〔第四節 俗流マルクス主義者の階級意識〕
意識をめぐっての以上のような闘争のなかで決定的な役割を果すのは、史的唯物論である。プロレタリアートとブルジョワジーとは、経済生活においてとおなじくイデオロギーにおいても、たがいに対《つい》をなしていなければならぬ階級である。ブルジョワジーの立場からは崩壊の過程つまり永久の危機としてあらわれる過程は、実はプロレタリアートにとっては、もちろんブルジョワジーのばあいとおなじく危機の形においてではあるが、勢力の蓄積つまり勝利への跳躍台という意味をもつ。このことのイデオロギー上の意味はきわめて大きく、つぎのようなことになる。すなわち、社会の本質を洞察することを深めることは、ブルジョワジ-の長期にわたる断末魔の苦しみをあらわすこととなるのだが、それとは反対に、この洞察はプロレタリアートのばあいにはこの階級に組する力がたえず増加するということ、このような意味になる。プロレタリアートにとっては、真理とは勝利をもたらす武器であり、しかも、それかひたむきであればあるほど勝利をもたらす武器となる。ブルジョワジーの科学は、史的唯物論と戦うばあいにはやけくそになって荒れ狂うのであるが、このことは、ブルジョワ科学がイデオロギーのうえでこうした土壇場にたつとたちまち、その科学性がなくなってしまうということをみれば、あきらかになる。また同時に、社会の本質の正しい洞察が、プロレタリアートにとってしかもプロレタリアートにとってのみ、もっとも重大な勢力の要因であるわけも、いやこの洞察がおそらく決定的な武器そのものであろうというわけも、同時にわかってくるのである。
俗流マルクス主義者たちは、意識がプロレタリアートの階級闘争のなかでもつこうした独特の機能を、たえず見おとしている。そして、かれらは客磯的に経済的な過程という究極の問題にもとづいている大きい根本的な闘争をは、ささいな「現実の政策」におきかえてしまった。もちろん、プロレタリアートはあたえられた目前の状態から出発しなければならない。だが、プロレタリアートが他の諸階級とちがっている点はなにかといえば、それはプロレタリアートが歴史の個々の出来事に立ちどまりはしないし、また、たんにその出来事によって動かされるものではなくて、みずから歴史の原動力の本質をなし、中心となって行動し、歴史的発展過程の核心に影響をおよぼすということなのだ。俗流マルクス主義者たちは、この中心の視点つまりプロレタリアートの階級意識の――方法的な――起点から離れることによって、かれらはブルジョワジーの意識の段階にたっている。しかもこの段階つまりブルジョワジー自身の土俵の上では、経済上でもイデオロギー上でもブルジョワジーのほうかプロレタリアートよりもすぐれているのだということをみておどろくのは、ただ俗流マルクス主義者だけである。ところでまた、もっぱらかれらの立場のためにおこるこの事実から、ブルジョワジーのほうが一般にすぐれているのだ、などと結論するのもまた、俗流マルクス主義者だけである。というのは、ブルジョワジーは――かれらの現実の権力手段をいまやまったく度外視しても――この土俵の上では、プロレタリアートにくらべて知識なり熟練なりをより多く自由にできるということは、自明のことだからである。のみならずブルジョワジーは、自分の基本的な考えかかれらの敵によって認められると、みずからなんの苦労もなしに、すぐれた地位をしめるものだといっても、なんらおどろくことはないからだ。プロレタリアートは、知識や組織の点ではすべてブルジョワジーにくらべて劣ってはいる。だが、かれらかブルジョワジーよりすぐれている点はもっぱら、プロレタリアートこそが社会をば中心から、つなかりをもつ全体として観察でき、したがってみずからが中心となって、現実を変革すべく行動できるということ、また、プロレタアートの階級意識にとっては理論と実践とは一致するということ、したがってプロレタリアートは自分の行為をば意識的に決定的な要因として歴史的発展という秤にかけることができる、ということにあるのである。もし、俗流マルクス主義者たちが理論と実践の統一を破るならば、かれらはプロレタリアートの理論をプロレタリアートの行動に結びつけている結び目をたちきることになる。かれらは、理論をば、社会の発展の徴候を科学的にとりあつかうものに、ふたたび堕落させ、実践といえば、ある過程のひとつひとつの成果を、よりどころもなく目当てもなしに、迫いまわすことだと考え、その過程を思想的に支配することが方法的にできなくなるのである。
俗流マルクス主義者の立場からでてくる階級意識は、ブルジョワジーの階級意識とおなじ内的構造をしめすにちがいない。ところで、このばあいにも、おなじ弁証法的矛盾が発展にしいられて意識の表面におしだされるならば、その矛盾の結果は、プロレタリアートにとっては、ブルジョワジーのばあいよりもいっそう不吉なものとなるのである。なぜなら、つぎのような理由があるからだ。ブルジョワジーのなかでおこる「虚偽の」意識の自己欺瞞というものは、すべて弁証法的な矛盾つまりすべて客観的ないつわりであるにもかかわらず、すくなくともかれらの階級状態と一致している。なるほど、「虚偽の」意識はブルジョワジーを没落からつまりこの矛盾がたえず激しくなることから救いだせない。だが、「虚偽の意識」のためにブルジョワジーは闘争をさらに拡大する内的可能性をもつことができる。つまり、たとえ一時的なものであるにせよ、かれらは成功するための内的前提をえることができるのである。ところがプロレタリアートのばあいには、「虚偽の意識」はこの内的な(ブルジョワ的な)矛盾をもっているばかりではない。それはまた、プロレタリアートが経済状態に――かれらが経済状態を考えていようといまいとどうでもよいのだが――、かりたてられてなさざるをえない必然的行爲をはばむものなのである。プロレタリアートはプロレタリアートらしく行動しなければならない。ところが、このばあいかれらだけがおちいりやすい俗流マルクス主義的理論は、かれらか正しい方向を眺めるのをさまたげるのである。そこで客観的・経済的に必然的なプロレタリアートの行動と、俗流マルクス主義的(ブルジョワ的)な理論とのあいだには、弁証法的矛盾かできて、それがしだいに大きくなってゆく。すなわち、正しい理論がプロレタリアートの発展を進めるという意味、または虚偽の理論がそれをはばむという意味は、階級戦争の決戦が近づくにつれて、大きくなってくるのである。「自由の王国」、つまり「人類の前史」の終焉が意味するのは、まさに、人間相互の対象化された関係すなわち物象化が、力を失い、人間はそこから解放されはじめるのだ、ということである。こうした過程がその目的にちかづけはそれほど、プロレタリアートが自分の歴史的使命にたいしてもつ意識、つまりプロレタリアートの階級意識はますます大きい意味をもつ。すなわち、かれらの階級意識はプロレタリアートのどの行為をもますます強く直接に規定するにちがいない。なぜなら、この原動力の盲目的な力というものが「自動的に」自己止揚という自分の目的へとすすむのは、その目的となっている点が手のとどかない遠いところにあるばあいにかぎられているからである。「自由の王国」へと移る瞬間が客観的にあたえられているならば、このことは、原動力の盲目的な力が文字通り盲目的となり、たえず増大する外見上では反抗できない力で没落へと突進する、そして、人類を破局から救いだすことができるのは、プロレタリアートの自覚的な意志だけである、というそのことにあらわれる。いい方をかえれば、こうである。資本主義の最後を決する経済恐慌かやってくると、革命の運命(それとともに人類の運命)は、プロレタリアートがイデオロギーのうえでどれほど成熟しているかということ、つまりかれらの階級意識いかんにかかっているのである。
階級意識はプロレタリアートにたいしては、他の諸階級のばあいとは反対の機能をはたすのであるが、このプロレタリアートの階級意識がもつ特有の機能は、以上のようにして規定される。プロレタリアートは階級社会一般をなくすることなしには、階級としてみずからを解放できないというまさにこの理由のために、プロレタリアートの意識すなわち人類の歴史上での最後の階級意識は、一方では社会の本質を暴露することと一致し、他方では理論と実践とのますます緊密な統一とならざるをえない。プロレタリアートにとってかれらの「イデオロギー」は、かれらが闘争するばあいの旗でも本来の目的設定の仮面でもなくて、目的設定そのものであり武器そのものなのである。プロレタリアートのとる戦術が原理的でなくなるとか、原理をうしなうとかすると、それはすべて、史的唯物論を単なる「イデオロギー」にまで引きさげ、プロレタリアートにブルジョワ的な(または小ブルジョワ的な)闘争手段をおしつけることになる。すなわち、戦術が原理を欠けば、プロレタリアートの階級意識は歴史を推進する作用をはたせなくなり、ブルジョワジーの階級意識にみられるような、単につけたりにすぎない、ないしは歴史の前進をはばむ(だから、プロレタリアートを阻むにすぎない)役割しかはたせなくなる。そうすれば、プロレタリアートは自分の最上の力を奪われてしまうことになるのである。