〔第三節 ブルジョワジーと小ブルジョワジーの階級意識〕
ブルジョワジーとプロレタリアートだけが、ブルジョワ社会の純粋な階級である。すなわち、ただこれらの階級存在と発展がもっぱら近代的な生産過程に基づいているのであって、全社会を組織する計画は、一般にそれらの生存の諸条件だけから考えることができる。その他の諸階級(たとえば小市民とか農民)の態度は、動揺していたり歴史の発展に役だたなかったりするのであるが、そのようになるのも、それらの存在が、もっぱら資本主義的な生産過程で占める地位に基づいてはおらず、身分社会の残存物としっかり結びあっているからである。したがって、かれらは資本主義的発展をうながそうと努めたり、あるいは自分を乗りこえてその発展を押しすすめようと努めたりはしないで、一般にその発展を逆行させようとするかそれとも、すくなくともそれを完全に展開させることはしない。たから、こういう階級は、資本主義の発展の徴候に注意しているだけであって、その発展そのものには関心をもたない。つまり、社会の部分的な現象に意をもちいるだけで、全社会の構造には注意しないのである。
こうした意識の問題は、たとえば小ブルジョワ層のばあいのように、目的を立てる仕方や行為の様式としてあらわれる。小ブルジョワ層というものは、すくなくとも一部分は資本主義的な大都市で生活し、かれらの生活活動のすべてにわたって直接、資本主義の影響をうけているのであるから、ブルジョワジーとプロレタリアートとの階級闘争という事実に、まったく無関心でいるわけにはゆかない。ところが、小ブルジョワ層は自分をば、「両階級の利益が同時に中和していて、……およそ階級対立のうえに超然としている過渡的な階級」だと考えるだろう〔1〕。だから、かれらは「両極端すなわち資本と賃労働との両方をなくすことではなくして、その対立をやわらげて調和させるため」の道を求めるのである〔2〕。したがって、社会の運命を決定するといったようなことにはすべて直接に立ちいらず、階級闘争の二つの方向にたいしてつねに無意識にではあるか、あるときにはブルジョワジーの側で、またあるときにはプロレタリアートの側で戦わざるをえない。小ブルジョワ層の独自の目的は、もっぱらかれらの意識のなかにこそ存在するのであるが、階級闘争のばあいにはつねに、いよいよ骨ぬきされた、いよいよ社会的行為からかけはなれたまったく「イデオロギー的な」形態とならざるをえないのである。小ブルジョワ層は、かれらの目的の立て方が、たとえばフランス革命で身分階層が廃止されたばあいのように、資本主義の現実の経済的な階級利害と一致するかぎりでのみ、歴史的に積極的な役割を果すことができる。このような目的設定の使命が果されると、かれらの――形式上は大部分やはりかわることのない――活動は、(一八四八―五一年の山岳党のジャコバン主義〔p43〕のように)、現実の発展とかけはなれたカリカチュア的な性質をますます多くおびてくる。小ブルジョワ層がこのように社会全体に関係をもたないのは、かれらの階級の内部構造によるのであるが、こんどは逆に社会全体に関係をもたないということが、その階級の内部構造、つまり階級として組織する可能性に、反作用をおよほすようになる。このことは農民の発展をみればきわめてはっきりする。マルクスは次のようにいっている。「(分割地農民は、おびただしい大衆をなし、そのメンバーはおなじような状態で生活しているが、そのくせけっしてたがいにいろいろなかたちで関係しあうことはしない。かれらの生産様式は、かれらをたがいに交際させないでたがいに孤立させる。……ひとつひとつの農業家族は……こうして生活資材を社会との交換よりも、むしろ自然との交換からえている。……数百万の家族が、ある経済的な諸条件のもとで生活しているのだが、そのばあい自分の生活様式や利益や教養がほかの階級のそれらとはちがっており、しかもそれらとはまったく反対であるかぎりでは、かれらはひとつの階級をかたちづくっている。分割地農民のあいだにはほんの地方的な関係があるにすぎず、かれらの利益が同一であるとしても、かれらのあいだにすこしも共同や国民的結合や政治組織がうまれないという点では、かれらは階級をかたちづくってはいない〔3〕」。したがって、こうした農民大衆を一般に統一的に運動させるためには、戦争とか都市の革命などのような外的な変革が必要なのである。そうしたばあいにも、かれらは自分の合言葉でこの運動をみずから組織できないし、またこの運動をかれら自身の利害にあった積極的な方向にむけることもできない。ここで、大衆の統一的な運動が(一七八九年のフランス革命や一九一七年のロシア革命のように)進歩的な意味をもつものなのか、それとも(ナポレオンのクーデタ〔p44〕のように)反動的な意味をもつものであるのか、どちらなのかという問題は、ブルジョワジーとプロレタリアートという戦う階級の状態や、階級を指導している党の意識の高さによって、きまる。だから、農民の「階級意識」がうけとるイデオロギー的形態もまた、他の諸階級のそれらよりも内容的に変化のおおいものなのである。すなわち、農民のばあいにはそのイデオロギー的形態はつねに、ひとつの借りものにすぎない。だから、部分的にせよ全体的にせよ、この「階級意識」に基礎をおく党というものは、(一九一七年から一九一八年までのエス・エル〔社会革命党〔p45〕〕のように)まさに危機の状態にあっては、けっして確固とした支柱をえることができない。それだから、おそらくかれらは、相対立したいろいろのイデオロギー的な旗のもとにでも農民運動を戦いぬくことができる。たとえば、理論としての無政府主義とか農民の「階級意識」の特徴をよくあらわしていることなのだがロシアの中農や富農がやったいくつかの反革命的な蜂起や農民運動〔p45-2〕は、その目的を立てるうえでイデオロギー的にこうした小ブルジョワ的社会観と関係していた。だから、(農民階級は、一般に厳密なマルクス主義の意味で階級とよばれるにしても)、この階級のばあいには本来、階級意識について語ることはできない。これらの階級は自分の状態をじゅうぶん意識すれば、いくら努力をはらっても、自分たちはしょせん歴史の発展の必然性のまえには望みのないことかかれらにわかるであろう。したがって、こうした階級にあっては、意識と利害とはたがいに矛盾する対立の関係にある。ところで、階級意識はほんらい階級利害に還元すべき問題として規定されるものであるから、このことを考えても、直接にあたえられた歴史的現実のなかで小ブルジョワ層の階級意識が発展性をもちえないということが、哲学的にあきらかとなるのである。
階級意識と階級利害とは、ブルジョワジーのばあいにもまたたがいに対立しあう、つまり矛盾しあう関係にある。ただこのばあい、小ブルジョワ層のばあいとはちがって、この矛盾は対抗的なものではなくて弁証法的なものなのである。
ブルジョワジーと小ブルジョワ層のばあいの二つの対立のちがいを簡単にのべると、それは次のようになるだろう。すなわち、ブルジョワジー以外の階級では、生産過程におけるかれらの状態やそこからおこってくる利害のために、階級意識の成立がさまたげられざるをえないのであるが、ブルジョワジーのばあいには、こういった要素が階級意識の発展をうながすものとなる。ただこのばあい、ブルジョワジーの階級意識は、それが発展しつくすと自分自身と解決できない矛盾におちいり、その結果、自分を止揚するという悲劇的な呪に――もともと本質的に――とりつかれている、という限界があるのだ。ブルジョワジーのこの悲劇的な状態は、歴史的には、かれらが自分の先行者である封建制度をまだ打ちたおしてしまわないうちに、新らしい敵であるプロレタリアートがすでにあらわれてきたという点にある。ところで、ブルジョワジーのこうした悲劇的な状態が政治的にあらわれた形態はどのようなものであるかといえば、それは、かれらが「自由」の名のもとに社会の身分的な組織と戦ったのだか、勝利をえた瞬間には、自由は新らしい抑圧にかわらざるをえなかった、ということだ。この矛盾は社会学的にみると、つぎのようになるだろう。なるほど、階級闘争はブルジョワ社会の形態をまってはじめて純粋にあらわれ、また、それはブルジョワ社会の形態ではじめて事実として歴史的にたしかめられるのたが、ブルジョワジーは理論的にも実践的にも、すべてをとして社会意識から階級闘争という事実を消しさってしまわざるをえない、という点にこの矛盾はあるのだ。ところか、この矛盾をイデオロギー的にみると、それはつぎのようにいえる。すなわち、ブルジョワジーが発展すれば、一方では個性にはいままでなかったような新らしい意味がでてくる。だが他方では、個人主義をつくりだす経済的諸条件のために、つまり商品生産が物象化をつくりだすことによって、凡ゆる個性が捨てさられる点に、上でのべたのと同じ分裂がみられる。こうした点に、矛盾はあらわれているのだ。ところで、これら一連の矛盾は、いままであげてきた事例だけで論じつくせるものではない。むしろ、限りなくつづくものなのだ。ところで、こうした矛盾はすべて、資本主義そのものがもつ深い矛盾の反映であって、この矛盾は、ブルジョワ階級が生産の総過程でしめている状態におうじて、かれらの意識のなかにあらわれてくるのである。だから、これらの矛盾は、ブルジョワジーの階級意識のなかで、弁証法的矛盾としてあらわれてくるのであって、単に、自分の社会秩序の矛盾をつかむことができないという完全な無能力さとしてあらわれてくるのではない。なぜなら、資本主義とは一方では、その傾向からして全社会を経済的に完全に貴ぬいている最初の生産秩序であり〔4〕、その結果、ブルジョワジーは生産秩序という中心点から生産過程の総体について(自己の階級利害に還元して)意識できるにちがいないからである。とはいうものの、他方では資本家階級が生産のなかでしめる位置とか、かれらの行動を規定する利害とかのために、かれらは自分の生産秩序を――理論的にすら――支配できない。その理由はきわてたくさんある。まず第一に、資本主義にとっては、生産が階級意識の中心点となるのは外見だけのことである。だから、生産が社会秩序をとらえるばあいの理論的視点となるのも見せかけにすぎない。マルクスはすでに「生産だけを眼中においたといって、非難される」リカードが、「もっぱら分配を経済学の対象として規定した〔5〕」ということを強調している。ところで、資本の具体的な実現過程を詳しく分析するならば、個々の問題のどれについてもあきらかになることからは次のような点である。すなわち、資本家が生みだすのは商品であって財ではない、だから、資本家の関心は、(生産という視点からみれば)副次的な問題である流通という視点をどうしても固執せざるをえない。いいかえれば、資本家は――自分にとって決定的に重要な――価値増殖にとらわれているから、経済現象を認識するばあいに、そこからはきわめて重要な現象を一般的に認識できないような視点をとらざるをえない、ということである〔6〕。なお、このように資本家の関心と認識が正しくないことは、さらにつぎのことのために激しくなる。すなわち、資本関係そのもののなかで個人的原理と社会的原理とが、したがって私有財産としての資本の機能と資本の客観的・経済的機能とが、たがいに弁証法的に矛盾しあって解決できないからだ。『共産党宣言』がのべているように、「資本とは、けっして個人的な力ではなくて、社会的な力である」〔M・E選集第二巻、五○七頁〕。だが、この社会的な力がおこなう運動は――この力の活動がもつ社会的な機能をみとめず、しかもかならずその機能を気にすることのない――資本所有者の個々の利害に導かれるものである。だから、資本の社会的原理、つまり資本の社会的機能は、資本所有者がどう考えようと、それに関係なくはたらく、つまり、資本所有者の意志を客観的に貫ぬいてはゆく、だがこのばあい、資本の社会的原理はかれらには意識されることなく原理そのものの目的をやりとげることができるのである。こうした矛盾が社会的な原理と個人的な原理とのあいだにあるから、マルクスはすでに正当にも、株式会社をば「資本主義的生産様式そのもの内部での資本主義的生産様式の止揚〔7〕」と、よんでいる。もっとも、純経済的に観察すれば、株式会社の経済様式は、たとえこの点ではそう本質的に個々の資本家の生産様式とちがったものではないし、またカルテルとかトラストなどによって生産の無政府状態をなくしたところで、こうした矛盾はどこか他のところへ押しやられるだけで、けっしてなくなりはしないのだけれども。要するにうえのような事実こそ、ブルジョワジーの階級意識をもっともつよく決定する規定的要素のひとつなのである。なるほど、ブルジョワジーは社会の客観的・経済的な発展のなかで階級として行動する。たが、かれらは、かれら自身がおこなう過程の発展をば、自分の外部にある客観的・合法則的な、かれらには偶然に生ずる出来事だとみるのだ。個々の資本家という視点からみれば、個人と、社会的なものすべてをうごかす、強力な超個人的な「自然法則」とのあいだにはこうした鋭い対立が、おのずから生じてくる〔8〕。だが、ブルジョワ思想は、つねに本質的・必然的に、こうした個々の資本家の視点から経済生活を考察するのである。その結果、個別利害と階級利害とのこうした矛盾が、闘争のばあいにおこる(この矛盾はもちろん、支配階級のうちでブルジョワジーのばあいほど激しくなることはまれなことなのである)、というだけではない。資本主義的生産の発展からかならずおこってくる問題をば、理論的にも実践的にも解決することが、ブルジョワジーには原理的に不可能となるのである。マルクスはつぎのようにいっている。「信用制度から重金主義へのこういう突然の変化は、実際上のパニックのほかに理論的恐怖をつけくわえる。そして流通当事者たちは、かれら自身の諸関係がもつ底しれない神秘のまえにおののくのである〔9〕」。ところで、この理論的恐怖というものは根拠のないものではない。すなわちそれは、個々の資本家が自分個人の運命について、単に途方にくれるにすぎないというどころではない。それよりはるかにより以上のものなのである。このような恐怖をひきおこす事実や状態は、ブルジョワジーがたとえこけおどしだ《ファクトゥム・プルートム》といって否認したり、または排除したりすることが完全にはできないものであるけれども、なお、かれらは自分で意識できないものをば、この事実や状態があるために多少とも意識せざるをえなくなる。というのは、こうした事実や状態のうしろには、「資本主義的生産の真の限界とは資本そのものである〔10〕」ということが、認識できる根拠として存在しているからだ。この認識は、それが認識されてくると、ざっと資本家階級の自己止揚ということの前兆となる認識になるであろう。
したがって、資本主義的生産の客観的な限界が、ブルジョワジーの階級意識の限界となるのである。ところで、自然的・「保守的な」、資本主義よりも古い支配諸形態では、広汎な被支配者層かいとなむ生産諸形態は変革されずにもとのままにのこされている〔11〕。だから、ここでは生産諸形態はすぐれて伝統的な作用をし、革命的な作用をするものではない。ところが、こうした古い支配諸形態とはちがって、資本主義はすぐれて革命的な生産形態であるから、資本主義制度の客観的・経済的な限界がこんなふうに意識されないでいるにちがいないとしても、その限界の無意識は階級意識にあらわれて、そのなかで弁証法的な内的矛盾となるのである。というのは、つぎのことである。ブルジョワジーの階級意識は、形式的には経済的な問題を意識することを狙いとしている。ところが実際はといえば、意識しているどころかむしろ、それは最高度の無意識なのであり、いわば「虚偽の意識」のもっとも著しい形態だといっていいだろう。この「虚偽の意識」かどういう点にでてきているかといえば、それはブルジョワジーが経済現象を意識的に支配しているかのような見せかけが強くなる、という点である。この矛盾は、これを意識と社会現象の総体との関係という見地からみれば、イデオロギーと経済的基礎との止揚できない対立なのだ、ということがわかる。この階級意識の弁証法は、(資本主義的な)個人つまり個々の資本家というシェーマにしたがった個人と、「自然法則的に」必然的な、すなわち意識によっては原理的に支配できない発展とのあいだの、止揚できない対立にもとづいている。したがって、この弁証法は理論と実践とをあいいれない対立にもちこむのである。あいいれない対立であるとはいえ、二つの原理が対立したまま固定することをゆるさず、分裂した原理を統一しようとたえず努め、「虚偽の」結びつきとその破滅的な分裂とのあいだをくりかえしあちこちさまよわせるといった仕方で理論と実践を対立させる。
ブルジョワジーの階級意識のなかには、以上のような内的な弁証法的自己矛盾がある。ところで、この自己矛盾はなお、つぎのような事情によって大きくなる。すなわち、資本主義的生産秩序の客観的な限界が、単なる非弁証法的な否定という状態におかれるのではない、つまり危機を「自然法則的に」つくりだし、その危機は意識ではとらえられないようになるだけではない、それは独自の意識をもって行動する歴史的な人間を、すなわちプロレタリアートをつくりだす、ということによって、上の自己矛盾は大きくなる。資本家の見方からおこっている、社会の経済機構観における見通しの歪曲のうち、大部分の「正常な」ものでさえ、「剰余価値の真実の起源をあいまいにし神祕化する〔12〕」という方向に動いていた。ところで、「正常な」たんに理論的な態度にとどまっているばあい、こうした剰余価値の真実の起源をあいまいにすることがみられるのは、ただ、資本の有機的構成だとか、生産過程のなかでの企業者の地位だとか、利子の経済的機能などとかいったものにすぎない。だから、剰余価値の真実の起源をあいまいにしたところで、それはたんに、諸現象の表面のうしろに真の原動力をみとめることができない、ということを示すだけのことである。ところがそれは、実践的なものにかわるときには、資本主義社会の中心的な根本事実つまり階級闘争に関係するのである。ところで、資本家やかれらの理論的代弁者たちの目は、魅せられたように経済生活の表面にくっついているものだが、こうした経済生活の表面のうしろに、晋段にはかくれていた力が、階級闘争になると、あらわれてくる。しかも、かれらがそれを認めまいとしても、どうしても認めないわけにはいかないという程度に、あらわれてくる。だから、プロレタリアートの階級闘争が自然発生的な、激しい爆発という形でのみあらわれた資本主義の勃興期においても、階級闘争という事実こそがまさに歴史的生活の根本的な事実だ、ということが上昇しつつあった階級のイデオロギー上の代弁者(たとえは、マラー〔p55〕とか、そののちの歴史家であるミニエ〔p55-2〕など)によってさえ認められたほどだ。ところで、資本主義的発展のこうした無意識的ではあるが革命的な原理が、プロレタリアートの理論と実践をつうじて社全的意識にまで高められるにともなって、ブルジョワジーはイデオロギーのうえで止むをえず意識的に防禦の体制をとる。ブルジョワジーの「虚偽の」意識のなかでの弁証法的矛盾というものは、激しくなる。つまり、「虚偽の」意識は意識の虚偽性となる。くだいていえば、それまでは意識そのものではなく、その「虚偽な」ところに問題があったのに、いまや意識そのものか虚偽だということが問題となってくる。はじめはただ客観的に矛盾が存在していただけであったが、いまや矛盾が主観的にも存在するようにもなる。すなわち、問題ははじめは理論的なものであったが、いまや道徳的な振舞に、すなわち、ブルジョワジーが一切の生活状態や生活問題についてとる実践的な立場にたいして、決定的な影響をおよぼす振舞にかわってくるのである。
ブルジョワジーのこのような状態は、社会の支配をめぐってかれらが闘争するばあい階級意識のはたす機能を規定する。ブルジョワジーの支配が現実に全社会におよび、事実、かれらは自分の利害にしたがって全社会を組織しようと努めそしてそれが部分的に実現してしまうと、かれらはひとつの完結した経済学だとか国家論だとか社会学など(これらのものはすでに、本来ひとつの世界観を前提し意味している)をつくりださざるをえない。とともにまた、自分たちは社会を支配し組織する使命をおびているのだという信念を自分のなかでつくりあげ、またそれを意識しないわけにはいかない。ブルジョワジーの階級状態は弁証法的であり悲劇的である。なぜ、弁証法的であり悲劇的であるかといえば、つぎのような事実があるからだ。すなわち、ブルジョワジーは個々の問題のすべてにわたってできるだけはっきり階級利害を意識することに関心をもっている、さらに、ブルジョワジーにとっては、階級利害の意識は絶対に必要なことである。がしかし、階級利害の意識に注意し、それを必要とするといっても、ブルジョワジーが全体の問題にまでかれらなりにはっきりと意識すると、このことかかえってかれらには禍となるにちがいないのである。このような事情がブルジョワジーの悲劇なのだ。この悲劇的な状態は、とりわけブルジョワジーの支配がただ小数者の支配でしかありえないという点にもとづいている。かれらの支配というものは、少数者の利害によっておこなわれるだけではなく、またその利害のなかでおこなわれるものであるから、他の諸階級をあざむき、しかもそれらが階級意識を自覚しないでいる、ということが、ブルジョワ体制の存続にとって、いぜんとして不可欠の前提なのだ。(階級対立に「超然と」している国家論や、「不偏不党の」司法などを考えてみよ)。ところが、ブルジョワ社会の本質をおおいかくすことがまた、ブルジョワジー自身が生きるために必要なことである。というのは、ブルジョワ社会の本質がしだいにはっきりしてくると、ブルジョワ社会秩序の内的な解決できない矛盾がますますあきらかになってくるのであって、ブルジョワジーの追従者たちはつぎのような選択のまえに立つこととなる。すなわち、かれらは自分の利害から是認できた経済秩序をば、さらに道徳的にも認めるためには、ブルジョワ社会の秩序にある矛盾かいよいよはっきり洞察されてくるのを意識的にかくすか、それとも、矛盾を意識しても道徳的本能をすべて自分の内心で抑えつけてしまうか、いずれかの手段をとることとなるのである。
こうしたイデオロギー的要因の実際上の働らきを過重に評価するわけではないが、なお確かめねばならないことがある。それは、ひとつの階級の闘争力というものは、かれらが自分の使命にたいする信念を安んじてもつことができればできるほど、つまりあらゆる現象を自分の利害から、不屈の衝動をもって貫ぬくことができればできるほど、それだけ闘争力は大きくなる、ということである。ところで、ブルジョワジーのイデオロギー的歴史とは――ごく初期の発展段階、たとえば、ただシスモンディ〔p58〕の古典経済学批判だとか、自然法のドイツ的な批判〔p58-2〕だとか、初期のカーライル〔p58-3〕などを思いうかばせるにすぎないような段階からして――ブルジョワジー自身のつくった社会の真の本質を洞察することをさまたげようとして、すなわち自分の階級意識をほんとうに意識するまいとして、死物狂いに闘うことにほかならない。『共産党宣言』の強調するところでは、ブルジョワジーは自分自身の墓穴をほるのであるが、このことば経済的に正しいだけではなく、イデオロギー的にも正しいのである。一九世紀のブルジョワ科学はすべて、ブルジョワ社会の基礎をおおいかくすために最大の努力をはらった。事実をもっともひどくまげるということから、歴史や国家などの「本質」についての「もったいぶった」理論にいたるまで、この基礎をおぶいかくすというこの方向の試みがおこなわれなかったところは、全くない。にもかかわらず、こうした試みは無駄だった。十九世紀のすえになっていっそう発展したブルジョワ科学のなかですでに、(したがって指導的な資本家層の意識のなかで)、決定的なことかおこなわれたのである。
このことは、意識的に社会を自己の利害にしたがって組織する思想が、ブルジョワジーの意識のなかへしだいにとりいれられてきたことをみれば、ひじょうにはっきりする。まず第一に、株式会社つまりカルテルだとかトラストなどのなかで、ますます集中〔p59〕の増大がおこなわれてきた。なるほど、集中の増大というものは、資本の社会的性質を組織のうえでますますはっきりと示している。だが、それは、生産の無政府状態という事実をゆさぶるものではなくて、ただ、巨大になった個々の資本家に、相対的な独占者の地位をあたえることとなった。したがって、たしかに集中の増大によって、資本の社会的性質は客観的にはひじょうに強力にはたらくが、しかしその性質は資本家階級にはまったく意識されなかった。いやそれどころか、集中か増大すると、外見上でのみ生産上の無政府状態を克服するようにみえるものだから、かえってかれらの意識がますます事実を正しく認識できなくなったのである。ところで、第一次世界戦争と戦後の時代の危機こによって、こうした発展はますます押しすすめられた。「計画経済」というものが、すくなくともブルジョワジーのもっとも尖鋭的な分子の意識のなかに、はいってきた。もちろん、「計画経済」がはいってきたといっても、さしあたってそれはブルジョワジーのごく狭い範囲にはいってきたのであり、そのばあいにも、「計画経済」はむしろ理論上の実験や恐慌という袋小路から脱出路をもとめるという間に合せの救済策の問題だったのである。こうした意識状態で「計画経済」とブルジョワジーの階級利害とのあいだの経済的調停がもとめられる。ところで、この階級状態と、あらゆる種類の社会組織を「個々の資本家の不可侵な所有権・自由・および自己規定的『独創性』への侵害〔13〕」とみた、勃興しつつあった資本主義時代の意識状態とを、われわれが比較するばあいには、ブルジョワジーの階級意識がプロレタリアートの階級意識のまえに降伏したということが、あきらかになってくるのである。もちろん、ブルジョワジーのうち計画経済をとりいれる分子でさえも、計画経済をばプロレタリアートの考えるところとはちがったものと考えてはいる。すなわち.計画経済をば、資本主義の内的矛盾をとことんまで激しくすることによって、資本主義を救おうとする奥の手だと、かれらは考えている。だがそれにもかかわらず、ここではかれらの究極の理論的立場というものはなくなっているのである。(ところで、このことと奇妙な対照をなすのは、プロレタリアートのうちいくらかの分子がまさにこの瞬間にみずからブルジョワジーに降伏するということ、つまりその連中はブルジョワジーの――きわめて問題のおおい――計画経済による社会組織の形成を自分の仕事だとする、ということである)。ところで、このようにブルジョワジーが自分の最後の理論的立場をうしなうと同時に、ブルジョワ階級の全存在とこの階級の表現としてのブルジョワ文化は、きわめて深刻な危機におちいった。すなわち一方では、生命をたたれたイデオロギーはなんらの役にたたず、また、多少とも意識してひとをあやまらせようと試みても、それはけっして実をむすばなくなった。とともに他方では、ブルジョワジーは自分の存在が内面から崩壊することを世界史のうえですでに確信しており、ただ、自分らだけの存在とそのむきだしの利己的な利害のみを弁護するという恥知らずの恐るべき頽廃がおこってきた。こうしたイデオロギー的危機は、まぎれもなくブルジョワジーの没落のひとつのしるしである。ブルジョワ階級はすでに防禦の体制におしこめられている。かれらは(どれほどその闘争手段が攻撃的なものであろうとも)、すでにたんなる自己保存のために闘争するにすぎない。つまり、ブルジョワジーは指導力を永久に失ってしまったのである。
〔1〕 マルクス『ルイ・ナポレオンのブリュメール十八日』四〇頁(第五巻下、三二二頁)。
〔2〕 『ブリュメール』三七頁(第五巻下、三一八頁)。
〔3〕 『ブリュメール』一〇二頁(第五巻下、三九六頁)。
〔4〕 もちろん、傾向としてだけこういったことがいえるのである。この傾向のなかには偶然的な一時的な事業はないのであって、資本主義が――経済的に――存在できるのは、それが資本主義にむかって社会を貫ぬくまでであって、社会を貫ぬぬいてしまえば存続できない、ということを證明したのは、ローザ・ルクセンブルグの大きな功績である。純粋に資本主義的な社会のこうした経済的自己矛盾は、たしかに、ブルジョワジーの階級意識のなかにひそむ矛盾のひとつの根拠なのである。
〔5〕 『経済学批判序説』二九頁。研究所版二三〇頁(術巻三、二七―二頁)。
〔6〕 『資本論』E版第三巻第一部一一五頁、二九七―八頁、三〇七頁、A版一六一頁、三四四―五頁、三五四―五頁(第八分冊二一四頁、第九分冊四四五―六頁、四五九―六〇頁)など。産業資本とか商人資本などといったいろいろな資本家群が、ここでいろいろな地位をあたえられているということは、おのずからあきらかである。だが、このちがいは、われわれの問題にとっては決定的な重要さをもたない。
〔7〕 『資本論』E版第三巻第一部四二五頁、A版四七九頁(第一○分冊六二三頁)。
〔8〕 この点についてはルカーチ『マルクス主義者としてのローザ・ルクセンブルグ』を参照。
〔9〕 『経済学批判』一四八頁。研究所版一四一頁(補巻三、一六九頁)。
〔10〕 『資本論』E版第三巻第一部二三一頁、また二四二頁、A版二七八頁また二八八頁。(第九分冊三六三頁また二七五頁)。
〔11〕 このことは、たとえば貨幣蓄蔵の素朴な形態にも関係している。――『資本論』E版第一巻九四頁、A版一三六頁(第一分冊二五九頁)を参照――また、(相対的に)「前資本主義的な」商人資本の、ある表現形態にさえも関係しているのである。これについては『資本論』E版第三巻第一部三一九頁、A版三六七頁(第九分冊四七四―五頁)を参照。
〔12〕 『資本論』E版第三巻第一部一四六頁、また一三二頁、三六六―九頁、三七七頁、A版一九二頁、また一七八頁、四一五―八頁、四二六―七頁、(第九分冊二五三頁、二三四頁、第一〇分冊五三九―四四頁、五五五―六頁を参照)。
〔13〕 『資本論』E版第一巻三二一頁、A版三七四頁(第三分冊五九一頁)。