【首都スポ】[大学ラグビー]メイジ、22年ぶり復活へ導いた田中監督 就任1年目のキセキ2019年1月18日 紙面から
強いメイジが帰ってきた。ラグビーの第55回全国大学選手権決勝(12日・秩父宮)で、天理大を破り、13度目の優勝を飾った明大。下馬評では、9連覇していた絶対王者・帝京大に準決勝で完勝した天理大が優勢という声が多い中、隙のないディフェンスと理にかなったアタック、ここぞの場面の集中力で勝って快勝したが、多くのファンを驚かせたのが、明大の優勝が1996年度以来、「22大会ぶり」だったという事実だ。かつて常勝を誇った明大はなぜ低迷に陥り、どうやって克服したのか? 紫紺のジャージーを復活に導いた就任1シーズン目だった田中澄憲監督(43)の足取りを振り返る。 (文・写真=大友信彦)
◆常勝を誇った学生時代日が傾いた秩父宮ラグビー場で、164センチの小柄な指揮官が宙を舞った。1度、2度、3度…。紫紺のジャージーを着た男たちの太い腕で、空高く放り上げられたのは、田中監督だった。明大が22-17で天理大を破り、実に22大会ぶりの優勝を果たした。 「明大としては22年ぶり、悲願の優勝を達成しましたが、22年ぶりという実感はなくて、初優勝の気持ちです」 試合後の会見で、田中監督はそう切り出した。 明大が常勝を誇った「黄金の1990年代」に学生時代を送った。10年間で大学選手権決勝進出8回、優勝5度。では、なぜ22年間もの長い間、王座から遠ざかったのだろう。 前回の優勝は、北島忠治初代監督が亡くなった96年度で、3年生だった田中監督はSHとして優勝に貢献。翌97年度は主将として明大初の3連覇を目指したが、決勝で関東学院大に敗れた。 この年、明大はほぼ学生だけでシーズンを戦った。OB会費の使途不明金問題を契機にOBの派閥争いが激化。ゴタゴタから学生を守るため、「チームに大人を入れない」ことにした。 「若かったですね。若さゆえ、学生だけでやるんだ、大人は入れないと決断した」 田中の卒業後も学生主体のチーム運営は続いたが、この時期、ラグビーを取り巻く環境は激動した。アマチュア規定が撤廃され、プロコーチが続々と誕生。関東学院大、慶大、早大、さらに帝京大が海外の理論やフルタイムの指導で劇的に進化を遂げた。明大も元日本代表の藤田剛さん、同じく吉田義人さんらOBがフルタイムで指導に当たったが、出遅れは大きく、決勝どころか4強にも残れないシーズンが続いた。 ◆成績不振…乱れた学生生活も乱れた。13年に就任した丹羽政彦前監督は、寮の廊下に紫紺のジャージーが落ちていたことに衝撃を受け、寮に住み込んで学生の生活から改善に取り組んだ。 そして昨季、丹羽前監督がヘッドコーチ(HC)に招いたのが田中監督だった。トップリーグの強豪・サントリーで、選手、スタッフとしてエディー・ジョーンズ(前日本代表HC)ら名将に接した田中監督は、具体的な指導で学生の意識を変えた。
◆「エディーの教え」「エディーから学んだことは準備の大切さ、目標から逆算して準備すること。練習前のコーチ陣のミーティングも細部まで徹底する」 準備には戦うためのフィジカル強化、メンタル強化も含まれる。すべて15年W杯に向けてエディーHCが日本代表に施した強化策と重なる。 ツールも進化させた。部員用のポータルサイトを作り、従来は分析部屋のパソコンでしか見られなかった映像を、各自がスマートフォンでチェックできるようにした。決勝に向けた練習では控え組が天理のサインを忠実に再現。本番ではラインアウトの相手ボールを次々と奪い「ウチのBメンバーがやる天理のサインの方がクオリティーが高かった」とロック箸本は笑った。 22年の空白には事情があり、それを克服できたことにも理由があった。「今年、決勝で落ち着いて戦えたのは去年決勝の舞台を経験したから。最後の勝ち負けはいろいろな要素があるけど、大事なのは常に優勝を争うチームであること。だから大事なのは来年です」と田中監督は言った。 明大ラグビーを築いた故北島監督の遺訓「前へ」とサントリーの社訓「やってみなはれ」は、田中監督の人生の両輪だ。 「『座右の銘』とはちょっと違う。『前へ』は常に自分の中にある言葉で『やってみなはれ』は自分を奮い立たせる言葉。自分に迷いがあったとき、自分に言い聞かせるように使ってます」 前へ、チャレンジ。すべての取り組みは未来への第一歩だ。紫紺のジャージーが、新たな時代に足を踏み入れる。 <田中澄憲(たなか・きよのり)> 1975(昭和50)年12月28日生まれ、兵庫県出身の43歳。現役時代はSH。報徳学園から明大。サントリーではトップリーグ、日本選手権の優勝に貢献。日本代表キャップ3。2001年、05年7人制W杯日本代表。10年度限りで引退。 ◇ 首都圏のアスリートを全力で応援する「首都スポ」。トーチュウ紙面で連日展開中。
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