創価の背後の耶蘇かぶれ日本貴族一覧。前々回の補足。『非常民の民俗境界』『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』『蟲師』『遅刻の誕生』『チベット旅行記』『古事記』『日本書紀』偽書の作り方。
Posted on 2017.05.24 Wed 22:43:42 edit
(消えそうなのでこの記事の下にもある)
ken @kenkatap 2012年9月19日
大日本皇道立教会【wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9A%87%E9%81%93%E7%AB%8B%E6%95%99%E4%BC%9A …】
▼南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う趣旨の元、1911年に創立
▼大隈重信、一木喜徳郎、牧口常三郎、戸田城聖、数名の華族により構成
▼児玉誉士夫も加入
▼後に、大日本皇道立教会を母体として、創価教育学会が創立
――
本記事はいいからこれを読んでおくれ。
東京グールの主人公とヒロインがオチウした記念に今日完成。
隻眼の王(オーディン+フクロウ)
と右目隠し左目出しの月の女神トーカ(燈火)
がヒエロスガモスしたって意味ね。
※オチウはアイヌ語。意味は
ちゅーじゃないよ。
アイヌの最高神はフクロウ。アイヌが持ち上げられる理由。
―――
目次(序文は↑)
――前々回の記事と『うらたろう』について補足―――
――性道徳の変質と赤松民俗学本のメモ―――
――『蟲師』の紹介―――
――蟲師と昔の民俗の時間から労働ための時間へ―――
参考資料
ーーー
――前々回の記事と『うらたろう』について補足―――
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-172.html
金光と大本教が崇める鬼は岡山の温羅(うら)
=桃太郎の敵!
黒住と金光と天理教
=幕末三大新宗教
=和風キリスト教(グノーシス寄り異端派)
は全て世界連邦推進派!
『うらたろう』『ねじまきカギュー』『トラウマイスタ』
の続き。
黒住教の支持者が公卿らで、皇室の祖神とされた天照大神を最高神にしていた(意図的)ため、
明治政府(ヤマト朝廷=桃太郎側)の
天皇崇拝=〈大教宣布〉運動に積極的に協力したことなどが書いてある上記の記事を優先して読んでください。
この記事はおまけです。
金光教のシンボルが金なんで、「かね」って読んじゃうんだけど、
金光教が崇める温羅(うら)=鬼は百済の王子で製鉄民だから金属の金だよねーだとかも書いてある。
で、今の偽天皇は百済系だからこの鬼が政府側になったと思いきや、
政府=天皇一神教=国家神道側は桃太郎を教科書に採用!
金光教が非常に嫌がることをしている。
金光教の子供の大本教は政府に弾圧される。
桃太郎の鬼退治。
政府が創価を国営しているのも鬼側が嫌がる。
創価は一応外見は日蓮宗で中身耶蘇だから。
教義見て、ああこいつら仏嫌いなんだねってよくわかるものは耶蘇臭い。
教義の説明に、最高神と教祖(=現人神)の二柱しか神が登場しない教義と教祖の伝記。ゴッドとイエスですか?
身内を神人認定って要は列聖でしょ?
最高神以外の神はせいぜい天使でしょ?
実力差があり過ぎるからね。
一神教的多神教。
予想通り情報が少ないし目立たない奴のほうが地位が上だねってわかる記事でもあるし、ブラックリストを書いておいたのでぜひ。
『うらたろう』に戻る。
公式より。物語の主軸説明。
“時は戦国! 武士の始まり、二大勢力『平氏』と『源氏』激突!
源平合戦。『平氏』が『源氏』に逆転大勝利したパラレル鎌倉時代!
舞台は、現在より夜が暗く…妖魔蔓延る日本列島! 不治の病(?)に侵された少女は「不死」を求める旅に出る。出会ったのは…800年以上、生き過ぎて「死にたい」と願う不死身の男。「生きたい!」と願い「死にたい!」と願う。対照的で似た者同士。
そんな二人は生・逝きる為、供に旅立つ!!? 超鬼才・中山敦支が贈る「一生懸命生きて逝きたい」不死身と不治身のデス・ロードッ!”
http://www.re1life.net/entry/uratarou/
ヒロインのちよ姫は蝶々で平家。単行本2巻の表紙で左目の瞳がてふてふ。
作者の中山 敦支(なかやま あつし)は本名?
鹿児島県鹿児島市出身であり岡山出身ではないらしい。
ペンネームなら、中山はおそらく
真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
からだろう。
『うらたろう』読むと、
潜在意識が、「うらたろう=善、平家=善」寄りになるので注意して読んでね。
潜在意識はフィクションと現実の区別がつかないから物語で洗脳する。
この漫画でも鬼は基本的に悪で敵。
だからこそ、主人公うらたろうという鬼人の善が際立つ仕組み。
日本語を見ても鬼が仏に負けた側なのは明白。
鬼は絶対悪扱いはされていないが、鬼という言葉は悪逆非道の輩という意味でも使われる。
逆に仏では絶対に悪逆非道の輩という意味では使われない。
徳川幕府の「瓦解」(夏目漱石)を明治新政府の維新と言い換えるようなことはいつ時代も行われている。
うらたろうってサンカでしょ。
『うらたろう』も性道徳が現代的=耶蘇だった。
サンカの話と真に伝統的性な道徳については次章。
――性道徳の変質と赤松民俗学本のメモ―――
民俗学も当然勉強している。
真の日本の伝統を知りたいなら必須科目。
一番耶蘇に変質させられたのが性道徳だとわかればOK。
耶蘇の工作員ってエロが嫌いそうだよね!
性にこそ宗教の教義がもろに出るもんね!
ラノベの巫女って単なる和服着用シスターだもんね!
性の観念を見れば神道が超絶捏造歪曲されたとよくわかるよ。
フィクションの神道キャラは中身がシスターだから和風耶蘇。
巫女は処女って意味不明だ。神殿娼婦って知ってる?
旅芸人や遊女を兼ねていた歩き巫女って知ってる?
あなたも観音様から産まれた。『もののけ姫』の元ネタ②。
網野善彦『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』。宮本常一『忘れられた日本人』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-92.html
”・歌垣や市場や特別な芸能が行われる法会の場は、無縁の場所でありそこでは俗世の親子や夫婦の縁もきれて一人の女性と男性になるので自由な性交渉が行われた。
中世の参籠の場も無縁の場だった。お伽噺や説話の中によく寺社に参籠したら子どもを授かり、立派に育ったというものがあるが、これは寺社という無縁の場で性行為したから子どもを授かったのだろう。
(ある程度成長した巫女が処女ってありえないんじゃないかな。
Spica @Kelangdbn 2013年7月2日
日本ほど処女信仰の希薄な社会も珍しい。まあいわゆる「未開社会」に行けば似た例は幾らもあるんだろうけどやまと言葉に「処女」にあたる単語がないぐらい膜への意識が低い。マリアまで処女にしちゃったキリスト教圏は世界でも屈指の処女崇拝地域。
「おとめ」は未婚女性のことで処女ではないんですよね”
もぐらさんも性道徳の対立を利用して工作員を共食いさせる手法を提案。
村手 さとし @mkmogura 2014年5月31日
“@lanekota 反撃しません。真言立川流を盛り上げ、神道馬鹿とキリスト教を共食いさせるように仕掛けます
原理主義的な宗教は、貞操観念への締め付けはどれも厳しいからね。 天皇の正統宗教がセックスカルトだとしられたら、いろいろマズすぎるし、キリスト教原理主義と歩調以前に妥協点がみつからなくなるだろうなと、“
天皇への配慮も怠らないFGO
ぐだトマト @pteras14 5月10日
キアラってオデコにオリオンの 三ツ星だったんだね……
とまとさんへ
柳田民俗学よりも赤松民俗学のほうがタブー無視で面白い。
人工芝の手口を書く民俗学者は赤松ぐらいだろう。
柳田國男は創価学会の前身、創価教育学支援会のメンバー。
つまり、柳田は創価側だから天皇もヤクザも避けて当然。
赤松と真逆。
赤松ですらサンカについては「領域を犯すな、踏み込んじゃならねえ領域がある」。
たぶんサンカのお世話になったことがあるね。
赤松 啓介(あかまつ けいすけ)
は戦前非合法であった日本共産党に入党し、治安維持法で検挙され収監された経験あり。柳田國男らが性とやくざと天皇を話題にしない事への対抗意識から柳田民俗学が取り上げなかった差別、性風俗、ヤクザ、天皇といったタブーを中心に研究。
赤松啓介『非常民の民俗境界』
“ いま中世の浮浪民、非定住人たちの追及が行われているが、現代の浮浪民、非定住人の世界すらわからないのに、想像や推理では無理である。現代の浮浪民、非定住人の世界がわかって、逆算して行けばわかることもあるだろう。現代の浮浪民、非定住人は、われわれが想像する以上に多い。ただ、その本体はヤミにつつまれている。三角寛が三十余年で解明しようとしたサンカの世界ですら、まだ殆どわからない部分が多い。ヌスット宿ではないかと疑われていた、各地方の峠や山中の一軒家のルートも、いま正体不明のまま消失しようとしている。
(…)サンカも殆んど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう。ハシケを家とした水上生活者の一団、いま殆んど機帆船となり、九州から東京までの近海を泳いでいる。こうした人たちの正体を調べようなどと、バカな野心は起こさないのがよい。ウラの世界には、ウラのオキテがある。仲間になって生涯を埋めるのならよいが、よいところで足を洗ってあっといわせるような論文を書いて、博士、教授になる、などと夢を見るのはやめておくがよい。絶対に死体が上らない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある。地下活動の経験があれば、これから奥は通行禁止だとわかった。この禁を冒さない限り、われわれの友好は保たれる。それで十分であり、それ以上のことを知る必要はない。“
p.27-28 赤松啓介『非常民の民俗境界』
本書は1988年初版発行であることに注意。ネットなしでもわかっている人はわかっている。
・著者「私は坊主や牧師ほどのウソツキではないし、政治家や事業家ほどのカネ狂人ではない。年に一回しかテレビを見ない。紅白歌合戦とそれに続く往く年、来る年の寂滅為楽の鐘の声のみ」
・原発をやめろと騒ぐ奴はバカ。そんなことぐらいで止められるはずはなく、後ろに土建屋、企業会社、政治家が利益でつながっている。反対運動をやればやるほど値を釣り上げて金儲けが大きくなるのだから、おそらく反対運動のグループの中には回し者も多く、ここらが最高というところでピタリと終息、まじめに自弁で走り回っているアホどもはハジキ飛ばされてダウン。警察からは不逞の輩と目をつけられて、一生、ろくなことはあるまい。戦前は治安維持法、戦後はレッドパージで、一生人並の給料をもらったことがない私が証明してやる。
・農民運動の騒動が大きくなれば米も闘争資金も増えるとともに、主導権も地元から離れていわゆる闘士、扇動家の手へ移る。争議に勝っても負けても騒動を大きくするほど扇動家の手柄になるが、彼らにこき使われて第一線で働かせられ、ブタ箱、刑務所へ放り込まれた奴ほどあわれなものはあるまい。労働争議、部落解放運動も同じだが、初期の苦しい兵站を支えた女たちが気がついてみるとどこからきたのかわからん奴にうまいこと油揚げをさらわれて残ったのは借金と骨折り損のくたびれ儲けだけでは、二度とやる気にならんのもわかる。
(人工芝の効力はすさまじいな)
・戦後の民俗学の研究者どももわれわれのように地を這うような民俗採取はやらない。成績の上がりそうなところを狙う。貧乏人、渡世人、漂泊者など非定住民、被差別者たちの世界が欠落して当然。支配権力側の視覚からよりものが見えないから、公式文書と記録は信用して典拠にする。が私たち下から見上げる立場からすれば、あれほどインチキが多いものはない。
戦前、われわれは国家権力や政府を信用しなかったから、地獄の下まで自分で入って行って納得できるまで調べた。宮本常一も同じ型の人間だから私は疑いをもったりしない。
・柳田国男が意識して避けたのが
①民俗の階級制
②差別
③性
なのでこられを解明する方向へ調査を集中させた。
・いまの民俗学の傾向を見ていると、本格的な長期の基礎調査を計画する者はおらず、小手先の器用さだけで奇風珍習を発掘しようという傾向は多い。大学教授になりたいという立身出世願望がみえみえのも多い。わっとたかってひっぱりあいすればそれだけで行事、祭礼が変容するのがわからんのか、バカタレめと思う。そんな初歩的なことを踏みにじるようでは民俗調査の資質はない。できるだけ変容させないように刺激しないように長時間かけて記録するのが本筋。
・マスコミの取材に対してホラをふいたが、そのホラがそのままテレビに出た。ほんまことをしゃべらなならん義理があるか!
(現地の人が本当のことを教えるとは限らないのが重要)
・夜這いと結婚は別。夜這いは商業的売春ではなく、双方に選択の自由がある、性交を楽しむもの。
いったい日本の農村で一夫一婦的結婚様式が必要であったのか、まずそれが疑わしい。
(一夫一婦の結婚ってはっきりいってキリスト教でしょ。しかも夜這いは野蛮な悪魔儀式だそうで)
・人民戦線運動などで走り回っても、行商でも月三十円が精いっぱい。が、ニセ系図一本の相場はだいたい二十円から三十円らしい。しかも仲介者からもらう執筆料であり、仲介者がどれくらいふっかけているのかはわからぬ。
(世界一浸透したニセ系図って聖書でしょ。偽書や偽の碑文を作る業者がいる。偽書については後述)
・追儺、節分の行事は古代中国で道教と仏教が複合した形で成立し、日本へ伝来してから、神道とも複合したらしいもの。仏教伝来以前の古い神道は存在しなかった。原始信仰らしいものと仏教の融合で「神道」が成立したと思われる。神仏習合というが神々の屈服である。どこの寺院、神社の古文書を読んでも双方の喧嘩ならだいたい仏教側が勝っているし、ちょっとした神社なら神宮寺が併置され監視、管理されていた。奈良朝以降にしても千年近い年月であるからもはやどうしようもないほど仏教化してしまっている。
明治維新の神仏分離は仏教弾圧であり、祭政一致の古神道を復活させようとしたものだが、なにが古神道かわからずにヌエみたいな平田神学で料理しようとしたのだから失敗するのが当然。
神道の祭礼と仏教の行事という一刀両断できないものを無理に分けたからかえって根源をわからなくしてしまった。
明治維新からようやく1世紀にすぎない。それ以前の千年近い長期間は仏教支配下の混合祭礼であり、仏教が混交していない祭礼、行事は一つもない。その前提のない調査、研究など信用できるはずがないだろう。
・古美術商と組む偽刻(偽の碑文を彫る)の専門業者がいる。
・中世の西欧にも東洋にも初夜権があった。初夜の最初の花嫁と寝る者が、領主その他夫より目上の者である民俗をいう。ある民俗学者は最初の夜、花嫁と床を共にする者は神であったと説く。初夜の交接による流血は原始人たちは非常に怖れたのでそうした悪魔の祟りを避けることのできる者、換言すれば神に最初の夜を捧げしめたというのである。神とは神を祀るものであったわけだが三輪山伝説の大蛇といった人外婚ないし人獣婚といもいうべき話も頗る多い。これはトーテムを異にした氏族間の結婚を神話化して伝えたものだと考えてもよかろう。
初夜の晩に花嫁と共床することを恐れた習慣は世界的に広く見いだされる。やがて神が神を祀る者、神官や僧侶であることが明らかになるようになれば、族長や王侯が権利として初夜を領民から要求するようになる。かくして暴力的な初夜権が成立したわけだ。
近代封建社会の結婚に処女童貞の結婚があったか否か、頗る疑わしい。
・健康保険や社会保険がほとんどなかったころ、長患いしたり失業するとたちまち翌日から生活に困った。これが民間信仰型教団、教会を維持し、繁盛させる原因にもなったわけで、信者たちはたいてい無尽講を作り、だいたい月掛け一円から三円ぐらいまで期間は一年が多く、入札で落としたが、これで当座の生活はしのげたのである。
(書法用語bot @syohobot 2014年5月18日
石碑のいろいろ 原刻(げんこく)…初めて建てられた本物の碑
重刻(じゅうこく)…原刻が失われた後に再刻された碑
翻刻(ほんこく)…原碑が残っているのに再刻された碑
偽刻(ぎこく)…文献によって原碑の存在が知られているものの偽造、またはある人の書風だけが真似られた碑
偽物づくりの話。
基本はおねしょた兄貴のツイートをどうぞ。
情報の真偽判断にお使いください。少なくともイランのシーア派では史料批判の分野がある。
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi
何で古事記を偽典とバッサリ言うのかというと、基本伝承学・ハディース学の援用で
誰が・
どこで・
いつ・
どういった時に・
何があって・
どの様に・
何故その言葉で・
どのように伝えられて来て・
それを誰が言い伝え・
誰が証言しているのか・
編纂者は誰で・
どのような立場で・
いつの時代に編纂され
当時の現状で・
どういった理由でこの伝承が編纂されたのか
まで明白にわかっていないと伝承は使えません
なので古事記をこの視点から見るとお話にならない位に欠格事由しかなく、
これらの内の一つでもあやふやであるならば信頼できる伝承ではありません
それは完全なる預言者の言葉だからなのです
完全なる預言者の言葉は完全な言葉であるが故に如何なるものでも完璧な理由があって、言葉にされているのでそれが成立しているという前提から俯瞰します
神学・聖典の見分け方というのは希望や期待・権力者達の意志で歪めることは地獄を近くするので非常に慎重をきすものとなります
例えば、サヒィーヒ・ブハリーが残した共通伝承集もそうで彼自身が知っていた伝承は300000といわれ、そこから確信がある2700がそこにある訳ですが
この伝承集はアハレベイト派からの視点からはかなり恣意的な伝承集で信用に足りません
例えば、アイーシャの伝承は270程あるのに対し…
承前)預言者(ص )の愛娘であるファーテメ・ザハラーの伝承は一つしかありません
また、この世界で二番目か三番目にムスリムとなったアリー(ع)に関しては29、しかし二代目カリフであるウマルに関しては300ー400と残されていてかなり恣意性が高いものです
当然、背景もあります
この伝承集が編纂されたのかアハレベイト派の11番目の指導者であるハサン・アスカリー(ع)の時代で彼は常に悪政者に監視されていて自由が効かない立場でした
なので、推論としては基本的に二つが考えられ
一つは当時の権力者に阿った
二つ目はそういった状況であるのでワザと隠したです
魔法おっさん(30代無職童貞) @douteimaturi 2016年10月27日
で、えぐい事を言えば神話とかなんて偽書を作ってしまって組立ちまえばいいんです
例えば、当時の日本には文字があったなんて言いたいのであればホツマツタエみたいな粗製品ではなく、古代揚子江や長江で発掘されている文字にアルメニアあたりの文字を拾い上げて当時の音声表記すればいいのです
んで、紙とかも当時位に工業的に劣化させて地面に埋め埋めしたものに大切なのは時代時代によって解釈されたような解釈本をちゃんと用意すること 奈良後期、平安時代、鎌倉時代、室町等々ちゃんと歴史考証加えられているように捏造しなきゃいけません
この五つはセットでどれ一つも欠けても成り立たない
— 魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) (@douteimaturi) 2017年3月25日
まず、唯一性の問題
古事記などの神話を見ても、絶対一柱の存在は確認できないのでまずこっから全否定しなきゃいけないので古事記・日本書紀・続日本書記を使う事は無理
ホツマツタエ・竹内文書の類いも間の解釈本がない=偽典なので論外
原田 実 @gishigaku 5月24日
返信先: @alsnovaさん、@SagamiNoriakiさん
上代仮名遣いの解明で本文が平安期以降の偽作と考えにくいことは昭和初期には認められてましたが偽書説への決定的反証となったのは1979年の太安万侶墓碑発見でした。続紀の表記ではなく記序文の表記が同時代のものであることが判明したわけで
古事記何て典型的な偽典でしょ
— 魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) (@douteimaturi) 2017年5月22日
真典であるならば、平安以前から注釈本がある筈で聖書だって古いやつはグノーシス文献でしょ
多分、契沖辺りが平安貴族に頼まれて合作した偽書かその師匠あたりが書いたものだろうね
こういうのは考古学の領域ではなく聖書学の範疇なのだけど、わかってないねえ
――
よりによって唯一神道とお墓発見かよ!
発掘したら支配層に都合の良い物が、都合良く出てきちゃったって多いんだよね!
国家神道にとって記紀は絶対偽典であってはならないからね
上代仮名遣いの正しい用法を国学者がどれだけ知っていたか私は不勉強なのでそこには突っ込まない。
少なくとも明治期に記紀は改ざんされているだろうね。
本居宣長は一神教的多神教寄りの思想だから平田篤胤がとりついたんだろうね。
“本居宣長
「日本最高!
一神教的多神教最高!
天照最高!
桜最高!」
平田篤胤
「日本以外はクソ!
中国思想と仏教は嫌いだけどキリスト教はOK!
だって聖書のアダムとエヴァの話は日本原産だから!
漢字は嫌いだけど、ハングルをモデルに神代文字を捏造するのはOK!
日本の疑似伝統を叫ぶ朝鮮半島人脈の和風キリスト教徒のお手本ニダ!
国家神道=天皇一神教の原案は私の神学!」
…
クソはてめーだ平田篤胤!
国学をキリスト教の異端派の巣窟に変え、文字を捏造した似非学者め!
誰かこの二人の霊魂を憑依させて会話してくれないかなあ、
と思ったけど無理だろうから会話を予想。
本居宣長
「クリスチャン大喜びの思想だけど
俺は隠れキリシタンじゃねーよ!
おい平田篤胤、俺が死んだあとに勝手に弟子を名乗るんじゃねーよ!」
平田篤胤
「本居宣長先生の思想はキリスト教に改造しやすかったです!」
会話以下省略というか強制中断。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-84.html
本居宣長のキリスト教と親和性が高い思想を改悪した平田篤胤の神道=和風キリスト教。
神道=和風に偽装する隠れキリシタンが名乗る宗教。
神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではないので漢意の排除は不可能。
∵一般的な日本人が考えるカミ≒仏。
子安宣邦『本居宣長』の読書メモ。
神道カルトの皆さま、聖典がなくて困っているからといって、安易に偽書を捏造したら墓穴を掘りますよ!
ちゃんと、解釈書、注釈書、異本も作りましょう!
解釈書は公開しない聖典にもあるものなので必要。
口伝だといってごまかすと「じゃあなぜ文章にしたの?」って疑われますよ。
紙は和紙を劣化させること。
筆と墨で描くこと。
地面に埋めるなどすること。
注釈や解釈書だけでなく、勉強会も開かれたことも偽書以外の史料に明記。
浄土教の教典の「軟」を「愛」(仏教では執着なので悪い意味。耶蘇では良い意味)にすりかえたように、うまくやりましょう。学者をうまくひきこみましょう。
難しいなら、実在する勉強会がらみの曖昧な記述を見つけてこれはこの本〔偽書〕の勉強会だと主張しましょう。
当時の尊厳の流れに従って捏造しないとばれるので注意。
あ、それだと仏教を耶蘇教化できないからダメだね。偽典に耶蘇要素入れるのが目的だからね。
つまり既存の史料の焚書もセット。
民俗学を学んで当時の習俗にも合わせましょう。
あと文書はところどころ抜けや誤字も含むこと。
『枕草子』の写本は、書き間違い、書き落とし、一行脱落などのオンパレードなのを思い出しましょう。
一番うまく偽典を作ったのが耶蘇教作ったやつにとってのユダヤ教だろうね。
今のユダヤ教は相当耶蘇の改悪が混ざっているだろうね。
セプチュアギンタがわざとおかしな都合が良い母音で読んで実質内容改竄疑惑。
『古事記』は偽書である可能性が高いらしい。
『古事記』が疑われた理由からも学んで偽造しましょう。
『古事記』が読みたくなくなり、『日本書紀』を読みたくなることを列挙。
・『日本書紀』の現存最古の写本が平安時代の9世紀。
平安時代にはしばしば講義(日本紀講筵(にほんぎこうえん))が実施された。
(『日本書紀』は偽書ではないというのが今の私の見解)
・『古事記』の現存最古の写本が南北朝時代の14世紀。
・天皇の勅命で実施された『古事記』編纂作業だったにもかかわらず、奈良時代の正史『続日本紀』には一言も触れられていない。
・なぜ似たような内容の歴史書を同じ時代に2つも編纂する必要があったのか不明。
・『古事記』より遅れて成立した『日本書紀』では「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めているが、中国では、清の時代になるまで本文中に異説を併記した歴史書はない。
一方、『古事記』では異伝の中から正しいものを選び出して正史として確定させている。
(『日本書紀』は外部公開が前提ではなかった可能性。史料の側面が強かった可能性)
・『古事記』の神話では出雲神話が大きな割合を占めているが、『日本書紀』ではそのほとんどが割愛。
(『古事記』作成にかかわった人は処罰されるのでは?
朝廷が定めた正史『日本書紀』は一書に曰くスタイル。
『古事記』は一書に曰くスタイルではなく、
しかも『日本書紀』とくい違う内容あり=正史の否定。
同時期に作成するだろうか?
『古事記』が同人本である疑惑。反朝廷側が作ったなら納得できるんだけどなあ。
やっぱり良いアイデアは数日後に出るな。)
赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(ちくま学芸文庫 2004)
・農作業の労働唄に、極めて性的なものが多いのは知られている通りだ。ただ文字化されて報告されているのはお上品にお上品に加工された者であり、実際は更に濃厚である。過酷な労働作業をすると、戦争で死が近いときみたいに、性欲が高まるから、娯楽と休憩もかねていたのだろう。
・ムラの夜這いや性風俗は、非登録、無償を原則としたから、明治新政府はもうからなかった。強大な税収源を作るために、ムラのすみずみまで仲居、酌婦、芸子を普及させ、料理屋、風俗旅館、酌婦宿などの機構を通じて収奪を強行した。これらの営業税、遊興費と酒その他の飲酒の税収は巨額であり、国家財政、特に軍事費に流れたのは間違いあるまい。一夫一婦制だの、青年処女の純潔教育など、ただの飾りたてた嘘看板である。
・柳田國男の民俗学は性という重要事項を無視したもの。
・夜這いは戦前まで、一部では戦後しばらく間で一般的に行われていた現実であり、実に多種多様な営みであったが、このような重要な民俗資料を、日本の民俗学者のほとんどが無視し続けていた。日本民俗学の泰斗といわれ郷土研究や婚姻の話を著したりしている柳田國男は、著者の郷里から目と鼻の先の出身で、子どものころから夜這いが大っぴらに行われているのを見聞きしながら育ったはずだが、彼の後継者同様にその現実に触れようとしなかった。かつてはムラで普通だった性習俗を民俗資料として採集することを拒否しただけでなく、それらの性習俗を欧米列強が押し付けたキリスト教道徳で判断し淫風陋習であるとする側に協力したといえよう。古来の習俗を明らかにする民俗学で最重要なもののひとつである性について扱わない時点で似非だ。農政官僚の柳田は保身のために性を無視したのだ。柳田の方法は、全国からいろいろな材料を集め、自分に都合のよいように組み合わせるといったものである。夜這い一つとってみても、隣村同士でも多様なのに、あちこちの県のムラから広範囲に類似のネタを集めて一つのことを語ろうとする。著者に言わせれば、アホでもできることである。
著者が田舎に帰ったころ、柳田は山村調査をしているが、採集手帳を読むと、小作と地主といった、実在しない言葉を使っている。それでいて「常民」というコンセプトを持ちだしてくる。戦前までの政府が、労働者を資本家も含めて勤労者、地主も小作も日雇も含めて営農者と呼んだような不自然な造語でどうやって、「常」を語れるのかわからない。
婚姻の調査についても、彼らがわかっていないのは、明治から大正、昭和初期にかけて生きた女性の大半は、マチなら幕末、ムラなら村落共同体の思考、感覚でしか生きていなかったことである。教育勅語によってそれほど汚染されていないということだ。尋常小もろくに出ていない人間に家父長制だとか一夫一婦制だとか処女崇拝だとか思想に馴染まないのは当然で、夜這いに悪いイメージなんてものはなく、性の解放が当然だと考えているし、離婚も普通でありバツイチ、バツニ、バツサンでも別に悪いことだとされていない。女学校やキリスト教的な教育を受けた女たちとの落差を大きく、ムラでは中等教育以上を受けた女は、だいたい「スソナガ」「スソヒキ」と呼ばれて孤立していた。
著者の、夜這い最末期段階の経験によると、明治で教育を受けた女と、大正で教育を受けた女とではムラでもマチでも性感覚ではかなりの大差があった。教育勅語に汚染された=「新しい女」という言うのはとんだ勘違いで、こんな勘違いのままではムラでは孤立して当然である。
時代が古いほど村内婚が多く、双方とも生まれた時のころから分かっていたので、仲介人など必要ない。村内婚は明治以降むりやり入籍結婚にさせられてしまったが、これまでは夜這いの延長みたいなもので同棲したからとって別に性的に独占できたわけではない。
村外婚が普及し仲介人や仲介業者が一般に活動するようになったのは大正に入ってからのことで、三三九度の盃を上げてという小笠原式の婚姻が普及するようになったのはさらに後のことだ。こうしたことを柳田派の人たちは率直に記述しようとしない。
(単に欧米を真似て、欧米に「ほら進歩的=キリスト教的でしょう?」って主張するため。まあ生き残り戦略であり仕方なかった側面があったのだろうということは忘れないようにしよう)
・民俗学者というのはほとんどが世間知らずだから、ムラの公式的な答え(タテマエ=嘘)ですぐ安心してしまう。特に性風俗などはよほど信頼されないとほんとのことは言わない。仕事を手伝ったりいろいろ仲良くなってやっとわかるもんやねん。男女の機微に通じてへん奴にはようつとまらんて。
(著者は著作を読むに少なくともモテる方だったろうな。男色家に狙われたこともあったそうだし。だから性風俗については調べやすかった。民俗学者はもてないといけないのか)
・夜這いがあるところでは、避妊具が現代のように普及していたわけではないので自然、子どもが生まれることになる。結婚していても同棲している男との子どもかはわからないが、夜這いが自由なムラでは当たり前なので、深刻に考えたりしなかった。少なくとも母親は自分が産んだのだから自分の子どもだし、子どもはみんなで育てるものだ。
・郷里の播磨や、奉公先の大阪などで生活してみると、小学校の修身で教えられた純潔教育、一夫一婦制結婚生活などは全く虚構であることがわかった。修身はただの暗記物に過ぎないと思ってはいたが、実社会に出て見るとそのあまりにも甚だしい乖離に驚いた。盗みをするな、嘘をつくなは、まあわかるが、性生活や性風俗になると教えられたことの片鱗さえ残っていない。
遊郭での客の好みはさまざまだが、中には十二、三歳でまだ月経もないオチャコを水揚げしたいというものもいる。幼女を二、三日かけて破瓜にするそうである。ひどいのは苦しむのや出血の多いのを楽しむものもいて、玄人のババアですら呆れる。中には、出血が少ないから処女ではないと(初物好きは単なる好みであって、道徳ではない)ひと悶着あり、大変な世界であった。警察の監督も実にいい加減であった。十六を超えた女の初見世でもほんとの水揚げは女衒やオヤジがすませているのに、店では初見世の紙を張って四、五日かけて何人もの男に売るのである。
こんな暗黒の世界を見ると、ムラの夜這い民俗など極めて健全であり、かつ健康であるというほかはなかった。こんな闇世界を残しておいて解消もせずに、国民道徳だの純潔教育だのとあまり笑わせないでくれよ、と笑いながら涙が出るのであった。
夜這いは、性におおらかだと言われる江戸時代であっても、地方文書でマチやムラの夜遊び夜這いの禁止の圧力をかけたりしていて、享保ころから激しくなってくる。しかし何度も同じような禁制を出しているから余り効果はなかった。夜這いの必要とする原因を改めずに禁止だけを命令しても効果はない。特に儒教的な思想からの禁圧は殆ど効果がなかった。明治維新後の教育勅語による禁圧でもほとんど効果がなかった。文部省や役所のインチキ報告では是正だとか改善だとか廃絶だとかあっても嘘であった。とは言え、教育勅語的指弾ムードと戦争中の弾圧的な風潮、そして戦後のお澄まし顔民主主義の風潮の中で、しだいしだいに消えて行った。
(戦乱や飢饉などによる村の全滅を防ぐなど、性行為を奨励して人口を増やす。生殖能力の高い者の子孫を多く残すシステム)
・性教育といっても、難しい理論など教育しなくても実地教育をやればすぐわかる。性交をさせない性教育などかえって危険。性知識教育するくらいなら教えない方がまだよい。よけいな知識をつけるだけで成年式の二十まで性交禁止を理想とするなどどんな根性しているのかわからん。もう十一、十二歳になったら性交をやらせる教育をしないとほんまに子どもがかわいそうだ。性理論やら性知識だけ教える先生方は、理論や知識だけ教えて、実行を禁圧することの恐ろしさを知らないのか。いつ実行させるのか聞きたい。
(キリスト教の布教がしたいのですよ)
――『蟲師』の紹介―――
左目がない、右目出し、右目は緑、白髪、作中恐らく唯一の洋服でサンカ人脈で喫煙者。
主人公が蟲たばこという蟲よけを吸っている。
本来のタバコは薬草。
今の国産たばこはダメ。放射性物質汚染+添加物で最悪だ。
しかも周りに待ち散らすからな。
海外産の無添加タバコなら薬。
一番いいのは支配層が吸っているやつだが高すぎる。
主人公の見た目以外は耶蘇要素がみあたらない。
蟲師の主人公は右目が緑で隻眼。
白髪で隻眼で目が緑なのは蟲のせい。
アルビノ意識?
それだと目は赤くなるけど。
独りだけ洋服。
一話でもいいから見てほしい。一話完結型。
『蟲師』は原作もアニメも全話おすすめ。
一番オススメが『錆の鳴く聲』のアニメ版。声がつくからね。
『夜を撫でる手』は本ブログ読者なら印象に残りそう。
動画見ない方はこの素晴らしい画像を見ておくれ。
【蟲師 続章】第10話 感想 冬眠もできる蒸し師
http://anicobin.ldblog.jp/archives/39474536.html
目玉系の話が知りたい?
右手に目玉模様(甘い匂いで獲物を引き寄せ触れたものを殺す手)の話ならあるけど。
最後は右腕ごと失ってハッピーエンド。
『夜を撫でる手』【蟲師 続章】第4話 感想 まさかム○ゴロウさんも…
http://anicobin.ldblog.jp/archives/38487460.html
“『意のままに獲物を狩る手。血筋に同じ者はいないか?』
『掌に目玉のような痣があるだろう。そいつは腐酒という物に侵されてる印だ』
腐酒とは光酒の腐れてしまった物。蟲の成り損ないでもある
『果実酒の様な匂いがあるが毒がある』
『しかし極まれに毒に耐える体質の者がいる』
『動物の体内に入り血に紛れると命を得る。宿主もまた特殊な力を得る』
『甘い匂いを掌から出し、獲物を惹きつけ酔わせ容易く狩りをする』
『それは子々孫々まで伝わっていく』
『力を得なかった者は毒の為長くは生きられない』
『安心しろ、光酒を一定量飲めば腐酒は消滅する。調達してこよう』
『お前は山の王にでもなったつもりか?』
『お前も山の一部だろう。何で命を落とすかなど、誰にも知れんよ』
『動物、特に鳥類は目玉模様に恐れを抱く』
「闇の中では誰しも何かの影に怯える」
「闇に遊び、踊り戯れるは異形ばかり」
「もしも真に異形の王がいたなら」
「やはり、あんな風なのだろう」“
毎回毎回、最後の締めの文章が名文。
いっとくけど、蟲師には性描写はないからな!
『蟲師』や耶蘇かぶれでない民俗学者の本を読み聞きすると時間の流れが変わる。
概念は時間を変質させる。
数秒単位のずれしかない時間遵守は西洋の時計(神学の影響)とプロテスタント由来。
次で最終章。
――蟲師と昔の民俗の時間から労働ための時間へ―――
はhttp://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-200.htmlへ。
唐突なおわり。
参考資料は本文ではなく注釈のようなものなので別に読まなくていいです。
ねこた放送ってこんな感じでどんどん話が広がって行って面白いよね。そして唐突に終わる。
最近ですます調やめようと思っている。
日本語は丁寧にするほど長くなり書くのに時間がかかるから。
参考資料
創価の背後にいる日本貴族(耶蘇かぶれ)一覧
※見やすく調整済み
もぐらさんの記事あり
①陰謀論業界のパクリ疑惑
②労働教の元凶カルヴァンの過去記事の訂正
③『はじめてのラテン語』メモの加筆のお知らせ
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-125.html
より。読みやすく改変。
仏恥義理 @meets_tak 2015年1月3日
#SAGEGROUP 歴代まとめ
http://www.sagegroup.jp/japan.rekidai.htm …
土方 久元
・ (1833~1917)
・大日本皇道立教会初代会頭
・元宮内大臣
・臨時帝室編修局総裁 pic.twitter.com/U89uxDlh0i
千家 尊福
・ (1845~1917)
・大日本皇道立教会初代副会頭
・元司法大臣
・当家は天照大神第二の御子天穂日命の後裔で、代々出雲国造、尊福は同5年出雲大社大宮司となり、同17年7月授男爵。のち元老院議官、貴族院議員、文部省普通学務局長、埼玉・静岡・東京の各府県知事を歴任し、同41年司法大臣。
千家尊福作詞、一月一日https://youtu.be/iREdv7j03kc
四條 隆愛
・(1880~1938)
・大日本皇道立教会第二代会頭
・陸軍士官学校卒、同騎兵実施学校修。同36年陸軍騎兵少尉、のち同少佐に昇進。
この間、陸軍騎兵実施学校教官、同大学校馬術教官等歴任のほか、宮内省御用掛、歌御会始読師控、国家総動員審議会委員等。明治38年6月より昭和13年10月まで、貴族院議員在任。 昭和13年10月2日死去。
@meets_tak
三嶋 弥太郎
・(1867~1919)
・大日本皇道立教会第二代副会頭
・明治17年、22年米国留学。同21年北海道庁技師試捕となる。
日本銀行総裁のほか、日本大博覧会評議員、経済調査会委員等、横浜正金銀行頭取となる。明治30年7月より大正8年3月まで貴族院議員在任。大正8年3月7日死去。
@meets_tak
四條 隆徳
・(1907~1977)
・大日本皇道立教会第三代会頭
@meets_tak
続き
・昭和8年東京帝国大学農学部卒、同大学院修、同10年より同大学嘱託、同大学農学部講師獣医師試験委員等、昭和13年12月より同22年5月まで貴族院議員在任、昭和52年11月13日死去。
秋月 左都夫
・(1858~1945)
・大日本皇道立教会第三代副会頭
・明治17年7月、司法省法学校卒、法学士、司法省御用掛。明治24年外務省政務局勤務。三島通庸の長女園子と結婚。明治28年帝国大学にて国際法を講義。
続き
ベルギー公使、オーストラリア大使。宮内省御用掛、外務省調査部事務等を歴任。大正6年読
売新聞社社長。大正10年京城日報社社長。門下に創価教育学会創立者、牧口常三郎。創価学会創立者、戸田城聖氏がいます。 昭和20年6月25日死去。
@meets_tak
中山 忠英
・大日本皇道立教会初代会長
・天誅組首謀者・中山忠光の遺児。大正5年7月16日死去。
(※写真なし)
とりあえずここで考察を(#SAGEGROUP 歴代はまだ「あ行」からありますw)
まず日銀や横浜正金銀行の頭取をやった三嶋がいること。
そして三島通庸の長女と結婚し、読売新聞社長、創価の初代と二代目の師匠だった秋月がいること。
@meets_tak
三島彌太郎(正式にはこの字のようだ)の長男、三島通陽が1950年フリーメイソンに入会(日本ボーイスカウトの総長でもあった)。
このことは先日引用した青木冨貴子著「占領史追跡」に書かれている。
@meets_tak
青木冨貴子著「占領史追跡」より、昭和天皇とフリーメイソンに関する記述。以下引用。
『メーソンリー・イン・ジャパン』には翌年の「一九五一年の報告」のなかに、天皇の入会について次のように記されている。
@meets_tak
「エンペラー・ヒロヒトは、興味をもたれ、三三位階の同志マイケル・A・リビストに皇居へきて、フリーメーソンについて説明するようにもとめたが、残念なことに、同志リビストが評判を落としたため、招待を辞退した」
@meets_tak
これはなんとGHQ高官のウィリアム・シーボルトが書いたものである。
シーボルトはこの先、とくに講和条約の締結に至るまで、重要な働きをする外交官である。わたしは彼もまたフリーメーソンだったとは知らなかっただけに、この記述にはおどろいた。
そのシーボルトが、天皇の方からリビストを皇居に招いたが、リビストが辞退したと書いているのである。パケナムの日記とはまったく正反対ではないか。
@meets_tak
ちなみに、フリーメーソンであった占領軍高官のなかには、チャールズ・ウィロビー少将や第八軍司令官のロバート・アイケルバーガー、マッカーサーの後任として第二連合国軍最高司令官になるマシュー・リッジウェイ大将など多数が名前を連ねている。
(引用終わり)
@meets_tak
もう一度通読してみます。重要だと思うので。また引用しますよ。
@meets_tak
#SAGEGROUP 歴代あ行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.a.htm
@meets_tak
淺田 信興
・(1851~1927)
・陸軍々事参議官・男爵
・埼玉県出身。川越藩士坂口朗忠の三男で、川越藩士浅田順信の養子。養嗣子は浅田良逸陸軍
中将。娘は中島正武陸軍中将に嫁ぐ。日露戦争に従軍。
近衛師団長、明治39年7月6日に久留米第12師団長、明治43年8月26日に大阪第4師団長を経て、明治44年(1911年)に教育総監に就任(~1914年)。
@meets_tak
大正元年(1912年)に陸軍大将に昇る。最終官職は軍事参議官兼東京衛戍総督。大正10(1921年)に退役し、昭和2年(1927年)に77歳で死去。
@meets_tak
姉小路 良子
・権典侍・従五位
(写真なし)
姉崎 正治
・(1873~1949)
・京都府生まれの評論家・宗教学者(キリスト教・仏教)である。ペンネームは姉崎嘲風(あねざきちょうふう)。
1893年、東京帝国大学(現・東京大学)哲学科に入学。井上哲次郎、ヘーゲルについて学ぶ。
1896年、同大学同学科卒業。1900年にドイツ・イギリス・インドに留学し、1903年に帰国。1904年、同大学教授となる。1905年、同大学文科大学に宗教学講座を開設。日本の宗教学研究の発展の基礎を築いた。東京大学宗教学研究室には、彼の写真が今も飾られている。
また、1923年から1934年までは、同大学の図書館長を務め、関東大震災の被害に遭った図書館の復興に尽力した。1939年7月から1947年5月まで貴族院議員。学問研究の分野だけではなく、文人としても優れた才能を持ち、帝大在学中には高山樗牛らと『帝国文学』を創刊している。
安楽 兼道
・前警視総監
(写真なし)
伊沢 修二
・(1851~1917)
・日本の教育者である。明治から大正にかけて、近代音楽教育や、吃音矯正などを行う。妻は徳島藩士の森重氏の娘ちよで、子に1男4女。幼名は弥八。政治家の伊沢多喜男は弟、教育者の遠藤隆吉は娘婿である。
一木 喜徳郎
・(1867~1944)
・男爵・文部大臣
・日本の公法学者・内務官僚・政治家。現在の静岡県掛川市生まれ。岡田良一郎の二男。兄は岡田良平。大学予備門を経て、1887年に帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。
@meets_tak
同年、内務省に入省。1890年ドイツに留学し行政法を学ぶ。1894年帰国して帝国大学法科大学教授。1902年法制局長官、1914年第2次大隈内閣で文部大臣、翌年内務大臣。1925年宮内大臣、1934年枢密院議長。
枢密院議長在任中、天皇機関説の提唱者として弟子である美濃部達吉とともに非難される。一木との政治抗争にあった平沼騏一郎の政略であったとも云われている。
1936年の二・二六事件で内大臣斎藤実が殺害されると、後任が決定するまでの1日間のみ内大臣を務めている。旧制武蔵高等学校の初代校長、大日本報徳社社長も勤めた。
@meets_tak
一條 實孝
・(1880~1959)
・従二位・勲二等・功五級・公爵
@meets_tak
伊知地 幸介
・(1854~1917)
・男爵・陸軍中将薩摩藩士、伊地知直右衛門の長男として生まれる。御親兵(後の近衛兵)に抜擢され上京、薩摩閥の 1人であり、
@meets_tak
妻が大山巌元帥の姪という強力な後ろ盾もあり、1880年(明治13年)フランスに 4年後にはドイツへ留学し、その後日清戦争時には大本営参謀・参謀本部第1部長・駐英武官と陸軍内でのエリートコースを順調に進む。
@meets_tak
市村 さん次郎
・(1864~1947)
・歴史学者。國學院大學学長、東京帝国大学名誉教授。専門は東洋史。茨城県筑波郡北条町(現つくば市)出身。明治法律学校を経て、1887年に帝国大学古典漢書科卒業。
1888年に学習院傭教師、1890年に同助教授、1892年に同教授となり、1898年からは東京帝国大学文科大学助教授(学習院は兼任に転ずる)、1905年に教授に昇進。1924年に東京帝国大学を定年退職、翌1925年名誉教授となった後、國學院大學教授。
1926年から大東文化学院教授・1928年から立教大学教授を兼ね、1933年から1935年まで國學院大學学長をつとめた。わずか 1年余りでの学長辞任は、自身の言によれば学究生活への愛着が絶ちがたく旧道に立ち帰りたいためであったという。
1944年、國學院大學教授を退職。東洋史の研究で成果をあげ、1907年には文学博士の学位を授与され、1925年には帝国学士院会員となっている。
井上 哲次郎
・(1856~1944)
・哲学者である。通称「イノテツ」。井上円了が在野の哲学者だとすれば井上哲次郎は東京帝国大学というアカデミズムの牙城の哲学者である。
国家主義の立場から宗教に対する国家の優越を強力に主張し、中学教員であった内村鑑三が教育勅語への敬礼を拒否した不敬事件に際してはキリスト教を激しく非難する。またそれ以外にも体制側のイデオローグとして明治日本政府の道徳主義の思想界における切り込み隊長となった。
東京帝国大学教授。外山正一、矢田部良吉らと『新体詩抄』を刊行し世間に名を知られる。仏教からヒント得て現象即実在論を提唱。1924年10月から1925年11月まで貴族院勅撰議員を務め、引き続いて同院の初代帝国学士院会員議員に選出された。
犬養 毅
・(1855~1932)
・日本の政治家。立憲政友会第 6代総裁。第29代内閣総理大臣。通称は仙次郎。号は木堂。
勲一等旭日桐花大綬章。
大炊御門 幾麿
侯爵・貴族院議員・従三位・勲三等大炊御門家(おおいのみかどけ)は、清華家の家格を有する公家。家業は筆道・和歌・笛・装束。江戸時代の家禄は400石。家紋は菱に片喰草。藤原北家師実流。平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実(1068年-1131年)を祖として創立された。
大炊御門北、万里小路東に邸宅があったため大炊御門を称する。経実は権大納言どまりであったが、その子経宗(1119年-1189年)は平治の乱で当初藤原信頼・源義朝方に付きながら寝返って平清盛方の勝利に貢献。また、二条天皇の外舅として勢威をふるい、左大臣に昇って清華家の家格を確保した。
@meets_tak
経宗の子頼実(1155年-1225年)は二度に渡って太政大臣を務めている。明治維新後、幾麿(いくまろ)の代に侯爵を授けられた。
@meets_tak
大木 遠吉
・(1871~1926)
・日本の政治家。元貴族院議員。司法大臣(第24代)、鉄道大臣(第2代)を務めた。大木喬任の子である。
貴族院議員となり政界入り。原内閣で司法大臣に就任し初入閣。続く高橋内閣でも留した。その後、加藤友三
郎内閣で鉄道大臣として再入閣を果たした。1916年、日本工業大学顧問に就任。大東文化協会の設立に深く関与し、初代会頭に就任した。
大久保 利武
・(1865~1943)
・鳥取県・大分県・埼玉県・大阪府知事明治時代の官僚・貴族院議員。位階勲等爵位は正四位
勲一等侯爵。慶応元年に大久保利通と満寿子の三男として生まれる(幼名三熊)。
その後内務省に入省し、鳥取県・大分県・埼玉県・大阪府の知事を務めた。継嗣が居なかった兄・利和の養子となり、昭和 3年6月5日、利和の隠居に伴い家督を相続し、6月15日には侯爵を継承。妻は近藤廉平の長女・栄。長男に大久保利謙が居る。
大隈 重信
・(1838~1922)
・総理大臣
・日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現・早稲田大学)の創立者。幼名は八太郎。
大迫 尚敏
・(1844~1927)
・子爵・陸軍大将
・日本の武士・薩摩藩士、陸軍軍人。学習院長、第7師団長等を務める。位階勲等は陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。
薩摩藩士大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩 5番組として薩英戦争に従軍する。
@meets_tak
大迫 尚道
・(1854~1934)
・第四師団長・陸軍中将
・陸軍大将の大迫尚敏の弟。 1879(M12)砲兵少尉、参謀本部員をへて、89ドイツ留学し、ドイツ公使館付となる。
帰国後、野砲第 1連隊大隊長となり、日清戦争では第1軍参謀、日露戦争では第2軍参謀長として戦闘を指導した。その功によって、1906野砲兵監となり、第18,14師団長をへて15(T4)軍事参謀官となる。19後備役となり、24退役した。
(あ行は以上。しんどいw)
ということは光格天皇や天誅組の中山さんもみんなつながっているということか。
千家さんすごいわ。つながりがすごい。
http://kingendaikeizu.net/kazoku/senge.htm …
#千家尊福
#大日本皇道立教会
#SAGEGROUP
続き
http://kingendaikeizu.net/kazoku/senge.htm …
#千家尊福
#大日本皇道立教会
#SAGEGROUP
@meets_tak
#SAGEGROUP 歴代か行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.ka.htm
花山院 親家
・侯爵・従四位
・花山院家(かざんいんけ)は、藤原氏北家師実流の嫡流(花山院流)の家である。家格は清華家。
平安時代後期の藤原師実の次男家忠に始まり、家名は家忠が父師実から譲り受けた邸宅花山院にちなむ。家忠の孫忠雅が太政大臣、その子で後白河上皇の近臣である兼雅が左大臣に進み、清華家としての家格が確立された。
南北朝時代、嫡流は北朝に仕えたが、支流の花山院師信とその子師賢は後醍醐天皇の側近で、その子孫は南朝に仕えた。
この系統の末裔の女性が南北朝統一後に後小松天皇の宮中に入り、天皇の寵愛を受けて誕生したのが一休宗純であると言われている。江戸時代の家禄は、概ね 715石。家道は書道・笙であった。明治維新以後、忠遠のとき侯爵に列した。
花山院 家威
・従四位・元侯爵
@meets_tak
楫取 素彦
・(1829~1912)
・官僚、政治家。正二位勲一等男爵。通称は久米次郎または内蔵次郎。
小田村氏の養嗣となって伊之助と改め、 後に文助・素太郎と言い、慶応3年9月楫取素彦(かとりもとひこ)と改めた。諱は希哲、字は士毅、号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂等。吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹が楫取の妻であった。
亀井 貫一郎
・(1892-1987)
・住友商事(株)顧問
・東京帝国大学法学部卒。外務省に勤務し天津総領事代理などを歴任。
ついで国際情勢分析の専門員となり、世界各国を歴訪。その間、ニューヨーク労働学校、コロンビア大学、ハーバード大学、ミュンヘン大学、チューリッヒ大学において、歴史学、言語学、哲学、生理学等の研究に従事。昭和3年第1回普選に社会大衆党より立候補し、当選。
以来昭和17年まで代議士として活躍。戦後、財団法人産業経済研究協会理事長となる。
主な著作:「民主の苦悶」(前仏国首相 Joseph Caillaux 著『欧州の没落』の翻訳:改造社)、
「日本民族の形成史」(東洋経済新報社)、「転機に立つ世界と日本」上下巻(霞関書房)。その他政治、経済、社会等各方面にわたる論文多数あり。
上泉 徳彌
・(1858~1945)
・国風会々長・海軍中将
菊池 謙二郎
・(1867~1945)
・茨城県生まれ。輔仁学舎に学ぶ。1924年(大正13)衆議院議員選挙に無所属で当選。
北小路 随光
・(1832~1916)
・子爵・掌典長・正二位
@meets_tak
木村 鷹太郎
・(1870~1931)
・明治・大正期に活動した日本の歴史学者、哲学者、言語学者、思想家、翻訳家。独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる。愛媛県宇和島出身。
東京帝国大学史学科に入学、後に同学哲学科に転じて卒業。陸軍士官学校英語教授職等を務める。日本を世界文明の起源と位置づけ、かつて日本民族が世界を支配していたとする「新史学」を熱烈に唱えた。
他にも邪馬台国エジプト説や、仏教・キリスト教批判などの独創的な主張で知られる。異論に対して徹底的に反撃・論破する過激な言論人でもあり、論壇において「キムタカ」と通称されて恐れられ、忌避された。
黒板 勝美
・(1874~1946)
・日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。
@meets_tak
黒田 清綱
・子爵・御歌所々長
か行は以上。
@meets_tak
#SAGEGROUP 歴代さ行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.sa.htm
笹川 臨風
・(1870~1949)
・評論家、俳人。東京神田生まれ。本名は種郎(たねお)。帝国大学国史科卒。
赤門派の俳人で、1909年、文藝革新会の結成を提唱した。1924年、「東山時代の美術」で文学博士号取得。歴史書、美術批評、小説など幅広い著述活動を行った。
杉浦 重剛
・(1855~1924)
・明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家。幼名は謙次郎。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。
さ行は以上。
#SAGEGROUP 歴代た行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.ta.htm
高倉 永則
・(1864~1947)
・京都聯隊区司令官・子爵
高島 鞆之助
・(1844~1916)
・薩摩藩出身の陸軍軍人、政治家である。諱は昭光。官位は陸軍中将正二位勲一等子爵。陸軍大臣・拓殖務大臣・枢密顧問官等を歴任する。
また、現在の学校法人追手門学院の前身である、大阪偕行社学院の設立者でもある。第19師団長を務めた陸軍中将勲一等子爵高島友武は養嗣子。
@meets_tak
土屋 光春
・(1848~1920)
・男爵・陸軍大将
・明治時代~大正時代の陸軍軍人。官位は陸軍大将正三位勲一等功二級男爵。嘉永元年(1848年)に岡崎藩士渡利伝左衛門の四男として生まれる。
@meets_tak
のちに岡崎藩士土屋光時の嗣子となり、藩より選ばれ大阪陸軍兵学校に入り明治3年(1870年)陸軍少尉任官。その後、佐賀の乱、西南戦争を経て日清戦争には大本営参謀として従軍した。
第27旅団長、台湾守備混成第 1旅団長、近衛歩兵第 1旅団長を歴任し、明治35年(1902年)に陸軍中将に進む。日露戦争に際しては、乃木希典大将率いる第3軍の第11師団長として、旅順攻略戦に参加。
東鶏冠山に師団を率いて攻撃中にロシア軍銃撃により頭部に銃創を受け内地後送。治癒後、明治38年(1905年)に新設の第14師団長として再度満州に渡る。凱旋後、明治40年(1907年)9月に戦功により男爵となる。
明治41年12月21日に第4師団長となり、明治43年(1910年)8月に陸軍大将に進むと同時に予備役に編入。大正9年(1920年)11月17日に73歳で病没。
徳川 達孝
・(1865~1941)
・明治期から昭和にかけての宮中官僚・政治家。爵位は伯爵。田安家第 9代当主。父は田安徳川家第5・8代当主の徳川慶頼(四男)。兄に徳川宗家を継承した徳川家達がいる。幼名は群之助。
明治2(1869)年4月5日、嫡子となる。明治9年11月13日、父慶頼の死去により、家督を相続する。同年11月28日、元服する。明治17年7月7日、伯爵となる。明治22年、ヨーロッパ視察を行う。明治30年7月、貴族院議員となる。大正3(1914)年6月、退任する。
大正4(1915)年3月23日、皇后宮大夫に就任する。大正5年6月22日、退任する。大正11(1922)年3月22日、大正天皇の侍従長に就任する。昭和2(1927)年3月3日、退任する。その他、学習院評議員・日本弘道会長を務める。
十五銀行の倒産以来、経済的に逼迫し、三田の屋敷を売却し、実兄家達の邸宅の別棟に暮らすようになった。なお、家扶の不正も原因の一つであった。
昭和12年頃から徳川義親に家産の整理を相談し、債務の返済には成功したようである。その一環として、昭和13年4月、屏風などの家宝の売りたてを行っている。正二位勲一等。昭和16年(1941年)歿、77歳。
SAGEGROUP歴代の中に徳川家がいるとか(苦笑)
た行は以上。
#SAGEGROUP 歴代な行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.na.htm
長崎 省吾
・(1850~1927)
・前調度頭・正四位・勲三等
・鹿児島県士族の長崎作右衛門の六男として生れる。藩校造士館、昌平黌に学び、後米国に留学しミシガン大学を卒業。
在英日本公使館勤務を命ぜられ、外交官としてロンドンに約 6年在勤。帰国後、直ちに宮内省に入り、式部官、宮内書記官、宮内大臣秘書官、調度頭、閑院宮附別当、宮中顧問官を歴任。その他、日本赤十字社、東京慈恵会、東京女学館の各理事を務めた。
@meets_tak
難波 宗美
・蹴鞠家家元・男爵
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仏恥義理 @meets_tak 2015年1月4日
二条 基弘
・(1859~1928)
・侯爵・貴族院議員
・日本の華族。宮中顧問官、正二位勲二等公爵となる。九条尚忠の八男で、二条斉敬の養子となる。明治23年9月から大正9年1月まで貴族院議員を務める。二条正麿男爵は義弟。
@meets_tak #SAGEGROUP 歴代は行http://www.sagegroup.jp/rekidai.ha.htm
波多野 敬直
・(1850~1922)
・宮内大臣・男爵
・明治・大正期に活躍した旧小城藩出身の政治家。司法大臣・宮内大臣を歴任する。
正三位勲一等。男爵。丹波の戦国武将である波多野氏の末裔。肥前国小城郡牛津(現在の佐賀県小城市(旧牛津町))の小城藩士の長男として生まれた。小城町長や佐賀市長を努めた野口能毅は実弟。藩校興譲館に学び、その後、熊本の木下塾に学ぶ。
@meets_tak
服部 一三
・兵庫県知事・貴族院議員・従三位・勲一等
@meets_tak
福本 誠
・(1857~1921)
・日本のジャーナリスト、政治家、史論家。福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生れる。幼名は巴。藩校修猷館に学び、後に長崎において谷口仲秋に師事し、上京して岡千仭に師事して専ら漢籍を修めた。
1876年、司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、「賄い征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で中途退学。
1908年、第10回衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し、衆議院議員に当選。同年、「元禄快挙録」の連載を開始、現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立する。1916年、中央義士会設立・初代幹事長に就任。
穂積 八束
・(1860~1912)
・日本の法学者。愛媛県宇和島市出身。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。日本法律学校(現在の日本大学)の設立に参画。 民法起草者の一人である穂積陳重は兄。
@meets_tak
堀田 正享
・貴族院議員・子爵
#SAGEGROUP 歴代ま行http://www.sagegroup.jp/rekidai.ma.htm
牧野 伸顕
・(1861~1949)
・明治から戦中にかけての政治家。位階勲等は従一位勲一等伯爵。幼名は伸熊。
名はシンケンと通称されることもある。薩摩国鹿児島城下下加治屋町に薩摩藩士・大久保利通と妻・満寿子の二男として生れた。生後間もなく遠い親戚にあたる牧野吉之丞の養子となる。
@meets_tak
松平 頼寿
・(1874~1944)
・明治から昭和にかけての華族(伯爵)。旧高松藩主松平頼聰の8男。第6代貴族院議長を務める。
学習院高等科から大隈重信に傾倒し東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語法律科卒業後、1908年に貴族院議員に列して以来、一時中断(1911年-1914年)を挟んで30年以上にわたって議員を務めた。
会派は扶操会→甲寅倶楽部→研究会。また、教育者としても活躍し、本郷学園(本郷中学校・高等学校)を設立。文武両道のエリート教育を目指す。
本郷って副議長に就任し、4年後には議長の近衛文麿の内閣総理大臣就任に伴い、議長に昇格する。在任中に死去し勲一等旭日大綬章に叙せられ貴族院葬が行われた。
@meets_tak
松平 康国
・(1863~1945)
・漢学者。長崎出身。二松学舎、ミシガン大学等に学ぶ。
読売新聞記者を経て明治24年より東京専門学校講師、 史学、漢文を教える。
中国泰山金剛経石刻文字の拓本を図書館長の市島春城に贈り、市島はそれより「名著 大作」の四字を集め図書館に掲げた。
@meets_tak
三浦 梧楼
・(1847~1926)
・日本の武士、軍人、政治家。陸軍中将、子爵。号は観樹。山口県萩市に萩藩士の子として生まれる。
@meets_tak
明倫館で学んだ後、奇兵隊に入隊して第二次長州征伐や戊辰戦争に従軍する。維新後は西南戦争で第三旅団指揮官として従軍。西部監軍部長・陸軍士官学校長、また大山巌と共に欧州の兵制を視察した。
@meets_tak
目賀田 種太郎
・(1853~1926)
・政治家・弁護士・法学者・裁判官・官僚。元貴族院議員。専修大学の創始者の一人である。
男爵。ハーバード法律学校(ハーバード大学)卒業。貴族院議員として活躍。
横浜税関長、大蔵省主税局長、枢密院顧問官などの要職を歴任した。また、韓国財政顧問を務めるなど、韓国通としても有名。東京弁護士会会長も務めた。また、勝海舟の娘・逸子は、目賀田種太郎に嫁ぎ、
その関係から海舟は『律増甲乙之科以正澆俗 礼崇升降之制以極頽風』
(訳「法律は次々に多くの箇条を増加して人情の薄い風俗を矯正し、礼は挙措進退のきまりを尊重して頽廃した風俗を止めるものである」)
という言葉を贈り、常に専修学校学生を激励した実録も有名である。
@meets_tak
#SAGEGROUP 歴代や行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.ya.htm
山縣 有朋
・(1838~1922)
・日本の政治家、軍人。幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。
明治維新後は有朋の諱を称した。晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。また、大英帝国のメリット勲章も受章している。
山科 言縄
・(1835~1916)
・宮内省有職・伯爵
・江戸時代末期の公家。正二位伯爵。父は山科言成。明治17年の華族令で、伯爵に任ぜられた。装束などに精通。三男の言長は、分家杉渓家の祖
@meets_tak
山田 孝雄
・(1873~1875)
・国語学者。富山県富山市に山田方雄の二男として生れる。富山県尋常中学校を中退後、独学で小、中学校教員検定試験に合格、小、中学校教員をへて、
1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員、1920年日本大学講師、1921年日本大学文学部国語科主任、1925年(大正14年)東北帝国大学講師、1927年(昭和2年)同教授を歴任。1929年には「日本文法論」によって文学博士の学位を授与される。
1933年に退官後、1940年に神宮皇學館大學学長、1941年神祇院参与、同年肇国聖蹟調査委員、1944年に学術研究会会議会員、同年貴族院議員に勅撰、文部省国史編修官、1945年7月には国史編修院長、同年愛宕神社名誉宮司となる。
戦後公職追放された。1949年仙台市に移り、国語辞典の編修に専念、1953年に文化功労者、1957年、文化勲章を受章。また同年には富山市名誉市民にも推薦されている。
(や行は以上、ら行は無し)
渡辺 千秋
・(1843~1921)
・伯爵・宮内大臣
・明治・大正期の官僚・政治家。諏訪郡長地村(現在の長野県岡谷市)に諏訪高島藩士政徳の子として生まれる。楓関と号する。
生家は、長野県岡谷市長地芝宮に旧渡辺家住宅(長野県宝)として保存されている。明治維新後鹿児島県大書記官・北海道庁長官などを歴任。大久保利通の計らいで宮内省に奉職し、内蔵頭・宮内次官の後、1910年4月宮内大臣に就任する。
(SAGEGROUP歴代は以上)
@meets_tak #SAGEGROUP 歴代松平頼寿の補足。以下wiki。
〈松平 賴壽(まつだいら よりなが、明治7年(1874年)12月10日 - 昭和19年(1944年)9月13日)は、明治から昭和にかけての華族(伯爵)。〉
旧高松藩主松平頼聰の八男。母は正妻千代子(井伊直弼次女)。妻は徳川昭武(旧水戸藩主)の娘昭子。第10・11代貴族院議長、第8・10代大東文化学院総長などを歴任した。
学習院高等科から大隈重信に傾倒し、東京専門学校(現・早稲田大学)邦語法律科卒業後、明治41年(1908年)に貴族院議員に列して以来、一時中断(明治44年 - 大正3年、1911年 - 1914年)を挟んで30年以上にわたって議員を務めた。会派は扶桑会→甲寅倶楽部→研究会。
また、教育者としても活動し、本郷学園(本郷中学校・高等学校)を設立、文武両道のエリート教育を目指す。本郷区教育長も務める。
昭和11年(1936年)の日本競馬会発足に際しては初代理事長を務め、日本の競馬発展に寄与した人物でもあった。
昭和8年(1933年)、貴族院の正副議長は公爵・侯爵が就任するという慣例を破って副議長に就任し、4年後には議長の近衛文麿の内閣総理大臣就任に伴い、議長に昇格する。第8・10代大東文化学院総長を務めた。議長在任中に死去し、勲一等旭日大綬章に叙せられ、貴族院葬が行われた。
引用終わり
#SAGEGROUP 歴代、徳川達孝補足。以下ウィキより。
徳川達孝(とくがわ さとたか、慶応元年5月25日(1865年6月18日) - 昭和16年(1941年)2月18日)は、明治期から昭和にかけての宮中官僚・政治家。爵位は伯爵。
田安家第9代当主。田安徳川家第5・8代当主の徳川慶頼の四男。幼名は群之助。後に、徳川宗家を継承した兄の徳川家達から偏諱を与えられ達孝と名乗る。
来歴
兄・家達が徳川宗家を継承したこともあり、明治2年(1869年)4月5日、田安家の次期(第九代)当主候補として嫡子となる。明治9年(1876年)11月13日、父慶頼の死去により、家督を相続する。同年11月28日、元服する。
明治17年(1884年)7月7日、伯爵となる。明治22年(1889年)、ヨーロッパ視察を行う。明治30年(1897年)7月、貴族院議員となり、大正3年(1914年)6月6日に辞職する[1]。
侍従次長となり、皇后宮大夫事務取扱を大正4年(1915年)3月23日から大正5年(1916年)6月22日[2]まで兼務した。大正11年(1922年)3月22日、大正天皇の侍従長に就任し、昭和2年(1927年)3月3日に退任した。その他、学習院評議員・日本弘道会長を務める。
十五銀行の倒産以来、経済的に逼迫し、三田の屋敷を売却し、実兄家達の邸宅の別棟に暮らすようになった。なお、家扶の不正も原因の一つであった。
昭和12年(1937年)頃から徳川義親に家産の整理を相談し、債務の返済には成功したようである。その一環として、昭和13年(1938年)4月、屏風などの家宝の売りたてを行っている。正二位勲一等。昭和16年(1941年)没、77歳。
人物
華族として、主に宮中で活躍。侍従長に就任。謹厳な性格で知られる。 三田(現:東京都港区三田2丁目)の一角に邸宅を構えていたが、次第に野球に熱中。邸宅の広い庭園や築山を壊して泉水を埋め、運動場を造成した(徳川邸運動場)。
野球クラブ(ヘラクロス倶楽部)を組織。この運動場で新橋アスレチック倶楽部と対戦したといわれる。
系譜
・父:徳川慶頼(田安徳川家第五・八代当主)
・兄:徳川寿千代(田安徳川家第六代当主)
・兄:徳川家達(徳川宗家第十六代当主)
・弟:徳川頼倫(紀州徳川家第十五代当主)
・妻:鏡子(公爵徳川慶喜の長女)
・長女:須美子(伯爵溝口直亮夫人)
・次女:穀子(子爵土屋拳直夫人)
・三女:艶子(伯爵立花鑑徳夫人)
・四女:繡子(子爵徳川武定夫人)
・継妻:知子(公爵島津忠義の五女)
・長男:達成(伯爵・海軍技術大佐)
・五女:恵子(子爵大久保寛一夫人)
ウィキの引用は以上。
続いてhttp://www.rekishijin.jp/rekishijincalender/rekishijincalender201402/0218-2/ …より引用。
73年前の今日、大正天皇の侍従長を務めた徳川達孝(さとたか)が亡くなった。77歳。
慶喜の後、徳川宗家16代目の当主となった徳川家達(いえさと)の弟である。
達孝は田安徳川家第5・8代当主の徳川慶頼の四男として慶応元年5月25日(1865年6月18日)に生まれた。
父の慶頼は幕末の要人で、将軍・家茂の後見職を務めほどの人物であり、異母兄に越前藩主・松平慶永(春嶽)がいた。
そうしたなか、達孝の兄・家達が徳川宗家を継承したため、
自身は御三卿・田安家の養子となった。
明治9年には田安家の9代目・当主となる。
明治時代には伯爵や貴族院議員を務め、ヨーロッパ視察などを行なった。
大正11年(1922)大正天皇の侍従長に就任し、昭和2年(1927)まで務めた。
野球に熱中するあまり、宅の広い庭園や築山を壊して泉水を埋め、運動場を造成させるといった一面もある。
現在、孫で田安徳川家・第11代当主の德川宗英(むねふさ)氏は作家として活躍されている。
田安家の墓は寛永寺谷中墓地にある。
(引用終わり)
@meets_tak
秋月左都夫、ボーイスカウトのラインがでてきましたな。
#sagegroup
#大日本皇道立教会
以下、
秋月氏
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E6%B0%8F …
より引用。
秋月氏(あきづきし)は、日本の氏族の1つ。
出自
秋月氏の祖は、平安時代に伊予で反乱を起こした藤原純友を討伐した大蔵春実である。この功績により、春実は九州に所領を与えられ、大宰府の官人となって筑前に土着したと言われている。
鎌倉時代
平安時代後期から九州に土着した松浦氏や蒲池氏など他の豪族と同じく秋月氏も平家の家人だったが、源平合戦においては源氏方に与したため、鎌倉幕府の鎮西御家人となった。
しかし源頼朝からの信頼は薄く、頼朝の代官的意志を帯びて、鎮西御家人の抑えを含め守護として赴任してきた新参の少弐氏、島津氏、大友氏など東国御家人の傘下に置かれる。
この平安時代に九州に土着し平家方となっていた武家と、鎌倉幕府の意向を帯びて下ってきた少弐、大友、島津との関係が、その後の九州での勢力構造を形成する。幕府の意向を帯びた少弐、大友、島津は九州の三大名となり、元平家方の武家はその勢力下に置かれることになる。
南北朝時代
南北朝時代においては、九州に敗走してきた足利尊氏を迎え撃った多々良浜の戦いに、菊池氏の傘下で阿蘇氏、蒲池氏などと共に南朝(宮)方として戦い敗れる。
戦国時代
戦国時代に入ると、少弐氏の家臣となったが、少弐氏が大内義隆と争って敗れたため、大内氏の家臣となる。1551年に義隆が家臣の陶晴賢に殺された後は、豊後の大友氏の家臣となった。
しかし1557年、大内氏を滅ぼした毛利氏の勢力が北九州にまで進出してくると、当時の秋月氏の当主・秋月文種は大友氏から離反して毛利氏と手を結び、このため同年7月、文種は大友軍の猛攻に遭って討ち死にし、秋月氏は一時、滅亡してしまった。
豊臣時代
しかし文種の次男・秋月種実は毛利氏のもとに落ち延びて、やがて大友氏の衰退とともに再興を果たした。さらに島津義久と手を結んで大友氏に対して反抗し、一時期は筑前に六郡、筑後に四郡、豊前に一郡と推定36万石にも及ぶという広大な所領を築き上げ、秋月氏の最盛期を現出する。
1587年、豊臣秀吉の九州征伐では島津氏に属して豊臣勢に抵抗したが、もとより豊臣秀吉の敵ではなく、種実は名器・『楢柴肩衝』を献上することで降伏は許されたが、日向国高鍋に移封された。”
CPL @meets_tak 2014年12月26日
大本もエスペラント。
国柱会(宮沢賢治)もエスペラント。
1件の返信 22件のリツイート 8 いいね
CPL @meets_tak 2014年12月26日
@meets_tak
新渡戸稲造もエスペラント。
1件の返信 19件のリツイート 0 いいね
CPL @meets_tak 2014年12月26日
@meets_tak
新渡戸稲造はクエーカーだったっけか。
1件の返信 22件のリツイート 3 いいね
CPL @meets_tak 2014年12月26日
@meets_tak
で郷土会で、新渡戸稲造、柳田國男、牧口常三郎。
1件の返信 21件のリツイート 0 いいね
CPL @meets_tak 2014年12月26日
@meets_tak
創価学会の前身、創価教育学支援会のメンバー。創価大学のページより。
http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/802/1/KJ00005454527.pdf …
2件の返信 42件のリツイート 9 いいね
CPL @meets_tak 2014年12月26日
@meets_tak
引用
政友会総裁 犬養毅
関東庁長官 太田政弘
法学博士・農学博士 新渡戸稲造
前逓信事務次官 古島一雄
前内閣書記官長 ・政友会総務 鳩山一郎
逓信政務次官 中野正剛
前法制局長官・政友会総務 前田米蔵
民政党総務 古屋慶隆
#創価教育学支援会
前文部参与官 安藤正純
前東京市助役 前田多門
大審院判事 三宅正太郎
前貴族院書記官長 柳田國男
衆議院議員 牧野良三
司法大臣 渡辺千冬
前文部大臣・法学博士 水野錬太郎
政友会総務 松野鶴平
男爵 中川良長
貴族院議員 山内一次
#創価教育学支援会
三菱総理事・太平生命取締役 江口定条
前内閣政務次官 ・政友会総務 秋田清
前文部商工大臣 中橋徳五郎
商工大臣 俵孫一
子爵 八条隆正
帝国大学教授 ・医学博士 高木逸磨
工学博士 田中龍夫
改造社長 山本実彦
海軍大将 野間口兼雄
#創価教育学支援会
東京市会議員 岸辺福雄。
この内、田中龍夫と野間口は、白金小学校父兄。
新渡戸、柳田、前田は郷土会員。
以上、引用おわり。
#創価教育学支援会
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CPL @meets_tak 2014年12月26日
@meets_tak
改めて読んでみると、フリーメイソン鳩山一郎とか玄洋社とつながっていた犬養毅の名前があることに驚く。
これは #開化派 の某 #ネットジャーナリスト 氏が一切触れていない情報でありますっ!(キリッ
STB @RC_StB 2015年6月27日
返信先: @lakudagoyaさん
@lakudagoya 変態保守派の主張がいい加減なのは、道徳観にも現れています 何かにつけて「なぁなぁ」で「適当」な日本人が性に対してはやけに厳しいなんてあり得ませんから。耶蘇教臭いです 江戸時代の笑話や宇治拾遺物語には、性をネタにした、今なら問題になりそうな笑い話も多々ある
ねこた @lakudagoya 2015年6月27日
@RC_StB 神道の家系が性に厳しいというツイートを読んだ事がありましたが、江戸時代に神社で巫女さんが売春やってたのにそれはないだろう?と。平田篤胤の思想にかぶれると、カトリック臭い性観念になるんですね。これってイスラム原理を気取るのに英米にべったりなサウジみたい。。。
ねこた @lakudagoya 2015年6月27日
返信先: @RC_StBさん
@RC_StB 日本が勤勉でなかったという話は、江戸時代末期に日本に訪れた外国人が書いてますね。勤勉にさせられたのは、明治以降の人脈がプロテスタント系に支配されたからでしょう?性欲憎悪があるなら、ちんこを祭る神社があるわけないですね。保守は自分が保守だと名乗る時点で日本的ではない
STB @RC_StB 2015年6月27日
返信先: @lakudagoyaさん
@lakudagoya 明治時代も労働態度はいい加減で勝手に欠勤することもあったそうです 苦役が美徳になるのは、日本特有の手段が目的化しやすい悪癖がこうした流れに必要以上に拍車をかけたとみています 戦前に米国が日本の国内事情を調査したときですら、彼等には奇異に映ったようですからね
ねこた @lakudagoya 2016年4月30日
菊池さんが提唱した「魔法のかわしかた」はどっこいしょ!(六根清浄)だよ。つまり五感から入ってくる情報に気をつけろって事か。 仏教、特に禅宗が神秘体験やイメージなどを排除するにはそこから自由になるためってのもあるのね。 最強なのはFF4のギルバートの「かくれる」コマンドだったのか!
なえなつ @japan19890108 3月29日
ようはねこたさんや菊池さんやねこたさんのような方の知恵を借りなくてもネット上の知識だけでキリスト教が日本の象徴の側にいるそれがどれだけやばいか分かるのよ、なのに誰も触れようともしないこの無責任さに怒りが沸きますよ。 まあ象徴に一番近いのがやそなんだから
やそ>仏教、神道と分かるよね
マジで、インド哲学特に仏教のレベル高さは半端ない。仏教は難しいから、菊池さんのブログを見ながら仏教哲学を理解しようと頑張る。その辺のお坊さんの本や仏典の注釈書は何が何やらですよぉ。仏教の超がつくほど初心者に、菊池さんのブログは有難い。https://t.co/9eEu90yjf8
— ねこた (@lakudagoya) 2015年11月21日
野原燐 @noharra 3月12日
.@noharra 偽書とは何か、と問うと正典(カノン)でないもの、ということになるか。
日本では日本書紀、次いで宣長によって古事記がカノンになった。古事記も14世紀以降の写本しかなく偽書説はある。
神道五部書、13世紀末に度会行忠らが作成、は偽書か。
1件の返信 2件のリツイート 1 いいね
たかやましんいち @shinichi_taka 2月25日
渡邉「現存する最古の日本書紀の写本は「佐佐木本」や「田中本」と呼ばれる9世紀に書かれたもの。古事記より伝存数が多い。写本には「古本系統」と「卜部系統」がある。1599年に最初の印刷本が発行された。神話は巻一巻二が中心でこの巻は「神代巻」と呼ばれる。出雲神話については記載がない。」
石部統久さんと他1人さんがフォロー
OokuboTact(中二病) @OokuboTact 1月5日
『古事記』で一番古い写本は室町時代らしい。『日本書紀』と比べるとかなり新しい時代に作られた写本しか残っていないということになる
2位 @saitounii 18 時間18 時間前
これ海外の刑事ドラマでも事件の証拠のスマホが水没したけどSIMカード?を米粒に埋めて復活させてたな。
捜査官が海外のスーパーで買ってきたのかなって想像してちょっと笑った
我が国最初の歴史書『古事記』は偽書か?
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_06_28.htm
” 『古事記』は、なにかと話題の多い歴史書である。『古事記』の「序」によれば、天武天皇は帝紀(帝皇日継)と本辞(先代旧事)の削偽定実(偽りを削除し事実を定める)を痛感され、当時28歳だった舎人の稗田阿礼に削偽定実した帝紀と本辞を誦み習わせた。ところが、朱鳥元年(686)に天武天皇が崩御し、その修史事業が中断してしまった。
太安萬侶の墓
■ そのことを惜しんだ元明天皇は、和銅4年(711)9月に、太安萬侶に命じて稗田阿礼が誦習していた帝紀と本辞を書き記し編纂させた。翌和銅5年(712)正月28日、安萬侶は上・中・下の3巻にまとめて完成した『古事記』を元明天皇に献上したという。だが、天皇の勅命で実施された史書編纂作業だったにもかかわらず、奈良時代の正史『続日本紀』には一言も触れられていない。
■ そればかりか、南北朝時代の1371年から72年にかけて真福寺(宝生院の前身)の第二世信瑜の命で、秘蔵されていた『古事記』を僧・賢瑜に書写させた真福寺本古事記三帖が発見されるまで、『古事記』の存在そのものが一般には知られていなかったようだ。
本居宣長44歳の自画像
本居宣長44歳の自画像
■ 今でこそ、日本神話の原点と言えば誰もが『古事記』の名をあげるだろうが、それは江戸時代の国学者・本居宣長の功績によるものだ。宣長が『古事記伝』に着手したのが明和元年(1764)、全巻を完成したのが寛政10年(1798)、実に34年をかけた労作である。それまでは、日本神話と言えば『日本書紀』に記されたものを指した。奈良時代、平安時代の古文献にも『古事記』の存在を証明するような記述は一切見つかっていないという。そのため、『古事記』が偽書であるとする説は古くからある。
■ 筆者には『古事記』が偽書かどうかを云々する知識も能力もないが、以前からいくつか疑問に感じていることがある。まず、『古事記』も『日本書紀』も、天武10年(681)3月に発せられた天武天皇の史書編纂への強い意志を契機として成立したと伝えられている。しかし、なぜ似たような内容の歴史書を同じ時代に2つも編纂する必要があったのか分からない。
■ 次に、『古事記』の神話では出雲神話が大きなウエイトを占めているが、『日本書紀』ではそのほとんどが割愛されているのは何故か。伝承されてきた帝紀や本辞の内容の削偽定実を史書編纂の目的としため、何かの判断で出雲神話部分を大幅に削除したのだろうか。そうであれば、その判断基準は何だったのか。
■ 一方、『古事記』では神話がすっきりとまとまった物語として記述されている。だが『日本書紀』では、本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めていて、まことに読みづらい。まるで異伝のオンパレードだ。削偽定実とはこうした異伝の中から正しいものを選び出して正史として確定させるはずではなかったのか。『古事記』ではそれがなされているのに、『古事記』より遅れて成立した『日本書紀』では何故か削偽定実がなされていない。中国では、清の時代になるまで本文中に異説を併記した歴史書などないそうだ。
…
■ 特別展示では、真福寺本古事記3帖のうち南北朝時代の応安4年(1371)に写された中巻が展示されていた。『古事記』撰上から実に659年後に書写されたものだが、現存する写本のなかでは最も古い。この写本は愛知県名古屋市中区大須にある真言宗智山派の別格本山大須観宝生院の所蔵品である。見開きでA4版かそれより幾分小さい古紙にびっしりと書き込まれている。
■ 古事記上巻は三重県の神宮文庫所蔵の春瑜本と大須観宝生院の所蔵の古事記上巻抄も、あわせて展示されていた。前者は室町時代の応永33年(1426)の写本、後者は14世紀の鎌倉時代の写本で、いずれも国の重要文化財である。 ”
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi
古事記何て典型的な偽典でしょ
真典であるならば、平安以前から注釈本がある筈で聖書だって古いやつはグノーシス文献でしょ
多分、契沖辺りが平安貴族に頼まれて合作した偽書かその師匠あたりが書いたものだろうね
こういうのは考古学の領域ではなく聖書学の範疇なのだけど、わかってないねえ
よくそう言うと口伝文化だったというけど、じゃあ所謂日本の巫女とかは口伝文化で何故に文字に起こす必要があったのか?
という、話しになるわけで口伝文化が文字に起こされるのは大概文化侵略による圧迫と散逸を避けて文章化されるのだけど、その時代何に文化侵略されたのかという話になる
もし、そういうのであれば物部氏とかが仏教の侵略でとかでと話になるのだけど、そういった痕跡はないし、契沖は物部氏の末裔何かという話になりその文献をどうやって見つけたのかという話しになる
これが伝承と聖典の系譜学であり、これが伴っていない聖典は全部偽典と見なすのが基本です
子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側 @kitsuchitsuchi 2016年4月29日
帝RT引用「『古事記』は長年「偽書説」があり、編纂した太安万侶の実在証拠がなかった。ところが1979年に奈良の此瀬町の茶畑で農家が畑を掘り起こしたところ、太安万侶の墓を発見したことで、古事記偽書説も雲散霧消した。木棺に入った人骨と、墓誌の銘文には「太朝臣安万侶」の文字があった。」
フェイド大帝
ま〜た、これか。なんか発掘したら
都合の良い物が、都合良く出てき
ちゃった系。考古学はホントこういうの
多いんだよな!
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子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側 @kitsuchitsuchi 2016年4月29日
考古学調査って普通のスポン サーが あんま付かないんだぜ? 海外では常識だぜ? だって遺跡掘ったってクソの役にも 立たねーじゃん。企業に取っちゃ。
つまり、宗教団体がスポンサーになる 場合が多いんだぜ? だって、ノアの方舟が実在したかどうか なんて関係者以外どうだっていいだろ?
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子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側 @kitsuchitsuchi 2016年4月29日
大森貝塚で縄文土器初めて見つけた アメ公のモース、APSの会員だったぞ?w
お前ら、モースが貝塚ほじくるまで それまで日本人が一人も縄文土器見つけれ なかったのオカシイと思わなかったのか?w
堀家康弘 @kounodanwawoma1 2時間2時間前
堀家康弘さんが水鏡をリツイートしました
「信仰心や国家を利用して肥え太らんとする輩に好都合な神道」と「自然と共にある素朴な神道」の区別があるという主張だが、奇跡まで捏造して家元になった吉田兼倶や聖典の成立年代を偽った伊勢神道など神道の歴史は「肥え太らんとする輩」ばっかりだ
堀家康弘さんが追加
水鏡 @hermitzero
神社本庁等は国家神道のような「信仰心や国家を利用して肥え太らんとする輩に好都合な神道」と「自然と共にある素朴な神道」を区別せず、前者の排除を後者の排除と混同させて(天皇や戦没者、社会不安や歪んだ自尊心等も利用して)憲法改正を訴えているが、現行憲法を不都合とするのは前者…
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ネズミさん @Nezmi_san 2014年9月12日
ファイストスの円盤と神代文字
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%97 …
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%97 …
まず、「自分の目」で確認w
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ネズミさん @Nezmi_san 2014年9月12日
何故クレタ島の遺物と神代文字が同じかどうかは一目でわかる。まず、クレタには猫の絵だか、神代文字にはない。エジプト由来だろうとは容易だ。
逆に神代文字のルーツは、それが偽造でない限り、黄河文明より前の揚子江文明であり、日本に稲作をもたらした徐福らと関係がある。
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ネズミさん @Nezmi_san 2014年9月12日
文字のルーツと揚子江の源泉はチベットに繋がり、モンゴル語と神代文字は似ており、もちろん漢字にも似ている。
何がルーツか?明らかに漢字は精々500年に日本に来た新しい言葉で、徐福などは漢民族に強いたげられた長江文明の生き残りであり、漢民族でないから漢字は母国語ではない。
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ネズミさん @Nezmi_san 2014年9月12日
日本の支配層には漢字を是とする連中が西暦500年から仕切ったに過ぎない。それ以前は神話とし、明治以降ワケわからん歴史話で、政権を奪ってきた。
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ネズミさん @Nezmi_san 2014年9月12日
文字話はシソーラスな側面があり、意図的改竄があるので、あまり信用ならない。一方、食文化は明らかにルーツを醸し出す。
関西で「何故蕎麦や納豆が食われない」か?
この辺にヒントがある。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~rakusyotei/sawakai59.html
”蕎麦が我が国に登場するのは縄文時代後期の北海道などいくつかの遺跡から出土した蕎麦の花粉としてである。縄文時代の中期より日本列島には寒冷化が始まっており、それによって従来の食べ物が得られなくなっていったことが寒さに強いソバが残っていった理由でないだろうか。蕎麦以外でこの時代から現在まで続いている穀物は少ない。稲作が我が国に持ち込まれるよりも蕎麦の方が早いと考えられるからである。現在、我が国に残っている稲作以前の古代の穀物はせいぜい粟(アワ)や稗(ヒエ)くらいであろう。しかし、もはや粟や稗を店頭で購入することは難しい。こうしてみると今も日常の食品として古代穀物が残っているのは蕎麦だけであろう。当然ながら古代の飛鳥時代、奈良時代にも蕎麦は食べられていたはずである。ところがこれらの時代の書物である古事記、日本書紀、万葉集には蕎麦のことが出てこない。「古事記」にはオオゲツヒメが蚕、稲、粟、アズキ、麦、大豆を生んだ、と書かれている。つまりこれら弥生時代と想定される神代の時代に稲や大豆などが我が国へ持ち込まれたことを意味しているのだが、蕎麦についてはどこにも書かれていない。何故だろうか、この頃には皆が蕎麦を知らなかったのか? いえいえ、飛鳥時代に天皇から救荒作物として蕎麦の栽培を奨励するようにとの勅諭が発せられていることからも、古事記が書かれたこの当時にはすでに広く民衆に知れ渡っていたと考えられる。さらに、それに先立つ古代朝鮮半島の百済から軍事援助を頼まれて赴いた白村江の戦の時の倭国の跡地からも大量の炭化した蕎麦が見つかっているのである。
明らかに当時の倭国の一部にはすでに栽培されていたと考えられる蕎麦が何故、歴史書や和歌などの表舞台に表れてこないのだろうか。当時の他の穀物である粟や稗と比較して蕎麦はどのように見られていたのだろうか、私には大きな疑惑が湧いてくるのを感じる。山内義治氏によると、ソバはそもそも日本には自生していない植物であり大陸かどこかから人の手で運ばれてきた作物であるという。また、安達巌氏の「たべもの伝来史」によるとソバは縄文時代晩期に中央アジアからもたらされた、とされている。ソバは縄文時代晩期には北海道から九州にいたる日本海側の遺跡から多く見られ、ほぼ同時代のものと見られるものが発見されている。すなわち北海道では美々遺跡や御殿山遺跡など北海道の南西部に限られて見られ、本土ではソバ花粉のほとんどが日本海側の遺跡に片寄っている。安田喜憲氏によれば、縄文時代後期にソバが我が国の日本海側の各地に持ち込まれたと思われるが、それらが同じ時代のものであり、しかも広範囲であることから、かなり多くの人の流入が想定される、としている。
ちょうどこの時期は、中国では周、戦国時代から秦の始皇帝による統一国家へと王朝が切り替わっていった時期であり、このときに中国の中原といわれる周辺の東側に住んでいた民族が穀物を持って海に逃れたのではないかとも想像できる。そこで思い当ることがある。BC200頃に秦の始皇帝に不老不死の薬草を採りに行くと言って数千人の若者たちと穀物の種などを持って日本(蓬莱山)に向かって船出した徐福の話が中国の歴史書に残っている。それはちょうど日本では弥生時代中、後期に当るがこの話の、我が国での続きがない。また、弥生時代に続く古墳時代には、古墳から騎馬民族の土偶や壁画が沢山出土していることから江上波夫氏は騎馬民族が我が国に渡ってきたのではないか、との説をとなえている。いずれにしても彼らは蕎麦と共に育った寒冷地の民族である。彼らが倭国に渡ってきたとすると当然それまで身近に食べていた蕎麦を食糧に選んだことだろう。中国の遺跡発掘によって当時の中国の人たちの農作物の様子が分かっている。それは、一般的な傾向として中国北部からは粟、麦、黍、蕎麦、高粱などが出土しており、南部地方からは稲、粟、黍などの穀物のほか、瓜類、梅、棗など果実の出土が目立っている。このことからも中国北部に住んでいた民族は蕎麦を常食にしていた人たちである。食糧確保に腐心していた我が国の神代と言われる時代の人たちにとって、先進的な農業技術を持った若者たちが集団で渡来してきたとなると、どこかで我が国の食べ物に影響を与えていないわけがない。これ以上は想像をたくましくするするしかない。
私はふと、出雲族ってなんだったのか、気になってきた。出雲の地に集団で生活していた民族が「古事記」に書かれているように大和政権に国譲りをした後、和歌山や四国など全国に多くが散って行ったが、この民族とはどんな人たちであったのか、渡来した徐福の集団などとは関係ないのであろうか。なにか引っかかるものがあるが、私にはそれ以上の想像を膨らませるだけの情報を持ち合わせていない。
わが国ではソバの花粉は前述した通り縄文時代の初期から北海道や東北の遺跡から見られており、かなり前から栽培されていた可能性がある。縄文後期には福岡県板付遺跡から、弥生時代に入ると佐賀県菜畑遺跡や島根県タテチョウ遺跡からもソバの花粉が見られている。縄文時代の遺跡に見られる蕎麦は普通種であり、現在我々が食べている蕎麦なのである。高天原の時代から遙かに下って「続日本記」には、元正天皇が養老6年(722)7月19日に「宜しく天下の国司に令して、百姓に勧課して晩禾、蕎麦及び大小麦を植え蔵置して以て年荒に備えしむべし」と勅諭を出しているからである。この勅諭は古事記や日本書紀が完成した直後に出されている。つまりこれは天皇が勅諭として緊急対策にソバを栽培するように奨励しているのであり、天皇も農民も蕎麦について広く知られていたと考えられるにもかかわらず国の歴史書にはソバは全く登場してこないのである。
私は、縄文時代の後期から弥生時代前半にかけて、日本海側に住んでいた蕎麦を常食としていた民族と、古事記でいう高天原など神代の舞台に住む民族との間の交流がなかったのではないかと想像している。高天原民族は稲作を食の基本とし、米と大豆の食文化を展開して行ったと想像している。高天原の流れを受け継いだ大和朝廷が全国を支配することにより米と大豆が表の食べ物となり、その後の日本は米本位経済社会へと大きく舵を切ることになる。一方、蕎麦は日蔭のたべもの、救荒作物として位置付けられ、国の歴史書にもほとんど登場しないまま細々と山間の畑で受けつながれてきたのではないだろうか。だから我が国では縄文時代から食べ続けられながら「そば」についての記述がなかったのではないだろうか。
これに似た話として納豆の話を紹介しよう。我が国へは昔、2つの系列の納豆が持ち込まれている。
一つは平安時代の初め頃の帰化僧や遣唐使が中国、黄河の北の文化として持ってきた麹菌で発酵した納豆である。当時の大和朝廷はこの納豆を「豆醤」として大宝律令で保護した。そしてこれらの納豆は京都を中心に広く関西に広がっていたが、今では「大徳寺納豆」や「浄福寺納豆」としてわずかに残っているだけである。
一方、それよりも古い時代に南方漁労民によって東南アジアから渡ってきた「糸引き納豆」が各地に広がっていた。しかし、これら糸引き納豆は大和朝廷が推し進める「寺納豆」に押さえ込まれ、京都周辺では普及することが出来なかった。それから千年以上たった現在も、関西の「糸引き納豆」の消費量は他の地域に較べて依然として少ない。食べ物の習慣は根強く長年にわたって影響するものである。
我々が今知ることが出来る蕎麦食の痕跡は、縄文時代の遺跡からの出土の次は663年の白村江の戦いで敗戦した廃墟からの炭化した蕎麦であり、その次は元正天皇の勅諭まで飛んでしまう。さらにその次となると元正天皇の勅諭から850年後の木曾の定勝寺改修記録に現われるまで表面に出てきていないのである。そばが我が国の食の表舞台に登場するのはなんと江戸時代半ばになってからである。そしてこの長い日本の歴史は米中心の食文化一色に塗りつぶされてしまっていたのだ。
長い間救荒作物として日陰者扱いされていた蕎麦が、どのように江戸っ子の食べ物へと替わって行ったのか、その変遷の過程については岩崎信也氏の「江戸っ子はなぜ蕎麦なのか」(光文社新書)に詳しいので興味のある方は一読をお奨めしたい。
古事記は天武天皇によって「天皇は遙か神代の時代から繋がっている一本の道」であることが示された歴史書である。そしてこの天皇制は他の者に取って代わることの出来ない大原則であるとして律令制度の基本としたのである。だから古事記に登場する食べ物も彼らが常食としていたものだけしか書かれなかったのかも知れない。こうして片隅に追いやられていた日蔭の食べ物が表舞台に立つのが江戸時代半ばであり、米本位制社会が確立した後からであった。しかし、明治政府が文明開化を旗印に欧風化を富国強兵の手段に選んだことにより江戸文化は古い、捨て去られなければならない文化とみなされ、蕎麦文化も同じ運命を辿ることになったのであろう。”
納豆は中国の北の文化で、蕎麦や仲間の植物である麦も北の出である。関東で蕎麦屋が何故人気か?関西はなぜうどん屋か?だ。
正確には中国北部だけが、納豆ではない。麦わらか稲わらか?麦なら北の、稲わらなら南の。
”国宝 にほんしょき かんだい10ざんかん 日本書紀 巻第十残巻
1巻
紙本 墨書 巻子
縦28.0 長566.0(候補表紙等を含む)
書跡
平安時代 9世紀
神代から持統天皇の時代までの出来事を編年体(へんねんたい)で記す『日本書紀』は、中国で歴代王朝ごとに作成されていた正史(せいし)にならい、わが国で最初に編纂された国史である。その編纂の端緒は天武天皇の時代(在位六七二~六八六)にあり、約四十年にわたって断続的に続けられた後、最終的には舎人親王(とねりしんのう)等を中心にまとめ上げられ、元正天皇の養老四年(七二〇)五月に完成し、「紀三十巻」と「系図一巻」が奏上された(「系図一巻」は現存しない)。本品は、三十巻のうち巻第十の応神天皇紀の部分で、首尾各一紙を欠くものの九紙が残り、応神天皇二年から四十一年までの記事がある。その中には、王仁(わに)(『古事記』では「和迩吉師(わにきし)」と表記)の百済(くだら)からの来日に関わる記事も含まれる。『日本書紀』は完成当初から歴史書として重視され、平安時代にはしばしば講義(日本紀講筵(にほんぎこうえん))が実施された。そのため平安時代に遡る古写本も少なからず現存するが、本品が最古の写本であり、四天王寺(大阪市蔵)の『日本書紀』巻第一断簡(二葉)等と僚巻になる。なお、本品の紙背は『性霊集(しょうりょうしゅう)』の平安時代後期の写本で、序の途中から巻第二の途中までを収める。
古事記の歩んできた道―古事記撰録一三〇〇年―, 2012, p.8 (一部改変) ”
http://www.narahaku.go.jp/collection/1190-0.html
"日本紀講筵
にほんぎこうえん
平安時代前期に朝廷で行われた『日本書紀』の講読。『書紀』の講読は養老5 (721) 年以来行われたが,平安時代になってからは,弘仁3 (812) 年,承和6 (839) 年,元慶2 (878) 年,延喜4 (904) 年,承平6 (936) 年,康保2 (965) 年などに行われた。講筵には宣旨によって博士らが定められ,大臣以下列座のもとに行われる。講読が終ると,竟宴 (きょうえん) があり,『書紀』に登場する人物などを題として和歌を詠じた。これを日本紀竟宴和歌という。
…
にほんぎこうえん【日本紀講筵】
主として平安時代前期に,数回にわたり宮廷で公式の行事として行われた《日本書紀》の講読・研究の会。《釈日本紀》開題に引く〈康保二年外記勘申〉によれば,養老5年(721),弘仁3‐4年(812‐813),承和10‐11年(843‐844),元慶2‐5年(878‐881),延喜4‐6年(904‐906),承平6‐天慶6年(936‐943),および康保2年(965)以後に行われたが,そのうち養老度は完成した《書紀》の披露のためとみられ,弘仁以後が講究を主とするもので,元慶度に至って形式・内容ともにほぼ完成の域に達し,承平度から熱意が薄れて衰退に向かった。
"https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E8%AC%9B%E7%AD%B5-110114
”宣長が校合に使用した『古事記』の中に、真福寺本(シンプクジボン)と言う本がある。『古事記』の中で現在一番古い写本だ。
校合作業が終わったのは、天明7年(1787)4月14日。
さて、真福寺本『古事記』への宣長の評価はいかが。 『古事記伝』版本・巻1に
「其後又、尾張国名児屋なる真福寺といふ寺【俗(ヨ)に大洲の観音といふ、】に、昔より伝へ蔵(ア)る本を写せるを見るに、こは余(ホカ)の本どもとは異(コト)なる、めづらしき事もをりをりあるを、字の脱(オチ)たる誤れるなどは、殊にしげくぞある、かゝればなほ今ノ世には、誤なき古(ヘノ)本は、在(アリ)がたきなりけり、されど右の本どもも、これかれ得失(ヨキアシキ)ことは互(タガヒ)に有(リ)て、見合ハ すれば、益(タスケ)となること多し」
他の本と違う注目すべき点もあるが、字の脱落や誤写も多い。これを考えると、昔の本で誤りがないと言うことは求める方が無理なのだなあ、だけどいくつかの本を校合すると、誤っている箇所などを探したりする上で役に立つことが多い、と書かれている。
でもよかったね。出版に間に合った。天明7年と言えば、『古事記伝』出版に向けて本格的に動き出した頃だ。巻1の諸本の所にこの本が出ていないと、後世の人は、「なんだ、真福寺本も見てないの」っていうからね。 ”
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/shinpukujibon.html
真福寺本『古事記』 - 本居宣長記念館
現存する『古事記』の写本で最古のものは、「伊勢本系統」の南朝:建徳2年/北朝:応安4年(1371年)から翌、南朝:文中元年/北朝:応安5年(1372年)にかけて真福寺の僧・賢瑜によって写された真福寺本古事記三帖(国宝)。
誰が真福寺本『古事記』を持ってきたのか?
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/darega.html
”宣長は、この『古事記』を、どうやって見たのだろう。
通説では、真福寺本『古事記』調査の命が、尾張藩から藩士・稲葉通邦に下ったのは寛政9年7月とされている(『尾張名古屋の古代学』・名古屋市立博物館)。
でも、宣長の証言では、天明6年に「写本」をするように藩命が下ったという。ここに11年の開きがある。
恐らく、正式な調査命令の前に、事前調査として稲葉通邦あたりが写本を作り、宣長に内容についてコメントしてもらい、その後の藩命による正式調査が行われたと言うことではないだろうか。
宣長が校合した天明7年、通邦はまだ宣長門ではないが、尾張徳川家の中では重臣・横井千秋などが宣長の『古事記伝』刊行に向けて尽力していた時期であり、通邦もそのことは熟知していたはずだ。あるいは千秋からの働きかけがあったかもしれない。
宣長自身は、提供者について、何も言っていない。
【参考資料】
宣長手沢本『古事記』の奥書に、宣長による次の一文が貼り付けられる。
「右真福寺ハ尾張国愛智郡名古屋城下ニアリ。北野山真福寺宝生院ト号ス。俗ニ大須(オホス)観音ト云。真言宗也。往古在美濃国中島郡大栖ノ庄北野村ニアリシトゾ。サテ此寺ニ五百年前ノ写本ノ蔵書多シ。コレ根来ノ蔵書ヲ写セル也ト云伝フ。又、北畠氏ニ所以アリテ、伊勢神宮ノ蔵書ヲモ多ク写シ取テ蔵ス。古事記モ其内也トゾ。天明六年丙午年尾張殿ノ命ニテ右蔵書ヲ写セラルヽトキ、写手ノ人別ニ私ニ写シ取レルトコロノ本ヲ、此度借リ寄セテ全部校合スルモノ也。天明七年丁未四月十四日校合終業。本居宣長(花押)」”
堺本『枕草子』のすすめ
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_makura_intro.html
魔法おっさん(30代無職童貞) @douteimaturi 2016年10月27日
で、えぐい事を言えば神話とかなんて偽書を作ってしまって組立ちまえばいいんです
例えば、当時の日本には文字があったなんて言いたいのであればホツマツタエみたいな粗製品ではなく、古代揚子江や長江で発掘されている文字にアルメニアあたりの文字を拾い上げて当時の音声表記すればいいのです
んで、紙とかも当時位に工業的に劣化させて地面に埋め埋めしたものに大切なのは時代時代によって解釈されたような解釈本をちゃんと用意すること 奈良後期、平安時代、鎌倉時代、室町等々ちゃんと歴史考証加えられているように捏造しなきゃいけません
精神的独立という笑うアホがいるだろうが日本史を見れば、国学の成立だって中国からの精神的独立から来ているものだよ
— 魔法おっさん(30代無職童貞) (@douteimaturi) 2017年3月18日
やっぱりオイラの言う通りでしょ、結局尊厳の流れで見ないと何もわからないって、尊厳の流れが貴賤に直接関わっていて、金銭や権力等は尊厳の元で流れている物でしかないのだよ
ねこた @lakudagoya 10時間10時間前
なんか最底辺のマイノリティが欧米によって特権階級にさせられると、何でこいつらは身分というものはマウンティングするものだと勘違いして自分だけ贅沢をするのか。 特権階級というものは一般人をマウンティングするものでなくて、世話をするものなのにこんな簡単な帝王学でさえ教えない欧米。
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• • ねこた @lakudagoya 10時間10時間前
あのさ、成り上がりでもさ、ちゃんと為政者の仕事をしろよ。 為政者としての仕事をしないから批判したら、マイノリティであるが故に差別されたとほざくしさ。 たとえ成り上がりでもさ、ちゃんと為政者としての仕事をすればみんな評価するんだよ?そこわからないかなー?
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• • ねこた @lakudagoya 10時間10時間前
サンカがさ、特権階級ぶってるのはさ、欧米がバックにいるからだろ? そいつらの権威は欧米という後ろ盾がないとダメなんでそ? そいつらがいくら特権階級ぶっても欧米に依存してる限り、自分で何かやることができない。 日本人への復讐以上の事はできないわけよ。
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• • ねこた @lakudagoya 10時間10時間前
古い家柄ほど、贅沢するのはダメとか、自慢するのは恥ずかしいとか、「恥」の観念があったよ。 欧州貴族のように自慢して見せびらかすなんざ恥ずかしいと思うわけ。 正直、江戸時代の道徳観念からしたら、サンカのやってる事は卑劣で本当に卑しいと思うわけよ。
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• • ねこた @lakudagoya 10時間10時間前
少なくともね、土地の支配者ってものは昔はみんなの面倒見たわけ。 そいつらは貴族ぶってるけど、領民の面倒も見なくて何が貴族だ。 そもそもそんな事を自慢するなんて恥ずかしいという意識があったわけ。 何で武家は解体されてこいつらの魑魅魍魎だけが特権階級になったの?
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• • ねこた @lakudagoya 10時間10時間前
こういうヤソ臭いマイノリティがクズなのは、今の特権階級と同じように「自分だけ」なんだよね。 同じ日本人が食うや食わずで苦しんでるのに、自分だけスイスに逃げるわけ。 こういう卑怯でワガママなのをマイノリティに増長させる。 その選民思想だって欧米から植え付けられたものでね?
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• • ねこた @lakudagoya 10時間10時間前
返信先: @japan19890108さん
いや、そもそもモーセがいたという事実から疑わないといけないし、旧約聖書の成立は学会では恐らく紀元前3、4世紀頃ですよ? バアル信仰も何も、聖書の成立から疑わないと。 おいらは旧約聖書はもっとあとだと思ってます。
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• • ねこた @lakudagoya 10時間10時間前
その本物の日本人(笑)は戦時中にスイスに逃げ出して大本様と呼ばれてるらしー。 へーこいつら、戦時中に食うや食わずの同胞を見捨てて欧米の犬になった裏切り者なんだねー で、ロクアカに出てた裏切り者の長州忍者のように欧米で貴族ぶってるんだろうなぁ。
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• • ねこた @lakudagoya 10時間10時間前
てか、サンカがネストリウス派のキリスト教徒とか言うなら、なぜ教会も司祭もいないのに教義を保存できるのか? 仏教と区別できるのか? 隠れキリシタンだって仏教と習合して変なのになってるのにさ。 隠れキリシタンは神父がいなくなって300年近くだけどそれより長いでそ?
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• • ねこた @lakudagoya 10時間10時間前
サンカだってさ、被害者意識と選民思想あってなんかこうヤソ臭いんだよね。 で、ネストリウス派の末裔ニダ!普通の日本人と違うニダ!って選民思想丸出しなんだろうか? でもあのフィールドワークのやつはあまりヤソ臭さを感じなかったけど、一部にはヤソ憑依してんだろーな。
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• • ねこた @lakudagoya 10時間10時間前
返信先: @denjihahigaiさん、@japan19890108さん
あの、それ嘘ですから。 ヴァイスハウプトはイエズス会をdisる同人誌を出してましたし、オカルト野郎みたいなサバタイ派を好むわけありませんよ? それにカバラやタルムードにしてもサバタイ派の特権でないでしょう? サバタイ派のカバラはかなり異色ではありませんか?
• • 夢の回転ユキダマ @8_snowball 5月15日
ラノベとなろうってキリスト教思想入りすぎでは
逸脱するにしても「キリスト教からの逸脱」でしかなく、その枠組みを離れて別の価値を打ち立てているわけじゃない。西欧化といえばそれまでだけど、現代日本はラノベ世界みたいにきれいな「西洋近代社会」じゃないでしょ
ヒロインの属性としてシスターは良しとしよう。でも見た目だけ神道の巫女で中身がシスターなのってどうよ。神道のエロさ0じゃん。それキリスト教のエロさやん
ふつう人間は自分の経験の範囲内でモノを考えるし、未知の事柄はすでに知っていることに置き換えてみて判断する。逆に言えば、その置き換えのやり方を見てやれば、バックグラウンドとなる基盤を推測することができる。
RawlifeTruelife @coco_love7 2014年7月11日
江戸時代は国が公認していた遊郭歴史をさか上ると巫女さんが遊女の始まり。神社で巫女として神に仕えながら神殿娼婦でした。殿方は結婚する前にちゃんとSEX指導をされていました。現代には夫婦円満に大切なSEX指導つまり女性の扱い方を教えてくれるところがないため女性扱い方が下手な男性が多い
黒Ver.リリルカ・アーデ @kurosisyo 2014年7月12日
返信先: @raylily1010さん
@raylily1010 まぁね…… 後は遊女のWikiによると 売春婦は俗に世界最古の職業と言われるが、 日本の遊女も古くから存在していた。諸外国の神殿娼婦と同様、日本の遊女もかつては神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた とかからかな?
昔は、跡継ぎがいないということは、働けなくなれば、土地を取り上げられることを意味し、跡取りです必須。そこで、解決策として神社の神主の子種を頂いたり、巫女さんに子供を生んでもらったりする。
妻良木 美笠@さくら書院 @tsumaragi 2016年1月1日
※巫女のアドバイス 「非処女で巫女するのダメじゃないの?」っていう処女厨はキリスト教の影響だから右翼やめてどうぞ。
さば @saba0274 2016年2月1日
正月のバイト巫女さんに(どうせ処女じゃないんだろ)的な事をネットで言ってるのを見たことがあるけど、なぜ神社の巫女さんが処女である必要があると思ったのか。キリスト教的価値観に犯されているのではないか。気になる。
あきかえで(シャモアリス)ニセ植物 @Inebaka 2015年4月6日
あと、神仏混淆のせいで神社は性的なものはダメって思う人が多いと思うけど、古代日本人は性を神聖なものとみなしてたので、問題ない。お金がない神社とかだと、巫女さんは身体張ってたくらいだし。 巫女は処女でなきゃダメってのは、キリスト教のシスターが同じ位置にいたから付けられたのだろう。
高村武義 @tk_takamura 2015年12月1日
返信先: @motoyaKITOさん
@motoyaKITO あくまでwikiソースですが、巫女の処女性重視は近代以前の武家社会における志向(家督の正統継承)と、明治維新以後、キリスト教由来の貞操観念が普及したことに起因するらしいです。戦国時代以前の巫女さんは祈祷と占いと売春婦を兼ねてましたからね。
夢の回転ユキダマ @8_snowball 5月12日
竹内文書と言い、そろそろ神道系陰謀論の創作物が許される時期が来ている気がする。
神代文字使えばパラレルワールドの日本感でると思う
夢の回転ユキダマ @8_snowball 5月8日
キリスト教の神官は軍人にエンチャントかけてくれてんのに、自衛隊には従軍司祭いないんだよな。従軍神主でも従軍巫女でもいればファンタジーチックになるんだけどなー。
靖国の神官でも同行させて現地でff10の異界送りみたいなことした方がいいと思うんだけどなー
神道がエコロジー宗教になったのって宮崎駿とかいう宣教師のせいじゃん
最近エコロジーっぽさが薄れてきたのも宮崎の元気がなくなったからか 現人神かよ
イスラム教徒は人類が銀河を脱出しても繁栄してるだろうから、ぶっちゃけこれ以上可塑性高くて優秀なシステムは思いつかないや。3流のSF社会ぐらいじゃ、ムスリムからコーランを手放させることなんかできやしない
さすが多摩湖♡ナルコレプシー @tamako_han 2015年5月21日
「夜這いの民俗学」を読んで、本当にそうなのかなー?そんなにみんながみんな性を楽しんでいたんかなー?と思うのは私が女だからかも知れない。だってこの本にはそういう夜這いが嫌だった人の体験談は出てこないし、嫌だった人は語らないだろうしね。楽しかった人だけが語ってるんじゃないかな。
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• • ピルとのつきあい方(公式) @ruriko_pillton 2015年5月21日
@tamako_han 未開社会では思春期になると男女とも家を出て、男女別々に共同生活を始める習俗が広く認められます。日本にも遠い昔には、そのような習俗が広く存在していたと考えられます。
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• • ピルとのつきあい方(公式) @ruriko_pillton 2015年5月21日
@tamako_han 日本の民俗学は、後代まで残った若衆宿(男)娘宿(女)について記録しました。ずいぶん昔に読んだ本なので詳しくは記憶していませんが、後代にのこった若者宿のほとんどは僻地でした。若衆宿が農村の階層分化とともに消えたのではないかとの感想を持ちました。
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• • ピルとのつきあい方(公式) @ruriko_pillton 2015年5月21日
@tamako_han 若衆宿・娘宿が消えてから、夜這いは少しずつ意味を変えていったのではないでしょうか。意味の変わった後の夜這いについて書かれている本ではないかなと。(読んでいませんが)
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• • さすが多摩湖♡ナルコレプシー @tamako_han 2015年5月21日
@ruriko_pillton 若衆宿、娘宿があって、ということは書いてありました。若衆宿での手ほどきの話や筆下ろしのことなども書かれていたり、人妻に下ろして貰ったりとかが書かれていて、お前俺のかーちゃんとやったんだって?とかそんな話が主になっていました。
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• • ピルとのつきあい方(公式) @ruriko_pillton 2015年5月21日
@tamako_han 夜這いの話に人妻の話を持ってくるのが一般的と言えるかどうかは置いておいて。近年の研究から受ける印象は、町家でも農村でも性はかなりおおらかだったようですよ。
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• • さすが多摩湖♡ナルコレプシー @tamako_han 2015年5月22日
@ruriko_pillton 昨日はそのまま寝てしまいました。私の神道観からしても日本はとても性におおらかだったと思いますし(生臭いともいいますが)、例えば巫女の処女性云々や定年というのは明治以降の国家神道からだと考えていて、売春婦が醜業になったのも近代からかな、と。
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• • ピルとのつきあい方(公式) @ruriko_pillton 2015年5月22日
@tamako_han 処女性の尊重は結構遅いんじゃないかな。明治の中期?欧米起源で、神道はどうでしょうか。
さすが多摩湖♡ナルコレプシー @tamako_han 2015年5月22日
返信先: @ruriko_pilltonさん
@ruriko_pillton 巫女さんが神社に定住するようになったのが明治なので、やはり西欧のキリスト教の純潔が取り入れられたのかなぁと。古事記なんかは処女性は問題にしてないですし、この辺りも私の興味を掻き立てています。でも女性が大らかに性を求めていた時代があるのは素敵です。
kashmir108 @kashmir108 2014年5月31日
あれ、昔wikipediaの巫女の項目に「巫女は処女でなければなれないという噂が流布しているが、巫女に処女性を求めるのは西洋の価値観(キリスト教からくる)であり、日本において基本的にはそのようなことはない」って書いてあったのに今消えてる。
藤原興 @oki_fujiwara 2014年9月7日
牧口常三郎は民俗学が民俗学の体裁をまだ持ってない時期の民俗学者でもあり、柳田國男とも親交が深い。創価教育学会は、本当に学会だったわけだ。
はなしあわない @hanashiawanai 2013年11月29日
(引用)1930年11月18日、『創価教育学体系』第1巻を刊行する。尚、この日を創価教育学会設立の日としている。1931年、教職を辞し、宗教・教育活動に専念する。同年に出版した『創価教育学体系』第2巻(『価値論』)には、新渡戸稲造や柳田國男が牧口の唱えた「創価教育学」を評価した。
菊池 @kikuchi_8 5月14日
返信先: @kikuchi_8さん
戦国時代から江戸初期にかけてキリシタンによって破壊された長崎の仏寺の復興を志した道智という僧侶がいた。道智は果敢にもキリシタンの教会に論争を挑んだ。その後キリシタンによる報復で寺を焼かれた。論破された腹いせだろう。姉崎正治が作ったキリシタン被害者史観ではこういう史実は無視される。
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• 菊池 @kikuchi_8 5月14日
キリシタンは論争で負けると実力で報復するという暴力性を持っていた。こういう史実もきちんと公平に取り扱うべきだろう。キリシタン被害者史観は偏っている。我が国も取り入れた因明という印度の論理学は元々討論術から発達したものなので論争の勝敗を決めるルールが確立しており暴力など論外だった。
山窩ラボ@jackiemito7月23日
「夜這い」や「非常民」の研究で有名な民俗学者・赤松啓介が、著書「非常民の民俗境界」にて、サンカについて大変恐ろしい記述を残しています…! 以下、引用します。
「サンカも殆ど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう……ウラの世界にはウラのオキテがある。仲間になって生涯を埋めるならよいが、よいところで足を洗ってあっといわせるような論文を書いて、博士、教授になる、などと夢を見るのはやめておくがよい。続
続 「絶対に死体が上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある。地下活動の経験があれば、これから奥は通行禁止だとわかった。この禁を冒さない限り、われわれの友好は保たれる。それで十分であり、それ以上のことを知る必要はない」
1135夜『非常民の性民俗』赤松啓介|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/1135.html
”あの人はどういうスジの人かね、という言い方がある。筋金入りとかスジ者という言い方もある。大半の学問はこんなスジを追わない。
明治の日本が富国強兵と殖産興業にあけくれていた時期、日本の村落社会は最悪の時期を通過しつつあった。赤松啓介はその食い散らかされた残骸列島になお息吹いている「常民」ならぬ「非常民」の動向を追って、調査研究活動と社会運動の大半を東播地域に向けた。兵庫県の旧播磨の東部の加古川流域である。そこが赤松の故郷であって、非常民の原郷だったのだ。
柳田國男は「常民」を民俗学の対象にした。その柳田の目が届かなかったか、あえて軽視した日本がある。それが非常民の日本である。そこにはさまざまのスジが交差していた。赤松がそのような非常民の日本を重視するのは、「常」には「貴」も「賎」も含まれないのだから、そこに「非常」がなさすぎるというのだ。もし常民が非常を含むなら、あえて常民といわずに「平民」でよかったのだ。
こうして喜田貞吉や中山太郎によって掘削が開始された非常民の民俗と文化が赤松の手と足によってしだいに浮かび上がってきた。スジの日々である。本書はそれをさらに性風俗に踏みこんで語り尽くしていったもので、読んでいてこんなに痛快な民俗学があったかというほど、堪能させられた。スジを理解しないと何もわからない。しかし、すこぶる納得のできる本なのである。
現在の加古川流域地方
世の中にはいろいろな呼称がある。「こちら」から見るか「むこう」から名付けるかで呼称は異なり、「あいだ」で呼び名をまぜると、また別の呼称が生まれる。
部落から見れば大半の常民はハクやシロである。ちょっと思想に染まっていればアカスジに、どこか犯罪の匂いがすればケガレスジ、ヨゴレスジになる。近代社会では難病に苦しむ者も容赦なく呼び捨てられた。ロウガイスジ、キチガイスジ、カッタイスジ。農村社会では本家や分家で分けるだけではすまないのである。
たとえば、本家スジ、庄屋スジ、役スジ、草分けスジ、分家スジ、アルキスジ、被官スジがある。たとえ上流を装っても、見るところから見れば、セケヤ、ホシカヤ、アブラヤ、ハタヤは屋号というより階層の呼称なのである。
たとえばクズヤであるが、ここにもたいそうな多様性がある。クズ買い、ボロ買い、イロモノ買いはまったく一緒にならないし、クズヤとテンヤとハライヤはまたちがう。家をまわってクズとゴミを分けられない女に出会えば、その女が馬鹿なのである。クズヤが貧乏とも決まらない。儲かることもある。ただ儲けすぎたのはクズヤではなくカネヤなのだ。こういうクズヤがいっときバタヤと呼ばれたこともあった。
そのようなクズヤの目線で見ると、村の性風俗が学問ではわからないところまで見えてくる。いまではあまり考えられなくなってしまっているが、かつてはセックスだって家の中でやるとはかぎらなかった。アオカンも多かった。しかもちゃんと合意していることのほうが多い。クズヤの目はお宮、お寺、川、池、木立に詳しいから、どこで女とやるかはそれだけで文化地理学なのである。昔は女も腰巻ひとつだから、それをタチ、オタチ、マワリ、セオイのどれでやるかは、その周辺の木立や石組によるわけで、それが会得できればそこからアゲ、スクイ、スダチ、ミンミンなんていう体位が使い分けられた。
…
ともかく赤松はどんなことも見逃さない。たんなる縁側、たんなる蒲団、たんなる風呂、たんなる工場というものがない。
風呂なら、たとえば五右衛門風呂とマワリ風呂では階級意識も性意識も美意識さえちがうのだという。だいたいマワリ風呂ができるというのは、風呂の持ち回りができるということだから、そこにはカイトやクミの同水準ネットワークというものが動いているらしい。それでもそこにはモライブロかフロカリかカリブロかで、ちょっとした差が感じられるようになっている。そのグロッサリーたるや、まるで厳密な同義語異義語辞典なのである。
何人で入るかでもすべての社会意識が変化する。五右衛門風呂は一人か二人しか入れない。では、その単位のコミュニケーションが五右衛門風呂という社会スキーマなのかというと、そんなことはない。待っている者たちとの関係がある。五右衛門風呂の平均入浴を10分とすれば、10人なら1時間半、15人なら2時間、25人なら4時間かかる。ここからその村落に適切な風呂コミュニティの大きさが決まってくる。しかもソトブロとウチブロでは、主客の重みが断然に変化する。
そういう風呂に黙って入るわけでもない。キャーキャー言ったりギャーギャー言ったりする。そこで猥談も出て、混浴もおこり、風呂がマラムキ風呂になったり、ムケマラ風呂になったりする。これも突然にそうなるのではなく、ちゃんと準備段階がある。冬ならコタツでいろいろのことが少しずつ暗示されているわけで、夏なら川泳ぎで何かの組み合わせが示唆されているわけだ。そのうえでカリブロかフロカリになる。連れ込み宿やラブホテルへぱぱっと入ってすんすんやるというのとワケがちがうのだ。
…男はいつフンドシを見せるかで、すべてが決まる。フンドシを締めれば若衆だが、そのフンドシも初フンと赤フンと鬱金染めのフンドシではちがう。むろんフンドシばかりですべては決まらないから、帯も言葉をもってくる。ヘコオビ、カクオビはむろんだが、その帯を祝いでもらったか、祭りで締めたかが重要になる。フンドシも帯もただ長い布切れだが、おとこにとってはたいへんな言語活動なのである。
女だって、まずは見えないところで万事のスジを決めておく。初潮前なら子守や小女(こおんな)だが、初潮があればオナゴシになる。何をしているかで針子や筆子や番子になるし、そこへもってきてどんなベベを着るかである。
ともかくこういうことが相互に理解されていて、ここに夜這いというものが堂々と成立する。薬師さんや阿弥陀さんのお堂でも、ゴケサンやオイエサンのところでもある。御籠りといえば夜這いはつきものなのである。それをあえて系類学ふうにいえば、まず若衆系と総当たり系に分かれる。相手もヨメ型とカカア型とゴケ型に分かれる。これだけでも結構なものだが、そこに女たちのパフォーマンスによるルールが加わる。開放型、防衛型、交換型、放任型、許諾型、通報型などがあり、その順列組み合わせのあげくの出来事が、のちのち語られていくわけなのである。赤松は村落の物語といったって、このくらいディープなところから発生しているのだということを訴えた。
…とくに"ウタ喧嘩"には圧倒された。近代社会は女工をたくさんつくったが、工場ひとつでも村々の近所や町にあるだけで、女たちは男を受け入れる前にいろいろの"ウタ喧嘩"で鍛えたものらしい。
基本は送り歌と連れ歌らしいのだが、どこから切磋琢磨されるかというところが読めば読むほど実に高度なのである。歌をだしなされ、だしたらつける竹のフシほど揃わねどなどと言って、さあ始まるぞという予感をつける。そのうち、うたえうたえとせめかけられて、歌は出ないで汗が出る、唄いなされよ、お唄いなされ、歌で器量がさがりゃせぬというふうになると、もう始まっている。
ここからはウタカズもさることながら、セリアイウタ、カケウタ、イサカイウタとヴァージョンが控えている。この女のウタの錬磨に男が入るのだから、たまらない。
たとえば、わしのたもとにゃ千もある、これで一の矢。お前たもとにゃ千ほかないか、わしのたもとにゃ二銭(二千)ある、これで一の返しになる。今宵おいでなら、高塀越えて、せんざい椿折らんよに。これが二の矢。せんざい椿が折れよとままよ、とかくあなたの身が大事。これが二の返し。そこからウタ喧嘩になって、二度こそかえせ、三度かえすは、いなものよ。二へんかえして、三度目には、義理と人情の、板ばさみとやられる。ここから色っぽくもなり、ひとの男とだいたん女、山の大木、気が太い。男が太いがどうか見もせぬくせにと詰っても、男とるのは女のかいしょ、なんでそのとき気をつけなんだとやられる。
実はこれらに節回しがつき、地域や地区によって、そのスピードやスコアが異なっていく。
…初床に謡曲のアシライもあったりして、これは非常民の文化こそその他のすべての日本文化の編集センターであったことにガツンとやられるのである。…
附記¶赤松啓介の著書はたいてい明石書店で入る。『非常民の民俗文化』『非常民の民俗境界』『民俗学』『戦国乱世の民俗誌』『天皇制起源神話の研究』『古代聚落の形成と発展過程』などがある。本書には解説は入っていないが、塩見鮮一郎、管孝行、宮田登、福田アジオの解説もあって、読ませる。本書の帯には上野千鶴子の推薦文が刷られていた。 ”
“『チベット旅行記 抄 』(河口慧海(えかい)著、中公文庫BIBLIO刊)にはこう書いてあります。
― 法王の宮殿、この宮殿の名をツェ・ポタラというて、ツェは頂上でポタラは船を持つの義で港のことをいいます。ポタラとは観音の浄土でインド南端の海中にああるセイロン島のことで、シナの普陀落その名を襲用したものである。ここの普陀落は観音の化身ダライ・ラマの住する所であるから普陀落(ポタラ)といい、山上にあるからツェ・ポタラという。”
http://d-engineer.com/kikaiyouso/nejinosyurui.html
山窩ラボ @jackiemito 2014年7月23日
「夜這い」や「非常民」の研究で有名な民俗学者・赤松啓介が、著書「非常民の民俗境界」にて、サンカについて大変恐ろしい記述を残しています…! 以下、引用します。
「サンカも殆ど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう……ウラの世界にはウラのオキテがある。仲間になって 生涯を埋めるならよいが、よいところで足を洗ってあっといわせるような論文を書いて、博士、教授になる、などと夢を見るのはやめておくがよい。続
続 「絶対に死体が上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある。地下活動の経験があれば、これ から奥は通行禁止だとわかった。この禁を冒さない限り、われわれの友好は保たれる。それで十分であり、それ以上のことを知る必要はない」
要するにサンカに接触して、情報を表沙汰にしたなら、殺されちゃいますよ、と赤松啓介は明言しています。いま原典が手元になく、ある書籍から孫引きしてしまいましたが、前後の文脈をじっくり検証する必要のある言説です。
ハゲ_チャング @hage_chang 6月21日
思想犯で偽行商人で野良民俗学者の赤松啓介氏の「紙と鉛筆見せて取材する時点で本当のことは聞けない」→「柳田國男はダメダメ」→山奥の茶屋の女主人に偽行商人と一発でバレる→「ジケ(刑事)ちゃうで。アカやで」「ほな泊まっていき」→夜這い成立! という超展開が読める「差別の民俗学」オススメ
あなたも観音様から産まれた。『もののけ姫』の元ネタ②。網野善彦『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』。宮本常一『忘れられた日本人』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-92.html
革命後の世界を求めて
赤松啓介『非常民の民俗境界』(明石書店)を読んだ。
http://kaoriha.org/nikki/archives/000735.html?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter
“「内輪」とは、たとえば本書247~248ページ:
そこでよくいわれるのは、若衆仲間の目的・役割・昨日というものだ。甚だしい例は香川県小豆島四海村小江の若者組で、正月二日の若者入りから同十五日までの間にイイキカセという十五章の口頭伝承を暗誦できるようにしなければならなかったという。四百字詰原稿用紙にして八十五枚になる、厖大なものだが、先輩の口授でおぼえたらしい。
その内容は「分団へ来る身まわり、頭に帽子、鉢巻、頬かむり、腰に手拭い、煙草入れはせられず、足に下駄、せきざ、表つきの下駄なおもってはけず」と禁止条項、「けいざい」は「小若衆はマッチは月に小箱五箱、炭は年に一俵」と制限(中略)微にいり細にわたっている。
こうした若衆仲間の条目というものを、私は一部の研究者のように信用しない。おそらく明治維新後の新作だろうし、記憶してみても役に立つわけでなく、要するに新参者を苦しめるのが目的である。こうしたものには必ずウラがあって、なんとか抜け道があり、それが半公然と認められていただろう。余所者にはそれがわからないだけで、こんなものをマトモに記憶したり、暗誦させられていたと思うのはバカだ。
…
「性の手ほどき」なるもののありかたが、これもまた内輪だ。235ページ:
紀州の勝浦では娘が十三、四になると、老人を頼んで女にしてもらい、米、酒、桃色フンドシを、その礼として贈った。おそらく相手をした老人の方から赤腰巻、カンザシなどを返すか、先に贈ったものと思われる。また十三、四の少女が、若い青年などに臼を切ってくれと追い廻している地方もあったらしい。臼を切れとは、水揚げしてくれということで、初潮のあった娘が、若い衆や熟練者に自ら性教育を依頼したのである。攝丹播地方の民俗でいうと、こうした習俗はムラごとに違うので、いろいろの型式があったとよりいいようがない。初潮があればすぐ夜這いがくるムラもあるし、発毛するようにならないと相手をさせないムラもある。娘仲間で相談して生涯の相談相手になるような壮・熟年男性を選定してやるのもあるし、早い者勝ちというのもあった。また、春・秋の宮祭り、秋や冬の粟島講、地蔵講などにオコモリ、ザコネで水揚げというのもある。最末期の段階では祖母、叔母などが連れて参り、かねて頼んである熟・老年の男性に破瓜してもらったという。まあお初穂、水揚げはなかなか難しいもので、若い未熟な男たちには頼まれぬということだ。 “
「チベット旅行記」はスゴ本というより、スゴい人の冒険譚
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2007/10/post_9768.html
子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側 @kitsuchitsuchi 2014年3月6日
@lanekota 倒される側の王宮でもコーヒーサロンを媒介に百科全書派が出入りしていたんです。コーヒーと共にスーフィーから秘儀を授かった、一つ目と光る△がついたフリギア帽子を被った白人がコーヒーを飲みつつ百科辞書を読んでいたかも。そう思いながら、道教家は『蟲師』を見ていた。
蟲データベース(一覧)
http://mushishifan.web.fc2.com/data1.html
真金吹く吉備の中山 ~枕詞と歌枕の謎~
http://www.ndsu.ac.jp/department/japanese/blog/2010/11/essay85.html
”岡山の歌枕といえば「吉備の中山」ということになりますが、その「吉備」を導き出したのが「真金吹く」という一句でした。
真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ
この歌は平安朝の第一勅撰集である『古今和歌集』の「神遊びの歌」に入っています。宮廷で仁明天皇が即位される時に催された大嘗祭(だいじょうさい)で詠われた歌で、単なる風景の歌ではありません。
「真金」(まがね)は本当の金属という意味で、黄金あるいは鉄だといわれています。そして「吹く」とは金属を精錬する工程において風を送る作業のことです。したがって「真金吹く」は金属を溶解し、精錬するという、古代における最先端の技術をあらわした褒め言葉なのです。褒めることによって、それにふさわしい地名である「吉備」に掛かっていきます。他には『万葉集』に一例(巻十四・三五六〇)しかないので「真金吹く」は枕詞ではないという説もありますが、歌枕を導き出す表現の働きから枕詞だと認めないわけにはいきません。ちなみに『時代別国語大辞典』や多くの研究者が枕詞説を容認しています。
「吉備」は黍の国か
枕詞の「真金吹く」が直接、掛かっていくのは「吉備」(きび)という地名です。吉備とは備前・備中・備後の三国のことで、後に分国される美作も入れて、現在の岡山県を中心に兵庫県西部と広島県東部を含めた広い地域の総称です。歴史学で「吉備王国」とも称されるように弥生時代から古墳時代を通じて大いに栄えました。そのような吉備の国の先進文明が鉄をはじめ金属の精錬、精製の技術だったのです。
大和朝廷から一目も二目もおかれ、恐れられてもいたようです。おなじみの桃太郎は大和への服属をうながすために派遣された孝霊天皇の第四王子がモデルだといわれています。平安時代になっても特別な地域であったことは、すでに述べたようにこの歌が大嘗祭で詠じられていることからもわかります。
ところで、ここで歌枕となった「吉備」の語源はいまだ定かではありません。岡山県の地名については昭和五年に出版された『岡山県県史』の「地名考」に及ぶものはなく、吉備についても文献を博捜して考察しています。「吉備はキビ(黍)にして吉備国の土地、黍殻の耕種に好適しその産額る多く古来黍酒、黍団子の料となりし」といって、黍に適した土地柄であり、黍酒や黍団子が名産であること、「黍は黄実キミ、転じてキビ」であり、「岐美、岐備、吉備、寸簸、黄薇」などの漢字の用い方はすべて当て字で、皆通じると説明しています。そして「吉備の国名が阿波、安房の粟、紀伊の木の産地に名づけたると同じく、黍の産地に因めること疑いなし。」と結論付けるのです。
…
最後になりましたが、枕詞「真金吹く」が吉備を導き出し、いよいよ本番の「吉備の中山」が登場します。吉備の中山は吉備平野と岡山平野の中間にある山で、古くは「吉備の児島」と呼ばれました。文字通り吉備の国の中心に位置している聖なる神体山で、港があり、吉備津彦の本拠地でした。航空写真で上空から撮影するとかつて島であったことがわかります。南側が庭瀬です。庭瀬という地名も神の山の前の海の瀬という意味だと考えられます。現在、その麓を東西に新幹線が通っています。
その吉備の中山の西側の麓には備前の一宮の吉備津彦神社が、東側の麓に備中の一宮の吉備津神社が鎮座しています。一つの山に二つの一宮が依りついている例は他にありません。吉備における最も聖なる山であり、分国されるとき二つの国がそれぞれの国の神の山と主張したのだと思われます。これほど歌枕にふさわしい山はありません。”
狼たちは知っている @wolvesknow 2015年6月26日
河口慧海の、チベット旅行記。 青空文庫で読んでるが、とてつもない。勉強になりすぎる。 しかし、ダライ・ラマっていったい何?
貧乏人に、ラマの化身は宿らぬ、というのがチベットの極まり。 と書いてある。 筆者は、ラマの化身は賄賂の化身と書いている。いやはや。。。
英国や、耶蘇教の明治時代以前におけるチベットへの侵入も詳しい。 この本を見落としていたとは。。。
狼たちは知っている @wolvesknow 2015年6月29日
そう いやチベット旅行記で、チベット族がタバコの葉をかじって汁を飲み込んでるとあったな。 慧海は、やめさせたと自慢してたけど、何か意味があったのだろうな。
狼たちは知っている @wolvesknow 2016年11月19日
青空文庫のチベット旅行記 河口慧海 で、チベットで僧としての位を上げるには、カネとコネが必要だったチベットの様子がよくわかる。ダライ・ラマは、胡散臭い。
狼たちは知っている @wolvesknow 2016年9月26日
チベット旅行記 河口慧海 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html … おもろいで。まじ、おもろいでこれ。
”法王政府のネーチュン のごときは恐らくチベット中の金満家といわれる位に金があるです。そこで大抵高等ラマの化身は多く貴族の子供とか、あるいは金満家の子供、大商法家の子供というような者が多い。それがおかしいじゃありませんか。貧乏人の子供にラマの化身が宿らないと極めてあるように、ほとんど十中の九までは皆富貴の家からその化身が出るという一段に至っては、必ずその間に何かの事が行われて居るに違いない。それはただ表面から観察しただけでも分るですが、実際は全く妙な事が行われて居ますので、折々嫌な事を沢山耳にしたです。
まず自分の子が出来る前からして神下しの所に行って賄賂を遣って置くです。そうしてどこか良い寺へその子供をあるラマの化身だというて口入をして貰うのです。良い寺には沢山な財産がありますから、そういう風に申し込んで置くとその寺の財産を自分の子供が生れながらにして得らるることになるのであります。それは随分商売的の場合から言ったならば賄賂を沢山使っても余り損はないというようなものでしょう。それゆえに金を沢山贈る者があるんです。これは私のしばしば見聞した事であって、決して表面から観察してこうであろうというような推測話じゃあない。だから化身の信ずるに足らんということはもう分り切って居る。昔の事はいざ知らず今の化身というのは本当の化身でなくって賄賂の化身 であると私は言った事がある。それでもその子供に自信力をつけてよく教育するものですから、どうも化身と称するラマは十人の内でまず八人までは出来の好い方です。二人位は屑もあります。その教育の方法は教師も付添人もその化身とされし子供に対して鄭重に敬語を用います。喩えばその化身の子供につまらないことがあっても無下に叱るということをしないで、あなたは化身であるのにさようなことを遊ばしてどう致しますかというて反省させる位のものであります……。だから私は少し考えた事がある。どうも子供を無闇に馬鹿だの頓馬だのと罵り、あるいはその記憶力の足らぬ事判断力の足らぬ事をば無碍に卑しめてその自信力を奪うという教育法は、確かにその子供の発達を妨害する教育法だと思います。
その子供には自信力をつけて充分進めるものであるというところの観念を起さしむるように教育することは必要であるという考えを、チベットに居る時分に起しました。チベット人はそういう事はもちろん知らない。また賄賂を遣るというような事もそれは富貴者の間に行われて居ることで、一般人民はそんな事はちっとも知らない。実に馬鹿なもので、政府が蜻蛉返りをして居っても一般人民はほとんど知らない。一般人民の間に伝えられて居ることは、どこそこの華族さんに今度お子達が出来たがそのお子達は生れながら乃公はどこの何というラマであるというたとか、あるいはその子供の所へその前のラマの物としからざる物と同じような物を二つ持って来て、あなたのはどちらかと尋ねたら同じような物の中でよく見分をつけて、これは本当これは嘘であるというたそうだ、だから彼子は確かに化身に相違ないというような説が俗人社会に行われて居ります。
これはチベット一国にこういう迷信が行われて居るので、ただラサ府、シカチェにおける秘密に立ち入って見ると、その化身は賄賂の化身ということは確かに断言して憚らない。たとい賄賂の化身でなくても、神下しとある貴族との関係上、神下しはその貴族の保護を受けて居る時分には特別に賄賂を貰わないでも、それはいわゆるおべっかにそういう事をやることもあるです。この神下しの事についてまだ少しいいたい事がある。”
狼たちは知っている @wolvesknow 2016年12月4日
新西遊記 久生十蘭 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/001224/files/46087_45574.html … ダライ・ラマが胡散臭いなと思われる鋭い方向け。ラマ教(チベット仏教)に関する話。食事中の閲覧はお勧めしません。
狼たちは知っている @wolvesknow 6月30日
チベットの僧籍の人達が身分を上げていくのに、いかに昔から金まみれなのか、差別思想があるか等は、チベット旅行記、河口慧海を読むとわかります。青空文庫にあります。 ダライ・ラマねー。。。オウムの麻原とも会ってたね。あのコネはどこからなん?
世界の民族衣装 @minzoku_gazo 7月7日
1879年に撮影されたチベットの王女。インドの学者サラット・チャンドラ・ダースによって撮影された。サラット・チャンドラ・ダースは河口慧海(日本人初のチベット入国者 当時のチベットは鎖国状態)のチベット語学習の手助けもしている。 pic.twitter.com/GPdN3PqdRV
thanatology @thanatology_bot 7月6日
死ねばそれまでのこと、日本にいたところで死なぬという保証はできない。向こうへ行っても必ず死ぬとは決まっていない。運に任して出来うる限りよい方法を尽くして、事の成就を図るまでのこと。仏法修行のために死ぬほどめでたいことはない。それが私の本望だから惜しむに足らぬ。(河口慧海)
『チベット密教の本』(学研)『ワンピース』『東京喰種トーキョーグール』『さよなら絶望先生』『ねじまきカギュー』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-34.html
斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html
P・グラレム @pinkglalem 2014年3月20日
@lanekota @youtube 中共進攻以前のチベットと言うのは1%の貴族が宗教指導者をたてて、農奴を搾取する厳格な階級社会。貴族は自分たちが懐柔できる指導者を子供の頃に拾って来て都合良いよーに教育する。毛沢東に資産を剥奪された貴族たちはCIAや欧米勢力に泣きついた。
@lanekota @youtube ダライラマの実兄はCIAだし、現代のチベットはかなり近代化が進んでいる。この現状を、日本では報道しない。税金を払いたくない日本の宗教法人がフリーチベットを擁護するのは当り前。ダライラマ時代のチベットは田布施朝鮮部落システムにとっては、理想郷。
P・グラレム @pinkglalem 2014年10月11日
@pinkglalem マザーテレサろ言うのは、多額の寄付を得る為に、病人とかを、わざわざ不衛生な場所に手当てもせずに放置して、それを宣伝材料に使っていたワケ。チベットはね、ダライラマが統治していた時代より、中共産党が民主化した今の方が国民生活が裕福なんだよね...
P・グラレム @pinkglalem 2013年12月13日
@lanekota ダライラマ統治時代のチベットはかなり酷い専制政治だったらしいです。寺院では幼児への性的虐待も横行。映画で出て来るHハッラーも登山家ではなくてSS。CIAがチベットテロを援助していたのは、陰謀論ではなくて、ちゃんと文章が残っているそーです。
P・グラレム @pinkglalem 2013年10月5日
ダライラマの時代、チベットの圧制は、李氏朝鮮時代の半島よりも酷かった。ハインリッヒ・八ッラーはヒトラーSSだったし、ハーケンクロイツはチベット佛教の卍がモデル。ダライラマは、昭和天皇と同じくヒトラーの友人である。
P・グラレム @pinkglalem 2015年1月16日
ユダヤ人は存在しません。コレは事実です。じゃぁ、ユダヤ教は?ユダヤ人が存在しないのに、そんな宗教を作れるワケないじゃん。コレも存在していない。「ユダヤ陰謀論」をいまだに吹聴してるヤツに訊いてみろ。その陰謀論の根拠を示せと...連中は答えられないから...
古代のセム語族には3種類いて、アラム人とフェニキア人とヘブライ人、この三つをミックスしてデッち上げられた空想上の民族がユダヤ人。ユダヤ教は、ゾロアスター教とバアル信仰とその他の神話をミックスして捏造されたモノ。
フェニキア人は交易の民でシルクロードの地域で手広く商売をしていた民族。カルタゴの軍事力は彼らの経済力によって支えられていた。イベリア半島はかつての植民地で、スファラディとは、フェニキア系の民族。ヘブライ人はアラビア半島の南部に定住した民族で移動していない。
P・グラレム @pinkglalem 2014年9月15日
@jewjewsenjer @tomikanjizai @saraonabrick ユダヤ系スペイン人なんて存在しない。イベリア半島はカルタゴの植民地だった。フェニキア系だ。バーカ。
STB @RC_StB 7月19日
ロスチャイルドの主人ヘッセン家現当主、ハインリヒ・ドナトゥス(写真右側の男)。 サヴォイア家ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の曾孫、エリザベス2世の三従兄弟(祖父フィリップの母マーガレットがヴィクトリア女王の孫である) pic.twitter.com/hpIB5BassB
因みに、ヘッセン家は30年戦争時代新教側で、ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム5世(ルター派)はスウェーデンに与した 代々ルター派だが、ヘッセン分家はカルバン主義だったり ハインリヒ・ドナトゥスも御多分に漏れずルーテル教会
帰ってきた魔法使いハンターねこた @lakudagoya 7月19日
@RC_StB プロテスタントとメイソンのオーバーラップ構造が丸見えですね。こんばんは。
STB @RC_StB 7月19日
@lakudagoya 今晩は ええ。欧州貴族=王族は埃が沢山出てきます ヘッセンは貴種の上位層ですしね ロスの一派を粛清したとも言われるサヴォイアはラテラノ条約を結んだりP2事件でバカチン銀行と結び付いたりしていましたが
帰ってきた魔法使いハンターねこた @lakudagoya 7月19日
@RC_StB そうそう。でも、中核のデルバンコとかあのあたりはベネチアや有色人種の銀行家が出たりしてて何で欧州の金融特権がそのなんだ?と色々と謎ですが。中世の中東の金融コネクションとの繋がりがきになりますね。
STB @RC_StB 7月19日
@lakudagoya ソースによっては、スキタイ人と書いているところもあるんですよね テンプル騎士団として十字軍略奪を行ったのがデルバンコ(スキタイ)で、バイキングと合流し海賊になった、と ベネチアの金融家は後に天然の要塞スイスに移動
『夜這いの民俗学』(赤松啓介/明石書店)を読みました。
http://kappa.hatenablog.com/entry/2012/07/22/223844
『非常民の民俗文化』 赤松 啓介
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-853.html
赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』×西加奈子『漁港の肉子ちゃん』http://riekonaito.blogspot.jp/2013/01/blog-post_30.html
菊池 @kikuchi_8 22 時間22 時間前
オウムは仏教とかヨガ団体を偽装しているが「霊性進化論」というブラバッキーなど神智学協会の連中が考えた教義を根幹に据えている事を見ても神智学系のカルトだと分かる。オウムの背後が裏権力なのは言うまでもないが、表に掲げる教義も完全に結社系の思想である。オウムは表も裏も完全にあっち側だ。
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• 菊池 @kikuchi_8 22 時間22 時間前
オウムの思想面の分析については「現代オカルトの起源」大田俊寛著をお勧めする。神智学を起源とする近現代のオカルトの思想史がコンパクトにまとまっている。「陰謀論とオカルトのセット売り」に騙されない為にも有益な基礎知識と言える。
1件の返信 9件のリツイート 15 いいね
• 菊池 @kikuchi_8 15 時間15 時間前
オウムはチベット仏教の影響があると言われる。だがチベット仏教では論理学を徹底して学ぶがオウムは超能力に執着し終末思想を煽るなどオカルト教義に終始する。神智学の霊性進化論はペルシャ系の黙示的終末思想を根幹とする。新約聖書の黙示録と同じ系列。だからオウムは「ハルマゲドン」を強調する。
オウムが影響を受けた「神に進化する人種と動物の次元に堕落する人種の2種類の人種がいて最終的に前者が勝利し理想郷を創る」という「霊性進化論」は新約聖書の黙示録を通してペルシャのゾロアスター教の善悪二元論及び終末思想の影響を受けている。
そこに近代に登場した進化論を混ぜた教義である。
「善悪二元論」「終末思想」を特徴とするオウムは仏教や印度哲学の系列ではなくペルシャ系のカルト教義である。
因明を見ても分かるように印度哲学には論理性と合理性がある。神智学自体が印度を偽装するペルシャ系の思想である。ペルシャ系の思想は新約聖書の黙示録などを通して西洋に流れ込んでいる。
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• 菊池 @kikuchi_8 14 時間14 時間前
印度哲学の中でも原始仏教は最も論理性と合理性が高いと評価できる。原始仏教は「渇愛を除いて苦を滅する事」(四諦)を目的とする。判断の対象を経験できる現象に限定し形而上学的な断定は避ける「無記」の姿勢。形而上学について独断を積み重ねるペルシャ系思想とは全く異なる。オウムは仏教に非ず。
1件の返信 4件のリツイート 5 いいね
• 菊池 @kikuchi_8 14 時間14 時間前
無記はヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものには沈黙する」という姿勢に似ていると言われる。カントも純粋理性の適用範囲を「現象」に限定したものの結局は「物自体」を想定したり実践理性においては形而上学を要請したので無記に関しては不徹底だった。即ち「無記」は西洋では20世紀まで登場せず。
“『柳田民俗学の最大の欠陥は、差別や階層の存在を認めないことだ。いつの時代であろうと差別や階層があるかぎり、差別される側と差別する側、貧しい者と富める者とが、同じ風俗習慣をもっているはずがない。』(「差別の民俗学 (ちくま学芸文庫)」P236-237)
柳田のいう常民が彼の政治的な意識を前提として創出されたファンタジーであり、それが「国民」という神話を創りあげることに大きな影響を及ぼしたことに対して徹底的に批判を加え、その対抗意識から柳田民俗学が取り上げなかった差別、性風俗、ヤクザ、天皇といったタブーを中心に研究を進めていった。
『彼らはこの国の民俗学の主流を形成してきたが、かつてはムラで普通であった性習俗を、民俗資料として採取することを拒否しただけでなく、それらの性習俗を淫風陋習であるとする側に間接的かもしれないが協力したといえよう。そればかりか、故意に古い宗教思想の残存などとして歪め、正確な資料としての価値を奪った。そのために、戦前はもとより、戦後もその影響が根強く残り、一夫一婦制、処女・童貞を崇拝する純潔・清純主義というみせかけの理念に日本人は振り回されることになる。』(「夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」P33-34)“「夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」赤松 啓介 著”
http://kousyoublog.jp/?eid=2684
峨骨 @Chimaera925 2016年4月22日
夏目漱石の坊っちゃんでは下女の「清」は「瓦解」の時に零落した人物と作中で呼ばれている。瓦解とは明治維新の事。官軍側ではなかった人々は維新ではなく瓦解と呼んだ。学校教育では官軍側の視点に立っている。維新と瓦解の対比。勝てば官軍とはよく言ったもので、呼称も上手くやったものだ。
ニャ太郎【日々是猫日】 @nyatarous 2012年12月5日
明治維新後、当時を生きた文豪などの知識人達の大半は明治維新を徳川幕府の「瓦解」と捉えていた。これは当時の夏目漱石や芥川龍之介が実際にそう書いている事からも明らか。民衆の間でも明治維新は民衆に求められて起こった出来事ではないので、明治政府を尊敬するような風潮は維新直後は更々無かった
ニャ太郎【日々是猫日】 @nyatarous 2015年7月1日
夏目漱石をはじめ、永井荷風などの明治の文豪や知識人の多くは、明治維新を江戸幕府の『瓦解』と証した。 維新と言う言葉は明治政府が”宣伝”のために使用した言葉であるが、彼らの残した言葉から、当時の人々には明治維新なるものがどう見られていたか分かると言うものである。
KOJI SAWADA @sute56 2010年8月12日
「<明治維新>というもっともらしい言い方は薩長のもので、東京生まれの漱石や荷風、芥川までが<維新>とはいわずに、徳川家の<瓦解>、<御瓦解>と作品の中でいっている。」小林信彦(『森繁さんの長い影』より)#ryomaden #bakumatsu #ryoma
【マンガ絵描きたい27】霖之助の昔の日本人ってば【法規制反対3】
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桂米朝 「桃太郎」
https://www.youtube.com/watch?v=cU89aSJvHjs
お読みくださり感謝! 昔こっぽりにゃんこの目!
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