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     階級意識論


 いまここでは、あれこれのプロレタリアが、あるいは全プロレタリアートでさえもが、折にふれてなにを目的として思いうかべるか、が問題なのではない。かれらがなんであるか、そしてこのあるにおうじて、かれらが歴史的になにをなさざるをえないか、これが問題である。

          マルクス『神聖家族』
          (M・E・選集 補巻五、二四四頁)。



    〔序節 問題の提起〕

 プロレタリアートの理論にとっても実践にとっても不幸なことに、マルクスの主著〔『資本論』〕は諸階級を規定しようとするまさにそのところで急におわっている。だからその後のマルクス主義の運動は、階級規定という決定的な点でマルクスとエンゲルスがときにおうじてのべたことからを、いろいろと解釈したり、組み合せたり、かれらの方法を勝手にでっちあげて、用いたりする方法にたよっていた。マルクス主義の考えでは、社会の階級編成は、生産過程における地位にしたがって、きめねばならない。それでは階級意識とはなんであるか。この問題はただちに、一連のたがいに密接に関係しあっている部分的な問題にわかれる。すなわち第一に、階級意識のもとに(理論的には)なにを理解すべきか。第二に、このように理解された階級意識のはたらきは、(実践的には)階級闘争そのもののなかではどういうものなのか。さらに、これにはつづいて次のような問題がむすびついている。すなわち、階級意識を問題とするばあい、「一般的な」社会学的な問題が取りあつかわれるのか、それともこの問題は、プロレタリアートにとっては、いままで歴史にあらわれた他の諸階級とはまるでちがった意味をもつものであるか、という問題がこれである。そして最後には、こんな問題がある。つまり、階級意識の本質や機能には、なにか均一的なものかあるのか、それともまた、それらのものには段階の相異がつけられるのだろうか。もし段階の相異がつけられるなら、そうした相異がプロレタリアートの階級闘争のなかでしめる実践的意義とは、なんであるか。こうした部分的な問題が究明されねばなるまい。


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