10/27(土)日本映画スプラッシュ『僕のいない学校』上映後、日原進太郎監督をお迎えし、Q&A が行われました。
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日原進太郎監督:本日はご覧いただきありがとうございました。Q&Aの中で色々となぜこの話をつくったのかだとかをお話ししたいので、お付き合い下さい。よろしくお願いします。
司会:この作品は「学校とは教育かビジネスか」という問題に切り込んだ、挑戦した作品だなと思うのですが、なぜこの作品を撮ろうと思ったのかという企画の始まりのところをお話し頂けますでしょうか。
日原進太郎監督:僕はとある専門学校の元学生で、その学校を卒業してしばらくしてから学校の教員として働き始めました。約10年間以上働いているという状況です。
働き始めた時は、作品にあるような「教育かビジネスか」というところに疑問を持たないような、ただ学生を教育して送り出すというような学校であったのですが、徐々に、少子化の問題や社会的な問題もあると思うのですが、そういったところで自分はなぜここにいるのかだとか学校はなんのために存在するのかだとか、色々な疑問が自分の中に湧いてきました。
ある日、映画学科の機材室で一人座っていた時に、まさに本作でボーっと眺めているというシーンがあると思うのですけれど、ああいう状況に僕もなった時があって、その時にふと、この景色がいつかなくなってしまうのじゃないかという恐怖がありまして、それがすぐか何年後かはわからないのですけれども、早くてあと一年でなくなってしまう可能性もあるんじゃないかという恐怖があって、僕がいる場所、様々な学生が旅立っていった場所とか、実際にそこにいる学生たちの場所がなくなってしまうというのがすごく怖くて、これは映画に残しておかなければいけないと思い立った次第です。
そこで、一年半前になりますが先ほど舞台挨拶で出ていた鋤崎という同僚が辞める時期になりまして、僕が生きている証を、今までの学生の残像を残さなければいけないという気持ちになり、彼に「こういう映画を撮りたいんだ」という話をしました。それで、彼が賛同してくれて、そこから企画が始まりました。それに関して、今ここに出ている学生たちは一年生だったのですけれども、実際にそこにいる彼らと一緒に映画を作りたいという気持ちになって企画がはじまりました。
司会:作らなければならないと思いつつも、怖さもあったのではないですか?
日原進太郎監督:どの怖さですか?
司会:作った後に待っている、何が自分自身に起きるのかという、まさにラストシーンの後につながることだと思うのですけれども、上映前におっしゃっていたことにもつながることだと思うのですが…。
日原進太郎監督:この映画は、元々は僕ら職員と学生の物語をベースに考えてきたんですね。
ただ、今の僕らが抱えている、葛藤、悩み、なぜ僕たちはここにいるのか、学生に対してどういう教育をしていけばいいのか、学校ってなんなんだろうか、というところを語るためには、様々な大学や専門学校が今抱えている、入学者っていうものを気にしなければならない「ビジネス」という考え方っていうのは、作品の根底に流れているもので、それは表現しなければいけないとは思っていました。
作品を作ることによって、自分の周りに何かが起きてしまうという怖さはもちろんありましたが、共同脚本の鋤崎君は学校を辞めている状態で、僕がどういう風になっていくのかわからなかったのですが、最悪、辞職という扱いになったとしても撮らざるを得ないという状況でした。
司会:ありがとうございます。それでは皆さんからの質問に移って参りたいと思います。
日原進太郎監督:すみません、一発目なんですけど彼、高校の友達なんですよ。来ることは聞いていましたけど…、清風高校の天野君です。大学の教授やってます。
Q:まさかこんな風に紹介されるとは思わなかったんですけれども、日原監督とは高校も一緒で、浪人時代に二人でタイタニックを見に行ったこともありますので。
司会:ロマンチックですね。
Q:日原監督の作品は今まで、何気ない日常に価値を見出すというような形のものが多かったのですが、今回の映画はかなり強いメッセージ性があるように感じました。社会のビジネスか教育かっていうところを映し出しているというだけではなく、田原先生が学生に対してやってきたことっていうのはちゃんと学生に伝わっていた、というところであったり、ひとつのことに打ち込んでいた学生はちゃんと成功するということで、世の中がどう変わってもそこの部分はブレずにやらないといけないっていう、メッセージ性がすごくあるように感じたのですけれど、そのあたり今回は、このメッセージを「入れていこう!」という感じだったのでしょうか。
日原進太郎監督:いつもの作品はメッセージ入れようと思ってます。入ってると思います。で、共同脚本の鋤崎君と企画・開発をしていたときに、僕の映画はやはり淡々としすぎていて2時間はお客さんは見ていられないという話はもう先にされていて。長編とするとなると、そこに強いメッセージとかドラマチックな展開とか、そういうものをお客さんを意識して作っていこうという話は先にでておりました。
Q:本作は、学校での体験談だったり、事実だけなのか。それともいろんな学校とかを取材して出来たものなのかっていうのをお伺いしたいです。
日原進太郎監督:他の学校に取材はしてないんですけれども、やはり専門学校とか色々な学校の繋がりっていうのは教員なのでいろんな学校の教員さんと会う時がありまして。学校によっては業績があるとかないとかっていう差はありますけれども、同じ状況にあるだろうのだろうなという想像は安易にできたのでそこは取材はせず、自分たちの場所の描きたい話を中心に描いていきました。
Q:主人公の役者さんを選ぶときにどんな標準がありましたか。なぜいまの役者さんを選びましたか。あとは、日原さんは自分が主演することを考えたことはありますか。
日原進太郎監督::えっと、主演の嶺 豪一さん、僕は最初何も考えていなくてですね。共同脚本の鋤崎が、まだ脚本を書く前にこの役は嶺 豪一さんでいきたいと。別の堀江貴弘監督の『いたくてもいたくても』という作品をふたりで観たときに、この役は嶺 豪一さんにやってほしいと言われて。僕は、嶺さんは色々な映画に出ていて、僕と一緒にやるっていうイメージがなかったので「いやだ」と言ったんですが。「もう嶺さんしか考えられないでしょ」といわれて。僕も嶺さんを意識して脚本を書き始めたときには嶺 豪一さんにやってもらうしかないっていう状態になってました。
結果的に、言葉を出さなくても表情や姿で田原の感情を表現できる良い役者さんに巡り会えたなと思っております。
僕が主演をしないのは、汚いでしょ。2時間も僕の顔でるの汚いでしょ。そういう理由です。
※※※以下、ラストシーンを含めた内容についての言及があります。お読みの際はご注意ください。※※※
Q:このあと田原はどうなっていくんでしょうか。また、この学校はどうなっていくんでしょうか。
日原進太郎監督:ラストシーンなのですが、作っているときに2つの解釈をお客さんに委ねています。
ひとつは、田原はまず学校の考え方っていうものに結局朽ち果て、涙を流し、学生とともに別の場所を目指していくというラスト。もうひとつは学校と折り合いをつけて一時的には映画撮影をしに行くが、また戻ってくる。というようなラストシーンを思い描いております。人によって見方が変わると思いますが、僕自身は、田原は別の場所に行くという想定で脚本をもともとは書いておりました。お客さんが観たときにどう感じるかというような考え方で委ねておりますが。すいません、僕は、田原はどうなんでしょう。ただ僕はまだいます。結果的に作ったときはそうだったんですが、現在彼は戻ってきてるんだなって思ってます。すいません、なんかしどろもどろで。
ふたつめ、学校がどうなっていくか。フィクションとリアリティの部分で混在してわけがわからなくなっているのですが。この作品が出来上がって、全く関係ないところで繋げますけれど、この映画がこのように東京国際映画祭で上映されて、実際にそれが僕たちは非常に目標だったところで上映ができて誇らしく思っています。それが学校として、それを誇らしく考えてくれるのか。それとも、これは良くないことだと。良くないことってなんだよって話なんですけど。学校を批判しているものであるというような映画だと、そういう考えになるかどうかっていうのは、これから先一か月以内にたぶん判断が下されると思っていまして。それこそ僕自身がどうなっていくのかっていう判断がされていくものかなと思っております。なので、もしかしたら『僕のいない学校』が何か今の学校や、この中の学校を変える可能性もこれから決まっていくんだろうなと思っています。今はちょっとこの学校がどうなっていくかっていうところは現実とリンクしているのでなかなか僕のほうでも想像しがたいところではあります。