『1.4事変』年表 ~1998年編~
 1998.1.4
  長州力引退。取締役として当分の間、現場監督に専念する事になる。
  同日ドームのリング上から猪木の引退試合も発表される。
  この時、新日が猪木に提示した引退の交換条件は、功労金二億円の支払いと、
  猪木の新団体UFOのバックアップの確約だった模様。(結局、新日プロモが業務担当)

1998.4.4
 アントニオ猪木現役引退。当然の事ながら新日への影響力がさらに低下。
 猪木はこの後、K1と接触を謀るなど新日に対し揺さぶりをかける。

 1998.6.5
  小川直也が新日本プロレスを正式離脱。 記者会見に乱入し坂口社長に暴行。
  このアングルの蚊帳の外に置かれていた元後見人坂口社長は、予想以上に激怒。
  この辺りの坂口社長の動きには、新日の『脱猪木化』の狙いが見え隠れする。

1998.6.8
 坂口社長がUFOとの絶縁を宣言。
 「プロレス言語ではなく本当の意味での協力拒否。今後UFOとは関わらない」(坂口)
 後日猪木が小川の謝罪&謹慎処分を発表するが・・・
 「馬鹿らしくて相手にしていられない」(坂口)

 1998.夏
  小川は遂にK1に参戦。しかし安生戦反則負けの内容に各方面から酷評される。
 ( 尚、新日勢は小川の選択を『頑張って欲しい』とおおむね歓迎のコメントだった)
 
  一方、橋本はG1で8年目にして初優勝するが、試合後の控室で激しくフロント批判。
  「僕らしか思いつかない物を出して行く。今の体制が100%良い物だとは誰も
  思ってない。会社のアイディアも尽きてきたし、これからは我侭にいくつもり」(橋本)

1998.秋
 ドン・フライの起用法について猪木が新日に苦言。
 しかしこれは実のところ表向きで、実際は新日が大仁田を起用する事への猪木の
 大きな不満がこの発言の背景あるといわれている。

 「UFOの実体自体馬鹿げている。小川なんて俺の頭にはもう無いし、こんな状態なら
  UFOなんて作らなきゃ良かったんだ。佐山とは話し合ったはずなのに、またしても
  同じ過ちを繰り返すつもりなのか?その佐山に乗っている猪木さんは情けない。
  結局UFOはウチが手を貸さなければなにも出来ない団体だよ。今の所ウチは手を
  貸すつもりはないし、新日本を今更どうのこうの猪木さんに言われたくない」 (長州)

  1998.秋
   馳を介して三沢と三銃士が都内で数回に渡り極秘会談。近い将来の交流を約束。
   尚、三沢はこの時期、FMWにも交流の呼びかけをして馬場の了解を取っている。
   そしてこの話が、何故か長州の耳に入り長州激怒。
   (全日との交流に積極的な『坂口⇔三銃士』に対し、猪木も長州も不快感を隠さず)

1998.10月上旬
 猪木が石沢と藤田の引き抜きも示唆。
 これはチケット販売促進の意図があってのハッタリ発言と思われたが、
 選手会を中心に新日は必要以上に反発。

1998.10.24
 結局、UFO旗揚げ戦に新日本は選手派遣等の協力は行なわれず。
 (参戦をアングル混じりで告白した石沢も結局参加せず、フライ、ジョンストンのみ)
 最後には猪木が個人スポンサー頼みで客を集めるが、興行的には失敗に終わる。
 懲りずに猪木は次回UFO大会を12月30日に大阪嬢ホールで行なうと発表。
 大会名は『文句があるならかかってこい!』

1998.11月上旬
 猪木がアメリカでドンフライの引き抜き発表。フライ本人も同席。
 新日は見返りとして1.4ドームにおいて『新日対UFO 5VS5対抗戦』の実施を提案。
 しかしUFOは大阪城ホール大会の新日の協力が得られないためか、これを断固拒否。

1998.11月中旬
 新聞紙上で新日とUFOの水面下での対立が報じられる。
 アングルか否かの判断がし辛い状況に、週刊誌は事実報道のみに留まる。
 
1998.11月中旬
 新日から『固く』なっているUFOに対し、対抗戦を想定した公開スパーリングの要請。
 いわゆる合同練習でプロトを一からたてなおそうとするが、UFOはこれも拒否。
「馬鹿げている!」(佐山)            

  1998.11.16
   新日のシリーズ開幕戦で、選手会長橋本がUFO問題について記者会見。
   「選手もかなりナーバスになっている。へんな駈け引きは止めて欲しい。
    大阪に来いという事は、ウチの助けがないとUFOはやっていけないからだ。
    それならば、ビジネスとして正式にウチに要請すればいい。昔と今は違う。
    猪木さんは現役じゃないんだから、いまさら何を言っても仕方がない。
    単純に小川と俺がやればいい。それで良いんじゃないですか?
    まだ何か言うんだったら、つぶし合いをするだけ。得意中の得意よ。こっちは」(橋本)
  「橋本如きが黙っていろ!」(猪木)

 1998.11.18
  噂されていた大仁田が遂に新日マット登場。長州がリング上で応戦。
  彼の個人団体名は『USO』というかなり皮肉の効いたもの。

 1998.12月初旬
  大仁田の東京ドーム参戦が対戦相手が健介として発表される。
  ドン・フライは新日のシリーズに参戦。UFO大阪、新日ドームに向けて律儀に話題作り。

 1998.12.7
  新日のドームのカードが発表されるがUFOとの対抗戦は後日発表という形に。
  『新日本VSUFOは今だ霧の中・・・』(週刊プロレスの見出し)

1998.12.8
 ドームにおける『新日対UFO』の対抗戦が、『大紛糾の末』(週刊プロレス)発表される。
 結局、『橋本対小川』『ジョンストン対フライ』『永田対べネトゥー』の3試合に。
 ここで注意すべき点は、全員不穏試合に対応できるようなメンバーをUFOが出した部分。
 尚、この対抗戦のルールは、ドーム当日まで紛糾していく事になる。
 また同日、UFO大阪もカード発表されるが、『TVの問題のため』に新日勢は不参加に。
 「興行の裏合戦はもういい。今回は絡むがUFOは自力でやっていける」(猪木)
 猪木はその足で渡米。帰国予定は21日。

1998.12.9
 『橋本対小川』を巡っての新日とUFOの対立が表面化。
 橋本は「プロが憂鬱な物を見せて何になる」と、小川サイドの狙いを直接的に批判。

  1998.12.23
   G1時に続き橋本がまたしてもフロント批判。IWGP挑戦者決定ト―ナメントについて。
   しかし実際問題になったのは、橋本が同日に行なった三銃士中心の『新体制樹立』に
   ついての発言だったように思われる。三沢との密約を知られた事が命取りだったか?

 1998.12.25
  新日が橋本の無期限出場停止を発表。何故か小川戦は例外。
  さらに報道陣に対し橋本への個人取材の禁止も通達される。
  「もし同じものが障害になっているのなら、その点においては橋本に協力する」(蝶野)

1998.12.27
 猪木が橋本問題に言及。
 「小川戦で橋本がUFOに対応できるか見てやる。橋本の入社試験だ」(猪木)
  「小川は俺をビックリさせろ。大仁田の毒を消して連中の目を覚ましてやれ」(猪木)  
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