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2019-01-21

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・紅葉といえば、ちょっと色めいていて、
 たいがいは楓の赤く染まっている様子だとか、
 銀杏の黄色なんかを想像してしまう。
 しかし、それは例外のような褒められる紅葉であって、
 ほとんどの木々の葉が落ちるときには、
 お世辞も言いにくいような水気のない茶色になる。
 あんまり鑑賞するようなものでないから、
 人の目に、それはよく見えてない。
 これをうれしくもない気分でよく見ているのは、
 おそらく箒や熊手を持って掃除をしている人だけだ。
 雨のあと、下水に流れて行く茶色い落ち葉も、
 人の靴で踏まれて塵になっていく黄土色の枯れ葉も、
 奇跡とか、なにかの間違いがあったとしても、
 けっして瑞瑞しい緑の色にもどることはない。
 それを、たった一行で、言い直そう。
 茶色い枯れ葉は、緑にはもどらない。

 言いにくいから、みんな言わないけれど、
 年をとるというのは、緑にはもどらないということだ。
 しわを伸ばしてみたり、運動をしたりして、
 枯れ葉であることを遅らせることはできるが、
 若い時分のじぶんには、もどりはしないのである。
 つまらないと言えそうな茶の色の人に、
 もう緑の人であったときに着ていた服は似合わない。
 いいものを身に着けましょうというのは、
 茶色になってしまった人のためのことばである。

 いや、もともとはずいぶんとつまらない話なのだ。
 結局、しないことになったままなのだけれど、
 白髪染めをしようかなと思うことが、たまにあるのだ。
 年相応に髪の黒さがなくなっていくのは、
 自然なことだからそのままでいいとも思うのだけれど、
 どこかに、ちょっと、緑の葉っぱのふりをしてみたい
 という気持ちが起き出してくることがあるのだ。
 そんなことを思いつくほどに、ぼくは潔くない人間だ。
 自身が、楓や銀杏の紅葉になれないと知っているから、
 緑に染めてやれと企画してしまうのだろう。
 そして、それもわざとらしいものになるだろうなと、
 潔いわけではないのに白髪をそのままにすることになる。
 いやぁ、ほんとうにつまらない話だったな、ごめんよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ありのままで」とは、まずはじまりの、勇気の歌である。


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