ストア派理性主義キリスト教のカント哲学「ワンワールドが理想だが現実的には連合が良い」 「この世には一つの宗教しかなく表現方法が異なるだけ(万教帰一)」『視霊者の夢』 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』『純粋理性批判』『実践理性批判』
Posted on 2017.04.07 Fri 18:57:57 edit
哲学というか思想の成果を考えるツールとしてもつことは必要ではあるよね。ただ、哲学は、誰かの考えを知識思想を崇拝する営みではないよ。呼吸のようにある種の人が気が付くとやっていた生活の一部であり、習慣なんだよね。やろうと思ってやるものじゃないよ。
— コウ(ミツグ)@FGOはじめました (@kou11lunatic) 2017年11月10日
哲学を知らないなんて云々なんていうのは、インテリのボヤキでしかなくて、大抵の人間が無教養なのは今に始まったことではないよ。それに反知性主義が蔓延って久しい国なんだから今更なんじゃないかな。ただ、哲学を単なる知識の束かなんかだとおもっているのは、哲学教育の失敗の証左だよね。
— コウ(ミツグ)@FGOはじめました (@kou11lunatic) 2017年11月10日
ストア派哲学によれば、人間は肉体(肉)、霊魂(息)、および叡智(指導理性)から成る。指導理性は宇宙を支配する理性の一部、すなわち神的なものの分身であって、これが人間の心の中に座を占めるダイモーンであり、人間の人間たる所以のものである。(訳者解説)
— マルクス・アウレリウス (@MAureliusBOT) 2017年5月28日
登馬@yasuraoka
2011年5月8日
アリストテレスは哲学者であり、宗教者とは紹介されていない。
しかし、彼は神を想定していた。啓示の神ではなく、理性の要請する神であった。
ルターはアリストテレスが嫌いで、トマスはアリストテレス学徒であった。この違いから宗教改革が始まった。
陰謀追及者にとってのカントの意義
カント哲学は
啓蒙主義
反イエズス会
共和制支持
ストア派の影響
ヴァイスハウプトそっくりだ!
イルミナティ陰謀論を発明したバリュエル神父は王政側でイエズス会士だから
叩く対象はヴァイスハウプトだけではなく類似の思想家にも及ぶ。
バリュエルが晩年に取り組んでいたのはカント哲学批判。
”At the time of his death, Barruel was engaged on a refutation of the philosophical system of Immanuel Kant, but never completed his work. He died in Paris in 1820.”
https://en.wikipedia.org/wiki/Augustin_Barruel
※refutation 反論
be engaged on 着手する、従事する
今現在バリュエルのコピペ工作員は沢山いるがカントを叩いているのを見たことがない。
国連案の原型を作ったことは格好の叩き材料なのに叩かれないのは
国連自体が世界連邦の最初の段階だから。
世界連邦は工作員のタブー。
設計図を作った人は叩けない。
設計思想:ストア派の自然=神の意図により世界市民主義は広がり
世界平和は達成される運命。
カント哲学(少し詳しい版)
啓蒙主義
イエズス会流詭弁を批判(反イエズス会)
共和制支持、世襲貴族禁止
永遠平和思想、世界共和国、世界市民法
(ストア派のコスモポリタリズム)
「神の自然が意志であり、その意志は善なるものなのだ」
というストア哲学そのまんまのカント哲学。
カントの道徳律を守って生きよ
=ストア派の禁欲、自然に従え
カントは『実践理性批判』(1788年。64歳)では、
キリスト教という宗教ではなく、人間に普遍的な理性と道徳的な原理に基づく「理性宗教」だけを容認していたが、
『たんなる理性の限界内における宗教』(1793年。69歳)では
キリスト教(非理性宗教)のうちにも理性宗教と一致する部分があると説いている。
カント要約
国連や世界連邦の元ネタ『永遠平和のために』
「イエズス会的詭弁は悪。
共和制=代議制民主主義が最善。
世襲貴族は悪。
理念上は世界共和国が最善だが、
現実には連合のほうが良い。
信仰方式や聖典はさまざまだが、
この世にはすべての時代を通じ全人類に妥当する唯一の宗教しかない。
不正な政治はイエズス会レベルの詭弁を使う。
自然は永遠平和に向かうことを保証している。
戦争も民族対立も国家連合も自然の配慮」
(イエズス会批判は大事なので二回言いました。
人間の道徳性は一つのみ。全時代と全人類に妥当する唯一の宗教しか存在しない。
一般に宗教と言われているものはこの唯一宗教の信仰の仕方の違いにすぎないって
万教帰一カルトの主張と同じじゃねーか!
カントは理性主義の一神教でありキリスト教と同一ではないが、新キリスト教。
主張がヴァイスハウプトとかぶりまくっている
(啓蒙主義、共和制、イエズス会叩き=反カトリック、世襲貴族否定、ストア派の影響)のにカントが叩かれない理由の一つだな。
万教帰一に都合がいい唯一宗教思想と国連の原案。
カントは国家法と国際法を統合する世界市民法(ローマの万民法に相当)についても書いている。
理念上は世界共和国(ワンワールド)が最善だとするが、
現実には連合のほうが良いというカント。
永遠平和は自然の意志。
自然≒善なる道徳律を保証する神なのでストア派のアレンジ。
唯一の国家ではなく、
複数の国家連合で国家間のバランスをとるほうがよいとカントは主張。
カントはこの世には一つの宗教しかなく表現方法が異なるだけという主張の害悪には気づかなかったようだ。
万教帰一を主張している信者にとって、
自分の宗教が一番なので、
結局、最終的に自分の宗教だけ残り、他は滅べって本音。
ゆえに万教帰一は悪。
※支配層はカントの道徳律を一切守っていないので
単に搾取に都合がよいアイデアだけを盗まれただけのカントはきっと草葉の陰で泣いているだろう。
カントはストア派の禁欲とワンワールド思想をうまく消化して自分の哲学を創ったが、
支配層はいつものごとく禁欲要素は抜いてカルト化。
諫言を抜いた儒教。
戒律を守らない仏教、バラモン教。
スウェーデンボルグに対して書いた『視霊者の夢』
「スウェーデンボルグのスピリチュアル思想は論証できない。仮説としてはあり。
霊界は空想家がでっちあげた楽園。
人間の理性ではあの世(霊界)のことは判らない。
死後の霊界での扱いは生きているこの世の行動で決まるので
自分のこの世の幸福の心配をし、現実の生活に取り組もう」
『純粋理性批判』
「時間と空間
=人が生まれながらにして持っている、ものごとを感覚する枠組み。
時間と空間の原因は人間の側にあるというのがカントの新しさ。
空間と時間は、経験によらずに認識を引き出す、認識の二つの源。
時間と空間は経験なしに生まれつき我々の主観の中にある。
感性=感覚能力。
時間と空間は感性による直観(思考不要の直接認識)の純粋な形式。
空間と時間はアプリオリ(経験不要)な〈像・観念〉。
悟性(知性)
=感性により感覚したことについて考え、判断する理解力
=感性から与えられる表象(心に思い浮かべるイメージ)を一つの認識へまとめる理解力。
認識には、習慣で作られた信念ではなく
それ以外ではありえないような型がある。
認識の前提となる鋳型・形式がカテゴリー。
この12種類のフィルターを通れないものは認識できない。
カテゴリー(範疇、純粋悟性概念)で感覚情報を統一して
はじめて「客観的な現実」として認められる。
理解力(知性、悟性)のカテゴリーが適用されることによって対象は客観的なものになる。
が、そこには統覚(自己統合の意識)のはたらきが必要。
統覚
=自分が知覚したり経験したりするさまざまなものごとを、
カテゴリーに従って秩序づけるはたらき。
統覚するのが自我。
デカルトの『私は考える』をカントは統覚作用として解釈。
考える=カテゴリーを適用する。
理性は概念によって、原理に基づき普遍的に認識する能力。
理性は感性と知性(悟性、理解力)によってできた認識を総合する働きをする、
感覚能力(感性)と理解力(知性、悟性)より上位の認識能力。
三段論法ができるのは理性のおかげ。
純粋理性
=経験によらない理性、後天的要素を除いた認識能力の全体。
理論理性
=(道徳的能力たる実践理性に対し理論的能力すなわち)認識能力
実践理性
=経験によらない道徳原理によって意志を規定する理性。
イデー(理念)
=純粋理性概念
≒プラトンのイデア(到達することのできない叡智的な世界に存在するもの)
カントのイデー(理念)は極大なものについての概念であり、
絶対に到達できないものであり、具象的に考えることができないものに関わる。
理性が推論によって全体をつかもうとするときの枠組みでもある。
3つのイデー(理念)
=ゴッド、
自由、
(霊魂の)不死
※「ゴッドが実在する」と言うと誤り。
神の存在はあくまで理性の推論にすぎない。
善なる道徳法則に力を持たせるためにゴッドの存在「が要請される」
カントは神の存在を証明するのではなく「要請」することが特徴。
唯一全能の世界創造者を前提し『なければならない』
人間の感覚能力がわたしたちに示すのは現象の世界だけだ。
が、わたしたちは理性によって必然的に、自分たちが道徳的な世界にも属すると考えざるをえない。
道徳的な世界はわたしたちの来世であると想定しなければならない。
だから神と来世は、生まれつきの理性が課す義務から分離しえない二つの前提。
道徳法則(命じられた掟)を守ると幸福になれることが可能なのはゴッドのもとでのみ。
ゴッドと来世(と霊魂の不死)がなければ道徳法則は空虚な幻影。
道徳法則には『約束と威嚇』(守ればご褒美、破れば罰。信賞必罰)が必要で、
最高善としてのゴッドの定めたものでなければ実現不可能。
つまり神の実在を合理的に証明は原理的に不可能だが必要。
※神は存在しないということではなく、神の存在を証明するのは不可能。
神が存在しないことを証明するのも不可能だ、
もし神が存在しなければ、善なる正しい道徳の根拠を失うから、
神は存在「するはずだ=要請」という立場」
『実践理性批判』
「最高善の一番主要な部分である道徳性の完成を実現するには永遠が必要。
よって霊魂の不死が要請される。
道徳法則を実行すると幸せになれないといけない。
よって実現するために善良な全知全能のゴッドの現実存在が要請される。
道徳法則は守っても幸福は約束されないので、
キリスト教の道徳論は神の国の概念を提示。
神の国とは理性的な存在者が道徳法則に全身全霊をもって身を捧げる世界。
最高善を実現するために、道徳法則は以下のような宗教でないといけない。
あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識せよ。
他者の恣意的で、偶然的な指示ではなく、
自分の自由な意志それ自体の本質的な法則として認識せよ。
道徳とはそもそも、いかにしてわたしたちがみずからを幸福に『するか』という教えではなく、
いかにしてわたしたちが幸福に『値する』ようになるべきかという教え。
道徳に宗教を加えると、
幸福になるに値しようと行動するほど、
徳に応じた幸福をいつか得られるのではないかという希望が生まれる。
人間の意志が道徳法則に完全にふさわしい神聖で完全なものとなるには無限に続く進歩が必要。
この無限の進歩が可能にするには、個人が永遠に生き続けること、
つまり霊魂の不滅が必要。
霊魂の不滅は、道徳法則と分かちがたく結びついたものとして理性が要請する。
人の意志とゴッドの意志が一致する以外に最高善は実現できない。
最高善を達成するため、意思決定の根拠は自分が幸せになれるかではなく、
道徳律を自律して守っているかにしないといけない。
道徳律は、無制限に自分が幸福を求めるのを制限する。
道徳は幸福に与かるための教えとされてはならない」
(問題ありすぎだろ。
結局、全知全能で善良なるゴッド、来世(神の国)という報酬、不滅の霊魂があるとするキリスト教思想の三要素で縛らないと、
道徳法則を守らせられないと言っている。
しかも、道徳を守っても幸せになれるとは限らない。
現世の人間は寿命があるから、
最高善の達成には非常に時間がかかるので霊魂の不死がないと
それが達成されても恩恵にあずかれない。
キリスト教という宗教=他律に縛られつつ、
自律=他者の影響なしに道徳を守ることを要求。
自律できるまでの教育をする他者に宗教=他律を叩きこまれ続けるのだが、
そのように形成された自律は完全に血肉となり自動実行される他律だ。
よりよい現世の社会を作るための要請だからこうなる。
カント哲学は掟=義務の思想であり、実質的に自由はない。
今の支配層は、
馬鹿も賢くなれると主張する啓蒙主義が嫌いなので、カント哲学信者ではない。
とにかく愚民にしておけという反知性主義による支配を採用している)
カント(1724 - 1804)
が哲学史に名を残す書を出したのは老齢に達してからなのに注目。
~歳までに~しなきゃダメだとかの戯言に惑わされてはいけない。
早熟な天才をマスゴミが取り上げるのは若いうちなら取り込んで洗脳するのがたやすいから。
57歳で同レベルの偉業をなしても取り上げない
カントが純粋理性批判を刊行したのは57歳だ。
カントが三批判書を出して有名になったのは老人になってから。
若いころに成功しないとダメだというカルト信者に言ってやれ。
あと「成功」の定義も聞いてやれ。
↓大器晩成
1781年 57歳
『純粋理性批判』第一版
カントの名声は確固としたものとなった。
1788年 64歳
『実践理性批判』
人間は自然科学的な因果関係が支配する世界では自由に行動することはできないが、
道徳という実践理性のもとでは自由に行動しうることを示した重要作。
西洋倫理学の歴史における屈指の重要著作。
1790年 66歳
『判断力批判』
第三批判と呼ばれる本書は
人間の美的な判断と、自然における目的について考察。
1795年 71歳
『永遠平和のために』
(
https://twitter.com/Chimaera925/status/836469338492133378
投資する予算が無いってのが最大の要因だな。ピンハネする上層部が肥大しすぎて、末端に予算が回らない。役員や上層部のコネや天下り用の椅子を削るとコネや口利きで仕事回して貰えなくなる。歳行った者を育てるより、使える若者を夢や希望で洗脳して使い潰した方が経済的。そら社会が疲弊するわ。
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峨骨? @Chimaera925
2月28日
俺の見てきた音楽業界はまさにコレだったな。悪名名高い某大手の関連だったが。夢や希望、デビューを餌にちらつかせ、無償奉仕させて、ついでに時間も精神も肉体も貪る。昔みたいにプロモーションにも金かけられなくなったから、サポートも大した事無い。借金履かされて水商売やAVなんて話もあったな
1件の返信 12件のリツイート 5 いいね
峨骨@Chimaera925
2月28日
音楽そのものには失望も絶望もしなかったが、あの業界には金輪際関わりたくない。ホモのオッサンに枕要求された時に、「俺には無理だ」と確信したものだ。)
カントの文章は悪文すぎて有名。
なぜここまで悪文を書けるのか。
考えすぎて本人に最適化された言語をそのまま書いているのではないか。
つまり、本人にとっては最高に使いやすい道具だが、
他人には非常に使いにくい道具みたいな感じ。
カントに国語力がないなんてありえないし。
よって、どの翻訳を読むかが重要。
光文社文庫版がおすすめ。
解説が充実している。
本ブログに来る人が一番知りたいのは永遠平和のためにだろうからどの翻訳がいいか書く。
光文社版がダントツでオススメ。
『啓蒙主義とは何か』という重要な著作も一緒に収録されているし
カント用語の概説、ルソーとヘーゲル思想も多少書いてある。
次が岩波文庫版。
読みにくい。
ダメなのは池内紀訳の集英社版。
集英社版の翻訳の帯に江國香織と瀬戸内寂聴の推薦文があり、
国連と九条の起源って書かれているなど突っ込みどころ満載。
学術目的ではなくまったく信用できないので今回はメモにする価値なしと判断。
読んだけど。
国連や世界連邦の構想はカント以前からあるし。
翻訳は信用できないけど、ちゃんと中身も確認した。
翻訳はわかりやすさ重視すぎて、イエズス会式の詭弁を叩く記述など毒が抜かれている。
よって、私はおすすめしない。
この本だとカントが単なるお花畑だと思われる。
翻訳者と翻訳目的と翻訳の方針は本当に大事。
読む価値はありませんが、一度手にとってはいかがでしょうか↓
”本書のうち、「啓蒙とは何か」は20ページにも満たないが、じっくりと味わう価値がある。冒頭部分をあげておこう。
中山元訳「啓蒙とは何か」冒頭部分
啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができ ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなの だ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうべきものがあるとすれば、それは「知る 勇気をもて」だ。すなわち、「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。(中山元訳、光文社古典新訳文庫、10ページ)
カントは18世紀の哲学者であり、「啓蒙とは何か」が書かれたのは1784年というから、220年以上前である。だが、この冒頭部分を読んだだけで、い まの時代にいまの人にまさに必要なことが書かれていると感じられるのではないだろうか。このすぐ後でカントは、「ほとんどの人間は、……死ぬまで他人の指 示を仰ぎたいと思っているのである。……というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ」(中山訳、11ページ)とも指摘して いる。ずしりと心に響く言葉ではないだろうか。そして、「自分の理性を使う勇気をもて」という呼びかけは、まさにいまの人に向けられたものだと感じる。”
http://www.honyaku-tsushin.net/koten/bn/Kant.html
翻訳批評 山岡洋一 古典新訳文庫の出発にふわさしい名著名訳
中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』
カントは『実践理性批判』(1788年。64歳)では、キリスト教という宗教ではなく、人間に普遍的な理性と道徳的な原理に基づく「理性宗教」だけを容認していたが、
『たんなる理性の限界内における宗教』(1793年。69歳)ではキリスト教(非理性宗教)のうちにも理性宗教と一致する部分があることを説いている。
だからゴッドの代替物を崇めさせていて骨格がキリスト教のままだから単なる新キリスト教。科学容認、啓蒙主義、理性主義なのに反知性主義が混ざるのが耶蘇。
そんなに理性主義でうまくいく一神教がいいならイスラームっていう成功例があるじゃん。
“他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができ ない”
ことを脱しないといけないんだから、何かの指示を受けないとダメってのはたださねばならない状態じゃん。
この他人が人ではなく神ならOKってか?
結局自律じゃないじゃん。
カントは上記の引用に続いて、他人の指示を受ける楽から抜けられない人がほとんどって言っているので、結局は大半の人々は指示を与えるもの=神が必要って認めてる。
不滅の霊魂も神の存在とセットで要請している。
カントは統治のために何が必要かを書いているともいえる。要請。
実践理性批判のこの箇所が重要。ここだけ二回ぐらい読んだらこの記事はもういいよ。これがカントの道徳と統治の基盤。
永遠平和のためにもこれが前提と言っていい。
結局世界共和国もこの思想が浸透していることが前提だよ。
カントの理想って「神が命じる義務の地獄」なんじゃねーの?
“道徳法則はそれだけでは、〔その法則を遵守する者に〕幸福を『約束しない』。自然の秩序一般の概念から考えるかぎり、道徳法則を遵守することと幸福になることのあいだには、必然的な結びつきは存在しないからである。
そのためキリスト教の道徳論は、最高善の第二の不可欠な構成要素である幸福〔との結びつき〕の欠如を埋めるために、『神の国』の概念を提示している。神の国とは理性的な存在者が道徳法則に全身全霊をもって身を捧げる世界である。この神の国では派生的な最高善を可能にする神聖な創造主の力によって、自然と道徳が、それぞれ単独では無縁なものである調和を獲得するのである
…
このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的でもある最高善の概念を通じて、『宗教』へと到達するのである。これは『あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識する』ようになること、すなわち『ある他者の恣意的で、それ自体が偶然的な指示』として認識するのではなく、みずからの自由な意志それ自体の本質的な『法則』として認識するようになることである。
…
このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的でもある最高善の概念を通じて、『宗教』へと到達するのである。これは『あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識する』ようになること、すなわち『ある他者の恣意的で、それ自体が偶然的な指示』として認識するのではなく、みずからの自由な意志それ自体の本質的な『法則』として認識するようになることである。“
…
だから道徳とはそもそも、いかにしてわたしたちがみずからを幸福に『するか』という教えではなく、いかにしてわたしたちが幸福に『値する』ようになるべきかという教えである。これに宗教が加わると、その場合は、わたしたちが幸福になるに値しなくならないように留意すればするほど、徳に応じた幸福にいつか与るのではないかという希望が生まれるのである。
…
霊魂の不滅の要請
しかしこの無限の進歩が可能となるのは、同一の理性的な存在者の『現存』と人格性が『無限に』つづくと想定する場合にかぎられるのであり、これが霊魂の不滅と呼ばれるのである。だから実践的には霊魂が不滅であるという想定のもとでしか、最高善は可能ではない。したがって霊魂の不滅は、道徳法則と分かちがたく結びついたものとして、純粋実践理性が『要請』するものである。“
教訓
メモには書名をきちんと書くこと!
著者名もできれば!
そういやフランス系結社はカント好きらしいねえ
だってカントはスウェーデンボルグ(スピリチュアル結社の教祖)に対して
“霊界は空想家がでっちあげた楽園である。”
って批判しているからね。
啓蒙主義(理性崇拝の新✝)vsスピリチュアル(反知性主義の新✝)
私?
カントも批判するよ。カントの道徳も世界共和国もキリスト教が究極の担保だもんね。
結局耶蘇かよ。
∸―
哲学書を読むコツ
・作者が何を目的に書いたか知る
・基本用語をわかりやすく言い換えている解説を探す
・哲学書は翻訳が複数あるなら比較している人の意見を読む。
翻訳どころか改悪のやつもある。
カントは光文社が新しいから読みやすい(日本語になっているという意味)。
が一番素晴らしいのは世界の古典つまみ食い訳(後述)。
『永遠平和のために』ならいきなり読んでも大丈夫だろうし読者が最も興味があるだろうから、二番目にのせておく。
∸―
カントのいう人間が守るべきルール(善い意志へ向かわせる道徳律)は個人の欲求(欲望)が絡んではダメで、
全ての構成員にとって普遍的なルールでないといけない。
論理思考で普遍的な道徳ルールを作ろうとしているが、人間にできるのだろうか。
人間はどうしても主観(欲求)が絡まざるを得ないからこの利己主義が結果的に利他主義に変換されるシステムしないとうまくいかないと私は考える。
啓蒙主義系の哲学者カントはは「大衆は馬鹿。でも改善できる!導き手が必要!」という結論なので、一番強力な導き=強制力=キリスト教を究極の道徳の源泉にした。
カントら一神教的発想の人からしたら東洋の絶対的超越者を前提としない道徳は考えられないのだろう。
儒教、道教、仏教、神道(天皇崇拝がない、単なる自然崇拝)は人間が神になれる思想。
神だけでなく霊魂の不滅も「要請」したカントからすれば、不滅の霊魂を完全否定する仏教は特に理解できない対象だろう。
カントの道徳の究極の担保は善なる絶対存在であると、という啓蒙主義系キリスト教思想を明言しているので、カントの永遠平和って全員が少なくとも一神教信者でないと実現しないと考えていた疑惑が出る。
“自分の好き嫌いを抑えて実行しなければならない義務があるということを明確に意識するとき、人々は自由というものを意識するようになる”
(『純粋理性批判』世界の古典つまみ食い訳)
カントの自由は義務ありきだから不自由。確かに不自由だと自由を意識できる。
自由の定義って、自由な状態にあるときは自分が自由だと自覚できないってことなんじゃないかな。でもAの定義にA入れたら定義にならないしなあ。
カントのいう時間と空間は現象が起こる出現条件・環境で「人間の主観側」。
時間と空間は人間の中だけに存在する。
時間と空間は現象をとらえる人間の主観の中にある。
時間と空間は直感の形式=現象を感覚するため大前提条件。
―――
こう言い換えるだけでだいぶマシになる用語集
純粋=経験によらない。
先天的=経験によらない。
表象する
=心にイメージを描く、心の中に思い描く、心の中にとらえる。
表象
=心の中にとらえたもの。心に思い浮かべる外界の像(イメージ)。
直観(Intuition)
=推論や論理的思考なしでなされる直接的な認識
=「いちいち考えなくても感覚的にいきなりすぐ判る」
=推論(inference, reasoning)や理性の使用などの、意識的な論理的プロセスなしで即座に知り、認識する能力。
感覚とは関係のないもの(超越的な意味で)
=「純粋~」
「純粋直観」
=純粋 +直観
=感覚より上位の+論理的思考なしでなされる直接的な認識
=感覚より上位で思考なしに即座に得られる直接的認識
ラテン語a priori(アプリオリ)
=先天的、経験によらずに、経験に基づかずに、経験なしで、先験的
=心の中に思い描くこと
=表象
=心の中にとらえる、心の中にとらえたもの。
純粋理性
=経験によらない理性、後天的要素を除いた認識能力の全体。
理論理性
=(道徳的能力たる実践理性に対し理論的能力すなわち)認識能力
実践理性
=経験によらない道徳原理によって意志を規定する理性。
格率
=個人が主観的に行為するときの規則。
普遍的道徳法則とは異なる。
英知界:理性による思考・観念によって捉えられるもの
現象界:感覚的に経験、物理的に認識できるもの
人間はこの二つの世界にまたがって存在している。
『悟性』=understanding
∸――
『視霊者の夢』
1766年(42歳)
『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik
カントがスウェーデンボルグに対して書いた『視霊者の夢』をぜひ。
別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。
スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。byカント
要は、カント「スウェーデンボルグのスピ思想は論証できない。仮説としてはあり」。
啓蒙主義系結社とスピ系結社の対立というか水と油。
発掘されたメモ
・スヴェーデンボリ(スウェーデンボルグ)は偉大な発明家であり科学者であった。
1688年スウェーデンのストックホルムで、ルター派の牧師の息子として生まれ、幼少時からすでにかなり神秘的傾向を持っていたらしい。
数学や鉱物学を学び、ウプサラ大学を卒業したあとは長い間スウェーデンの鉱山局の技師をつとめた後で(1719年)貴族に叙せられ貴族院議員となった。製塩機・潜水艇・飛行機まで発案したといわれる。
スヴェーデンボリを世界的に有名にしたのは霊界との交流の記録であった。
1740年頃から神秘的著作を公にした。
死去した場所は1772年滞留中のロンドンにおいてであり、死後も評判が高まるばかりであった。死後136年を経た1908年になってから母国スウェーデンの学士院が、国王に依頼して軍艦を仕立て、ロンドン郊外に葬られていたスウェーデンボルグの遺体を引き取りにいったほどである。
スウェーデンボルグ信奉者は特にスウェーデン、北アメリカ、イギリスに多く、
1893年にはイギリスだけでも80を超すスヴェーデンボリ信奉者団体があった。
また1910年ロンドンで開かれた国際スヴェーデンボリ会議には、世界中の学者、宗教家など400人が出席し、それぞれ20の専門部会に分かれて、スヴェーデンボリの学殖を20世紀の学問水準に立って討議、検討した。
アメリカの哲人エマーソンや、ヘレン・ケラーがスウェーデンボルグ思想の信奉者だった。
(小物の霊能者ではないことに注意。だから私が重視しているのです。欧州貴族のエキュメニズム側、特に北欧系の中核思想ですから)
・スヴェーデンボリいわく、霊界には太陽があり、これから発する霊流を受けて霊たちは生きている。
したがって、霊流が受けられなくなるように、人(霊)の背後に立つことは霊界ではもっとも非礼の行為とされている。
霊界には三つの世界があり、霊の人格の高さごとに上中下に別れている。
上世界に住む霊は、霊の心の窓が最も広く開け、
中世界はこれに次ぎ、下世界は中より劣る。
(なんか表現が物質的すぎないか?)
また霊界の西の地平線の上に一人の巨人が姿を現すことがある。巨人はやがて大きな腕を霊界全体に渡って振り回し、また額から強烈な光のようなものを全霊界に向けて放つ。そうすると、霊界を侵略し崩壊させようとする凶霊たちは物凄い叫び声をあげて地の中へ落下していく。
・霊的な事柄は我々の経験をはるかにこえている。したがって超越的な認識不可能の事柄については、もっぱら「わたしは知らない」と答えなければならない、とカントは言う。
だがカントは霊的事物が経験的概念ではないからといって、その可能性までも全否定していはいない。性急な断定は避けた。
もっともカントの言う霊界は、叡知界とも呼ばれるプラトン的なイデアの世界である。道徳的な原動力もこれに準拠している。人間は時には利己的な傾向の為に圧倒されることがあっても、その本性のどこかに公共的な道徳的原動力が支配している。こうして人間は極めてひそかな動機のなかでも、普遍的意志の規則に依存している。
これが霊的な法則であり、それにしたがってあらゆる思考者の間に、道徳的統一と組織体制が成立する。そして普遍的意志と合致するように、人間の意志を強制する心情がいわゆる「道徳的感情」にほかならないとカントは説く。
カントの霊界は抽象的な観念の世界である。
・負傷して頭脳の大部分が失われても、生きていて、思考能力も失われていない事例がある。魂の所在地を頭脳内だけではなく他の所在地にするなどいろいろある。
・冒頭p.21“霊界は空想家がでっちあげた楽園である。”
(いきなり結論を述べたぞ)
・カントの結論。
人間の理性ではあの世(霊界)のことは判らない(対応できない。扱えない)。
あの世(霊界)に行きたい人が実際にあの世に行くまで(死ぬまで)じっくり待つのが一番(だからあれこれ考えても仕方がない)。
死後にあの世(霊界)でいかなる扱いを受けるか(天国や地獄など)は、今生きているこの世での言動にかかっている。
だから自分のこの世の幸福の心配をしよう。この世の現実の生活に取り組もう(霊について考えるのはもうやめよう)。
(記事主が勝手に内心を推測。
霊とか霊界なんて認識【フィルター】の前提となる鋳型・形式=カテゴリーにちゃんと従ってくれないし、非理性の権化だから哲学で扱うなんて無理なんだよ!)
“人間の理性もわれわれにあの世の秘密をかくしているあの高い雲を、眼前から取り払うことができるほど高揚することはない。さらに熱烈にあの世を渇望する好奇心旺盛な人々に対しては【彼らがあの世に行くまで、じっくり待つことに甘んじるならば】、それがいちばん得策だという、単純だけれども、きわめて自然な回答を与えることができよう。そうはいうもののあの世におけるわれわれの運命は、おそらくわれわれがこの世におけるおのれの立場をいかに保ってゆくかということにかかっているらしく思われることからしても、私は本論文をかのヴォルテールがあの誠実なカンディードに、多くの無駄な学問論争のあと最後に言わせた 『われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか』という言葉をもって閉じることにする。”p.128
※【】は原文の傍点の代役。
※※ヴォルテールの原書では“しかしとにかくわが畑を耕す必要がある”。
・カントの道徳論(引用はこのあとすぐ!)。
利己心(欲。本能)に逆らう、犠牲を要求する道徳的強制力が義務と善意。
義務は善意よりも強い強制力を持つ(つまりより不自由になる)。
道徳(的強制力。義務と善意)は心からなくなることはない。
道徳的強制力は【一般意志】(多数の人間の共通意志)に拘束されていることを示す。
この【一般意志】の法則に拘束されていることを源泉として、すべての思考する存在のなかに【道徳的統一】と、ひたすら霊的な法則に従う組織的な状態が生まれる。
自分の意志を一般意志と一致させる強制力=道徳的な感情。
(ここでニュートンの、全ての物質に働く重力と引力に言及。物質相互の一般的活動の真の結果=引力。)
道徳的な感情を発生させる原因は、霊的存在をたがいに交流させあう真に活動的な力ではないか?
そうなると道徳的感情とは、個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていること。
かつ、道徳的感情=非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要なもの。
また、道徳的感情は自然かつ一般的な相互作用で生まれる。
(突拍子もなくニュートンの重力と引力の話が挿入されていることに着目。
重力や引力は人間の自覚なしに働く。
一般意志も同様に、本人の自覚なしに影響を及ぼす。
錯覚 自分で決めた
実際 一般意志が決めた
道徳的感情は、個人の心から生じる力ではなくて別の真の力により生じることを言いたいのではないのだろうか。
真の力が何なのか読み直してもよく分かりません。
カント自身も突き止められていないのかもしれません。
カント哲学完成前の著作ですし。
カントは道徳的な感情=義務と善意が生まれる原因、どこから来るのかまだ断定していない。
道徳法則を神秘的なもの=経験を超えたものだと考えていたのでしょう。
カントは義務感は生まれつきであり、経験ではじめて生じるのではないと考えたそうです。
経験は人によって違うから「私は義務感が生じるような経験をしたことがありません」と言われかねない。
義務を普遍化、万人に当てはまるとするなら生まれつき備わっているにするしかありませんからね。
私の考えだと、霊的存在を動かせるのだから、「真に活動的な力」とは霊的な力のはず。霊的なら非理性に属する。非理性といえば感情。でもその感情は生まれつきか生まれた後の経験で生まれるのか。両者の混合でしょうね。二元論の罠に注意。
どちらでもないから選択しない・
どちらでもないから新たな選択肢を見つけてそれを選択
・両方という選択肢をお忘れなく。生まれつき器の原形があって、それを経験で改良していくんじゃないの?)
道徳的感情
=個人意志を一般意志と一致させる強制力
=個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていること。
=非物質的世界(霊界。霊)に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産。
(霊界にも義務と善意による拘束を及ぼそうということね。
殺人は悪だと自分で考えて結論したと思い込まされているだけ。
実際は一般意志に自分は拘束されていて、自分では殺人は悪だと決めてはおらず、一般意志の決定を吹き込まれただけ。自分で決めたと錯覚しているだけ。
あれ、カントにとって道徳的感情=善だよね?
自分で決めたと錯覚させる=善、になるよね?
なるほど、これが支配層が採用する思想か。
秘密投票である限り不正そのものでしかない選挙とかね。
秘密投票である限り不正でない選挙はありえない。
不正=秘密選挙。不正をする為に秘密選挙制度を作った。
記名投票にして票を移動できなくしつつ、投票に責任を持たせるようにしないと駄目。
圧力云々で反論したそうな人がいそうなので、
「その圧力がかかる異常過ぎる世界を変えるのにあなたは何のリスクをも負わないのですか?」と言っておく。
あるいは投票率0%=全員落選にするか。
支持者なし、全員落選という選択肢がない時点で茶番だと気づけよな)
“われわれの外にいる他人の意志のなかにあって、われわれを動かしてゆく力がある。そのことから、利己心にさからって、われわれを駆り立てる道徳的な推進力が発生する。そのうちより強い法則が義務の法則、より弱い法則が善意の法則である。その
いずれもがわれわれに多くの犠牲を要求する。時にはこの両者は、利己的な傾向によって圧倒されることはあっても、これらが現にあることを示す心の動きは人間の性質のなかでけっしてなくなったりしない。これを通じてわれわれは、もっとも深奥な動機のなかで、【一般意志】の法則に拘束されていることがわかる。そしてこれを源泉として、すべての思考する存在のなかに【道徳的統一】と、ひたすら霊的な法則に従う組織的な状態が生まれる。このようにわれわれの意志を一般意志と一致させるようなわれわれのなかに感じられた強制を【道徳的な感情】と名づけようとするならば、これについては、われわれはおのれのなかに現に起こっている現象を、その原因をつまびらかにすることなしに語っているにすぎない。ところで、ニュートン〔イギリスの物理学者。一六四二-一七二七・訳註〕は、たがいに近よろうとするすべての物質の力に関する確実な法則を重力の法則と名づけた。だが彼はおのれの数学的証明を重力の原因をめぐって起こるかもしれない哲学的論争に妙な具合に関与させたくなかった。それにもかかわらず、彼は重力を物質的相互の一般的活動の真の結果として取扱うことをためらわず、したがってこれに【引力】という名を与えた。
ところで思考する存在のなかの道徳的衝動という現象は、霊的存在をたがいに交流させあう真に活動的な力の結果と考えることはできないであろうか? そうなると道徳的感情とは個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていることであり、非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産ということになるだろう。”p.55-56
※【】は原文の傍点の代役。
“そうはいうものの死んでしまえばすべてが終わりだとの考えに耐えられず、持ち前のけだかい人情に基づいて未来に希望をつないでいないようなすぐれた魂の持ち主はけっしていなかった。したがってあの世への期待はすぐれた性質を持つ魂の感覚によるものだとする方が、逆に良い行為は、実はあの世への期待があるからだとするよりも、人間の性質と、道徳の純粋さにずっと適しているように思われる。”p.127
※一般意志(仏語:Volonté générale、英語:General will)
=社会の全ての人に共有される意志。
最低にして最低の人間クズ野郎ルソーの概念。
(発言者がクズなのと内容の正しさは一致するとは限らないけど言わせておくれ)
カントは規則正しい生活習慣で知られ、決まった道筋を決まった時間に散歩した。あまりに時間が正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見て時計の狂いを直したらしい。ある日いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、周囲の人々はなにかあったのかと騒ぎになった。実はその日、カントは鬼畜ルソーの「エミール」を読みふけりいつもの散歩を忘れてしまったのであった。
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』を再読したのでメモ。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-64.html
“・バークリー「何かが存在するとは知覚されているってことにほかならない」
ヒューム「因果の概念は習慣によって作られた我々の信念でしかない」
因果関係そのものは想定されるだけで見えない。
・夢=心の中にあって外界に存在しないもの
・カントは、
“ぼくらのものごとのとらえ方にはね、習慣によって作られた信念なんかじゃなくて、それ以外ではありえないような型みたいなものがあるって考えたんだ。そういう、ものごとのとらえ方の基本的な枠組みみたいなのをカテゴリーって言うんだけどね。日本語で言えば範疇だな。
因果性のほか、まえから使っている『ものとその性質』なんていうとらえ方もカテゴリーなんだ。
ぼくらは、ものごとをとらえるとき、すでに必ずカテゴリーを使ってるんだ。
カテゴリーのくわしい話はまたにするとして、とにかく、さまざまな感覚的経験にカテゴリーが適用されることによって、はじめて、それが【客観的な現実】として認められることになるんだよ。
カントは『視霊者の夢』って変な本を書いてるんだけど、これはね、スウェーデンボルグっていう当時流行の視霊者、つまり霊を見たと称するやつなんだけど、まあ霊媒みたいなもんだな、そいつの言ってることがほんとうかってことを考えた本なんだけどね。結論を言うとね、どんなにありありと見えたとしても、それはありえないこと、つまり『夢』にすぎないんだ。つまり、客観的な実在と対応してないんだよ。なぜかっていえば、要するに因果性のようなカテゴリーが適用されないからなんだな。まあ、カントに言わせれば、猫と話をするなんてことも、ありえないことだ、だからやっぱり『夢』でしかないってことになるかもね。
カテゴリーが適用されることによって、対象は客観的なものになるって言ったけど、そこには統覚っていうはたらきが必要なんだ。統覚っていうのはね、自分が知覚したり経験したりするさまざまなものごとを、カテゴリーに従って秩序づけるはたらきだ〔原文ママ〕なんだけど、それをするのが自我のはたらきなんだ。カントはね、デカルトの『私は考える』っていうあの原理を統覚作用として読み変えたんだ。カントによれば、『考える』っていうことはカテゴリーを適用するってことだからね。
カテゴリーがぼくらがものごとを理解する枠組みだとすると、
時間空間はぼくらがものごとを感覚する枠組みなんだけど、その話はまたにしよう。
とにかく、カントのこういう考え方はね、バークリーたちみたいに、現実を夢だって言って心の中で起こる夢にしちゃうんじゃなくてね、逆に、時間空間とカテゴリーで、まず心の中で起こる夢みたいなものを考えておいて、客観的な現実全体が実はその中にあら【ねばならない】んだって言う、ってやり方なんだよ。”p.105-107
※〔原文ママ〕も【】も原文にはなく、【】内一文字一文字に傍点。
国家神道=新キリスト教
=平田篤胤思想+現人神思想+ #スウェーデンボルグ 思想。
スウェーデンの貴族スウェーデンボルグの思想が神智学、スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人説、出口王仁三郎の霊界物語、大本教系(主要政党を支配)、大本教系の日月神示の元ネタです。
平塚らいてう(姉が #大本教 信者)が寄稿記事で『霊界物語』と #スウェーデンボルグ の関係を指摘しています。
大本教系の日月神示は和風スウェーデンボルグ。
丸に十字を掲げる大本教の出口王仁三郎の #日ユ同祖論デマ
1766年 - 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik
“1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スウェーデンボルクが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」
”
イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88#.E7.94.9F.E6.B6.AF
“スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下している。”
エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA
1795年 - 『永遠平和のために』 Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf
中山元訳 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』 光文社古典新訳文庫
(
啓蒙とは何か----「啓蒙とは何か」という問いに答える
世界市民という視点からみた普遍史の理念
人類の歴史の憶測的な起源
万物の終焉
永遠平和のために----哲学的な草案
1784年 - 『啓蒙とは何か』Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung
1784年 - 「世界市民的見地における一般史の構想」Idee zu einer allgemeinen Geschichte in weltbürgerlicher Absicht
1794年06月 - 「万物の終焉」Das Ende aller Dinge
1786年 - 『人類史の憶測的起源』Mutmaßlicher Anfang der Menschengeschichte)
光文社
啓蒙とは何か----「啓蒙とは何か」という問いに答える
カントは『啓蒙とは何か』(1784)で次のように定義している。
"『啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは』、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである(1)。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)(2)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。”
カント/中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か』2006 光文社古典新訳文庫 p.10
翻訳者注釈
(1)ここで理性と訳したところをカントは悟性という語を使って表現。
悟性(フェアシュタント)
=(狭義では)感性と対立する概念で、
(広義では)理性(フェアヌンフト)、狭義の悟性、判断力を含むもの。
しかしここでは広い意味での理性と考えてほしい。
感性と対立する意味での狭義の悟性は、
感性
=対象から触発されイメージを思い浮かべる受動的な働き。
悟性
=イメージをみずから生み出すことのできる能動的な働きをする能力。
(2)「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)」はホラティウス『エピストラス』からの引用で、
もう少し長く引用すると
「知る勇気をもて、始めよ。正しく生活すべき時期を先延ばしする人は、
川の流れがとまるのを待つ田舎者と同じだ。
川は流れる。永久に、滔々と流れる」。
・ほとんどの人間は死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っている。
未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。
良心を働かせる代わりに牧師に頼る。
未成年状態はあまりに楽なので、
自分で理性を行使するなど、とてもできないのだ。
理性を使う訓練すらうけていない。
人々をつねにこうした未成年の状態においておくために、
さまざまな法規や決まりごとが設けられている。
公衆を啓蒙するには、自由がありさえすればよいのだ。
自由のうちでもっとも無害な自由、
すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。
ところでわれわれはあらゆるところで「議論するな」と叫ぶ声を耳にする。
将校は「議論するな、訓練を受けよ」と叫ぶ。
税務局の役人は「議論するな、納税せよ」と叫ぶ。
牧師は「議論するな、信ぜよ」と叫ぶのである。
好きなだけ、好きなことについて議論せよ、ただし服従せよと語っているのは、
この世でただ一人の君主[フリードリヒ大王(3)]だけなのだ。
翻訳者注釈
(3)フリードリヒ大王(1712~86)はプロイセンの国王。
1740年から死の86年まで国王の座にあった。
宗教寛容令や検閲の廃止など、プロイセンに啓蒙主義的な改革を実行して、
国力を強化した啓蒙専制君主。
国王に服従することを条件として、議論の自由を許した。
カントのこの論文は大王の治世の最後近くに発表されたことになる。
(プロイセン王国の国教はルター派。
フリードリヒ大王はカルヴァン派なので注意。
フリードリヒ2世は、
第3代プロイセン王であり
ブランデンブルク選帝侯なので選帝侯であり、
ホーエンツォレルン家であり、
カルヴァン主義であり、
イエズス会士のプロイセンへの亡命を許可。
啓蒙主義側の大王による、反啓蒙主義のイエズス会の取り込み。)
・理性の公的な利用だけが人間に啓蒙をもたらすことができる。
理性の私的な利用はきわめて厳しく制約されることもあるが、
これを制約しても啓蒙の進展がとくに妨げられるわけではない。
理性の公的な利用とは、
ある人が学者として、読者であるすべての公衆のまで、
みずからの理性を行使すること。
理性の私的な利用とは、
ある人が市民としての地位または官職についている者として、
理性を行使すること。
公的な利害がかかわる多くの業務では、
公務員がひたすら受動的にふるまう仕組みが必要なことが多い。
しかしこうした機構(マシン)に所属する人でも、
みずからを全公共体の一員とみなす場合、
あるいはむしろ世界の市民社会の一人の市民とみなす場合、
すなわち学者としての資格において文章を発表し、
そして本来の意味で公衆にかたりかける場合には、
議論することが許される。
教会の牧師もキリスト教の教義を学んでいる者たちや教区の信徒には、
自分が所属する教会の定めた信条にしたがって講話を行う責務がある。
それを条件として雇われたからだ。
しかしこの牧師が学者として、教会の信条に含まれる問題点について慎重に検討したすべての考えを、
善意のもとで講習に発表し、キリスト教の組織と教会を改善する提案を示すことは、
まったく自由なことであるだけではなく、一つの任務(ベルーフ)でもある。
良心が咎めるようなことではないのである。
自分では確信をもって支持できないとしても、教える義務があると判断すれば、
教区の信者たちに実践的に役立つと思えるすべての教義を活用するだろう。
こうした教えのうちに真理が潜んでいる可能性も否定できないからであるし、
内面的な宗教生活に矛盾するものがそこには含まれていないからである(4)。
だから教会から任命された牧師が、教区の信者たちを前にして理性を行使するのは
『私的な利用』にすぎない。
教区の集まりは、それがどれほど大規模なものであっても、内輪の集まりにすぎないからだ。
ところが牧師が学者として本来の意味での公衆に、すなわち世界に向かって文章を発表し、
語りかけるときには、理性を『公的に利用する』聖職者として行動しているのであり、
みずからの理性を利用し、独自の人格として無制約な自由を享受するのである。
公衆の後見人である聖職者が、宗教の問題に関して、
みずからも未成年状態であるべきだと考えるのは不条理なことだ。
こうした不条理な考え方は、その他の不条理を永続させる結果をもたらすだけだ。
(牧師の、内輪で集まった信者の前での仕事は理性の私的利用なので啓蒙ではないというカント。
牧師が学者として公衆に、世界に向かって発表するなら公的利用なので啓蒙となると主張しているが、
私の認識ではどちらも公が相手だ。
聖職者ほど啓蒙が嫌いな人々はいないと思うのだが。
啓蒙主義は既存のキリスト教の否定だから)
翻訳者注釈
(4)カントは真偽の確定できないものにとるべき姿勢について、
宗教論では次のように説明している。
「わたし自身の理性によってではなく、
啓示だけによって知られるもの、
歴史的信仰だけを介してわたしの告白のうちに採用することはできるが、
純粋な道徳的原則には矛盾しないようなものを、
わたしは確実なものと信じたり、断言したりすることはできないが、
しかし確実に虚偽であるとして斥けることもできない」
(1793年04月 -カント『単なる理性の限界内での宗教』)
宗教的な組織、たとえば教会会議またはオランダではクラシスと呼ばれている名誉ある教会会議は、
ある不朽の教義を採用し、それを宣誓によってたがいに定めているが、
そもそもそうした権利はないのではないだろうか。
この会議の目的は、教会のすべての信者を絶えず監視し、
信者を介してすべての国民にも絶えざる監視を及ぼすこと、
これによってこうした教義に基づく制度を永続的なものとすることにある(5)。
翻訳者注釈
(5)宗教組織の抑圧的な機能に対するカントの批判は鋭い。
理性に基づいてではなく、無条件に外部から押し付けられた典礼は、
「呪物信仰であり、大衆はこれによって支配される。
宗教ではなく教会のもとへの服従によって、
大衆の道徳的な自由は奪われるのである」
(1793年04月 -カント『単なる理性の限界内での宗教』)
もしも君主が、臣民の魂の救済の問題に干渉したり、
臣民が自分の魂の救済に関する洞察をさらに純粋なものとするために利用すべき書籍の刊行を
政府の監督局に認可させようとしたり、
みずから最善の洞察と信じるところに基づいてこの問題に干渉したりするならば、
「皇帝でも文法家の上には立たない(6)」というローマ時代の古い非難をこうむることになり、
みずからの威厳を損なうことになるのである。
翻訳者注釈
(6)カントはドイツ語の翻訳なしで
Caesar non est supra grammaticos
と書いている。
(
)
今は啓蒙された時代を生きているのであろうかという問いには
今は啓蒙されつつある時代だろうと答える。
この時代は啓蒙の世紀でありフリードリヒ大王の世紀である。
翻訳者注釈
(7)メンデルスゾーンの「啓蒙とは何かという問題について」が発表されたのは、
『ベルリン月報』の1784年9月号であり、
カントのこの論文が掲載されたのは、
『ベルリン月報』の1784年11月号である。
モーゼス・メンデルスゾーン(1729~86)はカントと同時代の哲学者。
ライプニッツとヴォルフの哲学をわかりやすく展開した。
ユダヤ思想を重視した哲学者としても有名であり、
ユダヤの文化とキリスト教の文化の統合を目指した。
年譜(解説の記述もあり)
1749年 25歳
処女作『活力の真の測定に関する考察』を刊行。
運動速度を運動量とするデカルト力学と、
仕事量とするライプニッツ力学が激しい論争を展開していた
「活力論争」に参加した著作。
この著作は、
カントがライプニッツ(ならびにライプニッツ哲学をドイツ語でわかりやすく説いたヴォルフ)
哲学の大きな影響下にあったこと、
当時は哲学の問題と力学の問題が不可分な形で考察されていたことを示すものとして興味深い。
(今も科学と哲学は密接。
1766年の『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
への言及なし
)
1781年 57歳
『純粋理性批判』第一版
カントの名声は確固としたものとなった。
1783年 59歳
『将来の形而上学のためのプロレゴーメナ』
純粋理性批判が難解だと批判されたために、
その内容と目論見をわかりやすく解説するために書いた。
前著よりはるかに短くなっているが、
わかりやすくなっているかどうかは別。
(カントの本でわかりやすいものがないんだけど)
1784年 60歳
『啓蒙とは何か』
『世界市民という視点からみた普遍史の理念』
1785年 61歳
『人倫の形而上学の基礎づけ(道徳形而上学原論)』
カントの定言命法が明確な形で表現された重要書物。
「この世界において、それどころかおよそこの世界の外においてさえ、
無制限に善きものとみなすことができるのは、ただ善意志だけである」
1786年 62歳
『人類の歴史の憶測的な起源』
1787年 63歳
『純粋理性批判』第二版。
特に前半部分を大きく書きかえる。
前の版をA版、本作をB版として併記するのがつね。
1788年 64歳
『実践理性批判』
人間は自然科学的な因果関係が支配する世界では自由に行動することはできないが、
道徳という実践理性のもとでは自由に行動しうることを示した重要作。
西洋倫理学の歴史における屈指の重要著作。
1790年 66歳
『判断力批判』
第三批判と呼ばれる本書は
人間の美的な判断と、自然における目的について考察。
1793年 69歳
『たんなる理性の限界内における宗教』
カントは実践理性批判ではキリスト教ではなく
人間に普遍的な理性と道徳的な原理に基づく理性宗教だけを容認していたが
本書ではキリスト教のうちにも理性宗教と一致する部分があることを説く。
1794年 70歳
『万物の終焉』
1786年にフリードリヒ大王が亡くなり
新王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世が即位してから、
新しい検閲法の施行など、
思想活動に対する締め付けが強化されており、本作のために
カントは実質的に宗教的な著作の刊行を禁じられる。
1795年 71歳
『永遠平和のために』
1804年 79歳
逝去。
『啓蒙とは何か』解説
・カントの当時はアンシャン・レジームのヨーロッパ。
この時代に自分の頭で考えることは、ときには危険が待ち構えていたのはたしか。
イエスの地位について自分で考えることは異端に陥る可能性に直面することであり、
それが生命にかかわる危険であったことは、多くの異端審問、魔女裁判などが教えてくれるとである。
『チーズとうじ虫』カルロ・ギンズブルグ は十六世紀に自分の頭で考えた一人の粉屋の運命をまざまざと描きだしている。
(『チーズとうじ虫』カルロ・ギンズブルグ
http://hon-bako.com/bookbox/bookbox_majo/%E3%80%8E%E3%83%81%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%98%E8%99%AB%E3%80%8F%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B0-%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80/
16世紀の粉挽屋メノッキオは、チーズからうじ虫が発生するのを見て、それをカトリックの教義「無からの創造」に対置する。この世界像はどこからやってきたのだろう。鍵は、彼が粉挽屋でありながら「読み書きができる」こと。ギンズブルクは彼の極限的な思考に、抑圧された農民文化の兆候を読み取る。
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大都会? @Metropolis555
10月2日
「じっさいにはメノッキオがかれの宇宙生成論を引き出したのは書物からではなかった『(天使たちは)ちょうどチーズからうじ虫が出てくるように、この世のうちでもっとも完全な実体から自然に生じたのです。しかしこの世にあらわれると、天使たちは神から祝福とともに意思、知性、記憶をあたえられた』
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大都会? @Metropolis555
10月2日
チーズとうじ虫に執拗に立ち返ることは、類比による説明の純粋かつ素朴な機能をもっている。このメノッキオの返答ではっきりしているのはこのことだ。かびが生じかけていきたチーズのなかでうじ虫が生まれるという日常的にもつ経験は、
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大都会? @Metropolis555
10月2日
メノッキオが生命ある存在の誕生を説明するのに神の介入を求めることなしにカオスから、『生の未分化の』物質から、最初のもっとも完全なものである天使が誕生することの説明に役立っている。…メノッキオの宇宙生成論は、その実体において唯物論的であり、科学的な傾向のものである」p149-150)
『世界市民という視点からみた普遍史の理念』
被造物のすべての自然的な素質は、
いつかその目的にふさわしい形で完全に発達するように定められている。
(目的論。
解説が充実していて本文を読む必要があるのか疑問に思ってしまうほどだが、
おかしな解釈である可能性を否定できないので本文は読まないといけない)
『世界市民という視点からみた普遍史の理念』解説
カントは、人間が固有の意図をもっていなくても、
利己的に行動しながらも、歴史のうちで自由を実現するために、
知らず知らずのうちに「自然の意図」を実現すべく行動しているのではないだろうかと考える。
ヘーゲルはこの概念を受け継いで「理性の狡智」という概念を提示する。
人間は情熱にかられて互いに闘争し、没落していく。
しかし「普遍的理念」は背後にあってみずからの目的を実現するためにこれらの個人の情熱と闘争と没落を
利用するのである。
ヘーゲルはこの理性の狡智は神の摂理として解読できることを認めている。
「この理性が最も具体的な表象の形にせられたものが神なので」あり、
「神が世界を統治するのであって、その神の統治の内容、
神の計画の遂行が世界史である」のである。
(ヘーゲル『歴史哲学』)
カントの自然の意図もまた神の摂理であり、普遍史とは神の摂理が実現されるプロセスであると考えることもある。
カントの信念。
「被造物のすべての自然的な素質は、
いつかその目的にふさわしい形で
完全に発達するように定められている」
背後には二つの伝統が考えられる。
一つはアリストテレス以来の生物学的な器官の分析に依拠したものである。
生物のさまざまな器官は、その目的を果たすために分化している。
目は外部の世界をみるための器官として複雑で精密なメカニズムとなっている。
生物のあらゆる器官は、それぞれに目的をそなえていて、
それらが全体で生物の生存と成長という目的を満たしているのである。
(神の意志と相性がいいから採用されたのだろう)
目的論的な体系の頂点にたつのが人間である。
カントにとっての人間は自然の最終目的。
第二の思想伝統は、
ルソーから受け継がれた人間の自然的な発展思想。
ルソーは文明によって人間が毒されなければ、
人間の素質は自然に発達すると考えていた。
子供が成長していく段階でさまざまな情念が姿を現す。
ルソーはその情念に秩序と規則をあたえる仕事を自然にまかせるべきだと考える。
「それが発達していく期間をひきのばして、
あらわれてくるにつれて整理されていく余裕をあたえるがいい。
こうすれば、それに秩序をあたえるのは人間ではなく、
自然そのものであることになる」
そのためには子供を社会から隔離する必要も、
森の中に戻す必要もない。
「社会の渦のなかに巻きこまれていても、
情念によっても人々の意見によってもひきずりまわされることがなければ、それでいい。
自分の目でものを見、自分の心でものを感じればいい。
自分の理性の権威のほかにはどんな権威にも支配されなければいいのだ」
(ルソー『エミール』)
(鬼畜ルソーが言っても説得力無いな。
ルソーが子供にした悪行は割愛
)
アリストテレスは人間をポリスのうちで生きる存在(ゾーオン・ポリティコン)と呼んだ。
社会を形成しないで生きることができるのは、神であるか動物であるかというのがギリシア以来の重要な視点であり、
カントもそれを踏まえているといってよい。
ルソーは「仲間のうちでひとかどの地位を獲得」しようとする欲望が人間を道徳的に腐敗させたと考えた。
原初の素朴な状態においては、
人々は「自然の手だけによって飾られた美しい岸辺」に暮らしていたが、
人間はやがて邪悪なものとなり、みずからこの麗しい平和で平等な世界から抜けだしてしまう。
やがて「すべての悪習は、才能の差別と徳の堕落によって人間のあいだに導き入れられた呪うべき不平等」から生まれたと考えた。
対してカントは、人間が牧歌的な状態から文化へと進歩するためには、
この支配欲のようなものが不可欠だと考える。
これはルソーが指摘するように悪である。
しかしこの悪は人間が道徳的な存在になるために不可欠なものとして、
自然が人間のうちに植えつけておいたものである。
人間の本性が悪であることは社会的な進歩のために必須の条件。
自然の狡智は、人間の非社交的な社交性、あるいは社交的な非社交性という形で、
人間の素質に埋めこまれている。
市民的な体制
これはいわば自然状態のものとにある人間たちの集まりである。
この状態ではホッブスの場合とは違って、
すでに人間たちは家族を構成し、
労働して財産を所有していると想定されている。
しかしこれは個々の社会の成員が、
たがいに他の成員の財産の所有を尊重するという形の「私法」のだんかいにすぎない。
自然は人間が戦争のうちに滅びるのではなく、
世界市民状態を構築することを望んでいるに違いないというのはカントの信念であり願いでもあった。
ルソーは人間が未開から文明に到達するとともに、
不平等が生まれ、人間は堕落すると考えた。
しかしカントは、人間が未開から文明に、
そして文明から道徳性への状態へと進歩することを信じていた。
啓蒙はまさにこの進歩を進める原動力でありその原理でもあった。
国家はやがて自然状態を克服して国際法による市民状態に移行するに違いないとカントは信じていた。
真の意味での世界市民(コスモポリテース)の誕生は可能であるだけではなく、
歴史の必須の流れであり、世界市民状態が形成され、
人間のすべての素質が完全に展開されることこそが自然の目的であり、摂理であるとカントは強調する。
『人類の歴史の憶測的な起源』
自然の歴史は善から始まる。それは神の業だからである。
しかし自由の歴史は悪から始まる。それは人間の業だからである。
『人類の歴史の憶測的な起源』解説
自由の歴史は悪から始まる、のこの悪という否定的な力は、
カントによるといくつかの反自然性を契機として人間を社会の形成へと、
そして自然の意図の実現へと歩ませる。
人間は自然に反することで、神のもとから離れ、悪を行う。
しかしこの道を通じてしか、
人間が自然の究極の目的を実現することはできないのである。
(カントの弁神論は、
悪は最終目的である大いなる善=完全な道徳律が現実となる目的の王国の実現
のための進歩を引き起こす装置であるというもの)
間違った推論により、人間は禁断の果実に手を出す。
「食料についての知識を本能による制限を超えて拡張しようと試みたのである」
これは決定的な一歩。
神の命令に反すること、本能とは異なる衝動に従うこと、
動物が知らない善悪を認識できる存在となったこと。
同時に人間は神の掟から自由になった。
カントが指摘するように、人間の悪は自由とともに生まれた。
カントは問いかける。
もしも愛があまねく人々を支配し、
すべての国民が和合して生きるようになったら、
もしも世界の国家が統一され、
すべての人々が同じ言語を語り、
同じ宗教を信仰するようになったら、
それは理想的な状態になるだろうかと。
絶対平和を希求したカントだが、皮肉な否定の結論を出す。
バベルの塔の伝説が物語るように、
「さまざまな民が宥和して一つの社会にまとまり、
外的の危険性から完全に守られると、
それがその後の文化の発展を阻害し、
癒すことのできない堕落へと落ち込む」
に違いないと。
カントはすべての人々の間に愛と和合がゆきわたることが、
逆説的にも恐怖の世界帝国を誕生させる可能性があると考える。
ヘーゲルは動物から人間への移行の決定的な要素が死であることを主張していた。
カントも死、特に死への恐れが将来という時間にたいする想像力をかきたてることを指摘。
ヘーゲルが指摘するように、人間は現在の欲望の充足を将来に延期することで、
道具を作り、自然に働きかけ、生産物を貯蓄する。
そこから文化が誕生する。
『万物の終焉』翻訳者注釈
カントの認識論では、
人間には物自体を認識することができず、
認識できるのはものの現象にすぎないとされる。
物自体の領域をヌーメノン、
現象の領域をフェノメノンという。
ユニテリアン派は父と子と聖霊の三位一体説を批判し、
父なる神だけが真の神であるとして、イエスの神性を否定。
古代末期のアリウス派も大きくみればユニテリアンだが、
厳密にはプロテスタントの一派。
カトリックでは最後の審判で救われる者と呪われる者を区別するが、
ユニテリアンを含むユニバーサリスト(万人救済派)は悪人を含めたすべての人が救済されると主張。
カントでは理念はプラトンのイデアのように超越的な性格を持つ。
認識能力=悟性は概念やカテゴリーを使って対象を認識し判断する。
しかし、経験的な認識の全体性を目指そうとする理性は推論の能力であり、
人間の認識しえない課題を理念として提示する。
万物の終焉は悟性では判断できない種類の概念であり理性が考えるべき課題として提示する理念。
『万物の終焉』解説
カントは人間にとって可能なことは
「最終目的の実現に向けて絶えず進歩している状態」
を維持することだけだと信じている。
『永遠平和のために』
※翻訳者注釈含む
・ときには平和条約の締結にあたって心的な留保(レセルウァーティオー・メンターリス)が行われることがある。
それは双方とも戦争に疲れて、戦いをつづけることができないために、
昔からの懸案で、将来の戦争の原因になりそうな事柄は条約では言及するのを避けて、
やがて適切な機会を利用して、戦争の口実にしようとするためである。
しかしこれはイエズス会の決疑論(カズイスティック)(3)のような詭弁的なやりかたであり、
事態を正しく判断するならば、統治者の品位を損ねるものである。
大臣たちがこのような詭弁的な議論をすることは品位にそぐわないことである。
(3)決疑論(カズイスティック)とは
キリスト教の道徳神学で、さまざまな例をあげながら、善悪を判断する方式。
「嘘をついてはならない」という掟にたいして、
「神父が懺悔で知った真実を語るように求められた場合で、
嘘をつかざるをえないときはどうなるか」など、
さまざまな状況でその掟の適用を考察する。
イエズス会の決疑論(カズイスティック)では
神父は「心的な留保」によって嘘をつくことを認められたので、
詭弁と同じ意味をもつようになった
カントはこの論文の最後で決疑論(カズイスティック)を心的な留保と同じこととみなしている。
(イエズス会の詭弁のようなことは悪だとカントは言いたい。
心的な留保はおそらく心裡留保(しんりりゅうほ)のことで、
心の中で思っていることと違うことを外部へ表現することで、
売るつもりはないのに「売ったるわ」と冗談をとばすなど。
日本の民法では「表意者がその真意でないことを知ってした」意思表示。
ツンデレっていうのよ!
”(心裡留保)
第93条
意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。
ただし、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。 ”
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95%E7%AC%AC93%E6%9D%A1)
(カントはイエズス会が嫌いだろうね。
当時はどうか知らないが現代英語辞典ではイエズス会士Jesuitには策謀家、陰険な人という悪い意味があるので、
相当嫌われていたらしい。)
“ところで他国との関係のもとにある国家が、法の定められていない状態、戦争だけが支配する状態から抜けだすには、理性的に考えるかぎり、次の方法しか残されていないのである。すなわち国家も個々の人間と同じように、法の定めにしたがわない未開な状態における自由を放棄して、公的な強制法に服し、つねに大きくなりながら、ついには地上のすべての民族を含むようになる『国際国家』を設立するほかに道はないのである。
しかしこうした国家は、彼らなりに国際法の理念に基づいて、このことを決して望まず、それを一般的には(イン・テシ)正しいと認めながらも、個々の場合には(イン・ヒュポテシ)否認するのである。だからすべてのものが失われてしまわないためには、『一つの世界共和国』という積極的な理念の代用として、『消極的な』理念が必要となるのである。この消極的な理念が、たえず拡大しつづける持続的な『連合』という理念なのであり、この連合が戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制するのである。”p.183
『』は原文の傍点の代役。()はルビの代役。以下の引用も同様。
“中国(ヒナ)と日本(ニポン)は、外国からの客を一度はうけいれてみた。しかし後に中国は来航は認めても入国は認めなくなった。日本は来航すら、ヨーロッパのオランダに認めるだけで、来航したオランダ人をまるで捕虜のように扱って、自国の民の共同体から切り離したのだが、これは賢明なことだったのである。”p.187
・世界王国
国際法の理念は、たがいに独立した国家が隣接しあいながらも分離していることを前提とする。
しかしこの状態はすでに戦争状態である(諸国家が連合のもとで統一されていて、敵対行為を予防しないかぎり)。
しかし理性の理念によれば、ある一つの強大国があって、
他の諸国を圧倒し、世界王国を樹立し、
他の諸国をこの世界王国のもとに統合してしまうよりも、
この戦争状態のほうが望ましい。
というのは統治範囲が広すぎると、法はその威力を失ってしまうのであり、
魂のない専制政治が生まれ、この専制は善の芽をつみとるだけでなく結局は無政府状態に陥るからだ。
(世界王国=統一国家=ワンワールドを達成しても、
法の監視はすみずみまで行かないと主張。
現代の技術だとできそうなんだが、
全員にマイクロチップを埋め込んで監視などについてカントがどう考えるであろうかは私にはわからない)
たしかにどこ国家も元首もこのような方法で持続的な平和状態を樹立し、
できれば全世界を支配したいと望むものである。
しかし自然の望むところは、これとはまったく異なる。
自然は諸民族が溶け合わずに分離された状態を維持するために、
さまざまな言語と宗教の違いという二つの手段を利用している。
言語と宗教の違いは他の民族を憎む傾向をはぐくみ、戦争の口実を設けさせるものではあるが、
一方では文化を向上させ、
人々が原理において一致して、
平和な状態でたがいを理解を深めあるようにする力を発揮する。
この平和は専制政治のように、すべての力を弱めることによって、
自由の墓場の上に作り出されるものではなく、
さまざまな力を競い合わせ、均衡をとることで生まれ、確保される。
原注
さまざまな宗教の違いとはなんとも奇怪な表現だ。
人間の道徳性が1つではなく、他にもさまざまな道徳とでもいうものがあるかのような表現だからだ。
歴史的に確かにさまざまな信仰方式はあろうだろう。
しかしこの違いは宗教におけるものではなく、
宗教の促進のために使われる方式の歴史の違いであり、
知識量の違いなのである。
この違いに応じて、アヴェスター、ヴェーダ、コーランなどさまざまな宗教的聖典というおのが生まれるだろう。
しかし宗教としては、すべての時代を通じて、すべての人間に妥当する唯一の宗教しかない。
だから信仰方式や聖典は宗教を伝えるために手段にすぎず、
偶然的なものであり、時代と場所の違いに応じて、さまざまに異なることがありうる。
(人間の道徳性は一つのみ。全時代と全人類に妥当する唯一の宗教しか存在しない。
一般に宗教と言われているものはこの唯一宗教の信仰の仕方の違いにすぎない、
というカントの主張。
万教帰一カルトの主張じゃねーか!
カントは理性主義の一神教でありキリスト教と同一ではないが、新キリスト教。
主張がヴァイスハウプトとかぶりまくっている
(啓蒙主義、共和制、イエズス会叩き=反カトリック、世襲貴族否定、ストア派の影響)のにカントが叩かれない理由の一つだな。
万教帰一に都合がいい唯一宗教思想と国連の原案)
“秘密条項が適切なものと判断されるのは、次のような場合だけである。すなわち「『戦争にそなえて武装している諸国は、公の平和をもたらすことのできる条件について哲学者が示す原則を、忠告としてうけいれるべきである』」。”p.211
“だからといって国家は、国家の権力の代表者である法律家の言葉よりも、哲学者の示す原則を優先すべきだというわけではない。ただ哲学者の言葉に『耳を傾けよ』というだけのことである。”p.212
“国王が哲学者となったり、哲学者が王となったりするのは、期待すべきことでも、望ましいことでもない。権力を所有すると、理性の自由な判断の行使が損なわれるのは避けられないことだからだ。しかし王者が、またはみずから平等な原則のもとにしたがう王者的な民族が、哲学者という階級を消滅させず、また沈黙させずに、公に議論するのを許すことは、それぞれの職務を明確にするためにも不可欠のことなのである。哲学者という階級は、徒党を組んだり、秘密結社を設立したりすることができない性格をそなえているので、『プロパガンダ』による誹謗の疑いをかける必要はないのである。”p.213
・三つの詭弁的な原則
実行してから弁明せよ
実行したとしても否定せよ
分割して統治せよ
しかしこのような政治的な原則では、
もはやだれも欺くことはできないだろう。
すでにだれもが熟知していることだからだ。
(支配層は熟知しているけど大衆は古代から今も欺かれ続けている)
・戦争の防止だけを目的として諸国家が連合することが、
諸国家の自由を妨げることのない唯一の法的な状態である。
だから政治と道徳が合致するためには、
連合的な組織が必要なのである。
この連合的な組織は、原則に基づいた法の原理によって与えられる必然的なものなのである。
こうしたすべての国家戦略の法的な基礎はできるかぎり広い範囲で政治と道徳が合致することにあり、
この目的なしではすべての戦略はたんなる無知な策略であり、不正をごまかしたものにすぎない。
こうした(不正な)エセ政治は、もっとも巧みなイエズス会にも劣らない決疑論(カズイスティック)を駆使する。
こうした決疑論(エセ概念)としてはまず心的な留保がある。
公的な契約を締結する際には事例ごとに自分の好きなように解釈できる表現を用いるのである。
(イエズス会批判は大事なので二回言いました。
カントと同時にバリュエルがイルミナティ陰謀論を発明したのは当時からあるイエズス会批判対策でもある。
バリュエルは晩年にカント批判の本を書いていたからヴァイスハウプトと思想がかなり似ていることをわかっていたのだろう。
カントの理想に一番近い国は今はイランである気がする。
カントの理想って世俗主義では実現不可能でしょ)
訳注
アイオーン
とはギリシア語で永遠、世代、時間などを意味する。
カントは人間よりも高次の理性的な存在者という意味で使っているので、
キリスト教の天使やギリシアの民族宗教のダイモーンのようなものと考えてほしい。
アイオーンを天と地を媒介するものと考えたのはグノーシス派。
Neigung(傾向性、傾向)
はカントでは両義的。
人は善をなす自然な「傾き」をそなえていることが多い。
道徳性は自然な感情に依拠するというのが当時のイギリスの道徳哲学の主流。
しかしカントは道徳は感情ではなく善意志のもとでのみ実現すると考えていた。
人々が自己愛のために道徳性とは異なるみずからの傾きに従う場合には悪につながる可能性がある。
しかし善をなそうとする自然の傾向そのものは善であり、ほんらいの道徳性を支える。
医学、神学、法学という三つの部門に比較して
低い地位にあるとみられた哲学を弁護したのが
カントの『諸学部の争い』
怜悧
とはカントの実践哲学における重要概念。
道徳原則はだれにでも普遍性に該当する客観的な命令(定言命法)として定められているために、
必然的なものであり、
人間はそれに従わねばならない。
しかし怜悧の原則は、ある目的を実現するにはどうすればよいかを教えるものであり、
必然的ではない。
嘘をつくなという定言命法は普遍的だが、
嘘をつかないですむようにするにはどうづればよいかを教えるのが怜悧の原則。
主観的な原則(格律、格率)
を普遍的な法則とする意志に基づいて行動せよ
とはカントが実践哲学で示した定言命法の一つの表現方法。
定言命法
=いかなる目的なしでも客観的に必然なものとしてだれもが認める命令。
経験的な目的の実現を目指すのは仮言命法。
弁神論
悪の存在と善なる神という理念の矛盾を考察し、
神を弁護する議論。
カントが想定しているのはライプニッツ『弁神論』で展開された議論。
カントは初期にはライプニッツと同じような立場にたっていたが、
批判哲学を確立した後は、
創造主である神という最高の力について、
人間の理性で判断することは「許されていない」という見解に変わった。
『たんなる理性の限界内における宗教』では悪の問題がさらに詳細に議論される。
カント曰く、道徳句的な定言命法の実在を信じることができなければ人間の悪は弁護することのできない性質のものとなってしまうという。
「成立の条件を示す」
と訳したところは
カント用語では「超越論的な」と表現される。
超越論的とは、カントが超越的という概念と対比される。
超越的
=人間の経験を超えている。
神の存在は超越的。
超越論的
=人間の認識の可能性の条件に関わるものであり、
人間が個々の対象を認識できるための条件を考察する
純粋理性批判の有名な定義では
超越論的
=対象そのものではなく、対象一般についての人間のアプリオリな概念にかかわるすべての認識
~が可能となる条件を作り出す
『永遠平和のために』解説
カントにとっての国際法とは、
自然状態にある群衆を国民として形成するための
社会契約
を締結する行為。
この国家法(憲法)は大衆が国家を構成するためにみずから選択したものとみなされることに注意。
国家を構成するのはつねに大衆であり外部から強制することはできない。
(無理でしょ)
現在は国家と国家連合が考えられるかぎりの最大の機構であるが、
カントは国家法と国際法を統合する世界市民法(ローマの万民法に相当)を考案。
カントのいう共和制とは、現代用語では代議制の民主主義にほかならないものとして思えない。
現代政治学理論ではカテゴリーが混乱している印象。
国民の平等という原理に反するので世襲貴族を否定するカント。
生まれによって特定の個人に特権を認めることは
「あらゆる権利の原理である根源的な契約のもとにある民族の普遍的な意志によっては、
容認することのできないもの」だからである。
当時のプロイセンはやっと市民が階級的に上昇してきた段階であるい、
世襲貴族が地位も財産も文化も独占していた状態であり、
カントはその不正を告発する。
主権者は国民にある国家をカントは共和制と呼ぶ。
ルソーの普遍意志に相当するのはカントでは立法者の総意。
カントは共和制はかならず代議制を採用せよと強調。
ルソーは代表制を否定。
(いっとくけどカントはルソーの影響は受けたけど、
ここはおかしい、ここは正しいってきちんと判断しているからね?
信者じゃないよ)
・外部からの強制によって共同体を成立するとなると世界国家というものになるだろう。
戦争は根絶されるかもしれないが、
民族の差異が解消されてしまい、
さまざまな国家の競合という概念そのものが消滅する。
競合で国内の自由と文化を確保すると考えられているために、
自由と文化の消滅をもたらす可能性はカントが考察していた。
だから世界国家は永遠平和を確立するための積極的理念であるが、
自由と文化の消滅のもとで歴史の終焉とひとしいものとなる危険性を秘めている。
そこでカントは世界国家の樹立ではなく
たえず拡大しつづける持続的な連合という消極的な理念である。
この連合が戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制することを期待するほかはない。
(理念上は「世界共和国」が最善だとするが、
現実には連合のほうが良いというカント。
ワンワールド完全否定ではない)
カントは人間を自然の最終目的であると同時に、
究極の目的であると考えた。
自然が人間にその地位を与えしかも永遠平和に向かうことを保証していると考えている。
(要は神の意志の体現が永遠平和ってこと)
カントの自然概念を再確認。
1 機械的に運行する生の自然
2 科学研究され、人間が表象した、ニュートンの法則が妥当とする自然
カントの言う「目的」はない。
3 生命と美を備える、『判断力批判』での自然
個々の生物はその一つ一つが目的であり、生ける自然は目的そのものように見える。
4 人間の歴史を見守り、人間の進歩のために配慮する自然
地球全体を一つの自然の秩序として考察し、
目的の連関と階層構造を考えるカント。
流木やラクダやトナカイなどは人間が生きるための目的と手段として考察。
この自然が神を暗示しているのは確かで、
カントは摂理とも呼んでいる。
カントは宗教論ではなんども神の擬人化を戒めているので、
ユダヤ教とキリスト教の主なる神と同じと考えるべきではない。
カントの自然は抽象的で普遍的な意志のようなもの。
自然は戦争、民族対立で人々は国家を設立し、国家連合を設立するようになった。
これは自然の配慮。
(ストア派の自然=神の影響を受けているのだろう。
理神論だと思ったが確か理神論は創造した後は干渉しないはず。
永遠平和実現を保証するのが自然=神。
戦争も神=自然によるもので永遠平和実現のための過程と考えるカント。
じゃあ最初から永遠平和にしろよと言いたくなる)
カントは永遠平和を提案するが、
平和そのものが人間の間に実現するとは想定しておらず、
反対に戦争こそが人間をたえず進歩させると考えているかのようである。
カントは戦争は憎むが、戦争無しの完全な平和状態では、
人間が進歩する原動力が失われると考える。
もし世界共和国が樹立されて完全な平和が訪れたならば、
法はその威力を失ってしまうものであり、
魂のない専制政治が生まれ、この専制は善の芽をつみとるだけではなく、
結局は無政府状態に陥るとまで考える。
カント論文最大の逆説であろう。
カントは永遠平和を目指すが、
実現することは善の芽をつむ専制を生むだけ。
専制政治のようにすべての力を弱めることで
自由の墓場の上に作り出されるものではなく
さまざまな力を競い合わせその均衡をとることで生まれ、
確保される、
平和こそが望ましいと主張。
(唯一の国家ではなく、
複数の国家連合で国家間のバランスをとるほうがよいとカントは主張)
フランス革命について。
ジャコバン派のテロルを目にしていたカントは
革命という方法での政府転覆に賛成しない。
それでもフランス革命には人間が道徳的に進歩し続けていることを告げる明確な兆候があったとカントは考える。
人は国民がともに立法的であるような協和的な体制に向かっての進歩。
もう一つは革命に参加せず当事者でないプロイセンの人々が片田舎にいたるまで
革命に熱狂し支持したこと。道徳的進歩を続けることを予言できる徴候である。
カントは歴史の未来において人間が道徳的に完全な存在になり、
自然の究極目的を実現することを望んでいた。
しかしそれにいたる過程においては人間にできることは
日々の生活で道徳的な原理を守り続けることで
神に嘉せられる存在であることを証明することだと考えた。
古代ギリシアのポリスでは市民はみずから真理と信じることを政治の場で発言する権利を認められていた。
パレーシアという権利である。
この権利はローマでも受け継がれ、西洋政治の伝統で重要な役割をはたした。
アリストテレスは民主制に該当するものを国制(ポリテイア)と呼び、
衆愚政治に妥当するものを民主制(デモクラティア)と呼ぶので注意。
アリストテレスにとって民主制(デモクラティア)とは
貧困者の利益を目標とするものだからである。
ここから
宇都宮芳明訳 『永遠平和のために』 岩波文庫
岩波文庫版
・第一条項
将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。
敵対行為の延期であって、平和ではない。
平和=一切の敵意が終わること。
戦争を続けるには双方ともつかれ切っているので、
さしあたってはどちらの側も触れないでいる古くからの権利主張があるのだが、
再戦に向けて最初の好機会を利用しようという悪意から、
この権利主張を将来の口実に使おうと保留する(心内留保 reservatio mentalis)のは、
ジェスイット派(=イエズス会)のカズイスティクのたぐいで、
事態をあるがままの姿で判定すれば、これは統治者の品位を汚すことであるし、
またかれの大臣がこうした理由づけに追従することも、その品位を汚すものであろう。
※訳注
心内留保
=二義的な言葉を使い、相手が理解した意味とはちがう意味をひそかに自分の心の中に留めおくこと。
ジェスイット派(イエズス会)は、良い目的のためなら、こうした二義的な言葉を用いてもよいとした。
ジェスイット派
=宗教改革運動に対抗し、カトリック教会を擁護するために設けられた修道会「イエズス会」の通称。
1538年ロヨラが創立。
カズイスティク
=決疑論。
個々の場合にどのようにふるまえば道徳的であるか
(たとえば、二つの義務が対立したときどちらを選ぶべきか)
を解決する法。
しかしこうした企ては詭弁に陥ることが多い。
カントは、ジェスイット派のカズイスティクと心内留保を一つのものとして考えているのであろう。
・本文
人間の平和状態は自然状態(status naturalis)ではない。
自然状態はむしろ戦争状態である
それゆえ平和状態は創設されなければならない。
・各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。
私の自由に関して言えば、私は、
たんなる理性によって知られる神的な法にかんしてすらも、
私が自分で同意することができた場合のほかは、いかなる責務も持たない。
なぜなら私は、私自身の理性の自由の法則を通じて、はじめて神的意志の概念をもつからである。
神のほかに、私が想像できるもっとも崇高な世界存在者(たとえば偉大なアイオーン)にかんして、
平等の原則がどのようにかかわるかであるが、
その存在者がその持ち場で義務を果たすように、
私もまた私の持ち場で私の義務を果たす以上、
その存在者には命令する権利がそなわっていて、
私にはただ服従する権利だけがあるとするのは、まったく根拠のないことである。
(当然だが、カントはゴッドの存在を認めている)
共和的体制は、その根源が純粋であり、法概念の純粋な源泉から生じたものであるが、
それだけではなく、さらに望ましい結果である永遠平和への期待にそった体制である。
理由は、戦争をすべきか決定するためには国民の賛同が必要になるからだ。
共和制は、執行権(統治権)を立法権から分離することを国家原理とする。
民衆制と呼ばれる形態は、必然的に専制である。
民衆制が設定する執行権の下では、全員がひとりの人間を無視して、
また場合によってはその人間に反してまで(つまりその人間が賛同していないのに)決議できる。
したがって、実は全員ではない全員が決議できるからである。
このことは、一般意志が自己自身と矛盾することであり、自由と矛盾することである。
(民主主義は悪ってことじゃん)
国家権力をもつ人員(支配者の数)が少なければ少ないほど、
またこれに反して国家権力を代表する程度が大きければ大きいほど、
それだけいっそう国家体制は共和制の可能性に合致し、
漸進的な改革を通じて、ついには共和制にまで高まることが期待できる。
※訳注
アイオーン
=最初はギリシアの詩語で、人や神に対して「生命」や「生涯」を表すのに用いられた。
プラトンでは、英知的な本体の「生涯」、つまり自足し、超時間的な永遠を意味する。
グノーシス派ではアイオーンは人格化され、神と物質界との間で最高の位置にある本体とされた。
(当時のインテリにとってギリシア・ローマの古典と古代宗教の知識は常識)
・永遠平和のための第二確定事項
国際法は、自由は諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。
各民族は自分たちの安全のために、
それぞれの権利が保障される場として、
市民的体制と類似した体制に一緒に入ることを他に対しても要求でき、
また要求すべきなのである。
これは国際連合と言えるが、しかしそれは当然諸民族合一国家ではないであろう。
そのような国家にはむしろ矛盾があることになろう。
なぜなら、どの国家も上位の者(立法する者)の下位の者(服従する者、すなわち民族)に対する関係を含むが、
もし多くの民族が1つの国家に吸収されると、ただ一つの民族しか形成しないことになって、
これは前提に矛盾するからである。
というのも、われわれはここでは諸民族相互間の法を考察しなければならないが、
それにはさまざまな民族がそれぞれ異なった国家を形成すべきで、
一つの国家に融合すべきではないかぎりにおいてなのである。
・人間の本性にそなわる邪悪は、
諸民族の自由な関係のうちにあからさまに現れる。
もっともそれは市民的=法的状態の下では統治の強制によってほとんどおおい隠されているが。
(カントはお花畑じゃないよ)
平和連合とでも名づけることができる特殊な連合が存在しなければならないが、
平和条約とは別で、
両者の区別は、
後者がたんに一つの戦争の終結を目指すのに対して、
前者はすべての戦争が永遠に終結するのを目指すことにある。
たがいに関係しあう諸国家にとって、
ただ戦争しかない無法な状態から脱出するためには、
理性によるかぎり次の方策しかない。
すなわち、国家も個々の人間と同じように、
その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、
そうして一つの(もっとも絶えず増大しつつある)
『諸民族合一国家』を形成して、
この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。
だがかれらは、かれらがもっている国際法の考えにしたがって、
この方策をとることをまったく欲しないし、
そこで一般命題として正しいことを、
具体的な適用面は退けるから、
『一つの世界共和国』という積極的理念の代わりに、
戦争を防止し持続しながらかえず拡大する『連合』という消極的な代替物のみが、
法を嫌う好戦的な傾向の流れを阻止できるのである。
(すべての民族を包括する諸民族合一国家
=一つの世界共和国
=一つのワンワールド、唯一の国家しか存在しない世界
は理想だが、実現できないから、
連合にしようとカントは主張。
ワンワールドが理想ってことね。
国際連合の次は世界連邦だという支配層の動き見るにまんまカントだな。
でもカントの啓蒙主義は採用しないし、道徳なんて守らないからカント哲学ではないけどね。
八紘一宇=四字熟語版ワンワールド。)
・あらゆる法的体制は、
その下にある法的人格にかんしては、
次のいずれかである。
①一民族に属する人間の
『国民法(市民法 ius civitatis)
に基づく体制。
②相互に関係する諸国家の
『国際法(万民法 ius gentium)』
に基づく体制。
③外的に相互に交流しあう関係にある人間や国家は、
普遍的な人類国家の市民とみなされることができるが、その場合の
『世界市民法(ius cosmopoliticum)』
に基づく体制。
(ストア派のコスモポリタニズムが元ネタ
)
・近海に近づく船を略奪したり、
漂着した船員を奴隷にすると言った、
海岸での非道な扱いや、
遊牧民族に近づくとそれを彼らを略奪してよい権利とみなすような、
砂漠での非道な扱いは、
自然法に反している。
とはいえ、
こうした友好の権利、
つまり外国人の権限は、
原住民との交際を『試みる』ことを可能にする諸条件をこえてまで拡張されはしないのである。
このような仕方で、遠く離れた諸大陸も互いに平和な関係を結び、
この関係はついには公で法的なものとなり、
こうして人類を結局は世界市民的体制へと次第に近づけることができるのである。
ところで、われわれの大陸の文明化された諸国家、
とくに商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度をこれと比較してみると、
かれらがほかの土地や民族を訪問(征服することと同じ意味)するさいに示す不正は、
おそるべき程度に達している。
アメリカ、黒人地方、香料諸島、喜望峰などで住民たちを無に等しいとみなした。
東インド(ヒンドゥスタン)では商業支店を設ける口実で軍隊を導入し、
原住民を圧迫し、その地の諸国家を扇動して、
戦争、飢え、反乱、裏切りのような悪事をもちこんだ。
それゆえ、中国と日本(ニポン)が、これらの来訪者を試した後で、
次の措置をとったのは賢明であった。
中国は来航は許したが入国は許さず、
日本は来航すらもオランダ人だけに許可ししかも囚人のように扱い、自国民との交際から締め出した。
・人間の方に完全に適合している唯一の体制は共和的体制だが最も困難。
・国際法の理念はそれぞれ独立して隣り合う多くの国家が『分離』していることが前提。
こうした状態はすでに戦争状態であるが
(諸国家の連合的合一が敵対行為の勃発を予防することがない場合は)
それにもかかわらず、まさにこうした状態の方が、理性の理念によるかぎり、
他を制圧して世界王国を築こうとする一強大国によって諸国家が溶解してしまうよりも、
ましなのである。
なぜなら法は統治範囲が広がるとともにますます重みを失い、
魂のない専制政治は善の萌芽を根絶やしにしたあげく、最後には無政府状態に陥るからである。
(無理にワンワールドにしなくてよしってこと)
とはいえ、これはどの国家あるいは元首も望むところで、
こうした仕方でできれば全世界を支配し、
それによって持続する平和状態に移行しようと望んでいる。
だがしかし、
『自然が意志する』こととはこれとは別。
自然は諸民族の混合を妨げ、かれらを分離しておくために、
二つの手段を、すなわち言語の違いと宗教の違いとを用いている。
これらの違いは、互いに憎しみ合う傾向と、戦争への口実をともなってはいるが、
それでも文化が向上し、諸原理にかんするいっそう広範囲な合致へと人間が次第に近づくことによって、
平和についての同意へと導くのであって、
この平和はかの専制主義のように自由の墓地の上にあらゆる力を弱めることによってではなく、
きわめて生き生きとした競争による力の均衡によってもたらされ、確保される。
さまざまな宗教の違いとは実に奇妙な表現。
あたかもさまざまな習俗について語っているかのよう。
歴史的媒体であるさまざまな信仰方式の違いはありうるであろう。
しかし、この歴史的媒体は宗教にではなく、
宗教を促進するのに用いられるものの歴史に属し、
学識の分野に属している。
同様にさまざまな宗教経典
(ゼンドアヴェスタ、ヴェーダ、コーランなど)
のちがいもありうるであろう。
だが宗教にかんしては、
あらゆる時代に妥当するただ一つの宗教しかありえない。
信仰方式や経典は、
ただ宗教を運ぶ道具を含むだけであって、
このものは偶然的であり、
時代と場所のちがいに応じてさまざまでありうるのである。
(カントは拝火教の存在は知っていた。
この世には唯一の宗教しかなく、
宗教と言われているものは単なるその唯一宗教の表現の違いにすぎない、
って万教帰一思想じゃん!
その唯一宗教はカントにとっては道徳律宗教なんだけど、
これは一神教前提。
万教帰一を主張している信者にとって、
自分の宗教が一番なので、
結局、最終的に自分の宗教だけ残り、他は滅べって本音。
ゆえに万教帰一は悪。)
・永遠平和のための秘密条項
公けの平和を可能にする諸条件について哲学者が持つ格率が、
戦備を整えている諸国家によって、
忠告として受け取られなければならない。
哲学者に耳を傾けよ。
国王が哲学することや、
哲学者が国王になることは、
期待されるべきことではなく、
また望まれるべきことでもない。
なぜなら権力の所有は理性の自由な判断をどうしてもそこなうからである。
だが国王があるいは王者らしい(みずからを平等の法則にしたがって支配する)民族が、
哲学者階級を消滅させたり、
沈黙させたり沈黙させたりしないで、
かえって公然と語らせることは、
双方にとってそれぞれの職務を明らかにするために必要不可欠なことである。
この哲学者階級は、その本性から見て、暴徒になったり、
徒党を組んだりする能力がないから、
誹謗したという理由で扇動の嫌疑をうけることもないのである。
(哲人政治である必要はないが、哲学は必要。
王の参謀が哲学者だったりするから、
暴徒と徒党と扇動の原因だったりする。
よって嫌疑を優先的に受ける立場が哲学者)
・(カントが教えてくれる支配手法。当然、悪の例として取り上げた)
1 fac et excusa まず実行し、そして正当化せよ
2 si fecisti, nega 汝が実行したのなら、否定せよ
3 divide et impera 分離し、そして支配せよ。
(分割統治)
・悪はみずからの意図において、自分自身と矛盾し、自己破壊を生じ、
善の道徳的原理にそれが遅々とした歩みでもついには場所を明ける。
(善は最後には勝つ、というカント思想の根本の一つ)
注釈
旧約『詩編』84に、
万軍の主である神を賛美した歌がある。
神が万軍の主であるのはユダヤ教に由来する。
エレウシスの密儀
=古代ギリシアのエレウシスにあるデーメーテールの神殿で、
春秋二回行われた神秘的な祭儀。
視霊者には光に満ちた神の姿が現れたという。
オームはキリスト教のアーメンと比較される。
旧約の創世記に、肉をその命である血のままで食べてはならない、とある。
新約の使徒行伝に、異邦人で信者になった人たちは、
偶像に供えて汚れたものと、不品行と、血と、絞殺したものを避けよとある。
法律学、神学、医学科に対して、
哲学科は一段低い地位にあるとされた。
・解説
カントは常備軍を廃止せよとは言うが、
国民が全員参加して他国からの攻撃に備える自衛のためならば、
永遠平和にいたる前段階として認めている。
永遠平和のためには
共和制が必要で、
国際体制では自由な諸国家の連合制度が必要で、
世界市民法にかんしては普遍的な友好権が必要だと主張。
カントのいう共和制とは
自由と平等の権利が確保された国民が
共同の立法にしたがっている国家体制で、
代表制を採用し、
立法権と執行権が分離している国家体制。
カントによると共和制は人間の法もっともよく適合した国家体制であるが、
この考えの背後に、ロックに代表される啓蒙主義的な国家観がある。
カントは国家契約の考え。
共和制がふさわしいのは、
戦争すべきかの決定には国民の賛同が必要だが、
戦争のあらゆる苦難を引き受けるのが国民なので
戦争という割に合わない賭け事をしないであろうというが理由。
(当時から傭兵商人と武器商人が支配層と仲良しなのに無理じゃん)
第二確定条項では
国際間の永年平和を保障するものとして、
自由な諸国家の連合が提唱される。
カントはかつてのローマ帝国のような、
諸国家を征服した一政界王国の出現による世界平和の維持を望まない。
法は統治範囲が広がるとともに重みを失い、
魂のない専制政治が支配し、
世界王国は最後には無政府状態に陥るからである。
対して、
理性の立場からすれば、
諸国家がそれぞれ独立した単位として、
一国内の共和的体制に似た世界共和国を形成することができれば、
それが永遠平和の維持にとってもっとも望ましいことであろう。
しかし、
それぞれが国家権力をもつ諸国は、
理性が正しいと認めることでも、
具体論としては斥けるから、
そこで世界共和国という積極的理念の代わりに、
独立した諸国家の国際連合という消極的な代替物が、
実現可能な世界平和維持の手段とされる。
(カントはワンワールドは実現できないし、すべきではないと考えている)
第三確定条項では、
人間は世界市民として、どの外国でも訪問できる。
ただし、
訪問することは制服することだぐらいに考えているヨーロッパ列強諸国による植民地獲得は、
原住民を無に等しいものと扱う点で、
世界市民法に対する明白な違反。
なおここでカントが中国や日本の鎖国政策に触れ、
当時としては賢明な措置だと語っているのは興味深い。
・カントの論証は、永遠平和は空想ではなく、
永遠平和という目的に対して自然が合目的的(目的にして動く)だということの論証。
永遠平和の到来を保証するのは
偉大な技巧家
としての自然。
自然の計画は、運命とも、また摂理とも呼ばれる。
自然は戦争を利用して人間が無法な自然状態から脱して組織を作り、
法的な関係に入るように強制した。
永遠平和は国際的には諸国家の連合によって可能だが、
これも自然の機構に合致。
自然は言語と宗教の違いを利用して、
諸民族を分離させ、その混合を妨げているからで、
それぞれの国家が諸民族を自分の下に統合して一世界王国を樹立しようとしても、
この自然の機構が反対する。
言語や宗教の違いは諸民族が互いに憎しみ合い戦いあるきっかけともなるが、
しかし文化の向上につれて相互理解も進み、
結果諸民族間の平和が
きわめて生き生きとした競争による力の均衡
の上に築かれるようになる。
カントは、
自利を求める人間の自然的傾向から生じた近代の商業精神もまた、
平和の実現に寄与すると考える。
国家はいずれも国家権力の増大のために金力を必要とし、
国際的な商業活動を保護するが、
そのためには国際間の平和が維持されてていなければならない。
商業精神と戦争は元来両立しない。
(武器商人が力をもっているので国際間の平和が維持されないように政治が動く。
商業精神って資本主義だけど、永遠平和を最も妨げているぞ。
この自然ってゴッドの言い換えな気がする。
ストア派の自然っぽいな。
世界市民思想はストア派のコスモポリタニズム。
あれだけラテン語の格言を引用するし、
ローマの古典には強いはず。
当時のインテリはラテン語ができて当然。
”ストア派の至高存在(神)
=「技術的(創造的)な火」
=知性的な「ロゴス(理性、言語など)」
=自然の摂理。
神=火=ロゴス=自然(神の摂理)。
自然と調和した平静な心の獲得が目標。
肉体的要素を否定しない。
インド哲学の平静な心を求める傾向の影響がありそう。
…
よくストア派は禁欲主義、エピクロ派は快楽主義として対比されますが、どちらも、間違った思い込みによって煩わされず、自然(神の摂理)と調和した精神的な平安を求める点で共通しています。
ストア派の宇宙論はヘラクレイトスと似て、至高存在を「技術的(創造的)な火」と呼び、同時にそれを「ロゴス」と考えました。
これらは神的で知性的で、諸元素に変化して、やがてまた「技術的な火」に戻るのです。
宇宙は収縮によって生まれ、やがて空虚に広がりながら燃焼して消滅して「技術的な火」に帰します。
宇宙は年(2万6千年)かかってこの生滅を繰り返します。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-146.html
『オルフェウス教』とニーチェへのストア派とエピクロス派の影響の考察。 )
・第二補説は、
国家が哲学者に戦争や平和の問題にかんして自由に論議させ、
しかもそれを参考にすべきだという提言。
カントが『たんなる理性の限界内における宗教』の出版をめぐって当局の忌諱に触れ、
1794年4月、宗教にかんする講義や著述の禁止を言い渡された有名な事件があり、
この事件と無関係ではないだろう。
またカントは権力の所有は理性による自由な判断を妨げるから、
哲学者が国王になるのは望ましくないと語っているが、
これは暗にプラトンの哲人王思想を批判したものだと見ることもできるだろう。
カントが純粋実践理性の国というのは、
倫理学において示された「目的の国」で、
すべての人間がたがいに他を目的それ自体として尊重しあう共同体。
(ふと思いついた。
日本って帝国というより定刻主義だよな。
カントの生活も定刻主義)
国際政治学たん @Morgenthau0217 · 2013年12月22日
戦争の勃発を阻止し、国際平和を達成しようという構想は古くから度々提起されてきて、それは以下の6つのタイプに分類されるわ。
①世界政府の実現による平和
②国際法を通じての平和
③民主主義の普及による平和
④自由貿易を通じての平和
⑤紛争の平和的解決による平和
⑥力の均衡による平和
カントが『永遠平和のために』で着目したのは、③と④、そして諸国家からなる自由な連合(⑤が近いかな)。
①の世界政府の実現を夢想したのは、サンピエールが有名。
また、アクィナスやダンテも、その著作の中で全人類を包摂する世界帝国について語っているわ。
自殺を考えてしまう存在@8th day @feelsosuicidal 2013年11月7日
カントの言う国際連盟は唯一つの巨大な国家とは違うのでしょうか?諸国家によって分割されているのが望ましいのは「歴史の途中」に思えますが @Morgenthau0217: (…)世界が諸国家によって分割されている状態の方が、唯一つの巨大な国家によって統合されてしまうより望ましい(…)
国際政治学たん @Morgenthau0217 2013年11月7日
@feelsosuicidal 良い質問だと思うわ。カントは、個々の国家は内部に法秩序を有しているが、個々の国家からなる国際関係は非法律的無秩序な状態だと見なしており、ホッブズに近かったの。
その状態は現実に戦争が起きてなくても「戦争状態」と呼ばれ、これを脱却するために「国際連盟」の設立を唱えたのね。
しかも、その連盟は主権的権力を含まない、つまり連邦ではなく連合的な組織にすべきだと考えたの。
どうして連邦ではなく連合にすべきなのか。連合とは、そこに加盟する国々が、それぞれの国家主権を保持したままの国際組織ね。
それに対して連邦とは、各国の主権を統合した、国家よりも上位の権力機構。確かにこのような連邦(いわば、世界共和国のようなもの)という理念は連合よりはるかに進んだ理念だけど、やはり現実性を欠くわ。さらにカントは、帝国的統治というものが、版図が拡がれば拡がるほど法の及ぶ力が弱くなるということも言及しているわ。そういうわけで、彼は「一つの世界共和国という積極的理念の代わりに、戦争を防止し、持続しながら絶えず拡大する連合という消極的な代替物のみが、法を嫌う好戦的な傾向の流れを阻止できる」と主張したのよ。
中尾 綾 @ayajet128 2月24日
@kikuchi_8 @wayofthewind トム・ヨークのパートナーがダンテのアートを研究してたvia naoshiy: 自衛はロック、ルソー、カント、ヘーゲルがそれぞれ論じた公共哲学の伝統的なテーマであり、世界政府をつくって軍隊の一元化を唱えたのはダンテであった。"
菊池 @kikuchi_8 2月24日
@ayajet128 @wayofthewind なるほど、ダンテは世界政府主義者だったのですね。社会契約論は大東社の啓蒙主義者・革命家の重要な教義の一つですね。カントは「永遠平和のために」という著書で世界連邦みたいなアイデアを出しています。ヘーゲル弁証法は秘密力の得意技ですね。ほら愛と平和のシールズやサヨクの思想のルーツがこのカントの本だよ。
— ねこた (@lakudagoya) 2017年3月23日
この中高生向けのカントの本読みやすいなぁ。
カントの思想は今や世界中に広がってるよね?
でも世界連邦とかサヨクにしてもここまで遡って言う人少ないんでね? pic.twitter.com/hbfY5cJRU8
ねこた @lakudagoya
例えば、本来の意味のNWOを考えるならば(ストア学派による理想を追求するならば)結局的にはイスラーム主義に行き着くわけ。
少なくとも、中世の時点でその理想達成してる。
じゃ、今やってるNWOって何なの?と考えたら、あれは単なるカントなどの思想を悪用した悪政に過ぎないと。
確かにやつらの考えるNWOのさ、SF映画のような世界中の人を狭いところに閉じ込めて徹底的なカースト制度を引くというやつらの目標なんざ、ストア学派やカントの理想の欠片すらねーもん。
あれをNWOとか言ってビビってちゃダメなんだ。
あれは単なる悪政であって、理念無視だから。
カルトの教義にまみれてても、アニメやゲームは教養主義ってスタンスは捨ててはいけないみたいだなw
Fate GOは相当にイギリス系の思想のやつ出るね。
フランス系はやたらとカントが好き。
で、英米系メイソンはフリードリヒ大王などのドイツ系啓蒙主義が嫌いだという法則w
カントの本は少しだけ読んだけど、これストア学派のパクリではなくてオマージュ認定してもいいのでね?
ちゃんと消化してるからオマージュだよ。
二次創作としては完成度高い同人。
単なるコピペではないから。
で、今の世界連邦はみんなカントのコピペだね。陰謀の中核。
世界連邦だってストア学派やカントなどのコピペだしな。
カントの本借りてきたよ。
世界連邦にカントが抜けてたのは痛恨の極みであった。
驚くほど大本教がカントのコピペでワロス
神道カルトの思想の多くはカントが元ネタかよ。西欧かぶれの馬鹿はさっさと死んでほしいわ。
ーーー
応用例
カント哲学と事務のおばちゃんの哲学【20101004】
http://www.mkmogura.com/blog/2010/10/04/962
“たぶん、この話をそのまま哲学のレポートにしたら赤点を食らうだろう。
自分の頭と要素で組み立てられない文系教授には、理解できない話。
カントの自由とは何か?
まず、基本的にヒューム哲学、懐疑的経験論をカントは継承してる。
何度も言うが、「懐疑的経験論=大衆は馬鹿」である。
だから、理性(理念)として(社会構築に必要な要素)として、カントは「神・魂の不滅・自由」を提唱した。
まあ、形而上学的な「神」という概念で「大衆は馬鹿」→だから「大衆を騙そう=正しい規律へ誘導しよう」という話である。
この全体図が見えてれば以下のこと、全てが説明つく。
・人間は生まれながらに自由である(神を必要としてるのになんで?)
・自律(自由)と外律(不自由) 何で分けなきゃならないの?
・義務論という帰結。
カントの自由の定義を砕いて言うとどういうことか。
世の中に欲望がいっぱいある、欲望から切り離し、どんな他人も「手段=人間扱いしない」なんてことをしちゃダメだよ。
で、全部、自分で考えて(他人に影響されちゃダメだよ)
欲望という本能ではなく人間的理性(ここは道徳という意味が入る)で律した中、理性(社会構築の要素)に普遍的な道徳的法則を追いかける時にかぎって、人は自由である。
つまり、
自分だけで出した考えと方法で(自律)
他人を物扱いしない(道徳的)
そういう要素を組み立てると、「カントは自由なんてない」と言っているのだ。
今日も、おじいちゃん入れ歯が吹っ飛ぶほどの衝撃的な帰結だ。
人間は周囲に影響される=自律はない、
本能も捨てられない=絶滅か?、
普遍的な道徳的法則を追いかける=なんで、そんなめんどくさい事しなきゃならないの?=利己主義の原則。
どこに自律があって、自由があるのか。
なら、自由なんてないじゃないか?ってこと。
どこの哲学の教科書にも書いてないコトを教えてあげよう。
カントの自由とは、「人間は生まれながらにして、理性(社会構築の要素)に道徳的で普遍な法則を探さなきゃならない使命がある」ということ。
全体図を考えれば思想はわかる。
「他律=周りから影響される事、欲望」これらに左右される人は、ヒューム的懐疑的経験論の「大衆は馬鹿」の、馬鹿なわけよ。
つまり、馬鹿は「神とか不死」で操ってるから、「言う事をきいてなさい=不自由でなきゃダメ」という帰結。
人間はもとから理性に道徳的規律を持っていなきゃダメ。
=人間は生まれながらにして自由である。
※つまり、神で規定される戒律より、自由(理性を追う義務)が優先。
カントにとっての「神」は馬鹿を操るツールなんだから当然である。
そして「生まれながら自由である=義務を背負っている」は、カントの自由が、道徳的普遍な法則を探さなきゃならない使命という意味なら、「自由などない」というのは、当然の事である。
彼の自由は義務なのだ。
だから厳密に言えば、カントの思想に自由などない。
よってカントは「義務論という帰結につながった」わけね。
つまり、批判哲学。そこから義務という答え=生まれながら自由(義務という使命)があると答えを出した。自由と義務をカントはすり替えた。
だから神の規律よりも、自由が優先なわけ。
カントは懐疑的経験論から「大衆は馬鹿であること」を意識していた。
「外律=馬鹿な大衆=不自由」
「自律=(理性=自由という義務を背負う者)=欲望を捨てられる道徳的な者=そのものは自由(本来の自由の意味=制限がない行動)である」
・自由という権利を持たない馬鹿=神に騙されてろ!!
・自由の使命を知ってる者=理性(社会的構築の要素)に道徳的法則を探し求めろ。自由、何も束縛されずに追いかけろという意味もある。
だれかが社会に規律を持たさなきゃならない。
過去の哲学は、そういう現実に沿って存在してる。
哲学も「必要だから」生まれたわけであって。
文系の大学教授なんかは、そういう「実務」であることを忘れている。
言い換えるなら、もし「大学運営に必要な理性」という質問に答えられるのは実務を意識した者ばかりだろう。
つまり本当の意味で哲学を教わるなら、文型の教授よりも事務のおばちゃんにでも聞いたほうがいいだろう。その大学に、何が必要で、何が不必要か答えられる=よっぽど有能だ。
変な理屈こねたり、馬鹿なサイト見てる前に、「おまんまの分を稼ぎなさい」、これが哲学である(号泣)。
カントはあたりまえだが、神が形而上的なもの=何もしてくれないを知っている。あくまでも、それをどう使うか?である。それも実務の話だ。
だから、自由の使命を知ってる者を、ヒューム的な「馬鹿な大衆」と切り分けて、「規律を作る人」として、その人間だけは本来の自由に近い権利を与えるべき、そして、他の欲望に振り回される愚民どもには自由はないと提唱したわけ。
世界で一番干渉的な「神を必要」としたのに、自由には「自律が必要=他者に全く影響されない事」
最大の干渉の要素と、究極の不干渉を同時に求める。
カントのこの部分に、間違いはないわけである。
この二律背反ともいえるので構成されてるカントの思想は、彼が2枚舌であるわけでも、嘘つきでもなく「実務的に」、「どう必要だったか?」を考えれば簡単なことである。
それなのに文系の教授で、このことに答えられる人間はたぶん少ない・・・だからレポートにこんな事を書いたら、赤点を食らうわけだが。
今に当てはめてもわかる。
神はあくまでも馬鹿を騙すツールである。
これは、今も続く。キリスト教、スピリチュアル、地球温暖化詐欺、アイアンマウンテンレポート、全てに共通する話だ。
「大衆=外律」欲望や周りに振り回される者でしょ?
馬鹿を騙す仕掛け人、ビルダーバーグの上の人だけ「自由=なんでもよし」ということ。これもイルミナティが支持するヒューム、同じくカントの思想だ。
イルミナティ、ビルダーバーグと中央銀行の支配の上の人達がカントを否定した部分は、あくまでもキリスト教での神学を理念として継承してしまった部分だけである。
懐疑的経験論からの選民思想を知ってれば、誰でもカントの自由の意味がわかる。
カントのはまだマシなほうだけど。
カントの哲学の話では、選民思想=「規律を作る特別な人」に切り分けられた部分でない限り、カントの自由=義務と置き換えられる。”
知性には限界があると言ったカント
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_kant_intro.html
”形而上学とはどういう学問か。それは哲学の中で、神の存在とか、死後の世界とか、宇宙の始まりとか、非常に難しい問題を扱う分野である。古来、こ れらの問題に様々な天才たちが挑んできた。例えば古代ギリシャの有名なプラトンもこの問題に答えを出したと信じた一人である。
しかし、カントは、序論の中で、こうした天才哲学者たちのやり方を手厳しく批判している。それは簡単に言うと、彼らは理性には何が出来るか何が出来ない かをよく確認もせずに、理性を使って闇雲にこうした問題を解こうとした。だから、独りよがりの独断論ばかりにになってしまった、とカントは言うのである。
そして、カントは、理性にも知性にもそんなことをする能力はないと結論づける。これまでの哲学者は、何でも分析していけば、つまり、理屈をこねていれば、説明ができるという迷信に囚われていたのである。
実は、人間の能力は理屈だけではない。人間にはもう一つ、感性という重要な能力がある。人間は、この感性の直観というものを使って、新たな概念を見つけ 出してくる。そして、既成概念に新たな概念を付け加えるのである。そうやって、人間は知識の範囲を広げてきたのである。それを彼は総合と呼んだ。
ところが、プラトンは知性の拠り所が感性であることに気付かなかった。彼は、むしろ感性が知性を邪魔だてしていると考えて、感性の世界を捨て去って、イデアの世界に旅立っていった。しかし、感性という足場を失った知性はどこにも到達できるはずがなかったのだ。
しかし、そんな難しい問題でなくても、分析の力の限界を教える例はごく身近にある。数学の分野は一見すべてが分析によって出来ているように思われるが実 はそうではない。幾何学は明らかに感性の産物だが、ごく単純な足し算でさえも、分析によって答えを導き出すことはできないのだ。
カントは7+5=12という足し算を例にあげて説明してみせる。7+5の答えが12であることは、どう理屈をこね回しても出てこない。七と五の和という概念は、あくまで七と五の和でしかなく、そのなかに十二という数字は含まれてはいない。
分析するということは既存の概念のなかに含まれているものを引き出すことに他ならない。だから、含まれてはいないものを分析によって取り出すことはできないのだ。
では、十二という答えを人はどうやって手に入れるか。それは感性による直観によって手に入れる。
感性による直観とは何か。たとえば物の形を見てそれが丸いとか四角いとかを人は一瞬にして理解する。そこにはどんな推論も判断も理屈も入り込む余地がない。それが直観であって、足し算の答えも人は直観よって手に入れるのである。
…
人が日常何かの問題を抱えていて、それに答えを出さねばならない場合、大抵は、問題の中にすでに答えがあるものだ。だから、問題が何かを分析して明確化した段階で、答えが得られることがよくある。
しかし、問題の中に答えが隠れていない場合がある。足し算がこの例であって、そういう場合には分析だけではだめで、感性の助けを借りるしかないとカントは言うのである。
こうして、カントは感性の重要さを主張する。しかし、感性といえば人間が直接五感で体験したことだけを意味しそうだが、そうではない。経験に頼らない直観があるとカントはいう。
経験は多くのことを教えてくれるが、経験による知識には確実性がない。「だいたいそうなる」ということは経験によって分かっても、「必ずそうなる」ということは経験だけによっては分からないからである。
とくに経験に頼らずに答えを導き出す必要がある数学では「だいたいそうなる」という程度のことではだめなのだ。
しかし、ヒュームという哲学者は経験に頼らずに総合的判断を導き出すことはできないと言って、形而上学を否定してしまった。しかし、数学にはそれが出来ることを幾何学の存在がすでに証明している。
どうして形而上学には数学に出来ることが出来ないだろうか。そこでカントは形而上学でも数学と同じことができるかどうかを検証しようとしたのだ。(この『純粋理性批判』という本はそのことをやって見せた本であって、形而上学そのものではない)
カントは問題を一つの文章に要約している。それは「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能か」という問いである。
それを彼は個別の学問ごとに考えていく。つまり、「純粋数学はどのようにして可能か」「純粋な自然科学はどのようにして可能か」(ここで純粋とは「経験によらない」という意味である)
…
そして、数学と自然科学は可能だが、これまでの考え方では形而上学は不可能だと結論づける。つまり、神とか霊魂とかは、感性に基づく知性の働きでは解明できないのだ。
では、どうして数学には経験に頼らない総合的判断が出来てきたのかといえば、それは経験に頼らない直観がもともと人間の感性に備わっているからだと、カントはいう。それがカントが「感性論」の中で扱っている空間と時間である。
人には知性と感性がある。そして、情報を受け取るのが感性であり、感性が受け取ったものを処理するのが知性である。また、この感性によって受け取るものが現象である。そして、現象によって人間の世界は組み立てられる。
では、この現象というものを人間の感性は何を基準にして受け取るのか。その受け取り方をきめるものは何か。それが空間と時間だとカントはいうのである。 そして、人間が情報を受け取るために必要なものは、この二つだけで、この二つのものを人間は生まれながらにして持っているという。
逆に言えば、空間と時間はどこか別の所にあるものではなく、人間自身の中にあるものなのである。だから、例えば時計は時間を視覚化したものにすぎず、時計が時を作っているわけではない。
普通なら、時間とか空間とかいうものは、人間の外に人間とは独立してあるものだと考えるものだろう。しかし、そうではなくて時間と空間の原因は人間の側にあるというのがカントの新しさである。
そして、これがカントが自ら名付けた有名なコペルニクス的転回である。
「コペルニクスは、天体の運行を説明するのに、天体が観察者の周りを回っていると考えるとうまく行かないので、天体は動かないものと考えて観察者にその周りを回らせたらうまく行かないか試した」(第二版への序文より)
そして、「もし我々の直観が対象の特性に一致せねばならないとすると、どうすれば経験によらずに対象について何かを知ることができるか、私には分からな い。しかし、もし(感覚の対象としての)対象の方が我々の直観能力の特性に一致せねばならないとするなら、経験によらずに対象を認識できるかもしれないと わたしは思う」(同上)
対象の本当の姿を知りたければ、対象に直接出会うこと以外には対象を本当に知る方法はない。それには、どうしても経験が必要になる。しかし、自分が知り たいように知るだけなら、つまり、基準が最初から人間の側にあるなら、直接対象に出会う必要はなく、経験に頼る必要もなくなる。
その基準が数学の場合は空間と時間だというのである。そして、このように自分の側に基準を置いて知ったものは、どこまでも自分が見たいように見て、知りたいように知ったことに過ぎないのだ。
…
言い方を変えれば、人間が見ているものは、見たいように見ているだけのもので、単なる一つの現われ、すなわち現象にすぎない。対象の本当の姿つまり「物それ自体」は人間には見えないし、知ることは出来ないのである。
実際、空間と時間についての我々の日常的な考え方は、ユークリッド幾何学を含めて、地球や宇宙の規模になると途端に当てはまらなくなってしまう。これは誰でも知っていることである。
しかし、「神」という概念とこの「現象」という概念ほど激しく矛盾するものはない。何と言っても「神」はすべての原因でなければならない。ところが「現 象」の原因は人間にあるのだ。もし、「神」が人間の知ることが出来る「現象」なら、それはもはや「神」ではなくなってしまうだろう。
ごく簡単に言えば、こうしてカントは、「神のことは考えることはできても知ることはできない」と結論づけた。そこから彼は「神の存在を否定した哲学者」として、一般に知られるようになったのである。
そして、神の存在を合理的に証明することは出来ないということを示したこの本は、子供の頃から神の存在に疑いを抱いていた上記のモームにとっては大きな救いとなったというわけである。
この本が一読に値する本であることに間違いはない。
しかし、この本が読みにくい本であることは間違いない。カントは自分でも認めているようにかなりの悪文家である。同じことをくどくどと何度も何度も繰り 返して述べ立てる。こう言えばどうだ、ああ言えばどうだ、これでもか、これならどうだ、これでも分からないのか、もう分かるだろうといった調子である。そ うやっているうちに自分で何を言っているか分からなくなってしまっている所もあるという人もいるくらいである。
カントは哲学者だから、さぞ用語の選択にも厳密だろうと思うかもしれないが、そうではない(注)。言葉足らずの表現もたくさんあって、読者の方で文脈か ら内容を忖度(そんたく)して読んでやる必要がある。だから、これを直訳などしたら訳の分からないものになることは必定だ。
(注)例えば、Grundsatz と Prinzipは厳密に区別されていないようである。それは、「感性論」で空間の原理にはPrinzip、時間の原理にはGrundsatzが使われていることから も分 かる。これを従来のように区別して訳すと、空間については原理だけが、時間については原則だけが語られていることになってしまう。なお参考のために、原理 あるいは原則と訳した個所には、もとのドイツ語を()内に入れて示した。従来道理に訳した方が意味が通り易いかどうか、確認されたい。
カントは一度書いた文章を何度も書き直すのだが、分かりやすくするために挿入したところが、前後の文章とぴったり適合していなくて、よけいに分かりにくくなっているところもある。だから、コンマでつないだ長い文章は、挿入部分を無視して読む方が分かりやすかったりする。
第一版では「総合(Synthesis)」といっていたくせに、第二版で 書き換えた部分ではそれを「結合(Verbindung)」と言ったりもしている。こういうのはしょっちゅうで慣れるしかない。ところが硬い翻訳書になる と、いやそれはカントが意図してやったことに違いないと、別々の物を指してるかのように訳してしまう。だから、よけいに意味が分からなくなる。
同じ名詞に、中性形と女性形のものがあるのはドイツ語ではよくあるが、それを区別なく使ったりもする。また、ある名詞を中性形で使っておいて、それを女性形の代名詞で受けたりもする。
同じ事を同じ言葉で何度も表現しないという古代から続く美文の原則はカントにもあてはまるのである。
…
それでも、日本語で読みたい人は、河出書房新社から出ている高峯一愚の訳を試すとよい。これはかなり普通の日本語になっている。関係代名詞の処理もス ムーズに行っている。その次によいのが、天野貞祐の訳であろう。しかし、いずれも絶版になっているから図書館で借りるか古本屋で探すしかない。
いっぽう、岩波書店の新しい「カント全集」の中の「純粋理性批判」の訳は、原文のわかりにくさ曖昧さをそのまま日本語に反映した訳となっている。この本は、本文の校訂と注釈が詳しい。その面での利用に限るのが賢明だろう。
…
ところで、この本の中には純粋であるとか先天的であるとかいう言葉がしきりに繰り返して登場する。これは原文では、ラテン語でa priori(アプリオリ)と言い表されている。しかしこれは、先天的な才能などという言い方にでてくるのとは違って、「経験に依らずに」と言う意味で、極めて科学的な意味を持っている。
経験に依らないと言うことは、現代科学においても重要な考え方である。何かの研究をコンピュータを使って「経験に依らずに」数学的に行うというようなことは、日常茶飯事である。
この考え方を、哲学の分野に持ち込んだという意味で『純粋理性批判』は画期的な書物なのである。
注: この本の中に頻繁に登場する「Vorstellung(表象)」 「vorstellen(表象する)」という言葉は、心の中に思い描くことである。ただし、「表象」という言葉は一般には使われない意味不明の言葉なの で、わたしの訳の中では、「心の中にとらえる」「心の中にとらえたもの」という感じで訳されている。”
∸――
『純粋理性批判』
1781年(57歳) - 『純粋理性批判』第一版 1. Auflage der Kritik der reinen Vernunft
1787年 - 『純粋理性批判』第二版 2. Auflage der Kritik der reinen Vernunft
・カントいわく、神が存在すると考え、神について考えることは人間にとって有益であり慰めになる。
・カントは1766年にスウェーデンボルグが特別な霊能力を備えているという評判が高かったために、
霊の問題について『視霊者の夢』を発表。
カントは霊は非物質的な存在者だと指摘。
非物質的な存在者の概念は可能ではあるが、その可能性を理性的な根拠で証明できる希望もないと指摘。
この非物質的な存在者を根拠にすれば、どんな理論の体系でも恣意的に構築することができるだろう。
この時点でのカントの結論は、おそらくあらゆる種類のことを「億見」(いいかげんな推測)することはできるであろうがしかし、決してもっと多くのことを「知る」ことはできないというものである。
というのも現実に与えられている確実な説明根拠を持たない当て推量の体系にすぎす、「仮説」と呼ばれることはできないからである。
不可侵入性という性質を持たずに空間の中に存在するオカルト的な魂のような実体の種類が存在すると考えることは、臆見を逞しくすることにすぎない。非物質的原理をよりどころとするのは怠惰な哲学の避難所に逃げ込むことだとした。
(そもそも霊界や霊は理性で扱えないのでカント哲学で扱えるわけがないのです。カテゴリーが適用できるかすら怪しい)
・カントは、不死の霊魂をこの世の現象を説明する根拠に使うことができないとする。
神の存在に基づいて世界に特別な組織や秩序が存在すると推論することができない。
人間の知識がまったく及ばない(知識を得られない)ものから、
経験によって学ぶことができる(知識を得られる)はずのものを説明しようとすることだからである。
霊魂の不死・神の現実存在、そして自由意志という三つの理念は思索を営む理性によっては常に超越的なものであって、
自然の研究など経験の領域において私たちに役立つ目的で利用できないとする。
(経験論を根拠とする科学では自由意志も霊魂も神も扱えないってことです。
カントは量子力学に対しては何と言うのかな。
最先端科学=オカルト=隠されたもの=秘術。
秘術の独占者=支配者)
・カントのいう道徳的な世界=叡智的な世界。
叡智的な世界
=ずべての人が道徳的にふるまいかつ、道徳的にふるまう人すべてが幸福になれる(道徳的であることが報われる)世界
=幸福であるに値する存在であろうとすることが報われて、実際に幸福になることができる世界
=最高善の理想。
実現のためには来世(=叡智界)と賢明な創造主たる神が必要。
道徳的な掟に約束と威嚇が伴っていないといけない。
道徳的掟に従う者には来世における幸福を約束し、
道徳的掟に背く者には罰をもって威嚇することが必要。
神と来世が存在しないなら、道徳性のすばらしい理念は賛同されても、実行する原動力にならない。
本能のほうは感性界、
理性は叡智界。
人間は両方の世界にまたがって存在している。
・カントの用語として通例となっている多くの訳語を採用せず、ごく一般的な用語に変えている。
悟性→知性
表象→心で思い描いた像・観念
統覚→自己統合の意識
他の訳書やカント研究書を読む際に支障がでないように最初のうちは
知性〔=悟性〕
(心で思い描いた)像〔=表象〕
自己統合の意識〔=統覚〕
のように伝統的な訳語がわかるようにした。
伝統的な定訳を使わなかったのは、例えば表象という語はさまざまな意味を持っていて、カントが考えていたことにそぐわない意味あいも帯びているからである。
決まった訳語は安心なのだが、それを自動的に採用していると思考がすべりがちになるものだ。
(専門用語使っている癖にその意味があまり判っていないひとっていますよねー。
まずは内容を理解できることが重要。
この定訳という名の専門用語が哲学への参入障壁になっているのです。
原文を生かすにこだわりすぎたためか、日本語として意味不明なことが多いです。
研究者は原文読むにきまっているのだから翻訳頼みの一般人向けのわかりやすいものがもっと欲しいですね。
原文の訳語が専門用語でもなんでもないのに勝手に単独で見ると意味不明な専門用語に改悪されているの例は非常に多いのですが、カントはマシで、ハイデガーが一番酷いと考えております。
ハイデガーは人間を「現存在」と呼んだのですが、現存在はドイツ語でダーザインであり、「そこに」〔ダー〕「ある」〔ザイン〕という意味。
「そこにある人」という非常にわかりやすいのが原文なのに、日本語訳では「現存在」。
「そこ」がどうなったら「現」になるのやら。他にもいろいろありますがこれだけにとどめておきます。)
・神が存在しないのであれば、どうしても作らずにはいられないのが人間というものだ。
ただし理性がこの理想を構築するために依拠しているのは、
「この理想にふさわしい存在者が現存することではなく、こうした存在者の理念が存在する」ことだけである。
しかしこの理念を実在化し、「人格化」するのは一つの「虚構」であることを忘れてはならない。
カントは、神というものが超越論的な理念を理想としたものであり、それを単一で全能の存在者として実体化し、人格化することは、理性の欺瞞、いかにも自然な欺瞞であるが、錯誤であるとする。
・理性は世界の統一を求め、絶対者の存在を請い求める。その理性が絶対者の存在を請い求めることは避けられないことであり、形而上学という学問の高貴さをもたらすものであり、実践的にもきわめて望ましいことだとカントは考える。この最高の存在者は「世界の外」に想定することができるだけであり、世界のうちにはこのような理想が存在する場所はない。
・カントの道徳神学では神の存在を証明するのではなく、「要請」することが特徴。
神が存在すると証明するのは「理論的な認識」であるが。
神が存在「すべき」だと要請するのは「実践的な認識」。
この要請は、神が存在するかどうかにかかわらず、存在することが「絶対に必然的なもの」として定められている。存在するかどうかは偶然的条件に左右されるが、存在すべきであると要請されることは必然的なものとして求められている。
(神という理想が存在することが要請される=必要とされる=存在すべきと「思いこめ」ってことですね。実在は証明できないのだから思いこむ=信仰するしかない)
・Seele…心+魂
Vorstellung…像(観念の意味が強い時は、「像・観念」)
Maxime…主観的な原理(格率)
純粋理性概念=イデー(理念)。
カントはイデー(理念)をプラトンのイデア(到達することのできない叡智的な世界に存在するもの)と同じような意味で考える。
カントのイデー(理念)は極大なものについての概念であり、絶対に到達できないものであり、具象的に考えることができないものに関わる。
具体例として、カントは、形而上学の探究の目的とする神・自由・(霊魂の)不死の三つのイデー(理念)を列挙している。
・カントは伝統的な真理に対する考え「真理とは認識と対象の一致」であるという主張を一応は容認する。
が、ほんとうの意味で一致しているかどうかを証明する道は原理的に閉ざされている。
・カントが何かを現実かどうかを確認するための規則は
「経験的な法則にしたがって、知覚と結びついているものは、現実的なものであるとみなす」というものである。
つまり認識の経験的な法則にしたがっている認識は、夢や空想ではなく、人間の真なる認識だということになる。
真理は、認識と対象の一致ではなく、人間の認識における外的な対象の像が、人間の経験の全体において、いかに経験的な法則に反することなく、経験の全体との整合性を維持できるかに求められることになる。
認識した像がどこまで経験的な規則にしたがっていて矛盾なく共存できるかが真理かどうかの判断基準。
認識と対象の一致という認識論的な真理ではなく、
認識における真の「可能性の条件に基づいた」真理であるという意味では「超越論的な」真理と呼べるだろう。
(これだと形而上的なものはすべて夢か真理か区別がつかないってことになりますね。
経験が判断基準なのだから。現実的ともいえますし経験論の限界、どこまでわかるか/わからないかをより厳密に明らかにしたと言えます)
(経験論の最大の問題は、人間が不死ではないことだと思う。
不死なら無限に経験が蓄積されていくから。
保守思想は、人間は死ぬけど、人間でないものなら人間よりも長生き(=伝統というシステム)だからより良いものになっていると考える思想。
守り保つべき伝統を擬人化して、
いわば「長老」=最も経験が蓄積されて最も改善されたものと見る思想。
聖書の神を否定する仏教徒言う真の伝統ではなく、
明治以降のでっちあげ伝統の神道・現人神を崇めるキリスト教くさい日本の右翼は保守ではないよ。
右翼ってワーワー煩いイメージがあるけど、
ワーワー言う時点で日本の真の伝統であるあまり言葉を重視しない、
言わずに伝えるという文化を保守していませんな。
右翼も左翼も胴体が同じだから保守しているのは支配層の利権だけです。
あれ、そうなると私は保守になるのかな?
現状にあわせた改善はちゃんと認めますよ私は。
保守と革新という区別自体が分割支配の為の罠。
中道、バランスをとることが大事)
(カントの道徳に対して思うのは、道徳って宗教みたいなものじゃん。
「そうすべきだからそうしろ」って要は戒律。
道徳には「この道徳が絶対に正しいという」理由づけが根本的には不可能なので、
畏敬の念、尊重(或る種の信仰や理想)が必要だと主張するのがカント。)
“空間と時間はアプリオリな〈像・観念〉であって、わたしたちの感覚的な直観の形式としてわたしたちに内在するものであるが、それは現実の対象がわたしたちの感覚能力を、感覚によって規定する前からすでに存在していて、その対象を感覚的な関係において描きだすのである。ところが物質的なもの、実在的なもの、すなわち空間のうちで直観されるべき〈何かあるもの〉は、必然的に知覚を前提する。そのため空間の中にこの〈何かあるもの〉の現実性を示すこの知覚から独立して、想像力によって〔勝手に〕創りだされるものではないし、産出されるものでもないのである。”p.202『純粋理性批判』中山元訳、第四巻、光文社古典新訳文庫
“「空間のうちに存在するものは、わたしたちが空間のうちに思い描いたものだけである」という命題は逆説的ではあるが正しいのであり、注意する必要がある。空間そのものが〈像・観念〉という性格をもっているのだから、空間のうちに存在するものは、〈像・観念〉のうちに含まれていなければならない。ということは、空間のうちに存在しうるのは、空間のうちで現実に思い描かれたものだけだということである。「あるものがその思い描かれた〈像・観念〉の中にしか現実存在しえない」という命題は奇妙な感じを呼び起こすに違いないが、わたしたちが問題とする事物は物自体ではなく、現象、すなわち〈像・観念〉にすぎないことを考えれば、これは奇妙ではなくなるのである。”p.204
同書、第四巻
(カント『純粋理性批判』を超コンパクトに要約する
https://www.philosophyguides.org/compact/kant-kritik-reinen-vernunft-super-compact-summary/#%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%81%8C%E6%A7%8B%E6%88%90%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF
”
感性:外部データを採取する能力
悟性:感性によって得られたデータを結合して、概念化する能力
理性:完全性(完全なもの)を構想する能力
もっと詳しく見ると、以下のような感じだ。
統覚 …… 感性 → 構想力(先験的図式:時間規定) → 悟性(カテゴリー) → 認識
純粋直観が多様なものを与える
構想力がそれらを綜合する
純粋悟性概念(カテゴリー)がこうした純粋綜合を統一する
→ 対象を認識する
という流れ。
統覚は「私は…について考える」という意識のこと。感性と違って自発的な作用。統覚があるので認識が成り立つ。
感性について
感性は空間と時間によって規定されている。外部の対象は空間のもとで、内部の対象(心)は時間のもとで直観される。
空間は物自体(対象自体)の性質ではなく、私たちに対して現れる現象を可能とする条件。なので「『空間は、我々に外的に現れる限りの一切のものを含む』、と言うことはできるが、しかし『一切の物自体を含む』、と言うことはできない」。
ここでいくつか注を置いておきたい。
認識構造であれば完全に認識できる
物自体が認識できないといっても、私たちの認識が空想だとか想像にすぎないと言いたいわけではない
私たちの認識は第一に感性というフィルターによって規定されているので、物自体が何であるかを知ることはできない。しかし私たちの認識構造については、感性のもとで完全に認識することができる。
…
悟性は感性から与えられる表象をひとつの認識へギュッとまとめ上げる(=総合する)能力のことだ。
感性が受動的な感覚能力であるのに対して、悟性は自発的な判断能力。判断能力は、分量、性質、関係、様態の4つに応じて、それぞれ3つずつ、計12個ある。
悟性は「構想力」の助けを借りて総合を行うが、総合だけでは足りない。純粋悟性概念(カテゴリー)によって総合を統一することによって、初めて対象を認識することができる。
カテゴリーも判断の4つの形式に応じて、それぞれ3つずつ、計12個ある。
…
感性から与えられる対象を悟性が総合することで認識が可能となる。しかし、感性と悟性はもともと別の能力なので、悟性が感性からデータを得ずに、好き勝手に振る舞ってしまうことがある。これによって生じるものを、ここでは先験的仮象と呼んでみたい。先験的と付けたのは、この仮象が避けがたいものだから。
理性について
これまでの流れを踏まえてまとめると、
感性:感覚能力
悟性:判断の能力
理性:原理の能力
理性は概念によって、原理に基づき普遍的に認識する能力のこと。たとえば三段論法は理性によるもの。
理性は推論によって全体をつかもうとする。その際の枠組みが「理念」と呼ばれるもの。
理念
理念は3つある。
「私」の絶対的統一
考える私
世界の絶対的統一
現象の総体
「絶対的存在者=神」の絶対的統一
一切を可能にする第一条件
ここで注意しておくべきは、理念は実在するものではないということだ。それらが実在すると見なすことにより、以下の3つの先験的仮象がそれぞれの理念に応じて生じてくる。
先験的誤謬推理
アンチノミー
純粋理性の理想
先験的誤謬推理
「規定される自己」が対象。自己自体は知りえない。なので直観そのものが実在するという推論は成立しない。
アンチノミー
アンチノミーは4つある。時間・空間的限界があるかないか、最小単位があるかないか、世界に自由があるかないか、世界に神(絶対者)がいるかいないか。これらについては、私たちの認識構造上、どちらが正しいかを決定することができない。この争いは非本質的な議論と考えるのがおそらく妥当だ。
アンチノミーのポイントを整理すると、大体次のような感じ。
第1アンチノミー
世界に時間・空間的限界はある
ないとすれば、「無限の全体」があることになる。これは考えられないから
世界に時間・空間的限界はない
あるとすれば、「無」によって限界づけられることになる。これはナンセンスだから
第2アンチノミー
世界に最小単位はある
世界は合成物なので、その基がなければならないから
世界に最小単位はない
最小単位のうちにも多様なものが含まれているから(原子の右側とか左側というように)
第3アンチノミー
世界に自由はある
完全に自発的な原因が想定されなければならないので
世界に自由はない(あるのは自然法則だけ)
力学的に見て、何らかの作用が始まるためには、それ以前の状態が前提となるから
第4アンチノミー
神はいる
変化の系列は無条件者(神)に至る完全な系列を前提しているから
神はいない
いるとすれば、系列のうちに原因をもたない始まりがあることになってしまうから
純粋理性の理想
純粋理性の理想は、世界の完全な理想状態のことを指す。理想は実在しない。現実は理想から遠く離れている。しかし理想は、私たちがそこへと目がけて行為するように促す力(=統整的原理)をもっている。それは道徳的な行為の規準であり、それに従って私たちは自分の行為を整え、自分を高めることができる。
理想に関しては、他にも先験的理想がある。これは世界の存在の究極根拠に関する理想のことだ。世界全体の根拠には、根源的存在者(神)の概念がある。
「神が実在する」と言うと誤りだが
注意してほしいが、神が実在するというと誤りだ。神の存在はあくまで理性の推論にすぎない。ただし、推論とはいえ、それは道徳的な側面で意味をもつ。神の存在を想定することは確かに可能だし、理性にはそうする権利がある。むしろ、道徳法則が拘束力をもつためにこそ、神の存在が要請postulierenされなければならないのだ。”
カント - Ne
http://www.ne.jp/asahi/village/good/kant.html
”1)カントの言うことを理解するためには、まず、感性と悟性と理性という三つの能力を区別する必要がある。
「感性」は「直観」の能力であり、時間と空間という形式を持つ。
(「直観」とは、カントの場合、見たり、聞いたりする感性的(=感覚的)な直接知を意味する。)我々が何かを見たり聞いたりする際には常に、その条件として、時間と空間という形式が先行しているはずである。我々は物(あるいは何かのイメージ)を空間(および時間)なしに考えることは出来ないのだから。
「悟性」と訳される「フェアシュタント(Verstand)」というドイツ語は、「解る」「理解する」という意味の動詞(verstehen)から来ていて、「理解する力」「常識」(英訳は、"understanding")を意味する。その純粋な形式が、カントが「カテゴリー」と呼ぶ、判断の論理的形式である。(これには、肯定や否定という判断の「質」、存在や全称という判断の「量」、実体や因果性という判断の「関係」、必然や可能という判断の「様相」がある。)
これに対して、ここで問題になっている「理性」は、より高次の、悟性の判断を総合的に関係づける、推理の能力である。例えば、「人間は死ぬ」という命題は、「生物」という媒概念を介して、「人間は生物である」「生物は死ぬ」という二つの判断を総合したものである。(カントの場合、推理といえば、殆んど三段論法を指す。ところで、カントは、当然知りませんでしたが、「膨張宇宙」とか「ビッグバン」とかいった理論を生み出すのは、悟性の判断(経験的データ)を総合する理性の働きだと思うのですが、カントに詳しい人、どうでしょうか?)
…
1)神の存在証明
1存在論的証明
アンセルムスの証明(『プロスロギオン』)
「愚かな者は心のうちで神はないと言った」(詩篇)
しかし、<それより大いなるものは何も考えられないもの>と言われれば、彼もこれを知解するであろう。それが存在することを彼が知解しないとしても、彼の知性の中には存在している。
ところで、<それより大いなるものは何も考えられないもの>が、知性のうちにしか存在しないと考えることは、不可能である。
なぜなら、知性のうちにだけ存在するとすれば、それはまた事象のうちにも存在すると考えられるからだ。その方がより大いなるものなのだから。
2形而上学的証明
2a) 自然神学的証明(目的論的証明)
アリストテレスによる証明
この世界には、秩序や目的がある。これを造ったものが世界創造者である神に他ならない。
2b) 宇宙論的証明
世界の偶然性による証明(ライプニッツ)
もし何か或るものが実在するならば、絶対的に必然的な存在者もまた実在しなければならない。ところが、少なくとも私自身は実在する。ゆえに絶対的な存在者もまた実在する。
アリストテレスおよびトマス=アクィナスによる証明
この世界の中で何かが動いているということは、確実な事実である。
動いているものはすべて、他者によって動かされている。(注)
動かされているものは、最終的には、自らは動かず他を動かすもの(不動の動者)すなわち神によって動かされている。
(注)「動く」というのは、通常我々が理解する、場所の移動ではなく、むしろ、一粒の種が木や花や実になるような、生成変化の動き(可能態から現実態への運動)を意味する。従って、神は全ての「運動」の目的(=原因)でもある。
カントの批判(注)
1 「絶対的に必然的な存在者」という概念は、「三角形は三つの角を持つ」という判断の持つ必然性とは、性格が違う。わたしが心の中で百万円のことを考えても、それがわたしの財布の中にあるとは限らない。
<ある>は、実在性を示す(=real な)述語ではない。(注)
(注)ハイデガーの項を参照。
2 面倒なので省略
(注) カントがここで主張しているのは、神は存在しないということではなく、神の存在を証明するのは不可能だということである。(これは逆に言えば、神が存在しないことを証明するのも不可能だ、ということだ。)カントは、後に、『実践理性批判』のなかで、実践の立場から、神の存在を要請し、さらに『判断力批判』のなかで、自然の合目的性について、肯定的に論じている。つまり、学問的には神の存在を証明することは不可能だが、もし神が存在しなければ、我々の正しい行動も、秩序正しい認識も根拠を失う、だから神は存在するはずだ、という立場を取っている。(これは、ウィトゲンシュタインの有名な、「語りうることは明晰に語りうる。語りえないものについては、沈黙しなければならない。」という命題と、非常によく似ている、と言うか、同じだ。)”)
“わたしたちはこの理念に〔人間に似た姿をもつ神という〕神人同型説的な考え方を適用することに遠慮すべきではないし、それで咎められる理由もない。”
p.237『純粋理性批判』中山元訳、第六巻、光文社古典新訳文庫
(カントの神は要請される理想なので人格は必要ない。が人格化はOK)
・カントは全能な唯一なる人格神の存在を想定する必要があると考えている。
“818 世界創造者の存在についての問い
しかしまだ問いをつづけたいと考える人がいるかもしれない。たとえば「それでもこのような方法で、唯一で、賢明で、全能の世界創造者というものを、想定することが『できる』のだろうか」と。それにたいする答えは、「『もちろんできる』。それだけでなくわたしたちは、世界創造者を前提し『なければならない』」というものである。“
p.238『純粋理性批判』中山元訳、第六巻、光文社古典新訳文庫
“678 虚構の実体化
しかし超越論的な理念をこのような〔神学の対象とするという〕方法で使用することは、その規定と許容範囲の限界を逸脱するものであろう。理性は理念を、すべての実在性の『概念』として、物一般のあまねき規定の根底に置くだけであって、こうした実在性のすべてが客観的に与えられることを求めるものではなく、それがみずから一つの〈物〉となることを求めることもない。このような〈物〉はわたしたちが考えだした虚構にすぎないのであって、わたしたちはこの虚構によって、この理念の多様な内容を、ある特別な存在者として、一つの理想にまでまとめるのであり、これが現実に存在するものであるかのように考えるのである。しかしわたしたちにはそのような〔虚構を実体と考える〕実体化を行う権限はないのであり、このような仮定が可能であることを認める権限すらない。そもそも物一般をあまねく規定するためには、ただ理念が必要だっただけであり、理想から生まれたすべての帰結は、物一般のあまねき規定という理念とはまったくかかわりがないのであり、これにいかなる影響も与えないのである。“
p.39-40『純粋理性批判』中山元訳、第六巻、光文社古典新訳文庫
“681n 理想の実在化、実体化、人格化のプロセス
(注)最高度に実在的な存在者というこの理想は、たんにわたしたちが自分の心のうちに思い描いたものにすぎないのに、最初に『実在化され』、すなわち客観的なものとされ、次に『実体化され』、最後に理性が統一を完全なものとしようとする自然な進みゆきのうちで、『人格化される』のである(これについてはこれから説明することになる)。というのは、経験の統制的な統一が行われるのは、現象そのものによるのではなく(すなわち感性だけに依拠するものではなく)、『知性』によって、さまざまな現象の多様なものが、自己統合の意識において結びつけられることによるものだからである。こうしてある最高の知性のうちに、すなわち『叡智的な主体』のうちに、最高度の実在性の統一が、そしてすべての物をあまねく規定できる可能性が、そしてその可能性そのものがそなわっているかのようにみえるのである。“
p.44『純粋理性批判』中山元訳、第六巻、光文社古典新訳文庫
“ 人間の感覚能力がわたしたちに示すのは現象の世界だけであるが、わたしたちは理性によって必然的に、自分たちがこのような道徳的な世界に属するものであると考えざるをえない。感性界は、このような結びつきを示すものではないので、わたしたちは感性界におけるみずからのふるまいの帰結として、この道徳的な世界はわたしたちの来世であると想定しなければならない。だから神〔の存在〕と来世〔の存在〕は、純粋理性の原理からしても、純粋理性がわたしたちに課す義務から分離しえない二つの前提なのである。
944 神の命令
道徳はそれ自体で一つの体系を形成するものである。しかし幸福がこのような体系を構成するとすれば、それは幸福が道徳性と厳密に対応している場合にかぎられる。しかしこれが可能であるのは叡智的な世界においてだけのことであり、ただ一人の賢明な創造主であり支配者である者のもとでのみである。理性はこのような者〔ただ一人の賢明な創造主であり支配者である者〕が存在すること、そしてこのような〔叡智的な〕世界が存在することを(わたしたちはこれを来世と考えねばならない)、想定する必要があるのであり、それでなければ道徳的な法則は空虚な幻影とみなさねばならない。この理性は、道徳的な法則のもたらす帰結を道徳的な法則と結びつけて考えるのであり、この想定が成立しないのであれば、この帰結もまた失われざるをえないのである。
だからこそ、すべての人は道徳的な法則を『命じられた掟』とみなすのである。しかし道徳的な法則がそのような掟でありうるためには、道徳的な法則が、アプリオリに適合する帰結とみずからの規則を結びつけること、そしてその法則に『約束と威嚇』が伴っていることが必要である。しかしこの道徳的な法則が、最高善としての必然的な存在者の定めたものでなければ、約束や威嚇を伴うことはできないだろう。このような目的に適った統一を実現することができるのは、必然的な存在者だけなのである。” p.186-188『純粋理性批判』中山元訳、第七巻、光文社古典新訳文庫
※『』は原文の傍点の代役。
(いち @ichi41303431 3月7日
宗教…「希望」と「恐怖」を両親とし、「無知」に対して「不可知なもの」の本質を説明する娘。―― ビアス 「悪魔の辞典」
宗教=希望(来世。約束)と恐怖(威嚇)で、感覚できない(あるか知覚できない)世界があると信じさせる嘘。
あれ、嘘はたとえ殺人鬼相手でも駄目なんじゃないの?
宗教という大嘘はいいの?
道徳的に法則に従わせることはその人の幸福=善に繋がるから、利益を考慮するれば大嘘をつくべき?
殺人鬼から逃げてきた人が殺人鬼に奪われるであろう命の方が、嘘をつくことよりも軽いって言った癖に?
絶対的存在を頂点とする宗教≒キリスト教は嘘をついてもいいくらいに重要なんですね?
それって仮言命法=外圧で動くべしってことじゃん。
というか内なる道徳律で動けってんなら、宗教は捨てないといけないじゃん。
カントって『永遠平和のために』で国連の原案を出しているんだけど、結局、国連の宗教は絶対者が頂点の宗教≒キリスト教にしろってこと?
カント自身は人格なしの絶対者を考えたけど、人格ありもOKだからね。
しかも、カントは国連は次善の策で、最善は世界共和国。というかこれワンワールドだよね。ワンワールド宗教もキリスト教あるいはそれを理性的に改造したやつにするの?
政経たん(公民 政経) @Seikeitan
カ ントといえば「定言命法」「仮言命法」という言葉があるのだけど・・これは、定言命法は「○○せよ。」という何も条件がない命題のことで、
仮言命法は 「××になりたければ、○○せよ。」という命題のこと。
簡単にいえば、やましい気持ちでいいことをしてはならない、ということと思っていいわ。
絶☆倫bot @zeturin_star 7 時間7 時間前
~カントの「仮言命法」と「定言命法」の違い~
-「仮言命法」の場合- 「もし彼女が好いてくれるのなら、俺は紳士になる」
-「定言命法」の場合- 「やっぱあれだしょー、無条件に心に生じてくるっしょー、紳士になれって。ってかやばいわー、俺マジ紳士だわー」
ーー
結局、内なる道徳律で動く人なんてほとんどいないって認めております。
来世で天国に行けて幸せになれる=キリスト教の掟を守ることが報われる。
創造主は教義を守る者には幸せを約束し、
破る者には罰として地獄に落とすと威嚇する。
来世で叡智界に行けて幸せになれる=道徳的な掟を守ることが報われる。
飴=来世での幸せと鞭=威嚇でコントロール。
外的要因で動かすってこと。
あれ、内なる道徳律に従うんじゃなかったの?
結局は、理性で欲望を抑えられないヤツにはキリスト教で道徳を守らせろ!
というのが実務面での現実的処置ってこと。
大衆=欲望を抑えられない=バカ
って結論にならざるをえないよなあ。
支配層に都合のよいカント哲学だなあ。
有名な哲学者って支配層に都合が良い要素が多過ぎるんですけど。
特にプラトンとアリストテレス。
優生思想、不正くじ、奴隷肯定、肉体労働軽視、
理性と知性崇拝=馬鹿は人間ではない、動物蔑視が西洋思想の根本にあるのはこいつらのせい。
哲学のせいでもとから凶悪だったキリスト教が更に凶悪になって神学となりました。
鬼に金棒どころか、悪鬼に丑寅の金神棒だな。悪鬼=丑寅の金神だから意味不明だな。金神七殺。
かな @a_pie25 2013年11月5日
こん-じん【金神】:陰陽道(おんようどう)でまつる方位の神。その神の方角に対して土木を起こし、出行・移転・嫁取りなどをするのをきびしく忌む。これを犯せば金神七殺といって、家族七人が殺されるという。『広辞苑』
)
カント「純粋理性批判」第二版のまえがき
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/pure-critique-preface2.html
“ 「空間と時間は感性による直観の形式にすぎない。つまり、空間と時間は対象となるものが現象として存在するための条件にすぎない。さらに、我々が持って いる様々なカテゴリー、つまり対象の認識に必要な要素には、必ずそれらに対応する直観が存在する。したがって、我々は何であれ『感性による直観の対象』つ まり『現象』として認識できるだけであって、対象を物それ自体として認識することはできない」これらは全て「批判」の「分析論」の部分で証明されている。
したがって、理論理性によって認識できるのは経験の対象だけに限られているということになる。しかし、ここで忘れてはならないのは、我々は対象を物それ 自体として認識できないけれども、物それ自体としての対象を考えることはできるということである(原注)。さもなければ、「現象として現れる本体となるも のが無いのに現象が存在する」という不合理なことになってしまうだろう。
原注 対象を認識するには、対象が存在する可能性を証明できなければならない。それが現実に存在することを経験するか、経験によらずに理性の力で証明するかのいずれかが必要である。
それに対して、我々は自分が自己矛盾に陥らない限り、つまり、その概念を心の中に描けさえすれば、自分の好きなものの存在を考えることは出来る。自分が考えたものに対応するものが現実に存在するかどうかは、その可能性さえも一切気にする必要はない。
しかし、もしその概念に客観的な有効性を与えたければ、我々が自己矛盾に陥らないというだけでは足りない。それだけでは、論理的可能性は得られても、現 実的な可能性は得られないからである。しかしながら、これを補うものは、理論的な認識の源泉に求める必要はない。それは実践的な認識の源泉に求めることも できるからである。
(…)
さて、わたしは自分の精神を物それ自体の観点から見た場合には、経験を通じた観察によってであろうと理論理性によってであろうと、それを認識できない。 したがって、わたしは、経験の世界の出来事の究極の原因と見なされるような絶対的存在の特性としての自由を認識することはできない。なぜなら、そもそも時 間の制約のもとになく独立して存在するそのような存在をわたしは認識できないからである。というのは、そのようなものを認識するにも、そのようなものは直 観できないために概念として把握できないからである。
しかしながら、わたしは自由を考えることはできる。つまり、自由を思い浮かべることはそれ自体何の矛盾も含んでいないのである。ただしそのためには、我 々が「批判」で述べる二つの把握方法、つまり感性による把握(現象の把握)と知性による把握(物それ自体の把握)をしっかり区別して、純粋なカテゴリーも そこから導かれる諸々の原則(Grundsätze)も感性の対象にしか適用できないことを忘れてはならない。
ところで、道徳は、我々の意志の特徴として、(厳密な意味での)意志の自由の存在を前提としていると仮定してみよう、つまり、自由を前提としなければ不 可能であるような実践的な原則(Grundsätze)が先天的に理性の中に存在すると仮定するのである。しかし、それなのに、もし自由を考えることはで きないと理論理性によってすでに証明されているとするなら矛盾が発生する。つまり、この仮定はくずれて、道徳は自由意志を前提にできなくなる。
すると、自由と、それと同時に 道徳(自由の前提条件がくずれた以上、道徳を否定しても矛盾には陥らないから)は、因果の連鎖という自然のメカニズムの支配を認めて退場することになるだろう。
しかし、実際には、道徳が成立するためには、自由は認識される必要はない。自由が自己矛盾に陥ることなく、思考の対象となりうるだけでよいのである。自由意志に基ずく行為は、別の観点から見ると因果の連鎖という自然のメカニズムに従うだけのことである。
こうして、道徳の教えと自然に関する学問は両立するのである。ただしそのためには、物それ自体を我々は知ることはできないということ、我々が理論的に知ることができるのは物の現象だけであるということを「批判」を通じて学んでおく必要がある。
純粋理性に対する「批判」の原則(Grundsätze)が積極的な価値を持つことをここまで説明してきたが、それは霊魂の単一性の議論や神の概念についても当てはまる。ここではそれらについての議論はスペースの都合で省略する。
要するに、わたしが純粋理性を実践的に使用するために「神」と「意志の自由」と「霊魂の不滅」を想定できるのは、理論理性から分不相応な認識能力を取り去った場合だけなのである。
なぜなら、理論理性が経験を越えたものを認識するには、実際には経験の対象にしか適用できない原則(Grundsätze)を使わざるを得ないが、この 原則はもし経験の対象となり得ないものに適用されると、それを経験の対象つまり現象(超常現象)に変えてしまうのが常だからである。そして、純粋理性を実 践的に使用することを不可能にしてしまうのである。
そこで、わたしは信仰の余地を残すためには認識を否定しなければならなかった。実際には、純粋理性の限界を見極めることなしに形而上学を研究することが 可能だという独断的(独善的)傾向こそが、道徳を否定する一切の不信仰の真の原因である。そして、この不信仰は常に非常に独断的(独善的)なものである。
(…)
わたしは頑固な独断論者たちに一度聞いてみたいと思っている。霊魂は死後も存在し続けることを霊魂の単一性から証明したと言い、自然のメカニズムに対す る意志の自由の可能性を、主観的必然と客観的実際的必然という無意味でややこしい区別を設ければ証明できると言い、神の存在は最も実在的なものの概念(変 化するものは偶然存在するものであるが、動きの始まりをなすものは必然の存在であるという考え方)から推測できると言われているが、そのような主張が学者 たちのもとを離れて、大衆の心に到達して、少しでも彼らの考えに影響したことがあるだろうかと。
そのようなことは一度も起こったことはないし、起こるはずがないのである。なぜなら、彼らの主張は大衆が理解するにはあまりにもややこしすぎるからである。
例えば、一番目について言うなら、限りある人生に満足できない(例えば自分の全才能を開花するには人生は短すぎる)という誰にでも共通して見られる自然な傾向のために、人々はあの世を思い描くのであり、
二番目について言うなら、自分の好き嫌いを抑えて実行しなければならない義務があるということを明確に意識するとき、人々は自由というものを意識するようになるのであり、
三番目について言うなら、自然の至るところに現れているすばらしい美と摂理を見るとき、人々はこの世界の偉大な創始者の存在を信じるようになるのである。
このように合理的な考え方に基ずくものだけが、大衆のあいだに影響力を持つのであって、このような考え方はこれからも決して失われることはないし、それどころか、ますます大きな信頼を得ることだろう。
なぜなら、これからの学者は、人類全体に関わる問題に関して、もはや大衆(最も尊重すべき存在である)が容易に到達できるレベルよりも高尚でややこしい 議論で相手を煙に巻くべきではなく、誰にでも理解し安く、道徳的な観点から見てもふさわしい根拠を研究すべきであることを、この「批判」を通じて学ぶから である。
つまり、純粋理性の領域の変化によって影響をこうむるのは、人類全体に関わる真理を自分たちだけが発見して管理していると思い上がっている学者たちだけ なのである。彼らは、大衆にはそれを使うことを許しても、肝腎のことは誰にも理解できないようにしているが、実のところは「自分たちも分からないものを自 分だけが知っているような顔をしている(ホラティウス『書簡詩』2.1.87)」だけなのだ。
”
カント『純粋理性批判』序論
(第二版)
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/pure-critique-introduction.html
“判断だけでなく、概念そのものの中にも先天的な起源を持つものがあることは示しておこう。たとえば、諸君が経験を通じてもっている「物体」の概 念から、色や硬さや柔らかさ、重み、不可侵性など、あらゆる経験的な要素を一つ一つ取り除いてみたまえ。しかし、物体が占めていた「空間」は物体そのもの が消え去ったあとでも残る。諸君はそれを取り除くことはできないのである。
このように、形のあるなしにかかわらず、諸君が何かの対象について経験を通じて持っている概念から、経験によって学んだあらゆる性質を取り除いても、 (実体の概念の方が一般的な対象の概念よりも多くの性質を含んでいるにもかかわらず)諸君がその対象を実体であると見なせるような性質、あるいはその対象 がなんらかの実体に属していると考えさせるような性質を取り除くことはできない。
(…)
数学は、我々が経験から離れて先天的な認識の世界でどれほどうまくやれるかを示す輝かしい先例である。数学は直観でとらえられる限りはどんな対象でもど んな知識でも相手にすることができる。ところが、「直観でとらえられる限り」という条件を我々は忘れがちである。なぜなら、数学における直観は経験によら なくても与えられることから、直観が単なる純粋な概念と混同されてしまい、概念だけが扱われているように思われるからである。
こうして数学によって理性の力の大きさが証明されてしまうと、認識の拡大への欲求はとどまるところを知らない。まるで軽やかな鳩が空気の中を抵抗なく自由に飛び回れるようになると、真空の中ならもっと楽に飛べるのではと想像するようなものである。
このようにして、プラトンは、知性の活動範囲を制限している感覚の世界を捨てて、理念(イデア)の翼に乗って、純粋な知性という真空の中に飛び出して いったのである。彼には、自分の拠り所とし、自分の支えとし、知性を働かせるための足場とすべきものがなかったから、いくらがんばっても前へ進むことはで きなかった。しかし、自分ではそれには気づかなかったのである。“
『純粋理性批判』 感性論
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/transcendential-element.html
“人がものを知るやり方は判断や推理などいろいろあるが、直接的にものを知るときには直観を使う。ものを考えるときは人はいつも直観に頼るものだ。しか し、直観するためにはその前にその対象を手に入れなければいけない。しかし、神様でもない限り、人が対象を手に入れるには、対象のほうが人の心を触発しな いといけない。
この対象の触発に応じて、そのイメージを受け取る能力を感性という。つまり、感性によって人は対象を手に入れるのである。ということは、感性のおかげで人は物を直観できるということになる。
いっぽう、手に入れた対象について考えるのは知性の仕事である。知性が理解するのである。しかし、物を考えるということは、直接にしろ、あるいは何かの 目印を介して間接的にしろ、結局は直観、そして人間の場合は感性のお世話になるしかない。ほかの手段では対象は手に入らないからである。
そして、その対象が外から感性を触発した結果が感覚である。直観のうちでこの感覚を通して対象とつながっているものを、経験による直観という。この経験による直観の対象で、まだわけの分からないものを現象という。
しかし、現象を分析してみると、その中には感覚だけでは説明できない要素も含まれている。だから、現象のうちで感覚とつながりがあるものを、わたしは現象の素材と呼び、この乱雑ににあらわれる現象に整理をつけるものを現象の形式と呼ぶことにする。
様々に受け取った感覚に何らかの形式を与えて整理をつけるものは、感覚自身ではあり得ない。だから、現象の素材は経験によってしか与えられないのに対し て、現象の形式は心の中にその全部が先天的に用意されていないといけない。だから、現象の形式は感覚とは区別して考えることができる。
わたしは、あらゆる概念のうちで感覚とは関係のないものを(超越的な意味で)「純粋な何々」と呼ぶことにする。すると、感性による直観の純粋な形式が、 さまざまな現象に整理をつけるものとして、先天的に心の中に見いだされることになるだろう。この感性の純粋な形式はまた純粋な直観と呼ばれることもある。
例えば、物体の概念から、それについて知性が考えること、物質とか、引力とか、分割可能とか、そういうものを取り除いてみよう。次に、感覚で捕らえられ るようなこと、中身が詰まっているとか、表面が硬いとか、何かの色をしているとか、そういうものを取り除いてみよう。こういった経験によって直観的に知る ことのできる要素を取り去っても、なおも残るものがある。それは、物体の持っている大きさと形である。これが純粋な直観なのである。この純粋な直観が働く には、感覚の対象が外部に現実に存在する必要はない。純粋な直観は感性の形式として心の中に先天的に存在するものである。
(…)
人の心には外向きと内向きの二つの感覚があって、我々は外向きの感覚によって対象を外側の空間の中に把握する。対象の形や大きさ、対象の相互の関係は空間の中で決定されるのである。
それに対して、内向きの感覚は、心が自分自身の存在と内面の状態を直観するものである。この感覚は確かに魂それ自体を一個の対象として直観できないが、 この感覚は一種の形式であって、これによって人は内面の状態を直観することができる。その結果、心の内側で決定されることはすべて時間との関係で把握され る。
我々は時間を自分の外側にあるものとして直観することはできない。同様に、空間を我々の内側にあるものとして直観することはできない。
では、空間と時間とは一体なんだろう。それは現実に存在するものだろうか。それとも、単に物が存在するための条件、つまり物と物との関係を意味するだけのもので、物それ自体が直観されることはないが、物それ自体に属しているものだろうか。
それとも、空間と時間は単なる直観の形式にすぎないのだろうか。つまり、それらは我々の心の主観的な特性にすぎず、我々の心がなくなればそれらによっては何も決定できなくなるようなものだろうか。
このような問いに答えるために、まず最初に、空間の概念についてよく考えてみよう(expositio)。よく考えると言っても、空間概念をはっきりさ せておこうというだけで、網羅的に説明しようというわけではない。また、「形而上学的に」と言うのは、空間概念を経験によらずに与えられた概念としてに考 えていくという意味である。
(1) 空間とは、経験によって外部から得た概念ではない。なぜなら、空間というものがまずないことには、感覚でとらえたものを自分の外にある何かのも の、つまり、自分がいる場所とはちがう場所にある何かのものと関連づけたり、この感じたものがバラバラであるとかいっしょにあるとか、別々の場所の別々の ものとしてとらえることができないからである。
したがって、空間というものは、経験を通じて外部の現象同士の関係から借りてくることはできない。それどころか、この外部の経験は空間というものが先にあって始めて可能になるのである。
(2) 空間とは、経験によらないものであって、外部の物を直観するためには欠かせないものである。我々は空間が存在しない状態を想像することはできな い。ただ、空間の中に物が何もない状態を考えることはできる。そうすると、空間とは、様々な現象に依存したものではなく、様々な現象が存在するための条件 ということになる。つまり、空間とは経験によらないものであって、外部の現象にとって無くてはならないものなのである。
(3) 空間とは、物と物との関係を理解して手に入れるいわゆる一般的な概念ではない。空間とは純粋な直観である。なぜなら、第一に、我々はただ一つの空 間しか思い浮かべることができないし、複数の空間について言及するときも、それは一つの空間の部分について言っているだけだからである。
第二に、この部分的な空間も、全てを包み込む一つの空間に先立って存在するものではなく、また、部分的な空間が寄り集まって全体の空間ができているのでもない。その逆に、部分的な空間は全体の空間の中にあるものと考えられる。
空間とは、本質的に一個のものなのである。その中にある複数の空間も、複数の空間についての一般的な概念も、全体の空間をいわば柵で区切っただけのもの なのである。ということは、空間に関するあらゆる概念は、経験によらない一つの先天的な直観に基づいているということになる。
したがって、あらゆる幾何の定理、例えば、三角形の二辺の和は他の一辺より長いという幾何の定理は、直線とか三角とかいう一般的な概念から導き出すことはできない。それは、経験によらない直観によって導き出すしかなく、その結果に疑いをはさむ余地は全くないのである。
(4) 空間は無限の大きさがあると考えられる。ところで、一般に概念というものを考えてみると、それは無限に存在する多様なものの共通の特徴としてそれらに含まれているとともに、その無限のものを自分自身の下に含んでいる。しかし、自分自身の中に無 限のものを含んでいるような概念を考えることは出来ない。ところが、空間とはまさにそのようなものだと考えられる。空間をどれほど小さく分割していって も、分割されたものは必ずその内側に存在するからである。したがって、空間はもともと概念ではなく、経験によらない直観だということになる
(…)
(1) 時間は、経験から引き出される概念ではない。なぜなら、物が同時に起こるとか続いて起こるとかいうことを理解するためには、その前に時間の概念が 経験に先立って我々の心の中になければならないからである。時間というものがまずあると考えてはじめて、我々はいくつかのものが同時に現れたとか、時間を 変えて現れたとか言うことができる。
(2) 時間は必然的なものであって、あらゆる直観の基礎となるものである。我々は現象抜きに時間だけを考えることはできても、どのような現象も時間抜きに考えることはできない。したがって、時間は経験に先立って我々の心に備わっているものである。
どのような現象も時間の中でのみ実在性を持つことができる。現象は消えて無くなることはあるが、時間が消えて無くなることはない。現象が現れるためには時間は無くてはならないものである。
(3) このように時間が経験に先立つ必然的なものであることに基づいて、時間に関する公理も自明の原理(Grundsätze)も成り立っている。例え ば、時間には一つの次元しかないという原理がそうである。つまり、別々の時間は同時にではなく相前後して存在している(それに対して、別々の空間は時間的 に相前後してではなく同時に存在している) というこの原理(Grundsätze)は、決して経験から引き出すことはできない。
なぜなら、経験は厳密な普遍性も例外のない確実さも与えることがないからである。普通の経験からはことの真否を知ることはできても、ことの必然を知るこ とはできない。だから、時間に関するこのような原理(Grundsätze)は我々にとってはいわば規則(Regeln)のようなもので、この規則のもと で我々は様々な経験をすることができる。だから、我々は何かを経験する前にこの規則を学ぶのであって、経験を通じてこの規則を学ぶのではない。
(4) 時間とは人が理解して手に入れる一般的概念ではなく、感性による直観の純粋な形式である。様々な時間はたった一つの時間の部分でしかない。そして、たった一つの対象を通じて得ることのできるものは概念ではなく直観である。
また「別々の時間は同時に存在することはできない」という命題は、一般的な概念から引き出すことはできない。これは総合的な命題であって、概念だけから生まれるものではない。それは時間の直観によって直接手に入れるものである。
(5) 時間が無限であるということは、言い換えれば、我々にとって意味のある長さの時間は、根底に存在する一つの時間を区切ることによってのみ可能になるということである。したがって、元々の時間は区切られていないものでなければならない。
しかし、ある対象の個々の部分はその全体を区切ることによってしかとらえることができないということは、その対象の全体像は概念によって表されることはなく(なぜなら概念は部分を表すだけだから)直接的な直観に基づかねばならない。
§5
時間概念を超越的な観点から考える
…
ここでは、変化の概念と(位置の変化から生まれる)運動の概念も時間というものがあってはじめて可能であることを付け加えることができる。そして、もし この時間というものが先天的な直観(この場合は内向き)でない場合には、どのような概念によっても変化の可能性を理解することは不可能である。
なぜなら、変化するということは、例えば、同じものがある場所に存在していて次に同じ場所にはもう存在していないということで、同じ対象について矛盾す る正反対の記述を組み合わせることだからである。同じものに対して、二つの矛盾する正反対の記述が相前後して現れるということは時間の中でだけ可能であ る。
こうして、広い意味での力学──これは我々にとって大きな収穫である──が教える経験によらない多くの総合的な認識は、我々の時間概念によってはじめて可能となるのである。
§6
これまで分かったことから導かれる結論
(a) 時間は単独に存在するものではないし、物の客観的な性質として物に属しているものでもない。したがって、物に対する直観から主観的条件を取り除くなら、時間は消えてしまう。
もし時間が単独で存在するものなら、時間は現実に対象物がなくても現実に存在するものになってしまう。また、もし時間が物に属している性質であり順序で あるなら、対象となるものの条件として対象より先行するものではあり得ず、総合的な命題を通じて経験によらずに時間を認識したり直観したりすることはでき なくなる。
その反対に、時間が総合的命題を通じて経験によらずに直観できるのは、時間が主観的な条件にほかならず、我々のあらゆる直観がこの条件のもとで可能とな る場合である。なぜなら、その場合、この内向きの直観の形式(時間)は対象が存在する前に経験によらずに存在すると思われるからである。
(b) 時間とは内向きの感覚の形式である。つまり、時間とは自分自身と自分の内面に対する直観の形式である。というのは、時間は外側の現象の性質とはな り得ないからである。つまり、時間は物の形とか位置とかには関係がない。むしろ、時間は我々が心の内側でとらえた物同士の関係を決めるのである。
この内向きの直観は形がないために、我々はこの欠点を補うために時間を線にたとえようとする。つまり、時間の経過を永遠に続く一本の線と考えるのであ る。そして、その線の上に様々な物が一列に並ぶ。したがって時間は一次元だということになる。我々は時間のあらゆる特徴を直線の特徴から類推して考える。 ただ一つその例外は、直線の各部分は同時に存在するのに対して、時間の各部分は同時ではなく相前後していることである。
時間が直線との類似でとらえられるということは、時間の各部分の関係は外向きの直観(つまり空間)を使って表現されるということである。ここからも、時間とはそれ自身が直観であることが分かる。
(c) 時間は全ての現象の形式であり、あらゆる現象の先天的な条件である。空間は全ての外向きの直観の純粋な形式であって、外側の現象だけの先天的な条件である。
それに対して、我々が受け取るイメージは、それが外側のものを対象にしようと内側のものを対象にしようと、それ自体としてはそれらは我々の心の 中を明らかにするものだから、我々の心の中の状態と結び付いている。しかし、この心の中の状態は内向きの直観の形式という条件の下にある。ということはつ まり、それは時間と結び付いている。したがって、時間はあらゆる現象の先天的な条件だということになる。だから、時間は心の中に現れるあらゆる現象の直接 の条件であるとともに、外側に現れる現象の間接的な条件だと言える。
もしもわたしが、「外側の全ての現象は空間の中にあり、空間との関係にしたがって経験によらずに把握できる」と、経験によらずに言うことができるのな ら、わたしはこれまで明らかになった内向きの感覚の本質から、「全ての現象、すなわち感覚の全ての対象は時間の中にあり、必然的に時間との関係の中にあ る」と完全に普遍的に言うことができる。
ものを思い描く我々の能力の中の外向きの直観は、内向きに自己を直観するやり方を使って行われるが、もしこのやり方を捨てて、対象をそれ自体としてとらえるなら、時間は無くなってしまうだろう。
時間は現象に関してだけ客観的な有効性を持つ。なぜなら、現象とはすでに我々が感覚の対象としてとらえているものだからである。だから、もし我々が我々 に特有の認識形態である直観という感性の要素を放棄して、物それ自体について語り始めるやいなや、時間はもはや客観的なものではなくなってしまう。
したがって、時間とは我々(人間の側)の直観の主観的な条件であって(だから直観は常に感性によって機能する、つまり対象に触発されたときだけ機能する)、主観の外側で単独に存在するものではない。
時間はこのように主観的なものであるが、それにもかかわらず、全ての現象に関する限り、つまり我々が経験する対象に関する限り、時間は必然的に客観的なものである。
我々は全てのものが時間の中に存在すると言うことはできない。なぜなら、このように物それ自体について理解しようとするとき、我々は物に対するあらゆる直観を放棄しているからである。ところが、直観こそは時間が対象と関わりを持つための本質的な条件なのである。
だからもし、物についての理解にこの条件を付け加えて、全てのものは現象として(すなわち感性による直観の対象として)時間の中に存在すると言うならば、この基本命題はまさしく客観的な有効性および経験によらない普遍性を持っている。
したがって、我々が言おうとしていることは、時間は経験の世界で実在性を持つということである。つまり、時間は我々の感覚に与えられる全ての対象に関し て客観的な有効性を持っているのである。そして我々の直観はつねに感性によるものであるから、時間という条件に合わないような対象は決して経験することは できない。
逆に、時間は決して絶対的な実在性を持ってはいないと我々は主張する。もしそんな実在性があるなら、時間は、我々の感性による直観の形式とは無関係に、絶対的に物の存在条件や性質になってしまうだろう。
このような特性は物それ自体に属するものであって、我々の感覚によっては決してとらえることはできない。そして、これこそが超越的な観点から見た時間の観念性である。つまり、我々が感性による直観という主観的な条件を放棄すれば、時間は無に帰するのである。
そして、時間は直接(我々の直観とは無関係に)対象の実質や属性となることはできない。しかしながら、時間のこの観念性と空間の観念性を、感覚からの類 推によって説明する過ちを犯してはならない。そういうことをする人たちは、感覚によってとらえられる現象には対象についての実在性があると当然のことのよ うに考えているからである。
しかし、時間の場合には、そのような対象についての実在性は存在しない。もしあるとすれば、それは対象が単なる現象と見なされる場合だけであり、結局そ の実在性は経験的なものでしかないということになる。この点については、読者は前節(空間について)の最後に(バラについて)述べたことを参照されたい。
§7
解説
時間は経験の世界では実在性を持つが、絶対的な実在性や超越的な観点から見た実在性は持たないとするわたしの説に対して、学者たちからいっせいに反論が 上がっていると聞いた。だから、このような考え方に不慣れな一般の読者が同様の反論を抱くことは充分考えられる。この反論とは、次のようなものである。
変化というものは現実的なものである。たとえ我々の外側の現象とその変化を否定しても、我々自身が変化することからこれは明白である。ところで変化は時間の中でのみ起こることができる。したがって、時間もまた現実的なものである。
この反論に答えるのは難しいことではない。この議論自体は何も間違ってはいない。確かに時間は現実的なものである。つまり、時間は内向きの直観の現実的 な形式である。確かに、わたしは現実に時間を思い描くことが出来るし、自分が時間のなかで規定された存在であることを理解している。ということは、時間は 内面的な経験に関して主観的な実在性をもっているということである。だから、時間は対象として現実的なものではなく、わたし自身という対象を把握する方法 として、現実的なのである。
もし感性のこの前提条件なしにわたしが自分自身を直観したり、他の存在がわたしを直観したりできるなら、いま我々が自分自身の変化と考えている特徴を見ても、決してそこに時間やそれにともなう変化が認識されることはないだろう。
このように、時間に対して認められるのは、経験の世界における実在性だけなのである。しかも、時間は我々のあらゆる経験の条件でしかない。しかし、これ まで述べたように、時間には絶対的な実在性はない。時間とは我々の内向きの直観の形式以外の何ものでもないのである(原注)。
だから、もし時間から感性という特殊な条件を取り去るなら、時間の概念もまた消え去るのである。時間は対象そのものの中にあるものではなく、それを直観する我々の主観の中にあるものにすぎないのである。
原注 「わたしは時間の中に存在し続けていると思う」と言うことはできる。しかし、それは、わたしが自分自身を時間の連続の中にあるものとして、つまり、 自分自身を内向きの感覚の形式に合致するものとして意識しているということに過ぎないのである。したがって、時間とはそれ自体で存在する何かではないし、 物の中にある客観的な性質でもない。
ところで、中でも空間の観念性に対する明確な反論さえ出せない人たちからこのような反論がいっせいにわき上がったのは、次のような理由からである。
彼らも、空間の絶対的な実在性を明確に証明できるとは思っていない。なぜなら、彼らの頭には観念論があって、内向きの感覚がとらえる対象(自分自身と自 分の状態)の実在性は我々の意識によって明白だが、外側の対象の実在性は厳密には証明できないと考えているからである。彼らは、内側の対象は明確に現実的 だと思っていても、外側の対象は幻に過ぎないかもしれないと思っているのである。
ところが、人間がとらえる空間も時間もその実在性は否定されないにも関わらず、空間と時間が単なる現象でしかない、とは彼らには思いもよらないことだっ た。しかも、この現象については常に二つの面があって、一方では、対象が直接観察される(=直観)が(ここではそれをどのようにして直観するかは問わな い。そのために、それがどんなものであるかは不明である)、他方では、この対象に対する直観の形式が問題となる。この直観の形式は、この対象の現れに現実 的かつ必然的に合致するものではあるが、対象自身の中にではなく、現象をとらえる人間の主観の中に求められなければならない。
以上のようなわけで、空間と時間は、経験によらずに様々な総合的認識を引き出す、認識の二つの源なのである。純粋数学、特に空間に関する知識は、この輝 かしい実例である。空間と時間の二つは両者あわせて、感性によるあらゆる直観の純粋な形式であり、経験によらない総合的な定理を可能にするものである。
しかし、この経験によらない認識の源泉つまり空間と時間は、単に我々の感性が働くための条件に過ぎないものであり、まさにこの事実によって制限されてい る。なぜなら、空間と時間は、現象として観察されない対象には適用できず、物をそれ自体として示すことができないからである。空間と時間が有効なのはこの 範囲だけである。もし我々がこの範囲を逸脱したりすれば、もはや時間も空間も客観的に利用することは出来なくなるだろう。
しかしながら、空間と時間の実在性をこのようなものであるからといっても、それによって経験に基づく認識の正確さはいささかも損なわれることはない。経 験に基づく認識の正確さに対する確信は、この二つの形式が物それ自体に関わるものであろうと、それらの物に対する我々の直観に必然的に関わるものあろうと 揺らぐことはないのである。
一方、空間と時間に絶対的な実在性があると主張する人たちは、それらを独立したものと見るか、物に属するものと見るかの違いはあるが、我々の一般的な経験の原則(Prinzipien)と矛盾せざるを得ない。
なぜなら、もし第一の立場(これは主に自然を数学的に研究する人たちの意見である)に従うなら、空間と時間という二つの永遠で果てしなく、しかも独立し ていながら、現実には何もないのに、現実に存在するあらゆるものを内に含むためだけに存在する、そんな不合理なものがあると認めなければならなくなる。
もし第二の立場(自然を形而上的に研究する一部の人たちの意見である)に立って、空間と時間とは現象相互の関係(空間の場合は並存であり、時間の場合は 継起である)であって、経験から引き出され、それ自体としては混乱したものであると考えるならば、彼らは、先天的な数学上の定理が現実のもの(例えば空 間)に実際にあてはまることを否定しなければならなくなる。あるいは少なくとも、それらの定理が例外なく正確なものだということを否定せざるを得ないだろ う。
なぜなら、このような正確さは決して経験から後天的に得られるものではないからである。実際、このような見方によれば、空間と時間という先天的な概念 は、想像の産物でしかない。しかし、想像といっても現実にはその材料は経験に求めるしかない。しかも、経験から引き出された現象の相互関係から想像力が作 り出すものは、この関係の一般的な要素を含みはするが、想像力は元々この関係が持っている経験という制約を離れては存在できないものである。
第一の立場に立つ学者たちは、次の点で有利な立場にある。彼らの理論では現象の領域で数学の定理が生まれる可能性があるからである。しかし、彼らがこの領域を越えて認識の幅を広げようとするときには、この空間と時間が制約となって彼らの前に立ちはだかる。
この点では、第二の立場が有利である。この立場に立てば、対象を現象としてではなく単に知性によって判断しようとするので、空間も時間も障害とはならな いのである。しかし、彼らには真の直観、客観的に有効性を持つ先天的直観という手段がないから、経験によらない数学的認識の可能性を説明できないし、経験 から得た命題を数学の知識と厳密に一致させることもできない。
空間と時間というこの二つの根本的な感性の形式がもつ真の特徴について我々がうち立てた理論に従えば、このような困難に直面する心配はない。
最後に言っておくべきことは、この「超越的な感性論」が扱う要素は、空間と時間の二つだけで、それ以外にはないということである。このことは、感性に属 する他の概念、例えば空間と時間の両方を合わせた運動の概念さえも、経験の世界に属するものであることから明らかである。
というのは、運動という以上は、何か動くものが知覚されねばならない。空間それ自体は動くものではないからである。つまり、動くものとは経験を通じて空間の中に見出されるもの、つまり経験的なものでなければならない。
これと同じ意味で、「超越的な感性論」では変化の概念は先天的要素の中には含まれない。時間それ自体は変化するものではない。時間の中にあるものが変化 するのである。したがって、変化の概念が生まれるためには、まず存在するものが知覚され、次にそれが相前後して明確化される様子が知覚されなければならな い。つまり、それは経験されなければなければならないのである。
§8
超越的な感性論について全体的な注
I まず最初に読者の誤解を防ぐために、できるだけ分かりやすく感性による認識についての我々の考えを説明しようと思う。
我々が言おうとしたことは、我々の全ての直観は現象に対するものだと言うことである。我々が直観するものは物それ自体としては我々が直観する対象と同じ ではない。我々が直観するものの相互関係も、それ自体としては、我々の前に現象として現れているのと同じではないのである。
したがって、もし我々の主観がなくなったら、いや単に我々の感覚から主観的な性格がなくなっただけでも、空間と時間の中の対象の性格も対象の相互関係 も、いや空間と時間それ自体も、すべて消えてなくなるのである。それらは現象としては単独で存在することはできない。それらは我々の中だけに存在すること ができる。
対象は、物それ自体としては、つまり我々の感性が対象に触発される能力を抜きにしては、我々には全く分からないものなのである。我々に分かるのは、我々 に固有の認識方法だけである。この認識方法は、人間なら全員が持っているものであるが、他の全ての存在が持っているとは限らない。
我々に関係があるのはこの認識方法だけである。空間と時間はこの認識方法の純粋な形式であって、感覚はその素材なのである。
我々は、先天的につまり実際のあらゆる知覚より前に、前者(形式)だけは認識できる。そのためを我々はこれを純粋直観と呼ぶ。一方、後者(素材)は我々の認識の内で後天的認識あるいは経験による直観と呼ばれるものをもたらすものである。
前者は、我々が受け取る感覚がどんなものかに関わらず、例外なく我々の感性に依存する。一方、後者は非常に様々なものであり得る。
たとえ我々の持つこの直観を最高に明晰なものに高めたとしても、我々はそれによって対象それ自体の特性に近づくことはできない。というのは、我々はせい ぜい我々に固有の直観の方法、つまり感性をよく知ることができるだけである。しかも、この感性が空間と時間という我々の主観に根本的に依存している条件の 下にあることに変わりはない。
我々に与えられるのは現象だけであり、対象が物それ自体として何であるかは、現象に対する最も洗練された認識能力をもってしても、我々は決してそれを知ることはできないのである。
したがって、「我々の感性がとらえるのは対象となる物の混乱したイメージにすぎないが、そこには物それ自体に属しているものだけが含まれており、我々に ははっきりと見分けることのできない目印や中途半端なイメージで覆われている」という考え方は、感性と現象の概念を歪曲するものである。そのような考え方 は、感性と現象に関するこれまでの研究を無に帰してしまうだろう。
そもそも、イメージが明瞭であるか明瞭でないかは単に論理的なことでしかなく、その内容とは関係がない。例えば、「正義」に対する常識的な概念の中に は、緻密な思索によってこの概念から引き出されるものはすでに全て含まれている。ただ、日常的な用法にはこの概念に含まれる様々なイメージははっきりと意 識されてはいない。
しかし、だからといって「正義」についての常識的な概念には、感性がとらえた単なる現象しか含まれていないと言うことはできない。なぜなら、「正義」は 決して現象とはなりえないからである。それは頭の中にある一つの概念であって、人の行動の道徳的な特徴を表している。しかも、この特徴は行動の外見的な現 象ではなく行動それ自体に属している。
一方、例えば、直観がとらえる「物体」のイメージは、物それ自体に属するようなものは何も含んでいない。それは何かのものの現象であり、同時にそれは、 我々がその何かによって触発されるされ方を表わしている。そして、この我々の認識能力の中の感受性の部分を我々は感性と呼んでいるのである。たとえその現 象が我々にとって完璧に明瞭なものであったとしても、そのようにして得た知識は物それ自体の知識とは全く違うものであることに変わりはない。
ライプニッツとヴォルフの哲学は、感性と知性の違いは単なる論理的なものとして扱っている。そのために、我々がもっている認識の特性と起源に対する研究に全く間違った方向付けをしてしまった。
しかし、感性と知性の違いが超越的なものであることは明白である。それは認識が明瞭であるか明瞭でないかという単なる形式的な違いではない。それは、感 性と知性の両者の起源と内容の違いである。したがって、感性は物それ自体の本質を混乱した状態で認識するどころか、全く認識することができないのである。
もし我々の主観的な特性を放棄すれば、我々はイメージとしてとらえた対象にも、感性による直観がその対象に与えた特性にも、もはやまったく出会うことはできなくなる。なぜなら、我々のこの主観的な特性こそが、現象としての対象の形式を決定するからである。
そのほかにも、我々はよく現象に区別を設けて、直観の中に元々含まれていて全ての人間に同じように現れる現象(例えば形)と、たまたま直観にとらえられ はするが感性一般に当てはまるものではなく、単に特定の見方や様々な感覚に特有の構造にとってだけ有効な現象(例えば色)は異なるものであると言ったりす る。そして、前者のタイプの認識は物それ自体を表わす認識であるのに対して、後者は単なる現象であると言ったりする。
しかしながら、この区別は単に経験的な観点から見た区別であるに過ぎない。我々がもし(一般によく見られるように)この経験的な区別の段階にとどまっ て、経験を通じて直観したものを(それにふさわしく)単なる現象(そこからは物それ自体に属するものは何も見いだされない)としてもう一度扱おうとしない かぎり、我々は現象を超越的な観点から区別することは永遠にできないだろう。
そうなると、我々は感覚の世界ではどれほど深く対象を調べても、現象しか相手にすることがないにも関わらず、物それ自体を認識できると思ってしまうだろう。
…
そこで、空間と時間はそれ自体として客観的なものであって、様々な物がそれ自体として存在するための条件であると仮定してみよう。まず、この両者に関し て経験によらずに例外のない必然性をもつ総合的命題がたくさん存在することは明らかである。特に空間についてはそうであろう。したがって、ここでは空間を 例にとって考察を進めよう。
幾何学の様々な定理は経験によらない総合的命題であって例外のない必然性を備えているから、そこでわたしは諸君に問いたい。「諸君はそのような命題をど のようにして手に入れるのか、つまり、そのような完全な必然性を備え、例外なく有効な真理に到達するには、我々の知性は何を拠り所にしているのか」と。そ れは概念かさもなければ直観以外にはないだろう。
ところで概念も直観も経験によらないものか経験によるものかの二種類である。しかし、後者、つまり経験による概念にしろそのもとになる経験による直観に しろ、そのような概念も直観も経験によらない総合的な定理を生み出すことはできない。それらが生み出せるのは単なる経験による総合的命題だけである。それ は経験に基づくものであるために、どの幾何学の定理も持っているような必然性も絶対的な普遍性も備えていない。
したがって、そのような認識に到達するのは、経験によらない概念か直観のいずれかによることになるが、そのどちらをとるべきかは明らかである。なぜなら、概念だけから得られるのは分析的命題であって総合的命題ではないからである。
例えば「二本の直線は空間を囲むことはできず、それだけでは図形を描くことはできない」という命題を取り上げてみたまえ。そして、直線という概念と数字 の二という概念からこの命題を導けるかどうかやってみればよい。また、例えば「三本の直線があるときはじめて図形を描くことが可能となる」という命題を、 同様にしてそこに含まれる概念だけから導けるかどうかやってみればよい。そのような努力は全て無駄であろう。
そして、そのためには直観に頼るしかないことが分かるだろう。それは幾何学がいつもしていることなのである。したがって、諸君は直観によって対象を手に 入れるということになる。ではそれはどのような直観であろうか。経験によらない純粋な直観であろうか、それとも、経験による直観であろうか。もし後者であ るとすれば、普遍的な有効性を持つ定理も、例外のない必然性を持つ定理も、決してそこから生まれることはないだろう。なぜなら、経験によってはそのような ものは決して生まれないからである。
したがって、諸君は経験によらずに直観によって対象を手に入れなければならない。そして、直観に基づいて総合的な命題を引き出さなければならないのである。
ではもし、この経験によらずに直観する能力が諸君の中になく、また、形式の面から見ればこの主観的条件が、同時にこの(外向きの)直観の対象が存在する ためには欠かせない普遍的で先天的な条件ではなく、さらに、この対象(三角形)が諸君の主観とは別個にそれ自体で存在するものだとすれば、諸君の側で三角 形を形作るために必然的な主観的条件が、三角形本体にとっても必然的に当てはまると、どうして諸君は言えるだろうか。
というのは、経験によらずに直観する能力がなければ、諸君がすでに持っている三本の線という概念に、図形という新しい概念を付け加えることは出来ないか らである。ところが、この新しい概念は対象(三角形)の中に必然的に(経験によらない直観によって)見出さねばならないものなのである。なぜなら、その対 象(三角形)は諸君の認識以前に(経験する前に)与えられているものであって、諸君の認識によって与えられるものではないからである。
さらに、空間(時間も同様である)は諸君の直観の単なる形式であり、諸君が経験によらずに外側のものを対象として把握するための唯一の条件であって、こ の主観的な条件を欠いては外側のものは無に帰してしまう。だから、もし空間がそういうものでないとするなら、諸君は外側のものについて経験によらない総合 的認識を得ることは全くできないだろう。
したがって、空間と時間とは、我々の内外のあらゆる経験の必然的な条件であり、我々の全ての直観の主観的な条件でしかない。そして、これらの条件のもと では、全ての対象は現象でしかなく、諸君の主観とは別個に与えられる物ではない。これらのことは単に可能なことやありそうなことではなく疑いもなく確かな ことなのである。
またそれゆえに、現象の形式については経験によらずに多くのことを言えるけれども、この現象の下にあるかもしれない「物それ自体」については何も言うことができないのである。
II 内向きと外向きの両方の感覚の観念性、つまり感覚の対象は単なる現象でしかないという意味で観念的なものであるというこの理論の正しさに確証が欲し ければ、次のことに注目すればよい。すなわち、我々の知識の中で直観に属するもの──喜びや苦しみなどの感情や意志などはそもそも知識ではないからここに は含まない──は単なる関係しか含んでいないということである。それは、直観のなかの様々な位置(広がり)であり、位置の間の変化(運動)であり、その変 化を規定する様々な法則(動力)である。
その位置に現に存在するものは直観できないし、位置の変化以外に物そのものに起こっていることも直観ではとらえられない。つまり、物それ自体は単なる関 係からは知ることはできない。つまり、外向きの感覚は関係以外のものは何も教えないから、この感覚は対象と主観との関係をとらえることができるだけで、対 象それ自体の内側までとらえることはできないと考えるべきである。
これは内向きの直観についても同様にあてはまる。それは、もともと内向きの感覚の材料を作っているのは外向きの感覚がとらえたものであり、それで我々は 自分の心を満たしているからだけではない。我々はこの外向きの感覚がとらえたものを時間の中に置き、このとらえたものを経験の中で意識するのに時間を前提 とし、このとらえたものを心に抱く方法の形式的条件として時間を基礎としている。そして、まさにその時間の中身は、相前後して存在する関係と、同時に存在 する関係と、相前後しながら同時に存在する(永遠に存在する)関係だけなのである。
さて、我々が何かを考えるという行為の前に何かをとらえることができるのは直観である。その直観がもし関係しか含んでいないとすれば、それは直観の形式だということになる。
この形式は心の内側に何も置かれない限りは何も含んでいない。ということは、この形式は、心が内側に何かをとらえる自らの行為によって自分自身が触発さ れるされ方に他ならない。つまり、直観の形式とは心が自分自身によって触発されるされ方であり、形式の面から見れば内向きの感覚である。
これまでのところでは、感覚によって把握されるものは、すべてが常に単なる現象である。そして、我々が内向きの感覚の存在を認める以上は、内向きの感覚の対象である主観もまた、単なる現象としてこの感覚によって把握されることになる。
これは、仮に我々の直観が(感覚を介さない)主観による自発的な行為であって知的なものであるとすれば、我々の主観が自分自身について判断するものとは大違いであろう。
この理論で一番難しいところは、主観はいかにして内向きに自分自身を直観するかということである。しかし、これはどの理論でも簡単ではない。
自己意識(統覚)は「わたし」という単なるイメージである。そして、様々なものがこの自己意識によって自発的に(感覚を介さないで)主観の中に与えられるのなら、内向きの直観は知的な(知性の働きによる)ものということになるだろう。
しかし、人間の場合、自己意識が生まれるには、主観の中にあらかじめ与えられている多様なものが心の中で知覚される必要がある。そして、この多様なものが自発的でなく心の中に与えられる方法こそ、知的直観と区別して、感性と呼ばれなければならない。
もし自己意識の能力とは心の中にあるものを把握することなら、心の中にあるものがこの能力を触発しなければならない。自己意識の能力はそうすることによってのみ自分自身を直観できるだろう。
しかし、この直観の形式は心の中にあらかじめ存在するものであって、それが、心の中で多様なものが共存する仕方を、時間のイメージによって(相前後や同 時にあると)決定するのである。というのは、心は自分自身を自発的に直接把握するのではなく、心が内側から触発されるのに応じて自分自身を直観するからで ある。したがって、それは、心のありようを表わしているのではなく、心が自分自身にどう見えるかを表わしているのである。
III 我々が空間と時間の中で直観するという場合、それが外側の対象に対する直観であろうと、我々の心による自分自身の直観であろうと、我々は対象が我 々の感覚を触発する仕方で、すなわち、それらが現象として現れる仕方で、把握するのである。しかし、だからといって、これらの対象が単なる幻想にすぎない という意味ではない。
というのは、人は常に、現象の中に対象もそれに属する特性も現実に存在していると考えるからである。しかし、与えられた対象と我々の主観との間の関係で は、対象の特性は我々の主観によって直観されるその仕方に依存しているため、現象として我々に現れたものと、物それ自体としての対象とは、はっきり区別し なければならない。
わたしは空間と時間が物体の存在の条件であり、わたしの魂の存在の条件となっていると考えており、空間と時間の性質は対象それ自体ではなく、わたしの直 観の仕方に依存していると考えている。しかし、わたしがこう言ったからといって、物体は単にわたしの外側に存在するように見えるだけであるとか、わたしの 魂はわたしの自意識の中に存在するように思えるだけだと言っているわけではない。
現象と見なすべきものからわたしがもし単なる幻想を作り出しているのなら、それはわたしが間違っていることになるだろう(原注)。しかし、我々の感性に よる直観は全て観念的なものであるという我々の理論からはそんなことは起こらない。しかし、もし我々が感性による直観の形式には対象についての実在性があ るなどと言い出したら、その時こそ全てが単なる幻想に転じるのを我々は防ぐことができないだろう。
というのは、もし空間と時間は物それ自体の特性であるに違いないと考え、それ自体にも実体がなく、実体のあるものの中に現実に属するわけでもないこの二 つの無限のものが存在しなければならないだけでなく、これらは全てのものが存在するための条件でもあり、さらには、存在するものを全て取り除いてもそのあ とに存在し続けなければならない、という不合理なことを我々が考えているとするなら、物体を単なる幻想におとしめたあの善良なバークレーを我々は非難でき ないだろう。
…
現象とは、対象と密接に結び付いているが、対象それ自体の中ではなく、常に我々の主観との関係の中に見いだすべきものである。したがって、空間と時間のなかでとらえたことを、そのままの形で感覚の対象に当てはめてもそれは間違いではない。
それに対して、もしわたしが、対象と主観とのある種の関係を忘れて、自分の判断をその関係の中に限定することをやめて、物それ自体としてのバラが赤いと 言ったり、土星に取っ手があると言ったり、物それ自体としての外部の物体に大きさがあると言ったりしたなら、その途端に幻想が生み出されているのである。
IV 自然神学においては我々は、我々の直観によっては決してとらえることができないばかりか、感覚による直観によっては神自身にとってもとらえることが できないような対象(神)を考えている。そして、我々は神自身が持っているあらゆる直観から注意深く空間と時間の条件を取り去っている。知性には常に限界 がある以上、神が持っている認識能力は全て直観でなければならないからである。
しかしながら、もし我々があらかじめ、空間と時間は物それ自体の形式であり、様々なものが存在するための条件であって、そこに含まれるものを取り除いて も無くならないようなものと考えているとしたら、我々は神の直観から空間と時間の条件を取り除くようなことをしてどうして正しいと言えるだろうか。なぜな ら、もし空間と時間が全ての存在の条件なら、この二つは神が存在するための条件でもあるはずだからである。
ということは、もし空間と時間をあらゆるものの客観的な形式としないとすれば、空間と時間を我々の内向きと外向きの直観が持っている主観的な形式と考えるしかないということである。
そして、この直観は本来の直観つまり対象の存在をもたらすような直観ではなく(そのような直観は、我々の知る限りでは、原存在(神)しか持っていな い)、対象の存在に依存したものであり、イメージを受け取る主観の能力が対象に触発されてはじめて可能となるものである。したがって、この直観は感性によ る直観と呼ばれるのである。
空間と時間の中におけるこの直観の仕方は、人間の感性だけが持っているものであるとは限らない。思考力のある生き物ならどれでもきっと人間と同じ能力を持っているに違いない。しかし、これが実際にそうであるかどうかを我々は断定することができない。
しかし、感性のこの直観の仕方は、たとえ人間以外にも当てはまるものだとしても、だからといって感性による直観でなくなるわけではない。なぜなら、この直観は他に起源を持つ(intuitus derivativus)ものであって、決して本来の直観(intuitus originarius)ではない、つまり、この直観は知的な直観ではないからである。
そのような知的直観を持っているのは、上に述べた理由から、原存在(神)だけだと思われる。それに対して、与えられた対象との関係のなかで直観によって 自分の存在を明らかにし、自分の直観だけでなく自分の存在さえも他のものに依存しているような者が、知的直観を持っているとは思えないのである。ただし、 この説明の(§8)は我々の『感性論』の解説であって、証明と取るべきではない。
”
• 『純粋理性批判』 概念の分析論
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/transcendential-logic.html
“我々の心の感受性つまり心が触発されてイメージを受け取る能力を感性と呼ぶなら、それに対して、イメージを自らもたらす能力つまり自発的な認識能力こそが知性である。
我々の本性からして、直観は感性によるものでしかありえない。ということは、直観には我々が対象によって触発される仕方だけが含まれているのである。それに対して、感性による直観の対象について考える能力が知性なのである。
これらの特性は互いにどちらがどちらよりすぐれているということはない。感性なしには対象は与えられないし、知性なしに対象について考えることはできない。中身のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。
だから、概念は感性によるものでなくてはならない。つまり、直観による対象を概念に付け加えねばならないし、直観を知性的にしなくてはならない。つまり、直観を概念に従わせねばならないのである。
この二つの能力はその役割を交換することはできない。知性は何も直観できないし、感性は何も考えることはできない。この二つが一つに結び付くことによっ てはじめて認識が生まれるのである。しかし、だからといってこの二つの役割を混同してはならない。この両者を注意深く分離し区別することには、大きな理由 がある。そのために、我々は、普遍的な感性の法則の研究つまり「感性論」と知性の法則の研究つまり「論理学」を別々に扱うのである
(…)
われわれはこの純粋な知性の概念を、アリストテレスにならってカテゴリーと名付けることにする。なぜなら、われわれの目的は元来アリストテレスの目的と同じものだからである。もっとも、彼の作ったカテゴリーは、われわれのものとは全く違っているが。
カテゴリー表
I 量の概念
単一
多数
総数
II 質の概念
現実
否定
制限
III 関係の概念
従属と自立(実体と付随)
因果と依存(原因と結果)
共同(能動と受動の相互作用)
IV 様態の概念
可能性と不可能性
存在と非存在
必然と偶然
これが全ての総合の基本的な純粋概念の一覧である。これらの概念は知性が先天的に持っているものである。そして、このような純粋な概念をもっている知性 だけが純粋な知性なのである。というのは、知性はこれらの概念だけによって直観のなかの多様なものを介して何かを理解できるからである。つまり、知性はた だこれらの概念によって直観の対象について考えることが出来るのである。
これらの分類は、判断する能力(思考する能力と同じである)という共通の原理(Prinzip)から体系的に生まれたものである。このような分類は、いきあたりばったりの 運任せに純粋概念を探索しても生まれるものではない。そんなやり方では、全部集まったかどうか決して確信が持てない。なぜなら、それは帰納法だけで分類す ることだからである。それに、このやり方では、純粋な知性にどうしてこの概念は属するがあの概念は属さないのかが決して分からないのである。
このような基本概念の探索は、まさにアリストテレスのような才知の優れた人間にふさわしいことであった。しかしながら、彼は何の原理(Prinzipium)もなしに思いつくま まに集めていき、まず10個見つけて、それをカテゴリー(範疇[はんちゅう])と名付けたのである。のちに彼はもう五つ見つけたと思って、それを第二範疇 と名付けて、最初のものに付け加えた。
それでも彼の表は完全ではなかった。その上、その中には純粋な感性の要素がいくつか(時、所、位置、先、同時)と、運動のように知性の基本概念には決し て属さない経験的な概念も含まれている。さらに、派生的な概念(能動、受動)もこの基本概念の中に数えられている。一方、基本概念のいくつかがまったく欠 落しているのである。
派生概念についてさらに言うなら、それは純粋な知性の持つ真の基礎的概念であるカテゴリーから同じく純粋な派生概念が生まれるものであり、超越的な哲学 の完全な体系においては決して無視されてはならないものである。しかし、それらについては批判的な試みに過ぎないこの本の中では一言言及するだけで充分で ある。
この純粋な知性の派生概念には(Pradikamente つまりカテゴリーと対比して)純粋知性の属性(Pradikabilien)と呼ぶことにする。基本的で本質的な概念があるなら、派生的で従属的な概念をそれに付け加えるのはたやすいことであり、そうすれば純粋概念の完全な系統図を描くことが出来る。
…
第一に、知性がもつ概念を四つに分類したこの表は、二つのグループに分けることが出来る。一つ目は直観(純粋な直観と経験的直観の両方)の対象に向けられたものであり、二つ目はこの対象の存在(対象の相互関係か、対象と知性との関係)に向けられたものである。
この一つ目のグループを数学的カテゴリーのグループ、二つ目のグループを動的カテゴリーのグループと名付けよう。二つ目のグループでは概念が対になっているのに対して、一つ目のグループではそうなっていない。この違いの原因は知性の本質にあるはずである。
この表について言えることの第二は、それぞれの分類にはどれも同じく三つのカテゴリーが含まれていることである。これは概念によって先天的に分類する場合には必ず二つに分かれることを考えれば、興味深い事実である。
その他に、どの分類でも三つ目のカテゴリーは一つ目のカテゴリーと二つ目のカテゴリーを組み合わせて出来ているということも注目に値する。たとえば、総 数(全体)とは多数のものを一つのものと見ることに他ならない。また、制限とは現実と否定とを結び付けたものに他ならない。さらに、共同とは、ある実体と 別の実体の間の相互の因果関係のことである。そして最後に、必然性とは可能性によって与えられた実存のことに他ならない。
しかし、だからといって、三つ目のカテゴリーが純粋な知性の単なる派生概念であって、基本概念ではないと考えてはならない。というのは、第三の概念を産 み出すために第一と第二を結び付けることは、知性の特別な活動を必要とするからであり、その活動は第一の概念と第二の概念を産み出すための活動とは別物だ からである。
したがって、例えば、ある数の概念(総数のカテゴリーに属する)は、単一の概念と多数の概念からだけで生まれてくるわけではない(たとえば無限は単一と 多数では説明できない)。あるいはまた、原因の概念と実体の概念を結び付けても、必ずしもそこから影響の概念が生まれて、ある実体が別の実体の何かの原因 となれることが理解できるとは限らない。だから、影響の概念が生まれるためには、特別な知性の活動が必要なことは明らかである。これはほかの場合でも同様 である。
上記の表について言える第三のことは、唯一、三つ目の分類の「共同」のカテゴリーだけは、知性の論理的活動の一覧表の中の対応する「選択的な判断」と一致している度合いが、他の場合よりも少ないように見えることである。
「共同」のカテゴリーが「選択的判断」と一致していることを確かめるには、次のことに注目すればよい。つまり、あらゆる選択的判断においては、その判断 に含まれるすべての選択肢を全部合わせた領域が一つの全体であり、選択的判断とはこの全体が部分(従属的概念)に分かれたものと見なされるということであ る。
そしてある判断が他の判断に含まれることはないから、それらは互いに並列関係になることはあっても従属関係にはなることはない。その結果、それらは序列 の場合のように一方向に影響を与えることはなく、集合体の場合のように相互に影響し合う(選択肢の一つが選ばれた場合には、他の選択肢は排除される)と考 えられる。
様々な物が集まって出来る一つの全体についても、同様の結びつきを考えることが出来る。というのは、「結果」としてのある物が、その存在の「原因」とし ての別の物に従属するのではなく、両者は並列関係にあって、相互にそして同時に、それぞれが原因として他の物に影響を与えるのである。(例えば、物体の各 部分は相互に引きあっており、反発しあっている)
この結びつきは、単なる原因と結果(根拠と結論)の関係に見られる結びつきとは全く異なっている。後者の場合には、結果の方が反対に原因に対して影響を 与えることはないから、結果が原因と一緒になって一つの全体を形づくることはない(例えば、世界の創造者が世界と一緒になって全体を形作ることはない)。
知性は、部分的な概念を一つに合わせた領域を思い描くときには、ある物が分割可能であると考えるのと同じ振舞いをする。そして、前者の場合に、部分的な 概念のそれぞれが互いに排除しあいながらも一つの領域に結ばれているように、後者の場合も、分割された部分のそれぞれが他の部分から独立して存在している が、しかもなお一つの全体の中で結ばれているのである。”
1788年 - 『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
義務=強制力=道徳法則への服従
=嫌々でもやれと命じる=不自由。
義務=神の命令=法則。
掟の哲学。
”最高善の第一の、そしてもっとも主要な部分である『道徳性』を必然的に完成するという課題である。この課題は永遠のうちにおいてしか十分に実現されないものであるから、〔人間の霊魂の〕『不死』が要請されるようになったのである。この法則はさらに、これまでと同じようにまったく偏向のない理性に基づいた公平な形で、最高善の第二の要素、すなわち道徳性にふさわしい『幸福』を実現することを可能にするものでなければならない。そのためには、この〔幸福という〕結果をもたらすにふさわしい十全な原因が現実存在することを前提にしなければならない。そこで純粋理性の道徳的な法則を定めることと必然的に結びついたわたしたちの意志の客体である最高善が可能となるための必然的な条件として、『神の現実存在』を要請しなければならない。わたしたちはこのつながりについて納得のできるように説明しなければならない。”
p.151 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役
“道徳法則はそれだけでは、〔その法則を遵守する者に〕幸福を『約束しない』。自然の秩序一般の概念から考えるかぎり、道徳法則を遵守することと幸福になることのあいだには、必然的な結びつきは存在しないからである。
そのためキリスト教の道徳論は、最高善の第二の不可欠な構成要素である幸福〔との結びつき〕の欠如を埋めるために、『神の国』の概念を提示している。神の国とは理性的な存在者が道徳法則に全身全霊をもって身を捧げる世界である。この神の国では派生的な最高善を可能にする神聖な創造主の力によって、自然と道徳が、それぞれ単独では無縁なものである調和を獲得するのである。”p.159-160
第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役
自己犠牲はキリスト教の特徴。わざわざ殉教者という言葉があるほどに自己犠牲賛美。でも支配層は自己犠牲をしませんよ。奴隷限定の自己犠牲。
“ このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的でもある最高善の概念を通じて、『宗教』へと到達するのである。これは『あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識する』ようになること、すなわち『ある他者の恣意的で、それ自体が偶然的な指示』として認識するのではなく、みずからの自由な意志それ自体の本質的な『法則』として認識するようになることである。”p.164
第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役
“だから道徳とはそもそも、いかにしてわたしたちがみずからを幸福に『するか』という教えではなく、いかにしてわたしたちが幸福に『値する』ようになるべきかという教えである。これに宗教が加わると、その場合は、わたしたちが幸福になるに値しなくならないように留意すればするほど、徳に応じた幸福にいつか与るのではないかという希望が生まれるのである。”p.165-166
第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役
“世界のうちで最高善を実現することは、道徳法則によって規定されうる意志の必然的な客体である。しかしこの意志にとっては、その心構えが道徳法則に『完全にふさわしいものとなること』が。最高善を実現するための最上の条件である。だから〔道徳法則に完全に〕ふさわしくなることは、その客体と同じように可能でなければならない。この〔道徳法則に完全に〕ふさわしくなることは、〔最高善という〕客体を促進せよという同じ命令のうちに含まれているからである。
しかし意志が道徳法則に完全にふさわしいものとなっていることは、『神聖性』であり、これは感性界に属するいかなる理性的な存在者にとっても、その現実存在のいかなる時点においても所有できない完全性を意味するのである。しかしこの〔道徳法則への〕ふさわしさは実践的には必然的に求められるものであるから、〔道徳法則への〕完全なふさわしさへの『無限につづく進歩』のうちにしか、みいだすことができない。そして純粋実践理性の原理によればこのような実践的な進歩を、わたしたちの意志の実在する客体として想定することは、必然的なことである。
177 霊魂の不滅の要請
しかしこの無限の進歩が可能となるのは、同一の理性的な存在者の『現存』と人格性が『無限に』つづくと想定する場合にかぎられるのであり、これが霊魂の不滅と呼ばれるのである。だから実践的には霊魂が不滅であるという想定のもとでしか、最高善は可能ではない。したがって霊魂の不滅は、道徳法則と分かちがたく結びついたものとして、純粋実践理性が『要請』するものである。ここで要請というのは、『理論的な』命題でありながら、しかもアプリオリに無条件で妥当する『実践的な』法則と分かちがたくむすびついているため、証明することができない命題のことである。”
p.145-146 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役
“時間とはわたしたちの感性的な直観のたんなる形式にすぎず、感性界に属する者としての主体が、像や観念を思い描くときにとらざるをえない固有の思い描き方にすぎないということである。”
p.90第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
“道徳律は世界における最高にして可能な善をわたくしのすべての行為の最終的な対象とすることを命ずる。けれどもわたくしは、わたくしの意志と神聖で善良な世界創造者の意志との一致によるよりほかに、この最高善の実現を望むことはできない。そして、最大限度の道徳的(被造物において可能な)完全と最大の幸福とが、その中でぴったりと釣合いをとって結ばれていることを表象させる全体の概念としての最高善の概念の中には、『わたくし自身の幸福』が同時に含まれているけれども、最高善を助成するために示される意志の規定根拠は幸福ではなく、道徳律(これは無制限にわたくしが幸福を求めるのを制約に基づいてむしろ厳しく制限する)である。
それゆえ、道徳とても本来は、いかにしてわれわれが自分を幸福に『す』べきかではなく、いかにしてわれわれが幸福に『値いす』るものとなるべきかという教えである。宗教がこれに加わってくるとき初めて、われわれが幸福に値いしなくはないように思いめぐらした程度に、いつかは幸福に与かるだろうという希望も入りこんできたのである。
或るひとが或ることもしくは或る状態をもつに『値いする』のは、そのようにもっているということが最高善と一致する場合のことである。ここでかんたんに知りうることであるが、すべてが値いするということは道徳的態度に関係する。というのは、この態度は最高善の概念にあっては、ほかのもの(この状態についているところの)つまり幸福に与かることの条件となるからである。そこでこの点からいって、道徳そのものは幸福の教えつまり、幸福に与かるための教えとされてはならないということになる。”p.110-111、カント『実践理性批判』樫山欽四郎 訳、『世界の大思想』第一六巻、河出書房新社
※『』は原文にはなく原文の傍点の代用。
∸―
カントの言う『英知界』『現象界』の意味
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1385377388?fr=pc_tw_share_q”
“まあ[現象界]てのは、簡単に言えば
我々人間が[理解出来る]又は[認識出来る]という《範囲》の事だな
カントの言う《理性》てのは、非常におおざっぱに言うと
《時空認識と、その認識のカテゴリーの当て嵌め》にある
まあ要するに、人間が認識出来るのは、結局全てが《時空》な訳なんだよ
この時空認識を、人間は先天的能力に当て嵌めて、様々に構築し、対象をカテゴリー分けしていくんだな
ま、簡単に言えば
《空を飛ぶ渡り鳥の群れ》が、綺麗な三角形を形成して飛んでいる[現象]を見た際に
我々の能力は《三角形が空間を移動している》と、認識出来る力を保有しているのだが
この《三角形を三角形と認識出来る》また《それが時間と共に、空間を移動している》と認識する事そのものが
まさに悟性、つまり《カテゴリーに当て嵌めている》という訳だ
つまり、我々人間は、世の中を理解する事が可能な《認識能力の範囲内》が、その時空認識と悟性による構築の範囲内であるとしたんだな
だから当然、我々は《想像》や《経験や知識》も、その能力基盤上にしか成り立たないのも、またしかりな訳だ
ま、つまり《英知界》てのは、その認識能力が《働きかけられない範囲》を指す事になる
例えば《人格》とか《信仰》とかなんかは分かり易いと言える
[あの人は人格者だ]
[彼の信仰心は素晴らしい]
まあ、良く聞く台詞だが、解るとは思うが、これらはもはや
《目にも見えない》し《音もしない》し、どうした所で《表現が出来ない》という訳だ
つまり時空認識やカテゴリーの範囲内に現れないという性格を持っている
だが間違いなく《人格》や《信仰》という事実は、そこに《在る》訳で、これは疑いようがないんだな
こういった、経験や理論を越えた物を、少なからず人間は保有出来る部分がある
《認識出来ない》のにも関わらず《在る》
これをカントは《人間は現象界に属しながらも、英知界に棲む》とした
その英知界が、いかに構築され、理論的に理解する事などは、人間には不可能であるんだな
何故なら、我々は《認識した事は、全て現象界》になってしまうからな訳だな”
∸―
野原燐 @noharra 5月31日
「カ ントは自由・魂の不死・神の現存在を「実践理性の要請」とすることで、人間の認識を超越した事柄に「理性的に」アプローチする道を示した。…宗教的な事柄 に合理性、すなわち理性的であることを要求するということは、それが個々人の恣意的な趣味判断や好みであることを許さないということである。
苫野一徳 @ittokutomano 2013年8月22日
カントの与えた答えは、「神の要請」。認識論的には神の存在は決して証明できないが、「最高善」の可能性を求めるのであれば、神の存在を想定する以外にない、と。
イシカワ トモヤ @Ishikawa_Tomoya 2013年3月16日
自 由意志などない、にもかかわらず自由意思はある(と「見なす」)。自由は義務(カント)、ということは、人間は自由(であること)の責任から逃れられな い、つまりは人間は本質的に自由であるということを認め引き受けなければならない、自由という刑に処せられている(サルトル)ということなのかな
ライト@不安定 @raitonshine 2012年11月9日
カントは「義務に基づいて行為できること」を「自由」と呼ぶが、それは「義務に縛られることができる自由」でもある。それは人間を抑圧から解放しない。自ら抑圧される自由。ある意味では(というか普通の意味では)とても不自由
筆硯独語(HikkenDokugo) @HikkenDokugo 2013年7月1日
カ ントにおいては、「魂の不死」と「神の存在」は要請される。この二つは、どーしても、立脚地、前提としてないと、どうしようもない。そもそも理性とか認識 とか世界に意味を見るとかが成り立っていないはずである。なんだけども、同時に、カントは、「神は、全知全能で、神は、すべて、ただ一つの例外
筆硯独語(HikkenDokugo) @HikkenDokugo 2013年6月30日
言い換えると、カントは、「神は全知全能で、神はすべてである、たった一つの例外を除いて…神は存在はしてはいない」と言ったとも解釈可能。
筆硯独語(HikkenDokugo) @HikkenDokugo 2013年7月1日
@HikkenDokugo ここからカント『実践理性批判』における「魂の不死」と「神の存在」の二つの要請が出てくる。(『実践理性批判』において本来の意味での要請とは、魂の不死と神の存在の二つだけ。『実践理性批判』において、「自由」は、本来の意味での要請ではない。)
ライト@不安定 @raitonshine 2013年6月2日
こっ からは僕の解釈やが、「カントは善と幸福の一致のために神(キリスト教的神)が要請されると考えた」のではなく、「善と幸福を一致させるために要請される ものをカントは神と呼んだ」と考えた方がスマートだと思うんだよね。そう考えると弁証論は神学というよりも政治学、社会学の領域になる
二荒山碑文 @FUTARASAN 2013年1月30日
【好きな言葉7】「人間は、理性的である故に自由であり、自由である故に道徳的である。その道徳性は最高善、つまり霊魂の不死と神の存在を要請する」(カント)
田蛙澄 @taatooru 2013年1月29日
カントやフィヒテは神を理論理性で証明することを避け、神を実践理性によって要請しようとした。しかし、ショーペンハウアーはそこで神なしに倫理が成り立つことを提示した。無神論の認識から倫理への進展。
もするさ @CLONE_P0806 11月28日
文学者や思想家にはクズエピや畜生エピに事欠かない人が多いよ。マルクスの話聞いてむしろエンゲルスの男気に惚れちゃうくらいにマルクスはクズだったし、ルソーなんて私生児振りまいた畜生畜生アンド畜生。
SCHEMA EXPERIE @SCHEMAeXPeRiExi · 9月7日
私たちが風景や絵画や音楽などに接したとき、時間と空間という形式を持つ直感能力で情報(感覚的知覚:印象)を捉えます。 これがカントの言う『感性』です。次に、いろいろな感覚的知覚を分類・整理してイメージを構築します。 このような論理的能力を『悟性』と呼んでいます。
森の中の詩人@morinosijin2011年5月31日
「また前者が感性の形式(空間・時間)によって成り立つ世界であることから、『感性界』と呼ばれるのに対して、後者は、それらの形式から解放されている、あるいは超えているという意味で、『英知界』とも呼ばれる。」(石川文康;カント入門)(補足:現象→現象体・感性界、物自体→可想体・英知界)
山田大輔@YA_DA1月4日
Wikipediaのカント「視霊者の夢」の解説が腑に落ちん。 「ウソかホントかわからんが、少なくてもこの世のことではないからどうでもいいんじゃねえの? 重要なのは、この世の中のことだろ?」って結論だと思うんだが。
11uk3w@11uk3w9月28日
カントもまた『視霊者の夢』のなかで私達の精神や魂が脳味噌にのみ宿る、というのはおおきな誤解である、現に頭部の一部を切除されても問題なく悟性を働かしている人間がいるのだから(逆に臓器の一部を切除して人格が変わった例も存在する)脳への信仰を改めるべきではないかということを書いていた。
京都大学哲学研究会@kyototekken7月14日
あれ、でも理性の限界を超えてることについてはわからないって純粋理性批判のオチと同じじゃね?この思想に哲学的な装いと無駄な文章力とを付け足すことで視霊者の夢ができたように、それをもっと大掛かりにしたらできたのが純理なんじゃね?みたいな話を例会後した
苫野一徳 @ittokutomano 2月23日
もっ とも、ソクラテスには、あえてすっとぼけて「無知」を装ってる感もあったり、「一緒に探求したい」とか言いながら、実は誘導尋問ぽいことをしていたり、ソ フィストの詭弁を批判しながらも、実は自分が一番詭弁を弄していたり、とかいうところもあって…でもそこが憎めなかったりもするんですが、笑
原田 忠男 @harapion 2016年10月8日
スウェーデンボルグに関してはイヌマエル・カントによる論評がある。『視霊者の夢』(講談社学術文庫)。『純粋理性批判』と同様、心霊は人間の認識能力を超えているいうものである。「この種の人々を焼き殺すことが必要であると思われたが、いまでは彼らの腸内を下剤で浄化するだけで十分であろう」
大田俊寛 @t_ota 2010年6月24日
● ニコニコ動画で、脳機能学者の苫米地英人と、参議院議員の藤末健三の対談を見る。 http://bit.ly/9tAFWV テンションの高い、熱のこもった対談。前半の通信法制をめぐる具体的な議論は興味深く、肯かされる点も多いが、徐々に話は怪しげな方向に向かってゆく。
● 以前にこのツイッターで、政治家や企業経営者が「成功哲学」というオカルト思想に感染しやすいと述べたことがあるが、この二人がたどり着くのも、典型的な 成功哲学。成功哲学は、アメリカのニューエイジ思想に端を発し、世界的に流行した後に衰退したが、このような形でいまだに残存している。
●その世界観の前提となるのは、精神的次元と物質的次元が究極的には一致するというもの。そこから、科学と宗教はいずれ一つになる、あるいは、意志の力によって現実を変えられる、という主張が出てくる。
●精神的次元と物質的次元が相互にどのような関係にあるのかということは、理系と文系を問わず、おそらくすべての研究者が直接・間接に関わっている問題である。そして、この問題について一つの典型的な見解を示したのが、哲学者のカントであると思われる。
●カントは、精神的次元(実践理性の領域)と物質的次元(理論理性の領域)は、多様な仕方で相互干渉しながらも、究極的には重なり合わないという二元論を 説いた。私を含め近代の学者たちは、カントの前提を踏まえた上で、その二領域が相互にどのような関係を持つかを研究している(はず)。
●ところが、慎重さを欠く一部の研究者は、自身のきわめて狭隘な知見や経験から、「精神と物質は同じだ!」「意志の力によって世界は変えられる!」とい う、安直な結論に飛びつく。そして、いつかは自分の意志の通りに世界を変えることができるはずだという、甘美でパラノイア的な幻想に耽溺する。
●この対談を見ると、成功哲学がどのような仕方でリアリティを獲得するのかを実感することができる。また、市民に求められているのは、政治家を個々の政策 レベルで判断すると同時に、各政治家が奥底で抱えている世界観や幻想のレベルでも判断することであると感じた。難しいことだが・・・。(終)
倫理教科Bot @bzliker10315 14 時間14 時間前
カント理論
理論理性=因果関係によって成り立つ自然界の事物を対象とした理性
実践理性=自ら法則を立てて意志に命令を下す理性
認識の対象は主観が有する先験的な枠組み=カテゴリーによって構成される という認識上のコペルニクス的転回論 #カント
猿元 @sarumoto 2009年10月21日
『カント 信じるための哲学』の1章を読んだ。
近代哲学を「客観世界はあるよ」説(合理論)と、
「そんなものは人それぞれの主観にすぎないよ」説(経験論)で整理して、そこからカントの理論理性批判と実践理性批判の話に持っていくわけね。たしかにセカイ系も、こう料理するとわかりやすいかもね。
﨟毬蛾子 @rokyugashi 3月16日
で、カントの世界共和国ってひょっとして、八紘一宇のこと?
自殺を考えてしまう存在@8th day @feelsosuicidal 2013年11月7日
カントの言う国際連盟は唯一つの巨大な国家とは違うのでしょうか?諸国家によって分割されているのが望ましいのは「歴史の途中」に思えますが @Morgenthau0217: (…)世界が諸国家によって分割されている状態の方が、唯一つの巨大な国家によって統合されてしまうより望ましい(…)
国際政治学たん @Morgenthau0217 2013年11月7日
@feelsosuicidal 良い質問だと思うわ。カントは、個々の国家は内部に法秩序を有しているが、個々の国家からなる国際関係は非法律的無秩序な状態だと見なしており、ホッブズに近かったの。
その状態は現実に戦争が起きてなくても「戦争状態」と呼ばれ、これを脱却するために「国際連盟」の設立を唱えたのね。しかも、その連盟は主権的権力を含まない、つまり連邦ではなく連合的な組織にすべきだと考えたの。
どうして連邦ではなく連合にすべきなのか。連合とは、そこに加盟する国々が、それぞれの国家主権を保持したままの国際組織ね。それに対して連邦とは、各国の主権を統合した、国家よりも上位の権力機構。確かにこのような連邦(いわば、世界共和国のようなもの)という理念は連合よりはるかに進んだ理念だけど、やはり現実性を欠くわ。さらにカントは、帝国的統治というものが、版図が拡がれば拡がるほど法の及ぶ力が弱くなるということも言及しているわ。そういうわけで、彼は「一つの世界共和国という積極的理念の代わりに、戦争を防止し、持続しながら絶えず拡大する連合という消極的な代替物のみが、法を嫌う好戦的な傾向の流れを阻止できる」と主張したのよ。
(拡大しきったらワンワールドじゃないか。)
無碍の一道@四苦八苦(ネトムヨ党) @mugenoichidou • 2010年3月22日
ス ウェーデンボルグ(諸説あり)、エドガーケイシー、シュタイナー、アランカルディック等のスピリチュアリズム、黒住宗忠中山みき出口王仁 三郎谷口雅春高橋信次等の新宗教、ニューエイジの人々、宇宙人からのチャネリングもみんな「輪廻転生」を説いている不思議。
(輪廻思想とキリスト教を融合させた神智学の影響。
スウェーデンボルグは輪廻否定ですが、輪廻転生に見える現象=霊が憑依して霊が話す、はあるとします。)
AK @ho_ro • 3月13日
“いきなりですが、イサク・ルリア(1534-72)について書きます。 彼は輪廻転生やグノーシス(キリスト教の教義から見ると明らかな異端思想です)を好んだ人物です。 カバラは「ゾハール」という書において、一応の集大成をみたと1500年頃までは考えられていました。”)
金田一 孝宜 @sisimaruONE 2013年8月23日
アポフェニアと脳の錯覚〕 「私たちの心は世界を組織化されたものと見るように設計されていると言われています」…中略…「どれほど優れた科学教育を受けたとしても信仰や神秘主義、超自然主義を捨て去ることは難しいと脳科学者たちは力説します」 http://geocities.yahoo.co.jp/gl/mrdk3dog_s/comment/20120915/1347692727 …
目的の国 @mokutekinokuni 2015年2月25日
東アジア共同体=大東亜共栄圏
世界共和国=八紘一宇
中尾 綾 @ayajet128 2015年2月24日
@kikuchi_8 @wayofthewind トム・ヨークのパートナーがダンテのアートを研究してたvia naoshiy: 自衛はロック、ルソー、カント、ヘーゲルがそれぞれ論じた公共哲学の伝統的なテーマであり、世界政府をつくって軍隊の一元化を唱えたのはダンテであった。"
菊池 @kikuchi_8 2015年2月24日
@ayajet128 @wayofthewind なるほど、ダンテは世界政府主義者だったのですね。社会契約論は大東社の啓蒙主義者・革命家の重要な教義の一つですね。カントは「永遠平和のために」という著書で世界連邦みたいなアイデアを出しています。ヘーゲル弁証法は秘密力の得意技ですね。
U @wayofthewind 2015年2月17日
子子子子子さんが「カントと国連と世界政府」について興味深いリツィートを展開中。 軍事ですらも哲学によって統べられるという点に着目したい。 https://twitter.com/kitsuchitsuchi
よーすけ @yoshimichi0409 3月23日
よーすけさんがねこたをリツイートしました
カントの『永遠平和のために』で展開されてる思想は、国連憲章の基になった事でも有名。EU=欧州連合もこの理念を抜きにあり得ない。世界連邦運動やトロツキーの世界革命論などはこのヴァリエーションと捉えるべき。大本教がカントに似てるのも明治期に影響を彼らが受けた証拠と言える。
よーすけさんが追加
ねこた @lakudagoya
世界連邦だってストア学派やカントなどのコピペだしな。 カントの本借りてきたよ。…
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Hiroyasu Misawa @B_March 2016年8月9日
100分で名著 カント:永遠平和のために わ、驚いた。カントはすでに世界統一国家(グローバリズム)と、平和連合(国連ですね)を比較して、 画一的、強圧的になるグローバリズムより、いざこざは絶えなくても大戦争にならない国連の方が良いと考えていたのだそうだ 哲学は侮れない…
純粋理性のアンチノミー
http://omg05.exblog.jp/17423213
カントのアンチノミー(二律背反)
http://philosophy.hix05.com/Kant/kant113.antinomy.html
菊池 @kikuchi_8 2012年5月9日
17) 鈴木氏の神道批判を読んだとき基督教宣教師の神道批判の物言いとそっくりだと感じたものだ。禅を神秘主義だとする鈴木大拙氏は、はっきり言って、同じよう にスウェーデンボルグに影響を受けていた、西洋的一神教的な終末思想に神道的粉飾を施した出口王仁三郎や浅野和三郎と同類だと思う。
prometheus@prometheus2054 ·
コロンビア大のコアカリキュラム①(文理問わず全員履修)
プラトン『国家』
アリストテレス『ニコマコス倫理学』、『政治学』
聖書(旧約、新約)
アウグスティヌス『神の国』
コーラン、
マキャヴェリ『君主論』『政略論』
デカルト『省察』
ホッブス『リヴァイアサン』
ロック『統治二論』
コロンビア大のコアカリキュラム① 後期課題図書。
ルソー『社会契約論』、『人間不平等起原論』
スミス『国富論』 ヒューム『道徳原理研究』
カント『道徳形而上学原論』
アメリカ独立革命関連文書
フランス革命関連文書
バーク『フランス革命の省察』
続く
コロンビア大コアカリキュラム①その2
ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』
トクヴィル『アメリカの民主主義』
ヘーゲル『歴史哲学講義』
ミル『自由論』
マルクス、
ダーウィン『種の起原』
ニーチェ『道徳の系譜』
デュボイス『黒人の魂』
フロイト『精神分析入門』
ウルフ『三ギニー』
コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書)
ホメロス『イリアス』、『オデュッセイア』、
『ギルガメシュ叙事詩』
ヘロドトス『歴史』
アイスキュロス『オレステイア』
ソフォクレス『オイディプス王』
エウリピデス『メディア』
トゥキディデス『戦史』 続く
コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書)その2
アリストファネス『女の平和』
プラトン『饗宴』
創世記、ヨブ記、ルカ書、ヨハネ書。
これは前期のみ。続いて後期へ
コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書:後期)その3
ウェルギリウス『アエネーイス』
オウィディウス『変身物語』
アウグスティヌス『告白』
ダンテ『神曲』
ボッカチオ『デカメロン』
モンテーニュ『エセー』
シェイクスピア『リア王』
続く
コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書:後期)その4
セルバンテス『ドン・キホーテ』
オースティン『高慢と偏見』
ドストエフスキー『罪と罰』
ウルフ『灯台へ』
いや~恐れ入るわw これを文理問わず必修科目の課題図書となっている。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 7月13日
そういえば、魔女狩りって フリーメイソン狩りの事を指してたって 説がある。
大魔王ニュートン陛下の手稿、 「Portsmouth collection」というらしい。 こっちのサイトの方が沢山載ってるので。 http://www.newtonproject.sussex.ac.uk/prism.php?id=1 ちなみに原本は何故かイスラエルの 国立図書館が買い占めちまったらしいw
(the Newton Project
http://www.newtonproject.sussex.ac.uk/prism.php?id=1)
フェイド大帝 @FeydoTaitei 7月10日
お前ら、イルミナティ メイソンの 開祖はあの物理学の大家、 ニュートンらしいぞ?
ニュートンが晩年、造幣局長に なった時に私服を肥やすために フリーメイソンを乗っ取ったのが 始まりらしいぜ?
まぁ、このニュートンが育てた 国際メイソンリーを巡って、 ウィンザー家やら、ヘッセンやら、 プロイセンやら、おフレンチやら、 フランクリンやら、ハンコックやらが 乗っとろうとするんだがなw
ちなみにオカルト色が強いのが ヘッセン系列のメイソン。 これは一時解散された時のイエズス会 の残党や、メスマー、スウェーデンボリも 取り込んでる。 で、薔薇十字系をかまして近代魔術結社を 生む。 ちなみにメスマーの系列に宮崎駿で 有名なカリオストロ伯爵がいるぜ?
で、ヴァイスハウプト系列の イルミナティは反オカルト系メイソン。 ドイツの原始メイソンの元締め の印刷屋ボーデとイギリスの 図書館長レッシンクが親玉だ。 ヘッセン系を潰すのが目的だ。
レッシンクの間抜けな所は、 彼の重用したユダ公のメンデルスゾーンが 実はイツィヒ家の子孫で、ヘッセンの 子飼いだと見抜けなかったことだ。
だが、ヘッセンもプロイセン王の 裏切りにより、一時期は壊滅に 追い込まれる。
だが、プロイセンが一次世界大戦を 経て衰退し、用済みになった ヴァイスハウプトがプロイセン王や ケニッゲ男爵に処分されると、 ヘッセンの子孫が今度はロス茶を 使って巻き返しを図ろうとする。
そして現在に至る。
ちなみにアメリカはフランクリン派と ハンコック派に分かれる。 フランクリン派は穏健で親英派で、 おフレンチメイソンの百科全書派 (9姉妹)とのコネが太い。
ハンコック派は反英的な武力派で、 独立をゴリ押ししたのはこちらの 方だ。
ちなみに建築物を建てて オカルトをやる伝統(東京タワー、 スカイツリー等)はイタリア ルネサンス 時代のメディチ家の子飼い建築家の アルベルティの理論が元になってる。 こいつはプラトン信者だった。
で、イギリスの建築大臣の イニゴ・ジョーンズがロンドン大火の 復興に任を受けて、イタリアに アルベルティの理論をパクリに 行ってくる。
つまり、やっぱり近、現代文明は ニュートンから派生したフリーメイソン のオ◯ニー史だったってオチさ。 一番ベタな陰謀論が本物だったって わけさ!
では!皆さん、ご一緒に! So〜 mote it be〜〜‼
あ、この英文、メイソンの有名な 呪文らしくて、道教の急急如律令の パクリね。
サンライズのエスカフローネの ラスボスもニュートンだったなw このアニメ、お前らがエヴァで トチ狂ってる間でひっそりと 放映されてたんだぜ? pic.twitter.com/NgZYjVbWlX
つまりだ、ねこたさんの言う 悪の魔術士はニュートン卿だったって わけだw 大魔王ニュートン卿に敬礼ッ‼︎
フェイド大帝 @FeydoTaitei 7月11日
まだ学研と三笠の日本史マンガしか 読めてないが、学研版の明治編、 明六社の解説、これフリーメイソンが 作った新聞社って何で書かないんだ?w Wikiも書いてねーなー。 フリーメイソンの公式サイトの 論文にはっきり会員のブラックという 外国人医師が設立したと書いてあるのにw
ってか、世界史の教科書でフリーメイソン の時代って項目作って載せとけよw あれだけ人類史で長く世界を独裁してる 政治体制を確立してるんだから、 無視出来んだろう。 仮にメイソン時代が滅亡しても 教科書には確実に残るんだろうし。
徳川幕府を作ったのが家康で、 キリスト教の開祖がイエスなら、 メイソン政権の創始者はニュートンだって ちゃんと書いとけよ?w
徳川幕府を作ったのが家康で、 キリスト教の開祖がイエスなら、 メイソン政権の創始者はニュートンだって ちゃんと書いとけよ?w
フェイド大帝 @FeydoTaitei 7月11日
大魔王ニュートン陛下の手書きの 手稿な。ネットで無料で観れる。 http://cudl.lib.cam.ac.uk/collections/newton …
(Newton Papers
http://cudl.lib.cam.ac.uk/collections/newton)
和訳の無い著作もあるんで貴重だぞ? 数学や物理学以外も出来る事が分かる。 なんてった大魔王だからな。
おかしいな、大魔王ニュートン様が 南海バブルで損した話ししか出てこないな。 乗っ取ったメイソンのコネを使って インサイダー取引きでボロ儲けする システムを作ったのも大魔王様なんだがな。
ところで、ニュートンと言えば、 万有引力のリンゴの木の話が有名だ。 あれは後世に作られた作り話だと 言われている。 実はリンゴの実はヨーロッパ圏では 長らく蛇がイブをたぶらかした時に エデンの園に生えてた「善悪の知識の 実」だと考えられていた。
旧約聖書にはそれが何の樹木だったのか は書かれていない。 イスラームではバナナという説も あるし、カバラではナツメヤシだった。 イチジクという説もある。 実際はリンゴの木という解釈は 昔の画家がたまたま描いたのが 自然と広まっただけなのだ。
ところがニュートン陛下は大魔王様だから、 やはりその名声にふさわしいエピソードが 必要だったのではなかろうか? エデンの蛇は悪魔サタンの化身で、 人間に原罪を負わせる要因を 作った大悪党でもあるから、 ニュートン=サタン=蛇という 構図
で、白雪姫の様に無垢な世界という 少女は「科学」という毒リンゴを 頬張る事になってしまった。 そして覚めない夢を見続けるのである……
もし、白雪姫を起こす王子様が ヘッセンだったらどうする?w
(ディズニープリンセスに学ぶこと @purinsesu_0701 9月5日
★白雪姫 生まれ:王女 推定年齢:14歳 恋人:王子 舞台:ドイツ 原作:グリム兄弟の『グリム童話』。もとはドイツのヘッセン州の民話。 pic.twitter.com/vlvJbhTTZ1
Verdun_843 モンティセロの丘で @Verdun_nkysjan 2012年9月17日
@ikousoft ちなみにシンデレラの起源はストラボンのロードビス島の話。ヘッセンの民話が元とされる白雪姫も、元を辿れば別の場所のお伽話がゆっくりと変化したものではないか、という説も根強い。
ニフィ @nifi_the_cat 2011年4月27日
白雪姫のモデル その2。ヘッセン州ヴァルトエック=ヴィルドゥンゲン伯フィーリップ4世の次女マルガレータ(ドイツ語)。厳格な継母(ハッツフェルトのカタリーナ)をもつ佳人で知られ、周辺諸国との政争の中、わずか21歳で世を去っている(実家の資料によると毒殺)。)
あと、ニュートンは盗作も平気でやる。 大魔王様だからな。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 7月7日
「石の扉」や「維新の暗号」で有名な 加治将一。Oー本教の出口汪との対談本 も出した。 実はこいつ、アンティーク コインの 投資本も書いてる。 pic.twitter.com/VQ15f3pGUs
これの何が重要かというと、 神聖ローマ帝国時代のドイツの 怪しいコインを紹介してる。 イルミのインゴルシュタッドにも近い バイエルン州のレーゲンスブルクの コインである。 pic.twitter.com/mZB7Nh57OC
(三角目玉から光が出ている画像!)
加治はこの本でフリーメイソンの 三角目玉の刻印されてるこのコインを 絶賛してるw メイソンヲタにはたまらない一品だとかw どうも神聖ローマ帝国時代のドイツに 何か秘密がありそうだな。
うーむ、神聖ローマ帝国って驚くほど 解説書ないのな。講談社の新書か ジェームス ブライスぐらいしかないぞ。 やっぱ触れて欲しくないのかねぇ……
登馬 @yasuraoka 2012年1月13日
1月13日(1635年)、ドイツ敬虔主義創始者、フィリップ・シュペーナー誕生。享年70。ドイツのルター派牧師。著書『ピア・デシデリア(敬虔な望み)』で、グループ聖書研究、回心の強調、説教の改革などを訴えた。ドイツの哲学者、カントの両親がルター派の敬虔主義を信奉していたという。
Jun Yoshii 由井純 @yoshii_jun 2011年7月15日
〖rigorism〗リゴリズム ⇒厳格主義げんかくしゆぎ 【厳格主義】げんかくしゅぎ 〘哲〙きわめて厳格に道徳的規律を守る立場。ストア学派の倫理説,キリスト教の敬虔主義,カント哲学の倫理説など。厳粛主義。リゴリズム。 #daijirin
h @_h_japan 2010年9月2日
カント哲学の背景となるドイツ敬虔主義(ルター派復興運動)は、「平等主義核家族地域から広まった脱宗教化(ディドロらの無神論的啓蒙思想)に対する、直系家族(権威主義=ルター派)による異議申し立て」だったわけか。家族類型で思想史も説明できてしまう。『新ヨーロッパ大全Ⅱ』p.222。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 6月13日
@FeydoTaitei 実はフィラデルフィアという町は ドイツ プロテスタントの原理主義派 のドイツ敬虔主義派の聖職者が 沢山入植した町なのだ。 特にケルピウスが重要である。
ケルピウスは根っからの終末論者で、 彼がフィラデルフィアに入植したのは この町が黙示録のハルマゲドン時に 唯一被害を被らない土地だと固く 信じてたからだ。 アメリカのメイソンは基本的に ドイツ敬虔主義の影響を濃く 引き継いでる。
中尾 綾 @ayajet128 2月24日
@kikuchi_8 @wayofthewind トム・ヨークのパートナーがダンテのアートを研究してたvia naoshiy: 自衛はロック、ルソー、カント、ヘーゲルがそれぞれ論じた公共哲学の伝統的なテーマであり、世界政府をつくって軍隊の一元化を唱えたのはダンテであった。"
菊池 @kikuchi_8 2月24日
@ayajet128 @wayofthewind なるほど、ダンテは世界政府主義者だったのですね。社会契約論は大東社の啓蒙主義者・革命家の重要な教義の一つですね。カントは「永遠平和のために」という著書で世界連邦みたいなアイデアを出しています。ヘーゲル弁証法は秘密力の得意技ですね。
国際政治学たん @Morgenthau0217 2013年12月22日
戦争の勃発を阻止し、国際平和を達成しようという構想は古くから度々提起されてきて、それは以下の6つのタイプに分類されるわ。 ①世界政府の実現による平和 ②国際法を通じての平和 ③民主主義の普及による平和 ④自由貿易を通じての平和 ⑤紛争の平和的解決による平和 ⑥力の均衡による平和
@Morgenthau0217 カントが『永遠平和のために』で着目したのは、③と④、そして諸国家からなる自由な連合(⑤が近いかな)。①の世界政府の実現を夢想したのは、サンピエールが有名。また、アクィナスやダンテも、その著作の中で全人類を包摂する世界帝国について語っているわ。
ayu @ayumi_smile 7月19日
「永久平和のために」1795年カント著。 国連の理念の父。 人々の"実践的理性"がいつも戦争を引き起こすような"自然状態"を捨てるよう国家に働きかけるべき、戦争を未然に防ぐよう国際的な法秩序を打ち立てるべき。 "地上の永久恒久の平和を保障することは義務だ。" "哲学の究極の目的"
みづはし @the_tenth_art 8月9日
デカルトは意識は松果体にあると言った。これは何でも物事を区分けして考えようとするアリストテレス以来の西洋哲学の悪癖。インド哲学では、ミリンダ王の問いに見られるように一つ一つに分解せずに物事を総体として見る考えがあった。車を車たらしめているのは車輪でも座席でもない。全体が車なのだ。
ライブドアニュース @livedoornews 11月24日
100RT:【興味深い】フリーメイソン、190年分、200万人の名簿をネットで公開 http://news.livedoor.com/article/detail/10870268/ … 公開されたのは1733~1923年の会員記録。ウィンストン・チャーチルやオスカー・ワイルドも会員… pic.twitter.com/YBobUSozi1
STB @RC_StB 2015年11月26日
ワイルドがメイソンなのは結構有名だよ 英語圏で検索すると、もっと広い範囲で、色々なカテゴリーの連中がメイソンに所属していることがわかるからやってみるといい。所属ロッジも出てくる アメリカの高級軍人には今も昔もメイソンが多い
narumiyamas @narumiyamas 2012年11月11日
歴博による『動物と人間の文化史』を読む。15年くらい前の本だが、日本人の動物観の構造をしるによい。日本には動物を象徴にしたものが少なく植物文様が多いこと。米中心と仏教と国家成立の三位一体がうむ肉食禁忌。
お読みくださり感謝!
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