中国浙江省にある西湖(せいこ)。 神秘的なこの湖は、ある伝説の舞台として知られている。
白蛇伝…蛇の化身である美少女が、1人の青年と恋に落ちる。 だが正体を見破った人間たちに湖に封じられ、2人は引き裂かれてしまう。 それでも彼らは苦難の末に、湖で再会を果たすのだった。
以来、この湖にかかる橋「断橋」は、会いたい人に会える伝説の橋として知られている。
今から14年前、この断橋で時代の波に翻弄され、引き裂かれた家族をめぐって、ある「奇跡」が起こる。
その出来事は、中国全土で話題となったことから、当時、アンビリバボーでも取り上げたのだが…
実は一昨年、伝説の橋は、その家族にさらなる奇跡をもたらしていたのだ。
今から24年前、浙江省で古紙回収の仕事をしていた徐礼達(じょ れいたつ)さん。 生活は苦しかったが、寝る間を惜しんで働き、新たな家族の誕生に備えていた。 そんな彼に役所から電話が…1人っ子政策により罰金を払わなければならないという通達だった。
1人っ子政策とは、中国政府が人口増加を抑制する目的で、70年代末から始めた政策。 2人目の子供からは高額な税金が課され、住居や教育などの面でハンディを背負わされる。
もちろん、徐さん夫妻も2人目の子供を出産すれば、罰金を取られることはわかっていたのだが… 実はこの罰金、一律ではなく、地域や自治体によって非常に大きな差がある上、その額が通達なく変更されることもあったという。 その結果、この時、彼らが払うように言われた罰金は、なんと月収の百倍もの金額。 想定を遥かに上回る金額で、とても払えるものではなかった。 だが、既に妊娠7ヶ月…中絶すれば母体の命も危ない時期になっており、2人はやむを得ず家を離れ、隣の江蘇省に住む姉の元に逃げた。
そして、人目を忍び、河に浮かべられた船の中で無事女の子を出産、静芝(せいし)と名付けた。
だが、その直後、出産が当局に発覚してしまった。 かくまっていることが発覚すれば、一族揃って大きな罰則を受けることになる。 出産から5日後の早朝、江蘇省にある野菜市場の入り口付近に、1通の手紙を添えて、そっと我が子を置いた。
そして、10年の月日が流れた。 今から14年前の8月11日、旧暦七夕の日。 この日は年に一度会いたい人に会える七夕伝説で知られている。 同じく会いたい人に会える場所として有名なこの断橋には、毎年多くの観光客やカップルが訪れる。
地元テレビ局で夕方のニュース番組を担当する人気キャスターの范恵敏(はん けいびん)さんも、この橋を訪れていた。 彼女の目的は、番組の目玉コーナー『范姐さんがお助けします』の取材だった。
突然、1人の女性が范キャスターを呼び止めた。 女性は知人から預かってきたという手紙を手にしていた。 その手紙は、10年前のあの日、置き去りにした静芝ちゃんに両親が添えた手紙だった。
手紙の最後にはこう書かれていた。 『願わくば10年後あるいは20年後の七夕の日の午前 断橋の上で一目お会いすることができますように……』
そして、なんと女性によれば、静芝ちゃんは今、アメリカ人の養父母に引き取られ、アメリカに住んでいるというのだ。
9年前、養父母は静芝ちゃんを引き取る際に、児童養護施設の担当者から、添えられていた手紙も渡されていた。 静芝ちゃん本人にも養子であることは伝えていたが、実の両親に会わせるのは時期尚早だと思っていた。 だが、少しでも安心させてあげたいと、手紙にあった七夕の日に養父が中国に行き、静芝ちゃんの無事を伝えるつもりだった。 ところが…養父は仕事の都合でアメリカを離れることができなくなった。 かといって、家庭を守る妻を急に中国へ行かせるわけにもいかない。 やむを得ず養父母は、中国国内に友人がいるという知人に静芝ちゃんの写真と近況を綴った手紙を託し、生みの親に渡して欲しいと頼んだのだ。
しかし、代理人の呉さんも多忙なキャリアウーマン。 この日、仕事上でトラブルが発生したため、到着が遅れてしまったという。
呉さんは、范キャスターに生みの親を一緒に探して欲しいと頼んだ。 手紙に書かれていた待ち合わせの時間は午前、だが呉さんが橋に着いた時は、すでに午後3時を回っていた。 現場に来ていた両親が会えないまま帰った可能性もあった。 しかし、范キャスターが断橋に着いたのも午後1時、それらしい人物を見た記憶もなかった。
スタッフ一同が途方に暮れていた時、取材に顔を出していなかった、女性ディレクターがやって来た。 なんと彼女は偶然にも、断橋で、しかも手紙に書かれていた午前中から取材をしていたというのだ。 そして、その取材テープに、偶然にも静芝ちゃんの両親が映り込んでいたのだ!
実際の映像を見てみると…俯き加減の男性、顔ははっきり見えないが…手にしたうちわには『静芝』と書かれていた!
范さんのチームは番組の人気コーナー『范姐さんがお助けします』にて、例の手紙や、代理人の呉さんのことを紹介。 そして、映像に映った男女に名乗り出るよう呼びかけた。 さらに七夕から3日後には、新聞各紙もこの話題を取り上げた。
すると、その数日後、両親を名乗る人物が現れたのだ! そして、ついに徐さん夫妻は、養父母の代理人の呉さんと対面。 徐さん夫妻は、養父母からの手紙と10年ぶりに目にする我が子の写真を手渡された。
静芝ちゃんの生みの親、徐さん夫妻が生き別れた娘の無事を知らされた翌年、徐さん夫妻のところにある人物が訪ねてきた。 それは中国系アメリカ人のドキュメンタリー監督、チャンフー・チャンさんだった。 チャンさんは、国際養子縁組のドキュメンタリーを数多く手がけるとともに、大学でも教鞭をとる映像作家だった。
チャンさんは、静芝ちゃんと徐さん夫妻が会う手助けをしたいと申し出た。 しかし、徐さん夫妻が受け取った手紙には、養父母の名前や連絡先などの情報は記されておらず、代理人の呉さんも秘密として明かしていなかった。 静芝ちゃんの情報は、手紙に書かれていた『膝に問題を抱えている』ということだけだった。 さらに、代理人の呉さんも、養父母の携帯電話に一切連絡が取れなくなってしまったという。
そこで、まずチャンさんが目をつけたのは、静芝ちゃんが預けられた児童養護施設だった。 その施設は静芝ちゃんのことが話題になったとき、マスコミが突き止め、すでに知られていた。 だが、養子縁組に関することは秘密厳守、何も教えてもらうことはできなかった。
しかし、ネット上に施設から養子を迎えたアメリカの親同士のコミュニティーがあることが判明。 そして、チャンさんは静芝ちゃんがいた施設のコミュニティサイトを見つけだした。 すると…静芝ちゃんの情報と一致するコメントを発見。
早速、チャンさんはこの書き込みをしていた、ケン・ポーラーなる人物の捜索を開始。 書き込みの内容から住んでいる地域を推測し、その地域に住む人々に片っ端からメッセージを送り続けた結果。 やがて…ポーラー氏の知人と連絡を取ることに成功! そして、その知人から本人の電話番号を教えてもらうことができたのだ。
ケン・ポーラー 一家は、アメリカ中西部、ミシガン州にある、湖に面した街に住んでいた。 チャンさんは、早速 養父母に連絡を取ったのだが…「私たち家族のことはほっといてくれ」と電話を切られてしまった。
実は、アメリカの育ての親は、中国で静芝ちゃんのことが大きな話題になったことで、娘を奪われるのではないかと恐れるようになっていた。 そのため、自分の携帯電話の番号を変えて、徐さん夫妻やテレビ局などマスメディアからも連絡が取れないようにしていたのだ。 育ての親のポーラー夫妻は、静芝ちゃんをケイティと名付け、我が子と同じように愛し、大切に育てていた。 ケイティはポーラー夫妻にとってなくてはならない存在だった。
そのことを徐さん夫妻に伝えると、彼らの気持ちもわかるため、決して無理強いしたくはないと言う。 時代の波に翻弄され、止むにやまれず娘を置き去りにしなければならなかった…徐さん夫妻。 そんな夫妻の苦しみを目の当たりにしたチャンさんは、少しでも力になりたいという想いを強くした。
その後もチャンさんは、徐さんが娘へ想いを綴った手紙を、一年に一度アメリカの育ての親に送った。 だが、チャンさんは、時々養父母に電話する程度で、家を訪れたり、静芝ちゃんと実の両親を無理やり会わせようとはしなかった。 すると…やがて養父母は、ケイティの近況を知らせる手紙をチャンさんを通じて送ってくれるようになった。 チャンさんは、このような生みの親と育ての親の架け橋を、何年も地道に続けた。
そんな月日の中…徐さん夫妻は毎年七夕に断橋を訪れずにはいられなかった。 やがて、手紙に記した20年目の七夕がやってきた。 『願わくば10年後あるいは20年後の七夕の日の午前 断橋の上で一目お会いすることができますように……』
もしかしたら、娘に会えるかもしれない。 徐さん夫妻は、一日中 断橋で待った。 しかし、静芝ちゃんが現れることはなかった。
だが、20年目の七夕からおよそ半年がたったある日のこと、チャンさんのもとに一通のメールが届いた。 それは…ケイティ、そう静芝ちゃんからだった!
ケイティは、自分が養子だということは聞かされていたが、気をつかって生みの親について聞くことは避けていた。 しかし、成長して自分を見つめる中で、その疑問を抑えきれなくなり、養父母に実の両親のことを聞いた。 ケイティも大人になり、真実を話すタイミングだと思った養父母は、生みの親が書いた手紙のこと、そして断橋での奇跡の出来事など、これまでのことをすべて話した。 そして…養父母は、ケイティにチャンさんの連絡先を教えた。
こうして、ケイティはチャンさんにメールを送ってきたのだ。 そしてチャンさんは、アメリカの養父母の家を訪れた。 初めて彼らに電話をしてから10年目のことだった。
そして、2017年 旧暦七夕の月、遂にアメリカの家族に見送られ、ケイティは中国へ飛び立った。 ケイティが向かったのは、伝説の橋、断橋。 このことは生みの親、徐さん夫妻にも伝えられた。
会いたい人に会える伝説の橋で、ついに家族は再開を果たした。 こうして、22年ぶりに再会を果たした家族は、数日間一緒の時を過ごした。
母親の銭(セン)さんは娘のために、腕によりをかけた料理をふるまった。 ケイティが中国に滞在中、生みの親と育ての親は、インターネットを通じて初めて言葉を交わした。 自己紹介程度の簡単なもので、ぎこちなさもあった…しかし、そこには言葉に勝る心の交流があった。
そして、実の親との再会から5日後、ケイティはミシガンの家族の元へ戻るため中国を離れた。 アメリカの養父母は、今までと変わらない優しさで彼女を包んだ。
現在、大学を卒業したケイティは、大学院に進学するまでの1年間、中国のインターナショナルスクールで英語を教える仕事をしている。 今度は自分が故郷中国と母国アメリカの架け橋となるために。
断橋の奇跡によって22年ぶりに再会を果たしたケイティと徐さん夫妻。 実は、ケイティにとって生まれ故郷、中国へのこの旅は、さらに重要な意味を持つものでもあった。
断橋での再会の翌日、ケイティは徐さんに連れられ、ある場所へと案内された。 そこは徐さん夫妻にとって、決して忘れることのできない場所…22年前、身を切る思いで生まれたばかりのケイティを置き去りにした、あの市場だった。
その後も徐さんは、自分にとってもケイティにとっても複雑な思いを抱かせるはずの場所へ彼女を案内し続けた。 それは、親戚の家近くの河に浮かべられた小さな船。 徐さんの妻は政府の目を逃れ、船の中でケイティを出産した。 当時の船は残されていなかったが、同じような古びた船だったという。 畳2畳分にも満たないほどの狭い船内。 このような場所で、ケイティは産声をあげたのだ。
自分の出生についてのすべてを、ケイティは静かに見つめ、受け止めた。 そして、これらの場所へと案内した生みの親の心情をこう察した。
「実父は私の許しを得たかったのです。許すなんて何でもないことでした。両親はひどい状況下に置かれていたのですから」
ケイティは、中国の先祖の墓も訪れた。 そう、彼女にとって、生みの親に会うための旅は、自分の出生と原点を発見する旅でもあった。
ケイティは、将来進むべき道をまだ決めてはいなかったが、このときすでに、力強く歩き出していた。 実は中国に滞在中、彼女は1人で自分が預けられていた児童養護施設も訪れていた。 社会に翻弄され、捨てられたり、養子に出されたりする子供たちのことに無関心ではいられなくなっていたのだ。
ケイティは最後にこう話してくれた。
「自分のルーツを探り、生みの親と再会することはとても大切なことです。今回の訪問はとても充実したものでした。」