
これらはクルアーンで神から命令されているからであって、
命令に背くと泥棒や浮気者だけでなくとがめなかった為政者も罰せられるから。

イスラームは誰がムスリムか決定する機関がないので、
学者を認定する機関もない。


歴史的にイスラームは世界観を異にする宗教に自治を認めて上手に共存する経験、ノウハウを蓄積してきた。
イスラームでの他の宗教への寛容は、
現代西欧の宗教の自由とはまったく違う。
イスラームと不倶戴天の敵と思われているイスラエルが、
西欧的な世俗法制度と並んで、
婚姻などに関係する宗教問題についてはオスマン朝のミッレト制(宗派制)を踏襲する宗教法による自治を認めていることはあまり知られていない。

イスラームはプライバシーを重んじる。
私的なこと、心の中は人間同士でもわからない、神にしかわからないと考えるので、だれも干渉してはいけないとされ、内面に関しては本当に干渉しない。
なのであの人は隠れて酒を飲んでいると疑ってその人の家の中に入って酒があるかどうか調べることは許されていない。
これはムスリム同士のあいだでもそう。
家はプライベートな場であり、イスラームは公私の空間をかなり厳密に分け、プライバシーを重んじる。
スパイをしてはならないという規定がある。神が隠したものは隠したままにしておきなさいという教えがある。


イスラームの信仰をもった時点ではじめてイスラーム法の義務も発生し、報奨も有効になる。
信仰がなければ義務はそもそも義務として成り立たない。
義務を遂行しても無効。
推奨行為をしても無効。
異教徒はイスラーム法の対象外なので、イスラーム法の地域では、
異教徒は税金さえ払っていれば信仰という点では基本的には何を信じていてもかまわない。
何を信じていようがかまわない。
イスラームでの信仰の自由は胸中に留めておくことに限った信仰の自由なので、
一言でも口に出せばそれはもう内心ではないので、
私は神を信じない
と口に出す自由はない。
(絶対言っている人いるよね)
内心で信じないのは自由だが、言葉にして表現すれば社会的影響が生じ、
もはや個人の内心の問題ではなくなる。
イスラームでは表現の自由と内心の自由、信仰の自由はまったくの別物。

イスラーム社会ではムスリムでない人も自分の家から外に出て酒を飲んではいけない。
家の中なら構わない。
公的な場で公然とイスラームを侮辱すること、
預言者を侮辱することは許されない。
家の中で家族同士で何を言ってもかまわないがムスリムが聞いているような場でイスラームの悪口を言うことは許されない。


(異教徒が払う義務がある税金が安いらしい。
スパイ禁止は守られていないだろう。自衛のためならOKだろう。
十分異教徒に寛容だな、イスラームは。
異端審問も積極的殺害もしないし。
寛容はなんでもありじゃないし、これだけはダメどいう線引きがある)


人を殺すなという法に人間の理性で考えうる範囲での究極的な根拠はない。
だからと言って殺すなが間違っていると断言できるのでしょうか。
違反しうるからこそ殺さない法を守ることに意味がある。
殺してはいけない理由は神は創った法だからとしか言いようがない。


森羅万象はアッラーを讃える

イスラームの世界観の基本はアニミズム。
人間だけを理性的存在として特別視する発想はイスラームには無縁。
森羅万象はすべて霊的存在であり、それぞれの言葉でアッラーを讃えている。
イスラームで人間をほかの存在者と分けるのは、アッラーの命令に従うか背くかを選ぶ意思の存在。人間以外の森羅万象が選択の余地なく必然的にアッラーを讃えているのに対し、

人間だけがアッラーに背くことができる。
罪を犯すことができる倫理的存在であることが人間の本質。
人間は罪を犯し、罰を引き受ける可能性と引き換えに、自らの意思でアッラーの命令に従い、自らの意思でアッラーの下僕となる可能性を選び取ることができる。そこにこそ人間の尊厳と栄光がある。

イラーハは神を意味する一般名詞、アッラーはムスリムが信ずる唯一神のことですが、たくさんの神様がいて、そのうちの一柱がアッラーという名前の神様だと考えるとイスラームを誤解することになります。
日本の文化はそもそもイラーハという枠組みでものを考えないから、その意味ではこの根本教義に反するものは日本にはない。
八百万の神々はイラーハにはあたらないのでイスラームからはあるとかないとかの議論の対象にはならない。
あえてイスラーム的に考えていくと日本の神々はアラビア語でルーフと呼ばれる霊や、
ジンと呼ばれているものに似ている。
道教、ヒンドゥー、ギリシア・ローマの神々などもジンに近い性格を持っている。

アニミズム=多神教ではない。
多神教とは神でないものを神として崇拝する偶像崇拝と結びついた概念。

神という言葉を自然界と人間界を貫く普遍的な原理と置き換えてみたらどうか。
普遍的な原理が複数あったらおかしなことになる。
ある原理が不変ならそれ以外の原理は不変とはいえない。
(それはどうかな?)
多神教とはこの矛盾に目をつぶり、人間のさまざまな欲望に対応した複数の原理を同時に神として崇めることだ。
アニミズムは精霊信仰と訳されることもあるが、基本的には物に霊が宿るという考え方。
霊それ自体は普遍的原理ではないので神とイコールにはならない。

イスラームではすべての物がそれぞれの独自の言語を持っていると考える。
無生物も言葉を持つ。

たとえば、椅子はわたしたちの言葉とは違うけれども言葉を持っている。
椅子には、ネジやクギが使われています。ネジ穴とネジが合うと入るわけですが、合わないと入らない。
イスラームでは、それはネジとネジ穴にとってコミュニケーションだと考え。原子レベルでもそう。
言語というコミュニケーションツールでそれぞれ神を讃えている。
そのコミュニケーションツールは同種のものにしか働かないのでほかの種にはわからない。
わかるのは神だけ。神の特別な恩寵があれば動物の言葉がわかる。ソロモン王は動物の言葉がわかった。
すべてのものには言語があり意識があり神を讃える。
すべてものに意識がある、つまりルーフ、霊があると言ってもよいのであり、まさにアニミズム。

基本的にはユダヤ教、キリスト教では人間だけが神の似姿。
だからユダヤ教、キリスト教では人間と神プラスそれ以外の自然という図式になる。
ところがイスラームでは神は超越しているのでこの世界のどこにもいない。
なので神以外のほかのものはすべて、基本的に全部同じ立場。
そこが決定的に西欧の宗教間と違うところ。

イスラームでは神とそれ以外という図式で、自然と人間は基本的に同じ。
なぜ人間だけが違うのかというと、西欧では人間を理性的動物と考えるのが主流ですが、イスラームでは理性とか意識とかによるのではなく、責任の有無による。
だからイスラームの人間観ではあくまでも倫理的な存在が人間なわけだ。
イスラムの世界観では自然も全部霊を持っていて、意識を持っていて、それぞれが言葉、コミュニケーションツールを持っているという点では人間と変わらない。
けれども自然は悪を犯さない。すべて神の意のまま。ところが人間だけが自由意志を持っていて神の意に反し、悪を犯しうる。悪を犯しうる存在であるということにおいて人間は宇宙の中で独自の存在。

(特別でも特権でもなく独自なだけ。
西欧だと人間は動物や植物と違って魂があるから特別! だからこいつら下僕!
とかほざいているもんな。
ヤソ教信者の癖に動物愛護ってギャグかな?

イスラームは人は神と姿が似ている考えないし理性的だから特別とは考えないのが特徴。
確かに神のもとの平等。
人間の体なんて欠陥だらけだからどう見てもアッラーを制限しているからね。

アッラーを見ることができるかできないかで宗派で争いがあるけど、
どうやって見るのか気になる。
イスラームの過去記事で、天使は善しかなしえないとある。
善しかなしえないということは天使の性格自体は善でも悪でもない。
やったことの結果が善か悪かは相対的でしょう、人間にとっては。
悪しかなしえないのも同様。
倫理的非難は不毛ともいえる。
善人は悪もなせないと善人ではない。
逆もまた真。
悪を知らぬものが善をなそうとすると結局、悪をなしたりするよね。
絶対悪と絶対善を認めるか否かは非常に興味深いが割愛)


ジンも人間のほかに悪を犯しうる存在。
ジンは妖精とか精霊、あるいは魔神などとも訳される。
ポピュラーなイメージが千夜一夜物語、アラビアンナイトの魔神たち。
近年アニメ化された大高忍の『マギ』でもジンが活躍。この作品の舞台設定はイスラーム世界の中でも、インド・ペルシャ系の神話的世界を参考にしているようです。
まさにアラビアンナイトの世界です。主人公アラジンの持つ笛の中に潜んでいる巨人ウーゴがジンです。

(魔神族とか魔人族とか魔族ってイスラムのジンじゃないの?
フェイド大帝はマギはイスラム要素が全然ないって指摘していたね。
中田先生はちゃんとわかっているね。
今週号のマギでは強制アセンション願望が解かれていたね。
強制アセンションというのは、シンドバッドが、皆のルフを書きかえて、
皆でルフに帰ろう=死のうって思わせて実行させようとしたけど、
結局シンドバッドはダビデを裏切って、アセンション否定派になってた)



ランプの精やウーゴはアラジンを助けてくれるが、ジンはみな人間に好意的で頼りになるかというとそうでもない。気まぐれで悪戯好きなジンもいれば、より悪魔に近く人間に道を踏み外させるようなジンもいる。もっとも抽象的な存在のルーフが霊。
ジンはほかのアニミズム的な意味での動物の霊とは違って、ふだんは人間には姿が見えないけれども人間と同じようなかたちをしていて、理性や自由意志があって、善も悪も犯しうる。
人間よりは悪魔に近いので、なかに例外的な善いものもいますけれども基本的には悪いものだと考えられている。
天使は善しか行わないし、悪魔は悪しか行わないが、人間とジンは善も悪も犯しうるのでその点ではジンも人間と同様に倫理的存在。
ジンは超自然的力、いわゆる魔法の力を持っているので、人間から見れば神々のようにも思えるかもしれませんが、失敗もするし、悪いこともする。

知恵のある人間にだまされてへこむこともある。そういう存在です。
こうしたジンをアラビアンナイト的な神話的イメージから切り離して抽象化すると、
霊的存在のひとつということになる。
イスラームではこの世界のすべては神の創造した被造物なので、万物に宿る霊も被造物。
霊的存在も神の被造物であり神ではない。
死者の霊を神とすることもある日本文化の文脈での神概念はイスラームと決定的に異なる。
日本人が神と呼んでいるのはジン的存在。

(確かに日本の神は霊と同様の意味のときがある。
というか神秘のシンでしょ。
神はスピリットの訳だからゴッドにはふさわしくないって聖書翻訳の時に言われていたよ。上帝や天主のほうがまだ近いよね。
イスラームでは著作権についても独特っぽい。
人間が何を発明してもそれは正確にはアッラーが創ったものを発見しただけって解釈をおねしょた兄貴がいってた。これが十二イマーム派の共通見解なのかは不明だが、
創造主ならそう考える方が自然。
ヤソは本当に適当な一神教だな。

悪魔って悪しか行わないの?なら悪魔は善も知っているはず。
この悪魔って異能を持つ透明人間じゃね?
透明人間なら光を透過するから目が見えないな!)


アッラー(アッラーフ)は「あれ」といえばそれはもう「ある」ということができる創造主。
あれと命じられるまでは世界の中にはない。
しかし、あれと言われる前から神の知識の中にはある。
神は時間を越えているので神の世界は時間がない世界。時間がない世界では人間には生まれたり消滅したりしていくように見える世界のすべてのものは神の知識としてもともと存在している。
それが人間世界であり神の世界と違う。

(時間を創ったのも神になるが。ここで矛盾。
ここでは時間=変化の前提、条件と定義する。
創る=存在しない状態から存在するへの状態変化。
しかし変化できるために必要な時間はまだ誕生していない。
どうやって創られるのか?
言語自体が順番に従っているから言語で時間の誕生云々は同語反復と矛盾表現でしか語れない。
順番「A→B」がないと時間的変化は成立しない。
ではこの順番も創られる以前は、そもそも誕生に必要な、
A(ない)からB(ある)という状態変化順番もないから、
どうやって順番は生まれたのか。
となるとすべての根源(これも順番が前提)は混沌が一番近いが、正確には
言語では語りえないが正解。
当然人間はわかりようがない。
アッラーが時間を創ったとは何を意味しているのだろうか?
時間の外にいるアッラー。時間の「外」ってなんだろうね?)


アッラーは空間的存在でもないので神には場所も空間もないのだが、
比喩として言うなら、すべてを知っている神の地図というものがある。神の地図の中には世界の始めから終わりまですべての出来事や事物が全部入っている。
すべてのものが詰まっている。

時間的でも空間的でもない存在って人間にとっては「存在しない」になるので、思考によってのみ存在を類推できる存在ともいえる。

ふと思ったんだけど、
時間停止って異能でわりとあるけどさ、これあらゆる変化の拒絶なら、光の反射により見えることもないよね?
本当に時間停止したら光の反射をしないよね?
あらゆる変化を拒絶するには端的に存在しないようになるしかないので、真に時間停止したら消滅するのでは?アッラーの世界に行くの?
つまり時間停止って言っているけど単に状態変化の速さが変わるだけだよね?

ヨガの呼吸で相対的時間を変化させることで長寿になる技術があるよ。一生の呼吸の数が決まっているなら、呼吸を深く長く遅くすれば長生きでるんじゃね?って発想らしい。
実際、呼吸が静かで深くて長い人は精神が安定しているし健康だからあっているだろう。
これウパニシャッド全文読んだら考察しなきゃ)


私たちはカレーの具材。
説明する側にとってはすべてがわかっていても、カレーというものの全体像を知らず、はじめて作り方の説明を聞いている人にとっては話される順番に沿って理解するしかない。
説明されていない先の調理は未来の範囲。
私たち人間にとっての世界の現在とは途中までの説明のようなもの。

(説明途中
って解説が秀逸。で当然生じる、最後まで説明してください!っていう要求)

ですから本当の意味で存在しているのは神様だけ。
自分が存在していると思ったらそれは神様の特徴を持っていないのに持っていると主張するのと同じこと。
私たち自身は存在しない。存在しないけれども、存在しない原型、本質が神の知識の中にはあって、それに対して神があれと言うことによってこの現象世界に一時的に存在する。

(あれ、インドっぽくない?

とまとさんとねこたさんのいうようにインドの影響があるな。
ペルシャの影響はゾロアスター教の終末論見れば明らかにあるでしょ。
インドだと世界=神だったり、世界=神の一部。
神も輪廻する。ヨガを極めた人間は神より強い。それがインド神話)

私たちは本当は無に近いものでそれが一瞬だけその場に仮象として現れる。
いま見ているこの世界こそがまさに現実に見えるが、
実際は仮の世界であって、真実の世界はここにはない。
真実の世界は神の世界。
世界は最初から最後まで神の知識の中にある。

最初から最後まで決まっていて過去も未来も含まれており、それ自体には時間はない。
人間も永遠の昔から神の知識にあった。
神の知識は無時間世界なので人間には基本的に把握できない。
天国は被造物なので時間は流れているので行き来可能。

(ここまで書いてわかると思うけど、ハサン中田は法学者だから説明がうまい。
イスラム法学者は学者でない人にわかりやすく説明して生活のアドバイスをできないといけないからね。
私が一番わくわくするのは法学より哲学の説明なんだけどね!)

宇宙創造の前にすべての人間が天上的な世界で神と対面をする。
(マジで?)
そこで人間と神との関係が明らかにされて、人間は被造物で、神は主だということが確認される(クルアーン7章172節参照)。
ここまでは神の領域なので超歴史的。
すべての人間とは単に世界中の人間という意味ではなく人類史が始まってから終わるまでこの世界に生まれるはずのすべての人間が時間を越えて呼び出されるわけです。
神の知識からいったん天上的な世界に呼び出されて神との対面を終わった後ですべての人間はまた神の知識に戻る。そしてアダムが一応人類の祖先とされているので人類史的にはそこからすべてが始まる、そういうイメージ。
創造前に神との対面を済ませているがこの世界に生まれてきたときに忘れてしまう。
クルアーンでもアダムは土からつくられ神により霊が吹き込まれる。
アダムからイブが創られる。
現在の人間はみなその二人の子孫。
イスラームでは胎児が大きくなっていく過程で、これも所説あるが、
四十日あるいは三か月で霊が吹き込まれるとされる。
それまではただの肉の塊だが霊が吹き込まれてからは人間になるのでそれ以降は基本的には堕胎は許されない。
人格と権利能力を認められるのは基本的に生まれた時点から。
生まれた時点で生きていて一言でもおぎゃーと言えば、一応生きたことになるので、相続権などが生じる。その時点で死んでいれば相続権も存在しない。

(7. 高壁 (アル・アアラーフ)
http://www.way-to-allah.com/jp/quran/7.htm

アダムは巨人らしいよ。
霊は吹き込めるものらしい。しかも胎児が形成されてすぐに宿るのではないらしい)



イスラームでの死
=肉体と霊が離れること。
霊肉二元論。

イスラームでは肉体は死ぬが霊魂にはしばらくは意識があるというのが通説。
霊魂は肉体の死後も肉体からすぐに離れずに意識を持っている。

死者がお墓に入るとお墓の中の審判がある。
お墓の中で神の遣わした天使に何を信じたか、お前の主は誰か、お前の預言者は誰かなどと審問される。
その期間中信仰者はお墓の中でいい暮らしができるし、
不信仰者は天使に責められる。信仰があやふやだった人はおちおち死んでいられない。
そうしたことがあったあと、死者の魂はいつの間にか眠ってしまう。いつから眠るとははっきり書いてないが、
ハディースなどによると死者はお墓の中の審判のあとは眠っていて最後の審判のときによみがえるというのが大枠。死者の魂は永い眠りについているのであって、魂が消滅したり天国と地獄とかどころか別のところに行ってしまうのではなくあくまでこの世界にいると考える。

(土葬されなかったらどうなるのだろう)

ルーフは霊だが、ほかにも霊魂に当る言葉がアラビア語にはある。
ナフスは聖書ともギリシャ的な伝統とも近い。
ナフスは息という意味のナファスから生まれた言葉で、
ギリシャ語のプネウマという語が息という意味と生命や霊魂という意味を持っているのに似ている。
ただしアラビア語のナフスは息のようでもあり、魂でもあって、霊でもあるが同時に身体を持った人間
も指す。
オリエンタリストのあいだでは初期イスラムはキリスト教的霊肉二元論はなかった説があるが専門的な議論はここではおいておきましょう。

(霊魂は風属性らしい)

ルーフは元はリーフ、風。アラビア語の姉妹語のヘブライ語では風と霊はまったく同じルーァフ。

(この書き方は初めて見た。ヘブライ語学習書ではルアハだったぞ。「ア」を忘れちゃだめだぞ!)
風からきているのがルーフで、
息からきているのがナフス。
アラビア語だとルーフのほうが上で霊に相当し、
ナフスのほうはむしろ魂というくらいちょっと下。
(ルーフ=風=霊> ナフス=息=魂あるいは自我、欲望)
あるいは自我とか欲望といった意味のもっと下の流れ。

中世の聖者伝などを読むと、ある聖者は、ナフスはイタチのかたちをしているて逃げていくとか、霊はもっと高級なかたちを持っていたりとかそういった話もある。
ナフスという、自我とか魂と訳されているものも、イスラーム神学の中では、非常に生命力の小さな、薄い、軽い物体としてあるという議論もある。


イスラームの存在論では、場所を占める物質と、物質に宿る性質の二つに分ける。
神以外の被造物はすべてそういう場所の中に存在するものだというのは初期イスラーム神学。
霊とはある意味、魂がある以上は場所を占めていると解釈する。場所を占めていないものは存在しないわけなので、場所を占めているけれども、すごく小さくて薄いものだからよく見えないとか、そういう考え方もある。

最後の審判の後に来る永遠の来世がイスラームの考える天国であって
死んだ人はすぐに天国に行けるわけではない。とりあえず肉体はいったん死んで霊魂は最後の審判の時まで眠っている。
天国に行けるかどうかは最後の審判で決まる。
最後の審判では宇宙自体が死ぬという壮大な過程があって世界が別の秩序に移る、それがイスラームの来世。宇宙自体が死ぬ前に歴史の終末が来る。
最終戦争が起きて歴史が終焉を迎える。
イスラームの終末論は二本立て。
最終戦争で善の側のイーサー(イエス)とマフディー(メシア)の側が勝って正義の平和が実現する。
けれどもキリスト教の千年王国とは違ってこの平和はあまり続かない。

(イスラムはキリスト教の千年王国を否定!
あとユダヤ教が千年王国とかありえねーからな!
キリスト教終末論の一つってはっきり定義されている。
千年王国に直接言及する聖書の箇所は、ヨハネの黙示録20章4節から7節だから新約だ。
旧約じゃねーぞ!
もし言っているなら異端だな。
たしかboがデマ飛ばしてたな。
あと黙示録のこのあたりでクリスチャンを空中にひきあげられる
=携挙=ラプチャーの話が出る。
ラプトだねえ。

ディスペンセーション主義と患難前携挙説について知っておこう。

あと大本教の教義がキリスト教の千年王国思想とよく一致すると指摘したのが安丸良夫)


善の側は現世的世界で一回勝つがそのあと天変地異がおとずれてこれで完全に世界が滅ぶ。
世界が滅亡するとこの宇宙のすべての者が天使も含めて皆死ぬ。すべて死んだあとでそれまでに死んだすべての死者がよみがえって最後の審判で裁かれる。そのあとは永遠の来世が続く。こういう世界観の中で個人の死というものが位置づけられる。


アッラーは慈悲深いので、善のほうをたくさん勘定してくれる。
悪は一ポイント。
善は十倍から最大七百倍に勘定されることになっている。
善行をやろうと思ったが結局寝過ごした場合も一応一ポイントもらえる。
悪いことをしようと思っていたが思いなおしてやめたならプラス。
理由のない不幸、道端で転んだとか落ちてきたものに当ってけがをしたとかあればその分を悪から引いてもらえる。
悪に対する罰を先払いしたという扱い。

巡礼をすればそれまでの罪のすべてが消えるとされる。
金曜日の礼拝をやると次の金曜礼拝までの小さな罪はすべて許される。
基本的に点数をあげてくれようとする。
預言者は「私の名前を唱えた人間はちゃんと許してあげてください」と頼んでくれる。
イスラームの天国の門だあまり狭くはない。
アッラーを信じていれば全員天国入れるのが基本。

(イスラームはキリスト教と違って冤罪の思想ではない。
イスラームは苛烈さとポジティヴさをあわせもつ。
キリスト教は苛烈さとネガティヴさをあわせもつ。
カルヴァン派の卑屈さがやばすぎる。
この卑屈さが日本人に流れ込んでさらにやばい。
ヤソは原罪という、赤ちゃんまで罪人にする悪逆非道の教義だからね。
これも赤ちゃん大好きなイスラームには許せないのだろう


イスラームの天国は死後の世界ではない。
死んでもすぐに別の世界に行くわけではない。
人間の魂は死後この世にとどまり眠っていて、最後の審判ではじめて天国か地獄かに行く。
人間の目から見れば、世界の終末の後に行くところは遠い未来の話であり、いまは天国にしろ地獄にしろ死後の世界は存在しないということになる。
が、神は時間に限定されないので神の知識の中では字間を越えてすべてがすでにあるものであって、人間にとっては遠い未来のことのように思えても、神の知識にとっては天国も地獄もすでにあるといえる。本当はこの世とあの世の違いは実は時間軸ではなく次元の違い。
それが時間的な現在と未来の違いのように私たち人間の目に映っているだけです。
天国での最大の喜びは神に拝謁すること。
基本的に天国の人々は無駄口を叩かないということなので、
サラーム(平安)と言っているなど静かな安らぎに満ちた世界。
(スンニ派では神を見ることは可能だとする。シーア派だと不可能だとする)

イスラームの地獄は信仰者で罪を犯した人間が一定期間焼かれるところで、そのあとで最終的には救われる。しかし多神崇拝をした人間、積極的な無神論者は許されない。
漠然と神様なんていないんじゃないかと思っているのであれば、その人には宣教が届いていなかったということで許されるというのが通説。

漠然とした不信仰者は死後、現世と来世の境にあるバルザフという場所に行く。
バルザフとは境界、障壁という意味。
煉獄のようなもの。
イスラームの教えを知らなかったものや信徒ではなかったけれども信じなかったわけでもない人がとりあえずそこに行って現世と来世の両方を見ている場所。

(私は無神論者ではないよ。この神は神秘を含むよ。人格神は私は認めない。
アッラーって本当は人格はないのでは?
神格はあるだろうけど。
仏教的な法は認めるけど、人格がついて擬人化と偶像化された法人は認めない私。
アッラーに人格に相当するものがあるとするのは人間がアッラーの真意を理解しようとする手段に過ぎない疑惑。
じゃあクルアーンのあのどうみても人格あるとしか思えない記述はなんだよってことになる。

信者だけが救われるにしないとその宗教の信者になるメリットがないじゃん。)


イスラームでの葬儀は土葬。死者の霊魂はこの世界にとどまっているだけでなく意識や感覚もあるとされる。
(死んでないじゃん)
なので火葬にされると熱い。
死体損壊も禁止。
臓器移植反対の人が多い。
葬儀の礼拝は立ったまま。
遺体の顔はメッカの方に向くようにする。
人が死ぬとまず全身に沐浴を施して白い布に包む。これが普通の人の葬儀の基本。

が殉教者ならやらない。体を清めない。死んだときの服のまま血まみれのまま礼拝をささげてそのまま土に埋める。
法学的にも殉教者はほかの死者とは別扱い。
爆撃で殺された人は殉教者扱いになるので今のシリアでは日常。
殉教者の霊は天国に直行し天国で生きていると考えられる。
アッラーの道において殺された者を死者と言ってはならない。いや生きている。
イスラームでは普通の死者は最後の審判の日まで眠りにつく。
ジハードで亡くなった者は天国に直行。天国で食べ物を与えられて生きている。天国では食べなくても大丈夫だが楽しみなので食べるイメージ。
殉教者は世界の終末も最後の審判もパス。
クルアーンでは現世で死んだあとでも天国で生きているとされるのは実は殉教者だけ。
預言者ムハンマドも天国にいるはずだとなる。
殉教者より位が高いので天国にいないはずがない。

殉教者が天国に直行できない例外が借金。借金していると天国に行けない。
借金を返さないのはよほど悪いことである。
イスラームでは神に対する罪と、人に対する罪は分ける。
礼拝は神と人だけの関係。
人を殺すのがいけないとか盗みはいけないという戒律は神の命令なので、すれば神に逆らうことになるので神との関係における罪だが、
同時に人間に対する罪との複合である。当然被害を受けた側の人間に損害賠償を請求する権利が生じる。
人間を通すことによってしか神も赦さないのが人間の権利。
借金は人間の範囲の事柄。
現世での人間の権利と義務を果たさないと天国に行けないので借金を残してはいけない。

また、
両親の許可がなければジハードに行けない。
任意のジハードなら親がダメと言ったらだめ。

ムスリムの土地に異教徒が攻めて来るとか、カリフから招集命令が来たり、義務なら親の命令より優先される。
ジハードを命じることができるのは本来カリフのみであり、カリフが存在しない現在、許されるのは異教徒の攻撃から自衛するためのものだけになる。
イスラーム社会を守れというカリフの呼びかけに答えることは天国への直行切符をもらったも同然で教義上はムスリムとしてこれに勝る喜びはない。
カリフとムハンマドの後継者を意味するハリーファを欧米風に訳したものでイスラームの最高権威のこと。


政教分離は現代の迷信。


イフティヤール=選択の自由
とされるがイスラームでは選択という意味のアラビア語のイフティヤールが自由という意味である。
選択=自由。人間が自由意思を持っていて自分の行為を自分で選択しているという意味での自由。

自由意思に対立するのは自然法則で規定される自然界。自然界では政治という概念は成り立たない。万有引力の法則は政治的に決定されたものではない。
人間とジンだけが自由意思を持つ。別の選択肢を選べるのが自由。
この自由があってこそ責任や義務も意味を持つ。
自然界には自由も責任も権利も義務もない。雨雲を道徳的に非難できないしクリーニング代を請求できない。
自然現象には悪意も善意もなく結果について責任を問われることはない。

人間の習慣と動物の本能の違いは、ふだんやっていること以外の行動を選べること。


すべては神の知識の中にあるなら、創造主が神なら人間の行為の良し悪しは神の意志であって、人間の自由意志など意味がないのではないかという疑問は古来、幾度も提起されてきた。

イスラーム神学では明快で、神は存在するものの根拠であり、人間に規範を示し、人間がそれに従うべき主であること、つまり善悪の根拠でもある。
存在するものはただ存在するだけで善悪はそれとは別にある。

山や川がそこにあるのは善悪と無関係でただある。交通に不便だとか田畑に水を引けるから便利だとかは人間の都合であって山や川の問題ではない。
存在の領域と、善悪(当為)の領域がある。
イスラームはその区別を明確にする。
愛だけだったり、善悪がなかったり、存在が根拠づけられないことはほかの宗教ではあるが、イスラームでははっきりしている。
何を望むか望まないかを神が人間にお任せになった領域があり、それは人の行為にかんすることでそれが善悪の領域である。この善悪の領域がなりたつためには人間に自由が必要。人間の自由は善悪を説明するためにあるので、自由がなければ善悪は成り立たない。
だから倫理は自由とセット。

(あるものの存在が善悪の原因で、そのものの存在の原因が神。
しかし、神は存在させただけで善悪の領域にはないということ?
人間視点での善悪における、悪を完全に滅せないってこと。悪の存在の根拠も神だから)

自由に議論するためには人間のアイデンティティの話、そもそも今の私と五分後の私が同じかどうかから話をしないといけない。
自由とはいまの私と五分後の私が同じ人間だという前提があって初めて成り立つ。


コーヒーか紅茶を飲もうか迷い、コーヒーを注文し、五分後にコーヒーを飲んでいるとする。
五分前と後のあなたが別の存在ならコーヒーを飲んでいるのはあなたの選択の結果ではなく、ただ単にコーヒーを飲んでいるだけ。
ある行為の結果がその行為主体の自由な選択の帰結であると言えるためには、
選択する前と選択した後の人格が連続していないといけない。
これが自由が成立するための基本的な条件。
しかし連続性を保証するものは何もない。

(自由意志は認めないと裁きが不可能になるから認めないとまずい。
仏教の空のたとえでコーヒーを思い出す。
コーヒーに属するとされる色、におい、液体の感覚、熱などの諸要素のネットワークの集合体、
それがコーヒー。コーヒーそのものは実在しない。これが縁起であり空。
お、超短く言えたぞ)


イスラームでの神の創造とは、最初から創った世界をちょっとずつ加工・変形してというのではなく、すべてが一瞬ごとに無から創られていく。
なので今から一瞬前の世界というものはいったんすべて消えるし、今から一瞬あとの世界というものもまた新しく創られる。
映画で例えると、
完成した映画を見ている私たちには最初のシーンからラストシーンまで一連の出来事がひとつの物語となっているように見えるが、実際には場面ごとに監督が作り出したもの。


『涼宮ハルヒの憂鬱』には
あなたを含める全人類がそれまでの記憶を保ったまま、
ある日突然世界に生まれてきたのではないということを、どうやって否定する?
いまからたった五分前に全宇宙があるべき姿をあらかじめ用意されてから世界が生まれ、
そしてすべてがそこから始まったのではない、と否定出来る論拠なんてこの世のどこにもない。
という趣旨の小泉のセリフがあり、
世界五分前創造仮設というかなりポピュラーな仮説。
イスラーム神学では一瞬ごとに世界は創造されていると考える。

連続性が見かけだけで絶え間なくリセットされているとすると、
自発的な意志、自由行為、行為の結果への責任、道徳、倫理も意味がないものになってしまう。

イスラーム神学ではアリストテレス論理学の
必然、可能、不可能のカテゴリーを使って考える。
不可能というのは一つしかないし、
必然というものも一つしかないが、
可能というものは不可能と必然のあいだにあって無数にある。
人間も、この世のすべての者は存在の在り方としては可能態になる。
可能を意味するアラビア語ムムキンの複数形はムムキナート。

これがアッラーの知識の中にすべて含まれている。

本当に強い意味での神の全知全能性の議論だと、神はすべてを知ったうえで最善の行いをするのであり、
いまある世界はこれ以外にはない最善の世界なのであり、
すべては必然なので、そもそも可能態というものはないことになる。
ただそうなると自由と悪について議論ができなくなる。
(中田は最善世界説を否定。
ところで、論文では人名は名字で呼び捨てが常識って知ってる?
直接の担当教授に出すときもその担当教授の名前も名字で呼び捨てでないといけないのでかなり抵抗感がある)

ところがイスラーム神学では可能態を認めてきた。
可能態を認めるとは、この世界のほかに無数の可能な世界があるということ。
無数の分岐点がある。


西欧哲学では可能世界意味論みたいなものもあるし、
物理学では宇宙は最初のビッグバンから無数に分裂していって、
可能なかたちがたくさんあったという多世界論という考え方もある。

(パラレルワールド説ってまたイスラームからネタをとってきた疑惑。
仏典も異世界=他の仏の世界からこの世界に来たって設定が多いらしい。仏教なら転生は教義に沿っているな。
ラノベの異世界転生ものは仏教ではなく異端はヤソの輪廻だろ!
人間に転生することは仏教では難しいぞ)

それらがすべてムムキナートなので世界はまさに無数にあり、それらがすべて神の知識の中に含まれている。

いまここにある私だけが、
私である
と言える物理的な理由はない。
瞬間ごとにたくさんの選択しがあって、その中には随意運動のように自分の選択で選べるものもあれば、不随意運動的というか、自分の選択によっては変えられないものもある。
自分でコントロールできるもの、できないものを含めて、そういった無数の選択肢の中からひとつのものが選ばれているということが、いまの自分が昔の自分と同一性を持って最後の審判までひとつの流れであるということを説明できる。
そしてすべてのことはその人間から見ると自らの選択の結果として必然であったかのように見えるということだ。
本当に私たちの世界が実在するようなかたちで、
すべてのムムキナートが実在するかどうかというのは、これはクルアーンには明示的には書かれていないのでイスラーム的な理解として適当かどうかよくわからない。

私(中田)自身の暫定的な神学的結論は、無数の世界がすべて実在するというもの。
私がいない世界とかといった世界がすべてアッラーの知識の中にある。
もう死んでしまっている私もいるかもしれない。
すべては同時に存在している。
私たちが今生きているこの世界、選択肢だけが私一人だけではなくて世界中の人にとって、
唯一そこで人間が意識を持っている世界である、というのがいまの私の暫定的な結論。


この世界だけが唯一の世界として倫理的な意味を持つ。
こうした議論は哲学の中にもある。
意識があるのは自分一人だけで、ほかの人間は意識があるように見えるだけで、実は意識のない人形のようなものではないか、というものもがあり、
そのような存在を哲学的ゾンビという。

私が生きているこの世界以外にある無数の可能世界には哲学的ゾンビしか存在しない。
つまりこの世界以外にも私と同じような人間が生きていたり、寝ていたりする世界があるわけですけれども、そこの人間には一切意識はない。
この世界だけが意識ある世界なのでこの世界だけが唯一の世界として倫理的な意味を持つ。
この世界だけが意識があって罰があって、報酬があって、感情もあるというのがいまの私の暫定的な結論。
私はこの世界だけに意識がある人間が存在すると思っているが、必ずしもそうでないかも。
私の考えだと他の世界は影だけであってこの世界だけがその意味ではリアリティーを持っている。
選択を重ねてきて、ほかにもありえたかもしれないけれども、
現実にはこの唯一の人生について一人の人間として認められる。
私たちというものが存在することが、神によって認められるのが最後の審判。
すべての自分、昔の自分もいまの自分も含めて、すべての自分がひとつになったものとしての意識を持って、神の前に立つ。それが最後の審判。

(こういったことについては永井均先生がさんざん議論している。本ブログのメモをどうぞ。
そりゃあ他の世界を実感するなんて無理でしょ。

永井均の著作三冊:『子どものための哲学対話』・『翔太と猫のインサイトの夏休み』・『私・今・そして神』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html
”“だれも覚えていない過去はつくれない
 世界は、その時そうであった通りのあり方で、本当はまったく実在しない過去を「覚えている」と思い込んでいる全住民ととともに、五分前に突如として存在しはじめた――これは少なくともどういう事態が起こったのかがわかる。だから、全能でいたずら好きの神さまなら、≪その≫事態を引き起こすことができる。しかし、その神さまでさえ、だれも覚えていない過去を≪そのとき≫同時に作り出すことなどはできない。全能の神でさえ、それは≪不可能≫なのである。
 全能なのにできないことがある? そうなのだ。だって、住民のだれひとりとしてその時点で「覚えている」と思い込んでさえいない過去そのものを、≪その時点で≫つくるって、いったい何をすることなんだ?
 もし≪その時点で≫つくられたなら、やっぱり過去には存在しなかったんじゃないか。神が≪いま≫それをつくったということがいったい何をしたことなのか、どういう事態を起こしたということなのか、われわれにそれがわからない。われわれにそれが理解できないのだ。だから、それだから、全能の神でさえ、≪そんな≫ことをすることはできない。神でさえ≪それ≫は作り出せない。≪それ≫はわれわれの言葉で表現され、われわれの理解によって指定されている事態だからだ。神の全能でさえ、この壁は打ち破れない。なぜなら、この壁は神の側からは存在せず、われわれの側からだけ存在する壁だからだ。

 だから、ひょっとしたら、気まぐれな神さまは、五分前に、だれも知らない五年前の出来事を急につくったかもしれない。それは五分前にできた以上五年前にはなかったのか、それとも、神が五年前という時点に設置した以上五年前にもうあったのか、答えはない。時間の内部でその時間をつくり直すという想定がわれわれに理解できないかぎり、この想定は不可能な想定なのである。「記憶一般と記憶の対象とを同時に可能ならしめる条件」に反しているからである。世界にはわれわれに理解可能なことしか起こりえない。なぜなら、われわれに理解できる形で捉えられたときにのみ起こったとされるから。この意味において、神もまたわれわれに理解可能なことしかなしえない。“
p.27-28 原典の傍点を≪≫で代用。”
























自由に選択できることは悪も選びうることなので、それなら最初から善のみを選ぶようにしておいてくれればよかったのに、
という意見もあるでしょう。
善も悪も選びうるから善を選ぶことに意味がある。
それが意識のある存在というものだ。
意識と選択と自由は一つのもので、これがない人間は瞬間ごとに生じては消えてゆく世界の映像の一コマにすぎない。


善悪の基準であるシャリーアを知らせる使命を託されたのがムハンマド。
ムハンマドを開祖とか教祖とかとする説明を見かけるが、新しい宗教を創始したという意味で使うならムハンマドについては少し違う。
ムハンマドは自分で教義を考えだしたり、崇拝対象をこしらえたりしたのではなく、神の呼びかけに答えて神の法を託された預言者。
預言者の特徴は法をもたらすことと無謬であること。
預言者以外の人が無謬だと主張したら異端。
絶対に間違いを犯さない人も国家もありえない。


イスラームではムハンマドも人間で、イエスも人間だとする。
イエスは先輩格の預言者であっても神の子だというのは誤伝だとする。
キリスト教でもイエスを崇拝して

イミタチオ・クリスチ(キリストにならいて)


などというが実際にどれだけイエスにならっているかというとすごく疑問。
そもそもイエスの言葉はほとんど残っていない。
近年の文献学の進歩は新約聖書の記述がイエスの実像をあらわしているという夢を打ち砕いた。
新約聖書でイエスの言葉とされているものの中で、実際にイエス本人が言っただろうとされるものはほんのわずかしかないことが明らかにされている。
イエスにならえ、キリストにならえ
といっても実はイエスがなにをやっていたかよくわからないので、
あまりならいようがない。
イエスは30歳ぐらいまでしか生きていないので公の場面では結果も残していない。
しかもキリストとして活動した期間は約二年間。

イスラームではムハンマドは預言者として22、3年間にわたって活動。
残っている記録の量が全然違う。彼の言行録のハディースも多すぎるくらいにある。
なのでムハンマドの行動に照らして自らの生活を律しようとするときまさしくそのようにできる。
彼が1400年前にやっていたのと同じ日程で、同じ言葉で、同じサウム(断食)で、同じ礼拝をする。同じものを飲食する。そこまでやる。
キリスト教とはまったくレベルが違う。
預言者との一体感はサウディアラビアなどに行くとよくわかる。
ムハンマドは自分たちの先祖と考えている。


TPPは自由主義を旗印に掲げているので、関税の自由化、つまり関税撤廃の是非が議論されている。基本的にイスラームは自由の宗教なので、禁じられていないことはすべて許されている。
貿易は許されているので、移動が許されているのは資本と商品。その意味でTPPで関税をなくすのはイスラーム的には正しいが、
それよりも自然権的な意味で認められるべきなのは、まず人間の移動。
人間の無条件の移動が100%許されていない。
国境があるからです。人間の移動の自由がないところで物と資本だけを移動させるというのは、富を偏在させることになります。これは不公正でしかありません。だからグローバル資本主義は偽物です。

領域国民国家は国境で人間の自由な移動を制限することで成り立っている。
だから領域国民国家がある以上は自由も人権もそもそもすべてが偽物です。

完全に国境が開いていて人間が動けるなら、住みたくない、いたくないなら出ていけばいい。こうすれば戦争は起きないし、人間を大事にしない国家は人間が動くことで自然に淘汰されていく。それが国境を開くだけでできる。

領域国民国家システムは正義、人権、平等、人類愛などの理想とも矛盾するし、大地がすべての人に解放され、移住の完全な自由を保障されるため、領域国民国家の国境は廃止されなければならない。
いま国家という枠組が強くなりすぎている。国家の法律によって自由化を言ってもそれは誰も矛盾とは考えないが、実は自由化ではない。
国境による移動の制限、これはかのホッブズが描いた、領域国民国家であるところの怪物リヴァイアサンの呪縛。


(そういえば、全然愛って言わないな、イスラームは。アッラーの慈悲は言うけど)

(中田考? @HASSANKONAKATA 2010年10月27日

「自由」が実体的に有るなどという幻想を抱き有り難がるのはいい加減に止めにしよう。自由は禁止の隙間に過ぎない。
禁止がドーナツなら自由はドーナツの穴、ドーナツがあって初めて「ドーナツの穴」が仮象する。では「禁止」は「存在」するのか?「存在」しない禁止が有る事を知る者だけに答が有る。

中田考? @HASSANKONAKATA 2013年10月8日
自由とはドーナツの穴に過ぎず、それ自体として実在するものではない。
人間が自由であるとの錯覚、幻想に陥っている西欧人は、単に自分たちを縛る文化拘束性に無自覚に隷属し、その存在すら目に入らなくなっているに過ぎない。『イスラーム革命の本質と目的』

中田考? @HASSANKONAKATA 2013年6月28日
自由とはドーナツの穴のようなもの。存在するのはドーナツ(=制約、法、義務etc)であって穴ではない。しかしいかに巨大なドーナツであろうとも宇宙の虚空に比すれば無に等しい。ドーナツの穴を小さく感ずるのは、ドーナツに囚われ、穴が宇宙の無限と繋がっていることが見えない知性の不自由さ故。






えらいてんちょう? @eraitencho
真理情報です。

自由は客観的な指標として存在するのではなくて、自分を制限するものがなんなのかを把握することによって現れます。
ーーー

古代エジプトどころかイスラーム的にも重大な資料があるかも。




現代のイスラームが抱えている課題と、
日本が直面しているのに多くの人が気づいていない課題は、
案外似ているかもしれないとわかる。

グローバル化といえば聞こえはいいですが、アメリカ資本の都合のいいようなルールが強制されるだけであれば、
それは植民地支配となんら変わるものではありません。
かつて西欧列強は非ヨーロッパ世界に軍隊や行政官や教育者ら、
大勢の人間を送りこんで植民地経営をしましたが、
いま、アメリカとその大企業は,独立した諸国と対等に見せかけた契約を結ぶというかたちで、同じことをしようとしているわけです。
超大国アメリカに単独で対抗できる国は,いま見当たりません。

(イランじゃね?イランを筆頭にしたシーア派連合)

その上、環境問題にしろ、貧富の格差にしろ、現代の課題は一国内のことにとどまらず、世界規模で発生しています。
従来の領域国民国家の枠組みで解決できるものではありません。
そこで、グローバルな課題に対してはグローバルな連帯とそれを支える体制が必要だというのは衆目の一致するところでしょう。
それではグローバルな連帯とはいかなるものか。
これについてイタリアの思想家アントニオ・ネグリとアメリカの思想家マイケル・ハートが「マルチチュード」という概念を提唱して、日本でももてはやされました。
インターネットなどの通信手段の発達によって,各地の独自の抵抗運動が結びついて自由なネットワークをつくりそれがグローバル資本主義への対抗運動になるというのですが、私には希望的観測というか妄想にすぎないように思われます。
(人工芝があるもんね!)

マルチチュードとはマルクス主義の言うプロレタリアートの焼き直しで、
しかもマルクスが前提にしていた国際的に連帯した労働組合運動のような組織を欠いているだけに画に描いた餅に終わるでしょう。


それではなにか希望を託せる構想はないのかというと、
私はイスラームの本来のカリフ制こそがグローバルな連帯のモデルになりうると考えています。
(きちんと西洋の政治学も学んでいる著者。
カリフ制にも問題点があるけど、ここでは割愛。カリフ制議論に注力した著作読まないとなんともいえない)


カリフ制の本質を大まかにいうと、法の支配、正確に言うと自然法の支配。
最近、法の支配と法治主義が混同されていることが多いので、説明しておく。

法治主義
=国家が定めた法令、
つまり法律と行政命令に則って統治することで、
国家が定める法律を至上のものとする発想に立っている。

対して、
法の支配
=自然法の下に国家を置く支配。

西欧で言うところの自然法とは実定法に対立する概念ですから、
国家法の上に自然法がある。自然法が国家の法を超えることになります。
だから自然法に反するような国家法はすべて否定する。
西欧で言うところの自然法がイスラーム法と言われるものにいちばん近い。
ですから、ほぼイコールで自然法の支配がカリフ制だというふうに言えます。
その自然法のいちばんわかりやすい例が、
たとえば「人間は自由に移動していい」
という話なのです。

本来のカリフ制が実現するはずなのは、国境を越えた、ある意味で出入り自由の大きな経済圏というよりは、
生活圏という感じの社会です。それを現存の国家の上位というか、より優位なものとして認めていこうというのです。

(やっぱりですます調で長く書くと、だである調との記述時間の差がだんだん顕著になってくる。
丁寧語ほど長く言い終わるのに時間がかかるもんね。
俗語って短いでしょ?短縮表現も多い)

私の考えというかイスラームの考えだが、最後の審判が来るまで世界は完全なイスラーム化はしない。だからカリフ制が復興された地域に住む人間もいれば、
その外ではグローバル資本主義を進めようとする勢力もいて、
最後まで残ると思う。
両者の対立をできるだけ物理的な戦争にしないような形で共存させるのが私の望む世界。
(敵の絶滅ではないことが重要)

戦争をしてしまうとどちらも滅びますから。
私が考える理想のカリフ制のもとではEUのようなかたちで人間が自由に動けるようになる。
ただその外には領域国民国家の制度も残っている。この二つがまさに自由に入りたいものは誰でもは入れるように国境を開いておくべきです。
イスラーム世界といまいうところの領域国民国家システムが出入り自由なかたちで共存していれば、かなり流動化が進むでしょう。
そうすると暴力革命をしなくてもそういう人にやさしくない政権から人間が出ていけば当然国が成り立たないので自発的に改革するようになるはず。

(あれほどイスラームをヤソが攻撃するかわかるでしょ?
天敵だ。

欧米型のワンワールドでは移動が自由なのは特権階級だけだもんね!
国境なくなってもベルリンの壁とか万里の長城みたいなのは作るんでしょ?
一人につき一つか複数のドローンが側近にいて、危険人物認定されたら毒とか注入して「事故死や自殺」するんでしょ?

ヤソ型とイスラーム型の二つのワンワールドが冷戦みたいに並び立つ世界になりそうなんだけど)












カリフ制がイスラーム的自然法の下にあるという意味で、カリフ制は自然法が認める人権も認める。
人権を認める以上は当然日本国民の権利は自然法が認める人権ではなく、限られた国民の権利なのでそういうかたちは認めない。
多国籍の人間には認められていないような権利はすべて認めない。
実はカリフ制とはそういうものであって、だからまず国境をすべて取っ払うという話になる。
カリフ制が支配する地域では国家の法律はないというのが基本。代わりに自然法がある。

史記の高祖本紀にある劉邦は秦の首都を攻略して秦の民に新たな法を布告。
1 人を殺したものは死刑
2 人を傷つけた者は罰する
3 人のものを盗んだ者は罰する


この三箇条だけだったのでそれまでの秦の煩瑣な法律に苦しんできた人々は大喜びしたという。
この法三章は自然法の基本的な姿をあらわしている。
自然法とは人を殺してはいけないのように、基本的にはすべての人間が理性によって理解するものでそれを超えるようなものは法律として強制してはいけない。

(生物の本能=死にたくない!
に根差しているから理解は理性でもするし、
感情でもする)

強制は堂々と強調するべきであり、カリフ制は民主主義のようなごまかしはしない。
自分たちが決めたことだから守るのが議会制民主主義の建前だが、
実際には議員は民意を反映などしていない。
カリフ制は神が定めた法の執行機関なのでそんなおためごかしは言わない。
守ってもらわないといけないものは力でもって強制する。
それを守るのが嫌だったら反乱すればいい。

(神の法への革命権と抵抗権はないのでは?
いつの時代も制限選挙寡頭制であり、上層部は血縁者でかたまっている)


イスラーム法への順守を力で強制するなどというと、カリフ制は独裁制だと思う人もいるだろうが少し補足。
西欧の政治学は人間の支配ということでしかものを考えていない。
デモクラシーにしてもアリストクラシー(貴族制)にしても全部そうなっている。
政治の在り方を人間の数で三つに分けるのが基本。
君主制・独裁制は一人による支配、
貴族制・寡頭制は少人数による支配、
民主制・衆愚制は多数による支配。
しかし
イスラームではそもそも人間の数でわけない。
むしろなぜ政治を人間の数で分けるのかということが問われないといけない。
これはイスラームだけではなくて、
歴史的に中国思想を見れば、
基本的には法治主義か徳治主義か。
法が治めるか徳が治めるかだから人間の数なんてどうだっていいわけだ。

私たちは西欧に植民地化されたので人間が治めるという西欧的な考え方に染まっている。

イスラームでは神が治める。
神が治める実態を人間から見ろと法が治めることになる。
法と言う枠組みがあってその執行権力としてカリフがいる。

(カントってイスラームについてどう考えていたのだろう。
カントも道徳の根源と保証は神)


ただ、私の言っているカリフ制は、もちろんイスラームのカリフ制に違いはないのですが、カリフという人間にはほとんど重点を置いていないので、その意味ではかなり特殊な立場です。
西欧的な政治学の枠組みから見ると、ひとりのカリフが元首となるカリフ制がイスラームの政治学であるように見えて来るが、それは私たちの思考の枠組み自体が西欧的な政治学の概念構成になれているため、支配者あるいは支配機構に焦点を当てる、
そうするとカリフを支配機構の中心としたシステムに見えてしまう。

要するに,私の言い方では,法の支配こそがカリフ制なのです。
法が上にあって、その下に人間がいる。その意味で民主制なんていう言葉を使わないでカリフ制という言葉を使う。
この法はシャリーア。
日本では法と法律の区別があまりないので、国家の法律ではないという意味で自然法という言葉を使って、自然法の支配と言った。
カリフ制は自然法の支配であるとはそういう意味。
イスラームを成り立たせているのは,あくまで法なわけです。
法があればいいのです。法が支配する。すべての人間が法に従う。人間が人間を支配する統治機構はいらない。
ただし個々人の判断だけではすまない場合、たとえば解釈をめぐって争いが生じたとき、
あるいは法に書いてない突然敵国軍が攻めてきて戦うか和平条約を結ぶか決める、
といった集団的な決定をしなければならないときにはじめて統治機構が問題になる。
イスラームは個人で回っていくようにできているので、
統治機構が必要な部分は本当に小さい。
ただし問題が起きた時に国境をつくらせない、分裂しないために一人のカリフが必要。

そもそも人間が人間を支配するのは不正なのです。
だから支配する人間はいないにこしたことはない。でもムスリムの意見が分かれたときには、
誰かが彼らをまとめて不満な者にも我慢させなければならない。
そういう人間は少なければ少ないほどいい。でも一人だけならいてもよいのではないか。一人のカリフというのはそういうことです。領域国民国家をつくらせないために法の一体性を守るためにあるのがカリフなんです。
だからカリフは法が一つであって、
ダール・アル=イスラームも一つであるということの象徴といえる。
そのために一人のカリフがいる。カリフもどきの支配者が大勢いてはまったく意味がない。
イスラームにかりふは世界に二人いてはいけない。
二代目カリフのウマルが伝える預言者ムハンマドのハディースに、二人のカリフが立ったら二人目は殺せとはっきり言われているので二人目はいてはいけない。
それをごまかして一つの国が一つのイスラーム世界であってその大統領あるいは国王がカリフであるようなそういう嘘を通してきたのが現状。
カリフがそういった余分な権力者を立てないためにいることを考えれば、まさに反対のもの。
カリフ制とはカリフ的な無数の人格が出て来るのを封じるための権力乱立の制御装置。
(唯一神のみに権力を認め、ほかは偶像だから権力を認めないのと似ている)
だからカリフは一人。
カリフに中心はない。
システム自体ができていますから,人間はどうだっていいといえばどうだっていいのです。イスラームは基本的に法のほうが重いわけですからカリフが何を言おうとそれがイスラーム法に反すると思えば誰も従わない。
初代カリフのアブー・バクルの言葉を思い出してください。

「私が正しければ私を助け、私が誤りを犯せば私を正して下さい」
「私がアッラーフとその使途に従う限り私に従いなさい。
もし私がアッラーフとその使途に背いたなら、あなたがたには私に従う義務はない」

独裁者ならなにがなんでも服従せよというはずなので、その意味では独裁制から最も遠いのがカリフ制。

国王だろうが大統領だろうが、自然法に反したことをしてはいけないと、
はっきり言えるのがイスラームのよいところ。
自然法の支配とは裏返せば人間による支配の否定。アナーキズム(無支配)。
西欧のアナーキズムは本質的にアナーキー(無秩序)なのでまとまらないのだが、
イスラームだけが世界中、どこでも人間による支配を受けずに生きていけるというそういうシステム。

中田は大学をやめたときに保険は脱退した。自分の健康について国家がお金を徴収して世話を焼くことがイスラーム的にどうもおかしいと感じたから。
寿命、生死の問題は最終的には神のご意思にゆだねるべきことのように思われるし、そもそも領域国民国家が運営する国民健康保険というものがなんともうさんくさく感じられた。
イスラームのシステムなら相互扶助のために領域国民国家を経由する必要はない。
世界中から国境を越えて救援の手が差し伸べられることになる。
カリフ制復興を唱える自分が領域国民国家のまやかしの福祉に加担するのはどうもしゃくにさわったので、保険から抜けた。今の病院は保険がなければ払えないほど高額なのでもう病院にも私はかからない。それで死ぬなら神の思し召しだと思っている。

イスラームの歴史では病院は篤信者の寄進(ワクフ)によって運営されてきた。

国家が介入すべきことではない。
中田は年金もやめた。任意で入るものは一切入らない。
自動車を買うときに入らされた自動車保険、会社の事務所を買うときに入らされた火災保険などは別。
(本当に一貫しているな)

ナショナリズムは偶像崇拝
イスラームでは不信仰よりも多神教の方が悪いこととされる。
多神教とは神でないものを神とすることであり、言い換えれば偶像崇拝。
イスラームから見るとイエスを神の子とするなんてとんでもない話。
仏教は不信仰に近いと思うが、それよりもナショナリズムのほうが罪が深いとイスラーム的には考えられる。
イスラームの定義では
神=崇拝されるもの。
主=命令を下す権力を有するもの。
命令を下せるものが主である。
主は神である。

国家も命令を下すものである限りそれはまさに神であるはずなのに、
実際の国家は人間が人間を支配する便宜のために作られた組織、フィクション、虚構の法人。
虚構の法人である国家は本来の神から見れば偶像神なのでイスラーム的には最大の悪。

だからナショナリズムあるいは、エタティズム(国家主義)は最悪の偶像崇拝だと私は思う。
国家を崇拝したり、帰依したりすることはイスラーム的には酒を飲むことなんかよりはるかに悪い。
人間が人間を支配するのはいけない。
国家も民族も人間が人間を支配するという不正を隠ぺいするヴェールにすぎない。
それをはっきり言える一神教はイスラームしかない。

イスラームしかないと言っているのが私しかいないことが困ったことだが、
本来イスラームの学者はみんなそう言うべき。

つまりナショナリズム活動する奴はムスリムではないな!
あれ、ナショナリズムってヤソ圏由来だよね?
ナショナリズムってイスラームを壊すのに便利だなー。
アッラー以外の存在を命令を下す主としてはいけない、
神格化禁止ってイスラームの根本なのにちゃんと守られていないのは西洋に戦争で負けたから


イスラームには教会も公会議も教皇もない。
ムハンマドの正統カリフ時代からそう。
モスクは礼拝所であり所属する人間はいないので教会ではない。
教会は建物のことではなく教区があってそこに集まる人間の組織が教会。
モスクはただの建物で礼拝するところでしかない。
モスクの中はキリスト教会の十字架(イエス像)、仏教寺院の仏像、神社の御神体にあたるものがない。
何もなくてただマッカの方角がわかるようにしてあるだけ。
ムスリムはマッカを拝んでいるかというと、マッカは現代のサウディアラビアにある都市にすぎないのでそれを拝んでいるのではない。
ムスリムが大勢で礼拝をするときみんながてんでんばらばらにやると収集がつかなくなるので、マッカの方を向いてやることになっているだけ。
これもクルアーンに明記されている。

イスラーム法の結婚は国家に届けるのがおかしい。婚姻届けを国家に出すのはイスラーム法に反するが今はそういうねじれが生じている。
(たしかに国家がお墨付きを与えるのはおかしいな)


今の人間はすべて国家に従っている。
戦争にしろ刑罰にしろ直接的に物理的な力を最終的に担うのは国家。
その力に従っている。
そうでないところではお金に従っている。
お金をくれる人に従う。
国家権力と金の力、これが現代の偶像神であり
、こうした偶像崇拝を打破して、本来のダール・アル=イスラームを回復する。そのためのカリフ制再興であり、それはひいては国家と企業の連合体が推進するグローバル化に対抗する、もうひとつのグローバルな連帯の形成にも役立つ、というのが私の主張です。

逃散=一斉引っ越しは圧政に対抗する有効な手段なのは日本史を学べばわかる)



誤解が生じるといけないので断言しておきますが、私の方から誰かを、戦闘員としてイスラーム国へ行くようにすすめたことは一度もありません。今回の大学生に限らず、私には大勢の教え子や若い友人たちがいますが、私からイスラーム国に行けとすすめられた人間は一人もいないはずです。また今後も、私から渡航をすすめることはないでしょう。

(ぐだトマト @pteras14
5月13日
中田考の集英社新書のイスラーム本
立ち読みで全部読んだ。
分かりやすいね。

カリフ制というか「人間の移動」と
「領民領土の偶像化」という概念が
理解出来ると、旧約聖書のアベルと
カインの逸話も分かり易いw

ヤハウェ君がアベルの方を選んだのは
そういう訳だったのねw

中田氏が件の新書で大高忍のマギと
ハルヒに触れている箇所があるんだけど、
マギは世界観がインド/ペルシャ型だって
言ってたよ。

あれだね。やっぱシムシティ大作戦が
正義みたいだね。クソ市長が統治した
場合、皆んなで集団引越し出来る制度。


つまり、欧米史上最大の天才はウイル・
ライトだったって事か。

イスラームの本読んでて感じるのは、
あの聖書って書物は西洋人の観念で
読んじゃダメだって事かな。

やっぱり中東人の感覚を持って読まない
とダメだな。

中田氏の「神」の定義が中々面白くて、
「神=人間の意志に対して何らかの
強制力を強いる物、命令を下す物」

で、現代の欧米型先進国は
「神=金、
国家、領土、企業」。

つまり、日本語の「法人」は本来
「法神」という綴りの方が正確。

「企業の偶像神化」w

こいつぁ良く考えたもんだぜ!
傑作だ!

個人的にノーベルぐだトマト文学賞を
授与したいぐらいw

そう考えるとFGO 6章のアルトリア
シティを中東のど真ん中に建てるの
って意味深だな。

アルトリア・シティには西欧文化の
邪悪が全て詰まってる。

聖槍ロンゴミニアドってただの大英
博物館だしな。人間が展示品な
だけで。

#FGO
#FateGO

しかし、中田氏が言う様に「人間の
移動を制限しない」事が中東文化だと
言うならば、ますます新約聖書の
「ヨハネの黙示録」の異質さが際立つ。

あれはハッキリとネオエルサレムに
入れる奴と壁の外で歯を食い縛ってる
人間とを明確に隔ててるからね。

一応、聖書学上、「ヨハネの黙示録」
の文体がアナトリア(現在のトルコ)式
のギリシャ語ってとこまでは割れてる
からなー

でも、あの領土をカッチリ決めて
仲間外れごっこをする文化って
西ヨーロッパ的だと思うんだけど。

ただ、イスラームの専門用語見てる
限りアレ絶対にバラモン教の影響
入ってる。

どーも、大洪水の時代かどうかは
分からないけど、現代のイラン?インド
の間でとてつもない邪悪が誕生した事
だけは分かる。

それが型月の教義上のアンリ・マンユって
奴なのか分からないけども。

このバラモン教ってかヴェーダ教
ってのは本当に曲者だ。

アイクも「巨悪はヒマラヤの山頂に座
している」って書いてたしな。

「ソロモン神殿」ってのは
ある特定の場所云々というより
「十戒の石版」が収められてる
「聖櫃」を置く所って性質が
重要なんだ。

「十戒」ってのは奴等の教義上
「神の法」であって人間の制定法
じゃあない。ココが重要なポイントよ?

だからFGOでも聖王ソロモンの
神殿は時空を超越した「外」に
あったでしょ?

時空を超越してるって事は、
「書き換えが無い」って意味。
つまり「立法権が無い」わけよ。
人にはね。神が制定した法なんだから。

だから人理修復なんて無意味だよ。



まずね。このユダヤ・カバラの
「生命の樹」、君達が興奮した
エヴァのOPにも出てたアレね。

此奴は神が世界を創造する時の
プロセスを図式化した物。
玉みたいなのを「セフィラ」と
呼ぶ。(複数形でセフィロト)

一番上のケテルって玉から稲妻上に
順番にマルクトって一番下の玉まで
神の力が作用して「奇跡」が顕現する。
マルクトってのはまぁ、君達人類の
言葉で言う「地球」みたいなもん
だと思ってOK!


ぐだトマト @pteras14
5月14日
で、こっからが君達の学研カッバーラ
に無い情報なんだけど、
そもそも「神が絶対善ならば、なぜ
この世に悪が存在するのか?」
って禅問答が起きる。

当然、この世に「悪は間違いなく実在
する」から「悪」も神が創ってなきゃ
おかしい。


そう!
つまり型月的に換言すれば、
BEASTはこの世界よりも先に存在
してた!

世界はね、決して「無」から創られた
わけじゃないんだよ。旧約聖書の
創世記みたいにね。

「悪」こそが根源的「実在」なんだよ!

ユダヤ・カバラ上ではッ!


「エドムの王」ってのはね、モーセや
ダビデ達がイスラエルを建国する前に
あの辺りを陣取ってた現地人の王様
達の総称なんだけど、カバラ上は
「根源悪」。で、セフィロトの玉と
同じ数あるの。

で、ヤハウェ君(神の事)が天地創造
するにあたりこの「エドムの王」達を
まず惨殺するとこからスタートする。
つまり「悪のセフィロト」の玉を
全部粉砕するんだ。

そして「天地」は悪の死骸の上に
初めて打ち建てられる。

だから「破壊」と「創造」は
常にワンセットなんだ。

この世界はね、フフッ、「悪」を
生贄に捧げる事によってのみしか
存在し得ない泡沫の夢……

イエスを磔にして「新約」を
神と結ぶ理屈、お分かりかな?

だから、君達カルデアのマスター
がいくらBEASTを狩り続けても
全ては「神」の計画の内さ!

君達はね、ゲーティアがやろうとしてた
事と同じ事をやってるだけなんだよ。
即ち、「天地創造」をやり直してる
だけなんだよ!

そう!「何かを犠牲にして」、
その等価交換としてしか存在しえない
この「世界」。
そんな邪悪なシステムに名を付けると
したならば……

そうだなぁ、「地獄」辺りが妥当
なんじゃないかな?

人理修復など所詮は「地獄職人」の
戯言のお遊戯さ!

FGOにガチャが永遠に存在する通り、
「地獄」も「地獄職人」が存在する
限り永遠なのさ!

「課金」か「破壊」かの違いでしか
ない。時々、星5が出てくるから
「創造」している様に錯覚してる
だけさ!


ねこた(なつやすみ)? @lakudagoya 5月13日
その他
返信先: @pteras14さん
とまーてさん、解説ありがとう御座います。 神の計画ってのもユダ公の発想でなくて。
約束を破ったユダ公を無視するわいじめるわ。
むしろイエスの言う優しくてニャンゲンを見守る神ってのはむしろストア学派の神に近いような気がして、マルキオンは空気読まない子だと思いますよ。

ぐだトマト @pteras14
5月14日
@lakudagoya だって元ネタのバラモン教の
神が「死」ですから……
「地獄職人」から産まれる物は
常に「地獄」ですよ。

ねこた(なつやすみ)? @lakudagoya 5月13日
その他
返信先: @pteras14さん
なるほどです。旧約聖書もストア学派のモロにバラモン教のパクリ要素がありますね。
地獄にしても、不条理も神の意志ってストア学派も行ってますし。 やはりアーリア系は避けて通れません。 バラモン教由来のものがある限りこの世は地獄思想が消えないわけで。

ぐだトマト @pteras14
5月14日
@lakudagoya あれはイエスが生き返るシーンこそに
救いがある物語と思ってて、ま、
さっきの通り結局は「生贄」システム
なんですけど、「君の善行は決して
無駄じゃないんだよ!」と諭す所に
優しさを感じるのでは?

でも、イスラームも最後の審判の
前に世界を打っ壊す!って言ってる
ので……

ぐだトマトさんはね、
何か大切なものを「生贄」に捧げなけれ
ば成立しないベルセルクみたいな
システムはね、結局「地獄」しか
生まれてこないと思ってるんだ。

やっぱりね、刃牙のガイアみたいに
自分を痛めつけないで綺麗なまま
強くなる方法を模索すべきだと
思うんだ。


ねこた(なつやすみ)? @lakudagoya 5月13日
その他
返信先: @pteras14さん
なるほどです。イエスの生贄ってパウロの影響で正教会はそう捉えないみたいなので。
確かに新約の神は優しいのですが、生贄システムを否定しないのがどーなのかなぁ? どこに新約の解釈の軸を置くかで代わりますけど、おいらはむしろ全体の構造を見ますね。

ねこた(なつやすみ)? @lakudagoya 5月13日
その他
おお!とまーてさん、中田考氏の本を読まれたのですね。 あれ、中東人のセンスを知るには良い本ですね。 その視点で見ると、なんかこう、新約聖書って違和感ありますよね? あのユダ公などのズルさと泥臭さを感じないのですよ。 アラブ的なセンスに欠けてるっていうか。

ぐだトマト?@pteras14 5月13日
その他
カリフ制が少し曲者ですね。あの制度って
型月達の大好きな「聖王ソロモン」と 「神殿」と同じシステムでしょう?
別名、「アーサー王」&「キャメロット」 システム。
中国の管仲の時代の「覇王」システム
にも似てる気が……

ねこた(なつやすみ)? @lakudagoya 5月13日
その他
こんばんわ、とまーてさんのレビュー面白かったです。 はい、そうですよ。
ビザンツの皇帝のようなシステムです。特にあの中田考氏のカリフ論はイマーム論に近いです。
ですので、魔法少女たちが中田考氏のカリフ論に靡くってのが不思議で、あれもアーリアなのかな?と思いますよ。
ちなみに、イスラーム哲学は印哲の影響強いです。あっらーさんの説明はブラフマンに似てました。
イスラームの時間論も印哲のそれです。
ですから、ユダヤ人がアーリアの影響強いようにまたイスラームもアーリアの影響強いかと
。)




こっから

まだまだ追加

参考資料

となりのイスラム 内藤正典先生インタビュー
http://www.mishimaga.com/special01/068.html
”内藤「あの人たちはイスラム教徒じゃない」というのは、私たちには決められないんです。イスラム教においてそれを決めるのは神であって、ふつうの信徒が「お前は良いイスラム教徒だ」「お前は悪いイスラム教徒だ」とは言えない構造になっている。

 なんでそう言えないのかというと、イスラムはカトリック教会におけるバチカンのような、教会制度を取ってないからなんです。ローマ教皇みたいな人もいない。つまりイスラム教には正教会も総本山もないし、最高位聖職者もいないんですよ。ただし、もし本当にカリフが登場すれば別ですが。カリフは、全イスラム教徒の長として、判断を下すこともできます。

―― なるほど。そうか、モスクは礼拝所であって、教会ではないですもんね。

内藤では何がイスラムにおける偉さの基準になるのかというと、ひとつはイスラムについての学識の有無です。イスラム教は内面の信仰だけでは成り立たない宗教で、外形的というか、イスラムという法の体系でありルールなんですね。

 こんなことを言うとイスラム教徒に怒られるかもしれませんが、イスラムの聖典であるコーラン(神がムハンマドに下した啓示を集成したもの)は、ルールブックである面がかなり大きいです。結婚するときにはこうしなさい、離婚するときにはこうしなさい、あれは食べてもいいけどこれは食べてはいけない、と言っているわけですから、人生で経験しうるあらゆるところに神がルールを示した、と見ることもできる。
 そうなると、そのルール(法)に関する法学が学識ということになります。法学はちゃんと勉強をして、知識がないとわからない。

「イスラム的に正しいか」ということをどう判断するかというと、まずは絶対的な法源であるコーランが典拠です。それにプラスして、預言者ムハンマドが生前に何を言ったか・何をしたかという言行(これをスンナと呼ぶ)がつぎの典拠になります。そのスンナを集めて、これは正しいだろうと言われているものを書物の形にまとめたものがハディースです。日本ではまだ少ししか翻訳が行われていないんですが、ハディースを見ると「預言者があるときこうした」「それを誰が伝えた」ということが膨大に書いてあります。それがまた別の伝承ではこうなっている、また別の伝承ではこうなっている......というのが延々と書いてあって、最終的に「どうもやっぱりそうらしい」ということになります。
 この二つに関しては、典拠があるので動かせません。預言者が良いと言ったものを、悪いとすることはできないですよね。

―― 預言者は神のお告げを伝えているわけですもんね。

内藤対してコーランにもハディースにも典拠がないとなると、過去に明らかにされている典拠を基にして、そこから論理的に引き出せるかどうかが肝となります。

 たとえば、ムハンマドが生きていた時代に飲まれていたお酒というのはワインだったろうと言われています。イスラムでは飲酒は禁止されていますが、ではワインではなくウイスキーは、日本酒は良いか悪いかと言ったとき、コーランに「日本酒はダメ」とは書いていない。だからそこで、「なぜ飲酒は悪いと言っているのか」と考えるわけなんですね。
 実はムハンマドは生きていたころに、どうもお酒を飲んでいたみたいです。それであるとき酔っ払って、コーランを朗唱しようとしたら読み間違えた。これはいかんという話になり、だんだん厳しくなっていくんですね。

となると、お酒を飲むと魂を惑わされて、理性も惑わされる。だからいけない
、という話になる。そうすると「なぜいけないのか」というロジックが立ちますよね。では日本酒なるものを飲んだ場合はどういうことがそこに起きるのか、と言うと、同じことが起きると。したがって日本酒も禁じられたものになる、というふうに、論理的に導きだします。けれどそれでも結論が出ないこともあって、そういう場合はあちこちに住んでいるイスラム法学者たちの見解を聞いて、そこで合意が成り立つかどうか、と持っていくようです。

 たとえば、よく例にあがるのはコーヒーですね。コーヒーはみんな中世の頃から飲んでいるし、しかもあの中東のあたりはコーヒーの原産地でもある。けれど、コーヒーも一種の精神作用があるとことがわかったんですね。だから「これはダメだ!」と言った人もいるし、「構わないだろう、酔っ払うわけじゃないし」と言った人もいた。コーヒーについての典拠がないから、完全に意見が分かれるんです。そうなったとき、コーヒーを飲んだからといって読み間違えるわけではないから、まぁいっか、という話になってくるんですね(笑)。そうして概ねコーヒーについては飲んでも構わない、となるのに、何世紀もかかっているらしいんですよ。

それとはまた逆のケースもあるわけです。たとえばタバコも、どちらにも典拠がないんですよ。ごく最近のことですが、イスラム圏で禁煙がけっこうブームになっています。そうすると宗教上はどうするのか、という話になり、イスラム学者がタバコは是か非かということを議論しはじめている。恐らくタバコは緩慢な自殺であると解釈して、非となるのではないかな、と思います。イスラムでは自殺は厳禁されているので、喫煙が緩慢な自殺に当たるというような合意形成ができると、ダメだという方向にだんだん傾いて行く可能性がある。

 つまりイスラムには、元の典拠になっているものに関しては極めて厳格な法の体系の部分があり、そこから論理的に演繹して結論が導けるかどうか、さらには学者先生たちで合意できるかどうか、という3段階があるんですね。合意が成り立たないと、全面的に是か非かという話が形成されない。ムスリムに言うと怒られちゃうんですが、そこにイスラムの遊びがあると思うんです。
 たとえば妊娠中絶は、宗派によって「いつまで中絶できるか」という考え方が違います。スンニ派の場合は主要な法学派が4つあるんですが、その中で見解が分かれている場合、自分の家の法学派がどれかわかっている人はそれに従って、そうじゃない人は従わない、となる。イスラム教徒全体を拘束できるかというと、必ずしもできないのです。

内藤日本の場合はイスラムに対するリテラシーが低いので、混乱が起きることも多いです。
 たとえば「イスラム国」と呼べるか呼べないか、というのも同じことです。日本政府はいま「ISIL(アイシル)」という呼称を取っていますが、ISILは「Islamic State in Iraq and the Levant」の略称です。この「Levant(レバント)」は、もとはフランス語の「ルヴァン」。18〜19世紀ごろ、フランスがあのあ地域を分割して支配しようと企んでいたときに使っていた地域の名称なんですね。
 私が必ずしもISILという呼称を良いと思わないのは、ISILとはどういう意味ですか? と聞かれたら「イラクとレバントのイスラム国」と言わなきゃいけないからです。けれど日本人はレバントを知らないですよね。レバントというのは東部地中海沿岸地域の名称なんですが、シリアもパレスチナもレバノンも入っちゃうし、ヨルダンも入っちゃう。今現在、イスラム国がいない地域まで入ってしまうんです。
 そうすると「ISILと言ってあげれば、イスラム教徒の人は落ち着くんじゃない?」というのは一種のごまかしでしかない。そういう口先だけの話で理解したつもりになるというのは、やっぱりダメなんじゃないかと思います。

「ISIS(アイシス)」だと「イラクとシリアのイスラム国」の意味なんですが、これは「イスラム国」の前身組織なんですね。「イスラム国」にするって彼らが自分たちで変えてしまった。
 もう一つ、ちょっと知っている人だと「ダーイシュ(DAISH)」という言い方をする人もいます。けれどアラブ人曰く、ダーイシュってアラビア語の語感として、なんか悪い感じがするらしいです。元の単語があるわけではないらしいんですが、音がなんだかおバカな感じがする、とイスラム国は嫌っているんです。「イスラム国」の人間に「ダーイシュ」と言うと殺される、というくらい。

今敵対している側のアラブ圏の国は「ダーイシュ」と言っています。それで日本のジャーナリストでもそういうふうに言っている人がいるんですが、気をつけて使わなきゃいけない言葉です。
 ダーイシュはアラビア語のアクロニム(頭字語に別の読み方を与えたもの。AIDS=エイズなど)なので、元の意味は「al-Dawla al-Islamiya fi Iraq wa al-Sham」なんですよ。イラクとシャームのイスラム国という意味ですが、シャームってどこのことを言うのか、これもまた日本人は知らないですよね。

シャームというのはアラビア語です。ダマスカス(シリアの首都)を指していることもあるし、シリア全体を指すこともある。たとえばトルコ語で「シャーム」と言った場合には、シリア全体を指してしまうんですね。元々はシャームというと、東部地中海沿岸地域一帯のことを指しています。そこのイスラム国、という意味なので、実はレバントと同じことになります。イスラム国側がこのダーイシュという言い方を嫌っているので、たとえばフランス政府のようにイスラム国に反対する人たちは「ダーイシュと言おう」と言っています。けれど日本人のジャーナリストが現地に取材に行って「ダーイシュ」と言っていたら、相手がもし敵方の人だったら売られてしまいます。ダーイシュというだけで、敵だとわかってしまうから。
 その辺のリテラシーというのをきちんと押さえた上で使うのならいいんですが、単に「イスラム教徒の人がかわいそうだからISILにしとこう」では、結局イスラムに対する理解は深まらないと思うんですね。

昔は貧乏人の子だくさんと言っていましたが、その状況もたしかにあります。ただそれで増えるという説明では説得力がないので、ほかの面をお話します。まず一つは、イスラムの人々は、子どもを持つということは絶対的に良いことだと思っているからなんですよ。

―― なるほど......。それは、ヨーロッパとはだいぶ違いますね。

内藤ええ、まったく違います。絆がどうとかではなくて、家族というのがどういうものか、家族になるということに対して、彼らはかなりの重みをもっています。子どもができるということに相当な重みがあるんです。
 日本だと、結婚をしても子どもができないご夫婦に対して、ひどくつらい思いをさせるという嫌な文化がありますよね。ところが不思議なことに、イスラム教徒にはそれが無い。まともなイスラム教徒の場合、子どもができるかどうかは神が決めることであって、できるできないでもって「お前のせいだ」と言うことは、神が決めることに人間が介入することになります。だからそれは許されない、と思っているんでしょうね。子づくりという言い方もしないです。

―― なるほど。

内藤さらにここが面白いんですけれども、性行為そのものは快楽のためである、とちゃんとハディースにも書いてあります。結果としてお子さんが生まれるのは望ましいのですが、夫婦間の性行為(イスラムの場合婚姻外は姦通になり厳罰)に関しては快楽の追求であってかまわない。善行なのだそうです。
 だからその結果として、子どもが生まれる、生まれないは、神の手にあるんです。それができなかったからどう、と言ったり非難したりすることは、ひどく不道徳なことだと感覚的に捉えているんでしょうね。そういう考えのもとだと、子どもも生まれてくるでしょう。

―― そうですね。そういう考えのもとだったら、放っておいても子どもを生むひとが増えると思います。


内藤根本的なものの考え方や原理が、私たちとは違っているんです。子どもはたくさんいるほうが可愛いから、ということではないんですね。しかもある程度保守的な人になると、結婚する前に男女で付き合うことも避けます。我々の社会だと、以前は禁止されていたものを認めるようになるということが一種の進歩である、ととらえがちです。けれど、その感覚が彼らにはないんですね。つまり、世の中が変わるにつれて何らかのルールや規範が変わる、という考え方自体がない。規範は1400年前のところで止まっているんですよ。
 家族はお子さんが誕生すればすごく喜ぶし、お子さんを溺愛します。それが必ずしも良いとは思いませんけれどね。私も20年ほど前に、まだ一歳くらいだった私の子どもを連れてトルコに行ったのですが、みんなものすごく優しいんです。


―― ほお〜。

内藤独身だと半人前扱い。結婚してようやく0.75人前くらい。子どもがいると一人前の扱いになるということが、実際に子連れで行ってみてよくわかりました。そして、とにかく周りの人がみんな子どもを見ていてくれるんです。
 たとえばベビーカーを押してレストランに行くとします。日本の場合、高級レストランになると「12歳以下お断り」とか書いてあるところもありますが、そんなことをしたらトルコでは「人間じゃない」と言われます。むしろそういうときは、奥の席にいる人が立って退いてくれるんですね。「奥の席にいらっしゃい」と言って。なぜかと聞いたら、「入口の席だと、風が吹いて赤ちゃんが風邪をひいたらいけないじゃないか」と。そういう社会だと、やっぱり出生率は減らないですよ。

―― なるほど。すばらしいですね。

内藤その価値観というのは、日本のように規律で決めてどうこうというのではなく、おそらく信仰の中から出てくるものだと思うんですね。
 けれどイスラムの場合、子どもが小さい間、お母さんは家にいるべきだ、という考え方は強いです。母親じゃなければできないことがあると確信している。そこだけを見ると、女性を家の中に閉じ込めておくのか、という批判は可能です。しかし、家の中で一番偉いのは間違いなくそのお母さんなんです。父親のほうは、哀れにも外へ行って飯の種を稼いで来なくてはならない存在、ということになっている。

 一家の中心は子どもを育てる母親であって、父親はその命令によって外で食い扶持を稼いで来なくちゃならないんです。だから父親が外に出て好き勝手なことをしているととるか、父親は可哀そうにも外へ行って現金を稼いでくるととるか......それは宗教的な価値観からくるものなので、これを否定しても実はあまり意味がないですね。もっとも、それでいて一家の長は男性だとする家父長的な価値観も根強いです。母親のほうが強いから、家族についての決定権は父親に与えるのかもしれません。


―― 面白いですね。日本人が学ばなければいけないところがたくさんある気がします。

内藤そう、その網の目のようになっている事柄の中に、学ぶべきことがたくさんあるんです。だからある断片だけを取り出して、イスラムは女性に対して抑圧的だと決めつけてしまったりしてはいけない。実際にそんなに抑圧的なんだったら、子どもは増えないと思いますよ。半分は女性なんだから、「イスラムなんていやだ」となるでしょう。


「あれをしたからこんなことに!」はイスラムにはない

内藤先ほど子どもができる・できないの話をしましたが、イスラムでは一般的に病気の場合も「病気になる」ではなく「病気にとらわれる」という言い方をします。つまり、悪いことしたからこうなった、という因果関係を言わないんです。原因と結果というのは、神の手にあることだから。因果関係というのは、とくに西洋が近代科学を発展させていくプロセスで重要でした。とにかく因果律で縛るわけです。トルコ人の医者でさえ「あれをしたからこうなった」とは言わないそうなんです。

 トルコには生活習慣病の人がごまんといるのですが、それでも言わないんですよ。最後の寿命、命というのは、神の手にあるんだということなんです。日本だと「貴方があれをしたからこうなったんですよ」と全部言われますよね。内科の医者へ行ってみると、「あれをしたらこうなります、最後は失明します、足の切断です」とか言われます。鬱陶しいじゃないですか、そんなことばかり言われたら。

―― (笑)。たしかに、自分は何にもできなくなるのでは、と変に不安になってしまったりもします。

内藤糖尿病外来なんかに行くと、全部因果関係で説明されますね。もう因果応報の世界ですよ。けれど面白いのが、トルコの医療はすべて西洋医学なので、何が原因で患者さんがそうなったかは医者もわかっている。わかっているけど、患者さんを前にして「貴方の過去がああだったからこうなったんですよ」と言うのは、ひどく不道徳な感じがして言えないらしい。ましてや患者さんが弱っているんだったら、そういうことを言って聞かせるというようなことはできないと。

―― おお、なるほど。

内藤もちろんちゃんとアドバイスはすると言っていたけれど、そこなんですよね。日本のほうが、おそらく医者の警告をきちんと聞く人は多いでしょう。どうも、トルコ人の場合ですが、生活習慣病については、あまり注意を守らない。お酒は飲まなくても、甘いものや脂っこいもの、大好きですからね。お菓子をたべながらおしゃべりするのは、イスラム圏の女性たちの最大の楽しみ。おいしい食事を家族と一緒に食べるのは、ほんとうにもう、あらゆるイスラム教徒の楽しみと言っていいでしょう。その楽しみを奪うというのは、なかなかできません。日本だと、節制しなければいけないという価値観が強くて、中高年の人たちはすごく真面目に健康管理をしますが、トルコあたりでは、それがなかなかできないんです。

 そのおかげか、トルコの心臓血管外科医は腕がいいそうです。なんせあまりに多くの患者さんが心筋梗塞になって運ばれてくるものだから、バイパス手術を田舎の病院でもすぐにやってくれるらしい。それでトルコは今や、医療ツーリズムの目的地になっています。ヨーロッパは医療費が高いからね。患者さんが多いから腕が発達した、という話なんですよね、今度は(笑)。

―― みんなバイパスの手術をしなければいけないから、いやでも技術が上がるわけですね(笑)。

内藤そうなると考えてしまいますよね。日本が、高度先進医療がどうでそのために備えなきゃいけないものが......と言って思い悩んでいるという、あの感覚はイスラム教徒にないんですよ。原因に対する結果という考え方を重んじていないから。それが良いんだとは私も思わないけれど、トルコ人が何を嫌がっているのかというのもわかるんです。とくに人の命に関することというのは、神が決めることであってね。



イスラムに学ぶべき知恵

内藤私はトルコに家を持っているんですが、はじめのトルコの家で隣だったご家族のお嬢さんは障害をお持ちでした。そしてそのお嬢さんが、よく我が家にふらっと来るんですね。一生懸命うちの子どもと遊ぼうとするんです。そのうち隣のお母さんが来て「この子こういう子だからすいませんね」と言って連れて帰っていく。そんな障害を持った子が来ると、日本の普通の感覚でいうと嫌がるでしょう。

 だけど逆に言うと、その子がいるために、周りがみんな手伝うんです。周りの人にしてみると、その子を助けることで善行を積むんですね。彼女も、隣家の我が家の子どもと遊んであげることで良い行いをしようとする。イスラムで善行を積むということは、来世で天国に近づくということです。だからそういう障害をお持ちの方がいることによって、自分が天国に近づくと考えているんですよね。
 その障害を持っている子どもがいる家族は、どうしてうちに障害を持った子が生まれてしまったんだろうなんてことは絶対に言わないし、考えもしない。こういう感覚には学ぶべき点があるように思いませんか?


―― はい、素敵です。

内藤 日本の場合、そこから延々と悩み続けてしまいます。テレビはテレビで家族の苦悩みたいな描き方をするしね。イスラムの場合、まったく発想が反転してしまうんです。
 それに気がついたのも、物乞いにお金をあげても何でありがとうと言わないか、を考えたからです(笑)。つまり、私のほうが物乞いよりお金持ちなわけですから、私が彼にお金をあげることによって善行を積み一歩天国に近づいたのであって、物乞いにしてみればありがとうと言う筋合いはないわけです。「俺がいてよかっただろ?」という。


 これからどんどん、多くの高齢者を抱えるようになっていく日本にとって、そういうのは必要な知恵じゃないかなと思うんですよね。高齢化が社会問題だと言う前に、まったく別の受け入れ方がありうるんだということを知らなければいけない。

―― 本当にそうだと思います。

内藤たとえば認知症になることも、そう神が定めたということになります。これは神の定めだということになったほうが、家族もあんまり悩んだりせずにすむし、気が楽ですよね。それはムスリムでなくても、なんとなくわかる感覚だと思います。

 私も去年の11月に母が亡くなり、その後父は急に認知症が悪化したんです。母は父の認知症に気がついていたらしいんですが、私は全然気づかなかったくらいでした。父は母が亡くなった後の、直近の記憶が今に至るまでほとんどないんですね。それで医者に連れて行くと、「かなり認知症が進んでいる」と。うんうんと聞いていると、医者が深刻な顔をして私に「こういうことを言うとご家族の方は、そんなはずはないっておっしゃるんだけど......」と言ったんです。それで、大丈夫、わかってるから、見ればわかるから、と(笑)。
 父は86歳まで健康に生きてきて、最後に母親を看取るところまで自分でやったわけで、そのショックもあっただろうし、それで嫌な記憶ごと消しちゃったのかもしれない。どうして認知症になったのかと考え、悩んでもあまり意味はないと思うんです。それより、これからの生活の質をどう維持するかを考えるほうが重要だと思います。

”東アフリカがコーヒーの原産地である。
十六世紀のジャジーリー『コーヒーの正当性のために』ではコーヒーの起源を紅海対岸の東アフリカーーつまりエチオピアと考えられる――としている。
しかし、イエメンのモカ(※)をコーヒー発祥の地とする起源伝説があるように、イスラム教とコーヒーの関係は深い。エチオピア対岸に港町モカがあることも重要だ。
はじめはコーヒーは嗜好品ではなかった。夜の礼拝などに、コーヒーを眠気覚ましとして利用したのである。カフェインの利用である。
何せ、コーヒー起源伝説はすべてイスラームの僧侶伝説であり、すべてスーフィーと呼ばれるイスラム神秘主義(スーフィズム ※※)の僧侶である。さらに限定すれば、アル・シャージリー(十二世紀末生まれ)によって開かれたシャージリーア教団のスーフィーである。この教団(教団成立はシャージリーの没後)では眠気覚ましとしてのコーヒーとの結びつきが強く、この教団から十三世紀ごろにコーヒーが流布し始めた。

アルジェリアではコーヒーをシャージリーエと呼ぶらしい。東アフリカ原産のコーヒーノキからコーヒーを作り普及したのはイスラム神秘主義の僧侶、スーフィーたちの関与が大であっただろう。
かくして、「黒いザムザムの水」(※※※)の勢力拡大は加速し始める。

※モカは、アラビア半島の南西の端にあり、紅海に面する港町(現在イエメン共和国にある)。
イエメン共和国の首都サナアの外港で、15世紀から17世紀にかけてコーヒー豆の積出港として栄えた。モカの港だけはイギリス、オランダ、フランスなどヨーロッパの船舶が直接寄港を許され、買い付けを許可されていた。17世紀にこの地を支配したオスマン帝国は紅海を通行する船舶にモカでの納税を義務付けたという。現在、コーヒー豆集散地の機能は無く、漁業と観光で成り立つ。

「メッカ事件(1511年。コーヒー取り締まり事件)の克服でコーヒーが更に広まる」
しかし、イスラム圏では当初はコーヒーが広まるには障壁があった。イスラム教では炭を食べてはいけないのであるが、コーヒー豆は炭に見え、コーヒーは墨色なので、戒律を犯すと考える者がいたのである。コーランにはもちろん、コーヒーに関する記載はない(預言者なのに未来のことを見越して書けないの?)。
しかもコーヒーを「カフワ」(恐らく珈琲:coffeeの語源)と呼ばれたが、コーヒーが普及していない頃は軽い白ワイン(イスラム教徒は酒を飲んではいけない)という意味が主流であった。イエスキリストの血液や白人のための一神教を想起させたのである。
いくらコーヒーを広めているスーフィズムがイスラーム哲学や文学に貢献しようとも、イスラム神秘主義者は少数派である。ワイン禁制のイスラム世界では、カフワと聞けば飲んではいけないワインを想起する人が多かったはずである。
十五世紀末、アラビア・フェリックスに出現したコーヒーは瞬く間に広まっていき、十六世紀初頭にはメッカ、メディナの二聖都や、エジプトのカイロのモスクで、コーヒーを飲みながら礼拝を行うスーフィーが見られた。
しかし
コーヒーの飲み方には、アッラーを蔑(なみ)するものだとみなされることがあった。
アラビアには熱い料理に息を吹きかけて食べてはいけないという作法がある。
それは大食漢の印であり、息には生命の息吹が宿っており無闇に吐き出すべきではないからである。
塵芥でできた黒人のアダムは、GODがその鼻に生命の息を吹き込むことで生きた者となった。
従って、客人には湯気の立つ熱い食事を出したりはしない。
湯気や煙はそもそも悪魔の宿る場所である。アラビアンナイトで煙に続いて登場するのは大抵は悪魔である。

じゃあアニメとかで魔法のランプで出て来る魔人(イフリート=イスラム教における堕天使)は悪魔なのね。
ランプの魔人=イフリート=イスラム教での悪魔(堕天使)だから、「敵にとっての悪魔はこちらの味方(かも)」論理で、クリスチャンやイスラムに弾圧された古代宗教はイフリートを優遇してもおかしくない。
『マギ』(表向きイスラムで中身イランってまんまシーア派)で出て来る青い巨大な方々はイスラム圏では悪魔なのかー(※)。
マギってイスラム圏モデルのくせに髭を生やしたイスラム教徒っぽい人が全然出てこない。
イスラム圏の悪魔=イフリートっぽい(青い肌)方々が主人公達の味方だし。
ちなみに、マギでのアモンの全身魔装のイメージモチーフは大日如来像(真言宗)です。使用者の名前がアリババなのに髪の毛が黄色(笑)。主人公のアラジンは青(笑)。
キリスト教の「アーメン」=アモンってことはマギは反イスラムかつイスラムが弾圧したペルシャ(インド-イラン)の秘境を崇めてメーソンを宣伝(マグノシュタットのマークは一つ目)漫画・アニメなんだね!

また、三人の天使を迎えた時のイブラヒム(アブラハム)のように、食事は迅速に、かつ音を立てずに済まさないといけない。
息を吹きかけて冷まし、音を立てて啜り、しかも炭らしきものを飲んでいるのだから、反発するムスリムがいて当然である。
メッカ事件が1511年に起こり、コーヒー弾圧が始まるが、長くは続かなかった。お上から、反イスラム教を伴っている場合のみ取り締まるべきだという結論を出されたからだ。
結局、
コーヒー禁止の議論に終止符が打たれたのはようやく十七世紀に入って、アハメッド1世の下で宗教的権威たちが、コーヒー豆は炭と呼ばねばならぬほど強度に焼かれていない、という統一見解をまとめ上げることによってであった。

かくして、
イスラム圏はコーヒーのメッカになった。メッカは全イスラーム世界の中心である。一生に一度はメッカ巡礼を行うイスラーム教徒たちは、カーバ神殿の黒石に接吻し、ザム・ザムの聖水を飲み、そしてもう一つの「黒いザム・ザムの聖水」を飲む。イスラーム世界。それはオスマン(トルコ)帝国がスレイマン大帝の治世(1520 - 66)を迎えてますます強大化し、膨張の一途を辿っている。十六世紀は世界史的に「オスマン帝国(トルコ)の世紀」であった。ちなみに、十三世紀はモンゴルの時代(1258年のモンゴル軍によるアッバース朝の滅亡など)であった。

「十六世紀に史上初のコーヒーハウス誕生→十七世紀にヨーロッパに普及」
エジプトのカイロで、イエメンのスーフィーたちのコーヒーを飲む姿が見られたのは十六世紀の初頭であった。十六世紀は「オスマン(トルコ)の世紀」、(オスマン)トルコは当然コーヒーの流布に大きな影響を与える。
オスマン・トルコ帝国の首都イスタンブールには1554年、ハクムとシャムスというシリア人によって二軒の「コーヒーの家(トルコ語 カーヴェハーネ kahvehane)」が建てられた。その数はたちまち増え、スレイマン二世の治世下(1566 - 74)のイスタンブールにはすでに600余りの「コーヒーの家」があった。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
コーヒーの歴史。
臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る――近代市民社会の黒い血液』(中公新書 1992年)の要約に、メーソンや百科事典の歴史を絡めるとコーヒーハウスは隠れメーソンロッジだとわかる。
キリスト教のアーメンは白人主義の象徴なので『マギ』は反イスラム+親キリスト+メーソンとイランの秘教崇拝 。ヤク中特攻隊。振武寮。高級茶はカフェイン=快楽物質が多い。※香辛料は奴隷と変換して下さい



1957 井筒俊彦 『コーラン』岩波書店
2014 中田考,中田香織,下村佳州紀,黎明イスラーム学術・文化振興会『日亜対訳 クルアーン――「付」訳解と正統十読誦注解

English translations of the Quran
https://en.wikipedia.org/wiki/English_translations_of_the_Quran

イスラーム神学(思弁神学)を概観できるような著作自体が限られてきたという現状がある。単著としては、井筒俊彦『イスラーム思想史--神学・神秘主義・哲学』、奥田敦(訳著)『フサイニー師「イスラーム神学50の教理」--タウヒード学入門』、訳書としてはW.M.ワット(福島保夫訳)『イスラムの神学と哲学』、ガザーリー(中村廣治郎訳注)『中庸の神学--中世イスラームの神学・哲学・神秘主義』「イスマーイール派 神話と哲学







ハーフィズ著『ハーフィズ詩集』(東洋文庫 299)(黒柳恒男訳) 東京, 平凡社 , 1976.12
ハーフィズ占い

” ハーフェズの詩が様々な意味に取れることから、イランではハーフェズの詩を占いに使うことも行われています。「ハーフェズ占い」として知られるそれは、自分が占いたいことを心の中で念じながら、「シーラーズのハーフェズよ、あなたはあらゆる秘密を解く人。占いに正しい答えを与えよ」と三度唱え、ハーフェズの詩集をぱっと開き、あるいはページに針を刺し、そこに書かれた詩の内容によって自分の運勢を占います。”
http://sarasaya.exblog.jp/3611892/







平野貴大氏が翻訳なされた、ムハンマド・クライニー著シーア派ハディース集『キターブ・アル・カーフィー(十全の書)』は、いつ発売されるのかな。かれこれ2年は経過してるような……意欲的な出版社が無いとか。 英語でさえ全訳されてないらしいこの書が和訳されたことは、重大なのに。




シーア派の自画像
歴史・思想・教義
モハンマド = ホセイン・タバータバーイー 著
森本 一夫 訳
本書はシーア派の第一級の宗教学者によって執筆されたものであり、「シーア派によるシーア派入門」ともいえるもの。イランでは神学校教科書として読まれている。ただし、訳者による丁寧な解説により、日本の読者にはより客観的な理解が得られるようにした。
▼著者タバータバーイーは、フランスのコルバンや日本の井筒俊彦など、非ムスリムの研究者とも交流をもつなど国際的に活躍した聖職者。本書は英語、フランス語、ドイツ語をはじめとする各国語に翻訳されるなど、国際的な評価がきわめて高い。(原著は1975年刊。)






















くまきち? @kuma_kichi_1Q63 2010年9月12日

「アーイシャが「聖戦は最も功徳の多い行いだと思われますが、私達もそれに参加できるでしょうか」と尋ねたとき、神の使徒は「いや、できない。しかし敬虔な気持で行う巡礼は最も功徳のある聖戦なのだ」と答えた。」(『ハディース〈3〉イスラーム伝承集成』中公文庫p.98)


スレイマン @sulaymanhakiym 2015年1月28日
中央公論社(現中央公論新社)から出ている『ハディース‐イスラーム伝承集成』は牧野信也訳『サヒーフ・ブハーリー』です。もう一つのサヒーフである『日訳サヒーフ・ムスリム』は磯崎定基・飯森嘉助・小笠原良治共訳で日本ムスリム協会から発行されました。

『ハディース――イスラーム伝承集成』(中央公論社 全3巻、1994年/中公文庫 全6巻、2001年)







お読みくださり感謝!カワユイ(^◇^)
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