アッラーフについて語るスレ

121 : ななしのよっしん :2017/01/12(木) 03:12:49 ID: e5CMKpYxE+
教時代に遡って調べていくと、ヤハウェアッラーフは全然違うだ。
ヤハウェというのは暴火山だ。
それに対してアッラーフというのはだ。
三日月イスラム教シンボルに使うだろ。
アバ殿い石もからの隕石だと思われていた。
アバ殿では360々が祭られていた。最高アッラーフであった。
アッラーフには3人の女神がいた。
アッラートは女神マナートは運命の女神アル・ウッザーはだ。
女神であるアッラートの男性形がアッラーフだしな。
教である神道の中からを1人選んで一教に作り変えても、ヤハウェアッラーフと同じにはならない。
122 : ななしのよっしん :2017/01/12(木) 03:17:55 ID: e5CMKpYxE+
アッラーフの正体がヤハウェとは全く関係がないアラビアの土着の異教のであるってことは日本ではほとんど知られていない。
英語が分かる人はこれらの動画を見てみて。

Islam Exposed (Origin of Islam) - 暴かれたイスラムイスラムの起
https://www.youtube.com/watch?v=4Nj25qJw0iQexit

Allah the Moon God - であるアッラー
https://www.youtube.com/watch?v=dtnEqswE9XAexit

Allah the PAGAN Moon God - 異教のであるアッラー
https://www.youtube.com/watch?v=NeqVLMS1OLQexit
123 : ななしのよっしん :2017/02/01(水) 18:30:49 ID: aAX8q8p0B2
>>121
アバの石に関してそういう事なんだけどカアバそのものはブラックキューブ土星だよ。土星の習合こそがイスラム本質とも言えるね。
124 : ななしのよっしん :2017/08/03(木) 16:27:30 ID: oXFIpDlUpu
>>119
そういう「泥か泥でないか」という二元論は<哲学>掲示板でも書き込まれてたが、同じ人?

316ななしのよっしん2017/06/11(日) 20:35:27 ID: Tz0js4HmgT
人と泥のって何だろうって考えてきたんだけど、やっぱクリナメンに従うかどうかにあるんじゃない?結局クリナメンに従うしか出来ないっていうのは泥なんじゃないかっていうね。
だから各人が泥であるかどうかを決めるのは結局各自の言動にしかなくて、不実は人を泥にする、これが歴史の答えであり「メカニクス」として働いているものなんじゃないかと。
そういう意味では「人間の条件」って「不実に対する回避運動」という一点に懸かってるんじゃないかとね。振り返ってもそれだけが問われているように思えてならない。
125 : ななしのよっしん :2017/08/03(木) 16:28:36 ID: oXFIpDlUpu
324ななしのよっしん2017/06/27(火) 16:39:24 ID: UMuCDUcAh4
>>316
ポストモダン脱構築の批評以降に、どうやって「不実」を成立させる? 「人」「泥」「」「考え」「従う」「各自」「言動」「条件」「回避」「問」等にも言えることだが

たとえ「人」や「真理」が掲げられても、受け手同士が対立し、「真理の名におけるテロル」さえ起こす。かといって「泥」や「不実」が掲げられても、受け手は何も構築できない。何かを構築しても脱構築される。根本的な「人とは何か」「人は何をすべきか」といった「問」も脱構築される。

言葉は真理でも不実でもなく、表現でしかない。人文系の言葉にべて理数系のそれは物体を活用しやすいし、非物体(サイバー間や精)をもますます活用できるようになってきている。しかし理数系も理数的真理度の一層高い版へとバージョンアップされ続ける。言わば脱構築され続けるので、結局は表現だろう。

言語学者には異論あるかもしれんが
126 : ななしのよっしん :2017/08/09(水) 16:38:42 ID: 1cctojwAWl
アッラーってもしかして各個人の良心かもしれない・・・
それならわかりやすく良い宗教だな
127 : ななしのよっしん :2017/08/19(土) 13:14:36 ID: m3wfvxlK3r
アッラーと人
個人と個人
良心と悪心
わかりやすいとわかりにくい
良い宗教と悪い宗教
というような二項対立・二元論・二分法はオリエンタリズム的発想なのでNG

オリエンタリズム的というのはモダン的であり、対立関係という固定観念に留まっている
ポストモダンへ移ることで固定観念から解放される
128 : ななしのよっしん :2017/08/20(日) 19:38:03 ID: aAX8q8p0B2
>>125
「言葉は真理でも不実でもなく、表現でしかない」
私はこういった考えは持ってないけど御宅やその発言の人物がそうした考えを持ってるなら、そういった言動も含めてそれこそその人の貌形や姿形などなどに「表現」されているという事なんじゃないですかね。
それこそ言葉だけが表現じゃないという話にもなるんで。言葉は言動の片割れ。表現だから、オリエンタリズムだから、ポストモダンだから、二元論だから、脱構築だから、何かしらの口実を構えて不実であるか否かという追及並びに自問を免れる、御宅が其のように成すのであればそれは詮もない事。
そのように続ければどうなるかは自ら答えを出す事になるでしょう。私はその結果に予想が付いているのでそれに基づいて考思しているというだけ。
表現だから、オリエンタリズムだから、ポストモダンだから、二元論だから、脱構築だから、、、だから「泥」も「不実」も意味を為さないんだ、成立しない問いなんだ、それで行けると思うなら行ってみては?
現にそれだから「泥」も「不実」も御宅には何もかない言葉なんでしょうから、御宅自身がそれを自ら脱構築なり何なりし続けているんでしょうから。
129 : りかパパさん :2017/08/20(日) 20:24:11 ID: MsWaL5LFlz
弁護士アッラー、どちらが偉いのでしょうか?ここは法治国家なので弁護士だろうと思うのですが。
130 : ななしのよっしん :2017/08/21(月) 23:28:33 ID: m3wfvxlK3r
私と御宅 私とその人物 その人物と御宅 持つことと持たないこと 考えと貌形や姿形 言葉と言動 追及することと追及されること 自問することと他問すること 成すと成さない
続けることと止めること 答えを出す事と答えを出さない事 結果と原因 免れることと面すること 予想と回想 考思していると考思していない 片割れと両立 意味と意味  成立と不成立 行けると行けない 行くと行かない
弁護士アッラー 偉いと選くない 法治と非法治 こことそこ

どれも二項対立・二元論・二分法で、オリエンタリズム的でよろしくない
131 : ななしのよっしん :2017/08/21(月) 23:40:38 ID: m3wfvxlK3r
http://urx3.nu/Fp6Lexit オリエンタリズム - Wikipedia
差異による二項対立かオールタナティブへ
二項対立の図式は、せいぜい互いの立場を変えることがあったとしても、一方的な抑圧の関係性は結局のところ何も変わらない。
D. H. ウォンは、この作品[『エム・バタフライ』]を … オリエンタリズム脱構築だと言う。固定化された二項対立を排し、すべての関係性は転倒可であり、性差や人種に付与された役割はオールタナティブであることを示そうとする。女たらしのフランス人、妖艶で強く美しいドラゴンレディフリーセックス謳歌するスウェーデン
中国人虐殺人体実験した日本人、ケチな中国人女性性をすっかり捨てた紅衛兵――時間、場所の転換とともに、役柄/キャラクター入れ替わり現実幻想が交錯する。あらゆる役割は交換可であり、界は往来自由で、界線そのものが毎回ひき直され、固定化されるイメージ不可能性が示唆される。性差すら。
132 : ななしのよっしん :2017/08/22(火) 17:55:27 ID: aAX8q8p0B2
物体と非物体、モダンポストモダン、構築と脱構築アップグレードとダウングレード、受け手と作り手、OKとNG、対立関係と協調関係、
御宅に言わせればこれらも二項対立・二元論・二分法で何とやらになりますよね
何か気に食わない物言ってくる相手がいたら全部こうやって往なすという訳ですか、御宅がいうポストモダンとやらは随分使い勝手のいい思想なんですねえ。そこに対話可性は微もないですけど
133 : ななしのよっしん :2017/08/22(火) 18:07:49 ID: aAX8q8p0B2
ポストモダンだから二項対立でどうのこうの、そうした物言いを続けた結果はしっかりと言葉に、またそれ以外には発信者自身の姿形等にキッチリ「表現」される事でしょうね。言葉は表現でしかない、そう念じて聞かせるのも結構ですけど「表現」は言葉の他にも様々にありますよ?表
現っていうけど第一何が「表に現れた」んですかね、という話になりませんか?姿形・容貌も表現であり、にあったものが表に現れた、それが表現という言葉の持つ意味ですよ
134 : ななしのよっしん :2017/08/22(火) 20:20:11 ID: oXFIpDlUpu
>>128
結局ID: Tz0js4HmgTはID: aAX8q8p0B2なのか? まあ色々思いや考えがあるんだろうけど、それはいてなくて。「同じ人?」っていたわけで。

>>130
オリエンタリズムであっても何でも二分法に問題があるのはまあ分かる

しかし最近の哲学文系学問って何をやってるんだかわからん
大雑把に「東洋と西洋」とか「宗教と世俗」とか「イスラム近代化」という広い話をすると「オリエンタリズムだ!オリエンタリズムの二分法だ!」と批判する
一方、ある時代のある地域のある人物とかある出来事については、ひたすら細かく探していく

つまり厳密で精細な「知」をめる一方、全体的で統一的な「知」は排除するってことよね
そういうことやってると文系人間や文化人をくことに終始するあまり、社会学や科学の広範な成果に取り残されていくんじゃないですかと
135 : ななしのよっしん :2017/08/22(火) 21:49:41 ID: m3wfvxlK3r
モダンポストモダン 構築と脱構築  OKとNG 対立と協調
気に食わないと気に食う 相手と私 全部と一部 往なすと往なさない 表現と非表現 発信者と受信者 念じると念じない 言葉と言葉の他 表と裏
すべてモダン的でオリエンタリズム的な二分法に留まっている

何故ならポストモダン脱構築ポストモダン化され脱構築され続ける、つまり限後退がポストモダン
モダンポストモダンという二分法は、モダンポストモダン脱構築したポストモダンを導き出す
そしてモダンポストモダン脱構築したポストモダン脱構築したポストモダンも導き出され、無限ループする
有限に対する限、に対する限、に対する限と続くのがポストモダン、に対す(ry

http://prt.nu/1c/wexit
限後退
ある事柄を成立させている原因や条件をめて、その原因の原因、また、その条件の条件というように限りなくさかのぼっていくこと。

http://prt.nu/1d/wexit
脱構築
西洋哲学で伝統的に用いられる統一的な全体性や二項対立の組みを解体し、新たな構築を試みる思考法。

世界はすでに解釈されたテキストとして現前するにすぎない。脱構築とは,まさにこのテキストの連鎖を自由に横断し,そのずれの中に世界の生成の間を見いだそうとする,限に反復される試みである。

なんらかの絶対な真理を打ち立てようとする傾向と、反対に絶対な真理を解体しようとする傾向との、2つを同時に読み取っていくことをいう。脱構築的読解とも呼ばれる。
その背景には、マルクス義の運動のなかで、絶対の真理正義の名のもとで政治が互いに殺し合い反対者を大量に粛正したという事情があった。「真理の名におけるテロル」はいまなお、現代思想の最大のテーマであり続けている。

つまり「脱構築」の戦略とは、内部と外部、パロール(音)とエクリチュール(文字)、魂と体などの二項対立の階層秩序を打破し、ずらし、差異を生み出し続けることである。この差異を延ばし続ける運動を、デリダは「差延」diffranceと名づけた。これは「差異」diffrenceからの造で、発音は同じ「ディフェランス」である。
136 : ななしのよっしん :2017/08/22(火) 21:51:12 ID: m3wfvxlK3r
http://prt.nu/1d/wexit
脱構築の思想はラディカルである。二項対立を決定不可能なものとすることによって、と偽、善と悪などは相対化され、何の意味ももたなくなったとしたらどうなるか。デリダ脱構築は、ロゴスや真理への従から「記号の差延の戯れ」へと向かうことによって、最終的には「ニヒリズム」を包含するものであろう。

http://prt.nu/1l/wexit
ポストモダンの旗手柄谷行人氏、木田元氏、そのポストモダン脱構築している東浩紀

http://prt.nu/1f/wexit
あらゆる<現実>を権関係の所産としての構築物とみなした場合には、その<権>自体も観察者の言明による権的な構築物ということになる。事実ポストモダンは、そうした見方をし、自らに作用する権関係の分析をもその議論の射程に含めている。だが、その<自らに作用する権関係の分析>に作用する権関係についてはどうなのかというように考えた場合、それは限後退に陥らざるをえなくなる。

http://prt.nu/1g/wexit
日本人は『無限ループ』としての歴史を生きている。あるいは,昔から日本ポストモダンだった。

http://prt.nu/1i/wexit
過去ということは、解釈の結果の形でしかあり得ない。そして、解釈は体性に深く根ざしているから、解釈の可性は限にあります。それなら、過去の数も可性としては限に成る訳です。
今、私たちが生きているこのポストモダン世界では、確実性と言う慰めが失くなっていると同時に、逆に新しいチャンスが私たちに与えられているのではないかと私は思います。

http://prt.nu/1j/wexit 『ミステリで読む現代日本
ゾンビポストモダン的には<生者≠死者>と表記される。生者でも死者でもない厄介な存在。
137 : ななしのよっしん :2017/08/22(火) 21:53:38 ID: m3wfvxlK3r
http://prt.nu/1k/wexit 『夢と眠りの博物誌』
かつてロマン義的な世紀末を代表していた”吸血鬼”の犠牲者は、いまやすさまじい数となり、ロマンの香りを失った醜悪なゾンビとして全世界のいたるところで再生産されているのである。言ってみれば、二十世紀末は十九世紀末のコピーであり、二十一世紀はその初頭から、そのまたコピーなのである。コピーであるがゆえに、微ロマン(想像)もそこにはない。
人びとは自己についての観念を失い、つくりだされた欲望のなかをする。かつて「プロタリア」として影をもっていた人びとも、影を失い、自己についての観念を失った。「プロタリア」は蒸発して、ゾンビと化してしまったのである。
この社会システムが壊れるのは、おそらく、ゾンビゲットーの有刺線を破って押し寄せ、ゲットー管理者を食い尽くすときかもしれないが、そのとき、ゾンビの群れを下に見てヘリコプターで脱出できる者はもいないのである。
私は映画バイオハザード』からの喩で現在社会っているのだが、官欲望を感染させられるゾンビとは、言うまでもなく、資本がつくりだす仮想現実から逃れられないわれわれ自身なのである。ゾンビではなく、アンデッドと名称を変えても、事態は同じである。
こうした世界の一切を疑うとすれば、資本主義経済組織の巨大な秩序界[コスモス]から外れなければならず、バーチャルゲームを降りなければならない。
だが実は、それでもゲームを降りたことにはならない。フリーター引きこもりホームレスには資本のに対する意識的反抗が見られると言えないこともないだろうが、そうした存在も、巨大な資本の排出物としての非労働集団であり、労働には携わらないものの、やはり消費の一端を負わされているからである。
また、「生ける死者」のつくりだす幻想がすべての根底をなしているために、その幻想を取り除いたとしても、別の幻想が生み出されることになる。つまり、その幻想批判することは、もうひとつ別の幻想を生み出すにすぎないのである。
138 : ななしのよっしん :2017/08/23(水) 17:42:28 ID: aAX8q8p0B2
アレですか、現代思想版「コーランか」は「限後退かワンネスカルトか」だったという話ですか。御宅の言うポストモダンとやらの「布教」には大層便利そうな二択ですね
139 : ななしのよっしん :2017/08/27(日) 00:01:10 ID: m3wfvxlK3r
違うよ
「他者は、私が殺したいと意欲しう一の存在者なのである」
>>az4309414133exit_nicoichiba

>現代哲学には、【他者論】と呼ばれる哲学の分野があり、その代表的な哲学者がレヴィナス(一九〇六年―一九九五年)である。
そもそもの話をしよう。たとえば、「あいつってバカだよね」という文章があったとする。だが、その文章を丸ごと「括弧」でくくって、遠くから、バカにする「他者」の存在が可である。「『あいつってバカだよね』なんて言ってるあいつ自身が一番バカだよね」
だが、その言説も、丸ごと「括弧」でくくり出す他者が必ず存在する。「『『あいつってバカだよね』なんて言ってるあいつ自身が一番バカだよね』って言ってるあいつが一番バカだよね」そして、その言説も丸ごと「括弧」でくくり出して否定する他者が……。
限に続く「他者」の連鎖。どのような言説を述べようと、それを否定する「他者」の存在だけは決して否定できない。

>ユダヤ人だったレヴィナスは、第二次世界大戦中、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺により、家族、親族、友人のほぼ全員を失っている。
ユダヤ人として人間以下の扱いを味わった彼は、いつしか、ある恐怖にさいなまれるようになる。それは、人間がどんなに残に殺され死んでいっても、世界は何事もなかったかのように「継続していく」という事実そのもの……。彼は、明日、自分が殺されるかもしれないという恐怖と同時に、その死とまったく関係に存在し続ける「世界」に恐怖した。
彼は、自分が死んでもなお存在し続ける「世界」を恐ろしいものだと考えた。自分の生死に関心な「世界」……。何のために、何の意図を持って、そこにあるのか、まったく理解不可能な「世界」……。彼は、そこに絶対的な「他者」を感じるようになる。
それに触発され、他の哲学者たちも気がつき始める……。この世界が、たくさんの「他者」、すなわち、「私に対して関係にそこにあり、かつ決して理解できない不愉快な何か」で満ちあふれていることに……。

>現代哲学において「他者」とは、「私のを否定してくるもの」「私の権利や生存にまったく関心なもの」「私の理解をすり抜けるもの」など、さまざまな意味を表す抽的な言葉となっている。
140 : ななしのよっしん :2017/08/27(日) 00:02:34 ID: m3wfvxlK3r
>>az4309414133exit_nicoichiba

>ようするに、「自分の思いどおりにならない」「なんだかよくわからない」といった「いわゆる他人的な性質を持つもの」をすべてひっくるめて、哲学者たちがカッコよく「他者」と名づけた、という程度に思ってもらえればいいだろう。
結局、宗教科学哲学も、世界を何らかの形で記述して説明しようという試みの一つであるが、それはようするに、何らかの言葉の組み合わせであり、何らかの「囲い(文章)」を作ることなのだから、その囲いの外側には「他者」―すなわち「違うと否定するもの」「囲いに含まれないもの」が必ず存在してしまうのである。

>この他者論という観点に立つならば、「にも否定されない絶対的な真理」をつくり出すことは、どうあがいたって不可能である。人類は「他者」という異形の怪物の前になす術もなく敗北してしまったのだ。

>一方でこんなふうに捉えることも可であるように思う。「他者とは、私という存在を自己完結の独りぼっちから救い出してくれる一の希望であり、無限の可能性である」
どんな科学数学哲学をつくり出そうと、必ずその外部から「違う」と叫び、叩き潰してくる、まったく理解不で残酷な「他者」が現れるからだ。そして、その「他者」がいるからこそ、たちは自己完結の停滞に陥ることなく、限に問いかけ続けることができるのである。

141 : ななしのよっしん :2018/05/20(日) 02:13:52 ID: E90/4f1cTO
あら〜
キーワード「アッラーフ」でニコニコ動画を検索
タグ「アッラーフ」でニコニコ動画を検索