印刷

滅びのパトリオティズム〜日本浪曼派について

日本ロマン派はナショナリストの文学グループとして、大東亜戦争を正当化し、戦線の拡大を煽った、戦前のファシズムの時代のいわばおぞましい悪夢のような現象として記憶されている。いや、むしろ、その鮮烈な記憶には敢えて向きあおうとせず、大戦の暗澹とした記憶と共に忘れてしまおうとしてきたかもしれない。

まず、その成り立ちと時代背景を顧みよう。マルクス主義の導入と、また大正労働文学の流れをくんだプロレタリア文学運動といった左翼的な運動が昭和初年代を特徴づける。昭和七年の満州事変を経て、ファッショ化を強めていた政府の弾圧により小林多喜二が昭和八年に拷問によって死亡し、同年には獄中から日本共産党幹部であった佐野、鍋山が転向声明を公表、マルクス主義運動と左翼的運動は崩壊する。昭和九年には日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が解体する。
大正時代までの流れからあたかも断絶しているようなマルクス主義と、それまでは文学とは切り離されていたような労働者と文学を結びつけた苛烈な文学運動は、十年を俟たずに終焉を迎えてしまったというわけである。時代はその焦燥と絶望の只中にあったといってよい。『日本浪曼派』が同名の文学グループの機関誌として創刊されたのは、その翌年、混迷の時代の只中であった。行き場所を失った人心を惹きつける場として生まれたのは極自然な流れといえるだろう。

日本ロマン派は、文学の情熱は抱えていたが、あくまでそれは衝動的なものとされる。文学作品そのものの文学性以上に、「文学する」という精神が称揚された。そしてそのグループを構成する作家たちは、マルクス主義の陣営で「敗れた」また「転向した」者達であった。この現象は国際的に見ても、また日本の歴史においても非常に独特な性格を備えている。例えば、明治時代にもロマン主義文学は存在した(泉鏡花、夏目漱石、鈴木三重吉、谷崎潤一郎、佐藤春夫、北原白秋、三木露風、与謝野寛、与謝野晶子など)が、日本ロマン派のように若い作家が一団となって「ロマン派」を掲げて出現したというのは例がない。また、例えば、イギリスにもロマン主義文学は存在し、荒廃した知識人階級に対する絶望からプロレタリアートに至った文学者グループがあった。労働者階級の中にこそ失われた美徳が発見される、という信念と労働者に対する情熱が彼らの原動力であった。それを思うと、日本ロマン派の方向はそれとは正反対であったと言える。

文学の特徴としては、非常に修飾が多く、論理的に見えて実は非論理的、直観に訴える傾向がある。『日本浪曼派』の創刊者の一人であり、日本ロマン派においてカリスマ的な立場にあった保田與重郎においてはそれが顕著であった。その当時から、彼らの「文学」に対しては非常に読みづらい、何をいいたいのかわからない、といった文体的な側面から、またその衝動的、感傷的なエネルギーは思想的な積極性をもたず、当然ながら、モラルもなく、方向性は皆無である、といった全否定的な評価までなされている。

しかし、その時代背景を鑑みると、それが日本的な古代への賞賛と近代批判へと繋がったのもある意味必然であったかもしれない。柄谷行人は、昭和十年前後をさして、文学が大正文学以前のような読書人階級を相手に成立し得た時代のそれへと回帰した旨主張している。そこにおける精神性は、マルクス主義という西洋由来の、本来日本人が受け入れがたい極端な知的と道徳性という性質をもった「異質」な思想、また明治大正期においては文学者はほぼ等閑視し得た「異質」な労働者たちの、プロレタリア文学の主役としての出現、それらの緊張が一挙に解放された時期がまさにこの昭和十年前後でもある。ここにおいてプロレタリア文学者は私小説を書き始め、また川端康成が『雪国』の執筆にとりかかった時期でもある。文学者は「異質」な者たちとの緊迫した対峙を越えて、自己を相対化するとともに、自己の内面へと沈潜していったとも言えるだろう。日本ロマン派もまた同様であった。保田は昭和十一年に『日本の橋』という評論を著して池谷信三郎賞を受賞し、批評家としての名を高めているが、この評論において、保田は日本の橋において現れる日本の美について語っているのである。しかしその表現は、分析であるとか、論理的、客観的な論考であるという以前に自らの主張を詩的に訴えかけるものとなっている。

保田の悪名高い文体とそれが訴えかける感傷性は、一種独特の魅力を持って一世を風靡し、当時の青少年にも多大な影響を与えることとなった。戦後に黙殺され、黒歴史のような扱いを受けるのも、戦争協力者として公職を追放された犯罪人とみなされてしまった保田の呪術的な魅力を持った言葉に情熱を煽られてしまったという気恥ずかしさへの反動だったかもしれない。戦後、『暗い夜の記念に』において杉浦明平は、保田をはじめ日本ロマン派に対する憎悪を表している。しかし、意外なことに、保田は一貫して日本の武力については語っていない。戦意を煽る、もしくは戦争に協力する、好戦的な文章は全くないどころか、彼はあくまで平和な文芸的側面のみに注目する。例えば、満州事変が起きたのは昭和七年(一九三二年)のことであったが、「五族協和」による「王道楽土」というスローガンの元に成り立ったその満州国をもって、保田はそれを新しい世界観とみなしさえするのである。柄谷によれば、保田は日本の聞こえのよい大義名分を掲げて、そのじつ、行っていた外国に対する侵略行為と大虐殺から意識的に目を背けていたという。つまり日本ロマン派はいわば現実逃避的に日本の美のみを追求した。

ここに保田/日本ロマン派の「イロニー」が存する。「イロニー」とは、日本ロマン派がその機関誌の広告に繰り返し用いた言葉である。直訳すると「皮肉」という意味だが、表面的な振る舞いで本質を隠すことを表す。語源はギリシア語のエイローネイアειρωνεία(「虚偽」、「仮面」)である。柄谷は、保田の美学は敗北を前提とした美学であると指摘する。保田の文体だけではない。彼の抱えていたイロニー/諦観が、その時代の若者の琴線に触れずにはいなかったのだ。保田の文体は「悪名高」く「呪術的な魅力」があったと先に触れたが、それはカオス的なこの時代そのものの姿が現れているとも言える。文体に留まらず、日本ロマン派という存在自体が——戦後一切黙殺され続けてきたとはいえ、いや、そうだからこそ——当時の時代をある意味、的確に表現していたと見ることもできるだろう。感情を暴力/白色テロルによって押さえつけられた感情を「敢えて現実から目を逸らし、かつての日本的な美に耽溺する」というアイロニカルな形で現した表現も、同様にその時代を生きていた人々が共感したところであろう。

満州事変の五年後には支那事変が勃発する。帝国主義を拡大していく日本に対して国内には暗い不安が漂っていた。明治期のロマン派である岡倉天心は、日本の特権として万世一系の天皇、征服されたことのない民族と島国という環境について触れている。戦後に生まれ、日本の敗戦について繰り返し教育を受けてきたわれわれ現代の日本人にとって、一度も敗戦したことがないという日本人の誇りは想像することさえ容易ではないが、日本が日米戦争へと突入し、次第に敗色を濃くしていく中で、勝利か、もしくは日本国滅亡か、という極端な二択の前に——少なくとも意識の上では——立たされていたことは確かであろう。敗戦まで十年に満たない時代に誕生した日本ロマン派が表現した、滅亡の雰囲気を纏った日本的な美意識は、神を持たない日本人にとって唯一の拠り所として現れたのである。

 

※本文中においては、『日本浪曼派』を機関誌名、「日本ロマン派」を文学グループそのものを指す言葉として扱う

文字数:3183

課題提出者一覧