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    〔第二節 前資本主義社会と資本主義社会における階級意識〕


 前資本主義的な時代のひとびとについて、また、資本主義のなかにあってその経済生活の根拠が前資本主義的であるような多くの階層の態度についても、以上で論じてきたことからいえることがある。それは、かれらの階級意識は本質的にひとつのまったくはっきりした形態を一般にとることができず、また歴史的な事件にたいして意識的に影響をあたえることもできない、ということである。
 こういえるのは、とくに次のような理由があるからである。すなわち、前資本主義的な社会ではどの社会をとってみても、階級の利害かまったく(経済上)はっきりした形であらわれえないということが、その社会の本質に属すものだからだ。というのは、つまり社会がカストとか身分などによって構成されているばあいには、社会の客観的・経済的な構造のなかには、経済的な要素が政治的・宗教的などといった要素と解けがたく結びついているという事情があるからだ。ブルジョワジーの勝利は、身分構造の廃止を意味するものであるが、このブルジョワジーが支配してはじめて、社会の階層か純粋な完全な階級層に近づいてゆくような、社会秩序ができるのである。(封建的な身分構造の残存物が多くの国々で、資本主義のなかで生きのびてきたのだが、この事実があっても、上の確証の基本的な正しさはなんらかわらない)。
 このような事実は、前資本主義社会の経済組織が資本主義のそれとはまるでちがっているというところに、その根拠がある。われわれにとっていま第一に重大な、ひじょうにあきらかな二つの社会のちかいがある。それは、前資本主義社会ではどこでも、――経済的には――資本主義社会とは比較にならないほど統一的な連関がすくないということ、つまり、その社会では資本主義よりも、部分の独立性がきわめて大きく、部分と部分との経済的な相互依存関係がより小さくまた一面的でしかない、というちがいである。商品流通が全社会にたいして果す役割が小さければ小さいほど、すなわち、社会の個々の部分が(村落共同体のように)、経済的に完全に近いまでに自給自足的であれば、あるいは他方からいうと、(ギリシャ都市やローマの大部分の市民のように)、社会生活のうち本来の経済生活である生産過程で一般に、商品流通がおこらないというのであればそれだけ、社会の統一形態であり組織的な総括であるところの国家が、社会の現実生活のなかで現実的な基礎をもつことが、ますますすくなくなるのである。社会の一部のひとは国家の運命からほとんどまったくはなれて、自然のままの生活を送っている。「これらの自足的な共同体はたえず同じ形態で再生産され、もし偶然にも崩壊することがあれば、同じ場所に同じ名称で再建されるのであるが、こうした共同体という簡単な生産有機体は、アジア的諸国家のたえざる瓦解と再建、およびたえまのない王朝の交替とはいちじるしい対照をなすところの、アジア的諸社会の不変性の秘密を解くべき鍵をあたえる。社会の経済的な諸基本要素の構造は政治的雲界の嵐によって影響されないでいるのである〔1〕」。ところが一方、社会の他の部分のひとたちは――経済的に――まったく寄生的な生活をしている。国家つまり国家の権力機関は、この部分のひとびとにたいしては、資本主義社会の支配階級にたいするのとはちがって、社会の危機にさいして、強力によって自分の経済支配の原理をつらぬいたり、あるいは(近代の植民のように)強力によって自分の経済支配のための諸条件をつくりだす手段ではない。したがって国家は社会の経済支配を媒介するものではなくて、直接にこの支配そのものなのである。しかもこういえるのは、土地や奴隷などの手ぬかりのない掠奪が問題となっているばあいだけではなく、また、いわゆる平和的な「経済的な」諸条件についてもいえるのである。マルクスは労働地代について次のようにいっている。「こうした諸条件のもとでは、名目的土地所有者のための剰余労働は、経済外的強制によってのみ直接生産者から強奪されうる」。アジアでは「地代と租税とは一致するというよりはむしろ、この地代形態と異なる租税なるものは実存しない〔2〕」。のみならず、商品流通が前資本主義社会でうけとる形態そのものも、社会の基本的な構造に決定的な影響をおよぼすことはできない。商品流通は社会の表面にくっついているだけで、生産過程そのもの、ことに生産過程と労働との関係を支配できない。「商人は、どんな商品でも買うことができたが、ただ商品としての労働〔力〕を買うことはできなかった。かれはただ、手工業生産物の売りさはぎ人としてのみ許されていた〔3〕」とマルクスはいっている。
 それにもかかわらず、このような社会はどれでも、ひとつの経済的な統一体をなしている。問題はただ、この統一性は、社会を構成している個々の集団と社会全体との関係が、集団の――社会の全体に帰せられる――意識のなかで、ひとつの経済的な形態をとることができるような状態にあるかどうか、ということである。マルクスは一方で、古代の階級闘争は「主に債権者と債務者とのあいだの闘争という形態で」おこなわれたと主張している。ところで、マルクスはこれにつけくわえて、次のようにいっているが、それはまったく正しい。「とはいえ、貨幣形態は、――というのは債権者と債務者との関係は、ひとつの貨幣関係という形態をとるのだが――ここでは、より深く根ざしている経済的な生活諸条件の敵対関係を反映しているにすぎない〔4〕」と。この反映ということばは、史的唯物論にとっては直接的反映という意味でしかなかったのである。ところが、問題はこうである。すなわち、この階級闘争の経済的な基礎、つまり社会諸階級が悩んでいる社会の経済的な問題性を自分たちの意識にまで上らせる――客観的な――可能性が、一般にこれら諸階級にとってあるのだろうか。具体的にいえば、この闘争と問題とは、諸階級にとってかれらが生活してきた生活諸条件におうじて――自然のままの・宗教的な形態〔5〕をとらざるをえないものか、それとも国家的な法律的な形態をとらざるをえないものであろうか。こうした問題が問われるのである。社会が身分やカストなどによって編成されるというのは、人間が占めるこの「自然のままの」地位が概念的にまた組織的に固定されるときに、そこに経済的な面が意識されないでいるということ、また、単なる自然のままのものを純粋に受けついだものが、直接に法律的な形態に組みいれられねばならない〔6〕、ということなのである。というのは、このような前資本主義社会では、社会の経済的連関が資本主義のばあいよりも弛いものであるから、それにおうじて身分階層や特権などをかたちづくる国家的な法律的な形態は、客観的にも主観的にも、資本主義のばあいとはまるでちがった機能をはたすからである。ところが、このおなじ国家的・法律的な形態が、資本主義のばあいには、たんに純粋に経済的に機能する連関を固定化するということを意味するにすぎない。したがって法律的な形態は、――カルナー〔p34〕がこのことをすでに正しく指摘したように〔7〕――しばしばみずからは形式的にも内容的にも変化することなく、経済的な構造の変化に順応できるのである。これに反して、前資本主義社会では法律的な形態は構造的に経済的な連関のなかへ食いこんでいる。この社会には、法律的な形態をとってあらわれたり、法律的な形態に鋳なおされたりするところの純粋な経済的なカテゴリー――経済的カテゴリーとはマルクスにしたがえば、「定在形態、存在規定〔8〕」なのであるが――というものは存在しないのであって、経済的カテゴリーと法律的カテゴリーとは事実、内容にしたかってたがいにしっかりと結びついているのである。(地代と租税や奴隷制について前にあげた例を考えよ)。そこでは経済がまだ、――ヘーゲル流にいえば――客観的にも対自態という段階に達してはいない。だから、このような社会のなかでは、あらゆる社会的諸関係の経済的基礎が意識されるようになる立場は、客観的に実現しているとはいえないのである。
 もちろん、上のようにいったからといって、すべての社会諸形態か客観的に経済的な基礎のうえに立っているのだということを、けっして否定するわけではない。実は、その反対なのである。身分的に編成された社会の歴史をみればすっかりわかることだけれども、こういう編成はもともと「自然のままの」経済生活上のひとつのあり方を固定した形に鋳かためたものであって、それは目にみえぬところで「意識されないで」経過している経済的発展のみちすがら、だんだん内部崩壊してゆく。つまり、現実的な統一体ではなくなってゆくものなのである。身分階層の経済的な内容がその法律的形態の統一性を破る。(宗教改革時代の階級諸関係についてのエンゲルスの分析〔『農民戦争』選集第三八巻〕とフランス革命の階級諸関係についてのクノ〔p35〕の分析とは、このことにたいして充分な証拠をあたえている)。だが、法律的な形態と経済的な内容とのあいだにはこうした矛盾があるけれども、法律的な(特権をつくる)形態というものは、このような崩れゆく身分がもつ意識にたいしてひとつのひじょうに大きなしばしばまったく決定的な意義をもつのである。なぜなら、身分階層の形態は、身分の――現実的ではあるが「意識されない」ままの――経済的な定在と、社会の経済的な総体とのあいだの連関をかくしているからである。身分階層の形態が意識を固定させるのは、(宗教改革時代の騎士のように)身分の特権の純粋な直接性においてか、すなわち、身分の特権が社会の経済的諸関係とかかわりなくあたえられているばあいであるか、それとも(ツンフトのように)特権と関係のある社会部分の、騎士のばあいと同じくたんに直接的な――特殊性においてか、この二つのうちのどちらかなのである。身分が、すでに経済的にはまったくくずれ、身分に属しているひとびとはすでに経済的にはそうしようとすればいろいろな階級に属しうるのであるが、それでもなお身分は、こうした(客観的には非現実的な)イデオロギー的な結合をたもっているのである。「身分意識」が全体との関係づけをおこなうばあいには、その関係づけは現実的な生き生きとした経済の統一性とはちがった総体にむかっておこなわれる。つまり、その時代に身分的な特権を構成していた社会を過去にさかのぼって同定化することをめざしている。身分意識というものは――現実の歴史的な要因として――階級意識をおおいかくしてしまう。すなわち、身分意識は階級意識が一般的にあらわれるのをさまたげるのである。同じようなことは資本主義社会においても、その階級状態が直接には経済的な基礎をもたないすべての特権的な集団についてみることができる。こうした階層が「資本主義的となる」につれて、すなわち、自分の「特権」をば経済的な資本主義的な支配関係に転化できるようになると、(たとえば大土地所有者のように)現実の経済的な発展へのかれらの適応力が増加するのである。
 したがって、階級意識の歴史にたいする関係は、前資本主義の時代では資本主義のばあいとはまったくちがったものである。なぜなら、前資本主義の社会では階級といってもそれは、客観的に存在するわけではなく、史的唯物論という歴史解釈をたよりにして、直接的にあたえられた歴史的現実からひきださるべきものであるのに、資本主義社会になれば階級というものが直接的な歴史的現実そのものとなっているのだからである。だから、このような歴史の認識が資本主義の時代になってはじめてできたのは、エンゲルスもあきらかにしているように、けっして偶然ではない。しかも、このようにいえるのは、――エンゲルスかかんがえているように――これまでの時代では「諸連関が複雑であり隠されていた」のに反して、資本主義の構造がひじょうに単純であるという理由からだけではない。そのわけは、なによりもまず歴史の原動力としての経済的な階級利害が資本主義になってはじめて、あからさまな形であらわれてきたということなのである。したがって、「歴史的に行動する人間の動因のうしろにある」真の「原動力」というものは、前資本主義の時代にはけっして純粋に(一度も純粋に階級利害に還元されて)意識されえなかったのである。この原動力はほんとうに動機のうしろに、歴史的発展の盲目的な力としてかくれたままであった。そこではイデオロギー的な要素は、たんに経済的な利害を「かくす」だけでもなく、旗や闘争の合言葉だけでもない。それはまた、現実の闘争そのものの部分であり要素なのだ。もちろん、こうした闘争の社会学的な意味が史的唯物論によって追求されるならば、このときにこそこの経済的利害こそがまさしく究極を決定する説明の要因であることがわかるのである。ところが、ここに前資本主義社会と資本主義そのものとのあいだには越えられないちがいがある。そのちがいというのは、資本主義では経済的な要素がもはや意識の「うしろに」かくれているのではなくて、意識そのもののなかに(ただ無意識でか、それとも押しまげられなどしてかではあるが)存在している、ということである。階級意識は、資本主義となって身分構造がなくなり純経済的に組織された社会がつくられてはじめて、意識されうるという段階にはいった。いまや社会的闘争は、意識をめぐっての、つまり社会の階級性の隠蔽または暴露をめぐってのイデオロギー的闘争というかたちであらわれるのである。ところが、この闘争ができるというこのことがすでに、純粋な階級社会の弁証法的な矛盾、つまりその内部の自己崩壊を示しているのだ。へーゲルはつぎのようにいっている。「哲学がその灰色を灰色に描くとき、生の姿はすでに老いている。そして灰色を灰色に描いては、生の姿は若がえらされるのではなく、ただ認識されるだけである。ミネルヴァの梟は、迫りくるたそがれをまって、はじめて飛びはじめるのである」。〔速水敬二・岡田隆平訳『法の哲学』岩波書店、一九頁〕

〔1〕 『資本論』E版第一巻三二三頁、A版三七六頁(第三分冊五九四頁)。
〔2〕 『資本論』E版第三巻第二部三二四頁、A版八四一頁(第一三分冊一一一四頁)(傍点は著者)。
〔3〕 『資本論』E版第一巻三二四頁・A版三七六頁(第三分冊五九五頁)。資本主義の初期には、商業資本が産業資本にたいして政治的に反動的な役割を演ずるのであるが、こうした役割は充分にこの点にその原因をもとめることができるのである。『資本論』E版第三巻第一部三一一頁、A版三五八―九頁(第九分冊四六四―五頁)を参照。
〔4〕 『資本論』E版第一巻九九頁、A版一四一頁(第一分冊二六六―七頁)。
〔5〕 マルクスとエンゲルスは、くりかえしこの社会諸形態の自然性を強調している。『資本論』E版第一巻三〇四頁、三二八頁、A版三五五―六頁、三六八―九頁など(第三分冊五六八頁、五八五頁)。エンゲルスは『家族、国家および私有財産の起源』のなかで、発展過程の全体をこの思想のうえに立てている。この問題については――マルクス主義者のなかでも――意見がいろいろとわかれているのだが、ここでわたくしはこの点に立ちいるわけにはゆかない。わたくしが強調したいとおもうのは、わたくしはここでもまたマルクスとエンゲルスの立場が、かれらの改良主義者たちの立場とくらべてより深く歴史的により正しいものだと考えている、というただこのことである。
〔6〕 『資本論』E版第一巻三〇四頁、A版三五六頁(第二分冊三六八頁)を参照。
〔7〕 『法律制度の社会的機能』マルクス研究、第一巻。
〔8〕 マルクス『経済学批判』序説一八頁、研究所版二四二頁(補巻三、二八五頁)。

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