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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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金光と大本教が崇める鬼は岡山の温羅(うら)=桃太郎の敵! 黒住と金光と天理教=幕末三大新宗教=和風キリスト教(グノーシス寄り異端派)は全て世界連邦推進派!『うらたろう』『ねじまきカギュー』『トラウマイスタ』 

↓金光教と大本教が崇めている艮の金神=うらたろう。


金光教と大本教が崇めている艮の金神=鬼は岡山の温羅(うら)であり別名「丑寅(うしとら)みさき」!
しかも左目を射抜かれたから右目のみの片目(製鉄民)!
しかも百済の王子!

桃太郎の敵!

“吉備津宮のお釜殿は温羅の霊を祀(まつ)れるもの、その精霊を「丑寅(うしとら)みさき」という。”
“討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射たが矢は岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。”

鬼退治の桃太郎が明治20年に国定教科書に採用されたことから、
国家神道=天皇一神教側と、
鬼を崇める(桃太郎は怨敵)金光教と大本の派閥が違うのは明白。
大本弾圧事件。
弾圧しても派生団体は潰さない茶番。

政府が桃太郎側(中身は仏教ではなく、耶蘇と神道カルト)であることの傍証が犬養毅。
犬養の先祖は桃太郎の家来(の元ネタ)である犬飼武(いぬかいたける)。
となると5.15事件での犬養毅暗殺に協力した勢力に鬼勢力がいてもおかしくない。
しかも犬養元首相は、創価教育支援会に参加。
新渡戸稲造、柳田國男も参加。
創価の出自が南朝天皇崇拝団体だから、柳田が天皇批判できないエセ民俗学者なのは当然だな。
創価は戦前から国営カルト。
創価は耶蘇化しているが一応日蓮宗だからエセ仏教✝系。
鬼崇拝側は仏が大嫌い。
耶蘇化しても仏要素があるだけで大嫌い。
桃太郎=政府側は耶蘇化した仏教(創価)派閥も強いのだろう。
国家神道だけどね。
桃太郎がそこまで深い話だとは…

吉備は「真金(まかね)吹く」(ふいごで吹いて鉄を製する)という枕詞がつけられるほどの鉄の産地。
「真金(まかね)吹く吉備」の「金」でもある金光教。金神とは金属の神でもある。
ダブルミーニングで製鉄鬼だと主張。

本記事の資料に創価学会が全然出てこないことに注目!
資料にアンチ創価の立正佼成会が出て来ることに注目!
創価は天皇崇拝団体出身だが、叩かれ役だということ。
創価は本体から外されている疑惑。
立正佼成会のほうが本体に近くて地位が高いとわかる。
工作員の叩き具合みるに立正佼成会よりも創価叩きが多い。
悪評が露骨に多いなら本体ではない叩かれ役の法則が発動する。
そういえば統一教会も資料に全然登場しないな。
創価も統一も登場しないエキュメニカル団体の資料は超重要だとわかるね。
老舗のほうが地位が上の法則!


伝承の温羅(うら)は製鉄技術を持ち、左目を射抜かれる。鍛冶と一つ目の関係を想起。
温羅(うら)は吉備=岡山の人に技術を伝え豊かにしたという伝承がある。
鬼退治=温羅(うら)退治は要は、鬼を崇める側が負ける話。
丑と寅の間の方角(北東)である「鬼門」(牛の角と虎柄パンツ)と、
「裏鬼門」に位置する十二支(方角)の申(サル)、酉(トリ=キジ)、戌(イヌ)の対立という陰陽道思想は省略。
陰陽師は仏教徒。
陰陽道は宗教ではないから仏教を信仰。
鬼崇拝は仏嫌い。



おねしょた兄貴に紹介されました!(この記事ですよね?)
うれしいよ。

魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)‏ @douteimaturi 2017年5月18日
子子子子子さんのブログに書かれていた宗教団体を覚えといてね
アレ、全部偽物邪教で本物邪教誘惑者だから
何でかというと規範や規律等や教条論がハッキリしている宗教は他の宗教集団何かとは手を組む事なんてありえない
イスラームなら最低でも生活はできても、内心を共有する事は絶対にない


イマームホメイニーのおさーんも言っているけど、イスラームだけが光であり、後は全部邪教で人を暗闇へ、地獄導くものであり
態々、光を目指すものが地獄に堕ちる連中と手を組む何てありえないのです
こういった、基礎宗教論が分かっているのであれば何が偽物か瞬時に判断が出来るわけだ

あんまり、こういうのは好きではないが日本のカルト共がこっちに連絡かけているのを知っているからね
君らのその程度の低い知能は残念ながら見透かされているのとあそこまで程度が低い教理って中々存在しないから良い資料になっているよ
せめて自然崇拝なら未だしも…アレじゃあねぇ…。

良いかい?
こっちは日本と同じ翻訳文化の社会でまたピンのレベルがかなり高いところだ
で、君らのその粗末な教義は何の焼き直しかすぐにわかってしまうんだよ
また、この社会は過去に秘密結社的でソレの害と効用も知り尽くされているの君らが考えているよりもこの社会はもっと邪悪で凶悪なんだ

君らは日本では好き勝手出来るけど、日本を出たら虫けら以下なのだから虫けら以下は虫けら以下で地面の中を蠢いていれば良いんだよ
所詮、下っぱ・中間管理職でも最底辺なのだからその程度の教義しか作れないわけ
残念だけど、君らは失敗作なんだ
失敗作だからほっとかれているだけなんだよ
君ら自身分かっているし、薄々気づいてただろ?
何故に資産や富、権力だけしかくれないかをさ?
単純だよ、君らの頭脳がその理に耐えられないから物質しかあげられないのだよ
君らを知恵の世界に入れられないのはその性根の穢さなんだよ
それも意味だけで完全共通知という遥か先があるのだけどね
人が人を教えられれば意味まではたどり着く しかし、君らは虫でしょ?
人は虫に何かを教える事は出来ないから、精々餌をくれてやる事しか出来ないのよ
残念・本当に残念、でもそれはお前達がお前達自身で汚したのだから誰のせいでもない
お前自身の責任、甘んじて受け入れるのだな
どうせ、君らの事だから私の正体を知っているだろうけど
私の正体を知っているという事は私が偽物ではないことも非常に厄介な存在であることもわかってるわけだ
だから、私も相手にしたくないし祖国くらいではのんびりさせてほしいし、性根がにーとなので触れないで欲しいんだ

(万教帰一=教義の統一。
これを実現するには、世界に一つしか宗教が存在しないようにするしかない。
つまり一つ以外のすべて宗教を消滅させるしかない。
実在論の西洋思想全般とイスラームが、
反実在論の仏教と根本が同じなんてありえないし、
根本が真逆なので合体できないから、
合体するふりして仏教の中核を破壊。
イスラームみたいにすみわけするのが最良。
万教帰一言っている宗教は同時に自分らの宗教が最高と言っているから、
自分ら以外の宗教は滅びろと言っていることになるから平気で他の宗教破壊、特に仏教破壊をやるのは当然だから悪だと私は結論している。
イスラームみたいにすみ分ければOKというはるか昔に良い答えはなされ実行されていたのになあ。
耶蘇まざると他教は破壊!って発想になる。ばれないように憑依して破壊なのが悪質。
耶蘇は信仰告白せずに信仰を隠して工作するし)


シーア派12イマーム派ウスール学派であるおねしょた兄貴の姿勢

おねショタおじさん @douteimaturi 10月8日
大本というのがやっている絶対にやってはならない事は一点
大本を軸にして比較宗教やっている事です
これは多神教的帰一主義の悪いとこで手口として主管が言っている事を様々な宗教と比較して、どんどん絡んでやっぱり全ての真理は私達にあると一人合点することです


なので、私は大本的な思想を全否定します
基本的に宗教思想というのは譲れない絶対論があって成り立つものであって、それには必ず唯一でしかないものがあるのです
だから、神学としてこういうアプローチがあると言っている時点でその宗教には神学が存在せず吸収して肥えるスライムみたいな物です

神学はスライムではなく、縦軸がしっかりしているものなのではっきり異物は異物として認識がカッチリされています
ただ、大本みたいなものは異物ですら取り込んで飲み込むので私から言わせれば宗教ではなく、学問でもなくただのご都合主義的なその場凌ぎに終始する言い訳であり、宗教や学問でないです

簡単言えば、泥棒で盗癖があって盗みを働いているのにこれは自分のものだと言い張っているようなものでホツマツタエや霊界物語自体が泥棒に泥棒を重ねてどれが盗んだものかわかんなくなっている泥棒の落書き帳なのでそんな落書き帳を研究するなんて人間の所業ではなく、口舌し難い悪人の行いでしょう

別にただの万教帰一的なものなら何もここまで否定しません、しかしながら大本系とそれに近い泥棒の落書き帳を研究とか言っている連中は神学的にありえないので全否定します
繋げる事は非常に簡単なのですがそれを整合つけるのは実に難しいのですが、奴らは大本が軸で結ぶのでそういう苦労をしません


そんな雑すぎるものを学問とも言いませんし、比較宗教学でも神学でもありません
むしろ、神学がないからそんな粗末な思考ができるのでしょう
全く人類、生物として信じられません
もし、人間であるならば何故ここまで違うのかに戸惑うはずですがアメーバなのでそんな事できません物理的に不能です

大本なんて名前が間違っているのですから、スライム教やアメーバ教と本来の存在の名前を言うべきなのです
本当に聖なるものを豚喰い、犬喰い、蛇のように丸呑みする連中は実に醜い


おねショタおじさん @douteimaturi10月8日
はっきり言いますけど、ギリシャ哲学と
中国の諸氏百科それに心身一元論に契約の思想、
イスラームやユダヤを正しく認識していれば西洋哲学はただの毒物でしかありません
あんなよくわからない文章を読むぐらいでしたら、論語や韓非、墨子などを読んだほうが遥かに現実的に使えますし、簡単です

恐ろしいのは西洋哲学は詭弁と雄弁術、修辞学の塊なのでそれなりに聞こえてしまうのと舶来物信仰があるのでそれにコロリとやられてしまう事です
特にぬほん人は舶来物が大好きなので簡単に新しい舶来物に被れて、そこの内容物を問わないという悪癖があります
まあ、軸がない人々という事です

でも、ものの本質を隠すような議論をしても意味がありませんので生活が神学であるイスラームとユダヤはある意味、言行一致を求めるので日本人に受け入れやすいのではないかと思います
ただ、超排他的で徹底的に非寛容な日本社会とその性癖で都合の良い誤解をしていくのは容易に想像できますけどね





神道カルト(大本教派生の日月神示派)サイトの大摩邇(おおまに)氏で本記事が転載されました!
うれしくないです(おねしょた兄貴に紹介されたことの対比)。
日月神示=和風耶蘇を否定する私のブログを転載する意図が気になりますね。
他の記事も転載されています。
あ、消さなくてもいいですよ。これからも転載してください。私のブログをよく読む人は大摩邇(おおまに)氏にはいかなくなるだろうけど。

“大摩邇(おおまに)
日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと)“

http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/

の「勝手に拝借しましたm(__)m」タグの記事
随時追加 黒住教と金光教と天理教の情報。に幕末三大新宗教=和風キリスト教(グノーシス寄り異端派)! 世界連邦推進で人脈にワールドメイトあって草不可避
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/2034912.html

お礼♡
大天使ミカエル大好きなGLAの教祖の義弟にエジプト生まれの「ワン・ツー・スリー」と名乗る霊があらわれ、教祖の指導霊となった!ひふみ神示エジプト起源説?

ヤマギシ会所属歴ありで「大本教は研究しない」宣言をした島田裕巳『日本の10大新宗教』(と『整体入門』)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-164.html
“・GLA
の教祖・高橋信次の義弟に紀元前千三百年、エジプト生まれの「ワン・ツー・スリー」

高橋は古代エジプトや中国の霊が降りてくるなど霊的体験をし
68年本格的な宗教活動開始。松島幸之助(松下 幸之助?)の霊が降りたりもした。
新宗教の霊は普通は先祖の霊。
69年「大宇宙神光会」発足。
70年GLA(God Light Association)に改称。
霊言が古代インド語やアトランティスの言葉でなされる。
60年代の『ウルトラQ』などオカルトへの関心が高まっていたので社会風潮とも合致。76年高橋は亡くなる。
妻が事業を、娘の佳子がGLAを継ぐ。
佳子はミカエル・ボーイズ・アンド・ガールズという親衛隊を作り彼女が登場すると親衛隊は「ビバ・ミカエル」と叫び方を組み歌ったりした。熱狂的ファンに取り巻かれるアイドル

と呼ばれた。佳子を支える教団の青年達は「ビバ・ミカエル」と叫び肩を組んで歌い熱狂的ファンとアイドルのような雰囲気が生れた。古くからの会員が去り、その後講演会(集団的なカウンセリングのよう)開催等現実路線へ。

(エジプト生まれなのに名前が123の英語名(笑)。一二三ひふみって言いたいんだろ?ひふみ神示系だね。
聴き手が高確率で日本語と英語しかできないだろうからそれ以外の言葉で語ればなんでもあり。
そもそも存在しない言語なら絶対に大丈夫。
大本のおふでさきって原文全然読めないし。読めるようにした王仁三郎が都合よく改変したんだろうなあ。
ミカエルっていう有名っぽい陰謀追及サイトがありますね。GLA系への言及に注目。
高橋は真のメシア「エル・ランティー」で、佳子はその助力者「大天使ミカエル」らしいからね。”

efuwara‏ @efuwara 5月12日
この研究は面白いな!「スサノオノミコトを祀る神社,熊野系神社,八幡系神社の多くが津波被害を免れている
アマテラスを祀った神社,稲荷…系神社はその多くが被災している」/東日本大震災の津波被害における神社の祭神とその空間的配置に関する研究https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejsp/68/2/68_I_167/_pdf …
17件の返信 9,788件のリツイート 13,026 いいね

天照と教祖が一体化したとする黒住教がさんざん支配層に協力した挙句がこの仕打ち。
結局、切られること前提の実行部隊だったってこと。
このツイートを引用したのは大摩邇氏もいずれそうなるかもねーって警告したかったからです。
お礼終わり!
以下の派閥ではないのかもね。




リノ・エアレイス‏ @rinogarcia 2016年11月8日
実はある意味日本はもっと凄い 何せ藤原氏がまだ政治と祭祀の中枢にいる
西暦600年代に発祥し、時の帝に多くの后を送り、
鎌倉時代にも将軍職を輩出し、
戦前は藤原五摂家の近衛氏が首相となり
今も九条氏が平安神宮宮司、
鷹司氏が伊勢神宮大宮司と、日本会議の顧問じゃぜ
藤原氏最強

―――
戦争推進の日本会議(五摂家も協力)が世界連邦運動派生。
どうみてもおかしなことを言っていて戦争屋と仲がいい政治家たちが世界連邦に積極的に賛成。
ゆえに日本会議=世界連邦運動の一派=悪。
天理教は世界連邦系イベントに参加(黒住教も参加)しているので世界連邦賛成派。


幕末三大新宗教
要約

共通
・見事なまでに仏が登場しない

・一柱の神が人間に~を与えた。ゴッドが~の焼き直し。ただしグノーシス寄り。
要はこれ。
出口王仁三郎「誠の神様はただ一柱しかおはしまさぬ、他は皆エンゼルである。」
黒住からずっとこれの焼き直しばっかり。

・万教帰一と世界連邦推進。

・同じ設計図(聖書とグノーシス文書)が教祖と使徒の設定と教義に使われている。
何回も使いまわすのは、「同じ設計図(中身)で外見は現地の伝統に偽装」が一番うまくいくという再現性が得られているから。

・教祖の兄弟や両親の情報が驚くほど少ない。
出自がばれるからねえ。
となると孤児という設定は非常に有効。出口鬼サブローの家系図が出回っているけど信用していない。

・改造なしグノーシスだと、
物質=悪vs魂=善の二元論だから、日本になじまないから緩和。仏教思想では物質は悪ではない。真言宗の正体はマニ教とかグノーシスとか悪質なデマはやめようね。仏教では肉体は悪ではないよ。現世で肉体を持ったままで悟るから当然。

天理教

・天理教は自分で一神教と言っている。親神という。信者から金を得られるのに都合よく教祖の伝記を改竄することはOKする神。大した親だ。毒親。

・天理教も「いちれつ兄弟姉妹」や「他宗教や敵対する人々も兄弟姉妹とみなし」でわかるように、新耶蘇=万教帰一側。



・世界連邦運動の精神をうたう「神戸平和の塔」前での第30回「世界平和祈願祭」に生田神社、世界連邦協会代表、黒住教・天理教・大本・白光真宏会の代表、人類愛善会代表らが参加。
しかも神戸平和の塔前の台座には「世界は一つ」と刻まれ書いたのは湯川秀樹。
神戸市の世界連邦平和都市宣言15周年を記念し、市から敷地の提供を受けて建立されたのが神戸平和の塔。
以上、大本教新聞である人類愛善新聞より。

くわしくは以下の過去記事をどうぞ。

ねこた‏ @lakudagoya 4月15日
ねこねこさんの天理教の話が熱い!
この国は天皇人脈がカルトを運営して搾取するわけだね!

で、天理教は真っ黒黒助じゃん!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-164.html?sp …
(ヤマギシ会所属歴ありで「大本教は研究しない」宣言をした島田裕巳『日本の10大新宗教』(と『整体入門』) )
天理教も搾取か。 天皇一族って何でカルト宗教とかパチンコで民衆の生活を破壊するの? 本当に為政者ならば、国民を守るのが仕事だよね? 同胞を生贄にして破壊するとか普通はできないから、反日勢力ですかと? やつら神になったら何でもやって許されるとか思ってそう。


黒住教

・現教主はこの世界連邦日本宗教委員会代表委員4名の1人。宗際活動は万教帰一の言い換え。

・金光教と大本教とも交流あり。世界連邦推進だから当然。

・明治期に五摂家が入信。

・宗忠神社は66年(慶応2)に勅願所となり幕末の尊王討幕運動の一拠点となった。公卿らが支持し、黒住教は皇室の祖神とされた天照大神を最高神にしていた(意図的)ため明治政府の天皇崇拝を旨とする〈大教宣布〉運動を担い、皇道宣布の国民教化運動に積極的に参加し全国各地に布教。

・全ての人が神になることができる、教祖がアマテラス(太陽)と一体化、グノーシス寄り。

・教祖が冬至の日生まれ。教祖が太陽神と一体化したのが冬至の日。耶蘇とミトラ教の改造版。
33歳で両親と死別。自身も肺結核になり死を覚悟。
文化11年(1814年)の“最期の日拝”=太陽を拝むで親不孝に気づき心を入れ替える。
その後二か月で不治の病の肺結核を克服。
33歳から始まる死と再生の体験。
その年の11月11日(34歳)に太陽神と一体化。
冬至の日は宗忠大明神の誕生日であり、黒住教立教の日である。
教祖の伝記は教団に都合よく設定されるもの。

教祖の黒住宗忠と赤木忠春(=黒住宗忠のパウロ)の設定のモデルは聖書だろう。教祖が教祖神と呼ばれるので神との一体化と同一視OKなグノーシス側。一神教的多神教だと必然的にグノーシス寄りになる。

・”黒住教は、江戸時代後期の文化11年(1814年)に立教した、日本人を教祖にもつ最も古い宗教です。“
と堂々と嘘をつく。
日本人の定義は?最澄と空海と鎌倉新仏教と吉田神道の教祖とその他有象無象の教祖が全員日本人ではないってこと?仏教は宗教ではないらしい。

・“私たち人間は全ての命の親神である天照大御神の御魂をいただいて生まれてきた神の子”(笑)。
太陽=創造神の子。君も量産型イエス・キリストだ!
至高神の一部である善なる魂をみんなが持っているというグノーシスが元ネタ。

・“現6代教主・黒住宗晴は、教祖神の名代として、日夜、人のため社会のために祈り、まごころを尽くしています。” 
日本会議の役員となり戦争推進することがまごころらしい。

・教祖が立教前に一度伊勢神宮に参っている。今もボスらが伊勢神宮に参る。
伊勢神宮の式年遷宮のさいに、古殿となった内宮の建築材を黒住教が大量にもらっているほどの関係。
神道カルト同士仲良しだね!

・本部神殿「大教殿」の、三角形の中に○があり、三角形のてっぺんから二本角が出ている個所のデザイナーがきなるなあ。

・柔道人脈もある。
ーー

金光教

・出口なおは元金光教信者。
(光金教→大本教→生長の家の流れに注目)

・ 教祖の金光大神の側近である佐藤範雄は赤十字メンバー=五摂家と天皇人脈。
金光教教団の組織化と教義を整備した佐藤 範雄(さとう のりお)。
政府機関への働きかけを行い明治33年(1900年)6月という狙っているとしか思えない年月日に教団の独立を達成。
創立間もない赤十字運動にも参加、社員となり赤十字運動の普及に努めたので天皇人脈にも食い込んでいる。
國學院大学を会場に、神道各教派を呼んで「美濃部博士の天皇機関説打破につき上杉博士を支援する懇談会」を開催するほどに天皇機関説を攻撃している。

・金光 鑑太郎(こんこう かがみたろう)は、金光教の四代金光様。
金光図書館を創設し、初代図書館長。日本図書館協会顧問。
ボーイスカウト日本連盟顧問。
金光教はボーイスカウト側だからメイソン教でもある。

・フジ産経(一つ目マーク)のボスである日枝久は金光教信者で、
フジテレビ=集英社作品アニメというラインを作ったWASP至上主義系の人で英国から勲章授与。
・金光教は、青二系の声優人脈、朝日のメディア人脈に入り込んでいるが、何よりフジ人脈に食い込んでいる。
金光教の時間という放送があり、ラジオドラマ出演者は永井一郎、中西妙子、山本圭子、三輪勝恵、小野坂昌也、龍田直樹、中友子など(青二プロダクション所属者が多い)。
桂米朝が当時内弟子になって間もない桂小米と大阪駅で金光教の団体列車に遭遇し、その列車に間違って乗ってしまうというくだりで始まる話もある。桂米朝が語る。
この放送の番組配信・制作は朝日放送。朝日放送のアナウンサーが朗読を担当することがある。
ラジオドラマは出演者の都合上ニッポン放送のスタジオ等で収録する場合が多い。
ニッポン放送はフジテレビジョンなどとともにフジサンケイグループ。
金光教信者の日枝 久(ひえだ ひさし、1937年12月31日 – 存命!)は、フジ・メディア・ホールディングス代表取締役会長、株式会社フジテレビジョン代表取締役会長。

・歌舞伎役者に信者が多い。

・金光教はボーイスカウトやガールスカウト(メーソン下部団体)のイベントをしたりするなど、メーソンとも繋がりがあり。
金光教スカウト協議会がある。

・「金神七殺」(金神がいる方位を犯すと家族7人が死に、家族が7人いない時は隣の家の者まで死ぬ)と呼ばれるほどの凶神を崇める。(既存の善悪を逆転)


・立教の年の教祖は46歳。(笑)
聖書の神かな?

46以外にも支配層のが大好きな数字がかなり登場する教祖の生涯。
真の数字はもう金光教が絡んでない記録はないだろうから確かめられない。教祖の両親の詳しい情報が見当たらない。ウラの家系かどうか知りたい。
”天保7(1836)年、金光さまが23歳の時に義弟の鶴太郎(つるたろう)が6歳で亡くなり、それから半月あまりの後、わが子の後を追うように養父粂治郎(くめじろう)が66歳で亡くなりました。
…古くからの親戚筋にあたる、古川八百蔵(ふるかわやおぞう)の長女とせさまと結婚することになりました。金光さま23歳、とせさま18歳の時のことでした。
…弘化3(1846)年、金光さまは33歳の厄年※を迎えました。
…※厄年:一般に、33歳は女性の厄年とされるが、この地方では男性の厄年でもあった。“

・大本教と同じく三千世界という言葉を使う金神。仏教嫌いが仏教用語を使うことで神に塗り替えたいのだろう。
” 明治15(1882)年11月24日(旧暦10月14日)早朝、金光さまは神様から次のようなお知らせを受けました。
 「天地の間のおかげを知った者なし。おいおい三千世界、日天四(にってんし)の照らす下、万国まで残りなく金光大神(こんこうだいじん)でき、おかげ知らせいたしてやる」”

・教祖は金神にひどい目にあわされたが、金神が信心に免じて許してくれたらしい。
神の言うとおりにせよ。自分をひどい目に合わせた邪神を善神として崇めるって盗作しているなあ。ヤハウェかな?
教祖である金光さまは神様から「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)」の神号を授けられたらしい。生きながらにして“人を助けて神になる”思想。

・大本系団体の人類愛善会による、第27回世界連邦平和促進全国宗教者大阪大会は、金光教泉尾教会で開催。
“協力・金光教”と明記。
親の金光教と子の大本教は仲良し。
両者とも異端派(カトリックが迫害)の子孫だがカトリックから人を招いているのは、このカトリックはエキュメニカル賛成派(既存のカトリックの否定)だから。

・世界連邦運動協会の役員
※今現在とは限らないので注意。
執行理事が三宅光雄(金光教 泉尾教会長)

執行理事が稲垣裕彦
(大本=人類愛善会 副会長かつ世界連邦日本宗教委員会会長代理)

・第30回世界連邦岡山県宗教者大会(世界連邦岡山県宗教者の会主催)が、岡山県浅口市金光町の金光教本部の金光北ウイングやつなみホールで開催。
金光教をはじめ、大本、県神社庁、県佛教会、キリスト教、黒住教、津山宗教委員会、念法真教、立正佼成会などが参加した。以上、金光新聞より。
世界連邦賛成派リストに追加。

・国際宗教同志会(こくさいしゅうきょうどうしかい)の事務局が金光教 泉尾教会。
発起人が同志社総長 牧野虎次。
金光教の三宅歳雄(超重要。上述のIARF会長も金光教で三宅)、
大本、
八坂神社、
カトリック 、
日本聖公会、
一燈園、
天理教、
日本基督教団などが結成
伝統仏教教団からは「京都三山」といわれる東西両本願寺、知恩院なども参加。
金光、大本、天理教は仲良しだな。
伝統仏教も腐っているな。
耶蘇にガチ抵抗したら潰されるか窓際族だからな。

ブラックリスト↓
“▽委員長 同志社理事会会長 牧野虎次 
▽主事 同志社専務理事 奥村龍三 
▽常任委員 愛善苑委員長 出口伊佐男、
真宗大谷派参与 本田廣善、
カトリック京都教区長 古屋義之、
天理教布教部長 岩田長三郎、
金光教泉尾教会長 三宅歳雄、
一燈園主 西田天香、
浄土真宗本願寺派総務 小笠原彰真、
臨済学院専門学校教授 緒方宗博、
真言宗醍醐派管長岡田戒玉、
真宗大谷派朱雀御坊主 末廣愛邦、
サンパウロ交易株式会社取締役社長 荘野忠徳、
八坂神社宮司 高原美忠、
日本基督教団京都教会青年部長 吉田隆吉、
豊国神社宮司 吉田良光(敬称略)“


国際宗教同志会は世界宗教者平和会議(WCRP)の母体の一つとなった団体。
世界宗教者平和会議(WCRP)の役員に紅卍で大本系のワールドメイトの半田晴久=深見東州。
金光教が中核の団体から大本教派生の教祖がいる団体ができる。

ワールドメイトの菱研顧問 小沢一郎・亀井静香・鈴木宗男・鳩山邦夫ら
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-1916.html
を見れば政治家なんて下っ端だと実感できる。

国際宗教同志会公式ページの役員の項目見ると(一部抜粋)、
理事長 三宅光雄 金光教泉尾教会 教会長


理 事 松井龍一郎 天理教 明城大教会 会長

監 事 内海雅継 金光教泉尾教会 総務部長
理事 松本貢一 立正佼成会 大阪教会長

中核が金光教で、天理教もいまだ健在。立正佼成会がセット。
ブラックリストは下の資料をご覧くだされ。

国際宗教同志会は、相国寺山内長得院で西田天香、出口王仁三郎、牧野虎次の三師の喜寿祝賀会を開いたり万教帰一目的なのは明白。
金光教の三宅歳雄は、第5回WAWF世界大会(世界連邦コペンハーゲン大会) に出席。バチカンでは、時のローマ教皇ピオ十二世と会見。
ワールド・ブラザーフッド世界同胞協会の会長でノーベル物理学賞受賞者アーサー・H・コンプトン博士(合衆国原子力委員会委員長をして原爆を開発。後に平和運動に転じた偽善者)が金光教の教会を訪れ、「祈りの塔」の落成式に参列。
三宅歳雄や大阪国際宗教同志会幹部と(支配層の)世界平和(笑)について懇談。
イギリスの世界的物理学者でロンドン大学教授のキャザリン・ロンズデール夫人も金光教の泉尾教会を訪れた。夫人は熱心なクエーカー教徒で、英国のロイヤル・ソサイエティ王立科学協会会員。
三宅歳雄は、ニコライ府主教らロシア正教関係者と意気投合。共産圏への働きかけの足がかりをつかんだ。
ロシア正教まで絡んでいる恐ろしき金光教。

国際宗教同志会で培ってきた信頼と経験が第1回世界宗教者平和会議(WCRP)として結実。
世界宗教者平和会議の役員(元含む)に深見東州だけでなく、
酒井教雄( アンチ創価=元立正佼成会 理事長)
宮本恵司(妙智会教団代表)
もいることに注目。

三宅歳雄は立正佼成会会長 庭野日敬と仲良くなっているし、
三宅歳雄は、この後、ローマ教皇パワロ六世はじめ、ギリシャ正教総主教や英国国教会のカンタベリー大主教を歴訪し、WCRP開催に向けて協力を依頼したり完全にエキュメニカル思想のの金光教。
しかも、昭和55年に三宅歳雄は世界連邦世界協会(WAWF)名誉理事長・同アジアセンター会長に就任。
そのうえ、泉尾教会で第18回世界連邦世界大会大阪会議を開催。
エキュメニカルと世界連邦賛成はセット。

※創価学会と統一教会が全然出てこないことに注目!
立正佼成会はアンチ創価だからなのと、創価と統一は本体から切り離されているからだろう。

“・戦後に勢力拡大した立正佼成会(りっしょうこうせいかい)は創価学会と対抗し、反創価学会系の新宗教教団が集結した新日本宗教団体連合会(新宗連)の中心として活動。
また自民党と公明党が対抗関係絵だった時代は自民党候補者を応援し新宗連代表議員も出していた。
公明党が連立政権に入ってからは民主党にシフト。
が自民党との関係を切ったわけではなく推進議員の中には自民党候補者もいる。“
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-164.html


・IARF(国際自由宗教連盟)は中枢がユニテリアン。1900年5月にユニタリアンと「リベラルなキリスト教徒」によって創立
IARF(国際自由宗教連盟)の第33回世界大会で、三宅光雄 金光教 泉尾教会長がIARF会長(任期4年)に選出された。
立正佼成会 会長 庭野日敬がIARF会長に就任したことあり。
公式サイトを見ると、今は副会長 Most.Rev.Mitsuo MIYAKE (日本) 金光教泉尾教会長とある。
役員にユニテリアンが多い。

※キリスト教福音派の牧師である尾形守『異端見分けハンドブック』いわく、
ユニテリアン主義=「三位一体を否定し、キリストが神であることを否定する異端」。
要は、三位一体(父と子と聖霊)の否定と、イエス・キリストは人間だという、エキュメニカル万教帰一に都合が良い思想。
福音派はエキュメニカル反対。

・IARFが4年に1度の世界大会時に授与している『シュバイツアー賞』をダライ・ラマへ与えたときのスピーチ担当が三宅善信。シュバイツアーは、IARF創設の元となったユニテリアンのメンバー。
※シュヴァイツァーはアフリカ現地での評判は決してよいものではない。自らの神学思想を現地の文化より優先する白人優位主義者。
シュヴァイツァーは「人類皆兄弟」とほざいたが対等な関係ではなく、「白人を兄、黒人を弟」としている。
ストア派の改悪版思想。人類皆兄弟なので肌の色の差別はないとするのが本来のストア派。
人類皆兄弟を侵略の道具にしているからノーベル平和賞=北欧賞をもらえた。


・人はみな神の子、心に神、生神(いきがみ)思想なのでグノーシス寄り。
”ふびんに思う神心は、だれにも神様から分け与えられています”
”信心すればだれでも生神になることができる”
黒住教と同じ設計図。

・三宅龍雄を偲ぶ会にIARF財務委員長が参加。三宅善信ももちろん参加。
儒教研究者の加地伸行も出席。あなたも支配層側か。
加地伸行『沈黙の宗教―儒教』(筑摩書房、1994)の読書メモ記事があるけど、
※加地伸行は暴走するので注意と書いてある。

 お盆は儒教(中核)を仏教で覆ったもの。カバラ(一神教+新プラトン主義)は易経(儒教の経典)とも道教(多神教)とも無関係! 寸止め陰謀論者が主張するカバラは「クリスチャン」カバラ! 加地伸行『沈黙の宗教―儒教』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-97.html


詳しくは過去記事
金光教を軽視してはいけない。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-37.htmlもどうぞ。

参考資料

天理教

田口 造‏ @manbownewoption 3月23日
戦前は搾取の宗教として天理教のお膝元。自分で部落と認めているのは、まあ良しとしよう。だが、歴史観がかなりおかしい。
それと日本会議の影響力を意図的に小さく見せているのが、極めていかがわしい。
U‏ @wayofthewind 3月23日
返信先: @wayofthewindさん

菅野完(すがのたもつ) 奈良県天理市出身

別名 noiehoie、家入保

テキサス大学オースティン校出身

団体所属歴 部落解放同盟 首都圏反原発連合 レイシストをしばき隊

初の著書「日本会議の研究」で有名に(笑)

天理は赤組だな。


黒住教

赤木忠春高弟の百五十年祭
http://kurozumikyo.com/michi/2015/04/20150401michi
” 来る4月19日、赤木忠春高弟の百五十年祭が、忠春神社(岡山県久米郡久米南町中籾)において斎行されます。それは同時に、当神社が改築27年の御祭りにもなります。

 赤木高弟は、教祖神の数ある直門高弟の中でも教団内に知らない人はいないと思われますが、なんと申しましても、京都神楽岡・宗忠神社は赤木先生なくしてはありえなかったと言えるほど大きなお働きをなした方です。

 その人となりは、8年間の盲目で心打ち砕かれて人生のどん底にあえいでいたのが、ただ一度、教祖神の二・七の御会日におけるお説教を拝聴する中に、心開いて真素直な心に立ち直り、そこに純粋な熱いものが湧き出でて、大感激の中に開眼のおかげをいただかれたところにも、如実に現れています。それは、弘化2年(1845)11月のことでした。教祖神御歳66(数え年)、赤木高弟30歳の時です。71歳で昇天された教祖神ですから、赤木先生はわずか5年の間に本教教師の中心的な存在になられたのでした。

 教祖神ご昇天後に、御神裁で京都布教をいただいた赤木高弟の獅子奮迅の活躍はめざましく、ついに時の関白九條尚忠公のご息女夙子姫の入信となり、すでに姫は孝明天皇の御后であられただけに、孝明天皇に御前講演申し上げる栄にも浴します。

 九條関白を筆頭に公卿方が次々と入信し、江戸時代最後の関白をつとめ、明治時代になって幼い明治天皇の摂政の任にも当たった二條齊敬関白、また三條實美公など公卿方が神文を捧呈して御道信仰に励まれたのでした。
これは、いつに赤木忠春高弟の説かれた教祖神の天命直授にあったと確信します。ここに明らかになった「神人不二」。すなわち大御神様のみわけみたま(ご分心)の鎮まる人はまさに日止で、御道信仰は「生き通し」の道であることが公卿方の心の光、柱となったのでした。風雲急を告げるこの時代、それだけ公卿方は命懸けの日々の中におられたのでありましょう。それは二條齊敬公の御筆に明らかです。

 「文久2年の夏のころ 宗忠神の遺教の歌を 拝写して神社に納めける  かぎりなき天照神と我がこころへだてなければ生き通しなり 右大臣 藤原齊敬」

 赤木高弟の至誠はまさに天に通じ宗忠大明神の神号を賜り、ついに全国の神社を取り仕切る吉田神社から、その東南の高台、その名も神楽岡という地の提供を受け、宗忠神社はご鎮座になったのでした。

 時に文久2年(1862)2月25日。この日の赤木高弟の「信をたのむぞ! 信は神ぞ。信は人ぞ。誠をたのむぞ! 誠こそ道ぞ!」の火の出るような説教は、今に耳に聞こえてくるようです。

 この年同じ2月には、孝明天皇の令妹和宮様が将軍徳川家茂公に降嫁され、長く久しきにわたった皇室と徳川将軍家との確執は解け、まさに公武合体なり、しかも翌文久3年8月にはいわゆる「七卿落」で、攘夷論に終始していた三條實美公ら7人の公卿方は長州(山口県)に流されるなど、開国維新への道が開けていきます。

 しかし、赤木高弟の、激しいばかりの信仰と熱情に心服していた、三條公ら若き公卿方が長州へ流されるとき、警護に当たったのが岡山藩士であったことから、岡山藩の本教に対する迫害が急に強まってきたようです。そうでなくても、名君の誉れ高かった藩祖池田光政公にして下賜されたのは霊神号なのに、池田藩の守護神社とはいえ今村宮の禰宜職にすぎなかった教祖神が「宗忠大明神」という最高の神号を賜り、しかも王城の地京都の吉田神社の境内地を提供されて宗忠神社が鎮座するなど、当時の岡山藩にとっては不快なことばかりで、教団本部への圧力は相当厳しいものがあったようです。中国の古事に〝泣いて馬謖を切る〟というものがありますが、その頃の本部当局は赤木高弟に引退してもらうべく三代宗篤様(御歳16歳)の名のもとに、大元家(教団本部)への出入りを禁ずるの書状を、赤木高弟の愛弟子本多応之助先生に託して届けています。本部当局の決断が、どんなに苦汁に満ちたものであったかが伺えます。岡山藩の中にある教団という組織防衛のためには、個人を切らざるをえなかった当時の先輩の苦衷を拝察することです。

 その後、あれだけ功績のあった方を破門するなど、なんてことを……という声が、教団内に起こり久しくくすぶっていたことも事実です。しかし、平成4年、皇學館大学元教授の真弓常忠先生が、神楽岡・宗忠神社ご鎮座百三十年の記念誌「孝明天皇と宗忠神社」を執筆されるに際しての研究調査で、事の真実が明らかになりました。

 130年前の明治18年4月18日、大元・宗忠神社ご鎮座に際し、三代宗篤管長は赤木忠春霊神に敬意と感謝の心を込めて「大教正」の教級を贈り、あらためて高弟を顕彰されていますが、三代様のご心中いかばかりであったか、思うだに胸が熱くなることです。

 二・七の御会日 教祖神のご在世中、月の中の二と七のつく日にお説教がつとめられていた。それはまた岡山藩の武士の休日でもあった。”

赤木忠春 あかぎ ただはる
https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E6%9C%A8%E5%BF%A0%E6%98%A5-14431
”没年:慶応1.4.16(1865.5.10)
生年:文化13.10.13(1816.12.1)
開教直後の黒住教の高弟,布教者。美作国久米南条郡八出村(岡山県津山市)の庄屋陶太郎左衛門の子として生まれ,のちに同郡の大庄屋赤木常五郎の養子となった。天保8(1837)年に両眼を失明したことを契機として,弘化2(1845)年に黒住宗忠と会い黒住教に入門。「黒住教六高弟」のひとりと称せられる。ただし,正式の入門は宗忠没後の嘉永4(1851)年とする説もある。宗忠没後の嘉永4年,京都へ出て布教。黒住教の合法化のために,神祇伯職世襲の吉田家に接近し,宗忠大明神号獲得のための請願運動に奔走,安政3(1856)年3月遂に実現にこぎつけた。この間,京都周辺での布教も熱心に行い,禁厭や祈祷による治病活動で教勢を拡大した。関白九条尚忠が娘の病気治癒を契機として入門したのちは公卿へも影響を広げ,三条実美も一時門人であった。文久2(1862)年,京都神楽岡に宗忠神社の建立の許可を得ることに成功したが,このころから大元(岡山市の本部)から別派独立の嫌疑を受け,元治1(1864)年に破門された。身の潔白を証明するために郷里で修行中に死亡。教祖,宗忠には希薄であった「皇国」「皇祖神天照大神」を前面に打ち出し,尊王攘夷派の志士とも交流,次第に政治的性格を強めた。そのことが大元との宗教的懸隔を生んでいったと思われる。しかし,黒住教が明治以降いち早く別派独立の許可を得たのは,忠春の築いた人脈によるところが多い。<著作>『赤木大人歌文集』『七箇条諭弁』<参考文献>高野隆文『赤木忠春大人伝』,小寺基之子「黒住教の歴史的性格」(『岡山史学』24号) ”

宗忠神社 むねただじんじゃ
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%97%E5%BF%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE-1425319
”…門人赤木忠春は京都で祈禱をつうじて日本の祖神たる天照大神の信仰を説いた。62年(文久2)に京都神楽岡に創建された宗忠神社は,66年(慶応2)に勅願所となり,幕末の尊王討幕運動の一拠点となった。武士,地主・有力町人層,公卿らを支持者とした黒住教は,皇室の祖神とされた天照大神を最高神にしていたため,明治政府の天皇崇拝を旨とする〈大教宣布〉運動のにない手として,教部省による皇道宣布の国民教化運動に積極的に参加し,全国各地に布教を展開した。…


【黒住宗忠】より

…その教えは,近隣地主層から岡山藩士へと広がり,弘化年間に教団組織が確立,1876年に神道事務局から別派独立として公認され,82年に神道黒住教となる。宗忠は56年(安政3)門人赤木忠春らの運動で大明神号をさずかり,62年(文久2)に京都神楽岡(現,京都市左京区),85年には岡山の大元(現,岡山市)に宗忠神社が建立された。教義に関する教祖の自筆文章は〈日々家内心得の事〉のみで,ほかに和歌と書信が残されている。…


宗忠神社(むねただじんじゃ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%BF%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE

赤木忠春が起こした奇跡(黒住教)
http://97331420.at.webry.info/200610/article_20.html
”赤木忠春は、黒住宗忠の高弟で、宗忠にとって、釈迦に対する迦葉、キリストのおけるパウロのような存在で、この方も全国への布教の道中に、いろんな奇跡をおこされています。

備後の忠海のあたりで説教のあった時、世話人たちがお供えの魚を求めて海に出かけたところ、生憎一尾も網にかからなかったので、この事を申して詫びると、忠春は、
「では、私が捕まえてお供え致そう」
と狩衣(かりぎぬ)を着たままで海に入り、拍手を打って、さっとその手を水中に入れると、どこから現れたのか、見事な一匹の大鯛が忠春の掌に乗って来たのである。
見ている人々は誰もあっと驚きの声を上げたが、
「信(まこと)一つで天地も動くぞ!」
という忠春からすれば、魚一尾をつかまえる位は、それこそ朝飯前の見安いことであった。
                                    「赤木忠春」黒住教日新社より

キリストもたしか、本当に信仰心があれば山をも動かすことができる、みたいなことを言っていたように記憶していますが、さすがは黒住宗忠のパウロといわれるだけのことはありますね。

淀藩の稲葉家の家老職を勤めていた近藤某家の娘が、性の悪い腫物で悩んでいた時、折りよくその地方に赴いた忠春は、この事を聞くと直ぐ歌をつくって娘に与えた。
 朝日さす日影に生れる腫物は
  根も葉も枯れて跡形もなし
この歌をその娘が数日の間一心に唱えている内に、医薬でも容易に癒えなかったはれものが、いつのまにかさっぱりと直っていた。
後世になってもこの歌を唱えただけで、多くの人が腫物のおかげを受けているという事である。
忠春にはまた、
 日を呑んで腹をはる(張るー春)気になりぬれば
  心よしの(善しの)の花や咲くらん
という、まことに格調の高い秀れた歌がある。
忠春が亡くなってから七十年も経た後に、この歌を毎日唱えつづけて、医者もさじを投げていたバセドー氏病の婦人が、見事におかげを受けて全快した実話も伝わっている。
その場その場で、天から授かる忠春の歌には、天地の活霊(いきもの)がこもっていたのである。
                                              「赤木忠春」より”
日本会議 > 日本会議とは > 役員名簿
http://www.nipponkaigi.org/about/yakuin
”平成28年7月1日現在・50音順

[名誉会長]
三 好    達 元最高裁判所長官
[顧 問]
石 井 公一郎 ブリヂストンサイクル(株)元社長
北白川 道 久 神社本庁統理
鷹 司 尚 武 神宮大宮司
[会 長]
田久保 忠 衛 杏林大学名誉教授
[副会長]
安 西 愛 子 声楽家
小田村 四 郎 元拓殖大学総長
小 堀 桂一郎 東京大学名誉教授
田 中 恆 清 神社本庁総長
[代表委員]
秋 本 協 徳 新生佛教教団最高顧問
石 原 慎太郎 作家
板 垣   正 元参議院議員
市 川 晋 松 元日本相撲協会相談役
伊 藤 憲 一 青山学院大学名誉教授
稲 山 霊 芳 念法眞教燈主
今 林 賢 郁 (公社)国民文化研究会理事長
入 江 隆 則 明治大学名誉教授
打 田 文 博 神道政治連盟会長
宇都宮 鐵 彦 株式会社日華代表取締役会長
大 石 泰 彦 東京大学名誉教授
岡 田 光 央 崇教真光教え主
岡 野 聖 法 解脱会法主
小 串 和 夫 熱田神宮宮司
尾 辻 秀 久 日本遺族会会長
小 野 貴 嗣 東京都神社庁庁長
加 瀬 英 明 外交評論家
城 内 康 光 元ギリシャ大使
黒 住 宗 晴 黒住教教主
慶 野 義 雄 日本教師会会長
小 堀 光 實 比叡山延暦寺代表役員
佐 藤 和 男 青山学院大学名誉教授
澁 木 正 幸 日本会議経済人同志会会長
志 摩 淑 子 (株)朝日写真ニュース社会長
住母家 岩 夫 NPO法人持続型環境実践研究会会長
関 口 慶 一 佛所護念会教団会長
千    玄 室 茶道裏千家前家元
髙 城 治 延 神宮少宮司
竹 本 忠 雄 筑波大学名誉教授
寺 島 泰 三 (社)日本郷友連盟会長、英霊にこたえる会会長
德 川 康 久 靖國神社宮司
冨 澤   暉 (公財)偕行社理事長
中 島 精太郎 明治神宮宮司
中 野 良 子 オイスカインターナショナル総裁
長谷川 三千子 埼玉大学名誉教授
廣 池 幹 堂 (公財)モラロジー研究所理事長
保 積 秀 胤 大和教団教主
丸 山 敏 秋 (社)倫理研究所理事長
村 松 英 子 女優・詩人
[監 事]
加 瀬 英 明 外交評論家
澁 木 正 幸 日本会議経済人同志会会長
[理事長]
網 谷 道 弘 明治神宮崇敬会理事長
[事務総長]
椛 島 有 三 日本協議会会長
[事務局長]
松 村 俊 明 日本会議常任理事



以上の役員を始め本部理事、百人委員約400名、
47都道府県本部役員約3100名がご就任です”


トップページ >黒住教について >黒住教の教義
http://kurozumikyo.com/about/dogma
黒住教は、江戸時代後期の文化11年(1814年)に立教した、日本人を教祖にもつ最も古い宗教です。岡山市の尾上神道山に本部を置き、200年以上にわたって日本各地でその教えに基づいた活動を行っています。

教祖神・黒住宗忠(1780〜1850)は、代々の神職の家に生まれました。最愛の両親の急逝による心痛で病に臥し、ついには死を覚悟しましたが、文化11年(1814年)の正月に日の出を拝んで復調の兆しを得て、数ヶ月で病を克服しました。そして、自らの誕生の日であるその年の冬至に、東の空に昇る朝日を拝んで神人一体の境地にいたり「天命直授」という悟りを経て、黒住教は立教しました。

したがって、黒住教では日の出を拝む「日拝」を最も大切な祈り
としています。感動と感謝の心で日の出を拝み、「まること」の精神をもって生きることに努めています。「まること」とは、黒住教独特の言葉で、「丸いこと(丸い状態と丸いはたらき)」を意味しています。「丸い状態」は、歪みや偏りのない調和のとれた状態であり、天地自然の元来の姿です。また、「丸いはたらき」とは、どのような動きや働きかけも決して一方通行ではなく、直接または間接的に返ってくる双方向性の循環の働きであることです。「まること」とは、こうした天地自然の摂理と一体になったことを指しています。

天命直授を通して、宗忠は「人は皆、天照大御神の
分心をいただく神の子
」という人間観を明らかにしました。
これは、私たち人間は全ての命の親神である天照大御神の御魂
をいただいて生まれてきた神の子
である、ということです。
私たちを守り導いてくださる天照大御神に報恩感謝の真心を
尽くして、私たちの真の心を、丸く、大きく、あたたかい、
本来の姿に養い育てることが本当に生きるということです。
“心なおしの道”である黒住教は、人生の開運の宗教であるとも
言うことができます。

日本は日の丸をかかげ、太陽をお日様・お天道様と称え崇めてきた国ですが、そうした古代からの信仰の上に、宗忠は、太陽そのものを崇拝するというよりも、昇る朝日に顕現される万物を生み出す親神として天照大御神を感じとり、日拝によって感謝を捧げることの大切を説きました。そして、日の神の分心が人々の心の奥深くに鎮まり、全ての人が神になることができると教えました。

現6代教主・黒住宗晴は、教祖神の名代として、日夜、人のため社会のために祈り、まごころを尽くしています。夜明け前から始まる日拝は、一日も欠かすことなく続けられ、その祈りと奉仕の生活はひとえに教祖神の導きを願うすべての人々のためのものとなっています。
 私たちは、一人でも多くの方が教祖神の教えにふれて、天照大御神のご神徳の中で生きる喜びに目覚め、開運の道を歩まれることを心から願っております。
御七ヶ条

「神国の人に生まれ常に信心なき事」恐るべし 恐るべし
天地自然に満ちわたる天照大御神のご神徳のなかで、生かされて生きているのが私たち人間です。自分の力で生きていると勘違いしがちな人の多い今日ですが、わが生命の本源を見失わない人間でありたいものです。

この「御七ヵ条」は、天照大御神の「分心」の器である人間の心が、常に健全な状態にあるように努めることの大事を説いているものです。”

”平成23年 2011年 東日本大震災に際して、全国の教会所において「被災者慰霊・復興祈願祝詞」を奏上祈願。
副教主が事務局長をつとめるRNN(人道援助宗教NGOネットワーク)と合同の街頭募金を一ヶ月実施
副教主、ローマ法王ベネディクト16世の主宰で開催された「世界平和のための省察・対話・祈りの日」に出席(於 イタリア・アッシジ)
「第33回世界連邦平和促進全国宗教者岡山大会」を神道山で開催 ”
歴史http://kurozumikyo.com/about/history

” 教祖神・黒住宗忠は、安永9年(1780年)11月26日の冬至の日の朝、代々今村宮(岡山市北区今)の神職をつとめる家に生まれました。幼少時より孝心があつく、20歳の頃には「生きながら神になる」という志を立てました。宗忠は「心に悪いと思うことを決して行わず、善きことのみを実行する」との厳しい目標を自らに課して“神になる”道を歩みました。しかし数えて33歳の時、かけがえのない両親が流行病によりわずか1週間の内に相次いで亡くなりました。その悲しみがもとで宗忠自身も不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れない状態に陥りました。

死を覚悟した宗忠は、文化11年(1814年)1月の厳寒の朝、幼いころから両親とともに毎朝手を合わせてきた日の出を拝みました。この“最期の日拝”の祈りの最中に、宗忠は知らず知らずのうちに大変な親不孝をしていたことに気づき、せめて心だけでも両親が安心する人間に立ち戻らねばならないと大きく心を入れかえました。この世との別れの日拝だったものが、新たな“生”への祈りに転回しました。この心の大転換により、宗忠の暗く閉ざされた心のなかに陽気な感謝の気持ちがよみがえり、その結果わずか2カ月で不治の病を完全に克服しました。

その年の11月11日。この日は昔から「一陽来復」と称され、物事が新たに始まる時とされてきた冬至の日でした。安永9年(1780年)の冬至の朝に誕生した宗忠が、死の淵を乗り越えて34回目の誕生日をこの日迎えたのです。昇る朝日に格別の思いで祈りを捧げていると、宗忠は全ての命の親神である天照大御神と神人一体になり、悟りの境地に立ちました。黒住教では、このことを「天命直授」と称して、黒住教立教の時としています。

以来、宗忠は世の中の苦しむ人や助けを求める人のために昼夜を問わず祈り、教え導き、多くの人々から生き神と称えられ、すでに神仕えの身であったこともあって自然な姿で教祖神と仰がれました。宗忠がその肉体を離れて天に昇ったのは、嘉永3年(1850年)2月25日のことでした。

宗忠の在世中に、現在の黒住教の基礎が築かれ、当時すでに数万の道づれ(信者)を擁していました。宗忠の昇天後、その生誕地であり住居があった現在の岡山市北区上中野を中心に、日本各地で黒住教の布教が広まっていきました。宗忠の教えが「神道の教えの大元」と称えられたことにより、この地は「大元」と呼ばれてきました。

皇室や公家のなかに宗忠に帰依する人が多く、孝明天皇(明治天皇の父君)の信心も得ていました。神位を非常に重んじた江戸時代において、安政3年(1856年)3月8日に「宗忠大明神」の神号が授けられ、文久2年(1862年)2月25日に京都・神楽岡に宗忠を祀った宗忠神社が建立されました。この宗忠神社は、建立からわずか3年後の慶応元年(1865年)4月に、孝明天皇の勅命による唯一の勅願所(天皇が国家国民の平安を祈るために指定した神社・仏閣)に定められ、その翌年の慶応2年(1866年)2月には、従四位下の神階を宣下されました。


昭和49年(1974年)10月27日、都市化が進んだ大元(岡山市北区上中野)の地を離れて、黒住教は神道山(岡山市北区尾上)に、壮大な日の出を求めて遷座しましたが、大元には明治18年(1885年)鎮座の宗忠神社が現在もまつられています。
”http://kurozumikyo.com/about/originator
教祖神

伊勢神宮奉賛活動
http://kurozumikyo.com/about/ise
”宗忠が生まれた黒住家は、先祖代々から今村宮(岡山市北区今)の神職として仕えていました。今村宮の主斎神が天照大御神であったため、宗忠は黒住教を立教する前に一度、伊勢神宮に参っていました。宗忠は黒住教立教後も参宮を続け、生涯で六度、伊勢神宮の神前に奉拝しています。 2代宗信のときには「伊勢千人参り」を斎行し、明治時代になって3代宗篤、4代宗子と親子二代にわたって「伊勢萬人参り」をつとめています。

このような伊勢神宮とのご神縁から、昭和48年(1973年)、第60回神宮式年遷宮(20年毎に伊勢神宮のすべての社殿を新しく造り替えて神座を還すこと)にて、古殿となった内宮の建築材を黒住教へ大量に下賜されました。
折しも神道山大教殿の建築工事のさなかであり、御本殿はすべてこの神宮のご神木で設えることができました。このご神恩に報いるためにも、昭和59年(1984年)から第61回神宮式年遷宮に奉賛するべく10年間の献納を重ねました。その後、平成5年(1993年)に第61回の式年遷宮が終わった新宮へ、平成6年(1994年)に昭和55年(1980年)以来の「伊勢萬人参り」をつとめました。

新宮に御神体をお遷しする“遷御の儀”が10月2日には内宮、5日には外宮にて執り行われ、内宮には教主、副教主、8代宗芳が、また外宮には宗忠神社宮司、黒住教教議会議長が正式参拝しました。殊に、内宮の“遷御の儀”への三代にわたる正式参拝者としての参列は過去に例がないといいます。


宗際活動
http://kurozumikyo.com/about/activity
岡山はもともと宗教間同士の交流がある土地で、昭和10年代から先代の5代教主・黒住宗和は他教団の幹部の方たちとの親交を深めていました。特に戦後は5代教主を中心とした宗教間交流が盛んで、今日の世界連邦日本宗教委員会岡山宗教者の会は、全国的にみてもユニークな活動を行っています。
 岡山には平成8年(1996年)以来、副教主・黒住宗道が事務局長をつとめる12教団からなる青年宗教者の共同、共働グループRNN(人道援助宗教NGOネットワーク)があり、大災害のときなどに緊急援助活動を国際的にも実施しています。また、平成13年(2001年)の9・11テロ直後の10月5日には、日本ムスリム協会会長(当時)の樋口美作氏を招き、RNN主催「イスラム教についてのシンポジウム」を黒住教武道館にて開催しました。

RNNは、平成17年(2005年)6月29日の岡山大空襲60年の日、「ヒーリングコンサート」の名のもとに平和を願い祈る音楽会を岡山カトリック教会で開催しました。ここでは、天台宗、真言宗の声明、イスラム教のコーラン朗誦、キリスト教プロテスタントの讃美歌、カトリックの聖歌、そして金光教と本教の吉備楽が披露されました。さらに、事前に公募して最優秀に選ばれていた詩「PEACE」に曲づけされた歌を、参加者全員で合唱して平和を祈りました。

昭和50年(1975年)、今日WCRPと呼ばれる世界宗教者平和会議の創設に尽力した立正佼成会の庭野日敬会長(当時)が神道山に参拝し、6代教主にWCRPへの参加を呼びかけました。翌年の昭和51年(1976年)11月、シンガポールにおいて開催された第1回のACRP(アジア宗教者平和会議)に出席した6代教主は、開会式の壇上に立ち開会の祈りを捧げました。これが機縁となり、昭和54年(1979年)8月、アメリカ・プリンストン大学にて開催された第3回世界宗教者平和会議に出席した6代教主は、その開会の式典が催されたニューヨークのセントパトリック大聖堂において「大調和への祈り」と題した講演を行い、開会の祈りをつとめました。また、WCRPの青年部会結成30年の記念大会が、平成15年(2003年)6月に開かれ、副教主・黒住宗道が招かれ、その記念講演をつとめました。

昭和56年(1981年)2月23日、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が来日しました。ローマ法王の訪日は初めてのことでありました。法王はまず皇居において天皇陛下に謁見し、翌日、ローマ法王庁大使館(東京都)に日本の各宗教の代表20数名を招いて会談しました。6代教主・黒住宗晴も神道の一人として招かれて出席しましたが、それぞれ何かおみやげをというなかで、教主は、法王が青年期に著わした「THE ACTIVE PERSON(行為的人格)」を持参し、そのなかの一節「人間は自己をおしみなく他者に与え尽くすことによって、もっとも完全に自己となり、人格としての在り方を実現する」の一条に感服したことを告げるとともに、法王の皇居訪問に敬意と謝意を表しました。

平成2年(1990年)、「グローバルフォーラム」の執行委員を中心に、シリアのイスラム教最高指導者アフマド・クフタロ師をはじめ各国の宗教者、そして政治家、ジャーナリストたちが来日して、神道山で「神道ワークショップ(神道国際研究会)」を開催しました。講師は後に國學院大学学長になった上田賢治氏、同阿部美哉氏、皇學館大学理事長・櫻井勝之進氏、同学長谷省吾氏、そして仏教界からは薬師寺管主・高田好胤師が参加しました。
 また、海外における神道や黒住教の研究者で後にアメリカ・ハーバード大学ライシャワー日本研究所所長となったヘレン・ハーデカ女史、ライト大学宗教学教授ウィリス・ステイツ氏、タイ・カセサート大学教授ペンシー・カンチャノマイ女史が参加して講演しました。

平成7年(1995年)3月、チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世法王を、本教が責任教団となって招聘しました。これは、複雑な国際関係から11年間も日本への入国ができていなかったため、法王招致委員会の要請を受けてのものでした。法王一行は来日後、広島市に直行し、終戦と被爆から50年が経過した原爆記念碑前での法要をつとめた後、岡山市に到着しました。神道山大教殿における講演や、青年たちとの交流などが続き、さらに林原生物化学研究所や障害者福祉施設などを見学された4泊5日間の岡山訪問でした。

平成12年、西暦2000年を迎えたこの年の8月、コフィ・アナン国連事務総長の呼びかけにより「ミレニアム世界平和サミット(国連宗教サミット)」が開かれ、ニューヨークの国連本部総会議場を各国の宗教者が埋めました。副教主・黒住宗道が日本使節団の幹事長役に指名され、伊勢神宮・久邇邦昭大宮司、天台座主・渡邊惠進師をはじめ立正佼成会・庭野日鑛会長、新日本宗教連合会・深田充啓会長、大本・広瀬静水総長ら27名が参加しました。4日間のこの会議は、本教教主の閉会の挨拶と祈りでもって閉じました。
 このサミットでは本教の提案で、「世界の火薬庫」と呼ばれるバルカン半島の各地から11名の様々な宗教代表を招いて会議が持たれ、その費用の大半は岡山財界有志からの浄財によるものでありました。

9 ・11同時多発テロ発生の翌日、副教主・黒住宗道は国連宗教サミットをはじめ、それまで知遇を得てきた各国の宗教者に電子メールでもって、これが、イスラム対西洋のいわゆる文明の衝突になることのないように宗教者として共働してつとめようと訴えました。そして前記のごとく、10月5日RNN主催のイスラムについてのシンポジウム開催と続きました。翌平成14年(2002年)1月、イタリア・アッシジにおいて、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世の呼びかけによる平和への祈りの集会が大々的に開かれ、副教主が参加しました。

明治26年(1893年)、アメリカ・シカゴで開かれた万国博覧会において、「万国宗教会議」という名のもとに、世界で初めて各国の宗教者が集まり、日本からも数名の宗教者が出席しました。その後、長らくこの会議は途絶えていましたが、100年後の平成5年(1993年)に同じくアメリカ・シカゴにて再度開かれることとなりました。この会議に出席した副教主・黒住宗道は、続く平成11年(1999年)の南アフリカ・ケープタウンにおける復活第2回会議に出席し、平成16年(2004年)7月スペイン・バルセロナで開かれた復活第3回万国宗教会議にも出席しました。
 このバルセロナ会議に際して、副教主は開会式の5,000人もの参加者を前に、州の大統領や地元代表の挨拶に続いて宗教者としてただ一人「平和への祈り」を捧げました。なお、開期中は「『誠』の教え─神道による平和への道─ 」と題して一時間半の講演も行いました。また、副教主は、平成21年(2009年)12月オーストラリア・メルボルンでの復活4回目の会議にも招かれて出席し、講演をつとめました。

かつてイタリア・アッシジでローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が主催して開催した「世界平和の祈り」を受けて、当時の天台座主山田恵諦師は「比叡山宗教サミット」を創設し、その第1回の集いが昭和63年(1988年)8月に京都で開催されました。教主・黒住宗晴は神道教団の代表として講演し、同サミット10年を記念した平成9年(1997年)の集いでは、副教主・黒住宗道が講演を行いました。なお、毎年8月初めには比叡山にて祈りの集いが持たれており、副教主・黒住宗道が出席しており、平成12年(2000年)のこの集いでは、国連宗教サミットに出席する日本使節団の結団式も執り行われました。

オーストラリア・シドニー市の西350キロほどのカウラという町に、かつて日本人捕虜収容所があり、現在も日本軍人の墓が丁重に祀られています。収容されていた1,000名を超える日本軍人は、ひそかに議論を重ねた結果、衆議一決して終戦一年前の昭和19年(1944年)8月5日未明に蜂起して突撃し、その日だけ230余名が戦死しました。オーストラリア側は戦死者を手厚く埋葬しました。

昭和52年(1977年)、前述の日豪親善少年少女柔道チームの交流(リンクつける)がきっかけとなり、日本からの柔道チームが渡豪するたびに本教教師が慰霊祭をつとめ、選手たちが神道山の“御神水”を一基ずつに注いでの参拝を重ねてきました。平成16年(2004年)8月5日、“カウラの突撃”から60年目のこの日、カウラ市当局の要請を受けた本教が各宗教教団に呼びかけ、前記RNNの天台宗、金光教そして浄土宗、浄土真宗、真言宗の宗教者と当地のキリスト教聖公会の聖職者、副教主・黒住宗道がそれぞれの祈りをもって慰霊祭をつとめました。平成26年(2014年)8月5日、70年目の慰霊祭が宗忠神社宮司・黒住忠親斎主により行われました。”

黒住教の宗際活動
http://www.kurozumikyo-osaka.com/syuusai.html
”「世界連邦日本宗教委員会」と「世界宗教者平和会議日本委員会」とともに

活動報告写真 岡山はもともと宗教間同士の交流のあるところで、昭和10年代から先代の五代教主は他教団の幹部方との交わりを深めていた。名称はいろいろ変わったが、特に戦後は五代教主を中心とした宗教間交流が盛んで、今日の世界連邦日本宗教委員会岡山宗教者の会は、全国的にみてもユニークな活動を重ねてきている。なお、現教主はこの世界連邦日本宗教委員会代表委員4名の1人となっている。岡山には平成8年(1996)以来、副教主が事務局長をつとめる12教団からの青年宗教者の共同、共働グループRNN(人道援助宗教NGOネットワーク)があって、大災害のときなどに緊急援助活動を国際的にも展開し、また平成13年(2001)のいわゆる9・11テロ直後の10月5日には、RNN主催の「イスラム教についてのシンポジウム」を日本ムスリム協会会長樋口美作師を招いて大元の武道館で開催した。

 昭和50年(1975)、今日WCRPと略称される世界宗教者平和会議の創設に尽くした庭野日敬立正佼成会会長が神道山に参拝し、教主に参加を呼びかけた。翌年の昭和51年(1976)11月、シンガポールにおいて開催された第1回のACRP(アジア宗教者平和会議)に出席した教主は、開会式の壇上に立ち開会の祈りを捧げた。これが機縁となって昭和54年(1979)8月、アメリカ・プリンストン大学を会場に開催された第3回世界宗教者平和会議に出席した教主は、その開会の式典が行われたニューヨークのセントパトリック大聖堂において「大調和への祈り」(英文)と題した講演をし、開会の祈りをつとめた。この会議のさ中、その頃険悪な間柄であった中国とソ連(当時)の宗教者との仲をとり持つ役も教主は果たして注目された。今日、世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会は財団法人化され、教主は理事をつとめている。
 このWCRP青年部会結成30年の記念大会が、平成15年(2003)6月に開かれ、副教主が招かれてその記念講演をつとめた。副教主は、ロンドン大学留学中の昭和62年(1987)、「WCRPピースバス」という当時の東西両陣営の国々をロンドンからモスクワまでバスで旅行する活動に、世界各国の青年宗教者の一員として参加した。またロンドンで昭和63年(1988)に開催されたグローバルフォーラムに教主の名代として出席したが、最も若い正式代表として注目を集めた。”

香港のノラ神主(黒門派)ぴーちゃん‏ @PeterYokoyama 2013年9月17日
返信先: @ponpon4774さん
@ponpon4774 黒住教だと、幕末の赤木忠春高弟の京都での活躍がなんだか、キリスト教初期のパウロのものとダブってて興味深いです。 あと各教祖様の生き方がなかなかすごい!僕は黒住教の信徒ですけど、禊教の教祖様の生き方、好きです。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908681 …

@ponpon4774 教祖さまじゃなくて、十一高弟のひとりで、京都宣教に出た赤木忠春高弟です。この方は皇室にまで食い込んだんですよ。黒住教は地味ですが、30万人規模で生きてます。 来年は立教200年なので、今年秋から行事が多いです。機会があったら神道山に是非お参りください!

香港のノラ神主(黒門派)ぴーちゃん‏ @PeterYokoyama 2013年8月13日
@hokariyuka賛江 日本だと「ルーテル教会」と呼ばれてます。実は、僕はキリスト教徒だった時期があったんです…まあ、今でもキリスト教を棄て切ってはいないんですけどね…黒住教ってキリスト教的な要素(神の子、三位一体…)が結構ありますから

一個人編集部‏ @ikkojin_mag 2014年2月12日
【一個人別冊、日本の新宗教入門発売中!】岡山県岡山市の黒住教は、幕末に成立した新宗教の教団のうち、最も歴史が古い。日本古来の神道に立脚した開祖・黒住宗忠の教えは、時の孝明天皇や、三條実美などの公家たちから篤く信仰された。京都の宗忠神社は、孝明天皇の勅願所ともなったのである。

香港のノラ神主(黒門派)ぴーちゃん‏ @PeterYokoyama 4月7日
返信先: @okayamania1さん
岡山の大元宗忠神社と京都の神楽岡宗忠神社は同じく黒住教の宗忠大明神を祀る神社です。 弟子の尽力により幕末に当時、神社を統括していた吉田家から大明神号が認められたのですが、岡山藩の初代藩主の霊神号の神格より高くなってしまうため、岡山には宗忠神社が建立できなかったのですが、
吉田家より京都神楽岡の土地を提供され、宗忠神社はまずその地にご鎮座。政治的に岡山へのご鎮座は無理でした。 岡山へのご鎮座は混同を避けるためではなく、大明神の故郷にご鎮座を!という門人たちの悲願が、明治になって認められたためです。 ご紹介に感謝すると同時に指摘させていただきます

香港のノラ神主(黒門派)ぴーちゃん‏ @PeterYokoyama 2014年3月3日
イエス様と、黒住教の宗忠大明神はともに、太陽関係の神様なのでご降誕が太陽が力を盛り返す冬至前後なのはよく理解できる。 では、イエス様の処刑日と、宗忠様のご昇天の日(旧暦2月25日)はともにほぼ同じ春の初めごろ。太陽にとって、この時期はどんな象徴的な意味があるのだろう?

香港のノラ神主(黒門派)ぴーちゃん‏ @PeterYokoyama 2014年8月15日
返信先: @kuromonemanさん
@kuromoneman @kms_18 黒住教って、天照大御神(親)、八百万の神(大御神様のはたらき)、宗忠の神(子)を祭神としていて、どこかキリスト教の三位一体を思わせるところがあります。宗忠の神は冬至生まれで春先のご昇天、色んな人を癒した…とイエス様と共通点多い方。

菊池‏ @kikuchi_8 3月21日
返信先: @kikuchi_8さん
ミトラ教の影響も見逃せない。ミトラ信仰は太陽崇拝であり、ミトラの誕生日が冬至とされているのは「太陽の死と再生」を象徴する。これがそのままキリストの誕生日とされた。またエジプトのホルス信仰の影響もある。聖母子信仰はイシス・ホルス信仰が元であり、十字架シンボルの原型もエジプトにある。

いそけん‏ @Jirrorman 2016年12月25日
クリスマス イエス・キリストの降誕記念日。聖書等にはキリストの誕生日についての記述はなく、336年にミトラ教の冬至祭「太陽の祝日」を降誕の日とした。 冬至の時期であるこの日前後には異教の祭が重なっており、キリスト教側が布教拡大を狙ってこの日としたものと見られている。

参考文献

『生命(いのち)のおしえ―民族宗教の聖典・黒住教』 : 東洋文庫 319。道歌と書簡集、黒住宗忠 (村上重良校注) 、ISBN 4582803199
『黒住宗忠』: 人物叢書 歴史学者によるオーソドックスな伝記、著者: 原敬吾、ISBN 4642050892
『太陽の神人 黒住宗忠―その超逆転発想は、激動の時代を生き抜く処方箋』 : 著者: 山田雅晴、ISBN 4884814835
『哲人宗忠』: 著者: 延原大川、ISBN 4896190742
『眞人宗忠』:著者:延原大川
『日本神人伝―日本を動かした霊的巨人たちの肖像』: 著者: 不二龍彦、ISBN 4054013899
『近代日本霊異実録』 : 写本のみ伝わってきた「黒住教幽冥談」を収録、著者: 笠井鎮夫
『宗忠講話』:「黒住教読本」(上・下)の合本に「教祖神讃詩」(川上忠晶撰)「教祖宗忠神小傳」(星島良平述)を加えて編集刊行したもの、著者:河本一止(昭和33年3月5日発行、大道社刊)、ISBN不明


金光教




使い方わからん‏ @Show_BujuBanton 1月18日
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E3%81%AA%E3%81%8A … 明治に入ると従来の神道や仏教に加え天理教、黒住教、妙霊教、金光教、キリスト教が進出していた。 カルトに紛れてシッカリ十字架カルトも 進出してたんですね。 三女・久を治癒したのが金光教亀岡教会長・大橋亀吉であり 大本の元は金光教

日月神示・ひふみ神示・一二三神示・日月地‏ @HFM012345678910 5月10日
日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ、二二晴れるぞ、一八十開けるぞ。(ソラの巻第十四帖)

教祖の教え
http://web-konkokyo.info/oshie/founder/index_html
”神と人を結ぶ-取次

 金光教の教祖(教祖生神金光大神、以下、金光大神と記す。)は、46歳のとき(1859年・安政6年)神様から、家業である農業をやめ、人の願いを神に祈り、神の願いを人に伝えて、人を救い神を助けてくれるようにと、「取次」を頼まれました。

 金光大神の助かっていく姿に、世間の人々も心を動かされ、相次いで金光大神のもとにたずねてくるようになっていたからです。

 金光大神は、人々の願い、苦しみをつぶさに聞き取って神に祈り、一人ひとりに懇切に、神と人とのかかわりを教え、人生のあらゆる営みに神のはたらきを受け現す生き方を諭したのでした。

 人々は、金光大神の取次によって、人を助けずにはおかぬという天地の親神の切実な願いを身に体し、何事も神に祈って神とともに生きる信心にめざめ、次々に助かっていくことになりました。この神と人を結ぶ「取次」によって、神も助かり人も立ち行く世界が開かれたのです。

 明治6年、金光大神は天地書附を世に示し、一人ひとりが自らも助かっていくと同時に、世の助かり、人の助かりを願い実現していく信心を確立するよう、人々に促していきました。

 金光大神は、明治16年に亡くなるまでの24年間、神様一筋に仕え、神の心を人に取次ぐことに専念し、難儀に苦しむ多くの人々を救い助け、導いていきました。

 晩年、金光大神は、「形がなくなったら、来てくれというところへ行ってやる」と語りました。今日もその通りに、世の人々のために、生神金光大神として、取次の働きが進められているのです。

 金光大神は、日々の生活における助かり、人間そのものの助かりを教えました。それは、「日に日に生きるが信心なり」と、信心にもとづく生活を進めること、生活がそのまま信心になる生き方を、たゆみなく求めつづけることなのです。

 信心とはわが心が神に向かうことであり、その姿をもって日々の生活を送ることです。そこに神のおかげを受けることができ、生かされて生きている人間であることの自覚が深まっていくのです。

 健康、経済、仕事、人間関係などの上に起こってくるさまざまな問題も、信心を進める上の大切な問題として、神様から差し向けられた事柄であると受けとめていき、いつでも、どこでも、どんな事柄でも神に祈り願って、日々神と共にある生き方を進めていくことが信心生活です。

 金光大神は、「わが心に神がある」と語り、人間の心を大切にすること、そして人と人との真実の心のふれ合うことの大切さを説きました。

 さらに金光大神は、この世に生を受けたもののつとめとして、「人を助ける身になれよ」「人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよ」と、人を助ける人間になることを願いつづけ、人を助けるのが人間である、と教えています。

 「かわいい(ふびんでならぬ)という思う心が、神心である」との教えのように、難儀な人を見て、ふびんに思う神心は、だれにも神様から分け与えられています。この神心をもって、人を助ける使命に生き、そこに大きな喜びを見出していくのが、信心であります。

 私たちは、けっして一人で生きているのではありません。多くの人の世話になり、物の恩恵を受けて生活を営んでいます。お互いが手をとりあい、心を開いて歩むのでなければ、人間の真の助かりは実現しません。難儀に苦しむ人々が、一人でも多く助かることが神様の悲願であります。

 神の子であるお互いが、神様の悲願を身に体して、助け合って生きること、そして、「人を助ける」働きをしていくことが、人間の真実の姿であり、これを「生神(いきがみ)」といいます。

 金光大神は、「生神ということは、ここに神が生まれることである」と語っております。

 つまり、生神とは、特別の人のことではなく、信心すればだれでも生神になることができる
のであり、時、所を問わず、どんな事柄についても、それに当たる人の心の中、働きの上に神が生まれることなのです。

『人はみな神の子-金光教概要-』から抜粋”

ようこそ金光教へ › 教祖の生涯
http://web-konkokyo.info/konkokyo/kyoso/index_html
”金光教(こんこうきょう)の教祖金光大神(こんこうだいじん)さまは、江戸時代の終わりごろ、文化11(1814)年8月16日(新暦9月29日)、備中国占見村(びっちゅうのくに うらみむら/現岡山県浅口市金光町)の農家、香取十平(かんどりじゅうへい)、しもの2男として生まれました。源七(げんしち)と名づけられ、実直で信仰心の厚い父と、慈愛に満ちた母のもとで、大切に育てられました。
 金光さまは、幼少のころから身体が弱かったので、父は暇を見つけてはわが子を背負い、村の氏神(うじがみ)である大宮神社(おおみやじんじゃ)をはじめ、近くの神社やお寺に参拝をしていました。そのため、父の着物は背中のあたりからすり切れてやぶれるのが常であった、と伝えられています。

注)明治6年の改暦まで旧暦表記。  
注) 以後、「教祖金光大神さま」を「金光さま」と表記。金光さまの年齢は数え年で表記。

 文政8(1825)年、12歳になった金光さまは、川をへだてた隣村の大谷村(おおたにむら)に住む川手粂治郎(かわてくめじろう)、いわの養子となりました。名前を源七(げんしち)から文治郎(ぶんじろう)と改め、周りからは文治(ぶんじ)と呼ばれるようになりました。



 養子入りの際、養父母から「好きなことは何か」とたずねられると、「神仏に参ることが好きなので、休日にはこころよう参らせてください」と答えました。また、「嫌いなものは」と聞かれて、麦飯が体質に合わなかった金光さまは、「麦飯がきらいです」と答えました。麦飯が常食であった当時の農民の暮らしから考えると、とんでもない答えでしたが、文治に期待と愛情を注ぐ養父母は、麦2斗(と)を米1斗※に換えてまで米のご飯を食べさせました。

※1斗(と)=10升(しょう)

 農民に「読み書き」は不要とされていた時代でしたが、13歳になった金光さまは、養父のはからいによって、村の庄屋の小野光右衛門(おのみつえもん)から手習いを受けることになりました。2年という短い期間ではありましたが、読み書きそろばんをはじめ、倫理や道徳についても学びました。
 光右衛門は、天文・和算・測量・暦法・方位・鑑定などにすぐれ、また、村人からの信任もたいへん厚い人物でした。そのすぐれた人格にふれて成長した金光さまが物事の道理に明るい人となり、後年、自叙録など多くの記録を書き記すことができたのも、光右衛門との出会いに負うところが大きかったのです。

 天保7(1836)年、金光さまが23歳の時に義弟の鶴太郎(つるたろう)が6歳で亡くなり、それから半月あまりの後、わが子の後を追うように養父粂治郎(くめじろう)が66歳で亡くなりました。
 金光さまは思いがけない義弟と養父の死にふれて、言いようのない悲しみや家の先行きに対する不安に襲われました。

そうした中、家督(かとく)をついだ金光さまは、養父の遺言により姓を川手(かわて)から赤沢(あかざわ)に改め、一家のあるじとしての責任を果たすため、今まで以上に家業に努めていきました。そして、その年の12月、古くからの親戚筋にあたる、古川八百蔵(ふるかわやおぞう)の長女とせさまと結婚することになりました。金光さま23歳、とせさま18歳の時のことでした。


 弘化3(1846)年、金光さまは33歳の厄年※を迎えました。当時の習慣では、親類縁者を招いて祝宴(しゅくえん)を開き、厄払いをするのが一般的でしたが、金光さまは、そのかわりに、四国霊場(しこくれいじょう)88か所を巡拝することにしました。
 巡礼者の多くは、けわしい山道を越えたり、深い谷を渡らなければならない札所(ふだしょ)にさしかかると、街道途中からの遥拝(ようはい)で済ましていましたが、金光さまは一つ一つの札所に足を運び、心をこめて丁寧に巡拝しました。

※厄年:一般に、33歳は女性の厄年とされるが、この地方では男性の厄年でもあった。

 次第に生活が豊かになり、家族も多くなったことから、これまでの小さな家を建て替えることにしました。
 嘉永2(1849)年の暮れ、隣村の住居購入の話を持ちかけられた金光さまは、日柄方角を見てもらい、その家を購入することにしました。
 しかし、翌年、小野光右衛門(おのみつえもん)から「年まわりが悪い」と指摘されました。すでに家を買い取っていたことから、再度、光右衛門に日柄方角を見直してもらうと、きびしい条件つきでようやく建築が許されました。



 金光さまは着工するにあたって、金神(こんじん)に無礼のないよう細心の注意を払って工事にのぞみましたが、その途中で2男の槙右衛門(まきえもん)が9歳で亡くなり、その後も、農家にとって大切な飼い牛が2頭死にました。
 思い起こせば、この15年あまりの間に、養父、義弟をはじめ、築いた墓は7つ。家が繁栄していく一方で、おそろしい「金神七殺(こんじんしちせつ)」を思わせる不幸に見舞われたのです。


金神(こんじん)のたたりに対して、あらゆる手だてを尽くしながらも、不幸をまぬがれることができなかった金光さまの切実な思いを込めた参拝でした。

8 42歳の大患
安政2(1855)年4月25日、金光さまは「のどけ」と呼ばれるのどの病気にかかり、生死の境をさまよいました。
親類たちが集まり、病気回復の祈祷(きとう)を行うと、義弟の古川治郎(ふるかわじろう)に神がかりがあり、37歳のときに行った家の建築について「金神に無礼があった」という指摘がなされました。そして、ひたすらおわびをする金光さまに神様から、「その方の信心に免じて神が助けてやる」と告げられたのです。
 この出来事で金光さまは、はじめて神様に出会うとともに神様のおかげを受け、日柄方角にゆさぶられてきた人生を大きく変えることになりました。

 安政4(1857)年10月、かねてより金神信仰をしていた実弟の香取繁右衛門(かんどりしげえもん)に神がかりがあり、金光さまに対して「金神の宮を建築してほしい」と頼まれました。実弟の口を通してとはいえ、金神様からはじめてお願いをされたことで、金光さまは、建築費用の一切を受け持ち、弟が安心して神様の御用ができるようにと心を配りました。
翌年の正月、繁右衛門の広前※に参拝した金光さまは、弟の口を通して、「神の言うとおりにしてくれ、その上に神と用いてくれ、神もよろこぶ。これからは何事も神を一心に頼め」と告げられたのです。

※広前(ひろまえ):神様の御前という意味。神様のまつられている場所。
 安政5(1858)年に入ると、金光さまは自宅の神前で、朝晩、一心に祈念をするようになりました。すると、その年3月には手の動きにより、ついで、7月には自分の口を通して、神様からの「お知らせ」を受けるようになりました。
 同年9月、金光さまは神様の「一乃弟子(いちのでし)」に取り立てられ、その手はじめとして、はだしでの農作業を命じられました。

 それを見た妻は「信心ばかりして、わらじの一つも作らないと人に笑われます」と反対しました。金光さまは農具にわらじをくくりつけ、たずねる人には「わらじが足にあわないので」と答え、妻の気持ちをくむことも修行としつつ、神様の教えどおりにしたがう生活をつらぬいたのです。

 神様の「お知らせ」にしたがっていくうちに、金光さまは不思議なおかげを次々と受けるようになりました。そして、それを見聞きした人たちが難儀や悩みを抱えて、金光さまのもとを訪れるようになりました。
 安政6年(1859)、神様は金光さまに、「15歳になった息子の浅吉(あさきち)に家督をゆずり、隠居をするように」と告げました。これを受けた金光さまは、徐々に仕事を浅吉にゆずっていきました。
この年の秋、神様は「浅吉に牛を使わせよ」と金光さまに命じ、それを妻が心配して、金光さまに使い始めをうながしました。しかし、牛は暴れて手におえず、「これは神様のお知らせに違いない」と思い直して浅吉に使わせると、牛は急におとなしくなりました。
 神様の教えにしたがうことの大切さを、今さらながら痛感した出来事でした。

12 立教神伝
安政6年(1859)年10月21日(新暦11月15日)、その年の麦まきがすべて終わったころ、神様は金光さまに五色の幣(へい)※をつくらせ、神前に供えるよう命じました。神様の言うとおりに幣を作ると、「家業である農業をやめて、世間で難儀をしている数多くの人たちを、取次ぎ助けてやってくれ」という願いが告げられました。
 金光さまはつつしんでこれを受け、自宅を神様の広前として、人を助け導く御用に専念するようになりました。
 教団では、このお知らせを「立教神伝(りっきょうしんでん)」とし、この日を金光教の立教としています。


※幣(へい):木の棒の先端に切り込みを入れた串に、特殊な断ち方をして折った紙や木綿、麻などの紙垂(しで)を差したもの。

 自宅の神前で取次※に従事するようになった金光さまのもとには、難儀を抱えた参拝者が次々と訪れるようになりました。当初は家族をはじめ、多くの者が心配し、反対する者さえありましたが、参拝者は増え、自宅は徐々に手狭になっていきました。
 文久元(1861)年1月、神様は、母屋の東にあった小屋を建て替えるよう金光さまに命じました。このお知らせは、間口や奥行き、柱の寸法、大工の名前などまで細かく指示されたものでした。周りが騒ぐ俗信(ぞくしん)にとらわれず、神様のお知らせのままに建築を進めていくと、これまでのような家内の不幸に出会うこともなく、無事にできあがったのです。

取次(とりつぎ):人の願いを神様に、神様の思いを人に伝えて、神様と人とが共に助かっていく世界を顕現(けんげん)するための働き。

 近くの修験者(しゅげんじゃ)たちは、金光さまの教えが各地に広がっていくことを、こころよく思っていませんでした。彼らは、広前にしばしばやってきては、金光さまが布教資格を持たないことを盾にして、神前の神具(しんぐ)や供え物を持ち去るなど、さまざまな嫌がらせをしました。
 金光さまは、「このお道は年々にご繁盛なさる。先で合点(がてん)せよ」と信者をさとしていきました。
 文久2(1862)年11月23日、神様は、新たに「金光大明神(こんこうだいみょうじん)」という神号(しんごう)を金光さまに授けられました。布教上の問題が大きく浮上していたこの時期に、「金光」を冠した新たな神号が下げられたのは、神様の光を世に現わした者として、さらなる願いがかけられたと言えるでしょう。

 当時の金光さまの広前は、自宅の部屋がそのまま用いられており、およそ神様をまつる社殿(しゃでん)らしい建物とはかけ離れた、非常に質素なものでした。
 元治元(1864)年元日、「神の宮を建ててくれ」というお知らせが金光さまに下がりました。
 さらに、「神が宮に入っていたのでは、この世が闇になる」と言われる神性と、「取次の宮」であり「参拝者の願い礼場所」という、広前の意義が力強く示されました。これを受けた金光さまは、神様の願いのままに宮建築の手続きを進めていくことになりました。

16 神主職の取得

 当時、農民が神事に仕えることや、新たに宮や社(やしろ)を建築することは禁止されていました。したがって、早急に神事に仕えることができる資格を得て、お上(政府)から宮建築の了承を得ることが必要でした。
 そこで、金光さまは京都の白川家※に代理人を使わし、神職入門の承認を得て、自宅で神事を仕える許状(きょじょう)を受けることができました。
 これよって、斎藤重右衛門(さいとうじゅうえもん)や高橋富枝(たかはしとみえ)など、各地で取次にしたがっていた金光さまの弟子たちも、公に布教できる資格を求めて次々と白川家に入門することになりました。


 元治元(1864)年10月、金光さまは「金光大権現(こんこうだいごんげん)」という新たな神号を許され、妻とせさまにも初めて「一子明神(いっしみょうじん)」という神号が初めて許されました。

※白川家(しらかわけ):朝廷の祭祀(さいし)を司る長官職の家柄で、神職への補任や各種神事に関わる許状の下付(かふ)、神職や祭神への叙位(じょい)や称号の下付を取り次ぐ神道宗家の一つ。


17 生神金光大神
 宮建築の認可が下りたにもかかわらず、建築にあたる棟梁(とうりょう)の行いが神意(しんい)に沿わなかったために、中断を余儀なくされました。
 明治元(1868)年9月24日、金光さまは神様から「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)」の神号を授けられました。生きながらにして“人を助けて神になる”という信心を日々実現している金光さまに対しての、最後の神号でした。

 さらに、「『天下太平(てんかたいへい)、諸国成就祈念(しょこくじょうじゅきねん)、総氏子身上安全(そううじこみのうえあんぜん)』と書いた幟(のぼり)を立て、日々祈念をせよ」と命じられました。
 金光さまに改めて求められたのは、世の中と世の人々の立ち行きを祈念することでありました。

 明治3(1870)年10月、金光さまは神様から、「信心辛抱(しんじんしんぼう)の徳をもって、天地のしんと同根(どうこん)なり。神が礼を申す」とたたえられました。
 この年、失明がもとで金光さまのもとへ参拝して信心に触れ、後に開眼のおかげをうけた岡山の白神新一郎(しらかみしんいちろう)は、明治4(1871)年、本教で最初の布教文書となる「御道案内(おみちあんない)」を著しました。

 明治7(1874)年11月23日(旧暦10月15日)早朝、神様から「御覚書(おんおぼえがき)」の執筆を命じるお知らせが下がりました。金光さまは、すでに慶応3(1867)年ごろから、神のお知らせを中心に書きとめた「お知らせ事覚帳(おぼえちょう)」を記していました。それをもとにしつつ、「自らの生い立ちや信心はじめのころにさかのぼって、身のまわりでおきたことを記すように」という神様のご指示でした。
 「御覚書」は、金光さまが神様と感慨(かんがい)をともにしながら書き進めたものであり、記されている一つ一つが神様の思いにそって生きてきた金光さまの信心のあかしでした。

 明治9(1876)年8月13日(旧暦6月24日)早朝、神から次のようなお知らせが下がりました。
 「金光大神、人が小便放(ひ)りかけてもこらえておれい。神が洗うてやる。人がなんと言うてもこらえておれい。天地の道がつぶれとる。道を開き、難渋(なんじゅう)な氏子助かることを教え」


 このお知らせの2か月後、鴨方(かもがた)の巡査2人が来て、金光さまに尋問を行いました。以後、金光さまはたびたび神勤のあり方に干渉を受けるようになりました。ちょうど、明治政府の警察組織が整いつつあったころです。
 これを心配した信者たちは、天照皇大神をまつり、国の方針にしたがった信心教育を施すとして、当面の神勤行為を認めてもらうための請願書を、金光さま名義で県庁に提出しました。この出願に対して一応の認可は下りたのですが、これは神様と金光さまにとって本意なものではありませんでした。

 中断されていた宮建築が、明治10(1877)年になって再開されることになりました。村人からの働きかけによるもので、神様の願いを受けて進めてきた今までとは違った動きでした。
 翌年には「素戔嗚神社(すさのおじんじゃ)」と社号(しゃごう)が定められ、金光さまの4男萩雄(はぎお)が祠掌(ししょう)※に就任し、寄付を集める方法として木札や守り札が売られるようになりました。しかし、神様から「木札や守り札は出すな。貧しい人々が助からない」とのお知らせがあり、中止されました。


 明治12(1879)年11月8日(旧暦9月24日)早朝、神様は金光さまへのお知らせの中で、「天地金乃神は、人がおかげを受けて真心から供える物は受け取るが、利益を目的とする神ではない」と、あらためて明言され、守り札を求める人々に対しては、信心の目当てとして、「天地書附(てんちかきつけ)」が渡されるようになりました。
※祠掌(ししょう):神官の職名の一つ。

 明治13(1880)年12月25日(旧暦11月24日)、金光さまは神様から、「昔は神代(かみよ)といったが、今は人代(にんよ)である」というお知らせを受けました。明治の世になって、鉄道や蒸気船、電話や電信など、さまざまな文明の利器が海外から持ち込まれるようになり、こうした目を見張るような時代の動きは、折々に金光さまの耳にも届いていました。


 しかし、神様の働きの賜物(たまもの)である天地の営みに対する敬いの心がうすれ、わが力に頼って生きることで難儀をしている「人代」の姿を神様は憂い、人々が神様と共に生きる「神代」に戻ることを金光さまに伝えたのです。

 金光さまの広前の紋章(もんしょう)は、はじめ「丸に金の字」が用いられていました。文久2(1862)年、笠岡(かさおか)で取次に仕える斎藤重右衛門(さいとうじゅうえもん)が、この紋を染めた幕(まく)を神前にお供えしたのが始まりとされています。
 明治14(1881)年1月30日(旧暦1月1日)「ご紋を変えよ。八正金神(はっしょうこんじん)、八つ割りとせよ」というお知らせが下がりました。この時から、金光教をあらわす紋章として、「八つ波(やつなみ)の紋」が使用されることになりました。


 「金光(こんこう)とは、金光(きんひか)るということである。金は金乃神(かねのかみ)の金、光は天(あま)つ光である。天つ光があれば明るい。世界中へ金乃神の光を光らせておかげを受けさせるということである」という「金光(こんこう)」の意味内容が、この紋章には込められているのです。

 明治15(1882)年11月24日(旧暦10月14日)早朝、金光さまは神様から次のようなお知らせを受けました。
 「天地の間のおかげを知った者なし。おいおい三千世界、日天四(にってんし)の照らす下、万国まで残りなく金光大神(こんこうだいじん)でき、おかげ知らせいたしてやる」


 金光さまのまわりには、さまざまな難儀が絶えず渦巻いていました。人間の我情我欲(がじょうがよく)や天地に対する無礼など、それらはすべて人間側の問題であり、神様への敬いがないところで起こる問題でもありました。
 そのような人間におかげを受けてもらいたいと、老いゆく金光さまのまなざしは、大谷の地や日本という国を越え、天地の間に住むすべての人たちへと向けられていったのです。

 金光さまが自宅の神前に奉仕するようになってから、24年が過ぎました。その間、人々の苦しみを聞いては神様に祈り、神様の願いを参拝者に伝える中で、たくさんの人々が助かっていきました。
 明治16(1883)年9月21日(旧暦8月21日)早朝、金光さまは神様から次のようなお知らせを受けます。
 「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため」
 このお知らせから19日後の明治16年10月10日(旧暦9月10日)、金光さまは妻とせと娘のくらに見守られて、眠るようにこの世を去りました。70歳でした。
 金光さまは、生涯かけて世の難儀を救い続け、死を迎えた後も肉体の制約を超えて、永世(えいせい)生きどおしの神とお立ちくださることになったのです。”

参拝のしかた
http://web-konkokyo.info/konkokyo/sanpai/index_html
”※1 参拝時の柏手(かしわで)は、四拍手(しはくしゅ)【4回】です。
 拍手は、神を拝む際に、手の平を打ち合わせる拝礼作法ですが、金光教では、「拍手によって、神は扉を開いて、その祈りを聞き届ける」という伝承が残っています。教祖は、神を拝むには心を向けることが大切で、拍手もむやみに大きな音をたてなくてもよいと伝えています。
 金光教では、「四」の数字を忌む一般の風習を戒め、「四」に「よかれ」「しあわせ」の意味を込める教祖のおしえ、精神に基づいて拍手を4回と定めています。
※2 (3)の祈念の際、定められた祈りの言葉を唱えることもできます。
 金光教拝詞集」には、神前拝詞、霊前拝詞が収められています。”


第27回世界連邦平和促進全国宗教者大阪大会
11月29日 金光教泉尾教会で開催予定
テーマ「人類に平和を―世界連邦実現への道―」
http://www.jinruiaizenkai.jp/Japana/ja-gazetoj/2005/05-11/shinbun05-11-4.html
”世界連邦運動を進める宗教者による「第27回世界連邦平和促進全国宗教者大阪大会」(主催・世界連邦日本宗教委員会、協賛・〈財〉日本宗教連盟、後援・世界連邦推進日本協議会/世界連邦日本仏教徒協議会、協力・金光教)が、11月29日、金光教泉尾教会(大阪市大正区三軒家西3の8の21)で開催される。今回のテーマは「人類に平和を―世界連邦実現への道―」。

 大会は、午前10時半から「世界平和祈願万国万霊慰霊祭」を執行の後、開会式。 午後1時から、バチカン諸宗教対話評議会副議長のフェリックス・マチャード師が「21世紀の世界平和構想―宗教間の対話から世界平和を―」のテーマで基調講演。これを受け、大会テーマに沿ったパネルディスカッション
が行われる。

 パネルディスカッションは、植木光教世界連邦推進日本協議会会長をコーディネーターに、中野寛成前衆議院副議長、薗田稔京都大学名誉教授(秩父神社宮司)、城忠彰広島修道大学教授(国際法)、野下千年世界連邦日本宗教委員会副委員長、青山俊董特別尼僧堂・愛知専門尼僧堂堂長の各氏がパネリストとして発言し、世界連邦実現へのロードマップを探る。

 4時半から閉会式を行ない大会宣言文を採択。5時半からレセプションが開かれる。大会参加費=3千円レセプション参加費=1万円。

 問い合わせ=世連日宗委事務局(0771・25・2145)


 争いのない平和な理想世界を築く運動である人類愛善運動を推し進めようとする私たち人類愛善会員は「世界連邦」を正しく理解し、多くの人に説き広めなければなりません。

 このたび人類愛善会から出版されました冊子「よくわかる世界連邦」は、まさにその世界連邦運動の歴史と意義を分かりやすくまとめたもので、会員必須の学習書であるとともに、近隣の人にもお伝えし、ご理解いただくための啓発書でもあります。

 特に来年度は冊子「よくわかる世界連邦」をテキストに使い、「世界連邦」を中心に人類愛善運動全般についての学習活動、また、各種愛善講座の開催を国内宣伝活動の柱といたしたく考えております。

 つきましては、「よくわかる世界連邦」の積極的なご活用をお願い申し上げます。

 なお、この冊子は非売品となっておりますが、愛善運動基金カンパとして1冊100円にてお分けさせていただきます。詳しくは事務局までお問い合わせください。
〈電話0771・23・2145〉(人類愛善会総本部)”


世界連邦運動協会
http://timetide.way-nifty.com/993666/2017/01/post-4f0d.html
”世界連邦運動協会
東京都新宿区四谷4-23 第一富士川ビル
2009年8月-東京都台東区東上野1-20-6 丸幸ビルに移転
2015年9月-東京都港区赤坂7-2-17 赤坂中央マンション 303に移転

■役員抜粋

執行理事 三宅光雄 金光教泉尾教会長

執行理事 稲垣裕彦 人類愛善会 副会長 世界連邦日本宗教委員会 会長代理”


ひびのけい‏ @hbnk 2014年5月23日
金光教は、五代目歌右衛門・初代吉右衛門・初代鴈治郎ら名だたる歌舞伎役者が信者で有名だが、初代教祖赤沢文治の生涯を描いた1982年「あいよかけよ」(朝日座)では、祖父の代から信仰してる今の藤十郎が主役、二代鴈治郎も顔を見せ、関西歌舞伎・新劇の俳優が大挙出演してた。動員数などは不明。



金光教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%95%99#.E6.95.99.E3.81.88
”1889年(明治22年) 7月4日 金光萩雄・佐藤範雄「日本赤十字社」に入社。金光教での赤十字運動の開始。
…1907年(明治40年) 9月30日 松山成三満州布教開始。
1910年(明治43年) 6月から7月 金光教監佐藤範雄、満州・朝鮮布教視察。

著名人の信徒

市川猿之助 (歌舞伎役者)
市川右團次 (歌舞伎役者)
伊藤昌哉(政治評論家)
扇千景
小川洋子
小田原大造
片岡孝太郎 (歌舞伎役者)
桂かい枝
かんべむさし
甲本ヒロト (ミュージシャン)
坂田藤十郎 (歌舞伎役者)
サトウサンペイ
品川祐 (お笑い芸人) - 親の実家が金光教信者。
杉田二郎
鈴木清一 株式会社ダスキン創業者
砂川しげひさ
中村鴈治郎
十七世中村勘三郎 (歌舞伎役者)
十八世中村勘三郎 (歌舞伎役者)
中村吉右衛門 (歌舞伎役者)
七世中村芝翫 (歌舞伎役者)
八代目中村芝翫 (歌舞伎役者)
九代目中村福助 (歌舞伎役者)
西村朗 - 実家は神仏への信心が深く、神道においては金光教を信仰していた。
日枝久
牧野省三
松木安太郎 (サッカー解説者) - 名前が、玉水教会初代教会長湯川安太郎にちなんでいる。
三田寛子
吉見一起 (プロ野球中日ドラゴンズ) - 金光大阪高校出身。
萬屋錦之介”

中村錦之助伝~生い立ち(その3)
http://blog.goo.ne.jp/sesamefujii/e/d0c63de58646738d31a3e8aad4343667
”金光教は、一種の現世ご利益の宗教であると言えようが、その現実肯定的な救済思想もあってか明治期には主に西日本の庶民階級を中心に信者を増やしていった。やがて教団の強化によって、大正から昭和にかけて全国に広まり、とくに大阪、京都、東京などの都市部では、商人や花街の芸娼妓、そして歌舞伎役者の多くが信者に加わった。
 金光教の熱心な信者だったといわれる芸能人では、古いところでは映画監督の牧野省三(一八七八~一九二九)、歌舞伎役者では初代中村鴈治郎(一八六〇~一九三五)が有名である。
 牧野省三は、明治四十二年金光教の岡山本部へ行き、その神託によって「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助を見出し、時代劇の大スターにしたというエピソードを残している。息子の映画監督マキノ雅弘の本名「正唯」も金光教が名付け親だったという。
 また、初代中村鴈治郎は、明治大正期の上方歌舞伎の大看板であるが、金光教への信仰が篤く、一門全員に金光教を信仰させたというほどの信者だった。その信仰は、息子の二代目鴈治郎(一九〇二~一九八三)、孫の現・坂田藤十郎(一九三一~ 元・中村扇雀、三代目鴈治郎)に伝わっている。
 東京の歌舞伎役者では、同じく明治大正期の大看板五代目中村歌右衛門(一八六六~一九四〇)も信者だった。ということは、歌舞伎界の東西の両巨頭が金光教を信じていたことになる。五代目歌右衛門の血筋では、次男の六代目中村歌右衛門(一九一七~二〇〇一)と、早世した長男五代目福助の遺児で孫の七代目中村芝翫(一九二八~二〇一一)も信者だった。

 初代吉右衛門も自伝の中で、自分は法華宗(日蓮宗)の信者であるが、一時期(関東大震災前頃から)金光教を大層信心し、岡山の本部へも何かにつけてお参りしていたと書いている。
 錦之助も子供の頃、母に連れられて岡山の金光教本部へ何度かお参りしている。
 金光教は他の宗教にも寛大で、同時にどんな神様仏様を拝んでもかまわないそうだが、錦之助は金光教だけでなく、生涯を通してずっと信心深かった。昭和三十年代、錦之助が京都東山の家に住んでいた頃は、金光様と狸谷の不動様をまつって、朝晩拝んでいたという。狸谷の不動様とは、京都の一乗寺下り松の上にある狸谷山不動院のことで、本尊は不動明王である。”

◎『外から見た金光教』(金光教大崎教会 田中元雄氏 著、ぎじろくセンター、1992年発行)からの抜粋
  (すべて教外者)
http://www.hachigamenet.ne.jp/~konkokyo/frame_konkoukyotoha.htm
”・長谷部日出男氏(作家)「たがいに相より相かかわるという相対的な『関係』のなかに、神と人との結びつきを認める金光教の教義は、画期的なものといってよく、いまの世界思想の最先端とも一致する考え方ではないか」

・村上重良氏(元慶応義塾大学講師・宗教学)「宗教思想の先進性をもつ金光大神を、広く認識し再評価することは、特に有意義な課題というべきであろう」

・丸山照雄氏(日蓮宗僧侶・宗教ジャーナリスト)「教団自体の責任において、教団の責任者も中に入って、教団の自己批判をしたり、社会問題を論じたりできる力量をもった教団はそうあるものではない」

・岸本英夫氏(元東京大学教授・宗教学)「日本で生まれたもっとも重要な宗教の一つは、金光教である」

・森岡清美氏(成城大学教授・日本学術会議会員・前日本社会学会会長(社会学)「ひとりひとりの、悩みをかかえる心の奥ひだまでふれていくようなあり方がなされている。…信者の人たちは良い意味でとてもまじめだ。これも金光教の信仰スタイルからくるものだと思う」

・平井直房氏(國學院大學教授・日本文化研究所所長(神道学・宗教学)「…お話を聞かせていただき、これが本当の信仰だ、とたいへん感銘を受けた。教えの生きた姿とはこういうことをいうのだと思った」

・笠原一男氏(元東京大学教授・歴史学)「金光さんはいいですね、宗教というものはこうでなければならない」

・チャールズ・ロング博士(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授・宗教学。前アメリカ宗教学会会長)「こんにちのように、世界中が危険に満ちみちた状態である時であればあるほど、金光教のような中身をもった宗教が求められているのである」

◎書籍類からの抜粋

○かんべむさし氏(SF作家・信奉者)著の『理屈は理屈 神は神』(講談社、2005年発行)より
・「これからも、死ぬまで頼らせてもらえるのだという安心感があるから、通いつづけようとは思っている。…『よくぞ、おれにぴったりのこんな宗教があり、ここにこういう教会があってくれたことよなあ』という思いは、今も不変なのだ」

○サトウサンペイ氏(漫画家・信奉者)著『ドタンバの神頼み』(光文社、1989年発行)より
・「先生の教え方が親切でていねいな宗教が好き。…よく効く宗教が好き。…お金を出せと手を出さない宗教が好き。…霊を商売道具にしない宗教が好き。…人を困らせない宗教が好き。」

○小川洋子氏(作家、信奉者)
『深き心の底より』(海竜社、1999年発行)より
・「金光教は日本人の遺伝子に流れる東洋的価値観を、うまく表現した宗教と言えるだろう。…小説を書いていて、金光教と文学がそれぞれに持つ許容の性質は、どこかで響き合うのではないかと感じることはある。」
『金光新聞・神様ありがとう』(金光教本部、1997年発行)より
・「金光教の教祖様が(生かされて生きてあり)とみ教えくださっていますが、(書かされながら、みずから書く)という心持ちにある時こそ、真実のものが書ける気がするのです。」

○山口文憲氏(エッセイスト・教外者)著『日本ばちかん巡り』(新潮社、2002年発行)より
・「…ところが金光教では、教祖の時代からすでに百数十年を経たいまでも、教主と一信者との直接のコミュニケーションを、取次というかたちで、ちゃんと保証しているのである。そんな牧歌的な大教団が、ほかにあるだろうか。」「…それ(祭典時の信者の様子)を見て、私はこの金光教という宗教に、座布団をもう一枚進呈する気になった。」

○松木安太郎氏(サッカー解説者、信奉者)『金光新聞・神様ありがとう』(金光教本部、1997年発行)より
・「自分の環境は、気持ち一つで変えられます。それは金光教祖様の、おかげは和賀心(わがこころ=和らぎ喜ぶ心)にあり、というみ教えの実践だと思います。どんな壁にだって必ず穴があります。少し考え方を変え、前向きに工夫し努力すれば、素晴らしい力が出せます。自分の心次第で打ち勝っていくことができます。このみ教えはそう心に響いてきますし、僕自身、いつもこのみ教えを基本に持っていたいと思っています。」

○中村橋之助氏(歌舞伎俳優、信奉者)『金光新聞・神様ありがとう』(金光教本部、1998年発行)より
・「父は朝、顔を洗ったあと、ご神前に座り、手を合わせて長い時間、お祈りしています。父は、いろんなことを神様に聞いてもらっているんだと思うのです。…祖母の代から続いている慣わしですが、私の女房も私の舞台初日の前日には必ず教会にお参りし、舞台とか役のことをお願いするんです。そして、ご神米を頂いて帰って、それを私の衣装の下に縫い込んでくれます。…信仰のおかげでたくさんのことを教えて頂いていますが、特に祖先を敬う心が大切。私が何代目という世界にいるから、一層強く感じています。」”

世界連邦 岡山県宗教者大会
http://web-konkokyo.info/data/n1279605256
”第30回世界連邦岡山県宗教者大会(世界連邦岡山県宗教者の会主催)が6月29日、「すべてに礼をいう心」をテーマに、岡山県浅口市金光町の金光教本部の金光北ウイングやつなみホールで開催された。金光教をはじめ、大本、県神社庁、県佛教会、キリスト教、黒住教、津山宗教委員会、念法真教、立正佼成会からの参加者約3百人が世界平和への願いを新たにした。【金光新聞

 初めに、午後1時から平和祈願祭が仕えられ、祭主の安武秀信教会部長が祭詞を奏上…
 その後、宗教者大会が開会。初めに主催者代表として、世界連邦岡山県宗教者の会の橋本明禅会長が「紛争や人心の荒廃が甚だしい今こそ、私たちが地球市民の一員として、平和な未来構築のために努力し、一人でも多くの関心を高め、世界連邦政府が実現するよう祈念する」とあいさつ。次に、大会長として佐藤光俊・金光教教務総長が、「感謝、真心、親切といった、神仏と人間、人間と人間を結び付ける心情をはぐくみ、われひと共に助かる在り方を大切にする生き方が、世界連邦運動への着実な歩みとなる」とあいさつした。 続いて、岩手大学名誉教授の山崎達彦氏が、「迷走する価値観の現状と信仰の役割」と題して記念講演。”

三宅光雄教会長がIARF会長に選任
http://www.relnet.co.jp/izuo/brief/101009.htm
”  2010年9月4日から7日まで、ダライ・ラマ14世をはじめ全世界から六百余名が参加して、インド南部のケララ州コーチ市で『対立を越えて和解へ:21世紀の挑戦』をテーマにIARF(国際自由宗教連盟)の第33回世界大会が開催され、三宅光雄金光教泉尾教会長がIARF会長(任期4年)に選出された。


数百名の参加者で満堂となった世界大会開会式

  9月4日午後、今回の世界大会の会場であるCRC(カトリック・リニューアルセンター)周辺は、大勢の警官が警備する異様な雰囲気であった。インドでは、宗教対立によるテロ事件等も珍しくなく、チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世法王をはじめ、日本や欧米から大勢の外国人が集まるこの機会は、テロリストが「何か事件を起こす」には絶好の機会だからだ。開会式は、CRC最大の施設ヨハネ・パウロ2世記念講堂(オーディトリウム)で行われた。最初に、日本からのヨガグループとコーラスグループが実演を行い、コーチ市長や地元の宗教者が歓迎の挨拶を行った。続いて、大会実行委員長のホミ・ダラー博士が歓迎の挨拶、トーマス・マシュー博士が会長演説を行った。

  物々しい警備陣に囲まれて到着したダライ・ラマ14世法王は、30分間にわたる基調講演を行った後、フロアの一般参加者との質疑応答を30分間も行われた。ノーベル平和賞受賞者でもある法王が、一般大衆からの質問に丁寧かつユーモアを交えて回答される様子に、会場は大いに盛り上がった。IARFが4年に1度の世界大会時に授与している『シュバイツアー賞』のダライ・ラマ法王へのプレゼンテーションスピーチを三宅善信金光教泉尾教会総長が務めた。ノーベル平和賞受賞であるアルバート・シュバイツアーは、日本では、アフリカの民衆のために医者としての生涯を捧げた「偉人」として知られているが、音楽家バッハの研究者であり、自身オルガニストでもあった。さらには、新約聖書の文献学的研究でも第一級の成果を挙げている神学者でもある。特に主著『生への畏敬』で知られる哲学者でもあった。おまけに、シュバイツアーは、IARF創設の元となったユニテリアンのメンバーでもあった。

ダライ・ラマ14世への「シュバイツアー賞」授与理由を述べる三宅善信総長


  この後、ダライ・ラマ法王は、西田多戈止一燈園当番が持参した「マハトマ・ガンジー縁のチャルカ(糸紡ぎ車)」を回した。「20世紀の聖者」として世界中から尊敬されるガンジー翁は、徹底的な非暴力思想でインドの独立を勝ち取ったが、そのシンボルがこの小さな糸車であった。ガンジー翁がかつて糸を紡いだチャルカをダライ・ラマが回し、その後に続く多くの人がチャルカを回すことによって、人々の心がひとつになるというシンボライズされた場面であった。なお、この日の開会式に当たって、110年に及ぶIARFの歴史上初めて、バチカンの正義と平和評議会議長のピーター・タークソン枢機卿からメッセージが寄せられたが、これは三宅光雄教会長が7月上旬にバチカンを訪問し、FIARFからのへの支援を要請したことにローマ教皇庁が応えたものである。

マハトマ・ガンジー縁の「チャルカ(糸車)」で糸を紡ぐダライ・ラマ14世と、
それを見守る三宅光雄泉尾教会長(左側)と西田多戈止一燈園当番(右側)

  翌5日は、記念講堂で全体会議①が『人権を推進することにおける宗教の役割』をテーマに開催された。インドの社会運動家として著名なスワミ・アグニベシュ師と、UUA(ユニテリアン・ユニバーサリスト協会)のピーター・モラレス会長と、ムンバイ高等裁判所のマルチア・ローハニ弁護士を発題者に迎えて、三宅善信師がモデレータとなってディスカッションが行われた。話は、古代インドのウパニシャド哲学から最先端の医療技術と倫理の問題、アメリカにおいて差別されている中南米系(ヒスパニック)移民からイランで宗教弾圧を受けているバハイ教徒に至るまで多岐にわたったが、三宅善信師はモデレータの役目を難なくこなした。

  翌6日も、前日を同様のスケジュールで進行し、「朝の祈り」に続いて、全体集会②が『科学と宗教:対立か集合か』をテーマにそれぞれ基調発題者とモデレータの下に開催された。午後の「総会」第2日目は、前日の「総会」で話し合われたいろんな案件の決議を取っていく部分である。この日の総会のクライマックスである役員人事の投票に入り、三宅光雄金光教泉尾教会長の会長就任を含む国際評議員19名の人事が可決された。なお、副会長にはイスラエルのシュロモ・アロン博士が、財務担当役員には英国のジェフ・ティーゲル氏が選任された。

  大会最終日となる7日は、インド全域において交通ゼネストが行われたが、宿泊先ホテルから徒歩で会場入りした新会長の三宅光雄師と世界各国から参加した約200名の青年たちの意見交換会が急遽持たれることになった。今回の世界大会に先立って、9月1日から3日まで、「RFYN(自由宗教青年ネットワーク)」大会が開催されており、世界各国から約200名の青年が参加したことである。特に注目されたのは、これまでIARFの活動がほとんど及んでいなかったアフリカの数カ国からや、旧ユーゴスラビア地域、今なお戦火の絶えないアフガニスタン、さらには、インド国内多数居るチベット難民の青年たちも多数参加したという点である。三宅新会長は、これらの青年たちの要望を聞き、また、自身の青年たちに対する期待を述べた。

  閉会式の基調講演者を務める予定であったカラン・シン博士(註:親の代まで、カシミールとジャミールのマハラジャで、旧ネパール王室とも姻戚のインド国民会議派の重鎮。インド大統領候補。三宅歳雄初代教会長と共に、長期にわたりTOUの国際委員長を務める)は、直前に勃発したカシミール地方での中国軍の介入問題に対処するため、急遽来訪が中止されたが、歌や踊りで大いに盛り上がった閉会式の最後に、トーマス・マシュー旧会長から新会長に就いた三宅光雄師に「会長の象徴」であるハンマーが手渡され、4日間にわたる第33回世界大会は無事終了した。”

IARFとは 
http://www.relnet.co.jp/jlc/iarf/index.htm
International Association for Religious Freedom
国際自由宗教連盟

IARFは、1900年にボストンで創設された世界最古の国際的宗教協力団体であり、国連経済社会理事会に総合諮問資格を有する国連公認のNGO(非政府機関)である。現在は、本部事務局を大阪に置き、ニューヨークとジュネーブに国連代表を、インド・フィリピン・アメリカに地域事務局を置いている。27カ国の75教団が加盟している国際的宗教協力団体である。特に、宗教的なマイノリティ(少数派)の人権(信教の自由)擁護に関心が高く、有名な「アムネスティインターナショナル」は、IARFの活動を通じて派生したものである。日本国内には、IARFに加盟している6教団と個人会員の団体である日本チャプターとIARFと友好関係にある国際的女性団体のIALRWの8団体で構成されJLC(IARF日本連絡協議会)が活動を行っている。


現在の役員および国際評議員のメンバー(ABC順)
会長 Rev. Drs. Wytske DIJKSTRA(オランダ) リモンストラント教会
副会長 Most.Rev.Mitsuo MIYAKE (日本) 金光教泉尾教会長
財務理事 Betsy DARR(米国) ユニテリアン

Rev. Keiichi AKAGAWA 立正佼成会 日本
Rev. Eric CHERRY ユニテリアン 米国
Janhvi GUPTE インド 青年枠
Robert INCE 英国 英国ユニテリアン
Prof. Kazi ISLAM バングラデシュ イスラム教
Dr. Kamar KAMARZAMAN マレーシア 婦人枠
Dr. Yahuda STOLOV イスラエル ユダヤ教
Adov. Varadarajalu RENGAPASHYAM インド ヒンズー教

IARF百年史
1893年 コロンブスノ新大陸発見400周年記念に開催された。シカゴ万博の際の記念事業として開催された「万国宗教会議」で初めて世界の宗教者数千人が集う。
1900年 ボストン(米国)で本連盟結成。当初の団体名は「ユニテリアンと自由思想家・活動家の世界協議会」。

1958年 第16回世界大会 シカゴ(米国) 金光教の代表者(佐藤博敏教監)が初めて参加。会名より「自由キリスト教」の削除の動議がなされる。

1969年 第20回世界大会 ボストン(米国) 金光教泉尾教会・立正佼成会・椿大神社が加盟。

1978年 第23回世界大会 オックスフォード(英国) 日本から33名参加。
1981年 第24回世界大会 ライデン(オランダ) 一燈園が加盟
。日本から45名参加。
1984年 第25回世界大会 東京(日本) アジアで初の世界大会開催。
立正佼成会会長庭野日敬師がIARF会長に就任。 JLC発足”


国際自由宗教連盟 (IARF)
https://iarf.net/2008site/japanese/unit3/iarf.html
” 国際自由宗教連盟 (IARF)

IARFは、宗教的自由に従事する主な国際諸宗教団体の一つである。1900年5月にユニタリアンと「リベラルなキリスト教徒」によって創立され、前世紀を通じて、30回にわたる世界大会を主催してきた。IARFに関する歴史や情報、最新のプログラム企画はホームページwww.iarf.net をご覧ください。”

国際宗教同志会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%AE%97%E6%95%99%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A
”国際宗教同志会(こくさいしゅうきょうどうしかい)は大阪市大正区の金光教泉尾教会に事務局を置く[2][3]、諸宗教との対話を目指す宗教者が設立した任意団体である。

昭和22年(1947年)2月15日に、当時の同志社総長牧野虎次を発起人として、金光教の三宅歳雄、大本の出口伊佐男、八坂神社の宮司高原美忠、カトリック京都司教区司教の古屋義之、日本聖公会の大国義政、一燈園の西田天香などが結成した。

世界宗教者平和会議(WCRP)の母体の一つとなった団体
である。

発足時

委員長
牧野虎次(同志社)
主事
奥村龍三(同志社)
常任委員
出口伊佐男(大本)
本田廣善(真宗大谷派)
古屋義之(カトリック)
岩田長三郎(天理教)
三宅歳雄(金光教)

西田天香(一燈園)
小笠原彰真(浄土真宗本願寺派)
緒方宗博(臨済宗)
岡田戒玉(真言宗醍醐派)
末廣愛邦(真宗大谷派)
高原美忠(八坂神社)
吉田隆吉(日本基督教団)
吉田良光(豊国神社)
荘野忠徳

現在

顧問
左藤恵(大谷学園学園長)
真弓常忠(住吉大社名誉宮司)
会長
村山廣甫(曹洞宗審事院審事)
理事長
三宅光雄(金光教泉尾教会 教会長)

常任理事
平岡英信(清風学園理事長)
大森慈祥(辯天宗管長)
西村淳晨(本門佛立宗清風寺住職)
佐原慶治(妙道会教団会長)
西田多戈止(一燈園当番)
理事
津江明宏(今宮戎神社宮司)
松井龍一郎(天理教明城大教会 会長)
三宅善信 (金光教春日丘教会 教会長 神道国際学会 理事長)

松下日肆 (本門法華宗管長 大本山妙連寺貫首)
左藤一義 (大谷学園 理事長)
芳村正徳 (神習教教主)
高井道弘 (住吉大社宮司)
松本貢一(立正佼成会大阪教会 教会長)
監事
内海雅継(金光教泉尾教会 教師)
懸野直樹(野宮神社宮司)
事務局長
三宅善信



三宅龍雄大人を偲ぶ会 謝辞
http://www.relnet.co.jp/izuo/brief/tatsuo_5year/tatsuo_5year_shinobu.htm
”  金光教泉尾教会長
三宅光雄

先ほど、金光教泉尾教会の霊殿におきまして、先代教会長三宅龍雄大人の五年祭を勤めさせていただきました。先生方にはお忙しい中をお時間を頂戴いたしまして、偲ぶ会にまでご来臨を賜りましたことを先ずもって御礼申し上げます。有り難うございます。

先代教会長は昭和三年の生まれでございます。私共では「大恩師親先生」とこう呼ばせていただいております先々代の教会長三宅歳雄は、玉水教会初代大先生から、昭和二年の1月に「泉尾で座りきれ」というお祈りを頂いて、泉尾教会に布教させていただきました。その翌年に父は生まれました。三宅歳雄は布教した年の5月に結婚しておりますから、私ども泉尾教会の信奉者にとりましては、三宅歳雄とその家内であります三宅ツ子、そして息子の三宅龍雄…。この三柱の霊様が私共の信心の基だと私は頂いております。


三宅龍雄大人を偲ぶ会 ご挨拶 (敬称略)

神社本庁 総長
石清水八幡宮 宮司
田中恆清

田中恆清師



天台宗 大僧正
山田能裕

山田能裕師


一燈園 当番
西田多戈止

西田多戈止一師

ただ今ご紹介いただきました一燈園の西田多戈止でございます。私どもの祖父、西田天香と三代目の光雄先生のお祖父様である三宅歳雄先生とは、本当に「極めて親しい」と言いましょうか、お互いに「尊敬しあう仲」でした。金光教には、大正時代から戦後にかけて、高橋正雄先生というとても素晴しい先生がいらっしゃったそうですが、私の祖父もその高橋正雄先生と岡山の金光教本部の奥の木綿崎山の山小屋で毛布一枚を二人で分け合って一晩語り明かしたことがあった(1917年)そうですが、その祖父が歳雄先生のことを「高橋正雄さんの再来だ」と評しておりました。

その歳雄先生に、私は大変可愛がっていただきました。祖父が亡くなった翌年の1970年に、世界宗教者平和会議(WCRP)が発足いたしました。その時に、歳雄先生がわざわざ私どもの所へ来られまして「どうしても会議に参加せよ」と言われました。私は「一燈園は宗教法人として一宗を立てているわけじゃなく、一財団法人でございますから、入れていただく資格はございません」と申し上げたんですけれども、「友愛団体」といったようなカテゴリーを創ってくださり??私を引き立ててやろうということだと思いますけれども??仲間に入れていただきました。

それから40年が経ちました。歳雄先生は、WCRP日本委員会の常務理事を25年ぐらいお務めになられた後に、ご高齢を理由に龍雄先生にお替わりになって、龍雄先生は常務理事としてそれから10年間お務めになられました。龍雄先生は私より2つ年上でいらっしゃいましたが、私も常務理事だったことから、いろいろとご指導を頂きました。私も齢を取りまして、4月3日が81歳の誕生日なんです。WCRPのほうも発足時から務めさせていただき40年経ちましたので、満80歳のうちに引退させてもらうことでけじめがつくと思いましたので、先日、退会をお願いしてお許しを頂いた訳ですけれども、振り返ってみますと、その間、歳雄先生には随分お世話になりました。


献杯の発声

法相宗大本山薬師寺 長老
安田暎胤

安田暎胤師

僭越ではございますが、ご指名でございますので、献杯の音頭を取らせていただきます。


スピーチ

解脱会 理事長
岡野英夫

岡野英夫師

ただ今ご紹介いただきました解脱会理事長の岡野英夫と申します。実は、私は直接、先代様のご謦咳(けいがい)に触れておりませんので、私がスピーチさせていただくのは相応しくないかもしれません。けれども、私がこれまで三宅光雄先生と三宅善信先生から頂いたご厚情の中からお話をさせていただきたいと思います。

私は4年前程からWCRPの理事として、本当に親しくご指導いただきながら先生方のお姿を見させていただききましたが、本当に卓越した指導力と行動力に目を見張るばかりです。そのお姿に接する中で、本当に先代様のご恩徳と申しますか、ご人格に触れさせていただいているように感じます。

その中で、現在は幽界におわしますその霊様におかれまして、そして、ますます妙なるご教授とご加護を賜っていることを、今日のお祭に際しまして感じさせていただきました。私どもは見てのとおりの若輩者でございますけれども、今後ともこうした諸先生方の心を拝して、こうした未曾有の大災害の中で本当の日本精神を鼓舞して、そして真の日本の有り様を世界に伝え、再建に努めたいと思います。

今日は、その力を頂いたように感じます。また新たな気持ちで努力をさせていただきたいと思います。僭越ではございますが、本日ご同席させていただきました御礼の言葉に代えさせていただきます。有り難うございました。

生田神社 宮司
加藤隆久

加藤隆久師




本当にあの時のことを思い出した訳でございます。実は、三宅先生のご一家と私は、また40年程前に遡りますが、WCRPが発足し、庭野日敬先生と共に、三宅歳雄先生の謦咳(けいがい)に触れることになった訳でございます。その頃、WCRP日本委員会に青年部会というのができて、初代の幹事長に常盤台教会長の三宅美智雄先生がなられたのですが、その際、実は私が副幹事長になった訳でございます。そして三宅歳雄先生にもいろいろとご指導を頂きながら、WCRPの日本委員会の青年部会の活動を行った訳でございます。

実はその頃、私の神社に和歌山市の中之島にあります志磨神社という古い神社の宮司の息子の島千尋さんという神職の方が修行に来ておられたのですが、その島君から「実は泉尾教会の三宅さんと島家とは親戚である」という話があり、余計に私はこの三宅先生のご一家と親しくなった訳でございます。

そんな折、私は兄(加藤知衛)から龍雄先生の紹介を受けました。10歳年長の私の兄は、大阪府の神社庁長を27年間やっており、服部天神の宮司であったのですが、大阪の宗教者同士である三宅龍雄先生とは大変親しくしておりました。こんなこと言っては失礼でございますが、歳雄先生や美智雄先生に比べ、龍雄先生は非常に知的でいらっしゃいました。

いつ頃でしたか、聖エジディオ共同体の行事でドイツ西部の古都アーヘンに行くための準備会があったのですが、その時に龍雄先生がいらっしゃいまして、話がもつれた時に、非常に適切な発言をされました。私は「こういう立派な方なのだな…」と、その時に感じました。


本門法華宗 管長
大本山妙蓮寺 貫首
松下日肆

松下日肆師

ご紹介を頂きました京都の本門法華宗大本山妙蓮寺の住職をしております松下日肆と申します。歳雄先生、龍雄先生、光雄先生と三代にわたって支えていただいておりますが、思い出しますと、私は歳雄先生に昭和24~5年頃にお会いしています。鹿児島県の屋久島出身の私が、小学校を卒業してから坊さんになるために大阪に出てきて、港区にある寺で内弟子修行をしておりました。


IARF財務委員長
ジェフリー・ティーゲル


J・ティーゲル氏
バストショット

三宅光雄先生をはじめ、本席にお集まりの皆様、私はこのパーティーに招待されている海外からのゲストを代表して一言ご挨拶を申し上げたいと思います。そして、私は先ほどもご紹介いただきましたように、IARF(国際自由宗教連盟)という国際NGOの役員をいたしております。その年次国際役員会が明日から京都でございます。

この度は、三宅龍雄先生の五年祭という日本の伝統的な宗教行事に、われわれをお招きいただいたことに、まず感謝申し上げたいと思います。私は残念ながら、最近になってIARFの役職に就きましたので、亡くなられた三宅龍雄先生とは直接面識がございませんけれども、長年、IARFの業務を親身になってお世話くださった三宅善信先生をはじめ、昨年9月にインドにおいてIARFの会長になられた三宅光雄先生を通じて、龍雄先生のお人柄に関するお話を度々聞かせていただきました。

IARFという団体は、1900年にボストンで創設された世界で一番古い諸宗教対話の団体ですが、昨年(2010年)9月に、南インドのケララ州コーチという町で、ダライ・ラマ14世法王を基調講演者としてお招きし、われわれの第33回世界大会が開催されました。その世界大会の席上で、三宅光雄先生にIARF会長に就任していただきました。現在、IARFは、三宅光雄先生、そして日本のIARF加盟団体である各ご教団のいろんな方々のご援助によって、恙なく運営されております。明日からの国際役員会議において、私共はIARFのこれからのことについて考えることになっております。

実は、IARFは3年前に運営上の危機に直面しました。それまでは、英国のオックスフォードという大学街に国際事務局があったのですが、運営上の危機に瀕した時に、大阪の金光教泉尾教会が「国際事務局の施設を無償で提供しますので、どうぞお使いください」と申し出てくださったおかげで、その危機を回避することができた訳でございます。本日は、泉尾教会以外にも、日本のIARF加盟団体の先生方が大勢お見えになっておりますけれども、IARFはこういった日本のご教団の先生方が大変な尽力をしてくださったおかげで、将来の展望が拡がった訳でございますので、この席をお借りしまして先生方にお礼を申し上げたいと思います。

曹洞宗審事院 監事
国際宗教同志会 会長
村山廣甫

(写真1103五年祭曹洞宗村山0828: 村山廣甫師 バストショットで全員大きさを揃えて)

村山廣甫師



謝 辞

金光教泉尾教会
総長
三宅善信

この度の五年祭では、泉尾教会でのご祭事の際に、祭主の御用というおかげも頂きました。会場におられる儒教研究の第一人者の加地伸行先生と目が合いましたので、今、思いつきました話をさせていただきます。論語に「子曰く、父在(いま)せばその志を観よ。父没すればその行いを見よ。 三年父の道を改むるなくんば、孝という可(べ)し」という句です。

私の祖父三宅歳雄は96歳まで長生きしたものですから、本日、先生方から頂戴したお言葉にも再々ご紹介いただきましたように、父は長年、副教会長として祖父の留守居役として、泉尾教会を守り、72歳にしてやっとご自分が教会長になられたのも束の間の6年半で、今から5年前に帰幽した訳でございます。普通でしたら、長らくナンバーツーの位置にいた後にトップになったならば「よし、俺だったらこうする。ああする」と思うものかもしれません。”


くくด้้้้้็็็‏ @kkm2303 2月12日
特に高校生の頃、ニッポン放送で日曜朝4時半からやっている「金光教の時間→幸福への出発→東本願寺の時間」をよく聞いていたのだけど「金光教の時間」は10分番組なのに、神様を絶対者として捉えていることが、当時から受け付けなくて、苦笑して聞いていたのを思い出す。


政治家の活動‏ @polititter 2010年8月10日
花咲宏基: 母校初ファーストレディ : 本日は、金光学園ほつま同窓会。 金光学園初のファーストレディの菅伸子さんも参加されました。 伸子さんのご挨拶の後には、党派を超えて、伸子さんに拍手が送られました。 ↑伸子さんは、同窓生の皆さん... http://bit.ly/aX8CZT


国際宗教同志会の歴史
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/history.htm
” 国際宗教同志会発足の経緯
大阪国際宗教同志会 前事務局長
                           内 海 雅 継
     …
翼賛体制の下、国を挙げての大戦争に、結果的には協力することになった戦時下の「大日本戦時宗教報国会」が解体し、昭和20年10月21日、「日本宗教会」が発足。さらに翌昭和21年6月2日、日本宗教会が改まり、「日本宗教連盟」が結成された。

 金光教泉尾教会(三宅歳雄教会長)では、信仰を実践する中核としての青年会を再組織し、昭和22年1月12日、時の同志社総長牧野虎次先生を呼んで、青年大会記念講演を行なった。

 同志社総長牧野虎次先生と三宅歳雄師とは、この時以来、その行動を共にした。この出会いが、のちに「国際宗教同志会」として結実することになった。

昭和22年2月15日、同志社総長牧野虎次先生が発起人となり、金光教の三宅歳雄師の協力によって、大本の出口伊佐男、八坂神社宮司高原美忠、カトリック京都司教古屋義之、聖公会の大国義政、一燈園の西田天香の各師がそれに加わり、伝統仏教教団からは「京都三山」といわれる東西両本願寺、知恩院にも声をかけ、名実共に超宗派の態勢をとつて、「国際宗教同志会」を結成した。

 国際宗教同志会は、牧野虎次委員長のもと、同志社に事務所を置き、同大学外事部の奥村龍三氏が会務を担当した。終戦後の暗中模索状況にあった宗教界に、一条の光明を示した国際宗教同志会は、その後、急速に発展し、理解者を増していった。


国際宗教同志会主催の宗教講演会の控室。右より牧野虎次、西田天香
1人おいて三宅歳雄の各師(昭和35.11.28 三重県津市中央公民館)

 同会の中心的存在である牧野虎次前同志社総長(昭和22年に総長を退任)自ら各所に講演に出向き、その理解者を増していった。特に、昭和23年1月24日に、金光教泉尾教会で行なわれた同教会布教21年記念祭時の「信仰生活の国際性」と題した記念講演は圧巻であった。
かくして、牧野・三宅両師らが全力を挙げて取り組んだ国際宗教同志会とはいったい何であったのかを、同会の設立趣意書と規約をもとに、今一度、考えてみたい。

  
「国際宗教同志会」趣意書

規 約
一、 本会は、国際宗教同志会と称す。
二、 本会は、事務所を京都市今出川御門前、同志社本部内に置く。
三、 本会は、国際的かつ超宗派的に同志協力し、以て宗教的平和日本を建設
し、世界平和に貢献することを目的とする。
四、 本会は、その目的を達成するために次のような仕事から始める。
 (イ) 例会の開催。
 (ロ) 国際宗教懇談会の開催。
 (ハ) 関係諸機関との連絡。(以下省略)

 常任委員は次の通りである (ABC順)

▽委員長 同志社理事会会長牧野虎次 
▽主事 同志社専務理事奥村龍三 
▽常任委員 愛善苑委員長出口伊佐男、真宗大谷派参与本田廣善、カトリック京都教区長古屋義之、
天理教布教部長岩田長三郎、
金光教泉尾教会長三宅歳雄、
一燈園主西田天香、浄土真宗本願寺派総務小笠原彰真、臨済学院専門学校教授緒方宗博、
真言宗醍醐派管長岡田戒玉、真宗大谷派朱雀御坊主末廣愛邦、サンパウロ交易株式会社取締役社長荘野忠徳、八坂神社宮司高原美忠、日本基督教
団京都教会青年部長吉田隆吉、豊国神社宮司吉田良光(敬称略)
                               
 京都本部のほか、名古屋市中村区の東海毎日新聞社内に東海地方本部、神戸・大阪・福岡・金沢に地方事務所を開設した。
 こうして各地に支部を作るために役員はたびたび出講。その講師には、主に、牧野、三宅、西田の各師のほかに、同志社女子専門学校教授グイン女史、カトリック教会バーン神父など外国人宗教者も協力した。


ダレス国務長官との出会い
 
 国際宗教同志会の22年度の活動は、ニューヨーク市キリスト教会連盟内「正義と恒久平和委員会」委員長のジョン・F・ダレス氏(後の国務長官)宛に書信を送って、氏の平和運動の尽力に感謝し、今後の活動を期待する旨を、各宗派の代表者の署名を添付して送った。戦勝国アメリカの平和運動に携わる宗教家へ、日本の宗教家からの初のサインを送ったのである。

 同年7月23日、総理大臣官邸において開かれた「新日本建設国民運動に関する宗教団体代表者協議会」に国際宗教同志会から代表が招かれるまでに、社会的評価も高まってきた。
 
 また、8月1日より7日間、毎朝6時から約一時間「暁天宗教講座」を各宗派持ち回りで開始した。同月17日、相国寺山内長得院で西田天香、出口王仁三郎、牧野虎次の三師の喜寿祝賀会を開いた。



 3月15日、名古屋市中区の燈影精舎で催された国際宗教同志会東海地方支部結成式で、臨済学院専門学校教授の緒方宗博師は宗教の国際化の必要を訴えている。同年4月、牧野虎次委員長は国際宗教同志会の講演会で「宗派を超えた人類愛を育む宗教のあり方」を説いた。

 5月31日には、マサチューセッツ州アンドバー・ニュートン神学校のフランク・ダブニー校長が金光教泉尾教会で「世界平和と宗教の使命」と題し、熱弁を振った。また、6月には、同志社大学顧問として来日中の米国外国伝道協会教育部長ルース・Ⅰ・シーベリー女史が「平和と婦人の使命」の議題で講演した。このように、この時期には、講演会方式による敬蒙活動が盛んに行なわれた。



大阪国際宗教同志会発足
 
 昭和24年3月5日、「大阪国際宗教同志会」の発会式が、大阪市東区瓦町の日本デモクラシー会館で行なわれた。

 発会式では、ジャコブ・デイセーダー牧師が講演。「世界平和の基礎は、信仰により互いに神の愛に目覚めることにあります。皆さんの信じている神は私の信じている神であり、私の礼拝する神は皆さんが祈りを捧げる神です。なぜなら、どの宗教の神も同じ一つの神だからです」と、キリスト教を通して信仰の同一性を訴え、どの宗教においても神の愛は寛容で、永遠であることを説いた。この講演でデイセーダー牧師は、戦争中、爆撃機の搭乗員として日本を攻撃したことを悔い、宗教者として懺悔の心で平和を説き、来日して、民衆の救いに努めていた。また、文部政務次官の左藤義詮氏(後の大阪府知事)、同志社大学の奥村龍三氏も力強い講演で聴衆を魅了した。大会後、大阪国際宗教同志会として次の「宣言」を発表した。
  


大阪国際宗教同志会は、委員長の三宅成雄師のほか次の各師が役一貞に就任した。
妙見宗管長野間秀泉、天理教総務松井忠義、メソジスト大阪教会市川牧師、大阪社会事業団C・S・モラン、真宗仏光寺派宗務総長松永仏骨、融通念仏宗宗務総長戸田宏圓、それに秋庭政吉、池尻活二の各氏。

 同年5月15日には、同志社栄光館において、国際宗教同志会主催の「宗教連合音楽会」が催され、各宗派の音楽部、合唱団が出演し、明るい雰囲気で、芸術の分野における宗教交流の働きが注目された。
 京都国際宗教同志会では、来日中のアメリカの世界的神学者、ユニオン神学大学院ジョン・ベネット教授(社会倫理学)の歓迎午餐会を昭和25年7月2日、京都市鳥丸鞍馬口の彰栄倶楽部で催した。このように、この時期は国際宗教同志会の活動が多方面に展開された。

 国際宗教同志会では、その頃、「対日講和」問題で来日する米国のジョン・F・ダレス国務省顧問とも「宗教と平和」について語り合う特別会見の機会をつくることを企画した。ダレス氏はクリスチャンの全米信徒協議会の会長を務め、多忙な政務の中でも静かな祈りの時を持つことを忘れない人物であった。国際宗教同志会にダレス氏を紹介したのは、牧野虎次先生の後を受けて同志社総長に就任した湯浅八郎先生であった。


「学界人から見た今後の宗教のあり方」開催
(昭和29.2.7 金光教泉尾教会)

 昭和27年2月7日、三宅歳雄師は新たな政治情勢の展開を前に、学者と宗教者の懇談会「学界人から見た今後の宗教のあり方」を大阪国際宗教同志会として催すことにした。当日の参加者は次の各氏である。

 大阪市立大学長恒藤恭、前同志社総長牧野虎次、京都大学教授有賀鐵太郎、大阪大学教授相原信作、同大学教授菅田栄治、神戸大学教授宮田喜代蔵、同大学教授樺俊雄、同大学教授西村勝彦、浪速大学教授三宅実、花園大学教授緒方宗博、国際宗教同志会書記長奥村龍三の各氏である。

三宅師はこの成果を踏まえて、以後、この種の会合(学者と宗教者の懇談会)をたびたび催し、常に冷静な知識人の見評を求めた。


世界を舞台に
 
昭和28年4月17日、米国のキリスト教フレンド派指導者ハワード・H・ブリントン夫妻が同志社アーモスト館に招かれ、国際宗教同志会幹部と懇談。ブリントン博士は、国際的な宗教家の交流と世界平和への基礎条件として、戦後の世界を二分する両陣営の一方の旗頭ソ連への働きかけの必要性を訴えた。

 同年8月、三宅歳雄師は、第5回WAWF世界大会(世界連邦コペンハーゲン大会) に出席。バチカンでは、時のローマ教皇ピオ十二世と会見。オーストリアのコーネル大統領と会談するなど、日本がまだ国際的には認知されていなかった時代にもかかわらず、華々しい成果を収めた。続いて三宅師は、アメリカに渡り、9月10日、ワシントンの国務省にダレス国務長官を訪ねた。国務長官として多忙を極めていたダレス氏であったが、快く三宅師と会見し、「訪日した際、国際宗教同志会幹部との話し合いは有益だった」と述べた。

 三宅師は、ワシントンからの帰途、ハワイに立ち寄った。当時、国際宗教同志会委員長牧野虎次氏は、ホノルル市のマキキ聖城教会の牧師に赴任していたからである。牧野委員長は、三宅師のハワイ来訪を機に、「ハワイ国際宗教同志会」の結成を準備していた。同年9月17日、同教会で同志会の結成式が行なわれた。ワールド・ブラザーフッド世界同胞協会のシャイマー氏を座長に、カトリック・プロテスタント・モルモン教・仏教・神道の各代表が集い、日本の国際宗教同志会を代表して、三宅師が「宗教と平和の問題」と題して講演。会場には日、米、欧州、カナダ、韓国、中国、フィリピンの各代表が民族を超えて世界平和を祈念し、さながら「世界宗教会議」を思わせた。この結成式に参列していた韓国の金泰祐氏は感銘し、帰国後、東亜新聞社社長任龍吉氏、東亜公社専務理事尹声九氏らと協力して、釜山に「韓国国際宗教同志会」を結成した。
 


 昭和29年2月8日、アメリカのワールド・ブラザーフッド世界同胞協会の会長でノーベル物理学賞受賞者アーサー・H・コンプトン博士(合衆国原子力委員会委員長をして原爆を開発。後に平和運動に転じた)が泉尾教会を訪れ、「祈りの塔」の落成式に参列。三宅歳雄師や大阪国際宗教同志会幹部と世界平和について懇談した。また、8月20日には、イギリスの世界的物理学者でロンドン大学教授のキャザリン・ロンズデール夫人が泉尾教会を訪れた。夫人は熱心なクエーカー教徒で、英国のロイヤル・ソサイエティ王立科学協会会員。夫人は大戦中、政府からの原子爆弾開発の研究依頼を断わり、投獄されたこともあり、世界的な国際婦人平和連盟の英国支部長として平和運動にも携わっていた。ここで大阪国際宗教同志会と懇談会を持ち、世界平和の問題について討議した。さらに同月19日、京都国際宗教同志会でも「ロンズデール夫人を囲む会」を催し、ここに京都大学の湯川秀樹教授を招き、有益な会合を持った。

 昭和30年8月9日から二日間、世界宗教会議大阪大会が金光教泉尾教会で開催された。日本側の共同議長は、四天王寺管長出口常順師、京都大学教授有賀鐵太郎博士大阪国際宗教同志会委員長三宅歳雄師。議題は「戦争の原因追究と防止の問題」「第二次世界大戦の宗教的残務処理の問題」をあげて議論した。

 大阪からは、国際宗教同志会幹部が多数出席。特に、国会議員で大阪仏教界の重鎮、左藤義詮師が、戦争の残務処理、政治・経済の行きづまりの諸問題を指摘、その打開策について熱心な意見を述べた。



世界宗教会議大阪大会に大阪国際宗教同志会幹部多数出席
(昭和30.8.9 金光教泉尾教会)

 時を同じく8月6日、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれ、それらの機運に併せ、国際宗教同志会としても、平和を希求し、いろいろと多方面にわたって動いて行った。

昭和32年6月6日、世界平和評議会コロンボ総会に参加するための日本代表団(小畑忠良氏団長)が空路セイロン(現スリランカ)のコロンボヘ向けて出発した。日本代表団中の唯一の宗教者として、三宅歳雄師は望まれてこれに参加した。「原水爆反対を宗教人が結束して」と訴える三宅師は、「特に宗教者の部会を持つべき」と総会で提唱し、これが実現した。この会議で三宅師は、ニコライ府主教らロシア正教関係者と意気投合。共産圏への働きかけの足がかりをつかんだ。


三宅歳雄師「原水爆実験禁止国民使節」として訪ソ。クレムリンで
ブルガーニン首相と会談(昭和32.8.5 ソ連モスクワ)

 同年7月27日、日本より正式に「原水爆実験禁止要請訪ソ使節団」がモスクワに向かった。「世界平和のため、原水爆実験禁止をソ連に要請する」と空港でステートメントを発表。各界を代表するこの一行の中に三宅歳雄師が加わっていた。代表団一行は8月5日、クレムリンでブルガーニン首相と二時間にわたって直談判し、核兵器の全面禁止の第一歩として、実験の禁止を要請した。


日米宗教者の交流

 昭和34年2月10日、米国アイオワ州立大学宗教学部教授のマーカス・バッハ博士が泉尾教会に来訪。三宅師が国際宗教同志会の幹部と出会いの場をつくり、世界平和と宗教者の使命について懇談。

翌年もまた来日したバッハ博士は、自らが考えていた「宗教間の協力と平和への働き」が、日本では既に「国際宗教同志会」として実践されていることに共感。帰国後、すぐに米国各宗教団体に働きかけ、昭和36年10月、日本の宗教界の代表を招き、日米宗教者の交流を図ることを計画した。そのことを聞いた三宅師は、日本宗教界の代表に呼びかけ、バッハ博士の橋渡しに応じて、宗教者による米国視察団の派遣を実現させた。

一行は次の諸氏である。(順不同 敬称略)

仏教代表 全日本仏教会 事務総長(曹洞宗) 大村仁道 
浄土真宗本願寺派元総務 高辻恵雄 
神社神道代表 鶴ケ岡八幡 宮司 岡田実 熱田神宮 権宮司 篠田康雄
教派神道代表 大本学院長 桜井重雄 金光教泉尾教会長 三宅歳雄
新宗教代表 立正佼成会 教学研究主任 鴨宮成介 
新日本宗教団体連合会 事務局長 楠正俊
その他 一燈園創設者・光泉林理事長 西田天香(代理 西田武) 成蹊学園理事 丹羽孝三
国際宗教同志会 事務局長 黒川直也

 団長は大阪国際宗教同志会委員長の三宅歳雄師が務め、米国各地を巡廻。時のジョンソン副大統領とも会見するに及んだ。

 かくして国際宗教同志会の役割りは大きく、この訪米団の人選には、日本宗教連盟や全日本仏教会、新宗連等が協力し、日本の超宗派活動の草分けともなった。

 昭和39年11月11日、国際紛争調停のための国連機関である国際司法裁判所長官であったザフルラ・カーン卿(パキスタンの初代外相)が泉尾教会を訪問。卿は世界の諸宗教の相互理解を深めるインターフェイス運動協議会の会長として来日。国際宗教同志会の三宅歳雄師と初めて会見。

 昭和40年3月22日、国際宗教同志会やNCC等の共催で、京都のノートルダム女子大学を会場に「隠れキリシタン再発見百年祭」のために来日したローマ教皇使節マレラ枢機卿を囲む懇談会を開催した。



日本政府賓客として来日したローマ教皇パウロ6世特使のマレラ枢機卿
(非キリスト教徒聖省長官)が大阪国際宗教同志会幹部と懇談
(昭和45.7.30 金光教泉尾教会)

世界宗教者平和会議を生み出す

 昭和43年1月、日米諸宗教者京都会議が京都岡崎の国際会議場で行なわれた。国際宗教同志会代表として三宅歳雄師はこれに出席した。この会議で、立正佼成会会長庭野日敬師と出会い、互いに共鳴。さらに米国代表のダナ・M・グリーリー博士やホーマー・ジャック博士等と意気投合。「日米宗教者が協力して、これを世界の組織に育てよう」と話し合った。いうまでもなく、この出会いが、この後、世界宗教者平和会議(WCRP)として結実することになる。三宅師は、この後、ローマ教皇パワロ六世はじめ、ギリシャ正教総主教や英国国教会のカンタベリー大主教を歴訪。WCRP開催に向けて協力を依頼する。

 昭和45年7月30日、金光教泉尾教会にローマ教皇パワロ六世の名代でマレラ枢機卿が来駕。三宅歳雄教会長を訪ねた。三宅師は、マレラ枢機卿の来訪を、大阪国際宗教同志会幹部と共に出迎え、その日、マレラ枢機卿を中心として宗教特別懇談会を催した。




国際宗教同志会で培ってきた信頼と経験が第1回世界宗教者平和会議(WCRP)として結実。
 (昭和45.10.20 国立京都国際会館)

 同年10月16日から21日まで、国立京都国際会舘に於いて、世界の十大宗教を含む39ケ国から三百数十名の代表を招いて人類史上画期的な第一回の世界宗教者平和会議(WCRP)が開催された。その際の主要メンバーは引き続き、12月に、戦火のベトナムを訪問。「行動する宗教者」として注目を浴びた。


日韓両国の和解をめざして

 大阪国際宗教同志会は、36年間にわたる日本の植民地支配のため和解が極めて困難と思われた日本と韓国の宗教者の連帯を韓国側に働きかけた結果、昭和46年6月6日ソウルで韓国宗教人協議会と懇談会を持つことができた。日本側は三宅師・四天王寺副管長吉田秀映師、妙見宗管長野間秀泉師、神道石切教管長木積一仁師等17名。

 大阪国際宗教同志会のこの訪韓が実り、第一回の日韓宗教者会議が翌昭和47年3月10日から14日まで、金光教泉尾教会で開健された。日韓両国の宗教者にとつて歴史的ともいえる会議となった。この時の韓国側の団長は大韓仏教曹渓宗総務院教務部長宋月珠師。

 一方、同年12月11日、韓国宗教人協議会(崔徳新会長)の招きで、大阪国際宗教同志会を中心とした日本の宗教者の一行15名は韓国を訪問。ソウル市の世宗ホテルで第二回日韓宗教者会議が開催された。

日韓両国で開催された宗教者会議の成果は、翌昭和48年11月26日から三日間の日程で、大阪コクサイホテルで開健された三回目の会議において、「日韓宗教者協議会」が正式に発足するということで結実した。同会議には、韓国側から韓国宗教人協議会長で天道教教領の崔徳新師を団長として20名が参加。



日韓宗教者協議会結成に国際宗教同志会の幹部が多数参加した。
(昭和48.11.26 大阪コクサイホテル)

 この会議の日本側の参加者は、▽カトリック 田口芳五郎(枢機卿)、岸英司(英知大学長)、▽プロテスタント 湯浅八郎(国際基督教大学名誉総長)、有賀鐵太郎(京都国際宗教同志会長)、土居真俊(NCC宗教研究所長)、▽仏教 出口常順(四天王寺管長)、葉上照澄(比叡山延暦寺長藹)、野間秀泉(妙見宗管長)、平岡宕峯(大阪府私学連合会会長)、西村現淳(本門仏立宗清風寺住職)、▽神社神道 高原忠清(住吉大社宮司)、▽新宗教 佐原慶治(妙道会教団会長)、▽諸宗教 中山慶一 (天理教表統領)、▽大阪府宗教婦人連盟 三宅恒子(同理事長)。              (順不同敬称略)

 こうして、国際宗教同志会発足当初の経緯からはじまって、時代の要請もあって、内外にその理解者を急激に増やしていったこと。特に、現在では当たり前になっているが、当時は考えもされなかった諸宗教間の相互理解の推進から、さらに一歩進んで協力して平和運動にとり組んだことは、もっと評価されてもいいと思う。米国のダレス国務長官、国際司法裁判所のカーン長官、バチカン対非キリスト教徒聖省のマレラ長官、世界食料機構のボイド・オア総裁といった敬虔な信仰心を持った政治的指導者、さらには米英の原爆開発に影響を与えた核物理学者のコンプトン博士やロンズデール博士らなど、蒼々たる顔ぶれが国際宗教同志会の会合に参加するために来日したことや、三宅歳雄師を中心に、多くの国際宗教同志会のメンバーが海外に出かけ、各国の要人や宗教指導者と直接話し合い、相互理解を深め合ってきた歴史を忘れてはならない。

 さらに、国際宗教同志会の働きが元になって、世界的な諸宗教協力機関であるWCRPや日韓宗教協議会といった団体が結成されていったことなど、現代の同志あるいは、後世の研究者のためにも残して置くことが、発足当初からこの運動に関わらせていただいた者の使命であろう。昭和50年代以後、国際宗教同志会は、その国際的な活躍を主催団体として行なうのではなく、国際宗教同志会が関わり生み出したそれぞれの団体に譲って、共催もしくは参加者を派遣するという形が一般化し、国際宗教同志会自身としては、年に何回かの例会や講演会を催すという活動を中心に行ってきたが、なお、大阪国際宗教同志会理事長(現名誉会長) の三宅歳雄師をはじめ国際宗教同志会の活動を通して国際舞台に展開していった多くの宗教家たちが、それぞれの団体に役員として名を連ね、牧野虎次先生以来の国際宗教同志会精神を広めていっていることには変わりない。

こうして、国際宗教同志会の発展期の経緯を述べてきたが、昭和50年代以後の活動については、今日の国際宗教同志会の諸先生もよくご存知であると思われる。

その後の大阪国際宗教同志会の主な活動

昭和55年 7月 三宅歳雄理事長、世界連邦世界協会(WAWF)名誉理事長・同アジアセンター会長に就任。
泉尾教会で第18回世界連邦世界大会大阪会議開催


昭和59年 1月 国際自由宗教連盟(IARF)大阪シンポジウムに国宗が参加

平成 3年 4月 カーター米国元大統領を迎えて、泉尾教会で第1回平和フォーラムを開催(大阪)


国際宗教同志会公式ページ 役員紹介
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kmen.htm
” < 役員紹介 >

2016年1月13日現在
顧 問

左藤 恵
大谷学園 学園長


真弓常忠
住吉大社 名誉宮司
会 長

西田多戈止
一燈園 当番
理事長

三宅光雄
金光教泉尾教会 教会長

常任理事

平岡英信
清風学園 理事長


大森慈祥
辯天宗 管長


西村淳晨
本門佛立宗清風寺 長老


佐原慶治
妙道会教団 会長


村山廣甫
曹洞宗審事院 副院長 
曹洞宗東光院 住職
理 事

津江明宏
今宮戎神社 宮司


松井龍一郎
天理教 明城大教会 会長

三宅善信
神道国際学会 理事長

松下日肆
本門法華宗管長 大本山妙連寺 貫首

左藤一義
大谷学園 理事長

芳村正徳
神習教 教主

高井道弘
住吉大社 宮司

松本貢一
立正佼成会 大阪教会長

宮本惠司
妙智會 法嗣
監 事

内海雅継
金光教泉尾教会 総務部長


懸野直樹
野宮神社 宮司
事務局長

三宅善信


世界宗教者平和会議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%AE%97%E6%95%99%E8%80%85%E5%B9%B3%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0
”世界宗教者平和会議(せかいしゅうきょうしゃへいわかいぎ、英語: Religions for Peace)は、1970年に設立された非政府組織(NGO)である。略称は、WCRP(World Religions for Peaceの略) 、RfPなどと表記される。日本語では、直訳は「平和のための宗教」である。

1973年5月、国際連合経済社会理事会より非政府組織カテゴリーⅡの資格を認定された[2]。1995年7月、同カテゴリーⅠに昇格[2]。

理事[3]

深見東州
インターナショナル・シントウ・ファウンデーション代表として、米国委員会のプレジデントも兼務
酒井教雄(元立正佼成会理事長)
宮本恵司(妙智会教団代表)

^ Trustees、世界宗教者平和会議、2015年12月1日閲覧”

深見東州プロフィール

”本名 半田晴久。又の名を戸渡阿見(ととあみ)。25才で植松愛子氏と出会う。出口なおと出口王仁三郎のように、天啓による出会いを経て、ワールドメイトを設立。文部科学大臣認証、宗教法人ワールドメイト代表役員。公益社団法人日本紅卍字会名誉会長兼理事。
 宗教対話と宗教協力を推進する、ギャグ爆発の宗教家。年を取っても、子供の一休さんのようだといわれる。しかし、まじめに善を追求する時も多い。
 1994年に、インターナショナル・シントウ・ファウンデーション(ISF)をニューヨークに設立し、代表となる。ISFは、国連広報局認可NGOとなり、次に国際連合経済社会理事会(ECOSOC)認可のNGOとなる。世界最大の宗際化組織WCRP(世界宗教平和会議)、世界ではWCを略しReligions for Peace(平和のための宗教)の、理事(International Trustee)となる。そこに、Handa Center for Advancing Peaceを設立する努力をし、総裁となる。
 またThe Council for a Parliament of the World's Religions(世界宗教議会)のInternational Advisory Committeeの名誉国際顧問。また、世界的な宗際化組織World Faiths Development Dialogue(WFDD)の理事。AFDD(Asia Faiths Development Dialogue〈アジア宗教対話開発協会〉の設立者会長。また、IFAPA(アフリカにおける平和のために行動する諸宗教)理事。
人権の確立こそが、普遍的な宗教性の顕現になるとして、人権のための活動にも尽力す。オーストラリア人権教育評議会の名誉顧問。西オーストラリア州立カーティン大学に、豪州初の人権教育チェア(講座)を開設。また、「人権と国際正義の為の、スタンフォード大学WSD半田センター」を開設し、支援す。また、カンボジア大学に人権教育のチェア(講座)を開設し、クメールルージュの虐殺犠牲者の救済にもあたる。そして、人権は民主的な選挙によって確保されるため、総裁を務める世界開発協力機構(WSD)で、コフィー・アナン財団と協力し、選挙プロセス健全化共同イニシアチブを推進す。また、カンボジアのプノンペンに病院を共同設立し、17年間で117万人以上の無料診療を行なう。その後、カンボジアのバッタンバンに、「World Mate Emergency Hospital」と「Handa Medical Center」を設立し、年間約2万7千人の診療を行なう。また、ワールドメイト未来の光孤児院を運営し、20年間サポートす。これらの活動により、カンボジアで4種類の最高勲章が授与され、政府顧問と首相顧問になった。しかし、まじめに善を追求した反動で、ギャグをカンボジアで飛ばしまくっている。

ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる。

宝生流能楽師。公益社団法人能楽協会会員。
IFAC・宝生東州会会主。「東京大薪能」主催者代表。戸渡阿見(ととあみ)オペラ団主宰。「明るすぎる劇団・東州」主宰。その他、茶道師範、華道師範、書道教授者。現代日本書家協会顧問。社団法人日本デザイン文化協会評議員。
社団法人日本ペンクラブ会員。現代俳句協会会員。
 国内では、公益財団法人 協和協会理事長、公益財団法人 日印協会理事、公益財団法人 日本国際フォーラム理事、
公益社団法人日本紅卍字会名誉会長兼理事、NPO法人 日本ブラインドゴルフ振興協会(JBGA)名誉会長、国際スポーツ振興協会(ISPS)会長、NPO法人 世界芸術文化振興協会(IFAC)会長、NPO法人 世界開発協力機構(WSD)総裁、
NPO法人 国際縄文学協会会長など、公職多数。”

Trustees(理事、役員たち)
http://www.religionsforpeaceinternational.org/who-we-are/trustees
”Mr. Tsunetaka Tanaka, JAPAN,
President, Japanese Trustee' Group Read Bio

Rev. Takeshi Kawabata, JAPAN,
Chairman, Rissho Kosei-kai

Rev. Keishi Miyamoto, JAPAN,
Representative, Arigatou Foundation

Sir Babatunde Lucky Omoluwa, KSS, NIGERIA,
Chairman, Pinnacle Communications Limited Read Bio

Mrs. Aruna Oswal, INDIA,
Vice President, World Jain Confederation Read Bio

Mr. Muljibhai Pindolia, KENYA,
President, Hindu Council of Africa Read Bio

Mrs. Idanna Pucci, ITALY,
Author Read Bio

Rev. Norio Sakai, JAPAN,
Founder, Japanese Trustees' Group”

金光 攝胤(こんこう せつたね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%94%9D%E8%83%A4
”金光教の信奉者からは三代金光様と呼ばれた。

明治31年、金光式子(金光萩雄の長女)を妻に迎えるも、先立たれ、明治40年佐藤キクヨ(佐藤範雄の長女)を妻に迎え、6男3女(金光鑑太郎(かがみたろう)、金光実司之助(みしのすけ)、金光眞整(しんせい)、佐藤祐子(ゆうこ)、金光護佑(ごゆう)、和泉賀代子(かよこ)、竹部理貴代(りきよ)、金光整雄(せいお)、秋山佑一(ゆういち)の9人)をもうけた。

金光教管長が選挙制になると管長に当選、以降金光教の代表者が広前奉仕者であるという慣例を作った。第二次大戦後は管長制の廃止に伴い、教主選挙が行われ初の教主となった。

死後は長男の金光鑑太郎が、教主に選出された。”

金光鑑太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E9%91%91%E5%A4%AA%E9%83%8E
”金光 鑑太郎(こんこう かがみたろう、明治42年(1909年)4月26日 - 平成3年(1991年)1月10日)は、金光教の四代金光様。書家、歌人、文化人、教育者。雅号は碧水(へきすい)。

金光図書館を創設し、初代図書館長。昭和26年から平成2年まで、日本図書館協会顧問。昭和48年から平成2年までボーイスカウト日本連盟顧問。
略歴

明治42年4月26日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光攝胤(せつたね)キクヨの長男。父金光攝胤の死に伴う金光教教主選挙で、昭和38年7月9日二代目金光教主に就任、信奉者からは四代金光様と呼ばれた。

平成3年1月10日死去。死後は長男の金光平輝(こんこうへいき)が、教主に選出された。

戦後日本の文化振興のため金光教の公共図書館を作る活動をはじめ、昭和47年には三木記念賞を受賞するなど、書家、歌人、文化人としての側面や、天文にも造詣が深く、金光図書館に天文台を作る計画もあった。

親交のあった、香西洋樹佐治天文台長は、小惑星の番号4526(1982KN1)を「Konko」(こんこう)と、そして番号11254(1977DL2)を、雅号である「金光碧水」と名付けた。
著作リスト

『生きる力の贈りもの』(金光教徒社、2001年)
『土』1-19(槻の木叢書)

佐藤範雄(さとうのりお)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%AF%84%E9%9B%84-1324873
”…教線は,岡山県を中心に瀬戸内沿岸から,1875年(明治8)に大阪,明治10年代に京都,同20年代初頭に東京へと伸び,広く民衆を組織した。1879年金光萩雄が教導職試補となって布教の合法化をめざし,82年には佐藤範雄によって教団の組織化と教義教条の整備がはかられ,教祖没後の1885年に神道本局所属教会となって合法化を実現,独立への道を開いた。本部は岡山県浅口郡金光町にある。…”

佐藤範雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%AF%84%E9%9B%84
”佐藤 範雄(さとう のりお、安政3年8月6日(1856年9月4日) - 昭和17年(1942年)6月20日)は、現在の広島県福山市出身の宗教家、教育者。

金光教祖の教えを教祖没後も世に遺すべく、教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進した。現在の金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者、初代校長。金光教の三直信の一人で、金光教内では佐藤宿老(さとう しゅくろう)と呼ばれる。
…明治15年(1882年)4月1日、岡山県小田郡富岡村(現在の笠岡市)の平野五良四郎(ひらのごろしろう)の二女照(てる)を迎えた。子には、佐藤一夫、金光キクヨ、尾原道春、佐藤博敏のほか、佐藤熊太郎、佐藤金造、佐藤つるなど養子もいる。

金光教教団設立の願いを立て、明治15年(1882年)8月、沼名前神社宮司吉岡徳明の指導を受け、教祖の「神の教え」を記録するよう金光大神に進言し、金光萩雄らと記録につとめた。後に、二代白神新一郎、近藤藤守らとはかって、明治18年(1885年)神道金光教会を創設し、それまで各地でばらばらであった、講社や信者組織を結集し、教師育成機関の創設など組織作りと、政府機関への働きかけを行い明治33年(1900年)6月教団の独立を成し遂げた。

金光教内では教監を始め要職を歴任し、対外的には金光教の代表的人物として政治的にも活躍。創立間もない赤十字運動にも参加、明治22年(1889年)には社員となり赤十字運動の普及に努めた。


穏健ではなく過激で急進的な思想は信仰的に問題であると考え、明治43年(1910年)には同郷の森近運平の感化救済を始めた。しかし、ある程度の成功を収めたと感じたころに森近は幸徳事件に連座し逮捕され、佐藤の救命嘆願も間に合わず刑死。この経験をふまえ神職及び教育者に対して、国体に関する講習会を開くことを始めた。「神と氏子との関係」を「親と子との関係」で説明する金光教の教えから「天皇・政府と国民との関係」にも当てはめた「信忠孝一本の道」という教義からの活動である。一例では天皇機関説も危険思想につながると考え、大正9年(1920年)2月29日に國學院大学を会場に、神道各教派を呼んで「美濃部博士の天皇機関説打破につき上杉博士を支援する懇談会」を開催した。大正11年(1922年)芳賀矢一らと思想善導と労働問題解決のために協議し「壬戊会」を設立、大正14年(1925年)には、この会が主唱者となり普通選挙制度の大成を目指す「大成会」を組織した。また、主要活動家などを集め意見を交換し合う「思想緩和懇談会」(後の社交桜心会)を、この大正14年(1925年)から大阪の金光教教会にて開催し、過激思想家の教化を目指した。昭和2年(1927年)には幸徳事件に連座した武田九平の出獄誓願運動を始め、昭和4年(1929年)には身柄の引き取りも行った。

晩年は、宗教団体の地位安定のため、政府に宗教制度を作るよう強力に働きかけ、宗教団体法の設立に尽力した。

昭和17年(1942年)6月20日死去、87歳。

金光学園の卒業生である香西洋樹佐治天文台長は、郷土の偉人として、小惑星の番号15672(1977EX7)を、「Sato-Norio」と命名している。

参考文献

金光大神(2003年、金光教本部教庁刊、ISBN4-906088-15-5)
信仰回顧六十五年上、下(1970年、1971年「信仰回顧六十五年」刊行会)


金光教の時間
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%95%99%E3%81%AE%E6%99%82%E9%96%93
”金光教の時間(こんこうきょうのじかん)は、日本各地のラジオ放送局で放送されている宗教番組である。主に早朝に放送されている。

金光教の願いなどを説教(教話)やラジオドラマの形で放送(ドラマは毎年8-10月に放送)。ドラマ出演者は永井一郎、中西妙子、山本圭子、三輪勝恵、小野坂昌也、龍田直樹、中友子など(青二プロダクション所属者が多い)。

金光教放送センターが企画製作し、実際の番組配信・制作は朝日放送から行われている(その関係で朝日放送のアナウンサーが朗読を担当することがあった)が、ラジオドラマは出演者の都合上ニッポン放送のスタジオ等で収録する場合が多い。




金光教のラジオ放送が始まったのは、1951年11月24日である。以前にも、佐藤範雄・佐藤一夫・高橋正雄等が、NHKなどで数回にわたっての単発放送を行ったことがあるが、継続した番組となったのは戦後である。 当時、民間放送が始まった時点で、朝日放送ラジオから、文化の向上に資する教養番組の内容として、宗教放送を取り上げたいという方針が打ち出されて、西本願寺(浄土真宗本願寺派)、東本願寺(真宗大谷派)、知恩院(浄土宗)、カトリック、プロテスタント、天理教と金光教の7宗派に協力の依頼があり始まった。したがって、当時の放送料金等は無料であった。

金光教のラジオ放送番組では、教主や教監の挨拶や教話以外に、1959年の金光教立教百年の年には、放送劇「天地の如く」[1]という教祖伝記ドラマを13回に渡って放送するなど、その当時からラジオドラマに力を入れていた。

異色なものとしては桂米朝が当時内弟子になって間もない桂小米と大阪駅で金光教の団体列車に遭遇し、その列車に間違って乗ってしまうというくだりで始まる金光教紹介「ある落語家の物語」(三田純一作)なども作られ、当時の金光教本部のたたずまいが桂米朝の語りと録音構成で紹介されていた(これらの内容は金光図書館で閲覧貸し出し可能である)。

本格的な放送番組の安定制作を行うため、1976年に大阪に金光教電波布教センター(後に金光教放送センターと改称)を設置。現在に至っている。

^ 天地の如く(1959年7月5日から9月27日放送、全13話) 青木茂 作、声の出演 柳川清、日高久、稗田敦子、浜田彰男、阪脩。


[新宗教巡り]るるぶ新宗教 第一回 金光教の巻
http://d.hatena.ne.jp/die_kuma/20100513/p1
休日だったためボーイスカウトが活動していました。金光教のボーイスカウトは結構有名らしいです。

教祖は、立教以前は冠婚葬祭や家などの建築のたび方位や吉凶を大事にしていた人だったそうです。それなのに息子は病気になるは、娘は死ぬは、両親は死ぬは、飼い牛まで死ぬはの不幸の連続に見舞われ、終いには自分までも病気になってしまいます。そんな時に神の声を聞くようになったそうです。その神様というのが、民間信仰信じる自分が一番避けていた丑寅の金神だったわけです。その金神に教祖が聞かされたのは、なんでお前らは方位や日柄を駆使してまで俺を避けてやがるんだと。お前ら俺に失礼じゃないかと。そこで教祖は金神を奉ればいいじゃないかと気付くわけです。忌むべきものだからこそ奉る、このコペルニクス的転回が一番興味深いところで、この思想は教義全体にも及びます。分かりやすいところでいうと、信者はお参りの時に四拍手するのですが、それについて金光教HPではこんな説明がなされています。

金光教では、「四」の数字を忌む一般の風習を戒め、「四」に「よかれ」「しあわせ」の意味を込めて、拍手を4回と定めています。

こういった価値観の転換が金光教には多くみられ、当時支配的だった宗教的価値観からの解放というのが金光教という宗教の根本にあるように思えます。そういう意味でとても近代的な宗教です。立教が明治維新以前の1859年ですから、金光教がまたたくまに広まったのは自然なことだったのかもしれません。


右側からはこんな感じ。この二つは金光町出身で伊藤忠太の弟子である田辺泰が設計したそうです。

神道に対してネガティブイメージがある割には、神社っぽい形をしているように思われるかもしれません。実際、設計時この形状に否定的な見方もあったそうです。ただそれまで金光教は建築物に対する独自の価値観も持っていませんでした。なのでこれは神社風ではなく日本の古代からある建築様式をコンクリートで模したものということだそうです。

さて、この会堂はもちろん金光教にとっての聖地なわけですが、世の聖地といわれるところは大概写真撮影禁止なわけです。この旅行でいくつかの教団をまわったのですが、神殿内部の撮影はあらかた断られました。そんな中金光教だけは好きなだけ撮っていいよと言ってくれたのです! さすが縁起とかにこだわらない金光教! そんなわけで会堂内部はこんな感じになってます!

そこら辺に「金」の文字が付く名字の家がたくさんあります。

周辺の家の瓦の多くに金光教のマークが入ってたりします。

おまけですが、近代的な宗教である金光教はメディア戦略にも積極的です。

1953年から布教の為のラジオ番組を放送しています。永井一郎など豪華キャストのこの番組は「金光教の時間」という名で現在も放送されています。僕は中学時代から深夜ラジオをよく聴いていて、眠れない日の明け方に流れてきたこの番組で金光教の存在を知りました。当時オウム事件直後だったんでなにか不穏なものを感じて正直怖かったですよ……。”

~金光教スカウト協議会の歴史~
http://www.konkokyo.or.jp/scout/shoukai/rekishi.htm
”イギリスでボーイスカウトが始まったのが明治40年、 同42年に日本にその内容が北条時敬によって伝えられた。 中村知は、北条の少年団に関する日本最初の講演は明治44年1月に 広島高等師範学校で行ったものが 最初であると書いている(『少年団研究』昭和8年11月号)。 月が変わった同年2月12日、金光中学校(現金光学園)では 教育懇話会15周年記念講演が、 近隣の校長や教育関係者を招いて開催された。 この時の講師が北条時敬でテーマは「少年武者修行」 すなわちボーイスカウトについての講演であった。 この講演の内容は「大教新報」(当時の金光教の新聞)で 5回にわたって連載されている。 金光教の教監の佐藤範雄は元号が大正と変わった時、 各地で「大正の国民」と題して講演をしているが、 この話の内容に「少年武者修行の規則」 すなわちスカウトの「おきて」の内容を用いているのである。
ところで大正10年に昭和天皇がイギリスに行かれ、 ベーデン・パウエルと面会したことが報道された。 これを聞いた佐藤一夫はボーイスカウトを発団させようとの 願いをたてていたが、関東大震災で中断を余儀なくされた。 佐藤一夫は、当時社会活動を展開していた 金光教の教徒新聞社の責任者であったところから、 大正12年の夏に社員の内田律爾を大阪の曽根崎少年団に出張させた。 内田はその活動の実際を目で見、隊長に会い、 組織・訓育方法を調査してきた。 さらに大正13年1月、金光中学の教員の三宅武坪を上京させ 8日には文部省の少年団調査員の奥寺龍渓に会いその概要を聴取した。 たまたま、その日の午後、 報知新聞社の講堂でスカウト宣伝映画会がある事を聞き、 そこで久留島武彦、三島通陽等に会って少年団の話を聞き、 活動の支援の約束を受け、原書の参考書等も教えてもらった。 更に11日には浅草区の少年団の活動を見学し、 ボーイスカウトに関する知識を深めた。
スカウト活動の開始
…以後、日本連盟の総長の後藤新平をはじめ、 佐野常羽、三島通陽、 また戦後のボーイスカウトを推進して歴史に 名を残した多くの指導者たちが、 金光教のスカウトの拠点としての この建物を訪れることとなったのである。
…昭和22年2月11日に、 金光教本部教会少年団(ボーイスカウト・ガールスカウト、18班で発足)が 結成されたのである。…
金光教ボーイスカウト育成会の結成
昭和22年の暮れ、昭和天皇が倉敷に宿泊された時、 県知事との間で次のような話があったという。 県知事「青少年の道義が一部廃退しております」、 天皇「宗教、信仰の力を活かす必要があるのではないか」、 県知事「本県には金光教、黒住教という 大きな教団があるので働きかけたい……」。 この内容が新聞に掲載されたこともあり、 金光教の議会でもこのことが取り上げられた。 当時金光教教監はスカウト活動を本教に取り入れた佐藤一夫、 また、総務部長の井上定次郎は、戦前には大阪連盟の理事長でもあり、 当時日本連盟の地方理事にも就任していた。 このように教団の中枢にボーイスカウトの理解者がいたのであった。 しかし戦前と同様に、スカウト運動は教団が担うことはせず、 任意団体として教団の支援を受けながら 自由な立場で展開していったのである。
金光教本部少年団を核に、戦前にスカウト活動をしていた 各地の仲間が集結し、全国組織を作ろうという機が熟してきた。 そこで金光国勢は三島通陽に対して、 昭和23年2月17日来岡の機会をとらえ、 金光へ宿泊するように要請し、 18日に金光教のスカウト関係者に講演を依頼した。 これを機会に2月20日金光教ボーイスカウト育成会が正式に発足した。 役員は理事長の金光真整以下、理事、委員、監事など21人で構成された。 この中には今田忠兵衛や金光国勢、金光整雄なども名を連ねている。 ”

金光学園中学・高等学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E5%AD%A6%E5%9C%92%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
”金光学園中学・高等学校(こんこうがくえんちゅうがく・こうとうがっこう)は、岡山県浅口市にある私立中高一貫校。

大韓民国 江原道 春川市にある春川女子高等学校と姉妹校提携を結んでいる。

同校は、1894年(明治27年)に神道金光教会学問所として佐藤範雄らの手により創立。創立以来、金光教の教えをもとに、「学・徳・体」一本の全人教育を行っている。現在も「心の教育を土台にした人間教育」という教育方針は受け継がれ、生徒一人ひとりが「人をたいせつに 自分をたいせつに 物をたいせつに」という合言葉を実践している。

「ほつま」とは
同校には、ほつま体育館やほつま生徒会など「ほつま」と名前の付けられた物がいくつかある。 この「ほつま(秀真)」とは日本書紀の一節からとられたもので「全てに優れていて整い備わっている」という意味であり、日本国の古い美称の一つである。 同校では、1896年に現在のほつま生徒会にあたる「秀真会」の名前として使われて以来、施設や会の名称などに使われるようになった。

著名な出身者

※中学校のみまたは高等学校のみの出身者もいる

芸能人
梅垣義明(タレント)
遠藤寛子(フリーアナウンサー)
塩田慎二(NHKアナウンサー)
河田総一郎(ミュージシャン・Soulifeのvo.,gu.)
佐々木望(ミュージシャン・Soulifeのgu.,cho.)
岡峰光舟(THE BACK HORNのベーシスト)[1]
土路生優里(STU48 1期生メンバー)
文化人
水木れいじ(作詞家)
中田秀夫(映画監督)
学者
山内喜昭(女子栄養大学栄養学部教授)[2]
三宅剛一(哲学者)
香西洋樹(天文学者)
田中勝(公立鳥取環境大学教授)
定金晃三(天文学者)
政治家
加藤武徳(元岡山県知事)
加藤六月(元農林水産大臣)
齋藤泰雄(在フランス日本国特命全権大使)
羽場頼三郎(岡山市議会議員)
栗山康彦(元岡山県議会議員、浅口市長)
花咲宏基(衆議院議員)
柚木道義(衆議院議員)
軍人
立花芳夫(陸軍中将)
財界人
中川仲蔵(元日本軽金属副社長)
越智通勝(エン・ジャパン代表取締役会長)
スポーツ選手
幡司一貴(豊田合成トレフェルサ所属バレーボール選手)
石部安浩(元陸上競技選手・中央大学名誉教授)
國近公太(JTサンダーズ所属バレーボール選手)
黒田淳(競輪選手・BMX選手)
その他
菅伸子(菅直人夫人)


金光教とフジテレビと菅伸子と菅直人(メモ)
https://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38868647.html
”あれ?菅伸子?
あれ?w



ソースはこちら
金光学園中学・高等学校HP
http://www.konkougakuen.net/high/introduction/


イメージ 3
ニコw




<オマケ>


(小山)
大本の開祖、出口なおは金光教に帰依していた!

ttp://yogen.kyuseido.org/p58.html

金光教→大本→大本から派生した宗教


(秋山)
小山さん

やっぱり、金光教が大ボス中の大ボスでしたか。岡山と
知って、絶対に怪しいと思っていました。勉強にないました。

金光教→大本→世界救世教→崇教真光→オウム真理教

これ、超重要。じゃあ、フジテレビは、そうとうコアな
連中に支配されているのか。コワ。


さて、金光教が、今回の選挙でどう動くか、
どうフジテレビを動かすか。

金光教は温羅の子孫くさいですね。



(ミカエル)
子×5さんが、
金光教をバカにしちゃいけないと言ってます。
(長いんですけど、真ん中ぐらいに金光教のことが詳しく書いてあったりする。
しかし、日枝すごいね。ひえ~~~wwって、安倍のご飯仲間でしたよね)


で。フジと言えばお台場のカジノで、ライブドア事件…ぞくぞく~~~



子子子子子さんのブログより金光教メモ

金光教を軽視してはいけない。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-37.html

金光教はかなり重要な宗教。大本教の元ネタだから。
大本教は金光教からの派生。
金光教布教者の出口なおが、出口王仁三郎と出会い、「金明霊学会」の教主となり、大本教になっていくわけです。艮の金神という、鬼門の祟り神=鬼神=悪魔、を崇めるのは金光教が元ネタです。
でもキリスト教系陰謀論者は大本教を悪魔崇拝だと批判できません。だって大本教がキリスト教直属のカルト製造工場だからです。
大本教の始まりは一応、出口なおが「神がかり」(笑)をした1892年ということらしいですが、大本の大本はもっと昔、少なくとも江戸末期から(平田篤胤や平田派神官=和風クリスチャン)だということです。
金光教はボーイスカウトやガールスカウト(メーソン下部団体)のイベントをしたりするなど、メーソンとも繋がりがあります。やっぱりね(QB風)。
金光教スカウト協議会というものがあることからわかるように、
金光教ではボーイスカウトの活動をされている教会(名前からしてキリスト教じゃん)でもあります。神道十三派の一つなのですが、何かキリスト教っぽい名前ですな(だって中身キリスト教だから)。
金光教の設立年は1859年(安政6年)。
本部は岡山県浅口市金光町大谷。
教祖は赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神。
教主は金光平輝(こんこうへいき、五代金光様)、教務総長は岡成敏正(おかなりとしまさ)。
日本を中心に約1600の教会・布教所、45万人の信者がいるらしいのですが、教会に集まるのかあ✝。

金光教は意外なところに潜んでいます。
例えば、清掃事業で有名なダスキンは金光教。
創業者の鈴木清は養母の信仰する金光教に入信。
あと、一燈園の西田天香にも師事していました。

重要なのが、日枝久(ひえだ ひさし)。
勲等は旭日大綬章、
産業経済新聞社取締役や相談役、
株式会社フジ・メディア・ホールディングス代表取締役会長、
株式会社フジテレビジョン代表取締役会長、
東京文化会館館長、
公益財団法人東京都歴史文化財団理事長など凄いですね。
フジサンケイグループのマークはまつ毛つきの一つ目。
編成局長時代は『Dr.スランプ』のアニメ化権利を獲得し、収益源となる、「フジテレビ - 集英社(=週刊少年ジャンプ)作品アニメ」というラインを作り上げた人です。集英社(マークが眼帯片目海賊)はCIA系WASP至上主義(海賊系)ですね。
日韓間の文化コンテンツ産業発展などに寄与した功労が評価(一番の理由ではないだろうね)され、高麗大学校より名誉経営学博士号が授与されたり、早稲田大学からも名誉博士号を授与されたり、[2014年にはイギリスより大英帝国勲章ナイト・コマンダー章を授与されたりこれまた凄い。
他には、
公益財団法人東京都歴史文化財団理事長
国際連合世界食糧計画WFP協会顧問
日本ユニセフ協会評議員
放送番組国際交流センター評議員
国際文化交換協会理事
世界自然保護基金ジャパン理事
エンターテインメント・ロイヤーズ・ネットワーク理事
吉田秀雄記念事業財団評議員
司馬遼太郎記念財団評議員
日仏会館評議員
2005年日本国際博覧会協会評議員
富士山を世界遺産にする国民会議顧問
ケア・インターナショナルジャパン顧問
日本ファッション協会評議員
新日本フィルハーモニー交響楽団副理事長
凄いですねえ。
産経宗教記者=司馬遼太郎(日ユ同祖論者=キリスト教の手先)。
フジ産経の裏側に金光教あり。
金光ホールでキッシンジャー(中曽根のボス)は講演しました。
右翼が大好き産経新聞は、生長の家とも関係が深いです。
生長の家が大本教派生で、大本教が金教系派生。金光教の方が老舗。
産経の系列のフジテレビジョンのドンにして、鹿内一族の経営支配をクーデターで乗っ取ったのが日枝久で金光教徒。
岡山+和風キリスト教=金光教(フジ産経 +生長の家=大本教系)。
日枝久は、早稲田大学教育学部卒。下中弥三郎の啓明会(日教組の母体。欧州貴族路線=イルミナティの和訳)。
しかも労働組合の書記長だったことから、欧州貴族+バチカン路線であり、WASP側ではなかったのですが、その後を見ると転向組ですね。

↓右翼=WASP至上主義(キリスト教原理主義。フジ産経)側が911の犯人。
“今のアニメで面白いのは残響のテロルかな、脚本が甘いけど。911をモチーフにし、さらっとテルミット爆薬。 偶然にも911に報道された昨日の回ではアメへの日本秘密裏武器仕立ての設定で原爆のこと。 放送局が意外にもフジ。日枝の経歴ぐらいにしか存在しない残響がフジの中にはまだいるのかも。”
村手 さとし@mkmogura

この残響とは、勿論、欧州貴族路線だった頃の残党の意味ですね。中枢にいるのでしょうね、欧州貴族系統の人が。

“政治家さえ、天皇(朝鮮支配の道具)の任命が必要という笑える話
【虚空と君のあいだに http://www.mkmogura.com/blog/2010/09/0/945… 
▼これがこの国の形
▼右翼左翼の争いも朝鮮派閥の争い
▼真っ当な日本人に得になることが起きるわけがない
▼結論が
北朝=高句麗、
南朝=百済”

“元が高麗を手先に日本に押し寄せたのが「元寇」
【http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20130119/frn1301191037003-n1.htm …【http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87 … 
▼モンゴル帝国(元)及びその服属政権となった高麗王国によって二度に亘り行われた対日本侵攻の呼称
(なぜか、高麗が攻めてきたことは、あまり話題にされない)”

“モンゴル帝室に女性を献上していた「高麗時代の朝鮮」 【日刊SPA! http://nikkan-spa.jp/711388
▼高麗はモンゴル帝国ハーン一族の『婿殿』の立場
▼代々、大都(北京)から娘を貰い皇后に
▼『蒙古襲来』も、フビライの娘婿=高麗・忠烈王が侵略を進めたことがわかっている”

“平将門は、江戸時代は英雄、明治には逆賊
https://twitter.com/kenkatap/status/313144022711558144 …
▼武家政権→高句麗系の覇権
▼天皇家政権→百済系の覇権
https://twitter.com/kenkatap/status/331882619031650304 …
▼江戸時代まで「朝鮮人」でなく「高麗人」”

“高麗(高句麗)神社参拝 https://twitter.com/kenkatap/status/416123718721490944 …
▼谷内正太郎初代NSC局長 https://twitter.com/kenkatap/status/323676938650660864 …
▼明治以降に参拝者の中から6名の総理大臣 https://twitter.com/kenkatap/status/323680143568695297 …
▼高句麗はツングースの騎馬集団が作った国家”

“参拝すると総理大臣になれる神社 【http://www.kajika.net/wp/archives/304  
▼鳩山首相の祖父・鳩山一郎も高麗神社を参拝後に首相官邸の主に
▼浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎といった歴代の総理大臣もこの神社を参拝
▼高句麗はツングースの騎馬集団が南下して作った国家”

“巨摩郡【wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%91%A9%E9%83%A1 …
▼甲斐国(山梨県)に存在した郡
▼668年朝鮮半島での高句麗滅亡以後、『続日本紀』霊亀2年(716年)5月16日条に甲斐はじめ関東や中部の7カ国へ高句麗から帰化人が渡っている記事→高句麗からの帰化人にちなみ「高麗」が由来”

“サントリー、ウイスキー増産 「白州」33年ぶり 【日経 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ140C7_U4A310C1TJ1000/ … http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9E%E8%92%B8%E6%BA%9C%E6%89%80 …
▼白洲町=巨摩(山梨) https://twitter.com/kenkatap/status/352016291269316609 …
▼巨摩→埼玉”

“高麗神社 (こまじんじゃ)は埼玉県日高市に鎮座する神社【wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE …
▼668年に唐・新羅に滅ぼされ亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させた
▼703年には高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっている”

“渡来1300年…高麗郡の歴史冊子、中学生へ
【読売 http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/2040402-OYT8T50073.html?from=tw…
▼埼玉県日高市は、奈良時代移住した渡来人がつくった「高麗(こま)郡」の歴史を紹介した冊子作成
▼716年、朝鮮半島で滅亡した高句麗の渡来人1799人で設置したと続日本紀に書かれてる”

“三足烏=太陽の象徴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89E8%B6%B3%E7%83%8F…
▼足が3本=陰陽で偶数を陰、奇数を陽、3は奇数で太陽と同じ陽
▼中国=三足烏(サンズゥウー)日烏や火烏
▼北朝鮮=三足烏(サムジョゴ)は高句麗の建国神話
▼日本=八咫烏(ヤタガラス)▼エジプト=太陽神ホルスは隼頭”
ken‏@kenkatap  

ヤタガラスやらカラスやら裏天皇と言う人には、その人たちの宗教は何か質問してみましょう。天皇は仏教徒か道教家であり、神道カルト(キリスト教)偽天皇にすり替えられたって言いましょう。仏教徒の天皇(道教用語)をなかったことにしたいクリスチャン勢力が流すデマがヤタガラスやカラスや裏天皇ですよ。日本の伝統は道教混じり仏教です!超古代と明治以降のことばかり言うのは仏教国教時代が本当の伝統なのを隠す為。

SF作家のかんべむさし=阪上順〔さかがみ じゅん〕は金光教信者。
他の金光教の信者も紹介。

佐藤範雄(さとう のりお)
教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進。金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者、初代校長。金光教の三直信(さんじきしん。金光教祖から直々に教えを受けた人々=直信の中で特に貢献した三人)の一人。
金光教内では教監を始め要職を歴任。創立間もない赤十字運動にも参加(金光教は皇室人脈がありそう)し、明治22年には社員となり赤十字運動の普及活動を展開します。赤く血ぬられた十字架=キリスト教。
政府に宗教制度を作るよう強力に働きかけ、宗教団体法の設立に尽力しました。

伊藤昌哉
満州生まれ(満州は大本教系のこだわり)。池田勇人内閣総理大臣の秘書官を経て、政治論壇や宏池会で活動。
心不全(=死因不明。心臓が止まったと言う意味なので死体は皆心不全)のため自宅で死去。父は満蒙開拓の草分けの伊藤謙次郎。長女の娘婿は大蔵官僚の田谷広明。

小川洋子
早稲田大出身。『博士の愛した数式』(2003年)で、2004年、第55回読売文学賞および第1回本屋大賞を受賞。

小田原大造
1953年、和崎嘉之、松原与三松とともにニューヨークに就き、国連本部の首脳部に日本の国際連合(以下、国連)加盟を訴え、各国大使に協力を懇請。小田原らの尽力により1956年12月18日、国連総会で日本の国連加盟は実現。
第17代大阪商工会議所会頭。
金光教は軽視してはいけませんよ。

桂かい枝

サトウサンペイ
漫画家。1997年、紫綬褒章。

品川祐 (お笑い芸人) - 親の実家が金光教信者。
ガンダム好き、アニメ好きでもあり、『アメトーーク!』での「ガンダム芸人」に名を連ね、『鋼の錬金術師』に関しては、「原作、アニメもすごい。その続きを映画で見られるなんて!」と高い評価。ある作品を褒めるのは個人的意図とは限らないのですよ。錬金術=科学であり欧州貴族のこだわりですから。十字の盾を持つガンダム=白い悪魔=白人キリスト教徒。

杉田二郎
日本レコード大賞企画賞(1992年)。

砂川しげひさ
2007年、第36回日本漫画家協会賞(大賞)受賞。

中村鴈治郎
歌舞伎役者。

西村朗
実家は神仏への信心が深く、神道においては金光教を信仰していました。
1974年 日本音楽コンクール作曲部門1位
2013年 紫綬褒章受章・大阪市市民表彰。

牧野省三
「日本映画の父」。忠臣蔵(南朝崇拝=南朝偽天皇礼賛)ものを多く制作。

松木安太郎 (サッカー解説者)
名前が、金光教玉水教会初代教会長湯川安太郎にちなんでいるそうです。

吉見一起(プロ野球中日ドラゴンズ)
金光大阪高校出身。トヨタ自動車(欧州貴族会社。豊田市はクロウリーのマーク)に入り、社会人ナンバー1投手と評されました。

萬屋錦之介は歌舞伎役者。

2014/12/6(土) 午前 3:18 [ ミカエル ] 返信する

川内のさよなら原発大集会に「日本カトリック正義と平和協議会」「YMCA」「金光教」の旗・のぼりも上がったそうだよ。

大江健三郎って何教だろ?


石井は芥川やすしの紹介でロシア大学に行ったそうだ。
芥川やすしは大江健三郎と仲良し。
芥川やすしは芥川龍之介の息子で、芥川龍之介は大本のオカルトの祖浅野和三郎と同じ海軍機関学校で英語教師をやってたんじゃなかったっけ?



で。日枝と菅と安倍・・


笑う。。

2014/12/6(土) 午前 3:37 [ ミカエル ] 返信する

顔アイコン

艮の金神という、鬼門の祟り神=鬼神=悪魔、を崇めるのは金光教が元ネタです

そして、拠点が岡山。モロに温羅じゃん(笑)
削除

2014/12/6(土) 午前 4:44 [ 秋山 ] 返信する

うちらが受けた国語の授業では、
艮の金神=温羅=キシ

となりますな・・

2014/12/6(土) 午前 11:27 [ ミカエル ] 返信する

子×5さんの金光学園メモに注目
菅はズブズブやんけ!
菅はよど号メンバーの息子を支援してる斎藤まさしとも仲が良い。
あれ?日本の皇室も繋がってんの??


佐藤範雄(さとう のりお)
教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進。金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者、初代校長。金光教の三直信(さんじきしん。金光教祖から直々に教えを受けた人々=直信の中で特に貢献した三人)の一人。
金光教内では教監を始め要職を歴任。創立間もない赤十字運動にも参加(金光教は皇室人脈がありそう)し、明治22年には社員となり赤十字運動の普及活動を展開します。赤く血ぬられた十字架=キリスト教。
政府に宗教制度を作るよう強力に働きかけ、宗教団体法の設立に尽力しました。

2014/12/6(土) 午前 11:48 [ ミカエル ] 返信する

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金光教の追求がおもしろくなってきたところで、何なの
ですが、私が調査を担当している天理教の方も、ちょっと
だけ進展したので、メモをしておきますね。天理教の信者には、
徳川厚がいます。徳川厚は、最後の征夷大将軍である德川慶喜の
四男で、徳川厚の息子の德川喜福は、右翼暴力団である国粋会の
総裁を務めた大木遠吉の娘の伸子と結婚し、婿養子となって、
大木姓となっています。国粋会は、この大木遠吉が、頭山満を
顧問に迎えて作った右翼ヤクザ集団であり、世界紅卍字会のボスの
堀川辰吉郎が、大木遠吉から国粋会を引き継いで、国粋会の総裁に
就任している。また、大木遠吉の妻は、伊達政宗の直径子孫の
伊達幸子だ。さて、ここらを念頭に入れて、再び、天理教による
満州進出を見て行きたい。天理教は満州に進出して、天理村と
天理鉄道を建設している。
削除

2014/12/6(土) 午後 3:49 [ 秋山 ] 返信する

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ちなみに、これは小山さんも既に書いていることだが、
自民党の好戦派アバズレ女の高市早苗も天理教の上級信者。

×高市早苗=統一教会
◎高市早苗=天理教

コシミズ、嘘をつくなよ。
削除

2014/12/6(土) 午後 3:52 [ 秋山 ] 返信する

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さてさて、船井幸男がよく「サムシンググレート」という
言葉を連呼していたが、この言葉は、船井幸男の友人で
医師である村上和雄が作った造語である。そして、医師も
天理教の熱心な信者。つまり、船井幸男サークルには、大本
だけではなくて、天理教も入るということ。

まあ、天理教と世界紅卍字会が、徳川家と満州利権を通して
繋がっていることが、見えてきたわけだから、世界紅卍字会の
コアの大本が、天理教ともつるんでいても不思議ではない。

やはり、謎を解くには、満州へ
…。 削除

2014/12/6(土) 午後 3:59 [ 秋山 ] 返信する

顔アイコン

大本系の船井幸雄の友人、天理教の医師である村上和雄は、
「サムシング・グレートが天理教の親神である」と認めている。
サムシング・グレートという言葉を使う団体、アーティストは、
天理教の信者と見るべきだろう。


ちなみにだ、幕末3大カルト(黒住教、天理教、金光教)の中で、
最も古いのは、日本会議の重鎮メンバーの黒住教だよ。
黒住教=1814年に創立
天理教=1838年に創立
金光教=1859年に創立

で、黒住教と金光教が岡山を本部に置いているからね。これ、
たぶん、黒住教が大ボスだと思うよ。黒住教は、日本会議の
重鎮メンバーでもあるから、調べた方が良いよ。


※温羅(うら/おんら)=岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼。
『うらたろう』って片目強調漫画があるよね。平家優遇。天皇が女の子で不死でうらたろうに惚れる。
ヒロインが平家の姫。
平家が勝ち、源氏が負けた世界。平家ペルシャ説?
妖怪の王を産んで体がばらばらになったけど、パーツをつなぎ合わせて復活するんだろうな。女版オシリスごっこ。
うらたろうは左目だったときは不死だったが、可死(普通の生物)になると右目側になる。伝承のウラにより近くなった。
主人公のうらたろうに、不死身の女天皇(安徳)が惚れることが重要。
伝承のうらたろうは百済の王子。
今上天皇の「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています」発現からわかるように、
今の偽天皇は百済系。
作者はどうみても結社員だな。


作者はチベット系の『ねじまきカギュー』ともろインドの『トラウマイスタ』と同じ中山敦支。







『ねじまきカギュー』


チベット仏教+愛(耶蘇っぽい)+パトス
vs
ニーチェ・理人=ロゴスの権化(愛の否定)
+死(メメント・モリ。森お(左)目目先生。最強の敵)。

ちゃんとウパニシャッドの創造神「死」が最後の敵だ。
最終的に主人公もヒロインも死亡エンドっぽいけどね。蘇生したのかわざと不明にしているのだろうね。

『トラウマイスタ』
「真実の自己(アートマン)=人の心の奥に潜むトラウマが具現化した存在」が武器。武器にするには、トラウマの主は戦って10分以内に勝利=克服しないといけない。負けると乗っ取られる。
トラウマを克服した真の自己が武器!
用語からしてもろにインド。
主人公は「鬼」のトラウマを克服してアートマンにするから鬼の力。
鬼が主人公側だと結社が優遇してくれるのだろう。
敵がまたしてもニーチェ。




第一話が46ページのアートマン漫画ねえ。クソアーメン!



吉備津神社(きびつじんじゃ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E6%B4%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE
“当地出身の政治家犬養毅は、犬養家遠祖の犬飼健命が大吉備津彦命の随神であるとして、吉備津神社を崇敬したという。神池の畔に犬養毅の銅像が建てられ、吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫になる。”


“• 吉備津神社
岡山市北区吉備津( 位置)。
式内社(名神大)、備中国一宮。本殿は国宝。吉備津彦命が本陣を置いた地という。また、吉備津彦命が営んだ斎殿跡ともいい[8]、命を主神に祀る。本殿外陣の東北(艮)隅には「艮御崎神」として温羅と王丹(弟)が祀られ、平安時代末の『梁塵秘抄』では「艮みさきは恐ろしや」と詠われている。
• …
• 『梁塵秘抄』
平安時代末の歌謡集。吉備津神社について次の歌を伝える[10]。
“ 一品(いっぽん)聖霊(しょうりょう)吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人、丑寅みさきは恐ろしや



金光教
http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%87%91%E5%85%89%E6%95%99
”伝統的にボーイスカウトやガールスカウトと友好関係を築いている。例えば金光教の子弟はボーイスカウト・ガールスカウトに参加することが少なくなかったり、ボーイスカウト活動用品を販売するスカウトショップが金光教本部内にあったり。歴代教主の中にボーイスカウト日本連盟の顧問になった人物もいる。金光教信徒の子弟が多いボーイスカウトやガールスカウトの団では、金光教の教会で集会が行われることもある(ただしこれは他の宗教であっても同様であり金光教特有の事象ではない)。ボーイスカウト日本連盟やガールスカウト日本連盟は宗教を信仰することを奨励しており五種類の「宗教章」を定めているが、その中には「金光教章」も存在している。日本で仏教章・神道章・キリスト教章の区分に入らない新宗教系の宗教章が定められているのは、2016年現在では金光教と世界救世教のみである。”

樂能…
https://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38884425.html

処刑された7人の戦犯が大本系か国柱会系かを調べてみた(小山編)
https://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38888847.html

能楽トリビア
https://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38884489.html

映画やドラマの陰陽師、指導多し☆高橋圭也‏ @Keiya_Takahashi 4月22日
江戸時代までの日本は仏教優勢の神仏習合の時代だった。ところで陰陽道は国家占い官庁、陰陽師は国家公務員占い師の意味で哲学や思想を持たない占い専門家であり、平安時代に安倍家は寺の法要に参加して一族の繁栄を願った記録があり、後に浄土宗寺院を菩提寺としたから、昔から一貫して仏教徒だった。

映画やドラマの陰陽師、指導多し☆高橋圭也‏ @Keiya_Takahashi 2016年7月25日
江戸時代までは神仏習合であり、 全てが仏教の価値観優勢だった。ところで陰陽道は国家占い官庁、陰陽師は国家公務員占い師で哲学や思想を持たない占い専門家だったし、平安時代に安倍家は寺の法要に参加して一族の繁栄を願い、後に浄土宗寺院が菩提寺の仏教徒だったから仏教的価値観が主だったはず。

takuhiro (kinosy)‏ @Kino_see 2013年7月27日
土御門家は浄土宗西山派(現・西山浄土宗)の檀信徒になります。お墓は仏式、葬式も仏式です。土御門神道になっても仏式・神式両方で行っていたようです。いずれにせよ、陰陽師が自費で自分の為のお寺を建てた記録もありますし、結局陰陽師は仏教徒なんですわ。 #陰陽道

温 羅 伝 説 ・ 桃 太 郎 伝 説
http://17.pro.tok2.com/~kmlife/it-town/minamishinogoze/rekisi/rekisisabu-a/ura/ura&momotarou.htm
"…温羅は今は絶体絶命ついにミコトの軍門(ぐんもん)に降(ふ)っておのが"吉備冠者"の名をミコトに献上したので、それよりミコトは吉備津彦命と改称されることとなった。ミコトは鬼の頭を刎(は)ねて串し刺してこれを曝(さら)した。
 岡山市の首部(こうべ)はその遺跡である。

しかるに、この首が何年となく大声を発し、唸(うな)り響いて止(と)まらない。ミコトは部下の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に喰わした。肉はつきて髑髏(しゃれこうべ)となったがなお吠え止(や)まない。
そこでミコトはその首を吉備津宮の釜殿(かまどの)の竈(かまど)の下八尺を掘って埋めしめたが、なお一三年の間唸(うな)りは止まらず近里(ちかさと)に鳴り響いた。

ある夜ミコトの夢に温羅の霊が現われて、 『吾が妻、阿曽郷(あそごう)の祝(いわい)の娘阿曽姫(アソヒメ)をしてミコトの釜殿の神饌(しんせん)を炊かしめよ、もし世の中に事あれば竈(かまど)の前に参り給え、幸あれば裕かに鳴り、禍(わざわい)あれば荒(あら)らかに鳴ろう。ミコトは世を捨ててのちは霊神(れいかみ)と現われ給え。
吾(われ)は一の使者となって四民(しみん)に賞罰を加えん』と告げた。
されば吉備津宮のお釜殿は温羅の霊を祀(まつ)れるもの、その精霊を「丑寅(うしとら)みさき」という。
 これが神秘(しんぴ)な釜鳴神事(かまなりしんじ)のおこりである。

 今に伝わる吉備津神社の鳴釜の神事は、本来、吉凶を占う神事ではなく、大恩人の温羅、つまり吉備津彦命の怨霊を取り鎮め安らかに眠ってくださいと願う民衆の厳かな鎮魂の重要な神事なのである。
…桃太郎の話は、やはり吉備津彦命と温羅伝説の下敷きになって今日のようなストーリーが作られたものと思われる。…岡山駅前大通りは「桃太郎通り」である。

それにしても、その桃太郎のお供は、どうして犬、猿、雉なのか。
岡山市オリエント美術館長・市川俊介氏は、素朴なこの疑問に対して、江戸時代の滝沢馬琴による『燕石雑志』を引用し、次のように解説している。

つまり、桃太郎が退治する鬼の住むところは鬼門、丑寅(うしとら)(東北)方向であるから、これを退治する桃太郎の家来は、逆の方向にある申(猿)、酉(雉)、戌(犬)でなければならなかった、というわけ。
当然のことながら、桃太郎の童話の下敷きとなった吉備津彦命の伝承にも犬、雉、猿がいる。
吉備津彦命の犬は犬飼健命。吉備津神社の南随神門に吉備津彦命の随神として祭られている。
「話せばわかる」の名宰相・犬飼毅(木童)はその子孫だといわれている。

次に吉備津彦命の雉は、留玉臣命。犬飼健命と同じ南随神門に祭られている中田名命は、留玉臣命の系統で鳥飼部という職業集団をかかわりがあったといわれている。

さらに、吉備津彦命の猿はというと、これが楽々森彦命(ささもりひこのみこと)とされている。足守地域(岡山市足守町)に元から居た豪族といわれており、楽々(ささ)は、ささ、砂鉄のことを意味している。山陰の日野川流域(鳥取県)には、楽々副(ささふく)神社が数多くあり、「たたら製鉄」を業とする集団が斎きを祭ったもの。おそらく楽々森彦命は、出雲系の砂鉄生産集団のリーダーだあったと思われる。

さて、桃太郎といえば、四国高松の桃太郎も知られている。
この桃太郎は吉備津彦命の弟の若日子建命。犬は犬島(岡山市犬島)の住人で、鬼ヶ島の監視を担当。猿は陶(香川県)の人で、敵の動静を探るスパイ。雉は高松市の「雉が谷」の住人で兵士の徴集が役目。そして、高松市の沖に浮かぶ「女木島」が鬼ヶ島というわけである。

四国の桃太郎は高松市の生島湾に集結ののち、一気に鬼ヶ島を攻め込み大勝利を収めた。桃太郎が本津川の近くに引き上げたとき、突然鬼の軍勢が不意打ちを仕掛けてきたが、この時も大激戦のすえ勝利を収め、念願の鬼退治を果たした。鬼がいなくなったこの地を「鬼無(きな)し」と言っている。
高松市に今も盆栽造りで知られる鬼無町がある。

瀬戸大橋で結ばれた岡山・香川両県に同じような桃太郎の話が伝わっている点を注目したい。

明治時代初期までは桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんの間に桃太郎が出来たという回春型の話の方が主流であった。

温羅伝説の要約 〔読みやすい文体にしたものです。〕

その昔、異国の鬼神が飛来して吉備の国にやってきた。それは朝鮮半島の百済の王子で、名を温羅といい、吉備冠者(きびかじゃ) 〔または、吉備火車〕とも呼ばれた。

彼は居城を備中国の「鬼ノ城」といわれる新山に構えた。温羅は身長4メートル、目は豹のように輝き、髪は赤みを帯びた異様な姿であった。そのうえ温羅は火を吹いて山を焼き、岩をうがち、人間や猿を食い、美しい女を奪ったりする。そのような温羅は、人々から大変恐れられていた。

そこで、吉備津彦命、もとの名を五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)というヤマト朝廷の将軍が登場し、この温羅を退治することになる。

吉備の中山に陣を構えた五十狭芹彦命が、新山の「鬼ノ城」に向かって矢を放つと、温羅の放った矢と途中で食い合って落ち、勝負がつかない。
矢が落ちたと伝えられる岡山市高塚には現在「矢食いの宮」がある。

温羅は少々ケガをしても温泉に入って癒(なお)し、勢力はますます強くなる。そのとき命(みこと)は、住吉大明神のお告げに従い一度に二本の矢をつがえて射たところ、一本の矢は途中で食い合ったが、もう一本は温羅の左眼に命中した。
このときばかり命(みこと)は攻めていくと、温羅は大雷雨で洪水を起こし、その流れに乗って逃げようとした。
川の水は、温羅の傷から流れ出た血で赤く染まった。
この川のことを「血吸川」(ちすいがわ)という。
温羅が雉(きじ)となって山中に逃げるが、命(みこと)は鷹となってこれを追う。追い詰められた温羅は今度は鯉に姿を変え、川を下り始めたが、命はすばやく鵜になって鯉を追い、ようやく温羅を捕まえた。
ここには今も「鯉食宮」がある。

絶体絶命、温羅はついに命に降伏し、自分の「吉備冠者」の名を奉(たてまつ)った。五十狭芹彦命は吉備津彦命になった。

戦いに勝利した命は、温羅の首を串に刺してさらし首にした。
岡山市首部(こうべ)がその遺跡とされている。

ところが不思議なことに、この首はいつまで経っても吠え続け、執念を燃やし続けてやまない。そこで命は家来の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に食わせたが、ドクロとなっても温羅の首は吠え続けるのだ。命は釜殿の地下八尺あまりも掘ってその中に埋めたが、13年間唸(うな)りやまなかった。

ある夜のこと、命の夢になかに温羅が現れて言った。
「阿曽郷にいるわが妻の阿曽女に命じてお釜の神饌(しんせん)を炊かしめよ。幸いあれば豊かに鳴り、禍があれば荒々しく鳴ろう」と。命がその通りにすると、温羅の首はやっと吠えるのをやめた――。

吉備津神社に伝わる温羅退治の伝説のあらましは以上のとおりであるが、阿曽女が炊いたお釜は、吉備津神社の「お釜殿」にある釜がそれだという。
   …
吉備津神社に伝わる温羅伝説のあらましは以上のとおりであるが、阿曽女(あそめ)が炊いたお釜は、吉備津神社の「お釜殿」にある釜がそれだという。
後に林羅山(はやしらざん)の『本朝神社考』や、上田秋成(うえだしゅうせい)の『雨月物語』で知られるようになった。
神秘的な吉備津神社の「鳴釜の神事」は、吉凶を占う吉備津神社の重要な神事として今も続けられている。

この伝説によると温羅こそ吉備王国の王者・吉備津彦命その人である。温羅、すなわち吉備津彦命は、ヤマト朝廷の将軍・五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)の侵略に対して抵抗した吉備の英雄だったのである。
それが後の時代になり、勝利者たるヤマト朝廷が征服者を英雄に仕立て上げ、代わりに温羅を鬼にした、と考える事が出来る。
勝てば官軍、負ければ賊軍なのである。

温羅が朝鮮半島の百済(くだら)からの渡来人であるとする伝承は、この吉備地方が、古代の先進文化をもった渡来人によって開発された地域であることを示している。

百済は三世紀から七世紀にかけて栄え、同じ朝鮮半島の高句麗(こおくり)・新羅(しらぎ)とともに三国時代を形成した。
当時の日本は[倭(わ)]といわれ、文化の面では朝鮮半島よりもはるかに遅れた開発途上国で、百済からは仏教をはじめさまざまな文化や技術を学んで国づくりをした。吉備の豊かな砂鉄資源の開発も、百済からの渡来人とその技術に負うところが大きかったにちがいない。

この伝承は、出雲のヤマタノオロチ退治の神話と同じように、砂鉄資源を奪われる史実を語ったものである。

温羅伝説のなかで「火を吹いて山をうがつ温羅が片眼を射抜かれた」とされているのは、「たたら製鉄」に従事する人々の姿を表現したものである。「血吸川」(ちすいがわ)は、ヤマタノオロチにたとえられる出雲の斐伊川と同じ「たたら製鉄」の川なのである。

総社市阿曽は、「鬼ノ城」
といわれた新山の麓にあり、昔から「備中鍬」の名で知られた鋳物産地だ。この地の女性が吉備津神社の鳴釜の神事に奉仕しているのは、温羅が当時のハイテク技術を駆使する砂鉄生産集団の巫女(みこ)によって祭られた吉備王国の王者であったことを物語っている。"

艮御崎神社
http://www.spicy.sakura.ne.jp/jinja/ushitoraonzaki/ushitoraonzaki.htm
吉備津神社の艮御崎神社は、本殿の東北角にある。この方角は鬼門と呼ばれており、艮御崎神社は鬼神・温羅を祀っている。そのため温羅は別名・艮御崎神(ウシトラミサキシン)とも呼ばれている。
そして、この辛川市場の艮御崎神社がある地は小丸山と呼ばれ、太古の昔に桃太郎のモデルとされる吉備津彦命が温羅を征伐した後、温羅の胴体と埋めた地であるとの伝承が残っている。(ちなみに首は、岡山市首部の白山神社に埋めた後、吉備津神社の御釜殿に葬ったとされる。)
ここに温羅を祀る艮御崎神社の分社が建てられたのも、温羅の遺体がが葬られた地で、温羅の魂を沈める意味があるのかもしれない。”

ken‏ @kenkatap 2013年4月24日
博愛社=赤十字に倣って1877年設立の結社。日本赤十字社の前身【http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E6%84%9B%E7%A4%BE …】【http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E5%8D%81%E5%AD%97%E7%A4%BE …】日本赤十字
▼社長=近衞忠煇
▼夫人=崇仁親王第一女子=近衛やす子
▼名誉総裁=皇后▼名誉副総裁=各皇族就任

ken‏ @kenkatap 2014年8月28日
近衛忠てる=国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)会長及び日本赤十字社社長 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E3%81%A6%E3%82%8B … ▼兄は細川護熙 ▼祖父:近衛文麿
▼英国ロンドン大留学、1964年、帰国
▼日本赤十字社副総裁三笠宮崇仁親王の長女・甯子内親王と結婚
▼同年より日本赤十字社入社




温羅(うら/おんら)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%BE%85

うらじゃ振興会とは > 温羅について
http://uraja.jp/about/ura.html


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